黒龍隊の挽歌 第三話

雪中の難



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 辺り一面の白。

 これはとうとう、シミュレータが過度の使用に堪えかねて壊れたか、と南田竜時(りゅうじ)は期待――もとい、危惧した。しかし、故障などではなかった。よく見れば画面の風景は雪原である。

「これはロシアか北海道でも想定しているんですか」

 と、江藤に問う。今日の江藤はシミュレータに乗り込んで同時出撃していた。リーダーが江藤。それに南田、群山(むらやま)、杜洋伸(ドゥ・ヤンシェン)が従って、啓示軍(オフェンバーレナ)の関東攻撃に備えた戦闘訓練を行っている。場所変えはこれで二度目。最初は東京風の市街地、次が富士の樹海、三番目が霞ヶ浦駐屯地。いずれも攻撃を受けておかしくない場所だった。しかしこの雪原は、いったいどこか。何なのか。

「猿之門だぞ、ばか者め」

 江藤は龍(ロン)で仮想空間内を先行しながら、ついてこい、と合図を送っている。南田はとりあえず従って進み、残る二人も近くにいることをセンサーで確かめて、改めて訊(たず)ねる。

「全部雪に埋まってしまったっていう想定なんですか」

「手抜きという言葉を使わずに説明すると、そうなるな」

「いや、むしろ作らなくてもよかったんじゃないですか、こんなもの」

 南田は大雪原を見渡して、溜め息をつく。

「そういうな、せっかく作ったんだから。実弾演習をできない以上、シミュレータに頼るしかない」

 だからってこんな大雪はもうたくさんです、という文句を南田は飲み込む。百五ミリライフル砲、火縄(ヒナワ)の使用は、たしかにもっと練習しておきたい。

 センサーが前方に機兵らしき移動物体を探知。やや待つと、二機の機兵であることが特定できる。バロッグは薄い。撃てる距離だが、撃たれる距離でもある。

「教えその一。先手必勝だ」

 江藤は予告なく発砲。南田は慌ててロックオンし、トリガーを引く。

 ――当たったか?

「その二、すぐに退避」

 着弾を見届けることなく江藤は横へ移動していた。南田ももたつきながらそれに倣(なら)うが、百メートル隣で同じようにしていた群山の龍が、敵の反撃を受けて吹っ飛んでいた。

「遅いからだ。――その三、目には目を」

 江藤は転がった先ですぐさま機体を固定し、第二射。敵機のバルムンクフィールドが消え、サーモグラフィに似た相対バルムンク反応センサーの画面上では、赤かった塊がどんどん青くなっていく。直接画像からはわからないが、直撃を与えた模様。杜の追撃が入って、今度は映像でわかる爆発が起こる。一機撃破。

「その四、叩けるときは徹底的に」

 倍返しにしたら前項と矛盾するだろう、ハムラビ法典をなんだと思っているんだ、と内心で悪態をつきつつ、南田は龍をジャンプさせる。一気に距離を詰め、確実な打撃を与えるという発想。しかし。跳んだところへ弾が来た。対空機関砲。機体に着弾、装甲は耐えたが、武器をやられた。

 慌てて肩部ロケットを噴射して軌道変更。無事に着地し、身を伏せると、江藤に笑われた。

「その五、調子に乗りすぎるな、だ。左右に展開。じわじわ追い込む」

「了解」

 と、応じたところで突然画面が真っ暗になった。走行に合わせたシミュレータ筐体(きょうたい)の揺動も収束する。そのまま数秒待つと、エラー画面が表示された。

<通信不良。ネットワーク接続を確認してください>

 どうした、と江藤が騒いでいる。声が遠い。筐体を出たようだった。南田も手足の操縦用端子を外して、外へ出る。

「鷹山曹長の龍がこけて、中継ボックスが潰(つぶ)されたみたいです!」

 外を見てきたらしい矢俣(やまた)が、江藤に向かって叫んでいる。あの間抜けめ、と天を仰いだ江藤が、タラップを駆け下りて行く。同時に、第五実験棟のスピーカーから藤居の声が聞こえてきた。

「すみません、少佐。自分のミスです」

 これを聞いた江藤、腕時計型の通信端末に向かって、大声を上げる。

「おまえは鷹山を操っていたわけではないだろう。それは鷹山のミスだ。――おい、鷹山、聞こえているか?」

「聞こえてます、すいません、隊長」天井から、今度は鷹山の声。「足場をミスりました。自己診断完了。機体ダメージは問題ないようです」

「ようし、施設科が駆けつけるまで待機。来たら復旧作業を支援だ」スイッチオフ。「竜時、信(まこと)、洋伸、休んでいいぞ。俺は様子を見てくる」

「ラジャ」

 江藤が実験棟を出て行ったあとを、南田は群山と杜が出てくるのを待って、追いかける。江藤に付き合おうというのではない。ただ、出入り口がひとつしかないので自然とそうなるだけである。

 外へ出る。そして四人は目を細める。――眩(まぶ)しさのあまり。

 辺り一面の白。

 猿之門基地は雪に埋もれていた。

 九日の未明から急に冷え込んだ関東一帯は、もうかれこれ三日にわたって記録的な降雪に見舞われている。最初こそ珍しい積雪を楽しめたが、二日目の午後になってもさっぱり降り止まない天候を前に、最も暢気な部類の峰國(フェングォ)や朝井、杜洋伸らも閉口しはじめた。なにせ総出で雪かきをしなければ、外への押戸は開けられないし、車も道を走れなくなっている。兵舎や格納庫の屋根はそうそう積雪ごときでは潰れまい、と高(たか)を括(くく)っていたのも昨日までで、北嶋の試算の結果、そう笑ってもいられないことが判明。龍で基地内の建物という建物を巡り、屋根に積もった雪を払って回った。第五実験棟の入口前も、人海戦術で除雪したばかりなのだが、南田たちが目にしたのは、来たときの足跡も見えなくなっている見事な白の平原だった。

 そこへ点々と残された唯一のノイズは、ついさっき出て行った江藤の足跡である。が、それも途中で途切れている。その消失点に江藤の姿はない。なぜなら、龍が、江藤をつまみあげていた。

「お運びします」

 藤居の声だった。基地内で龍の操縦訓練を仕切っていたのを、中断して来たらしい。さすがの江藤も機兵の指に突然摘(つま)み上げられることには慣れていないようで、しばし獣のような咆哮(ほうこう)をあげていたが、藤居の声を聞いて落ち着きを取り戻す。

「おまえか、びっくりさせるな。――竜時、おまえたちは真似(まね)するんじゃないぞ、危ないからな」

 反対の掌(てのひら)へと下ろされながら、江藤が南田たちをふりかえって叫んだ。

「やれと言われたって御免(ごめん)こうむるっつの」

 聞こえないように、南田は呟(つぶや)く。

 機兵の指は、適切な操作を行えば、把持した物体の硬さや重さを感知して、卵でも運ぶことが出来る。しかし生体を、人間を相手にその練習をやる機会は南田にはなかったし、したいとも思ったこともない。

「意外と大胆なところもありますね、藤居准尉は」

 杜洋伸の表明した感想に、南田は何度か首を縦に振って賛同の意を示す。

「ほんと、意外にな。おとなしそうな人なんだけど」

 単純な形容詞で括れる人間ではない、と南田は感じている。初めて会った、四日前のあのときから。南田は藤居という人間の核を掴(つか)めずにいた。江藤の指示をよく理解し、実行しているようだが、ただ従順というわけでもない。操り人形なら糸を引かれるまま踊るだけだが、藤居はときたま、自分から糸を引っ張ることがある。江藤を龍で摘み上げたその行為を、南田は真似できないと思ったが、仮に随一の操縦技術があったとしても所感に違いはないだろう、と想像する。江藤からどんな仕返しをされるかわかったものではない。どうして藤居は江藤からの反撃を恐れず、そして実際、致命的打撃を受けずに済んでいるのか、南田は一度ご教授願いたいとすら思っている。

「江藤少佐とは、前から知り合いみたいだが」

 ただ知人というだけの理由で江藤がそこまで甘くなるだろうか。否、と南田はすぐにその発想を打ち消す。それならば、箕輪(みのわ)と名乗っていた江藤と事前に接した南田も、もう少し優しくしてもらってよさそうなものだった。少なくとも、腕立て伏せ完遂後のへばっているところへ、重量百キロ超のボディプレスなどはしていないはずだった。明らかに肋骨(ろっこつ)が連鎖的に音を立てたのだが、基地の軍医に診てもらうと、全く問題はないと言われた。以来、あの髭(ひげ)軍医はヤブではないかと南田は疑いを持っている。

 しかし髭軍医の腕などより気になるのは藤居の来歴だった。江藤との接点は何なのか。外廓聯(がいかくれん)出身ではないらしいのだが、機兵の操縦は実戦経験者としか思えないほど上手かった。今日までにシミュレーション戦で四回刃(やいば)を交えたが、全敗している。峰國と坂元が一回ずつ勝利したが、あとは勝った者がいない。圧倒的な力の差を感じるわけではなく、実際、南田も他のパイロットたちも何度か接戦を演じたのだが、結局ぎりぎりのところで負けてしまった。天性の才能というよりは、訓練の賜物(たまもの)という印象を南田は持っている。であれば藤居を鍛えたのは何者か。それが江藤なのかもしれない、という推測は隊員の間で誰からともなく出たのだが、しかし確認は取れていない。藤居はあまり南田たちと私語を交わしていなかった。

「本人に訊ねてみては?」

 群山の言い方は、話題に興味がないように南田には思われた。おとなしいといえば群山の勝る者はなさそうだったが、藤居は群山とは全く異なることに、愛想はいいのだった。優等生のイメージ。きわめて模範的。話しかけさえすれば。向こうから積極的にプライベートの話題を振ってくることはない。それは自身の過去を晒(さら)したくないからかもしれない、と南田は考えている。しかしこのことは誰にも言っていない。南田の経験に基づいた分析ではあるが、所詮(しょせん)、憶測の域を出ないからだ。もう少しマシな捜査を仲間がやってくれている。

「江藤少佐との関わり、おととい坂元が聞いてみたらしいんだけど、はぐらかされたってさ。あまり触れたくないらしい」

「ってことは、案外、隊長と同じ穴のなんとかかもですね」

 と、杜。しかしそれは違う、と南田の直感が告げる。とはいえ、どう違うのか理論立てて説明はできない。直感を信じて裏切られた経験もないではない。

「一度、ゆっくり話してみないとな」

 ともかく情報をそろえるのが先決だと南田は判断した。それにはやはり食事の折を狙うのがいちばんだと思われた。実は、藤居は毎度訓練のあと江藤や北嶋と打ち合わせをしに行ってしまうので、これまで、食事をほとんど一緒に取っていない。今日の午前の訓練が終了したら、藤居について行ってみよう、と南田は思いつく。わざわざ会いに行ったら江藤に何か妙な仕事を言いつけられそうで不安である――昨日であったか、峰國はゴン太の世話で各種雑用に奔走(ほんそう)していた――が、隊の結束の不安材料は早急に取り除くべきだった。一日も早く立派な戦力として成長しなければ、有事に間に合わないかもしれない。その危機感が、南田の決心を後押しした。

 とはいえまずは一休みだった。慣れてきたとはいえ、江藤こだわりの振動設定は三人を大いに疲れさせていた。暗黙の了解でそろって詰所に戻って息をつく。

 詰所には二十数人分の席があり、機兵パイロットは全員が専用の席を与えられていたが、その机の上には目を通すべき書類やらマニュアルやらが山積みなので、とてもくつろげはしない。そこで部屋の隅のソファーがパイロットたちの休憩には好まれた。めいめい飲料やガムなどを手にし、腰を下ろす。すると視線はおのずと外へと注がれた。その面だけ壁全体がガラス張りになっており、ちょうど、基地内で歩行訓練をしている龍の姿が目に入る。

 二機の龍が千鳥足で危なっかしく歩いている。パイロットが酔ったわけではない。この深い雪のなかを、マニュアルモードで走行させるという訓練は、仕切りこそ藤居がやっているが、発案はやはり江藤だった。フットペダルの細やかな操作を要求されるマニュアルモードにおいて、積雪による踏み応えの変化はパイロットの勘を狂わせるに十分だった。南田も昨日の夕方やらされた。ならされた平らな面でも、実は雪の下にある本来の地面の高さが違っていて、知らずに踏み込んでバランスを崩してしまい大変だった。雪がさらに積もったぶん、今日はさらに難易度が増しているだろう。午後に再び出番が回ってこないことを祈りつつ、南田は、ついでに見物中の龍を応援した。鷹山は事故を起こし、藤居は江藤を連れて現場へ向かったから、残っている二機の乗り手は李峰國と朝井秀和だとわかる。右によろけ、左に踏み外し、傍目(はため)には滑稽(こっけい)極まりない。

「子供向けにはいい見世物(みせもの)だよな」

 録画しておいて地域の小学生相手に上映会をやるのはどうだろうか、と、南田は猿之門第一小学校の様子を思い出しながら考えつく。

「見せるだけなら笑いが取れるかもしれないですね」

 杜はひとまず肯定したが、蜂蜜と柑橘(かんきつ)類を使った定番飲料を飲み干し、先を続けた。

「準備から子供に体験させたら、泣き出しますって。せっかくの力作を、踏み潰されちゃあね」

「それは道理だな」

 南田は、建物に隠れて見えない龍の足元を想像する。今、龍が踏み出した足を不自然に脇へそらしてバランスを崩した。どうやら無事に生き残ったらしかった。障害物として作られた、黒龍隊お手製の雪達磨(だるま)軍団の一体が。

「おいおい、おまえたち、こんなところで休んでいたのか」

 と、呆(あき)れながら詰所へ入ってきたのは坂元である。昨晩アラート待機だった坂元は、今日は昼まで休んでいていいはずで、呆れたいのは南田のほうだった。休むのも仕事のうち、というフレーズが浮かぶ。

「悪い。でも、少佐が休憩の許可出したんだぜ」

「ちっ、気まぐれなオッサンめ。でも、その少佐の言いつけだ。ついさっきのな」

 南田は噛んでいたガムを包み紙に吐く。坂元がこれから口にする用件には、察しがついている。おおかた、鷹山の事故現場を見に行く道すがら、仕事が必要なことに気がついたのだろう。

「損耗した障害物の復旧と補充、だろ?」

「わかっているなら早く来い」

 へいへい、と三人は腰を上げる。あれはあれでそれなりの重労働だった。なにせ雪達磨とはいえ作る大きさが子供の遊びとは違う。小さいもので高さ二メートル、これまでの最大で五メートル。数にして四十は作った。この大きさと数を人海戦術でこなしていたら、今ごろ黒龍隊は壊滅しているが、実際にはずっと楽をした。どういう風の吹き回しか、阿賀(あか)少佐が乗俑機(じょうようき)を数体貸してくれたのだ。そもそも建設用に普及した乗俑機の面目躍如(めんもくやくじょ)で、人の身長を超える雪達磨がごろごろと量産された。

 作業用の手袋をつけ、再び外へと出る。目が眩(くら)むことはなかった。にわかに掻(か)き曇ってきた空を見上げ、また雪が降り積もるのかと憂鬱(ゆううつ)になった南田は、溜め息をつく。と、雪達磨たちの間を走る影に目が止まった。雪に足を取られながら走っていく、背筋の伸びた人影は、どうやら北嶋だった。

「どうしたんだ、北嶋大尉は」

 南田は首をひねった。その方向は、格納庫でも司令部でも食堂でも士官用宿舎でもない。いったいどこへ、そんなに急いでいるのか。



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 北嶋は一時外出の許可を取ってそそくさと出かけ、昼食を猿之門の市街で食べた。市街といってもずいぶん寂(さび)れているが、基地の食堂で食べるよりはずっとマシだった。入った商店街の定食屋は、店の名こそ妙だったが、内装はこぎれいで主人の腕前もたしかだった。おかげで妻子との大切なひとときにノイズが入らずに済んだ。

 妻の裕美子と娘の朋美は、いま、猿之門に来ている。

 四日前、江藤の私室の電話を使って、北嶋は妻と引越しについての相談をした。その結果、とにかく一度こちらの様子を知りたいからと、直後の土日を使って朋美とともに猿之門までやって来たのだ。そこまでは問題はなかった。往路までは。妻子は大雪による交通機関の麻痺で帰るに帰れなくなってしまった。今日はもう月曜日。北嶋は朋美が学校に行けないことを心配していたが、朋美は雪遊びに夢中でそれどころではないようだった。裕美子も物件を品定めするため午後はあちこち飛び回る予定らしい。その前向きさと行動力には頭が下がる。

