黒龍隊の挽歌 第一話

霧中の関門



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 南田(みなみだ)竜時(りゅうじ)は健やかな目覚めを迎えた。喧(やかま)しい起床ラッパが鳴るより早く覚醒する、ただそれだけで、一日の運気が増す気がする。二割、いやそれはさすがに多すぎる、一割五分くらい。せっかく起きてもウトウトと二度寝をしてしまったのはもう昔の話で、士官学校入学から四年――正確には三年と八ヵ月――を経た南田は決然として毛布のぬくもりをかなぐり捨て、息が白む寒さの外界へと躍(おど)り出た。同室の連中がまだ寝ているので、あと半時残された安眠を妨げぬよう声は立てずに気合を入れ、速やかに朝の準備に移る。ベッドを直し、シャツとズボンを着替え、洗顔し、髭を剃り……。最後に、上衣に袖を通す。襟には曹長の階級章。これは初めて付けた。昨日までは学年を示す徽章(きしょう)がついていただけだった。南田は今日、二〇二二年十二月三日を以(もっ)て、正真正銘の軍人となったのだ。

 が、いまひとつ実感が湧かない。鏡に映る自分の顔は昨日とまるで変わっていない。今日付けで給与も上がるはずだが、もちろん日払いでも手渡しでもないので実感はない。情けないが、それも仕方ないではないか、と南田は思う。配属先が決まっていないのでは。

 わざわざ特別課程に志願して、四ヵ月早く卒業した。その意味はどこにあるのか。四ヵ月後には特別課程に志願しなかった大多数の同期たちが普通に卒業し、六週間の幹部候補教育を受けて少尉に任官されるが、南田たちが同じルートを辿(たど)れる保証は今のところ全くなかった。

「迷わず行けよ、行けばわかるさ、って?」

 特別課程の訓練で南田たちを担当した教官は、前世紀末のプロレスラーが引退で引き合いに出したとかいう詩をさらに引用して、笑っていた。その場では教官が配属先をわざと隠しているのではないかとも疑ったが、やはりどうも、彼ら教官たちすら教え子の行き先を知らないようだと、今では認識を改めている。最近は軍人狙いのテロも多いから、保安上の配慮かもしれない、と軍を擁護(ようご)する発想も浮かんだが、それで南田の不安が消えるわけではなかった。テロの対象になると思うとおっかない。

 ともかく、南田はこれから士官学校での最後の朝食をとり、数人の仲間とともに、トラックに乗る。運転も同期がやる。案内人はいない。地図だけが与えられるというが、現物はまだ手元にない。わかっていることは以上。

 南田は起床ラッパを遠くに聞きつつひとりで朝食を済ませると、久しぶりに寮の屋上に行ってみた。今朝は霧もなく、遠くの町並みがよく見える。

 平和な朝、のように見える。実際のところはわからないが、遠目にわかるだけの明らかな荒廃がないというだけで、十分に幸せだろうと南田は思う。聞くところによれば、二十年昔の学生たちはここから町が見渡せるのを嫌い、むしろ深い霧がそれを覆い隠してくれるのを期待し、歓迎したという。それほどひどかったのだ。南田が生まれる前年に起こった、あの大災害の傷跡は。

 親や教師から教わってきた受難の時代を思い浮かべていると、背後から近づく足音があった。

「南田か」

 呼ばれた声には覚えがあった。特別課程に移る直前まで、週に数度、世話になっていた教官である。

「御船(みふね)教官。おはようございます」

「ここで会うのは久しぶりだな。俺も見回りがてらここへは立ち寄るが、こんな時間から屋上へ出たがる奴は少ない。少し寂しかったぞ」

 南田の肩を叩いて破顔する御船は、見かけこそ温和そうな初老の紳士だが、若い頃は戦場で勇名を馳(は)せたという。服に隠された体にはいくつもの傷跡があると言われ、南田も実際そのいくつかを目にしたことがある。負傷が蓄積しすぎたため一線を退き、士官学校の教官に納まったのだと噂されている。その真偽については、一般の学生よりも御船と親しくしていた南田でも、よくは知らない。御船は過去の自分に関する話を殆(ほとん)どしない男だった。

「ご無沙汰しておりました。緊急に特別課程へと移りましたので、ここを開けることが多かったのです」

「ああ、あの新兵科か。たしか、三ヵ月だったな? もう終わりだろう」

「はい。今日付けで曹長に」

 南田が徽章を示すと、御船は妙な顔をした。

「ん、少尉ではないのか。てっきり幹部教育も兼ねていたと思っていたが。緊急で組んだ課程では、そうしておかんと文句が出るというところか。まあ、一年も待てば少尉に昇進、晴れて幹部の仲間入りだろう。それまで下士官と同じ血と汗を流して下積みをするのも悪くない」

 経験を思わせる激励の言葉を南田はありがたく受け取ろうと思ったが、御船の笑顔に一抹(いちまつ)の翳(かげ)りを見出し、それを見て見ぬふりはできなかった。

「何か、良くないことに思い当たったようなお顔ですね」

「ああ、すまん、気取られるとはな。いや、なに、たいしたことではないのだ。外廓聯(がいかくれん)について悪い噂を聞いていたのでな、連想してしまった」

 外廓聯とは最近になって活躍している軍の特殊部隊である。新兵器を独占的に運用するなど数々の特権を与えられているが、その実は、正規軍扱いされないほど奇天烈(きてれつ)な編成であると南田も聞いたことがある。

「若い兵ばかり集め、使い潰(つぶ)しているという、あの噂ですか」

「それだ。外廓聯が、皆(みな)が不可能と思うような作戦をも可能にしてみせるのは、奴らが勝利のための犠牲を全く厭(いと)わないからで、どんな命令にも兵卒が疑いを持つことのないよう、敢(あ)えて経験の少ない若者を戦場に立たせている……とな。しかし、これは噂だ。外廓聯の詳しいことは俺たちにもわからん。俺はそのまま信じてはおらん。あそこには昔の教え子もいる。あれがいる限りは、そんな横暴は通るまいよ」

「その教え子というのはもしかして、十二期前の、あの?」

「正解だ。あの世代のなかでも特に目立っていた連中のひとりが外廓聯にいるはずだ。万が一にも、南田、おまえがあの部隊に送られることがあったとして、あれの言うことを聞いておけばひとまず無駄死には避けられるだろう。あれは、江藤は、下級生の面倒見は良かった」

「でも、上にはだいぶ逆らった。士官学校の縦社会を大きく揺るがした異端児、ですよね」

「俺がした話だったか?」

「御船教官だけではないです。皆さんから、あの代の先輩方につていはよく聞かされました。伝説ですよ。江藤、守屋、鞠智(くくち)、茨木(いばらき)……」

「ちょっと待て、やめてくれ。そいつらの名をまとめて聞くと、今でも戦々兢々(せんせんきょうきょう)とするんだ。とにかく、奴についている以上は安心だ。厄介事は奴が粉砕するか、でなけりゃ奴に気づいた先方が避(よ)けて通る」

 御船にしてはずいぶんと大げさな話だった。つい熱がこもってしまうほど思い入れのある世代だったのだろうと南田は察する。そして、十二年後の自分が御船の回想に登場するだろうかと考えて、おそらく名を語られることもない端役(はやく)だろうと想像する。卑屈になっているつもりはないが、比較対象が特殊すぎる。二〇一一年卒は良くも悪くも異彩を放っていたらしいが、南田はといえば極々穏当にカリキュラムをこなし、人並みに息抜きし、士官候補生としては平凡な四年間を送っただけなのだ。――最後の三ヵ月と、その後の待遇については、少々異色になったが。それは教官には関係のないことだ。

「不安があるか、南田。これから任務に就くことに」

 気づけばまた遠くの市街地をぼんやりと見つめていた。慌てて御船のほうに向き直り、大丈夫です、と言ったものの、まるきり信用されなかった。

「おまえは真面目だからな。あまりひとりで突き詰めて考えすぎないことだ」

 南田からしてみればずいぶんと意外な言葉を聞かされた。士官たるもの戦場にあってはひとりで的確な判断を下さねばならない、と講義で弁を振るっていたのは御船であった。南田の怪訝(けげん)な顔を、御船は笑う。

「まだ本音と建前の見極めがつく年齢ではないか。ま、今のは誰にでも言うわけじゃない。灸(きゅう)を据(す)えておかんと図に乗る奴もいるからな。おまえはそれとは逆のタイプだ。多少、肩の力を抜いたくらいがちょうどいい」

 それじゃあリラックスの障害は消えるとしよう。御船はおどけた調子でそう付け加えて、屋内に戻っていった。しばらくぽかんとしていた南田は、もう扉の向こうに消えた背中に向けて敬礼する。

 再びひとりになって、南田は寒さを思い出す。屋上は見晴らしがいいのでさすがに吹きつける風も冷たく、この季節、朝から散歩に来る者が少ないのは至って自然な傾向だった。しかし、だからこそ南田はここに来たくなったとも言える。

 市街地をよく展望できる手すりのところまで近づくと、吹き上げる風に煽られた。思わず身震いした南田だったが、敢えてそこで上衣を脱ぐと、気を引き締めて、空手の型を始める。心身が研(と)ぎ澄(す)まされていく感覚。振るう拳足(けんそく)で不安を払い、為(な)すべきことだけを意識する。子供の頃から何度もこうしてきた。その効能で成功ばかり収めたと豪語したら詐欺になるが、やらないほうがよかったと思ったことは一度もない。

 いい感じに体が温まり、不安も遠のいた。南田は再び上衣を身につける。階級章は不本意だが、もうそれほど気にはならなかった。胸につけた別の徽章が朝日を受けて輝く。それは、兵科の希望が叶えられたことの証だった。十二年前の稀代の暴れん坊も転科したという、新兵科に。

 準備、完了。

 亜細亜(アジア)連邦軍極東方面軍所属、南田竜時曹長は、敬礼を以て平和な町並みに別れを告げた。



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 見送られることもなく、むしろ隠れるようにして小型トラックに乗り込んだのは、南田のほか、同期の坂元唯史(ただふみ)と鷹山諒真(りょうま)の計三名だった。共に特別課程を受けた仲なので互いをよく知っている。自衛隊時代から引き継いで使っている小型トラックは、パジェロベースの六人乗りで、座席は半分余る。中間の座席は乗り降りが面倒なのでそこに荷物を放り込み、運転席と助手席にひとりずつ、残るひとりが後部座席でゆったりくつろぐという配置が即座に決定された。

 くじ引きの結果、運転は南田がやることになった。ダッシュボードには東京方面へ向かう道筋をマーカーで記された地図が置かれていた。県境の手前でマーカーの線は終わっている。おそらく最終目的地ではなく、そこが最初の中継地点ということだと南田は理解した。次の中継地点はそこで初めて知らされるのだろう。そういう演習を士官学校の三年次に受けた。当事者以外が行程の全貌(ぜんぼう)を知ることのないように、という情報管理がその演習のテーマだった。行き先も目的も明かされない今回の移動命令は、南田たちへの嫌がらせやドッキリというわけではなく、十分に意味のあるものらしい。果たして終着点で何が待ち受けているのだろうかと南田は想像してみたものの、無人島の地下に隠された秘密基地の絵面(えづら)をまず思い浮かべてしまった自分の想像力の貧弱さに、みじめな思いをすることになった。

「面倒なことさせるよな」

 助手席の鷹山がぼやいた。この台詞(せりふ)は鷹山が常々口にするもので、専(もっぱ)ら、彼のトレードマークたる天然パーマ頭がヘルメット着用後に無残な姿を晒(さら)す折に使われる。しかし今日の不満の対象は違っていた。

「まだ訓練をやらせようっていうんだぜ、これ」

 どうやら鷹山は南田と事実認識が異なるようだった。

「じゃあ、行き先でまた教育になるっていうのか」

 発車しながら、南田は鷹山の発言の意図を推し量る。

「そうじゃないの? そりゃ俺たち、スペシャリストとしての訓練はきっちり積んだと思うけどね。実戦部隊にいきなり配属だなんて、おっかなくて上もできないだろ。成果も上げずに死なれたら教育費用が無駄になる。そもそも、もっと役に立つ教育をしてくれていれば、そんな二度手間しなくて済んだのにな」

 その理屈は南田にわかる。鳥は卵を生むだけではなく、ちゃんと温めるものだ。自分たちはまだ孵化(ふか)していない、ひよっこですらない、と認めるようであまり面白くない比喩(ひゆ)だが、隣にいるのが鷹山では、鳥を想像するのは不可避だった。鷹山の頭は、その激しいパーマ頭の見てくれと苗字の一字にちなんで、鳥の巣、と呼ばれている。

「鵜(う)呑(の)みにするなよ、竜時」

 後部座席から坂元が釘を刺す。南田がルームミラーでちらりと目を配ると、坂元は例のごとく戦闘用ナイフの手入れに余念がないようだった。このナイフ好きが白兵の実技で教官相手に五分(ごぶ)の勝負を繰り広げたのは、同期の間では有名な話で、誰も坂元を本気で怒らせようという者はいなかった。例外は、ちょうど助手席にいる鷹山くらいである。もっとも、喧嘩(けんか)といってもネタは雑誌の取り合いとか外出許可の日にどこへ出かけるかとかいった他愛もないものばかりだが。

「鵜の目鷹の目で難癖つける相手を探しているだけなんだから、そいつは」

 シニカルに高みに立つタイプの典型例が、どこまで自覚して言っているのだ、と南田は思ったが、そこは適当に調子を合わせた。

「言われてるぞ、鷹山。――まあ、俺はわかるけどな、その気分も。実際、まだまだ日本の士官学校卒業生は大陸出身に舐(な)められているって聞くじゃないか。学生気質のまま幹部になろうとしている役立たずだって」

「そう、それだよ。気に入らないのは」

 鷹山はその話題に飛びついた。

「あいつらはさ、まだ僻(ひが)んでるんだよな。『八月の悪夢』で受けた被害が日本は少なかったって。亜細亜連邦樹立時に有利に立ち回った卑怯者だ、とかいう奴すらいるしな。逆の見方もしてみろってんだ。日本だって、そりゃ死傷者はアジアでは少なめだったけど、それでも決して少ない数じゃないし、経済的損失だってかなりのもんだった。その痛手を負いながらだぞ? 日本はより混乱のひどかった中国や東南アジアを主導して、ロシアまで抱き込んで、空前絶後の大連邦樹立まで持っていったんだ。功労者だろ。その日本人を捕まえて腑(ふ)抜け呼ばわりとか、何考えているんだよ」

 どこかの論者の受け売りらしきものを、鷹山はよく喋(しゃべ)った。南田は運転しているので、いちいち目を合わせて頷(うなず)いてやるようなサービスを求められないことを幸運に思った。ただ、助手席の彼に地図を任せてあるのだが、ルート案内をしてくれる様子が全くないことは気になっている。まだ覚えている範疇(はんちゅう)を走っているので問題ないが、そのうち言わないといけないか、頭の隅で考える。しかし、まだ、いいだろう。

「……その意味じゃ、今日これから行く先はたぶん日本から出ないだろうから、安心だよ。何人か日本人じゃないのがいるとしても、そんなアンチはとっくに極東方面軍から追い出されているだろうし」

 その島国根性こそが嘲笑(ちょうしょう)の対象じゃないのか、と南田は思ったが、坂元が何も言う様子がないので、黙っておく。配属が同じ場所になるのかどうかはわからないが、少なくともこれから数日は三人で行動を共にするのだろうから、些細(ささい)なことでも軋轢(あつれき)の種は作りたくない。南田はそう考えていた。そこで、どうせこの世に確かなものなど数えるほどしかないのだから、人が皆それぞれに違う事実認識を持つのも当然じゃないか、と思うことにする。物事の価値など流動的なもの。相対性理論も量子力学も、役に立ったから信じられていただけで、役立つと実証されるまではトンデモ論扱いもされただろうし、この時代、いつ信仰を失うかわかったものでもないだろう。

 こうした自己催眠は、南田にとって別に苦痛でもなんでもない。世界のことなど、わかったような気になっても実際のところさっぱりわかってなどいないもので、ひとつの価値観にこだわるのは無益だと思えた。実際、南田の親の世代は亜細亜連邦の樹立など夢にも思わなかったというから、常識などいつひっくり返されるかわからないと感じる。

 南田は同乗のふたりのことが決して嫌いではない。真心も思いやりも持っている人間だとこれまでの生活で知っている。ただそれが表に出るときと出ないときがあり、また、時として優しさより先に表に出てくるような性質も持ち合わせているだけのことだ。そういう個性は人間にとって大事なものだと南田は思う。それらは見て楽しむもので、互いにぶつけ合ってどちらかが砕けるまで戦ったり、あるいは双方磨耗してつまらない性格に丸まってしまうことはつまらない。彼らを友人として位置づけたいと感じる心こそが南田にとっていちばん身近で確かな物事で、あやふやで急ごしらえの見識などは感情の都合に合わせて柔軟に改変させればよい。

 しかし、そう思うのは南田個人に当てはまるだけのことで、同世代の若者、士官候補らが同じような信条を持っているわけでもなかった。ナイフの手入れを終えた坂元は、ようやく窓の外の景色に目をやって、こう言った。

「戦時下なんだ。隣近所の悪口言ってないで、大同小異で団結して事に当たらないといけない」

 坂元の決意を秘めた言葉が、視界の何によって引き出されたものであるか、すぐにわかった。運転中の南田には嫌でも目に入る。「戦時下」となった街の有様が。

「だいぶやられたな」

「ああ」

 空襲、というと八十年も前にB29がやった絨毯(じゅうたん)爆撃を思い出しがちなのが日本人だが、ここで散見される破壊された家屋は、もっと精密な、弾道ミサイルで攻撃されたものだ。最近では防空システムも再編されたので敵のミサイルが飛んでくることはなくなったが、今年の夏までは月に数回、ミサイルが首都圏を襲っていた。標的は軍事施設のようだったが、大半のミサイルは終端誘導がうまくいかずに本来の標的をはずれ、こうして民間人のいるアパートや商社のビル、町工場などがとばっちりを受けている。

 いや、とばっちりとも限らないか、と南田は思い直す。亜細亜連邦が戦争をしている相手は、世界を救うとか目覚めさせるとか胡散(うさん)臭い御託(ごたく)を並べている連中で、無抵抗な市民は決して傷つけないなどと宣言してもいるようだったが、実態はどうだかわかったものではない。百発百中で長距離ミサイルが当たると信じるほうがどうかしている。狙いを外したミサイルが民間人を死傷させることは、敵も承知のはずだった。むしろ狙ってやっているかもしれない。いくら綺麗事(きれいごと)を並べても所詮(しょせん)は侵略軍。悪鬼羅刹(らせつ)の集団。――南田は、ともすれば揺らごうとする自分の心をしょっちゅうこうして固定しておかねばならなかった。

「啓示軍(オフェンバーレナ)憎しで一致団結できればいいんだけど」

 鷹山が言ったのは、あくまで願望の話だった。むしろ連邦では厭戦(えんせん)ムードが広がりつつある、という話もよく耳にする。直接に市民の意識調査をやったわけではないので南田たち士官学校の学生に真相はわからなかったが、軍事施設がなければ狙われることはない、と疎開(そかい)して行く住民が多いのは、データとしても町の活気の減退としても目に見える事実だった。敵の、啓示軍の目的はじゅうぶんに達せられているのかもしれない。

 亜細亜連邦が交戦中の敵、啓示軍が宣戦を布告したのは、今から二年ほど前のことになる。最初の宣戦対象は欧州主要国。その時点で、彼らを生む温床となったドイツ連邦共和国は彼らの支配下に収められ、根拠地と化していた。 啓示軍の侵攻と支配の確立は過去に例を見ないほど迅速(じんそく)だった。米軍の支援も力及ばず、欧州各国は瞬く間にドイツと同じ道を辿り、各国軍を吸収した啓示軍は、亜細亜連邦軍や米軍に匹敵する強大な軍隊となった。東欧をも併呑(へいどん)し、中東との協力関係を築いた啓示軍は、飽くことなくさらに東へ、亜細亜連邦領へと駒を進めた。画期的な新兵器を大々的に投入した啓示軍は常に優位に戦いを進め、亜細亜連邦軍の欧州、北部、西部の各方面軍を次々と打ち破り、大国ロシアの首都モスクワをあっさりと奪い取った。「八月の悪夢」以後の混乱の時代に生まれ育った南田から見ても、軍事力による世界制覇などという啓示軍の時代錯誤振りは理解不能であり、それゆえに恐怖の対象である。そしてなにより、不可能と思われたその野望を啓示軍が実現しつつあること。それが今、南田をはじめ多くの日本人、亜細亜連邦市民、未だ啓示軍に膝を屈していない世界中の人々が共通して抱いている恐れの根源だった。

 こんなはずではなかった、というのが南田の本音である。四年前には啓示軍蜂起など想像もできないことで、世界大戦再来の予兆もなかった。南田は最近になってようやく親の世代の驚きを追体験したと言っていい。啓示軍の登場は、まさに一九九九年の「八月の悪夢」に匹敵するパラダイムシフトだった。人並みの賢(さか)しさを身に付け出したころには、世界の変革を予見できずにおろおろした先人たちを少し馬鹿にしていたのだが、今ではもうそう思わない。本当に、起こるまでは想像もつかない物事がこの世にはあるのだと、南田も思い知らされた。

