黒龍隊の挽歌 第六話

ダーダネルス作戦



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 南京(ナンキン)にある戦略軍参謀本部の一室に、窓際で夜景を眺める一人の男がいた。

 背格好には、とくに人目を引く要素はない。しかし、わずかながらに皺(しわ)の走るその横顔と、双眸(そうぼう)に具(そな)わる鋭い眼光は、冷徹で険しい彼の精神をくっきりと射影していた。

 部屋は、肌寒く感じるほどに静かだった。

 男は、今日に限って少しばかりの暇があった。とはいえ、それももう過去形で述べねばならなくなる。これからしばらくは、前以上に忙しくなるだろう。しかし不満はない。敢(あ)えて自分で招いた結果だった。

 窓からは遠く南京の繁華街の灯りが見えた。二十三年前、廃墟と呼ぶにふさわしいほどに破壊された街が、今ではこうして昔以上の盛況を獲得している。クリスマスが近いだとかで、数日前からは特に灯りがきらびやかなようだ。

 古来より儒教や道教を重んじてきた中国で、宗教観の喪失が盛んに嘆かれるようになったのは十年ほど前のことだ。亜細亜連邦樹立に伴って民族の往来も増えた以上、当然そういった人々の精神、生活面での変化は現れる。それを是とするか否とするか、社会学者たちはこの混乱期に悠長にも長々と研究している。その一部は、今までになかった民族・宗教行事が社会へ溶け込むのは既存社会に受容された証拠なのだと捉え、肯定的に論じている。

 たしかに、近年は南京で民族的な排斥など行われていないし、他民族間の衝突も少ない。しかし、それは「陸の理想都市」としての治安を維持するために憲兵隊を多く配置し、綱紀粛正を厳しくするという連邦の政策が実現させたことだ。この件に関しては、中央議会元老院も、そしてかつての軍閥派勢力も殆(ほとん)ど揉めなかった。

 背中に警棒を振りかざされて繁栄をむさぼる街……と、そんな呼び方があった。その管理された栄華を俯瞰しながら、男は自分が今の地位に上り詰めるまでのことを振り返っていた。

 八月の悪夢、それは突然に起こった。

 そして、何もかもがあれから始まったのだ。

 不発弾ともいえる未反応隕石の回収、調査。高エネルギーをランダムに他の状態に変換するバルムンクフィールドと、残留してユーラシア大陸各地をさまよう変則領域の霧……やがて変則領域と総称されるようになったそれらの解析。それが明らかにしたのは、変則領域が既存の「限定的戦争」という方法論を絶対的地位から叩き落したことだった。

 残留フィールドの霧、いわゆる“バロッグ”は、戦車や戦闘機の作戦領域を限定し、長距離ミサイルの誘導も不確実になった。さらに当時進められていた戦場のネットワーク化も所期どおりの活躍を果たせず、戦場のカオスは増大の一途をたどった。先進国が作業用のロボットである乗俑機を拡張し、万事に対応できる新たな兵器カテゴリー“機兵”としての発展を目指したのは、そうした状況が要因のひとつである。

 戦術から戦略に至るまでの前提条件の急変は、かなりの混乱を伴った。今でも定説を見ていないのが真のところである。未だ明かされぬ真理の追究、それは科学者たちを大いに刺激した。

 無論、それは新しい軍事技術に必要なものでもあり、研究予算も多く組まれるようになった。次々に発表される研究結果は、どれも目新しいもので、軍事技術を始め多くの分野に長足の進歩をもたらすだろうとマスコミも騒ぎ立てた。連邦樹立前後の時期には研究者たちの熱心さが度を過ぎていくつかの流血事件も生んだが、それを革新に伴う陣痛とする意見には、男は肯定的だった。

 新たに生み出されたさまざまな革新技術。それはほとんどが亜連特別軍事技術局SMITS(スミッツ)や、アメリカの新興マンモス企業アルティメーグ社によってもたらされてきた。それに疑問を感じるのは学を修めた身としては至極自然なことだったが、男が幼少のころから信じてきた考え、すなわち、時代を牽引するのは一握りの優秀な者たちだという考えが、その疑問と向き合うという道を避けさせていた。

 しかし、SMITSが切った大見得(おおみえ)、機兵の実用化が現時点で可能だという諮問結果は、正直言って男も信用していなかった。

 だが、それは実現されてしまった。

 突如として現れた啓示軍(オフェンバーレナ)“人形”が機兵の有用性を証明し、SMITSに巨額の予算が回されるようになっただけで、二年のうちにSMITSは戦闘型試作機「龍王(ロンワン)」を完成させたのだ。

 乗俑機の機能とサイズの拡張に関して、概念研究は以前から一部の研究機関が行っていた。それに、開戦後に啓示軍のゾルダートタイプも捕獲し、既存の乗俑機との設計の差異を徹底的に研究する材料となった。それらが早期完成に貢献したのだと、それが公の見解だった。

 無論、実はかなり前から予算を与えていたのではないかとの声もあったし、乗俑機の普及自体が機兵という兵器を作るための布石だったのだとする言論もさして珍しくはなかった。巷(ちまた)ではアメリカから宇宙人の技術が流れてきたのだとかいうオカルト的な噂さえも流布していた。

 現実的に見れば、それらの批判や噂は吟味するに値しなかった。もしも、現実的視点というものを元老院という未知の関数を除外して形作れば、の話である。

 元老院は一部の山岳地帯や砂漠、それも八月の悪夢で落下物の多かった地帯を立入禁止にして何かを調査しているようだったし、元老院のかかえる傭兵部隊RAT(ラット)がそこに出入りしていた時期と、SMITSが機兵搭載用蓄電池やアクチュエータを完成させた時期とは、妙に符合するところがあった。

 しかし、男は思う。つじつまが合わない、と。

 軍の中枢にいて、尚且つ元老院とも近い自分が調べても、龍王の開発について公式発表以上のデータはなかった。亜細亜連邦の潜在的な技術力が、予想以上に高いものだったにしても、予算と時間が圧倒的に足りないはずであった。無論、他の調達品に上乗せされて含まれている分も可能な限り調査し、チェックした。それでも、納得のいくだけの資金の隠匿や流用を見つけられなかったのだ。

 つまりは、自分が当時元老院に信用されていなかった、ということの表れだった。

 今ならば、あるいは違うデータを引き出せるかもしれないが、それは確実に元老院の信用を損なう行為である。結局は、秘密は元老院が握っているわけだった。

「が、そんなことは問題ではなくなる。いずれな……」

 沈黙を破り、男の口元が静かに上下する。外の空気にも劣らぬような、冷たい響きのある声だった。

 ひどく長く感じられた数拍を置いて、机に備わったインターカムが静寂を破った。

 取り次ぎの士官の声が、ひとりの人物の訪れを伝えてくる。

 男は来訪者を通すように伝えると、窓を離れ、黒い革張りの椅子に腰掛けた。

 すぐに、ドアの開く音とともに来訪者は現れた。

「早かったな神巌(かみいわ)。通達は終わったか」

 男は来訪者、神巌を鋭い眼光で迎えた。彼よりも若く、痩身で背は高い。

「はい。しかし、南部方面への通達は、行き届かないかもしれませんが」

 神巌は抑揚を抑えた声で応じた。その顔は疲労を見せてはいなかったが、妙に生気を感じさせない。

「ふん。いちいち非難がましい言い方をするな」

 男、金星也(キム・ソンヤ)は微(かす)かに笑うように言葉を発した。語尾は微妙なアクセントだったが、禁止を意味しているのではなかった。金星也が、神巌に対してのみ使う口調である。

「その件はもういい。それよりも、気にしているのは黒龍隊の件だ」

 星也は机に置いた右手の中指で、コツコツと音を立てた。

「あれの予定地点到着が遅れるのはむしろ都合がいいが、隊長とその補佐が行方不明ではさすがに困る。七機の龍(ロン)とそれを運ぶ輸送機、いつまでも北京(ペキン)で遊んでおかせるわけにはいかない。どうなのだ?」

「連絡機をジャックしたメンバーについては、おおよその調べがつきました。現地で戦略軍の正規の人員とすりかわっていたようです。空港で手引きしていた仲間を尋問すれば、行き先は知れるかと。ただ、エデンの厚木襲撃との関連調査は時間がかかりそうです」

 神巌の応答に、金星也は小さく頷いた。満足ではないが納得はできる情報量だと、そういう意味である。

 元老院は議会との取引のために黒龍隊編成を認めたようだったが、違うのか。元老院の私兵以外に、戦略軍内部に入り込んでいる勢力があるとは考えていなかった。自分の元老院に対する読みが甘かったか、それとも戦略軍の組織内への監視が至らなかったか、そのどちらかである。右院議員に手を回して内々に移動命令を出しておいた黒龍隊が北京に足止めされ、到着先に先行させるべく連絡機で迎えに行かせた隊長及び副長が拉致された。思ってもみなかった事態に、金星也は驚かされるより寧ろ楽しまされていた。

「北京の本隊には、気づかれぬように警備の兵を割いておけ。厚木の件が、黒龍隊を狙う者の手引きで実行された可能性もある」

「手配済みです。たとえ緊急であろうとも、現地のRATに支援を要請することは避けたいのでありましょう?」

「当然だ。切り札の存在を悟られる危険は冒(おか)したくない」

 言いつつ、金星也は立ち上がった。椅子が小さく金属の摩擦音を漏らす。

「そろそろ空港に行く頃だな」

「はい。お供するつもりで参りましたので、引継ぎに時間がかかってしまいました」

「ついて来る気か?」

「例の準備で、予想以上に手駒を使っています。向こうで不自由をされるといけません」

「そうか。だが、お前ほどではないにしても、他にも使える副官のひとりやふたりはいるのだぞ」

「そうかもしれませんが、私の能力を使いこなせる上官は貴方しかいらっしゃいませんので」

 神巌は真顔でそう言ってのけた。

「お前の本音が出たと、そう思い込まされておくことにしよう」

 笑うでもなく、金星也はアタッシュケースひとつを携えて神巌の脇を通り過ぎると、そのまま通路に出た。神巌も黙って踵(きびす)を返し、あとを追う。外では取次ぎの下士官が身をこわばらせて敬礼していた。

