黒龍隊の挽歌 第十六話

葬られた試作機



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 一九九九年、冬。

 人々はまだ、悪夢から醒めることを許されずにいた。延々と奏でられ、混沌を深める旋律。人は知るべくもなかったが、当時のそれはまだ序曲でしかなかった。

 聴衆はすべて無作為に選び出され、その段階において人が階級により分け隔てることはなかったが、しかし退場を許されたのは富裕層が先であった。傷病と飢えは等しく人を苛(さいな)むものだが、それらを回避する術(すべ)は平等にはもたらされなかった。その実例は枚挙に暇(いとま)がない。

 発電所や送電施設、ガス管などの損壊により、ユーラシア大陸の各地で著しい電力、ガス不足が生じていた。いや、局地的に見ればそれは不足でなく欠落であった。夜は燭台に火を灯し、スープを作る湯も沸かせない日々が始まったのだ。とうに文明に開化し、それを当たり前として生きることしか知らない人々にとって、それは過酷で、屈辱的な毎日だった。

 高地の冬は、寒い。その年は、殊更だった。

 電気もガスも薪も手に入れられず、暖を取れない者が少なくなかった。都市部さえ混乱の最中にあった当時、差し伸べられる救いの手は、それを待つ者と比して明らかに少なかった。凍死者は万を下らなかった。

 物資争奪はどこでも起きたことだが、特にこれらの地域では悲惨だった。食料を手にしても、ろくな加熱調理もできなければ栄養の吸収率などたかが知れている。凍死への道の脇には餓鬼が群れた。もし昇天する魂が可視の存在であったなら、それは夏に落ちてきた隕石を上回る壮大な規模の花火だったろう。

 そんな中、中央アジアのとある場所に不思議な谷があった。

 一九九九年までに作られた地図のなかで、その場所に巨大な谷があったことを示したものはひとつもない。八月に降り注いだ謎の隕石は数多(あまた)の傷跡を地球の皮膚に残し、幾多の急激な地殻変動がそれに続いたが、谷はその過程で生まれたのだった。

 最大幅百メートルに達する巨大な裂け目、見上げれば空も見えないほどの切り立った崖、なぞるのが煩雑なほどに蛇行し、分かれ、また合わさる。もし中心地に立てば、遥か下方の谷底に目をやるまでもなく、見渡す限りの迷路にめまいを起こすことだろう。

 そしてなにより特異なことに、その谷底には水がなかった。あったのは、燃え盛る巨大な炎の筋。

 炎は毎日、谷底から立ち昇っていた。朝起きるとき、昼働くとき、夜休むとき、近隣に住まう人々はいつもそこに灯火を見た。雨でも、雪でも吹雪でも。プロメテウスが忍び込んだ火の釜は、このような場所であったかもしれない。

 どうして谷が燃えるのか、誰も知りはしなかった。人々にとって、その熱の余波で寒さを凌ぐことができるのなら、何故という言葉は必要がなかった。後に学者が大挙してやって来て、酸化反応がどうの二酸化炭素の濃度がどうのと取り沙汰しても、人々はその谷に命を預けることに何らの疑問も抱かなかった。

 ある日、誰とも知れぬ人が谷をこう呼んだ。神の与え給うた“暖炉の谷”と。

 火は何年たっても衰えることはなかった。亜細亜連邦が樹立して、軍の働きでエネルギー供給が回復しても、谷のそばに暮らす人は消えなかった。暖炉の谷は信仰さえ集めていたのだ。灯教という新興宗教が成立、急成長し、谷の周辺に集住する彼らのコミュニティを維持していた。だから、人型の機械が自分たちの所属する国家を蹂躙(じゅうりん)しても、彼らは聖地を離れようとはしなかった。

 だが、転機が訪れた。

 二〇二三年。平穏は四半世紀をまたぐことなく、神の恩恵の地は戦場となる。



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「どうでした、ニューラの容態」

 深夜の闇をぼうっと見つめながら廊下で待っていた大柄の若者は、イルベチェフが病室を出るとすぐに声をかけてきた。

「なんだ、ユリウス。気になるなら入ればよかっただろう」

 イルベチェフが笑って言うと、ユリウス・タマリアノフ少尉は苦笑を返しながら首を横に振った。

「あのニューラが、弱ったところを見られたがるとは思えないんで。それで遠慮を」

「案外、気が利くな。ユリウスも」

「でもですね、留守番のジーナからはニューラの容態を見て来いって言われているんですよ、これが。それなら留守番代わってやるって提案したら、勝手に交替は出来ないって、いつもの調子で。で、どうでした容態のほうは」

「麻酔が効いているからな。まだ眠っているよ。ただ、医師の話じゃ、一ヵ月は退院できないそうだ」

「一ヵ月…… あのとき直撃を食らっていたらと思うと、運が良かったんですかね」

「そう、だな」

 もしあのとき龍王(ロンワン)が助けに入らなかったら、ニューラは即死だった。それが五体満足で生還できたのだから、運がいいといえるだろう。だが、イルベチェフには頭から追い払えない疑念がある。あの場所で、たまたま近くでテストをしていた龍王が駆けつける、というのは都合が良すぎた。むしろ自分たちは運が悪かったのではないかとさえ、イルベチェフは考えてしまうのだ。

 ある理由で暖炉の谷に目をつけた啓示軍(オフェンバーレナ)と、その阻止のために龍王を送り込んだ元老院。自分たちはただ、そこに居合わせてしまっただけ。真実はそういうことなのではないか。イルベチェフはしかし、それを肯定したくない。彼らの戦いをただ傍観したのならまだいいが、イルベチェフたちは四機の龍(ロン)をすべて戦闘不能にまで破壊されたのだ。ニューラもこうして、苦しい思いをしている。

「ところで、今後はどういう動きになるんですかね?」

 タマリアノフに訊ねられ、イルベチェフは渋面をさらにしかめる。

「それなんだが、俺たちはタシケント奪還からは外れることになった」

「そうですか。龍の回収も目処(めど)が立たない状態じゃ、しかたないですね」

「いや、そういう事情じゃない。龍については、特別な取り計らいというやつで新規製造四機が確保できているそうだ」

 イルベチェフの説明に、タマリアノフは首を傾(かし)げる。

「新設部隊を一個、訓練延長にしたってことですか?」

ダスマ中将はそこまで説明してくれなかったが、おそらくそういうことだろう」

「そこまでするということは、また厄介なお仕事ですか」

 タマリアノフが勘付いてくれたので、イルベチェフは話を切り出す手間が省けた。イルベチェフが金星也(キム・ソンヤ)と会ったことや、北熊(セヴェルメドヴェーチ)の真の思惑については何も知らないタマリアノフだが、タシケント到着以来の行動で何か嗅ぎ取っているのだろう。

 イルベチェフは少し間をおいてから、ある地名を口にする。

「暖炉の谷だ」

「へ?」

 予想通り、意図がわからないと言いたげな反応が返ってきた。病室前の廊下で立ち話もなんだな、と、イルベチェフは部下を促して人気のないところへ移動する。階段脇、照明の切れかかった侘(わび)しい場所にベンチがあった。

「暖炉の谷が啓示軍に制圧されたようだ。逃げてきた灯教の宗徒や、付近で交戦になった友軍からの報告で、ほぼ間違いない情報だ。これをやったのは、タシケントを襲った啓示軍の二個機兵戦隊(エスカドローン)の一方。情報部の推測では、これは第十二機兵戦隊、通称E12(エーツヴェルフ)ということになる。俺たちが戦ったあの赤いエントゼルトゾルダートの特徴も、最近E12のエースクラスが使っている機体のそれとよく符合するそうだ。そしてこのE12によって、タシケントと暖炉の谷を結ぶ一帯は、もはやこちらの支配領域とは言えなくなった」

 説明しながら、点滅の止まない電灯を見上げ、シムケントに回ってくる予算の程度を推して知るイルベチェフ。

「敵が自ら戦力を分散したのなら、叩くチャンスですね。それで熟練のうちの隊に白羽の矢が、ということですか」

「まあ、そういうことになるか」

 視線を落とし、曖昧にイルベチェフは答えた。

 たしかに初めて機兵で実戦に出る連中には任せられない。だがイルベチェフの隊が選ばれたのは、戦技以上に、北熊の中枢とのつながりの深さが重視された選考だろう。それを知っているのに、いや、知っているからこそ、イルベチェフは部下に事実を打ち明けられない。

「タシケントから手を引け、ということは、うちが叩くのは暖炉の谷のE12のほうですか……」

 二機の赤いゾルダートの脅威を思い出したのか、タマリアノフの語気が弱まる。

「どこから湧いて出たのか、敵は増援を得てだいぶ膨れ上がっている。そもそも、暖炉の谷を実際に制圧したのも機兵ではなく歩兵部隊だろうし、現地の敵戦力は今のところ不明だ。だが、これは俺たちが出るまでにはあるていど見当がついているだろう。なに、心配はいらない。前線から猛将と名高いマヒロフスキー大佐が戻って来ているという話もあるし、今回の暖炉の谷包囲作戦には他にも友軍が多く参加する。そして、市民の残っていたタシケントと違って、暖炉の谷ならこちらも戦術に幅がもてる」

「核でも撃ちこむんですか?」

「おいおい、ユリウス。あんな変則領域に核を放り込む勇気は、さすがの戦略軍にもないだろうさ。核でなくとも、ロケットや榴弾砲で好きなだけ砲撃できるというだけで圧倒的にこちらが有利だ」

 タマリアノフはそれでひとつ納得のいったような仕草をしたが、まだその顔には疑問が浮かんでいた。

「そう言われるとますます、俺は奴らの狙いがわからないですね。なんでそんなに不利になる場所に、戦力を分散させ、補給線も目一杯に引き伸ばしてちょっかい出したんだか。まさか、暖炉の谷を支配下においてその見物料をせしめよう、ってわけもないですしね」

 そう、そこが不自然極まりない、とイルベチェフは頷く。だが、啓示軍はあの場所に類稀な価値を見出した。おそらくはオルロフの使用場所としての価値を。龍王でそれを阻もうとした元老院も、予(かね)てよりその価値には気づいていたのだろう。あれほど人目を引く変則領域でさえなければ、きっと甘粛(カンスー)のクレーター群のように元老院直轄地として指定していたに違いない。

