黒龍隊の挽歌 第二十四話

凪沙の選択



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 約束の場所。約束の時間。

 凪沙(なぎさ)がそこへ着くと、バトゥ・ウォンは古びたテーブルの席について茶をすすっていた。雑然とした男所帯という印象の木造住宅。彼の住まいではないという話だった。事実だろうと凪沙は思った。

 テーブルにはふたりだけだった。それともう一匹、バトゥの膝(ひざ)の上に年老いた三毛猫がいたが、それだけだ。階下にいる家の主人が、第三者の侵入を監視している。凪沙は自分も茶を淹(い)れようとは思えず、黙々と茶菓子をつまむバトゥに問いかける。

「首尾は」

「悪くない」

「どこだ」

「すぐに会わせる」

「では、すぐだ」

 そうはいかない、とバトゥがにやける姿を凪沙は想像したが、しかし、バトゥは茶菓子をかじり続けている。膝の上の猫と同じで、全く面白くなさそうに。

「無口だな」

「腹を立てているのさ。過去の自分に」バトゥは湯のみ残っていた茶を飲み干して、急須(きゅうす)に手を伸ばす。「お嬢さんは、そういうことはないか。なぜあのときああしてしまったのだろうか、と悔やむことが」

「よくわかる。わたしも、わからないんだ。あのときの自分の判断が、正しいものだったかどうか。世の中、敵と味方さえ嗅(か)ぎ分けられれば問題は片付くとわたしは思っていた。しかしそれは間違いだった。白か黒か。まず自分の心がどちらなのかすら、わたしは、わかってはいなかった」

「しかし、わからないなりに選んだ結果でも、責任は取らなければならない」

「ああ、過去は向き合うためにある。記憶は封印するものではなかった。あの日のことを、わたしは何度も思い起こしてきた」

 けれど、それでも答えは出ないのだ。あの日、一月十八日の選択の正誤は。



- 2 -


 先刻、忍び足で通った廊下。それを茨木(いばらき)は今、駆け足で引き返していた。啓示軍(オフェンバーレナ)の兵士に見つかる可能性を無視したわけではないが、考慮したところで、対処しようがなかった。見つかれば、撃たれるか? それはそうだ。外からの音は、機兵が起動した事実を伝えている。そんな状況下で勝手に部屋を脱け出している捕虜には相応の処置だろう。威嚇(いかく)で済むと考えるのは楽観的に過ぎる。――それでも走らねばならなかった。

 廊下はドアのところで行き止まりになる。鍵はかかっていない。昼からこの状態だった。だから茨木は外に出られた。おそらくフェルバルディの計らいだ。彼の真意が茨木にはわからなかったが、少なくとも隊の総意ではなかったのは確かであり、今このドアの先に茨木がいないのはフェルバルディにとって良くない状況であると考えられた。しかし、敵将校への義理立てでここへ戻って来たわけではない。

 ドアを開けた。静かにやるつもりだったが、失敗した。胸騒ぎがしていたのだ。この騒乱を好機として、行動を起こす者が想定された。いや、この状況を作ったのがそもそも、彼女であるのかもしれない。そして、茨木の推量は正鵠(せいこく)を射ていた。

 小部屋にはひとり小嶺(こみね)凪沙が立っていた。――つい一瞬前までは立っていた。体の平衡(へいこう)を失い、倒れようとしている。茨木はなんとかその体が床につく前に抱き止めた。

「小嶺伍長」

 呼びかけるが、どうやら聞こえていないようだった。目を覗(のぞ)き込む。様子がおかしい。華奢(きゃしゃ)な体が小刻みに震えている。

 ガスか。しかし、誰が?

 茨木は部屋の中を見回した。床の石材が一部外れている。あの不思議な男、バトゥが顔を出した位置と同じだとすぐに思い当たる。

 茨木は考えた。なるほどこの娘の体格ならば隙間を通り抜けられる。では、この中にガスが? バトゥはなんともなかったようだが。それともあの男が仕掛けたのか。わからない。

 一応、ガスの臭(にお)いも確かめる。異臭はない。不意に甘い石鹸(せっけん)の香りが漂(ただよ)って、茨木は少し身を引いた。が、凪沙の腕がしがみついているのに気づき、しっかりとその体を抱き留めなおす。

 お父さん。かすかにそう聞こえた。

「安心しろ、小嶺……凪沙。ここにいる。おまえはひとりではない」

 今度は聞こえたらしい。震えが少しずつ収まっていく。片手を伸ばしてドアを閉めた。幸い、啓示軍の兵士はやってこない。フェルバルディも。外では機兵の足音が続いていたが、距離は遠くなっている。動いているのは一機か、二機か。足の数が普通と違うせいで判然としない。

 どうしたものか。凪沙は徐々に回復に向かっているようだが、まだ、立てる様子ではない。

 茨木はふと妹のお守りをしていた頃を思い出す。もう二十年も昔のことだ。六つ年下の妹の体は小さかった。泣きじゃくる妹を何度もこうしてなだめた覚えがある。母を亡くし、父も忙しかったから、妹の守護は茨木が担(にな)うべき使命だった。しかし、今はもう違う。妹は父の仕事を継いで自立している。もう自分の支えを必要とはしていない。もっとも、それは早くからわかっていたことだった。中学に入る頃には、もう妹は自らを支えてくれる仲間を周囲に作っていた。もう兄という支えは必要ではないと判断した。だから家を出られたという面もある。妹が幼い日のままの脆弱(ぜいじゃく)な存在であり続けたなら、茨木が自分の弱さと訣別(けつべつ)する日は来なかっただろう。むしろ、妹の自立こそが、茨木に自分の弱さとの正面対決を強要したといってもいい。

 突然凪沙から突き放されて、茨木は回想から呼び覚まされた。凪沙は背を向けて座り込んでいる。もう震えは収まっているようだ。

「錯乱していました。――その、申し訳ありません」

「もう大丈夫か」

「はい」凪沙は立ち上がる。「心的外傷後ストレス障害(PTSD)と思われます。今は、もう大丈夫です」

「いつからだ」

「子供の頃……。いえ、症状が出たのは、つい先日です」

 拳銃を確かめながら凪沙は素直に答えていたが、ふりかえって表情を険(けわ)しくした。

「そんなことよりも、すぐに脱出を。当初の作戦予定とは異なりますが、啓示軍のこの混乱ぶりなら、すぐに脱出するほうが安全です」

「当初とは?」

「先の爆発音は書簡をグレネードで射出した音です。内容は、あなたの身柄と引き換えに啓示軍の脱出を見逃すという取引を持ちかけるもの」

「思い切ったな。誰の発案だ」

 凪沙は視線をそらした。

「――わたしです」

「そうか。やはり、変わったな」

 茨木はひとつの確信を得ていた。己(おのれ)の葛藤(かっとう)、フェルバルディの動揺、凪沙の変容。もはや偶然とは思えなかった。有形にせよ無形にせよ、共通の源が存在する。バトゥがGT38(元老院管理地三八号)だと主張した、この場所に。ここは、変則領域を感知できる人間を集めた試験場だった……。少なくともバトゥはそう信じている。ならば。

「ここから逃げ出すのはあとだ」

「どういう意味ですか。何か優先すべき対処事項が? そういえば、どうして部屋の外に。ここに捕まっていると聞いていたのに」

「まずはここから出よう。話は地下に入ってからだ」



- 3 -


 亜連軍に攻撃の気配なし。書簡らしき射出物を回収。ドライバイニヒの稼動はいまだ不安定であり、迎撃(げいげき)配置完了前に一機のBFG(バルムンクフィールドジェネレータ)がダウン。もう一機がマスディフューザの機能停止により擱座(かくざ)。

 部下のマウロ・ニルシッジから受けた無線で状況を把握すると、フェルバルディは傍(かたわ)らに待たせていた女、ラリサ・コルヴァクに会釈(えしゃく)した。

「お待たせした」

「いいえ。亜連軍の攻撃でしょうか? 大変なときに、すみません」

「我々は間借りの身、あなたがたの善意に仇(あだ)で応(こた)えるつもりは毛頭ない。行こう。発電機室だったな」

 二人並んで歩き出す。

 配電盤の封印解除も終わったので、あとは直接発電機の状態さえチェックすれば、ラリサの言う電力不足は解消されることになる。しかし、どうして今日になって電力需要が増えたのか。フェルバルディは、住人の生活を脅かさない範囲で電力を拝借することを初日に申し渡し、その量は減りこそすれ、増やしてはいないはずだった。

 ほとんど表に出てこない住人たち。ただの研究者というラリサの説明は、すべて真実とは言えないまでも、まるっきり嘘でないのは確かだった。彼らに計算の厄介(やっかい)なデータ解析を依頼したところ、早く、そして有意義な結果を得られた。もっとも、その成果を以(もっ)てしても機兵用BFGの不調はいまだに解消されていないのだが。

 ――データが改竄(かいざん)されていた可能性もあるか。

 フェルバルディにはわからなかった。隣を歩いている、この場所には似つかわしくない麗人が、ただの研究莫迦(ばか)なのか、とんでもない悪魔なのか。水や野菜の提供を申し出てくれたのは、純粋な善意か、何かの計略の一環か。自分と彼女と、どちらが今、優位に立っているのか。

 軍人としての自分の判断力が低下していることをフェルバルディは自覚していた。いくつもの障害あったとはいえ、ここに今日まで留まったのは失策としか評価できない。しかし、評価はできても決断はできなかった。思考の分裂が進んでいる。傷病兵を切り捨てて精鋭だけで早期に脱出するべきだったと唱える自分と、必ず包囲網を抜ける手段があるから全員で撤退を完遂(かんすい)しようと主張するもうひとりの自分の並立。マウロを右腕として鍛(きた)えあげたいと息巻いていたはずなのに、大戦勃発(ぼっぱつ)前からの彼の念願、司法関係への就職を支援してやりたいとも思うようになった。すべてはこの土地に入ってからのことだ。

