黒龍隊の挽歌 第七話

新青海の牙城



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 江藤の空腹がぶり返して、北嶋を眠りから呼び戻した。北嶋はヘリのエンジンやローターの音、さらにヨシダのうわごとにもまったく睡眠を乱されないでいたが、江藤の腹が断続的に鳴り出してから首が落ち着きをなくし、ついに目が開いた。

「着いたのか?」

 北嶋は体を横たえたまま江藤に尋ねた。

「いや、まだ飛んでいる。だがもう着いたようなものだな。見てみろ」

 江藤に促され、北嶋はゆっくりと体を起こし、窓に目をやった。前方の景色の大部分が、大地の色でなく、グレースケールの濃淡で敷き詰められている。亜細亜連邦軍の指折りの戦略拠点、新青海基地の全容が一望の下になっていた。

 新青海基地は、大都市を軍事拠点として再開発した北部方面軍のオムスクと違い、ほぼ一から建設された拠点である。ここには超大型輸送機でも複数が同時着陸可能な巨大空港や、レーダーサイト、ミサイル基地、兵器製造工廠、発電所などが揃っており、可能な限り他への依存を排除した独立拠点となっている。

 内陸の不毛の地にこのような基地が建設されたのは、八月の悪夢後にこの一帯で確認された謎の緑地化現象がきっかけである。

 荒野が自然に緑地化していく、というのは非常に不可解な現象だったが、もしメカニズムを解明できればその恩恵は計り知れない。それを人為的に起こすか、そうでなくともその現象の発生を後押しすることができれば、農業と居住のための土地が大幅に拡大できる。当時戦乱と食糧難で混沌のピークにあった亜細亜連邦はこの地に調査隊を派遣。調査は長期間に及び、その規模も拡大され、やがて基地が建設された。

 当初はただの観測基地だったが、数年の調査で周辺にバロッグが発生する頻度が高いことがわかり、また変則領域の利用目処がついたことで、この地は重要な実験拠点と化した。変則領域の解明を進めることは軍事面の優越性を獲得することに等しく、実験基地としての価値は戦略的価値に等しい。一帯の緑地化が大きく進んでいたこともあって、亜細亜連邦は観測基地を新青海基地として大幅に規模拡大することを決定。反政府勢力ばかりでなく地方軍の動向さえ警戒の対象だった時期だけに、基地には戦略軍直轄の防衛部隊も配置された。

 やがてSMITSの勢力拡大、戦略軍への集権が進むにつれ、新青海基地は拡大の一途をたどり、軍事基地化から十二年を経た今も、宇宙往還機と機兵関連の施設拡張が続いている。ここほど集中的に金の注ぎ込まれた土地を、江藤は数えるほどしか知らない。そしてそのいずれもが、戦略軍や各方面軍の要衝だ。

「テレビで見るのより大きいな」

 息を呑んでいた北嶋がようやくそれだけの感想を口にした。

「そうだろう。中にいると圧倒されるぞ」

 そう言って、江藤は北嶋が目を円くしているのを眺めて楽しんだ。

 江藤が初めて来たのは外廓聯編入以前、というよりこの戦争の兆しさえ見られなかった頃のことなので、今ほどの施設は揃っていなかった。現在の六割くらいだろうか。北嶋がテレビで見た新青海基地の姿というのは、実はその頃に撮られたものである。だから北嶋は基地の今の全貌を知らなかった。しかも、かつてテレビの取材のため公開された面積は、当時の施工面積の半分にも満たなかったので、北嶋は現物の三割以下の新青海基地しか見たことがなかったのだ。驚くのも無理はない。

 ヘリは、案外に基地の奥深くのポートに降りた。ヘリを降りてすぐ基地司令部からの迎えが来たことで、江藤は「ほほう」と唸った。迎えの説明によれば、基地司令のディハン少将が今すぐ会うとのことだった。当然そこでヨシダとは別れることになり、江藤と北嶋は握手を交わして挨拶とした。

 江藤と北嶋はジープに乗せられた。北嶋は、慣れない要人待遇に悪くない顔をしていたが、それを見た江藤は、別に特別待遇というわけではないのだと北嶋に教えてやった。新青海基地はあまりに広大なので、あちこちに移動用のジープや自転車が置かれており、さらに工場や農場の区画では人の流れる時間が決まっているため、乗り合いバスまでが使われている。ヘリポートから司令部までの移動なら、たとえ新兵だろうとも四人ほど集まればジープが使える。

 若い運転手は必要以上には口を開かなかった。江藤の退屈しのぎの質問にことごとく簡潔な応答をよこすので、世間話には発展しようがなかった。北嶋は物珍しそうに基地の様子を観察していたが、江藤にとってはありふれた街を歩いているのと変わりない。それでもこの一ヵ月の不在の間に何か変わったかもしれない。そう思って周囲に注意を回した江藤は、基地の雰囲気が少し違っているように感じて、背筋を伸ばして座りなおした。

 あわただしい。がやがやとうるさいのではなく、例えるなら、学芸会の劇の場面変更で裏方や役者が忍び足で駆け巡っているような、そんな空気だと江藤は思った。もう一度ぐるりと辺りを見回して、正面の運転席に目を戻した江藤は、運転手が基地の雰囲気と全く同じものをまとっていることに気づく。

「ダーダネルス作戦は、始まっているのか」

 返答はあまり期待しなかったが、一応江藤は運転席の兵士に尋ねてみた。横の北嶋が驚いてふりかえる。一瞬、直線道路を走るジープのアクセルが緩み、兵士の目がミラー越しに江藤を捉える。「大規模反攻作戦のことだ」と江藤が続けかけたとき、兵士の口が小さく動いた。

「昨夜」

 江藤が待ち受けても、兵士はそれ以上のことを語らなかった。江藤は背もたれに身を預けると、溜め息をついた。

「北嶋、将軍にいろいろと問い詰めることがありそうだ。少々やり方が荒っぽくなっても、止めるなよ」

「――了解したよ、隊長殿」

 北嶋は目を閉じてシートに身を埋めた。



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 江藤たちが通された先は、この基地の大物セム・ディハン将軍の執務室だった。猿之門の江藤の執務室より大きいものの、豪奢な装飾があるわけでもなく、どこか空疎な印象を与えた。客用の机や椅子は高級品のようだったが、成金趣味というわけでもなく、江藤が近衛軍で見たものに比べれば質素なほうだった。

 背後でドアの閉まる音がして、はじめて部屋の主はふたりを見た。その男はふたりを一瞥すると、それまで読んでいた手元の書類を脇にどけ、かけていた眼鏡を外す。

「座りたまえ」

 そう第一声を発したディハン将軍は、歳は五十を過ぎ、張り出した腹部を抱え、薄くなった頭頂部を隠すこともやめた男である。声にも疲れがにじみ出ていた。

 遊撃ばかりしていた外廓聯がたまに帰って骨を休める基地がこの新青海基地だったので、基地の有力者であるこの将軍を江藤は見知っていた。当時は一介の機兵パイロットにすぎなかったため、向こうがこちらを覚えていることはないだろう。そのように、江藤はあらかじめ北嶋に説明しておいた。

 ディハン少将は、戦略軍参謀本部が新青海のミサイル基地を預けた将軍だけあり、思慮深いタイプの人物である。新青海基地に常駐している防衛部隊も彼の管轄下にあり、戦略軍からの信頼の深さを知ることができる。昔から戦略軍所属というわけではなく、東部方面軍の幕僚も経験しているので、知っている世界が広い。戦略軍以外にも各方面軍の部隊が駐留し、さらにSMITSやRATといった秘密の多い元老院私設機関までが居を構えているこの新青海基地が和を保つには、こういう人間が必要なのだ。特定の派閥に与しているという話を江藤は聞いたことがないが、立場上、元老院派とのパイプは相当なものだろう。

 もしや、あの龍王(ロンワン)をテストしていた部隊からディハン少将に内々に連絡が回った結果、救出のヘリがよこされたのではないだろうか。ここに来るまでに、江藤のその疑問は大きくなる一方だった。現に、特に混乱もなく、到着すぐにここに通された。上空から小型機に発見された時点で、基地側に身元が知られていた証拠である。

「江藤少佐、北嶋大尉。遠路はるばるご苦労だった」

 ディハンがふたりに着席を促し、江藤の逡巡は中断させられた。

「軍内の不穏分子が、命令の極秘性を利用して君たちを拉致しようとしたのは、実に気の毒な事故だった」

 ふたりが腰を落ち着ける間もなく、ディハンはそう続けた。

「事故? 事件ではないのですか」

 江藤は冷ややかに笑いの表情を作って、ディハンを見た。

「自分たちを拉致した下士官たちは、緊急連絡部を名乗っていました。言動から、彼らが偽物であることはすぐにわかりましたがね。将軍にお尋ねしたいのですが、自分たちが部隊を厚木に残してここに先行するという命令は、結局、正規のものだったのでしょう? なら、その極秘性を利用できる立場にあったのは、戦略軍の枢要な部分に関わる人間だった、ということではありませんか。戦略軍が不穏分子を内包していた、というのはちょっとした大事件ですよ。事故ではなく」

 文句を垂れるのは得意技の江藤。ディハンに口を挟ませる余白を与えず、早々に慇懃無礼モードにシフトしていた。だが、ディハンはその程度の挑発に乗るほど器の小さい男ではない。

「怒り心頭なのはわかるが、君もそういうトラブルと縁のある立場になったということだ。パイロットとして戦闘をこなすばかりが能でもないのだろう? その下士官たちについて、あとで情報部の連中の聴取に協力してくれたまえ。この時機に高速連絡機を一機失ったのは痛い。再発防止は、君のためにもなると思うが」

 試すような江藤の発言に対し、ディハンは言い含めるように語尾を収めた。早まった対応で連絡機を墜落させた件を察知されたかもしれない。江藤は警戒して、自分からも話題の軌道修正をかけた。

「聴取? いろいろ聞きたいのはこちらのほうですよ、将軍。ダーダネルス作戦、始まったそうですな。我々がここに召致されたのは、黒龍隊の投入計画が密かに進んでいるから、と解釈してよろしいので?」

「密かに、という副詞が気になるが、おおよそ君の考えていることは正しい。第四機兵大隊を今次作戦に投入することは、すでに右院の認可を得ている」

「右院が認可を?」

 北嶋が鸚鵡(おうむ)返しに聞き返したのに対し、ディハンは首を縦に振った。

「第四機兵大隊……黒龍隊に限らず、機兵を擁する部隊の具体的な作戦行動は未定、あるいは伏せられていた。そのため、君たちのような指揮官だけを作戦発動の頃に召集し、移動に手間のかかる本隊は追って移動させる手筈だったのだ。そのほうが防諜の面からも有益だと思われたしな。黒龍隊だけを密かにどうこうしようという話ではない」

 右院の許可も得たうえでの作戦参加。そして、自分たちが拉致されかけたのは作戦前の混乱を突かれた不幸な巡り合わせ。ディハンは、黒龍隊がないがしろにされているわけではないと言外に伝えてきているわけだが、そもそも右院が黒龍隊派遣に賛成したという話が江藤には信じがたかった。

「君ら以外の隊はもう動き出しているよ。黒龍隊には昨夜のうちにここへの移動命令が出ていたが、便の調整で出発が遅れた。さきほど北京を出たそうだから、君たちの無事は陸で部下たちに伝わっているはずだ。安心したまえ。到着は一五〇〇(ひとごうまるまる:午後三時)くらいだろう。正確な時刻はあとで管制に問い合わせてくれたまえ」

 ディハンはそこで一息ついて、水差しの水をコップに注いだ。普段は自分の口で長く話すことはないのだろう。事が事だけに、副官や各担当の士官も人払いの対象になっているのだ。

「それで、作戦概要と、現在までの進行状況はどうなのです?」

 江藤はディハンが水を飲んでいる間を利用して、封切となったダーダネルス作戦がいかなるものか尋ねた。

「察してはいると思うが、今回の作戦の主目的はカスピ海東岸まで戦線を押し返すことだ。ウラル戦線やアフガン戦線でもプレッシャー程度の攻勢には出るが、主力はウズベク西部を奪回しつつトルクメニスタンを啓示軍(オフェンバーレナ)の魔手から開放するために投入されている」

「ウズベク戦線は砂漠ばかりで戦略的価値が稀薄ながら、敵戦力が相当に集中していると聞き及んでおりますが」

「だからこそ、だよ。今まで再三陽動作戦を展開してきたが、いずれもさしたる戦果を上げることなく終わってしまった。江藤少佐、君も参加したことがあるだろう」

「二度ほど。しかし主力とは相対しておりませんので、“人形”のせいで作戦が失敗続きだという弁明が真か偽か、判断は保留いたしますが」

ノイエトーターなどという、たかが局地戦兵器にしてやられたとは考えていない」

 ディハンは声を荒げた。

「無論、機兵が……特にあの銀色の機体が、変則領域内で圧倒的優位性を誇るのは理解しているが、戦局は末端の兵器の性能だけで決まるわけではない。今や我が方にも機兵戦力が揃いつつあり、敵の輸送、連絡路の洗い出しも進んでいる。たかだか三機前後の特異な機体がいようといまいと、カスピ海までの突破口を開く今作戦に大きな影響はない」

