黒龍隊の挽歌 第十四話

戦場の邂逅



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 影龍(インロン)。それが今、南田を見下ろしている機兵を指す名だった。

 啓示軍(オフェンバーレナ)モスクワ侵攻のころから目撃されているが、いまだその所属も目的も不詳の機兵。啓示軍と亜連の双方の機兵をとりあわせたような外観だが、その性能は龍(ロン)エントゼルトゾルダートの一段上を行くと推定されている。戦場伝説などではなく、その力が実際のものであることを、南田はたった今目にしたところだ。

 エントゼルトゾルダートを一撃で屠った影龍が、すぐそばで動けなくなっている南田の龍を見下ろしていた時間は短かった。南田に背を向け、滑走路のほうに向かって斜面を上っていく。

 助けられたわけではない。障害にならないと判断されただけなのだろう。実際、影龍は赤いゾルダートともう一機のゾルダートまでも無視し、滑走路に一直線に向かっている。

 だが、赤いゾルダートのほうはそれを許さなかった。突撃のフェイントをかけて群山をふりきり、影龍を追ってジャンプする。影龍と赤いゾルダートは、ともに稜線の向こうに消えてしまった。

 今が巻き返すチャンス。南田はそう思ったが、龍はもはや立ち上がれないようだった。火縄も右腕ごともがれ、左手の雷紫電はいまや杖代わり。

「竜時、動けないなら脱出しろ」

 峰國(フェングォ)に促されるまま、南田は潔く操縦桿から手を放した。このままコクピットにいては的になる。

 現状で、敵味方の健在数は三対三。峰國にも、いまの一声を投げかける以上の余裕はないだろう。仲間の負担にならないよう、自力で安全圏まで脱出する。そう決めた南田は、ログインに使うパーソナルディスクなど最低限のものを身につけ、コクピットから外に出た。

 展開したハッチが前に倒れてそのまま足場となるが、機体自体が傾いているので、注意していないと転げ落ちそうだった。片手でハッチの縁をつかんだまま、しゃがんで足元から乗降用ワイヤーを引き出しにかかる。

 銃声と跳弾音が南田の鼓膜を震わせたのは、その作業中のことだった。

 南田は慌てて頭を引っ込めた。目前のゾルダートのパイロットか、基地から出てきた兵士か、ともかく南田は狙撃されたのだ。南田とて腰には拳銃を携えているが、射撃はあまり得意でない。改めて足場に身を伏せようとするあいだにも、さらに二発の弾丸が間近で跳ね返った。

 這いつくばった南田の視界に、エントゼルトゾルダートの垂れた頭が映る。人間の動きと照応すれば、不自然なほどに首が前に出ている。猫背などというレベルではない。それはエントゼルトゾルダートがコクピットを露出させるために取る姿勢だった。啓示軍のパイロットのほうが、南田より先に脱出していたのだ。

「まずい、進退窮まったな」

 拳銃の安全装置は外したものの、南田は敵パイロットが早々に基地内に退避してくれることを期待していた。

「軍人というのは、人を殺す職業だ。安易な気持ちでなれるものじゃない」

 厚木基地で藤居に言われた言葉が脳裏に蘇る。

「何の罪もない人を殺すわけじゃありません。警察だって、凶悪犯は殺すことがある。それと同じですよ。連邦領をあれだけ侵略している啓示軍に、遠慮なんて」

 あのとき南田は当たり前のようにそう答えた。だが、事実として南田は今、得手不得手とは別の理由で引き金を引くことを躊躇(ためら)っている。

 機兵同士の戦いなら、想像力の使用を意図的に抑えていれば済んだ。西フェルガナ基地で敵襲を受けて以来、敵に対する哀れみとは訣別したつもりだった。再会できた仲間と生き抜くために、そして残りの仲間を見つけ出すためには、修羅にでもなると決心もした。しかし、生身を相手にするという、戦場ではごく当たり前のシチュエーションとの遭遇が、銃をただの飾りと変え、南田をハッチの陰に這いつくばわせている。

「藤居さん、あなたが俺に言いたかったのはこういうことですか」

 南田は空を見上げる。編入当初から南田たちに気を配ってくれていた藤居は、おそらくもうこの空の下にはいない。

 銃弾がまた一発、今度は南田の頭上、龍の胸部あたりに当たった。

「ちっくしょう」

 さっさと行けよ、と続けようとした言葉は、空気を震撼させるほどの轟音に遮られた。

 数分ぶりの砲撃が近くに着弾したのだ。空中で炸裂するはずの榴弾が、地面に当たってから弾けてくれるという幸運がなければ、南田は金属片に体を貫かれるか、引きちぎられていただろう。幸いにもゾルダートの機体や足場の装甲で破片から守られた南田は、立ち上がって、啓示軍のパイロットの最期を知る。

 見た瞬間に顔を背けた。吐き気が来るかと思ったが、戦場での昂奮状態にあるらしく、久しぶりに摂取したまともな食事を大地に返す結果にはならなかった。

 吐き気の代わりに、南田は虚しさを覚える。南田が銃を向けるまでもなく、敵パイロットは無残に果てた。人の命が簡単に失われることに、そして自分の葛藤が結局は彼の死に影響力など持たなかったことに、南田は脱力する。

 数秒、あるいは数十秒。ただ惚けているだけの時間に終止符を打った南田は、無事だったワイヤーを改めて引っ張り出し、地面に下り立った。

 妙な音に気づいたのは、着地の寸前のことだった。ガラスを引っかいたような、耳障りな音。

 砲弾が飛来する音だろうかと思い、慌てて手近な坑道に走りこもうとした南田を、さっと忍び寄った影が覆った。

 反射的に見上げる。不快な音も強まる。風圧が南田の前髪を額にはりつかせる。そのなかで南田は見た。巨鳥が西の空へ飛び去るさまを。

「フリューゲイル!」



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「南田曹長の脱出を確認。坑道に退避したようです」

「基地中央付近に、四十メートル以上の飛翔物体。離陸した航空機と思われます」

 ジソコンの戦場監視カメラをモニターしていた円道紗耶秋月杏里が、ほぼ同時に北嶋に報告を上げた。北嶋は南田の無事に安堵の溜め息を漏らし、そしてすぐ、秋月に航空機の映像を手元のパネルに回すよう指示する。

「これは、フリューゲイルのようだな」

 北嶋は驚かずにはおれなかった。影龍が出現したばかりでなく、今度は鉱山の中腹からフリューゲイルの離陸。前線にいても滅多に見えることのないだろう状況だった。

「いったい何なんだ、あの基地は」

 戦闘中に慎むべき私語が車内から聞こえたが、北嶋は発言者を咎める気になれない。つい口にしてしまうのも納得できるほど、これは奇怪なめぐり合わせに違いないのだ。

 影龍とフリューゲイル。この二者が相見えることに不自然はない。影龍はしばしば重要な局面においてその姿を現すからだ。奇異なのは、それに行き会ったのが北嶋たち黒龍隊だということだ。西フェルガナ基地での件から、体感的には数日以内。自分たちは何か途方もないことに巻き込まれているのではないか、と思えてくる。