 だから、状況打開のために駒を動かした。ここが亜連の極秘人体実験場だったと言い出した、あの捕虜、タケシ・イバラキを。

 牢屋代わりの発電機室から出られるように、鍵をかけずに部屋を出たのはフェルバルディ自身である。すべては独断。若きマウロにはもちろん、最も信頼すべきラディール軍曹にもこの件は話していない。だから、ラリサが発電機を動かしたいと訪ねてきたとき、応対をひとりでやる必要があった。フェルバルディの目論見(もくろみ)どおりに事が進んでいれば、この廊下の先、ドアの向こうに、イバラキはもういないのだ。ここにいる啓示軍(オフェンバーレナ)将兵の中で、それを承知しているのは自分しかいない。しかし、住人たちはもとより捕虜の居場所になど頓着(とんちゃく)していない。フェルバルディの嘘は、仲間にさえ聞かれなければ、外では事実として通ることになる。

 ドアの前に立った。フェルバルディは鍵を開けるふりをする。緊張した。イバラキは、いるだろうか、いないだろうか。

 ドアを開ける。

 誰もいない。

「あら」ラリサは首を傾げる。「あの捕虜の方はどうしたのですか?」

「ああ、さきほど移送しましたよ。配電盤を操作している間にね。憎き敵ではあるが、タービンと同室にしたのでは虐待になる。我々は、啓示軍は、捕虜の扱いについて国際法を遵守(じゅんしゅ)する。むしろ、新時代の範(はん)を示したい」

 その説明で、相手はすんなり納得した。彼女にとって何も不自然はあるまい。いや、横顔に緊張が見える。隠しているが。彼女は一昨日、深夜の尋問に立ち会っている。そこで言葉を交わした相手が、あのときより悪い扱い――たとえば拷問(ごうもん)――を受けていないか、想像してしまったというところだろう。そのように言葉にして尋(たず)ねたかったが、それは不自然な言動だと客観的に判断して、フェルバルディは衝動を抑(おさ)える。

 発電機のまわりを一周したラリサは、使えそうだ、と頷(うなず)いた。彼女の善意を信じるならばここにひとりで残してもいいが、何か細工(さいく)をされると困る。万が一、イバラキが戻ってきてふたりが鉢(はち)合わせするのもまずい。フェルバルディは声を張って近くの部下を呼び出し、やってきた兵にラリサの監視を命じた。

「では、ミス・コルヴァク。小官は指揮に戻るので」

「ありがとう。――ここでの戦闘は避けていただけますね?」

「最大限の努力を。しかし確約はできない。戦争なのでね」

「では、これまで通り、私たちは外に出ないようにしておきます」

「それがいい。地下壕(ごう)にでも隠れているのが得策だ」

 探りを入れてみたが、ラリサは微笑(ほほえ)んだだけだった。

 フェルバルディが指揮所代わりの部屋に戻ると、マウロ、ラディール軍曹、その他の主だった顔が揃(そろ)っていた。

「発電機は動くようだ。女には見張りをつけた。亜連と内通していると困るからな」

「隊長。捕虜はどうしたのです?」

「俺の部屋に閉じ込めておいた。状況次第では引っ張り出すことになるだろう。――さて、書簡とやらは」

 見回すと、ちょうど部屋にそれが持ち込まれてきた。本物の紙。デジタルデータは衝撃や変則領域の影響で正しく読めなくなる可能性があるから、妥当(だとう)なところだ。フェルバルディはマウロの手を介してそれを受け取り、広げた。ごく普通のA4コピー用紙に、手書きでメッセージが連ねられている。要点のみを記した簡潔な英文。すぐに読み終える。再読して、マウロに返した。その場の全員が一読するまで、黙して待つ。

「捕虜を解放すれば見逃してやる、ですか。捕虜を取った甲斐があったと喜ぶべきなのでしょうか」

 下士官の一人が苦笑した。イバラキを生かしたことについては、口にこそ出さないまでも、反対の人間はいただろう。彼らに対して自分の判断が冷静で的確だったことを示すことはできたかもしれないが、しかし、素直に喜べる状況というわけでもない。交渉を持ちかけてきた相手の意図をよくよく考えなければならないのだ。頭の使いどころはむしろこれからだと言える。

「さて、どうするかな。向こうにも戦闘を避けたい事情があるようだが、判断を誤ればこちらが不利に陥(おちい)る。ラディール軍曹の意見は?」

「奴らも補給を受けたとすれば、気にしているのは戦闘そのものではなく、この施設への被害だろう。条件をそのまま飲むのは危険だな。安全圏に逃れるまで捕虜を手放すべきではない」

「なるほど。では、マウロ。おまえの意見を聞こう」

「亜連軍がこのような取引を持ちかけてきた背景には、我々のドライバイニヒに対する警戒があると考えられます。いっそ、こちらから示威(じい)行動に出るという選択肢もあるかと。そうやって時間を稼(かせ)ぎ、非戦闘員と傷病兵を先に脱出させておけば、追っ手を振り切るのも容易になるはず」

「それは楽観論だ、少尉殿」ラディールが口を挟む。「奴らには急ぐ理由がない。じっくりと包囲網の完成を待てばいいのだ」

「軍曹の言うことはもっともだな。我々を殲滅(せんめつ)するためなら、このような小細工を必要としないだろう。しかし、敵は優位にあるがゆえに、捕虜を取り返したいという欲を持った。それなら、条件はかなり五分(ごぶ)に近づく」

「では、ラディール軍曹の言うように、安全圏に離脱するまで捕虜を盾に?」

 マウロの示したその案は、すでにシミュレート済みだった。取引を自ら持ちかけることさえも、フェルバルディは何度も検討していたのだから。

「今すぐ出発できるなら、それが最良だろう。しかし、BFGの不調はまだ直っていない。とてもこれからの行軍に耐える状態ではない。そこで、ひとまず交渉に応じ、まずは復旧の時間を稼ぎたい」

「直る見込みはあるのか、イエローマフラー。機兵を置いて移動することも考えろ」

 さすがサルバ・ラディールの指摘は的確だった。能動的な取引の提示を諦(あきら)めたのは、その問題があったからだ。うまくいく見込みがなければ、取引など持ちかけて敵にこちらの事情を悟らせる愚は犯せない。しかし、いまや状況は変わっている。いや、フェルバルディの認識が変わったのだ。

 イバラキを待つ猶予(ゆうよ)は失われた。

「見込みなら、ある。ラディール軍曹、至急、制圧部隊の選抜と編成を頼む」

「制圧? 対象は何だ」

「ここの住人すべて」

「正気ですか」マウロが叫ぶ。「彼らは協力的です。仮に我々への反感が高まっているとしても、脅威となるレベルではありません。――まさか、『人間の盾』に? それは国際法上の問題が……」

「マウロ。それは住人たちよりも我々が優位に立っているという認識に基づく判断だ。しかし、本当に脅(おびや)かされているのは我々のほうかもしれない」

「意味がわかりません。彼らを脅してBFGの修理でもさせるのですか?」

「そうではない。――いや、あながち間違ってもいないか。まだわからん。だが、準備だけは進めておく必要がある。この交渉は紫龍隊とやらの独断と思える。包囲網が完成し、他の部隊の目がある状態になれば、捕虜ひとりのために我々を見逃すような真似はできなくなるだろう。捕虜の命が価値を失えば、俺たちを守るものはなくなる。そうなる前に、すべてを完了させる。そのためのスケジュールだ」

 我ながらひどい説明だとフェルバルディは思ったが、ラディールは制圧部隊の編成を始めてくれた。マウロも文句を引っ込めて、交渉の進め方についての協議に移行してくれる。

 まだ、大丈夫そうだった。救援部隊の隊長としての役割は遂行できている。目的を絞(しぼ)って思考する限りにおいては、分裂は起きていない。これからもそうだとは限らないが。だからこそ実行を急がなくてはならない。間違っているかもしれなくとも、とにかくひとつの結果を出す。それはエンリコ・フェルバルディの意地だった。



- 4 -


 補給部隊を次の目的地まで無事に送り届け、楠木(くすのき)は数時間ぶりに紫龍隊のキャンプに戻った。日が傾いている。予定ではそろそろ、啓示軍(オフェンバーレナ)の返答を聞くために再び龍(ロン)をあの場所へ向かわせる頃合だ。

 乾(いぬい)と姜(カン)の龍に並べて乗機を降着姿勢にすると、チェックを尹(ユン)慶珠(キョンジュ)に任せ、任務完了の報告を兼(か)ねて姜のテントへと向かう。本題はもちろん、交渉役への志願。次こそは自分が行く。凪沙ばかりを頑張(がんば)らせておいたのでは収まりが悪かった。

 テントまで数メートルのところで、行く手から誰かが出てきた。姜ではない。制服のデザインから西部方面軍の士官とわかる。敬礼してすれ違う。階級章は大尉のものだった。どこから来たのだろうと楠木は考える。龍から、それとわかるような車列は見えなかった。一台か二台の小型車で来たに違いない。砂漠を越えて来てたまたま紫龍隊を見つけたのか。それとも、何か目的を持ってはるばる訪れたのか。どちらにしても、下っ端ではなく大尉同士が話しをしたのだ、有益な情報が得られたに違いない。バロッグにより情報網が断絶されているこの状況下で、それはありがたいことである。ただし、吉報か凶報かは別問題。

 テントには姜だけが残っていた。折り畳み机の前には座っておらず、そのまわりをゆっくりと往復していた。苛々(いらいら)しているようだった。

「護衛任務完了しました」

「ご苦労」

「今の方は」

「二九軍、三〇三軽量機甲師団」姜は歩き回るのをやめて、椅子に腰を下ろす。「知っているか?」

 刹那(せつな)、記憶を検索。

「戦略機動師団の小型版ですか」

「正解だが、俺が聞いたのはそのことではない。師団長を皮切りに、幹部のほとんどが根っからの元老院派という師団だ。有名だな。実力の高さについても」

 初耳だった。士官たるもの世情をよく知るべきだと茨木が全員に説いていたのを思い出す。なるほど後悔は先に立たない。

「つまり、元老院派から何か要求があったのですか。我々に」

「ああ。連中は、例の施設への攻撃を予定しているそうだ。それで、できるだけ協力しろ、少なくとも邪魔はするな、というわけだ」

 啓示軍ではなく、施設を目標に設定して攻撃するというのか。楠木の体の芯が打ち震えた。

「茨木大尉が捕虜となっていることは、伝えたんですか」

「いや。龍で外へ出ているということにしておいた。茨木がいないことを知られるのはまずかった。癪(しゃく)だが、金星也(キム・ソンヤ)と話をしたのは俺ではないからな」