 前向きさと行動力といえば、北嶋は、江藤が連れてきた青年にも感心していた。最近の若い者にしては――と自ら言うような歳でもないのだが――しっかりしている。率先して学び、教え、発案し、実践する。直属の矢俣や、パイロットの南田や坂元など、若者の典型例には事欠かなかった黒龍隊に、あれは確かに必要な人材だと北嶋は思う。年齢層の隙間を埋めるピースであることは勿論(もちろん)、能力があるのに決して高慢ではないところが素晴らしい。特にパイロット組は、呼吸をするのと同じくらい当たり前に自画自賛を繰り返す江藤とばかり接していたから、これでなんとか道を迷わずに済むだろう、という安堵(あんど)がある。

 ただ、藤居祐輝(ゆうき)の人格について、北嶋には少しばかり腑(ふ)に落ちない点がある。

 まず、彼が謙虚であること。生来そうだった、というようには見えない。かといって、厳しい縦社会で身に着けさせられる、阿諛追従(あゆついしょう)と同レベルの見るに堪(た)えない謙虚さとも違う。彼自身の感情と論理的思考で組まれた連立方程式の解として、彼はあのような態度を取っているのだ。自ら、選択して。

 そうさせるのは、士官学校出身ではないという劣等感か。しかし、彼は若年士官増員計画の一環で多数の候補から抜擢(ばってき)されて教育を受け、またそれに応(こた)える成績を残し、准尉(じゅんい)となったのだ。ただの平々凡々の士官学校卒業生などよりもずっと早く出世するだろうし、何も卑屈になることはないのだ。無闇に卑屈になる人間を、北嶋は好まない。嫌悪しているといっても言い過ぎではない、と自覚する。――そのせいか、と北嶋は気づいた。自分は、藤居に便利で万能の駒としてのレッテルを貼りたいがゆえに、わざわざ叩いてまで埃(ほこり)を出そうとしているのかもしれない。嫌悪すべきは自分の卑怯さかもしれなかった。

 しかし、第二の疑問点は、そのような恥ずべき動機とは無縁だった。江藤と藤居、一見相反するふたりが、どうして親しげにしているのか。

 北嶋と江藤の取り合わせについても同様の疑問を口にする者があるが、実は余人が思うのよりもずっと、北嶋は江藤と感覚を共有している。この状況なら相手がどう考えるか、というのが予測できる。それは子供のころから要所要所で体験を共有してきたからこそ可能になったことだ。三十四歳の江藤と二十五歳の藤居との間に、同じように共有する記憶があるとは考えられない。藤居が江藤の部下だったならば疑問にもならないが、しかし、江藤はこの十二年、行く先々で煙たがられてひとつ処に長居をしたことがない。加えて、ふたりが同じ部隊に所属していないのも経歴から明らかで、付き合いは部隊の外ということになる。一年に満たない付き合いで、あれだけ方向の違う人格が信頼しあえるものなのか。ありえないとまでは思わないものの、やはり北嶋には腑に落ちない事象だった。

 ただでさえ考えることは山積みだったので、北嶋は疑問の答えをさっさと得ることにした。問題というのは自力で解くばかりが能ではない。聞けば教えてくれる相手を捕まえるのも立派な問題処理能力だ。そこで北嶋は、龍(ロン)の雪上使用による機械的な問題が発生していないことを隊長たる江藤に報告するついでに、藤居の話題を出してみた。

「なあ、藤居准尉のことだが。あんな好青年をどう騙(だま)して連れて来たんだ」

 江藤は初めきょとんとして、それから不気味に笑って、そして眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せて難しい顔をした。

「むう、好青年、な。ま、今だけ見ればそうかもしれんが……。騙したとは人聞きが悪いじゃないか。俺はあいつの、恩人なんだぞ」

「自分で言うところが怪しいな」

 しかしそれが事実なら説明はつく。恩人に対して無条件に従順になるのは、ろくでもない親に対してでも愛情を切り捨て難いのと同じで、主観の立場では理屈を超越している。傍観者からは、人間の動物としての社会性がどうのとか、生存に有利になる個体を無意識に選別しているなどと解説もできるだろうが、そうと理解し、その性(さが)に従うことを理屈で拒否したところで、やはり人はなかなかそれに抗(あらが)えない。

「北嶋、おまえな、俺が亜連各地でいったいどれだけの善行を施してきたか聞かせてやろうか」

「龍の初期試作型参番機の無断使用の件なら聞いているぞ」

 外廓聯創設前後のことだったか、ちらりと耳にした。というよりも、尾ひれのついた噂をいろいろと聞いたが、実際のところはよくわからなかった。どうも試作参番機がそれでお釈迦(しゃか)になったというところは真実らしいのだが。

「あー、あれは叛乱鎮圧が目的でだな。まあその話はここではよそう。ほら、他にもあるだろう。俺が赴任先の派閥(はばつ)対立をおさめた話とか」

「治めたとはよくったものじゃないか、江藤。おおかた、どっちのボスも潰して自分が牛耳りなおしただけなんじゃないのか」

「お、おまえ、俺の動向を探る密偵を放っているのか」

「本当にやったのか。まったく、高校のころとやっていることがかわらない」

「ぐう」腹の虫ではなく、ぐうの音のぐう。「難しいな、変わるというのは」

 江藤がにわかに真顔になったので、北嶋はその言葉の意味について考えようとしたが、そのまえに江藤は悪童の顔に戻ってしまった。

「ところで北嶋、今度の視察のことだが」

 中央議会の楢田(ならた)議員が、黒龍隊の陣容を見物、もとい視察しに来る件。

「木曜日のあれね。笑っているところを見ると、中止になったのか?」

「それがだ。聞けよ、北嶋」

 そして江藤は唾(つば)を飛ばしながら、楢田議員が予定より二日早い、明日やって来ることになった経緯を語った。大雪による交通網への打撃は議員たちのスケジュールにも大幅な変更を強いたとかで、ドミノ式に広がる悪影響が黒龍隊にも及んだらしい。

「気に食わん」

 説明を終えた江藤は腕を組んでふくれている。

「隊長のおまえがぶうぶう言うな。対応しないわけにはいかないだろう」

「うむ、黒龍隊の即応力はなっとらん、だなどと言われるのも面白くないからな」

 北嶋は思案した。部下たちへも先日伝えてある件なので、早まったとだけ説明すればよい。人はよし。問題は物のほうだった。

 実は、黒龍隊は新たに二機の龍をもらえることになっていた。当日は総勢六機の龍で演習を見せる予定なのだが、この雪のせいで龍の輸送が順延されている。間に合わせなければなるまい。搬送車輛が道を通れそうにないとなると、こちらから取りに行って自走させるほうが早い。

「富士からの輸送がネックだ」

 江藤も同じことを考えていた。そう言われるのは予見できたが、できれば回避したい言葉だった。富士で龍を引き取る際には、北嶋が代表として出向く予定になっていた。

「ああ、そ、そうか。そうだな。配備されたはずの機体がいないのでは議員が何を言い出すかわからないし」

 言いながら、北嶋は時間の計算をする。これから富士へ向かったとして、まず、日付変更前に帰ることはできない。機兵を自走させれば時短を望めるが、北嶋自身は機兵に乗るライセンスがないのだからしかたがない。機兵の手の上の乗り心地はどんなものだろうか、などとあれこれ考える。普段なら残業など特に気にしないが、妻子が猿之門に来ている今は、その限りではない。

「うろたえるなよ、北嶋。おまえにはこっちに残ってもらう。妻子はまだいるんだろう?」

「――すまん」北嶋は胸を撫(な)で下ろす。「が、そうなると誰に行ってもらうんだ」

「実はもう出てもらった。藤居と、竜時と、峰國(フェングォ)の三人にな」

「三人だけ? 護衛はつけなかったのか」

 猿之門はともかく富士までの道のりは反体制ゲリラの標的になりやすい。北嶋は阿賀の部隊から護衛を出してもらうつもりだった。

「俺たちが出ると誰に狙われるかわかったものではないが、下っ端だけなら、護衛などつけるとかえって目立つし、危険は少ないかもしれん。それに、藤居の経歴は見ただろう?」

「そうか、彼がいるなら大丈夫かもしれないな」

 結局、藤居は便利な青年だと北嶋は思う。背に腹は代えられないので、矜持(きょうじ)は捨てて彼に代役を任せることにする。

「――で、富士のほうはそれでいいとして。北嶋、おまえに別途頼みたいことがある」

「金なら、貸さないぞ」

「独身貴族さまだぞ俺は。江藤卿と呼べ。と、冗談はともかく。ちょっとばかり議員様をびっくりさせて差し上げようと思うのだ」

 江藤は引き出しから一枚のA4用紙を取り出す。受け取った北嶋は、その書類のタイトルを見た。指定外動物持込・飼育許可申請書。

「違う違う。裏だ、裏」

 と言われても、北嶋は目を離せない。ゴン太の件であるのは自明。

 書類には、数名の署名があった。すべてこの基地の駐屯部隊の隊長か、その代理として相応(ふさわ)しい人物。主だった幹部でサインがないのは、残るは倉知司令代理くらいだった。

「よくこれだけ同意を集めたな」

「なに、俺への貸しを作れると知ったら、みんな喜んでサインしてくれたさ」

「他はどうだか知らないが、阿賀少佐が許すとは思えないんだが」

 しかし彼の直筆と思しきサインがちゃんとあるのだ。

「阿賀か。まあ難しくはなかった。小笠木(おかさぎ)上等兵救出の貸しがあるからな」

 北嶋は阿賀に同情した。

「あの火災、結局ただの事故だったのか?」

 出火は変則領域感知よりも前だった。となると可能性はふたつ。失火か、放火か。

「エデンによる爆破だった可能性は、あるな。しかし市民生活に悪影響が出るわけで、支持層を失いたくないあの連中は、犯行を否定するだろうが」

「軍はその線で動いているのか」

「知らん。あくまで俺の憶測だ。しかし同じ想像をする奴は少なくないだろう。警察や阿賀たちは忙しくなるかもな」

「他人事(ひとごと)でもないだろう。また借り出されることも……」

「そのとき俺たちがここにいれば、あるいはな」

 江藤は何かを仄(ほの)めかしたが、言明する気がないことを北嶋は察知したので、それには触れない。おそらくは江藤のみ知らされた機密に関わること。いずれわかるだろう。

「そんなことより、肝心の裏を早く見てくれよ」

 北嶋は促されるままに紙を裏返した。透(す)けていたので、何か図が書いてあるのはわかっていた。改めて図を確認し、苦笑が漏れた。

「おまえは本当に変わらないよ、江藤」



- 3 -


 藤居は南田竜時、李峰國(リー・フェングォ)の機兵パイロット二名を連れて、富士工場へ向かっていた。引率者であるばかりでなく、ハンドルも握っているのだから、「連れて」という表現に間違いはない。実際、これは江藤から藤居に命じられた任務であり、新米二人は受け取った機兵を動かすための要員に過ぎない。誰でもよかったのだ。たまたま江藤の目についただけで、彼らは選ばれた。

 藤居は今日の正午、江藤の執務室でのやりとりを思い出す。

 鷹山の壊した回線の復旧を見届けてから報告に行こうと考えていた藤居は、その前に江藤のほうから部屋へ来いと呼び出された。藤居は関係各位に頭を下げてその場を撤収し、ロッカールームで操縦服を脱いでから、詰所の最上階へ向かった。そこに江藤の執務室はあった。階下には普段パイロットたちの詰める大部屋があるが、そこまで振動が伝わってこないのだから、よほど江藤は忙しいのか、あるいは執務室の防護が強固であるかのどちらかだと藤居は推察している。床同様に強固であろうドアを慎重にノックして、藤居は名乗り、許可を得て、入室。

「よお、来たか」

 江藤は机の上ではしゃぐ仔犬、もとい仔狼、ゴン太をあやしながら待っていた。

「新型の受け取りをおまえに頼みたい」

 といわれて、藤居はすぐにピンと来た。

「防人(さきもり)型ですね」

 その機体については、藤居はよく知っている。局地戦に特化した、龍(ロン)の派生型である。

 従来の龍の普及だけでも遅れているのに、どうして派生型がもう作られたのかというと、亜細亜(アジア)連邦軍が将来的に龍を宇宙でも使う気でいることにその原因の端緒(たんしょ)があった。

 宇宙でも使いたいというのは、仇敵(きゅうてき)である啓示軍(オフェンバーレナ)が月面に重要拠点を持っているという噂があるからだった。軍がそれを見込んで龍の仕様書を書いたのだろうから、月の拠点という眉唾(まゆつば)の話も、ただの噂ではなく事実なのだろうと藤居は思う。少なくとも龍の開発スタッフはそう信じて自分たちの仕事をきっちりと果たした。結果、いま地上で戦っている機体はすべて、数日単位の短時間で宇宙用へと換装可能な設計になっている。たとえばコクピットには外気と切断された生命維持装置が備えられているし、与圧と減圧の機能もある。強烈な宇宙線の防御はバルムンクフィールドが担ってくれるが、コクピットと龍の頭脳であるEPUが収まった頭部だけは機械的にもシールドが施されている。

 それらはNBC兵器への対策としても価値があるが、いかんせん、コストがかかりすぎる。また、それらの防護策のためにスペックを制限されている項目も数多い。そこで、どうせ龍のすべてを宇宙へ運ぶわけではないのだから、一部の機体は地上戦専用に設計を最適化しても良いのではないか、という意見が力を得た。

 そして作られたのが地上戦専用派生型、固有名にして防人型である。その名の由来は、開発が日系主体であったことと、主戦線が動こうとも宇宙へ出ない龍とはすなわち要地防衛用のものである、という想定に基づくらしい。

 そこまでの情報は、別段秘密でもなんでもなく、一介の准尉である藤居でも手に入った。ただ細かい仕様となるとさすがに機密扱いで末端のパイロットには伝わって来ていなかったのだが、それも先日知れた。他でもない藤居自身が、防人型の生産型一号機の実働試験において、パイロットを仰(おお)せつかったからだ。

 藤居は富士の工場で組みあがった機体を二日間かけて試験し、技術関係のスタッフが設計仕様に対して合格と判定した。そして配備先の霞ヶ浦駐屯地へと移送する途上、藤居も万一の事態に備えてそれに付き添っていたのだが、東京へ入る手前で急遽予定にない行動を取ることになった。突然江藤が無線に割り込み、連絡を入れてきたのだった。その時点ですでに藤居は黒龍隊への転属の辞令を受け取っていたが、日付は翌日で、まだ藤居は彼の指揮下にはなかった。しかし江藤は藤居からしてみれば忘れることのできない恩人だった。そして江藤は黒龍隊隊長としての特権を行使した。その結果、藤居は近くで火災を起こしていたプラントへと防人型で駆けつけ、試作ブースターで上空五百メートルまで上昇して、崩落する煙突を狙撃。黒龍隊隊員ら四人の身を守ったのだった。

 そこまでの縁があれば、防人型と在来型との癖の違いもだいたい心得ていた。藤居はいまや、開発時のテストパイロットに次いで防人型の操縦特性を理解している人材となってしまっていた。もっとも、そんな稀少価値はすぐになくなる。防人型が続々と完成し、工場での訓練実施や部隊配備が始まるのだから。

 その防人型が、黒龍隊にも与えられる。それは初耳だった。

「張子の虎かと思いましたが、そうでもないのですね」

 藤居は率直に感想を述べた。江藤以外のパイロットは全員新米、龍の配備は四機だけという陣容を目にして、とても首都防衛の任は果たせないと藤居は評価していた。が、その判断にバイアスがかかっていることも藤居は自覚していた。黒龍隊はお飾りに過ぎないと、以前藤居に言った者があったのだ。その考えに引っ張られていることを否定はできなかった。

「張子か。そいつは茨木(いばらき)の台詞(せりふ)か?」

「ご明察です。しかし、実際この目で見ても、同じ印象でした」

「ありがたい言葉だな。おまえがまともな軍人になったってことがよくわかる」

「痛み入ります」

「ここでは、俺とおまえだけだ」

 江藤のその言葉の意味を受け止め損ね、藤居は室内を見回した。

「――どうもそのようですね」

「アホか。そういう意味じゃない。黒龍隊には経験者が二人しかいない、という話だ」

 それで、藤居は江藤の発言を誤謬(ごびゅう)なく理解した。

「いずれみんな経験します。せざるを得ない。黒龍隊が張子でなくなるのだとすれば、そういうことになります」

「誰かさんの口ぶりがうつったな。全くもって、そうだ。しかし俺は、黒龍隊の全員に対して、いやパイロット八人だけに限って言っても、まとめてケアをしてやる余裕もなければ、度量もスキルもない。それはおまえに任せたい。やってくれるか」