「出るのはいつです」

「明朝〇六〇〇(マルロクマルマル)前後」

「そりゃ性急な話だ。龍の慣らしもやっていないのに?」

 興奮したタマリアノフの声が大きくなる。落ち着け、とイルベチェフは自分より高い位置の分厚い肩を叩く。

「行きながらやるさ。時間的にはきついかもしれないが、なに、ハードもソフトも最新バージョンだ。そこに期待しよう」

「隊長は滅茶苦茶言いますね。まあ俺やジーナはいいですが、彼は大丈夫なんですか」

 心配よりも不信の念を顕にしたタマリアノフの質問に、イルベチェフは小さく溜め息をついた。

「ユリウス・イヴァニヴィチ、まだ不満なのか。中将はすでに四機の龍を用意したんだ。使わない手はないだろう。それに、彼の腕については俺が保証する」

「ですがね、大尉。助けられた恩返しに協力するなんて殊勝なことを言ってますけど、彼は日本人なんですよ。そりゃ、ニューラが抜けたぶんの人手が足りないのは確かですけど、北熊と利害を共有しない人間を編入するなんて」

 言い募る相手に、イルベチェフは胸を張ってこう言った。

「俺のじいさんだって立派な日本人だぞ」

「はぐらかさんで下さいよ。別に人種でどうのこうのと言いたいわけじゃ……」

「今回の任務は、別に北熊の独断ってわけじゃない。戦略軍と足並みをそろえた、憚(はばか)ることのない作戦行動なんだ。日本語は俺がわかるし、彼の軍用英語に不備もない。それでも、問題あるのか?」

「いや、問題とは言いませんけどね」

 タマリアノフは不承不承ながら引き下がった。この男が納得してないのは表情からすぐわかることだ。それで、イルベチェフは少々罪悪感を覚える。

 タマリアノフに語ったのは、ダスマ中将から聞いてきたことのすべてではない。そして、今度の任務が北熊の独断行動ではない、というのも嘘である。マトゥモトフからの伝言として命じられた真の任務は、暖炉の谷周辺で密かに黒龍隊と接触せよというものだった。中央議会にも元老院にも逆らうこの任務が、北熊独自の行動でないわけがない。

 最新の情報によれば、黒龍隊は今、タシケントの北あたりにいるらしい。そのまえはタシケント南部で目撃されているというから、辛くも西フェルガナ基地での難を逃れ、さまよった挙句(あげく)、このシムケントに向かっていたのだろうか。意図はどうあれ、彼らは行く手を啓示軍に押さえられている。それで双方とも東に移動して、暖炉の谷で接触ということになったのだ。

 明日に備えて早く寝ろと言い聞かせ、タマリアノフを先に帰したイルベチェフは、四人目のパイロットに会いに行くべく駐車場に足を向けた。その道すがら、昨日からの疑問に答えを導き出すべく格闘してみる。

 駐車場まで徒歩三分。結局、ふたつの疑問が解決されずに残った。オルロフと黒龍隊、関連の感じられないふたつの存在の接点が西フェルガナ基地であり、次なる交点が暖炉の谷であることの、その意味。そしてダスマが固く秘して明かさなかった、この情報の出所。

「ソファーだけじゃ割に合わない。あの部屋のカーペットもセットしてもらうべきかな、これは」

 北熊の智将ミヤス・マトゥモトフが企んでいる何か。それが何であれ、北熊の一員でありマトゥモトフの友人でもあるイルベチェフは、彼から任された役割を実行するだけだ。そう思っていればいいだけのことで、別段その裏に関してイルベチェフが考察すべきことはなかった。――茨木彪に会うまでは、こうしてそれに疑問を感じることなどなかった。

「ま、行けばわかるさ」

 車に乗り込んだイルベチェフは、エンジン始動音に紛れさせるようにしてそう呟(つぶや)いた。



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 灯教の一団を歩兵部隊の本隊に預けた黒龍隊は、悪い知らせを受けてそこで一晩を明かすことになった。暖炉の谷ばかりでなく、そことタシケントとを結ぶ一帯が啓示軍(オフェンバーレナ)に押さえられてしまったというのである。

 暖炉の谷が戦場になっていると知った時点で、江藤北嶋の言を容(い)れて、早くシムケントまで北上してしまうつもりでいた。そこでいったん腰を落ち着けてから、藤居と第三小隊を探そう、と。だが、それが難しくなった。

 GT72鉱山基地での戦闘で、黒龍隊は龍の修理資材をほとんど使い果たした。壊れていない部分を融通しあって、なんとか三機を使えるようにしたが、このうち一機は修理部品の不足で標準性能を発揮できない。これらに、江藤の専用機と基地から失敬してきた機体を入れて、龍は五機。幸いにもパイロットが全員健在であるがゆえに、機体のほうがひとつ足りない状態である。

 戦闘がなければ、龍の連続稼働時間はパイロットの体力を最大のファクターとして決まる。普通なら、パイロットの余剰を利して交替で龍を使い、連続稼働を延長する手があるのだが、龍自体の疲労も溜まっているため、それをやると龍が先にダウンする。つまり、現状でこの予備人員はあまり意味がない。

 武器弾薬もそろそろ心許(こころもと)なく、そんな状態で啓示軍のうろついている一帯を抜けるのは危険が大きすぎた。江藤は北嶋と話し合ったうえで、歩兵部隊からの助言をもとに、暖炉の谷の南を迂回して東に抜けるルートを選んだ。

「結局、少なくとも途中まではあの足跡を辿(たど)ることになったな」

 出発際、北嶋はそう言って部下四人との再会の可能性を示唆した。暖炉の谷に近づき過ぎれば接敵の危険もあるが、周辺に友軍が集結しているという動きが本当なら、あえて谷に接近することで手がかりがつかめるかもしれない。北嶋はそういう提案をしてくれたのだ。

「よし、出発」

 江藤はジソコン二号車の車内中央で号令をかけた。車列が動き出し、警戒のために自走する二機の龍が歩きはじめる。今搭乗しているのは、李峰國(リー・フェングォ)朝井秀和である。

 ジソコン……一八式情報化装甲車のシートは、狭苦しかった。普段はいつでも愛機に乗り込めるよう、二二式機兵搬送車の甲型か乙型、通称で言えば大八車ヤドカリに乗っているのだが、今回は指揮官らしくジソコンに乗り込んだのだ。

 江藤はなにやら居心地が悪かった。座席が窮屈なのも、脇の座席に女子隊員が三人乗っているのもそうだが、なにより指揮官席に自分が鎮座していることに違和感があった。黒龍隊の隊長は紛れもなく自分であり、そしてジソコンは指揮官が搭乗するにふさわしい車輛であるとも理解しているが、半時経っても江藤は座席の座り心地に慣れることができなかった。

 機兵を操縦することに慣れてしまったからか。江藤は不満の原因を自分が動かずにいることに見出そうとしたが、仮説の補強材料を記憶のなかに求めていると、網にかかったのは反証のほうだった。赤龍隊から左遷された後であり、そして黒龍隊の隊長として見出される前であった時期、江藤は近衛軍のデスクワークをやっていたのだった。仕事と向き合っていたのだから暇ではなかったが、あれは機兵に乗って戦場に出ているときの感覚とは全く違った。そして今感じている不快感も、あのときに覚えたものとは別種である。第六感のもたらすものでもない。

 ああ、あんたのせいか。

 江藤は原因を探るうちに、先日夢にまで出てきたある男の顔に行き当たった。狐目の、神経質な将校。それは江藤が任官後に最初に当たった上官だった。

 殊更に和を乱したかったのではない。江藤はふりかえってそう思う。だが、上官の命令や指示はしばしば江藤にとって納得のいかないものであり、そして納得のいかないものに従うのは江藤の行動規範に反した。その結果が数々の事件、事故、不祥事、喧嘩であり、訓告、始末書、減俸、左遷であった。

 思えば、永きにわたる遍歴はあの人物の下に配属されたときから始まったのだろう。しかし、その男に憎悪という感情を抱いているかと自問すれば、当時はどうあれ、今あの頃を思い返してもそのような激しい気持ちにはならない。それでも、彼の方法論が今でも気に入らないのは変わらず確かである。

 その、江藤には肯定しがたい指揮官のスタイルが、こうしてジソコンの指揮官席にただ座している自分の姿と重なって見えている。指揮用の車輛に乗り込んで悪いということはないのだが、その些細な符合は、江藤の胸中に当時の心情を反芻(はんすう)させる。それで面白くないのだろうと、江藤は自分のことをそう分析してみた。物事に対する感情の反応は時とともに変化しうるが、それですでに体験した思いが書き換えられるわけではないのだ。

 だが、それではいくつか説明がいかない点がある。それはなんだろうかと江藤が考えはじめたとき、江藤は脇から姓と階級でもって呼ばれた。

 思索を中断してふりかえると、索敵担当が前方に何か見つけたと言ってきた。それに前後して、車列の前を歩いていた峰國から映像が転送されてくる。一台のジープ。暖炉の谷周辺は地勢が複雑だからと、歩兵部隊が厚意で手配してくれた道案内だ。

「ほう、予定会合地点、きっちりだな。――合流ついでに休憩するか。全隊に伝達」

 と威勢よく言い放ったが、通信担当が女子隊員だったことを思い出した瞬間、江藤は「……を頼むな」と付け加えてしまった。

「了解。全隊に休憩を伝えます」

 明らかに不自然な口調を晒(さら)してしまった江藤とは対照的に、通信を担当している隊員はただ機械的に復唱した。

 誰かが笑っているのではないかと疑心暗鬼に囚われながらも、江藤は自問自答を再開する。居心地の悪さを与えているのはかつての上官の思い出。では猿之門で隊長用の執務室にいても平穏に過ごせたのは何故だろうか。あのときの椅子の感触、目に入る部屋の様子などを思い出してみて、江藤はこれにもまた解答を得る。ゴン太がいたからだ。

「隊長、ゴン太です」

「ああ、そうだな」

 ヘッドセットから聞こえた峰國の声にそう応じてしまったのは、まさにゴン太のことを想い返していたからだった。しかし、すぐにおかしいことに気がついて江藤は峰國に問いかける。

「なんだ、ゴン太がどうしたって?」

「乗っているんですよ、あのジープに。そしてあれは……」

 峰國の声はそこでいったんフェードアウトし、数秒の間を置いてから、はっきりとひとりの名を呼んだ。

周富窪(チョウ・フーワー)


*   *   *   *   *


 地元部隊のジープと合流しただけなのに、やけに騒がしい。仮眠から醒めた南田はその疑問を隣の座席の隊員に尋ねて、答えを聞いて飛び起きた。ヤドカリのドアを勢いよく開け放つと、飛び降りてジープのほうへと駆ける。