 南田が士官学校へと進路を決めたころには、軍に入れば確実な社会的地位と給与が見込め、そして反体制分子を鎮圧して平和に貢献するという義務感に燃えることもできた。しかし、入学後、現実に敵として立ちはだかったのは、亜細亜連邦軍と同等の戦力と組織を持つ軍隊だった。戦えば死ぬ可能性が高い。意識して気合を入れておらねば、その恐怖に押しつぶされてしまいそうだった。もっとも、戦わずともああしてビルもろとも粉微塵(みじん)にされてしまうかもしれないのだから、身を守り、積極的に敵からの攻撃を阻止する力を持っていることは、むしろ喜ばしいことかもしれない。坂元などはまさにそういう考え方をしているようだったが、南田は同じようには考えられない。なぜなら、欧州から遠い日本はまだ平和で、標的となるような政府や軍の施設から離れてさえいれば、危害が及ぶ確率は低いのだ。国土が丸ごと戦場となってしまった中央アジアやロシアとは事情が全く違う。軍人になったことで、平和な日本から危険なユーラシア大陸中部へと送られ、そして砲火のなかで死んでいく……。それは損であり、選択のミスではなかったかと南田は揺れてしまうのだ。

 もちろん、そんなことは同僚には話せない。同じような悩みを抱えている人間は決して少なくないはずだったが、そんな話が上にばれた日には、将来の地位と経済的担保が消失するばかりか、血税泥棒と呼ばれ再就職すら危うくなりかねない。実際、南田たち士官学校の学生は数々の特権的待遇を受けてきた。もらうだけもらって、代価の支払いを拒否するなど、納得してもらえる話ではない。

 南田にできるのは、一日も早く戦争が終わり、そしてそれまで自分が実戦に出ずに済むように祈ることばかりだった。だから今も、疎開で車通りの減った国道を走りながら、自分たちの行き先が大陸へ派遣される実戦部隊でないことをひたすらに祈っている。鷹山の言うように、これが教育不足の士官学校卒業生に対する追加教練であればいい。そうすれば、新たな教育期間が終わるまでは、実戦に借り出されることはない。その間に大国間で折り合うなり、啓示軍の足元が民衆の蜂起で瓦解(がかい)するなりしてくれれば、死亡率の高い戦場に送られることはなくなる。

 道を進むにつれ、南田の不安はじわじわと心の内から染み出してきた。車を運転しているほうがまだ気が紛れた、と思い知らされたのは、中継地点で運転を鷹山に代わってからだった。中継地点で次の地図を渡すべく待っていた軍人は、やはり南田たちの最終目的地と移動目的については何も知らないようで、しつこく聞き出そうとした坂元を鷹山が制止する場面もあった。坂元もそう冷静でいるわけではないのだと、南田はそのとき気づいた。

 昼前に到着した三回目の中継地点で、銃を置いていくよう指示を受けた。目的地で支給があるので、士官学校から持参した備品は返却するように、ということだった。

「銃が変わるってことは、別の方面軍に行かされるのかもな」

 再び運転を南田に預け、後部席にひっこんだ坂元がそんなことを言った。別の方面軍というのは、昔で言えば別の国の軍隊に相当する。そこへ行けば日本人が少数派となるのは当然のことで、カンベンしてくれ、と鷹山が呟(つぶや)く。南田も、それは戦場行きということではないか、と考えてしまい落ち着かない。

「鷹山、ちゃんと地図を見ていてくれよ」

 あいかわらず助手席にいながら助手を務めてくれない鷹山に注文をつけたのは、やはり不安のせいだろうと南田は自覚していた。

「迷うことはないって。この先、猿之門方面には橋がひとつしかないから。道を間違って川にぶち当たったら、とにかく橋を探せばいい」

 鷹山は鷹山で考え事に没頭しているらしく、地図を見直すでもなく、次第に自販機すら見当たらなくなってきた田舎の町並みをぼんやりと眺めている。坂元はというと、何やら難しい顔で窓に顔を寄せ、ナイフの手触りを確かめていた。

「光化学スモッグの注意報、出ていたか?」

「いや。そんな表示は見ていないな」

 不意にかけられた坂元の問いに、南田は即答する。南田は自分が運転するとき以外も、きちんと外の観察を続けていた。

「どうかしたのか?」と訊(たず)ね返したが、答えは必要なくなった。「――視界、悪いな」

 道路に注目していると気づかなかったが、より遠くに目をやると、空がうっすらと白く濁っている。霧のようだった。

 速度を緩めた小型トラックに向かって、クラクションを鳴らす後続車はいない。ちらほらと走っていた周りの車も南田に倣(なら)ってだんだんと速度を落としている。右左折の車が増え、南田たちの目的地方向へ進む車はどんどん減っていく。

「ラジオ、つけてみろよ」

 坂元に言われ、鷹山が助手席から手を伸ばしてラジオのスイッチを入れる。いきなりのノイズ。鷹山はすぐに受信可能周波数をサーチするが、自動ではどこもひっかからなかった。まだ東京都には入っていないが、電波は入っておかしくないほど、もう近くまで来ている。最近は全国的にラジオ放送が減ったとはいえ、数局くらいは引っかかりそうなものだった。

「こりゃ本物だな」

 行く手を塞(ふさ)ぐ白い霧を、吹き飛ばせるものならそうしたいと南田は思った。



- 3 -


 機械いじりに没頭していた北嶋三朋(さぶとも)は、基地全体に響き渡ったサイレンを聞いてようやく顔を上げ、片手で眼鏡の位置を直した。アナウンスが「例の霧」の発生を報じ、関係各位は持ち場につくようにとの基地司令代理の命令を伝える。北嶋がこの基地に来て以来、この件で動員をかけられるのは初めてだった。

「班長」

 北嶋が腰を上げるより先に彼のもとへ駆けつけたのは、部下の矢俣(やまた)だった。まだ二十歳で子供のようなもの――と感じるのは彼の声が高いせいもある――だが、打てば響く素質を持っている。この基地に配属される前から目をかけて鍛えており、矢俣のほうでも北嶋のことは尊敬してくれているようで、こうして何かあるととりあえず指示を仰ぎに飛んでくる。

「班長はよせ、矢俣くん。ここはつくばじゃない」

「そうでした」矢俣は走ってきた居住まいを正し、北嶋大尉、と訂正する。

「バルムンクフィールドジェネレータがちゃんと動くかどうか、専門の僕が監視しなくちゃいけない。ここの作業は任せるよ。モジュール接続後のHAOS(ヘイオス)の起動までは順調に済んでいる。次は……」

 と、そこで北嶋は部下が隠し切れないでいる不満の色を見て取った。

「いや、それはあとにするか。まだ実際に使う目処(めど)も立っていないわけだから。じゃあ矢俣くん、ついておいで。BFGの監視、次からは君に任せてもいいようにしておこう」

「合点承知です」

 嬉々とした矢俣を伴って、北嶋は基地司令部へと向かった。建物が別なので、一旦外へ出る。一面が白かった。それは目的地たる司令部の建物が白亜の壁でできている、というわけではなく、牛乳を噴霧したかのような濃霧によってそう見えるのだった。

「やっぱり予報は当てにならないですね」

「研究者と僕たち技術屋の、当面の宿題だな」

 途中ばたばたと人の往来する物音がしたが、ふたりは人影を殆ど見なかった。有効視界は十メートルほど。歩きの速度でなければとても動けたものではない。

 無事に誰ともぶつからず司令部へと辿り着くと、玄関ホールのところで急に視界が開けた。そこが霧の境だった。

「とりあえずはちゃんと動いているようですね」

「赴任の日にチェックして、整備に問題は見当たらなかった。動いて当然だよ」

「さすが専門のことでは強気発言ですね」

 言動が柔らかすぎる、という周囲の評を知らぬ北嶋ではない。しかし北嶋は、仕事内容に関しては妥協を許さなかった。本当に偉い人間は無駄に偉そうな口を利(き)かないものだ、とも思っている。矢俣はそのあたりのスタンスを察しているようで、怒られないとわかる範囲でよく茶化してくる。

「きみにもそうなってもらわないと困る」

 普段は矢俣の軽い言動を気にしていないが、司令部の建物内では日常的な雰囲気は憚(はばか)られた。それでいつもよりきつめの口調になったが、その意図は矢俣にも伝わったらしかった。了解、と小さく答えて押し黙る。

 半地下の機械室の扉を開けると、タービンの圧倒的な音量が鼓膜を襲ってきた。発電機が作動している証だった。何も問題はなさそうだ、と北嶋は安堵(あんど)し、機械室の中央に発電機と並んで据えられたもうひとつの機械に目を向ける。

 それは八畳間をいっぱいに占有するほどの鉄の塊で、中心にある球体を、縦横にはりめぐらされた枠やケーブルが縛りつけていた。経線緯線の入った地球儀を鉛直に立てたような形状である。バルムンクフィールドジェネレータ。略称BFG。これが外の霧を建物の中まで入ってこないようにしている。その傍(かたわ)らには、担当の技術者がひとり、はりついて稼動を確かめていた。

「問題ないようですね」

 北嶋は、見覚えのないその技術者に歩み寄って、声をかける。この基地では北嶋が新参であり、平時には眠っているこの機械の担当技術者の顔まで覚えるほどには日が経っていない。矢俣を黙らせたのも、新参者の立場をわきまえてのことだった。

「ええ。発電機も動いていますし、これなら外からの受電が止まっても平気です」

 そう答える技術者の男は、間近で見るとずいぶん若かった。矢俣と同じくらいかと推定したが、大陸の血を感じされる顔つきが、それ以上の絞込みを難しくさせていた。作業服には階級や役職を示す徽章も見当たらない。

 不躾(ぶしつけ)ですが、と北嶋が相手のことを尋ねよう口を開いたとき、相手の声がもう耳に届いていた。

「北嶋大尉ですよね? お噂はかねがね。自分は夏(シャー)といいます。夏と書いて、シャー。カ、でも構いませんが」

「ああ、殷(いん)の前の?」

 矢俣が割り込むが、北嶋は何のことかわからない。

「そう、その夏」同格の相手に対する気安さを持って矢俣に答え、思い出したように真剣な眼差(まなざ)しで北嶋に向き直る。「――と、そんなことはさておき、北嶋大尉。基地司令代理がお待ちです。ここは自分が監視しますので、司令室へ向かわれてください」

 気は進まなかったが、北嶋は夏という若者の言葉に従った。司令代理を無視するわけにはいかない。矢俣は機械室に残してもよかったが、やはり連れて行く。覚えるべきことは、機械相手の仕事ばかりでもない。

「遅い」

 入室した北嶋たちは、司令代理である倉知(くらち)大佐の刺すような視線に出迎えられた。北嶋は、これで顔を合わせるのは三度目になるが、いつもぷりぷりと怒っているこのマダムに対する苦手意識は抜ける気配がない。

「機械室に寄っていましたので」

 司令室に顔を出すつもりなどなかった、という事実を北嶋は咄嗟(とっさ)の判断で伏せる。

「優れた専門知識は認めるが、北嶋大尉、君は兵ではない。役職に見合った行動を選択するべきだ。機械室には、そこの部下でも行かせておけばよかっただろう。つくばでは君は責任を取る立場にはなかったかもしれないが……」

「――倉知司令代理」

 説教を始めようとする倉知を、彼女の机のそばで直立不動の姿勢を取っていた将校が遠慮がちに遮った。

「その件は、後ほどにでも。今はこの猿之門基地としての対応を定めることを急いだほうがよろしいでしょう」

「そうでした」倉知は自分の冷静さが失われていることを素直に認め、小さく深呼吸した。「阿賀(あか)少佐の言うとおり。私たちはこの不測の事態への対応を迫られている。しかし、私は司令代理の身。決定は、この基地に駐屯する各部隊の責任者の合議に基づいて行いたいが、今日は欠員が多い。出席者は君で最後になる」

「ちょっと待ってください」北嶋は慌てて倉知の口を止める。「何を仰っているのかわかりません。こんなことは、よくあることではないのですか?」

 基地を覆う濃霧は、珍しくはあるが、決して驚くほどの稀少性を持った現象ではない。だからこそ、そうした現象に備えてこの司令部にはバルムンクフィールドジェネレータ、BFGが用意してあったのだ。BFGが正常に運転し、司令部内部への霧の侵入が防がれている以上、そう急いで何かを決める必要など北嶋には思い当たらなかった。確かにあの霧のせいでいろいろと困りはするが、その不便はすべて予見されたものであるはずだった。軍では当然、事前にすべての対応を取っている。この現象とは、長い付き合いなのだ。不測の事態とは、何なのか。

「この基地だけではない。猿之門全域がこの有様なのだ」

「それも、特に珍しいことではないでしょう。二十年前はもっとひどかった」

「そう、確かにそうだ。バルムンクフィールドで守られたこの建物は安全だ。市民も避難所に行けばBFGの恩恵に預かれる。技術の進歩はすばらしい。昔絶望したほどには、実際のこの状況は悪くない。これが今日という日でなければ、私もこうして神経質になってはいないのだ」

 溜め息をつく倉知大佐は、五十前後という実年齢よりも老けて見えた。

「――矢俣くん、機械室に戻っていてくれ。帰りにまた寄るから」

 話の流れを漠然と察し、北嶋は下士官である矢俣を司令室から追い出す。怪訝そうな矢俣が部屋から消えると、大佐、少佐、大尉の幹部だけが残った。

「伺いましょう。どうして、猿之門を覆うこの霧が、今日に限って特別に問題となるのかを」

「嗅ぎつかれた可能性がある」

 司令代理の疲労を慮ってか、阿賀少佐が説明を引き継いだ。

「というと、『龍(ロン)』の所在ですか?」

 北嶋は、昨日搬入(はんにゅう)されたばかりの装備品、ついさっきまで自分が面倒を見ていた戦闘機械の名を口にする。つい声を潜めたのは、その保管場所は軍の中でも口外せぬよう厳命されていたからだ。龍は部隊配備が需要に追いついておらず、さらに外廓聯をはじめとする一部の遊撃部隊に優先的、集中的に配備されているため、あちこちから不満が噴出している。先月だったか、部隊配備のため輸送中だった龍をある派閥が横取りしようとした事件が起き、不祥事の揉み消しのため情報筋はだいぶ骨を折らされたと、北嶋は聞いていた。

 阿賀は無言で頷いたが、次に首を横に振った。

「龍の所在だけなら、問題はない。何者かがこの機に乗じて龍の破壊や強奪を目論(もくろ)んだとしても、我が中隊が必ず格納庫を守ってみせる。しかし、もし狙われているのが龍ではなく、それを運用するスタッフのほうだとしたら? 司令代理はそのことを懸念している」

「まさか、ありえませんよ」

 つい微笑とともに否定してしまった北嶋を、阿賀が睨(にら)む。

「どうしてそう言える? 技術畑の君が」

「畑は関係ありません。簡単なことです。阿賀少佐、実は私も知らないんですよ。どこからどのような手段でスタッフが集められるのかを。その名前も顔も。ターゲットが誰かもわからないのでは、狙いようがありません。それとも、司令代理はご存知なのですか?」

「いや、私も知らされてはいない。わかっているのは、先日つくばから来た君と、その部下たちだけだ」

「しかし、蛇の道は蛇だ」阿賀は緊張を緩めない。「少なくとも、人選の担当者は、どこの誰がこの基地へやって来るのか知っている。そこから情報の漏れがあれば、襲撃計画は立案可能だ」

「仮に情報が漏れたとして、誰が襲撃なんてことを」

「さて、誰だろうな。心当たりが多すぎて困るが」

 北嶋は唖然とした。真面目そうな阿賀が、少々素行に問題のある旧友とそっくりなことを言い出すとは思わなかったからだ。

「疑いすぎではないでしょうか。友軍というより、同じ国内、下手をしたら県内、町内の隣人ですよ。襲撃を起こす動機が理解できません」

「いいか、北嶋大尉。何も同胞を殺したり痛めつけたり、などと血なまぐさいことは必要ではないのだ。集合するスタッフを、ほんの数日、どこかへ引き止めておけばいい。龍の部隊編成を遅らせようと画策する動きがあることは、複数の筋から知らせが来ている。この機を逃すまいと動き出す一派が必ずいるはずだ。彼らはためらうまい。昨今の指揮系統の混乱ぶりもあって、足止め程度のことなら、いろいろと大義名分が立ってしまう。命令伝達ミスやら現場の状況認識の齟齬(そご)などといった言葉でページを埋められた始末書が数枚提出されて、それでおしまいだ」

 聞きながら、かなり克明(こくめい)にその様子が想像できてしまい、北嶋はげんなりとした。たしかに、書類操作やら、治安出動にかこつけた交通網の制御などを駆使すれば、必要な人員や物資の足止めはたやすいように思われる。勿論(もちろん)、北嶋の加わる今回の部隊編成計画は上層部の強い意向のもと進められているから、そういった普通の妨害工作には予防措置が取られているはずだった。しかし、いま警報を鳴らせているこの霧は、計算外だったらしい。司令代理の倉知と機甲化歩兵部隊を率いる阿賀が気にしているのは、この霧の中、つまり猿之門という限られた領域で企てられる妨害工作である、と北嶋は理解した。それならば、基地単位で対応できることもあるだろうし、おそらく当分、基地からしか対応は取れない。

「これからここに来るスタッフたちを守る、という目的設定は把握しました。具体的には、何をやろうとしているのです? 東西の橋に検問を設置するのですか?」

 阿賀は難しい顔をした。

「それは無理だ。第六中隊が出払っていて、人手が足りない。この基地の守りを外すわけにもいかない。そのうえ、この霧ではそもそも出動可能な小隊が限られてしまう。諸条件を加味すると、基地の外へ出せるのは一個小隊が限度となる。そんな数では、いつ、どこから来るかわからない連中を保護し続けるなど、物理的に不可能だ」

「いえ、物理的には、可能だと思うのですが」北嶋は科学を用いる一員として阿賀の表現に反駁(はんばく)したが、「でも、現実問題として無理でしょうね」と続けた。

「それで、困っている。周辺の部隊に応援を頼もうにも、地下の都市間主幹回線しか繋がらない。連絡した相手が妨害計画に一枚噛んでいないとも限らないから、これは迂闊(うかつ)に使えない」

 そのあたりの事情は、北嶋もわかっているつもりだった。猿之門基地は関東の他の基地と同じく近衛(このえ)軍の管轄だが、だからといって全幅(ぜんぷく)の信頼を置けないのが亜細亜連邦軍という組織の実態である。

 だからこそ、あらぬところから横槍を入れられぬための秘密人事だ。北嶋も、つくばから転属になることだけは早くから知らされていたが、この猿之門基地に異動になると知ったのはつい先週のことである。今日ここへ向かっている他のスタッフたちは、今朝になって初めて話を聞いたか、あるいは現時点でも異動の事実を隠されているかもしれない、と想像する。まだ見ぬ未来の同僚たちに北嶋は同情した。

「事情の大枠は、理解できました。最大の問題は、龍を守りつつ、並行して猿之門へ向ってくる人員も出迎えて保護するための、装備の確保ですね」

「その通りだ。北嶋大尉、何か解決策は講じられるか?」

 自分が何を求められているのか、もう北嶋は分析し終えていたし、次の処理にも移行していた。

「ええ。おそらく、うちの装備を使ってバックアップすれば、あなた方機甲化歩兵部隊が使う『乗俑機(じょうようき)』の稼働範囲拡大と稼動時間延長が可能でしょう。取り急ぎ、詳細を検討してきます」

 司令代理と阿賀少佐に一礼して踵(きびす)を返すと、北嶋の頭の中はもう、記憶から呼び出した各装備品の仕様一覧で埋め尽くされていた。



- 4 -


「停車したほうが利口だろうな」

 坂元がそう提言したとき、南田はすでにそのつもりでブレーキを踏んでいた。

 進むにつれ霧は濃くなる一方で、視程は二十メートルを切っている。周囲の車はとっくの昔にリタイアしている。これがレースなら大喜びでゴールまで行きたいところだったが、実際は到着時刻の指定など一切ないので、危険を冒(おか)す必要はなかった。

「どうする? 歩く?」

 路肩の邪魔にならないところに小型トラックを停めて、南田はふたりに尋ねた。この霧がどういう類のものであるにせよ、車で進めないのは明らかだった。必ず車で移動しろ、との命は受けていない。到着を最優先するなら、霧が晴れるのを待つか、車を捨てて歩くかの二択だろうと南田は考えていた。

「ヤだけど、そうするしかないよな。車に乗ってたら、衝突と爆発のどっちが早いかってところだからな、これじゃ」

 鷹山が二列目の座席に身を乗り出して荷物を漁(あさ)り始める。

「何を持っていこう?」

「勇気」

「バカ言ってろ。無線機は?」

「どうせ通じない」

「晴れたときのためにさ」

「それなら、そもそも車で待てばいい。だけど」

「まずは行動、だよな」

 そんな調子で、ふたりは南田が口を挟む間もないテンポで打ち合わせを終える。

 車はあとで回収に来ることになるだろうからと、空席に放り込んでいた荷物からは無線機だけを取り出した。それも鷹山が腰に提げた一個しか持ち合わせがない。坂元は携帯許可を得た私物のナイフを持っているので一応武装しているが、南田だけは助けを呼ぶ道具も身を守る道具もなかった。銃は返却してしまっている。これで野戦用の軍装をしていればまだサバイバル系の非常装備がポケットに詰まっていたのだが、あいにくキャンプ用の十得ナイフすら持ち合わせない。南田は不安だった。この戦争が始まってから、軍人を標的にする過激派が増えてきている。

「心配するなよ竜時。どうせこの霧の中じゃ、肉弾戦勝負だ」

 情けない顔をしていたらしい、と南田は気づき、引き締める。確かに、徒手空拳であれば南田にもそれなりの心得がある。相手が坂元のように刃物を持っていないことを祈るばかり……、いや、過激派がうろちょろしていないことをまず祈るべきだ、と考え直す。

 南田は地図を確かめた。目的地までは道のりにして八キロほど。その里程の中ほどに陸軍の基地がある。猿之門基地。以前は数個連隊が駐留していたが、この戦争で兵力の移動が行われたため、今は治安対策用の少数の部隊が残っているだけ、と記憶している。