「最善を尽くします」

「煮え切らない返事だな」

「実際、最終的には当人の問題です。それを教えてくれたのはあなたで、そして、痛感したのは自分ですから」

「皆がおまえを手本にしてくれればそれでいい。そのように振舞ってくれ」

「了解」

「ところで茨木は、元気か。いや、陰気な奴だからな。健在か、と改めよう」

「ええ。実は日本へ戻るまえに、北京(ペキン)の空港でたまたま会ったのですが、戦線復帰するのだと仰っていました」

「他に何か言っていなかったか?」

「江藤少佐の悪口なら、いろいろと」

「むう、やはりな。それはフィルタにかけて除外。他には?」

「それで九割方消されてしまいましたが」

「何も残らんのか」

「いえ、ひとつだけあります。茨木教官は、ここひと月の軍の動きを怪しんでおいででした。人の動き、物の動き、そして情報の動き。結論を口に出すことは憚られたようですが、自分にも察しはつきます」

「それは胸のうちに秘めておけ」

 江藤の表情は真剣だった。

「茨木の予測は正しいだろう。俺の予測と一致しているからな。どう転んでも泣かないように、準備は進めている。新型をくれるというなら、実績がなくても、もらっておく。今はとにかく手駒が欲しい。張子の虎に猫の手を添えれば多少は本物らしくなるだろう」

「なりませんよ。サイズが違います」

「むう、ツッコミも茨木流になってきたな。学んだのは機兵の操縦だけではないようだ」

「江藤少佐と同じくらい、教官には感謝しています。ちなみに、教官からはおまえのやり方は江藤流だなとコメントされたことがあります」

「どっち流でもいいが、富士までの道中、頼んだぞ。阿賀に護衛は要請していない」

「お任せ下さい。対テロ任務には慣れています」

 龍の受け取りに関する細かい手続きの話を抜きにすれば、おおよそそのようなやりとりがあった。南田は藤居を探しに詰所をうろちょろしていたところを江藤に捕まり、峰國は自販機でカフェオレを買おうとしていたところを勝手に奢(おご)られて、その対価として出張を命じられた。本当に誰でもよかったのだ。

 その道連れ二人は、助手席と後部座席で眠ってしまった。スリップ事故による渋滞で、この一時間、車がほとんど進んでいないのだから、休養に当てるのも悪くない選択だった。もっとも、片方くらいは起きて周囲を警戒しておいて欲しいと藤居は思うのだが、彼らにその緊張感は期待できそうになかった。藤居は改めて助手席に目をやり、そして、南田と目が合う。いつの間にか、起きていた。

 南田は何かを言おうとしている。その気配に藤居は気づいた。そういえば昼間も自分を探しているようであったし、また、今の南田は、他人に合わせて笑っているいつもの顔ではなかった。

「なんだ、そんなに見つめて。俺はそのケはないぞ」

 これは江藤流。が、あのふてぶてしさは、そうそう真似はできなかった。


*   *   *   *   *


「藤居准尉の過去について、お聞きしてもいいですか」

 相手から促され、南田は残っていたひとかけらの躊躇(ちゅうちょ)を捨てた。昼間からチャンスを窺(うかが)いつつ、またそれに恵まれながらも、なんとなく言い出しそびれてしまってこの時間である。もう冬の太陽は仕事を終えようとしている。南田は自分でも優柔不断だと感じながら、それでも、人の過去を詮索(せんさく)することに抵抗があった。逆の立場を想像すれば、南田はそこへ踏み入って欲しくないからだ。しかし、もうプライバシーなど知ったことか、相手は江藤と同じで自分の命を預けることになる人間なのだ、と南田は開き直った。

「中国にいた。東部方面軍に」

 藤居の返答は簡潔だった。が、追及を拒んではいないと南田はその横顔から読み取る。

「機兵部隊に?」

「いいや、訓練は受けたが、部隊配属はされていない。君らと同じだよ、機兵での実戦経験はない」

「それにしては、操縦が上手いです」

 やや持ち上げてそう言ってみると、藤居は小さく笑ってシフトレバーを動かした。二速に入れて少しだけ前進。

「いい教官についたからな」

「江藤少佐ですか」

「それは無理があるだろう。江藤少佐はずっと外廓聯にいて、そのあとは近衛(このえ)軍統監部勤務だ。俺に機兵の操縦を教えてくれる暇はなかったさ」

「方法ならあるはずですよ。都市間主幹回線は、日本海の海底にも通っているって習った覚えがあります」

「わざわざモニタ越しに訓練をつける必然性がない。機兵の操縦が上手い人間なんて、他にいくらでもいるよ。君はどうしても、江藤少佐と俺とを密接に関係づけたいらしいな」

「ええ、実を言えば」

「どうして?」

「どうして、ですか」それは南田が使いたい台詞だった。「どうしてあのとき、准尉はためらわずに煙突を狙撃できたんですか」

 それは、藤居が来たあの夜から、ずっと考えていたことだった。

 あのとき、南田たちの上に崩落しようとしていた煙突を狙撃し、違う方向へ落としてくれたのは、藤居の操縦する龍(ロン)だった。あれが防人型だというのは、今日ようやく知ったのだが、それは南田の興味を引く情報ではなかった。防人型が装備していた新型ブースターについても同じで、南田の関心事は寧(むし)ろ、そのブースターによってあの高度に上昇した藤居からは、おそらく煙突周辺の変則領域分布など正確に観測はできなかっただろうということだった。弾道が逸(そ)れて火災を助長するような結果になるかもしれなかったのに、藤居は江藤の命令ひとつでそのリスクを忘れ、狙撃を実行した可能性があった。しかし南田には、藤居が変則領域の影響を忘れるほど大雑把(おおざっぱ)な人物だとは思えず、トリガーを躊躇なく引いたまっとうな理由があるはずだと考えていた。それは一体何なのか。防人型の光学バルムンク走査は性能が向上していて、あの高度からでも瞬時に変則領域の分布を読み取ることができたのか。それとも、江藤の言葉に全幅の信頼を寄せる理由が存在するのか。疑っているのは後者だ。疑念というよりも期待に近い。もしかしたら、それを聞けば自分も藤居のように江藤を信用できるかもしれないと、南田は考えていた。

「命令に従ったまでだ。他に理由が必要かな」

 寄せた期待はばっさりと斬り捨てられた。突き放すふうでもなく、ごく自然に、刃は振るわれた。

 たしかに江藤は上官である。しかもただの部隊長ではない。非常時には近衛軍統監部の命令を仰がずとも独断で作戦を展開でき、そして必要となる資材、人材、情報を自由にできる特権を持っている。その江藤の命令に従わないということは、軍規に、ひいては亜細亜連邦という体制に逆らうことに等しい。つまるところ、正しいのは藤居で、自分が間違っているのだと南田は思い知らされた。

 しかし、納得のいくものでもなかった。

「命令なら、なんでもできますか。准尉は」

「物理的に不可能とか、そういうのじゃなければね。できないかもしれなくても、遂行のため最善を尽くすよ。それで身分と給料を保証されているんだから」

「それはそうですが。でも、命令する人間が間違っていたとしても、答えは一緒ですか?」

「自分の意見を進言する権利はあるさ。それが容(い)れられればよし、撥(は)ねられれば諦めるまでだ。別に軍じゃなくても、大きな組織ではどこでも同じことだよ」

 正論で返されるとどうにも収まる場所がない。南田は視線の逃げ場を外に求めた。聞きたかったのは江藤との信頼関係の元だったはずなのに、どこで質問を間違えただろうか、と南田は考える。が、結論が出る前に藤居から呼びかけられた。

「そうだ、君に左舷の監視を任せていいか」

「監視ですか?」

「この渋滞だろ? 狙撃するには絶好の機会だ。こっちはろくに回避もできない」

 言われて初めて、南田は自分がいかに無防備であるか悟る。小銃は、手元にない。後部座席だった。慌てて後部座席の峰國(フェングォ)を叩き起こし、抱かれていた小銃を奪い取る。

「ま、確率は低いと思うけどね。訓練と思ってさ」

 南田は取り回しに気をつけながら小銃を窓の外へと向ける。と、藤居の手がシフトレバーから離れて銃床を押さえた。

「こらこら、一般市民を脅かす気か。そういう態度が反体制ゲリラのシンパを増やす。気をつけてくれ」

「すみません」

 小銃を引っ込めて、南田はうなだれる。

「軍人が撃っていいのは敵だけだ。それは覚えておいてくれ」

「その敵が市民に紛れているのが、ゲリラ戦ってやつですよね」

 覚醒した峰國が口を挟む。藤居は何か言いかけて、言葉を変えた。

「まさしくそうだ。端的には、俺たちは市民に紛れたテロリストからの第一撃を甘んじて受けなければならない。でも第二撃は絶対に許してはいけない。敵をすばやく見つけ、確実にその戦闘力を奪う。単純に何人倒したかはさほど重要じゃない。その反撃によって何人の戦意を喪失させたかを意識する必要がある」

「最初の一撃でみんな死んじゃったら?」

 まぜっかえす峰國。藤居は気を悪くしたふうもなく、ルームミラーに一瞬目をやって笑った。

「死んだら終わり。後悔も反省ももうできない。つまりその先の心配は要らないってことさ」

「おお、藤居准尉、頭いい!」

 峰國はひとりで手を叩いて感心していたが、南田はその考えには首肯(しゅこう)できない。綺麗事は耳に心地よいが、それと引き換えに死にたくはない。死なないために予(あらかじ)め最善の手を打つべきだろう。――しかし、どうするのか。灰色は黒と同じく先制攻撃の対象とするのか。誤認の危険性を承知で発砲するような割り切り方は南田にはできない。それには江藤の煙突狙撃命令を正当と認める以上の抵抗がある。他の方法はないか。

 具体的な方策は、しばらく藤居と峰國のおしゃべりを聞く間にも、さっぱり思いつかなかった。



- 4 -


 数度の渋滞を抜け、富士工場に通じる道へと入ったのは、日没どころか夕食時もとっくに過ぎた頃だった。都市部を離れて道はすいたが、三人の腹もすいていた。峰國(フェングォ)は富士工場では何が食えるだろうかという話で気を紛らわそうとしていた。南田は余計に腹が減るからやめろと言ったが、峰國は聞かなかった。

「食糧供給は工場と軍施設で別なのかな。一緒だとしたら、これはちょっと期待できるよ、竜時」

 富士工場は半民半官の巨大な機械メーカー、フェイジアインダストリーズの持ち物である。軍の建物も併設され、開発や調達関係の人間が働いているが、規模としてはフェイジアインダストリーズの従業員と比べるべくもない。軍とフェイジアインダストリーズはしばしば幹部を交換している間柄なので、食べ物もフェイジアインダストリーズの系列企業が軍のぶんまで担っているのではないか、というのが峰國の希望的観測である。

「過度の期待はお勧めしないが、基地の食事よりはグレードが高いな」

 藤居が言った。防人型の生産型一号機の調整をここでやった男の言葉だけに、峰國はまた手を叩いて喜んだ。

「日本人向けの味付けだぞ?」

 と、藤居が念を押したところで、

「俺、日本食大好きですよ」

 こと食欲に関して、峰國の満面の笑顔が曇ったためしを南田は知らない。

 空のほうも、雲はすっかり晴れたようだった。月明かりが沿道の雪を神秘的に照らし出している。明日に繰り上げられた右院議員の視察は、好天に恵まれるだろう。行程は予定を押しているが、龍(ロン)もしっかり視察に間に合わせないといけない、と南田は意識する。遅れたならば江藤がどんな懲罰を考案するかわかったものではなかった。

 と、そのとき。

「十時の方向に光!」

 雪をかぶった林の中に不自然な光点を見出した南田は即座に叫んでいた。ラグなく反応した藤居がハンドルを切る。対向車がないのをいいことに大きくジグザグ走行。発砲音。南田は撃っていない。小銃を抱えてはいても構えてはいなかった。さらに銃撃が来る。屋根をかすったような音。

「あ、そこの切れ目に」

 峰國が身を乗り出して指差したのは、対向車線側のガードレールの切れ目だった。その先はやはり林だが、道路のほうが一段高くなっているので、そこへ突っ込めば射線を遮られそうだった。

「名案だ」

 藤居はスリップ気味の車をなんとか制御してガードレールの切れ目に飛び込む。一瞬、車体が宙に浮く。南田は舌を噛まないように歯を食いしばったが、雪がクッションとなったおかげか、もともと地面が柔らかいのか、思ったほどの衝撃はなかった。着地時には。進行方向の慣性を殺せなかった車は木にぶつかって停止する。南田は頭を打った。

「銃を」

 頭を抱えている南田の手から藤居が小銃をもぎ取り、運転席のドアから外へ飛び出る。慌ててあとを追おうとした南田は、後部座席にもう一挺(ちょう)あるはずの小銃を探すためふりかえったが、それは峰國とともにすでに車の外だった。しかたなく拳銃だけを取り出して南田も続く。

 銃撃は止んではいなかった。南田の降り立った足元のすぐそばに着弾がひとつ。金属に当たって弾が撥ねた音が鳴り響く。直後に藤居が応射。南田が車体に身を隠している間に、少し離れたところから峰國も銃撃を開始した。オートでの連射はしない。相手の出方を見るような撃ち方だが、月明かりだけでは道向こうの林に潜む狙撃手の姿を見つけ出すことは難しかった。

 ほどなく、藤居が南田の隣へ退避してくる。

「お怪我は」

「大丈夫だが、参ったな。ひとりだとは思うが……」

 どうやら相手はそれなりの装備を整えているようだった。一方、南田たちは夜戦の用意などしていない。発見した位置から察してまだ狙撃手はこちらの小銃の射程内にいるが、相手が見えなくては勝負にならない。拳銃ではなおさら役に立つわけがなく、南田は最寄の部隊に、富士工場にも少数は配置されているはずの軍の戦闘部隊に応援を頼むことを考えた。車内に戻れば無線機が使える。

「応援を呼びます。乗り込むまで援護をお願いします」

 いくつか言葉を省略したが藤居はすぐに頷(うなず)いた。助手席側では相手に全身を晒してしまうので、南田は運転席側へと身をかがめたまま回る。藤居が射撃している間に、立ち上がって運転席へともぐりこむ。幸い狙撃はされなかった。据付(すえつけ)の無線機を手に取る。周波数を選択。直ちに応援要請を……頼もうとしたが、何から口にするべきかわからなくなった。この場所をどう説明するのかも思いつかなければ、まず先に戦闘部隊を名指しで呼び出すべきかもしれない、という迷いも生じる。

 そうこうするうちに事態が動いた。照明弾が上がったのだ。南田たちはそんな装備を持って来てない。姿を隠している狙撃手のほうから使うわけもなく、何事かと道路のほうを確かめた南田は、そこへ一輛の装甲車が走りこんでくるのを目にした。ただ通過したのではない。減速しつつ、狙撃手の潜んでいたあたりに機銃を浴びせている。

 助けが来たのだ。

 装甲車は南田たちの盾となる位置で停車すると、照明弾の輝きが続く間、断続的な発砲を続けた。やがて銃声はしなくなり、夜の闇が支配力を取り戻し、装甲車から誰かが降りて近づいてくる気配があった。南田は改めて拳銃を握って外へ出る。ただし、すぐに車を動かせるよう、運転席のそばを離れない。

「大丈夫ですか」

 テールランプに照らされてその人物の装いが明らかになった。体格のいい青年だった。敵の再来を警戒したものだろう、油断なく小銃を携帯しているが、しかし彼が身を包む服は軍のものではなかった。自衛隊時代のものでもない。

「ありがとうございます、助かりました」藤居が視線をそらさない程度に頭を下げる。「RAT(ラット)の方ですか」

「ええ。盗んだものでもなければ、コスプレでもないのでね」

 男は胸のワッペンを示した。RATが――亜連唯一の公認の私設武装組織が掲げるマークならば、中国風の盾を象っているはずであるが、南田からはよく見えない。しかし藤居はそれで警戒を解いたようだった。峰國も林の中から戻ってくる。