「北嶋大尉、撤退の信号を出しますか?」

 円道に尋ねられ、思索に入りかけていた北嶋は即答しかねた。

「敵が撤退に移ったとして……。機兵は陸路で撤退するか、あるいはまだ輸送機が残っているなら、その離脱まで抗戦し、投降する。敵にはそれくらいの選択肢しかない、か。三〇三師団の動向は?」

「砲撃は止んだ模様。制圧部隊が予定通り進軍を開始したようです」

「そうか。影龍が啓示軍(オフェンバーレナ)の相手をしてくれるのなら、こちらはもう撤退させたいところだが……。撤退信号は影龍の動き次第だな」

「ですが大尉、もし影龍が敵対してきた場合、現状の戦力では勝算が……。撤退信号を出したほうが無難です」

 パイロットたちを案ずるように秋月が反駁する。北嶋はそれをもっともだと受け取ったが、しかし選択の幅はそれほど狭くないように北嶋には思えた。

「可能性はいろいろとある。峰國(フェングォ)くんなら、それに気づくだけの柔軟性があるだろう」

 秋月がふりかえって首をかしげる。北嶋は安心させるようにこう付け加えた。

「大丈夫、打つ手がないと判断したら勝手に退散してくる。彼はそういうところも柔軟なようだから」


*   *   *   *   *


 胸部にライフル砲を一発受け、峰國(フェングォ)の龍はのけぞった。そしてすれ違いに峰國の龍が放った砲弾が、エントゼルトゾルダートの左肩を破壊する。

 コクピットの峰國は冷静にダメージを分析していた。当たる角度が良かったのか、防人型の胸板の厚さが効いたのか、破損は背中まで到達していない。胸部のBFG(バルムンクフィールドジェネレータ)がいかれて出力を急激に落としてしまっているが、まだ機体は動ける。朝井機のバルムンクフィールドの中に入れてもらいながら、峰國は再攻撃で敵機の腹部を射止めた。装甲の薄い腹部に大穴を穿たれたエントゼルトゾルダートは、自重の負荷によって上半身と下半身とに破断する。

 一機撃破。しかしこれで三対二になったかというと、そうではない。バルムンクフィールドを保てなくなった峰國の龍は、もう僚機から離れられず、まともな戦力ではなかった。むしろ朝井の動きを拘束してマイナスになりかねない。

「朝井、俺、死んだふりしとく」

 そう伝えて龍に力尽きた演技をさせようとしていると、朝井が慌てて止めに入った。

「待って! 敵の様子がおかしい」

 峰國が画面を見渡すと、朝井が言ったとおりのことが起きていた。朝井が相手をしていた機体と、斜面上方で群山が相対していた機体が、そろって目眩ましを放ち、滑走路のほうに後退していく。

 敵に置き去りにされた峰國は、首をかしげた。

「逃げるなら西だろ。なんで閉じこもるような真似を……。あ、まだ輸送機が残っているのか?」

 こんな場所に滑走路が隠されていた事実はともかく、敵の部隊規模だけを考えるなら、輸送機が二機あっても不自然ではない。そして輸送機がまだ残っているなら、捕虜がそれに乗せられている可能性もある。

「よし、追撃だ」

 火縄の弾がまだ四発残っていることを確認して、峰國は宣言する。

「は、正気ですか? 被弾してるでしょうに」

「あっちにはさっき影龍が行った。たぶん輸送機目当てだ。なら、輸送機の足止めには、影龍に手を貸すのがいちばんじゃないか」

「そんな無茶苦茶な。戦略軍の結論じゃ、影龍は敵性扱いでしょう。――おい、群山、お前も説得してくれ。ここは撤退するとこだって」

「俺は曹長に賛成。奴らを叩くチャンスでもある」

「おいおい、マジかよ」

 群山に援護を求めた朝井は、あっさりと二対一の民主的敗北の事実を突きつけられた。

「輸送機が残っていて、それが離陸したら、たぶん三〇三師団が高射砲で撃ち落とす。さっきのタイプを取り逃がしたから、今度は撃ち漏らさないだろうな。それでもし輸送機に捕虜が乗っていたら……」

「はいはいはい、わかった。わかりましたよ。で、俺を先頭にフォーメーション組みなおすっていうんでしょ?」

「気が利くね、朝井君」

「BFGも飛び道具も残ってるのは、俺の龍だけでしょうが」

 声は渋々だったが、朝井は時間を無駄にせず、群山機を追い抜いて先頭に立つ。BFGを共有させてもらっている峰國も自然とのその背後につくかたちとなり、その右翼に群山が並ぶ。

 峰國はそのフォーメーションを組む間に、南田との会話を試みていた。ヘルメットには通信機が付いているから、バロッグの分布や地形によっては交信ができる。だが、呼びかけには物音のひとつさえ返ってこなかった。

「どこかにしっかり隠れていろよ、竜時」

 呟くと、その声をマイクが拾ったらしく、何か言ったかと朝井が緊張した声で訊ねてきた。

「いや、なんでもないや。――あ、補足。もし影龍がこっちに向かって来たら、一目散に逃げることにしよう」

 それから三十秒とかからず、三機の視界に滑走路が広がった。滑走路の他端は洞窟のような格納庫につながっており、その手前に数機の機兵が集まっている。稜線から頭だけ覗かせている峰國たちの視点では、自分たちに背中を向けた三機の機兵しか確認できないが、その先で影龍が三機と対峙しているのは間違いない。

「影龍は輸送機を盾に取ったのか」

 群山の状況分析に、峰國は頷く。いくら影龍でも三機に詰め寄られては勝てないだろう、と思ったが、輸送機を背にしてしまえば啓示軍側は発砲できない。接近戦なら、影龍には異様な敏捷性とあの強力な杭(パイル)があるから、三機という敵の数は決して不利な数字ではないだろう。

「どうするんですか。影龍がひとりで足止めしちゃってますよ」

「そうだなあ。均衡が崩れるまではここでこうしていようか。睨み合いが続いていても、三〇三師団がそのうち来るだろうし」

 漁夫の利を狙えそうだ。峰國が得をした気分になっていると、龍を胸の辺りまで乗り出させた群山が、ぽつりと言った。

「影龍が、二機いる」



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 フリューゲイルの強行離陸を成功させたのち、エトガル・ローゼンは基地の放棄を再度全隊に通達し、もう一機残っている輸送機のもとへと向かっていた。最後まで司令所に残っていた部下たちも一緒で、小さな荷物だけは抱えて持ってきているが、残してきた物も少なくない。当初より引き揚げが最大の難題になるだろうと言われた作戦だったが、この有様はエトガルが想定したより悪いものだった。

 基地の放棄と、即時撤退。それは、エトガル配下を含めたすべてのエントゼルトゾルダートに、ここから陸路で離脱しろと命令することだった。それでいて、指示を出したエトガルたちは空路で先にベルリンに帰るのだから、自分でもひどい話だと思う。せめてパイロットだけでも一緒に乗せて帰りたかったが、彼らに抗戦してもらわなければエトガルたちの脱出はかなわないのだ。