 問題の人物はすぐに見つけることが出来た。背が低く、体格は丸っこく、近づくと丸渕眼鏡をかけている点まで確認できる。あの得体の知れない男が、まさに妖怪の如く突如として現れたのだ。

 周富窪は北嶋たち数人と話をしていたようだったが、南田はそれには構わず、掴(つか)みかかるような勢いで富窪に詰め寄った。制止のためか誰かが肩に手をかけてきたが、無視して南田は訊ねた。

坂元たちは、あれからどうなった!?」

 至近距離、急角度で見下ろされた富窪は一歩あとずさる。南田は質問を重ねる。

「タシケントには辿り着いたのか? おまえは今までどこにいた? どうやって俺たちの居場所がわかった?」

 しまいには相手の肩を鷲掴みにして、南田は大きな声を出す。さらに問いかけを続けようとした南田の喉は、しかし、背後から太い腕に締め上げられた。

「落ち着け、竜時」

 いつもより遠慮の少ない腕力は、喉を圧迫して南田から言葉を奪う。呼吸ができない。やがて腕の力が緩められると、南田は地に膝をついて咳き込んだ。

「どれもこれも、今から順を追って説明させるところだ。少しおとなしくしていろ」

 背中に野太い声を聞き、喉元に手を添えながら振り仰いだ南田は、そこに江藤の姿を認める。いや、江藤と、その片腕に抱かれた灰色の毛並みを。

「ゴン……太?」

 江藤の頬を舐めているその獣は、南田を一瞥(いちべつ)して短く鳴いた。



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 視界一面を縦横無尽に走る野火。それは破壊の炎ではなく、新生の灯。人類の飛躍を妨げる旧制と因習は焼き払われ、その灰のなかから新たな息吹が、この地球を支えうる人の世が形作られる。そのための戦。

 暖炉の谷を一望して、ケーシャ・スラントは深呼吸をした。

 そう、今の世界は、一度焼かねばならない。ケーシャは決意を新たにする。

 この世界はいまだに多くの不条理と不平等を内包している。たとえば人種差別。植民地支配の頃から、黒人が白人同様に扱われるようになるまで、どれだけの歳月を要したことか。いや、決して今でも消え去ったわけではない。ケーシャが黒豹の異名をもつに至った経緯が、雄弁にそれを証明している。ましてや、この不公平な世界がじゅうぶんに是正されるには、その何倍の時間が必要なのか。

 座視していれば、人類の命運が尽きるまで待ちぼうけを食うことになるだろう。だから、啓示軍(オフェンバーレナ)のなそうとしているこの世界改革は、それこそ神から託された一大事業といっていい。そう考えたからこそ、ケーシャは自分の属した軍隊が啓示軍に敗北し、国籍を置いていた国がその支配下に入った直後、啓示軍への帰順を真っ先に申し出た。後悔などはない。あるのは充足感だけだ。

 今、事態は良い方向に進んでいる。基幹部隊が用意していた新兵器は、ケーシャたちの導きで二度にわたり敵を消し去り、新たな世の到来を示す光となった。亜細亜連邦の市民が、ケーシャのように啓示軍の志を理解する日も近まっただろう。

 それらの任務に続く、この地の確保。先陣を務めたのはケーシャたちではなかったが、今この地を守っているのは彼女が率いる第六機兵戦隊(エスカドローン)、E6(エーゼクス)である。ここでのこれからの作戦が啓示軍の理想達成を大いに早めるのだと、基幹部隊は言っていた。これまでにも増して重責を担う立場となったわけだが、ケーシャの心中には一切の気後れもない。信用されたことの喜びと、それに応えようという意気込みのふたつだけが、ケーシャの心を満たしている。

 機兵パイロット用のスーツに身を包んでいたケーシャは、衝撃吸収用の厚手のジャケットの前をはだけた。雪解けには遠いというのに、ここは嘘のように暖かい。谷の炎で一帯の空気は温められており、さらにこの距離ならば輻射熱も相当なもので、体感温度は摂氏にして二十度を軽く超えていた。

 その名のとおり谷を暖炉のようにして、このあたりに住まう者たちがいた。長い者は、あの一九九九年からずっとここにいたという。教団という形で自治組織を作ってしまうのだから、彼らを惹きつけたのはただの熱源としての暖炉の谷ではあるまい。

 左手に視線を流していき、ケーシャは彼らの居住地を見下ろした。彼ら灯教徒の一部は戦乱を恐れてここを逃げ出してしまったが、まだ多くの者が残っている。詳細な数は把握していないが、ここに集結している啓示軍の兵数より多いかもしれない。残ることを選択した者たちは、今までどおりの生活を続けており、啓示軍との間に大きな諍(いさか)いもない。暖炉の谷を重要視するという意味では、両者の姿勢には差異がなかった。

 いや、それだけには留まらない。彼らの信仰と、啓示軍に対して自分が抱いている感情とが似ていることに、ケーシャは気づいていた。本質的に等価なのだろう。そして、それはこれからの人類が同様に変革すべき姿であるに違いない。だからこそ、根の異なるふたつの集団に、同じ形の思想が芽生えた。

 再び暖炉の谷の中心に目を向けて、それから軽く空を仰ぐ。そこに小さく光るものがあるのを、ケーシャの視力は見逃さなかった。

「おいでになった」

 接近してくる機影。亜連の攻撃をかいくぐりここまで到達しうる飛翔物は啓示軍にも数少ない。ケーシャはそれが何なのか確信して、踵(きびす)を返す。

 濃い褐色に染められた愛機、シュヴァルツパンターのコクピットに戻ると、ケーシャは谷の火炎発生領域を迂回して、降下地点へと急いだ。


*   *   *   *   *


「ひと月に及ぶ任務、ご苦労」

 その労(ねぎら)いの言葉を、ケーシャは敬礼の姿勢で聞いた。

「いえ。世界を導くためでしたら、我が隊の誰一人として命は惜しみません。まして労などは」

 阿諛(あゆ)ではなく、本心からケーシャはそう言った。眼前に立つは、啓示軍(オフェンバーレナ)の作戦指揮を一手に担う男、アルベルト・ヴェーバー。ハンス・ライルスキーの片腕にして、“時報(ツァイトアンザーゲ)”という異名をもつ才子。

「頼もしいが、しかし連戦で消耗しているのは事実だろう」

 低すぎず、高すぎず、落ち着いた声音。耳に心地の良いそれは、しかし柔和ではない。覇気が知性に包まれてそのような形を取っただけのこと。そして、言葉を紡ぐ男の容貌もまた、高貴な線の底に力強さを秘めている。

「正確に状況を把握したい。上から見ると制圧は滞りないようだが、付近の亜連の動きはどうだ。――E12も主力が席を外しているようだな」

 ヴェーバーがある程度の予想を示して訊ねる。それは、辺りに赤い機体色のゾルダートタイプが見当たらないことから導かれた推論だろう。E12の三人のエース。彼らはE12の代名詞であり、それは破壊者の同義語でもある。

「E12はタシケントからの最終輸送を護衛しております。思いのほか敵の集結が早く、二日前にはE12が西の外れで龍王と交戦にもなりましたので、万全を期すべく護送を。幸い、亜連は集結と退路封鎖には熱心ですが、ここへの攻撃にはまだ及び腰のようです」

「そうか。――数度に分け、ベルリンから補給を届けはしたが、あれで足りたということはないだろうな。今回はE6にも補充用に新型を運んできた。役立てるがいい」

「ありがたく頂戴致します。また、タシケントに引き続きノイエトーターを派遣して頂けたこと、感謝いたします」

 言って、ケーシャはヴェーバーの背後にちらりと視線を移す。神像のように屹立(きつりつ)する白銀の人型は、ゾルダート系の機体ではない。ノイエトーター。啓示軍最強にして、敵にとっては恐怖の、そしてケーシャにとっては正義の象徴。

 今、ノイエトーターは右手に槍をもち、左手には見慣れぬ球体を抱えている。球体は、つい先日タシケントで見たときには持っていなかった物だ。これからの戦いに用いる、新たな武器だろうか。ケーシャは軍神の加護を得たような気持ちになる。

 しかし、アルベルト・ヴェーバーはゆっくりと首を横に振った。

「いや、X2は動けない」

「機体トラブル、でありますか」

「そうではない。その理由は、ここを制圧した理由とともにある」

 意味深な発言だったが、ケーシャは自分如きがそれ以上立ち入った質問をするべきではないと感じた。ケーシャなどが聞いて確かめるまでもなく、この人物が語るところには、常に非常に大事な意味があるのだから。

「はっ。では、我々の力でヴェーバー様とノイエトーターをお守りいたします」

「任せるぞ。――スラント中尉。E6とE12で、どれほど持ちこたえられるか。戦士としての中尉の感覚に問いたい」

 ケーシャは少し考えてからそれに答える。

「集結した敵の攻撃が始まれば、六時間が限度であります。彼我(ひが)戦力差と弾薬の制限で、それ以上は敵の砲撃を阻止できなくなりますので」

「では、もし防衛ラインの内側に敵の攻撃が一切届かないとすれば、どうだ?」

「それならば、三日は。しかし……」

 ヴェーバーの言うような状況が想像できず、ケーシャは反問しようとする。だが、それも思いとどまった。例外などない。この言葉にもまた、意味がある。

 ケーシャの逡巡を読んだように、ヴェーバーは口を開いた。

「日没まで、おまえたちの力だけで持ちこたえよ。それより後は、もしも、の条件下で戦えるだろう」



- 5 -


 中央アジアでのガイドとして黒龍隊について来た男が、今度は暖炉の谷を迂回して東に抜けるための案内人として現れた。西フェルガナ基地から江藤の指示で離脱し、運良く難を逃れたその男は、手を尽くした捜索の末にやっと黒龍隊に合流できたのだと苦労話をした。

 周富窪の弁を思い出し、南田は龍のコクピットで人知れず吹く。

 前々から妙だとは感じていたが、周富窪が何者かの指示で動いている工作員であることは江藤からもう聞いている。だが、それは黒龍隊全員が知るところではないために、周富窪はあくまでガイドとしての立場でこの一ヵ月ほどの経緯を説明してみせたのだ。無論、事実の歪曲や真っ赤な嘘を多く含んでいたはずである。