 ふたりは他にお供をつけることもなく、ビルの上級士官用エレベータに向かう。戦略軍の中枢のひとつであるこのビルでは、スタッフも何かと忙しい。光通信がビル内外とのネットワークを構築していても、部外秘の情報伝達では未だに人が走ることが多く、階級、身分の離れた者同士があまり広くない通路ですれ違うことも頻繁に起きた。そんなときにいちいち敬礼などしていたら面倒だということで、金星也はここのトップの座について以来、通路やエレベータなどでのそういった儀礼を省くよう指示していた。しかし、実際に金星也元帥の横を平気で通り過ぎるものは稀有(けう)だった。

 ふたりが乗ったエレベータは先客がいなかった。上級士官でも自分で動き回るのがここの流儀であるだけに、それは珍しいことだった。そして同時に、ふたりと乗り合わせずに済んだ士官たちにとって幸運なことだった。

 金星也は有名な実力主義者である。よって、些細な接触の機会を最大限活用して自分の有能ぶりをアピールしようとする者も多い。だがそれはリスクを伴う。星也はそういった手合いに対して、よく質問を投げる。北部方面軍のモスクワ派抹殺計画とかいうゴシップ記事をどう思うか、お前は元老院と中央議会の両派閥から同額の金を渡されたらどちらに加担するか、など、そういった類の尋問である。彼にとっては半ば遊びなのだが、それは既に一定の地位や給料を得ている士官たち、特に現在の自分の境遇に満足している者にとっては、危険な強制参加のギャンブルだった。

 エレベータは高速で三階へと下っていった。正面玄関はもちろん一階だが、数ある出入り口のいくつかは上下数階に散在し、南京の交通網と接続されている。ふたりが向かったのは、防弾仕様の車が待っているエントランスだ。部屋を出てから五分強で、もうエントランス前のセキュリティゲートに行き着いた。

 その短い間にも、神巌は電卓大の携帯電子端末を片手に、その中に蓄積された膨大な報告書の山を消化していた。黒龍隊の件などは、その山の中の木立に過ぎない。

 外に出ると、ちょうど車が回ってきたところだった。

 警護の兵が開けたドアに片手をかけた金星也は、ふと立ち止まり、空中楼閣のように聳(そび)える戦略軍メインビルを仰ぎ見た。照明に浮かび上がるコンクリートの断崖は、中に数千もの人間が入っていることを否定しているようで、それが彼にはおかしく思えた。

「何を見ているのです?」

 神巌が報告書から目を離し、怪訝(けげん)な顔を金星也の傍に寄せる。

 金星也は笑った。

「敵の根拠地だ」

 そのまま黙って、戦略軍総司令は車に乗り込んだ。



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「隊長たちが見つかるまで待機とのご下命だけどさ、もう夜だぜ。みんなして起きて待つ必要もないんじゃないか」

 北京空港の一画で、坂元がぼやきと提案を同時に披露した。

「そうだな」

 鷹山が相槌(あいづち)を打った。

 坂元が自分勝手を言い出したのでないのは明白だった。この部屋とも廊下ともつかぬ部分に江藤北嶋以外の黒龍隊全員がたむろしているわけだが、輸送中に仮眠を取れずにいた者のなかには、壁に寄りかかって眠りはじめている者もある。厚木の一件で気疲れもあるだろうし、さしあたってやるべきこともないので、ここは休んでおくに限る。

「でも、素で寝るのは御免こうむるな。ここ北海道より寒いんじゃないのかってくらいに冷えるぜ。まったく、なんだって北京なんかに……。寒いったらありゃしねぇ」

「寝袋敷いて、雑魚寝だ。それしかないだろ」

「げ、マジかよ」

 ふたりは顔を見合わせて溜め息をつく。屋内だというのに吐く息がほのかに白くなることが、またふたりの心を寒くした。

「おい坂元、俺たち寝袋なんて持ってきてないぞ」

 会話を漏れ聞いたらしい久留が首を出した。「しまった、そうだった」と、坂元は前髪の間に指を入れる。

藤居准尉に聞いてみるか?」

 坂元は藤居の姿を求めて首を動かすが、それはただの首のストレッチに終わる。

「准尉はゴン太のエサ探しで四苦八苦してたみたいだけど」

 久留はまたも悪い知らせをもたらしてくれた。ゴン太のエサ探しとなれば、ゴン太の存在を隠蔽しつつ、なんとか食堂の外に食べものを持ち出さねばならない。手持ちの戦闘糧食を使うという非常手段に訴えることもできるが、果たして真面目そうな藤居がその手段を行使するのにどれだけ時間を要するか。

 坂元と鷹山は、平気な顔でネガティブな報告ばかりしてくれる同僚を細い目で見つめた。


*   *   *   *   *


 ゴン太に豚肉の端くれを調達してやった藤居は、調理場の近くの軒先にゴン太を連れてくると、そこに座り込んでゴン太の食事を眺めていた。尻が冷たい。

 ダーダネルス。そんな暗号名の一大反攻作戦が計画中だと、戦略軍や各方面軍の統合幕僚本部の近辺で噂が流れていた。モスクワ守備軍が敗退した直後から、そういった噂は何度も浮かび上がっては消えて行ったのだが、今回は少々、様子が違った。戦略軍が噂の中心になっていることが、今までのものとは決定的に違っていたのだ。

 当時機兵での演習ばかり繰り返していた藤居は、それを確かめようという気も起きなかった。確認するまでもない。噂が本当なら、自分たち機兵乗りの多くが前線に送られることは瞭然としていた。

 転属の辞令が来たとき、藤居はいよいよダーダネルス作戦とやらの始まりか、と覚悟した。だが内容は日本で編成された第四機兵大隊、すなわち黒龍隊に追加人員として加われというもので、藤居はそのとき思わず笑い出しそうになった。転属が恩人の仕組んだことだとすぐにわかったからだ。黒龍隊の隊長の名が江藤博照であることは耳に入っていた。

 いざ配属されて江藤と再会したところ、彼は作戦の存在を確固たる情報として知っているようだった。さらに、北京で世話になった別の恩人からはその作戦発動が間近に迫っていることを知らされた。ふたりの知人が作戦について上層部から知らされていたのは、彼らがともに作戦において重用な立場にあるからに違いないだろう。そんな極秘事項を成り行きで知ってしまった一介の下士官が、伝言ゲームの発起人になるわけにはいかない。

 しかし、矢俣には厚木で話してしまった。今ふりかえると、何故だろうかと藤居は首を傾げたくなる。厚木に襲撃がある直前、皆に移動のことを話すよう江藤に勧めたのは、他でもない自分である。江藤の口から作戦の真の内容を知らせることで隊の結束を図ろうとしたのだが、予想外のことで江藤と北嶋がいなくなってしまい、北京行きを承知で厚木に出かけていたのは自分だけになってしまった。それで、自分は心細くなったのだろうか。だから共犯者を増やしたかったのだろうか。今となっては隊の結束のためと安易に機密を漏洩したことが失敗だったように思えてならない。

 藤居は、結局自分もあの事態の中で取り乱していたのだと実感する。江藤に次ぐ実戦経験者だからと気負ってみたところで、所詮、都会で訓練と治安維持にあたっていただけのことだ。消沈した南田を気遣ってみせても、はやる坂元を抑えようと頑張ってみても、そんな年長者面はそれこそお面のように、ゴム紐で取って付けただけのように、まだしっかりと自分に定着してなどいないのだ。息苦しくなったら外してしまう、自分はそんな人間なのかもしれない。そうはなりたくない。気づけば藤居は、流れ星を探していた。

 ゴン太が藤居のズボンの裾を引っ張った。いつのまにか肉を食べてしまったらしい。

「食欲旺盛だな、お前は」

 藤居は江藤がいつもどれくらいの食事を与えていたのか知らないが、ゴン太の腹をすかせておくと厄介を引き起こすと李峰國(リー・フェングォ)から聞いていたので、藤居はあとのぶんと思ってしまっておいた肉を取り出す。いざ包みを開けようとすると、すでにゴン太が飛びかからんばかりの視線で手元を見つめていることに気づいた。

「欲しいかい?」

「ワウ」

 ジャンプして肉を獲得しようとしたゴン太を、藤居は横に転がってかわした。もちろん肉は手元にキープしたままである。仕事柄、反射神経は良い。再攻撃を仕掛けてきた仔犬、もとい仔狼の眼前に肉をちらつかせて、噛みつけないギリギリの距離を保つ。ゴン太は必死に藤居の手を追う。

 ゴン太が藤居の周りを左右に五回転ずつしたところで、藤居は肉を上に放り投げた。ませたゴン太は既に放物線を理解しているらしく、落下点を狙って走り出す。肉の軌跡を追った藤居の目に、夜空のオリオン座が映った。さっきは見えていなかったが、そこにあったのは間違いない。わけもなく、藤居はしばしオリオンのベルトを凝視していた。

 藤居は目がよい。ふつうの日本人よりは多くの星を夜空に見いだすことができる。その視力を確かめるように、また、その時その場所の空気の清浄を推量するように、藤居はよく星空を見上げた。最近はどうだったのだろう。関東の中では猿之門は僻地である。きっと多くの星が瞬いていただろうが、藤居は猿之門でそれを見た記憶がなかった。思えば、毎晩のように空を見上げていたのはもう一年以上前のことになっていたかもしれない。

 キャッチした肉を自慢するように戻ってきたゴン太を、藤居はそのまま抱きかかえた。肉をはみつつゴン太が一瞬だけこちらを見る。江藤の目に似ている、と藤居は思った。



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「とりあえず助かったな」

 ヒーターの赤くなった電熱線を見つめながら、江藤は言った。

「これで凍え死ぬことはあるまい」

 江藤はそう付け加え、北嶋を見た。北嶋はおざなりの返事をしただけで、自分たちを低温の外気から守ってくれている小振りのテントの様子をしげしげと観察していた。

 それはモスグリーンのテントで、見るからに軍の調達品だった。テントの中では安物のヒーターが頑張っており、防寒には不足のある恰好で荒野をさまよっていたふたりには、ずいぶんとありがたかった。夕方になって、外の空気はかなり冷たくなっている。

「ひとつ気に食わんのは……」

 ヒーターに手をかざしていた江藤が、北嶋のほうを向いた。

「ガッチャン、ガッチャン、ってやかましく動いていることだな」

 そう言って、江藤は靴の踵(かかと)で床をつついた。床には薄い合成樹脂のマットが敷かれていたが、ふたりはその下が鉄の塊であることを知っていた。

 あの四足の奇妙な乗り物に、ふたりは乗っているのである。

 車体前方のクレーン車のような部分の後ろに、アパートの洗濯機置き場をそのまま大きくしたようなスペースがあり、そこに張られたテントにふたりはいる。乗用車の後部座席より幾らか広いという程度のスペースしかないところに、江藤のような巨漢が入っているから、狭苦しい。さらにそれを助長しているのはテント内に並ぶ雑多な品々で、整然と並べられているからこそまだ堪えられるが、これが散らかりでもしていればたいそう二人は鬱々としていただろう。