「X2(イクスツヴァイ)さえ間に合っていれば……」

 部下の一人がこぼした愚痴は、エトガルの頭の中で何度も反響している言葉と同じだった。円滑な離脱のための切り札は、亜連側の早期の総攻撃によって使う場を失ってしまった。さらにはユプシロン……すなわち基幹部隊がもっとも厄介な敵として認識している、ゲリラ勢力の機兵の介入によって、自分たちの離脱さえ危うくなっている。これも切り札さえ間に合っていれば問題にならなかったことである。

 E12(エーツヴェルフ)のオズボーン・ワイルダーはよく戦っていた。フリューゲイルに迫ったユプシロンを滑走路上から排除し、今も足止めをしてくれている。その実力は、態度の悪さを差し引いても、一個エスカドローンを任されるに相応しいものだった。

 しかし亜連の機兵部隊も生き残っているから、いくらオズボーン・ワイルダーでも、手負いの機体で滑走路の安全を長くは維持できない。エトガルたちはそれで急いでいた。脱走したらしい捕虜を放置しているのもそのためだ。

 作動のおぼつかないエレベータを避け、足が絡まりそうな勢いで階段を駆け、息を切らしながらエトガルは格納庫に到着した。エトガルらを待っていたのは、フリューゲイルの普及型であるグルーテイル。カーゴハッチが閉じているから、荷は積み込み終えている。あとはエトガルらが乗り込むばかりだった。

「少尉!」

 タラップまで全力疾走しようとしたエトガルを、部下の声が呼び止めた。何事だ、という問いは、ふりかえる途中の視界によぎった、大きな影によって中断される。

「ユプシロン……」

 ユプシロンはすでに格納庫の中に進入し、グルーテイルの鼻先を押さえていた。エトガルたちは一足遅かったのだ。

「二機……、ユプシロンが二機ともいます」

 戦慄に震えた部下の声を聞き、視線をユプシロンの背後に移すと、そこには友軍の機兵と対峙するもう一機のユプシロンの背中があった。

 オルロフを狙ってきた。それ以外に、彼らが少ない戦力をここに集中してくる理由が見当たらない。エトガルの彼らの意図についての憶測は確信へと変わった。

 ユプシロンが腕に装備した杭を打ち出し、グルーテイルのコクピットを潰す。エトガルたちはただ見ているしかなかった。拳銃でかなう相手ではなく、効果のありそうな携帯火器はすでに亜連に対して使ってしまっていた。

 脱出の道は、完全に断たれた。


*   *   *   *   *


 フリューゲイルの戦場離脱を見て、啓示軍(オフェンバーレナ)が撤退を決意したことを悟った南田は、坑道の奥へと進んでいた。

 砲弾の破片を避けるだけなら、そう奥まで足を伸ばす必要はなかった。しかし、最初は数メートルのつもりで進めた歩みは、もう百メートル以上持続している。もしかして近くに江藤が捕まってはいないかと、南田はそう思ったのである。

 坑道内部の照明は生きていた。少なくともこちらの攻撃が始まるまでは、問題なく機能していたようである。今は数個にひとつの割合でだけ、明かりの灯った照明がある。足場も悪くなく、目下のところ探索の最大の障害は、残留している敵に遭遇するかもしれないという恐れだった。

 途中にあった梯子を上ると、そこは坑道とは一変して、床も壁も天井もコンクリートで固められた回廊だった。明かりはほとんど消えているが、坑道で暗さに慣れた瞳孔は南田に不自由を感じさせない。

 寒い。南田は思わず自分の腕を抱いた。

 三日の放浪のおかげで、南田はこのあたりの気候にそろそろ慣れはじめていた。それでも、なぜかここは身が凍りそうなほど寒々しく感じる。皮膚と服との間には空気の層が入ってそれなりに温かいはずなのだが、今はその空気のぬくもりを感じない。

 ここの空気、いや、雰囲気のせいだ。

 自分の体温を確認してみて、南田はそう結論づけた。体温は低下していない。寒く感じられるのは、なにかしらの精神的な影響らしい。

「ともかく、ここに人はいそうにない」

 骨まで凍ってしまいそうな感覚に耐えかねて、南田はそう独白した。声を出さないと自分が永久にここに閉じ込められてしまいそうな錯覚に陥る。

「ここは時間が止まったみたいだ」

 言ってみて、南田は自分でその言葉に頷いた。蜘蛛の古巣ひとつなく、堆積するに足る埃さえ発生していない。明滅する照明だけが唯一、この空間に時間という概念が存在していることを証明してくれている。

 引き返そうとした南田が、梯子の足を乗せる前にそれを取りやめたのは、向こうの突き当りを人影が横切ったからだった。

 静寂と静止の空間に、人がいた。その事実だけで南田には場違いに思えたのだが、場違いなのはそれだけではなかった。その人物の服装は、一瞬のことなので定かではないが、南田のものと同じに見えたのだ。

 亜連の機兵パイロットらしき服装をしていた。それは、南田がその影のあとを追うのにじゅうぶんな理由だった。


*   *   *   *   *


 あいかわらず顔だけ地平からのぞかせて戦況を観察していた峰國(フェングォ)は、膠着状態の終焉を見届けた。赤いゾルダートが、そして残り二機のゾルダートが、影龍を警戒しつつもあとずさりはじめ、やがて滑走路と垂直な方向にジャンプして、視界から消えた。

「影龍の一機が輸送機のコクピットを壊したみたいですね」

 朝井が観察結果を報告してくれるが、それは峰國も目撃していた。新手の影龍がゾルダートを牽制しているうちに、先に来た影龍は輸送機……おそらくはグルーテイルを破壊し、さらに格納庫の奥へ入って行ったが、そのあとは見えなかった。

「一時退避じゃない。ゾルダートは完全に撤退する気だ」

 少し距離をとって観察していた群山が、啓示軍側の行方を報告してくれる。接近中の三〇三師団に対して小山を盾にするように、迂回しながら西に抜けるようだ。もちろん、龍との交戦を避けたルート選定でもあるのだろう。

「輸送機が脱出できなくなったんなら、そうするしかないよな」

 多くの傷を負った三機のゾルダートが、影龍を撃退して、さらに残りの友軍を回収して離脱することなど不可能だ。そして同じく機体に損傷を負った峰國たちに、啓示軍を追う気はない。もとより、この基地に江藤が捕まっているかもしれないから参加した作戦である。これで影龍さえいなければ、あとは三〇三師団にすべて任せて撤収するところなのだが、あいにくそうもいかなかった。新手の影龍は、今度はこちらを見張るように立ちはだかっている。

 新手のほうの影龍は、杭を打ち出す武器は装備していなかった。代わりに右手に火縄を、左腕にミサイルランチャーを装備している。どちらも、亜連製の機兵用兵装だ。どこかで強奪したのか、あるいはエデンあたりの第三者から渡ったのだろう。その火縄が峰國たちの龍に狙いをつけているのは、明らかだった。