 江藤はいずれ周富窪の正体を全員に明かすつもりのようだが、それがこの戦場にいる間に行われることはないだろう。だから、四十人以上の大人が真実を知らずに彼について行くことになるのだ。ただのガイドに過ぎなかったのに、黒龍隊を案じてわざわざ探し回ってくれた親切な彼に。それが偽りの姿であると気づかずに……。第三者が見れば滑稽な話であるに違いないと南田は想像する。吹いたのはそのためだった。

 休憩前は峰國が担っていた車列の前衛を、今は南田がやっていた。後衛は群山。江藤は珍しくジソコンにこもっている。怪訝(けげん)に思って本人に訊ねたところ、江藤専用機のMMアクチュエータの疲労が著しく、できるだけ稼動を控えたいのだと説明を受けた。北嶋には似合っていたジソコンの指揮官席が、江藤とはミスマッチだと南田は思った。

 時折センサーの表示を切り替えながら、周囲の変化に気を配る。単調な作業だ。さすがにこの地域の風景も見飽きてどうしようかと思っていたが、いざ暖炉の谷に近づくと、八月の悪夢が生んだ数々の岩のオブジェが、存外に南田の目を楽しませた。

 やがて、地面はうっすらとではあるが草に覆われはじめた。暖炉の谷がこのあたりを暖かく保っているおかげだろう。雪を頂く峰はまばらになり、雪解けが気まぐれで川を成すのか、細く水の流れた跡も珍しくない。

 生命の活気を感じさせる情景。暖炉の谷が信仰さえ集めるのも無理からぬことだと南田は実感した。

「まずいな、これじゃ足跡は追えない」

 南田の感動に水を差したのは、同じく龍ですばらしい眺めを得ているはずの群山だった。

 出発してしばらくは辿れた龍の足跡。それを見失ったのは、南田が前衛を代わって半時も経たない頃だった。峰國の見立てでは、足跡を残した龍は四機。坂元、鷹山、久留の三人だとすると一機が余分。そうすると近頃投入された部隊なのだろうと考えるのが自然で、さらに周富窪の口から第三小隊の行方は知れなかったと聞かされてもいたので、南田はもう足跡の先に再会を期待できなくなっていた。

「しかたがないだろ。今はこの美しさを……」

 味わえよ、と言いさして、南田は正面モニターを彩る行く手の映像をズームアップした。そしてそこに、自然との調和を欠いた異物を発見する。

「曹長?」

 呼びかける群山を放置し、南田は一キロ先のそれを凝視する。電子ズームを最大まで利かせると、異物の正体が明瞭に見て取れた。

 敵の姿だった。より正確には、敵であったものの姿。おおまかには人の形をしているが、日の光のもとで決して見間違えることはない、それは機兵だった。


*   *   *   *   *


 股関節を何かに貫通され、首を失い、砕かれた両腕を岩の上に投げ出したエントゼルトゾルダートの残骸は、北嶋にはさながら磔(はりつけ)の死体として映った。首の下のコクピットも潰(つぶ)されていたが、そこにはパイロットもその血肉の一部も残っておらず、ここで何が起きたのかは当て推量でしか説明できない。

 前衛の南田が敵機の残骸を発見したとき、いちばん慌てていたのは周富窪だった。周囲に危険がないことが知れると、彼は北嶋たちと一緒に車を降りて出てきたのだが、専門家でない周富窪に何ができるでもない。それなのにやけに熱心に残骸の傷を眺めていた周富窪は、気づくとそこから離れ、今は地面を睨(にら)みながら歩き回っている。

「江藤、彼はどうしたんだと思う」

 そばに寄って、北嶋はゾルダートのコクピットを検分していた江藤に尋ねる。

「何か、あいつの思惑と違うことが起こったようだな」

「安全なはずのルートに敵機の残骸……。健在の敵機に遭遇するよりは遥かにましだが、敵が見当たらないのよりはずっと具合が悪い。だが、それだけじゃないなんてことはないだろうな」

「何を心配している」

「俺たちを、わざと敵に遭遇しそうな場所に導いたなんてことは……」

「北嶋。らしくないぞ」

 遮って、江藤が常よりさらに太い声を出した。

「俺も全幅の信頼を置いて安心しているわけじゃない。だが、この先に補給の受けられるポイントがあると奴が言うなら、今はそれを頼りにするしかない。それにおまえの邪推にはろくな根拠がない。そういうのは疑心暗鬼につながるだけだ。……まったく。説教なんてのはおまえが俺に垂れるもんじゃなかったのか」

「そうだな、悪かった」

 邪念を振り払うように首を動かし、北嶋は再び周富窪の姿を探した。ゾルダートが残した足跡のそばで、峰國を捕まえてなにやら質問している。困った様子でそれに答えている峰國に、警戒の気配はない。ただ単に、専門知識の伝達に苦労しているだけなのだろう。

「――考えすぎか」



- 6 -


 暗い部屋、廊下から差し込む照明の光でなんとか物の輪郭だけがわかるそこで、長野翔太は味気ないスティック状の乾燥食品をかじっていた。距離感だけが存在する天井を見上げ、たまに床を蹴ってキャスターつきの椅子を動かしていたが、その他愛もない遊びにはやはりすぐに飽きた。

「食事って、いつもこればっかり?」

 長野は部屋に近づいてきた足音に声をかけた。

「いや、ジャーキーと野菜ジュースくらいは添えるのが普通だ」

 返事とともに、部屋が明るくなった。光源をふりかえると、猫が通れるくらいの隙間しか開けていなかったドアが、人の手によって開かれていた。

「結局、その程度なのね」

 長野は嘆息して、水筒で口の中を湿らせる。

「ほかほかのポテトと、膏(あぶら)ののった腸詰を期待していたか?」

 入り口のところで壁に背を預けた男は、そこで間を置き、「もちろんビールなんてないからな」と笑う。黄金(こがね)色の前髪が小さく揺れた。

 この青年と行動をともにして四日。連れて行ってくれと無理に頼んだのは長野のほうだが、それを了承した彼も相当無茶だったのだと、長野はすでに知っている。

 共に亜連の鉱山基地を脱出したとき、彼には仲間が一人いた。機兵を操縦していたその人物の顔は見ていない。啓示軍(オフェンバーレナ)も亜連軍も見当たらなくなったあと、長野は目隠しをされてある場所に連れて行かれた。そこには彼の仲間たちが多く集っていたようだった。そのうちの数人とどこかの部屋に入り、目隠しのまま質疑応答があり、いつのまにか眠り、起きると長野は岩石砂漠にいて、周りにはもう彼ひとりしかいなかった。

 まるで隠里。

 長野に直接語られる言葉以外はすべてドイツ語やロシア語などであったため、彼がどのように長野のことを仲間に説明し、彼らが何を話し合い、そして決定したのか、それらの答えを長野は知らない。ただ揉めていたのは確かで、今も長野の前にいるのが彼ひとりであることが、彼の独断があまり歓迎されなかったことを示している。

 あれから三日。この場所にこもって二日。退屈になって一日。

「何を待っているの、ヴォルフは」

 長野は青年に質問をした。あまりにも多い疑問。それに答えてくれるのは、この青年、ヴォルフだけ。必ず答えが返ってくるとは限らなかったが、問うこと自体を禁止されはしなかった。

「変化があるのを」

 短く答えたヴォルフに、長野はその答えは聞き飽きたとぼやいた。

「何の変化?」

 ヴォルフは逡巡する様子を見せてから、ドイツ語で何かを呟いて、手近の椅子を引き寄せてそれに座った。長野と向き合う。

「あの鉱山に保管されていたのは、モンスターの死骸だけじゃない。それは知っていたか?」

SMITS(スミッツ)の連中の様子から、何かあるなって見当はつけてたよ。啓示軍が盗ってったのはそっちのほうでしょ。それに、あのとき脱出前に集めたデータも、化け物のものじゃなさそうだった」

「いいセンスをしているな、長野。なら話は早い。啓示軍が持ち去ったほうのシークレットアイテム……SMITSの資料じゃオルロフと書いてあるが、もうすぐそのオルロフが暖炉の谷に運ばれてくる。おそらく、奴らはそのためにあの鉱山基地を襲い、同時に暖炉の谷制圧の足がかりとしてタシケントを攻めた」

「そのためだけに、タシケントを?」

 どういう秤(はかり)にかければタシケントより暖炉の谷が重くなるのか、長野は理解できない。

「このままバロッグが晴れないとしても、いずれタシケントは亜連が奪還するさ。啓示軍にとっては完全な飛び地だからね。だからタシケントは、単に使い捨ての中継基地でしかないだろう。いや、亜連の目をそちらに引きつけ、暖炉の谷での目的達成を容易にする役目もあったか……。とにかく、俺たちは後手に回ってしまった。これを挽回するには、ここで機を窺(うかが)っているのが最善の策。そういうことなのさ」

「よくわからないんだけど、暖炉の谷で啓示軍が何かをすれば、それが途轍(とてつ)もなく奴らに有利に働くってこと? それで、その何かをやるのにオルロフが必要だった?」

「君は事態の要点を飲み込むのが早いな。そう、まとめてしまえばそれだけのことだ」

「ヴォルフが待っている変化っていうのは、そのオルロフが暖炉の谷に運ばれてくること? でもここじゃ、谷に飛んでくるフリューゲイルなんてチェックできないよ。どうやって変化を知るの?」

 長野は首をかしげた。ここは空や宇宙を観測する施設ではない。防犯用の監視装置があるだけで、それに対空レーダーなどはセットされていない。

「内緒だ」

 おどけて、ヴォルフはそれ以上の質問には返答を行わない意思を示す。

「さて、今度はこちらが答えてもらう番だ。ともかく変化が来れば俺はそれがわかるし、そうすれば俺は動く。そのときが来たら君はどうする。地下に隠してあるあれで、ついて来る気かな」

 水筒を口に運びかけていた長野は、動きを止め、静かにそれを台に置いた。

「――へえ、気づかれてたとはね」

 冷静を装おうとしたが、声を出した瞬間に長野は失敗を悟った。この場所をヴォルフに教えた時点で、露見する可能性はあるていど覚悟していたが、いざばれてみると動揺は激しかった。

「使える状態にあるとは驚いたよ。そして、あれがこんなところに存在することにもね」

「知っているの?」

 ヴォルフの口ぶりに、長野のなかで好奇心が動揺に取って代わる。

「亜連が機兵を戦力とするために実行した計画は、亢龍(こうりゅう)計画や於菟(おと)計画だけではなかった。幾多の廃案のなかには、密かに開発が進められたものもあるし、事情が変わって復活したものもある」