「狙撃主はどうなりましたか」

 南田が訊ねると、男はさらに歩み寄りながら、道向こうを振り返って言った。

「残念ながら取り逃がしましたよ。逃げ足の速い奴だった。軍用車を狙うとは、このあたりのエデンもまた元気になってきたものです」

「まだまだ、中国ではこんなものではないですよ」

 と応じたのは、峰國ではなく、藤居だった。南田は藤居が東部方面軍にいたという話を思い出す。

「どうやら経験がおありのようだ。しかし、日本では油断しましたか」

「お恥ずかしい限りです。恥のついでにお願いしたいのですが、この先の富士工場まで私たちを送って頂けないでしょうか」

「え、どうしてですか、藤居准尉」

「タイヤやられちゃったからねー」

 と、峰國。そういえば助手席から降りたときに足元に弾が当たったな、と南田は思い出す。反対側へ移動していた峰國からは見えなかったはずで、音だけで判断したことになる。以前、龍の足音に先に気づいたのも峰國だった。耳がいいらしい。

「予備くらい積んでなかったか」

「ないよ。黒龍隊の装備は、機兵関連以外は新品だけど、他は寄せ集めだもの。この小銃だって阿賀少佐のとこから融通してもらったものじゃないかな」

「ああ、黒龍隊の方でしたか」

 RATの男が得心したとばかりに頷く。隠したほうが良かったかもしれないと南田は思い当たったが、後の祭りだった。もう襲われたあとだ。庇護(ひご)を求めるのに身分を明かさぬわけにはいかない。

「それは狙われもするわけだ。いいでしょう、実はこちらも富士工場へ向かうところですよ。座席らしい座席はないが、それは軍人さんなら平気でしょうな」

「重ね重ねありがとうございます」

「いえいえ。我々RATは、軍や警察とは親戚のようなものです。どんどん頼って頂いて結構。――そうでなくても、いい男なら大歓迎」

 女だったのか、と相手をよくよく見直した南田は、やはりそれが男であるのを確認して、戦慄(せんりつ)した。男がウインクしたように見たが、絶対に気のせいだと信じたかった。



- 5 -


 RAT(ラット)の二級警護員、門宮(かどみや)洗(すすぐ)は南田たちを装甲車の後部に乗せ、自分もそこへ乗り込んだ。

 装甲車は軍で使っているものとほぼ同型で、南田には見覚えがあったが、中に入るのは初めてだった。体育座りで十数人を押し込められるスペースがあるが、車体中央寄りに機銃座と自動給弾機構が設置されているので、実際より狭く感じる。ただ、今は門宮を含めて四人しか乗っていないので、そうでもない。特に積荷もないようだった。いったい富士工場まで何をしに行くのか、疑問に思わずにはいられない。

「門宮さんはどういうお仕事で富士工場に?」

 聞くのを憚(はばか)った質問を、峰國(フェングォ)が事も無げに切り出したので、南田はその顔を凝視した。全くけろりとした顔である。南田にはそれが信じられない。士官学校の教官たちは、RATの任務に触れるのをタブー視しているようだった。だから南田もそれに倣い、RATには深く関わらないようにしようと心がけてきた。もっとも、RATの装甲車に乗りRATの人間と話をしそうな機会などこれまで巡って来なかったのだが。

 RATは特別な組織である。それは噂でも都市伝説でもなく明白な事実だった。

 亜細亜連邦の樹立後まもなく、構成国すべての軍隊を統廃合した結果が亜細亜連邦軍である。それがもう十何年も前の話、南田が小さかったころの話だ。当初こそそれに従わず武力闘争を行う旧軍派が存在したが、それも数年のうちに殲滅され、あるいは反政府ゲリラネットワークであるエデンに吸収された。各国所管のまま残された警察組織も戦闘能力は厳しく制限され、すべての武力は中央政府の管理するところとなった。そうしなくては亜細亜連邦という体制は維持できなかったのだ。

 しかしただひとつ残された例外があった。それがRAT。

 RATというのが何の略であるかは南田の記憶にない。元老院のお抱え組織にはよくあることだった。そもそも正体が知れないのは元老院である。八月の悪夢により未曾有(みぞう)の大混乱に陥った諸国を纏(まと)め上げ、亜細亜連邦の樹立を導いた名士たちということだが、その人数も氏名も一切不明である。暗殺を防ぐための措置だという学校での教えは真実だろうと南田は思う。彼らの仕事は立派だが、その偉業の影でどれほど強引な策を使ったやら知れたものではない。連邦樹立前夜にどれだけの国の政権が交代したか数えてみるとそれくらいの疑念は抱くようになる。敗者は歴史の教科書の行間に消え行く定めだが、彼らはまだ、生きている。だからだろう、元老院は連邦の運営を中央政府に預け、いくつかの特権を公的に認めさせて影響力を保持しつつ、普段は裏へ引っ込んでいる。RATに身辺を警護させて。

 そのRATの細かい任務内容は、当然、秘密とされる。警察も軍も開示を強制することはできない。元老院議員の身元や居所はそのレベルで隠されている。それをよくも聞けるものだと、南田は峰國の大胆さに、あるいは無神経さに、驚かされたのだ。

「たしかに富士工場にはSMITS(スミッツ)の支局はないが」門宮は無造作に答える。「軍の開発部があるから、SMITSから職員が出張することもあるんだな。俺は今回、その護衛」

「へえ、SMITS専属なんですか」

 SMITSもまた元老院の設置した機関だが、こちらはわりと正体が知れている。亜細亜連邦特別軍事技術局。将来ものになるかわからないリスキーな技術開発を担っており、亜連で機兵を実用化したのも、SMITSである。成果は報告されるが、成功するまでは秘密なので、失敗したプロジェクトの数や内容についてはやはり杳(よう)として知れない。予算も大半を元老院が出しているので、不明。

「そこはノーコメント。今はな。――聞きたいなら、今晩、俺の部屋に来るといいよ」

 門宮がウインク。今度はたしかに、間違いなく、正真正銘、ウインクとわかった。

「あ、俺、仕事思い出しました!」峰國は藤居のほうを見る。「すぐ機体受け取って帰りますよね? よね!」

「できればそうしたいね」

「あらら、つれないのね、バンダナさん」

 あからさまにオカマっぽい声を出し、門宮は横目で藤居を見遣る。ウインクよりよほど艶(なまめ)かしかった。南田は門宮の焦点が自分ではなく藤居に合わせられていることに心底ほっとした。

 富士工場に着くまでに、門宮が仕事の話をしたのはそこだけだった。運転席と助手席にもRATの隊員がいるが、彼らの紹介もなかった。やはり外部の組織との接点は最低限にしたいのだと南田は察する。好きな下着のメーカーは、などという話題ばかり繰り出してくるのもその一環なのか、それはどうにも判断しかねたが。

 ゲートをくぐったところで、南田たち三人は装甲車を降り、門宮と別れた。またね、と言われたが、全員、曖昧(あいまい)に笑うことしかできなかった。

 襲撃された件の報告などを済ませて、ようやく防人型の受領に向かうと、残念な知らせが待っていた。黒龍隊が雪のせいで当分取りに来られないと踏んだ組立作業の責任者が、飛び込みで入った別の作業を優先していたのだ。すでにその別件は片付いているが、防人型はまだ搬出可能な状態にない。これから組立を徹夜でやるから、と父親ほどの年齢の責任者に頭を下げられれば、文句は言えなかった。

 三人は部屋を用意されて、そこで一晩明かすことになった。

「江藤少佐の不興を買うのがよほど怖いようでしたね、あの人」

 部屋で羽を伸ばしながら、南田は藤居に話を振った。峰國がシャワーを使いに行っており、ふたりきりになっていた。南田としては、今度こそ江藤との過去の繋がりについて聞きだそうという腹積もりである。

「君が思っているよりあの人は凄いんだよ」

 藤居は借りてきたパソコンで江藤へのメールをしたためる手を止め、顔を上げて返事をする。上着を脱いでもバンダナは外していない。よほどお気に入りなのだろうか、と興味が湧いたが、それはまたの機会に聞こうと思いとどまる。同じ部隊になったのだ、これから時間はいくらでもあるだろうから。

「知っているつもりですよ。士官学校でも有名でした」

「なるほど、そうか」

 藤居は士官学校には行っていない。

「けれどそれなら尚更、君の少佐に対する態度はよくわからないな」

「どういう意味ですか?」

「俺なら畏れ多くて、ああは突っかかれない」

「准尉のほうがよっぽどだと思うんですけど」

「俺とあの人とはただの上官、部下の付き合いじゃない。全然関係のない部隊にいるときに、病院で知り合ったんだ。そっちがデフォルトなのさ。――共通の知人もいることだしな」

「怪我をなさったんですか」

 ためらわず小銃で応戦した藤居の姿を思い出しながら、南田は戦闘の恐怖というものを想像した。さっきの銃撃は、確かに緊張したが、どちらかというと猿之門の初日のほうがインパクトが大きい。きっと戦場はあんなものではないだろうが、実感は伴わない。最後まで知らずに退役したいものだ、とすら思ってしまうのもあいかわらずだった。

「まあ、たいした負傷じゃなかったよ。入院なんてそう珍しくはない。東部方面軍はこっちほど平和じゃないんだ。昔からエデンがいちばん活発に動いている軍轄区だよ」

「じゃあ、江藤少佐もその頃は中国だったんですね。転属が多いという噂は聞いていました」

「左遷(させん)が多い、だろ? 転属ではなく」

 藤居は南田の改竄(かいざん)をすぐに指摘した。

「実を言えば、そうです。あ、俺がそう思っているとは、言ってないですよ」

「でも、そう疑っている」

 藤居は実はメールを打ち終えていたらしく、一通り再読して頷くと、送信。その間、南田はなんと言い逃れしたものか考えていた。

「君が、いや君たちが不信感を抱くのも、わからないわけじゃない。江藤少佐は奇抜なことをよく言い出すし、その行動の理由を説明しないことも多い。どうして説明しないのか。それは、一因としては、相手が説明を受け入れるだけの素養を持っていないからだとも言える」

「俺に聞く耳がないってことですか」

「バックグラウンドの違いがあるということさ。君たちはそれをまだ理解していない。あるいは実感できていない。犬といえばマルチーズしか知らない人と、シベリアンハスキーしか見たことのない人とでは、どれだけ説明を重ねても真に相手の言葉の意味するところを知ることはできないだろう」

 気づけば南田は頷いている。自分が戦場の雰囲気をシミュレートできないのと同じことだと理解したからだ。

「君も少佐も、もっと互いを知る時間が必要だ。新しい経験を共有することも。気楽に、ゆっくりやっていけばいいんだ。――と言ってやりたいんだが」

 藤居はパソコンを終了しながら溜め息をついた。

「どうやら悠長に慣れていく時間は、俺たちには与えられないみたいなんでな。多少厳しいことを言うが、命令にはまず従うこと。それが実戦経験のある先輩としての、俺からの忠告だ」

 俺からの命令、とは藤居は言わなかった。南田ははじめて深く藤居の人となりに触れられたと思った。しかしその余韻(よいん)に浸るには、藤居の言葉の端が気になった。

「藤居准尉、もしかして黒龍隊の今後の作戦予定とか、何か知っているんですか?」

 図星、かどうかはわからなかったが、藤居が己の発言について反省したのは明らかだった。

「さあ、何も知らされてはいないよ。啓示軍(オフェンバーレナ)やエデンにでも聞かない限り、わからないだろう。なんたって任務は防衛なんだ。ただ、さっきみたいなこともある。こちらの組織ができあがるのを、敵は待ってくれない」

「それはわかっています」

 だからこそ、行動を起こそうとした。捕らえたゴン太を逃してしまったり、いろいろ計算が狂って、結局流れてしまったが。それでも江藤の腹のうちは少し理解できた。もう少し御船(みふね)や藤居の言葉を信じて耐えてみよう、という気には南田もなっているのだ。南田は、自分の不満の原因が目の前にいることをこのとき初めて自覚した。

「俺も藤居准尉のようになれますか」

 ぽつりと漏らした愚痴を聞いた藤居は、あろうことか、噴き出した。

「なんですか、俺は真面目(まじめ)に言っているんですよ!」

 南田の憤慨を見て取った藤居は、悪い悪いと言いながら、まだ笑いが収まっていない。

「いや、俺なんて手本になるような人間じゃないよ。――だめだな、撤回しないと。先輩として、君たちの手本にはなるつもりだ。でも昔の俺は反面教師だったよ。あの頃の俺に比べれば君たちはずっと優秀だ。悲観的になることはない」

 昔の藤居がどんな人間であったのか、これもまた南田の想像できるものではなかった。ただ、藤居が自分で謙遜するほどの駄目な人間ではなかったとは思われる。それでも幾ばくかの安心は得られた。

「よろしくご指導願います、藤居さん」

 初めて階級をつけずに呼んだが、予期した違和感はない。数秒待って、怒られないことも確かめた南田は、以後、この呼び方で行こうと心に決める。

「エリートに貸しを作っておくのは悪くないな」

 台詞を探していた藤居は、ようやくそう呟くと、立ち上がった。

「そろそろ李(リー)も出てくるだろう。俺もシャワーに行かせてもらう」

 と、そこへちょうど峰國が帰ってきた。足音だけではなく声がするのですぐにわかった。峰國がひとりではないことも。

「やあやあ、青年諸君」

 ドアを開けたのは峰國ではなかった。

「ちょっと付き合わない?」

 門宮洗が、峰國の首を腕で捕まえて立っていた。



- 6 -


 門宮が部屋へ侵入するのを何より怖れた南田たちは、彼の誘いにやむなく応じ、「ちょっとそこまで」出かけることになった。

「そう恥ずかしがるなよ、青年たち。特別にいいものを見せてやろうっていうんだからさ」

 すっかり打ち解けた――と一方的に認識した――門宮は、もう丁寧語を全く使わない。右手を南田の肩に、左を峰國の肩に回し、顔を抱き寄せるようにして廊下を進んでいく。

 門宮と背が近い南田はまだよかったが、高めの峰國はより強引に顔を引っ張られており、感じたくもない体温を伝えられる可哀相(かわいそう)な立場にあった。しかし、そうされるだけの責任がある、とも言えた。シャワーを出た峰國は、カフェオレのある自販機を探してさまよっていたところを、偶然、門宮に見つかったらしいのだ。まっすぐ帰って来ていれば、獲物を求めて徘徊(はいかい)する肉食獣に出くわすこともなかったろうに、と南田は残念に思わざるを得ない。

「門宮さん、そろそろもったいぶらずに、『いいもの』の正体を教えてくれてもいいんじゃないですか?」

 先日この基地に仕事で滞在した藤居は、行き先がどこかわかって聞いているようだった。南田にわかることはと言えば、すでに立入禁止のドアを通ってしまったことと、他に人の気配がないこと、つまるところ誰かに見られるとまずいのだなということだった。

「お飾りの首都防衛部隊に配属された君たちへの、励ましになるものさ」

「それって」南田は少し本気を出して門宮の束縛から逃れる。「けなされているように聞こえますけど」

「ちょっと怒ったところがかわいいねえ、竜時くん」

 峰國が竜時、竜時と呼ぶので、当然ながら下の名を覚えられてしまっている。

「けれど、これを見たら少しは俺に感謝してくれるだろう」

 門宮は突き当たったドアの電子錠にセキュリティコードを打ち込んで難なく開錠すると、片腕で捕まえたままだった峰國も解放して、南田たちに進むよう促す。

「俺が最後に通らないと、閉まっちゃうかもしれないからね」

 抜けた先は照明がついていなかった。それでも非常口の案内や各種の警告灯が光源となっており、全く見えないわけではない。そこへ廊下から差し込む光も加わって、ここが機兵の組立を行うための空間であることを南田たちに教えてくれた。機兵用と特定するのは簡単だった。見えたのだ、奥に鎮座する機兵の姿が。そしてそれは、見慣れた龍(ロン)とは少し違っていた。防人型でもない。龍ではないのだ。

「あれは……」

 藤居が言いかけたところで、門宮がドアを閉めたため、辺りは一旦闇に包まれた。機兵の輪郭も見えなくなるが、その存在感は消えなかった。瞼(まぶた)に焼きついた像が今も見えている。南田は藤居が何を言おうとしたのかわかった。だから続けた。