 いつでも撃てるが、撃たないでいる。影龍は逃げたゾルダートも追わず、残った亜連部隊である峰國たちも攻撃せず、ただ格納庫前の確保だけを目的としているようだった。

「輸送機が目当てなら、もう目的は達したんじゃないのか」

「積荷を奪っているところかも知れませんね。あの火縄も、こんなふうにどこかで奪われたのかも」

「邪魔をしなければ手は出さない、ってつもりかな、あれは」

「そうなんでしょうね。でなきゃ、とっくに俺たちは全滅ですよ」

 悠長に朝井と相談していられるのは、直接コクピットを撃たれる心配のない位置にいるからだ。また、フリューゲイルに影龍二機という豪勢な顔ぶれの登場で、緊張が飽和して麻痺状態に陥っているのだろう。

「いなくなるまでこうしていますか? それとも撤退?」

「仕掛けるつもりはもちろん無いけど、さすがにここで引いたら、三〇三師団の人たちから文句が出るだろうなあ。まだ隊長が見つかったわけじゃないし、あんまり非協力的な行動は取れないぞ、こりゃ」

 額を滴る汗がどういう類のものか考えながら、峰國は自分に向けられた火縄の砲口を見つめていた。



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 第三〇三軽量機甲師団分遣隊指揮官ペイ・ユンは、野営地を補佐のウェダム少佐に任せ、自らはGT72鉱山基地に向かっていた。基地攻略の最終局面を、情報のタイムロスのない現地で指揮するためである。

 陰口を叩く者の存在を、ペイ・ユンは知っている。勝てるとわかってから初めて現地に入り、戦闘後には現場指揮を自慢する卑怯者。そういう評価がなされることに、ペイ・ユンは腹が立つ。なぜこうも皆は単純な頭をしているのか、と。

 ペイ・ユンがこうして最終局面になるまで現地に赴かないのは、何も私利私欲のためではない。数少ない元老院の真の理解者が、すなわち社会的にただの将兵とは一線を画す人的財産が、無為に失われるリスクを避けるためである。その妥当性をペイ・ユンは疑ったことがない。

 ペイ・ユンに限らず、第三〇三軽量機甲師団の主だった幹部は、師団長カナタフ以下、みな元老院派である。自分が常に元老院の意向に沿った働きをしていると、ペイ・ユンは自負している。もちろん今回の作戦も、すべては元老院の思惑に則ったものだ。

 GT72鉱山基地は、事実上、元老院の管理下にある。軍で一般に認知されているようなただの廃坑などではないのだ。SMITS(スミッツ)が研究用に使っていることを一部の者が知っているが、その知識も真実には届いていない。啓示軍(オフェンバーレナ)があの基地を制圧したのは、亜連でも元老院派のさらに一握りの人間しか知らない秘密について、啓示軍が情報を入手した結果だろう。

 カザフ方面の前線で啓示軍に出し抜かれた際、師団長のカナタフはすぐにその狙いがGT72鉱山基地にある可能性に気づき、同じ推測をしていたペイ・ユンは追撃部隊の指揮官に名乗りを上げた。バロッグのせいで元老院に行動の伺いを立てることはできず、下手をすれば独断専行の責を負わされかねない役回りだったが、亜連特別規定第一〇号が発令されたことや、GT72鉱山基地を奪われることが元老院に与える損失を考えれば、責任問題などは瑣末な事柄だった。

 あの基地には重要な資料がある。元老院がSMITSに研究させているのは、ありふれたコアなどではなく、その重要資料なのだ。現物はペイ・ユンも見たことがない。カナタフ少将でさえ、あの重要資料に関する話はすべて伝聞の形を取るほどだ。

 だが、ペイ・ユンには察しがついている。二十四年前、空から降ってきてエネルギー化したあの隕石群のなかには、例外的にエネルギー化現象を起こすことなく地面に埋没した、稀有な例がある。そのひとつなのだろう。

 八月の悪夢とは何だったのか、そして変則領域とは何なのかという疑問に対して、残存隕石は多大な情報を提供してくれる。けれども、そのような真理の探究はペイ・ユンの興味の対象ではない。ペイ・ユンにとって価値あることは、GT72鉱山基地に保管された重要資料が、元老院が亜連を、そして世界を主導するうえで欠かせない駒だという事実だった。ペイ・ユンが、信頼性に欠ける文書を大義名分にしてまで奪還作戦を敢行したのは、その駒の重みを慮った結果だ。

 重要資料は、その秘密性のためにGT72鉱山基地のような人里離れた基地で研究が行われ、基地の守備には元老院の私兵部隊RAT(ラット)が動員されていた。しかしRATのもつ戦力はあくまで対人制圧のレベルである。機兵相手に基地を守りきれるものではない。実際、ペイ・ユンたちが追いつく前に基地は啓示軍に奪われてしまった。

 敵の狙いが明白だっただけに、対処には慌てなかった。重要資料が鉱山基地にしまいこむような巨大な隕石だとすれば、搬出には時間がかかる。その間に包囲の準備を進め、基地から脱出したRAT隊員の協力を得て攻略作戦を立案し、敵機兵の奇襲に遇いながらもこうして基地攻撃を実行に移すことができた。そして敵部隊の殲滅と基地の奪還は、もうすぐである。

 黒龍隊をうまく巻き込んだ時点で、勝ちは決まった。ペイ・ユンはそう言い切れるだけの準備をしていた。いちばんの懸案は、敵よりむしろ黒龍隊のことである。彼らが無用なものを見てしまわないうちに、身内の制圧部隊を先んじて突入させなければならない。その身内にしても、できるだけ信用の置ける者だけを選んで重要資料の確保に当たらせたい。もしRATの残存部隊が基地内部に潜伏していれば、彼らが呼応して行動を起こし、然るべき工作を施してくれるだろうが、それは希望的観測に過ぎない。だから確実にそれらを差配するために、今回ペイ・ユンはどうしても現地に出なければならなかった。

 バロッグの中を装甲車輛で移動している今は、情報面では最も不便である。バロッグの中でも多数の中継器を置けば通信は可能だが、移動する車輛に対していちいち中継器を設置するには時間も人手も資材も足りない。こうして移動している最中に戦場でどんな変化が起きているかもわからない。それを思うと、ペイ・ユンは歯痒かった。

「あとどのくらいか?」

 ペイ・ユンは運転をしている兵士に残る道程を尋ねた。

「はっ。あと二十分といったところであります」

「十五分だな?」

「は? ――はっ、急ぎます」

 うすのろの運転士に侮蔑の視線を投げかけ、ペイ・ユンは手元の電子端末に目を戻す。

 最後に入ってきた情報から推測される現在の戦力配置と、予想される敵の逃走路を表示。そして配下の部隊の火力と機動力を勘案し、最初の計画通り、敵を確実に拿捕できると確認する。

 口元をにやけさせていたペイ・ユンに、通信士の報告が水をさした。

「前方の中継器より受信。基地からフリューゲイルが離陸した、とのことです」

「なんだと? 輸送機がいたなどとは聞いていないぞ!」

 観測できなかったのは、バロッグのせいか、あるいは観測員の怠慢のせいか。後者であれば処分は相応のものを下さねば、と思いながら、ペイ・ユンはレシーバーをひったくって自分の耳に当てた。

