黒龍隊の挽歌 第二十一話

障壁を越えて



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 啓示軍(オフェンバーレナ)の絶対防御兵器、通称“ベルリンの壁”。江藤は今、その内部にいる。“壁”によって外界から仕切られた空間にではなく、“壁”そのものの内側である。

 四方は白い闇に閉ざされ、バロッグ内で頼るべき相対バルムンク反応(RBR)センサーも、光学バルムンク走査(OBS)も、すっかり役立たずとなった。機能しないのは他の多くのセンサーも同様で、ここでバルムンクフィールドジェネレータ(BFG)を停止させたなら、おそらく機兵を前進させることはかなわないだろう。立っていることすら、できないかもしれない。

 もちろん、それらを試してみる余裕など江藤にはない。牙黒鷲を見失わないよう、追尾に集中しなければならない。そうしなければ“壁”を抜けられないのだと、出撃前にヴォルフが言っていたが、実際に“壁”の中に入ってみて、江藤はそれが適切な助言だったと思い知った。先を行く牙黒鷲の足取りはしっかりしていて、何ら“壁”の影響を受けていないように見える。搭載するセンサーなりBFGなりの違いだろうか。

 そういえば、と江藤は気づいた。第六感の効果によるものか、牙黒鷲からは特別な何かを感じるが、これは以前から龍王(ロンワン)に感じていたものに似ている、と。するとやはり、龍王も牙黒鷲と同じように“壁”を突破できるのだろうと、江藤は改めて納得する。

 応龍計画の産物である影龍(インロン)――牙黒鷲と、亢龍計画が生んだ龍王。系統の異なる二つの機兵がともに“壁”を抜ける能力を有するのであれば、必要なのは特定の機械的システムかソフトウェアであると推論できる。つまり、これらと同様の装備やソフトを追加することで、雷麒麟や龍(ロン)もその能力を獲得できるかもしれない。啓示軍の機兵がこの不可思議な変則領域を自由に通行していることも鑑(かんが)みれば、可能性はかなり高いと江藤は思う。

 江藤は気分が高揚するのを自覚した。もしこの対処法で絶対障壁としての“壁”を無力化できるなら、欧州事変の再来を恐れてここでの拠点レベルでの勝利に固執する必要はなくなる。“壁”を形成されたところで、ゆっくりと対応部隊を編成して突入、制圧すればよいのだ。いや、あの“ベルリンの壁”が突破できるとなれば、啓示軍本拠であるベルリンの攻略が可能となることをも意味する。今まではただ奪われた領土を奪い返すだけの、泥沼の戦いであったものが、終結への道筋の見えた戦いへと移行できるのだ。そうなれば勿論、早期戦争終結を目的とした国際法無視や、大量破壊兵器の使用も大義名分を失う。いまヴォルフとともに歩んでいるこの道は、大戦終結への道であると江藤には思える。

「長いトンネルを抜けると、そこは……」

 不遇の十二年を思い返し、“壁”の境が近いことを知覚しながら、江藤は呟いた。


*   *   *   *   *


 “壁”を抜けて現れたのは二機のみ。ユプシロンと、青い新型。

 ザック・コミレットの小隊からそう報告を受けたケーシャ・スラントは、戦力をどう振り分けるべきか逡巡した。問題なのは、青い機体は亜連のものだが、パイロットがエトウかどうかわからない点だ。

 もしエトウであれば、“壁”を抜けてくる可能性のある三者――ユプシロン、龍王、エトウ――のうち二つが揃って現れたことになり、これを撃滅すれば、残る不安材料は龍王だけとなる。その龍王も、核を撃つ前に発見することさえできれば、あとのことは問題にならない。

 しかしエトウでない場合、空間跳躍によってどこから現れるかわからない伏兵が、まだ残っていることになる。しかも、侵入してくる敵の規模がどれほどのものか、その上限値がわかっていない。エトウの空間跳躍に備えて特異点付近に残ったワイルダー兄弟は、どんな規模の敵が来ようと守りきるつもりでいるようだが、あてにはできない。龍王を取り逃がした先例がある。

 ユプシロンと青い機体の撃破には、最低限の数で当たる。ケーシャはそう決断した。下手に戦力を小出しにしては各個撃破される恐れがあるから、少数精鋭で臨まねばならない。

 南側を守備するリヒャルト・ブラームスに、ケーシャは回線を繋いだ。

「ブラームス、あとを任せる。正面の敵はコミレットと私で片付ける」

「それは危険です。こちらも向かいます』

「もう一機がエトウかどうかわかるまでは、おまえにはそこにいてもらわねばならん」

「……了解。どうか、お気をつけて』

 ブラームスの心配はもっともだった。ケーシャが直接引き連れているエントゼルトゾルダートが二機、コミレットの隊は編入したE12(エーツヴェルフ)の機体を含めて五機で、計八機。数でいえば、彼我戦力比は四倍。しかも、“壁”内側の通常領域に特化した砲戦仕様のエントゼルトゾルダートを二機用意している。だがそれでもケーシャは勝利を確信できない。過日、ユプシロンは“壁”と同じ防御効果を持つシュッツネーベルを用い、ミサイルと砲弾を完全に防いで見せた。さらに暖炉の谷の火炎を操るという技まで駆使したのだから、また何か、予想だにしない戦術を秘めているかもしれない。ケーシャは道を急いだ。

 不安は的中した。ケーシャの愛機シュヴァルツパンターがユプシロンを射程に収めるまでに、コミレット指揮下の二機が撃破されていた。いずれもE12からの編入機。阿吽(あうん)の呼吸なくしては勝てない相手ということだった。

「隊長、ユプシロンに攻撃が効きません』

 コミレットの右翼を張る部下が悲鳴を上げた。見ればユプシロンは巨大な盾を携行しており、その表面に広域のシュッツネーベルを展開しているようだった。素手で展開していた過日とは、その防御力も異なるのだろう。実際、四脚型が放った対戦車ミサイルの直撃すら、白い靄(もや)は吸収してしまった。しかも、こちらの攻撃の合間を縫ってユプシロンの陰から青い新型が飛び出し、ライフル砲による反撃をしかけてくる。

「あれがトーデスゲヴァルトのものと同様なら、盾は良くても機兵のほうがそのうちオーバーヒートします。それまで……』

 言って、コミレットは両翼の二機とともに攻撃を加え続ける。ケーシャはその戦術を自分も採用することにした。

「下がれ。熱粒子砲のフルチャージを撃つ」

 味方機が飛び退くと同時に、シュヴァルツパンターの右腕が高温粒子のビームを最高出力で放った。通常領域で実施した射撃試験では戦車を溶かしたという、強烈なビームである。動く目標に当てづらいのが難点だが、僚機のエントゼルトゾルダートが牽制射撃を行い、ユプシロンらが回避するのを許さない。

 ユプシロンは盾を構え、青い機体はその陰に隠れ、ビームは盾の中央に着弾した。着弾は瞬間的にショックコーンのような煙を生じたが、それが晴れもしないうちに、僚機の一機がユプシロンの反撃で脚を撃ち抜かれる。巨大な盾とともに長大な砲を振り回すユプシロンの勇猛な動きに、ダメージは見受けられない。

 ケーシャは戦慄した。“壁”を前にした敵軍の恐怖を、今は自分たちが味わわされている。すでに二機が撃破され、一機が歩行不能になったというのに、敵には目に見える損害を一切与えていない。

「囲みましょう。そうすれば、少なくとも青いほうは片付く』

 コミレットの提案は、ケーシャの思いつきと一致していた。いくら防御面積が広かろうと、シュッツネーベルが盾の表面に形成されている以上、全方位を同時にカバーすることはできない。ケーシャがユプシロンの正面に残り、他の動ける四機がすばやく両翼に回り込む。もちろんその間も切れ目なく攻撃を加え続け、敵の動きを縛ったまま、徐々に十字砲火へとシフトしていく。

 ジリ貧になるのを悟ったか、半包囲陣形が完成する前に、青い機体がユプシロンの傍らを離れた。重装備のわりに俊敏な動きで、攻撃をかわしつつ後退する。しかしユプシロンは置き去りだ。

「先にユプシロンだ」

 ともに戦い慣れた部下たちに、詳細を指示する必要はない。ケーシャのその一言だけで、五機のエントゼルトゾルダートが一斉にユプシロンに向け発砲する。ユプシロンは回避しない。回避などできるはずがない。ケーシャはユプシロンに有効な打撃を与えたことを確信した。

 そのとき、防御と反撃の間で迷ったのか、ユプシロンが巨大な盾を真上に向けて掲げた。着弾の寸前のタイミング。いや、いくらかは当たっている。しかしその効果のほどを目視することなく、ユプシロンの姿は突如として現れた炎の幕に遮られ、ケーシャからは見えなくなった。

 それは数日前、ユプシロンがケーシャの前から逃げるときに使ったのと同じ技だった。ただし、ここは火炎発生領域ではなく、周囲に変則領域による炎など存在しなかった。今回、ユプシロンは炎を動かしたのではなく、生じさせたのである。そして、その炎の規模も前回とは桁が違う。まるでユプシロンを中心として爆発でも起こったかのように、炎――実際にそれが火炎であるかどうか、ケーシャには判断しかねた――の波が同心球状に伝播する。

 迫り来る火炎に圧倒され、ケーシャは身が竦(すく)んだ。動けたとしても避ける隙間がなかった。瞬きする間に火炎波はシュヴァルツパンターを呑(の)みこみ、やや遅れて衝撃波が襲ってくる。

 自動姿勢制御により踏みとどまった機体を、ケーシャはすぐさま回避運動に移行させようとするが、高温に晒(さら)されているためか制御系の反応が鈍い。火炎が途切れるころには入力どおりに左に跳んでくれたものの、そのタイムラグは致命的となった。クリアになった視界には、突進してくるユプシロンの姿が映る。距離は百メートルもない。互いに砲口を向け合うが、シュヴァルツパンターの熱粒子砲は衝撃波を受けた際に発射シークエンスがキャンセルされていた。シークエンスの再実行が終わるより早く、ユプシロンの攻撃がシュヴァルツパンターの右腕を丸ごともぎ取る。弾は貫通して、腕の後ろのセンサーモジュールも破損。被弾により大きな回転モーメントも受けたシュヴァルツパンターは、機体の慣性モーメントの再計算が追いつかずにバランスを崩し、よろめく。その間にユプシロンが脇をすり抜け、さらに、一度は後退していた青い機体がそのあとに続く。ケーシャはろくに照準の定まらないまま左腕の機関砲を発砲したが、青い機体は被弾を意に介さぬように直進して来て、大きく振りかぶった右腕の、その先端の鋭い四本の爪によって、シュヴァルツパンターの頭を薙(な)いだ。コクピットの真上に当たる頭部への打撃に、ケーシャは打ち揺さぶられ……。

 ケーシャの意識はそこで途切れた。


*   *   *   *   *


 第二関門突破、と江藤は呟(つぶや)いた。

 怪物の群れを振り払って“壁”に突入し、中で待ち受けていた機兵部隊も突破した。今はもう、炎が地の底から噴き上がる火炎発生領域に踏み込んでおり、戦車や歩兵に待ち伏せされる心配はない。“壁”近辺よりむしろ安全だった。

 目指す特異点まで、もう少し。しかし最後の関門が残っていることを、江藤は忘れていない。オルロフを鍵としたこの一連の変則現象を停止させるためには、その鍵を操っている“白銀の人形”、ノイエトーターを倒さねばならないのだ。

「大丈夫か?』

 先を行くヴォルフが尋ねてきた。さきほどの戦闘ではさすがに消耗したらしく、息が乱れている。

「稼動には問題ないようだ……が、弾があと六発しかない」

 慣れない雷麒麟のコクピットにやや戸惑いながら、江藤は損傷の程度を確認しているところだった。牙黒鷲の盾に守られていた間は無傷で済んでいたが、最後の強行突破で機関砲を被弾したせいだろう、上半身の数箇所に異常が検知されている。ただ、異常の具体的内容までは江藤にはわからない。推定できるのは、駆動系の中枢は無事だろうということだけで、あとは装甲が脱落したのか、何かの締結が緩んだのか、モニターに表示されるメッセージからは読み取ることができない。

「ノイエトーターに、どこか弱点はないのか。アキレスの踵(かかと)のような」

 少ない砲弾をできるだけ有効に使おうと考えての質問だったが、ヴォルフの答えはそっけなかった。

「ない。強いて言うなら、目や関節の露出部ということになるが、その武器では難しい。あれもシュッツネーベルを……牙黒鷲と同じ障壁を展開できる』

「なら、俺はどうしたらいい」

「まず護衛機を片付けることになる。場合によってはそれを全部、少佐に任せたい』

「わかった。おまえはノイエトーターの撃破に専念してくれればいい」

 そこまで打ち合わせたところで、火炎発生領域を抜けた。ここから先は特異点。この暖炉の谷の中心に位置しながら、変則領域が定常的に存在しない領域である。ただし地形が火炎発生領域よりも険しく、まだ中心部を見渡すことはできない。

 江藤は前々から、この特異点を台風の目のようなものかと想像していたが、風ならぬ変則領域の感触には存外に変化がなかった。この先に待つオルロフとノイエトーターの存在感が強烈過ぎて、炎をもたらす変則領域が感知できないのだろうと、江藤は推察する。そして、帰路ではこの境界通過のもたらす感覚を明瞭に味わってみたいとも思う自分が、おかしかった。

 シュッツネーベルをもつ牙黒鷲が前に出るかたちで、二機は稜線を跳び越え、特異点中心部へと躍り出た。さすがに警戒は厳しく、周囲を見渡す間もなく砲火が襲ってくる。滞空中に一発、そして着地後に二発の着弾があったが、いずれもシュッツネーベルが防いでくれた。

 撃ってきたのは、赤く塗られた鎧風の機兵だった。オズボーンと名乗った男のことを江藤は思い出したが、その赤い機兵のうちのどれがオズボーン機であるか江藤はわからなかった。護衛というより地獄の門番とでも形容すべきその機体は、三機いた。そしてその背後には、ノイエトーターの跪(ひざまず)いている様子が見える。

「Todesgewalt……』

 ヴォルフが母語で呟いた。トーデスゲヴァルト。それがあの機体の名らしいと、江藤は了解する。ヴォルフにとっても強敵らしいと声音から読み取ったが、しかしノイエトーターを目前にして退却はありえない。攻め切るしかない。

 牙黒鷲の防御を当てにして、江藤は迷わず先手を取った。左翼の一機に向け、火縄を発砲。しかし構えの段階で動きを読まれ、回避される。続く二射目は動作だけのフェイントとして、トーデスゲヴァルトが回避したところに真の二射目を命中させたが、当てたのは円形の盾だった。そしてその盾に穴が空くことはなく、白い靄が生じるのみ。

「こいつらもシュッツネーベルを使うのか」

 江藤は慌てて牙黒鷲の後ろに引っ込む。

「そうらしい』

 別の機体を狙ったヴォルフの攻撃も、同じように防がれていた。改めて見渡すと、三機中、二機が盾を持っているとわかる。盾を持たないのは中央の一機。

「さっきの技、また使えないか? おまえが突破さえできれば、あとは……」

「駄目だ。あれは吸収したエネルギーを放出しているに過ぎない。向こうが撃ってこなければ、こちらから使うことはできない』

 そういう仕組みかと江藤は納得したが、さりとて、牙黒鷲の盾が必要なエネルギーを蓄積するまで、ここでじっと待つわけにもいかない。相手のほうが数は多いのだ。そして江藤の雷麒麟にはシュッツネーベルが使えないうえに、ろくに武器さえ残っていない。勝機はどこにも見出せなかった。たとえ中央の一機を倒したところで、左右の二機を抜いて牙黒鷲をノイエトーターのもとへ向かわせることは不可能。絶対的に武器と員数が足りない。

 急がねば完全に戦闘の主導権を奪われると江藤は焦ったが、ふと気づくと、三機のトーデスゲヴァルトは攻撃の態勢を解いていた。江藤たちの攻撃を警戒はしているが、自ら攻撃をかけてくる様子はなく、ただ佇(たたず)んでいる。

「抵抗をやめよう、という気にならないか?』

 突然そんなことを言い出したのは、ヴォルフの声ではなかった。牙黒鷲からの発信ではない。通信用の電磁波を殆(ほとん)ど吸収してしまうバルムンクフィールドの外側から、その声は直接音波によって語りかけてきたのだ。

「オズボーン・ワイルダー大尉とは、お声が違うようだな。誰だ」

 江藤は自分も外部音声出力を選択し、問い返す。トーデスゲヴァルトのうち一機が一昨日遭遇したオズボーンのものとすれば、声の主は他の二機のパイロットか、あるいはノイエトーターのパイロットだろうと江藤は推測する。

「――青い機体に乗っているのは、黒龍隊のエトウ・ヒロテル少佐か』

 声は、ややあってから反応を示した。江藤は怪訝(けげん)に感じながらも、そうだ、と返答する。

「それは都合がいい。是非、ヴォルフだけでなく君とも話をしたかった。まあ、まずは落ち着こう。お互いに、武装を地面に置くというのはどうだろうか』

「絶対的優位を強調しておいて、よく言う! それでは降伏勧告と同じだ。だいたい貴様は何者だ。俺の質問に答えろ」

 江藤は強気に出たが、内心では混乱を処理しきれずにいた。“壁”内部に防衛網を準備していた啓示軍が、ここに来て降伏勧告を出してくる意味。そして相手が自分をヴォルフと同列に特別視する理由。とにかく強気に会話を続けることで、考える時間を稼ぎたかった。

 江藤にとっては幸いなことに、声の返事はすぐには戻ってこなかった。先に、ヴォルフからの通信が入る。

「江藤少佐。あの声、あれは……』

「私は“時報(ツァイトアンザーゲ)”、アルベルト・ヴェーバーという』

 それは驚愕に足る名だった。亜細亜(アジア)連邦軍の中で、啓示軍の中枢にいる人間と言葉を交わした者などほとんどいないのだ。江藤は、自分がこの戦争の中核に触れようとしていると感じて興奮を覚える。