「あれは類稀な戦略兵器だ、という将兵も少なくないようですが」

「戦略兵器はこちらとて数多く保有している。あれが変則領域での王者ならば、こちらには通常領域での破壊の王者がいる」

 江藤は思わず眉間にしわを寄せた。ディハンが示唆するところが核戦力だということはわかる。わからないのは、ディハンがこの戦争で核が役に立つと本気で信じているのかという点であった。

 モスクワ攻防戦に前後して、すでにロシアの核ミサイルが発射されたという噂もあるが、それが実際にキノコ雲を上げていないことは確かなのだ。亜連が発射していないのか、それとも啓示軍がミサイルを爆発させずに阻止したのかはわからないが、戦略軍、そしてペンタゴンが今まで核を使わずに劣勢に甘んじてきたということが、雄弁にその実用性の無さを表している。戦術級の破壊力しかないミサイルをピンポイントで撃ち込むにしても、啓示軍の中枢たるベルリンは例のによって護られ、かといってその他の拠点に使おうものなら、無為に虐殺を行ったとしてたちまち亜連は大義を失う。そもそも変則領域の存在と、啓示軍の行った衛星破壊のおかげで、精密誘導など望むべくも無いのが今の戦場だ。

 啓示軍も、通常兵力の数で圧倒的に連合軍に劣っているにもかかわらず、開戦以来一度たりとも核兵器を使っていない。啓示軍側は衛星をまだ自由に使えるらしく、また、機兵の早期開発を見るに彼らの変則領域に関する知識はこちらより進んでいる。おそらく、核を使えるだけの条件は揃っているのだろう。しかし啓示軍は決して核を使わない。それは亜連と米国の核戦力を恐れるからではない。世界を正しい方向に導く云々というハンス・ライルスキーの常套句が、ただの飾りでないことくらい、この男も解っているだろうに。江藤は口をきつく結んで、舌打ちを堪えた。

「安心したまえ。使わずに終わらせる、というのが今作戦の重大な目標のひとつだ」

 江藤の表情を読んだのかディハンはそう繕ってみせたが、江藤の内心を把握したうえでそのように愚昧な将軍を演じているのか、江藤はまだ判断がつかなかった。

「規模と比例してリスクの大きい作戦を開始に踏み切ったということは、ウズベクの制圧を進める啓示軍の意図が量れた、ということですか?」

「それについてはノーコメントだ」

 ディハンは唇を固く結んだ。

「では、トルクメニスタン政府との交渉がうまくいった結果だと思っておきます。啓示軍侵攻が始まってから政府分裂状態でいろいろあったようですが、新体制擁護の方針で元老院も議会両院も落ち着きましたか」

「江藤少佐、国際政治について軽々しく口を挟むものではないぞ」

 慌てたように、ディハンは江藤をたしなめた。あんたはそうだろうさ、と、江藤は内心で笑う。今のセム・ディハン少将の地位が、実務上の有能さやコネだけで得られるわけはない。政治に近づきすぎず、そして離れもせずに、一定の距離を保つ。安全な出世街道を行くには必要な知識だ。

「しかし、砂漠化しているカスピ海到達などより、トルクメニスタン進駐が真の目的なのでありましょう?」

 江藤は挑発的な視線を投げかけながら、頭の中で世界地図の一部を切り出した。

「トルクメニスタン進駐に並行して、アフガンでのエデン系、非エデン系ゲリラの掃討を進め、南部方面軍の土台を安定化。これでイランの北と東を押さえることができる。ここで遅れを取るまいとペルシャ湾に進出してくる米空母戦闘団と歩調をあわせれば、イランは半包囲状態になり、イランは亜連の要求する啓示軍との不可侵条約破棄を呑むでしょう。そして南方の憂いをなくしたところで北方に戦力を向け、夏になってモスクワの啓示軍が活発化する前に、ヴォルガ川からウラル山脈、カザフ西部という広大な食糧供給源を奪回する……と、以上、何か間違いがありましたか?」

 視線に加えて、口元を嘲るような笑いで歪めてみた江藤は、その行動が吉と出るか凶と出るか、ディハンの発言を待った。

「イランが条約破棄を受け入れるかどうか、怪しいところだ」

 しばしの沈黙をはさんでから、ディハンは江藤の語った予測の不備を指摘した。

「それに条約を破棄したとして、すでに啓示軍はイラン内部に根を張り巡らせている。啓示軍が部隊を撤収させ、我が連邦かアメリカがイランに進駐したとしても、それはまだ燻ぶる火種を家の中に持ち込むようなものだ。――しかし」

 ディハンはそこで一旦、口をつぐんだ。

「しかし、少佐の言ったことは戦略軍の思惑そのままだ」

 苦々しげに息を吐いたディハンを見て、江藤は隣に北嶋に視線を転じた。この将軍が内心を吐露しているのか、それとも偽りの言葉なのか。黒龍隊を懐柔しようとしているのか否か。北嶋も判断しかねるといった顔で、江藤は相手を軽く刺激して反応を見ようと思い立つ。

金星也元帥が何か企んでいる、ということでありますか?」

「企むとは人聞きの悪い言い方だよ、少佐。参謀本部にはいろいろと企図するところがあるのだろうが、それは連邦のため、平和のためを想うのと等価だ」

 江藤の言葉を受けて、ディハンは急に体をこわばらせてそうたしなめた。

「では真意とでも呼びましょうか。自分が知りたいのは……」

「黒龍隊の任務、であろう?」

 江藤の質問はディハンの強い声に遮られた。

「黒龍隊の任務は、今次作戦の前線司令部を防衛することだ」

 そう続いたディハンの言葉は、論点のすり替えを抗議しようとしていた江藤を鎮めた。予期せぬ展開だった。

「司令部の防衛? では、積極的に戦闘に赴くことはないのでありますか?」

 北嶋がやや安堵を滲ませて将軍に尋ねた。

「そうだ。最前線での遊撃は、従来どおり外廓聯に任せる。編成されたばかりの黒龍隊に、作戦の成否を左右するような任務を与えるわけにもいくまい」

 うちは張子の虎。酷使されるのはやはり外廓聯かと、江藤は内心で舌打ちし、現実には拳を鳴らした。

「機兵は変則領域内を遊撃するための兵器です。動かない司令部の防衛には、機甲部隊と防空網がいちばんなのでは?」

 北嶋が技術者らしいことを言った。たしかに、司令部が変則領域に包まれるという確証でもない限り、まだまだ数の足りない機兵を司令部の防衛に費やすのは無駄に過ぎる。ただし、黒龍隊は厚木の一件を除外すれば実戦経験がない。まともな任務に耐えられないというのは、隊長である江藤自身がいちばんよくわかっていた。

 ディハンは再び口を湿らせてから返答する。

「制空は近代化済みのミグとスホーイがしっかりやってくれる。――言っただろう? 黒龍隊に重大な仕事は任せられん。軍事的より政治的意味合いの強い配置だと考えてくれ」

「戦力としては当てにしていない、と?」

「第一陣の戦力としては、だ。作戦の進展によっては、司令部を離れて外廓聯の援護についてもらうことも有り得る」

「それでは司令部の守りは別の隊が主力と考えてよろしいのですね」

 北嶋が念を押すように尋ねると、ディハンは少し考える素振りを見せてから、ゆっくりと口を開いた。

「答えられない。前線司令部の守備は私の管理外のことだ」

「管理外というのはわかりますが、戦略軍でも力のある将軍が、今次作戦の前線司令部のことを知らないというのは信じられません」

「君らが信じようが信じまいが、私に前線司令部に配された人員や戦力についての知識が湧いて出るわけではない。黒龍隊という例外を除けば、私は何も知らないのだよ。知る必要もない」

 最後の言葉は自分たちに向けられたものか。江藤は、腹に一物含むところのある将軍を胡散(うさん)臭い目で見るのに、一切ためらわなかった。

「それで、我々はどこの命令系統に組み込まれるのです? そもそも司令部はどこですか?」

「フェルガナ盆地の西方に、かつて第七戦略機動師団が使用していた基地がある。西部方面軍が存在を秘匿してきたらしいのだが、この戦争が始まってから当然のように露見してな。第七戦略機動師団が解体され前線に投入されてからは、使う者もなくなっていた。そこが黒龍隊の配置される前線司令部だ。司令部防衛の任にある限り、黒龍隊は司令部の指揮下に置かれるが、黒龍隊に付与されている任務優先度AAの資格は今次派遣を通じて常に保持される。それが軍事委員会との折衝で決まった貴官らの任務だ。何か質問は?」

 尋ねて、ディハンはコップの水を飲み干した。コップを置いた手が水差しに伸びる前に、北嶋が挙手した。

「現地で機兵の整備と補給は望めるのでありましょうか」

「物資については一通りの物を揃えてあるとの事だ。移動経由地点のタシケントでも、支援装備を準備してある」

「着の身、着のまま出てきたようなものです。それくらいは当然していただきますよ」

 江藤は内心苦笑しながら割り込んだ。北嶋は隊員の防寒具のことにも考えが及んでいない。部下想いの北嶋にしては珍しいが、日本で機械やコンピュータ相手の仕事ばかりしていたのだから、現実的な問題に暗いのはしかたあるまい。

「無論、隊員の装備もこことタシケントで支給される」

 付け加えたディハンに、「当然です」と口にした江藤は、無礼ついでに懸案事項をひとつ問い質す。

「将軍。啓示軍の空挺機兵部隊は神出鬼没です。我が隊は万全の警戒態勢で臨む所存でありますが、かといって自分は部下の命を無用な危険に晒(さら)すつもりはありません。慰め程度ではない、それなりの装備と支援態勢を要求します。本来ならば、最低でも龍(ロン)が十機揃うまでは日本で訓練の予定だったのですからな」

 江藤が何を言い出すかディハンは警戒した様子だったが、その内容を聞くとすぐにその緊張を解いた。片手に水差しを握りながら、微笑さえ浮かべて答える。

「安心したまえ。即戦力としては期待しないと言ったが、戦略軍とていつまでも黒龍隊を飾り物にしておくつもりもない。所期の機兵配備数は揃える。不足の龍三機はここで受け渡すし、前(さき)に触れた支援装備も豪勢なものだぞ? 移動中の安全に関しても、タシケントまでの航路は我が方の制空権内だ。不服はあるまい」

 奇妙に思えるほど安心したように見えたディハンに、江藤はそれ以上詮索するべき対象を見出せなかった。龍を三機も追加してくれるという気前のよさは意外だったが、怪しむことでもない。しかし何か釈然としないものが胸のうちに残った。

 江藤はそのままディハンから種々雑多な連絡事項を聞くと、北嶋とともにおとなしく執務室を退去した。


*   *   *   *   *


「ですから、賛成いたしかねました」

 自分以外の姿が見えなくなった執務室で、ディハンは自分の声が緊張を取り戻したのを自覚した。コップ二杯の水を飲んだというのに、また水差しに手を伸ばしたくなる。ディハンは額に浮き出た汗を拭(ぬぐ)って、思ったより多い発汗量にどう表情を変えていいのかも思いつかず、そのまま立ち上がった。内耳にはめていた通信機を外し、体を秘書室へと通じるドアへと向ける。ほどなく、そのドアからひとりの男が現れた。

「お耳を汚しました」

 佐官の制服に身を包んだモンゴロイドの男に、ディハンは全身を硬直させて敬礼した。

「構わん。寧(むし)ろもう少し、あの男を刺激してもらいたかったのだがな」

 ディハンより一回りほど若く見えるその男は、少将の階級章をつけたディハンに対して居丈高に言った。その双眸(そうぼう)が時として槍のような鋭さをもつことをディハンは知っていたが、今は刺すというほどの眼光でもなく、おかげでディハンの体は敬礼を解く動作を完了できた。

「お聞きの通り、不遜な男です。外廓聯にいた頃から、素行の評判は良くなかったようです」

「貴官の直接聞いた話ではあるまい?」

「そ、それは、そうであります」

「時が来れば、直接話すのも面白そうだな」

「それは危険です、元帥」

 思わず階級で呼んでしまったことをディハンが後悔したときには、ナイフほどの鋭利さを持った視線が襲ってきていた。意識の働く前に体が硬くなり、ディハンは口を動かすのにも一瞬の遅れを要した。