 元帥(げんすい)の威を借りねば、再び不本意な指揮系統に組み込まれる危険があるということらしい。元老院派と言われるマヒロフスキーに無理難題を押し付けられた件が記憶に新しい。あれで自分たちは死地に追い込まれ、実際、尾西(おにし)は死んだのだ。

「――しかし、あそこには民間人も残っています。そのことも承知で攻撃を?」

「あれはSMITS(スミッツ)の施設で、とうの昔に撤収命令が出ているとあの男は言っていた。そこへ啓示軍が立てこもっているなら、住人は啓示軍の兵站(へいたん)支援要員と見做(みな)すと。無理な話ではない。俺が向こうの立場でもそう判断する。攻撃は実行されるだろう。連中は何かにひどく焦(あせ)っている。茨木のことを隠さずに教えたとして、お悔やみのひとつももらえれば上等というところだ」

「では、こちらの作戦内容に支障が出ると伝えましょう。金元帥の意向を持ち出せば、元老院派も無視はできないはず」

 名案のつもりで、楠木は提言した。しかし姜はいい顔をしない。もっとも、機嫌のいい姜宗義を楠木は見た覚えがない。勉強不足だ、という痛烈な指摘を予見する。

「元帥が生きているならば、そうだろうがな」

 想像の域を超えた言葉が返ってきた。

「まさか……。暗殺でも?」

「暗殺か。ありそうなことだが。――戦死の可能性があるらしい。実は、乾も補給部隊からその噂を聞きつけて、俺に報告していた。あいつには緘口令(かんこうれい)を敷いておいたが、ただの流言と高(たか)を括(くく)るわけにはいかないようだ」

 茨木は、タシケントで金星也に会った。その元帥が戦死ということは。

「では、タシケントが?」

「という話だ。俺たちが紫龍隊になったあの日、二度目の虹が出ただろう。あれが戦略級の新型バルムンク砲だというのは、まず間違いないらしい。タシケントはそれで落ちた。金星也の脱出は確認されていない。従来の指揮系統はずたずただ。特別規定第一〇号でなんとか持っているということだろう。皮肉なことだが。俺たちの未来はまた危(あや)ういことになった。そしてあの施設……、GT38に残る住人の命運はそれ以上だ」

「逆らうことはできないのでしょうか。正規の命令系統が機能していないのなら、口実を作って妨害行動に出る方法もあるはず。紫龍隊の名はこんなときのために……」

「やれないこともないが、俺はしたくない」

「姜大尉!」

「反論は聞かない。これは隊の未来を考えた、茨木の代理としての判断だ。紫龍隊は三〇三師団と連携してGT38に立てこもる啓示軍を殲滅する。そう返答した」

「小嶺は、どうするのです。あいつは、作戦の変更も知らないまま、攻撃に巻き込まれるんですか」

「連絡のしようがない。また地下道から入ろうと思っても無駄だぞ。三〇三師団の連中は、ここに監視を残すと言っている。迂闊(うかつ)な行動は内通と判断されかねない。自重(じちょう)しろ、楠木」

 結局、姜に意見を通すことはかなわなかった。


*   *   *   *   *


 楠木はひとりで遅い昼食を取りながら、方法を考える。

 テントや車陣の間を、監視らしき見慣れない男たちが三人、うろついている。我が物顔というふうではなく、あまり目立たない動きをしているが、油断はできない。どこか凪沙に似た雰囲気が感じられた。特殊部隊経験者や、それに類する者たちだろう。彼らも軽装甲車のチャクラムを使っている。楠木がこっそりキャンプを脱け出したところで、すぐに見つかって追いつかれてしまうのは明白だった。

 逃げ切る時間を稼ぐ。外に出る口実を作る。監視を片付ける。三つの方針が浮かんだが、具体的な方法については検討が進まない。土台ひとりでは無理なのかもしれない。弱気の虫が目を覚ますと、機兵の操縦で疲労した体は休息を要求してストライキを始めた。時間がないのに、と思いながらも、楠木は眠りに落ちた。

 夢を見た。

 中学生の頃の夢だった。正月の風景。門松(かどまつ)を飾るのを、隣家の人々が手伝ってくれる。幼い頃からお兄ちゃんと呼び慕(した)った青年も帰省(きせい)していて、彼が通う士官学校の話をせがんだ。

 たまにエデンのような反体制ゲリラのテロが報道され、街頭で治安組織増強の是非(ぜひ)を争う演説合戦が展開されたりもしたが、楠木の実生活にはほとんど害のない、平和な日々だった。お兄ちゃんに手紙を書き、そして返事を待つのが毎週の楽しみだった。悩みと言えば、進路調査票に士官学校の名を書いても両親は反対しないだろうか、二月の手紙は小包にしてチョコレートを届けようか、でも途中の暖房で溶けないか、など、そんなものだった。

 夢は過去の要点をピックアップし、適当につなげて進行していく。楠木は親と高校の担任を説得して士官学校を受験。見事合格し、入学した。お兄ちゃんはすでに任官され、少尉の階級章を自慢した写真を送ってくれた。そしてついに行き着く。夢から覚めざるを得なかったあの日。いつまでも少女ではいられないと思い知ったあの出来事。――お兄ちゃんの結婚。

「冴子(さえこ)、大丈夫?」

 楠木は声と、揺さぶる手によって起こされた。尹だった。顔を覗き込まれている。泣いていたのだと気づいた。

「大丈夫」

 涙の意味をどう解釈されただろうか。間違いなく誤解されているが、尹が何も言わないので、訂正はしない。口にすれば、自分に対する疑惑を深めてしまうように思えた。

 ただ影を追っているのではないか。

 その冷静な視点が、楠木を何度も思いとどまらせてきた。そのたびに否定を試みたが、少女時代の思慕の記憶を抹消できない以上、一時的な封印以上のことはできなかった。中途半端な立ち位置を、尾西は感じ取っていたのかもしれない。だから踏み込んでこなかったのかもしれない。優しい人間だったことは楠木も知っている。

 凪沙は追いかけるのが得意だと言っていた。だから失った茨木を取り返しに行くのだと。自慢げに。――それもやはり、誰かの影か? だとすれば、凪沙は過去と現在を和解させているのだろう。自分にもそれができるだろうか。

「姜大尉からみんなに話があったの。冴子は、もう聞いているのよね。攻撃のこと」

「――うん」

 夢の余韻(よいん)を打ち払い、姜とのやり取りを思い出す。解決すべき課題も。

「わたしね、あの子を援護する必要があると思うの」

 尹は何かしらの決意を秘めた目をしていた。よく似たシチュエーションで、同じ視線を受けた記憶がある。それは小嶺凪沙のものだ。

「同感よ、キョン」

 楠木は立ち上がった。



- 5 -


 地下通路は長く、あちこちで分岐(ぶんき)していた。光源は壁の低い位置に散在するLEDのみ。茨木はその暗がりの中をほとんど迷わずに進んでいく。凪沙は物音と通路の造作(ぞうさ)に注意しながら、茨木のすぐ後ろの位置を維持する。手を伸ばせば背中に触れられる距離。

 地下通路の規模は、ラリサから教えられたよりも随分(ずいぶん)と広大のようだった。そして、系統が分かれている。凪沙が見た地図には、二号棟のあちこちの部屋にアクセスし、さらに地下を潜(もぐ)って近隣数箇所の建物に繋(つな)がる経路が記されていたが、今歩いているこの系統の通路は全く載(の)っていなかった。発電機室に通じていたあの通路は、どこまで進んでも、この通路には繋がっていない。一度隠し通路から出て、普通の部屋や廊下を横切らなければならない構造になっている。思い返せば、ラリサの部屋に通じていたあの通路も、経路図からは漏(も)れていた。

 RAT(ラット)では普通このようなことはしない。秘密を秘密で塗りつぶすようなことは。RATの暗部はただひたすらに深いのみ。ひとつの秘密を知れば、次の秘密の壁があることに気づく、そんな組織だった。しかしここは違う。ここは、本当にRAT――あるいはその前身組織――が建造した施設なのだろうか。ラリサが隠し通そうとしている地下の秘密とはこの別系統の通路のことだったのか。

「ここを見つけたのはフェルバルディだ」

 茨木は順を追って状況を解説してくれていた。

「おそらく、私が亜連の秘密研究について法螺話(ほらばなし)をする以前に、彼はここを見つけていた。しかし調査の手を出せなかった。危険を感じたからだろう。彼は最初から、この場所を警戒していた。正体がつかめないというのは恐ろしいものだ。それが敵であるかどうかも、わからない。この闇の中では特に」

 正体。敵。闇。凪沙は自分のことを言われているような気がした。

「ここはRATの作った施設です。SMITSの研究機関は、その多くが、RATによって建造されています。このような通路を作るのも珍しくありません」

「知っているのか? ここはGT38かもしれない。議会に公開されたものとは別の、本当のGT38」

 GT、すなわち元老院管理地(Governer's Territory)。その三八号。八月の悪夢の隕石調査を継続するため、いくつかの元老院管理地の存在が隠蔽(いんぺい)されたのは聞き及(およ)んでいるが、その番号について、特に気をつけるべき事項は記憶にない。これもラリサの秘密の一部か。

「RATからは何の情報も与えられていません。むしろ、隠されていた。それを知ったのは、ここの住人のひとりと話してからです。SMITSの研究員であると同時に、RATの一員でもある。ラリサ・コルヴァク。会っているそうですね」