「詳しいね」

 感心する長野に、ヴォルフは微笑した。

「俺自身、そのひとつには関わっているから」

 さらりと言ってのけたヴォルフだが、その発言は深い意味を持つ。長野はそれに気づかないほど事情に疎くはなかった。

「――応龍計画」

「ご名答」

 秘匿(ひとく)すべき情報ではなかったのか、ヴォルフは長野の推測をあっさりと肯定した。長野は、ヴォルフともうひとりが使っていた機兵の姿と、数々の噂を思い出し、納得する。

「やっぱりあの機体は応龍計画の落胤(らくいん)だったのか。俺たちは影龍(インロン)って呼んでいるけど」

「ガコクシュウだ」

 ヴォルフの口から、明らかに英語のものではない単語が出た。ドイツ語というわけでもないだろう。

「ガコクシュウ?」

「俺の機体の名前。牙、黒、鷲と漢字で書くと、日本語でそう読めるのだそうだ。名づけたのは開発に携わったある日本人だ」

「黒くはないけど」

 長野が疑問を口にすると、ヴォルフは苦笑した。

「今はまだ、ね。こいつはまだ、仮の姿だ」

「あの性能で完全じゃないなんて、ずいぶん贅沢な機兵だなあ。――命名した人の名前、聞いていいかな」

「残念ながらそれは言えない。君と共同戦線を張ってはいるが、君はまだ俺たちの仲間に加わったわけではないからね」

「俺はそれでもいんだけど」

 ヴォルフの仲間は歓迎してくれそうにないね、と続けようとした長野は、ヴォルフの発言にそれを遮られた。

「俺たちの仲間になるということを、あまり軽々しく考えないほうがいい」

 風のように心地よかったヴォルフの声音が、突如かまいたちを起こした。

「ごめん」

 謝ろうと思ったのは、何か禁忌に触れたような感触、ざわつきが長野の胸のうちに生じたからだ。それを聞くヴォルフの表情は、俯(うつむ)いていてよく見えない。

 しばし沈黙が流れる。

 水筒を置いていたステンレスの台が、凹みを復元して音を立てた。そしてヴォルフは顔を上げる。その表情は喜怒哀楽のいずれを表すものでもなく、形容しがたいものだったが、長野はそのパターンを最近、別の顔で見たような気がした。

「俺は行く」

「え?」

 そこまで気分を害したのだろうか。長野は重ねるべき詫びの言葉を考えるが、咄嗟(とっさ)には出てこない。

 ヴォルフは立ち上がった。

「暖炉の谷に動きがあった。君は残ってもいいが、どうする?」

 そう問われても、長野はヴォルフが何を言い出したのか理解しかねていた。どうして暖炉の谷に動きがあったとわかったのか、そして、加えられた疑問文はどういう意味か。

「ここに戻るとは限らない」

 説明不足を悟ってか、ヴォルフはゆっくりと、言い聞かせるように話を続けた。

「そのときは長野、君とはここでお別れだ。あるいはもし君がついて来るというなら、君は自分の体験についてより深く知る機会を得られるだろうが、そうすれば今度こそ、君はまっとうな亜連の市民には戻れなくなるかもしれない」

 長野は目を伏せて少し考えた。するとそれを急(せ)かすように、電子音が鳴る。施設周辺に配置したセンサーが、接近する一団を感知したのだ。ヴォルフは影龍……いや牙黒鷲のセンサーでこれを先に探知したのだろうか。

「一緒に行くよ」

 水筒の中身を一口含み、長野ははっきりと返答した。

「いいんだな?」

「いいさ。どうせもう、亜連に長野翔太の戸籍は残ってないんだ」

 そう言うと、ヴォルフはもう長野を止めなかった。



- 7 -


 エントゼルトゾルダートの残骸が発見されたことで、江藤は結局、ジソコンの指揮官席から愛機の操縦席へと移ることになった。南田と群山もそのまま搭乗させており、移動中ながら、残る二機の龍も短時間で動けるようにスタンバイさせている。

 不安の声もあったが、江藤は富窪の示した進路を変えることはしなかった。啓示軍の行動範囲が予想以上に広いのには驚いたが、今は補給を急がなければならず、そして富窪が狙っている施設こそが最寄りの補給地点だった。

「誰かさんのおかげで助かったな」

 富窪の背後で糸を引く者のシルエットを好きに想像しながら、江藤は呟く。

 もし富窪が合流してくれなかったなら、一ヵ月前の情報しか持たない江藤たちは、補給も無しに敵のうろつく一帯を抜けなければならなかった。それに、坂元や鷹山たちが二回目の消滅砲発射時にタシケントにいた可能性が低いこともわかった。だから富窪の努力には正直感謝している。

 しかし、手放しで褒めたわけでもない。

 なにより納得いかないのはゴン太のことだ。いったん新青海(チンハイ)まで戻ったのなら、そこに残してくればよかったはずなのだ。それをなぜ、戦場に連れて来たのか。富窪にとってもゴン太はお荷物だろうに。

 そう詰問した江藤に、富窪は人の耳を憚る素振りを見せて、補給地点でゆっくり話すと耳打ちした。確かに江藤と富窪が密談するには補給地点で落ち着いてからのほうが良いと思えたから、その場は富窪がごまかすのに任せた。江藤のほうも、富窪に時空転移のことを話すべきかどうか、話すとしてもどう説明すべきか、まだ思案せねばならなかった。

 タイマーのアラーム音。江藤は手元のサブモニターで、歩兵部隊からもらったこのあたりの電子地図と、実際の地形とを照合する。地図のデータが古いので、こうして定期的に食い違いのほどを確認しておかないと、迷子になる。

 予定進路から狂いなし。そして富窪が指示した地点までもう少し。機兵を三機収容できるというだけで、どんな施設だか詳しくは知らないが、倉庫が地上にあるなら、もう見えてくる頃だろうか。

 正面を凝視していた江藤は、不意に左方に注意を向けた。いや、その方向に集中を乱す何かを感じたというほうが正しい。しかし、見たところ異状はない。龍の顔をそちらに向けて丹念に調べてみるが、結果は同じ。

「少佐、あれでしょうか」

 傍らの南田から、赤いマーカーで印のつけられた景色が転送されてくる。南田機の視点だ。赤くマルをつけてあるのは、たしかに建物のように見える。

「おお、よく見つけた。――半地下ってところか」

 日本の学校の体育館を、少し低くしたような外観の建物。話どおり本当に機兵が収容できるのなら、中の床は掘り下げてあるのだろう。

「あそこで、群山の龍を完全に修理できるといいですね」

「ああ、今戦闘になると少々厄介だ。弾も少ない。――ん」

 江藤は気づいた。またも自分は迂闊(うかつ)な判断ミスをしたのかもしれない、と。

 ここへ来る途中、破壊されたエントゼルトゾルダートがあった。つまり、啓示軍(オフェンバーレナ)は暖炉の谷の南側も行動範囲に入れている。そして今目にしているのは、機兵を収容できる施設。おあつらえ向きに補給物資もあるという。西フェルガナ基地の存在と、そこがダーダネルス作戦の前線司令部であることも察知していた啓示軍なら、このあたりの利用価値のある拠点は網羅していてもおかしくない。いや、知られていると考えて行動を選択するべきだった。

「北嶋。念のため、俺と竜時で先に行って様子を見る。群山はここで車列の護衛。峰國と朝井も起動スタンバイ。ジソコンの銃座にも誰かつけとけ」

 努めて平静の気楽な調子で言ってから、江藤は南田を促し前進する。異状の有無を見るなら自分が、と周富窪が名乗り出たが、安全が保証できないため却下。

 施設まで一キロ。火縄を構えて進む。距離五百メートル。南田に周囲警戒を任せて前方監視に専念。あと二百メートル。熱源探知、および相対バルムンク反応に変化なし。残り五十メートル。いつでも緊急回避できるよう神経を集中させて、搬入ゲートに接近。あと十歩。八歩。六歩。減速。四歩。二歩。一歩。ゲート解放。

「何!?」

 江藤はそのとき、ゲートに何の操作もしていなかった。龍から降りずに開けられるものか調べようと、自機をしゃがみこませているところだった。不意に開かれたゲート。奥の暗がりから何かが迫る。

 ――機兵だ。

 咄嗟に背後に跳ぼうとしたが、無理を重ねた駆動系は、江藤の操作に応えてくれなかった。跳ぶどころか、機体が大きくうしろに傾いた。江藤は確信する。これは、こける。

「少佐!」

 南田の叫びが聞こえたが、それはむしろ江藤の気を散らしただけだった。おかげで背部ロケット点火が遅れる。しかし、結果的にそれは僥倖(ぎょうこう)だった。江藤の眼前のモニター上を、下からに上に突き抜けた杭。ほんのすれすれの間合いだった。

 尻餅をついた龍。その体勢のまま、江藤はゲートから出てきた機兵……影龍に火縄の砲口を向けようとする。だが影龍は火縄の砲身を手で掴み、龍から奪い取ってそれを横に放り投げた。龍には到底まねできない芸当である。

「ここで交戦する意思はない」

 接近により強制共有されたバルムンクフィールドの中で、影龍のパイロットらしき者の声が電波を介して江藤に伝わる。

「暖炉の谷での啓示軍の作戦行動を阻止したい。その点では、利害が一致するものと考えているが?」

 英語。おそらく発言者は若い男性。少々聞きなれない抑揚だが、流暢には違いない。

「たしかに、上からのお達しでは、おまえたちに対する攻撃のプライオリティは低い」

 下手に動けば、今度こそ頭部を潰される。視界に入らない南田も、それがわかっているから動かない。江藤はそう状況を把握しつつも、しかし、交渉の主導権を影龍のパイロットに渡すつもりはなかった。

「だが俺個人には、おまえさんにツラを貸してもらいたい理由がある。相互不干渉を約して素通りさせる、というわけにはいかんな」

「――そのカスタマイズ機。やはり、先日の」

「そういうことだ。あのとき攫(さら)ってったパイロットをどうした」

 相手が話に乗ってきたのを好機と見て、江藤は返答を得られそうなほうの質問を先にした。何が目的でGT72鉱山基地を狙ったのかと問うては、その時点で交渉は決裂しただろう。

「安心していい。彼は無事だ。――さて」

 影龍は杭の先端を江藤機の腹部に向ける。

「隊長とお見受けする。部下の方に、武器をその場において二百メートル後退するよう指示して頂きたい。このEMパイルの威力は、先日披露したのでご存知だろう」

 その脅迫に抗(あらが)うには、状況は江藤に不利だった。南田が火縄を影龍に向けて撃ったとして、一撃で大打撃を与えられる公算は小さい。いっぽう、影龍はEMパイルというらしいあの杭で、確実に江藤の命を奪える。