 暇つぶしに、というのでもないが、やけに整然と並んだその品々に注意を傾けている最中の北嶋は、江藤の言葉を殆ど独り言だと思ってさっきから聞き流していた。このテントのうしろには、この乗俑機とも装甲車ともつかぬ機体の機関部が据えられているようで、そこから漏れる音と振動、そして四本足が大地を踏みしめるときのそれとが加わって、かなりうるさかった。

 テントの外、車体前方で、それらとは違う音がした。ふたりが顔を向けると、やがてテントの出入り口が開いた。

「よう、少しは温くなったか」

 冷気と一緒に日本語が流れ込んできた。冷たいながらも清新な空気はふたりに深呼吸を促し、同じく淀んだところのない男の日本語は、彼が日本と深い関わりを持っていることを示していた。だが、額が最終防衛ラインまで後退したこの男は、生粋(きっすい)の日本人には見えない。

「ヒーターはそれで限界だが、ま、無いよりマシだろう。――と、たまにはこうやって日本語使うのも悪くないな。定期的に潤滑油をさしておいたほうがいろいろと安心だ」

 自動操縦にしてきた、と男は言い、江藤と北嶋に対面してあぐらをかいた。標準的な背に肉付きのいい体格であるから、これでテントの中はもう収容限界を迎えてしまった。膝と膝がぶつかる。

「なんなんだ、これは」

 改めて謝辞を述べようとした北嶋が口を開く前に、江藤は男に尋問を開始した。

「何が?」

 男は何か変なものでも置いていただろうかという顔つきで、テントの中を見回す。

「今俺たちが乗っている、この乗り物のことだ」

 江藤は再び床を踵で叩く。

「ああ、名前なら、『労働一号』だ」

「ロードーイチゴ?」

「ほら、そこのお前さんの膝のとこにノートがあるだろう。その表紙を見てみろ」

 江藤は男の指差したノートを拾い上げた。それは開かれたまま江藤の膝の下敷きになっていたのだが、見てみると英語で何か記録をとってある。しかし達筆な筆記体はブロック体至上主義の江藤には高尚すぎた。眺めたくらいで中身は読めない。とりあえず言われたとおり表紙を見てみると、そこには漢字で「労働一号」と書かれていた。さすがに漢字まで達筆というわけにはいかないようで、江藤は密かに笑った。

「ほう。名前はわかったが、こんな妙な乗り物は見たことないぞ。どこで手に入れた?」

「これは自前で作ったんだ。見たことが無くて当然だ」

 料理にけちをつけられたシェフのように、男は反駁(はんばく)した。

「なに?」

「ハンドメイドだ。苦労して工場や倉庫を借りて、学生時代から手塩にかけて作り上げた。いわば生みの苦しみまで味わったのよ、俺は。だから愛情もことさらだ」

「ひとりでか?」

「ずっと一人でやっていたわけでもないが……。それよりお前、他に聞くことがあるだろうが」

 江藤からノートをひったくりながら、男は呆れ気味に江藤を見つめた。

「ああ、そういえば自己紹介がまだだったな。俺は江藤、こいつは北嶋。さぁ、お前も名を名乗れ」

「助けてもらっておいて、厚かましい男だな。まぁいい。俺はアデタバ・ヨシダ少佐だ」

「軍人だったんですか?」

 北嶋が目を丸くした。

「ああ、そうだ。証拠を見たいか?」

 返事を待たず、アデタバ・ヨシダは防寒着を脱いだ。確かに、下には軍服を着ていた。それも、戦略軍の制服だった。

「やはり貴様も連中の仲間か!?」

 江藤は立ち上がろうとして、テントの天井につっかかって中腰で止まった。ヒーターを蹴倒しそうな勢いに、ヨシダは反射的に上半身だけファイティングポーズをとった。

「なんだ、恩を仇で返すのが最近の日本の流儀か?」

 ヨシダは戸惑いながらも江藤を牽制する。

「緊急連絡部から来たとかいうんじゃないのか?」

「緊急連絡部?」

 ヨシダは首をひねった。「キンキュウレンラクブ」という音に覚えが無かったらしい。ややあってから、ヨシダはそれが緊急連絡部の日本語での呼び名だと推察し、防御姿勢を解くと笑いながら首を横にふった。

「たまに仕事で会うことはあるが、俺は基地の倉庫管理が仕事だ」

 堅気なんだぞ、と、ヨシダは付け加える。江藤はまだヨシダをきつい視線で見下ろしていたが、北嶋がその袖を引っ張った。

「江藤、座れ。お前の早合点だ。――すみませんヨシダ少佐、この男はワイルドというよりプリミティブな奴で」

「素朴でなく粗暴という意味合いか?」

「ええ」

「言い得て妙だな」

 ヨシダは鼻で笑った。

「なんだと、貴様、妙な日本語をよく知ってやがって……」

 座りかけていた江藤は再び立ち上がった。

「静まれ江藤」

「俺は大魔神か」

「そう呼んで欲しいか?」

「まさか」

 江藤は乱暴に座りなおした。腕を組んで拗(す)ねたポーズになる。しばらく口は利かないぞ、と、全身で宣言している。

「わかりやすい男だな」

 ヨシダは英語で呟(つぶや)くと、北嶋を向いて再び日本語で話しかけた。

「さっきはともかく乗せてやろうと思って乗せたが、あんたらは一体どこに行くつもりだったんだ? どうしてこんな荒野を歩いていたんだ?」

「飛行機からパラシュートで脱出したんです」

「それはもしかして、厚木を発った連絡機か?」

 その問いに北嶋は一瞬堅くなったが、すぐに「はい」と答えた。

「そうか、二時間くらい前に無線で言っていたのは、あんたらの乗っていた飛行機か」

 ヨシダは納得したような顔になって天幕を見つめてから、北嶋に視線を戻す。

「そうと知ってりゃ、早くに基地に連絡したんだけどな。もう手遅れだ」

「どうしてです?」

「この一帯はバロッグのせいで電波が殆ど届かないんだよ。衛星通信でも使えれば話は別だけどな」

「それは無理です。啓示軍が人工衛星を破壊してからというもの、戦略軍が使う分だけで精一杯なんですから」

「おいおい、それ以前にここには機材がないさ。悪いが、近場の屯所と無線が繋がるまで、連絡のしようがないな」

「困りました。私たちは新青海(チンハイ)まで行かねばならないんですが……」

「新青海? それなら、このまま乗せて行ってやるよ」

「え、いいんですか?」

「俺の行き先も新青海だ。だいたい、こんなところを西に行く奴で、新青海に行かない奴はあの世くらいしか行き場が無いぞ」

 アデタバ・ヨシダは、俺に任せろと胸板を叩いた。



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 南田は寝袋を満載したワゴンを運んでいた。二十分ほど前、通路の脇にもたれかかってうとうとしていると藤居に声をかけられ、ここに泊まることになりそうだから寝袋を借り出してきてくれと頼まれた。藤居はもう一度隊長らの消息筋を当たりに行くと言って姿を消したが、それが面倒な仕事を自分に押しつけるための言い訳だったとは南田は思っていない。あの人は信用できる。そう南田は確信めいたものを抱いていた。もしそうでなければ……。

「ここは寒すぎるよ」

 南田はつぶやいて、余計に寒さを感じる自分の身を呪った。

 そのとき、後方から呼び声とともに駆けてくる者があった。ワゴンを押す手を止めてふりかえると、田舎者丸出しの声で見当はついていたが、同じパイロットの朝井だった。手を空中で振り回しているところを見ると、どうやら用便を済ませてきたところらしい。

「寝袋ですか?」

 朝井はワゴンに積んであるカーキ色のだし巻きを見て、げんなりとした。

「ああ、ここで朝を迎えそうだから」

「嫌になりますよね。厚木から急いでここまで来たっていうのに、着いたら待機命令。そのまま一夜を明かせと来た」

 不平を垂れる朝井は、ワゴンを押すのを手伝うでもなく、ただ南田と並んで歩きはじめた。

「竜時さん」

「え?」

 朝井にそう呼ばれたのがひっかかり、南田はやや反応が遅れた。

「竜時さん、なんだか妙な気がしませんかね」

「ただ北京まで空路移動の練習をやらせたかった……ってんじゃないだろうな」

 南田はとりあえずそれだけ答えた。

 空輸訓練にしては、わざわざ黒龍隊の全装備を輸送機に積み込んだのが解せなかった。幾らか譲って、大がかりな輸送の訓練だったのだとしても、襲撃のあった後の厚木でそのままそんな訓練を続行するのは不自然に思える。演習を装って厚木に向かい、そのまま北京、あるいは他の空港に移動することが最初から仕組まれていた。そんな気がしていた。

「明日には猿之門に帰れるといいんですけどね」

 朝井が呟いた。

 猿之門に帰る。朝井秀和という同僚の横顔は、自分とほぼ同じ環境にありながら、そう確信して全く疑うことのないように見えた。妙なきな臭さを感じても、それをもとに自分のような想像を膨らませることに、必然はないのかもしれない。むしろ、それこそ不自然なのか。南田はそんなことを考えていて、四十人強の同僚がたむろしている場所に自分が到着したことに、しばらく気づかなかった。

「泊まり決定かよ」

 近くで朝井とは別の声がして、はじめて南田はワゴンに隊員らが寄り集まってきていることを認識した。自分が足を止めていたことにも自覚的でなかった。

「ここでみんなで蓑虫ごっこだとさ」

 また別の声がした。見ると、整備班の富士本や矢俣たちが早くも寝袋を担ぎ出している。傍らに朝井の姿はもうなかった。

 南田は自分も寝袋をひとつ引っ張り出すと、全員ぶんは足りないがどうするのだろうかと今更気になりつつも、その問題はさし置いてワゴンを離れた。ロビーというよりはまだ廊下と呼ぶにふさわしい一画であるだけに、自分の寝場所を確保するのが先決だろう。無意識に峰國の姿を探して首をまわしていた。