「あの婦人か。住人代表だと言っていたが……。なるほどな。フェルバルディは私の言葉のなかにある嘘を明らかにしようと、代表を連れて再尋問をやった。ここがオカルトじみた研究の拠点だったという私の話は、当然、彼女によって否定された。ここは廃棄物の再資源化や砂漠緑地化を行っている場所だと。彼女の言葉を裏付ける証拠が外にはいくつもあったらしい。私はこの目では見ていないが、実際、そうだろうと思った。私が語ったのは情報を引き出すためのフィクションにすぎなかったからな。――しかし、フェルバルディは彼女の態度に却(かえ)って疑惑を深めた。彼女の正体について遠からずの推測をしていたのかもしれない」

 そして、茨木を密(ひそ)かに解放した。アウトラインを把握するための概説で、そこはすでに聞いている。しかし、どうして解放を考えたのか。

「彼は確かめたかったのだろう。この闇に潜(ひそ)むものの正体を。それは偶然にも、私のフィクションと深く関連したものかもしれない。変則領域を感知する人間がいる。その発想は、五感との比較から、新たな仮説を導き出す。ヒトという種が変則領域の感知能力を得たとすれば、それは変則領域が人体に影響をもたらす存在だからではないか、という仮説だ。フェルバルディには、その人体に対する影響について心当たりがあったのではないか。私はそう推測している」

「大尉も、そうなのですか。変則領域によって、機械ではなく、人間そのものが直接の影響を受けていると思える経験をしたのですか」

「小嶺。君はここに来てから、いつもの自分とは違うという感覚がないか。理屈で片付けたはずの悩みが再び頭をもたげてきたり、昔の思い出が頻繁(ひんぱん)に去来し、そのときの感傷を妙に生々しく追体験したりといった変化だ。私はこのところ、士官学校時代の出来事や、故郷や家族のことを何度も回想している。今までこんなことはなかった」

 その経験については枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がない。尋ねるまでもなく、茨木もそれはわかっているだろう。凪沙はついさっき、情動の制御を失った姿を晒(さら)してしまったばかりなのだから。

 しかし、それらが変則領域の影響という説には、合点(がてん)が行かなかった。楠木冴子やラリサ・コルヴァクとの対話こそが、自分を変えた原因であるように思う。愚かだが感情に正直な楠木の性格は羨(うらや)ましくすらあり、ラリサの組織に対する距離の置き方には学ぶべき点があった。このことを口にすれば、茨木は否定するだろうか。ラリサが地下に抱(かか)えている秘密との関連が気にはなるが、茨木に変化をもたらしたものはあくまで孤独な捕虜としての境遇だろう。そう考えるほうが自然だ。本人が気づいていないだけなのだ。

「変則領域が人の心を操れるものでしょうか。バロッグの中で人が恐慌(きょうこう)状態になった例は報告されていますが、いずれも八月の悪夢からまだ日の浅い頃のことです。PTSD。自分の場合と同じです。変則領域自体に向精神作用があるとは、自分には認められません」

 不必要に硬くなってしまう口調をとどめることはできなかった。茨木は苦笑する。

「説明が足りなかった。変則領域すべてというわけではない。この場所で、そのような特殊な作用を持つ変則領域が生成されている可能性がある、ということなんだ。証拠……とまでは言わないが、その可能性を示唆(しさ)する物を見つけた。私はそれをフェルバルディに知らせなくてはと思った。それで引き返している途中に、上がにわかに騒がしくなってきて、慌(あわ)てて戻ったというわけだ。案の定、君が来ていた」

 予期されていた。そのことに凪沙は驚きと戸惑いを覚える。どういう意味なのか。茨木がラリサの隠している物を発見したらしいことよりも、そちらのほうが気になってしまう。

「どうして、そのような予測を」

「私が捕虜になっているという状況が、亜細亜(アジア)連邦軍にとっては危険だからだ。自白剤を使われて、金(キム)元帥との会話の内容を喋(しゃべ)ってしまえば、元帥の戦略の一端と軍の指揮系統の乱れが啓示軍(オフェンバーレナ)に露呈(ろてい)してしまう。君の上官はそれを許すまい。ならば君は忠実に任務を遂行するだろう」

 殺しに来ると思われていたのか。茨木の言外の示唆を凪沙は読み取る。それは考えてもみなかった。どうしてだろう。――明白だ。与えられた任務は、茨木彪(たけし)の命の掌握(しょうあく)であって、生殺与奪の判断自体は凪沙には預けられていないのだ。だから、まずは生かさねばならない。考えるまでもなくそれを理解していたから、助けに来るという発想が生じた。それがRATに対する最良の貢献であり、自身の評価の向上、ひいては父を殺したテロリストへの復讐(ふくしゅう)達成に繋がる道だと考えたのだ。無意識のうちの打算。きっと、そうだ。対して、茨木の思考に垣間見える非論理性はどうしたことだろう。

「わかりません。大尉は、自分に殺されるために、急いで戻ったのですか。そこまで自暴自棄に陥っていたとは、自分としては予想外です」

 そればかりではない。外への出口を探さずフェルバルディに報告へ戻ろうとしたことも理解できない。茨木の精神状態は、たしかに、異常かもしれない。

「――ですが、自決という選択をしなかったのは幸いでした。自分の任務はあくまで大尉の護衛です。あなたを守るためにわたしは……、自分は、ここにいます」

「調子が戻ったようで何よりだ、小嶺伍長。さて。会話はここから暫(しばら)く控(ひか)えるとしよう。この先は人がいる可能性が高い」

 茨木は先に進むことしか考えていない。精神異常の原因が変則領域だと信じているのだ。しかし、凪沙には肯定(こうてい)しがたい。やはり捕虜という境遇のせいだと思える。この危険な状況から救い出せば、すぐにでも回復するに違いない。ならば、もう茨木の地下探検につきあっている場合ではない。仮に疑惑が真実だとしても、それを明らかにするよりもまず命の保全を考えるべきなのだ。秘密を暴(あば)いてラリサを敵に回すのも厄介のように思われた。

 出口を探そうと凪沙は考えた。複雑な地下通路だが、無駄な遠回りを強いる構造にはなっていない。ならば、今向かっている先は施設の中央、もしくは西側。凪沙が楠木と通ってきた道は東側。引き返さねばならない。

 凪沙が目の前の背中をつつこうと手を伸ばしたところ、茨木が前進をやめた。不意のことで、凪沙はその背中に掌(てのひら)をぴったりと付け、寄り添うような恰好(かっこう)になった。にわかに気恥ずかしさを覚えて後ずさろうとしたが、茨木はふりかえって顔を寄せてきた。

「何か聞こえないか。低い音だ」

 聴覚への集中が途切れていたことに気づき、凪沙は慌てて耳を澄ます。しかし、聞こえない。可聴域の問題らしい。後天的な訓練では、特定の音波パターンに対する注意力が養われるに過ぎず、そもそも脳に届いていな信号は抽出(ちゅうしゅつ)のしようがない。しかし、忍び足で進む茨木に続いて歩いていくと、低い唸(うな)りが聞こえてきた。モータ音のようだ。やがて、より高周波の音も聞こえるようになる。ギアで回転数を落としているらしかった。それも、かなり低速まで。

「さっきはこの音はしていなかった」

 囁(ささや)き、慎重に歩みを進める茨木。その先にはLEDとは違う光源があった。ドアの明り取りに、より広い空間の照明が差し込んでいる。暗がりに慣れた目にはなんとも眩(まぶ)しい。

 どうやら目的地に着いてしまったらしい。この機械音の正体は凪沙としても気になる。おそらく発電機の起動と関係があるのだろうが……、ラリサは何を始めたのか。

 茨木とともに、ドアに取り付いた。通路のサイズがサイズだけに、ドアも小さく、明り取りは茨木よりむしろ凪沙のほうが覗きやすい高さにあった。そっと向こう側を窺(うかが)う。

 天井から吊(つ)り下がったクレーンと、背景に白い壁が見えた。床は見えない。手前、ドアのすぐ向こうに鉄製の手すり。吹き抜けになっているらしい。ここは二階か、三階部分と思われた。実験棟としては一般的な造作。ただし地下にあるのは珍しい。

「人がいなくなっている」

 茨木が指摘した。たしかに、見当たらない。前はいたらしい。

「ここで何が?」

「何かの装置を、奥の部屋に移動させていた。十人以上いたが……、彼らも退避したのか。移動は終わっているようだ」

 奥の部屋というのは、凪沙の視点では見えなかった。背伸びをしてみると、奥へと続くシャッターの一部だけが確認できた。目の前の手すりと天井から下がるクレーンの他には視界を遮る構造物がなく、自分たちは二階に立っているのだと知れた。機兵が入りそうな広さだが、そんなものは見当たらない。

 シャッターの存在が凪沙には気がかりだった。普通ならば外へと続くシャッターだろうが、ここは地下。すると地上に出るためのエレベータか、と推定する。幅は、大型のトレーラートラックが収まりそうなほど。

 ここまで来たからには装置とやらの正体を確かめておこう、と凪沙は考え直した。GT38という名とともに、RATが凪沙たち特務員にも隠していた何か。知っておけば、今後の組織内での立場を優位に導くと期待できる。

 ノブに手をかけたのは茨木のほうが先だった。静かに、最小限の角度を開き、滑(すべ)るように向こう側へ出る。凪沙も拳銃を構えてあとに続いた。銃口と視線の向きを揃えて、室内を見渡す。凪沙たちが立っている二階部分にも、吹き抜けの下にも、人影は見当たらない。無人らしかった。

 機械音の正体は、続き部屋のように作られたエレベータのようだった。手前の床と二メートルほどの段差ができている。一見すると停まっているものと間違えそうだが、低速で上昇しているのだろう。

 広い籠(かご)の中には多数の装置が並べられていた。特に中央には幅が二、三メートルほどの大きな台座があって、その上にはひときわ大きな装置があった。周囲の装置の多くは中央のものとケーブルで繋がっていた。電力供給系統にしては数が多い。よく見ればパソコンが数台あり、これもまた装置群と線で繋げられている。何かの計測を行っているのだと凪沙は推測した。測定対象らしい中央の装置は、人よりも丈(たけ)があるようなのだが、シャッターが遮(さえぎ)っていて上部構造は見えない。下に降りれば全容を確かめられそうだった。