「目的地は近衛軍の弾薬庫だったよな」

 地図を覗(のぞ)き込みながら鷹山が確認する。弾薬庫というのは比喩ではなく文字通りの意味である。隣接する工場で作られた弾薬を軍の警備のもとで保管しているのだ。新しく拳銃が支給されるというのは、ここでのことかもしれない、と南田は予想していた。そして、そこが今日の最終目的地なのではないか、とも。

「途中の猿之門基地に寄って、命令に変更が出ていないか確かめないか?」

 こんな白い闇は上の人間も想定外だったはずで、治安対策の強化など、より優先すべき任務が発生しているかもしれない。そう説明した南田に、鷹山が反対した。

「訓練の意義を思い出せよ。猿之門基地は設定された経由地点じゃない。だから基地の連中にも、俺たちがここを通ったという情報を与えてはいけないんだ。巧くごまかせるならいいけど、昨日まで士官学校の学生だった俺たちがこんなところをうろついている理由なんて、ないだろう? だったら、接触しないのがいちばんいい」

 鷹山はまだこれが試験の一環だと信じており、そして自分の評点を下げないよう考えているようだった。南田は珍しく、少し食い下がってみる気持ちになった。

「でもさ、鷹山。俺たちは特別課程を修了しているんだ。そんな俺たちが率先してやるべき仕事があるんじゃないか?」

「それも、道理だ」

 鷹山は案外素直に反論を受け入れ、どちらの都合を重視すべきか考え始めた様子だったが、それは突然発せられた坂元の短い警告によって中断させられた。

「伏せろ」

 叫んだ当人は勿論、南田と鷹山も鍛えられた反射神経で即座に身を守る姿勢を取る。三人の頭上を何かが風を切って通過したのはその一秒後のことだった。そして、続いてガラスの割れる音。

 小型トラックまで引き返さないと身を守る遮蔽(しゃへい)物はない。少なくとも見えている範囲では。三人は散開しつつ、今しがた物体が飛んできたおおよその方向に目をやる。南田の動体視力は、人のシルエットが乳白色の闇のなかへ溶けていくのを見逃さなかった。そして、伏せろと叫んだ坂元もやはり人影を見ていたようで、南田と全く同じ方向を見据えてナイフを投げる体勢に入っていた。しかし、他に近づく脅威がなさそうだとわかると、静かに手を下ろした。

「ビール瓶だな」

 鷹山が飛来物を靴のつま先でいじっている。ガラス片がアスファルトの上で擦れて音を立てるが、液体特有の音は聞こえないし、燃え出しもしない。火炎瓶ではないようだった。それでも、人の頭めがけて投げればこれは紛れもなく凶器である。

「どう思う?」

 誰が何のためにこれを投げたのか、いくつかシナリオを想定したみたが、南田はこれぞというものを絞りきれなかった。

「この視界で、向こうが俺たちのことを軍人だと気づいたとは思えない。どっかの阿呆(あほう)が実験のつもりで投げてみたんじゃないのか。投げたあとで人がいたのに気づいて、怖くなって逃げ出した、と。昔からいたって言うじゃないか。アパートのベランダから植木鉢やら消火器やら落として遊ぶような連中」

 鷹山のシナリオは南田の考えたもののひとつと一致していた。坂元もこれに頷く。

「警察を呼びたいところだが、俺たち一般市民じゃないし、おまけに任務中だ。飛来物に気をつけることにして、とにかく先へ進もう」

「また飛んできたら?」

「そんときは捕まえて懲(こ)らしめる」

「でも市民相手にナイフは投げるなよ」

 釘を刺された坂元は、少し笑ってから、「テロリストじゃなきゃ、な」と言った。

 気を取り直して前進を再開し、五十メートルほど進んだときのことだった。今度は南田が警告を発した。背後から車が迫って来たのだ。堂々と車道の真ん中を歩いていた三人は慌てて左右に散る。避けそこなうことはなかった。南田がエンジン音のドップラー効果から見積もった時速は四十キロを割っている。

「あっぶね。死ぬ気か、あいつ」

 クラクションを鳴らすこともなく走り去った車は、もちろんもう霧に隠されて見えない。急ブレーキの音も衝突音も聞こえてこないからには、まだ事故に至らず走り続けているらしい。しかし、時間の問題だろうと南田は思った。

「よく運転なんてできるよな」

「ああ、ご冥福をお祈りしとこう。あとは巻き込まれる人がいなければいいけど」

「おい、気づかなかったのか、ふたりとも」坂元が少し呆れた声を出した。「今のは俺たちが乗ってきた小型トラックだ」

 まさか、と南田は思ったが、しかし記憶に残るエンジン音を照合するとそれらは確かに同じだった。それでも、南田は納得できない。手をポケットに入れると、求める感触はきちんとそこにあった。

「同型車ってだけじゃないのか。鍵は俺のポケットにある」

「そうだといいけどな」

 五十メートルを引き返して確認した結果は、盗難の発覚だった。

「鍵はかけていたのに」

「プロの仕業ってやつだな。さっきの奴も仲間だったか?」

「とりあえず進むしかない。けど、竜時の言うように、猿之門基地に寄ったほうがいいかもしれないな」

 いずれにしても道をまっすぐ行くことに変わりはなかったので、三人は黙々と先を急いだ。装備品を盗まれるという失敗について、それぞれ責任の所在やら言い訳の文面やらを考えながら。

 南田は、失点が大きく見積もられ、再教育が必要という判断が下るかもしれない、と想像して少し気分が軽くなる自分を見つけていた。坂元や鷹山は間違いなく逆のことを考えているはずであり、いかに失点を小さくし、エリートとして名を馳せる――当然、それに見合った危険な任務にも就く――方法をあれこれ思案しているに違いない、と思う。ふたりは普段から細かいことに文句を口にするが、根元の部分では前向きで、行動的だった。不平を言いつつベストは尽くす。その成果も常に卒がない。そんなふたりと同じ舞台に自分が立っていないことを、南田はこの二年ほどの訓練と共同生活のなかで何度も意識させられてきた。坂元と鷹山は、同期のみならず上や下の学年にも名を知られていた。賞賛や憧憬(しょうけい)の視線ばかりではなくもちろん嫉妬(しっと)や憎悪の視線も集めていたが、有名さにおいて、彼らに比肩する同期は多くない。例年、彼らのような俊英が――あるいはどうしようもないバカが――数人いるという。たいがいその人数は決まっているが、今朝御船と話題にした、十二年前の世代は特にその手の人間が多かった。士官学校改組直後ということもあり、伝説が生まれやすい時代背景だったとも言えるが、おそらく状況だけで御船にあの顔はさせられまい。そして南田は、自分は士官学校の伝説に一度も名入りで登場することのないモブキャラであると諦観(ていかん)していた。

 しかし、と南田は足元に落ちていた視線を水平に引き上げる。過去を悔やんで事実が塗り替えられるわけではないが、これからの自分なら変えられるし、伝説も残せるかもしれない。意識改革に目覚めた南田は、まず、坂元や鷹山の思考パターンを詳細にトレースしてみることにした。同じように考えれば、いつか彼らのように輝けるかもしれない、と。

 そうして考えてみた南田は、ほどなくひとつのシナリオを見出し、愕然(がくぜん)とした。

 ――ふたりは、小型トラック盗難の過失を、運転していた自分に押し付けるかもしれない。

 南田のポケットには鍵がある。これがある限り、車泥棒は不可抗力だったと弁明できるが、それで失点ゼロとしてもらえる確証はない。しかし仮に、南田のポケットに鍵がなかったとしたら、車泥棒は南田の鍵の抜き忘れを見つけて衝動的に犯行に及んだと見做(みな)され、坂元と鷹山はそれぞれ無線使用の試みやナイフを携えての周囲警戒に専念していたと弁明すれば、南田だけに大きな過失がのしかかってくるのではないか。ふたりにとって、南田が同じ舞台に立つ仲間であるとは限らない。嫌われてはいない自信が南田にはあったが、取捨選択の必要が発生した折には高い確率で捨てられるであろうことも冷静に推察できてしまった。もとより、士官学校の同期生は遅かれ早かれ出世を争うことになるものだ。それが予想より早まっただけ、と理屈ではわかっても、南田の心はそうそう柔軟に順応してくれない。

考えれば考えるほど、ふたりにとってはそれが最善だという認識が深まっていく。いっそ自分から言い出したほうが、まだ惨(みじ)めではないかもしれない、とまで南田は思いついた。進んで犠牲になるのを格好良いと感じるわけではなかったが、自分の受ける傷を最小限に抑えるためにも、そのほうが無難のように思われた。

「うわっ」

 南田は何か薄くて柔らかいものを踏んだ。踵(かかと)からつま先まで丸ごとそれに乗ってしまって、踏ん張れない。体重を受け止めそこなった右足がずるりと前へ滑り、上体は反対にうしろへと倒れて空が……見えなかった。頭上もやはり濃厚な霧が支配していた。

「おいおい、大丈夫か」

 いきなり転んだ南田を助け起こそうと、坂元が手を差し伸べる。南田は丁重にそれを辞退した。受身は取ったのでそう痛くはないが、恥ずかしさのほうが彼にとっては重大だった。

「見ろよ、バナナだぜ、これ。バナナの皮。あーっと、ちょっと実も残っているか。きったね」

 鷹山がやはりつまさきでそれをいじる。路面に倒れたまま首をひねってそれを見た南田は、その生ゴミの奥に、もうひとつ細長い物体を発見した。うっすらとしか見えないが、しかしそれは生ゴミではないと判別できる。

「人だ……。人が倒れてる!」

 南田たちが歩いていたのは往来であり、その視界の範囲内もやはり往来である。正確には南田が車道の真ん中に位置し、見つかった人物は車道と歩道の境に伏しているのだった。

 三人が囲うようにして近寄ってみると、それは亜細亜連邦軍の軍装に身を包んだ若い男だった。面長で、肌は黒めだが、モンゴロイドには間違いない。応急処置の手順に則(のっと)り、南田は意識と呼吸の有無を確かめようと、身をかがめる。

「……ナナ」

 うわごとの断片を聞き、さては恋人かペットの名か、と想像した南田は、次の瞬間あまりにばからしくなってうしろに尻餅をついた。

「……バナナ!」

 ゴム仕掛けの玩具(おもちゃ)のように男が上体を起こした。

「ん、ここは?」

 男は自分の叫び声にびっくりして目覚めたようだった。自分のいる状況を把握(はあく)できていないようで、きょろきょろと辺りを見回すが、哀れにも、濃霧が情報の多くを遮断してしまっていた。

 ひとしきり周囲の観察を終えた男は、まるで今はじめて自分を囲む三人の存在に気づいたかのように、それぞれの顔を見た。そして、最後の顔に向かって「俺のバナナは?」と首を傾(かし)げた。

「道路に落ちてたよ。もう食べられないだろう」

 南田は立ち上がる動作で視線をそらしつつ、目以外の表情は全力で平静を装いながら答えてやった。そっか、と落胆した声が返ってくる。

「どうしたんだ、あんた。まさかバナナの皮を踏んで、滑ってこけたなんて言わないよな」

 鷹山が口元を押さえながら、しかし声は明らかに笑ったまま、訊ねた。

「まさか。それじゃ漫画だよ」

 漫画で悪かったな、と南田はふくれる。

「車に当て逃げされたんだ」

 この霧の中を運転する人間がいるとは思わなかった、と男は愚痴り、自分は李峰國(リー・フェングォ)であると自己紹介した。亜細亜連邦軍の士官候補だが、今はまだ曹長。

「中国人か」

 鷹山は男の名を聞いて驚いていた。それほど李峰國の話す日本語は流暢(りゅうちょう)だった。

「そうだよ、たぶん」

「なんだ、たぶんって」

「中国とは何か、って厳密に定義するのムズいと思わない? 東部方面軍轄区、っていうのは定義も明確だけどさ」

 そんなことはともかく、と李峰國は自分も立ち上がり、膝やら脛(すね)についた汚れを払う。見たところ、手や顔などの露出部に擦過傷や腫(は)れはなく、服に血の滲(にじ)みもなかった。

「李曹長。一応、病院に行ったほうがいいんじゃないか?」

 南田が提案すると、峰國は名前でいいからと笑い、そして病院にも行っている暇はないのだと説明した。

「俺、猿之門基地に行かなくちゃいけないんだ。可及的速やかに(ASAP)。あんたたちは、なんだか同じ階級みたいだけど、基地の人?」

「いや、俺たちは……」

 この先の弾薬庫に向かうところだ、と正直に答えそうになった南田の服を、鷹山が引っ張った。秘密にしておけ、と目で伝える。

「ちょっと通りがかっただけなんだ」坂元がすかさず説明を引き継ぐ。「車で移動の予定だったんだが、これだろ? しかたなく歩きに変えたから、時間が無いんだ。悪いが、怪我人だからって送ってはやれない」

 相手が具体的に頼む前に、先手を打った坂元の拒絶だった。南田は不安になる。先ほどビール瓶を投げつけてきた人影といい、もしかして軍人を標的として危害を加えようという輩がこのあたりにはいるのかもしれない、と想像したからだ。

「坂元。丘の下まで行けば、猿之門基地のゲートまでは一本道だ。こんな状況じゃ、基地のほうからも見張りを出しているだろうし、丘の下までなら寄り道というほどのこともない。交通事故はあとから怖いって言うだろ? そこまでは送って行こう」

 ややこしいことに首を突っ込むな、と鷹山が口をパクパクさせて主張しているようだったが、南田は気づかないふりをして、坂元を見据えた。坂元はまばたきもせずに静止して数秒考えたのち、溜め息をついた。

「オーケー。そうしよう。じゃあ、肩は竜時が貸してやれ。俺も鷹山も手を空けとかなくちゃいけないからな」

 ナイフと無線機。それは南田もわかっているし、そんな事情が無くても自分から肩を貸す気でいた。

「助かるよ、えーと、ナンダ?」

 体重を預けながら、李峰國が首を傾げた。南田も鏡像のように首をかしげたが、ほどなく「ナンダ?」の意味に気づく。

「ミナミダ。ちょっと発音しにくいだろ? みんな竜時って呼ぶよ。名前のほうだ」

「そっか。よろしく、リュージ」

 にっこりと笑うと、目が殆ど線になる。

「どういたしまして、フェンゴ」

 南田がそう返すと、目は横線のまま眉間(みけん)に皺が寄った。そして李峰國は右手の人差し指を口の前に立てて、メトロノームのように左右に振った。

「ちっちっち。フェンゴじゃなくて、フェングォ」

「フェ……、フェングオ?」

「ぶっぶー。フェングォ。グォ! 微妙な違いを大事にしてね」

 南田はどうも発音の要領を得ないので何度も繰り返す。歩き出していた坂元から、置いていくぞと急かされて動き出してからも、ぶつぶつと練習を続けた。



- 5 -


 やがて三人、もとい、峰國(フェングォ)を入れた四人は、猿之門基地へと向かう分岐点に到達した。右折し、左折し、あとは道なりに曲がりつつその先の丘を登ってけば、猿之門基地に出る……と地図を読む限りそうなのだが、深い霧で、左折するべき三叉路(さんさろ)すら見通すことができない。

「どうもありー。ここでいいよ」

 南田の肩から荷重が離れ、峰國の顔も離れた。それで、背が数センチ負けていることに気づく。

「見張りの兵に会うまでは……」

「おい、竜時、そんなこと言って、坂の上まで寄り道するのは御免だぞ」

 しかし南田は、お人好しと笑われようとも、やはりここで李峰國をひとりで行かせるのは薄情だと思うのだった。何か論理的な口実が必要だ、と南田は考える。それさえ見つけられれば坂元も納得するだろうし、そうなれば鷹山も自動的に承諾してくれるだろう、と見込んだのだ。

 結果から言うと、南田が名案に思い至ることはなかった。坂元と鷹山が痺(しび)れを切らすまでもなく、思わぬ事態の変化によって南田の思考時間は打ち切られてしまったからだ。基地方面から何かが近づいて来る。それに気づいた四人の視線は殆ど平行になった。基地へと向かう三叉路のあるはずの、霧の向こうを見つめて。

 それは霧の中から姿を現すより早く、音と振動でその存在を四人に知らしめた。たしか怪獣映画にこんなシーンがあった、と南田は思い出す。まさに、それは歩いて近づいて来ていた。ただし伝わる振動はそう恐れおののくほど激しくはない。むしろ、小型トラックのエンジン音と同程度に耳慣れたものだった。

「乗俑機」

 南田はそれの名を呟いた。今世紀に入って普及が始まった人型作業機の総称で、亜細亜連邦ではパワードスーツタイプのものを甲種、ビークルタイプのものを乙種として分類している。音からして、近づいてくるのは乙種と知れた。甲乙いずれも普通は工事現場にいるものなのだが、軍でも比較的少数ながら重量物の持ち運びやらに利用しており、南田たちのような若手は漏れなく乙種の運転訓練を受けている。だから歩行音ですぐに南田はピンと来たのだった。

「おいおい、こんな日に動かして平気なのか」

 うっすらとそのシルエットが判別できるようになると、予想が外れていなかったことを知った坂元が怪訝な顔をした。そして南田も、似たような表情をしている自覚があった。

「対向車と衝突して壊れるってことは、ないだろうけど……」

 霧の中をのしのしと歩いて現れたのは、窓のない密閉型ボディに太く短い足と円筒状の腕を取り付けた、一応は人型と呼べるなりをした歩行機械だった。機種名は工兵機。全高四メートルほどの乗俑機乙種で、その名のとおり軍用モデルである。普通の工事用の乗俑機乙種よりいくぶん外装が厚く――つまり「装甲」化している――、小銃程度は防げるようになっている。窓がなく視界をカメラで確保しているのもその一環である。このように装甲化しておくと、ただの土木工事ばかりでなく、爆発物処理や対テロ出動にも転用できて、軍としては使い勝手が良い。外装ばかりでなく骨格も丈夫なので、霧の中を走ってきた乗用車が避けきれずにこれとぶつかった場合、壊れるのはまず車のほうだけだろう。しかし、それは両者の衝突に関しての工兵機側の安全の保証であって、この霧の中で工兵機が安全に動けることの保証では一切ない

「ああ、見てみろ、うしろだ」鷹山が指差して言った。「BFGの御守りつきってわけだ」

 工兵機の後ろには、荷台に積み木細工のような外観の機械を積んだトラックが続いていた。その周囲だけ、物が幾分(いくぶん)鮮明に見える。霧が消えているためだった。ただし工兵機とトラックの背後、それらが通過してきた道は、やはり霧に包まれて見通せない。その様子を見れば、荷台の機械がBFGと呼ばれる代物であることには誰でも察しがついただろう。

「わあ、お迎えだ」

 峰國が嬉々として手を振る。

「まさかおまえ、VIPなのか。将官の息子とか、孫とかじゃないよな」

 パーマ頭に自ら指を突っ込んでかきむしりながら、鷹山が訊ねた。あくまで、念のため。

「違うよ。軍に親戚はいないし。階級だってご覧の通り曹長だし。それも今日なったばかりだし」

 最初の一言は、三人の予期した通りの返事だった。しかしそれに続いた言葉は、南田たちにいろいろと憶測させるに足る材料だった。

 今日付けで、曹長。しかも見たところ同年代で、人格的にも、兵からの叩き上げなどには到底見えない。李峰國は軍轄区の違いこそあれど、南田ら三人と酷似(こくじ)した境遇である。

「なあ峰國、つい最近まで士官学校にいたのか?」

「うん」

 即答。坂元が興奮を隠しきれずにもうひとつ質問を重ねると、それにも同じ答えが返ってきた。

「糸口を掴(つか)んだような気がする」坂元が、再び乗俑機とトラックに視線を転じながら言った。「もう少し考えれば、きっと見えてくる。俺たちが今日受けた命令の目的も、少尉になれなかった事情も……。正解に至る材料はもう揃っているような……」

「でも」と鷹山。「聞くほうが手っ取り早そうだ」

「だな」

 頷きあった坂元と鷹山は、峰國を置いて立ち去るどころか、その傍らで直立不動の姿勢を取って工兵機を待ち受けた。そして口元は不敵に笑っている。なかなかこうはなれない、と南田は感心した……のか、呆れたのか、自分でもよくわからなかった。

 工兵機は四人の前まで来ると立ち止まった。四人が道を塞いでいたのでそれも当然である。止まってくれなければ彼らは轢(ひ)き殺されていた。もっとも、工兵機の歩みは買い物帰りの自転車と同じ水準だったので、逃げる間もなく轢き殺されるかもしれないという現実的な恐怖は誰も抱かなかったが。

「ご苦労様です。私は猿之門基地に出頭を命じられました、李峰國曹長です。交通事故に遭(あ)って、負傷しております。基地まで送って頂けると幸いです」

 妙にラフな日本語しか使っていなかった峰國が、かなりまともな日本語ではきはきと喋ったため、南田以下三名は驚きを禁じえなかった。

 工兵機の顔に相当する出っ張りに設置された複数のカメラのうち、ひとつがくりくりと動き、峰國の顔を、そして残る三人の顔を精査した。その動きが止まり、工兵機のスピーカから声が発せられた。

「李峰國曹長ですね。入構許可を確認しました。ようこそ猿之門基地へ。トラックに乗ってください」

 峰國は南田たちに改めてありがとうと告げ、工兵機のうしろで停車したトラックへとゆっくり歩いていく。南田は敬礼でこれを見送ろうとしたが、坂元のあげた声でその動作を取りやめた。

「自分たちの入構許可は出ていませんか。坂元唯史曹長、鷹山諒真曹長、南田竜時曹長の三名です」

 坂元はこの問いにより謎の答えが得られると確信しているようだった。が、南田には彼の求める正解がどういうものか、まだ把握できていない。

「出ていないようです」

 工兵機からの声はそっけなかった。坂元の、そして鷹山の表情がわずかに変化する。

「――そうですか。失礼、こちらの勘違いだったようです。別途任務がありますので、自分たちはこれにて」

 坂元が予想とは違うシナリオに狼狽(ろうばい)していることを南田は感じ取ったが、当人はそれを相手に気取られぬよう細心の注意を払って、何ら怪しいところを見せることなく、踵を返した。南田も敬礼し、それに倣う。