「待て、影龍」

 諦めようとしたそのとき、南田が割って入って発言した。

「少佐。今峰國たちが向かってきています。五体一なら……」

 日本語に戻して江藤に語りかける南田。相手が英語を使うなら、日本語は事実上の秘匿回線になる。意図したものかはわからないが、南田の言語選択は適切だった。――あくまで、彼の知りえた条件においては。

「そちらの助けが来るまでおしゃべりを続けている暇は無いな」

 英語はそのままだった。しかし、影龍のパイロットは明らかに南田の発言を理解している。

「さあ、早く。聞こえているなら、いちいち指示という手順を踏む必要はない。上官の命が大事なら、武器を置いて下がるんだ」

 南田のほうを向きながら、EMパイルをさらに龍の腹に密着させる影龍。凶器をつきつけられながらも、江藤はその動きの人間臭さに妙に感心していた。

「少佐、どうすれば……」

 明らかにうろたえを露呈した南田の声。江藤は笑った。

「俺を大事と思ってくれるなら武器を捨てろ。それよりこいつを倒す武勲を選びたいなら、それでもいい」

 自分は部下たちの命を私情で危険に晒そうとしたのだから。自分の命で免罪符を買うのも乙か、と江藤はふと思った。だから、今の発言は半分以上本気である。

 江藤は目を瞑(つむ)った。数拍の間。

「まったくあんたは、言うに事欠いて!」

 耳に響いたその叫び声は、南田にしては幼かった。驚いて目を開ける江藤。RBRセンサーの波形変動が目に入り、次いで左モニターに青い影が滑り込んできた。

「長野!」

「長野!」

 江藤の声と、影龍のパイロットの声が綺麗に重なった。

「武器を捨てろってんだよ!」

 まるで癇癪(かんしゃく)を起こした少年の声。その声の抑揚にあわせるように、南田機の背後で青い影がすばやく動く。予想しない方向から現れたそれに完全に虚を衝(つ)かれ、南田は龍の手から武器を叩き落された。

「人を焚き付けておいて、自分は諦観? バカにするのもいいかげんにしてほしいね。江藤少佐」

 青い機兵。濃淡二色を使ったツートーン。違うのは色だけではない。それは亜連製機兵の特徴を有しながら、龍とも龍王とも、そして影龍とも異なる姿をしていた。

 甲冑でもまとったような外見の、初めて見る機兵。そして長野の声。江藤の記憶の糸が繋がった。

「麒麟計画……。強攻型、雷麒麟(ライキリン)か」

 ともに虜囚であったときに少しだけ話題に上った、長野がテストパイロットとして開発に参加していた機兵。長野が詳しく語りたがらなかったのは、開発がうやむやのうちに中止になったからだと江藤は思っていた。だが、南田の龍から武器を奪ったあの動きは、影龍と違い常識の範疇(はんちゅう)ではあるものの、未完成品の示す動きではない。

「長野、どういうことだ。なぜ影龍と……」

「さよなら、少佐。お礼だけはいっておくよ。いろいろありがとう」

 江藤の問いかけを最後まで聞かず、長野の青い機兵、雷麒麟は、南田機を突き放して踵を返す。見かけが重装甲のわりにターンがすばやい。

「待て」

 状況を忘れて追いかけようとした江藤は、そこで影龍から蹴りを一発もらい、立ち上がれずに転倒した。今度は尻餅を通り越して仰向けである。影龍の赤いスリット状の眼が、江藤を見下ろす。

「少佐!」

「ヴォルフ、待って!」

 龍を踏みとどまらせた南田と、雷麒麟をふりかえらせた長野が叫ぶ。それを聞き、長野が呼んだ名は影龍のパイロットのものかと、江藤はそれを記憶に刻む。その余裕はあった。――江藤は、その赤い眼から殺意を感じていなかった。

「縁があれば再会しよう」

 言い残し、影龍は軽快な身のこなしで青い機兵のあとを追う。立ち止まっていた長野も安心したように再び走りはじめ、徒手空拳の南田の龍にはそれを止める手段がない。江藤の龍には左肩の重機関砲が残されていたが、愛機を立ち上がらせてもそれを使うつもりはなかった。

「南田、おまえはここに残っていろ」

 江藤は地面に落ちた火縄を拾い上げる。

「え、少佐は?」

「奴らを追う」

「なら俺も」

「残っていろと命じた。これは俺個人の問題なのだ。まだ俺は、あいつらに……」

 聞かねばならない。鉱山基地の深奥(しんおう)で江藤は奇怪なものを見た。その場には長野と、そして江藤に一撃を加えて気絶させた何者かがいた。その後、二機の影龍に連れ去られた……、いや、ついて行った長野。隠滅された証拠。残る手がかり。

 そして、いまだに感じる何かの存在感。例の不完全な第六感が機能しているのだと江藤は気づいていた。江藤のその感覚を刺激する何かも、長野たちが向かった先に存在を感じる。

「追うしかない」

 すでに小さくなったふたつの機影に向けて、江藤は独り、愛機を疾駆させた。



- 8 -


「撒(ま)いたかな」

 龍と似て非なるコクピットのなかで、長野はやれやれと溜め息をつく。視界が白みはじめたのと、RBRセンサーの感度が下がったおかげで、追跡者の姿はもう見えない。長野は一直線に走っているわけではないから、今頃追跡者は見当違いのほうに向かっているか、でなければ追走を諦めているだろう。

「ヴォルフ、変化ってこのこと?」

 長野はやや先を行く影龍、もとい牙黒鷲を駆るヴォルフに問いかけた。暖炉の谷に近づくにつれ、バロッグがだんだんと濃くなってきているのは、明白だった。暖炉の谷はそれ自体が驚異的な変則領域であるが、周辺に濃いバロッグが発生するという話は聞いたことがない。

「変化の一端、というべきだろうな。俺が向かっているのはその根源。オルロフと、それを使おうとする者」

「オルロフが、このバロッグを? なるほど、そりゃ三つ巴で奪い合うわけだ」

 GT72鉱山基地でのことを思い出し、長野は納得する。しかし、同時に恐れも感じていた。バロッグ発生が、ヴォルフの待っていた変化の一端でしかないのなら、オルロフの真の力とは一体どんなものなのか。

「たぶん、啓示軍(オフェンバーレナ)の守りは固いだろう。あの鉱山のときの比じゃない。長野、その機体はどれくらい戦える?」

「火器は龍と同じだけど、耐弾性と運動性は龍以上だよ。俺の体も、龍よりはこっちのほうに慣れているし」

「武器としては完成していると考えていいんだな」

「ああ。麒麟計画の凍結は、試作機の性能が悪かったからじゃないんだ」

 それなのに、凍結になった。それを言い渡されたときに去来した感情を、長野はまだ覚えている。不可解には思わなかった。原因と思しき事件には長野も当事者として名を連ねていたから。そのとき長野はただ、理不尽だと呟いた。

 二ヵ月ぶりに動かす雷麒麟は、計画凍結が嘘のように、快調な動きを示してくれている。最近龍を使っていたせいか、長野には調子が前にも増して良くなっているようにさえ感じられる。

「これなら、牙黒鷲にだってついていける」

 機体チェックがてら、前方の牙黒鷲がよけた岩の隆起を、長野は跳躍で越えてみせた。着地時の制動は良好。走行への切り替えもスムーズで、計画凍結のぎりぎりまで調整を続けていた管制システムのスペックを保証してくれる。

 すでに暖炉の谷の隅に入り込んだのだろう。地形は全体的にごつごつとして起伏に富み、人が落ち込んでしまうほどの地面の裂け目や、ときには機兵の背が隠れるほど高い岩の壁が視界に入ってくる。

 機甲部隊が攻め入るには難所だ。そして機兵が防衛線を張るにはおあつらえ向きのステージ。啓示軍が暖炉の谷を制圧したと聞いたとき、長野はすぐに亜細亜連邦軍に駆逐されるだろうと思ったが、こうして見てみると、なかなか堅固な要塞である。攻めるなら、空からやるのがいちばん利口な手だろう。しかし、バロッグのせいで精密誘導はできない。

「谷にはまだ民間人がいるのかな」

 長野は谷に住み着く宗教団体があったのを思い出した。たしか、灯教といっただろうか。

「おそらく、半数は残っている」

「盾に使われるかな」

「啓示軍は彼らの信仰を邪魔せず谷への居住を阻害しないだろう。そしてそれは、亜連にとっては人質をとられたに等しい。だが、このバロッグの中だ。気づかなければ、亜連側の攻撃に躊躇は生まれないだろう。――俺にも、彼らの身の安全まで保証して行動する余裕はない」

 ヴォルフの声は苦々しげだった。

 長野はヴォルフの心中を慮(おもんばか)る。雷麒麟を隠していたあの場所に行く途中、ヴォルフの牙黒鷲は一機のエントゼルトゾルダートと遭遇した。長野を地面に下ろした牙黒鷲は、一分とかけずにそれを撃破したが、コクピットは狙わなかった。両腕を封じ、股関節を破壊。崩れ落ちたエントゼルトゾルダートを自ら受け止め、頭部を破壊してコクピットをこじ開け、パイロットをつまみ出したのだ。

 機兵にのって戦闘をやる以上、不殺の誓いを立てることはできない。だが、他の選択肢がある限りはあらゆる人間を生かす。「影龍」の噂と、実際に見た牙黒鷲の戦い方、そしてヴォルフの言動から、長野は彼のスタンスをそう捉えている。

 そのヴォルフが、暖炉の谷に残っている人々の命にまでは構っていられないと言う。

「なんとしてもオルロフを破壊するんだね」

 長野が言うと、急に牙黒鷲が制動をかけた。長野も雷麒麟を減速させ、牙黒鷲にやや遅れて停止する。

 また禁句を口にしてしまったかと長野は危惧したが、それは杞憂だった。ふたりの行く手は崖になっていたのだ。ずいぶんと切り立っているが、光学干渉を呈しはじめたバロッグのせいで、下との高低差のほどはわからない。

「迂回しよう」

「それがいいね」

 崖に沿って牙黒鷲と雷麒麟が歩き出す。

「オルロフは、おそらく破壊できない」

 少し進んだところで、ヴォルフは長野の前言を訂正した。

「破壊しちゃいけないの?」

 言うことがわからず問い返すと、やや沈黙を置いてからヴォルフが答える。

「破壊できれば、しておいたほうがいいと俺は思う。だが、あれは通常の手段では破壊できない可能性が高い。できるとしても相当の困難を伴うだろう。だからこの劣勢では、破壊の余裕はない。奪えればそれがいちばん幸運だろう。できなければ、オルロフを使役する存在を破壊する。それも、困難には違いないのだけれど」