「――申し訳ありません」

「よい。ここの防諜はこの儂(わし)が保証する。しかし口の利き方は慣らしておきたまえ」

 そういう男自身は、口調を使い分けていない。しかし、やろうと思えば一切の卒なくこなせるのだろう。ディハンとて伊達に長くエリート軍人をやっているのではない。この男の力のほどは、少なくともその最低ラインについては、じゅうぶんに見積もることができる。

「はっ。――しかし、あの男と直接に会うとなると御身の安全が保証できません」

「案ずるな、そのような責任を貴官になする気もなければ、まだ会う段階でもない」

 笑ったのか。ディハンは、目前の男が口元を歪めたような気がして、瞬きをしてから注視しなおしたが、やはりその顔はいつものものだった。やはり見間違いだ。ディハンはこの男が自然に笑った顔を見たことがない。十年も前に自分を猛スピードで追い越して行った天才は、愛想笑いさえ滅多にしなかったのだ。

「ご苦労だった、ディハン少将。貴官はもう黒龍隊に関わる必要はない。以後は白龍隊の作戦援護と基地内の秩序維持に専心せよ」

 口頭命令を残し、男は廊下へと向かっていく。ちょうどそのドアが廊下側から開かれ、細長い背をした大尉が姿を現す。どこでタイミングを計っていたのか知るべくもないが、間違いなく迎えに来たのだろう。上官以上に表情に乏しいその顔は、正視すると寒気がしそうだった。

 変装をした亜細亜連邦軍最高司令官を見送り、ディハンは言い置かれた命令を反芻(はんすう)した。

「ふたつとも難題ではないか」

 黒龍隊隊長の巨漢のことなど、もう頭から消え去っていた。



- 3 -


 ディハンの部屋を出た途端急に悲鳴を再開した江藤の胃袋が、ちゃんと食べ物を流し込んでもらうにはしばらく時間がかかった。士官食堂で食事にありつくまでに、健康チェックと例の一味――この言葉を想像するだけで江藤の胃の締め付けはますます厳しくなった――に関する事情聴取を受けねばならなかったからだ。健康チェックの結果は特に問題なく、北嶋のほうは精神的ストレス対処方について質問していたので少々時間を食ったが、より面倒なのは事情聴取のほうだった。

 聴取を取りに来たのは戦略軍情報部の人間だった。戦略軍の内部に不穏な者が侵入したことがかなり問題視されているらしく、早く逮捕しようと江藤や北嶋にしつこくいろいろなことを聞いてきた。さらにはご苦労なことにもう容疑者リストを作ってきていて、そこに載った顔を全部注意深く確認させられたのだから、空腹を抱えた身にはかなりの忍耐がいった。

 結局、呂孝明(ル・シャオミン)以下数名の連絡機強奪犯や、スタンガン片手に江藤を拘束しようとした東部方面軍の制服を着た連中の顔は、思い出せる限り見当たらなかった。急に仕立てたものとは言え、聴取に当たった情報部の者は作成したリストにそれなりの自信を抱いていたようで、江藤が誰もいないと答えるともう一度見直してくれとまで頼み込んできた。不眠不休を偲(しの)ばせる目の充血が痛ましく、ついついリストを最初まで見返してしまった江藤は、三度目の空腹ピークも過ぎ去った頃にようやく食堂に入ることができた。

「リストを作り直してくるからまた見てくれ……か。彼は仕事熱心だったな」

 北嶋が食器を載せたトレイにコップを加えつつ、後に続く江藤にそう言った。

「ああ、頭が下がるよ、全く。あいつの話によると、厚木でおまえを捕まえて、俺まで捕まえようとした東部の制服着た連中、うまく峰國(フェングォ)が取り押さえたらしいな」

「でも、連絡機のグループは不時着した直後に姿を消している。結局、共犯だったのは確かだろうけど、どういう連中だったのかは闇の中だ」

「俺たちに一縷の望みを託す気持ちもわからんではないが……。あの男、放っておいたらそのうち連邦軍の男全員の顔を持ってくるぞ」

 ふだんなら江藤は自分の冗談に笑うところだが、話しているうちに着席していたふたりは、もう笑っている暇などなかった。物でも憑いたかのような勢いで士官食堂の栄養満点料理に襲い掛かる。リゾットにステーキ、魚のすり身のフライ、パスタ、オムレツ……。見境無く二枚のトレイを埋め尽くして来た江藤は、獅子奮迅の戦いぶりで目前の料理たちを平らげていった。

 日本食メニューでないのが惜しいが、ここの料理はどれも卒が無い。ある程度空腹を満たした江藤は、久しぶりの味を楽しむ余裕を取り戻すことができた。

「これはおいしいな。江藤、どこから仕入れているか知らないか?」

 北嶋がトマトをフォークで刺しながら尋ねてきた。よく熟れたトマトである。

「ん、それは多分、農業区画で栽培しているやつだと思うぞ」

 江藤はそのトマトに見覚えがなく、盛ってあるのに気づかず通り過ぎて来たのか、それとも目にも入れずに腹の中に収めてしまったのか、真剣に考え込む。それでも北嶋に即答できたのは、新青海基地においては野菜の自給が常識だからだった。

 もとが緑地化現象の研究施設だっただけあり、ここには古くから実験農業プラントがあった。それから発展した大規模な食糧生産プラントが今も現役で、そこで賄われる野菜などの農作物が、新青海基地の独立を支える大きな柱になっているのだ。士官食堂に限らず、プラントで生産された野菜や果物は兵士の口に入る。新鮮さも折り紙つきであるから、食糧事情の良さはここに立ち寄った者の誰もが羨(うらや)む。感心した様子でトマトをほおばった北嶋も、ご多分に漏れぬ心情だろう。

「裕美子さんと朋美に食べさせてあげたいな」

 北嶋が妻子の名前を出して嘆息した。そういうものと縁のない江藤には、その心の痛みを慮(おもんばか)るのにも限界があったが、次に北嶋が何を言いたいかくらいはわかる。本来なら厚木に日帰り演習に行くだけの話だったのだから、連絡もなしに家に帰らなかった自分をさぞかし妻が心配するだろう、というのが北嶋の愚痴の出端(ではな)部分。手紙で事情をそれとなく説明できたとしても、このまま作戦に従事するのではクリスマスまでに日本に帰るのは絶望的。せめて妻には実家に戻って楽しくクリスマスと年末年始を過ごして欲しい。――北嶋の思考パターンをシミュレートするとそんなところだろう。江藤はそれがどれくらい当たっているか北嶋の次の文句を待ち構えたが、北嶋は今更それを口に出すのも嫌になったらしく、そのまま食事の仕上げに入ってしまった。

「ち、つまらん」

 江藤は北嶋に聞こえるのを構わずに呟(つぶや)いた。

 なんだかんだ言っても、日本人はまだまだ気楽だ。機兵に乗ってのこととはいえ、前線に何度も足を運んだ江藤は、北嶋の苦悩も笑い事で済ませられるだけの現実を見てきた。しかしだからこそ、その気楽な悩みをネタにして、今は楽しみたかったのだ。外廓聯でも補給や移動のときはそうしていた。

 怪訝(けげん)な顔をする北嶋を放置し、江藤も残る皿を平らげに入った。ステーキの最後の一切れを口に運び、サラダとスープで口直し。腹に入る前に口の中で混ざっているのではないかと北嶋が不安な目を向けてきたが、それほど不器用ではないぞと顔で答えてやる。しかし、久しぶりにやった技なので少しむせ込んでしまった。

「しかし、意外だった」

 コップの水で改めて喉をすっきりさせてから、江藤は食後のおしゃべりタイムの始まりをそう宣言した。

「右院が俺たちを日本から出すとは予想していなかった。あるとしても、せいぜい北京(ペキン)か南京(ナンキン)、シベリア東部の補欠任務くらいだろうと思っていた」

「西のほうの議員が、失地回復に焦っているんじゃないか? 次の右院選挙、延期はされない見込みらしいぞ」

「そうだな。そういう力学ももっと学ばなけりゃならんか」

「この戦争が来夏まで続いたとしても、左院も次の選挙は延期しないだろうな。連邦議会制の維持を名目に、安全地域の国が我先に勢力拡大を狙っている。焼け出されたモスクワ派が、オムスク派に鞍替えをはじめたって噂話を、秋に北部から来た技術士官が運んで来たよ」

「左院は混乱中か。右院の決定に横槍が入ることもないだろうな。ま、議員の半分は祖国存亡の危機に立たされているから、まともな議会運営なんてできなくて当たり前か」

「しかしどこかで結束していないと、元老院に隙を見せることになる。たぶん、中央議会は反攻作戦支持を軸にして崩壊を免れているんだろう」

「――やはり啓示軍を亜連領内から追い出さん限り、和平は無いかな」

 江藤は天井に視点を移した。同時に、北嶋は空になった皿の上に目のやり場を求める。

「たぶんね。だが、これ以上の戦争継続は連邦体制の存続に関わる問題だ。元老院も議会も早期解決を狙っている点では同じだろう。だとすると……」

「多少の犠牲は厭(いと)わないな」

 江藤は先を取ってそう続けた。北嶋が小さく頷く。

「生贄のリストに俺たちが載っていないことを願うばかりだ」

 江藤は大きく伸びをして、沈む思考をどこかに放り投げた。ついでに首もぐるぐる回し、それで壁時計が目に入った。本隊が到着するまで、およそ二時間。

 江藤の脳裏に別の議題が浮かんだのを察知したらしく、立ち上がりかけていた北嶋が改めて椅子に座りなおした。なんでもない、と答えてもどうせ追求されるので、江藤は考えていたことのひとつを口に出した。

「龍の編成をどうしようかと思ってな。十機ともなると、二つか三つに隊を分けたほうが効果的だ。藤居に一隊、坂元鷹山にもう一隊預けるというのでどうだ?」

「シミュレーション戦での戦技からすれば、妥当なところだろうね。竜時くんは候補に入れなかったのか?」

「竜時はまだ駄目だな。筋は悪くないんだが、切れがないというか詰めが甘いというか、どうにも頼りない。俺の小隊につけて、しばらく教育だ。その点、藤居は自学してくれるし、坂元と鷹山は組ませておきさえすれば面倒がない。ま、ちょいとお灸を据える必要はあるがな、坂元には」

 江藤は苦笑した。厚木で勝手に武器を持ち出した坂元の行動は、営倉に入れても文句のつかない行為だ。あの後どうなったのか、連絡機に閉じ込められたために未だ認知していないのだが、誰も特に言及しないとなると、幸いにも大きな問題は起きなかったらしい。細かいことはあとで藤居にチクらせよう。江藤がそんなことを考えていると、北嶋が急に立ち上がって椅子が音を立てた。

「どうした?」

 江藤が見上げると、北嶋の目は遠くに焦点をあわせ茫然としていた。ふりかえらずとも、そこにテラスがあるのはわかっている。そこに誰か知り合いでもいたのだろうか。結局、江藤は後ろを向いて確認した。しかし、小さなテラスにひとつしかないテーブルには、人の姿などない。向き直ってもう一度「どうした?」と言葉を重ねると、北嶋は急にあたふたと動き出した。

「あいつだ、えーと、そうだ、呂曹長! そこを通った!」

 北嶋は椅子を蹴倒しそうな勢いで、トレイを持って食器片付け口に走り出した。

「そういうことなら、片付けなんて後でいいだろ北嶋!」

 江藤はトレイのやり場に困る北嶋を置き去りにして、後方のテラスへと走る。

「お前はさっきの情報部員に連絡してやれ」

 ふりかえらずにそう言い残し、江藤はテラスの手すりを跳び越えた。

 小さな庭を走りぬけ、花壇をまたいで道に出る。左右を見渡し、左手にそれらしい背中を見つける。距離は七十メートルほど。服装は違うが、他の通行人との背格好の比較でそれなりに判別がつく。本当に呂孝明だとしたら、ここで大手を振って出歩いていることについて疑問も浮かぶが、とにかく捕まえてみればいい話である。江藤は荒野を歩かされた寒さと疲れと空腹を思い返しながら、容疑者の背中を追った。

 向こうは気づく様子もない。江藤の巨躯は一陣の風と化し、呂孝明らしき人物に迫った。あと二十メートル。ただならぬ足音と息遣いに気づいてか、男は立ち止まって後ろをふりかえった。間違いなく、高速連絡機で自分たちをどこかに連れて行こうとした呂孝明の顔。呂孝明は慌てて逃げ出したが、加速している江藤から逃げられるほどの距離は残ってない。