 しかし、別のかたちで興奮したのがヴォルフだった。ヴォルフの声が、スピーカーを通じて特異点に響き渡る。

「どこだ、アルベルト! いまさらあなたが機兵の操縦を覚えたわけでもあるまい。トーデスゲヴァルトに音声通信を仲介させているのはわかっている。話をしたいというなら、まずは姿を現すのが作法だ』

「やあ。こうして声を聞くのは久しぶりだな、ヴォルフ。――あいにく、手の離せない仕事があるのでね。遠隔会話で堪えてもらいたい。心配はいらない。私のほかにこの会話を聞いている人間は、そこの特異点にいる者がすべてだ』

「この場所で内密に話がある、ということか。ハンスよりも、むしろあなたの人格を慕って従う者たちもいるだろうに……背信だな』

 先に突破した機兵戦隊(エスカドローン)のことをヴォルフが思い起こしているのは、想像に難くない。江藤とてそう感じた。さきほどの戦闘、弾薬を温存するため敢えて打撃で済ませた攻撃もあるが、逆に、確実に一発の弾で決着をつけるためにコクピットを狙撃した例もある。江藤とヴォルフをここに到達させないために、命を散らした人間がいるのだ。

「信頼には、常に威信で応えねばならない。しかし、ともに維新を試みた仲間を前にして、そのような虚構を維持し続けるのは困難だと判断した。そのうえでの最善の策だ。――ああ、そこで君たちの前に立ちはだかっている三人のことなら、気にすることはない。彼らはもとより、忠誠心で従っているわけではないのでね』

 忠誠心。江藤はヴェーバーの持ち出したその言葉に、違和感を覚えた。ただ忠誠心に依拠して啓示軍が欧州支配を実現できたなどとは、子供でも信じまい。“壁”の外で遭遇した事象から江藤が推察したところでは、“壁”の存在は周囲の人間の思考に強迫的な影響を及ぼす。啓示軍の異様なまでの結束力も、ベルリンを覆っている巨大な“壁”に由来するのではないかと考えるのは、自然な発想だ。しかし、ヴェーバーはそれをごまかそうとしている。そのうえで何を話すのだという疑心が、江藤の中で渦巻く。

「で、話とは何なのだ」

 江藤は方針を変えて、早く話を進めさせることにした。ヴォルフはこの男と旧知らしく、話せば話すほどヴォルフから正常な判断力が奪われる可能性がある。なにより、自分たちも今現在、“壁”の影響を受けているのではないかと、江藤は気になりはじめたのだ。ヴェーバーが話とやらの本題に入らない理由が、そこにあるようにも考えられる。

「お互いに有益な未来の構築について、とでも題そうか』

「お互い、とは誰のことだ。誰にとって有益な未来だ」

「私と君達、と解釈してくれて構わない。そこに、エトウ少佐、君の郷里の人々や部隊の仲間たちを含んでも構わないが、君に命令を下す国家体制とその代表者たちを包含するとは思わないで欲しい。亜細亜連邦という虚像を見て、それが意思を持つ主体だと認知するような感覚を、私は持ち合わせない』

「亜連もまた虚構だと言うか。ならば啓示軍はどうなのだ。啓示軍こそ虚構ではないのか。どういう手品を使っているのか知らないが、種明かしをすれば欧州全域にわたる結束も一夜で瓦解(がかい)するのではないのか。そのなかでおまえが自己の帰属対象と見なすものは何だ」

「仮定を重ねた条件下での質問に答える必要はないな。しかし、私は君が予想しているような原因によってハンス・ライルスキーに従っているわけではないことを言明しておこう。私は正真正銘、正気だよ。自らの意志で彼に従っている』

 江藤の疑問の雲の中で、ひとつの核が生じて凝固した。今の言葉で、ヴェーバーは“壁”が精神に干渉することを肯定した。使命感と生存本能を両皿に乗せて揺らいでいた秤が、一方に傾く。外廓聯(がいかくれん)では見つけることのできなかった、命を賭けてでも成し遂げるべき使命が、今ここに与えられているのかもしれない。

「アルベルト。俺もヴァルターもみんなも、自らの意志でハンスのもとを去った。その気持ちは今も変わらない。俺たちに“ヴェツファート”は受容できない。今この“壁”の外側でシミュレートされている未来を、俺は選びたくないんだ』

「何?』

 ヴェーバーの声に動揺が浮かんだように聞こえた。ヴォルフが口にした“ヴェツファート”という単語がそうさせたのかもしれなかったが、江藤はその語の表すものが何であるか、推測できない。

「ここを第二のベルリンにしようというもくろみはわかっていた。しかし、あれは何だ。なぜ戦意を削ぐのではなく、煽り立てた。信じる心を植えつけるのではなく、疑う心を押し付けた。あんなものを世界中に敷衍(ふえん)したら、人は滅んでしまう。教えてくれ、アルベルト。ハンスは、ヴェツファートを受容してしまったのか』

「そんなことはない。ヴォルフ。ヒトの滅亡を回避するために、ハンスは啓示軍を興したのだ。“壁”が……、いや、“箱”が闘争本能を過度に煽っているだと?』

「そうだ。亜細亜連邦軍は同士討ちで壊滅状態にある。もしもあれが意図せぬ結果だというのなら、今すぐノイエトーターをあれから切り離せ』

 江藤には文脈の理解しきれない会話が交わされたのち、ヴェーバーは沈黙した。

 その間に江藤は情報の整理を試みる。聞き違いでなければ、ヴェーバーは“壁”を“箱”と言い直した。単に二種類の符牒が存在するのか、それとも、指し示す内容に違いがあるのか。“壁”は上空も――おそらくは地下も――巨大シュッツネーベルで覆っているのだから、壁より箱のほうが実態に即した呼び名ではある。しかし、何か釈然としない。ヴォルフは“壁”の説明において何かを隠していた、という結論に江藤は辿(たど)り着く。

「――残念だが、少し遅かった』

 江藤がヴォルフに問いかけようとしたとき、ヴェーバーの声とともに、特異点に光が溢れた。炎の輝きではない。蛍の光を無数に集めたような、不思議な温かみのある光。センサーを信じる限り、発熱は伴っていない。

 光の向こうで、いつの間にかノイエトーターが立ち上がっていた。そして、その左手に掲げられた半球状の物体、ケーシングに収まったオルロフが、際立った輝きを見せている。

 江藤は同じ光を以前に見たことを、突然思い出した。西フェルガナ基地で、消滅砲の直撃を受ける寸前、江藤はこれを龍のコクピットの中で見ていた。熱を伴わないのは消滅砲の光と同じだが、あの目まぐるしく色相が遷移する虹色の光とはまるで違う。なにより江藤の第六感がそれを明確に告げていた。

「ヴォルフ、これは……」

「まさか、ラグナレク砲を!? アルベルト!』

「ラグナレク砲ではないよ。しかし、この変則現象はベルリンの壁と等価でもない。これを試すために、この地を制圧させた』

「何をしようというんだ』

「世界(ヴェルト)の意志を確かめる。そこでじっと見ているがいい。話の続きはそれからだ。――言っておくが、下手に干渉すると何が起きるかわからない。君たちの場合は、特にな』

 光はますます広がっていく。江藤は音声出力をオフにして、ヴォルフに叫んだ。

「乗せられるな、ヴォルフ! チャンスは今しかない!」

 トーデスゲヴァルトも、この中では火砲を使えない。江藤はそれを感じ取っていた。ヴォルフがそれを感じ取れないというのなら、行動でわからせるまでだった。江藤は雷麒麟をノイエトーターめがけて突進させる。

「待つんだ少佐! こうなっては、オルロフがもうひとつない限り……』

 ヴォルフとの通信はそこで途絶したが、眼前に立ちはだかったトーデスゲヴァルトを抜くために、江藤は意識を集中せねばならなかった。跳び越えると決めてペダルを踏み込んだとき、周囲の光が急激に密度を増して雷麒麟を取り巻き、江藤は眠りに落ちる瞬間とよく似た感覚に包まれた。

 光の渦の中で、雷麒麟は跳んだ。そして、どこにも着地しなかった。



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 カネジュ・イルベチェフは、自らが加担した計画の不備を思い知らされていた。

 黒龍隊と一九〇旅団がもくろんだ元老院派制圧作戦は、伏せられていた龍王と、司令部要員に扮していたRAT(ラット)によって阻止された。イルベチェフは元老院派とRATの手際の鮮やかさを評価する一方で、黒龍隊と一九〇旅団の不甲斐なさを痛感する。所詮、彼らは寄せ集めに過ぎず、北熊(セヴェルメドヴェーチ)とは違うのだと。そしてそれは自責へと繋がる。生半可の結束では友軍司令部の制圧など不可能だと、藤居から密かに協力を仰がれた時点で、そう判断すべきだった。しかしイルベチェフは企みに荷担し、結果は失敗に終わった。

 イルベチェフがマヒロフスキーを謀ったことは、すでに公然の秘密である。イルベチェフの提案によって後衛部隊を前線に回した直後に、議会派の襲撃に遭ったのだから、気がつかないほうがおかしい。だから作戦が失敗した時点で、イルベチェフは銃殺も覚悟した。実際、藤居たちが降伏したのと時を同じくして、イルベチェフはRATに取り押さえられ、頭に銃を突きつけられたのだ。だが、マヒロフスキーの指示によって、今は体を拘束されることもなく座席についている。

「与する相手を間違えんことだ」

 マヒロフスキーはそう言って、いったん指揮車輛をあとにした。

「やれやれ、俺を元老院派に仕立てようとでもいうのか」

 独白してみても、監視に残った軍服姿のRATに反応はない。そのRATの人数はふたり。うまくやれば脱出できるとイルベチェフは見込んだが、実行に移すのは控えた。囚われた議会派を解放できなければ、意味はない。体より頭を使うべき時なのだ。

 しばしの黙考の末、状況打開の鍵はアカスティン・マヒロフスキーだとイルベチェフは結論づけた。この場で戦術的な優位を確保しているのはRATであり、彼らは元老院の命でしか動かないが、要職にある元老院派の将校の意向は、尊重する。つまり、自分を味方に引き込もうとしているマヒロフスキーの思惑を利用すれば、RATをこちらの目的達成に協力させる道が拓ける。

 マヒロフスキーにどう交渉を持ちかけるか、イルベチェフがその草稿を練っていると、当のマヒロフスキーが数人を引き連れて戻ってきた。指揮車輛の座席は満員となったが、たとえ空席があろうと出入り口の男が着席することはなかっただろう。軍服を着ているが、これもおそらくはRATの一員であるに違いない。マヒロフスキーの他にただひとりRATではないと確信を持てたのは、手錠付きで連行されてきた中年の将校だけだった。服装と、東洋人らしい顔立ちから、一九〇旅団の旅団長、古菅純であろうとイルベチェフは察する。

「三者会談ができるな」

 マヒロフスキーは笑ったようだったが、そのとき主照明が落とされたため、よくは見えなかった。車内各所のディスプレイが発するほのかな光のなかで、元老院派と議会派、そして北熊の代表者が顔を見合わせる格好になる。

「手始めに、友軍に刃を向けたその理由を聞かせてもらおうか、古菅大佐。よもや、貴様らが一方的に宣言した応龍隊との協調態勢に、我々が従わなかったことを理由には挙げまいな? 本来ならば、こちらが貴様らを叛逆部隊として処分するべきところだ」

 そう言って、マヒロフスキーは拳銃の安全装置を外す。古菅は手錠をはめられたままだ。

「たとえ私が貴官の銃弾の前に倒れたとしても、後世の人々は私を称賛するだろうな。道義と国際法に背こうとしている隣人を正すため、命まで賭けた男がいたと」

「あくまで俺の核使用を阻止することが目的だった……と、査問ではそう答えるつもりらしいな。だが古菅よ、敗北者の言い分を聞くほどの余裕は、今の亜連にはない。それに、だ。選びうるすべての道を直視しなければ、後世に貴様を評価してくれるという亜連市民そのものがいなくなるのだぞ」

 核使用の計画を暗に認めて、マヒロフスキーはその正当性を主張しはじめた。亜連存亡の危機を前にして、もはや形骸化した国際法に殉じることに何の得があるのか。それはイルベチェフには同意のできる理論だった。自分も、北熊の中枢であるオムスクに重大な危機が差し迫ったならば、NBC兵器だろうと使ってしまうだろう。もちろん決断に至る過程で大いに躊躇(ちゅうちょ)するに違いないが、同胞の命と引き換えにできるならば、矜持(きょうじ)や尊厳などいくらでも捨てるだろう。イルベチェフはそう思う。だから反駁(はんばく)の口は開けなかった。

 しかし、古菅は違った。

「欧州事変の再来がそれほど怖いか」

「怖いな」

 古菅の挑発めいた問いに対し、マヒロフスキーはあっさりと頷(うなず)いた。そして手元のコンソール上に指を走らせ、イルベチェフと古菅からも見ることのできる大型のディスプレイの表示内容を切り替える。それはイルベチェフには見覚えのある画面だった。ただし、表示されている具体的なデータは大きく様変わりしていた。

「大佐、これは通信障害ではないのですか」

 イルベチェフは自分がデータの見方を間違っていないか疑いたくなった。作戦進行状況を把握するためのその画面には、“壁”攻撃のため展開した部隊の位置と状態が事細かに表示されているはずだった。しかし信じがたいことに、今やその状態表示はほとんど二通りだけに分類できてしまう。戦闘不能、もしくは通信途絶。

「バロッグはもう晴れている。通信障害ではない。攻撃部隊は壊滅したのだ」

「まさか、二個機兵戦隊とロボット部隊ていどが、短時間にこれだけの被害を……」

 古菅も唖然としている。バロッグも晴れつつあったなか、戦車が機兵や乗俑機(じょうようき)に遅れを取ったはずはない。それにもかかわらず、“壁”に到達することなく、彼らは壊滅させられている。“壁”にはまだ得体の知れない力があるのだと、イルベチェフは戦慄する。

「この危機的状況が理解できたか。すでに始まっているのだ。欧州事変の再来が。もはや手段を選(え)り好みなどしておれん。早急に決着をつけねばならん」

 イルベチェフは古菅を見た。しかし細めた目の奥で古菅が何を考えているのか、想像がつかない。ただ、連行されてきたときに漲(みなぎ)っていた自信が、今感じられないことは確かだった。

「浅はかよな。ここに来ていないということは、江藤と応龍隊は直接、“壁”に向かったのだろうが、この状況で奴らだけ無事に辿り着けたとは思えん。あいにくだが、貴様らが望みを託した相手は無力過ぎた。守るべき人々のことを考えるならば、頼るのは強く確実な力でなければならん」

「だから核を使うと? それが元老院のやり方ですか。いや、たとえ元老院がそう指示を出したのだとしても、軍人として、それが従うに値する命令かどうか考えてみないのですか」

「言うな、イルベチェフ大尉」

 マヒロフスキーは拳でどこかを殴りつけたらしく、大きな音が聞こえた。

「はっきり言うと、俺は元老院のやり方が嫌いだ。奴らはいつも、正解のない選択肢を押し付けてくる。そのたびに俺は、いちばんマシな選択肢を嫌でもその中から選別する羽目になる。それなのに、選択し行動した結果は、元老院ではなく常に俺の名前とともに記憶されることになるのだ。つくづく不条理な運命よ」

「そう思っているのなら、何故こうして元老院派の指揮を?」

「それも不条理による因縁でな。――しかし今回に関して言えば、おまえたちにも責任があるぞ。龍王が一度作戦に失敗した時点で、俺の前から実行可能な目的達成手段はすべて消え去り、責務は全うされたはずだった。だが、そこへ新たな“手段”をわざわざ持ち込んだ連中がいる。おかげで俺は、悪魔として民衆に記憶される運命を担わされた。他人事のように俺を責める資格があるのかどうか、自分を顧みてはどうだ」

 マヒロフスキーにそう言われてイルベチェフは内心ぎくりとしたが、すぐに、焦ることなど何もないと自分を落ち着かせる。マヒロフスキーが指摘したのは、暖炉の谷北辺で拘束された北熊の増援部隊のことではないはずだった。今しがた見たように、元老院派の部隊間の連絡は断絶している。密かに増援部隊の解放に向かったタマリアノフたちの行動は、まだ露見していない。そもそもダスマ中将が送ってきた荷が“手段”たりえるわけがない。

「わからないか、大尉。――古菅、貴公には知らぬなどと言わせんぞ」

 イルベチェフが返事をしないでいると、マヒロフスキーの視線は古菅に移った。マヒロフスキーもそれを追う。しばし沈黙していた古菅は、やがてゆっくりと呟くように言った。

「まさか、保険が仇(あだ)となろうとはな」

「保険……。古菅大佐、あなたは」

「江藤の計画は万全ではなかった。最悪の場合に備え、保険をかける必要があった」

 古菅のいう保険が何であるか、イルベチェフは悟った。

「――元老院派は、第二派攻撃のための核弾頭を持っていなかったのか」

「知らんで協力していたのであれば、貴官は憐れだな。龍王用に準備中の核弾頭は、紛れもなく、古菅がこの地へ持ち込んだものだ」


*   *   *   *   *


「くそっ、なんてことだよ」

 RATの監視下にありながら坂元が声を荒げたのは、とあるトラックが龍王のほうへ走り去ったときだった。横に座っていた南田のみならず、辺りの全員に聞こえる声だったので、すぐさまRATのひとりが銃口を向け、静かにするよう脅してくる。南田は坂元の口を塞ぎながらそれへ頷き、事なきを得た。

「坂元、RATを刺激するな。あのトラックがどうかしたのか?」

 RATが他へ注意をそらすのを待って、南田は小声で尋ねた。坂元はトラックの後姿から目を離さないままそれに答える。

「俺たちはとんだミスをしでかしたんだ。――荷台のコンテナ。中身は核弾頭だ」

「何?」

「龍王は出撃せずにここで待っていた。俺たちがあれを持ってやって来るのを、待ち受けていやがったんだ。俺たちは見事に、連中のお膳立てを手伝わされたってわけだ。なんて皮肉だ。核使用を阻止しに来たはずなのに、俺たちが来なければ、龍王が核弾頭を手にすることはなかっただなんて……」