「でもまぁ、どうせクリスマスに誰かと過ごす当てもなかったわけだし」

 例の、訛(なま)ってはいるが妙にこなれた日本語が耳に入った。峰國の声だ。南田は声のしたほうを向いて、そこで数人と輪をつくって雑談している峰國を見つけた。もうワゴンの寝袋はなくなってしまった頃だが、峰國らは誰ひとりとして寝袋を受け取っていない。気づかなかったのだろうか。わざと寝袋をぶらぶらと振り回しながら、南田は近寄った。

「おいおい、何の話だ?」

「お、竜時じゃないの。なにそのサンドバッグ?」

「寝袋だろうが。シュラーフってやつ。――て、シュラーフはドイツ語か」

 寝袋を峰國の頭にぶつけながら、南田はその場の面々を見渡した。かろうじて名前を憶えているくらいの整備班員三人と、同じパイロットの久留、それに珍しいことに無口な群山が輪に加わっていた。

「クリスマスに一日の休暇ももらえそうにないって話。俺はどっちにしろ帰るところないから関係ないんだけどね」

 寝袋の出所を探しているのか、辺りを見回しながら、峰國が先の問いに答えた。

「やつらが仕掛けてきて、もう一年くらいになるんだな」

 南田は感慨を込めて溜め息をついた。去年の冬は、短い休みのうちに実家に戻り、家族とささやかなケーキを囲むだけの余裕がまだ残されていたのだ。

 しかし今更落胆はない。半年ほど前に啓示軍の亜連領侵攻がはじまり、欧州方面軍があっさり敗退してしまったときから、今年は駄目だろうなという覚悟はできていた。その頃から機兵パイロット養成課程に移っていた南田たちには、生きてクリスマスを迎えることができるかという不安さえあった。

「啓示軍の蜂起からは二年近い。ベルリンじゃさぞかし厳粛にクリスマスを祝うんだろう」

 久留がそう言った。文面のわりに、他人事だから気にしないとでも言いたげな口調だった。南田は次に何かベルリンの人々を非難するような言葉が出て来はしまいかと、わけもなく身構えてしまったが、久留はそれっきり壁にもたれかかって目を閉じてしまった。

 三度も大戦を引き起こしたドイツ人は生来野蛮なのだ、と、そういう言い方がされることも多い。南田はそれは違うだろうと思っていたが、ゲルマン民族の野蛮さを自然の摂理のようにして語る者に対し、敢えて口を挟んだことはなかった。

 ドイツ人の多数も被害者であって、きっと何かの方法で洗脳か何かされているに違いない。ベルリンの啓示軍本拠を叩ければ戦争は終わる。南田はそう信じて、軍人でいる自分を正当化してきた。かつての大戦であったような、無慈悲な破壊や残虐な殺戮に手を染めたくはなかった。これは世界の人々を対立に追い込んだ、ごく一部の人間を排除するための戦争なのであって、決して無為な人殺しをやっているのではない。

 南田はそうした信念のもとに立っていたが、いざドイツ人を悪く言う人間に対面すると、彼らは啓示軍に親しい人を害されたからそんなことを言うのかもしれないという想像が頭に浮かび、彼らの精神の拠り所を崩すような行為はためらわれた。結局、自分の言動で戦争の大勢が動くわけではないのだから、自身の周辺の平和を保つことこそが、全世界の平和にだって繋がるというものだろう。南田は、漠然とそんな考えを抱いていた。

「“ベルリンの壁”の中のことは、わからないさ」

 群山がそう呟いたのは、実際には久留の言葉のすぐ後のことだったのだろう。現実に引き戻された南田は、「シュラーフがないな」と漏らす峰國の横に腰を据えた。

「あんなものがなければ、さっさとケリがついたんだろうけど」

 今まで会話したことのない整備班員が、誰にともなく言った。あんなもの、がベルリンの壁を指していることは、誰でもわかることだった。

 ベルリンの壁。最近では、それを前世紀半ばにベルリンを東西に分断したものの呼称として使う人は稀である。破壊されて三十年以上も経つものなので、南田も勘違いはしなかった。今では、ベルリン周辺を覆う濃霧、おそらくは変則領域なのだろうが、その分厚い壁を指して用いる言葉である。

 それはいわゆるバリアだった。このベルリンの壁がなかったならば、事の短期解決を望んだ過激思考の持ち主によって、今頃ベルリンは地図から消えていただろう。今は戦争の最中だけに詳しく正確な情報は得られないが、きっと一発くらい核ミサイルが撃ち込まれたことがあるのではないか。噂というより、公然の秘密のように語る者もいる。

「防戦一方じゃ気が滅入るよ」

 別の整備班員が言った。

「お前が前線で戦ってきたわけじゃないだろう」

 笑いながら指摘した南田だったが、果たしてそれが今後も通用するのか、一抹の不安がよぎった。思い返してみれば、近衛軍の出した北京への移動命令が、緊急にこしらえられたとは信じがたい。となれば、厚木襲撃の結果北京に移動することになったのではなく、やはり今回の移動は予(あらかじ)め決められていたことで、そこに厚木襲撃が絡んできたのではないか。

「藤居准尉はまだ戻っていないのか」

 南田は藤居の姿を探した。江藤と旧交のあるらしい藤居なら、何か事前に聞いていたかもしれない。

「准尉は忙しい人みたいだからな」

 目を閉じたままの久留が、感心したような、それでいて馬鹿にしたようなことを言った。

「まだ少佐と大尉の行方を聞きに行っているのか」

「そうかもしれないし、もしかして荷の見回りにでも行ったんじゃないか? どっちにせよ、戻って来ないってことは、まだ二人が見つかっていないってことだ」

 それだけ言うと、久留はそのまま仮眠をとるつもりらしく、頭を抱えて横を向いた。寝袋なしでは風邪を引くぞ、と南田は声をかけたが、反応はなかった。

「准尉は寝袋の残りを取りに行ったのかも」

 群山がもっともありそうな可能性を口にした。

「寝袋は坂元たちが取りに行ったのかと思っていたけどな」

 南田の背後で声がした。ふりかえると、整備班の夏明仁(シャー・ミンレン)が立っていた。寝袋が足りずにあぶれた口らしい。

「そういえば、坂元と鷹山は?」

 南田はそのふたりの姿が見あたらないのに気づく。

「あいつらなら、龍でシミュレーション戦をしに行ったよ」

 群山がすぐに答えを教えてくれた。無口でも周りの状況に無関心ではないようだ。

「そうか、俺も行ってこようかな。峰國、つきあえよ」

「え、やだな。俺はシュラーフ探してくる」

 峰國は逃げようとしたが、南田はその肩を捕まえた。

「戻ってくる頃には藤居さんが追加を運んで来てるよ。足りないのはお前のぶんだけじゃないんだから。――群山、峰國のぶんも確保しておいてくれるよな?」

 群山は特に表情を変えることなく、静かにうなずいた。

「な? 行こうぜ」

「やだやだ。輸送機に積み込んである龍でシミュレーションだろ? 接続が面倒だ」

 峰國はなんとしてもシミュレーション訓練に参加したくないらしい。南田は「お前、つきあい悪いぞ」と言い残し、ひとりで龍のもとに向かった。

 いない間に寝袋を峰國に盗られるのではないか、という可能性に気づいたのは、外に出てしまってからだった。



- 5 -


 自動操縦では進めない難所があるとかで、ヨシダはときおり操縦席に戻ったが、だいたいは江藤たちと一緒にテントで雑談に興じることになった。ただし、監視カメラのようなものを傍らに置き、始終外には常に注意を払っている様子で、切れ者の雰囲気を滲(にじ)ませていた。

 ヨシダは名前から推して知られるように日系であり、二世だという話をした。日本人だったのは父で、出向先で知り合ったインドの女性と結婚し、インドに帰化したとのことだった。アデタバ自身が日本に住み着いたことはないが、父親の里帰りで滞在した期間を総計すると一年ほどになるらしい。さらに学生時代には日本人の友人もいたから、日本語はしょっちゅう使っていたらしい。連邦樹立後の世の中はバイリンガルが重宝されるから便利な身の上だろうな、と江藤がコメントしたところで、ヨシダはふと疑問に思い当たったらしく、話題を変えた。

「ときにあんたら、年はいくつだ? 見たところ俺とあまり変わらないように見えるが」

「なんだって?」

 江藤は思わず聞き返した。

「How old are you?」

 ヨシダは英語でリピートする。江藤の言葉を、額面どおりの意味に解釈したらしい。

「俺も北嶋も三十四だ。お前さんと十年は違うよ」

「おいおい、最近の日本ではそんなジョークがはやってるのか? 俺が四十代なわけないだろう」

「じゃあ、五十?」

「誰が五十だっ!」

 叫ぶと同時に、ヨシダはまさに江藤がよく部下に対してするように、つっこみのパンチを繰り出した。しかしそれは冗談の類とは見えない見事なパンチで、反射的に受け止めた江藤の目がいっきに険しくなる。

「やる気か、貴様」

 江藤は受け止めた拳を二回り大きい自分の拳に包むように握り、力を込めた。道理で言えば、ヨシダが本気で怒ったのなら江藤が謝るべきである。北嶋は江藤を手っ取り早く止めようと、その首に襲いかかろうとする。同時に、余興の延長で力比べでも始めるのかと思ったヨシダが、覆われた拳をぐいぐい通しはじめる。

 窒息してもおかしくない狭さでの乱闘が始まろうとした、そのときだった。労働一号が急停止し、全員がともに体勢を崩した。それでも、なんとかストーブへの接触だけは全員が回避に成功。惨事は免れたが、テントの外周に向かって身を投げた三人はそろって上からの荷物の落下に見舞われた。

「いてててて」

 江藤が置き時計を片手に額をさすりながら身を起こす。北嶋は眼鏡に累が及んでいないか心配そうに調査をはじめる。いっぽうヨシダは、弾かれたように立ち上がってテントの外に出て行く。

「なんだ、故障か?」

 江藤の問いには答えず、ヨシダは一目散に操縦室へと走る。江藤と北嶋は顔を見合わせてから、テントを出てその後を追った。外はもうだいぶ暗くなっており、他に光る物のないこんな荒野では、備え付けられた灯りがなければ車体上で躓(つまづ)いていただろう。

 労働一号は、特に何かにぶつかったわけでもないのに停止していた。北嶋が左側の足元をペンライトで照らしながらのぞき込んで見るが、岩につまずいたわけでもなさそうだった。