 江藤が捕獲成功を確信したとき、けたたましいクラクションとブレーキ音が鳴り響いた。右手から大型のトレーラートラックが迫っている。呂の背中ばかり見ていて、江藤は車道に出ていたことに気がついていなかった。江藤は急制動をかけるとすぐさま横に転がり、勢いを路面との摩擦で消す。右に避けたトラックとの距離は取れたはずだ。江藤が転がりながら軌道計算し終えると同時に、すぐ横をトラックのタイヤが通過して、熱気を帯びた風が江藤の肌を荒々しく撫でて行った。

 間一髪、と呟いた江藤が立ち上がると、トラックはさらに十数メートル進んだところで停止していた。近くに対向車や後続車はなく、衝突事故にはならなかったようだ。噴き出る冷や汗を感じつつ呂孝明の姿を探した江藤は、ワンブロック先に、自転車に乗って角を折れる呂の姿を辛うじて捉えることができた。視界の端、道を横断した先に、基地内移動用の車や自転車を置いたステーションがあった。

「大丈夫?」

 呂の異様な逃げ足の速さに舌を巻いていると、女性の声がした。見回すと、停止したトラックの左の窓からひょっこり突き出た頭が、江藤を向いてそう尋ねていた。

「問題ない。悪かったな」

 下士官らしき運転手の女に英語で答えると、江藤は追撃を諦めて士官食堂へと引き返した。



- 4 -


 東部方面軍の輸送機が、立て続けに新青海基地の滑走路に着陸した。小型のものから大型のものまで、すべての滑走路で集計すると三十分ほどの間に十機が押しかけて来たのだが、新青海の巨大な空港エリアはその前から混雑していたので、今更耳目を集めることでもなかった。

 その輸送機のひとつに南田は乗っていた。旅客機を改造した輸送機なので、龍といっしょに貨物室に収まって移動したときと比べれば、乗り心地は天国のようだった。

 しかし心の底から安らげるほど、南田は丈夫にできていなかったし、他の隊員たちだってそれは同じだろう。ダーダネルス作戦が始まり、自分たちは明らかに戦線投入されるためにここに来ているのだ。不安や緊張があって当たり前。そう思いながら南田は機内を見渡した。黒龍隊隊員の約半数がこの輸送機に乗っていて、残りは龍や搬送車を積んだ輸送機に乗り込んでいる。くじ引きでこっちに乗れた南田は運がいいほうなのだ。さらに窓際に座れた南田は窓からの眺望を楽しむことさえできた。大部分が乾燥帯の味気ない景色だったというのは、贅沢な不満だろう。

 今、その窓から見えるのはゆっくりと動く滑走路の様子。輸送機はゆっくりとタクシングして、空港の乗降ターミナルに向かっている。

「うーん、静かだな」

 隣の李峰國が呟いた。峰國は足元に置いた一抱えほどのジュラルミンケースを見つめながら、ほっとした顔をしている。

「そっと運べよ」

「ラジャー。でも安心しろよ、竜時。運ぶのはこれで二度目だ」

 峰國は冗談で敬礼してみせてから、にやりと笑った。

「そうだったな」

 南田は座席のベルトを外しながら、ジュラルミンケースに動く気配のないことを再確認した。段ボール箱よりは安全だろうということで、整備班の機材を改造したこの箱だが、案外にも中身にフィットしてくれたらしい。峰國がケースを抱えると同時に、輸送機が停止し、南田は慣性でやや前のめりになる。

 旅客機同様に、輸送機は空港の建物に機首を寄せた。機首のほうのハッチから、直接空港に入ることができる。ケースと一緒にハッチに向かった峰國を、南田は手荷物を取り出してから追いかけた。

 ハッチをくぐり、接続された通路を抜け、到着口に着くと、そこには普通の国際空港と酷似した光景が広がっていた。しかし行き先や便の表示は軍の部隊の名前ばかりで、地名は北京や南京、タシケント、オムスク、カラガンダ、チェンナイなど、各地の重要拠点が目立った。私服の人影はほとんど見当たらず、各方面軍や戦略軍の制服、そして迷彩服や作業服のつなぎなどが、空港を埋め尽くしていた。

 南田の胸のうちに、新青海基地に一歩を踏み出した、という感慨がにわかに湧き起こった。感動という表現とは違う。足の感触になんら特別なものはなかったが、しかし、自分の踏み込んだ場所の空気に何やら言いようのない違和感を南田は覚えた。

 南田たち日本で機兵パイロットの訓練を受けた者は、研修で北京やハバロフスクの基地に行ったことがある。生まれ育った日本と違うのだから、当然違和感もあった。だが今回はそれともまた違う、違和感のない違和感だった。

「竜時、後ろがつかえるだろ」

 うしろの鷹山に突っつかれた。思わず立ち止まっていたらしい。隣を歩いていたはずの峰國の背中が前方にある。慌てて南田は数歩を駆け足で進んだ。

 大型輸送機に積んだ荷はここの部隊で運び出してくれるらしく、手荷物を持って所定の宿泊場所まで移動しろ、というのが唯一の指示だった。厚木から取る物も取りあえず出てきた身なので、機兵やそれに関連する備品以外にはほとんど荷物などない。倉庫への搬入くらいやるつもりでいたのだが、それを向こうから断られてしまうと、すっかり手持ち無沙汰になってしまった。

「ここの連中は外廓聯の世話で機兵の扱いに慣れている。俺たちは寧ろ作業の邪魔だということさ」

 広い所で後続の隊員を待つ間、藤居はそう南田たちに解説した。そのときの藤居の顔からは物憂げな気分がだいぶ抜けたように見えて、南田は立場の違いというものを今更ながらに悟った。藤居としては、これで隊長代わりの任から解放されるという安堵もあるのかもしれない。江藤とは前からの知り合いのようだし、その江藤と無事に対面できるとなれば顔が綻びもするのだろう。子供のように頷いてばかりいる峰國の横で、南田はろくに相槌(あいづち)も打てずにそんなことを考えていた。

「あ、来た来た。おーい」

 そばで峰國が背伸びしながら手をふりはじめたので、南田は残りの隊員が中に入って来たことを知った。行き交う雑多な制服の中に、見慣れた黒龍隊のパイロット服が見える。演習のつもりで出かけていたので、皆、堅苦しい制服ではなく操縦用や作業用の恰好なのだ。矢俣朝井たちの顔を確認して、座っていた坂元たちも腰を上げはじめた。

 そのときだった。

「わっ」

 横から突如、しかも遠慮のない勢いで突き飛ばされて、南田は荷物とともに転びそうになった。藤居に支えられて踏みとどまった南田は、今まで自分の立っていたところに転がった小柄の人間を凝視した。

 東部方面軍の制服を着たその若い男は、人をかきわけ走ってきたところを、黒龍隊の密集陣形の端にいた南田にぶつかってしまったらしかった。夜道を歩いていて電柱にぶつかったかのような顔をしばらくさらけ出していたが、じきに尻をさすりながら立ち上がり、丸縁眼鏡に異常がないか確認しはじめた。見たところ、背は南田より十センチほど低いようだったが、体重は同じくらいありそうな、そんな体型だった。これで顔がごつければプチ江藤という形容が似合っただろうが、まん丸の顔つきは江藤の野獣的なそれとは大きく異なり、歳をとれば七福神の役ができるなという印象を南田に持たせた。

「す、すみませんねぇ、急いでいたもので」

 南田周辺の視線が集るなか、その男はへこへこと頭を下げて走り去った。素早いもので、背中を目で追った南田はすぐに人ごみの中にそれを見失ってしまった。

「あれ、日本語だったな」

 峰國が驚いたような顔をしていた。南田も、あの男は東部方面軍の服を着ていたからてっきり中国人かと思ったが、実は日本人だったのかもしれない。しかし、ろくに日本に住んでないくせに日本語に堪能な中国人が今、目の前にいる。だから南田は可能性を狭めて考えることはしなかった。

「通訳かもな。この作戦、俺たちみたいに遠くから来ている部隊も多いんだろうから」

「そんなところだろうな」

 藤居が頷き、しかしすぐに顔を別のほうに向けて、矢俣たち残りのメンバーを手招きする。もう今の男のことなど微塵も考えていないようだった。峰國たちも同様だ。

 だが南田は何故か、男の表情が気になっていた。自分と目を合わせた瞬間、本当に意外なものに出くわしたような、そんな顔をしたように見えた。いや、そのときの彼の視線は、顔ではなく襟元あたりを見ていたようにも思える。考え込むそばから記憶は曖昧として薄れていき、やがて、輸送機の乗り心地の悪さを訴える矢俣の喧騒によって南田の思索は無期延期処分となった。



- 5 -


「よぉ、北京は寒かっただろう」

 丸一日行方不明になっていた隊長が、再会した部下に発した第一声はそれだった。

 先頭の藤居の横で地図を持っていた南田が、正面のアパート風の建物を見上げると、三階の窓辺に半身を乗り出した江藤の姿があった。峰國が「北京ダックのお土産はないですよ」と冗談を返し、坂元が後列の者に向かって目的地到着を告げる。南田は、結局どこがどう書かれているのか判然としなかった地図を畳み、ポケットに押し込んだ。

 前に江藤が農場を自慢していたこの基地には、南田の予想以上に何から何までが揃っていた。演習や作戦などで一時滞在する部隊のために、ここのようなキャンプ地もあるわけだが、ここと同規模のものがもうひとつあるという話だった。基地全体の収容能力の三十五パーセントを担うというこのキャンプエリアには、たくさんの大型テントと鉄筋コンクリートの宿舎、それに寝台を備えた車輛が数え切れないほど並んでいて、さながら団地のようだった。黒龍隊は優遇されているらしく、宿舎を使うことができたのは幸いだったが、テント組の兵のなかにはそれを見て不快感をあらわにする者も少なくなく、それが南田を憂鬱にした。テントの隙間風に吹かれるほうが楽だとも思えた。

 中に入ると、宿舎のつくりが猿之門基地のものとよく似ていることに南田たちは気づいた。案外、同じ所が設計したのかもしれない。そんな会話を交わしつつ、それぞれ適当な部屋に自分の荷物を放り込む。すると三十人ほどの若者が三階の江藤と北嶋の部屋にひしめく段になった。もちろん十人以上が廊下に溢れている。峰國が例のケースを携えて江藤の眼前に向かい、南田は動きのとりにくい峰國のために露払いをやっていたので、自然と前に出ることになった。

「どうした、荷物は置いて来ればよかっただろうが。狭いんだから」

 江藤は集結した隊員を前に演説を開始しようとしていたが、峰國の抱えたケースに目を留めて首をかしげた。

「荷物だなんて、ずいぶんつれないですね隊長。VIPを……いえVIWをお連れしたのに」

「VI……W? womanじゃなさそうだが」

 さらに首をひねる江藤。南田は自然と笑ってしまっている自分の口元をなんとか引き締めながら、峰國に視線を送り、早く出してやれと合図した。峰國は頷き、ケースを床に置いてロックを外す。

「Very Important Wolf、ですよ」

 その誰かの余計な一言は、おそらく江藤の左右の耳を素通りしただろう。ドア式に蓋を開かれたケースの中には、南田たちからは見えないが、丸くなって眠っているゴン太が収まっているのだ。コメディアン並みに過剰リアクションを取った江藤は、一瞬後には弾けたようにケースに取り付き、中に首を突っ込んだ。おおかたゴン太に頬擦りでもしているのだろう。しかしあいにく、密航中のゴン太が吠えたりしないように睡眠薬を処方してある。江藤には愛する狼とのスキンシップを後回しにしてもらわねばならない。

「江藤、ゴン太を連れて来させたのか?」

 北嶋が溜め息まじりに江藤を咎めた。今まで呆れて声も出せなかったらしい。

「関東の知り合いに預けるつもりで、厚木まで連れて行った。富士本に預けたからともかく無事だろうとは思っていたが……。よくここまで連れてきてくれた。大義、大義。褒めてつかわすぞ」

 ゴン太をそっと寝かしておく気になってくれたらしく、江藤は立ち上がって南田たちを見渡した。北嶋の視線は全く無視して、ゴン太がどうやってここまで来たか念入りに話しを聞いてくる。

 主犯格は直接ゴン太を預けられた富士本や、相談を受けた藤居たちなので、説明することもない南田は暇である。無駄に先頭に立っているのももったいないので、北嶋の呆れ顔が時間変化するさまを密かに観察していた。多少格闘技を学んだ身であるから、視神経の使い方は鍛えられている。焦点を江藤にあわせたままでも、その傍らの北嶋の表情を読み取ることなど容易だ。

 南田の北嶋観察は、彼が眼鏡掃除を始めた頃に中断となった。服をゴン太の小便で汚された矢俣が損害賠償を請求し、それが一瞥のもとに却下されたのを機に、話題はゴン太から一転してシリアスなものとなった。