 猿梯子(さるばしご)があった。茨木を先に下ろし、やはり誰も出てこないのを確かめてから、凪沙も階下へ移動。

 エレベータの過密状態に比べて、室内は寂しいものだった。動くのかどうか怪しい旧式の大型エアコンや、いくつかの切削機械、隙間だらけのスチール棚がまばらに配置されている。いや、残されているのだ。床を見ればわかる。長方形の埃(ほこり)の境界が、そこに最近まで何かが置かれていたことを示唆している。これは引越しなのだと凪沙は悟った。部屋の隅のドラフターなど、人力では動かせない物、または大して価値のない代物ばかりが部屋に残されている。必要なものは、奥のエレベータに移してしまったのだろう。

「あれだ」茨木がエレベータの中央を指差す。「あれがこの施設を包む特異な変則領域の源かもしれない」

 凪沙はその全貌を見た。円柱の中ほどを絞ったような、三角錐(すい)の尖(とが)ったほう同士を突き合わせたような形。高さは四メートルといったところ。巨大な砂時計。機兵に搭載されているBFGよりも遥(はる)かに大きい。初期の定置型BFGと同程度だが、このような外形のものは見たことがなかった。

 実際のところ、何の装置なのか。計測装置の詳細とパソコンで起動しているソフトウェアの操作画面を見られれば、おのずと知れるだろう。エレベータの床と凪沙たちの立っている床との落差は二メートル強。今ならまだ、懸垂(けんすい)の要領でよじ登れないこともない。

「見てきます」

 拳銃を茨木に預けると、思い切って、凪沙はエレベータに乗り移った。成功。新たな地平に立つ。さっそく、装置を見ていく。変則領域研究の専門知識は持ち合わせないが、相対バルムンク反応センサーや、一般的な電位・電流制御装置などは見ればわかる。中央の装置が一種のBFGであることは間違いなさそうだった。

 次の装置に目を移そうとして、凪沙は、あることに気がついた。この籠と茨木の待つ部屋とを仕切るシャッターとは別に、反対側にも、シャッターがあった。こちらは下まで閉められており、向こう側は見えない。壁だと思って気づかなかった。こちら側にも部屋があるらしい。つまり、ふたつの部屋を挟んでこのエレベータは設置されている。おそらく、二部屋共通の設備として。

「小嶺」茨木が呼ぶ声。「電源の制御盤を見つけた。エレベータ内の電源を落とせるようだ。できればすぐにでも落としたい。――不安を感じる」

「もう少し時間をください。まだ調査が……」

 急いでパソコンの画面をチェック。手近のものには、相対バルムンク反応の検出結果一覧が表示されていた。いずれもレベルB以上。高い。レベルAまである。レベルAといえば、車のエンジンが爆発を起こすようなかなりの高濃度バロッグの中か、あるいは、バルムンク砲の照射を受けたときにしか、検知されないと聞いていた。バロッグよけの定置型BFGでは、どんなに間近で測定しても、せいぜいレベルC程度しか出ない。

 凪沙は訝(いぶか)った。ラリサたちは、超広域用BFGの研究開発でもしているのか。この装置だけを見ればそう思える。しかし、それを啓示軍に対してはともかく、亜連軍に対しても隠し通さねばならない理由がわからない。知的財産の保護のため? いや、もともとSMITSの研究であれば、軍に隠し立てする必要はない。――SMITSの局長命令を無視してここに残った、というラリサの話を思い出す。ここの生活が気に入っているから、と言っていたか? 本当の理由は何なのだろう。

 突如(とつじょ)、銃声がした。反射的に身を隠し、同時に両手が拳銃をホールドしようとするが、肝心のそれは茨木に預けていた。代わりに小ぶりのナイフを取り出して、部屋のほうの様子を窺う。茨木は旋盤(せんばん)の陰に身を伏せていた。凪沙の貸した拳銃を手に、部屋の左奥の隅を警戒している。そこには左右に開く扉がふたつ並んでいた。その片方が閉じようとしている。人間用のエレベータだと凪沙は気づいた。籠の中から駆け出てくる長身の人影。凪沙が狙いをつける前に、ドラフターを盾に姿をくらませた。バイク乗り風の黒いつなぎを着ていたようだ。そういう制服に覚えはない。が、戦闘の心得があることは身のこなしから推定できた。

 出てくるな。茨木がジェスチャでそう伝えている。たしかに、人影は凪沙には気づいていないようだった。姿を隠したのは、あくまで茨木の射撃から身を守るための行動。いや、側面に回りこんで攻撃を加えるためかもしれない。凪沙もジェスチャでその可能性を茨木に指摘する。茨木は頷いて、どちらへも飛び出せるように姿勢を変えた。タイミングよく凪沙が注意を引けば、勝算は大きい。

 問題はむしろ、相手が本当に戦うべき相手なのかどうか、という点にある。つなぎ姿がGT38の人間だとすれば、何らかの行き違いがこの緊迫を呼んだだけなのかもしれない。撃ったのはどちらだろうか。茨木だとすれば、凪沙の位置からも弾痕がわかるかと思ったが、駄目だった。向こうのエレベータの扉が閉じている。男が乗ってきた籠は上に行ってしまったようだ。茨木が籠の中を撃った可能性がある以上、弾痕(だんこん)が見当たらないからといって、つなぎ姿が先に撃ったとは断定できない。――直接言葉さえ交わせれば、実に簡単なことであるのに。

「ここの人間ではないな。啓示軍か」

 物陰から男の声。英語。やや硬め。特に「啓示軍(Offenbarener)」の発音が、ドイツ語での本来の発音に忠実だった。凪沙のように訓練を受ければ聞き分けは容易だが、実際に発音するのはまた別の技術だ。

「この装置は何だ。ただのBFGではないな。何をしようとしている」

 茨木は問いかけを無視して尋ね返す。

「まさにそれだ。それを調べている」男は答える。「ハンス・ライルスキーの目的をここで量(はか)っておかなくてはならない。そのための実験だ。制御盤から離れてもらおう」

 ラリサの仲間か。電話の相手かもしれない。啓示軍に対して距離を置いているが、敵対を前提とした立場でもないようだ。凪沙は糸の一端を掴(つか)んだ。手繰(たぐ)っていけばわかりそうだった。ラリサが亜細亜連邦軍を寄せ付けようとしない理由が。

「啓示軍から奪ったのか、これを」

「理解が早いな。では、出てきてもらおうか。もし妨害の意図があるのなら、俺はおまえを殺傷する必要に迫られる」

「一方だけが先に武装解除をするのはフェアではない」

「こちらは制御盤を盾に取られているようなものだ。それでようやく対等というところだろう」

 男は会話を続けながら、物陰の間を移動。少しずつ茨木に……、制御盤に近づいている。

「では、こうしよう。私が先に銃を捨てる。それから君も銃を捨てる。双方確認したところで、顔を合わせて話をしよう。聞きたいことがいくつもある」

「いいだろう」

 茨木は凪沙の銃を床に滑らせた。相手が確認できそうな場所のなかで、凪沙に近いところを選んで。茨木から目配せ。意味はわかった。ややあって、かなり旋盤と制御盤に近い位置からもうひとつの拳銃が滑ってくる。それを見た茨木は制御盤に向かって飛び出した。凪沙も隠れるのをやめてエレベータから飛び降りる。男の対応は早かった。走りながら自分の銃を拾い上げ、同時に凪沙の存在にも気づいたようだったが、まず茨木に向かって一射。外れる。いや、咄嗟(とっさ)の判断で外したのだと凪沙は気づいた。茨木はもう制御盤に取り付いていた。無闇に命中させると制御盤まで貫通する。男は直前でそれをためらったのだ。

 茨木は電源を落とした。モータの回転速度が落ち、装置の冷却ファンの音も静かになっていく。エレベータ内の明かりも消えた。

「なんということをしてくれた」

 男は脱力気味にそう唸ったが、拳銃を構える手は緩(ゆる)んでいない。

「人の心を操るような実験を許してはけない」

 茨木はふりかえりながら言った。

「人の心を、だと?」

 男の手は今度こそ緩んだ。撃つなら今か、と凪沙は判断したが、撃つべきか否かを決断できない。

「――なるほど。俺も影響を受けたというわけか」予想外の反応。「予定通りの実験にはならなかったが、その言葉でおおよそのところは掴めた。おまえの優れた観察眼に免じて、今の蛮行は水に流そう。もう実験はいい。再起動しても無駄なことだ。だがエレベータは動かしてもらわなければ困る。そこをどけ」

「どうするつもりだ」凪沙は口を挟んだ。「上には啓示軍がいる。あれは啓示軍から奪ったものなのだろう。彼らに投降するのか」

「投降などしない。それだけは絶対に」

 男は断固とした口調で否定した。が、わかるものではなかった。

「私は亜細亜連邦軍紫龍隊隊長、茨木彪。君は何者だ。ここの研究員にしては物騒だ」

 茨木の言わんとするところは、わかった。この男もRATかもしれない。RATの一部が、中央議会の定めた外交方針とは異なる対応を始めている可能性も考えられる。RATはあくまで元老院の私兵。凪沙が戦略軍参謀本部から任務を請け負ったのも、とある元老院議員の一命でそのように配置されたからであり、また別の元老院議員がこの男を私的な思惑のために動かしているとしても不思議ではないのだ。――しかし、男が実際にRATであれば、問いに信実をもって答えることはしないだろう。RATの主流から外れた行動を取っている場合に、身分を明かすメリットは思い当たらない。

「紫龍隊……。そういえば五番目を作ったらしいという話を聞いたな。金星也(キム・ソンヤ)はつくづく欲深い。――四番目もまだ健在だというのに」

 付け加えられた一言に、茨木は反応した。

「黒龍隊が健在? その情報は確かか」

「この目で見ている。――そうか、まだ知らないのだな。このバロッグだ。金星也もあるいは同様か」

「物騒なだけではないな。研究員にしては軍の動きに詳しすぎる。もう一度聞こう。君は何者だ」

「答えを聞くまで制御盤から離れないつもりらしいな。しかたがない。特に外向けの名前があるわけではないのだが……、おまえが紫龍隊ならば、こう名乗るのがいいのだろう。俺は、応龍隊(おうりゅうたい)だ」

 緊張が走った。男が告げたその組織名は、紛れもなく、紫龍隊にとっての敵の名だ。

 ――戦うべきか?