 しかし。

「お待ちを。非常事態につき、あなたがたを帰すわけにはいきません。一緒にトラックにお乗りください。さもなくば……」

 工兵機に乗っている兵士が何を言っているのかすぐには咀嚼(そしゃく)できず、雲行きを読むのに時間を使いすぎた三人は、この時点で決定的に不利となった。

「――拘束させていただきます」

 工兵機が一歩、前へと踏み出す。さきほどまでののんびりとした小刻みの歩みではない。鷹山があっと叫んで横に跳(と)んだ。思わぬ迅速さで伸びてきた工兵機の腕から逃れようとしたのだ。鉄の腕は空を切ったが、すぐ反対の腕が獲物を追う。鷹山は全力疾走に移る間も与えられず、機械の腕に胴を掴まれて、空中に持ち上げられてしまった。

「鷹山!」

 坂元が逃走の足を止め、ふりかえって叫んだ。鷹山はこれを見て怒鳴り返す。

「バカ、さっさと逃げろ。腕は二本で、こっちは三人なんだ」

 相手が工兵機一機だけなら、ひとりは絶対に逃げられる。坂元はその意を理解していたが、しかしその場を離れられなかった。一方南田は、工兵機が襲ってきたとき反射的に道路の脇まで退避したものの、それから遠くへ逃げ去ることも、おとなしく拘束されることも選べず、ただ呆然と事態を見守っていた。つまり、ふたりとも鷹山の希望に副(そ)う行動は取れていなかった。

 工兵機は空いている左腕でもうひとりを捕まえようと、手近な南田へと方向を転じた。己の危機を認識して南田はようやく動き出す。始動さえすれば南田はすばやかった。上から横から襲ってくる工兵機の腕をひらりとかわしつつ距離を離すと、立ち尽くしている坂元の腕を掴んで、本来の進行ルートに向けて強引に引っ張って行く。すぐにBFGの効果範囲を抜け、五里霧中の世界に逆戻りする。

「待て、竜時、鷹山が」

 十メートルの距離を稼いだところで、坂元が速度を緩めようとする。南田は思わず、バカ、と口にしていた。

「丸腰でかなう相手じゃない。わかっているだろ」

 冷静さを取り戻させようとして強めた口調は、坂元に別の決心をさせた。走りながらもナイフを取り出し、急反転して工兵機へと向かって行く。その姿を見て、南田は体力トレーニングでやらされたシャトルランを思い出した。坂元の走りに迷いはない。いかに早く反対側に駆け戻るかだけを考えている。

「そんなの素手と一緒だろ!」

 殴ってでも正気に戻して、一緒に逃げよう。それを最善と判断した南田は、坂元に続いて百八十度ターンした。単純な走りにかけては坂元に負けない自信があった。が、工兵機とて止まっているわけではなかった。追いつく時間などなく、坂元は工兵機と接触した。 掴み上げようと迫った工兵機の腕を坂元はすれすれでかわし、通り過ぎた二の腕のあたりに飛びついて、機体によじ登ろうとする。ナイフで装甲の隙間を狙ってケーブル類を切断しようというのだろう。しかし、ガラスや金属の破片が山ほどある現場での作業を想定して作られているのが乗俑機乙種である。さらに軍用モデルともなれば、ケーブルとはいえ、ナイフごときに刃を立てられて一瞬で切れるような代物ではない。坂元は切断できるまで意地でしがみついているつもりなのだろうが、南田は工兵機がそれを許すほど悠長だとは思えなかった。坂元をそこらの塀に叩きつけることは簡単だ。

「坂元、離れるんだ!」

 近くまで寄ってはみたが、早くも腕を振り回して坂元を振り落としにかかった工兵機に対して、南田は何ら対抗することができない。何か投げつけるものでもないか、と霧に煙る視界を探すうちに、工兵機のパイロットは坂元を簡単に処理する方法に思い当たってしまった。路肩へ、その向こうの塀へと近づいていく。

「こら坂元、離れろって。死ぬぞ」

 状況を理解した鷹山が警告を発し、ようやく気づいた坂元だったが、すでに離れるべきタイミングを逸していた。いま手を離せば、空中に放り出されてしまう。それでも叩きつけられるよりは幾分まし、という判断を坂元は咄嗟に下し、工兵機の腕から飛び降りる。というよりも、投げ出された。高さ三メートル以上。横の速度もついているぶん、胴上げしておいて受け止めない、という冗談よりも厳しそうだった。

 南田は落下場所を読んで先回りし、坂元の体を受け止めた。踏ん張れたが、敢えて転んで衝撃を逃がす。きっちり受身は取ったが、痛いものは痛い。相手はマットでも畳でもなくアスファルトの舗装道路である。早く起き上がって逃げなければならない、とわかっていたが、坂元がどいてくれない限り南田は動きたくでも動けなかった。

 足元に落ちた標的を見失ったのか、工兵機の動きが止まる。チャンスか、と南田が思ったのも束(つか)の間、後方のトラックから人が降りてくる物音がする。取り囲まれたら鷹山奪還など夢のまた夢、南田と坂元が逃げ切ることも難しくなる。

「動くな!」

 誰かが叫んだ。少し、遠くで。

 続いて銃声。単発。続くのは複数の足音。基地とは反対側から来る。

「そいつらを解放しろ。でなければ撃つ」

 少し甲高いが、成人男性の声だった。ふりかえると、軍装の人影が六人ほど、工兵機とその背後の兵士たちに向かって銃を構えていた。

「久留(ひさどめ)、久留正弘(まさひろ)か!」

 南田の上からようやく降りた坂元が声を張り上げた。それに反応し、先頭で銃を構えていた男が視線を南田に、いや坂元に合わせた。

「おっと、坂元か! それに、捕まっているのは鳥の巣かよ」

「コラ、鳥の巣って言うな」

 談笑している場合ではないだろうに、と南田が呆れていると、工兵機のほうも同じ感想を抱いたらしく、威容を取り戻さんとばかりに鷹山を高く掲げ上げた。

「拳銃ごときで何ができる。誰の命で動いているかは知らないが、おとなしく武装を解除しろ。抵抗するというなら……。同胞を傷つけるのは忍びないが、それでも守るべき規律がある」

 すかさず久留正弘が反駁する。

「内乱まがいの行動を起こしておいて、よく言うじゃないか。そいつらはおまえたちには渡さない。実力で取り返させてもらう」

 だから拳銃ごときでどうやって乗俑機に立ち向かうんだ、と南田が突っ込みたいくらいだったが、久留は自信満々だった。坂元も心配そうな顔はしていない。

「やれ!」

 久留の号令直後、工兵機の背後からは銃声が、久留の背後からは何か投擲(とうてき)物が飛んだ。久留側の人影は投擲直後に道の左右に散り、路面ではぜる火花がそれを追ったが、積極的に命中させるつもりはないようだった。足元や、少し外したところを狙っている。一方、誰か肩の強い者が投げたらしい謎の物体は、数秒後に工兵機のうしろ、トラックとの間に落着した。さては手榴弾か音響爆弾かと警戒し、できる限りの身構えを取った南田だったが、破裂音も衝撃波も熱も金属片も異臭も襲ってはこなかった。

「竜時、今のうちだ」

 丸くなって目やら耳やら塞いでいた南田を、坂元が立ち上がらせる。そんな平然と立ち上がったら工兵機に捕まるだろう、と思った南田だったが、すぐ異変に気づく。工兵機が、静止している。ただ単に動きが止まっているばかりでなく、各関節がロックされ、支えの棒が機体各所伸展して、つっかえ棒をするように全力でその場に機体を固定してしまっている。そして、目の前ににわかに霧が立ち込める。

「BFGを止めたのか」

 安全装置が起動して工兵機は動きを止めたのだ。パイロットからすれば、強制的に停止させられたことになる。今頃、コクピットの中で操縦桿(かん)やらコンソールと格闘しているに違いない。

「そういうこと。どうやったのかは知らないが……。まずは鷹山だ」

 工兵機が安全装置を解除して再起動をかけるまで、五分もない。それまでに救出を済ませなければならない。坂元は工兵機の腕に刺したままのナイフを取りにいこうとして、それがどうも消えているようであることに気づき、我が目を疑う。

「仕事おせーよ」

 すぐ近くで鷹山の声がして、坂元は跳び上がった。いつの間にか工兵機の腕から逃れた鷹山がそこに立っていた。南田も驚いた。鷹山の隣には、李峰國が無邪気に微笑(ほほえ)んで立っていたのだ。その手には、見覚えのあるナイフが握られている。

「こいつが助けてくれた。はやいとこ、ずらかろう」

 動機について峰國に訊ねている場合ではなかった。トラックのほうから小競り合いの声と音が聞こえてくる。撤収、と久留の号令。

 南田は走り出した。坂元、鷹山も遅れてはいない。

 猿之門基地に行きたかったはずの李峰國がどちらへ向けて走るのか、気になった南田がふりかえってみると、すぐそこに人好きのする馬面があった。目が合うと、ふたりは同時ににやりと笑った。



- 6 -


 南田たちが逃げ切れたのは、ひとつは霧が姿を隠してくれたおかげ、もうひとつには追っ手が銃を使わなかったおかげだった。しかし、途中で散り散りになったため、南田のまわりには四人しかない。坂元、鷹山、峰國(フェングォ)、そして久留。南田もその名前には覚えがあった。秋からの訓練で何度か一緒だった、と思い出す。坂元と鷹山は、その訓練時に久留と親しくなったのだという。初耳だったが、考えてみれば驚くべきことではなかった。南田もその訓練時に知り合いは増えたが、そのことをいちいち坂元たちと話のネタにはしていなかったのだから。逆もまた然り、である。

 侘(わび)しい商店街の書店が開いているのを見つけ、駆け込んだ五人は、そこで一息ついて情報を交換し合った。猿之門一帯はすべてこの特別な深い霧に覆われてしまったこと、無線が使い物にならないこと、そして、孤立した猿之門基地を軍内部の一派が占拠しようとしているらしいこと。

「もう訓練時代の仲間が何人か捕まったようなんだ。俺たちは寸前で情報を手に入れて、奴らに捕まらずに済んだ。とにかくこっちも仲間を増やさないと、と思って基地から逃げ出した人間がいないか様子を見に行ってみれば、おまえたちだもんな。――おっと、失礼。あなたがた、だな。曹長殿?」

 久留は士官学校にいたわけではなく、訓練時点でもう兵士だった。今の階級は伍長である。曹長とふたつ違いではあるが、仮初の曹長であり本来は幹部として出世していく――はずの――南田たちとは、いずれ階級に大きな差がつくことになる。本来住む世界が違うのだが、汗水といくらかの血まで流した訓練で培った絆は深い、ということらしかった。年齢もほとんど変わらない。

「まわりに誰がいるわけでもない。いいよ、前の通りで」

 鷹山が照れ臭そうに手を振る。

「俺たちは猿之門基地に配属されていたわけじゃない。ちょっと寄っただけだ」

 坂元が、峰國を助けて基地へと向かった流れをざっと説明する。

「なるほど、李曹長だけが猿之門基地の人間……。それも今日配属か」

「配属されたとは、言ってないよ」

「では、されていないのですか?」

「そうとも言ってないけどね。――んー、俺もタメ口でいいよ? 敬語聞き取るの疲れるし」

 了解、と微妙な表情で答える久留。

「猿之門基地を占拠しようなんて、どこの誰なんだ」

 鷹山が店の外を窺いながら、久留に聞く。

「わからない。けど、さっきの感じじゃ、同じ極東方面軍だろうな。目的は……」

あれ以外にないな。さっきのトラックの荷台、見ただろう?」

 坂元の問いかけに、全員が頷く。一般人、そして亜細亜連邦軍人でも大半は気づかないだろうが、彼らにとっては見間違いようのない、とても見慣れた物体だった。

「間違いなく、あれは龍(ロン)のモジュールだ。実際、俺の連れが使った音響爆弾の改造品、あれで狙い通り機能停止してくれたのが何よりの証拠になる」

 久留は、さきほどのBFG停止のからくりを軽く説明する。連れの半分は戦闘訓練をまともに受けていない技術畑の人間で、そのなかに新兵器搭載用BFGのフェイルセーフ設計に関わっていた男がいたため、都合よくあそこでBFGの無力化ができたのだという。つまり、数を頼みに見栄をきってはいたものの、半数が銃の狙いもつけられない素人だったのである。BFG、ひいては工兵機の停止を実現させる自信がなければ、あの場でとても踏み込めたものではない。

「連中は俺たちを生け捕りにしようとした。うまく言いくるめて仲間にする魂胆だったのかもしれない。そうすると、はぐれた久留の連れ、技術系の奴らも、差し迫った命の危険は無さそうだな」

「おいおい、だからって放ってはおけない。奴らはこの天候が回復するまでの、ごく短い時間が勝負なんだ。一刻も早く龍を自分たちのものにしようと思えば、脅迫してでも運用スタッフを確保する。そうなれば見せしめにひとりやふたり……」

 想像して、南田は身震いした。鳥肌が立つのも、寒さのせいではないだろう。

「そんなこと、友軍相手にするんだろうか。さっきだって、連中は銃を威嚇でしか使わなかったし、追ってくるときも撃たなかった」

「そりゃ、竜時、あそこで撃てば自殺行為だからだ。わかるだろう?」

 坂元の言わんとするところは、もちろん南田もわからないではなかった。わかっていても、極東方面軍で叛乱(はんらん)行為などあるわけがない、という今までの常識を捨てられずに、歪曲(わいきょく)した解釈をしてしまう。しかしこれは現実なのだと南田も腹を括(くく)るしかなかった。実際、あの霧のなかでの発砲は危険である。久留も、工兵機を持ち出した一団も、銃を使ったのはBFGの効果範囲においてのみだった。その意図ははっきりしている。BFGの効果範囲外、つまりあの霧の中では、銃の暴発や思わぬ弾道の逸(そ)れが生じて危険だからだ。

 バルムンクフォッグ、バロッグ。

 「八月の悪夢」を契機に発生を始めた不可思議な霧を、人々はそう呼ぶ。世紀の境に世界が迎えた変容を語るにあたって、謎の隕石群落下による大災厄だけでは事足りない。このバロッグのような、既存の物理法則に当てはまらない数々の現象のことも、忘れてはならない。むしろ人々は忘れたくても忘れられなかった。隕石はもう落ちてこないが、バロッグのような「変則領域」は二十年以上過ぎた今でもこうして日常的に現れるのだから。

「おやおや、こいつはただの霧じゃなくて、バロッグだったのかい?」

 唐突に、五人のなかの誰のものでもない声がした。きょろきょろと見回すまでもなく、声の主はすぐに見つかった。――見落とすには大きすぎる標的だった。

 そこには年齢不詳の巨漢が立っていた。身長は二メートル近い。レスラーか力士かとまず疑うような体格で、腹の中に標準的な成人男性ひとりを格納できそうだ、とすら南田は思った。目を引くのは体格ばかりでなく、その風体もすこぶる怪しかった。最後にいつ染めたのかわからない、みすぼらしい金色のロン毛に、「魂」と一文字書かれたワッペンを縫い付けた赤い野球帽、面積の広い黒のサングラス。よれよれのウィンドブレーカーの下には、洗いざらしてふわふわを失ったフリースを着込んでいる。下はサイズ以外普通のカーゴパンツだが、どこでつけてきたのか、ペンキらしきカラフルな汚れがそこかしこに飛び散っている。

 そんな大男が、成人指定の雑誌を手に、南田たちの内緒話に加わってきたのである。五人はそれぞれに身構えた。

「聞いてたらなんだか物騒な話をしていたが、あんたたち軍人さんだね?」

 どうやら近くの書棚――成人指定コーナー特有の色彩が南田の視野の隅にひっかかる――でずっと聞き耳を立てていたらしい。

「そうですが、あなたはこんなところで何を悠長にしているんです。危険ですよ」

 本屋に他の客の気配はない。とっくに避難所に移動しているのだ。南田は状況もわきまえず立ち読み――しかもその手の――を続けていたこの男のことを、哀れにすら思った。早く言い聞かせて避難所に連れて行ったほうがいい、とまで考えて、また鷹山に嫌がられるだろうと想像する。

「そうは言うがな、あんちゃん。俺はただの霧だと思っていたんだ。予報じゃなにも言ってなかったし、オヤジも店を閉めなかったし」

 南田の微妙な立場など知るはずもなく、男は能天気に反駁する。言われた南田は、そういえば店の人間を見ていないと気づき、辺りを見回す。それを坂元に手で制止された。

「よせ、竜時。まともに取り合うな。――これは間違いなく変則領域の霧、バロッグだ。避難所へ移動するのがいいでしょう。爆発事故が起きてからでは遅い」

「ほほう、そっちのあんちゃんは、見ただけであの霧の正体の見分けがつくのかい? これがただの濃霧じゃないと断言できるのかい?」

 坂元のぞんざいな口の利き方に気分を害する様子もなく、むしろ男は、好奇心で目を輝かせた……に違いないのだが、サングラスでそれは誰にも見えない。

「ああ、これはバロッグだ」坂元は懐からナイフを取り出し、その刀身を指先でなぞりながら断言した。「これだけの視界不良だというのに、湿度は低い。つまり、あれは変則領域による光学干渉に間違いない」

「へぇ、なるほどね」

 巨漢はよほど感心したのか、坂元のナイフをしげしげと眺めた。しかし数秒後に不満顔に豹変(ひょうへん)する。

「でも予報じゃ何も言っていなかった。いくら『変則』領域といったって、こんな大きなヤツが出るときは、予報ができるって聞いたことがあるんだがなぁ」

「それは、予知できる可能性がある、というだけの話なんだ、おじさん」

 鷹山が、坂元よりはずいぶん優しく、説明する。

「地震のP波を捉(とら)えて、次に来るS波が届くまえに警報を鳴らす、ってのより難しいんだ。夏の夕立と一緒だよ。降ってから、『予報じゃ今日は晴れだった』なんて文句つけたって、傘を差さないと濡れちまう現実にかわりはない。要するにおじさん、あんたが今すべきなのは、避難所のバルムンクフィールドのなかでこの霧が消えるのを待つことだよ」

「しかしなぁ」男は言い募る。「このあたりの指定避難所は小学校なんだ。これ持って行くわけにゃいかんだろうて」

 これ、とは手中のそれである。小学校における公序良俗に反するのは間違いない。

「置いていけ。まだ買ってないんだろう」

「そりゃないぜ、ナイフのあんちゃん。これ最後の一冊なんだ。回った限り、他の店じゃもう売り切れてたんだぜ? 避難命令が解除されてから買いに戻っても、どっかの好き者に先を越されるかもしれん。あんちゃんにその補償はできんだろう。こんなの、そうそうおおっぴらには買いにいけないだろうしな。ぷぷぷ」

 坂元が明白に苛々(いらいら)しはじめても、男はなんらたじろがない。いかに坂元が見下した態度を取ろうと、実際に見下ろされているのは坂元のほうなのだから、致し方ないかもしれない。

「じゃあ、逆にお聞ききしますが」

 言葉だけは丁寧に、久留が選手交代を名乗り出る。男は顔ごとそちらを向いた。

「あなたはここに残って、店の主人が帰ってくるまでその本を確保しておきたいのでしょうか? それともそれは口実で、我々の話に興味があってお聞きになりたい、というのが本音なのでしょうか?」

「あー、いい質問だなー。実のところ、ちょっとあんたらの話に好奇心が刺激されちまってな、下半身の欲求は二の次で構わんのだ。あの丘の基地が占拠されるのされないのって話のほうがずっとセンセーショナルでいい」

 不敵に微笑む男をどうするべきか、峰國を除く四人は互いに目配せをしたが、詳しい意図が伝わるはずもなく、どうやら意見が割れたらしいとだけ四人は把握した。

 南田は咳(せき)払いをして、プランその一を述べる。

「避難所へこの人を連れて行こう。猿之門基地で叛乱が起きているとすれば、住民の皆さんが人質にされることのないよう注意喚起する必要がある。猿之門を脱出してもらうのも選択肢のひとつだろう。なら、知らせるの早いほうがいい」

 これにすかさず反論が出た。

「それはないな。老人や子供まで移動させろっていうのか? しかも大部分は徒歩での移動を強いられるんだ。東西の橋が封鎖されているおそれもある。バロッグが消えるのを待つほうが懸命だ。それよりは、一刻も早く近衛軍統監部にこの事態を伝えるべきだ。このおっさんの護衛をしている暇は無い」

「だけど、坂元」久留の高めの声がプランその二にケチをつける。「市民にはきちんと情報を伝達しておいたほうがいい。パニックを起こされると、あとから鎮圧に来る軍も自由に動けない。それでも鎮圧を急がねばらならん、とかなんとか上が判断してみろ、進路の邪魔になる市民は保護より排除優先ってことになるぞ」

「じゃあ、どうするんだ」

「この人を手近の避難所に連れて行って、ついでに避難所の全員に事情も説明して、あとは地域の防災連絡網でなんとか回してもらおう。それしかない。こっちには人手が圧倒的に不足してるんだ。軍への連絡もそれから大急ぎでやらないといけないしな」

 地域の防災連絡網というのは、普通なら電話を使うのだろうが、今日のような場合、走って各避難所を巡って連絡をつけることになる。各地域で、元陸上部員などが予(あらかじ)め抜擢されているはずだったが、ここ猿之門はベッドタウンである。昼間家にいるのは大部分が主婦と定年後の老人、そして幼児。連絡を回しているうちに情報が劣化し、逆にパニックを呼ぶのではないかという危惧(きぐ)を南田は抱(いだ)いた。結局、久留以外の全員が反対してプランその三も却下される。