 坂元は自分の太ももに拳を打ち付ける。しかし南田は、坂元とその後悔を共有できなかった。坂元の言ったことの意味が、理解できなかったのだ。

「ちょっと待て。俺たちが来なければ核弾頭はなかっただって? それに、元老院派がそれを見越していたって、どういうことだよ」

 坂元は自分を落ちつけるためか、無言の時間を挟んでから説明を始めた。

「古菅大佐は、前に啓示軍から奪回した核弾頭をそのまま手元に置いていた。それがあれだ。けど、このことを知っているのは大佐とその側近数人、そして俺だけのはずだった。大佐がここへ持って来させることはありえないから、犯人は久留(ひさどめ)だろう。ヤツは核弾頭の存在に気づいていながら、このチャンスを得るために、わざと知らぬふりを通していたんだ。畜生が」

「久留が、前から寝返りを計画していたっていうのか」

 南田は仲間を疑う坂元に反省を促したかったのだが、当人は再考の余地などないとばかりにきっぱりと頷いた。

「久留は核を使うことに賛成だった。つまり、元老院派の作戦を支持していたってことだ。少佐に反対意見が通らなかった時点で、あいつは元老院派に情報を流すことを決めたんだろう。一九〇旅団は核弾頭を持っている、これも使えるぞ、ってな」

「言いがかりだ。情報を流すって言っても、そう簡単に連絡なんてつけられたはずがない」

「たしかに、一介の伍長の言葉でRATが大々的に動いたというのは妙だと思う。でも現に龍王は俺たちが来るのを待ち受けていて、まんまと核弾頭を手にした。そして出撃準備に入ってる。内通があったとしか考えようがない。――それに、久留に関しちゃ思い当たる節がないわけじゃない。もしかしたら……」

「やめろよ。久留も自分が信じるように行動して、その結果こうなってしまっただけだろ。こんな状況じゃなきゃ、久留がこんな……」

 そこで南田は坂元に口を塞がれた。慌ててRAT様子を見るが、南田を気にした動きは見られない。ほっとして坂元に視線を戻すと、坂元はまだ険しい表情を崩していなかった。

「竜時。忘れるな。ヤツは鷹山の龍を撃破したんだ。俺はそれを許すつもりはない。絶対にな」

 そう囁いたきり坂元は背中を向けた。

 鷹山は深手を負ったが、致命傷ではなかった。――RATの話に拠れば、そうらしい。南田も他の黒龍隊の仲間も、鷹山の収容を直接見てはいない。RATが嘘を言っていないという保証はない。だから坂元が苛立(いらだ)っているのは当然のように思えた。そして、それでこそ坂元だ、とも南田は思う。

 ここ数日、坂元が付き合いを避けているように見えたのは、核弾頭の秘密を漏らさないためだったのだろう。存在を知る人間がごく少数である以上、坂元が極秘で見張り役の一端を担っていたことは想像に難くない。よく姿を消していたのはそのせいだったのだ。

 そういえば士官学校時代にも似たようなことがあったと、南田は思い出す。坂元は演習中の仲間の不始末を自分ひとりのミスとして教官に報告し、事前の工作によりうまく信じさせて、自分ひとりで処分を受けたのだった。当時南田は坂元のことをまだよく知らなかったが、突然口裏合わせと証拠隠滅の協力を頼み込んできた坂元の行動力は、南田にはずいぶんと眩(まぶ)しく見えたものだった。

 しかし、その坂元が今は光でなく闇を帯びている。突き放した態度を取ってまで守ろうとした秘密が実は漏れており、漏洩に気づかなかったことが鷹山の負傷に繋がり、そしてその加害者が訓練時代からの同僚である久留であったと知ったとき、坂元の硬い心には大きなひびが入ったのだ。砕けた破片が刃となって、何人も近づけさせない。――坂元の背中を見つめながら、南田はそこにナイフの刀身を幻視した。坂元が普段から携行していた、戦闘用のナイフである。戦力的な安心感を別にすれば、南田は一度としてそのような武器の携行で安らぎを覚えたことがないが、坂元にはそれが良い精神安定剤として機能していたのかもしれない。また、そのナイフを没収されたことでいっそう不安定になっている、という勝手な想像も湧いてきた。

「あれはどこの部隊だ」

 不意にあがった声に、南田は我に返る。坂元の背中から目を離すと、どこからかローター音が聞こえていることに気がついた。数秒の間に、輸送ヘリコプター、複数機、接近中、と耳が判断する。方位は、南。振り向くと、実際、地平線の上をヘリの編隊が向かってきていた。

 近くのRATは仲間と何か交信しているものの、別段驚いたり慌てたりした様子はない。どうやら自分たちにとっての味方ではないのだと、南田は膨らみかけた期待がしぼんでいく寂しさを感じる。

「状況の確認を怠るな。幹部候補の名が泣くぞ」

 耳元で小声ながらも厳しい口調で叱責され、南田は驚いた。いつの間にか藤居が横に並んで立っている。

 南田は改めてヘリの編隊を仰ぎ見た。RATから威嚇を受けることもなく接近してきた編隊は、それぞれに距離を取って着陸に入る。ただし一機だけはその場に降下せず、陣の真上にやってきてホバリングする。風が砂を巻き上げ、南田は反射的に顔を隠そうとしたが、藤居に言われたことを思い出してそのヘリの側面を注視した。前線での使用を想定していなかったのか、胴体には部隊名が、遠目に視認できるほど大きく記されていた。ただし、南田の視力ではよく判読できない。

「西部方面軍……」

 なんとか方面軍の印だけを判別したが、それが限界だった。困って藤居をふりかえると、藤居は片手を額にかざした恰好で、すらすらとその続きの文字を読み取ってみせた。

「第三〇三軽量機甲師団、第十五空挺大隊第二中隊。――指揮官が、降りて来る」

 そのとき藤居の口元がわずかに笑みのかたちを作ったのを、南田は見逃さなかった。


*   *   *   *   *


「進行中の作戦の中止を提案いたします、司令」

 ヘリでやってその少佐は、簡単な挨拶を済ませるとすぐにそう切り出した。名乗った所属から、イルベチェフは男が元老院派だとわかっていたので、その男が援軍として現れたのでないことに驚いた。

「どの作戦のことだ。あれの包囲は、元老院からの至上命題だ」

 元老院は嫌いだと宣言したその口で、マヒロフスキーがそう訊ねる。

「包囲を解けなどとは申しておりません。ただ、軍に協力しているSMITS(スミッツ)の実験機と、その管理を取り仕切るRATを、この暖炉の谷から退場させてはどうかと進言しているのです」

「そうすべき理由がわからんな。“壁”打破のためには、SMITSの知識とRATの行動力が欠かせない。欧州事変再来よりも、正規軍の体面が傷つくことのほうを恐れるのか?」

 マヒロフスキーは部隊の壊滅具合を示し、少佐を黙らせようとする。しかし、マヒロフスキーの説明の言葉は数秒のうちに遮られた。

「RATが遂行中の“任務”について、看過できない疑惑が発覚したのです。RATの一部が、本来の指揮系統から外れ、独自の思惑で行動している可能性があります」

「ほう。そのRATの一部に、ここの連中も含まれると言いたいわけだな」

「そうです」

 戦闘要員を含むRATがすぐそばにいる車内で、その少佐は堂々と言い切った。軍服姿であるために、RATと気づいていないのだろうかとイルベチェフは心配する。元老院派の将校といえども、今の発言をRATが笑って済ませるとは思えない。

「続けろ」

 マヒロフスキーはその一言で少佐を促し、同時にRATを牽制した。

「ここで話しても?」

 少佐はイルベチェフや古菅を見て、躊躇する様子を見せた。マヒロフスキーは「構わん」と笑ったが、薄明かりのなかでRATたちがどのような反応をしたかは見えなかった。

「まずお聞きしたいのですが、司令に協力している……、いえ、司令に元老院の意向を伝え圧力をかけているRATの指揮官は、なんというコード名でしょうか」

「BR450、呼ばれているぞ」

 マヒロフスキーがそう言うと、通信士の席に腰掛けていた女性士官がふりかえった。定かではないが、どうやらイルベチェフが作戦会議に出席したときに、RATの服を着て状況説明をしていた女性のようだった。

「なるほど、B種ですか。それはちょうどいい。是非、彼女に同輩のBK698についてお尋ねください。ダーダネルス作戦の開始から現時点に至るまで、BK698が従事している任務の内容を」

 その発言で、RATが一様に動揺するのをイルベチェフは感じた。BR450はマヒロフスキーから無言の問いを受け、口を開く。

「私の関知する特務員ではありません。RATの指揮系統において、これは珍しくないことです。RATがそのような機関であることは、我々と関係の深い少佐の部隊ならば、知悉(ちしつ)しているものと存じますが」

「機関内での所属を詐称し、命令書の偽造という手段で正規軍の作戦行動を恣意的に操作するような組織であるとは、認識していなかった。BR450。君の見解はどうだろうか」

「例示なさった事実が共有できておりません。何のことを仰っているのでしょう」

「ふむ。――前の言葉からすれば、GT72のことは、当然知っているな」

「はい」

「報告は受けていないか。先日のあの基地の奪還に際し、我々は事の重大さを鑑み攻撃を躊躇していた。そこへゴーサインを出したのが、師団長から届けられた命令書だ。しかし、内容の異なる命令書が基地奪還直後に届いた。つまり我々を攻撃に踏み切らせた命令書は、師団長カナタフ少将のものではなかったのだ。それを持ち込んだRATの特務員BK698が偽造に関与していたことは想像に難くない。このことは基地奪還後に合流したRATの守備隊に話したが、彼らはそのようなコード名をもつ特務員の存在を知らないと言っていた。あの地の守りを任された者となれば、おそらく私よりよほどあの地での研究内容をよく知っているだろう。RAT内での地位も高かったに違いない。その彼らのあずかり知らぬところで、GT72奪還の強行を命じる命令書を偽造する別のRATが存在した……。これは、あってはならないことではないだろうか?」

「あなたの仰ることの一部始終が真実ならば、答えはイエスです。ウェダム少佐。しかし、そのBK698なるRATが実在したとしても、現在進行中の作戦には関係のないことです」

「果たしてそうか。BK698は――あるいはその一味は、だが――その後も黒龍隊を追跡し、行動決定に影響を与えている可能性が高い。そして彼らの終着点がここだ」

「我が隊は新青海(チンハイ)基地から直接ここへ来たのです。そのような工作には関与していません。――司令、龍王の準備が整いました。ご命令を」

「待機だ」

 マヒロフスキーは即答した。そして、くつくつと笑う。

「そういえば、今朝の会見をぶち壊しに来た男についても、同じ事を聞かされたな。関知しない者だと。しかし結局のところ、あれがRATでないという証明はされていないぞ」

「惑わされないでください、司令。仮に造反者がいたとしても、龍王を運用する我が隊が、そうであるはずがありません」

「SMITS管轄の龍王を実戦に使うには、元老院議員の許可がいる、というのだろう。それは信用する。しかしウェダム少佐の話を聞けば、龍王のことで隊全員を信用するのは無理というものだ」

「時間がありません。龍王を早く……」

「汪(ワン)は待たせておけ」

 悠長に釈明などしていられないとばかりにBR450はマヒロフスキーを急かしたが、効果は全くなかった。

「450。話が面白いように符合するとは思わんか。古菅のもとに核弾頭があることをリークし、芝居じみた方法でそれをここに届ける手回しをしたのは、黒龍隊の人間だ。おまえと違う指揮系統で動くRATが、確かに存在するらしい」

「まさか、黒龍隊の内部にRATがいたと」

 イルベチェフにとってそれは盲点だった。しかし、それならば雷麒麟の件など、いくつかの疑問が解けそうだとも感じる。

「一介の機兵乗りにしてはよく働いたものだが、黒龍隊にそのような工作員としての資質を備えた人材がいるとは、いかにも不自然。そのような能力を低く抑えるよう、人選は慎重を期したはずだからな。となれば、あやつは元老院の意図で敢えて編入されたRATよ。あるいは金星也(キム・ソンヤ)かもしれんが、奴は行方知れず……。それを龍王とともに出撃させようというこの作戦、たしかに、再考の余地がある。誰ともわからぬ人間の掌の上で、踊らされるつもりはない」

「なら、核の使用は中止して頂けるのですか」

 ウェダムが言質を取ろうとしたが、マヒロフスキーはそう簡単に頷かなかった。

「文字通り考え直すというだけだ。あれを使うよりマシな道があるものかどうか……」

「それならば江藤に託せ」

 古菅が声を大にする。

「この古菅純が保証する。江藤ならやってくれると。あの応龍隊との共同戦線を取り付けた男だ」

「それは応龍隊をも信じろということだろう。黒幕の知れぬRATを信用すること以上に難しいな」

「いえ、この件に関して彼らと我々の利害が一致することは、GT72で確かめられています」

 ウェダムの援護。それでもマヒロフスキーは頷かない。

「俺の立場では、そのような考え方は許されないのだ。悲観的観測も含めて、すべての可能性を……」

「それがいけないのです、大佐」

 イルベチェフは今が口を開くべきときと感じた。

「軍人としての責任を果たそうというのが、どう悪いというのだ、大尉」

「応龍隊は敵だ、核でなければ攻撃は不確かだと、不変の前提条件をそのように設定してしまうからいけないのです。あなたは、自ら選択肢を狭め、そこに最適解がないと嘆いている。しかし現実はそんなものではない。選択肢など無限にあるのですよ。オムスク政庁がクレムリンから独立して北熊を形成することなど、シベリア鉄道の封鎖が実行されるまで誰も予想などしていなかった。我々は用意されていなかった選択肢を作り出したのです。それができない者は、運命という言葉を口にして、酒と涙に溺れるわけですが……。大佐は今、そのどちらかを選べる立場にあるのです。もちろん、第三の選択肢を編み出してもいい」

 まるで予め用意していたかのように、言葉が喉から滑り出てくる。そのような感じだった。運命という言葉を否定しながら、しかしイルベチェフには、北熊のカネジュ・イルベチェフが今ここにいることは運命だったのだと思えた。

「――戦力はあるのか」

 長い沈黙を経たマヒロフスキーの反応は、肯定でも否定でもなく、質問だった。これにはウェダムがいち早く答える。

「戦車、自走砲、ヘリ、そして機兵が少々」

「機兵? ――ふふ、そうか、そういうことか。膳立ては揃いつつあったわけだな。しかし、まだだ。それではまだ足りない。俺の選ぶ道は、俺が選ぶことではじめてそこに完成する道だ」

 マヒロフスキーはそこで一息置き、イルベチェフと古菅、ウェダム、そしてRATたちが続きを見守る。

「元老院派と議会派、北熊、そして応龍隊が手を取り合う、その最初の例を俺の名とともに後世に残すのも一興だろう。――議会派を解放しろ。核弾頭は封印。龍王への指令変更。急げ。これは亜細亜連邦軍が全力で対処すべき事態である」



- 3 -


 複座型龍の後部座席に座っていた汪凱威(ワン・ガイウェイ)は、命令解除を確認した。そしてすぐに前部座席のパイロットにもその内容を伝達したが、その伍長はなかなか手を動かさなかった。

「聞こえなかったのか、伍長。弾頭は封印だ」

「――なんて奴らだ」

「何?」

 前にパイロットを務めていた軍曹よりさらに無口だった伍長が、私語を口にした。

「なんてバカなんだ。封印だって? あの“壁”の恐ろしさが目に入っていないのか……」

「伍長。攻撃が中止になったわけじゃない。手段を変えるだけのことだ。SMITSの用意した怪しい弾頭に頼るのは……」

「汪大尉。司令部は議会派によって占拠されたものと判断します。武装解除させられる前に、作戦を速やかに遂行すべきです」

 言うが早いか、伍長は待機状態にあった龍を立ち上がらせ、傍らの単装型不知火(しらぬい)を抱えさせる。すると、すかさず龍王から、<作戦開始カ?>とメッセージが届いた。

「バカを言うな」

 ノーとだけ打ち込んだメッセージを龍王に送り、そして伍長に呼びかける。機体はすでに走り出してしまった。

「止めろ、伍長。司令部は制圧されてなどいない。止めなければ命令違反と見なされるぞ」

「命令があろうとなかろうと、やるべきことはひとつだ」

 聞く耳を持たない伍長は前進をやめない。司令部の脇を通り抜け、陣から離れて行く。

 危険を感じ、汪は武器管制のロックを試みた。武器使用さえ封じれば、ひとまず最悪の事態は回避できる、と考えたからだった。できるなら機体のコントロール自体を奪いたかったが、残念ながらそのような機能がないことを汪は知っていた。

 しかし、企図した武器管制システムのロックは、成功しなかった。汪は急いで再操作する。また同じ結果。入力ミスではない。後部座席に与えられているはずの優先管制システムが、実装されていないのだ。

「どういうことだ……」

 前回出撃時には、自分がロックを解除してはじめて弾頭の発射が可能だった。しかし、その操作は最適着弾点の割り出しを行うプログラム上で実行していた。本来なら武器管制システムに別途アクセスしなければ出せないはずの許可が、急造プログラムであるため、許可を自動で出してシークエンスごとスキップできるよう改変されていたのだ。

 そこに裏があったのだと、汪は気づく。この複座型弐番機が、急遽実戦投入を言い渡された代物とはいえ、武器管制という重要なシステムの機能が欠落しているはずがない。そうするとこれは意図的なシステム構成であり、自分はただ名目上の弾頭使用責任者としてここに乗せられているだけで、実際の管理権は渡されていなかったのだ。マヒロフスキーやRATはそもそも、特別運用調整官なる肩書きの若造に、実戦での判断力など期待していなかったのだろう。

 思えば、前の出撃でパイロットを務めた軍曹が、今はこの伍長にすりかわっているのも、信用を失った結果なのかもしれなかった。なにせ“壁”での戦闘中、弾頭発射直後に汪は気絶し、数時間後テントの中でやっと目覚めた体たらくなのだから。汪はふと、軍曹の顔を思い出そうとして、失敗する。