 茨木の立場としてはそうだろう。しかし、凪沙は応龍隊の追討など命じられた覚えはない。ここで茨木を危険に晒すことのほうが、凪沙にとっては命令違反となる。変り種のBFGなど好きにすればいいし、応龍隊の構成員をひとり見逃したところで痛くも痒(かゆ)くもない。ただ茨木さえ助かればよいのだ。

「大尉、ここは引き下がりましょう」

 他の二人が何かを言い出す前に、凪沙は先手を打った。

「応龍隊がここにいたこと。そしてSMITSの一部が応龍隊と通じていたこと。これだけでも十分な収穫です。情報は持ち帰らなければ意味がない」

 この男が逃がしてくれるとは限らないが、戦う意図がないことを相手にも伝えておかねばならない。

「そこのお嬢さんのほうが、ものわかりはいいようだ。俺としてもそれをお勧めする。憎き敵めと喚(わめ)いて戦いたいのなら今度にしてくれ。こっちは予定が詰まっているのでね」

 男がにわかに饒舌(じょうぜつ)になったと、凪沙は感じた。最初のときと雰囲気が違う。まだ、拳銃を向けたままであるというのに。

 ――本当にあの装置が人の心に影響を?

「教えて欲しいことがある」制御盤から離れながら茨木は尋ねる。「君たちの目的は何だ? モスクワでは啓示軍と戦い、しかしその後は亜細亜連邦軍ともたびたび戦っている。エデンの一派と捉(とら)えている者も亜連では少なくないが、私は別の立場だ。君たちはあくまで独自の組織のように思える。ならば独自の行動理念があるはずだ。しかし、君たちはそれを宣言しない。理解される必要はないということなのか。意志を表明しないのではテロリストですらない。君たちは……何なのだ」

 男は茨木の発言を面白そうに聞いていたが、ふと寂しそうな顔をして、首を横に振った。「力を振りかざす人々とも、対話によって最後は理解しあえるはず。昔はそう考えていた。だが、うまくはいかなかった。俺たちの言葉が及ばなかったのか、そもそもの方法論が間違っていたのか、結論は出せていない。しかし、そのときのツケが回って来た結果が、今のこの世界だ。失敗を取り返すことはできなくても、失敗を繰り返すことは防げるはずだ。最善の方法を模索している余裕はない。失敗しない方法であることが重要だ。だから俺たちは戦っている。――俺もひとつ質問をしよう。一方だけ答えるのはフェアではないからな」

 茨木はもう凪沙のそばまで移動し終えている。その茨木は男に向かって頷いたが、凪沙は互いに向け合った武器の構えを崩すことなく、移動を促(うなが)す。この男の仲間が他にいないとも限らない。そうすれば状況はまた変わってくる。この男の態度も。

「おまえにとって、打倒すべき敵とは何だ」

「啓示軍」茨木は即答する。「他国を侵す者たちを許してはおけない。亜細亜連邦だけではない。欧州すべてを解放するまで、私は戦い続けるだろう」

「啓示軍は国民の権利を奪ってはいない」ひときわ強い調子で男は言った。「――権力者の権益は奪ったが。国民は啓示軍の支配、いや、指導を受け入れている。政府は、ハンス・ライルスキーの指導を国民全体が実行に移すための代表機関として機能している。よく似た出来事が、二十年ほど前にもあったが……」

「亜細亜連邦の誕生か」

 茨木は苦々(にがにが)しげに答えた。男の顔が正解と告げる。確かに、亜細亜連邦は旧来の各国の政権を軒並(のきな)み崩壊させた瓦礫(がれき)の上に築かれた。そして改革の指導的立場にあった一握りの人々を元老院として統治機構に組み込み、国民の代表である中央議会に対するご意見番として機能するようにした。今日においてそれは、アジアに住む数十億の民にとっての最適解だったとして語られている。図式は、同じだ。男は茨木に、啓示軍を敵とするならば亜細亜連邦ともいずれ戦うのかと、そう尋ねているのだ。

「難しい質問だ。――すまないが、今は答えられない」

 男は肩をすくめた。

「それはそうだろう。俺は二十年かかったんだ。せいぜい悩め」

 行け、と男はジェスチャをする。茨木は何かひとつ言い残す言葉を考えていたようだったが、結局無言のまま頷いて、猿梯子へと手をかけた。男は茨木が上っていくのを見守っている。凪沙はナイフを構えていたが、男のほうはもう銃を下ろしていた。大丈夫か、と判断して凪沙も梯子に取り付く。上で茨木が手を貸してくれた。

 ふたりで暗い通路へと戻る。その暗がりに何ら迷いや不安を喚起(かんき)させられないことに凪沙は気づく。脱出までの問題点とその解決策が次々に頭の中でリストアップされる。それは違和感のない自分だった。



- 6 -


 男――ヴァルター・クラウゼは、上昇を再開したエレベータを眺(なが)めながら、遠く離れた従弟(いとこ)のことを思っていた。

 ヴォルフとは、昔から一緒にいる。ほとんど兄弟のようなものだった。そのヴォルフは数日前、仲間も連れずに暖炉の谷に向かった。そこで行われている啓示軍(オフェンバーレナ)の軍事行動を阻止するために。

 変則領域による巨大障壁、“ベルリンの壁”。啓示軍の脅威を体現する存在。その再現を阻止することは、ヴァルターたちの目下の至上命題だった。しかし、すべての戦力を暖炉の谷へ向かわせることはできなかった。タシケント攻略を足がかりとした、啓示軍の暖炉の谷への進軍は、実は大規模な陽動であるという可能性が憂慮されたためだ。

 “ベルリンの壁”の形成に必須となる要素は、おおよそ特定しているが、すべてではない。暖炉の谷のような特異な変則領域が有力候補であることに変わりはないが、今は別の異常なバロッグがこの地方を覆い尽くしている。啓示軍はすでに鍵のひとつである“分散体”を手に入れており、“壁”形成の場所については自由が利(き)くと考えられた。

 そこでヴァルターたちは“壁”形成の舞台として選ばれそうな場所を虱潰(しらみつぶ)しに当たった。見逃しがあってはならない。そのために殆(ほとん)どのチームがごく少数の人員で編成されている。ヴォルフの場合はその最低数、ひとりだ。彼には牙黒鷲(がこくしゅう)という強力な力があるが、啓示軍は暖炉の谷に二個機兵戦隊(エスカドローン)を投入している。彼我の戦力差は大きい。そして問題は数だけではない。エントゼルトゾルダートのみならず、ノイエトーターも現れているのだ。昼前になんとか連絡が取れたので胸を撫(な)で下ろしたが、今も無事でいるのかどうか、心配でならない。

 元老院派の亜細亜連邦軍もまた、啓示軍を排除するべく集結している。しかし、当てにはならなかった。すでに“壁”は形成の一次段階を終了してしまったらしい。核攻撃をも遮断する、その絶対的防御力はもう発揮されているということだ。もはや亜細亜連邦軍は手も足も出まい。龍王(ロンワン)ならあるいは“壁”の突破が可能だっただろうが、龍王を擁(よう)する亜連軍の特別部隊外廓聯(がいかくれん)は、三小隊いずれも別の戦場にいる。呼び戻したところで、“壁”の完成には間に合うまい。

 通信の最後に、ヴォルフは意外なことを言っていた。黒龍隊の助力が得られそうであると。しかし、ヴァルターには信じがたかった。黒龍隊は元老院派からは疎(うと)んじられる立場にある。暖炉の谷に近づくことさえ難しいはずだ。作り話、心配をかけまいとするヴォルフの強がりであるとも考えられた。そういう性格なのだ。前科が幾つか思い出される。通信時間が限られていたため、問い質(ただ)すことはできなかったが。

 しかし、この短い時間でヴァルターの受け取り方は変わっていた。今しがた会った紫龍隊の男は、対話に値する人間のようだった。黒龍隊の隊長、江藤博照(ひろてる)もあるいはそうかもしれない。対話などしている余裕がないのだと、ヴァルターはイバラキに言った。当然のようにそう答えた。しかし、今はそれが言い逃れのように思える。怠惰(たいだ)であったのかもしれない。この装置がそれに気づかせてくれた。

 装置の解析はおおよそ済んでいた。啓示軍が作ったもので、おそらくは黒龍隊がこれを入手し、しかし行軍の都合(つごう)で荒野に破棄した。それを回収したのが、分散体を追跡する途上にあったヴァルターたちだった。GT72という名の鉱山基地で分散体を押さえることに失敗したヴァルターたちは、帰路にてこの装置を回収。以前から拠点のひとつとしていたここに持ち込み、調査を依頼した。その結果として、以上のことが明らかになったのである。そしてもうひとつ重要な可能性が示された。この装置は、“ベルリンの壁”を作り出している根源、つまり“聖域(ハイリヒトゥム)”とリンクしているかもしれないと。

 実験は成功だった。暖炉の谷での“ベルリンの壁”形成開始に伴い、この装置にも変化が現れた。暖炉の谷での観測データと照らし合わせないことには、その意味するところを知るには至らないはずだったのだが、それをあの男が半(なか)ばまで解明してくれた。

 これはたしかに、“壁”と連動している。絶対障壁とは違う意味での“壁”の脅威、すなわち精神干渉の機能を“壁”からロードしているようなのだ。ここ数日の過剰(かじょう)な苛立ちは、おそらくこれが原因だとヴァルターは気づいた。幼い頃の自分に似ている。自己抑制の解除、といったところか。これは仲間たちにとって良い報(しら)せとなるだろう。この装置がもたらした精神干渉作用は、何者かの恣意(しい)を感じさせるものではない。つまり、第二の“壁”の機能がまだ完全ではないか、もしくはその機能を“聖域”から制御することに失敗している。ならば、この装置を端末として利用し、第二の“壁”の自己消去を命じることも作戦として考えられる。何としてもここから無事に持ち出さなければならなかった。