「日本にはさ」

 峰國が唐突に口を開いた。

「町同士を繋ぐ地下の回線があるはずでしょ? アクセスポイントも、いくつか用意してあるはずじゃないの? 軍施設に限らずさ」

「そうだ、その手があった」

 坂元がぽんと手を打つ。その手、らしい。

「都市間主幹回線はとっくに押さえられていると思って、それ以上考えていなかった。外部との接点は遮断されているに違いないが、地域内のアクセスポイント同士の接点はまだ生きているかもしれない。いや、多分生きている。奴らは住民にバロッグ以上の不安を抱かせたくないと思っている。叛乱がばれて、多数の住民が外部へそれを通報してみろ、すぐに戦略機動師団のお目見えで一網打尽だ。だから住民には避難所でじっとしていて欲しいと奴らは考えているだろう。避難所にいさえすれば安全だ、と思わせ続けるためには、避難所同士のアクセスを遮断することはできない」

「じゃあ、一箇所にさえ叛乱の事実を伝えてしまえば、あとは地下回線ですべて連絡がつくってわけか。いいな。真実を伝えるかどうかは議論の余地があるとしても、とりあえず伝言ゲームの醜態は晒さなくていいわけだ」

「おまけに、はぐれた俺の連れたちとも連絡がつきそうだな」

 鷹山と久留がそれぞれに修正案を支持する。

「しかし、問題もあるな」南田はすぐにそれに気がついた。「通信内容は、基地でモニタされているだろう。基地を占拠した一団は、自分たちの行いが外部へ露見したことに、すぐ気づいてしまう」

「だからって、奴らにどういう対応が取れる? 工兵機だってうしろにBFGを連れていなきゃ動けなかったんだ。何千という住民をこの猿之門に閉じ込めることも、駆けつける第一戦略機動師団に対抗することもできない」

「それは、彼らがまだ龍を動かせないって仮定した場合の話じゃないか」

「だから急ごうと言っているんだ。おっさん、避難所の位置はわかるな? 俺たちが送る」

「へえ、頼もしいねえ。安全を保証してくれるってわけかい」

「いいや、残念ながらそれはムリだ。変則領域を舐めないほうがいい。――ま、あんたが知的好奇心を満足させられるだろう、っていう保証はできるけどな」

「フム、しかし俺は小学校にそのアクセスポイントとやらがあるのかどうか、保証できんぞ」

「なら、二手に分かれるか。竜時、峰國と一緒にこのおっさんを送ってくれ。俺たちは別の避難所を当たる」

 それから坂元は、書店には必ず地域の避難所を一覧にしたリーフレットが常備してあるはずだ、と言い出し、指示に従って探すと、実際にそれはカウンタ脇で見つかった。ただし、店員はやはり見つからなかったが。

「よし、中学校があるな。ここが期待できそうだ」

 リーフレットにざっと目を通した坂元が即断する。

 小学校へ向かうのは、南田と峰國、そしてようやく名前を聞き出したばかりの箕輪(みのわ)という大男。中学校には、坂元、鷹山、久留の三人。頭数ではちょうど半分に分かれた。が、南田は不満、いや不安だった。民間人と打ち身のある外国人を連れていたところで、どれだけ頼りになるものか。

「それじゃあ出発といこうか、皆の衆」

 やはり南田の思いなど知る由もなく、書店を出ながら箕輪はそんなことを大声で宣言した。



- 7 -


 司令室で部下から部隊展開の進捗(しんちょく)報告を受けた阿賀は、感謝する、と北嶋に言った。

「君の用立ててくれたBFGのおかげで、二個小隊を別働隊として機能させられる。そして朗報だ」阿賀は倉知に向き直る。「目標と思しき下士官三名を確保しました」

「第三者による接触の妨害は認められたのか?」

 倉知はほっとした様子も見せず、阿賀に厳しい目を向ける。

「今のところは、そのような報告は受けておりません。保護した下士官らの証言によれば、彼らはこの基地への物資運搬と研修の実施を名目にここまで派遣されたようです。輸送していた物品は、基地への搬入予定リストとも一致しています」

「では、そのリストから保護対象の人数と使用経路、到着時刻を予想することは可能か?」

「はっ。かなり絞り込めます。が、ざっと計算したところでは、総数で二十名を超えません。予定通りの規模で部隊を編成するには不足があります。おそらくはまた別の方法でこの基地へ移動中の保護対象がいるのでしょう」

「あの、まだ猿之門へ到達していないとすれば」北嶋は遠慮がちに口を挟む。「しばらく近づくのを控えるよう外部へメッセージを送るのが賢明ではないでしょうか」

「都市間主幹回線の使用は許可できない」

「では、徒歩ででも、外と連絡をつけましょう。東西の橋に人を立たせるのもいいかもしれない」

 猿之門基地へのアクセスは、基本的に東西の橋を使わねばならない。それを避けるためには、川を渡るか、山を越えるか、上空から降下するか、いずれにしてもなかなか激しい運動を強いられる。猿之門へやってくる将兵を誰かが狙っているのだとすれば、そのような場所にこそ隠れていそうだと北嶋は思ったが、そんなことは治安維持部隊の指揮官である阿賀のほうがずっと早くに気づいているだろう、とも想像する。要するに、やはり人手が圧倒的に足りないのだ。――本当に「敵」がいればの話だが。

「軽装の兵を選抜して、それは指示済みだよ」

 やはり、専門家の対応は迅速だった。もっとも、この霧の中でBFGなしで警戒配置につく兵士たちのほうが大変そうだが。北嶋は矢俣たち自分の部下には、部下になる者たちには、そういった役が回ってこないことを祈った。

「そうだ、北嶋大尉。保護した下士官三名と会ってみるといい。どうやら技術畑の人間のようだ。そして願わくば、格納庫に残る二機を動員できないものか。検討してくれないか」

 二機、というのが何を指すのかは瞭然としていた。ここへ搬入したこともひた隠しにしていた、新兵器、龍(ロン)のことである。たしかに、北嶋や矢俣、他のつくば以来の部下たちでは運用人員が不足していたが、三人加わるとなれば、ばらばらに分解されて搬入された機体を組み上げることができる。――組むだけならば、できる。動かすには別に不可欠の条件があった。その三人の中に、新兵器の操縦技術を持つものが誰かいれば、という条件が。

「しかし、龍を本当に動かしてもよいのでしょうか。私は新部隊の隊長ではないのです」

「ではきみは、隊長の赴任を待てと言うのかね? 現れたとしても、本物かどうかもわからないのだぞ」

 倉知の指摘は北嶋もわかる。新兵器を集中的に配備する新部隊の設立計画は、その露見をおそれるあまり、隊長の官姓名すら伏せて進められてきた。現時点においても、新部隊において第二あるいは第三の実力者という位置づけになる北嶋にさえ、その情報は開示されていない。本物の隊長が来れば、用意した符牒(ふちょう)で確認が取れるようになっているが、最終確認では地下の主幹回線を通じて極東方面軍統合幕僚本部および近衛軍統監部に照会をかける。現在、主幹回線での通信内容は途中で改竄(かいざん)されるおそれがある。したがって厳密な隊長の本人確認はできない。ただ言葉による符牒など、いくらでも知る術(すべ)があるのだから、信用ならない。

「非常事態ということで、問題にはされないだろう。後日何かあれば私も一緒に抗弁する」

 阿賀が北嶋の背中を押す。案外この男が新部隊の隊長も兼任するのではないかと北嶋は一瞬思ったが、もしそうであれば、もうそれを明かして龍を彼自身の権限で動かせばいいだけの話だった。同じ理由で倉知も候補から外れる。

「とりあえず、保護した三名と話をさせてください。それから答えを出します」

 北嶋はここで結論を下すのを避けた。なにぶん情報が不足している。

「悠長だな。あまり考えている時間は無いぞ。相手がいつ強硬手段に出てくるかわからない。もうすでに、何名かが力ずくで捕まっているかもしれないのだ」

「そのことですが、私にはどうも、考えすぎのようにも思えます」

 やっと口にできた。北嶋としては、倉知や阿賀のように深刻に考えるような事態ではないと認識していたのだった。

「本当に、危機は存在するのでしょうか。というのは、どこの誰が身内の部隊編成を妨害しようとしているのかは知りませんが、誰にもこの霧の発生は予期できなかったはずでしょう? きょう猿之門全域を覆う霧が発生するとは、気象台は発表していない。ましてや、今日の霧は普通の霧とは違います。バルムンクフォッグ、バロッグです。世界中の科学者たちがその発生予測に心血を注いでいながら、未だに実用理論の完成を見ない、そんなひどくあやふやなものです。ただの濃霧ではこの猿之門基地を情報的に孤立させることはできませんから、今日の襲撃計画というものを立案できるのは、未発表の新理論でバロッグの発生を予知できる集団ということになる。そんな集団の存在を想定して心配をするのは、杞憂ですよ」

「君は敢えてひとつの可能性を隠していないか、北嶋大尉」

 阿賀は不審そうに北嶋を見る。北嶋は少し頭を巡らせて、相手の見ている世界を想像した。

「バロッグの発生がなくても襲撃は行われる予定だった、という可能性ですか? 確かにそれは考えられると思います。すると、こちらが外部へ救援を呼べなくなったぶん、犯行グループとしては仕事を秘密裡に遂行しやすくなったということですか……。いや、計画内容しだいでは、逆にやりづらいかもしれませんね。使える予定の無線が、直前になって使えなくなったとなっては、作戦を予定通りに実行できない」

 これは判断が難しい、と北嶋があれやこれや考え込んでいると、阿賀が言った。

「もっと厄介な可能性があるだろう。襲撃者が、意図してバロッグを発生させられるとしたら、どうだ?」

 それこそ笑ってしまいそうな可能性の議論だったが、北嶋は、笑えなかった。

 その可能性は、ゼロではない。なぜならば、誰も知らないからだ。どうして変則領域は存在するのか。どういうルールに従ってそれは発生するのか。一部は経験的に解き明かされている。BFG、バルムンクフィールドジェネレータなどがそれだ。あれはバルムンクフィールドと呼ぶ人工の変則領域でもって、天然の変則領域の影響を帳消しにする機械である。毒を以て毒を制しているわけだった。特定の組成と結晶構造を持つ鉱石に、これまた特定の電圧などの信号を加えることで、BFGのような一部のバルムンクシステム、すなわち人工変則領域発生装置は機能する。人類がこの二十三年で学んだのは、基本的にはこの方法のバリエーションだけであり、全く異なる方法は知られていない。しかし、理論的に、未知の手段の存在が否定されたわけでもない。ならば、完全に制御不能といわれているこのバロッグという変則領域の発生も、極秘にされている何らかの方法で操れるかもしれない。それをすでに実現している可能性が最も高いのが、啓示軍(オフェンバーレナ)。

「しかし、亜連にそのような技術があるのなら、内輪の争いなどではなく啓示軍との戦争に勝利するためにまず使われるのではありませんか」

「確かにそうかもしれない。が、啓示軍に支配されてしまった欧州のように、あれを指導者として受け入れようという輩がいないとも限らない。常識で考えれば、私の言っていることは滅茶苦茶だ。それはわかっている。わかっていても、だ。その常識に囚われていたばかりに、亜細亜連邦はウラル以西の領土をむざむざ奴らに奪われてしまったことを忘れてはならない。身内を味方と信じきるのは危険だ。ましてや、相手は軍の一勢力ではなくテロリストという線もある」

 そのテロリストを啓示軍が裏で操っている、という可能性も言わずもがなであり、北嶋は阿賀の抱く危機感を認めざるを得なかった。機械を相手にしてきた自分と、人を相手にしてきた阿賀との違いを、浮き彫りにされたようだと感じた。

 北嶋は折れるしかなく、阿賀とともに倉知の司令室をあとにした。

 保護された下士官三名について、北嶋は簡単なメモを受け取って目を通した。いずれも極東方面軍の若手で、二名は名前からして日本人とわかる。残る一名は中国籍のようだったが、育ちは日本ということで、聴取にはすべて日本語で答えたという。

「偏った人選、と指摘されても文句は言えませんね、これは」

 北嶋と矢俣はもちろん、他のつくば以来の部下も大多数が日本人である。龍は亜細亜連邦の技術の粋(すい)を集めて開発された兵器であり、日本独自の製品というわけではない。戦場から最も遠いゆえに日本が多くの開発拠点を抱えていたのは確かだが、スタッフは多国籍であったし、量産のための生産ラインは中国やロシアにこそ多く整備されている。絶対数が少ない以上、あまり配備先を分散しすぎて運用効率を下げるわけにもいかないので、今回の新設部隊の設置先がたまたま日本の猿之門であったというところまでは理解も得られるかもしれない。しかし、隊員まで日本人ばかりの構成では亜細亜連邦という組織のバランスを欠き、亀裂発生に繋がると北嶋は憂慮するのだった。

「では、次はロシア人か中国人でも連れて来るように部下へ伝えておこう」

 阿賀が笑うところを北嶋は初めて見た。どうやら冗談であるらしい。それは北嶋への信頼の高まりとも受け取れた。彼の部隊は乗俑機を駆使して戦う機甲化歩兵部隊であり、北嶋が手持ちの装備品から供与したBFGがなければ、せっかくの乗俑機部隊もこのバロッグのなかで独活(うど)の大木と化していたに違いないのだ。

 乗俑機へのBFGの搭載は、予(かね)てより試みられている。近年BFGの小型化により試作機の完成までは漕ぎ着けたが、稀少鉱石を核とするBFGのコストダウンは難題で、また、移動物へのBFG搭載は制御のための計算量が著しく増大し、最新式のコンピュータも搭載する必要が出てきた。しかもコスト問題に加えて、乗俑機のサイズにこれらを搭載すると機能的にも無理が生じるという指摘もある。ゆえに首都近郊の対テロ部隊といえどもBFG搭載型乗俑機の配備はままならず、バロッグが生じた途端に部隊機能が低下するという泣き所を抱えているのだった。実直な軍人を絵に描いたような阿賀がそれを不満としていなかったはずはない。

 BFGによるバロッグ内での乗俑機稼動。さっそく下士官三名を無事保護できたという実績が、阿賀の龍への期待をいっそう高めたのは明白だった。龍はBFGを標準装備し、バロッグ内でも自由に活動できる新兵器である。本音では阿賀も龍を自分の部隊の戦力として欲しているのかもしれず、そう考えると彼が戦おうとしている相手とは同じ穴の狢(むじな)である。しかし憶測は憶測でしかない。部隊設立の妨害行為は北嶋にとって不利益であり、阿賀とは利害が一致している。今はそれでじゅうぶんだろう、と北嶋は気を取り直す。なにしろ情報が不足しているのだ。早く保護された三人から直接話を聞こうと、北嶋の歩みも速くなった。

 階段を下りると、機械室から伝わる発電機とBFGの稼動音がかすかに聞き取れるようになった。もっとも、それは阿賀には分離不能であっただろう。両者の音を聞き慣れた北嶋だからこそ聞き分けられるのだ。矢俣は先刻格納庫へ戻し、龍からBFGモジュールを分離する作業の音頭(おんど)を取らせているので、機械室には夏(シャー)が残っているはずだった。彼も部下になる男なのかもしれない、と思い当たった北嶋は、もう一度顔を出して行きたい衝動に駆られたが、阿賀の急かす視線を受け、おとなしく棟を出た。

 格納庫に戻ると、矢俣が得意げに待ち構えていた。その背後には、組み立ての済んだ龍の姿がある。他の兵器とは異なる独特の外観だけに、見間違えようは無い。

 全高十四メートルの人型歩行兵器。それが龍である。

 パワードスーツである甲種はもちろん、人型重機である乙種をも超えた、乗俑機丙(へい)種。通称、機兵。重心の低い幼児体型が主流の乗俑機乙種に比べ、その手足は長く、関節の自由度も高い。機兵は在来兵器が沈黙を余儀なくされるバロッグの中を、足場を選ばず自在に移動し、器用な手でさまざまな兵器を輸送し、使用する。変則領域発生から二十年以上が経ち、ようやく現れた変則領域専用兵器。

「班長、新規参入組に手伝ってもらったら、あっという間に組みあがりましたよ」

 モンキーレンチで肩を軽く叩きほぐしている矢俣に、罪悪感は一切感じられない。北嶋は声を取り戻すのに十秒以上を要した。

「矢俣くん。僕は龍のBFGモジュールをすべて分離するようにきみに頼んだはずだ」

「覚えていますよ。でも、そのあとで事情が変わったんですよね。班長の指示が無くても、俺、組み立て作業をスムーズにやってのけましたよ。実力がついたとは思いませんか」

「事情?」

「機甲化歩兵部隊の人や、保護された三人から聞かせてもらいましたよ。乗俑機にBFGを添えるんじゃ間に合わない、すぐにでも龍そのものが必要だって。司令室で班長が命令出したって聞いて、そりゃあ全力でやったんですから。見てくださいよ、この……」

 何事かを自慢しようと龍を振り返り、指差す矢俣。指し示された先では、龍が静かに動き始めていた。組み立てに使われたクレーンを腕で払い、立ち上がろうとしている。

「え、ちょ、誰が乗っているんだ」

 狼狽する矢俣に、順を追ってきちんと説明している時間は無かった。北嶋は格納庫の奥で作業を続けていた別の部下のほうへ叫ぶ。

「非常停止信号を送れ!」

 おそらくその意図は伝わらなかったが、北嶋の部下は彼の命令を聞くことに関してよく訓練されていた。手近の操作卓に取り付き、赤い警戒色のスイッチを叩く。――無音。ただ人間には聞こえないだけで、強大なレベルの音波が格納庫内のスピーカから発生している。

 それは龍を外部から強制停止させるための特別なパターンをもつ超音波だった。つい先ごろまで試作段階であった龍には、第三期生産型と呼ばれる現在の仕様においてもなお、パイロットの操縦ミスや制御プログラムのバグによる暴走に備えた強制停止機能が残されている。もちろん大陸で実戦参加している機体は実戦参加前にその機能を無効に設定されているが、この格納庫にある龍は工場から運ばれてきたばかりであり、各種の安全機能はすべて有効となっている。北嶋の知る限りにおいては、そのはずだった。

 しかし、鉄の巨人は眠りに落ちはしなかった。立ち上がり、一歩を前に踏み出す。効き目がないと気づいた操作卓の部下が慌てて逃げ出した。

「動いた……」

 溜め息をつくようにして呟いたのは阿賀だった。その横顔を見た北嶋は、阿賀が機兵の動く様子に感嘆するばかりで、これを非常事態とは認識していないと感じた。

「阿賀少佐。あなたは、私に無断で命令を出したのですか。連れてきた三人に、龍を起動するにようにと」

 明らかな狼狽を見せて、阿賀はゆっくりと龍から北嶋へと視線を転じる。

「――まさか」

 眼前の男がとんでもない狸なのかもしれない。北嶋がバロッグ発生後の阿賀の言動のひとつひとつを思い出し、そしてひとつの可能性を導き出した、ちょうどそのときだった。

 龍の頭上から格納庫全体を照らし出していたメタルハライドランプが一斉に輝きを失いはじめた。格納庫内で作動していた各種の機械も停止し、減速していく回転軸の音が、電源が絶たれたのだと北嶋に悟らせる。

 停止したのは格納庫の配電盤から電力供給を受けていたすべての機械であり、BFGもその例外ではなかった。視野は見る見るうちに白い闇に侵蝕されていく。龍を組み立てていた十人ほどの兵たちがどよめくが、その姿はうっすらとした影としか判別できない。

 そんななか、阿賀の対応はすばやく冷静だった。

「基地内に侵入者。司令部の機械室を占拠されたようだ。目的は、龍およびその運用スタッフの拉致(らち)あるいは殺傷と推定される。速やかに保護せよ」

 その言葉をスイッチとして、サブマシンガンを携帯した阿賀の部下たちがすばやく散り、北嶋や矢俣を取り囲んだ。銃口はすべて輪の内側を向いている。

「阿賀少佐、あなたは!」

「悪く思わないでほしい、北嶋大尉。多少手違いはあったが、これも計画のうちでね」

「いったい誰の計画ですか!」

「班長!」

 叫び声に反応してふりかえると、矢俣が工具を投げつけて、阿賀の部下をひとり昏倒させていた。包囲に穴が開く。北嶋はもたもたせずにすぐ体を動かした。矢俣とともに倒れた兵士の上を走り抜ける。

「待て、大尉! おとなしくしたほうが身のためだぞ」

 阿賀が慌てて呼び止めるのを背中に聞いたが、無視した。発砲はされないとわかっている。北嶋たちを無傷で捕らえることに阿賀がどこまでこだわってくれるのかは不明だったが、格納庫にまでバロッグが及んだ今、包囲のため散開した機甲化歩兵部隊は同士討ちに注意しなければならないはずだった。問題は、龍である。この電源を絶たれた環境下でも独立してBFGを作動させている龍が北嶋たちに接近すれば、その周囲だけバロッグが排除され、まともに銃が使えるようになってしまう。

「ど、どっちへ?」

 矢俣が指示を請う。逃げ込む先のことだった。装備がないぶん身軽とはいえ、相手とは鍛え方が違う。悪いほうに、違う。直線で逃げて逃げ切れるものではない。車も使えないとなれば、どこかに立てこもるしかない。

「そこを左だ、電算室に」

 走りながら多くを語る余裕はない。が、矢俣はその意図を理解したうえで頷いたようだった。

 この基地の電算室は地下にある。龍のBFGの効果範囲よりも深くに。そして二次電池による非常電源が半日は持つ。阿賀がどの程度の規模で行動を起こしたのかはわからないが、バロッグの消失なり、異変を察知した外部からの救援なり、形勢逆転の機を窺うことはできる。そして、外との通信手段も。