*   *   *   *   *


「俺たちの任務は前線司令部の防衛だ」

 前触れもなく江藤はそう切り出した。若者たちの顔が、見る見る緊張や疑惑の色に染まっていく。江藤も今や四十強人を預かる隊長なので、彼らの顔色の変化がリトマス試験紙みたいだなどと面白がっている場合ではない。実は聞こえが大仰なだけで、要は張子の虎なのだと説明したが、江藤でも疑問を感じた作戦内容だけに、若い彼らには合点のいかない点が多すぎた。

 もとより、日本の関東圏防衛を主眼に、しかも中央議会の肝煎りで急遽編成されたのが黒龍隊である。特異なエース部隊として良くも悪くも名を上げている外廓聯に比べて、その戦力価値が低いことは、構成員がいちばんよくわかっている。そんな新米部隊をわざわざ実戦に投入しようという上層部の考えがわからない、と、南田や坂元、矢俣たちの質問攻めに遭った。加えて、黒龍隊の隊長と副長を拉致しようとした勢力の存在が、いっそう不安や疑念を駆り立てるのだろう。

 結局、江藤はディハンとのやりとりの過半を再現し、さらには厚木で拉致されてからのことも長々と説明するはめになった。世の隊長はこんな苦労をしているのかと、正直、江藤は尊敬の念を抱く。北嶋がいろいろ分担してくれなければとてもやっていられない仕事だと、江藤は改めて思った。

 江藤と北嶋の苦労の甲斐あって、若き部下たちの間に蓄積されていた悪性ガスはだいたい抜けたらしい。さきほどここの窓から見下ろしたときとは、落ち着きの具合が違う。ひとりふたりの顔を見てもわからないくらいの変化だが、四十人が同じ変化をすればさすがに目につく。すぐさま戦闘になる確率は低いという話が、だいぶ彼らを安堵させたようだ。

「言い忘れていたが、今回、パイロット要員と同じだけの龍が使えることになった。全部で十機だ。やっと大隊らしくなって来たな」

 江藤が次なる話題に転じると、真っ先に悲鳴を上げたのは矢俣だった。

「ま、待ってください! 整備班は増員されないんですよね? この人数で十機のメンテナンスをやるんですか?」

「もとよりその予定でこの人数が揃えられたのだろうが?」

 江藤はとぼけた調子で言い返す。

「は、はぁ。そうでありますが」

 矢俣は口ごもったが、何か言いたいらしい様子をまったく隠していない。

「外廓聯ではもっと少ない人員で機兵を運用することもある。そのぶん、破損機を戦場に放置せざるを得ないこともあるが、今回は司令部の防衛であるから野戦に比べれば人員は少なくて済む」

「その基地には機兵用の整備施設があるのですか?」

 矢俣に変わって夏明仁(シャー・ミンレン)伍長が口を開いた。

乗俑機の一機くらいは置いてあると思いたいが、具体的なことはわからん。さっきも言ったが、防衛対象となる基地はもともと西部方面軍が隠し持っていたものだ。管轄は戦略軍に移ったそうだが、いろいろな秘め事もそのまま引き継いだのだろう。俺たち門外漢には情報規制が厳しいのだ」

 江藤が渋面とともに答えたところで、横の北嶋が援護を加えてくれた。

「タシケントではヤドカリが追加配備される。かなりの部分がオートメーション化できるはずだ。あとは、パイロットに龍を壊さないでくれと頼むしかないね」

 付け加えられた一言で、峰國や朝井ら数人の顔の筋肉が微動する。ほどよいプレッシャーを与えてくれた北嶋に改めて信頼を置きつつも、外廓聯で機体損傷率トップの座を争った江藤としては、耳が痛い一言であった。

「説明は以上だ。今からさっそく、ここから貰っていく装備の受領手続きに行くから、何人かついて来い。あとのことは北嶋に任せる」

 宣言して、江藤は人垣を蹴散らしつつ廊下に向かった。もちろん、通過の際に両腕を左右に広げて、部下数人の首を引きずっていくのも忘れなかった。



- 6 -


 小さなオフィスのいちばん偉そうな位置にある椅子に陣取って、アデタバ・ヨシダは淹れたばかりのブラックコーヒーを楽しんでいた。このブレンド比もなかなかいけるな、と、手元のノートにペンを走らせる。ここ数年で試したブレンドをすべて記録した秘蔵ノートだ。

 節電のため設定温度を抑えられたエアコンでは、部屋の暖まりがいまひとつ足りない。こうしてコーヒーを飲んではじめて、ヨシダは安らいだ気分に浸ることができた。

 数日前、私用での外出許可が下りたのは幸運だった。彼の所属する基地、新青海基地では内外の出入りが厳しくチェックされるので、少佐といえども私用ではなかなか外出できないのだ。目的も滞りなく果たして帰途についたのだが、その帰り道での出来事が最悪だった。外出できた幸運など容易に相殺されてしまい、ヨシダはこの新たなブレンド比のコーヒーに口をつけるまで、沼に沈んだような心を引きずっていたのだ。

 荒野で日本人の士官ふたりを拾ったまでは良かった。三ヵ月分と見積もってもお釣りの来そうなほどの善行を施し、久しぶりに日本語を使ってみる機会も得て、気分も上々だった。

 しかし、元老院の管理区域内に進入してしまい、そこにRATの警備部隊が居合わせたのが非常にまずかった。大きく迂回するコースを取ったにもかかわらず、テスト中の龍王にターゲットと誤認されて、手塩にかけた労働一号がぼろぼろにされてしまった。外出先で得た物品やデータも大半が焼失し、空腹と冷気に蝕まれながら地平線を目指すはめにもなった。

 傷心を抱えて帰還したオフィスでは、山ほどの書類が彼を待ち受けていた。一大反攻作戦が始まった影響で、倉庫の中身を忙しく入れ替えることになり、しばらくは普段の倍の忙しさが続きそうなのだ。ヨシダは臨時増員を頼んだが、すぐには無理だといわれた。聞くところによると、作戦の発動時期を知られたくなかった戦略軍が、人員、物資の集中配置を意図的に避けていたのだそうで、それですぐには人が集まらないらしい。

 メモを終えたヨシダは、パソコンに向き直った。搬入と搬出のタイムスケジュールは、こちらの都合である程度の調整ができるのだが、これがなかなか神経を使う仕事なのだ。滞りなく物資を動かすにはスケジューリングにもいろいろとコツがあるので、人任せにはできないのである。副官にならしばらく任せても大丈夫だろうが、その副官でさえ、人手不足で先刻使い走りに行ってしまった。

「それにしても遅いな」

 ヨシダは帰りの遅い副官を部下に呼び出させたが、無線機の電源が切られているらしく、通信不能だった。それももう二十分ほど前のことだ。この人手のないときにどこをほっつき歩いているのか。もう一度呼び出させようとしたところ、ドアが開いて当の副官が帰ってきた。

「ごめんごめん、アディ。遅くなっちゃった」

 ヨシダより十歳ほど年若いその女は、ドアから顔をのぞかせると同時に、帰宅の遅れた主婦のような調子でヨシダに謝った。気安い調子はこのオフィス共通のものだが、ヨシダをアディと呼ぶのは彼女だけである。アデタバが彼女の長い名前を面倒がって省略して呼ぶので、彼女も発音しにくいからとアデタバ・ヨシダを勝手な愛称で呼ぶようになったのだ。

「どこで道草食っていた、パトラ?」

 ヨシダは副官クレオパトラ・ジャワーハルラールにきつい視線を送ったが、すぐに笑われてしまった。ヨシダがこの部屋のこの位置できつい視線を送ろうとすると、頭の角度と照明の位置の関係で、髪のない頭頂部がきれいに光るのだそうだ。

「荷物を倉庫に入れて帰るところで情報部の人に捕まったのよ」

 クレオパトラはうんざりした顔で椅子に腰掛ける。

「拘束されたのか? それともナンパされたのか?」

 ヨシダは冗談半分に尋ねた。この基地では情報部の人間などざらにいるし、眉目秀麗という言葉が世辞にならない顔をしているクレオパトラには、声をかける者が少なくない。

「どっちもはずれ。事情聴取。実は帰りに人を轢(ひ)きかけちゃってさ」

「なんだと?」

 ヨシダはパソコンから目を離して副官を凝視した。

「あのふたりがいきなり飛び出してきたのよ。あっちが悪いわ」

 クレオパトラは自分の過失を否定すると、道に出てきた愚か者たちが無事だったことを強調した。そのとき轢きかけたうちのひとりを情報部が追っていて、それで彼女は情報収集の対象にされたという話だった。

「顔なんて見てないよって、何度も言うのになかなか諦めなくて。だから文句なら情報部にお願いしますよ」

「簡単に言うな。情報部に知り合いはいない」

「へぇ、アディもさすがに情報部とのパイプはないんだ」

「関わりたいと思わん。いいからお前は早く仕事にかかれ」

 愚痴や雑談を続けそうな気配の副官を牽制し、ヨシダは画面に目を戻した。

 現在、ヨシダの管理下にある倉庫はほとんど埋まっている。これから必要になる前線への補給には、ここの物資が多く使われるのだろう。そのぶん、補充の形で次の物資が運びこまれるだろうし、実際、先刻クレオパトラが輸送して来たのも、この基地の工廠で製造された兵器である。スケジュールによれば、その兵器も明日には空路タシケントまで運ばれるらしい。荷物のほうもずいぶんと忙しいことである。

 今度の作戦はほんとうに上手く行くのだろうか。今まで防戦一方だった亜連が、いろいろ準備を整えたからといって一発逆転などできるものだろうか。そんな疑念がヨシダの脳裏をよぎったとき、前触れもなく、廊下に繋がるドアが開かれた。予期せぬ訪問者だ。

「なぁ、倉庫管理課ってここか?」

 いきなりオフィスに響いた無粋な英語に、ヨシダはまた仕事を妨害された。

「東エリア倉庫管理課ならここのことだ」

 集中は乱されたものの、画面からは目を離さずにヨシダは返事をした。

「受領に来たのか? どこの部隊だ?」

 ヨシダは画面を切り替えて、倉庫の物資を受領する部隊リストを開いた。倉庫を管理しているのはヨシダだけではなく、別区画の担当部署もいくつかあるのだが、声の主は十中八九、ここに用事があってきたのだろう。他の部署が管理している倉庫はあまりにも遠いのだ。間違って来ることはまずない。

「近衛師団の……」

「あ、さっき轢きかけた人!」

 突然叫んだクレオパトラは、ヨシダの視界の端でおののくようにのけぞった。どうやら被害者が因縁をつけに来たらしい。ヨシダはやれやれと副官の不始末を呪いつつ、ゆっくり立ち上がった。

「お、その照り輝きはアダテバではないか」

「お、その無闇にでかい図体は江藤ではないか」

 ふたりが同時に互いを認識した。

 アダテバではなくアデタバだと訂正してから、ヨシダは江藤と副官の顔を交互に見た。

「江藤のことだったのか、道に出てきた馬鹿者というのは」

「わ、わたしはそこまで愚弄してないわよ? できれば改めて謝りたいなぁなんて……」

 クレオパトラは江藤の威容に肝を潰したのか、さっきとは違うことを言い出す。江藤はそのときはじめて彼女がトレーラーの運転手だったことに気づいたようで、破顔して彼女の弁解をジェスチャーで制止した。

「いやいや、さっきは驚かして悪かったな。人を追ってたんで、あんたのトレーラーに気づかなかった。そっちは大丈夫だったかい」

「え、ええ大丈夫でした」

 まだ江藤が怖いのか、顔を引きつらせながらクレオパトラが愛想笑いする。しかし江藤の態度はヨシダにしてみればおかしかった。意外と女には優しいらしい。

「おい江藤、因縁をつけに来たのじゃないとすると、何しに来たんだ? 俺を訪ねてきたのでもなさそうだが」

 仕事の溜まっているヨシダには江藤のペースに付き合っている暇などない。単刀直入に用件を尋ねた。すると、江藤は胸を張って尊大な視線を送りはじめた。

「黒龍隊の隊長様が、龍の受け取りに来たんだ。さっさと責任者に取り次げ」

「は? あの新設された機兵部隊の隊長? おまえ、そんな身分だったのか」

 ヨシダは正直驚いた。こんな男に隊長が務まるのかという疑念が入道雲のように膨らみ、それほど軍は焼きが回ったのかと、将来に対する一抹の不安がよぎる。

「何を今更。教えただろう」

 きょとんとする江藤に、意図的にとぼけた様子はない。こいつは曲者(くせもの)だ、と、ヨシダは認識を新たにした。

「いいや、聞いてないぞ。無線では、連絡機に乗っていたのは日本人の将校だとしか聞いていないし、おまえらの口からも名前と階級しか聞いていない。おまえは少なくとも実戦経験者だろうと思っていたが……」