 フリューゲイルは戦場を離脱。また、所属不明機が現れたという未確認情報あり。

「あれを持ち去られたというのか? そして何故応龍隊までが……。いや、考えられないことでは……」

 愕然としつつも、安心のできる内容の文面が続かないかと、レシーバーにいっそう強く耳を押し付ける。しかし、急に大きくなった雑音に音声は掻き消され、言葉どころか人の声として聞き取れなくなった。

 雑音さえ聞こえなくなった直後。地面が破裂でもしたような轟音と振動が、車体を襲った。

「敵襲! 三時方向、ゾルダートタイプが……」

 言葉は途中から悲鳴になり、そしてすべての音が絶たれる。レシーバーを当てていない耳にも、複数の爆発音が届いていた。

 伏兵がいたのだ。

「第三小隊と第五小隊で応戦しろ! 残りは私の指揮者を守りつつ、全速で離脱を……」

 目の前に広がる爆炎。聴覚は一瞬で機能を失い、痛みは感知するだけの時間も与えられない。

 ペイ・ユンの命令を聞き届けた者は、いなかった。



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Copyright(C)2005 Daigo Yoshida,All rights reserved.

 戦場の恐怖と呼ばれるものにも大小の程度の差があるだろうが、さしあたって長野翔太にとっては、現在の状況は恐怖を喚起するものではなかった。それは長野がさほど熾烈な戦闘を体験していないせいでもあれば、ここが基地の内奥であり、敵兵との遭遇も天井の崩落もあまり心配しないでよい場所だからでもあるだろう。長野が基地の奥深くへと歩んでいる消極的な理由はそこにある。

 一方の積極的な理由は、この扉の向こうに存在する。この、表面にところどころ錆の浮いた、重い鉄製の扉。とても長野の体格で動かせる質量ではないうえに、そもそも蝶番や車輪がこの扉には付いていない。人力で開閉することを想定されていない、あるいは、人力では開閉できないように設計された扉だった。

「いや、人力以上の力に耐える扉かな」

 長野は扉の仕様が以前と変わらないのを確かめて、そう呟いた。

 三つのダイヤルを所定通りに回し、暗証番号を入力。記憶に残るままそれをやり終えた長野の前に、依然として障害として立ちはだかるものはただひとつ。扉を機械的に開閉させる、無骨なレバーである。

 深呼吸をしてレバーに手をかけた長野を、幻聴が襲った。悲鳴と怒号、そして銃声。ふりはらうように目を閉じれば、瞼の裏には血の海が映る。

「くそっ、ここまで来ておきながら!」

 自らを叱咤し、目と耳にまとわりつく幻影を無視しようと努める。

 啓示軍(オフェンバーレナ)に捕まることさえなければ、五日も前にこの幻と対決していたはずだった。前々からチャンスを窺い、広域のバロッグの発生という不測の事態のなかでようやく掴んだ好機を、ここでふいにするわけにはいかない。

「俺は事実を確かめなきゃいけないんだ。あれは、夢でも幻覚でもなかった」

 長野はレバーに置いた手に力を込める。しかし、固くてなかなか動かせない。幻影に対抗する気力で、腕に回る力が鈍っているのかもしれない。先に幻覚を克服しようともしてみたが、レバーに手を置き、扉を開けようとする限り、逃れられそうになかった。

「手伝おうか」

 不意に背後からかけられた言葉は、少し笑いを含んだ、英語だった。

 啓示軍の兵士に見つかったらしい。ここまで来る途中、何度か追跡者のものらしき物音がしたが、長野が人知れぬ秘密通路を抜けたあとは気配が絶えていたので、安心していた。そのときの兵士が、道を見つけ出して追ってきたのだろう。

「俺を撃たないのか?」

 レバーに重ねた自分の手を見つめながら、長野は背後に尋ねる。

「それは損だ。せっかくの案内人を失うことになる」

 その言葉を、いや声を聞いた途端、長野の視覚と聴覚から幻覚が消えた。

「……俺はこの奥に用がある。その邪魔をしないんなら、あんたの好きにすればいい」

 長野が言い放ったのは、本心だった。啓示軍にあれに関する知識を得ようが得まいが、長野にはどうでもよかった。元老院が困るのなら、むしろ好ましくさえあるかもしれない。敵兵がこの妙な態度を誤解して発砲する可能性も頭に浮かんだが、ここでこのチャンスを逃すくらいなら、それくらいのリスクは妥当に思えた。

「では、ご厚意に甘えよう」

 その言葉は耳元で聞こえた。いつの間にか距離を詰められていたことにぎくりとして、レバーを握る長野の手から力が抜けたが、その手の上に別の手が重ねられる。薄地の黒い手袋に覆われたその手は、決して筋骨隆々というふうには見えなかったが、長野の手の上から加えられた力は、難なくレバーを動かした。重い音が響いて、鉄の扉がゆっくりと天井のほうに巻き上げられていく。

「開いたな」

 男は手をどけ、曲げていたらしい背中を伸ばす。長野は容姿、身なりを目にして、自分の勘違いに気づいた。

「啓示軍の人間じゃ、ない?」

「正解だ」

 短く答え、青年の碧眼が長野を見下ろす。首の動きに伴って、金色の長い前髪が揺れた。敵ではない、と長野は直感的に思った。しかし、服からして彼は亜細亜連邦軍の人間ではない。

「友軍ってわけでも、RATの人間でもなさそうだ。あんた一体……」

「名はヴォルフだ。それ以上は聞かないほうがいい」

「ドイツ人?」

「それに答えないと案内してくれないのか? 君がどうかは知らないが、俺はあまり時間に余裕がない。友人を外に待たせているのでね」

 ヴォルフと名乗った青年は、もう完全に開かれた通路の奥を示して、長野を促す。

「行こう」

 ごく簡単な英語で了解の意を示し、長野は先に立って奥の暗がりへと進む。

 数メートル行ったところで、背後から小さな光の筋が伸びた。ヴォルフがペンライトのようなものを携帯していたらしい。それに足元を照らしてもらいながら、長野は記憶を頼りに道を選んで歩いていく。

 明るい照明の下で見れば、ここにも血痕や弾痕は残っているだろう。しかし、今は核心的な最大の証拠をこの目で確かめるのが最優先だった。また、もし可能なら、その切れ端であろうとも持ち帰りたい。

 うしろをついて来るヴォルフという男は、この先に何があるか知っているのだろうか。知らなければ「せっかくの案内役」とは言わなかっただろう。少なくとも、興味本位で長野につきあっているのではなさそうだった。聞かないほうがいいと言われた彼の素性についても、疑問は尽きない。

「足元に気をつけて。だいぶ散らかっているかもしれない」

 思い切って訊ねようかと思ったが、口から出たのは注意の言葉だった。しかし、それも御座なりに思いついた台詞(せりふ)というわけではない。もし長野が来たときのままならば、決して踏んだり躓いたりしたくない物がいくつも転がっているはずだった。

 幸いなことに、長野の予期していたような障害物にはいくら進んでも出くわさなかった。

 気候を考えれば、あれらがアミノ酸にまで分解されるにはまだ早い。長野は誰かがここを片付けたのだと仮定して考えてみる。そうすると、この奥には何の証拠も残っていないという結論が導かれてしまうが、長野はそれを即座に否定した。それはここにいたSMITSの研究員たちの言動と食い違うからだ。