 鍵を閉めたり棚を崩したりと妨害工作を働きながら、ふたりは地下へと向かった。エレベータは止まっているので、普段は誰も使わないであろう階段を使って。

 こんなことになるならもっと鍛えておけばよかったと、北嶋は月並みの後悔をした。



- 8 -


 猿之門中央小学校には千名ほどの住民が避難していた。うち五百名は授業を受けていた小学生。南田たちの予想にたがわず、働き盛りの男の姿は少ない。校舎と体育館、加えてグラウンドの校舎側半分程度がBFGの効果範囲内であり、それぞれに数百名ずつ住民が収容されている。今のところ目立った混乱はなく、ここを避難先として指定されている地域の住民がほぼ集合した計算になる、と小学校の年輩の教師が説明した。

「このあたりは、バロッグで避難警報が出ることが多いのですか?」

 南田が尋ねると、教師は苦笑した。

「そうでも、ないのですが。いつもの避難訓練のときよりも、皆さん静かにしておられますよ」

「軍や警察が統制を取っているものと、想像していました。うちのあたりではいつもそうでしたし」

 南田は自分の小学生、中学生時代を思い出す。BFGが開発されて地域の学校にまで配置されたのは、もう小学校を終える頃だった。それより前は、ただ爆発の危険が少なかろうというだけで運動場や体育館に集まり、霧が晴れるのを待ったものだった。もっとも、子供だった南田は駆け回って遊んでいたから、不安を覚えていたのは親や教師たちだけだったが。

「このあたりも以前はそうでしたよ。警察よりは、基地から様子を見に来る軍人さんのお世話になるほうが多かったですね。この霧が出ると、箍(たが)が外れて暴れまわる連中がおるでしょう? 昔は、あれの対処にはまだ軍は出動できませんでしたからな。警察が取り締まりに追われている間、軍がその穴を埋めてくれとりました」

「へえ、日本は軍と地方行政の仲がいいんだね」

 峰國(フェングォ)が感心している。意外に感じたのは南田も同じだった。強権を持つ軍に対する市民感情は、平均すると、あまり良くない。端的に言えば、遠くで国防に励んでくれているぶんには応援するが、近くに駐屯されるのは迷惑だと騒ぎ立てる、という有様である。啓示軍(オフェンバーレナ)の侵攻が始まった当初こそ一時的に軍の立場は向上したが、その後欧州方面軍があっけなくモスクワを落とされ全面撤退するに至り、やれ役立たず、やれ税金泥棒と罵(ののし)られる立場に転落した。

「前の基地司令がなかなかの人格者でしたからね。住民と良好な関係を築けたのはその賜物(たまもの)でしょう。――あ、ここを左です」

 雑談は、移動中だけのことだった。到着したドアの上には「校長室」と札がある。南田と峰國は、校長をはじめとする住民の代表たちにここで事情を話すことになっていた。書店で加わった同行者、箕輪(みのわ)はいない。自分が証言すれば説得力も増すだろう、と分厚い胸を叩いてみせた箕輪を、南田は成人向け雑誌とともに追い払っていた。

「あの猿之門基地で叛乱、とはね」

 事情を聞かされた校長が、ううむと唸(うな)った。

「穂積(ほづみ)司令のいた頃からは考えられんことだよ、こんなことは」

 市議だという男が顔をしかめる。隣のPTA会長も口には出さないが同じ気持ちのようだった。

 穂積という前司令の話は興味深かったが、南田は本題からそれることなく、まずアクセスポイントの使用許可を要請した。猿之門の外の部隊がどう動いているかで、住民をどう誘導するべきかが異なってくる。それまで住民には話を伏せておきたい、ということも付け加える。

 根気強い説明をする心の準備をしていた南田は、校長たちが些事(さじ)の確認のみですぐに了承してくれたので拍子抜けした。彼らとの信頼関係を培(つちか)ってきた猿之門基地の前司令に南田は深く感謝した。

 もし箕輪が一緒に校長室に入っていれば、校長もPTA会長も市議も首を縦には振らなかっただろう。交渉が終わって部屋を辞したとき、南田は自分の判断の正しさを確信した。

 アクセスポイントは校舎の脇にひっそりと立つプレハブの、地下にあった。普段は職員室などのパソコンからアクセス可能だが、セキュリティの作動が怪しくなると、不正アクセスを避けるため遮断される。今はバロッグの影響で、実際、そうなっている。それゆえ南田たちは校内の大元のアクセスポイントに直接出向かなければならなかった。

 プレハブは、案内をしてくれる若い教師の説明によれば、一階部分はかつて教室として使われたものだという。児童数の減少によってその役目を終え、最近は市民に開放して手芸品の展示などが行われているらしい。南田は擬人化された動物の人形やら郷土の写真やらを眺めつつ――人形をつつこうとする李(リー)峰國を制止しつつ――教師のあとを追って地階に下りた。

 教師に促され、階段の先のドアに手をかける。鍵はかかっていない。開けると、驚きが南田を出迎えた。

「いよーう」

 十畳ほどの部屋の中、箕輪という名のセイウチがソファに寝転がっていた。机には読み終えたらしい雑誌が放られ、向かいに設置された情報端末は何か忙しく処理を行っている。

「箕輪さん。どうしてここに」

「ん? 理科の先生とアレの話で盛り上がってなぁ。トイレに行っちまったんで、留守番をしていた。あんちゃんたちが来たってことは、なんだ、あの先生は戻らないのか」

 つまらなそうに箕輪はソファで身をよじる。今にもソファが壊れそうだったが、そんなことより、今は情報端末だった。都市間主幹回線とのアクセスは生きているか。

 南田は端末に取り付いた。何か処理をしているのは、箕輪がいたずらでいじったのではなく、ここにいたという理科の教師がやったことだと思われた。実行内容の詳細を呼び出して確認すると、端末は接続可能なポイントをすでに検索しているとわかった。

 猿之門の外の検索が優先して行われたらしく、どことも接続ができないとの結果が出ている。文字通りに基地局である、猿之門基地への問い合わせ結果もログに残っていた。バロッグによる機器不良のため、他の基地局との通信が不能、との解答。

「これじゃ、基地でわざと回線を遮断したのと同じだなー」

 後ろから画面を覗き込んだ峰國が示唆(しさ)するように、猿之門基地で叛乱かそれに類する事件が起きているのは確実になった。バロッグの圏外の動向を探る必要がある。叛乱制圧のために各方面軍に設置されている精鋭部隊、戦略機動師団はもう動いてくれているか。動いていなければ、早急に命令を出してもらわねばならない。幸い、かなり上層の司令機関である近衛軍統監部が近い。車さえ使えれば一時間もかからない距離である。まずは東の橋まで誰かが徒歩で行かねばならない。いや、自転車でも平気だろう、と考え直す。そのほうが二倍は早い。

 幸い、都市間主幹回線の枝回線により中学との連絡は取れた。端末の前にはすでに坂元が来ていたらしく、呼び出すとすぐに応答があった。得られた情報を伝えると、坂元は長文を返してきた。

<統監部へは竜時たちで頼む。こっちは久留の連れがまだ見つけられていない。それを探しながら、電話回線を利用した猿之門基地の監視網を作ろうって話になっている。電話線そのものは、利用可能だからな。こっちは技術の教師と、そっち系のクラブの生徒が使えそうだ。市民にもいくらかその畑の人間がいるだろう。それはそっちでも探して、こっちへ向かわせてくれ>

 南田はすぐに返信した。

<了解>

 坂元の行動計画立案は相変わらずスピーディだった。南田には、ケチをつける部分が見当たらない。少し落ち込んだ気分になったところ、突然肩を叩かれた。痛い。そして、でかい。ふりかるまでもなくわかっていたが、箕輪の手だった。いつの間にか盗み見していたらしい。峰國は横に押しやられている。

「俺も行こう。今度こそ、証人として働いてやる」

 たしかに統監部に話を信用してもらうには箕輪の証言も役に立つかもしれない、と南田は納得しかけたが、この大男を連れて行っては到着が危うい、と考え直す。果たして自転車に乗れるのか。重量的に。途中でへばったのを放置するのも憚られる。最初から置いていくほうが賢明だろう、という結論に落ち着く。

「箕輪さん、残念ですが、これは軍の仕事です。民間人のあなたを巻き込むわけにはいきません」

「つれないことを言うなよ、あんちゃん。もう、じゅうぶん巻き込まれているじゃないか。俺だけじゃない、この猿之門のみんながだ。俺はここにいても場違いみたいだし、ちょうどいいじゃないか」

「危険です」

「ここにいて安全って保証もないわな。――無い罠? くくく」

 ひとりで勝手に笑っている箕輪を置いて、南田は峰國に目配せし、端末のあとを教師に任せて出て行こうとする。それを呼び止めたのは、箕輪でも、教師でもなく、情報端末だった。長いビープ音。

<Communication Error>

 まずはそう表示が出た。が、すぐに切り替わる。

<ネットワーク再構築中……>数秒して、<完了>

 中学校との通信ログは画面から消え、バックグラウンドで進行していた検索も停止している。新たに現れた通信先の選択肢は、たったひとつ。

<Sub>

 Mainはどこだ、と南田は探したが、見つからない。そのうちに、勝手に通信窓が開いた。メッセージのみ。

<こちら亜細亜連邦軍猿之門基地。北嶋三朋大尉。応答を願う>

 知っているか、と南田は峰國に問う。名前は知っている、との答え。

<こちらは士官学校卒業生、南田竜時曹長。現在地は猿之門中央小学校のアクセスポイント>

<基地で叛乱が起きた>

 北嶋と名乗った通信相手は、叛乱分子の戦力と指揮系統について簡潔にまとめられた情報を提供してきた。

 首謀者は近衛軍第三二歩兵連隊第七中隊隊長、阿賀正尊少佐。あるいは、猿之門基地司令代理、倉知恵子大佐が主導している可能性もあり。基地内の電源を遮断し各個に制圧を行った模様で、基地すべてが叛乱に加担しているわけではない。しかし、BFGが停止し無線も火器も使えない状態では、独立電源のBFGを手にした叛乱者が圧倒的な優位にある。その独立電源をもつBFGとは、機兵であり、推定二機が奪われ敵戦力となっている。

 現況の説明はそこで一区切りついた。

「なんてことだ」

 南田は頭を抱えた。機兵と、それを運用する基地が叛乱軍の手に落ちた。バロッグが晴れない限り、何をしても勝ち目は無い。

「なんだ、まずいのか。基地のまともなヤツと連絡が取れたんじゃないのか?」

 箕輪には構わず、南田は北嶋に外部の状況を尋ねる。

<わからない。しかし、叛乱と疑われる事態が把握されていたとしても、戦略機動師団の介入は早くはない。権限の問題で、中央議会軍事委員会の認可を得なければ、猿之門基地への攻撃は実行されないだろう>

<そのような権限は聞いたことがありません>

<機密に属する>やや間があって、続く。<属していた、と訂正する。本日付でこの件は公表されるはずだった。首都防衛を担う新しい独立機兵部隊の編成。彼らはその計画を乗っ取った。首都防衛のために特権を与えられた新部隊に、統監部は手を出せない。部隊が乗っ取られたと確たる証拠が出るまで、戦略機動師団は動けない>

 動けば、派閥(はばつ)間の微妙なバランスの上に成り立っている亜細亜連邦軍は、啓示軍(オフェンバーレナ)という敵と戦わずとも内側から崩壊する。軍だけではない。八月の悪夢から続いた未曾有(みぞう)の大混乱を収束させるため奇跡的に築かれた亜細亜連邦という骨組みそのものが、瓦解しかねない。そのような大問題を前にしては、猿之門というありふれたベッドタウンの安全など鴻毛(こうもう)より軽い。

<阿賀少佐の目的は何でしょうか>

<不明。バロッグがいつかは消える以上、彼らに最終的な勝利はない。猿之門の外までバロッグが広がっていれば別だが、私達同様、彼らにもそれを知るすべはない。バロッグの発生を予期した計画であるのか、バロッグの発生を契機として発動する計画だったのか。常識的にはおそらく後者だろう。彼らには何か策がある。しかし、それが何かは見当がつかない。ついさっきまで、彼らと私は協力しt>

 すばやい文字入力がそこで不自然に止まる。南田は固唾(かたず)を呑んでメッセージの続きを待った。が、画面はそのまま真っ暗になり、システムが再起動を始めた。

<Starting AOS......>

 再起動完了まで一分もかからなかったはずだが、南田には二倍程度に長く感じられた。そしてようやく現れた画面には、利用可能な接続先なしという旨の表示。中学校とも繋がらなくなっている。南田は再接続を試みたが、見つけられたのは、終了間際に着信したメッセージのログだけだった。南田はログを開き、最新のメッセージを確かめる。

<私たちは騙(だま)されていた>

 ただ、一文だけ。

 それより前にもあとにも、読み落としたメッセージは見つからなかった。



- 9 -


「箕輪さん、やっぱり危ないですよ」

 車を使うと言い出し、強引に軽トラックを借り出した箕輪を、南田は駐車場まで追いかけて止めた。

「バロッグを抜けたら、そのあとは車が要るだろう。走ってなどいけるか」

 箕輪は運転席に乗り込む。車体が大きく沈み、傾く。

「ほれ、ぼさっとしてないで、乗らんか」

 箕輪は南田が当然助手席に乗るものとして、いつまで待たせるのだという態度である。たしかに、北嶋という良心ある将校からの連絡が途絶え、行動を急ごうとしたのは南田だった。しかし自動車など使っては、バロッグのなかを走るうちにエンジンが爆発しかねない。絶対それが起きる、というほどにエネルギー変換現象の確率密度分布は濃くないようだが、危ない橋には変わりない。徒歩か自転車で行くのが安全且(か)つ確実で、ついでに言うならば箕輪は足手まといだった。が、それをそのまま相手に告げる無神経さ、もしくは率直さを南田は持ち合わせない。

「行こう、竜時」

 峰國(フェングォ)がいつのまにか軽トラックの荷台に乗っていた。

「大丈夫、大丈夫。こいつは電気自動車だよ。バロッグの影響は受けにくいし、壊れても怪我はしない。ブレーキみたいな機械はまず正常に動くしね」

 箕輪がまだエンジンをかけていないのだと南田は勘違いしていたが、実際には、すでに二次電池により軽トラックはいつでも発進可能になっていた。

「早く乗れって」

 サングラスのフレームを邪魔そうにしながら顔をポリポリと掻き、箕輪が急(せ)かす。南田はしかたなく、助手席に回った。車が壊れたら誰が弁償するのだろうか、と考えているうちに、箕輪が車を出す。駐車場の砂利が音を立てるが、その聞こえ方がいつもと違う。時速二十キロ程度の、実にゆっくりとした走行速度のためだった。

 坂元には統監部へ直接向かうよう言われていたが、そのあとの北嶋大尉との交信内容を伝えるため、中学校へ寄らねばならなかった。地図を見るに、徐行運転でも十分かからない。そのはずだったのだが、箕輪は五分と行かないうちに車を停めた。信号も横断歩道も、乗り捨てれらて道路を塞いでいる厄介な車も見当たらない。

「電池切れですか」

 違うだろうとは思いながら南田は訊ねた。どうして止まるのか、と口にすれば詰問(きつもん)調になってしまいそうだった。焦りと緊張からくるストレスを、箕輪にぶつけるのは筋違いである。

「中学校へ行くのは、諦めたほうがよさそうだ」

 箕輪はサングラスの奥で眉をしかめたようだった。どうしてです、と聞こうとすると、その前に荷台の峰國が車体を控えめに叩いて合図をしてきた。南田は窓から首を出して、峰國と顔をあわせる。

「機兵だ。音が聞こえる」

 南田は耳を澄ます。子供の遊ぶ声、泣く声が聞こえた。が、これは小学校からのもの。南田は意識によるフィルタをかけて別の音を探る。――捉えた。二本の足が交互に路面を踏みしめる足音。そして時折、姿勢制御用のロケットモータを噴射する音が混じる。車が静粛な電気駆動でなければ聞き取れなかっただろう。龍(ロン)もこの軽トラックと同じように、電源にエンジンは使っていない。じっとしていれば殆ど音を出さないのだ。手足を動かすのも、マイクロマシンで組織された人工筋肉のわずかな伸縮音を伴うのみ。それは、ここからでは聞こえない。

「三百メートルってとこか」

 晴れていれば全高十メートルを超えるその姿をとっくに見つけているが、あいかわらず視程は十メートルも無い。箕輪の運転は図体から受ける印象の割りに慎重で、さもなければここへ来るまでに縁石に乗り上げるか電柱にぶつかるかしている。

「向こうは気づいていないよ。熱源も、この住宅地じゃごちゃごちゃしてわからないだろうし」

「そうだな。でも近づけば……」

「そりゃ見つかるだろうね」

「だよな」

 龍は概(おおむ)ね、一定の歩調を守っている。車などの障害物をよけながらただ歩いているだけなのだろう。中学校を攻撃しようとかいう物騒な行動に出たわけではなさそうだった。巡回中という様子である。歩哨(ほしょう)のつもりか、と南田は見当をつける。これほど図体のでかい歩哨はなかなかいないだろう。

「どうする、あんちゃん」

 南田は首を引っ込め、シートに体を落ち着けて考えた。

 坂元たちには敵戦力に関する情報を与えておきたかった。しかし、すでに龍が中学校のすぐそばを出歩いているのだから、それは知らせるまでも無くなっている。坂元にせよ鷹山にせよ、あの龍を救援と信じるような楽天家ではない。久留の連れの捜索やら監視網の構築やらが難しくなったことは当然認識しているだろう。もしかすると龍は、中学校に軍人が入り込んでいるのを知ったうえで、威圧と監視のためにうろついているのかもしれない。それとも単純に基地の周辺をぐるぐる回っているのか。それにしては足音があまり遠のかない。龍がどういう指示のもとで動いているにせよ、坂元たちが動きたくても動けない状態にあるのは間違いない。

「俺たちまで見つかっては元も子もない。猿之門を出ます。東へ、塚入橋に向かってください」

「ほい、了解」

 箕輪は次の角を折れ、中学校をやや迂回して東へと向かった。黙々と。

 南田は、おや、と疑問に行き当たった。箕輪の横顔を見る。サングラスに隠れていない下半分だけの観察になるが、どうやら緊張の色は無い。箕輪は、これだけのバロッグが出ているのに書店で成人向け雑誌を物色し続けていたのだから、豪胆といえば豪胆なのだろう。しかしそれだけでは腑(ふ)に落ちない点に南田は気づいたのだ。箕輪は、書店ではバロッグの性質をよく理解していないふうだったにも拘(かか)わらず、今はこうしてバロッグの中でもなんとか安全に使える車を選び出し、それを運転し、そしてその腕に危うさは全く感じられない。

「箕輪さん、ひとつ聞いていいですか」

 平静を装うことに南田は細心の注意を払った。が、あまり自信はない。呼吸の乱れ。自分が相手の立場なら必ず気づくだろう、と客観視。

「なんだ、あんちゃん。体重なら教えてやらんぞ」

 箕輪はあいかわらずの調子で、質問を拒絶する気配はない。

「その、どうしてここまでするのですか? あなたの役目だとは誰も言っていないのに」

「やれと言われたモンしかやっちゃいかんのか、こういうことは」

「いえ、そうではないです。たいへんすばらしいことだと思います。ですが……」

 あなたは怪しすぎる。それを言い換えるための言葉を探して南田は口ごもる。一分ほど沈黙があって、見かねてか、箕輪が口を開いた。

「かっこいいだろう。かっこをつけたがるのは男の本能だ。俺は本能の叫びを素直に聞いてやることにしている。そのほうがストレスがなくていい。知ってるか、あんちゃん。ストレスをかけたネズミは早く死ぬんだとよ。あんちゃんも長生きしたいだろう?」

「それは、まあ。しかしこのご時世ですし……」

「なら」箕輪は南田を遮って、にやりと笑った。「せいぜいかっこつけることだ。自分に正直にな」 

 欲求のまま食べた結果がこの体格だろうか、と南田は思ってしまったが、もちろんそれは口に出さない。相手のストレスになるような言動をそれと知って実行することはないのだ。箕輪の言を借りれば、それが相手を長生きさせることになるだろう。南田にとってそれは好ましい因果関係の成立となる。皆のためになることをする「いい人」として生きたいと決意したし、実際、役割をしっかり演じられていると思う。もう十分にかっこうをつけた生き方をしている。しかし。

 ――俺は、長生きをするだろうか。

 最近、ストレスの種は増えている。戦争はどうなるのか。特別課程を出たはいいが、きちんと出世の階段に乗れるのか。坂元や鷹山に置いていかれるかもしれない。実家の母や弟たちは元気にしているだろうか。メールのやり取りはあるが、もう一年、帰っていない。このまま実家の敷居を跨(また)ぐことなく命を散らすかもしれないというのに。

 気づくと、塚入橋の目の前まで来ていた。体感より長く時間が経過したこと、そして箕輪にはぐらかされたことに、南田は気づかされる。

「ようやくだな」

 外で峰國が言った。この橋を超えれば、地名としては猿之門ではない。ただし、それは気持ちの上での節目でしかなかった。バロッグは行政上の線引きとは関係なく発生し、消える。猿之門を出たからといってバロッグが晴れているとは限らない。極端な話、日本列島全体がバロッグに覆われているかもしれないのだ。もっとも、そんな事例は二十三年前の「八月の悪夢」を置いて他、起きたことがないのだが。

 塚入橋は、登山道すらない山越えルートを除けば、猿之門から都心方面に抜けるための唯一の陸路である。分離帯のない対面通行。通勤と帰宅のラッシュには渋滞が発生するのだろう、と平和な光景を想像してみた南田だったが、実際に霧の中から浮かび上がったのは、往復両車線を封鎖する乗俑機と装甲車の一団だった。

「ありゃ、お味方かな? それとも?」

 箕輪の質問には時間が答えてくれた。距離が縮まるにつれ、輪郭がはっきり見えてくる。乗俑機と、その周りには武装した兵士もいたが、それらは皆南田たちと向かい合っていた。つまり、彼らは猿之門から外へ出て行こうとする者を見張っていた。