「原因は何だアダテバ?」

 操縦室の窓を叩いて、江藤は尋ねた。

「アデタバだ。覚えろ」

 言いつつ、ヨシダは窓を開けて話が通じやすいよう取り計らう。

「覚えにくいんだよ。で、止まっちまった原因は?」

「故障だ。というより、被弾というべきか」

 「被弾」というフレーズだけ英語になったが、やはりヨシダは緊急時でも日本語を難なく使いこなす。ヨシダが軍用英語で規定されていない口語表現を使ったおかげで江藤は翻訳に手間取ったが、意味を飲み込むと同時に顔をしかめた。

「なんだと、被弾?」

「あれ見てみろ」

「あん?」

 江藤はアデタバ・ヨシダが顎(あご)で指し示したほうを見やる。

 三百メートルほど先、斜面を上ったところに、あるはずもないと思っていた灯火が見えた。照らし出されたシルエットや窓から漏れる灯りのかたちから、トラック一台と乗俑機一機が待ち構えているのだと判断できた。さらに目を凝らすと、四人ほどの人影もある。

「牽制のつもりだろうが、撃ってきやがった」

 ヨシダはいまいましげに被弾箇所を目で探している。確認するには暗いが、四つの人影は自動小銃か何かを携行していたらしい。

 本物の緊急連絡部が手を回してきたのだろうか、と、江藤は考えた。この距離ではこの労働一号に自分と北嶋が乗っているとは確認できていないだろうから、先方は部外者との余計な接触を嫌って、労働一号を追い払おうとしているのではないか。

 江藤が名乗りを上げようかと思案しはじめたところで、先方から強烈な光を浴びせられた。乗俑機が投光器を備えていたらしい。おかげでその乗俑機のシルエットが鮮明になるが、眩(まぶ)しいのでそうそう正視してはいられない。

「これでは脱獄囚だな」

 江藤が呟くと、先方から拡声器を通じて英語が聞こえてきた。

「そこの乗俑機、ここはもう関係者以外立ち入り禁止だ。今すぐ退去せよ」

 言い終わらぬかどうかのうちに、威嚇射撃が加わった。ひょえ、と悲鳴を上げて江藤は身をすくめる。

「おい、このポンコツを乗俑機だと認めてくれているぞ。只者じゃないな」

「ポンコツではない。が、たしかに向こうは只者でないようだな」

「――RATだな」

 江藤は真顔に戻って断言した。

「ああ、あのシルエット、軍の使うような乗俑機じゃない」

 自分の愛機のことを棚に上げつつ、ヨシダも同じ判断を下した。

「おい、どうしたんだ、いったい」

 足元を見に行っていた北嶋が上ってきていた。テントの陰から、操縦席の脇の江藤に声をかけている。

「おお北嶋、おまえは生で見たことないんじゃないか? あれが元老院の私設軍隊、RATだ。カメラがあったら是非とも記念撮影をお願いするところなんだがな」

「RATだって? なんだってそんな連中がいるんだ?」

「たまたま通りすがった……ってわけではないらしいな」

「もしかして、俺たちを探しているのか?」

「それはまだわから……」

 江藤の返事は、量の倍増した銃声で遮断された。

「ちっ、問答無用とはずいぶん手荒じゃないか。とりあえず逃げるぞアバテダ! さっさと動かせ!」

「アバテダじゃない、アデタバだ! 補助回路で再起動に成功した。言われんでも逃げるわい!」

 ガッシャガッシャガッシャ、労働一号は、器用に方向転換してその場から全速離脱した。


*   *   *   *   *


 しばらく戻ると、確かに立ち入り禁止の標識と金網があった。来るときには、気づかずに金網を突破してしまったらしい。滅茶苦茶になった金網がすぐに見つかったため、その仮説はすぐに立証された。

「何のための監視カメラだ」

 労働一号を停止させ、テントで身を寄せ合って対策会議を始めたとき、江藤は開口一番にそう言った。

「何を言うか。これのおかげで、遠くからお前らを発見できたんだぞ。そうでなければ自動操縦のまま通り過ぎていたところだ」

 ヨシダはそう反論すると、地図を取り出して現在地の確認をはじめた。電池の節約のためか、紙の地図だった。

「そういうところで節約するのはいいんだけどな」

 江藤が地図を横から覗(のぞ)き込みながらぼやいた。金網を見落とした原因が、安物の暗視装置にあるというのは、三人ともわかっていた。

「元老院の管理地帯がここまで広がっていたとは知らなかった。初めて通るルートだと、いろいろとアクシデントが起こるな」

 ヨシダが言い訳じみたことを呟きつつ、このルートは駄目、ここは難所だからと、迂回路の選択肢を狭めていく。

「どれくらい遠回りしなくてはいけないんですか?」

 北嶋が地図を見ながらヨシダに尋ねた。

「まともな道を使うと、だいぶ時間がかかるな」

「今まで通ってきたの、道だったのか?」

 江藤が茶々を入れる。

「道なき道、ってやつだ。まったく未知の領域じゃなかった」

「では、ここは通れないんですか?」

 北嶋が、ヨシダがチェックを入れていない場所をなぞってルートを示した。時間がかかるとヨシダが難色を示したルートに比べれば、ずいぶんな近道に見える。

「通ってもいいが、安全の保証はできないぞ。昔のいざこざのときの地雷が残っているかもしれない」

「地雷まで?」

「ま、そこまでいうと脅しなんだが、そうでなくても悪路でこいつの脚では通れないかもしれない」

 ヨシダは時間よりも愛機を大事にしたいのだと笑った。

「あほくさい。あの金網に沿って進めばいいだろうが」

 江藤が大胆な提案をした。さきほどのRATの剣幕からして、境界ぎりぎりをこれ見よがしに通ることは挑発と受け取られかねない。地雷が残っている危険性よりずっと大きなリスクだ。北嶋がそう主張して江藤の案を却下しようとすると、江藤はヨシダに向かってこう尋ねた。

「武器はないのか」

 ヨシダは分数のできない中学生でも見るような目つきになった。

「正気かキサマ、RATがどういう組織なのか解っているんだろうな。元老院やSMITSの警護なんて、表の顔に過ぎないんだぞ」

「それくらいは幹部の常識だ」

 江藤が胸を反り返らせると、そのゴム製のような胸板を北嶋がつついた。

「お前から常識がどうのという台詞が出てくるとは思わなかったよ」

「茶々を入れるな北嶋。――なぁアベタバ」

「アデタバだ」

「些末(さまつ)な違いだ。どうでもいいだろう。とにかくな、一方的にやられて逃げるだけってのは悔しいとは思わんか」

「下手に突っかかって労働一号を蜂の巣にされるよりはずっとマシだ」

 肩をすくめながらヨシダは呟く。

「江藤、ヨシダ少佐を焚(た)きつけるな。俺たちの体まで蜂の巣にされたらたまらないぞ」

「おいおい北嶋大尉、大げさだな。RATだって、無闇に将校三人を殺しはしないだろう」

「こいつに意見を通そうと思ったら誇張表現が必須なんですよ」

「ははは、なんとなくわかる話だ」

 すっかり後退した額を打って、納得するヨシダ。

 そのとき、江藤が、真面目なとき特有の際立って低い声を出した。

「いや、ことによると冗談では済まないかもしれないな」

 江藤は側頭部に片手を添えていた。頭痛でもしているかのように。

「進路を少し南に変えられるか? あのエリアは迂回したい」

「俺は最初っからそのつもりだ。これ以上、労働一号を傷つけられたくないからな」

「なら、そういうことで頼む」

 江藤はそれきり口を閉ざし、少し寝ると宣言して腕を組んだ。

 言動を急に改めた江藤を、北嶋とヨシダは不思議そうに眺めていたが、江藤が本当に座ったまま睡眠に入ったようなので、声を落としてふたりは会話を続けた。

「情緒不安定なんじゃないか、この男」

 ヨシダはひときわ声を落として北嶋に尋ねた。

「いえ、そういうことではないんです。強いて言うなら、持病、でしょうか」

 北嶋はお茶を濁した。



- 6 -


 小さな電算室に車輪をつけて走れるようにしたような、そんな車の中。灯りは弱く、コンピュータのモニターが放つ光のほうが勝っていた。モニターには様々な画面が表示され、数値や波形が刻一刻と変化している。その様子を漏らさず観測しているのは、軍とは違う制服姿。肩には「RAT」の文字が意匠化されて縫い込まれていた。

 そのなかにひとり、白いスーツ姿の男が交じっていた。車内はコンピュータのために暖房が効いているので、コートは男の腰掛けた椅子の背にかけられている。

「侵入者か?」

 男は外から漏れ聞こえた銃声に首をかしげた。

「はい。ハンドメイドの乗俑機が管理区の中に立ち入っておりましたので、威嚇射撃で排除いたしました。お騒がせして申し訳ありません」

 男のそばにいた制服姿の女が応答した。ここしばらく車外と行き来した者はいないが、その女だけがつけていたヘッドセットが、車外の出来事を把握せしめていたらしい。

「生かして帰したのだな?」

 男は確認するように質問を続けた。

「そのようです。さすがに乗俑機ともなると、処分に手間がかかります。あまり表沙汰になる事件を起こすわけには参りませんので。ですがご安心ください。このバロッグのおかげでしばらく通報はできません。部外者が我々の存在を知った頃には、全部隊撤収可能です」

「結構。ま、そのバロッグのおかげで私は情報網からも遮断されてしまっているが。……戦略軍の通信衛星はとうぶん使えないのだったな?」

「はい。先月から参謀本部が頻繁に使用していますので、技術的にもハックは困難です。議員には、ご迷惑をおかけします」

「構わんさ。こういう時と場所でもなければ、存分にこれのテストをやるわけにはいくまい」

 男はモニターの中で動く影に視線を移した。

「調整は順調のようだな」

「はい。エンジン出力強化に伴う補強はじゅうぶんのようです」

 男は独り言のつもりだったが、女は説明の義務を感じたらしく、さらにデータを示そうと他の者に指示を出そうとする。男は左手を動かしてそれを制した。

「――パイロットのことを言っている」

「は、そちらもしばらくは使えそうです」

 この女は出世するだろう。男はそんな感想を持った。



- 7 -


 ヨシダは労働一号の進路を予定よりも一キロ以上南に迂回させていた。充分に遠回りしたつもりが、さきほど元老院の管理区域の境界に突き当たったためだ。

「これでは自動操縦にはできんな」

 ヨシダはそうぼやいて、ひとり操縦席に入った。ヨシダにしか操縦できないのだから、江藤や北嶋が代わってやるわけにはいかない。セミオートの操縦モードくらい作っておけ、と、江藤はぶっきらぼうにそれだけ言って弁解の代わりとした。