「汪大尉、どうしたの。作戦は中止よ』

 BR450の声で、汪は対処すべき問題を思い出す。陣はもう、後方モニターの視界の中にある。

「パイロットの伍長が、司令部は制圧されたのだと勘違いしている。命令は議会派の脅迫によるものだとね。回線を繋ぐ。そちらから直接説明してやってくれ」

「了解。――久留伍長? 聞こえる?』

 BR450の呼びかけに、伍長は反応を示さない。ヘルメットの通信機を使う回線を指定したから、聞こえていないはずがない。

「おい、返事をしろ。久留伍長」

 やはり反応はない。耳を澄ましてみると、うわごとのように何かぶつぶつと言っているのがわかった。ただ、日本語らしく、汪にはほとんどその意味が掴めない。

 汪は既視感を覚えた。去年の初秋、日本に向かう金星也元帥に随行したとき、これとよく似た様子の人々を見た。“人形”を龍王壱番機が迎え撃ったあの日、現地の開発スタッフや防衛部隊のなかに、この伍長と似た挙動不審者が出たのだ。敵襲による恐慌状態とは明らかに違うそのさまに、汪は名状しがたい恐れを抱いたのを覚えている。

「こちら汪。久留伍長は錯乱状態にあると判断する」

「錯乱状態ですって? ――その伍長はたった今、龍王への指令を強制的に書き換えたのよ。正気でなければそんな芸当は絶対にできない』

 汪は耳を疑った。龍王との通信は自分に任されているはずだったが、それも建前に過ぎなかったらしい。実際、背後からは龍王が高速で追いかけてくる。伍長は何が何でも、“壁”突入と特殊弾頭の使用を敢行するつもりのようだ。

「龍王に命令撤回を伝えて、この機体を取り押さえさせてくれ。――どういうわけか、こちらから武装のコントロールを奪えないのでね」

「それは無理。複雑な命令変更には手間がかかるわ』

「何を言っている。パイロットにそう伝えればいいだけのことだろう。プログラムの入力しか受け付けないとでも言うのか」

「その通りよ。今の肆(し)番機は、久留伍長から与えられた命令を実行することしか考えていない』

 BR450はさらりとそう言った。もはや隠すのも煩(わずら)わしい、といった調子だった。以前から龍王に感じていた不気味さの正体が、そこにあったかと汪は思い返す。しかし、感覚的にはそれで納得できるが、理性の部分がそれを受容しない。

「プログラムが人の意思に優越する操縦システムなど。冗談が過ぎる」

「冗談ではないわ。機密上、肆番機はそういうシステムになっているの。――各隊に捕獲を要請しました。龍王への命令解除も実行中。でも、いざとなったらあなたが銃を使ってでも久留伍長を止めなさい』

「持ち込んでいない。俺はそもそも、そういうものが嫌いでね」

「なんて間抜けなの。戦場でそんなことを言っていたら』

「なに、手段ならないでもない」

 汪はベルトを外してそっと身を乗り出し、携行していた武器を取り出す。会話が耳に入らない状態の伍長は、この動きに気づくまい。そう汪は踏んだのだ。

 しかし、間が悪かった。伍長が急に制動をかけたため、汪は慣性で目の前のコンソールに突っ伏し、ヘルメット越しに頭を打った。

 慌てて頭を起こして状況を確認すると、いつの間にか、相対バルムンク反応センサーに光点が増えていた。四時の方向。パターン解析の結果は、九割以上の確率で一機の機兵だと出た。北からということは、黒龍隊が追いついたわけではない。

「所属不明の機兵が北から接近。情報を」

 汪はBR450に呼びかけた。忙しくて耳に入らないかと危惧したが、幸い、反応は迅速だった。

「それは北熊の機兵よ。どうやら、協力してくれるようね。――もっとも、あれが龍王を抜けられたなら、という条件付きだけれど』

 BR450の言葉を咀嚼(そしゃく)する間もなく、汪は早急にベルトを締め直す必要に迫られた。走るのをやめて停まった龍が、今度は龍王のほうへ引き返しはじめた。いわゆる戦闘速度で、じきに時速二百キロを超える。

 移動しながら、前部座席の伍長は龍の注視点を左方に、つまり北熊の機兵が現れたほうへと向けた。伍長が正気を失いながらも適格に機兵を操れることに不気味さを覚えたが、汪もその機兵を見たいと思っており、好都合には違いなかった。

 ズームがかかり、はじめ虚空を流れた画面の中に、丸く黄色い眼が大写しに飛び込んできた。例のモンスター型乗俑機の顔と一瞬見間違ったが、ズームアウトによって、それが紛れもなく機兵であることを汪は確認できた。龍に似るが、見慣れない姿のその機兵の名を、汪は推定する。

「ドラコーン、か」

「ほう。ご教授痛み入ります、大尉」

 伍長の声が、それまでより近くで聞こえた。そして、安全装置の解除音も。

 汪の左手に握られたナイフが、銃声とともに滑り落ちた。


*   *   *   *   *


 複座型の龍と、龍王、そして見慣れぬ機兵――ドラコーン。藤居が追いついたときには、睨(にら)み合いを通り越して交戦が始まっていた。もっとも、刃を交えているのは龍王とドラコーンだけで、巨大な発射筒を抱えた龍は、離れたところから龍王を見守っている。

「藤居さん、俺は龍を……久留をやる。龍王を頼みますよ』

 先行する坂元機から通信。軟禁状態から解放されるや否や、龍のもとへ一目散に走り出した坂元は、明らかに殺気立っている。

「わかった。――だがくれぐれも、コクピットを狙うんじゃないぞ」

「努力します』

 坂元の防人型は急加速をかけ、離れていく。坂元の理性を信じるしかないと諦め、藤居はもうひとつの厄介ごとへの対処に集中することにした。龍王をできるだけ傷つけずに取り押さえるか、あるいはRATの言うタイムリミットまで、龍王をここで足止めせねばならない。

「こちら藤居祐輝。聞こえますか、タマリアノフ少尉。それともゲルスカヤ少尉ですか?」

 藤居は龍王と格闘戦を繰り広げているドラコーンに英語で呼びかけた。しかし、戦闘に集中していて口など開けないのか、返事は戻ってこない。双方とも龍には真似できそうにない俊敏な動きを続けているのだから、当然かもしれない。

 声が届いているという前提で、藤居は用件を伝えることにする。時間がない。

「そのドラコーンは、龍王に友軍機として認識されていません。龍なら、龍王は味方として認識して、防衛以上の行動を取らないはずです。こちらと交代してください。龍王を傷つけてはいけません」

 言い終える頃には、龍王が攻撃可能圏内に収まった。藤居は火縄ではなく雷紫電を構えさせ、龍王とドラコーンの間に割って入る。龍王の爪による攻撃を、雷紫電で振り払い、リーチを活かして牽制する。

 やはり、龍王は積極的な戦闘を望んでいない。一合やりあって、藤居はそう感じた。相手が龍だからというわけではなく、ドラコーンを相手にしていたときから、龍王は迷っていたのだ。だから、携行している火縄を使っていない。命令プログラムがパイロットの意識に優先されるとの説明を受けたが、やはり操縦上の判断を下しているのはあくまでパイロットの意識に他ならないのだと、藤居は確信した。龍王のパイロットは、矛盾を内包した命令に対し、さぞ困惑していることだろう。その命令の権威が絶対的で脅迫的であるほど、そのなかに矛盾を見つけてしまったときの苦悩は大きい。

 ――ちょうど中国の治安維持部隊にいたころの自分のように。

 不意にさまざまな記憶がスライドのように脳裏に蘇り、藤居は一瞬、集中を欠いた。その隙が、龍王にもうひとつの携行武器を手にする時間を与えた。

「しまった」

 龍王が背中から、鞘ごと刀を取り外した。二二式機兵用発熱刀、炎草薙。藤居は急いで雷紫電の突きを繰り出したが、今度は雷紫電の矛先が、炎草薙の鞘に振り払われる番となった。

 藤居は反射的に、雷紫電をそのまま捨てて火縄に持ち替えようとした。しかし、龍王を破壊してはならないという制約を思い出し、またしても動作に隙を作ってしまった。そこへ龍王は、鞘を抜かないままの炎草薙で殴りかかってくる。それを藤居はバックステップにより辛うじてかわしたが、安定を失い、龍にたたらを踏ませてしまう。次の攻撃は避けられないと覚悟した直後に、間近で放電が起こった。

 体勢を立て直して前を見ると、龍王が倒れ、ドラコーンがその上にのしかかっていた。右腕に括りつけられているらしい、改造型と思しき雷紫電を、龍王の頭につきつけている。そして二股の矛先が龍王の首を挟みこみ……。

 藤居はドラコーンが何をしようとしているのか悟った。

「少尉、もう充分です! あとは命令変更が伝達されれば……」

 共用の周波数を使っての発信だったが、回線を開いていないのか、ドラコーンの動作は止まらない。そして龍王はどこか故障したらしく、ろくに抵抗できていない。藤居はドラコーンを突き倒してでも制止しようと、フットペダルを踏み込んだ。そのとき、背後からのロックオンを知らせる警報音が、出だしの僅か一秒ぶんだけ鳴った。

 背後から飛来した砲弾は、避けるには及ばなかった。それは藤居の龍ではなく、最終的にはドラコーンをロックして放たれたものだった。しかし信じがたいのはそのこと自体ではなく、ドラコーンが恐ろしい反射で横に跳び、それを回避したことだった。砲弾は龍王の頭上を抜け、数百メートル先で土煙を巻き上げた。

「そこの龍、離れなさい。その機体は危険よ。パイロットが正気ではない』

 砲弾の次に届いたのは、ジーナ・S・ゲルスカヤ少尉の声だった。


*   *   *   *   *


「動くなよ、久留」

 火縄のロックオンカーソルを、新型の龍の腹部に定め、坂元は引きつった笑いを浮かべた。発射筒を手放せない久留には、反撃の術がない。もともと、障害排除をすべて龍王に頼る編成だったのだろう。だから追っ手が出た瞬間に、久留の負けは確定していたといっていい。

「おまえらしくない、お粗末な結果だ。――しかしドブネズミにはお似合いだよな。そうだろう、久留」

「――何を根拠にそう言っている?』

 声だけの通信だったが、相手もまた笑っていると、坂元は気づく。態度では自分の正体を明かしておきながら、口に出しては認めようとしない。苛々が増した。

「一週間前だったか。おまえは偵察行動中に、二時間くらい行方をくらましたよな。結局、無事に戻ってきたが……俺はあとから気になって、おまえのパーソナルディスクの履歴を見させてもらった」

「どうだった』

「その二時間の行動記録が一切残っていなかった。電源節約の一環として、おまえが独断で、常時記録機能を切っていたからだ」

「その通りだ。だが、例の出来事以来、運良く古菅に拾われるまでは、電池切れを恐れてセンサーすら切って節電していたじゃないか。癖がついていたんだよ。不自然なことじゃない』

「いや不自然だった。らしくない。全然らしくない。峰國(フェングォ)や朝井ならわかるが、おまえのするようなミスじゃない。――だが、そうだな。もしそれだけだったなら、俺も単なる粗相ということで済ませたさ。きっかけは他にもある。江藤少佐や竜時と戦場で再会できたのは、啓示軍の輸送部隊を追撃中のことだった。ずいぶんな幸運だと思ったが、よくよく考えてみれば、あのとき見失った敵機の探索方向を決めたのは、おまえだったよな。勘だなんて陳腐な嘘だ。おまえは本隊がどこでどうしているか、あの時点で知っていた。知っていながら、俺たちには明かさず、監視していた。そのうえ昨日、おまえは竜時と一緒に本隊合流に向かっておきながら、あいつを敵の真ん中で見捨てて、自分だけ帰ってきた……」

 疑うには充分すぎる状況証拠を列挙して、坂元は、ならばどうして早く気づけなかったのだと自問する。せめて今朝までに気づいていれば、こうはならなかった。

「さらに今日、俺が隠してきたあれを持ち出し、元老院派に渡した。制圧作戦も台無しにしてくれた」

「そして鷹山を撃った、か』

 続く久留の嘲笑が、坂元の神経を逆撫でする。

「理由としちゃ不満か。だがおまえには、あいつの痛みを倍にして返しても飽き足らない。おまえをずっと同僚として、友として扱ってきた俺たちに対する裏切りは、許せない」

「おまえは愚かな奴だよ、坂元。もっと大局を見ろ。そしてそのうえで、与えられた任務を忠実にこなせ。俺のやってきたことは、すべて亜細亜連邦の利益に繋がっているんだ』

「あいにく、俺はおまえの目的になんて興味はない。すべての日本人という括(くく)りすら、共感の対象として自覚できない俺に、その二十倍の数の人間の利益を考えるなんて無理な話だ。おまえの従事する任務がどんなに偉大で立派なものだろうと、そんな話は俺をためらわせはしない。俺が守りたいと思うのは家族と仲間たちだけ……。久留正弘。代価をきっちり払ってもらうぞ」

「やるなら、喋ってないでさっさとするんだな。ただし、俺の後ろに乗っている人間を、おまえは巻き込むことになる』

「そんな手に乗るかよ。おまえが今そうして喋っていられるってことは、後ろの奴も共犯か、さもなきゃもう始末したってことだろう。遺体を傷つけるのは少々忍びないが……火葬の手間を省いてやる」

 坂元は発射ボタンを押し込んだ。


*   *   *   *   *


 残っていた龍を黒龍隊から借り、急ぎ藤居のあとを追ったイルベチェフだったが、それでも手際がどこか悪かったのではないかという自責の念に駆られた。もし何かをもっと円滑に済ませていれば、部下のドラコーンがもうひとりの部下の龍を撃破するという呪わしい瞬間を、迎えずに済んだのかもしれない、と。

「ジーナ!」

 叫んだところで時間が巻き戻りはしないのだが、それでも声が出た。火縄で上半身に穴をあけられ、片腕も奪われたうえに、雷紫電で頭部まで破壊された龍に、もはや戦闘力などない。それでもドラコーンは、さらにもう一撃を加えようとしている。

「やめろ、タマリアノフ少尉!』

 傷ついた藤居の龍が、雷紫電を手にしてドラコーンに迫る。ドラコーンはすぐにそれに反応し、左手に持った火縄を向けたが、弾切れか弾詰まりか、発射はされない。その間に距離を詰めた藤居が、ドラコーンの手から火縄を弾き飛ばすが、それと同時にドラコーンは龍の股関節に雷紫電を突き刺していた。脚部と胴体の連携が絶たれ、龍は地に伏せる。

 ドラコーン一機が、龍王を含む機兵三機を屠(ほふ)った。その客観的事実からひとつの側面だけを切り出せたなら、ドラコーンの開発にテストパイロットとして携わったイルベチェフには、嬉しいものがある。しかし、その戦闘が模擬戦ではなく実戦で、しかも双方に自分の部下が乗っていたという側面がある限り、他の側面だけを切り離して見ることなどできない。イルベチェフは、怒りに狂う自分をはじめて体験していた。

「こちら三〇三軽量機甲師団。援護する』

 近づいてきたヘリから通信。対地ロケットと機関砲で狙撃しようというのだろう。しかし、ドラコーンの運動性ならば攻撃専門のヘリでなければ追尾は難しい。――なにより、イルベチェフには邪魔にしか感じられなかった。

「援護は無用だ。これは北熊の問題だからな」

 イルベチェフは共用周波数での受信を切り、そしてドラコーンを火縄でロックオンした。そのドラコーンは、ロックオンを意に介さぬかのようにイルベチェフのほうへ向かってくる。ゆっくりと。

「ユリウス……」

 ロックオンを外さずに、イルベチェフは北熊が独自に定めている周波数に合わせてドラコーンへ呼びかける。北熊の意向のもと作られたドラコーンは、デフォルトでその周波数の通信を受信するように設定されているから、イルベチェフの声は間違いなくドラコーンのコクピットに届くはずだった。

「ユリウス。何があった。許可なくドラコーンに乗ったのだから、それ相応の事情があったのだろうさ。だがな、ユリウス。おまえはどんな事情があっても、やってはいけないことをしてしまった。ジーナを、藤居を……」

 ドラコーンは前進をやめない。イルベチェフはやむなく、トリガーと連動するボタンに指を置く。

「止まれ。それ以上近づくな」

 ドラコーンはやはり止まらず、ついにヘリが動いた。撃つのか、とイルベチェフは焦ったが、ヘリはドラコーンを飛び越え、西へと向かった。気づけば、その方向で著しい相対バルムンク反応の増大が検知されている。複座型とその追撃機の戦闘では、このような強力な反応が検出されえないことを、経験上イルベチェフは知っている。

「――た、たい、隊長? イ、イルベチェフ……大尉?』

 唐突に、反応があった。イルベチェフがセンサーからメインディスプレイへと視線を戻すと、ドラコーンが立ち止まっている。

「ユリウス?」

「俺、この機体を……。でも元老院派が、撃ってきて。ジーナが。それで……。ここに来たら、龍王もいたから、そうしたらなんだか、倒さなきゃいけないって気になって……』

 脈絡の断絶した文節の羅列。しかも、タマリアノフの声はまるで熱にでも浮かされているように聞こえる。タマリアノフがやはり正気ではないことを、イルベチェフは悟った。

「何をいっているかわからん。ユリウス、最初から説明しろ。いや、まずその機体から降りるんだ」

「降りる。戦闘放棄……? 駄目だ。隊長の前で、そんなことはできない。俺は隊長に認められなくちゃならないんだ。フジイなんかより、俺のほうがずっと有能だ。機兵の操縦だって……』

 ドラコーンが再び動き出す。もうかなり距離を詰められていた。止めるには打撃を与えるしかないと判断し、イルベチェフは照準をドラコーンの右腕に移して、ボタンに乗せた指にゆっくりと力を込める。

「撃っては駄目です! それだけはいけない!』

 誰かの叫びが聞こえて、イルベチェフは最後の押し込みを踏みとどまった。

 ――誰だ。

 そう思う間に、ドラコーンがイルベチェフ機に突っ込んできた。繰り出された雷紫電を、イルベチェフは咄嗟(とっさ)に火縄で受け止める。砲身が曲がる。唯一の携行武器が、使えなくなった。