「オルロフを使役する存在?」

「十中八九、ノイエトーターがその役を担うはずだ。亜連の軍人には“白銀の人形”と言ったほうがピンと来るかな」

 白銀の人形。その名を頭の中で繰り返し、長野は戦慄を覚える。緒戦において米海軍に大打撃を与え、亜細亜連邦軍にも甚大な被害を与えてきた機兵。戦術級、ないしは作戦級の戦力評価において、それは一機で、エントゼルトゾルダートの一個機兵戦隊(エスカドローン)以上に相当すると言われる。

 警告音。右方に相対バルムンク反応、レベルB。読み取った直後にそれは、敵機急接近というメッセージに変わる。右手の崖の下。ふりむいて雷麒麟が火縄を構えるより先に、その機兵は飛び出てきた。

 赤い。

 長野は即座にトリガーを引きながら、どこかで安心していた。ノイエトーターの機体色は銀。赤であった例(ためし)はない。

 実際、雷麒麟と崖の縁とのあいだの狭い足場に着地したそれは、エントゼルトゾルダートの派生型のようだった。背中に巨大で長いスラスターモジュールが生えており、火縄が当たったのか、左腕が肘の辺りから欠落していた。

 長野は続けて火縄の砲弾を撃ち込むことができなかった。砲身の先端は、着地した敵機の脇に挟まる位置にある。それほどに二機は密接していた。ゾルダートタイプにしては珍しい、レール移動タイプの単眼が迫る。

 敵は近接兵装を持っている。抱きつくような敵の挙動からそう読んだ長野は、回避運動を取る。雷麒麟が舞うように横に跳び、向き直ると、赤い単眼のゾルダートは後ろにあった岩を刀剣の類で切り裂いていた。

「雷麒麟をなめるなよ」

 岩から発熱刀らしきものを引き抜く敵に、長野はすかさず火縄を撃った。



- 9 -


 敵の奇襲に気づけなかったことが、ヴォルフを焦らせていた。

 長野が崖下からの攻撃に遇うのにやや遅れて、ヴォルフは前方に敵の存在を感知した。それは赤い四脚型のゾルダートで、ヴォルフは以前にもこれと戦ったことがあった。長野のほうに現れた敵も、崖を急上昇してきたその性能から、どの機体かは推察できる。いずれも啓示軍(オフェンバーレナ)E12のエースが使うカスタマイズ機。

 濃いバロッグのために、火力重視である敵はその長所を活かせない。試作機で戦っている長野を早く助けに行くために、ヴォルフは敵に突撃した。機関砲が襲ってくるが、バロッグによるエネルギー変換現象の作用でそのほとんどが牙黒鷲には届かず、当たっても牙黒鷲の特殊な装甲には効果がない。

 鈍足の敵に肉迫した牙黒鷲が、それに殴りかかるような動作を取る。赤い四脚型は左腕の盾でそれを受け止めようとするが、牙黒鷲の拳はその直前で停止した。

「インパクト!」

 右腕に括るように取り付けられたEMパイルが、電光石火の勢いで杭を打ち出す。敵の左腕の大破を確信したヴォルフだったが、破壊されたのは逆にEMパイルのほうだった。杭を完全に受け止めた盾の表面には、靄(もや)が生じている。

「シュッツネーベル!?」

 そんなはずはなかった。護りの霧、シュッツネーベルは、この地では極端に性能が低下する。EMパイルの攻撃を受け止めることはできないはずだった。しかし実際にはむしろ、以前に交戦したときより防御力が向上している。ヴォルフの焦燥に拍車がかかる。

「まさか彼らの目的は……」

 啓示軍作戦指揮官“時報(ツァイトアンザーゲ)”、アルベルト・ヴェーバー。そして最高指導者“指針(ツァイガー)”、ハンス・ライルスキー。ヴォルフは彼らの意図を少々取り違えていた可能性に気づいた。暖炉の谷を取り巻く変則領域の変化、ここで真価を発揮できるはずのないシュッツネーベルにEMパイルを受け止める力を与えた異変。

 ヴォルフにとって、最優先で対処しなければならない問題が生じた。そして、EMパイルという最大の武器を防いだ敵を前に、選べる道は極めて少なかった。

「すまない、長野」

 背後で戦闘が続くのを知りつつも、ヴォルフは目前の敵を倒すことなく、崖下に向かって牙黒鷲の身を躍らせた。



- 10 -


 長野が撃った火縄の砲弾は、敵に届く前に、バロッグのエネルギー変換現象で無力化された。かなりのバロッグ濃度。敵はそれを承知したうえで攻めて来たらしく、右手に持った発熱刀で雷麒麟に斬りかかって来た。後退しつつ、長野は空いていた雷麒麟の右手に、マウントしていた武器を持たせる。

 驚異的加速で襲ってきた敵の発熱刀を、雷麒麟は右手に握った刀で受け止めた。炎草薙(ほむらくさなぎ)。龍王が用いる発熱刀である。ただし、刀身は鞘をまとったままで、発熱はしていない。数秒とかからずに敵の発熱刀が鞘を溶断するが、そのときには、雷麒麟が左手で扱う火縄が火を噴いていた。

 赤いゾルダートがのけぞり、数歩退く。長野は手応えを感じていたが、どこに当てたのかは見ていなかった。その間に長野は炎草薙の鞘を捨て、抜き身の刀身を変則現象によって赤熱させる。

 互いに発熱刀を構え、数秒睨み合う。赤いゾルダートはその時間で損傷のほどを確かめたらしく、戦闘続行という結論を行動で示した。再度の突進。

 長野は対応を迷った。炎草薙は使い慣れない。対して敵は使い手らしい。長野には火縄があるが、バロッグの干渉を受けるので、相手の間合いに入らないとこちらも撃てない。

 結局、長野は使い慣れた火縄を選んだ。悟られないように、フェイントとして炎草薙を構えて相手との間合いを調整する。迫る敵機。長野はわざと早めに炎草薙に空を斬らせ、自然と前に出た左手の火縄で、赤い影を狙った。外すことのない距離。

 長野の戦術は、読まれていた。間合いに入る前に、赤いゾルダートはさらに加速しつつ跳躍した。いや、それはもう飛行に近い。頭上を飛び越えられ、九十度を超えた仰角に火縄の自動追尾も音を上げる。

 これでは後ろを取られる。気づいた長野は急速転回で対応しようとしたが、雷麒麟の性能をよく知るがゆえに、間に合わないと悟ってしまう。

「させるかぁ!」

 音割れを起こして耳に響いたのは、決してヴォルフの声などではなかった。予期したとおりのタイミングで転回を終えた長野の前に、大きく映った龍の背中がある。敵とのあいだに、立ちはだかっているのだ。

「何しに来たんだ!」

 さきほど見たばかりの江藤のカスタマイズ機を見間違うわけがなかった。乗っているのが間違いなく江藤博照であることも、今の声で瞭然としている。

「うるさい、話はあとだ」

 言いつつ、江藤は雷紫電を構えて敵に向かって行く。赤いゾルダートはそれをひらりとかわすが、長野はそこを狙いすまして火縄を撃った。バロッグの干渉を受けるのが先か、着弾が先か。結果は長野にとって芳しくなかった。

「ちっ」

 これほど濃いバロッグを長野は体験したことがない。やはり至近距離まで詰めなければ、と長野はフットペダルを踏み込む。そこへ、江藤の声がかかった。

「おまえ、右手の岩の裏に回りこめ」

 どこにそんな余裕があるのか、敵と激しく打ち合いながらも江藤は何か作戦を思いついたらしかった。その江藤とて発熱刀を使う相手にいつまでも持ちこたえてはいられないと慮り、長野は言われたとおりに移動する。

「で、どうするんだよ!?」

 位置にはついた。しかし二機が目まぐるしく動き回って格闘戦をやっているので、狙撃はできない。第一、バルムンクフィールドを強制共有するには距離がありすぎるので、また変換現象で無力化されてしまう。江藤が何を狙って指示を出したのか見当もつかず、思わず長野は叫んだものの、その声もまたバロッグに阻まれて届かない。

 これなら自分も接近したほうがずっといい。そう思って岩のそばから離れようとしたとき、前方で、江藤の龍が跳びすさりながら火縄を構えた。

 ――届くはずがない。長野は江藤がすでに冷静を欠いているのではと疑った。しかし。

 距離を詰めようとしたゾルダートの発熱刀が砕け散った。

「え?」

 二機の距離は、さきほど長野が火縄を使ったときよりも離れていた。変換現象がランダムに発生するとはいえ、偶然にしては都合が良すぎる。外廓聯(がいかくれん)で腕を鳴らした江藤がそこまで無謀な賭けに出るのか。それらの思考をまとめて、はたと気づいた長野はRBRセンサーに目をやる。

 ――前方に、バロッグの空白があった。江藤の狙いを理解した長野はすぐに火縄のトリガーを引く。江藤機にスパイクで殴りかかっていたゾルダートは、横合いからの攻撃を回避できず、腹を抉(えぐ)られた。

「少佐、下がって!」

 江藤に退避を促し、長野は続けて火縄を撃った。バロッグさえなければ飛び道具のあるほうが圧倒的に有利。敵の肩、太腿にダメージを与え、さらに精密に狙いをつけてコクピットのある胸部を狙う。そして四発目が砲口から放たれたそのとき、満身創痍(そうい)の赤いゾルダートを庇(かば)うように、もうひとつ赤い影が現れた。

 それは四脚型だった。盾のような形の左手を長野のほうに向け、確かに正面から砲弾を受けたはずなのに、傷らしい傷がない。長野がそれを見るうちに、ゾルダートの右腕のライフル砲が雷麒麟を狙う。慌てて、長野は岩に雷麒麟の身を隠す。

 三発、岩に着弾したようだった。このままでは岩を貫通して雷麒麟が被弾する。長野は隠れたときとは反対側から飛び出て、反撃に移ろうとした。しかし、狙いをつけようとしたその先に、もう赤い影はない。