「くそっ、手が回っていたのか。じゃあ……」

 ――どうする。

 突破は不可能である。装甲車も乗俑機も、軽トラックより数段丈夫にできている。避けて通るしかない。橋の下には川があるが、飛び降りられる高さではないだろう。引き返して、橋から見えないあたりで川を渡る方法を考えるか、大きく迂回して北側の山地を越えるか。

 山へ回ろう、と南田は決めた。冬の川に入って体力を奪われるのは得策ではない。

「箕輪さん、一度バックして……」

「あー、もう面倒だ。アイハヴ指揮権」

 片手で鼻をほじっていた箕輪は、摘出物をどこかへ弾き飛ばすと、両手でハンドルを握った。サングラスが少しずれ、南田は横から箕輪の目を垣間(かいま)見る。

「突っ込むわ。発煙筒使うから、おまえたちはそれに紛れて強行突破しろ。橋から飛び降りてもいいぞ」

「は? 何を言い出すんです、箕輪さん」

「グダグダ言っている暇があったら峰國にも伝えんか。ほうら、奴さんたち、銃を構えたぞ」

 正面を見ると、その通りだった。箕輪はアクセルを踏み込んでいる。南田は慌てて窓を開け、峰國に事情を伝える……時間もなかった。

「強行突破になった」

「ほいよ」

 端折(はしょ)りに端折った説明を、峰國はなんでもないことのように気軽に了解する。

 もっとも、説明を要求されても南田に答える時間など残されてはいなかった。橋を封鎖している一団から制止の声。減速どころか加速しているのだから敵意はすぐに察知された。乗俑機が動く。軽トラックと相撲を取ろうとでもいうように。

 接触数秒前、いつの間に手にしたものか、箕輪が運転席の窓から発煙筒を前方に放った。一本ではない。煙の噴き方からして四本はあった。

「今だ!」

「すいません、行きます!」

 南田は助手席から転げるようにして抜け出し、路面で受身を取る。やはり痛いものは痛い。峰國がすぐ横に着地した。南田を助け起こして走り出す。発煙筒の投げ込まれた混乱の中へ。

「吸わないほうがいい」

 煙に突っ込む直前、峰國がそう耳打ちし、南田は考えずにその通りにした。それが幸いした。周りから寄って来ていた兵士たちは怒号を上げてのたうち、南田たちを捕まえるどころではなくなっていた。――箕輪が投げたのは、乗用車が事故に備えて積む発煙筒とは別物だったらしい。

「弾薬庫へ行け!」

 背後で箕輪が叫んだ。口を塞いでいた南田は何も応答できず、ただ全力で前へ走った。箕輪がただの民間人でないことを確信しながら。

 丸腰であることは南田の不安の原因として大きなウェイトを占めていたが、かえってそれが幸いした。物理的に身が軽いのはこの場合有利である。南田は追っ手を振り切り、気づくと霧の中、たったひとりになっていた。

「峰國?」

 李峰國がいない。一緒に走っているとばかり思っていた。

 電柱と塀が作る陰に入って足を止め、耳を澄ます。追ってくる足音は無く、自分の荒い息が聞こえるばかり。それをもどかしく感じた南田は息を止めた。が、霧の中からは何も現れない。

 ――はぐれただけだ。捕まったとは限らない。

 そう信じようと思ったが、南田は重大な過(あやま)ちに気づいた。峰國は交通事故で怪我をしていた。工兵機から逃れるときひとりで走っていたし、その後は平気そうに歩いていたので、もう直ったと思っていた。いや、忘れていたのだ。あの短時間で怪我が治るわけがない。むしろ逆に、少し時間を置いてから痛みが出てくる例のほうが多いだろう。叛乱軍との遭遇という事態にショックを受けてそれどころではなかった、というのが正直なところだったが、峰國のハンデについての情報が完全に頭から抜け落ちていたことに変わりはない。もしかすると峰國は、状況の重大性を意識して、自身の怪我のことはなんでもないと意図的に見せ付けていたのかもしれない。無理をしていたのだ。そうならば、南田の全力疾走について来られないのは勿論、あの関門の兵たちからも逃げられなかったのではないか……。

 峰國が捕まったとしたらそれは自分の責任であると南田は思った。士官候補として適切な状況把握と判断ができていなかった。その分際で少尉への任官を逃したことを不安に、いや不満に思っていた自分を南田は許せない。

「すまない、峰國」

 やっと吐き出した息とともに、そう呟かずにはおれなかった。

「呼んだ?」

 いきなり耳元で声がしたので、南田は危うく大きな悲鳴をあげるところだった。ふりむくと、かなり間近に峰國の顔がある。ただし、逆さまに。

「うまく撒(ま)けたね」

 得意げにしている峰國の顔が鉛直方向に逆転配置されている仕組みを南田は理解した。膝裏を塀の上に引っ掛けてぶら下がっているのだ。

「おまえ、いつからそこに」

「竜時が来るちょっと前。なんだ、俺に気づいて駆け寄ったんじゃなかったのか」

「塀の上だか向こうだかに隠れていた奴に気づくか!」

「そこはほら、友情パワーで」

 本当にどこで日本語を覚えてきたのか。南田はあとで絶対にそのことを聞きだそうと決めた。そのためには、まずこの状況を片付けなければならない。

「とにかく、先を急ごう」

「ラジャ」

 峰國は塀の上でいったん起き上がり、それから華麗に後方宙返りで道路へと戻ってきた。おまえは中国雑技団か、と南田は呆れる。実際に雑技の演目を見たことはなかったが。

「さっき、なんか謝ってたよね」

 駆け足で進行を再開してから、峰國が南田に尋ねた。

「聞き違いだろ。遅いな、って言ってたんだよ」

 無理のあるごまかしだと自覚はあったが、素直に認めるのは無理な話だった。塀から飛び降りる身のこなしからして、峰國の怪我のことは心配のしすぎだった。

 弾薬庫までは迷わず進んだ。地図は何度も見ていたので頭に入っているし、橋からどこをどう走ったのかもしっかり把握している。峰國との照合も取れていた。

 猿之門から東へ向かうにつれ、やがて霧が薄れて視程はだいぶ長くなった。高い柵を設けられた一画が視認できる。幾度もの寄り道を経てようやく辿り着いた。

「火薬でも調達するわけ? 対戦車ミサイル、あるかなぁ」

 物陰から門衛の様子を窺いつつ、峰國があれやこれやと重火器の名を挙げる。そのどれひとつとして、南田の期待しているものの名とは一致しない。

「保管されているのは、火器ばかりじゃないさ。――坂元たちが予想していたこと、ようやくわかった気がする」

 南田は隠れるのをやめ、弾薬庫のゲートへと歩き出した。峰國が慌ててついてくる。

「あれ、ちょっと、平気なの?」

 弾薬庫も阿賀少佐の仲間が押さえているかもしれない、と峰國は言っている。

「敵か味方かまだわかんないけど、入ってみれば結論は出る。いちばん良くないのはここでもたもたしていることだ。早くしないと橋から追っ手が来る」

 これはほぼ確実な推定である。なにせ箕輪が行き先を大声で叫んでくれた。よほどの楽天家でなければ、封鎖に当たっていた兵の全員があれを聞き逃してくれたなどとは信じ込めない。

「門前払いだったら? 俺、無抵抗で撃たれたくないなぁ」

「ああ、ちょっとは担保があるんだ。実はさ、もともと俺たちはここへ来るのが任務だったんだよ。ゲートをくぐる口実にはもってこいだろう。なんなら、叛乱の仲間のふりをしたっていいんだしさ」

 そう口にはしたが、そんな演技に自信はなかった。門衛――いかつい顔である――はすでに南田たちに気づいているはずだが、無言で待ち構るばかりで、銃を構える気配はない。

「南田竜時曹長、指令により参りました」

 結局人形のように動かなかった門衛の前に立ち、敬礼。

「そちらは?」

 門衛が峰國を見る。南田は自分に注意を引きつけるつもりでいたのだが、早速失敗に終わってしまった。次善の策を慌てて考える。坂元か鷹山の名を騙る手をまず閃(ひらめ)いたが、これはすぐに諦めた。持ち物の記名を照会されたらアウトである。それにまず顔で日本人でないことがばれそうだった。

「李峰國曹長です」

 南田が頭をめぐらしているうちに、峰國があっさりと名乗った。何かいい口実でも思いついたのでなければ、門衛が訝(いぶか)るのは必至。峰國がどんな嘘をつくのか背筋に汗を感じながら待っていると、まだ峰國が何も言い添えないうちに、門衛が破顔した。

「ああ、ああ。話は聞いていますよ。どうぞ、こちらへ。――おーい、三番倉庫にご案内しろ。そう、南田曹長と李曹長」

 門衛は当然のように南田と峰國を構内に招き入れ、同僚を呼んで格納庫への先導をさせた。わけもわからずふたりはそれについていく。

「すみません、通信設備は使えませんか」

 相手が蜂起側に加わっているのかどうかわからないので、質問の焦点はぼかす。

「ちょっと難しいですね。この霧でしょう。バロッグか。電話は局が麻痺しているんで繋がらないし、地下回線はもっとダメですよ。あれはほら、盗聴されるから」

 南田の父親ほどの年齢の兵士は、暗殺者に背後から撃たれて死ぬ、というパントマイムをやってのけた。

「では、猿之門のことは」

「今は黙っているしかないんですよ。霧が晴れるまで、この弾薬庫は何も気づいていないふりをせにゃならんのです。そう言われておるんで」

「なるほど」

 つまり、この拠点の立場は白に近いグレーである、と南田は解釈した。不用意に対抗すれば叛乱軍はスケジュールを繰り上げてこの弾薬庫を占拠する。弾薬庫に駐留する部隊はさほどの戦闘力を持たない。月並みの反政府ゲリラくらいには対処できても、計画的に反旗を翻(ひるがえ)した戦闘部隊を相手にはできないだろう。無駄な血を流さぬために、敢えてここで相手の運気が下がるのを待っている。兵士の言葉からはそういう裏が読めた。

 しかし、彼らも消極的に事態を見守っていたのではない、と南田は察していた。きっと三番倉庫にその証拠がある。自分たちは動けないが、他の誰かを動かすための道具は持っている。

 三番倉庫というのはすぐ近くだった。倉庫の屋根は高い。そこに何が保管されているのかについて、南田はもう質問する必要を感じなかった。黙って中に入る。期待通りの物が薄明かりに照らされていた。

 鉄の巨人がふたり、倉庫をテント代わりにして眠っている。見間違えることはない。亜細亜連邦軍初の量産型機兵、龍。名前のわりには神聖さを感じさせるフォルムではなく、シルエットとしては昔の足軽のようで泥臭いし、局所を見ればそれは明らかに工業生産品の無骨さを持っている。

「おふたりにこれをお渡しするよう言われています」

 中で待っていた若い兵が、カートリッジ式の光学ディスクを差し出した。二枚ある。南田と峰國に一枚ずつ。そして、龍も同じ数だけある。何を期待されているかは自明だった。

「やる……っきゃないか」

「そだね、誰のお膳立てかだか知らないけど」

 ふたりはそれぞれに光学ディスクを、パーソナルディスクと呼ばれる龍の鍵代わりを手に取った。自信はある。これに関しては南田も不安は抱かなかった。他ならぬこの龍に乗るために、通常のカリキュラムを離れて数々の特訓と適性試験を受け、それらをくぐり抜けて来たのだから。

 南田ばかりではない。受けた場所は違えど峰國も同じ課程の出身者である。それは工兵機の背後にBFGモジュールを視認し、その正体を看破した時点で、お互いに気づいていた。あのときトラックに載せられていたのは、龍のBFG搭載部位である胸部そのものだったが、ただ軍人というだけではなかなか見抜けない。龍の姿かたちを細部に至るまで嫌と言うほど目に焼き付けてきた、そんな機兵操縦課程修了者だからこそ一目で判別できたのだ。

 南田は龍の膨れた腹部、コクピットへと入った。パーソナルディスクをスロットに挿入して、各種安全装置を解除し、システム起動。

<Starting HAOS......>

 学校の情報端末より格上のオペレーティングシステムが最新鋭の演算処理装置を使役し、速やかに巨人の神経網を構築する。ステータスモニタ及びコンソール上の表示灯、オールグリーン。問題はない。

 オートで立ち上がらせることができたが、南田はセミマニュアルモードにシフトした。オートでは倉庫の天井を壊してしまう。巨人の扱いは非常に繊細だった。局面次第では、指の一本一本を直接入力で制御する必要がある。乗俑機乙種を操縦できるくらいではこの操作は真似できない。手先の器用さやモニタに出力される情報を読み取る能力のほかに、動と静の力学を理解しその知識を機兵の一挙手一投足にフィードバックできばければ適性試験はパスできない。南田はそれをパスした。ゆえに龍を狭い倉庫内で前傾姿勢のまま立ち上がらせ、横に保管してあった武器を手に取り、他に保管されている物資や壁に触れることなく、もちろん周りの兵たちも踏み潰すことなく、外へと出ることができた。

「どっちを優先する? 連絡? それとも……」

 南田のすぐあとに続いて出てきた峰國の龍から、通信。龍は二匹の蚕が玉繭を作るのと同じように、互いのバルムンクフィールドを共有することで、至近距離での電波による通信を可能としている。

「『それとも』のほう。増援はすぐには来られないだろう。のんびりしていると、北嶋大尉のように基地内で抵抗している人たちの危険が増える」

「それはかわいそうだ」

 この状況に似つかわしい日本語とは思えなかったが、きっと峰國の日本語の教師が悪かったのだろうと思うことにして、南田は峰國の思いやりの精神だけを情報として格納する。

 南田は機体を塚入橋、そして猿之門基地のある方角へ向け移動させた。弾薬庫の駐留部隊は、半分が見て見ぬふりで、残る半分が大きく手を振ったり敬礼したりして二機の龍を送り出してくれている。

 道路へ出たところで操縦モードをセミマニュアルからセミオートへ変更し、生まれた余裕で索敵と武器管制システムの操作に着手。レーダーはノイズしか返さないのですぐに停止。熱源と動体の探知を優先して監視するため画面表示をカスタマイズ。南田の正面にある一番大きなディスプレイには、それまで巨人の視点という以外はいたって普通のカメラ映像が映し出されていたが、それにサーモグラフィが重ね書きされる。風景と異なる速度で移動する物体が現れるとこれも強調表示されるようになっており、乙種クラスの乗俑機の接近を見通すことはない。近づいたところで、倉庫から一緒に持ち出してきた龍用の携行武装、二二式機兵用電磁槍「雷紫電(ライシデン)」の一撃を見舞えば、勝負はつく。

 しかし、ほぼ基本演習通りの操作で事足りる対乗俑機戦は、結局のところ発生しなかった。塚入橋まで戻った南田たちを、否、二機の龍を認めるや否や、乗俑機と装甲車、そして生身の兵士たちは完全に戦意を喪失。持ち場を放棄して逃げるか、あるいは口を半開きにしてその場で巨人たちの行進を見上げるばかりだった。

 追い散らすこともできたが、南田はそれを選ばなかった。訓練では専らシミュレータを使用していたので、実機での電池の減り具合が、体感として掴めていない。基地の解放こそが主目的であり、それまでにエネルギーを浪費するのは得策ではなかった。――というのは言い訳だ、と南田は橋をあとにして自認する。

「竜時、非暴力って省エネにもなるんだね」

「だろう? 実用新案、申請しようかな」

 交わした軽口はそれだけだった。猿之門基地まで、機兵のスケールでいえばたいした距離ではない。相手は近い。中学校の周辺を哨戒していた龍、そして北嶋の情報によればおそらくもう一機、叛乱軍の手に渡った龍が存在する。乗り手をどこから用意したのかはわからないが、一機を動かせたということは、もう一機も動かせると見ておくのが妥当だった。つまり二対二。しかし相手がばらばらのところにしかければ、二対一の優位な条件で一機目を倒し、残る一機に対しても二機でかかれる公算が大きくなる。絵に描いたような戦術の基本である。それを実践する羽目になった南田は、今朝の鷹山ではないが、テストを受けているような気分になった。

 猿之門基地のある丘に近づいても、哨戒中の龍とは出くわさなかった。有視界での確認は勿論、互いのバルムンクフィールドの存在を感知する相対バルムンク反応センサーでも、他の龍の存在は感知されなかった。

「別方面に出ているのか、補給に戻っているのか……。わかんないけど、どっちにしてもチャンスだな。峰國、猿之門基地の施設には詳しいのか?」

「よくは知らない。けど、オートマチックの迎撃システムはないよ。大丈夫」

 そんな設備のある基地など南田はマンガやアニメでしか見たことがない。

「冗談、冗談。見取り図をちょっと覚えているよ。機兵が入りそうな格納庫が、敷地の西側にあったと思う。こっち側には広場があったな。演習場かも。基地司令部はその真ん中、だったような」

「それだけ覚えていればじゅうぶんだ。反対側に回り込んで、格納庫を最初に押さえよう」

「足音でそろそろばれるよ」

 それは道理だった。峰國は軽トラックに乗っていながら、霧に隠れて見えない龍に足音で気づいたのだから。

「じゃあ、突撃だ。ロケットを使う。タイミングを合わせよう。三、二、一……」

「ダー!」

「それ違うだろ!」

 思わずつっこんでしまってため、南田は危うく舌を噛むところだった。龍の背中に搭載された大型のロケットエンジンが轟音を放ちつつ龍の自重を相殺し、マイクロマシン製の人工筋肉がばねとなって機体を大きく跳躍(ちょうやく)させる。丘の上までひと跳び。着地したのは、白塗りの塀と黒い鉄条網で外界と仕切られた猿之門基地の敷地内。

 南田は右を警戒。峰國は何も言わずとも左を担当してくれる。

「敵対目標なし」

「同じくなし」

 相手方の龍はどちらも出払っていたか、格納庫で補給中なのだろう。南田がそう推定して安心したまさにそのとき、コクピット内で警報音が鳴り響いた。左方警戒。

「峰國!?」

 向き直ると、脇にいたはずの峰國機が消えている。代わりに少し離れたところに、南田機へと飛び掛ってくる別の龍の姿があった。南田機と同じく、その手には二股の槍、雷紫電が握られている。

 同じではない、の意だったのだ。南田は峰國の日本語が完全でなかったことに気づいた。つまり、敵対目標あり。

 今更わかっても遅い。相手方の突き出してきた雷紫電の切っ先を、南田は同じ武器の胴で払い、勢いあまって自機がバランスを崩したのに気づくとすぐさま背部ロケットに点火して横に飛びのいた。そして舌打ちが出る。

 ――出荷直後の機体とはこのレベルか。

 南田たちが訓練を受けたシミュレータでは、OSは前線のパイロットたちが覚えこませた戦術パターンを学習していたから、雑な操作でも高度な体捌きをやってのけてくれた。しかしそれは理論上そういう対応も可能、というだけのことだったらしい。現に乗り込んだこの実機の動作パターンは、シミュレータに比べるとずいぶんとお粗末に感じられた。ハードウェアのレスポンスはシミュレータのデータ値と異なる、ということかもしれない。

 もっとも、悪条件はどちらも同じだった。襲ってきた龍も、その場で一旦姿勢を立て直している。ゼロ点出し。その行動の遅れは南田の反撃を許した。

 突き。相手も同じ高さと角度で雷紫電を突き出した。プリセット選択された両者の攻撃は当然のように空中でかち合い、二股の雷紫電が互いを咥え込んで拮抗(きっこう)する。出力も同じである。

 その膠着(こうちゃく)の間に、南田は峰國の龍を探した。相対バルムンク反応センサーは近すぎて焦点がぼやけるので、目視で走査。南田の視線を追って龍の首が旋回し、すぐに、塀際で睨み合う二機の龍を画面内に捉えた。あちらも膠着状態。結局二対二の勝負になってしまい、彼我の戦力差はゼロ。ご丁寧に携行する武器までお揃いなのだ。

「あとは腕の差ってことか!」

 南田は雷紫電をいったん引いた。相手が体勢を崩してくれることを期待したが、楽観むなしく、きちんと足を前に出して重心を逃さない。そして南田機の雷紫電を跳ね上げようと狙ってくる。南田は咄嗟に地面をターゲットに指定して自機の雷紫電をそこへ突き刺し、先端を掬(すく)い上げられるのを防ぐと、空を切った相手の雷紫電が元の位置に戻る前に、がら空きになった懐へとタックルを見舞った。

 コクピットまで響く鈍い衝撃。本来の操縦服を身につけていない南田は、肩にベルトが食い込む痛みに歯を食いしばった。コンソールに減速無しで突っ伏して額を切るよりはよほどマシだった。

 相手は南田の行動を予測しきれなかったらしく、尻餅をついて倒れていた。――というよりは、座っていた。建物のひとつが椅子代わりに下敷きになっている。倒壊はしていないが、柱や梁の数本に皹(ひび)は入っただろう。もしかすると北嶋のいる立て籠(こ)もっている建物かもしれない、と想像して、南田は追撃をためらった。ここで戦えば捕まったり隠れたりしている将兵に被害が及ぶ。

 迷っているうちに相手の龍は起き上がり、雷紫電を構え直して南田機の首筋を狙ってきた。頭には各種センサーのみならず主演算装置が積まれており、急所である。慌てて後退。眼前で青白いスパークが迸(ほとばし)る。なんとか回避できた。再放電までは数秒の時間がかかるから注意するように、との訓練中の指導を思い出し、南田は契機を逃さず相手の右肩にターゲット指定して操縦桿のトリガーを引いた。雷紫電の二本の先端、正負の電極が肩関節の軸を挟みこみ、高圧電流を流し込む。電撃を浴びた龍の右腕はだらりと垂れ、雷紫電が手から抜け落ちて、地面に転がる。