 ――しかし。問題があった。上には啓示軍がいる。退去するまで待つ気だったが、そう悠長なことは言っていられなくなった。今の二人組のせいではない。彼らから報告が及ぶまでもなく、すでに元老院派らしき部隊がここを目指して北上している。啓示軍が駆逐(くちく)されても、亜細亜連邦軍、特に元老院派にこの装置を押さえられるのはまずかった。この装置と、そして協力してくれていたここの研究者たちを逃がすために、ヴァルターはいくつかの仕事を片付けなければならない。

 最初にするべきことは……。

 ヴァルターが手順の再確認を始めたところ、背後の二号エレベータが下りてきて、扉が開いた。退去準備中の研究者が、装置停止に気づいて駆けつけて来たのかもしれない。そう思って特に警戒することもなくふりかえったヴァルターは、自分に向けられたサブマシンガンの銃口を籠の中に発見する。

「ラリサ……。予定の変更を伝えに来たんだが」

 籠の中にいたラリサが、肩をすくめた。

「こっちも、いろいろ予定外」

「そのようだ」

 ヴァルターは自らの拳銃を捨てた。サブマシンガンを構えているのはラリサではない。彼女の腕は紐(ひも)で縛(いまし)められている。肩をすくめる以上のことはできない。ヴァルターを睨(にら)んでいるのは、その隣に立つ、ラリサより背の低い小太りの男。首には黄色いマフラー。防弾機能もある啓示軍の機兵パイロット用スーツに身を包んでいる。

「戦うつもりはない。話し合おうじゃないか」

 こういうときは無精髭(ぶしょうひげ)が相手の目に好ましく映らないかもしれない、と思いながら、ヴァルターは笑いかけてみた。



- 7 -


「小嶺。君には礼を言わねばならないな」

 通路をしばらく歩いたところで、茨木が言った。

「大尉の命を守るのは、自分の任務の範疇(はんちゅう)ですから」

 そう、範疇。イコールではない。もしもRATの上の人間と連絡が取れ、そしてひとたび命令が下されたなら、凪沙は茨木を殺さなければならない。それが任務の正確な内容。

「そのことではないんだ。あの男と向き合ったとき、君が先制攻撃に踏み切らなかったこと。それに対して礼を言いたい。もしあのとき銃がこの手にあれば、私は撃っていただろう。相手が応龍隊だと名乗った時点で」

「たしかに、あの男の戦闘術のレベルは高いようでした。戦端を開けば、大尉のほうがより深刻な傷を負うと自分は判断しました。悪く取らないでください。あなたの命のためです」

「それも違う。――と言ったら嘘になるだろうな。私も自分の命は惜しい。君のほうが冷静な判断をしていた。ありがとう。しかし、私がほっとしているのはむしろ、彼を殺さずにすんだことだ。知らず知らずのうち、私は対話という選択肢を放棄しようとしていた」

 茨木はそこまで熱っぽく語ってから、苦笑した。

「こんなことを言っていると、遠からず君に指令が来そうだな。私を殺すようにと」

「わたしは、そんなことはしません」

 凪沙は咄嗟に否定して、しかし自分のその発言を部分否定する必要を自覚した。

「――その、命令が出ればそのようにします。恨(うら)まないで下さい、とは言えませんが、それが自分の任務です。やらないわけにはいきません。ですが、あなたの言行を逐一(ちくいち)記録して報告するという行動は、任務内容に含まれていません」

 二号棟の廊下へ出られる梯子に到達した。啓示軍(オフェンバーレナ)の兵士に聞こえるのを警戒し、会話は控えている。この梯子に手をかけるか否か。凪沙が知っている施設外への出口は、あくまで別系統の通路のみ。道順は確実で、脱出にかかる時間も短縮できるはずだが、しかし啓示軍に見つかるリスクがある。

「このまま下を進もう」

 茨木は歩き出し、梯子の横を通過した。凪沙はそのあとを追う。ラリサのことが浮かんだが、後ろめたさは感じなかった。無言でいなくなったからといって、文句は言う彼女ではないだろう。施設への攻撃が回避されれば満足のはずだ。

 ただ気がかりなのは、時間だった。

 この道が行き止まりということはないと思われる。いずれ出られはするだろうが、あまり脱出に時間をかけることはできない事情がある。龍(ロン)のグレネードを使って啓示軍に届けた書簡には、具体的交渉について時刻と場所を指定した件(くだり)があった。その時刻が迫って来ている。捕虜の解放を要求している相手に対し、捕虜を失った啓示軍がどう出るか。捕虜を探し出すつもりで時間稼ぎの交渉を行ってくれれば都合はいいが、交渉は不可能と判断して先制攻撃に出るようなことがあれば、紫龍隊は苦戦を強(し)いられるだろう。茨木の解放が、あくまでフェルバルディという指揮官の独断であるだけに、予測が絞り込めない。凪沙はその男と直接会ってすらいないのだ。そのような危険があるからには、早く紫龍隊に茨木の無事を知らせ、姜(カン)が然(しか)るべき判断を下すようにしなければならない。交渉中止と、啓示軍からの先制攻撃に対する警戒を。

「急ぎましょう」

「いや、慎重に行こう。罠にでもかかっては大変だ。警戒を頼む」

「了解。――しかし、大尉がいない以上、啓示軍が交渉にどう臨(のぞ)むかが読めません。悪い結果も想定されます」

「心配ない。交渉を待つまでもなく、フェルバルディは撤退する。今すぐにでも」

 そう断言した茨木は、本当に紫龍隊のことを憂えていないようだった。部下想(おも)いで、慕(した)われてもいた茨木が、彼らに及ぶ危険を過小評価しているようなのが凪沙には解(げ)せない。

 凪沙は不安になってきた。まだ茨木の精神状態は安定していないのではないだろうか。状況判断能力の低下が懸念(けねん)される。やはり変則領域が人の心に作用するとは信じがたい。思い返してみれば、茨木が言っていたような違和感は、ラリサの住居にいるときには感じていなかった。むしろRATで学んだあの研(と)ぎ澄(す)まされた感覚が復活していたと思える。GT38の外よりも、中での影響のほうが弱いとは考えにくい。偶然にもラリサの居所(きょしょ)にいる間だけ装置が止まっていた可能性も凪沙は検討したが、さきほどの応龍隊の男の言動からして、装置は休みなく動いていたようだった。

「根拠は……。フェルバルディという男の心証ですか?」

「違う。論理的推測に基(もと)づく判断だ。――あの装置の生み出していた変則領域が、彼らの足枷(あしかせ)そのものだった」

「何もしたくない、という暗示をかけていたと?」

「そういう効果も、あったかもしれない。しかし、致命的問題は機兵のハードウェアのほうだろう。フェルバルディは私を地下へと誘うために情報を漏らした。ここへ立ち寄ってから急に機兵のBFGの調子が悪くなったと。それが、彼がここの住人たちへの不審を抱く端緒(たんしょ)となったようだ。さっき私は、フェルバルディが期待したように、その異状の元凶を止めた。捕虜解放を条件にした休戦よりも、ずっと確実な安全性を手にして、彼らはここを出て行く。計画では、交渉の場へは乾が向かうと言っていたな。おそらく待ち惚(ぼう)けになるだろう」

 問題はない、と茨木は保証する。

「合流できたそのあとは」凪沙は問う。「どうするつもりなのですか。撤退した啓示軍の追撃を?」

「今朝の補給内容が確かなら、それは得策とはいえない。火力に不足がある」

 予測された回答。姜宗義(カン・ジョンイ)も同様に判断していた。それに異議を唱えてここへ来たのだ。

「では、影龍(インロン)を探して戦うのですか? あの男の足取りを追えば、それも可能でしょう。バロッグの中をこの僻地(へきち)まで来るには、移動手段として機兵が必要だったに違いありません。影龍は近隣に待機しているはず」

「そうだな。それが金星也(キム・ソンヤ)元帥の意向に副(そ)う選択であることは間違いない。しかし、私はわからなくなってしまった。応龍隊は、本当に戦うべき相手なのか。立ち向うべき相手が他にいるのかもしれない」

 茨木は亜細亜連邦の在り方に疑問を持ち始めたようだった。いや、誰しも不満はある。ただ、逆らっても無駄だと考える者が多数派であるだけだ。反骨の精神を持つ少数派の選択は、大きく二手に分かれる。国家運営に直接・間接に携わる職を選ぶ者たちと、エデンのようなテロ組織に身を投じる者たちだ。茨木はこれまで前者であった。さっきの男は後者。両者を隔(へだ)てる境界線は案外、捉えがたく曖昧(あいまい)なのかもしれない。いつ反対側へ移っても不思議ではない。

 茨木は揺らいでいる。もし茨木が境界線をまたぎ、RATの標的になったとき、自分は揺らぐことなく任務に従事できるだろうか。――凪沙はその想像を打ち払う。現実というものには、常に正しい選択肢が用意されているわけではない。どう行動してもマイナスの結果にしかならない、そんな状況がしばしば訪れるものなのだ。だから袋小路に迷い込まぬよう、前もって注意することが肝要なのだった。そのために今できることは何か、凪沙は考えた。茨木にただの一軍人としての目標を再認識させる何か……。

 考え事をしているうちに、知らず、茨木に三メートルほど遅れていた。間を詰めようと足先に力を入れた瞬間、凪沙の耳は危険を察知した。

「伏せて!」

 叫んだときには、すでに通路全体を激震が襲っていた。強烈だが、すぐに収まる。地震ではなく何かの衝撃のようだった。

「交渉が失敗した? ――違う」

 その時間まではまだ少し余裕がある。姜宗義は翻意(ほんい)して攻撃をしかけたのか。それもあるまい。あの三脚型や戦車に対して、龍が火力不足であるのは承知のはずだ。何か事情があるのか。紫龍隊以外の攻撃かもしれない。ともかく計画通りに事が進んでいないのは確かだった。作戦計画に囚(とら)われず、独自に最良の手段を選んで正解だった、と凪沙は思う。