 そのまま押し合いになった。ドラコーンは敏捷性を追及した試験機だが、アクチュエータの出力そのものは龍と大差ない。現に力は拮抗している。今のうちにヘリを呼び戻して援護を頼むかと考えたとき、唐突に均衡が崩れた。イルベチェフの龍が後ろに傾き、押し倒される。

 関節の数箇所が損壊していた。黒龍隊がいかに騙し騙し機兵を動かし続けてきたのか、イルベチェフは認識が及んでいなかった。失態は取り返しがつかない。ドラコーンは雷紫電を改めて構えなおしていた。

「隊長、俺、優秀ですよね……』

 タマリアノフの妄言が耳に届くと、イルベチェフはどうしようもなく情けなくなった。部下との理想的な信頼関係を感じさせた茨木とは対照的に、自分は部下に刃を向けられ、その過ちを質(ただ)してやる力もなく、ただ敗れるのかと。

 コクピットを狙われれば感電死もありうる。しかし、そうなるものなら、従容とそれを受け入れてもいいとイルベチェフは思った。トーニャとは別れ、部下との絆も切れた今、北熊の肩書きを抜きにカネジュ・イルベチェフ個人を見てくれる人間がどれほど残っているだろうか。両親には、弟たちがいる。自分がここで斃(たお)れたとしても、あの両親ならば定めと受け入れることだろう。――叶うことなら、電気椅子などではなくマトゥモトフの執務室にあるソファーで眠りにつきたかったが。

 泳いでいた雷紫電の矛先が、コクピットに狙いを定めた。目は閉じずにいよう、とイルベチェフは決める。ドラコーンの大きな琥珀色の単眼が、一瞬、笑ったように見えた。そして……。

 電撃は襲ってこなかった。ドラコーンの瞳の光がフェードアウトしていき、完全に消えるとともに、糸の切れた操り人形のようにイルベチェフ機の上に覆いかぶさってきた。

 目を閉じずにいたイルベチェフは、何が起きたのかきちんと把握していた。今もドラコーンの肩越しに見えるのは、龍王の赤い双眸。ドラコーンの電力供給系を狙いすまし、龍王が一撃を加えたに違いなかった。

「昨日の借りは、これで返した』

 イルベチェフはそのとき初めて、龍王のパイロットの声を聞いた。獣人のような龍王の外見からは想像しがたい、弱々しく儚(はかな)げな声だった。タマリアノフ以上に荒い息遣いからして、かなり消耗しているようだが、それを差し引いて考えても声の主はかなり若いとイルベチェフは察した。

「助かった。――君は大丈夫か」

 声をかけたが、聞こえてくるのは少年の苦しそうな呼吸音ばかりで、返事は得られなかった。RATに連絡を、とイルベチェフが思い当たるよりも、少年が力尽きるほうが早かった。数歩後退した龍王は崩れ落ちるように膝立ちになり、両手を地について勢いを止め、なんとか無事降着する。

 イルベチェフはドラコーンの下敷きになっている龍のコクピットから這い出し、龍王のもとへ向かった。新手のヘリが接近してくる音と風、そして車の気配もあったが、イルベチェフが向かうのが最も早そうだった。

 実際、一番乗りで龍王のもとに行き着いたイルベチェフは、龍王のコクピットハッチが開放されるのを独り見守る。ハッチが自発的に開くということは、中のパイロットがまだ動ける証拠だった。しかし、足場からワイヤーを手繰りだして、それに掴(つか)まって降りてくるには体力がいる。それだけの体力が残っているような息遣いではなかったとイルベチェフは思う。下手をすれば、滑り落ちてきかねない……と、そう予想していたら、ハッチからよろよろとパイロットが出てきた。

 成長期を終えたかどうか疑わしい、小柄で頼りない体躯。イルベチェフの察したとおり、それは少年であった。少年はかなり傾いた足場に一歩を踏み出したが、やはり立つこともできなかった。ワイヤーを引き出すにも至らず、転げ落ちてくる。

 イルベチェフはその体を受け止めた。パイロット用の装備を身に着けているにもかかわらず、軽かった。東洋系らしいその少年――英語の訛り方からすれば、おそらくは日本人――は、意識を失っていた。

「どうしてこんな少年を」

 車で駆けつけたSMITS職員らしき男たちに、イルベチェフはそう問わずにはいられなかった。男たちは無言で少年を引き取ると、車に乗せ、RATと何やら連絡を取りはじめる。

 イルベチェフは自分の悲観的な想像が、おそらくは事実に合致しているという感触を得た。SMITSは少年を被験者とし、プログラムがパイロットの思考に優先される操縦システムを研究しているのだ。

「イルベチェフ大尉、聞こえますか』

 ヘルメットの通信機から藤居の声。それがなければ、イルベチェフはSMITSの職員に殴りかかっていたかもしれなかった。

「藤居准尉、無事か」

 自制心を最大限に働かせて怒りを治めながら、イルベチェフはその通信が北熊独自の周波数で行われていると気づく。思い返せば、ドラコーンを撃とうとしたときに聞こえた言葉は、日本語だった。

「はい。ゲルスカヤ少尉も心配ありません。気を失ってはいますが、見たところ、負傷レベルDです。タマリアノフ少尉は……』

「ああ、打撲程度だと思うが、気になるのは体よりも……」

 あの狂気の言行はいったい何だったのか。おかげで、龍王とそのパイロットが傷つき、戦線復帰に相当の時間が必要になった。江藤を追って“壁”に突入する手段が、事実上失われてしまったと言っていい。

 しかし、もしかしたらまだ可能性が残っているかもしれないという期待が、イルベチェフにはある。その検証のためにもドラコーンのもとへ急いで駆け戻ろうとしたイルベチェフは、再び藤居に呼び止められた。

「大尉、西を! 西を見てください!』

 緊張の叫びではない、歓喜の声だった。イルベチェフは言われたとおりに西を見る。強烈な相対バルムンク反応が検知され、そしてヘリも向かっていった方角を。

 地平線から上体を覗(のぞ)かせている機兵が、三体いた。一機は龍の複座型、一機は追っ手の防人(さきもり)型。そして二機の間に立つ最後の機兵は、戦場に不釣合いな、濃淡二色の青で彩られていた。


*   *   *   *   *


 砲口を向ける龍のパイロットと、久留という伍長の会話が終わった。火縄が下げられないところを見るに、久留は降伏勧告を受け入れなかったのだろう。

 汪は自分の最期を意識した。目の前に白い靄がかかり、正面の龍が見えなくなった。汪は、自分の視覚、ひいては脳機能が低下している兆候だと認識したが、やがてそれが誤りだと気づいた。靄がかかったのは注視していた画面の中だけで、画面の外はぼやけてなどいなかった。

 そんななか、追っ手の龍が火縄を発砲した。すでに龍は靄で見えなかったが、汪は確かにその砲声を聞いた。絶対に当たるはずで、汪としては狙いがコクピットから外されていることと、不知火に装填した弾頭が損壊しないことを祈るだけだった。久留は動かなかった。相手が撃たないと踏んでいたのか、あるいは回避を諦めていたのかは、推定が難しかった。すでに痛みと失血で頭が朦朧(もうろう)としていた。

 その汪の意識が、急激に闇に没することはなかった。撃たれたはずの砲弾は届かなかった。外れたのでもなく、汪たちに届く前に止められていた。

 画面の中の靄の塊は、白く淡い光を纏(まと)っていた。汪にはそれが、かつて祖母に見せてもらった美しい繭にも似ていると思った。それが火縄の砲弾を受け止めた。

「“壁”……」

 直径は数十メートルとごく小規模ながら、それは確かに“壁”だった。

 汪は目前で起きている現象をしっかりと見届けようと奮起したが、突如現れた“壁”は早くも消えはじめた。ただし、文字通りに雲散霧消するのではない。靄が温かな光へと変換されていくようだった。十秒とかからずにそれは光の塊となり、そして光は無数の粒となって今度こそ拡散し、消失していく。

 そして、そこには一体の機兵だけが残った。

 久留はやはり動かなかったが、何かぶつぶつと言っていた。防人型も、何が起きたのか理解できないのだろう、対応を取れないでいる。

 しかし汪は違った。汪は何が起きたのかおおよそ理解できていた。それは自分の身に何が起きたのかを思い出し、ようやくその意味を理解したからに他ならなかった。汪は“壁”の本質をより深く捉えた。――残念なのは、それを誰かに伝えるまで、意識が持ちそうにないことだった。


*   *   *   *   *


 江藤は一瞬気が遠くなっていた。いつの間にか眠っていた、という感覚に近い。気がつくと、特異点ではなく、味方の交信の嵐の中にいた。見回してみても、トーデスゲヴァルトやノイエトーター、牙黒鷲の姿はない。

 前に一度、体験済みの現象だった。

 聞き覚えのある声、知らぬ声、英語に日本語と、押し寄せてくる言葉の波は大荒れだった。いちいち答えてはいられず、そして江藤には、何よりも先に確かめねばならないことがあった。

「今、何時だ」

 しかし江藤の問いは、異常現象を目の当たりにした者たちの混乱の前に、押し返される。江藤は深く息を吸い、ありったけの声量で叫んだ。

「誰か答えろ! 今日は何月何日の、何時何分だ!?」


*   *   *   *   *


 雷麒麟の出現とともに、防人型はシステムダウンで動かなくなった。坂元はすぐに復旧を諦め、自機から飛び降り、走っていた。目指すは、同じように大地に崩れ落ちた複座型、そのコクピットの中にいる久留正弘である。

 思わぬかたちでの江藤の帰還、北熊の新型機の暴走と、それによる龍王の戦闘不能……。情報はヘルメットの通信機から溢れそうな勢いだったが、坂元が求めるのは久留に関する情報だけだった。

 後部座席の大尉が応答のない状態で、久留は「錯乱している」と誰かが言っている。

 ――錯乱などではない。

 坂元は確信していた。久留は狂ってなどいないと。

 東へ向け歩き出した雷麒麟の脇を通り抜け、坂元は前傾した複座型のコクピットハッチに取り付いた。コンソールにコードを打ち込み、ハッチを外部から強制開放する。そしてハッチの反応を待つ間に、出撃時に軍装のRATから借りてきた、制式拳銃を構えた。

「久留!」

 顔を見ると同時に、坂元は発砲した。そして、久留も同じ行動を取っていた。右腕が吹飛ばされたかのような衝撃と、あとから襲ってくる痛み。坂元は咄嗟に左手でハッチに掴まって転落を免れたが、自由を失った右手の拳銃が、地面へと落下していった。

「だから早く撃てと言っただろう。銃の早撃ちでは負けないんだよ」

 返り血を浴びた久留が、笑うでもなく、怒るでもなく、ただ寂しげな表情で次弾を装填する。

「殺せよ。その後ろの大尉みたいに、俺も撃てばいい。なんならここでもいいぜ」

 坂元は自らの額を示した。武器もなく、ここから逃れる術もない。

「やめておこう。もう俺にはおまえを殺す必要がない。任務の失敗が確定してしまったからな」

 久留は銃を下ろした。しかし、かえって坂元の怒りは猛る。

「鷹山をためらいもなく撃っておいて、その言い草はなんだ!」

 もう必要がなくなったと説明する久留の論理を、感情に支配された坂元は受け入れられなかった。自由な左手だけでも、久留の首を絞めてやりたい。その衝動に従って、坂元はコクピットの中へと身を乗り出す。久留はただ見返すばかりで、拳銃を構えようとしない。素手の左手だけでどうこうできるものではないと、久留は見切っているのだ。――しかし、坂元は見つけてしまった。すぐ手の届く位置に、ナイフが転がっているのを。

「坂元、返事をしろ。坂元!』

 耳元で、坂元に直接語りかける声があった。藤居だ。

「なんですか、准尉」

「複座型に取り付くのは見えていた。おまえ、何をやろうとしている。バカなことは考えていないだろうな』

「バカなこと……。准尉、これは復讐ですよ。元老院の庇護のもと、法の裁きから免れているRATに対して、復讐は正当です」

 坂元は少し身を引いて、右手に目をやった。雷麒麟とすれ違って、藤居が駆けて来るのが見える。

「坂元、よく聞いてくれ。鷹山の龍を撃破したことについて、俺も久留を許すつもりはない。たとえどんな事情があったのだとしても、味方を傷つけることだけは、俺は許せない。それは、今おまえがやろうとしていることについても例外じゃない。久留に危害を加えるな』

「――あんたはそれでいいのか、藤居! その額の傷は疼(うず)かないのか! 俺たちの中で、いちばん初めに味方に撃たれる痛みを知ったのは、あんたのはずだ!」

 たまらずに坂元は吠えた。走ってくる人影が、立ち止まる。

「もうわかっているんでしょうが、あんたは。西フェルガナ基地にできたクレーターで、あのとき崖の上からあんたの龍を狙撃したのは、啓示軍じゃない。様子を見に戻った俺たちだ!」

「――いつから』

「竜時と再会したときに。あいつの話を聞いて確信した。あれは誤射だった」

「誤射。――そう、事故だ。あのバロッグの中ではしかたない』

「いいや、違う。俺に正常な判断力が残っていたなら、俺たちを謀った安超備に対する怒りが目を曇らせてさえいなければ、たとえあんな霧の中でも、俺はあんたを識別できたはずなんだ!」

 あのときの光景が、坂元の瞼の裏に甦る。最初に敵機だと判断したのは久留だった。そもそも安超備の謀略説を口にしたのも久留だった。だが、冷静さを失い即座に発砲を決めてしまったのは、小隊長であった自分なのだ。

「俺にはわからない。あんたは味方に撃たれたと自覚していながら、わざわざ北熊にくっついてまで、俺たちとの合流を……。どうしてだ。厚木のときから、いや、猿之門に来たときから、あんたはそうやってひとりで背負い込んでいた」

「それで丸く収まるのなら、いくらでも背負う。俺にはそんな人生がお似合いだ』

「俺にはできない! すべてはこいつ、久留の企んだことだ。報いは受けさせる。藤居さん、あんたの恨みも俺が代わりに……」

 坂元は一気にコクピット内に飛び込み、左手でナイフを拾った。久留の手の動きは、体で封じた。拳銃をすぐには撃てない。振りかぶり、ナイフを久留の首筋へと突き刺そうとする。

しかし、それは果たせなかった。不意に襲った衝撃が、坂元をコクピット内から転がり落としたのだ。傾斜したハッチを滑り落ち、そのまますぐ下の地面へと落下する。

 乾燥した大地に叩きつけられた坂元の痛みは、右腕の銃創と相まって、痛みによる悲鳴を上げさせた。しかし、坂元は手探りでナイフを拾い、立ち上がろうと試みる。この位置からでも、たとえ左手であっても、投擲(とうてき)で急所を狙える自信があった。

 その坂元を制止するように、頭上を巨大な掌が覆った。ぶつかってきて坂元を振り落としたのは、龍だったのだ。

「やめとけ、坂元。おイタが過ぎる』

 十日ぶりに坂元が聞いた李峰國の声は、しかし初めての声音だった。



- 4 -


「使える機兵を確認します。黒龍隊の残存する龍が、まず三機。これらは疲労があるものの一通り動きます。雷麒麟、龍複座型、そしてドラコーンは三十分で再出撃可能。しかし、肝心の龍王の再起動には、パイロットの問題から数日が必要となる。そういうことで間違いないですね、マヒロフスキー大佐」

「いちいち確認せんでもよい。続けるがいい、北嶋大尉」

「はい。では……」

 次なる“壁”突入作戦の立案は、黒龍隊の代表である江藤と、駆けつけたばかりの北嶋、議会派の古菅純、北熊のカネジュ・イルベチェフ、元老院派のアカスティン・マヒロフスキーとオーメント・ウェダム、それに戦略軍情報部の安文俊を交えて行われていた。SMITS、RATの幹部は、龍王とそのパイロットの処置のためだろう、姿を消している。

「……雷麒麟の電力消費量からいっても、測定された時間データに間違いはないと考えられます。つまり……」

「少なくとも現在、“壁”のなかでは時間の進み方が遅い、ということだな」

 古菅が先を取って言う。理解しがたい、という口調だったが、北嶋の論理を否定してはいない。

「はい。“壁”再突入がこれから四十分後となっても、それまで影龍……いえ、牙黒鷲が健在である期待は大きい。したがって最大の問題は、“壁”を抜ける方法です」

「少しいいだろうか、北嶋大尉」

 イルベチェフが挙手した。

「どうぞ、イルベチェフ大尉」

「その方法についてだが、実はドラコーンには、龍王に倣(なら)った機能がいくつか採用されている。もしかしたら、ドラコーンも突破のための要件を満たしているかもしれない」

「興味深い情報だな」

 マヒロフスキーが笑う。イルベチェフの発言は、明らかに北熊の機密事項だった。

「いや、無理だ」

 それまで静観していた江藤は、そこできっぱりと否定した。

「なぜ、わかるのです」

「龍王の龍王たる本質は、あの独特のコクピットシステムだ。人の意思を制御するようなプログラムを、マポスは機兵に組み込んだのか?」

「――いえ。ドラコーンの操縦システムは、基本的に龍と変わりありません」

「では、どうしますか?」

 ウェダムが訊ねる。北嶋は安に目配せした。

「雷麒麟ならば、可能です。龍王とは別の原理で、雷麒麟には“壁”の単独突破ができるのです」

「根拠のない思いつきなら発言は認めないぞ、情報部」

 マヒロフスキーは疑惑の視線を送ったが、安は動じない。

「いえ、雷麒麟とその周辺にいた龍の、この三日間の稼動記録から導き出した結論です。雷麒麟の有するBFG式推進装置エアインパルサーには、バルムンクフィールドキャンセラーとしての副次的機能があるのです。そしてこの機能については、該当システムの設計者が、メモによって示唆してもいます。――江藤少佐、あなたが鍵を握るのです」