「龍王(ロンワン)じゃないですか?」

 正解、と嬉しそうな声と同時に、天井のランプがゆっくりと点灯を始める。目を離していなかった南田はすぐに機兵の姿を再確認できた。龍よりもずっと大きく張り出した肩鎧、龍より一本数の多い四本指の手、恐竜を思わせる足、そして、龍よりも険しく猛々しい容貌。目に付いた龍との差異のすべてが、その機兵を龍王だと示している。SMITS(スミッツ)が作った亜細亜連邦初の機兵にして、龍の設計母体。機兵パイロットとして訓練を受けてその名を知らぬ者はないが、南田は実物を見たことがなかった。なにせ実物は外廓聯の各分隊で隊長機として活躍している。龍王は量産を前提としない技術実証機としての意味合いが強く、即時量産用に大幅に再設計された龍よりもむしろ性能的に勝る部分がある。無論、龍のほうが合理化されており汎用性や稼働率を高められてはいるのだが、龍王も最新技術のフィードバックを受けて仕様を逐次更新されているためか、外廓聯における龍王の戦果は龍の比ではないという噂だった。南田も機兵パイロットとして当然のように憧れていた。それが今、眼前にある。

「すっげー、初めて見た! でも、これ何番機ですか? 外廓聯が日本に来ているなんて話は聞いてないですよ」

 さっきまでお肌のふれあいを嫌がっていた峰國が、一転して自ら門宮の袖を掴んでいる。

「陸(ろく)番機らしいな。SMITSの職員が言っていた」

「なるほど。合点がいきましたよ、門宮さん」と、藤居。「富士工場にSMITS職員が出張だなんておかしいと、そう思っていたんです。俺はこの間ここへ来て新型の出荷前テストをやっていましたが、SMITSの人なんて全然見かけませんでしたから。しかし、龍王とはね。それは見かけもしないわけですよ。こんなものは、ここには存在しないことになっている」

「頭のいい子は嫌いじゃないわ」

 門宮は悪戯(いたずら)っぽく笑ったが、藤居はペースを崩さなかった。

「あなたは部外者をここへ近づけないのが仕事ではないのですか?」

「だから、特別だって言ったじゃないか」

 男の口調に戻って、とぼける門宮。南田は続くふたりのやり取りに注意を向けつつ、背中を向けて龍王のほうへ歩いていく。峰國もついてきた。

「たしかに珍しいものを見せて頂きましたが、機密を目にしたからと言ってここへ軟禁されるようなことになっては困るのです、我々は」

 それを聞いて南田は足を止めた。峰國がそのまま進もうとするので襟首を捕まえる。藤居の憂慮するシナリオは全く考えてもみなかった。門宮が、倉知や江藤らの心配していた「黒龍隊を狙う勢力」の一員である可能性があるのだ。一度助けてくれたからといって全面的に信じていい道理はなかった。危険には気づいて然(しか)るべきだった。龍王に近づいたところでレーザー探知に引っかかって警報が鳴り渡り、うじゃうじゃと四方から湧いて出たRAT(ラット)の隊員たちに取り押さえられる……そんな光景を南田は脳裏に思い浮かべる。

 数秒のあいだ沈黙を保っていた門宮は、突然堰(せき)を切ったように笑い出した。

「心配性なんだな、藤居准尉は。いや、失敬。慎重だよ、君は。ますます惚(ほ)れそうだ」

 顔だけふりかえった南田は、門宮が腰から拳銃を抜くところを目にした。冷や汗が噴き出る。――が、杞憂(きゆう)だった。門宮はゆっくりとそれを持ち替え、藤居にグリップを向けて差し出す。

「気になるのなら、これを預けておこう。狙いをつけていても構わない。もっとも、オススメはしないけどな。せっかく龍王をお目にかけているのだから、ゆっくりと堪能(たんのう)してもらいたいというのが俺の本心だ。ま、しかし考えようによっちゃ、悪くないか。准尉が俺に釘付けだって考えると、ゾクゾクする」

 門宮が本当に軽く身震いしている。その様子を見て藤居は首を横に振り、拳銃をつき返した。

「敵意のない相手に銃を向けるつもりはありません。疑ってすみませんでした」

 門宮はにこりと笑って銃をホルスターに。丸く収まった。

 四人で龍王を囲む。

「触ってもいいですかね」

 おそるおそる南田が尋ねると、門宮は首をひねった。

「うーん、難しいな。誰も指紋なんて取らないと思うが、うっかり部品が外れたりすると、あとでSMITSの連中がうるさいだろうなぁ。眺めるだけで我慢してくれると嬉しいわ。――あ、俺の身体なら、好きなだけいいけど?」

 結構です、と断って、峰國と二人ですみずみ見て回る。もちろん龍王のほうを。

 南田は、おや、と思った。よくよく検分すると、資料で拝んだ龍王、すなわち壱番機から参番機までと比べると、細部の形状が違っているのだ。門宮はこれを陸番機と言っていた。第二世代型に移行したのかもしれない。

「新タイプみたいですが、こいつはこれからテストを?」

「ご覧の通り五体満足に組み上がっているから、近々そうなるんじゃないのか? もう何度かやっているのかもしれないが、何も聞いてはいないな。俺は履歴について知るべき立場にはいないんだ。同じ元老院出資のSMITSとRATと言ったって、そんなものだ」

「ここでは十分なテストはできない」と、藤居。「SMITSは龍王がここにあることを軍にもフェイジアインダストリーズにも知らせていなかった。知っていたとしても上の人間だけだろう。防人型のテストに使ったのは屋外の施設だったし、他にいい場所はなかったように思う。龍王をここでテストすれば、すぐにその所在は明らかになってしまうが、SMITSはそうするつもりはないようだ。おそらく、ここには一時的に保管しているだけで、近々よそへ移送するんじゃないかと俺は思う。本格的なテストを秘密裡(り)に実施できる場所だ。以前龍王のいた霞ヶ浦なら、そういう施設があるかもしれない。あるいは、もうこれで実戦仕様なのか」

「そうだとすれば、これは黒龍隊に渡されるべき代物だな」

 門宮が、今思いついた、という様子で呟いた。

「え、そうなんですか? やったね、乗れるかも」

 峰國がテンションを上げている。南田も口にこそ出さなかったが、猿之門基地にこの龍王が闊歩(かっぽ)する姿を想像して、顔がにやけていた。きっと江藤は絶好の玩具(おもちゃ)を手放さないだろうが、同じ部隊に龍王が存在するだけで誇らしい。喜ばしいことだった。もし、事実であるならば。

「門宮さん、そう思う根拠をお聞きしてもいいですか」

「なあに簡単な推理だよ、竜時くん。実戦投入された龍王は三機。壱番機が白龍隊、弐番機が青龍隊、参番機が赤龍隊。肆(し)番機と伍番機がどこへ行ったか知らないが、そいつらが純粋に試験用の機体だとすると、この陸番機はその二機で得られたノウハウを詰め込んだ機体ということになる。もしかすると、実戦投入を前提として作られた初めての龍王なのかもしれない。すると、その配備先はどこだろうか。外廓聯で活躍中の龍王と交換するのもいいだろうし、外廓聯の分隊を一個増強してその象徴に据えるのもいいだろう。しかしこいつは今ここに、日本の富士にある。わりと近くに新設の機兵部隊がある。そこにはまだ龍王は配備されていない。じゃあ、そこへ回すのが適材適所ってもんだろう」

 ワトソンくんの心境を南田は初めて思い知る。あの手の推理小説を読んで純粋に楽しめるのは、ワトソンくんの立場になったことがない人間に違いない。それか、とりあえず殺されずに済む立ち位置に十分満足できる人間か。南田はそのいずれでもない。やはり小説は日本の時代物が一番だ、と再確認した瞬間だった。

「でも、龍王が来たんじゃ、かえって危ないかもね」

 峰國の言葉は、最初、南田の耳を右から左へ通過した。脳をスルーしていったそれを、南田は慌てて呼び戻して、反芻(はんすう)する。龍王が配備されると、黒龍隊の危険が増す。――何も思いつかないほど南田は愚かではなかった。

「龍王を狙って、啓示軍(オフェンバーレナ)が襲ってくるかもしれないって意味か」

「そうそう。秋につくばが襲われたでしょ。あれって、やっぱり龍王が目当てだったんじゃないかな」

「狙われたのはSMITSの施設のほうじゃないのか? ――つっても、龍王がいれば猿之門にもSMITSの研究機関が出張しているって判断されるかもしれないか。俺だってそう勘違いするだろうし」

「啓示軍がそうするとすれば」と、門宮。「それは黒龍隊が舐(な)められている証拠だな。龍王を狙うなら前線で外廓聯と戦えばいいし、SMITSの研究施設もあちこちにある。啓示軍がそっちを標的とせず、遠路はるばる防空網を掻い潜(くぐ)って日本まで飛んで来るとすれば、それは黒龍隊など張子の虎だと奴らが高を括っているからだ」

「その言葉は黒龍隊への激励として受け取っておきますよ」

 藤居はそう言って苦笑すると、南田と峰國を呼んだ。腕時計を指で示す。もう寝るぞ、と言っているのだ。明日は防人型の搬出準備が整い次第、出発することになる。別の区画で今も徹夜の作業が行われていることを思い出し、南田は、惜しみつつも龍王のそばを離れた。

「門宮さん、ありがとうございました。明朝発つ予定ですので、今夜はもう休もうと思います」

 三人横並びで敬礼。

「おや、もういいのか。残念だ」

 門宮は名残惜しげに時計を見る。ベッドまで連れ帰れなくて……という門宮の心の声を、南田は聞いたような気がした。



- 7 -


 明けて十二月十三日。関東一帯は晴天に恵まれた。主要幹線道路では路上の融雪が再凍結することもなく、鉄道も含めて、陸の公共交通機関はおおかた復旧した。

 午前十時、猿之門基地に二輛の大型トラックが到着した。二二式機兵用搬送車乙型。ヤドカリという愛称のもととなった巨大な荷台には、龍(ロン)が一機、腕など一部を外されただけの状態で搭載されている。

 その姿を見て黒龍隊整備班が歓声を挙げた。

 猿之門基地に先日配備された二二式機兵用搬送車甲型は、大八車という、愛称なのか蔑称(べっしょう)なのかわからない通り名がついたように、ただ大きいだけのトラックだった。甲型の最大の弱点は、龍を積むにしても五体をバラバラに分解する必要があること。安上がりで大量に配備できるとはいえ、現地での組立を必要とするようでは戦闘への移行がスムーズではないという批判から、機兵整備台を荷台に押し込んだ乙型も徐々に配備が進められていた。それがようやく、黒龍隊にもやって来たのだ。腕を外す程度の作業ですぐに龍を搭載でき、しかも到着後は荷台を展開して整備台へと変形させ、自動で組立が可能な優れものが。そして積まれてきたのはただの龍ではなく、防人型である。

 扱いなれない大型車輛の運転から解放され、南田と峰國(フェングォ)は労(ねぎら)いの言葉を期待しつつ、集まった仲間たちのほうへ歩いていった。が、三十人ほどの整備士軍団は目も合わさずにふたりの横を駆け抜け、ヤドカリと防人型に群がった。

「大変だったな。襲われたって?」

 へたりこんだふたりに初めて声をかけたのは坂元だった。後ろには鷹山。ふたりとも操縦服を着ている。右院議員歓迎の準備とリハーサルは先にやっておく、と連絡を受けたのを南田は思い出す。

「ああ、富士工場の手前でさ。通りすがりのRAT(ラット)の人に助けてもらったよ」

「なんだよ、だらしないな。藤居さんがいても駄目だったのか。相手は何人だった」

「ひとり、かな。俺はよく見てないからわからない。遠かったんだ。夜だったし。むしろ藤居さんや峰國はよく見えたもんだよ」

「視力は三以上だもんね」得意げに、峰國。「でも藤居准尉はもう少しあるっぽい。それか夜目が利くんだ」

「そりゃ、東部方面軍じゃ治安維持部隊の狙撃要員だぞ、あの人は」

 坂元が当然のように言ったが、そんな話は初耳だった。

「誰から聞いたんだ、それ」

「本人からに決まっているじゃないか」

「え、だっておまえ、昔のことを聞いてもはぐらかされたって……」

「江藤少佐との馴れ初(そ)めは教えてもらえなかった。けど他のことはいろいろ教えてもらったよ。竜時、おまえあのときやっぱり、人の話をろくに聞いていなかったな」

 そういえば、藤居と江藤の過去の関わりに興味を持つあまり、そこの答えが得られないとわかった瞬間に思索の穴蔵に潜り込んでしまった、ような覚えがある。

「で、その藤居さんはどうしたんだ」と、鷹山が問う。「どっちにも乗っていないみたいだな」

「ちょっと急な用事ができて、遅れて来る」

「視察には間に合うのか」

「わからないけど、議員の持っている名簿にはまだ藤居さんの名前は載っていないんじゃないか? パイロットの数が合わなくても気づきはしないさ」

「それもそうだな。どうせ全員分の機兵があるわけでもない」

 パイロットは藤居や江藤を含めて十人。機兵は防人型を加えて六機。楢田議員を迎える際には全機を整列させる予定だが、余りが出る計算になる。本番であぶれるのが誰かは未定なのだと、リハーサルを欠席したふたりは坂元から聞かされた。

 今からくじを引くということで、一緒に詰所に戻ることになる。途中、基地内の雪達磨がまた増えたのに南田は嫌でも気づかされた。道端もそうだが、西側の演習場には屋根越しにも頭が丸ごと見える巨大な雪達磨が立ち並んでいる。おおかた龍を使って作りでもしたのだろう。もはや歩行訓練の障害物としては意味をなさない大きさであり、視察用の見世物なのだと南田は推察する。誰の発案かは考えるまでもない。

 詰所には残りのパイロットたちが集まっていた。南田は、江藤が割り箸か何かでくじを作ってご満悦の様子を予期していたのだが、いざ詰所について見ると、そこに江藤の姿はなかった。見落とすような体格ではない。狸の置物が混じっているのと同じくらい目立つはずだった。たしかに江藤はいないのだ。

「準備があるからって、どっか消えたぜ」

 南田の視線の動きを捉えた鷹山が教えてくれる。

「右院議員、しかも軍事委員会の委員といったら、俺たち黒龍隊の財布を握っているに等しい。下手をしたら特権も剥奪(はくだつ)されかねないし、さすがの江藤少佐も余裕綽々(しゃくしゃく)とはいかないんだろう」

「面倒くさがって、逃げ出したりして」

 峰國が思いつきを口にする。南田としては、そんな事態は勘弁願いたい。峰國にしても立場は同じはずなのだが。

 従前用意されていたらしいくじを、朝井が持って来る。詰所で使われたティーバッグの紐(ひも)を集めて再利用したものだった。朝井の手に隠されていない紐の一端には、まだアールグレイだとか書かれた紙片の一部が残っており、南田はそのなかから自分が数日前に飲んだものと思われる一本を選んで引いた。当たり。

「ちぇー、外れた」隣で峰國が嘆く。「生身で立ってるのは寒そうで嫌だなぁ」

 続く坂元と鷹山は、当たり。全員のくじの結果を見てきた朝井は、最後に残された一本の正体に間違いのないことを確かめて、頷いた。赤い線が一本。南田は首をかしげた。手元の紐は、二本線だったからだ。

「それ、防人型の当選くじです」

 朝井は羨(うらや)ましそうに南田の手中の紐を見た。坂元と鷹山が各々くじの赤線の数を確かめ、そろって残念がる。

「よかったね、竜時。運んできた甲斐(かい)があったじゃない。一番乗り」

 峰國がにやにやと笑っている。

 たしかに都合は良かった。そして、都合とは人それぞれに違うものだと南田は知っていた。



- 8 -


「すまないね、遅刻させてしまって」

 助手席の門宮がいまさら詫(わ)びても、藤居は、それを誠意であり本意であると受け取るような御人好しではなかった。

 猿之門基地へ向かう三輛目のヤドカリ。予定にはない行動であり、黒龍隊が受領するべき装備品のリストにこの車輛は含まれていない。これはSMITS(スミッツ)の持ち物だった。おそらくそのSMITSにも貸し出す予定はなかっただろうと藤居は思う。当然、荷台に積まれた物も。

「そうだよ洗さん」

 後ろの座席から身を乗り出した若い女――というよりもまだ少女――が門宮をつつく。

「軍隊はRAT(ラット)より時間に厳しいんだから」

 ショートカットを通り越して丸刈り一歩手前のその少女、五百蔵(いおろい)惟織(いおり)は、たしかに上等兵の階級章をつけている。藤居は五百蔵を少女とカテゴライズし確定したが、実際の歳は知らない。訊ねたが、ふたりに怒られた。五百蔵と、門宮に。正解は教えてもらえずじまいである。