 再チャージの進行を表示する目盛りを視野の片隅に意識しながら、南田は次の攻撃点を選ぶ。相手がそうしたように、首を狙えば、龍の機能停止はほぼ確実である。しかし唯一の武器を失った龍に対してそこまでの打撃は過剰ではないか、という葛藤(かっとう)が生じた。もとよりこの龍は亜細亜連邦軍の財産であり、この後回収され、本来の目的通り国防のため、対啓示軍のため運用されるはずなのだ。ここで必要以上のダメージを与えてしまっては修理に余計なコストが発生するし、修理を待つ間、部隊の編成にも難が出るだろう。龍の生産数は需要に対してまだまだ少ないのだ。では、脚ならばどうか。股関節などは。それならば、交換は比較的容易でありながら、ここでの行動を封じるという目的はしっかりと果たせる。動きを完全に止められるわけではないが、三撃目までの時間はもちろん、コクピットハッチを外からこじ開ける時間も稼げるだろう。南田は龍の左足の付け根を狙って再度トリガーを引く。同時に警報音。

 トリガーは確かに引いた。攻撃実効命令は龍の腕を動かし、そして雷紫電にもコクピットからマニピュレータを介して放電のトリガー信号を伝達したが、雷紫電の突き出された先に標的は存在しなかった。南田自身が、そうした。上半身が攻撃を実行する一方で、下半身は警報に促された南田の回避操作に従い、標的から、龍から飛び退るよう作動したのだ。

 警報が南田に知らせた脅威は、いま、眼前にあった。無力化しそこねた龍と、南田の龍との間に、また別の龍が割って入っている。峰國と対峙(たいじ)していた機体、と推定されたが、南田に峰國の安否を確認する暇はない。味方を助けに入った龍は、南田機の足元を狙って雷紫電を薙刀(なぎなら)のように振るった。反射的に、南田はこれを回避すべくさらに後ろへと下がった。が。

 予期せぬ衝撃で後頭部を座席にぶつける。視野が大きく動いた。相手の姿が消えている。モニタは霧ばかりの虚空を映し出していた。後ろにあった施設につまずいたのだと南田が悟ったとき、白一色の視界に雷紫電の矛先がにゅっと姿を現した。槍の分岐点近くに設けられた安全用の表示灯が、チャージ済み、放電直前の状態を示している。

「ここまでだ。おとなしく武装解除しろ。軍の資産を傷つけたくない」

 強制的に共有されたバルムンクフィールドのなかで、無線が相手の声を届ける。全く立場が逆転してしまったが、南田は苦笑も歯軋(ぎし)りもしなかった。それどころでない驚きが、南田の思考を停止させていた。

「どうした、早く武装を解除しろ。おまえたちの叛乱は失敗に終わったんだ。猿之門基地は俺たちが完全に奪還した」

 南田の沈黙に苛立った様子で、降伏勧告が続く。なんとか作動を再開した南田の思考回路は、その情報入力に対してますます混乱する。自分は叛乱を鎮圧するためにここへ来たはずだった。どこで何を間違え、何が間違えられたのか。

「――待て、待ってくれ」

 送信スイッチは押せたが、声が裏返った。

「武器を放してから言え!」

 雷紫電の先端がますますアップになる。相手は気が立っている。落ち着けなければ、理解させなければならない。しかし南田とて動揺しているし、まだ何がどうなっているのかを完全に把握できてもいなかった。

 見えていた二つの先端が視界から消え、機体に軽い振動が響く。龍の首を挟まれた。相手が待つのをやめたことを南田は感じ取った。相手の指はトリガーにかかっている。

「坂元、俺だ!」

 思いついた最短の説得の台詞を南田は叫んだ。しかしそれは遅かった。青白い閃光が画面中を迸る。それを見たのを最後に、南田は失神した。



- 10 -


 気がつくと南田は医務室のベッドに寝かされていた。病院ではないとわかるのは、部屋の造りが訓練中に世話になった基地の医務室に似通っているからで、薬品の臭いもやはりよく似ている。

 髭面の軍医は南田の気配に気づいてどこかへ電話をかけた。内線だったらしく、一分と待たずにドアがノックされた。入ってきたのは眼鏡をかけた若手将校と、続いて鷹山、坂元、そして李峰國(リー・フェングォ)である。四人は南田のベッドのそばに並んだ。

「気分はどうだい、南田くん」

 眼鏡の将校に聞かれてはじめて南田は自分の体の状態を意識する。

「少し、痺れを感じます」

 そう申告すると、パーティションの向こうで軍医が笑った。

「そいつは気のせいというものだ。君は別に、感電して気を失ったわけじゃないのだからね」

「え?」

 南田は飛び起きた。その動作に何ら支障は無かった。

「緊張のしすぎだろうってさ」

 鷹山がにやにやと笑っている。あのとき迷わず放電しておけばよかったかもしれない、と南田は思う。そうしていれば、鷹山の髪にこれ以上のカールがかかるものかどうか、確かめられただろう。基地に乗り込んでから最初に南田が相手をし、とどめの一歩手前まで追い詰めた龍(ロン)は、鷹山が乗っていたものと思われた。少なくとも、その助けに入ったのが坂元であったのは声からして明らかだった。

「悪かったな、竜時。全然気がつかなかった」

 坂元が詫びるが、その視線の先には誰もいない。前からそういう男なので南田は気にしなかった。

「いや、よく確認せず交戦に入ったのは俺も同じだ。――奇襲が最善だと思ったからな」

「そうらしいな」

 峰國からすでに話は伝わっているようだった。どれくらい寝ていたのだろうかと気になって時計を見ると、すでに夕刻だった。

 時計から目を戻す途中、眼鏡の将校と目が合う。

「謝らなければならないのはこちらのほうだ。こんな騒動になってしまって、すまない」

「あなたは、北嶋大尉?」

 少なくとも服にはそう刺繍(ししゅう)されている。

「ああ、紹介が遅れたね。僕は……、私は北嶋三朋大尉。龍の運用整備を束ねるためにつくばから転属になった。これからよろしく頼むよ」

「これから?」

 と、いうことは。南田は憶測のひとつが正しかったことを知る。

「私もきみたちも、今日付けでこの基地に編成された独立機兵部隊の一員だ。何もかも極秘だったから、辞令は明日以降に渡されることになるだろう」

 南田の不安はこれでひとつ消えた。配属先の存在自体が極秘である以上、南田たちの基地への移動にも仮初の任務を与える必要があった、という説明を北嶋から受ける。しかし南田が聞きたいのは寧(むし)ろ別のことだった。

「叛乱は? 阿賀少佐の叛乱はどうなったのです」

 南田の真剣な質問にもかかわらず、その場の全員が噴き出した。

「ああ、あれは本当にすまなかったよ、南田くん。僕がまんまと騙されていたのを、きみにも伝染させてしまった」

 騙されていた。それは知っている。猿之門中央小のアクセスポイントで最後に受信したメッセージがそれだった。

「やらせだったんだよ」鷹山が笑いを堪(こら)えながら説明を始める。「北嶋大尉以外、この基地にいた幹部はみんなグルだったんだ」

「叛乱の?」

「そいつが嘘なんだよ。大尉が騙されてたっていうのはそれだ。基地司令代理も、機甲化歩兵部隊の阿賀隊長も演技をしていたんだ。この基地に向かう俺たちみたいなのが、誰かに狙われているっていうシナリオでな。本当はそんなのいやしなかった。俺たちが叛乱軍だと思っていたのは、他でもない俺たちを保護しようと奮起した、機甲化歩兵部隊の下っ端だったってわけだ。あっちも上官から騙されていたみたいだな。こっちはそれであちこち傷作ったんだから、参るぜ、まったく」

 つまり、工兵機を持ち出していた機甲化歩兵部隊の立場からすれば、南田たちの連行を妨害した久留たちの行動こそ隊員の拉致行為に見えたのだ。不埒(ふらち)者相手に強気に出た機甲化歩兵部隊を見て、南田たちはますますそれを叛乱と信じ込んでしまった……。

 ――いや、それだけではなかった。

 南田が基地で叛乱が起きていると決定的に信じたのは北嶋との交信のときだが、それ以前に、その方向に認識を誘導した人物がいたのだった。

「久留は、基地が制圧されたなんて情報をどこから聞きつけたんだ」

「バロッグがあたりをすっぽり包んでしまう直前に、無線で連絡があったんだと。そのままノイズで通信できなくなったから、情報の発信元は確かめられなかったらしいんだが、久留は状況からしてそれを真実と判断した。運の悪いことに、久留が基地の手前で合流するはずだったメンバー三人が事前に機甲化歩兵部隊に保護されていて、合流できなかった。それが久留に間違いを起こさせた」

「そして俺たちにも、だ」

 坂元はまだぶすっとしている。南田の乗っていた龍を壊した手前、格好がつかないのだろう。しかし鷹山にばかり説明させてはいられないのが坂元の性分だった。

「竜時は、俺たちがいつのまに基地で龍に乗り込んでいたのか、まだ不思議でいるだろう」

「ああ。中学のほうを龍がうろついているのまでは知っているけど」

「その、中学に現れた龍を、俺たちは拿捕(だほ)した。俺が投降するふりをして機体を降着させて、隙を見て機体に取り付いた久留が、外部からのハッチ強制開放ボタンを押した。あとは、まあわかるだろう。そのまま機甲化歩兵部隊を叛乱軍と誤認したまま基地に押しかけ、制圧を行った。BFGがあるぶんこっちが圧倒的に優位だったよ。気持ち悪いくらい簡単だった。それで調子に乗ってしまった、のかもしれない。久留が北嶋大尉たちを電算室から連れ出して、誤解について知らされているころ、俺と鷹山はまだ敵が残っているに違いないと信じて龍から下りなかった。俺たちは猿之門に機兵部隊が新設されようとしていることには気づいていたから、それにしては龍が二機だけでは少なすぎる、まだ何機か叛乱軍が持ち出しているか、搬入前に押さえたはずだと」

「それは、当たらずとも遠からずだったね」と、北嶋。「実際、李くんと南田くんは弾薬庫に隠されていた龍に乗って来た。僕はそんなところに龍を隠してあったとは聞いていない。工場からそこまで運んで来たなら、この基地までは目と鼻の先だ。誰かが独自の意図の下に、猿之門基地に搬入されるはずだった二機の龍を掠(かす)め取り、弾薬庫に隠したのだろう。そして多分、久留くんに勘違いをさせた偽情報も、同じ犯人、つまりこのドタバタの仕掛け人が流したものだろうね」

 優しげな口調ではあるが、瞳が笑っていない。北嶋は仕掛け人が誰なのか見当がついている様子だった。

「仕掛け人……」

 南田もひとりの男を思い浮かべる。彼は弾薬庫に行けと指示を出した。そこに龍があることを知っていたとしか思えない。しかし、何故。

「北嶋大尉。そもそも、これはいったい何の目的で行われたのですか」

「テストだ。入隊の」

 答えたのはベッドの周りの誰でもなかった。髭の軍医でもない。この野太い声は、それ相応の巨体から発声されているはずだった。

「箕輪さん」

 汚い金髪にサングラスの巨漢が、開けたドアに寄りかかりかっこうをつけて佇(たたず)んでいた。その髪が、少し、左にずれている。

「おまえはいつまでそんなものを付けている気だ」

 北嶋が険のある声を出した。これまで人を「くん」付けで呼んできた温厚な紳士と、とても同一人物とは思えない。

「今、付けたんだ、北嶋。倉知の婆さまと堅物の阿賀にずいぶん絞られてきたからな。さすがにあそこでこれを付ける勇気はないぞ」

 箕輪の喋り方も、書店で会ったときからすれば明らかに違っている。もっとも、南田は段階的に変化を感じていたが。

「無意味だろう。さっさと外せ」

 北嶋は明らかに箕輪に対して冷たい。箕輪は、そう名乗っていた男は、やれやれと呟きながら頭と耳元に手を伸ばす。サングラスと金髪……のかつらが外され、素顔が現れる。見たからといって驚きのある顔つきではなかった。体格から想像できる、実に暑苦しそうなツラである。変装前後の比較写真を見せて街頭アンケートを実施すれば確実にそういう答えが多数を占めるだろう。

 しかし南田にとって、そして同じ士官学校を出た坂元と鷹山にとっても、重要なのは「そんな顔」ではなく「その顔」だった。箕輪の素顔を見た南田は、もはやベッドの上になどはいられなかった。裸足のまま床に下り、とりあえず敬礼を取る。

 髭の濃さなど多少は違うが、士官学校で何度も写真を目にした、十二期上の危険人物と明らかに同一人物である。特殊部隊、外廓聯にいるらしいと御船が言っていた。あれについていけば大丈夫だと、そう苦々しげながらに教官が太鼓判を押した風雲児。その名を知らぬ者は日本の士官学校にはいない。たしか、現階級は大尉。

「え、江藤博照(ひろてる) ……大尉殿!」

 階級付きで呼ばれた箕輪、江藤は、ぼりぼりと頭を掻いて少しばかり照れ臭そうに笑った。

「ほらよ、やっぱり変装しておいてよかったじゃないか」

 それを聞いた北嶋はベッドのそばを無言で離れ、つかつかと江藤に歩み寄る。そして、持っていたA4用の厚手のバインダーで江藤の頭に容赦(ようしゃ)のない一撃を加えた。

「いてぇ! いてぇよ北嶋!」

「おまえは、下手をすれば死者が出ていてもおかしくないんだぞ! 現に建物ふたつ壊して、周辺住民の皆さんにも不安を与えて!」

 よくのほほんとしていられる、と続けた北嶋の声はもう元気がない。よほど呆れすぎたのか、バインダーを手近の棚に預けて両手で頭を抱えている。

「おいおい殴られて頭が痛いのはこっちだぞ、北嶋。建物のことなら心配するな。あれは取り壊し予定の区画だった。倉知大佐に聞いてみろ、本当だ。住民も普段の訓練どおり避難しただけだで、特に困ったことにはなっていないはずだ。なにしろ、今日はもとから避難訓練の日だったからな。もちろん、小中学校の校長、PTA会長、市議、警察や役所にも、俺が事前にネタばらししておいた。みんな、若手が迫真の演技で訓練をやりに来たとしか思っていないぞ。前司令の人脈に感謝感謝だな」

 南田もまた頭を押さえたくなった。南田たちに同乗の案内人がつかなかったのも、三番目の中継地点で銃を回収されたのも、もしかするとビール瓶の投擲を受けたのも江藤の差し金だったのだろうと悟った。そして、猿之門でどうして叛乱など可能だったのかという疑問にも答えが出た。叛乱はバロッグ発生という偶然に支えられたリスキーな計画だと思われたが、実は、バロッグなど発声する必要は無かったのだ。おそらくはよその基地との通信回線もすべて江藤が手を回し、通じないか、話が行っても訓練だと思われるような態勢になっていたのだろう。考えてみれば当然だった。誰も、予報にもないバロッグの発生を前々から予見できるはずがない。

「さて、北嶋の興奮も冷めたことだし、竜時も起きたようだし、そろそろ始めるから格納庫に集合しろ」

 江藤は髭の軍医にラフに挨拶して、出て行こうとする。

「待ってください、何を始めるのですか」

 北嶋が軍医に薬の相談を始め、残る若者が呆気にとられているなか、南田はなんとか声を上げることができた。箕輪としての江藤に、いちばん長く接していたからか。一回りも歳の違う、伝説の先輩将校としての江藤博照には決して声をかけられなかっただろうと思いながら、南田は数歩前へ出て、何を、と繰り返した。

「靴を履け、竜時。――テストをやったんだ。結果発表に決まっているだろう。一分で集合。遅れた者には懲罰だ」

 言い終えると、手の多機能時計のスイッチを押し、ひとり先んじて駆け出した。どう見ても、全力疾走。

 四人の若き曹長は血相を変えてあとを追わなくてはならなかった。



- 11 -


 その日の夜。

 あまりに血色がよろしくなかったため医務室に閉じ込められていた北嶋は、ようやく髭の軍医から解放された。迎えに来たのは、軍服に着替えた江藤である。

「おまえが隊長として来るだなんて、俺はちっとも聞いていなかった」

 給湯室で淹(い)れたコーヒーを啜(すす)りながら、北嶋は椅子の隣に座った級友の横顔を見た。

「内示は、一ヵ月ほど前にあったんだ。まだ赤龍隊にいた頃だ。それから近衛軍のデスクワークに移って、そして期日を待った。左遷(させん)同然の仕事だったよ。カムフラージュだ。この人事は軍と議会のかなり微妙な都合のすり合わせの結果だ。妨害は実際、進んでいたよ。抑止の関係で倉知や阿賀には早めに動いてもらっていた。が、それも最低限に収めた。情報ってやつは、知らせた途端に、漏れる可能性を考えにゃならん。だから今日まで明かせなかった。おまえといえども。すまん」

「いや、久しぶりに会えて嬉しいよ、と一応言っておく」

 北嶋がこの旧友と実際に会うのはしばらくぶりだった。啓示軍(オフェンバーレナ)が亜細亜連邦領に攻め込んでからというもの、メールすらまともに交わしていなかった。それは多分に、江藤が機兵ばかりで編成された特殊部隊、外廓聯の創設に深く関与していたためだ。日本で機兵の開発と整備関係の人材育成に明け暮れていた北嶋には、それを使う実戦部隊とコンタクトを取る機会が殆ど無かった。

「で、どうだった、試験の結果発表は。合格辞退なんて話にはなっていないか」

「そんな奴いるかよ。外廓聯に続く、正規軍では初の独立機兵部隊だぞ? 給料だって外廓聯と同じレベルで、そのうえちゃんと人間扱いされるんだ。これ以上の待遇はない」

 新設機兵部隊「黒龍隊」の隊員選抜試験。それが今日起こった馬鹿馬鹿しい騒ぎの正体だった。隊員候補の有事への対応を観察し、特に幹部候補には難しい選択を迫る。バロッグの発生はたいへん都合が宜(よろ)しかった、と江藤は笑う。おかげでBFGや機兵の役割と性質を実践で学ばせることができた、と。

「黒龍隊の設立目的は連邦首都、東京の防衛。外廓聯の三分隊、白龍隊、青龍隊、赤龍隊がすべて大陸で遊撃に明け暮れている以上、遅かれ早かれ誰かが言い出すことだったが、結局は派閥争いの道具として無理矢理産み落とされた感じだな。もっとも、あの尻の青いガキどもはまだこの厄介の全貌(ぜんぼう)を知らんが」

「知れば後悔するかもしれない」

「後悔をさせるつもりはない。俺は……」

 江藤はコーヒーを一気に飲み干した。

「この機会を逃すつもりはないんだ。大事な種だよ。しっかり育てる。もとより選抜もしてある」

 江藤は懐から畳んだ紙を取り出した。履歴書のようなものが束になっている。おそらくここの他には戦略軍参謀本部をはじめ数えるほどの場所にしか存在しないデータ。

「最初からおまえの意思で人選してあったのか?」

「まさか。俺ほどの個性派は一次選抜リストにはおらんかった。思想的にもニュートラルな奴ばかりだし、そうでなければ二大派閥が互いにウンと言わんだろう。俺はそのなかでふるいをかけただけだ」

 これは最終選抜リストだ、と江藤は手中の紙の束をひらつかせる。

「ふむ。で、結局、試験は全員合格にしたのか?」

 江藤は灰皿の上にリストを畳んで置くと、それにライターで火をつけて、にっと笑った。

「俺やおまえを入れて四十名。人数はこれの枚数と合っている。ちゃんとリスト通りの人間が来たかどうかは――おっと、もう確かめようがなくなったな」

 燃えていく紙の束を、北嶋はそっと眼鏡を外して、裸眼で見つめた。ぼんやりと、ゆらゆらと、光が揺らいでいる。江藤が抱いているらしい野望もこんなものかもしれない。ちょっと強い風が吹けば消えてしまいそうな。水をかけるものもいるだろう。それでも江藤はやる気でいる。そこに北嶋を巻き込んだのは、江藤の選択だ。

「変わらないな、おまえは。手伝ってくれだなんて、口に出して言ったりはしないんだ」

 初めて会った子供のときから、そうだった。

「いや、俺は変わっただろう。そしてこれからも、変わるつもりだ。俺と、世界の最適化が終わるまで」

「おまえの夢の終わりを見届けろって? 勘弁してくれ、俺には愛する妻子があるんだ。夢想家には付き合ってられん」

「一部始終を見ろとは言わんさ。――ただ、最期に挽歌を送ってくれ。そして、ときどきでいい。歌って子供に語ってくれ。俺のやろうとしたことを」

 江藤は空になった紙のカップを握り締める。カップは一瞬でひしゃげてしまった。人の命も、同じように脆(もろ)い。それは前線で戦ってきた江藤がいちばんよくわかっているだろう。江藤は覚悟を決めている。その決意は心強い武器にもなるが、しかし己の可能性を縛る鎖にもなると北嶋は思う。江藤にはそんな鎖はいらない。そんなもので縛ったら、生きながら特大のハムになってしまう。誰も食いつきはしない。つまり、無益だ。そうはならないように努力するのが公共の福祉だろう。

「頼まれてやるか、そんなもの。おまえの夢の終わりは、僕と……、俺とおまえで一緒に見届ける。黒龍隊の挽歌は、男声二部合唱だ」

 北嶋は眼鏡を戻した。火はまだ燃えている。いつかは消えると決まっているが、まだ、しっかりとした輪郭をもってその存在を主張しているのだ。

「練習、せんといかんな」

 江藤はよく通る声を持っているが、歌うのは下手だった。

「ゆっくりやればいい。俺が手伝ってやる」

 ありがとう。江藤は北嶋を昔の愛称で呼ぶ。北嶋にとってはそれが何よりも信用できる符牒だった。




 西暦二〇二二年十二月三日。

 亜細亜連邦軍は外廓聯に次ぐ独立機兵部隊を編成した。

 極東方面軍近衛軍第二七独立連隊所属、第四機兵大隊。公式通称、黒龍隊。

 彼らの記録はここから始まる。



――続く――