 SMITSの研究員といえば、彼らは啓示軍に基地を制圧されてからどうなったのだろうか。長野が江藤と一緒に監禁されていた洗面所からは、彼らの声は聞こえなかったし、脱走のときに近くを探してみても見当たらなかった。彼らが啓示軍に五日間にわたって尋問されていたとすれば、啓示軍がこの先にある秘密を聞き出していても不思議はない。長野は自分たちが危険な場所にいることを今更悟った。

「ねえ、ここ袋小路なんだけど、啓示軍が来たらどうする? 隠れるような場所も、ここから先はたぶんないと思う」

 最後の分岐点を前にして、長野は立ち止まり、ヴォルフに尋ねた。

「それは心配ない。来たとしても、ひとりかふたり。それくらいならしのげるさ」

 自信満々というより、ひどく自然体でヴォルフは答える。光源に乏しく表情は読めない。

 抱えた疑問が嵩(かさ)を増したが、目的地に近づくにつれ、すぐに長野はそれに頓着しなくなった。幻視がまた訪れるかと長野が警戒していたが、それは起こらない。

「着いたのか?」

 声をかけられて、はじめて長野は自分が足を止めていたことに気づいた。ヴォルフの言うとおり、長野は最悪の記憶の場所に帰ってきていた。

「スイッチがあった。つけるぞ」

 ヴォルフの声がして、急に視界が真っ白になる。長野は照明の光に対して手をかざしながら、一歩前に出て、正面を見据える。

 あった。まずそれがわかった。次第に目が慣れていくにつれ、期待していた物証がしっかりと残っていたことを長野は知る。

 分厚いガラス板の向こうに、熊ほどの大きさの動物がいた。いや、置いてあるのはその死骸である。動く気配がないどころか、その体は多くの箇所で寸断され、また、欠損部も少なくない。しかし何より目をひくのは、それが図鑑にも学術書にも載っていない、異形の生物だということだった。

 それはでたらめに繋ぎあわされた巨大な甲冑のようでもあり、外装に曲面を多用した乗俑機のようでもある。そういった無機的な様相を呈しながらも、それは明らかに生物としての息吹を感じさせる。甲殻類か昆虫の近縁かとも思える姿だったが、サイズが異様だった。

 初めてこれを見る人間は、精巧なはりぼてかアトラクション用のロボットだと思うかもしれない。だが、これと最初に遇ったときの長野には、そのような想像が許されなかった。これは現に、動いていたのだ。

 否が応でも当時の記憶が甦った。よく見れば、鎧のような甲殻には血糊らしき染みが見受けられる。長野はそれを見つめて、しばし茫然としていた。それがどのくらいの時間で、そしてその間ヴォルフが何をしていたのかも、長野は気づかなかった。

 ヴォルフに肩を叩かれて、長野は我に返った。

「誰か来る。壁沿いに隠れて」

 ゆっくりと静かな英語で言いながら、ヴォルフは長野を入り口の脇の壁に張り付かせる。そして自身も入り口を挟んで反対の位置で同様の姿勢をとり、腰から抜いた拳銃を構える。

 やはりヴォルフは銃を持っていた。鉄扉のところで撃たれていてもおかしくなかったのだ。証拠の存在を確かめた今、自分が渡って来た綱がいかに危険な撚(よ)りだったのかを、長野は冷静にふりかえる。この化け物と遭遇することがなければ、一生あっても冒さなかっただけのリスクを、長野はこの二ヵ月だけで経験してしまったのだ。

 足音が近づいてくる。どうやら一人のようだった。照明がついたのに気づいて、入り込んできたのだろうか。

 ヴォルフが銃の安全装置を解除する。長野は息を呑んだ。


*   *   *   *   *


 江藤は愛機を探して脱出するつもりで、基地の中をうろうろと歩き回っていた。

「やけに広いじゃないか、この基地は」

 平素どおりの声で独白する。警戒の必要もない。啓示軍(オフェンバーレナ)がすでに撤退に入ったことを、江藤はフリューゲイルの離脱を介して感知していた。

 聞いていたような鉱山基地にしては、おかしな造りだと江藤は思う。妙に寒々しいのだ。コア採掘の現場は何度か見学したことがあるが、ここにはそのどことも異なる印象を持つ。監禁されていた洗面所付近は普通の造作だったのだが、隠れた通路に出てから様相が一変した。

 秘密の通路に出られたのも、そもそも怪力男から逃れられたのも、飛んできた流れ弾のおかげだった。実に幸運な着弾である。あれが飛んでこなかったら怪力男に首をへし折られていたし、着弾点がもう少しずれていたら江藤の体は木っ端微塵(みじん)だった。

 着弾の直後に気絶した江藤は、気がつくと瓦礫にうずもれていて、そこは見覚えのない場所だった。例外は天井の眺めである。ただし、その天井はそれまでよりずっと高いところに見えた。つまりは、大男に襲われた現場の床が崩落し、その下に隠れていた通路に転がり落ちたのである。

 殴られた腹、絞められた首、それと落下時に打った体のあちこちが痛む。啓示軍は撤退中であるし、もう愛機での自力脱出は諦めて救出を待とうかとも考えはじめた。気になる通路を発見したのは、そのときだった。

 鉄製の小さな門に江藤が近づくと、暗がりだった通路の奥が明るくなった。接近を感知する自動照明かと一瞬思ったが、見回してみると、そのようなハイテクな造りではない。奥に人がいるらしい。

 銃を喪失したままだったが、数秒の思案を経て、江藤は鉄の門をくぐった。

 通路は途中で幾重にも分岐していた。下手をすると迷って抜け出られなくなりそうな具合だったが、江藤が決めた道の選択方法は正解だったらしい。二人ぶんの足跡を追って行くと、袋小路に入ることも同じ場所を回ることもなく前進できた。

 奥に進むにつれ、壁や床に穴や引っ掻き傷が増えていく。穴は弾痕のようだ。いくらかは塗りなおして塞いであるようだが、その作業は途中で放棄されたのか、破損箇所に対して修繕箇所はまばらである。

「銃撃戦でもあったのか」

 呟いてから、江藤はそれを自粛すべきことに気づく。いないと思っていた敵兵が、この奥にはふたりいるようなのだ。足跡が片道ぶんしかない以上、それが妥当な推測である。

 やがて江藤は一本道に出た。足跡はまだ奥へと続いている。考えてみれば、これは秘密の脱出通路かもしれない。鉱山基地に何の目的でそんな通路が必要なのかわからないが、もしここが鉱山基地以外の真の顔を持っているならば、そういう抜け道が用意されていても不自然ではないように江藤は思った。

 ここから外に出られるかもしれない。そう思って歩調を速めた江藤は、すぐに小部屋へと行き当たった。通路は左右のどちらかに折れているのか、正面には壁しか見えない。

 小部屋の入り口まで数歩の距離に迫った江藤は、壁に見えたものがガラスだったと気づいた。反射でよく見通せなかったために、壁だと誤認していたのだ。そしてその向こうに歪(いびつ)な影が見える。