「それはRATを舐めているんじゃないの、イオリちゃん」

 門宮は五百蔵の指を捕まえて、その先端に目を寄せる。

「色気のない爪ね。まあ仕事柄しかたないとは思うけど」

「フンだ」

 五百蔵は門宮の手を振り払って、後ろへ引っ込む。

 まったく緊張感を感じさせないふたりだが、それはうわべだけのことかもしれないと藤居は疑っていた。なぜならふたりは警護中なのだ。警護対象は、五百蔵よりさらに一列うしろにいる、アーリア人らしき無言の男。SMITS管理職のジョンソン氏だと、出発前に門宮は紹介した。インドと中国にしか住んだことがないので日本語は殆(ほとん)どわからないとのことだったが、英語で話しかけてみても、北京語に変えてみても、簡単な返事しかよこさない。日本人特有の訛(なま)りが通じないのかという懸念もあったが、じきに藤居は理解した。この男は会話を望んでいない。――言いだしっぺはこの男のはずなのだが。

 防人型を受領したのち、南田と峰國(フェングォ)だけを先に行かせて藤居が富士工場に留まったのは、直接には門宮の依頼による。昨夜龍王(ロンワン)の格納庫に忍び込んだあと、門宮は秘密を明かしたのだ。実はSMITSが黒龍隊に龍王のテストの協力を依頼したいと考えており、まずは隊員の生の反応を見てみたかったのだ、と。つまりあの格納庫でのやりとりは音声、動画、いずれかの方法で監視もしくは記録されていた。どこがどうお眼鏡(めがね)にかなったのは謎だが、SMITSは依頼を出すことに決めたらしい。しかし、藤居たちでは交渉の相手にならない。極東方面軍に所定の手続きで申請を出すのが筋だが、相手が黒龍隊の場合、隊長相手の直接交渉も許されるという。同様の扱いを受ける外廓聯ではSMITSや亜細亜連邦軍開発部から手続きのロスなく試作品が渡されることが多々あるのだ、とも藤居は説明された。すべては門宮の口からだった。

 藤居は門宮を全面的に信用する気などなかった。銃撃戦中のところを彼らに助けられたが、その恩は勘定には入らない。あれはRATの自作自演だったと藤居は感じている。藤居たちに龍王を見せ、SMITSにその様子を吟味(ぎんみ)させるために、急遽(きゅうきょ)設(しつら)えられたシナリオ。明白な証拠はなく、勘に過ぎない。しかし真実だとしても、証拠など出てこないに違いない。急な仕事でもRATは痕跡(こんせき)を残さない。彼らはプロフェッショナルなのだ。藤居は東部方面軍にいる間にそれを学んだ。RATの仕事は大陸のほうが多い。八月の悪夢で穿(うが)たれたクレーターの警備――それらは研究資料として貴重であり、また危険地帯でもあるがゆえに立入禁止である――などがその典型例だが、どちらかといえば、藤居は裏の仕事の手広さを感じることのほうが多かった。市街地の爆破を計画していた過激派のアジトに踏み込んだところ、すでにRATによって制圧されていた、という自身の経験もある。おそらく元老院議員が爆破により死傷する危険があったためにRATは動いたのだろうが、確認する手段はなかった。RATは問い合わせを無視する権利を持ち、そして元老院議員の住所氏名もわからない。類推と憶測だけしか許されない世界。

 RATが何を企んでいるのか、もとい、RATにややこしい工作を必要とさせるような要望を出したSMITSの思惑は何なのか、藤居は道々考え続けていた。交渉を行うつもりらしいジョンソンは黙して語らず、警護のため同行する門宮と、龍王のテストパイロットと名乗る五百蔵は、ひたすら他愛もないおしゃべりに興じている……ように振る舞っている。五百蔵はSMITSに出向中という扱いのようだが、実際に軍で訓練を受けたようには見えない。軍籍のほうが後付のオマケなのだろう。すると三人とも元老院の手の者、と括られる。

 目的が見えてきた。

 黒龍隊は、中央議会が欲して設立したものだ。非常時に政府機能と自分たちを守る存在として。中央議会は外廓聯にその任を期待できなかった。彼らが前線で転戦する部隊であり、啓示軍(オフェンバーレナ)の奇襲や内乱による政府の危機に対応することが難しいことに加え、もうひとつ懸念事項があったがために。それは、外廓聯が最優先で守るのは元老院とその指示であることだった。亜細亜連邦、そして中央議会という枠組、ルールを作ったのは元老院である。創造主は、作ったものに満足できなくなったとき、しばしばそれを破壊する。自ら。それゆえに中央議会は外廓聯を信用できない。代わりを用意する必要があった。

 そうしてできた黒龍隊にも、元老院は何かしらの影響力を植え付けておきたいのだと藤居は推論した。龍王の移管は現場の判断でどうこうできるものではないだろう。おそらく元老院の指示か、そうでなくても認可を得た行動である。

 龍王ならば影響力として申し分ない。猿之門基地に龍王を預かれば、たとえ普段はSMITSの所属であっても、非常時に江藤は龍王を徴発し配下に組み入れられるだろう。つまり、現状で機兵の数が不足している黒龍隊にとっては貴重な予備戦力になる。しかしそれは紐付きで、江藤が手に取った瞬間、釣り上げられるリスクを孕(はら)んでいる。有事の際、龍王が江藤に危害を加え指揮能力を奪ってしまえば、黒龍隊の特権は行使されるべき時機を目前にしながら失われるのだ。そして中央議会は切り札を失う。

 五百蔵がそのような工作員であるとは、うわべからは考えにくい。しかし油断させやすい外見の人間こそ適性があるといえる。そうでなくても、龍王自体に何らかの仕掛けをしてもよい。たとえば戦術データリンクを介して龍(ロン)や支援コンピュータ群に感染するウイルスを隠しておくなど、手段は豊富にある。

「乗り気ではないようだね、藤居くん」

 門宮が五百蔵との雑談を中断して話しかけてきた。

「自分の個人的感情はともかく、江藤少佐の選択の権利を、部下の独断で奪うわけにはいきませんから」

「けれど君は、まだ迷っている。江藤博照少佐の選んだ結果がどう転ぶかについて君が責任を負うことはないが、選択は、その行為自体は安全に行わなければならない。そして君は俺たちを信用していないがゆえに、このまま連れて行っていいものか迷っている。信じてもらえないのはどうしてかな」

「月並みな台詞になりますけど、あなた方は元老院派です。対して黒龍隊は、必然的に議会派ですから」

 頭かたいんだ、と後ろで五百蔵がくすくす笑う。門宮も笑っていた。男の笑い方だった。

「それは君が選んだ結果ではないだろう。それとも、個人的に中央議会に忠誠でも誓ったのかな。だいたい、元老院が中央議会に対して悪意を抱いているなんてどうして考えるんだ。たしかに衝突の余地を残す権力機構ではあるが、折り合ってやっていけばいいじゃないか。それが平和的だ」

「元老院にその意がなくとも、利害関係によって連なる人々がすべて紳士的とは期待できないでしょう。議会派と呼ばれる人たちにしてもそうです。対立はすでにわかりやすく図式化されてしまいました。この二十年で。望むと望まざるとに拘(かかわ)らず、巻き込まれてしまう。そこに折衷(せっちゅう)などありません。どちらに付くか、です」

「かつては軍閥派なるものも、存在したよ。そう遠い過去じゃない。あれの瓦解は最近のことだ。応龍事件さえなければ、まだ健在だったろう」

「二極か三極かという違いだけでしょう。彼らは別ベクトルを狙ったのであって、折衷を目指したわけではなかった」

「つまり、君はどうしても疑心を払えないというわけだ。まあしかたないだろうけどね。で、どうするかい。ここで車を止めることも君にはできる。大丈夫、君には安全な選択を保証しよう。俺も味方に銃は向けたくない。せっかくのいい男だしな」

 猿之門基地に向かわない、という選択肢は、富士工場を出てからずっと頭の中にあった。ちらついていた。それでも前だけ見て運転してきた。勝手な行動は門宮が許さないだろう、という防衛本能も作用していたが、それだけではない。

 ――結局、俺は自分で決断を下すことをおそれている。

 藤居の傷が疼(うず)いた。

 もう一年以上前になるが、過激派掃討任務で心身ともに傷つき、どうしようもなく落ち込んでいた藤居を救ってくれたのが江藤だった。その江藤に近づく危険は、できるのならこの手で払いたい。しかし江藤がそれを望まないことに藤居は気づいていた。

 江藤は大きな野望をその胸に秘めている。理想を追っている、と本人は表現した。その実現のために、取り込める手段には何でも食いつくだろう。リスクを知ったうえで。そうでなければ黒龍隊の隊長の任など受けたはずがない。もしかしたら、一年前に藤居を助けたこと自体、江藤にとっては手段の拡張の一環であったのかもしれない。そう思うこともある。それでも藤居は敬愛を捨てる気持ちにはなれなかった。かつて垣間(かいま)見た、理想と現実の狭間(はざま)で悪あがきをやめない江藤の懸命な姿を、藤居は忘れていない。

「折衷はありません」藤居は決然と言い放った。「門宮さん。自分はあなたたちを警戒すべき立場にある。その認識を改めることはできません。そして立場を改めるつもりもない。自分の居場所は、あそこなのです」

 そこが、目的地が、もう見えている。猿之門の丘の上、白亜の壁と有刺鉄線に囲われた基地が。

「では、ここらで停めてくれ。君に筋を通させてあげよう」

 銃の安全装置を外す音がした。藤居は思わず門宮に目をやる。が、門宮は銃には手を触れていなかった。頬の辺りにつきつけられた拳銃は、少女のしなやかな指によって把持(はじ)されていた。ただし、細くしなやかではあっても痛みを知らぬ指ではない。荒れた爪に、傷の残る節々。

「友人に銃を向けたくないのでね、俺は

 門宮は平然としていた。五百蔵の手に震えはなく、ルームミラーに映るジョンソンは依然として石像のようにじっとしている。

「停めてくれ。それだけでいい。俺も任務を果たさないわけにはいかないんだ」

 藤居は従うほかなかった。選択の余地をなくしたのは門宮だった。それを友人に対する思いやりだと捉えることもできる。しかし純粋ではない。門宮はあくまでもRATの人間だった。そのうえで、任務と友情の折衷を、彼は示したつもりなのだろう。

 停車後、門宮は鋭く周囲に目を配ったのち、五百蔵へウインクした。

「イオリちゃん、それはもういいわ」

「はーい」

 五百蔵の細腕が一度引っ込み、拳銃をしまってから再び伸びてくる。今度は藤居の顔の横を通り過ぎ、藤居と門宮の間にある荷台の制御パネルの上をすべる。タッチパネル式。コンプレッサが音を立て始める。

 ヤドカリの殻、荷台が、屋外機兵整備台へと姿を変えていく。続けて搭載機兵、龍王の組立開始。龍とは作業手順が異なるが、もともとSMITSの使用していたヤドカリなのでそれはインプット済みだった。五百蔵は始動だけしてドアから飛び降りる。

「俺も、降ります」

 龍王の組立シークエンスの進捗(しんちょく)をモニタで眺めていた藤居は、意を決して門宮に宣言した。これを聞いた門宮はちらりとジョンソンの顔を窺い、そして、肩を竦(すく)めた。

「好きにするといい。龍王受け入れに関して、君の仲介は頼めそうにないようだし、するともうRATとして君を拘束する必要は消滅したよ」

 藤居もジョンソンを見た。目が合う。その瞬間、ただの管理職ではないと直感した。もしや、この男は……。

「けど、これはわかっておいてくれ」門宮の声が藤居の視線を戻させる。「元老院と中央議会。二大権力の対立の図式が変えられないとしても、君はそのなかで動くこともできるんだ。拘束はされていないのだから」

「さっきも言いましたが、俺は動くつもりはありません。俺が選択した結果だからです。俺には図式は変えられませんが、それをやろうとしている人を支えることはできる」

 藤居はベルトを外し、ドアを開けた。ジョンソンに一礼して、飛び降りる。

「果たしてそれほどの人物かね、江藤博照は」

 着地した藤居に、窓から身を乗り出した門宮が問いかける。

「それは、これからわかるはずです。今度会ったら、感想を聞かせてください」

 藤居はそれから振り返らずに、雪の残る道路を丘に向かって走った。一刻も早く江藤に知らせなければならない。その一心で。

 しかし、その遅々とした進行を嘲(あざけ)るように、彼の背後で巨大な影が立ち上がる。龍王と呼ばれる鉄の巨人が。



- 9 -


 楢田議員というのは、還暦前後という実年齢を秘密にでもしたいのか、髪を漆黒(しっこく)に染め固めた男だった。私服を肥やしているかどうかはわからないが、少なくとも容姿は細身である。まめに足を動かして働いている証拠だろうか、と坂元に聞いてみた南田は、馬鹿だな、と返された。

「太る、太らないは体質によるところも大きい。栄養吸収能力に劣る人間は多少食いすぎてもトイレに流してしまうから体重が増えないのさ。便利な体質だとたいがいの人間は羨むだろうが、そんなのは本来、生物としては褒められたことじゃない。あの議員にも同じ評価ができる。楢田議員はどうやら視察には熱心らしいが、そこで得た情報を咀嚼(そしゃく)して委員会での活動に反映できなければ、まったく無意味だ。ま、今後に期待といったところだな」

 偉そうなことを堂々と言っていられるのは、龍(ロン)同士の排他的な通信を使用しているからだった。楢田議員は、眼下にいる。整列した黒龍隊のまえで挨拶(あいさつ)をしている。最後列に配置された龍からもその声は集音できているが、コクピット側からは意図的に外部スピーカ出力しないかぎり話が漏れることはない。つまりは会話ではない。

 それはしかし、自分の足で雪の上に立っている面々にしても同じことだった。議員は黒龍隊という組織に言葉をかけているのであって、隊員ひとりひとりと話しているわけではない。代表者の語る、隊としての見解だけに耳を傾けていたのでは、現場視察の意味がないと南田は思う。こんな議員を選んだのは誰だ、と憤る。

 南田はこんな男を選んではいない。より正確には、選べなかった、である。成人であろうがなかろうが、一般市民に中央議会の直接選挙権はない。日本の議会が決めるのだ。亜細亜連邦中央議会に送り出す人間を。それはもう党利党略の世界であって、どうして楢田議員が選出されたのかなど、新聞や週刊誌をいくら読み漁(あさ)ったところで真実を見極めたなどとは確信できないだろう。慎重で知性のある人間であれば。なぜならばマスメディアもまたそれぞれの都合で動いているのだ。小説であれば、偏った見方により歴史的な情報を編集して――編修とは呼べまい――読者を楽しませるのもいい。しかし現在をそのような視点で見るのは南田には信じられない行為だった。

 ある中央議会議員の選出理由を知りたければ、本人やそれと近しい人々と直接話してみるほかないというのが南田の考えである。しかし実行に移すほどの興味は、正直、持てない。だから現状に妥協してしまう。中央議会に送られた議員の名前や素性などどうでもいい、とついつい思ってしまう。それで特に困ることはなかった。自覚できる範囲では。

 とはいえ黒龍隊に配属されてしまった以上、その権限を保障している中央議会右院の議員、しかも軍事関係の議題を専門的に予備審議する軍事委員会の委員でもある楢田のことは、しっかりと意識する必要が生じていた。視察に来たのはいいが、こちらの要請に取り合ってくれないような人物、または妙に曲解ばかりする人物であったなら、どうにか再選を阻止してやろうということになる。おそらく江藤ならやる。想像もつかない悪辣(あくらつ)な手を用いて。再選阻止どころか、任期を全(まっと)うさせないかもしれない。それは頼もしいのと同時に南田を不安にさせてもいた。江藤のほうが楢田を不当に悪く評価し、せっかくの味方を辞めさせてしまう結果もありうるのだ。だから南田も人任せにはしていられない。

 楢田議員視察に対する黒龍隊若手のスタンスは、数日前に統一してあった。坂元が楢田の動向を調べていたのも、役割分担によるものだ。もっとも、時期が早まったので坂元も資料をまとめるには至らなかったが。

 しかしタイミングのずれは決して悪い結果ばかり招いたわけではなかった。南田にとっては間違いなくそうだった。昨夜門宮と行き会わなければ、SMITSも思い切ったアイデアには至らず、龍王(ロンワン)が猿之門基地に来ることはなかったかもしれない。

「まだかな……」

 龍王は。南田はその言葉を危ういところで飲み込んだ。通信は坂元たちと繋いだままだった。

「江藤少佐か。北嶋大尉には同情する」

 楢田の案内をしているのは北嶋である。結局、江藤は時間になっても戻ってこなかった。

「まさかフケるとはね」

 慌てて話を合わせる。坂元は知らないのだ。ここへ龍王陸番機が届けられようとしていることを。坂元の驚くさまはそうそう見られるものではない。南田はチャンスを大事にするつもりである。