 そのとき以外、江藤はほとんど眠っているか、腕を組んで目を閉じていた。道は危惧したほど悪くなく、特に問題もなく労働一号は歩み続けている。もっとも、歩行に伴う振動と騒音は相変わらずだったが。

 江藤が瞑想でもするかのように黙っているうちに、いつしか北嶋も眠りに落ちていた。目を開けた江藤がテントの中を見回しても、返事をくれそうなものは何もなかった。

 江藤は天幕に頭を打たないように静かに腰を上げた。胸騒ぎがしていた。よもや操縦中のヨシダは眠ってなどいまい。江藤はテントの出入り口に手をかけた。

 外はもう真っ暗だった。月明かりはあるのだろうが、すぐには目が慣れないので灯りに頼ることになる。江藤は操縦席の中に浮かび上がったヨシダの後頭部を見て、後ろにはまだ髪があったのだと思い出した。いくぶん胸騒ぎが収まったように感じたが、江藤がテントから身を乗り出すより早く、その安らぎは吹き飛んだ。――吹き飛ばされた。

 轟音が近づいてきた。砲弾にしては遅い。方向を探ろうと顔を上げた江藤の視界に、暗闇で光る何かが飛び込んできた。噴射炎に見えたそれは、みるみる近づいてくる。労働一号の車体が大きな衝撃に襲われたのは、江藤が警告の叫びをあげた直後だった。

 車体前部に降ってきた鉄塊……正しくは、鉄ばかりが主構造材でもないのだが、ともかくその金属の物体は人に準じた形をしていた。乗俑機よりも大きく、乗俑機よりも人型に近い。紛れもなく機兵だった。

 その機兵は龍に似ていた。だがその顔に相当する部分は龍よりも擬人化されており、鎧武者の面を想起させる。肩に具(そな)わった筒状に近いモジュールは、さきほどの光源だろう。灯火に薄く浮かび上がったその形状は、ロケットエンジンなのだろうと江藤に判別させていた。だが、それはむしろ悪魔の羽のようにも見える。龍よりも精悍で、且つ兇悪な出で立ち。その機体の名を、江藤は知っていた。

「龍王!」

 見たことがあった。眼前のものとは別の機体になるが、参番機とは何度も共に戦った仲だ。そして今ここにいるのは肆番機……四番目の実験機。外廓聯に編入されずにSMITSが管理し続けていた機体だった。これとも、一度だけ共闘している。

 龍王は労働一号のクレーンを右手で掴むと、左手の指を手刀の形にして構えた。龍王の指は鋭い。龍王の真下にいたヨシダが悲鳴を上げるまもなく、クレーンのアームは豪勢な金属音とともに寸断された。

「くそっ、ここまでテストエリアに入っていたか」

 嫌な予感が的中してしまった。江藤はテントから飛び出す。運転席には、破壊されたクレーンに目を釘付けにされたヨシダがいる。一方の龍王は動きを止めることもなく、次なる破壊のためだけに体を動かしていた。江藤はガラス越しに見える龍王の眼球の動きを追い、そのターゲットを知る。操縦席。それは龍王の足下だ。

「逃げろ、アデタバ! 死ぬぞ!」

 江藤の叫びがヨシダの耳に届いたかどうかはわからなかった。ロケットエンジンを停止した襲撃者の駆動音は静かだが、それに押さえつけられてもがく労働一号の騒音はかなりのものだ。

 ヨシダは破壊されたクレーンの残りを振り回し龍王を追い払おうとするが、かなうはずがなかった。江藤が労働一号の車体上を走り出したときには、龍王は造作もなくそのクレーンを根本から引っこ抜いていた。クレーン部と繋がっていた操縦席の右側面もひしゃげ、ガラスには蜘蛛の巣状のひびが走って白濁する。ヨシダの背中は見えなくなった。

 龍王は明らかに労働一号を破壊しようとしていた。不審な移動物体を見つけたので検問に来たなどという穏和な気配は一切見られない。ここはテストエリアというより、狩り場なのだ。龍王は予め登録された物以外、すべての感知可能な機械を殲滅しようとしている。江藤は以前に一度だけ共闘した機体を再び前にして、それを悟った。

 その場に屈(かが)んで破片をかわしていた江藤の背後で、眠っていた北嶋がテントから出てくる気配があった。背後に向かって「飛び降りろ」と江藤は叫ぶ。労働一号に乗っていれば、いっしょにズタズタにされてしまう。北嶋はヨシダのいたはずの操縦席を見て言葉にならない音を漏らしたが、すぐにその気配は遠ざかった。こういうとき昔から北嶋は事態の飲み込みが早く、自分が足手まといになるとわかったときは早々に逃げてくれる。江藤はそれを裏切りだと感じたことはなかった。

 テントから操縦席まで、走って数秒の隔たりしかない。龍王の第二撃が繰り出される前に、江藤は立ち上がって再び駆けだし、すぐに操縦席の脇に立った。力任せにドアを開けようとするが、変形してしまったドアは頑強に抵抗する。刹那(せつな)、江藤はガラスが内側から朱に染められる光景を目に浮かべてしまった。労働一号の操縦席など装甲車に比べれば脆弱な物だ。龍王が手を振り下ろすか、片足で踏みつぶせばいいだけのことなのだ。

 頭上で龍王の動く音がして、江藤は反射的にそちらを見上げた。そのとき江藤の脳裏には迫りくる龍王の腕のイメージあったが、視覚がとらえたのは、龍王の足の裏だった。

 踏みつぶされる。江藤はその場から飛びすさろうとしたが、体の動きは追いついてくれなかった。江藤を襲う衝撃。だがそれは、頭上ではなく足下からのものだった。江藤はひしゃげずに済んだ。

 龍王は跳躍して、労働一号の後部にある機関部に取りついていた。操縦席はもう破壊したものと見なしたのだろうか。江藤はその考えをすぐに自ら否定した。戦場で見たあれは、敵機の枢要な部分を確実に破壊していた。そこには詰めの甘さなど微塵(みじん)も見られなかった。龍王はそういう存在なのだ。

 龍王が労働一号の操縦席をそれと認識できていなかったことを、江藤は悟った。量産されている乗俑機の操縦席なら、その位置がデータとして龍王に入っているだろうが、このポンコツの情報など与えられているわけがない。

 江藤は龍王が機関部の破壊に取りかかったことを確認して、操縦席の反対側にまわった。案の定、そこには膝丈くらいの裂け目ができていた。幸いなことに血の色は見えない。

「無事かアデタバ」

 裂け目を覗き込みながら江藤は問いかけた。すると、目の前に照り返りものがある。ヨシダの頭だった。

「な、なんとか」

 ヨシダの頭は、ちゃんと首から下と繋がっているようだった。どうも、裂け目から抜け出そうとして四苦八苦していたらしい。江藤は裂け目の上の縁に手をかけて、思いっきり持ち上げる。今度は手応えがあった。徐々に、裂け目は広がっていく。やがて五体満足のままのヨシダが隙間から這い出してきた。見える範囲では、たいした傷はない。

 ヨシダを立ち上がらせた江藤は、龍王の様子を見やった。

 目が合った。

 龍王は間近で江藤を見据えていた。すでに労働一号の機関部は炎上しており、龍王はその炎を背後にしている。何かを見定めるように龍王は佇んでいた。

 龍王が人を狙わない、というのはとんだ間違いだ。江藤はヨシダを車体上から突き飛ばしながら、龍王から目をそらさなかった。

 龍王が敵歩兵のいる戦場に出たところを、江藤は見たことがない。だからターゲットは機械だけだろうと勘違いをしてしまった。それは重大な誤りだった。龍王の投入された戦場に歩兵がいたなら、龍王は間違いなく彼らを殺傷していたはずなのだ。携行ミサイルを持った歩兵に接近された機兵は弱く、有効な対策はふたつしかない。逃げるか、先に歩兵を殲滅するか。ならば、テストであっても人間がターゲットに含まれている可能性はある。捕虜や囚人、摘発された不法居住者など、龍王の狩の獲物の供給源はいくつでも推測できる。奴らならやりかねない。外廓聯にいた経験は、江藤にそれを悟らせるに充分なものだった。

 そして同時に、江藤は気づいていた。江藤はついさっき、労働一号の操縦席が龍王のデータバンクになかったおかげで助かった、と思った。龍王の行動決定にはパイロットの意志が介在しているはずなのに、江藤はそれを全く考慮していなかったのだ。人間がターゲットに登録されていようが、龍王の中のパイロットが見れば自分たちは明らかに闖入者(ちんにゅうしゃ)だとわかる。これだけ間近なのだから、それは間違いない。だが、龍王は躊躇(ちゅうちょ)なく攻撃してきた。気づいたことというのは、無意識のうちに江藤がパイロットの意思の存在を頭から抹消していたことばかりでなく、その仮定が正しかったらしいということだ。

 目の前の機兵に人は乗っているが、そこに人の意思などない。意思はあるが、それはもう人のものではない。それは龍王なのだ。そう考えることで、江藤は妙にその存在に対して納得できていた。

「だが、それなら何故ためらう」

 江藤は唯一残った疑問を口にした。龍王の聴覚がそれを感知したかどうかは微妙なところである。

 龍王は動かなかった。身を乗り出して鋭い爪を突き立てるだけのことだったが、龍王はそうする気配がなかった。江藤は気を張ってその姿を見返していた。少しでも動いたり、北嶋やヨシダのことに注意を払ったりすれば、その瞬間に龍王の獣性が発露して自分を切り裂くように思えていた。

 江藤と龍王の睨(にら)み合いがどれくらい続いたかわからない。

 きっかけとなったのは、労働一号の機関部が大きな爆発を起こしたことだった。龍王は体勢を崩し、つんのめって視線も自然と江藤からそれた。龍王が再び頭をもたげたとき、その目の光が変わっていたように江藤には見えた。龍王は労働一号から飛び降り、さらに一回後方に跳躍すると、肩と背中から噴煙をまき散らして空に飛んだ。空中で身を翻(ひるがえ)し、二、三回着地しながら大跳躍を繰り返して、龍王は闇夜に消えた。

 ヨシダが喚(わめ)きながら機関部の消火を始めても、江藤はしばらくその場から動かなかった。



- 8 -


 RATの管制車輛はしばし、それまでとは別種の静けさに包まれていた。その緊迫が解けて内外から混乱の声が上がったのが数分前。しかし、それはすぐにリーダーによって鎮められた。