「では今から驚け、俺様こそが栄えある四番目の機兵大隊を任された漢だ」

 江藤は大きく胸を張って、後ろに引いた頭をドアにぶつけた。

「さぞかしおまえの部下は苦労しているだろうな」

「余計なお世話だ。それより、早く管理責任者に取り次いでくれ。支給される装備を早いとこ確認したい」

「それは無理だ」

「なんだ、おまえの権威はそんなに小さいのか」

「自分を連れてくることはできない」

「なんだと?」

「わからんのか? 新青海の東倉庫区画はすべて俺の管理下にある」

 今度はヨシダが胸を張る番だった。兵站は軍事の基本であり、要所。それを任されたヨシダも、あまり目立たないが相応に偉いのだ。少なくとも、ヨシダと彼の部下はその矜持(きょうじ)を抱いて仕事をしている。

「そういえばお前も佐官クラスだったな。忘れておったわ」

「互いに相手を見くびっていたようだな。――ちょっと待っていろ。倉庫まで案内する」

 江藤をその場に待たせ、ヨシダはクレオパトラに向かって手を差し出す。黒龍隊の荷物は彼女が先刻トレーラーで運び込んだものだった。つまり江藤は、自分の隊に配備される龍につぶされかけたというわけだ。副官から鍵を受け取ったヨシダは、彼女に後を任せて、江藤とともにオフィスから出た。

「荷物のセキュリティレベルが高いから、受領手続きは現地で双方の責任者が立ち会ってやらねばならん。中身は機兵か?」

 屋外に向かう廊下を並んで歩きながらヨシダは尋ねた。

「龍が三機。あと、おまけがあるはずだ」

「今すぐ持ち出すのか? 俺の手元のスケジュールでは、明日引き渡す予定になっているが」

「いや、中身を確かめたいだけだ。俺たちにこれからの指示を出したディハン将軍は、補給の詳しいことまでは把握していなかったからな。ところでアデタバ、倉庫には俺の部下を入れてもいいのか?」

「その件に関しては、俺の裁量の範疇(はんちゅう)だな。お前の部下が信用できるかどうかによる」

 ヨシダはにやりと笑って江藤を見上げた。すると、こちらを見下ろす巨漢の顔も意味ありげに笑っていた。

「そうか、なら、あそこのサンプルを見て判断してくれ」

 江藤の指さした先、廊下の突き当たりに、見慣れない服装の若者三人が待っていた。



- 7 -


 ヨシダがカードキーを挿入して暗証番号を入力すると、何メートルもある巨大な防弾シャッターが重苦しい音とともに上がりはじめた。江藤は外廓聯時代にこの手の倉庫を使っているから今更驚きもしないが、連れてきた南田たちは大がかりな施設に目を丸くしている。悲しいかな、猿之門の機兵格納庫には電子錠もなければ防弾シャッターもない。大きさだけなら何とか比肩できる錆びかけの扉が、原動機で左右に開かれるだけの簡単な作りである。

 シャッターは地面との間に二メートルほどの隙間を空けたところで動きを止めた。ヨシダは暗い倉庫の中に入っていき、江藤もやや頭をかがめて後を追う。南田たちもやや遅れてから駆け足でついて来た。

 倉庫内のレイアウトなど頭に入っているらしいヨシダは、暗闇の中を先行してすぐに照明をつけてくれた。江藤たちが明暗の激変についていけずに目をしばたかせているうちに、ヨシダは一台のトレーラーに取り付いていて、窓から運転席に手を突っ込んでボードを取り出した。そのトレーラーが二時間前に自分を轢きかけたものだと認識して、江藤は苦笑した。

「これが目録と受領手続きの書類だ」

 そう言って無造作にヨシダがよこしたそのボードには、車のキー数本と何枚かの書類が留めてあった。配備される物品のリストだ。

「こりゃ随分と上も奮発したもんだな。ここの倉庫にあるもんが全部うちのか?」

 最初の二枚にざっと目を通した江藤は、倉庫をぐるりと見回した。

「ああ、そうなる。逆を言えば、黒龍隊の荷物は全部ここに集めてある。――最後の一枚が受領確認の用紙になっている。見てみろ」

 言われるとおり三枚、四枚とめくると、五枚目が受領確認の書類だった。江藤が近寄るまでにヨシダは自分のぶんのサインを済ませていたらしかった。

「そっちのサインは現物を確かめてから、というのが鉄則だ」

 ヨシダは先輩風を吹かせてそう説明したが、それしきのことは実戦部隊にいた自分のほうがよく知っている。江藤はボードから鍵をひとつ外すと、ボードのほうは背後でぴょんぴょん飛び跳ねていた部下三人に渡した。中身が揃っているか、何かしらの手落ちがないか確認するよう指示し、自分は眼前のトレーラーに取り付いた。

 江藤を轢きかけたトレーラートラックは、一般道などとてもとても走れない大型のものである。つまり、機兵が一機丸ごと積めるのだ。江藤は荷台の扉を解錠して中に入ると、天井の代わりに荷を覆い隠していた大きな幌をめくった。機兵の踵(かかと)が見える。だがその形状は見慣れた龍のものではなく、防人型のものだった。

 江藤は肩パーツを探してこれが本当に防人型であるか確認したあと、幌の中に潜り込んでコクピットに向かった。なんとか中に巨体をねじ込むと、シートに収まってOSを起動させた。最終組み立ての段階で、一時間ほど稼働できるだけの充電はされている。

 機体管制画面が表示され、龍の模式図の各部が緑や赤で染められる。腕や背部ロケットは、積み込みの関係で本体から取り外されているので、赤表示だ。それ以外はオールグリーン。見たところ、コクピットの内装にも手抜かりはない。

 メンテナンスモードで立ち上げ、データベースを呼び出すと、前回の稼働記録が残っていた。組み立て後の実働テストが規定通り済まされた証拠である。不良品を掴(つか)まされたわけではないようだ。江藤は自分の猜疑心を鼻で笑い、OSを終了して外に出た。

「江藤少佐、こっちの二機は防人型だと確認しました!」

 荷台を下りたところで、それを目にした南田が叫んで報告してきた。

「起動はしてみたか?」

「一機は済ませました。もう一機も確認したほうが良いですか?」

「念のため、やっておけ」

 江藤は南田に返答しながら、歩き出していた。トレーラーは四台あり、目録通りならば、最後の一台には機兵用の武装兵器が満載してあることになる。矢俣丞と夏明仁、ふたりの整備班員の姿は視界にない。中身の確認に手間取っているのだろう。江藤は四台目の荷台に登ると、困惑顔の部下二人と目を合わせることになった。

「どうした?」

「隊長、目録に見覚えのない装備があって、こっちにも見たことのない機兵用火器があるんですが、これは同一の物でしょうか?」

 矢俣がリストの一点を指し示しながら、ボードを江藤に返す。

「二二式機兵用擲弾発射機丙型? ああ、火筒(ほづつ)のことか。ようやく支給されはじめたのだな」

 江藤はさきほど見落としていた名前を読み上げて、それが夏の指さす先に積んであるのを確認した。火縄や雷紫電(らいしでん)などに混ざって置かれている、火縄より数段ボリュームのある武器。江藤は近衛軍統監部でデスクワークをさせられていた時分に、その量産計画について参考意見を求められたことがあるが、機兵の整備の勉強で忙しかった彼らはその存在を記憶にとどめる機会がなかったと見える。

「火縄の火力は不足気味だからな、その援護用に開発された物だ」

 部下にこの新兵器の要点を説明してやり、他の装備についてはすべて目録との照合を終わらせたことを確認すると、江藤たちは揃ってトレーラーから降りた。南田がもう一機の稼働確認を済ませるのを待ってから、ヨシダのもとに戻る。

「サインしたか?」

 そう尋ねたヨシダは、待ち時間を利用して腕立て伏せをやっていた。

「ああ、問題ない」

 江藤が汗のしたたるヨシダの禿頭を眺めながら答えると、「百五十!」という声とともにヨシダが立ち上がった。江藤は彼にボードを返し、明日の夕刻の出庫時間を確認し合った。

「ところで江藤、空港までの移動はそっちの人手でやってもらいたいのだが?」

「ああ、それは構わん。この青二才どもがやってくれる。じゃあ、また明日に」

 江藤はヨシダと軽く拳を打ち合わせると、いい気分で倉庫をあとにした。



- 8 -


 宿舎で作戦実施要項に目を通していた北嶋は、ふとあることが気になって、廊下を通りかかったパイロット、坂元を招き入れた。

「坂元くん、君たちパイロットは龍の塗り替え作業の経験があるのかい?」

 直立して敬礼する坂元を適当な椅子に座らせると、北嶋は威厳の威の字も感じさせない丁寧な物腰で尋ねた。

「五人ほどの班に分かれて、一班一機ずつやったことがあります。一度だけ。――もっとも、一班は龍が足りずにモックアップで代用するほど、おざなりの実習でしたが」

「それはつまり、整備班の指示を受ければ、じゅうぶんに人手になると思っていいのかな?」

「は、そういうことになりますか……。なりますね」

 塗装実習はあまり快い体験ではなかったらしく、坂元の表情からは口を滑らせたという後悔が見て取れた。

「今のグレー系塗装は向こうだとかえって目立つ。時間のあるときに塗り替えるつもりだ。そのときは君たちにも手伝ってもらうけど、いいかな?」

「は、了解しました。――ですが大尉、塗料はどこで調達するのですか?」

 その質問で、北嶋は盲点に気づかされた。ただでさえ専用の機材が多いのが機兵運用部隊である。そのため塗料のように共用が利くものは持ち歩いていないが、今度の作戦では膨大な兵力が移動するのだ。都合良く塗料が融通してもらえるとも限らない。北嶋は坂元に礼を言いつつ、塗料調達を確実にするため電話の受話器に手を伸ばした。しかし、番号を押すより先に電話が鳴り出して、驚きつつも北嶋は反射的に受話器を耳に当てていた。

 電話は人事課からだった。相手は江藤を指名してきたが、北嶋が副長だと名乗ると、それならということで用件を話し始めた。北嶋は訛りの強い英語を辛抱強く聞き取り、最後に詳細をあとで文書にして送ってくれと頼んでから、受話器を置いた。

「どうしたんですか?」

 坂元の声にふりかえると、人数がいきなり増えていた。江藤が連れて行った南田たちが帰ってきていた。だが、江藤の姿はない。

「いや、気にしないでくれ。あとで江藤から話させる。ところで竜時くん、江藤は?」

「受領の帰りに、途中で別れました。行くところがあるとかで」

「ひとりで?」

 北嶋は眉をひそめた。おそらく呂孝明のことで情報部の若者に会いに行ったのだろうが、昨日の今日だというのにあまり不用意に出歩きすぎだ。

「随行を申し出たんですが、『ここは厚木と違う。大丈夫だ』って言って、結局ひとりで」

「迂闊(うかつ)だな」

 坂元が呟いた。一般的な軍人なら坂元のその態度を許してはならなかったが、北嶋には叱責(しっせき)する気が起きなかった。

「隊長がどうかしたんですか?」

 のほほんとした声を部屋に投げ込んだのは、ゴン太を抱えてやってきた峰國だった。外部の人目を忍び、宿舎内でこっそり散歩させるよう指示したのは北嶋自身である。作戦実施要項の記された大事な書類をゴン太にいたずらされたくなかったので、厄介払いしたのだ。

 北嶋が警戒して書類を片づけているうちに、矢俣と南田が峰國に状況を説明してくれた。聞き終えた峰國は「それなら」と切り出したが、そこでゴン太がはしゃぎはじめたので中断させられた。峰國は逃げ出す勢いのゴン太をどうにか矢俣に押しつけると、改めて提案する。

「それなら、俺と竜時でお共に行ってきます。大尉は行き先に見当ついているんでしょ?」

「まあ、ね。」

「じゃあ、行ってきますよ。なぁ竜時」

「あ、ああ」

 南田はそれほど気乗りしない様子だったが、峰國としてはこの宿舎にいる限りゴン太の世話係をやらされるという危惧があるのだろう。南田は江藤と別れた場所を知っているし、たしか少年期に空手をやっていた経歴があるはずだ。その彼を連れて行くのが合理的選択だとわかっていて、峰國は提案しているのだ。北嶋の立場としては南田の同行者が峰國でなくても良いのだが、彼の心情を汲(く)んで行かせることにした。