「エアインパルサーで“壁”という変則領域をもキャンセルする、というのか」

 江藤は面食らった。雷麒麟を一度実戦で使ったものの、そういう機能があるとは知らなかったし、感じなかった。

「あなたはまだ、システムの起動方法を知らない。信じられないのも無理はありません。テストパイロットの長野中尉ですら、噂のシステムの実在を信じてはいなかったのです。私も、メモをもとに情報を集めてはいましたが、実際そういう機能があるわかったときには驚きました。そして長野中尉も、今ではシステムの実在と実用性を認めています」

「長野が……」

 江藤は腕を組み、考える。そういえば、牙黒鷲にも雷麒麟と類似したエアインパルサーらしき装備があったから、これは信じてもいい話かもしれない、と思う。江藤が一応の納得を示したのを見てか、古菅が「ふむ」と頷いた。

「どうやら、その可能性に託すのがいちばん有望のようだな。将兵の精神異常を、これ以上拡大させるわけにはいかない。それでいいか、マヒロフスキー」

「俺の手駒はすでにその精神異常で壊滅したのだ。動かすのは古菅、貴様の麾下(きか)の部隊が主となる。俺に伺(うかが)いを立てるな」

「では決まりだな」

 古菅が手を打ち、江藤も頷く。

「俺は早速、そのシステムの起動試験をやる。あとの手筈(てはず)は任せた」

 江藤は立ち上がり、文句がないのを見てから天幕を出た。古菅とマヒロフスキーが垣根を越えて対話することを覚えた今、もはや憶測の折り重なりに基づいた行動が、無益な誤解や悲劇を生むことはないだろう。

江藤が雷麒麟のほうへ向かうと、情報部の安文俊が独り、天幕から出てついてくる。江藤はまず無言で歩き続け、雷麒麟には直行せずに、耳目のないところへと移動した。ペースの配慮をせずとも、安は蛇行する江藤の足取りをしっかりと追ってきた。

「周富窪(チョウ・フーワー)の仲間だそうだな」

 立ち止まり、江藤はそばに置いてあった燃料タンクに腰を下ろした。

「はい。黒龍隊の早期撤収を実現するべく、動いておりました」

 安は数歩の距離までそのまま近づいて、止まる。

「――その間合い」

「は?」

「しっかりと覚えたようだな」

 江藤は自分の直下の地面と、安の足元とを順に指差して、にやりと笑う。きょとんとしていた安は、やがて思い当たったらしく、襟元をさすりながら微笑とともに頷いた。

「その節は、たいへんなご迷惑をおかけしてしまいました。しかし、ああするよりほか、黒龍隊を舞台から降ろす方法がなかったのです。もっとも、我々の計画は失敗に終わり、あなたがたは参謀本部のシナリオ通りに、西フェルガナ基地で囮(おとり)に使われてしまったわけですが」

「次の機会があれば、そのときはもっとスマートな方法を考え出してもらいたいものだ。――しかし不思議だな。そう礼儀正しく話していても、やはり少々、おまえの話し方は鼻につく。そういえば、結局のところおまえの階級はどっちなのだ。准尉か、それとも、曹長か」

「どちらでも結構ですよ」

 両手を広げておどけてみせるその仕草は、呂孝明(ル・シャオミン)のものだった。

 戦略軍情報部の准尉が、緊急連絡部の曹長として江藤と北嶋に接触し、正規の命令に従って新青海基地へと向かうと見せかけて、ふたりをどこかへ幽閉する。指揮官を失った黒龍隊のダーダネルス作戦への投入はこれで延期され、のちに解放した江藤らが戦略軍の命令系統への不審を訴えれば、命令そのものが中央議会軍事委員会の議題となり、延期は中止へと変わる……。それが安文俊らの筋書きだった。

 ここで江藤が疑問に思ったのは、黒龍隊が西フェルガナ基地に投入され、そこで囮役となることを、安文俊らがどうやって事前に知りえたかということだった。情報部といえども、参謀本部が極秘で組んだ作戦内容を事前に知らされることなどありえない。

「重要なのは、きっかけ、手がかりですよ。江藤少佐」

 安文俊はそう説明を始めた。

「安文俊というのは私の戸籍上の名と同一でしてね。西フェルガナ基地の守備を取り仕切っていた安超備は、私の叔父にあたるのです。中華人民共和国でいわゆる一人っ子政策が始まり、家族の規模が小さくなったことに抗うように、私の家では親族のつながりを大事にしていました。それで叔父とは、幼いころから親交があった。私はその叔父の動向から、西フェルガナ基地が囮の総司令部として捨て駒にされることを掴み、そしてカムフラージュのために黒龍隊がそこに配置されることまでを調べ上げました。ただし、この計画の首謀者については依然はっきりとしていません。行方不明の金星也元帥を怪しむ見方が我々の中では支配的なのですが、私個人の所感としては、おそらく別の誰かの意思が絡んでいるのではないかと」

「根拠は?」

「矛盾が多いのです。黒龍隊を囮司令部の飾りとして使うのでは、あまりに収支が悪すぎますから、啓示軍が囮に引っかかって攻めてきた場合でも、黒龍隊脱出のための防衛策は講じて当然です。しかし、現地では自動防衛システムさえまともに機能してはいなかった。では黒龍隊を潰したいと思っている派閥の意思かというと、それにも疑問符がつきます。現地での六人の隊員増強と装備補充は、他の友軍に観測されていない以上、ポーズとして機能しません。ですからこれは、純粋に黒龍隊の戦力不足を補う目的だったといえます」

 江藤はゆっくりと大きく頷いた。不確定要素のいくつかが確定された今、謎だったことの多くについて、確信に足る推定が可能になっている。

「知っているか。坂元たちは、おまえの叔父が啓示軍と通じていたと言っていた。もっともこれは、久留の誘導に乗せられた結果かもわからんが」

「叔父の最期については藤居准尉から聞かせてもらいました。あの人が何を考え、目標としていたのかはわかりませんが、手段として内通を図ったことは間違いないでしょう。手引きがなければ、一個機兵戦隊が基地に肉迫できるはずがありません。この身内の罪を、なんといって詫びればよいか……」

「よせ。そういうつもりで持ち出したのではない」

 江藤はその先を遮った。ウェダムと結託し、元老院派の大義名分をうまく利用して北嶋たちをここまで護送してきた功績は、すでに先日の件を補って余りある。

「しかし……」

「対話の可能性はある。それが確かめたかった」

 江藤は燃料タンクから腰を持ち上げ、伸びをした。

「さて呂孝明。バルムンクフィールドキャンセラーとやらの、テストをやるぞ」


*   *   *   *   *


 血痕の残る座席に身をゆだね、背後には無人の後部座席。はじめての複座型に乗って出撃を待つ南田の気分は最悪だった。しかし使える機兵は数少なく、南田に選択の余地などない。

 江藤の雷麒麟は、“壁”突破のための機能もテストし、具合は良好のようだった。大暴れしたドラコーンも、龍王に破壊された動力系の補修が済み、本来の乗り手が収まっている。ウェダム少佐の部隊とともに合流した峰國と群山の龍は、応急処置に綻(ほころ)びが出てきたため修繕中。あとは坂元の防人型を引き継いだ藤居が、元老院派から渡された火縄丙型のマッチングを行っているところだった。どちらもたいした作業ではないから、出撃まであと十分もないだろう。

 RATだった久留が鷹山に重傷を負わせ、坂元が復讐心から久留を殺そうとした。その事実は重たすぎて、南田にはまだ受け止められない。

 ドラコーンに乗っていた北熊のパイロットや、壊滅した元老院派の部隊のことを考えると、ふたりの行動もまた、“壁”の生み出した狂気が原因であったかもしれない。しかし、南田は思うのだった。友軍の核使用を疑い、その司令部を問答無用で制圧にかかった自分たちもまた、狂気に取り付かれていたのではないかと。そしてたった今も、狂ったままの脳でこうしてものを考えているのかもしれないと。

「変に考え込むなよ、竜時』

 機体の修繕が終わったらしく、峰國の防人型が南田機に横付けしてきた。

「北熊のゲルスカヤ少尉の話じゃ、機兵から降りなきゃあの狂気にはかからない。バルムンクフィールドが守ってくれる。――まぁ、代わりに、BFGのない一般兵器は“壁”が消えるまで全然援護してくれないんだけどな』

 寂しいな、とおどけて峰國は笑う。南田もつられて顔が綻ぶ。

「――なあ、竜時』

「なんだ?」

「もし俺が、久留や坂元のようになったら……。そのときはすぐに俺の機体を止めてくれ。頭か胸、もし必要なら腹だっていい。すぐに、確実に、だ。頼む』

「なんだよ、急に。BFGがあれば大丈夫だって、おまえが……」

 そのとき共用周波数で割り込みが入った。江藤の野太い声に、南田が峰國に向けた言葉はかき消される。

「全機、出撃準備完了したな。俺たちはこれから、“壁”を突き抜け、牙黒鷲を援護して、ここら一帯のヒステリー現象を収めに行く。各員、ともに戦う仲間を信じろ。ただし頼り切るな。誰しも万能ではないのだ』

 南田は無言で頷く。おそらく峰國も同じだったろう。気持ちは皆、同じだ。――そんな想像をしていると、江藤の怒声が響いた。

「おい、おまえら返事はどうした?』

「了解(ラジャー)!』

 五人の呼吸はぴたりと合った。

「ようし、それでは出陣!』


*   *   *   *   *


 黒龍隊とイルベチェフの出発をその目で見送ったマヒロフスキーは、ひとり、指揮車輛に戻った。すると、ちょうどBR450が降りてくるところだった。

「すまんな」

 マヒロフスキーはぶっきらぼうに謝った。彼女に相談もなく龍王の使用許可を出し、結果として龍王を友軍に破壊させてしまった責任を意識してのことだった。

「いえ。肆番機のプログラム制御にシステム上の不備がなければ、あのようなことは起こりませんでした。そして、RATの組織上の欠点が露呈したのも事実でしょう」

 BR450は戸惑っているようだった。無理もないとマヒロフスキーは思う。心からの謝罪など、もう何年もしていなかった。

「しかし、ノヴィコフの爺は俺を恨むだろうな。おかげで、元老院はこれからのことについて蚊帳(かや)の外だ。ジョンソンの皮肉もしばらく厳しくなる。おまえたちに、そのとばっちりが及ばんといいが……」

「どうかお構いなく。元老院議員の意向に従うのが、私たちの務めですから。――アカスティン・マヒロフスキー元老院議員」

 その言葉を聞いて条件反射的に顔をしかめようとしたマヒロフスキーは、違和感を覚えて、それをやめた。今の自分がその表情を必要としていないことに気がついたのだ。

「今日ばかりは、そう呼ばれるのもいいか」

 マヒロフスキーは西を、沈み行く夕陽を見やった。紅い太陽は“壁”の背後に回りこみ、その輝きで“壁”をいっそう神聖な存在のように見せている。

「明日はきちんと地平に沈む夕陽を見たいものだ」

 そこに炎の柱が重なるのもいいだろう。いつか家族とともに谷を見物に来るのも、一興かもしれない。マヒロフスキーは初めて、温かい気持ちでその地を眺めていた。



- 5 -


「世界(ヴェルト)の意思が示された』

 アルベルト・ヴェーバーは長い沈黙をその宣言で終わらせた。

「らしいな」

 ヴォルフはヴェーバーの言わんとするところを感じ取っていた。江藤が消えてからも滾々(こんこん)と湧き続けていた光の泉が、今しがた収束へと転じた。そして“壁”の囲っていた場自体も、特異点に向け縮みつつある。

「聞いてくれないか、ヴォルフ。私はここでの“壁”の影響が、ベルリンと同じ結果にはならなかった理由を考えてみた』

「依代(よりしろ)の違いだ。ここは聖域(ハイリヒトゥム)とは違う」

「いいや、私はそうは思わない。依代が問題となるのなら、君がユプシロンフレームでシュッツネーベルを発動し、この谷の炎を操ることなどできなかったはずだ。違いを生んだのは、影響を及ぼされる対象のほうに違いがあったのだよ。亜細亜連邦の人間たちに広く内在する、体制への反感、隣人への不審、民族間の敵対感情……。そういったものが、“箱”の導きを引き金にしてあのような形で噴出してもおかしくはない。強権により巨体を維持している亜細亜連邦の綻びが表に出たのだ』

「それは詭弁だ。アルベルト」

 ヴォルフは声を押し殺す。

「ベルリンを“壁”で覆った時点で、欧州は融和と統合を遂げていただろうか。答えは否だ!」

 昂(たか)ぶりに反応し、牙黒鷲の手が動いてしまう。それを攻撃準備と見たトーデスゲヴァルトの一機が進み出て、身構えた。ただし、あくまで先制攻撃は控える。

「主張の違いが作った溝を、武力で解決しようとするのは、良い方法ではない。武装を解除するんだ、ヴォルフ。ベルリンへ行こう。そしてハンスともう一度話し合ってみないか』

「今すぐノイエトーターを停止させるなら、相談に乗る」

「それは約束できない。君が選べるのはふたつにひとつだ。我々と来るか、あるいはこの谷と運命を共にするか』

「それが世界の意思だと……」

 ヴォルフの声は掻(か)き消えた。口ごもったわけではない。外へ出力された音声が、地響きによって聞こえなくなったのだ。尋常ではない地震が、暖炉の谷で起こっている。ヴォルフは意識を集中して、牙黒鷲が立っていられるよう演算領域の振り分けを行わなければならなかった。

「この地の存在は否定された』

 ヴェーバーが、地鳴りに勝るレベルに増幅された音波で語りかけてくる。

「我々の脱出後、“壁”の消滅に伴いこの地は崩壊する。――そう世界の裁決が下ってしまったからには、我々は道を誤ったのだと認めざるをえない。亜細亜連邦に対する戦略は、適切ではなかった。だが、だからこそ、ヴォルフ。君たちに戻ってきて欲しいのだ。かつてのように、ともに世界の改革を目指そう。滅亡を回避し、ユートピアの実現を』

「アルベルト。昔のあなたはそのような論法を使わなかった。――誤ったのは俺たちのほうだ。俺たちはその機体とブラックボックスを聖域から持ち帰るべきではなかった」

 光の収束点に鎮座したノイエトーターをヴォルフは睨む。この揺れの中でも身じろぎしていない。

「それは違う。ブラックボックスもイクスフレームも、この戦乱の元凶などではない。一九九九年、八月の悪夢の発生と変則領域の遍在化によって、すでに運命の歯車は回りはじめていた。そうだろう。二十年前に袂(たもと)をわかったノヴィコフたちは、独自にブラックボックスを発見し、それに纏(まつ)わる数々の技術を手中に収めていたのだ。その証拠がこの地に集まっているではないか。龍王、オルロフ、そしてあのモンストゥルムたち……』

「“箱”の力を無闇にひけらかすような真似をしなければ、ノヴィコフたち元老院をああまで刺激することはなかったはずだ。“箱”を軍拡競争の延長に持ち込んだのはハンスの最大の過ちだ」

「果たしてそれはどうかな。ノイエトーターの存在を知ってから作らせたにしては、SMITSの龍王完成は早すぎる。苦しい言い訳はやめるのだ、ヴォルフ。わかっているだろう。人類はもう踏み出してしまったのだ。絶望が大きな口を開けて待ち受けていようと、引き返すことのできない道だ。ならば、導き手が必要だろう。より高い確率で、ヒトの種を未来に繋ぐための導き手が。――こんなことは、ヴォルフ、私などよりおまえがよくわかっていることだろう。聖域に招かれ、今こうしてユプシロンフレームを操っているおまえこそが、導き手として役割を果たすべきだ。おまえたちは責任を放棄している。ヴェツファートを受容しているのは、むしろおまえたちのほうではないのか』

「俺はまだ、人の可能性を絶望視していない。変容したこの世界でも、人は適応し、生きていけるはずだ」

「エトウ・ヒロテルがそれだというのか、ヴォルフ』

「ああ」

 ヴォルフは江藤の顔を思い浮かべる。他者に囚われない、あの眩しいまでのエネルギーには、これまで出会ったことがなかった。あれは例えるならば太陽だ。今も熱い日差しを背中に感じるようだった。

 ――いや、錯覚ではない。

「あの男はここから消えた。世界はあの男の存在を認めないぞ』

 センサーの麻痺と地鳴りによる聴音障害のおかげで、ヴェーバーとE12はまだ気づいていない。

「そう決め付けるのは時期尚早だ。希望はじゅうぶんにある」

「希望(ホフヌング)か。しかし、危機は確実に迫っている。ハンスは最短時間での目的達成のために、最適化された道を選んだ』

「選択権は人それぞれにあるものだ」

「もしそれが選べるものであれば、たしかに何人(なんぴと)にもその権利があってしかるべきだろう。しかし運命は、選択などできない』

「アルベルト、やはりあなたも“箱”に、ヴェツファートに囚われている。俺たちはその呪縛を断ち切ってみせる。――手を貸してくれ、江藤少佐!」

「おうよ!』

 地鳴りをものともしない、ひときわ大きい音量で、江藤の雄叫びが響いた。

「黒龍隊、ここに見参!』

 背後の崖を跳び越えてきたのは、雷麒麟と、そして二機の龍だった。トーデスゲヴァルトがその着地を狙撃しようとするが、それにはヴォルフが先手を取る。牙黒鷲右腕のシュトゥルムディスチャージャが電光石火の一撃を放ち、火砲を構えたトーデスゲヴァルトの腕を貫いた。

「待たせたな』

 牙黒鷲の横に雷麒麟が降り立った。

「いや、よく戻ってくれた」

 まさか江藤が自力で“壁”を抜けてくるとは、思っていなかった。しかも僚機を引き連れてとは。

「しかし急がなければ。啓示軍はこの谷を抹消する気だ」

「抹消だと? させるか、そんなこと』

 雷麒麟が龍王と同じ型の刀を構える。やはり、さきほどとは何かが違っているとヴォルフは確信した。

 一方、状況の変化を見て取った三機のトーデスゲヴァルトは、すばやく陣形を組み直し、盾を持つ二機を前衛にした。ヴェーバーの声を中継しているらしい一機は、後方の配置となった。