「申し訳ありませんでした、洪(ホン)議員」

 実験チームのリーダーが、白いスーツの男に頭を下げた。

「いや。龍王のテスト視察で足を伸ばしたが、こんなアクシデントを楽しめるとは思わなかった」

 男は彼女の頭を上げさせると、自分に構わず龍王の回収作業に移るよう言った。

「どこかで見たような顔だったな」

 テスト中の龍王の情報は、視覚情報も含めて、バロッグ内でも使用可能な通信中継器を介してすべてここに転送されていた。洗練されたシステムではないため情報伝達にタイムラグがあり、そのため実験チームは龍王の行動を止めるのに時間がかかってしまったのだ。

 だが、龍王はこちらから指令を送る前に動きを止めた。ひとりの男を見据えて。

 あれはいったい何者なのか。パイロットの記憶にあった人物……それがいちばん可能性は高いだろう。それにも関わらず、男はひとつの空想的な仮説にとらわれていた。あれは、龍王を止めさせる何かを持った男なのではないだろうかと。

「あれは、江藤博照少佐ではないでしょうか」

 ひとりの隊員が、遠慮がちに彼に声をかけた。男が振り向くと、まだ若い隊員はその視線に一瞬すくんだようだったが、背筋を伸ばし直して言葉を続ける。

「黒龍隊の隊長に抜擢された、外廓聯出身の男です」

 記憶の糸が繋がった。たしかにあの顔だった。黒龍隊の隊長についての昨今のいくつかの情報は、しっかり頭に入れてあった。男は前触れもなく笑い出す。

「君、通じるようになったら、新青海基地に打電してやりたまえ。拉致されていた黒龍隊の隊長がそちらに向かっているから、迎えに行ってやれ、とな」

 若い隊員を困惑させてしまったことは気にせず、男はひとしきり笑った。なぜだか愉快でたまらなかった。

 その彼のもとに、別の隊員から一枚の紙が差し出された。数行の文章だった。読み終えて、彼は「ほほう」と嘆息する。

「文面には、『ご多忙の折とはお察しするが』と付け加えておくんだな」

 男は、議員と呼ばれるときの顔に戻っていた。



- 9 -


 労働一号は大破した。クレーンは根本から引っこ抜かれ、機関部は爆発炎上。龍王との押し合いでアクチュエータがやられたらしく、足も一本動かなくなっていた。操縦席のコンソールは無事だったが、各部との配線が途切れているのですべてが機能するわけではない。

 損傷の具合を一通り確かめたヨシダは、肩を落として江藤と北嶋のもとに歩いてきた。

「走行不能だ。江藤、押してくれ」

「アホ言うな」

 江藤の返事も覇気のないものだった。まだ脳裏には龍王の形相が浮かんでいた。

「これからどうしますか」

 北嶋はほのかにくすぶる機関部を眺めていた。消火剤が足りずに、あとは自然に鎮火するのを待つしかない。

 機関部から延焼してテントも燃えてしまったので、ヨシダの荷物も多くは失われた。食料や防寒具も一緒だった。この荒涼の大地でどうやって夜をしのごうかと、三人は困り果てた。

 引火せずに残った燃料を燃やす。それが三人の出した答えだった。江藤は機関部を消火せずに放っておけば良かったのだと言ったが、そんな冗談につきあっているほどの精神的な余力はヨシダにも北嶋にも残っていなかった。

 燃え残りはしたがもはや使い物にならない荷物を集め、そこに遠慮がちに燃料をかけて着火した。種火は、機関部の残り火から取った。

「気になっていたが、聞いていいか?」

 それなりに暖まったころ、燃え残ったテントの布を蒲団代わりにかぶっていたヨシダが口を開いた。

「聞くのは構わん。答えるかどうかは質問を聞いてから俺が決める」

 火を囲んで三人が対面していたが、江藤は視線を火から離さなかった。

「お前は最初、フェンスに沿って移動しようと言った。なぜ、急に南に迂回しようと言い出したんだ? 迂回した後も、お前が常に何かを警戒しているように見えたのは、俺の気のせいか?」

「君子豹変す、って言葉があるんだよ。勉強しとけ」

「その言葉なら知っているぞ。しかし、豹変するにもきっかけってもんがあるだろう」

 ヨシダは江藤に詰め寄った。

 江藤はしばし沈黙した。どう答えるべきか。永らく、自分の特異能力について人に語ったことはない。以前に話を聞かせた中でも、それを本気で信じているのはごく少数だろう。てきとうに嘘でもついておいたほうが聞き手は納得する。

 江藤は迷いながらも、ヨシダの視線に促されるように語りはじめていた。

「かなり濃密にバロッグが出ていた。SMITSが秘密兵器の……龍王のテストをするにはもってこいの環境だった。実戦の環境に近いデータ収集のためにも、部外への機密保持のためにもな」

「妙な話だな。バロッグが濃密に発生していたとなぜわかる。天気予報とは違うんだぞ」

「天気予報で快晴だって太鼓判を押していた日でも、現に雨雲が近づいてくれば雨が降るってわかるだろう。俺にとっちゃ、バロッグも同じようなもんだ」

「バロッグが感知できる、だって?」

「正確に言うなら、天然の変則領域はだいたい感じ取れる。もやっとした感じでな」

「おいおい、俺をかつぐ気か?」

 北嶋に目を転じるヨシダ。その視線を受けた北嶋は、ヨシダを一瞬だけ見返すと、江藤に顔を向ける。江藤が神妙な顔で頷き、北嶋はそれに目で答えた。

「マジなのか?」

 ヨシダは生唾を飲んだ。

「持病みたいなものだ」

 江藤は炎に背を向けて、横になった。

 それまで眠気は感じていなかったが、江藤の意識は数秒のうちに混濁の中へ埋没した。



- 10 -


 南田は龍のコクピットのなかで正面モニターを凝視していた。モニターには峡谷にかかる鉄橋がやや傾いて映っている。それはCGなのだが、実際の情景をデジタル画面で見るのと大差ない。南田はその鉄橋を使って撤退すると予想される敵機兵を捕捉するべく、山林に隠れ潜んでいるのだ。

 時計を見る。作戦開始から二時間近い。一時間半前の遭遇戦で敵機を逃し、それからこっちの九十分はその帳尻あわせである。坂元と鷹山が敵機の追い込みをかけてくれているはずだが、通信を使って状況を確認することはできない。変則領域のないところに潜んでいるため、技術的には通信が可能なのだが、それは自機が敵に発見されることを意味する。この辺りには敵の歩兵部隊が潜んでいる可能性がある、という設定だったから、こうして潜んでいるだけでも危険なのだ。これ以上リスクを負うわけにはいかない。

 敵はなかなか現れなかった。違う撤退ルートを選択したのだろうか。しかし、先刻の戦闘でメインのスラスターは破壊が確認されている。橋を使わずにこの峡谷を突破するのは困難だった。それにもし敵が待ち伏せを警戒し、手足を使って谷を下りたとしても、かなりの公算でそこを発見し、無防備な姿を攻撃できるはずなのだ。潜んでいる歩兵に包囲されるのを避けつつ、高確率で敵機を撃破できる。坂元の口を借りるなら「このうえない良策」だった。

 南田はもうひとつの時計を見た。かれこれ四時間もシミュレーションをやっていることを時計は示していた。実際の操縦に比べると負担が少ないとはいえ、南田の体はすでに疲労を覚えて久しかった。緊急時には体を万全の状態に整えておくべきなのに、これではパイロット失格かもしれないと南田は思った。そして、必要以上に力んでしまっている自分にも気づいていた。

「何を焦っているんだ、俺は」

 多くの隊員たちは今頃、寝袋のなかで吐息をたてているだろう。それが普通であって、とるべき行動なのだ。坂元や鷹山はこのシミュレーション戦がストレスの発散になっているように見える。だが自分はどうなのだろう。こうしていても、余計に自分に対する焦燥が増すばかりではないか。

 南田が唇を軽く噛んだとき、動体センサーに反応があった。鉄橋の、向かって右端。姿を確認する。動体センサーで感知したというだけでは、それが砲弾なのか鳥なのか、戦車なのか山の野生動物なのか、判っていないのだ。

 エントゼルトゾルダート。追っていた敵の姿だ。南田は龍の携行していた百五ミリライフル砲「火縄」の照準をそれに合わせる。すぐには撃たない。できれば鉄橋には当てたくなかった。

 今だと思ったその瞬間、正面のメインディスプレイがブラックアウトした。直後に画面は復活したものの、その画質は明らかに落ちていた。狙撃に最も重用な額のカメラに破損判定が出たようで、画質が下がったのは補助カメラで補正をしたためだろう。

 画面の中のエントゼルトゾルダートは、今の爆発で初めてこちらに気づいたような様子だった。どうやら林の中に歩兵がいて、そちらからロケット弾か何かを受けたのだと南田は状況を把握する。幸い、龍の制御系の中枢であるEPUは無事なようで、それは画面で確認するまでもなく、南田がエントゼルトゾルダートからの追撃を回避できたことで明らかだった。

 坂元の最良の策とやらは敗れ去り、南田は起死回生のため自機を物陰から飛び出させた。近くに歩兵がいるとなれば、これはとにかく動き回りながら歩兵の攻撃をかわし、敵の機兵を撃破は二の次にして早急に逃げ帰るのが「最良の策」だ。南田はチャフグレネードを射出しつつ、ゾルダートには火縄に自動反撃を行わせて後退した。橋へのダメージのことはすっかり忘れていた。

 逃げ切れるだろうか。思ったより林のほうから攻撃があるようだった。ここは通常領域なので、ミサイルの誘導を妨害するのはチャフによる電波の乱反射とバルムンクフィールドによる電波吸収だけ。バロッグの中に比べるとかなり危険である。

 南田が龍の身を隠すために峡谷に下りようとしたとき、画面が急に切り替わった。コクピットの直撃を受けて、いわゆるゲームオーバーになったのかと南田は思ったが、それは違った。

「緊急の割り込み通信? なんだってんだ」

 シミュレーションは強制的に中断され、画面は通信用のものに切り替わっていた。一緒にシミュレーションをやっていた坂元や鷹山からの連絡ではない。どうやら基地のほうから回線が繋げられたようだった。緊急の回線なので勝手に受信が始まる。現れたのは小柄の青年の顔。整備や運転で世話になっている夏明仁だった。