 影の正体が気になった江藤は、ほとんど駆け足で小部屋に入った。そして見た。ガラスの向こうにあるものを。ガラスに映った人物の虚像を。 

「長野、おまえこんなところに……」

 すぐ隣で壁に張り付いていた長野をふりかえる。江藤の顔を見上げた長野は、一瞬で表情筋を複雑に運動させ、そして叫んだ。

「待って!」

 何を待てというのか、江藤はそれを聞き返そうとしたが、首筋に不意の衝撃が走るほうが速かった。目が眩み、残る五感もそれに前後して機能を停止する。

 江藤博照は、一日に二度も失神することになった。


*   *   *   *   *


 ヴォルフが狙っていたオブジェクトはふたつ。片方には今一歩のところで逃げられたが、もう片方はサンプルを採集できた。邪魔者の処理も滞りなく済ませ、鉄扉は閉めたうえで開閉機構を破壊してある。

 あとはSMITSや啓示軍(オフェンバーレナ)が残した資料をいくつか拾って帰るだけである。今しがた仲間から入った連絡によれば、悠長にはしていられない。ヴォルフは立ち上がった。

「俺をこのままにしておいていいの?」

 日本人にしては流暢な英語でヴォルフを引き止めたのは、今まで行動を共にしていたナガノだった。腰をかがめたままの彼のそばには、巨漢が意識を失ったまま倒れている。ナガノに発砲を制止され咄嗟(とっさ)に気絶だけさせたヴォルフは、ナガノの要望を容れて、この男をここまでふたりで引きずってきたのだ。

「協力者に対して、手を上げる気にはなれない。――あれのことは忘れたほうがいい。今その知識を持っていることは、君にとって危険だ。その将校にも、夢か幻だと信じさせるんだ」

 ヴォルフは言い置いて立ち去ろうとした。ナガノがいつどこであれの存在を知ったのかは気になるが、いつまでも彼にかかずらっているわけにはいかない。残された時間は少ないのだ。

「お願いだ。俺を連れて行ってくれ」

 意外な言葉に呼び止められ、ヴォルフは駆け出した足を止めた。

「俺が何者か、君は解って言っているのか?」

「わからないよ、何もかも。だから知りたい。だから連れて行って欲しい」

 ヴォルフはふりかえり、ナガノの目を見つめた。

「命に関わるかもしれない、そういう危険だ」

「それでも、俺は知りたいんだ。二ヵ月前、俺はあいつらが動いているところも見た。いや、動いたってだけじゃない。奴らは……」

「静かに。また人が来る」

 人差し指を立て、ヴォルフはナガノの発言を止めた。耳を澄まし、もう片手で通路の一方を指差す。

「先を急ごう。いくつか片付ける仕事もある。手伝ってくれるな?」



- 6 -


 影龍と延々と睨みあいを続けていた峰國は、群山が受信した北嶋からのメッセージを聞き、状況の悪化を知った。

「三〇三師団が機兵の攻撃を受けているって、いったいどういうことだ。赤いのは撤退したよな、群山」

「どうも新手のよう。詳細は不明」

「遊撃隊がいたのか? それが、基地が放棄されたとは知らずに戻って来た……」

「大尉も同じ推測をしてます。どうする、曹長?」

「ううん、迷うなあ」

 峰國は本当にそれしか返事の言葉を思いつかなかった。すでに基地奪還は決まったようなものだが、制圧完了までに流れる血があとどれだけ増えるのか、それが峰國たちの行動にかかっている。

 峰國たちが駆けつければ、変則領域内での機兵による一方的な攻撃は阻止できるだろう。ただしその選択は、目前の影龍を放置することも意味する。影龍はこの場で戦闘を行う意思がないようだが、逃がせば次の戦場で何をするかはわからず、厄介な禍根を残すことになる。

「でも、ここに張り付いていたって、影龍は止められないか」

 客観的に判断するとそうなる。また、軍全体より三〇三師団の都合を考えてみても、選ぶべき道は同じだった。

「麓(ふもと)に下りよう。ゾルダートを阻止する」


*   *   *   *   *


「少佐、江藤少佐、しっかりしてください!」

 自分を呼ぶ声と、体を揺り動かされていることに気づいて、江藤は目を覚ました。今日で三度目の目覚めである。

「ああ? 竜時か。あの化けモンだかロボットだかわからん奴はどうした?」

 薄目のまま、頭の中に浮かんだ疑問をそのまま口にした江藤だったが、すぐに自分は寝ぼけていると自覚した。南田竜時が、いるはずなどないのだ。

「なにをわけわからないこと言っているんですか。生きてるんなら起きて下さい」

 南田でないのなら、この、いっそう強く体を揺さぶり、呼びかけてくる声の主は誰なのだろう。長野ではない。長野なら女子供のような声を出す。

「あ」

 長野、というキーワードで、江藤は気絶寸前の出来事をはっきりと思い出した。奇妙な展示物のある部屋で、長野を発見し、その直後に背後から首筋を打撃されたのだ。さすってみれば、たしかに痛む箇所がまたひとつ増えている。

「あいつめ、何か隠してたな!」

 急に上体を起こした江藤は、顔をしたたかに何かにぶつけた。その痛みでいっきに覚醒が進行し、そして気づいた。目の前で、頭を押さえて呻いている若者が、紛れもなく南田竜時であると。

「竜時、おまえどうして生きているんだ!?」


*   *   *   *   *


 南田は寝ぼけた気味の隊長に、自分が生き残った経緯や、他の多くの仲間が既に合流していることをかいつまんで説明した。江藤は神妙な顔でそれを聞き終えると、あとで詳しく聞かせるよう言い、そばの鉄扉に視線を転じた。

「その扉がどうかしましたか」

「お前が来たときにはこうなっていたのか?」

「たぶん。物音がしたような気がして来てみたら、少佐が倒れていました。俺はそれしか見ていませんから……」

「そうか」

 江藤は何か思案する顔を見せたが、やがて立ち上がり、南田の肩を叩く。

「見つけた格納庫とやらに案内してくれ。急いだほうがいいかもしれん」

「でも、啓示軍(オフェンバーレナ)はもう撤退に移っていますよ」

「敵が啓示軍だけ、とは限らん」

 江藤が言わんとするところを南田は推察しかねたが、急かされるまま格納庫へと進路を取った。謎の人影を見失ったあと偶然見つけた格納庫で、そこに龍が二機置いてあるのも見ている。

 冷たい様相の通路から脱し、もとの当たり前の造作の通路に出る。そこから道のりにして百メートルほど行ったところが、格納庫に通じる扉だった。扉を抜けるとそこは格納庫の外周に沿って設けられた二階部分であり、階段で下へと降りられる。

「あれは少佐の龍ですよね。でも、もう一機あるのはなんでしょう。ここって機兵まで配備されていたんですか」

 南田が格納庫を見渡して尋ねると、江藤は首を横にふった。

「いや、そうじゃないが……。あれは動かせるぞ。確かめてみろ」

 言いながら、江藤は先に階段を下っていく。これから龍に乗り込んで外に出るつもりらしい。南田は自機から抜き取ったパーソナルディスクの感触をポケットの上から確かめ、あとに続いた。