「これは想定外だったよ。しかたがない。私もなすべきことの優先順位を遵守するとしよう。――オズボーン、君に一任する。存分に戦うといい』

「承知。ユプシロンよ、今日こそ決着をつけようぞ』

 E12隊長の声がしたかと思うと、後方に下がったばかりのトーデスゲヴァルトが、大きく跳躍した。江藤の部下の龍が発砲するが、地震による手先の揺れが打ち消しきれず、ことごとく狙いがそれる。一方、盾を持つ残り二機のトーデスゲヴァルトのほうも、牙黒鷲と雷麒麟に対して突進をかけていた。

 ヴォルフはまず、自分に向かってくる一機に対してシュトゥルムディスチャージャの徹甲弾を放った。トーデスゲヴァルトはその挙動を見ても速度を変えず、ただ盾だけを押し出す。狙いにはやはり誤差が出たものの、徹甲弾は盾の端のほうに着弾し、何度も見た白い靄を生じさせる。しかし、そのあとの展開はこれまでと違っていた。靄が着弾点にて開口し、突き抜けた弾はトーデスゲヴァルトの盾そのものを貫いた。

 ヴォルフの推測通りだった。トーデスゲヴァルトが大規模なパワーパックもなしにシュッツネーベルを多用できたのは、あのシュッツネーベルがトーデスゲヴァルトの自力生成によるものではないためと考えられた。あれはオリジナルの“壁”の一部を盾状のモジュールによって呼び出しているに過ぎず、したがって、この暖炉の谷の“壁”が急激に収縮している今、その性能は極端に低下しているとヴォルフは読んだのだ。そして実際、盾は徹甲弾の貫通を許した。

 これならば火縄でも足止めが可能と判断したヴォルフは、もう一機を江藤に任せ、頭上から斬りかかってくるオズボーン機にシュトゥルムディスチャージャの砲口を向けた。揺れに対する照準補正をキャンセルし、即発砲。砲弾を受けたトーデスゲヴァルト左肩のスラスターモジュールが脱落し、回転モーメントの平衡を崩されたトーデスゲヴァルトは右半身を露呈しながら降下する。しかしオズボーンは右肩のスラスターを止めず、回転加速度を活かしてそのまま回し蹴りを繰り出してきた。予想外の動きにヴォルフは対応できず、シュトゥルムディスチャージャを蹴り飛ばされてしまった。そして無理な体勢から着地したトーデスゲヴァルトと、武器を失った牙黒鷲との間に、攻撃の空白が生じる。

 先に攻撃を加えたのは、龍だった。二発のうち一発がトーデスゲヴァルトの脇を抉る。よろめいたところへ二機の龍は追い撃ちをかけるが、これは命中こそしたものの、トーデスゲヴァルトを戦闘不能に陥れることはできなかった。盾を持った別のトーデスゲヴァルトが、オズボーン機を庇(かば)う位置に割り込んできたのだ。さきほど右腕を武器ごと吹き飛ばされたそのトーデスゲヴァルトは、攻撃に使えなくなったエネルギーをシュッツネーベル生成に回したのか、火縄の砲弾を二発とも防いだ。

 雷麒麟と、盾を砕いたほうのトーデスゲヴァルトは、どうなったのか。今割り込んできたトーデスゲヴァルトが雷麒麟を迂回してきたのならば、江藤の前に障害がなくなる瞬間が生じたはずだった。ヴォルフは龍の邪魔にならないよう後退しつつ、江藤の様子を見やる。

 思ったとおり、江藤はノイエトーターへと向かっていた。しかし盾を失ったトーデスゲヴァルトが、ヴェルメゼーベルを片手に雷麒麟を追っている。加速力ではトーデスゲヴァルトのほうが勝る。雷麒麟がノイエトーターに行き着く前に追いつかれると見越し、ヴォルフは跳んだ。目指すのはノイエトーターである。江藤はおそらく、この配置を得るために自ら囮となったのだ。

「任せてもらう」

 牙黒鷲は斬り結ぶ二機の傍らを抜け、ノイエトーターへと最大加速で突っ込んだ。シュトゥルムディスチャージャはもうないが、無防備のノイエトーターからオルロフを引き離すだけなら、手はあった。

 牙黒鷲は盾にシュッツネーベルを発生させた状態で体当たりし、まずはノイエトーターのシュッツネーベルを相殺した。それでもノイエトーターは動かない。ヴォルフは盾をその場に突き立てると、何らの障壁に阻まれることもなくノイエトーターに歩み寄った。そして、ノイエトーターの掌中で恒星のように光り輝くオルロフに、牙黒鷲の手を伸ばす。

 オルロフの放つ光が、消えた。


*   *   *   *   *


 ケーシャ・スラントは自分が格納庫の天井を見上げていることに気がついた。その天井の低さから、これが輸送機の中なのだと認識する。

「よかった。目を覚まされましたね」

 リヒャルト・ブラームスの顔が、天井を眺めていたケーシャの視野に入ってくる。

「私は……。戦闘はどうなったのだ」

「まだE12とユプシロンらの交戦が続いていますが、すでに全部隊に撤収命令が出ました」

 そう答えるブラームスは、首筋に血を垂らしていた。よく見れば、顔には血をふき取ったあとがあり、頭のどこかに裂傷を負ったのだとわかった。

「おまえ、その傷は……」

 ケーシャは身を起こそうとしたが、動けなかった。担架に拘束されていた。

「しばらく安静にしていて下さい。ここはF2(エフツヴァイ)の中です。心配はいりません。――この傷ですか? 申し訳ありません。トロイパペゾルダートを任されながら、龍を相手に遅れを取ってしまいました」

 後衛を頼んだはずのブラームスが龍と交戦するに至った経緯が、ケーシャにはわからなかった。ユプシロンに突破されてからの時間の経過も。何から訊ねようかと迷っている間に、ケーシャは格納庫内の空気がいつもと違っていることに気がついた。

「灯教徒……」

 格納庫の中に数十人の民間人がいた。空気を変えていたのは彼らだった。何人か、直接言葉を交わした者もいる。ここがまだ暖炉の谷だというのなら、彼らはすべて灯教の信者たちということだ。これについてもまた、ケーシャは理由がわからなかった。

「撤収ならば、どうして彼らを。彼らがそう望んだのか」

 ブラームスは首を横にふった。

「“時報”のご命令だそうです。詳しい事情は私もまだ……。ここからどうやって帰還するのかも、知らされてはいないのです。私も命令に従って、稼動可能なゾルダートをまとめて、このF2周辺に配置させてきたところなのです」

 ケーシャは首の自由が利く範囲で、再び格納庫内を見回す。E6とE12、そして基幹部隊の総員に比して、ここにいる人間は明らかに少なかった。人数の不足分すべてが戦死というわけでもないだろうとケーシャは思い、残りの隊員らがゾルダートとともに外に残されていることを察する。もしそれが正しいなら、一斉の撤退は到底不可能であり、このF2に乗っていない人間は切り捨てられることになる。しかし、ケーシャはそんな命令が下ったとは信じられない。そのような作戦は米軍でもやらない。やるのは亜連軍ぐらいのものだと、ずっとそう思ってきた。

「隊長。私は……」

 ブラームスが何か言いかけたときだった。目を覚ましてからずっと感じていたF2のエンジン音が高まり、一瞬、平衡感覚に乱れが生じた。F2が浮上したのだ。

「全機、バルムンクフィールドを展開。F2に同調させよ』

 F2コクピットからの指示があったが、その意図は理解できない。いったい何が行われようとしているのか。ケーシャは、フリューゲイルタイプの格納庫に窓がないことを心底もどかしく思った。


*   *   *   *   *


「イルベチェフ大尉、そちらは!?」

「なんとか持たせているが……』

 イルベチェフの返事は途中から裂帛の気合に変化した。おそらく、また例の「鎧蜘蛛」を撃破したのだろう。

 “壁”を抜けたところでトロイパペゾルダートからの砲撃を浴びた藤居たちは、江藤らを先に特異点へと向かわせるため、残って敵機兵の足止めを担った。そのトロイパペゾルダートは藤居との激しい砲戦の末に撤退してくれたが、途中で現れた鎧蜘蛛の相手をしている間に地震が始まり、手間取っているうちに藤居たちは背後から迫る“壁”に追い越されてしまった。つまり、締め出されたのである。今度こそ再突入の手段はなく、藤居たちはここで鎧蜘蛛を駆逐して、江藤たちの帰る道を確保することしかできない。

しかし、それすらも難題だった。あるだけをかき集めて持ってきた武器だが、それももう使い尽くしつつある。トロイパペゾルダートとの砲戦に役立った火縄丙型も、鎧蜘蛛の鉤爪のおかげで砲身が捻(ね)じ曲がってしまい、雷紫電用のドライバを応用して棍棒として使っている有様なのだ。

「こうなったら、BFGとマスディフューザを切るしかありません。自分がやります」

 藤居はずっと考えていた案を口にした。鎧蜘蛛がバルムンクフィールドの発生源を獲物として狙うという習性は、出撃前に全員に知らせてある。また、その効果のほどは昨日南田を助けたときに実証されてもいる。

「それはダメだ。BFGを切れば、タマリアノフのように……』

「確実にああなると決まったわけではないですよね。それにもしそうなってしまったとしても、大尉が俺を倒してくれればいいんです」

「いいわけがあるか! 君が俺たちに同行しながら、黒龍隊接触後にすぐには合流しようとしなかった理由なら、俺にだって察しはついているんだぞ。あれは雷麒麟の行動に疑問を持ったからじゃない。黒龍隊に戻ればまた命を狙われるのではないかと、心配でならなかったからだ。だから君は、安文俊や周富窪から黒龍隊の置かれた状況を聞かされるまで、傍観者に徹することを選んだ。その癒えない傷を抉れというのか、俺に!』

「でも、このままでは、みんな……」

 コクピットに突発的な揺動が生じ、藤居はそこで口をつぐむ。地震の激化ではない。機兵に匹敵するサイズのひときわ大きな鎧蜘蛛が、藤居の龍に組み付いてきたのだ。手足の動きを封じられ、抵抗できない。

「群山、援護してくれ」

「こっちも、弾がもう……』

 悲鳴こそ上げないが、群山もかなり厳しい状況らしい。トロイパペゾルダートの攻撃で片腕とメインロケットを失った群山には、これ以上負担をかけられない。やはりBFGを切ってやりすごすしかないと藤居は決めた。

「藤居! BFGだけは切るな!』

 イルベチェフの一喝。コンソールに手を伸ばしていた藤居はその勢いに気圧されて、指を止めた。数秒後、目前の鎧蜘蛛の頭から雷紫電の矛先が突き出て、青白い光を発する。鎧蜘蛛がもがき、藤居の龍は荒っぽく解放された。

 駆けつけたドラコーンは、つい先ほどまで五体満足であったのに、左腕をもがれていた。さらに、反撃に転じた鎧蜘蛛が意趣返しとばかりにドラコーンの頭部を爪で突き刺し、砕く。ドラコーンが鎧蜘蛛の体から抜こうとした雷紫電は、抜けずに体内で折れ、用を為さなくなる。

 しかし、ドラコーンはひるまなかった。武器を失った右手を、鎧蜘蛛の首筋にある甲殻の開口部にねじこみ、中の筋線維や神経と思しきものを掻き回し、掴んで引き伸ばし、ちぎる。鎧蜘蛛と同然のその戦い方に、藤居は呆然とし、援護することも忘れていた。

 やがて決着がついた。大地に崩れ落ちなかったのはドラコーンのほうだった。

「大丈夫か、藤居』

 イルベチェフの声は、呼吸の荒さに反して落ち着いていた。ドラコーン搭乗中のタマリアノフから感じたものは、ない。

「は、はい。大尉のほうこそ……」

「これくらいのことは、頼ってくれ。藤居。茨木のようにはいかないが、俺にだって、友人として支えるくらいのことはできる』

「しかし、ドラコーンは北熊の大事な機体だったのでは」

 ドラコーンは今の行動で大きなダメージを負った。藤居を無理に助けようとしなければ、ここまでの損傷にはならなかったはずだった。

「気にするな。仲間を思う心こそが、北熊の基礎だ。それが永久凍土にも杭を打ち込める素晴らしいものだと、今、再確認させてもらった』

 イルベチェフは笑ったが、ドラコーンの損傷は深刻だった。もはや自力帰還すらかなうまい。立っていられるのも不思議なくらいだった。

 ――そういえば、揺れていない。

 地震が収まっていたことに、藤居は気がついていなかった。次から次へと現れていた鎧蜘蛛も、後続が現れなくなっている。そして近くに残っている鎧蜘蛛も、散り散りに去っていく。

「准尉、あれを……。“壁”が輝いています』

 群山に従い、藤居は西を見た。だいぶ遠のき、全景が見渡せるほど小さくなった“壁”が、崩壊を続ける柱状奇岩群の向こうで、たしかに輝いている。夕陽の色ではない。例えるならば蛍の光だった。

「江藤少佐……。南田、峰國……」

 “壁”は見る見るうちに縮んでいく。そして“壁”が去ったあとには、ただ奇岩群と絶壁に囲まれた峡谷だけが残るのだ。そこにはもう、炎が存在しない。この地の持っていたエネルギーをすべて“壁”が吸い尽くしてしまったかのように。


*   *   *   *   *


「どおりゃぁ!」

 江藤は炎草薙でトーデスゲヴァルトの胸部に斬りつけた。一拍早く振り下ろされたトーデスゲヴァルトの発熱刀は、雷麒麟の左腕に食い込み、装甲を溶かしている。それでも構ってなどいられなかった。地震の終息と引き換えのように沈黙を破り、ついに動き出したノイエトーターの前に、火器を失った牙黒鷲が押されているのだ。片腕を代償にして目前のトーデスゲヴァルトを倒せるのなら、安いものだと思った。

 溶断能力は炎草薙が勝っているらしかった。刀身の食い込んでいく速度の差に気づいたトーデスゲヴァルトが、先に見切りをつけ、雷麒麟の肩から発熱刀を引き抜く。そして雷麒麟に豪快に蹴りを加えると、その反作用と肩のスラスターの噴射の連携で、急速離脱する。

「仕切りなおしか」

 江藤は奥歯を噛み締めた。距離を取られたのは失敗だった。トーデスゲヴァルトに与えたダメージはまだ充分ではなく、障害として無視できない。火縄の弾を一発でも残していたらと、江藤は悔やみながらトーデスゲヴァルトの着地するさまを見ていた。そのトーデスゲヴァルトが突然平衡を失って倒れるまでは。

「行って下さい、隊長』

 トーデスゲヴァルトの脚を狙撃し、大地に転がしたのは、峰國だった。南田とともに、残る二機の相手をしていたはずだったが、その合間を縫って援護をしてくれたのだ。ふたりを助けたい気持ちが湧いてくるが、江藤はそこで我を抑え、せっかくもらったチャンスを活用することだけを考える。

「帰ったらバナナ奢ってやるからな」

 江藤は峰國たちに背を向け、牙黒鷲の救援に向かった。すると、ノイエトーターの姿がすぐに目に飛び込んできた。もはやただ座り続けるだけの彫像ではなく、それは宙を舞っていた。

 “壁”は特異点だけを囲むサイズにまで縮小し、固定された。そのためどちらを向いても光り輝く“壁”を鮮明に見ることができる。ノイエトーターはそのなかにあってもいっそう人目を惹く白い輝きを発しており、優雅に舞い飛ぶその姿は“白銀の人形”と形容するにふさわしかった。

 そのノイエトーターは美しいばかりではなく、強さも併せ持っていた。あの牙黒鷲が、盾での防戦一方というありさまである。ノイエトーターは手にした槍から刃を出し、またはそれをバルムンク砲として機能させ、遠近織り交ぜた攻撃で牙黒鷲を翻弄する。牙黒鷲も盾を右手に持ち替え、その陰に隠していた警棒のような近接武器で反撃を試みているが、有効な一撃を与えられていない。

 江藤はノイエトーターの高度が下がるタイミングを読み、雷麒麟のロケットエンジンの最大推力を開放した。読みどおりの位置に来たノイエトーターへと、大上段から炎草薙を振り下ろす。

「助太刀!」

 渾身の一撃は、ひらりとかわされた。炎草薙が空を切ったところでノイエトーターから背中を蹴られ、雷麒麟は墜落する。地面に激突する前に姿勢を立て直せたのは、エアインパルサーのおかげだった。

 ノイエトーターは何かを見定めるような合間を挟み、そしておもむろに雷麒麟に槍の先端を向けた。熱粒子砲だと、江藤は感づく。

 『江藤少佐!』

 牙黒鷲が横から割り込んで、そのビームを防いでくれた。

「どうにか方法はないか。この殺気、尋常ではない」

「やはりその機体では無理だ。“壁”をすり抜けるのとシュッツネーベルを破るのとは等価ではないんだ。――今、殺気と?』

「消滅砲とは違うが、何か危険が迫っている。感じなかったのか。この特異点に漂う空気の豹変を」

 ヴォルフの返答は、すぐには返って来ない。その間に、数回のノイエトーターの攻撃があったが、牙黒鷲はなんとかこれらを防いだ。

「――オルロフを解放し、地震は収まった。あとはオルロフを奪還さえされなければ、この現象の終息も時間の問題のはずだ』

「本当にそうなのか。俺にはそう思えん。敵は目の前に残っているぞ」

「では江藤少佐、これを持って仲間とともに特異点から離脱してくれ。あとのことは任せてくれていい。君たちが撤退するまで、X2(イクスツヴァイ)は、ノイエトーターは俺が押さえる』

 牙黒鷲は盾の陰に持っていた球体を示し、雷麒麟に手渡す。

 江藤はもっと詳しい、納得のいく説明をヴォルフに求めようとしたが、そのような余裕を与えてくれるほど、ノイエトーターは甘い相手ではなかった。

 牙黒鷲の盾がノイエトーターの華麗な連続攻撃によって弾き飛ばされ、手の届かないところへと落下した。続いて襲ってきた槍の一閃を、牙黒鷲は左腕の武器で受け止めたが、ノイエトーターは相対運動が停止したのをいいことに、脚部の機関砲を牙黒鷲の無防備な胴体に撃ち込む。