「公共周波帯でやってるニュースを拾ってみろ。なんか凄いことになってる」



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「反攻作戦が始まっただって!?」

 それまでうとうととしていた矢俣は、その声を聞いて寝袋ごと飛び起きた。起きあがりきれずにこけてしまいそうになってから寝袋の存在に気づき、急いでジッパーを下ろして這い出す。

 見回すと、周囲に今の言葉を発したらしい人影はない。薄明かりの中で、蓑虫と空っぽになった蓑とが同じくらいの割合で転がっていた。

 なぜ自分はこんなに慌てているのか。寒さのおかげで急速に冴えてきた頭で矢俣は自問した。

「情報が漏れ出たようにして真相が広まるのは勘弁してもらいたいな」

 厚木で藤居に言われた言葉が脳裏によみがえる。寝入る前に同僚と騒いでいたが、もしかしてそのときに口を滑らせてしまったのだろうか。矢俣は自分の狼狽の理由に気づいた。

 いや、酒を飲んでいたならまだしも、しらふでそんな失敗をしでかすほど落ちぶれた覚えはないし、これからだってそうなる予定はない。

 矢俣はケースから取り出した眼鏡をかけて、改めて周囲を確認した。何人か起き出す気配がある。それは、明りと共に漏れてくるざわつきのせいだ。矢俣を起こしたほどの大声ではないが、絶えず声が聞こえていた。

 黒龍隊の寝床に供されていた一郭は、言うなれば通路の一部である。おかげで始終冷たい空気が流れっぱなしで、たいそう皆で不平を垂れていたのだが、今はそれが、矢俣を光と音の発生源に導いてくれていた。光の差し込んできている通路に出た矢俣は、そのすぐ先の曲がり角に目をつける。そこを折れてすぐのところに、十人ばかりの人だかりが形成されていた。

「……ようです。繰り返します。亜細亜連邦軍が独自に反攻作戦を……」

 それは壁に設置された薄型テレビモニターが映し出す、テレビのニュース映像だった。今まで聞こえていたものは、必ずしも仲間の声ではなく、大部分このニュースの音声だったらしい。皆、指をくわえるようにニュースに見入っていた。

 アナウンサーは声だけで、映像はほとんど現地からの中継映像だった。矢俣が見たときはどこかの基地内部のようだったが、すぐにその映像は切り替わり、闇夜に輝く戦闘機のジェット噴射や翼端灯、暗視カメラで捉えた戦車隊の夜間走行など、さまざまなものを映し出す。

「なんだ、前線じゃなくて後方の市街地じゃないか」

 矢俣の隣で誰かが呟いた。たしかに映像は戦火を交える模様を映してはいない。それはそうだろう。報道のために戦地に身を置く奇特な報道関係者も稀少ではないが、速報は軍によって禁止されているのだ。こんな緊急ニュースを編集するに足る情報が集まるわけがなかった。

 何か怪しいな、と矢俣は思った。反攻作戦が躓いたら士気にも大きな痛手になる。失敗したときのことを考えたなら、反攻作戦の発動と同時に報道がなされることはなんとしても阻止したはずだ。それとも、なにか戦略的、政治的な意図があるのだろうか。一介のメカニックには真相など知りようもないが、矢俣はなにか騙されているような居心地の悪さを感じていた。

「タウンゼントブロードキャスト? なんでこの局がやってんの、これ」

 前のほうで剽軽(ひょうきん)な声がした。それはパイロットメンバーのなかでは判別しやすい特徴を多く具えた男だったので、名前を覚えるのが苦手な矢俣でも忘れることなくしっかり記憶していた。李峰國だ。発音は微妙だが、字は覚えた。

 峰國が指摘したのは、ニュースを流している局の名前だった。亜細亜連邦の放送局ではない。アメリカの新興財閥タウンゼントエンタープライズの傘下で、国際報道の舞台でもしっかり居場所を築いている企業だ。亜細亜連邦内にも多く支局を設置し娯楽番組を流していたが、今までこの局がこんな大胆な戦争報道をしたことはなかった。

「軍もタウンゼントなら大丈夫だろうって油断してたんだろう。それにしても、軍人の俺たちより早くアメリカのマスコミが反攻作戦を嗅ぎつけるなんてなぁ」

 峰國の隣に立った、肉付きのいい男が嘆息する。矢俣は彼が機兵パイロットだということは覚えていたが、名を思い出せなかった。彼が峰國に向き直って何かしゃべった際に、そっと刺繍された名前を見る。朝井秀和。「ああ、そうだった」と、矢俣はニュースとは全く関係ないところで密かに満足感を得る。朝井のもう一つ隣は群山。無口で目立たないというのが、矢俣には逆に覚えやすかった。

 その前にいるのは誰だろうかと、矢俣は体を少しずらそうとした。だが、横にあった肩とぶつかって矢俣は動けなかった。気づけばろくに身動きできないほどに人だかりが成長していたのだ。まだ眠っているのをわざわざ起こしてきた者もいるに違いない。他の場所にもこのニュースを映しているテレビモニターはあるのだろうが、寝床に近いせいだろう、ここに隊の過半数が集まっていた。

 ニュースは、これが亜細亜連邦軍が同盟諸国に断りなく実行に移した一大反攻作戦だと報じていた。出撃していく部隊の規模と場所から推測して、反攻作戦はかなりの広範囲で進められているらしかった。北部のウラル戦線から南部のカザフ戦線までが同時に動いているのだから、現地の疲弊気味の戦力だけでは足りない。後方から相当な規模の部隊が増援に派遣されるに違いない。噂は今度こそ本当だったのだ。

 一通りニュース内容を聞いてしまい、互いに感想を語ったり不明な点を尋ねたりしはじめ、やがてニュースの音声が聞き取りにくいほどになった。ついに始まった反撃に、多くの者が興奮していた。それが戦慄に取って代わったのは、群山の呟きがざわつきの空隙を突いたときだった

「俺たち、やっぱ前線送りなんだ」

 皆、無言になった。


*   *   *   *   *


 荒野の夜が明けた。

 江藤たち三人は力無く西に歩んでいた。ふりかえっても労働一号の骸(むくろ)はすでに見えず、前を見ても自分たちの影しか動くものは見えない。

「虚しいな」

 北嶋がついにそれを口にしてしまった。三人が同じように感じながら、今まで敢えて黙っていたことだった。

 途端に、ヨシダが叫びをあげて走り出した。しかし、すぐに力尽きたようにもとの歩調に戻る。空元気(からげんき)は一瞬で使い果たされた。

「いい歳して泣くな、アバタデ」

 江藤はヨシダをなだめようと、そのうなだれた後ろ姿に声をかけた。

「アデタバだ、アデタバ! だいたい、泣いてなんぞおらんわい」

 ヨシダは泣きそうな声で返事をした。江藤は北嶋と顔を見合わせ、大股に歩んでヨシダとの距離を詰める。

「しかし、泣いていてもおかしくない背中だ。あのポンコツがそんなに惜しいか」

 江藤がポンコツと口にした途端、ヨシダの肩が動いた。

「おまえにはわからんのだ。俺がどれだけ労働一号に愛を注ぎ込んできたか。艱難辛苦にぶちあたった若き日の俺が、何度壁に頭を打ち付けてきたか……」

「それで禿(は)げたのか」

 追いついた江藤が、同情の手をヨシダの肩に置いた。

「違う、心労だ」

「どうだか」

 江藤が笑うと、ヨシダは振り返らぬまま肩に置かれた手を取った。江藤はその行動を不審に思ったが、それは少々タイミングを逸していた。突如、世界がまわった。

 背中全体と左腕の面に衝撃があった。反射的に受け身をとれたので良かったが、インド系の二世にいきなり投げ技を食らうとは予期していなかった江藤は、上体を起こして目を瞬(しばたた)かせるしかない。

「お前こそなんだ、ストレス性の肥満じゃないのか」

 ヨシダは江藤を見下ろして言い放った。この見下ろす視線を得るためだけに今の投げをやったとは思えない表情だった。

「やるか」

「おう」

 立ち上がった江藤とヨシダが対峙する。止めに入ろうとした北嶋にそろって「近寄るな」と叫ぶと、ふたりは間合いを計るようにステップを踏んだ。

 互いに電撃のような動きだった。ふたりの拳が互いの顔面を捉えた。

 一瞬の硬直。そして、ふたりは案山子(かかし)が風に倒れるように、砂をかぶった大地に転がった。

「おい、大丈夫か」

 糸が切れた人形のように起き上がらないふたりを心配して、北嶋が駆け寄ってきた。とりあえず、近かった江藤の顔を覗き込む。

 江藤は、ぽかんと口を開けて空を見ていた。

「おい、意識あるか? 俺が誰だかわかるか?」

 北嶋は江藤の目の前で広げた指をふってみせる。即座の反応はない。真面目に介抱する必要があるかと北嶋が焦りはじめたところで、江藤は思い出したように口を動かした。

「あ、ヒコーキ」

 あどけない口調だった。そして、放心したような顔だった。

 いよいよ不安を募らせた北嶋が江藤の頬を叩こうとすると、江藤は早業(はやわざ)で彼の手首を掴んだ。

「お迎えが来たぞ」

 空を見たまま二の句を継いだ江藤は、その発言がますます北嶋の心配を煽るような意味に取れることに気づいて、笑った。

「安心しろ、俺はまともだ」

 朝陽を照り返しながら、上空を旋回する小型機。江藤が見ていたのはそれだった。こちらを発見したに違いない挙動。バロッグも晴れたのだ。じきに、ヘリコプターあたりが迎えに来よう。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 ストレスの発散を終えて平和になった三人組が救援を待つこと半時ほど。軍の小型ヘリによって三人は空の旅路についた。これで新青海基地までひとっ飛びである。

 ヨシダは名残惜しそうに、労働一号を残してきた東の地平線を見つめていた。北嶋は夜ろくに眠れなかったのだろう、江藤の横ですやすやと寝息を立てている。江藤は救援に来た兵士からここ一日のニュースを聞き出そうとしたが、新青海基地の兵卒は外部の情報からほとんど遮断されていて、基地の外のことは知らないという。そんなものだろうと江藤は思った。戦時中の軍なんてものはまともじゃない。

「まとも?」

 江藤は、さきほど北嶋に向けた自分の発言を反芻(はんすう)した。安心しろ、俺はまともだと。

「そりゃ、どうだろうな」

 窓から外を眺める。今日は快晴になりそうだった。そしてバロッグもまたきれいに晴れているのを、江藤は体感していた。