 やがて楢田の挨拶だか訓示だかは終わり、機兵による模擬戦を実演する段になった。普段どおりにやると楢田に怪我(けが)をさせかねないので、緩い模擬戦、というよりも模擬演舞をやる予定である。放電端子を外した雷紫電(ライシデン)を使って。

 いつものように青と赤にわかれる。ひときわ巨大な雪達磨を中間点として三機ずつが対峙(たいじ)。青が南田、坂元、杜(ドゥ)。赤が鷹山、朝井、久留(ひさどめ)で、このうち防人型に乗っているのは南田と久留。あぶれた群山と峰國(フェングォ)は寒そうに龍を見上げている。

 楢田は準備された椅子(いす)に座り、北嶋からこまごまと機兵のメカニズムについて説明を受けているようだった。マイクロマシンを使った人工筋肉、MMアクチュエータの動作原理はまだしも、変則領域による足の接地面近傍への重力拡散装置マスディフューザなど、人文系の楢田にどこまで理解できるのか南田は甚(はなは)だ疑問である。理解する意欲があるなら北嶋も徒労ではないのだが、果たして。

 模擬戦開始の号砲がなる。わざわざ号砲を撃ったのも議員へのサービスである。そのことを北嶋は説明しただろうか……などと考えている余裕はなくなる。スピードにはOSでリミッタをかけてあるので熾烈(しれつ)な戦闘にはなりようもないが、足元の雪達磨は健在どころか増強されているのだ。それを壊さずに模擬戦を終えてみせろというのが、北嶋から伝え聞いた、江藤の命令だった。市街戦でも市民の財産に極力傷をつけずに敵を撃退できます、という宣伝が狙い。

「やってみせる」

 南田の龍防人型は軽快なフットワークで邪魔な雪達磨を回避し、中央の巨大雪達磨を迂回して、相手方に先制をしかけた。防人型の慣らしの時間はほとんどなかったが、予め藤居からコツを聞かされていたおかげか、戸惑うことはない。防御体勢をとる正面の鷹山機に向かって高度数メートルの小さな跳躍(ちょうやく)。二股の竹刀(しない)となった雷紫電を振り下ろす。鷹山はそのまま雷紫電を受け止めた。南田の読みでは、鷹山は防御をフェイントにカウンターを当ててくるところだったが、案外慎重にことを進めている。楢田を配慮してか、それとも防人型の性能を推し量ろうとしているのか。いずれにしても好機だ、と南田はほくそ笑む。

 一瞬だけ後方監視モニタに目をやり、背後に坂元がついているのを確かめた南田は、鷹山機へ二撃目を繰り出すふりをして、リミッタの範囲で思い切り横へ跳んだ。南田の防人型を目で追った鷹山は、正面の防御を崩す。そこへ突きを繰り出す坂元。胸部を捉えた雷紫電は高圧電流の代わりにペイントを噴霧した。これで損傷を見積もる。さしずめ鷹山機はBFGに損傷といったところ。

 一方、鷹山の相手を坂元に任せた南田は、突出した南田を側面から襲おうとしていたもう一機の防人型、久留機の進路に立ちはだかっていた。久留は予定進路を狂わされて急遽機体をねじったが、防人型はそれに追従してくれても、操る久留自身が機体を御せていなかった。勢い余って雪達磨を踏み潰しそうになり、直前で足の着地点をずらす。狙い済まして頭へと雷紫電を突き出したが、久留は腕で頭をガードさせた。腕がペイントの青に染まったが、頭にはかかっていない。追撃を加えようとしたが、久留の防人型の姿勢復帰も通常型より速かった。雪達磨を盾にされ、距離をとられる。

 南田はまず鷹山を潰すことにした。各個撃破できる位置にある。狙ったわけではないのだが、偶然、そうなった。幸運を逃さないのも実力のうち、という格言を思いつきつつ、坂元とやりあっている鷹山の龍の背中へ襲いかかる。背部ロケットに青ペイント。背後からの攻撃に驚いた鷹山はさらに隙を作り、坂元がとどめのペイントを腹のコクピット部分へお見舞いする。

「RED1撃破」

 審判を引き受けてくれた機甲化歩兵部隊の工兵機が、判定を通達。南田は快哉(かいさい)をあげようとしたが、直後、別の審判機からも冷徹な声が届いた。

「BLUE3、反則三回により失格」

 杜洋伸(ヤンシェン)が雪達磨を壊しすぎたのだ。これで二対二。笑いは引っ込んだ。

「坂元。久留から潰す」

「了解。挟撃(きょうげき)する」

 大ジャンプで一気に、といきたいところだったが、制限があるので地道に走る。蛇行し雪達磨をかわしながら。久留は挟み撃ちを見抜いたのか位置を変えようとしたが、演習場の端が近くて叶わず、それは逆にタイムロスとなって久留を窮地に追い込んだ。敵方の朝井が駆けつける前に二機で押し込む。

「RED3撃破」

 あとは二対一。簡単だった。朝井機はすでに足にペイントを受けており、頭やコクピットでなくてもあと数箇所当てれば撃破扱いになる。しかし、決着を急いで雪達磨を壊してしまうと評点でマイナスになるので、ふたりは慎重になった。じわじわと朝井を追い込む。

 朝井も勝率が少しでも高いほうを選ぶ冷静さを残していた。演習場の隅へ追い詰められるのを嫌い、中央へと、巨大雪達磨のほうへと逃げる。そして、その巨大障害物をうしろにして立ち止まった。

 南田は舌打ちした。雪達磨は障害物であると同時に保護対象でもある。迂闊(うかつ)に攻撃して、それを朝井が避(よ)けた場合、雷紫電は雪達磨に深々と突き刺さるだろう。朝井は自分が負けるにしても相手に減点を与える戦術を取ったのだ。

「俺がやる」

 坂元が先に動いた。予想通り朝井は避ける。坂元は加減をしているので攻撃は雪達磨まで届かない。ここぞとばかりに反撃に出る朝井機に対して、坂元は雷紫電を引き戻すことなく、蹴りを入れた。そしてよろめいた龍の首を、雷紫電の又の部分で捉え、刺又(さすまた)で犯罪者をそうするがごとく雪上に組み伏せる。

 ペイントの噴霧口が分岐した先についているので着色はできないが、これは勝負あったな、と南田は思った。が、審判の工兵機からRED2撃破の宣言がない。何かおかしい。そう気づいた南田は、管制システムの模擬戦モードを切った。非表示になっていた各種センサー群が作動。――オールグリーンではない。接近警報。

 演習場に何かが降って来た。比較的小ぶりの雪達磨をいくつか踏み潰し、雪煙を立ち上らせたそれは、一目に機兵だとわかる。四つん這(ば)い寸前の衝撃吸収姿勢から、上体をゆっくりと起こしたのは、南田には間違えようもない、昨夜拝んだばかりの龍王陸番機だった。

「何これ。しょぼい演習してんのね、黒龍隊って」

 外部スピーカ出力で、龍王が言った。若い女の声だった。

「おっといけない。いまのは独り言です。敬語ではなくても怒らないで下さい。――で、と。江藤博照少佐は」

 龍王はあたりを見回した。特に、黒龍隊と楢田が集まっている周辺をしばし注視した。

「どうも見当たらないわね。江藤少佐、どこですか。龍に搭乗なさっているのでありますか。ええい、舌を噛みそうだ。敬語なんてクソ喰らえ」

 南田はしばし呆気(あっけ)に取られていたが、峰國以外の、この龍王を知らない者たちはもっと混乱しているに違いないと思い至り、隊全員に伝わるようスイッチを切り替えてマイクへ吹き込んだ。

「あれはSMITS(スミッツ)が富士工場で組み立てていた龍王です。テスト協力の相談で、猿之門に来ることになっていました」

 ドッキリを仕込んだはずが種明かしが早すぎる。それは残念でならないが、まさか龍王が起動状態で許可なく乗り込んで来て、さらに外部音声出力で暴言を吐くなどとは南田も予想だにしていなかったので、事態の収拾を優先せざるを得なかった。

 しかし。

 応答がない。機体管制システムからの警告がまだ出たままであるのを南田は発見した。通信系統が機能不全。外的要因と推定、とまで付記されている。

「ジャミングか」

 相対バルムンク反応センサーには龍と龍王以外の反応は無い。外部から巧妙に欺瞞(ぎまん)されていない限り――そのような手段は南田の知る範囲においてどこにも存在しない――バロッグは出ていないのだ。それで通信ができないとなれば電波妨害と見るのが定石(じょうせき)だった。龍同士ならレーザー通信もできるが、下にいる生身の北嶋たちや、レーザー通信機を持たない工兵機に対しては、龍王がそうしているように外部スピーカに頼るしかない。つまり、内緒話はできない。

「返事をしないなら」龍王の赤かった瞳の奥から琥珀(こはく)色の光が放たれる。「聞いて回るしかないですね」

 言うや否や、龍王が跳んだ。すばやかった。朝井機を組み伏せていたままの坂元機に飛びつき、鋭い四本の爪で龍の頭を掴むと、膝の裏に蹴りを入れて後ろに引き倒した。仰向けになった坂元機の眼前に爪を突きつけ、尋ねる。江藤少佐はこちらですか。

 南田は昂(たか)ぶりを抑えられなかった。SMITSは龍王の有用性を関係者全員に見せつけ、交渉を有利に進めたいのだろうが、これは無礼が過ぎる。声に幼さを残す龍王パイロットの目的が侮辱ではないにしても、周りの不愉快さに違いは無い。事情を知り、ある種の共犯者であるからこそ、南田は、自分がそれを許してはならないと強く意識した。

「ふざけるな」

 龍王へ雷紫電で殴りかかる。空振り。龍王は朝井機の上に飛び移って、同じ台詞を繰り返していた。そこへ失格扱いで演習場の外へ出ていた杜洋伸が戻ってきて、南田とともに龍王の左右を挟撃する位置につく。いや、包囲だった。鷹山と久留がリミッタを解除して大ジャンプを行い、龍王の前後を押さえた。

「四対一か。これは不利。でもプロモーションにはちょうどいいかな」

 龍王のパイロットはあくまで態度を崩さなかった。

「全部倒して、コクピットから少佐をつまみ出して差し上げます」

「言ってろ!」

 南田が外部スピーカに出力させた声を合図に、四機の龍が一斉に龍王へと迫った。ジャンプで逃げられる可能性があったが、寝返りを打つようにして移動した坂元の龍が、その可能性を潰してくれた。龍王は坂元機に右の足首を掴まれた。龍の重量を引きずって瞬発的に跳ぶことはできない。足枷(あしかせ)のついた標的に、四方から雷紫電が突き出される。坂元が朝井に対してしたように、龍王を取り押さえるために。

 首、左肩、右膝、左太腿を雷紫電が咥えこんだ。龍王はろくに回避しようともせず、少々身を捩(よじ)っただけだった。

「どうだ、俺たちの勝ちだ。降参して土下座しろ。江藤少佐に会わせるのはそれからだ」

 勝ち誇った南田は江藤流にそう言ってやったが、相手はぐうの音を吐かなかった。

「つまりあんたらはみんな下っ端ってことか!」

 にやりと笑う相手の口元が見えるような台詞だった。龍王は辛(かろ)うじて自由になる右手を背中のほうへ回し、そこに装着されていた鞘(さや)から一振りの刀を引き抜く。刀身が急速に赤熱。二二式機兵用発熱刀、「炎草薙(ホムラクサナギ)」。相対バルムンク反応のレベル上昇と赤外線による温度探知から、それが偽物でないことはすぐに判別がついた。

「まずい、離れろ」

 警告したときにはもう雷紫電のひとつが切断されかかっていた。南田は慄然とする。

 ――どこまで本気なのだ、この女は。

 龍はすべて模擬戦用の装備で、炎草薙に太刀打ちできるはずもない。一機か二機潰す覚悟でしかければ制圧もできるだろうが、そもそも、そのような犠牲を払う意味がない。味方なのだ。門宮と話した計画からは完全に逸脱(いつだつ)した、訓練とも呼べないこの状況は、一秒でも早く終わらせなければならなかった。無益な損害と犠牲が出る前に。

「どういうつもりだ、龍王のパイロット。それはSMITSの意思か? あまり頭のいい交渉の仕方じゃないぞ」

「頭が良くない? 頭が悪いって言ったな! そこの奴!」

 炎草薙を振り回して周囲の龍を遠ざけていた龍王が、南田機を睨(にら)む。

「ちょっと階級が高いからって、人のことをバカにしていいわけじゃないんだよ。特に、実力のない奴に言われるのがいちばんムカツク!」

 龍王のパイロットはもう自分に与えられた任務を忘れているようだった。あとで一発殴りたい、と南田は思ったが、そうするには迫り来る龍王の斬撃から逃れなければならなかった。逃げ回ればそのうち炎草薙を赤熱化させているコア――人工変則領域の発生源――への電力供給が尽きる。

 防人型と龍王陸番機の鬼ごっこが始まった。南田は雪達磨の合間を逃げる。龍王は雪達磨を蹴散らし、または炎草薙で蒸発させながら、それを追う。南田は他の龍に、無闇に手出しをしないこと、その代わり格納庫へ戻って実戦仕様の雷紫電を持ってくることを頼んだ。跳んだり走ったりの連続でレーザー通信の照準が定まらないので、しかたなくこれも外部スピーカに頼ったが、龍王のパイロットはそれを聞いても何ら戦術を変えることなく、また落ち着きを取り戻すこともなかった。

 市民とその財産への損害を考えると、演習場の外へ逃げることはできなかった。楢田や北嶋たちは演習場から退避してくれたようだが、さりとて基地内にいる限りは注意が必要だった。坂元たちが雷紫電を届けてくれても、好き勝手に反撃はできない。

 と、その待望の雷紫電が来た。直接渡す暇などないので、坂元はそれを演習場の中央付近に突き立てた。ランドマークたる巨大雪達磨のそばに。南田はそれを取りに向かう。すれ違いに坂元の龍が、別の雷紫電を手に龍王に立ちはだかる。坂元ひとりでは危険だと南田は感じた。雷紫電を抜き取って、すぐさま機体を翻(ひるがえ)す。

「な」

 南田は息を呑(の)んだ。正面に龍王がいた。

 坂元の龍はろくに相手もせず、執拗に南田を狙ってきた龍王は、炎草薙を大きく横に薙(な)ぐ。龍防人型がオートで雷紫電を盾代わりにする。基部から切断される。もう予備はない。まず追撃を避ける隙すらない。

 これはやられる、と思ったとき、南田の視界一面を白いものが遮った。白い壁が。そのまま下がって、南田は盾となってくれた物の正体を知る。それは、演習場中央のランドマークとなっていた、機兵サイズの巨大雪達磨だった。

 南田は我が目を疑った。雪達磨が動くなど童話の世界だけだと思ってきた。幼い頃から、その認識が揺らいだことはなかった。しかしその常識も変則領域を抱えるこの理不尽な世界にいきなり覆されたのか、とすら混乱する頭で考えた。

「少々、お茶目が過ぎるなお嬢ちゃん」

 どこからか江藤の声が聞こえた。

 いや、どこからか、ではない。音声の発信源は特定できていた。目の前の、雪達磨だった。炎草薙を頭に受けたその雪達磨は、猛烈な勢いで蒸気を立ち昇らせて解けていく。それでも声のほうは至って健在だった。

「おかげで部下の意外ながんばりを見ることができたが、これ以上の狼藉(ろうぜき)は見過ごせん。楢田議員にもそろそろ黒龍隊の有用性をお見せしなければならんしな」

「ス、スノーマンか。不細工な」

 龍王はたじろぎ、そのまま数歩後退。靄が晴れて雪達磨の頭がよく見えるようになる。――それは勿論、ただ大きいだけの雪達磨ではなかった。

「不細工とは何事か」

 雪達磨の頭は完全に解け、崩れ去り、なかから正体が姿を現していた。

 龍だった。両肩の端に可動砲塔らしき長物を備えたシルエットは、南田には見覚えがない。色も目新しかった。黒龍隊の龍は全機、ビル街に溶け込むよう灰色で塗られているが、この龍は森林地帯向けの緑の塗装を施されている。そして、若干剥げ気味である。装甲もあちこちに細かい傷や補修痕(あと)がある。