 江藤が向かったと思われる場所を説明した北嶋は、「それでは頼むよ」とふたりを送り出そうとしたが、そこへそれまで黙っていた坂元が声を上げた。

「待ってください大尉。やはりこのふたりでは不安ですから、自分も行きます」

「そうかい?」

「竜時の空手が武器を持った相手に通じるとは限りませんが、俺はこいつの腕に覚えがありますから」

 そう言って坂元は、どこに隠し持っていたのかナイフを取り出して見せた。

 やはり人の性質はそうそうわかるものではないな、と北嶋は思った。



- 9 -


「相手は俺に会うはずだ。中で待たせてくれ」

「確認が取れません。アポイントメント無しに来られても困ります」

「邪魔はしない。待たせてもらうだけだ」

「情報部の許可がないことには」

「だから……。ええい、俺は黒龍隊の隊長だぞ」

「関係ありません」

「くそっ」

 機械的に邪魔者を排除すべく働く門衛に、江藤はもう五分以上食ってかかっていた。

 呂孝明を士官食堂そばで見かけて、追跡した件は、まだ情報部に伝えていなかった。例の担当官が不在だったからだ。倉庫からの帰りに情報部の新青海基地支部の近くを通ったので、部下を先に帰して寄ったのはいいが、徒歩では結構な時間がかかってしまった。北嶋にはいいエクササイズだと言われそうだが、こうして目的地についても中に入れてもらえないとなると、それまでの徒労が二倍、三倍に感じられてしまう。しかも、精神には疲労になっても、肉体的なエネルギーは消耗されないのだから、始末が悪い。

 呂孝明を捕まえるなら、早いうちに手を打たなければならない。顔を見られた呂が、一刻も早い脱出を図るのか、それとも再度自分を誘拐に来るのかわからないが、後者の場合、今度は逆に捕えてやる自信がある。問題なのは前者のほうだ。ダーダネルス作戦のごたごたで、人ひとりがどこかの輸送機に紛れてこの基地から出ることなど簡単になっているのだから。

 しかし生憎(あいにく)なことに、仕事に燃える担当官は新たな容疑者リスト作成のために出かけてしまって、連絡が取れない。この件にタッチしているのは情報部でもごく少数らしく、彼と直接話さないことには話が進みそうにない。

「ここで待つのならいいだろう?」

 江藤の譲歩に、とうとう門衛も妥協してくれた。江藤は門衛の隣に胡座(あぐら)をかき、あの担当官の帰りをしばらく待つことにした。とはいえこれからの部隊運営に関して北嶋と相談することも多いので、あまり遅いようならこの門衛に言づてを頼み、宿舎に戻ろう。そのためにはこの門衛と多少は親しくなっておいたほうが都合良かろう。そんな打算が江藤に世間話のネタを探させたものの、イギリスのバッキンガム宮殿の衛兵にも就職できそうなこの門衛に、投げかけるべき第一声がなかなか思い浮かばない。

 二十分ほど経って、ようやく江藤は妙案を思いついた。母語も文化も違うとはいえ、人間の顔の基本構造は同じである。しかも彼はモンゴル系の血が濃そうな顔をしており、江藤は作戦の成功を確信した。おもむろに立ち上がり、少し腰をかがめて門衛と顔の高さを合わせると、両手を自分の顔に持って行き、目尻と鼻と口を指で引っ張った。

「ばぁ」

 仕上げに舌を思いっきり出して、なまはげより酷いその顔を門衛の正面につきだした。

 沈黙が流れた。

 門衛は、笑わなかった。吹き出しもしなかった。ただ汚いものを見る目で江藤を捉えている。滑った、と江藤は悟らざるをえなかった。

 これは潮時だろう。江藤は待つことを諦め、半時前に来た道を引き返しはじめた。一応、門衛には言づてを頼んでおいたが、ちゃんと伝えてくれるという確信は持てなかった。

 情報部支部のフェンス沿いに歩きながら、江藤は近くのステーションで自転車を借りようと、最寄りのステーションの位置を思い出そうとする。だが、次の角を左に折れるのだったか、それとも直進して次の角を右に折れるのだったか、記憶が曖昧で判断に迷った。迷っているうちに角に突き当たってしまう。結局、フェンス沿いの道を通ってステーションに行ったことがあるような気がしてきて、江藤は支部の外周に沿って左折した。

 既視感を覚える光景が江藤の前方にあった。

「あいつ!」

 あの背中は呂孝明。大胆不敵にもまだ陽のあるうちから、しかも情報部のそばを歩いている。江藤は走って追いかける戦術を改め、不用心なカモの尾行を開始した。


*   *   *   *   *


 尾行すること十分あまり。その間に江藤は、ターゲットが呂孝明本人に間違いないことと、こちらに気づいていないことを確認していた。途中のステーションで車にでも乗られたら面倒だったが、幸いにも江藤の記憶と違ってフェンス沿いの道の先にステーションはなく、徒歩のまま尾行が続行できた。

 呂の行き先は空港区画ではなく、どうやら倉庫区画のようだった。人気の少ない倉庫区画で、仲間と会うつもりだろうか。江藤がそんなことを考えているうちにも、呂はそれを裏付けるように倉庫区画へと向かう角を折れた。江藤は駆け足でその角まで向かおうとする。だがそこへ、江藤を背後から呼び止める声がかかった。

「江藤少佐、探しましたよ!」

 南田の声だった。車のエンジン音もする。江藤はふりかえって、ジープに乗った三人組、南田、坂元、峰國を見つけた。南田が再び大声で江藤を呼び、江藤は慌てて静かにしろとジェスチャーする。

「どうかしたんですか」

 ジープはまもなく江藤に追いつき、助手席の南田が怪訝な顔で江藤を見た。

「人を追っている。だから静かにしろ」

「誰をです?」

「説明は後だ」

「まさか女の人ですか?」

 後部座席の峰國が癪に障る冗談を言ってくれたので、江藤は一発かまして黙らせた。それから坂元に倉庫のほうに車を回すよう指示し、自分が合図するまでは絶対に近づくなと念を押した。

「少佐、自分も協力しますよ。例の犯人でも追っているんでしょう? だったらひとりでは危険です」

 坂元が殊勝にも聞こえることを言ってくれたが、江藤は部下になめられている気がしてその申し出を断固拒否した。急げと尻を叩いてジープを発車させると、江藤は呂を見失わないよう、曲がり角に向かって走った。

 角から頭だけ出して様子を見ると、呂は百メートルほど先を歩いていた。慌てず冷静に後を追った江藤は、呂がとある建物と建物の間にするりと身を滑り込ませたのを、かろうじて見落とさずに済んだ。隠れ家か秘密の抜け道でもあるらしい。

 追いついてみると、そこは建物が集まって路地裏のような空間を作っていた。既に傾いた日差しはその空間にまで入って来ず、足下はかなり暗くなっている。意図的に光が入らないように周囲の建物を建てたのではないか。そう疑えるほど、そこは表とは隔離されたように暗かった。その暗さと、建物の外壁に出ている配管やらダクトやらの雑多な障害物に阻まれて、すでに呂の背中は見えなくなっている。江藤は一瞬の躊躇を振り払い、壁に露出した配管に体がつっかえないように注意しながら、その中に入っていった。物音を立てない範囲でできるかぎり急いで呂の後を追ったが、意外にも十字路に突き当たって、とうとうターゲットを見失ってしまった。

 ――ういうとき、ドラマなら、ふりかえった途端に悪モンに一撃食らって気絶するのが定番だな。  江藤がそんなことを思いながらふりかえってみても、そこに襲撃者の影はない。深追いは無用か。江藤が諦めて来た道を戻ろうとすると、その先の光明、つまりは表の道に誰かが立ちふさがった。

「竜時か? それとも坂元か?」

 呼びかけたが、返事はない。人影は無言で右腕を動かして何かをこちらに放った。カランカラン、と音を立てて転がってきたそれは、やがてガスを噴射しはじめた。目では見えないが、音でわかる。

「冗談!」

 放られたのはおそらく催涙弾か何かだ。江藤は十字路に戻って別の方向へ進もうとしたが、残りの三方すべてから、同様のガス噴射音が聞こえてくる。囲まれた。呂は尾行されていることに気づいていて、わざと自分をここに誘い込んだのだ。そう悟った江藤が思いついた打開案は、顔中の穴を覆って突破するというお粗末なものだけ。のそのそとしか動けない巨体を恨めしく思いながら、江藤はいちばん後から音のしだした方向へ突き進もうとした。そのときである。

「こっちです。こっち」

 逃亡を手引きする日本語の台詞が耳に届いた。塞いだ耳を空けて再度その声を聞く。

「上です。足がかりはありますから、急いで登るんです!」

 見上げると、二階ほどの高さから人が半身を乗り出しているようだった。

 この声さえ罠だったとしても、ここに残ってガスに巻かれるのと同じこと。江藤は手探りで凹凸を見つけながら、上を目指した。途中何か固い物に頭をぶつけたが、それを痛がっている場合ではない。鉄格子らしきものを利用してさらに数十センチ上に行き、そして差し出された腕と対面した。腕の手伝いもあって残りの高さを一気に登った江藤は、空けられていた窓から建物の中に転がり込んだ。

 床に仰向けになった江藤の頭上で、窓を閉める音がした。

「移動します。ついてきてください」

 少々催涙ガスに巻かれたらしく、江藤はまだ自力で状況確認が取れなかった。声の主に助け起こされて、別の部屋に移動する。貸された肩は、江藤よりかなり低かった。


*   *   *   *   *


 ここまで来れば安心だと保証された頃には、江藤の目の痛みも取れていた。むしろ頭のこぶのほうがよほど痛む。江藤は長椅子にどっかりと腰を下ろした。

「旦那ぁ、危ないところでしたね。ありゃぁ、どこかの工作員ですよ」

 自分を助けた男が妙に馴れ馴れしい小男だとわかったのは、この休憩所らしき部屋に落ち着いてからである。この部屋にはまるっきり人気がなく、この部屋のある建物全体に関しても同じことが言えそうだった。

 小男は江藤の隣にひとりぶんのスペースを空けて、同じ長椅子に腰掛けた。そして自分自身、周富窪(チョウ・フーワー)という東部方面軍某所の工作員だと名乗った。

「旦那、いえ、江藤少佐。あなたはある一派に狙われています。それがどこの一派なのかまだ掴めていませんが、奴らは戦略軍内部にも通じている難敵です。自分はさる方から黒龍隊の防諜任務を承ってきたんですが、どうも別勢力の干渉であっし……じゃない、自分の配属人事が流れてしまいまして。今から正規に人事を変更させようとすると三日はかかります。そうなるとタシケントに発(た)つ旦那にお供ができません。どうか旦那から自分を水先案内人として指名してもらえませんか? それなら、明日の夕刻までに準備万端整います」

 周富窪なる男は、かぶっていた帽子を取って頭を下げた。短い髪が、今までの帽子の圧迫を感じさせない勢いでつんつんと針のように伸びている。

「水先案内人? わからん話だ。俺は誰の補充も同行も聞いていないぞ」

「つい昨日まで、あった計画なのです。旦那から欲しいと上申していただければ、あとはこちらでどうとでも書類を通せますので。ここはどうかあっしを信用して……」

「その言葉遣いからして怪しいだろうが、貴様は。どこでそんな日本語を習った?」

 顔を上げた周富窪を、江藤は胡散臭いものを見る視線で見下ろした。

「はっ、実は横浜中華街の育ちですので」

 臆面もなく答える周の目が、太縁眼鏡の向こうでにんまりと三日月形を成す。どう聞いても嘘っぽかったが、これがあの呂孝明らとグルだとも思えなかった。とにかく雰囲気が違いすぎる。

「そんなに黒龍隊についてきたいのか」

「はい。あっしにとってこの任務は生きるか死ぬかの分かれ目です。こんな重大任務に失敗しては、もう元の場所に帰れないんですよ。それじゃああの方に恩も返せない。人助けと思って、お願いしますよ旦那」

 そう言って左に座に泣きつく周富窪を、江藤は慌てて引きはがした。

「なにしやがる、てめぇ」

 引きはがした拍子に、周は長椅子から転げ落ちて床を三回転した。

「ああ、ひどいっ!」

 恨めしい目で見返してくる周富窪。こいつは絶対に怪しいと、江藤は思った。

「どこの間諜だか知れぬ者を、隊に入れるわけにはいかん。誰の手の者か。それくらい明かしたらどうだ」

「今は、さるお方、としか言えません。ですが決して、江藤少佐を害そうという魂胆ではないのです。時が来れば明かします。ですが旦那、今はただあっしを信じてくださいや」

 真剣な眼差しを向ける周富窪は、しかし言葉遣いを改めようとしない。これは本当にこんな日本語しか使えないのかもしれない。江藤はちょっとだけ眼前の怪しい男を信用してもいいような気になった。