*   *   *   *   *


 江藤は愛機を起動させた。電池も燃料も残り少なく、赤鬼のようなゾルダートに負わされた傷もそのままだが、そもそも江藤は機体が動けなくなって捕まったわけではない。火縄を失い、右肩の機関砲を砕かれたが、本体はまだまだ動く。見れば、雷紫電もご丁寧に運び込まれていた。余裕があれば持ち帰るなり、解体して部品にするなり考えていたのだろう。

「竜時、動くか」

 亜細亜連邦軍の一般共用周波数で呼びかけてみる。元気の良い返事が返ってきた。

「無傷ってわけでもないですけど、火縄がまだ使えます。弾は九発」

「よし、俺がゲートを開ける。火縄を構えておけ」

 格納庫の電源は落ちていて、格納庫のゲートを開ける方法は力づくしかなかった。江藤は雷紫電甲型の刃先をゲートの隙間に挿し込み、ゆっくりとこじ開ける。少し隙間が開いたところで雷紫電を抜いて、代わりに指、次に腕を入れて、龍が抜けられるだけの幅を確保した。

 外に出ると、そこはちょっとした谷間だった。谷底が道になってどこかに通じているが、大きく蛇行しているので、その先は見通せない。逆に言えば、外からはこの格納庫が見えない構造になっていた。

「何かと秘密の多い基地だ。あとで暴いてやらんといかんが、今は戦況が気になる。竜時、戦闘態勢でついて来い」

「了解」

 蛇行した道を二機の龍が疾駆する。

 砲声は聞こえない。相対バルムンク反応にも変化なし。考えすぎだったかと江藤が思いはじめたとき、道は出口へと達し、同時に複数の相対バルムンク反応が現れた。

 そのなかで最大の反応を示している左方に目をやると、江藤は自分の心配が杞憂ではなかったことを知らされた。たった百メートルほど先の斜面を、二機の機兵が滑るように駆け下りていく。

「やはり影龍!」

 江藤は雷紫電を構えてそれを追う。すると影龍のうち一機が江藤に気づいてふりかえり、手にした火縄を発砲した。

 発砲されてからでは回避は間に合わなかった。江藤は直前にタイミングを読んでかわし、左肩に残された機関砲で牽制する。しかし、自動反撃による射撃は見事にかわされた。

「こなくそっ」

 江藤は操縦を右手と両足に任せ、左手で精密照準システムを呼び出した。モニターの脇に照準用に拡大された映像が表示され、江藤は中心に表示されたマーカーを影龍の手元に合わせるべく、拡大映像の焦点を移動させる。

 照準を合わせるや否や、影龍が絶妙のタイミングで再び発砲した。すれすれで回避できたが、相対位置をずらされたために再び照準をやりなおす破目になる。影龍の動きを注視しながらも、照準用の領域に視線を移すと、そこには火縄を撃ってくる影龍ではなく、ひたすら先を急いでいる前方の影龍の手元が映っていた。

「な……」

 江藤は絶句した。影龍の手に、小柄な人間が握られている。思い当たる人物はひとりしかいない。

「長野!」

 叫ぶのと同時に影龍の三度目の発砲があり、江藤はそれをかわすために前進をやめねばならなかった。影龍の足は速く、その一旦停止は追撃の放棄を江藤に強要する。しかしどの道、あれを見てしまった以上江藤に攻撃はできなかった。

「少佐、下を! 四時方向!」

 放心しかけていた江藤を、南田の緊迫した声が引きとめた。

「峰國(フェングォ)たちが危険です!」

 指示された方向に機体を反転させると、鉱山の麓で白兵戦をやっている機兵の姿があった。エントゼルトゾルダートが二機。それと混線を繰り広げる龍が三機。いや、一機はすでに戦列から脱落していた。そしてまた別の龍も、関節がいかれてしまったのか、動きが不自然になっている。龍は追い詰められていた。

「竜時、四脚型に火縄で牽制! もう一機は任せろ!」

 擬似ホバー走行では間に合わない。江藤は斜面上から大きくブースタージャンプを行った。燃料が底をつくという警報が出るが、気には留めない。燃料は補給すればいい。だが、部下は。

 エントゼルトゾルダートがついに龍の背後を取った。接近してバルムンクフィールドを強制的に共有し、直撃弾で仕留める、その光景が江藤の目に浮かぶ。外廓聯で実際に見てきたことでもある。

「――やらせるかよ」

 江藤は敵機を眼下に捉えていた。重力の枷により、地面はぐんぐん近づいている。だが、減速はかけない。EPU(エクスペクトプロセッサ)が即座に算出した落下地点は、龍の数メートル手前。

挿絵 「必殺、釣瓶(つるべ)落とし!」

 江藤カスタムは雷紫電を両手で逆手に持ち、そのままの体勢で地面に……いや、エントゼルトゾルダートの肩の上に落着した。龍の全質量が武器となってエントゼルトゾルダートの関節を砕き、下に向かって突き出されていた雷紫電が、その頭部を貫通して襟元まで達し、放電の火花を散らす。

 エントゼルトゾルダートは膝を折って崩れ落ち、江藤の龍もまた、両手両膝をつきその場で機能を停止した。



- 7 -


 その後、決着はすぐについた。

 南田が四脚型の脚を狙撃して動きを止め、そこへ群山が雷紫電で制御系を破壊、無力化。遊撃部隊と見られる啓示軍(オフェンバーレナ)の別働隊は、黒龍隊の龍の壊滅的ダメージと引き換えに武装解除された。

 緩衝用のエアバッグに圧殺されそうになっていた江藤は、動かなくなった愛機から降り、鉱山を見上げた。まだ制圧部隊は駆けつけて来ず、鉱山はこの数年ずっとそうであったように、静かに佇(たたず)んでいる。

 あの内奥で目にしたものはいったい何だったのか。啓示軍が狙っていたのはあれなのだろうか。そして影龍の思惑は。そもそも、この基地の存在自体にも、多くの疑問点がある。

 ひと段落したら、再びあの中へ戻ろう。そう心に決め、今は部下たちの無事を確かめるのが先だと、破損した龍のひとつに足を向ける。あれは朝井の機体だろうか。

 江藤は今朝まで、部下をすべて失ったと思い込み、敵軍に囚われて精気も萎えかけていた。だが、実状は想定よりずっと望ましく展開していた。まだツキが離れたわけではないらしい。まだ、やり直せる。

 江藤が肩の力を抜いたそのとき。静寂を破って発破音が響いた。

 鉱山のほうからだった。その姿を見渡した江藤は、斜面の一部が陥没するように崩れていく現場を目にする。そして数秒後に気づいた。その場所が、蛇行した道の先、格納庫のさらに奥の、あの鉄扉の真上であることに。

 残響が消え、鉱山は再び静まり返る。

 やがて、近づいてくる装甲車輛のエンジン音がその静謐(せいひつ)を掻き乱すまで、江藤は拳を固く握りしめ、進む道の険しさを罵っていた。



――続く――