 その龍は、邪魔な殻を脱ぎ捨てて、薙刀(なぎなた)型の雷紫電甲型を盛大に振り回し、歌舞伎よろしく見得を切る。

「フン、解かしてくれたんで擬装パージの手間が省けたわ。さて、この江藤カスタムがおまえの相手だ。かかってこい」



- 10 -


 江藤はさんざん我慢していた攻撃衝動を解放した。

「やっと出てきたな、江藤少佐。あんたを倒してこの龍王(ロンワン)の有用性を証明し……」

 少女が口上を述べ終えるのを待たず、先制攻撃。さきほど雪達磨の中で相手の腕を受け止めていた、雷紫電甲型を、今度は攻めに使う。刃が相手の首元を掠(かす)める。そのすばやい攻めは、相手をさらに数歩ぶん後退させた。

 装甲貫通を諦め先端を電極棒として進化させた乙型と異なり、甲型の先端は刃物であり電極でもある。空中放電による広範囲スタン効果などは望めないものの、軟目標に対しては乙型よりも効率的な武器だった。炎草薙のような赤熱能力はないので切れ味には欠けるが、柄が長いぶんリーチに勝る。そしてなにより、江藤は絶大なるアドバンテージを確信していた。

「歴戦を潜り抜けた俺に勝てるとでも思っているのか、このキレやすい現代っ子があああああああああっ」

 明らかに自己矛盾した雄たけびを上げつつ、江藤は突進する。炎草薙の赤熱した刃が雷紫電の刀身を切り落とそうと動くが、そんなものは予想済み、頭を使うまでもなく見えていた。見え透いていた。突くと見せかけた薙刀を思い切り手元に引くと、同時に左足を軸にして一回転。払いにかかっていた炎草薙が虚空を斬ったあとへ、加速をつけた刀身を振り下ろす。龍(ロン)より人間に近い四本指の手首が、炎草薙を握ったまま切断され、雪上に落ちる。

「まだまだっ」

 江藤は標的への攻撃をやめない。標的のほうも残った左手の指で、その鋭い爪で、まだ江藤を狙っていた。頭めがけて突き出した雷紫電が四本指に掴まれる。江藤はすぐさまそれを捨て、それに引っ張られて相手の左手が横へ流れた隙に、相手の懐に飛び込んだ。両手で相手の頭をしっかりと捕まえる。

 ――やはり、たやすい。

 江藤はひとつ鼻息を漏らして、捉えた敵の形相をじっと見据えた。何も感じるところはない。龍より幾らか厳(いか)つくデザインされた、ただの機械。江藤は確信を得た。

 獲物が暴れて、江藤カスタムの手から逃れる。江藤は逃げる相手の腹を踏みつけ、肩の重機関砲の照準を合わせた。

「ま、待って! 待って下さい!」

 抗戦を諦めた少女の声が演習場に響く。しかし江藤は照準を外す気はなかった。

「遺言があるなら聞こう」

「ゆ、遺言って!? わたしはただ、SMITS(スミッツ)の命令で」

「ではSMITSに乗り込むときはおまえの首を土産にしよう。さて、他に言うことがないのなら、処刑を開始するが?」

「やめてください、正気ですか、江藤少佐」

 今度は男の声が江藤を止めた。声だけではない。江藤カスタムの肩に龍の手がかかっている。

「竜時か。邪魔をするな。黒龍隊の役目は首都機能の保護。その確実な遂行のために、自身の戦力の保護を目的とした行動もやむをえん。こいつは破壊するのがいちばんだ」

「龍王は貴重な戦力です。壊すなんてもったいない。だいたい味方同士で争うことなんてないでしょう。そのパイロットだってちょっと教育が足りないだけです」

「だから懲(こ)らしめてやるんだろうが。SMITSは人の育て方を知らんな」

「それはあなたも同じでしょう、江藤少佐。懲らしめすぎは逆効果です」

 一丁前に言うではないか、と感心した瞬間に、そこに隙を見出したのかSMITSの放蕩(ほうとう)娘がまた暴れる。少し体勢を崩されたが、江藤はそれ以上の抵抗を許さなかった。重機関砲を発射。数十発の砲弾を撃ち込まれた両肩が砕け散り、一拍置いて、少女の長い悲鳴が聞こえた。

「江藤少佐!」

 南田が批難の叫びを上げる。他の部下たちからも、やりすぎだとの声が次々と出る。

「聞いてください、江藤少佐。その龍王は、SMITSがうちにテスト協力を依頼しようとしていた機体なんですよ。いくらか手違いはありましたが、じきにSMITSの幹部が少佐と話をつけに藤居さんと……」

「藤居がその話を飲んだのか?」

「はい」

「渋々ね」

 と、足元から補足が入る。声は涙ぐんでいた。

「少佐に黙って話を進めるのは気乗りしないみたいだったけど、龍王を手駒にするいいチャンスだもの、そりゃフイにもできないでしょうよ」

「ちょっと黙っていろ、じゃじゃ馬。そろそろ、嘘を聞かされるはうんざりだ」

「わたしは嘘なんて!」

「おまえは信じているのかもしれんが、SMITSの話は嘘だな」

「SMITSは取引をする気はないってことですか?」

 南田の質問は、少々的(まと)が外れていた。江藤はもう説明が面倒くさくなって、乗機を獲物の上に跪(ひざまず)かせ、頭を押さえつけた。

「黙って見ていろ」

 江藤カスタムは空いている手でそれの顎(あご)の辺りを掴み、しばらく手探りをしたあと、一気に面(つら)の皮を引き剥(は)がした。少女の悲鳴と、何人かの間抜けな声が聞こえてくる。

「脱げ……た?」

 それの顔面を、たしかに江藤は剥ぎ取った。しかしその下には龍とよく似た顔が隠されていた。江藤カスタムの手にあるのは、龍王を模(かたど)った仮面である。

「これは龍王ではない」

 江藤は捨てた雷紫電を拾い、さらに胸部装甲の引き剥がしにかかる。あまり手間は取られなかった。予想した通りの分割線で綺麗に外れ、龍と同じ内部構造が露出する。無理矢理剥がしたのではこうも簡単にはいかない。量産に至らなかった雷紫電甲型の切れ味など、せいぜいがそんなものだ。仮面も、胸部前面装甲も、簡単に外れるような付け方をされていた。まさしく取って付けただけのものだった。

「龍を土台に、龍王の外装を流用して作った偽装機体だな。龍王の外見で目立つのは一本多い指や大きな肩だが、実際にはMMアクチュエータからして構造が違う。こいつはそれを再現していない。うわべだけなぞった紛い物だ。だから弱かった」

「弱かった?」

 南田が耳を疑う顔はよく想像できた。

「これが本物ならタイマンで倒せるものか。俺は赤龍隊隊長の龍王に、模擬戦で勝ったことがない。――さて」

 江藤は演習場の西を向いた。外部スピーカのスイッチは入れたまま、電波による通信も有効にする。

「仮面のジャマーは電源切れだ。もう通信も可能なはずだが、おい、聞いているかSMITSの狸」

 返事は、思ったよりは早かった。

「こちらRAT(ラット)二級警護員、門宮です」

「RATか。フン、お守りというわけだな。狸の置物は口を利けないか」

「実にお見事でした。陸番機はどうもお気に召さないようですので、当方で引き取ります。――と、ジョンソン主任が申しております。私、門宮が、のちほど部下とともに回収に伺(うかが)います」

「詫びを入れる礼儀は知らんと見える。まあ、いい。おまえたちの企みは潰(つい)えた。次はもうちょっとマシなイミテーションを作って来い。役にさえ立つなら偽物でも俺は文句はない」

「ご意向は伝えておきましょう。では、またのちほど。――惟織、おまえはおとなしくしていろよ」

「はい」

 消え入りそうな声で、少女、惟織が返事をする。

 これだから、RATやSMITSというのを江藤は好きになれなかった。



- 11 -


 日のあるうちに、RAT(ラット)の撤収部隊はどこからともなく集まり、そして散っていった。龍王陸番機と名乗っていた龍(ロン)の改造機の痕跡は、猿之門基地から消え去ったのだ。パイロットの五百蔵惟織は、しばらく機体に取りすがって泣きじゃくっていたが、門宮が迎えに来る頃には落ち着きを取り戻し、撤収部隊の龍王モドキの扱いにガミガミと文句をつけていた。どうやらスイッチの切り替わりが激しい気性のようで、そこに江藤はきな臭い過去を感じ取った。

 冒険心で試しに買ってみた冷凍食品があまりおいしくなかったときとよく似た気持ちで江藤が執務室に戻ると、昨日から返事を待っていたメールが二通来ていた。一通は、とある中央議会議員の秘書からで、楢田議員の視察日程変更が、単に交通機関麻痺で狂わされたスケジュールの帳尻あわせであることを裏付ける証言だった。もう一通は、軍の開発部の知人からで、富士工場にSMITSの中堅技術者がよく出入りしているようだ、という知らせだった。

「遅いんだよ、返事が」

 二通を読み終え悪態をついたところで、呼びつけておいた藤居がやってきた。ノックして、名乗る。いつもと同じ呼吸。江藤もいつものように「入れ」と言った。叫ばずとも声は通るドアはちゃちすぎるな、と思いながら。

 入ってきた藤居に、江藤は昼間できなかった話を聞こう、と告げる。藤居はすぐに話題を切り出した。

「あの龍王が偽物だと、どうしてわかったのですか」

 藤居はそれを知らせようと急いで駆けつけたが、着いたときには江藤が偽龍王を破壊してその正体を暴いており、拍子抜けしたと言う。

「見くびるなよ、と言いたいところだが、ま、あれはちょっとしたズルでな。――俺は龍王を識別できる」

 その説明は、余人にはともかく、藤居に対しては十分なものだった。

「龍王も、ですか。すると龍王はもしかして……」

「怪しいとは常々思っていた。が、証拠などない。赤龍隊には龍王参番機がいたし、肆番機とも一度共同戦線を張ったが、バラしてみん限りは何も証拠は出ないだろう。実は見えていたのかもしれないが、俺にはそれを証拠と気づくだけの知識がなかったし、そんなものでは第三者に対する説得材料にならない。試作機であるはずの龍王がどうしてあれほど強いのか。それは俺が龍王に感じる特別なにおいと関係があるのか。――そんな謎を追うよりも、今の俺には他に優先すべきことが多い。さしあたってあの紛い物を受け入れるとデメリットのほうが大きかった。ここへあれを置けば、猿之門は啓示軍(オフェンバーレナ)に対する囮(おとり)に使われたかもしれん。そんな難物を受け入れるか否かを、あくまで俺に委ねようとしたおまえの判断は評価する。が、怪しいとわかっているものをあそこまで近づけることはなかった。あの間、猿之門は十分危険に晒された。決断力に向上の余地があるな」

「自分でもそう思います」

 ややうなだれた藤居を、江藤は目を細めて見つめる。

「嘘だな。おまえは間違った決断をしたとは思っていない。その結果が俺に認めてもらえるかどうかを気にしているだけだ」

「それは……。そうなのかもしれません。自分でも、よくはわかりません」

「茨木のやり口に近いぞ、それは。自分が泥をかぶれば周りがうまくいく、というようなカッコのつけ方だ。俺の趣味じゃないが、かといって偽善と断じるつもりもない。好きなものを選べばいいんだ、おまえが。俺のすべてを見習おうなどとは思うな。おまえが俺と茨木を同様に尊重したいと言うのなら、適当にバランスを取れ。もとよりあいつと俺の方法論はアンビバレンツなんだ。折衷を志せ。どっち流でもいいと言ったのはそういうことだ。わかるか」

 藤居はしばし沈黙した。

「――鋭意、努力します」

「すまん、説教をするつもりで呼んだのではなかった」

 なにせ、出会って間もないころにだいぶ説教を垂れた。それで癖がついてしまったのか、早くも隊長ヅラが身についてしまったか。江藤は自戒の念を密かに胸に刻み込む。つまらない人間にはならない、そのために。

「しかしおまえ、ズルもせずによくあの龍王を紛い物だと見破ったな。北嶋でさえ看破できなかったというのに」

 ああそれは、と藤居は明るい顔――といっても控えめだが――を取り戻して種明かしを始めた。

「ヤドカリでの組立シークエンスを見ていましたから。話に聞く龍王と違うな、とはすぐに気づきました。もっとも今にして思えば、陸番機は第二世代型で、構造も龍と共通化を図っていた、という可能性もありますね」

「いいや、龍王はどこまでいっても龍王だろう。龍と同じにはならない。そんな気がする。最新の防人型にも、妙な気配は感じないからな」

「妙な気配と言えば、江藤少佐。茨木教官からメールで言伝(ことづて)を頼まれました」

「なんだ、それは。俺に送ればいいものを」

 江藤は念のため受信箱を再確認し問い合わせも行うが、士官学校の同期で同室だった茨木彪(たけし)からの便りはなかった。最後に来たのはもう何年も前のことだ。江藤のほうからも出していない。いつも茨木とのやりとりは人が間に立っている。

「どうも、一週間以内に事が動き出すのではないかと。茨木教官は確信を得ているようです。その証拠と言うべきか、教官自身、戦略軍麾下(きか)の新設機兵小隊の隊長に任命されるとのことでした」

 江藤は深く溜め息をつく。机の上で眠っていたゴン太が耳を少し動かした。

「俺たちも無縁ではいられんだろうな。議会派は、黒龍隊に箔をつけたがっている。実績による箔だ」

 言った途端に近衛軍統監部から映像通信の呼び出しがあった。江藤は藤居に向かって「そこにいろ」と合図すると、面倒くさそうに応答する。用件は一方的だった。決定事項につき反問は許されない、とのこと。楢田議員がさっそく何か余計なことを言ったのかもしれないし、逆にそのおかげでこの程度で済んだのかもしれない。因果を結ぶ糸など神ならぬ身には見通せない。ともかく予想は的中する方向に進んでいるのだと、江藤は認識させられた。

 通話を終えた江藤に、今の話を聞いてはならなかったはずの藤居が、感想を述べる。

「三日後とは、またもや急ですね」

「まったくだ。結局、準備は終わらなかったな。――いや、一概にそうでもないか。ひよっこどもは期待以上に成長しつつある」

「ですが、まだ危うい」

「坂元……、いや、竜時のことか」

「ええ。あの煙突の狙撃の件、引っかかっているようです。どうして変則領域の消失を前提とできたのか、と。些細(ささい)なことといえばそうですが、きっかけはいつもそんなものです。亀裂は小さいうちに修復するのがベストですよ」

「その理屈はわかるが、あいつは難しい。責任感のわりには子供だからな。学級委員でもやってりゃ、もうちょっと実情ってもんを学び取れただろうに」

 江藤は何度かやったことがある。勝手に気を使われてボスにされたり、自分で立候補して対立候補を潰したり、経過はいろいろだが。面倒なのはいつも一緒だった。クラス全員が持ち回りでやればいいものを、と思ったことは一度ではない。

「何も難しい話ではないでしょう。私にしてくれたように、真実を語ってしまえば簡単ではないですか?」

 痛いところを衝かれ、江藤は呼吸を止めた。たしかに、そうしたいという衝動には何度も駆られた。しかし駄目だろう。結果が見えている。何度もそれで失敗をしてきたのだ。北嶋や藤居のような少ない成功例から、うまくいくための条件を逆算してみても、現状はその要件を満たしていない。むしろ藤居に信用してもらえたのが奇跡的だったとすら思えるのだ。江藤は再度溜め息をついた。

「信じると思うか? あいつらは、南田は特にだが、俺に不信感を抱いている。ただでさえ作り話めいているんだ。バイアスのかかった状態では尚更、信じてはもらえまい」

 ゴン太が起きて江藤の手を舐める。不安を感じ取っているようだった。この小さな命は自分を無条件に信用し、信頼している。それがいかに心強いものであるか、最近、富に強く感じるようになった。

「江藤少佐。自分は、あなたを支えるためにここへ来ました」

 視線を戻すと、藤居は机に触れるところまで近づいて、江藤を見ていた。

「すまんな。助かる。本当に、一年でずいぶん成長したよ、おまえは」

「自分でも壁を越えられたように思います。それから、ひとつわかったことも」

「ん?」

 藤居が少しニヤニヤし始めたので、江藤は、これは居心地の悪いくらいの褒め言葉が来るなと予見した。

「あなたも、そうして今に至ったのだと」

 江藤は、買ってみたがまずかったので冷凍庫に半分残ってしまった冷凍食品の調理方法をアレンジしてみたところ存外にいける料理に化けたときとよく似た気分で、鼻で笑った。

「おうよ、そこはしっかり真似をしろ。折衷なんぞ、どっちつかずだ」



――続く――