 それを見た江藤は、考える前に動いていた。右手の炎草薙で、ノイエトーターの肩についた大型スラスターモジュールを斬りつける。刃が触れる前にシュッツネーベルが作動したのがわかったが、それでも、刀身は装甲表面へと達した。銀色の装甲に、傷がつく。

「下がるんだ、少佐!』

「なにを! ここで退けるか!」

 言った直後に、炎草薙が折れた。ノイエトーターは機関砲を撃つのをやめ、牙黒鷲を蹴倒してから雷麒麟に向き直る。江藤が肩につけた傷は浅く、戦闘力が低下したようには見えなかったが、それでもノイエトーターのパイロットを刺激するには充分すぎたらしい。

 ノイエトーターの槍さばきに江藤は追いつけなかった。槍は雷麒麟の腹を突き刺し、その状態で熱粒子砲としての機能が作動する。離脱の時間もない。高熱の粒子が一条の筋となり、雷麒麟の腹を貫いた。モニターが紅く染まる。――しかし、それは金属の赤熱でも鮮血の飛沫でもない。

「ハズレだ!」

 江藤は雷麒麟に折れた炎草薙を捨てさせ、その手でノイエトーターの槍を掴ませる。ノイエトーターはその状態からさらに熱粒子砲を二回使ったが、それは江藤の目の前の赤い警告メッセージ表示をいくつか増やすだけだった。雷麒麟のコクピットは龍とは違い、胸に据えられている。ノイエトーターが三度も貫いたのは、BFGが収まった区画であり、それで雷麒麟が即時停止することはない。

 狙いを誤っていたことにノイエトーターが気づいたのか、ノイエトーターが雷麒麟の右手を振り払って、槍を動かそうとする。力比べで勝てるという自信はない。だから江藤は勝負をそこに賭けてはいなかった。右手は時間稼ぎに過ぎない。

 赤龍隊時代からの愛機に教え込んだ、江藤のオリジナルモーションパターンは、パーソナルディスクの読み込みによって雷麒麟にも受け継がれている。それが雷麒麟の、トーデスゲヴァルトとの戦いで装甲や蓄電ユニットが破損した傷だらけの左腕を動かした。

「必殺……」

 持ち上げた左腕が、いったん肘を後ろにして後退し、それから速度反転、加速して、軽く弧を描くようにして前方へと押し出される。高速で繰り出された左手が持つのは武器ではなく、ヴォルフから託されたオルロフである。それは破損した蓄電ユニットとの間で放電を起こし、仄(ほの)かに輝きを取り戻している。

「電!」

 帯電した左手がノイエトーターの鳩尾(みぞおち)を捉える。

「光!」

 発動したシュッツネーベルが一瞬オルロフを受け止めたが、すぐに消失し、その力を吸い取ったかのようにオルロフの輝きが増幅される。

「パンチ!」

 オルロフが直接ノイエトーターの胴へとめり込み、雷麒麟の左腕は砕け、そして何かの場(フィールド)が弾ける。

 ――刹那、特異点は淡い光に覆われた。



- 6 -


 深夜の新青海基地の路上を、一台のジープが規定超過の高速で疾駆する。

「くそ。この忙しいときに、立ち会いなどでいちいち呼び出しおって……」

 アデタバ・ヨシダは助手席でペンライト片手にスケジュールをめくる。瞼(まぶた)と肩が重い。あまり寝ていなかった。

 運転は副官のパトラ任せである。というより、別件で出かけていたパトラに帰り道で拾ってもらったのだ。ヨシダの部署は今、全員が時間に追われている。次に仮眠を取れるのは、疲労で倒れたときだろう。

 ジープの時計が、一月二十一日の到来を告げる。ちょうど二日前のこの時間、ヨシダはある報せを受けた。それを機に物資集配のスケジュールが急遽変更され、殺人的な作業密度となったのだ。しかしヨシダは、そのこと自体に怒りをぶつける気にはならない。そうなって当然の大事件である。

 今日から丸一ヵ月前に発生した半径五百キロメートルのバロッグの、完全消失。件のバロッグは数日前から縮小傾向にはあったのだが、そのペースでは完全消失まで半月を要するという観測だった。だから大半の物資の輸送先はバロッグ内部ではなく、その周辺で支援中もしくは突入待機中の部隊が指定されていたのだ。それが突然の通信復旧により、バロッグの只中であった広大な領域から救援物資の要請が相次ぐ事態となり、それから一時間と待たずに通信と管制、輸送が飽和して麻痺状態に陥った。

 限られた輸送能力のなかで最も効率よく物資を前線へ届けるために、ヨシダと部下たちは頭をフル回転させて新たな物資振り分け表と輸送スケジュールを作成した。そして管制から定期的に伝わってくる情報と、戦略軍参謀本部からの指示に逐次対応し、その改編作業を何度も繰り返した。おかげでチーム内のカフェイン需要は普段の数倍のレベルに達し、ヨシダは秘蔵のコーヒー豆も備蓄開放して、チームの任務継続能力を保持しなければならなかった。

「でも、ちょっと収まってきた感じじゃない?」

 パトラの発言の主語が特定できず、ヨシダは聞き返した。話すほうも聞くほうも、頭が鈍っている。

「この混雑よ。むしろ混乱といったほうがいいかな」

 それでヨシダはようやく理解し、頷く。首を下げた拍子に眠りに落ちそうになって焦る。

「――そういえば、今日の午後からはだんだんとマシになっているかもな。俺たちの今の思考と作業能力でも、なんとか切り抜けられているんだから」

 スケジュールをめくる手を止めて、ヨシダは流れ行く基地の景色を見ながら考える。何か、契機があっただろうかと。一ヵ月も苦境にあった前線部隊からの要求は、最初のピークよりはだいぶ落ち着いたものの、まだまだ収まる兆しを見せていない。そして新青海基地の手元の輸送手段はどんどん出払っていくのだから、この混乱が収束に向かいつつあるのには、何かしらの要素が大きく効いているはずなのだ。

「やはり、頭か……」

 ひとつの結論に至り、そう呟いたとき、ちょうどヨシダの視界をひとりの人間の頭が通り過ぎた。飛ばしているため、それが長身の男であるとしか判別できない。なぜかその顔に引かれるものがあり、ヨシダは追い越したその通りすがりの姿をふりかえる。しかし、ほどなくパトラが道を左に折れたため、ろくに観察できなかった。

「どうかしたの? 何か落とした?」

 パトラがアクセルを緩めながら訊ねてくる。

「いや。あの男、どこかで見たような気がした。どこで見たのか。――いずれにせよ、軍人の面構えではなかったな」

 そう言うと、パトラが吹き出した。

「あら、アディったら男に気があるわけ?」

「よく冗談なんぞ言う気力が残っているな」

「疲れているときこそ、ユーモアが必要なのよ」

 溜め息をつき、ヨシダはスケジュールを再びめくりはじめる。追い越した男のことは、ひとまず忘れた。


*   *   *   *   *


 扮装用の作業服を着たまま、男は新青海基地の司令部があるビルに入った。迷うことなく、基地司令セム・ディハン少将の執務室へと向かう。普段なら決して作業服の男など通さないセキュリティシステムが、何の文句も言わずに男をVIP用エレベータへと送り出した。

 男が目的の部屋を廊下の先に見つけると、そのドアからひとりの軍人が出てきた。セム・ディハンではないことが、体格の違いから一目でわかる。

「やあ、元帥。やはりここにいたか」

 男はその軍人に呼びかけた。軍人……金星也は男の姿を認めると、どこかへ行こうとしていた足を止め、そして目を細めたようだった。一方、男は臆することなく金星也へと歩み寄る。

「しばらく見かけなかったが、体調に問題はないようだな。まったく見事な手腕だ。いま歩いて観察してきたが、この基地の混乱は確実に沈静化しつつある」

 金星也は言葉による反応を見せず、ただ片腕で別の部屋の方向を指し示す。男は意図を汲み、金星也とともに無言のままその部屋へと移動した。

「どういう趣旨の戯(たわむ)れかな、洪秀連(ホン・シュウレン)殿」

 ドアが閉まり、防諜システムが作動するのを確認してから、ようやく金星也は口を開いた。

「戯れのつもりはない。私は元老院議員の一人として、君と話をしに来た。このなりは、基地内を視察するためであり、また護衛の手配で貴重な労働力を浪費させないためのものだ」

 洪秀連は室内にあったソファーに座り、立ったままの金星也と対峙する。

「では、用件を承ろう」

 金星也はやはり、座る気がない。話を早く済ませろという意図だと、洪秀連は解釈する。

「まずタシケント陥落以後、君が姿を消していた理由、そして君が自身の死亡説、避難説の流布を放置した意図を問いたい」

 金星也は即座にこれに答える。

「ダーダネルス作戦の、所期の目的を達成するための方便と考えていただきたい。タシケントを落とされたのは計算外だったが、得られた結果には満足している。外廓聯その他への必要な作戦指示は継続していたのだから、そちらが文句を出す筋合いのことではあるまい」

「しかし、君が啓示軍の攻撃を恐れて逃げ隠れたという噂は、軍にとって大いにマイナスだったとは思わないか。統制力の低下により失われたものも多いように思えるが」

「大事の前の小事というやつだ。今回のことで、亜細亜連邦軍は脱皮に成功した」

「脱皮?」

 洪秀連は首を傾げる。

「失地回復の前に、殻を広げ、亜細亜連邦軍の許容力と統制力を高めておく必要があったのだ。内部崩壊の危険は、組織が肥大するにつれて高まる。その点、元老院が議席を増やそうとしないのは賢明な判断だ。――しかし、セム・ディハンの件については賢明とは言いがたい」

「同感だ。核弾頭の持ち出しを許可するよう彼に働きかけたのは、我々の総意ではない。君に無断で事を運んだことも同様だ」

「つまり、元老院議員の一部が独断で動いたと。暖炉の谷への部隊集結指示も含めて、元老院の総意ではないと言うのだな」

「いや、暖炉の谷の包囲網に関しては、別だ。あれは間違いなく、ノヴィコフ議長のもと採決が行われた案件だ」

「では、かの地での“ベルリンの壁”発生を、元老院は予期していたと認めるか」

 それこそ予期はしていたが、洪秀連にとっては、してほしくない質問だった。

「否定のしようがない。我々は独自の情報をもとにして、あれが欧州事変再来の端緒となると判断し、元老院派の部隊に集結を命じて阻止に当たらせた。ただし、そこに北熊や黒龍隊、そして応龍隊までが集まったことは、我々の作為の範疇ではない。だが、君の作為が絡んでいるのではないかという疑念が、元老院では持ち上がっている。それが第二の質問だ」

「買いかぶりだな。ダーダネルス作戦の進行中に、そのような局地的戦闘に関わっている余裕はなかった。しかし、後悔はしている。結局、あの場所に重要なピースがいくつも揃っていたわけだからな」

 どこまで真実がわからない金星也の返答に、洪秀連は息を吐く。

「元帥。ピースは増えたかもしれないが、パズルの全体像は拡大するばかりだ。二日前の夜、暖炉の谷で起こった局地的大地震と、それに続く“ベルリンの壁”消失、そして四半世紀近く続いてきた燃焼現象の終息。いずれも原因はわかっていない。それから、まだ確認が取れた話ではないが、谷に展開していたはずの啓示軍が一兵も残さず消えたという報告をRATから受けている。戦略軍でも、掴んでいるのだろう?」

「無論、緘口令(かんこうれい)を敷いた」

「暖炉の谷の事後処理については、近々、協議したい。時間を作ってくれ」

「わかっている。神巌(かみいわ)に連絡させる。――質問は終わりか?」

 暇ではないのだと言外に訴え、金星也は洪秀連を置いて部屋を去ろうとする。

「待て、元帥。黒龍隊の行方、気になってはないか?」

 金星也は足を止めた。

 戦場から消えたのは、啓示軍だけではない。“ベルリンの壁”排除のために活躍した黒龍隊が、出撃したまま帰還せず、姿を消したというのだ。二日経っても行方が知れないなど解せない話だが、RATとアカスティン・マヒロフスキーの双方から、一致した内容の報告が来ている。金星也にも、同一の情報がもたらされているはずだった。

「捜索は進めさせるが、全滅と考えるのが妥当だろう。戦死者名簿への転記を待つ行方不明者の名が、何ページ分あると思っている」

「惜しくはないか?」

「どういう感想を持とうが、確定された事実が書き換えられるわけではない」

「いや。彼らに挽歌を捧げるには、まだ早い。そもそも不自然だとは思わなかったか。機兵パイロットはともかく、整備兵らも含めて全員が姿を消しているのだ。戦死なら戦死で、その現場を見た者がいるはずだ」

 金星也は逡巡し、そして結論に至った。

「――北熊が匿(かくま)ったか」

「だとするとRATやマヒロフスキーからの報告内容に疑問が残るが、いちばん信憑性のある線には違いない。私の勘では、黒龍隊は無事に生き残っているよ。彼らに捧げるべきは挽歌ではなく祝杯だ。西フェルガナ基地に囮として送られた黒龍隊が、一ヵ月にわたるバロッグ内での過酷な作戦から生還した。これは奇蹟だよ」

 洪秀連は立ち上がり、何事か考え込んでいる金星也の脇を抜け、先に部屋を出た。そして背後でドアの閉まる音を聞きながら、小さく吹き出す。

 ――あの男も、ああいう表情をするのか。


*   *   *   *   *


 洪秀連の去ったあと、金星也は神巌に連絡して以後の予定をキャンセルし、久しぶりに自室で休息をとることにした。

 棚と冷蔵庫を開け、そこからグラスとワインを取り出す。それらを机に置くと、空いた手でレコードをかけた。

「奇蹟……」

 椅子に腰掛け、金星也は洪秀連が使った言葉を反芻(はんすう)する。その言葉は、極めて都合のいい偶然、あるいは、当事者の類稀な知力と行動力によって達成された事柄を言う。が、しかし。第三者の目では信じられないような「必然」もまた、そう観測されうるのではないか。

 黒龍隊。そして江藤博照。駒だと思っていたものが、不意に転がってパズルを埋めるピースとなった。

 室内を満たす嬉遊曲(ディヴェルティメント)の調べに向けて、金星也は杯を掲げた。

「乾杯だ」



- 7 -


 木製のドアがやわらかい音を立てて開き、冷気とともに女性の香が流れ込んできた。暖炉のそばで手紙を書いていた北嶋は、手を止めて、そちらをふりかえる。帰って来たのは円道紗耶だった。

「朝からいい天気ですよ。雲ひとつありません」

 円道は帽子と外套(がいとう)を脱ぎながら、でもやっぱり寒いのは寒いんですけどね、と付け加える。

「早かったね」

「ジーナが送ってくれたので」

「ああ、彼女の怪我はもういいのか。で、どうだったかい、うちの入院組の様子は。朝井くんは今日あたり退院して、一緒に帰ってくるかと思っていたが」

「みんな元気でしたよ。朝井軍曹、本当はもう自由に動いていいんですけど、イルベチェフ大尉が言うには、防諜のためにはあまり無闇に出し入れできないとかで。本人は生殺しだって怒ってました。でも、鷹山曹長と藤居さんだけは、このまま入院しているほうが体のためだって先生のお話でした。それから長野中尉も、しばらくは」

「そうか。お見舞いご苦労だったね。こっちで暖まるといい」

 北嶋は立ち上がり、自分は窓際に移る。そのそばでは、片腕を吊った坂元が、抜き身のナイフをぼんやりと見つめていた。

 カネジュ・イルベチェフの申し出に乗り、ロシアの片田舎にあるこの別荘(ダーチャ)に隠れたのは、一昨日のことだ。負傷者は近くの病院に入院している。別荘も病院も北熊の身内らしく、ここにいれば半月は見つからない、というのがイルベチェフの説明だった。

 妻は心配しているだろう、と北嶋は思いを馳せる。この田舎の農地の情景を妻に伝えるべく手紙を書いているが、しばらくこれは投函(とうかん)できない。三人の待ち人が帰ってくるまで、北嶋はただ待つことしかできないのだ。

 “ベルリンの壁”に突入した六人のうち、藤居と群山、そしてイルベチェフは戦闘中に離脱し、ぼろぼろの機兵でなんとか帰還した。しかし江藤と南田、峰國は、帰らなかった。ヘリで捜索してみても、特異点には少数の破片しか残っておらず、三人とその乗機の行方は知れなかった。

 だから、待つことにした。イルベチェフが安全を保証した半月が、ただの待ちぼうけで終わったときには、北嶋はまた別の隠れ家を世話してもらうつもりでいる。

 窓の外から、ゴン太の吠える声が聞こえてきた。また家畜か家禽(かきん)に向かって吠えているのだろうかと、北嶋は心配する。いくら小さいとはいえ一応は狼らしいから、家畜や家禽が怖がって恐慌をきたすことも考えられた。昨日のときより吠え方が激しいのも気になる。

「こら、静かにしなさい」

 ドアを開けて外に出ると、ゴン太が虚空に向かって吠えているのが見えた。ゴン太は首を傾げる北嶋に一瞥(いちべつ)をくれたが、なおいっそう虚空に向けて激しく吠え続ける。

 北嶋は雪の散らばる地面へと下り、ゴン太のそばに歩み寄ると、しゃがみこんでそっとその背を撫でてやった。するとゴン太はすんなり吠えるのをやめ、北嶋を見上げる。何かを訴えるような目だったが、餌を欲しがっているわけではなさそうだった。これは何を求める視線だっただろうかと思い返していると、不意に、日が翳(かげ)った。

 北嶋は不審に思って顔を上げた。雲ひとつない天気と円道が言ったのは、ついさっきのことだった。しかし北嶋の目の前には、深く濃い霧が現れていた。それが陽光を遮っているのだ。

「バロッグ。――いや、これは」

 朝の爽やかな静寂を乱す、容赦のない金属の衝突音が、北嶋の体を震わせる。そして霧は晴れていく。徐々に太陽の光が戻り、地を照らす。そこに大きな影を描き出す。人の形をかたどった、巨大な機械のかたちを。横たわる二機の龍と、その狭間に佇む雷麒麟の姿を。

 そして声は轟いた。

「江藤博照、只今帰還せり!』



――ダーダネルス篇 完――