 崖のそばには、傷を負った江藤の龍だけが残っていた。長野はそのそばにより、バルムンクフィールドを共有する。

「敵は?」

「崖の下。飛び下りて逃げやがった」

 江藤は息を切らしていた。あれだけ激しい操縦をすれば当然だろう。近くで見れば、龍のダメージも深刻である。発熱刀による傷の数々。さらに火縄の砲身は曲がり、特徴だった肩の機関砲も失われている。

「助かったよ、少佐」

「最近の流行りか、あの色は」

「え?」

「このまえ俺を捕まえたゾルダートも、あのカラーリングだった。――いや、そんなことはいい。長野、影龍はどうした」

 言われて、長野は言葉にならない声を漏らした。目の前の敵を相手するのに精一杯で、ヴォルフのことを忘れていた。

 ふりかえり、牙黒鷲の姿を探す。敵に襲われるまではすぐ近くにいたのに、今は霧の中に浮かび上がる岩の陰があるばかり。

「ヴォルフ!」

 まさか四脚型のほうに敗れたのではないか。焦燥が長野の思考を支配し、雷麒麟を走らせる。江藤の制止の声がかかるが、無視する。龍を残して進んでいくと、前方に相対バルムンク反応。音響装置が鳴らす警告の電子音も、長野に冷静さを取り戻させるには力が及ばなかった。

「ヴォル……」

 長野は絶句した。

 行く手の岩場から現れた、第三の赤い機体。鎧を着たような骨太の外見は、ゾルダートタイプとは大きく異なる。その右手に握られた長大な刀が、雷麒麟に襲いかかる。

 牙黒鷲が戻って来たのかと期待してしまった時間だけ、長野の回避運動は遅れてしまった。一歩下がったものの、前に突き出ていた火縄が切っ先に捉えられ、切断される。続いて第二撃。長野は敵のリーチを恐れ、最大推力で横に逃げた。その選択は雷麒麟を斬撃から守ったが、跳んだ先は、崖だった。

 崩れる崖縁。雷麒麟は足を踏み外した。長野は背部ロケットの噴射で落下を免(まぬが)れようとするが、すぐには着火してくれない。

「整備不良!?」

 視界から岩と地面が消え、白く霞(かす)んだ空が一面に広がる。重力に為されるがまま、長野は雷麒麟とともに崖底へと落ちていった。



- 11 -


「こんちくしょうがっ!」

 長野の機体が崖から転落するのを目撃し、江藤は吠えた。

 雷麒麟のいた場所に佇(たたず)むのは、鎧でも纏(まと)ったようなデザインの、赤と藍のツートーンの機兵。その色を見るのはこれでもう四機目になるが、これまでの三機がエントゼルトゾルダートの派生にすぎなかったのに対し、眼前の敵は明らかに基本構造が異なる。ゾルダートよりは、資料で見た“人形”のスタイルに近い。ただし、“人形”よりはずっと骨太であるし、話に聞くような強烈な相対バルムンク反応は感知されない。

「仲間がのされたんで、さっそく仕返しに来たってわけか」

 コクピットで独り強がってみるが、江藤の乗機に新型を相手にする余力は残っていない。残された武器は、放電機構が無事なのか怪しい雷紫電甲型のみ。砲身の曲がった火縄でも投げつけてやるか、などと江藤は考えてみるが。あまり名案とは思えなかった。華奢(きゃしゃ)なゾルダートならともかく、あのがっしりとした機体がそれで壊れることはないだろう。

 立ち向かう術を江藤が見つけ出す前に、新型は襲いかかってきた。スラスターを使って大きく跳躍し、龍へと迫る。途轍もない推力。重い機体が宙に舞う。

 ――この動きは、あのときの。

 江藤は思い切って龍を前方に突進させた。背部ロケットも使っての最大加速。数メートルの高度差ですれ違う二機。江藤は辛くも着地前の敵の股下をくぐり抜け、その斬撃をかわした。

 ひときわ高い地面の隆起を盾にして、江藤はターンする。できればそのまま直進して逃げたかったが、残念ながらスピードで敵に負けている。

 掩体(えんたい)から右に出るか、左に出るか。相対バルムンク反応で、敵が早くも再び迫っていることはわかっている。時間がない。迷った江藤は第三の選択肢を選んだ。フェイントとして左に火縄を投げ捨て、それから岩場を駆け上り、跳躍。

 江藤は赤い鎧の頭上を取った。読みどおり。内心、江藤は快哉(かいさい)を上げる。

 相手は初めての機体であると同時に、以前戦ったパイロットでもあった。GT72鉱山基地近くで、江藤の龍を鹵獲(ろかく)した敵。脱走した江藤の首を絞めた巨漢。それらと同じ思考回路を、江藤は先のすれ違いの際に感じていたのだ。

「釣瓶(つるべ)落とし!」

 真上を振り仰ぐ敵に向かい、江藤は雷紫電を逆手に落下した。これで仕留められなければ江藤の命はない。まさに乾坤一擲(けんこんいってき)。

 下から突き上げる衝撃。交換したばかりのエアバッグが作動し、顔面を覆われた江藤はメインモニターの画像を見られなくなる。そして、比較的小さな横方向の衝撃。徐々にしぼむエアバッグを片手で押さえ込み、損害状況を確かめようとして、江藤は正面モニターが情報表示を残して真っ暗になっているのを見る。

 頭部損失。今しがたの小さな衝撃は、カメラや重要なセンサー、そして龍の頭脳たる手EPU(エクスペクトプロセッサ)を収める頭部が、発熱刀により切り落とされた音だった。江藤の渾身の一撃は、かわされたのだ。

 補助のカメラが機能し、モニターに再び外の様子が映し出される。へたり込むように擱座している龍を、西洋の兜に似た容貌の敵機が見下ろしている。そして発熱刀を握った腕がまた動く。補助カメラの位置を考えて、江藤はその刃がどこに当てられようとしているかすぐに理解した。腹部。敵はコクピットを狙っている。

 とにかく動こうとしたが、龍は江藤の言うことを聞かなかった。EPUを失った龍が、それ以外の演算機でOSを再起動するのに一分はかかる。さらに、OSが運良く短時間で復旧したところで、龍の関節やMMアクチュエータは今の荒技でかなりのダメージを被っている。

 音と振動が、腹部装甲に発熱刀が食い込みはじめたのを知らせる。もう秒単位の猶予しかない。

「南無三(なむさん)!」

 江藤は非常用のレバーのひとつを力任せに引いた。直後、爆発音とともに、江藤の視界がいっきに開ける。肌に触れる外気。腹部装甲を丸ごとパージしたのだ。

 さすがにひるんだのか、数歩退いた赤い機兵。生身でそれと対峙した江藤は、自然と、不敵な笑みを浮かべる。すると、敵は発熱刀を掲げた手を下ろした。

「我は啓示軍(オフェンバーレナ)第十二機兵戦隊(エスカドローン)隊長、オズボーン・ワイルダー

 音声の外部出力で語りかけてきたその声は、江藤を締め上げるほどの怪力の持ち主らしい、低く、腹の底から響かせているような音である。やはりあのときの男に間違いないと、江藤は確信を深めた。

「黒龍隊隊長、江藤博照だ」

 相手に負けじと、江藤は声を張り上げて名乗り返す。大声での英語の発音がうまくいったか江藤は気になったが、『エトウ・ヒロテル』と言いにくそうに反芻する声に、どうやら通じたらしいと安堵する。

 そこで江藤は自嘲した。ここで安堵してどうするのだ。相手は敵。何を思ってか攻撃を止め、一方的に名乗りを上げてきたが、今の今まで江藤の命を奪おうとしていた者であることに変わりはない。それとコミュニケーションを取れたことに、どうして肯定的な感情を抱くのか。

 いや、安堵は正常な反応だ。江藤の中で別の意見が持ち上がる。啓示軍の人間も言葉の通じる相手であると、江藤は初めて自分自身の体験として確認できたのだ。それはこの奇妙な大戦の終結が和平によって達成されうる希望を示唆する。だから、安堵は正しい。

 相反する理論が江藤の内面で対立し、静寂を呼ぶ。しかし、やがてそれはロケットエンジンの噴射音により破られた。

「貴公との戦い、楽しませてもらった。いずれ相応の条件で再戦したいものだ」

 激しい燃焼音のなかでもはっきりとその言葉を残し、オズボーンの機体は垂直に飛び上がった。そして空中で向きを変え、崖のほうに身を投じる。

 爆音が遠ざかり、その場にはただ江藤と大破した龍だけが残った。

「おまえさんみたいな化け物とやりあうのは、二度と御免だ」

 江藤は呟き、それからしばらくの間、笑い続ける。

 自らの口を塞いで笑うのをやめたのは、崖沿いに近づいてくる複数の機兵の音と姿を感じたからだった。霧の中で徐々に鮮明になるその姿は、そのすべてが龍であると判明する。数は四。うち、二機は防人型

 黒龍隊に残っている防人型は、峰國の使っている一機だけ。だから、南田が全機を引き連れて江藤を探しにきたわけではないと、江藤にはわかる。ではどこの隊だろうか。いずれにせよ、オズボーンが退いた理由にはこの四機の接近を察知したことも含まれているのだろう。

 江藤が四機の龍の素性を推し量りかねていると、そのうちの一機、通常型の龍が、他の三機を置いて歩調を速めた。まっすぐ江藤のもとへ駆け寄ってくる。そして江藤の目前で膝をついて降着し、コクピットハッチが開いてパイロットが顔を出す。

「よかった、生きていたんですね。少佐」

 龍がやられているのが見えたときには冷や汗が出ましたよ、と付け加えるのは、よく知った顔だった。江藤が否定した解答、南田竜時。

「どういうことだ。おまえには残っていろと……。いや、それより後ろの龍は何だ。車輛部隊の護衛を丸裸にしても勘定が合わんではないか」

 問い質(ただ)す江藤に、南田はもったいをつける。

「見忘れたんじゃ、あいつらが可哀想ですよ」

「何?」

 江藤は首をひねり、そして南田の意味するところを解した。

「竜時、まさかあれは……」

 指差そうとした三機の龍は、もう近くまで来ている。二機の防人型と、一機の通常型。その編成は、ある小隊のものと一致する。

「無事で何よりです。隊長」

 冷ややかなようでいて、しかし常にそこから内面の生々しい感情がのぞけてしまうその声。スピーカーを介して聞くそれには、やはり聞き覚えがあった。

「生存を最優先とする……。俺の命令を、よく守ったな」

 江藤の体感的には八日ぶり、そして向こうの過ごした時間では二十七日ぶりの会話。

「任務ご苦労だった。坂元。そして鷹山久留(ひさどめ)



――続く――