「しかたないな。許可してやるか」

 しばらく無言で小男を睨んでいたが、やがて江藤はそう口を開いた。

「ホントっすか!?」

 周富窪が跳び上がって、一瞬後にはもう土下座の体勢になっている。江藤は不敵に笑った。

「ああ、試験を受けることを許可してやる」

「へ?」

「お前の口上がどの程度事実に則ったものか、それを見極めてからでないと指名はできんな」

 江藤は腕を組んで、周富窪を見下ろした。顔をしかめるかと思ったが、意外にも彼は目を輝かせた。

「さすが旦那だ、しっかりしていらっしゃる。どうぞどうぞ、何なりと試練をお与え下さい。あっしの実力をお見せしますよ」

 得意の三日月スマイルをつくる周富窪。江藤は、負けじとばかりににやりと笑いかえした。



- 10 -


 任せてくださいと胸を叩いた周富窪とはあの場で別れ、江藤はそのまま倉庫区画に足を向けた。南田たちのジープを見つけると、「尾行は失敗した」と笑って、何事もなかったかのように宿舎への帰途についたのである。

 北嶋には不用心な単独行を長々と注意されたが、江藤はゴン太と遊んでしばらく聞かないふりをしていた。その様子を部下たちが面白そうに見物していたが、その彼らもいい加減に飽きてみんな姿を消すと、ようやく江藤は北嶋と視線を合わせた。ゴン太を撫でる手を止める。

「北嶋、実はな……」

 人気の無くなったのを幸いに、江藤は呂を追ってから周富窪と別れるまでの経緯を説明した。ゴン太はいつの間にか寝入っていた。

 北嶋は「厚木とは違うんじゃなかったのか」と皮肉を言ったが、最終的には周富窪の件に関して共犯となることを承諾してくれた。前に人事課から連絡のあった件も文書で届いており、それによって周富窪の話にある程度の信憑性が確認された結果でもある。

「で、何を調べさせたんだ?」

 北嶋は江藤の課したテスト内容を尋ねた。

「たくさん出してやったぞ。まずは、俺たちの守る司令部に関する情報。位置と守備隊の規模、現地司令官などの情報だな。それから今度の作戦に参加する部隊と指揮官のリストに、補給ルート図、それから外廓聯の行動予定だ」

「ずいぶんとたんまり出したものだな。いくらなんでもそれは無理難題だろう」

 北嶋が呆れた顔で江藤を眺めた。

「全部完璧にこなせる課題でないのは、俺も向こうも承知の上だ。どれをどの程度こなしてくるかで、奴の素性や背景が知れるし、奴のほうではそれを逆手にとって俺たちを騙すこともできる。後者の場合には広範囲にわたって高い情報収集能力が要求されるから、もしそれほどの者なら、騙されながらでも使ってやる価値はある。素直に前者だった場合も、それはそれで誠実さを買ってやれるしな。どう転んでも悪い取引ではない」

 江藤はゴン太を寝床にそっと運ぶと、北嶋にガキ大将の笑みを見せた。

「その富窪くんとやらの情報がつまらないものでなければ、だろう?」

「それはもちろん、そうだ。飼うからには一定の能力を要求するさ」

 江藤はゴン太に薄い蒲団をかけてやってから、一言付け加えた。

「テストはテストだ」


*   *   *   *   *


 夕食後、江藤は小隊編成に関するミーティングを開いた。これからの便宜のため、十機の龍を三つの小隊にわけ、それに併せて整備班も分割。十四人前後の三分隊で行動できるよう訓練することになった。江藤の黒龍隊運営方針が明示されたわけである。

 隊長江藤博照自ら率いる第一小隊は、以下、南田竜時曹長、群山信軍曹、杜洋伸(ドゥ・ヤンシェン)伍長。第二小隊は藤居祐輝准尉を小隊長として、李峰國曹長、朝井秀和軍曹。第三小隊は小隊長坂元唯史曹長以下、鷹山諒真曹長、久留正弘伍長。

 整備班の分割は実際上あまり意義がないのだが、それでもパイロットとの連携強化のために形式的に各小隊に班員を分配した。第一小隊の龍の世話をする責任者が、班長であり唯一江藤専用機の性質を知悉(ちしつ)している北嶋三朋大尉。第二小隊の整備には矢俣丞伍長、第三小隊のほうは夏明仁伍長が責任者になった。

 さらに詳しい編成は、明日タシケントで残りの装備を受け取ってから決めるということで、早々にミーティングは終わった。しかしパイロットたちは自分たちに「らしさ」が与えられたことに興奮し、解散後もしばらくわいわい騒いでいた。鷹山が坂元の小隊長任命を毒舌混じりに祝福し、朝井は将来自分を引き立ててくれよと笑う。南田も坂元に「良かったな」と声をかけたが、どうしてか彼の周りの輪に溶け込むことができず、矢俣たちと話し込んでいた藤居のほうに向かった。

「峰國をよろしく頼みます。准尉」

 藤居のそばに来るまで何と声をかけようか考えあぐねていたが、いざ口を開いてみればそんな言葉が無意識に出てきた。

「ああ、君も江藤少佐のペースに慣れるまでは大変だろうが、がんばれ」

 藤居は笑って応じたが、南田にはそれがどこか作った笑いに見えた。どこか浮かない顔をしていると思ったのは、矢俣とのおしゃべりに疲れてきたというわけではなかったらしい。

 南田が藤居の憂いのわけを尋ねようとしたとき、階下で聞き慣れない叫び声がして、藤居たちの注意はそちらに向けられた。南田も同様で、むしろ先に下への階段へと向かっていた。

「これを江藤少佐にお届け下さい。なに、怪しい者じゃありませんって、ほんとに!」

 宿舎の玄関で、太縁眼鏡をかけた怪しげな小男が騒いでいる。南田が彼を見るのは、これで二度目だった。


*   *   *   *   *


「ん、どうした?」

 江藤は急に醒めた顔つきになって現れた南田の様子を怪しんだが、差し出された大きな封筒を見て、自分の目の色が変わるのを意識した。

「これを持ってきた者は?」

「時代劇に出てくる悪徳商人みたいな奴です」

 南田は真顔のままそう答えた。江藤はその形容の見事さに、堪えられず吹き出してしまった。

「それは知っている。そいつをどうした?」

「これを預けて早々に帰りました。――追いかけたほうが良いですか?」

「いや、いいさ」

 江藤は重たい封筒を机の上に置くと、中から数枚を取り出して目を通す。いきなり一枚目から、予期せぬ重大情報が記されていた。

「カザフ戦線に踏み込んでいる白龍隊の動き……。バイコヌール宇宙基地か。ん、未確認の巨大兵器?」

 思わずそこまで声に出してしまってから、江藤は唇を固く結んだ。それ以上、南田の前で口走るわけにはいかなかった。南田に下がって休めと命じ、その前に近くの部屋で部下に指導をしていた北嶋を呼ばせた。

 北嶋が戻って来ると、江藤は部屋を閉め切って鍵をかけた。残る資料を封筒から引きずり出し、北嶋と自分の前に並べる。様々なデータが床を覆っていき、並べ終わると、それは江藤が課題として出した情報の六割を超えていた。周富窪は、たった数時間のうちに期待以上の働きをしてくれたのだ。注文したほうがかえって空恐ろしくなるほどの情報に、江藤は身震いした。

「これだけの情報が俺たちの手に渡る、か。北嶋、俺たちを襲う者もあれば、助ける者もいるらしい。それとも、誰かが俺たちを試しているのか……」

「ディハン将軍……、いや、富窪くんとやらの背後にいる勢力だろうか」

「あるいは、その勢力に敢えて情報を横流しした誰か、か。これは面白くなってきたな」

 江藤は笑って見せたかったが、顔はのり付けされたように固まり、動いてくれなかった。

「彼は迎え入れるんだな」

 電話機に向かった北嶋に、江藤は返答の必要も感じなかった。

 ベッドで寝ていたゴン太が、くーん、とひと鳴きした。



- 11 -


 戦略軍情報部の新青海支部。その地下二十三階に主人を待つ部屋があり、そこで上官を待つ痩身の将校の姿があった。

 神巌慎吾。軍高官の間では知れ渡った名を持つ男。亜細亜連邦軍きっての傑物金星也の忠実な副官として讃えられ、また、疎まれてきた男。自身も卓抜した才能の持ち主として知られながら、その野心を誰にも垣間見せたことがないと噂される、凪いだ湖面のように静かな男。

 彼は灯りもつけずに待っていた。そこへ一筋の光が差し込み、神巌の顔を照らす。逆光に浮かび上がったその影は、亜細亜連邦軍全軍を束ねる男、金星也(キム・ソンヤ)。

「そこにいるのは誰か?」

 射るような誰何の声に、神巌は応えなかった。その言葉が自分に向けられていないことを感じ取ったからだ。ただ直立の体勢を保ち、戻ってきた上官を見据えた。

 靴音が静かに移動を始める。二人分の靴音が。金星也が神巌から五メートルほどの位置で止まり、同時に、もうひとつの足音も消えた。

「灯りを」

 金星也の声に反応して、音声認識装置が部屋の照明をつけた。金星也の斜め前に、ひとりの男がひざまずいているのがあらわになる。

「この男がBK698です」

 神巌はその男を英数字の羅列で呼んだ。

「例の間者か。――どうか、任務は?」

 金星也はBK698と呼ばれた男を見下ろした。

「順調です。しかし、長期的観察が必要になるかと」

 顔を伏せたままBK698は答えた。しかしその声に畏れから来る震えはなく、神巌はこの工作員が表情を読まれないために顔を伏せているのだと推測した。

「これから常識では予期できぬ波乱が黒龍隊を待ち受けているだろう。だがお前は飽くまで一隊員として働き、その分を守れ。こちらから与える任務の優先度は、その次に位置するものと心得よ。良いな?」

「はっ。――元帥、ひとつだけ上申しても宜しいでしょうか?」

 BK698が珍しく、要求されずに口を開いた。神巌はその意図を量りかねたが、金星也はそれで気分を害しはしなかった。

「なんだ?」

「江藤博照の思想調査に関しては、個人的な意見を付記しないことには有益なデータを提供できないかと憂慮します」

「BK698。儂は無闇に結論を急がぬし、無益なデータも不要だ。貴様が送るべきと考えた情報を、そうすべきと感じたときに送るがよい。貴様は神巌に選ばれた人材だ。神巌の名を汚さぬ働きをすることが、儂の意にかなうことと思え」

 金星也は珍しくこの工作員を気に入ったようだった。BK698が跪いたまま顔を上げない理由に、元帥もとうに感づいている。そのうえで、彼を認めたのだろう。金星也の世界に、彼と同等の価値のある人間は数少ない。立場上の高低の問題ではなく、同種の知性体としてその存在を認められるか否かで、金星也は人間を峻別する。そのえりすぐられたリストの中に、今、BK698というコードネームが追加されたというわけだ。

 BK698は一段深く頭を下げると、蜘蛛のような素早い動きで部屋から姿を消した。ドアが閉まるとともに、部屋にしばしの静寂が訪れる。

 金星也は神巌の背後にあった椅子のところまで歩み、体をその中に休めた。神巌は重い空気の膜を破って、問いを発する。

「ダーダネルス作戦、本当に実行するおつもりですか? 本当の意味で……」

「前にも言ったはずだ」

 金星也は厳然として神巌の言外の訴えをはねのけた。

「しかし、かなりの損害を招きます。外廓聯を動かしておいて後には退けないでしょうが、内容の変更を……」

「作戦に変更はない。あるのは選択肢だけだ」

「――それを選ぶのは、誰なのでしょうか」

 神巌のその一言に、金星也は珍しく返事をしなかった。

「黒龍隊を餌に添えてしまってよろしいのですか?」

 神巌は別の問いを重ねた。

「――元老院は、黒龍隊の影響力をはかりかねている。ならば、テストを行わねばならん。都合がよいのだよ」

「中央議会に貸しを与えてもよろしいのですか? 黒龍隊が最悪の行動を取れば、元老院に対するあなたの立場も盤石ではなくなります」

「事がどう運ぼうと、黒龍隊が議会派の手先になることはないよ」

 金星也は言い切った。決して声は荒々しくなかったが、その言葉には並々ならぬ覇気があった。

「もしもの場合は、失うのも厭わないということですか」

「相当の代価が得られるのならば、な。それは外廓聯に関しても言えることだが。どのみち、東京に機兵を置いておくのは宝の持ち腐れだった。それに江藤という男、元老院の考えているほど無能でも馬鹿でもない」

 そこで、金星也は鼻で笑った。彼にとってはボスであるはずの、元老院に対する軽蔑の態度だ。

「決意は固いようですね」

「三十年も前に固めた決意だ。いまさら揺らぐと思うのか」

「それを見極めるため、私はここにいます」

 その言葉を最後に神巌は踵(きびす)を返した。部屋から出て行くその背中に、金星也の声が突き刺さる。

「忘れるな。カクテルを選ぶのがどんな客であろうと、バーテンダーは我々なのだ」

 すべてを黙認するかのような静謐(せいひつ)に、神巌は靴音を響かせて抗った。