 しかし、安心したのも束(つか)の間。二度目の衝撃はもっと強烈だった。床に伏せて頭を守る。そこへ砂と礫(つぶて)が襲いかかり、LEDの明かりは消え、暗闇が凪沙を覆う。通路が崩(くず)れた、と聴覚が教えてくれた。

「小嶺。無事か!?」

 茨木の声が遠い。

「大丈夫です」

 答えてから、状況確認。幸い、怪我(けが)らしい怪我はない。ただ、付近のLEDが全滅していて、視界はないも同然だった。もっとも、目の前に何が立ち塞(ふさ)がっているかは十分に推測できていたが。

「完全に埋まってしまった。――上も駄目だな」

 茨木は遠くに行ったのではない。崩れてきた瓦礫(がれき)や土砂が通路に壁を作ってしまって、声が通りにくいのだ。当然、人の通る隙間など残ってはいまい。

「大尉は先に行ってください。その先に出口が必ずあるはずです」

 そして凪沙は、紫龍隊の現在のキャンプ位置について、地形の特徴を便りに伝達する。茨木は二、三聞き返しただけで把握(はあく)したようだった。

「場所はわかった。――君はどうするんだ」

「さっきの梯子を上って、別の隠し通路に向かいます。ここへは、それで来ましたから」

「わかった。だが、無理はするな、小嶺。地上に出る危険が著(いちじる)しいようなら、さっきの実験室のほうへ戻れ。ここの住人が助けてくれるかもしれない。そうでなくても、ここよりは造りが丈夫のはずだ」

「了解。ご無事で」

「ああ、また会おう」

 茨木が遠ざかっていく足音。躊躇(ちゅうちょ)はない。RATが分析したとおりの判断力と行動力。

 もう彼は大丈夫だ。凪沙は安堵(あんど)する。

 あとは、自身の脱出のことだけを考えればいい。簡単なことだ。凪沙はくるりと身を翻(ひるがえ)し、足元に散った瓦礫に注意しながら通路を引き返す。

 梯子まではどれくらいの距離だっただろうか。速くは走れないので、長く感じる。もうそろそろ見えてきていいはずだ。あそこは、上からの光が漏れているから、LEDが消えていてもわかるはず……。

 光が見えた。

 凪沙は息を呑(の)む。

 琥珀(こはく)色の、ふたつの光点。奥の闇の中へと消えていく。

 凪沙はポケットを探った。シャワーのあとに確かに入れたはずの物が、なくなっている。落としたのだ。隠し通路から、あの発電機室へ這(は)い上がるときに。それを回収した者がいる。そればかりでなく、着用している。凪沙に思い当たる節はひとつしかなかった。

 自称旅人。バトゥ・ウォン。



- 8 -


 敵機接近。その報せを受けたマウロ・ニルシッジは、エントゼルトゾルダート・ドライバイニヒに自ら乗り込み、施設を掩体(えんたい)にして迎撃体勢をとった。生き残りの戦車(レオパルト)にも支援を要請。その主砲たる五五口径一二〇ミリ滑腔砲(かっこうほう)は、砲身内での爆発の恐れがあるためバロッグ内では威力を封じられてしまうが、ドライバイニヒのバルムンクフィールドの中から撃てば危険はない。命中精度の極端な低下は如何(いかん)ともしがたいが、敵は所詮(しょせん)、龍(ロン)。向こうの一〇五ミリライフル砲から発射されるHEAT(成形炸薬)弾よりは、射程も威力もアドバンテージがある。

 恐れることはない。マウロは自分に言い聞かせた。ドライバイニヒの機能は全機とも回復しているのだから。

 まったく、ここ数日の不調が嘘のようだった。隊長のフェルバルディは多くを語らず、この施設に隠された地下区画の制圧に踏み切ったが、その目的はドライバイニヒの異常の根源を絶つことにあったのだとわかる。

 法律を中心に勉強してきたマウロは、技術に関しては門外漢である。したがって異常の物理的原因は未(いま)だ以てわからないが、元凶については見当がついている。ここの住人は、研究者だ。水や食料、医薬品を提供する一方で、彼らの生業(なりわい)である科学技術によって、密かに抵抗活動を行っていたのだろう。

 どうして彼らは反抗したのか。マウロにはその気持ちが理解できない。

 啓示軍(オフェンバーレナ)がベルリンで最初にその名と目的を宣言したとき、母国イタリアの市民たちは愕然(がくぜん)とした。ハンス・ライルスキーという男の思いがけない暴挙と、現実感に乏しい夢想に。そして、盲従(もうじゅう)する一部のドイツ軍の狂気に。当時のマウロもその例に漏れなかった。フェルバルディも。

 しかし、国境を越えた啓示軍に対して数日でイタリア軍が敗北し、ハンス・ライルスキーの指導のもとで国が動き始めてみると、考えはすぐに改まった。彼らの行いは正義であり、人類愛に基づくものだとわかった。八月の悪夢を機に、崩壊への拍車がかかったこの世界を、“指針(ツァイガー)”たるハンス・ライルスキーとその同志たちは救おうとしているのだ。それなのに、外部の人間はこれを理解しない。おそらくは情報統制の結果だ。市民に罪はない。それゆえに、マウロは啓示軍への編入を希望した。駆逐せねばならないと気づいた。ただ己の余生の権勢を守るために、市民を欺(あざむ)き、改革を怠(おこた)り、教えに耳を傾けない人々を。彼らは裁かれるべきだ。

 マウロの啓示軍への志願を非難するものは、ほとんどいなかった。マウロと同じ道を選んだものは数知れない。イタリアに限らず、欧州のすべての国々で、啓示軍への志願は相次(あいつ)いだ。今では啓示軍全人員に占めるドイツ人の割合は三割をきっている。そして、いずれは数パーセントになるだろう。マウロは遠からぬ未来の有様(ありさま)について確信を抱いている。

 それなのに。

 ここの住人たちは啓示軍の理想を理解していない。短い期間ながら、啓示軍がこのウズベキスタンのほとんどに進駐し、国民たちに世界の真実と人類の義務を説(と)いていたはずなのだが、ここへはそれが行き届いていなかったらしい。全く残念なことだった。おかげで撤退は遅れ、マウロはこうして亜連の機兵を待ち構えなくてはならなくなっている。

「敵機の数は?」

 板状の大型相対バルムンク反応(RBR)センサーを装備した僚機に尋ねる。

「目視可能な一機のみです。後方、側面を含め、他の反応は感知できません」

 接近中の敵機は白旗を揚げている。それはすでに報告されており、実際、マウロも望遠カメラで視認していた。相手はもう二キロメートルほどの距離に来ている。もしここが通常領域だったなら、戦車やドライバイニヒの主砲で即座に龍を撃破可能だろう。

 少し考えて、マウロはレーザー通信を試みた。攻撃の判断はマウロに一任されている。フェルバルディはまだ地下から戻っていない。ほどなく、送受信確立の画面表示。

「書簡の指定とは違うようだが、どういうつもりだ」

 マウロの言葉は音声信号としてレーザーに乗せられ、龍側で受信、再変換されてパイロットに届く。コクピットの物音はすべて向こうに伝わるため、できれば使いたくないのだが、モールス信号などでは時間がかかる。些細な読み違いさえ許容できない事情もある。

「交渉に障害が発生した」

 龍のほうから、同様の変換手順で女の声が返ってくる。

「我々と別の指揮系統で動く部隊が、攻撃を実施しようとしている」

 ブラフか? ありそうなことではある。マウロは判断を保留する。

「取引はなしか。ならばこちらは予定の軍事行動を取るだけだ」

「彼らはこの施設ごと貴官らを殲滅することを考えている。そうなれば捕虜の命は大きな危険に晒されるが、彼らはそれに頓着(とんちゃく)していない。一刻も早くここから移動してくれ。彼らはこの施設の座標を頼りに攻撃をする。移動してしまえば、バロッグが盾になるだろう。彼らは追跡できない」

「なぜ、来た。教えれば捕虜を解放すると期待したのか」

「この情報を伝えることで、捕虜の安全が確保されるならば、ひとまずはそれでいい」

 マウロは呆(あき)れた。率直過ぎる本音(ほんね)ではないか。この女は交渉術というものを知らないらしい。士官ではないのか? 話の信憑性(しんぴょうせい)について一考すべきかもしれない。しかし、事実なら有益な情報だった。ドライバイニヒが直った以上、ここを立ち去るのはもとより時間の問題である。捕虜をわざわざ返さずに済むのなら、得をすることになる。

「了解した。我々の行動は、貴官の期待に沿うものになるだろう。では、帰りたまえ。これ以上そこへ留まるならば、戦闘行動の一環と見做す」

 マウロはドライバイニヒの右腕、すなわち熱粒子砲を振ってみせる。龍は白旗を掲(かか)げてはいるが、完全に武装を解いてはいなかった。隙を見せれば奇襲を受けると考えるべきだった。もう、話の時間は終わりだ。

「待ってくれ。捕虜と話がしたい」

「それはできない」

 事実、そうであった。フェルバルディが移動させたままになっている捕虜を、今すぐ通信に出すことはできない。そして女の話が事実なら、そんな手間をかけている暇はないはずだった。憂(うれ)いなく脱出の準備を進められるよう、早々に退場してもらわなくてはならない。

「フェアではない」

 女の語気が荒くなった。マウロは手元でそっとコンソールを操作し、予(あらかじ)め用意していた合図を僚機に送る。

「そうとも、フェアではないさ。我々は包囲されつつある。圧倒的に不利な状況だ。フェアな条件にするためには、まず、戦力差を縮めなくてはならない。そこでこちらから提案だ。――日本版のチェスは、取った駒を使えると聞く」

「仲間になれと言うのか」

「そこまでは要求しないが、ここへ攻撃を行う部隊を妨害することは、機兵があれば可能なのではないのか? 攻撃が遅れれば、我々と捕虜が無事にここを離脱できる確率は、高まると期待される」

 しばし沈黙。可能性を検証しているのだろう。何もあからさまな妨害でなくとも、バロッグに身を隠して密かに目的を達することもできるはずだ。要は、道徳観の問題だった。

 やがて女は言った。

「友軍を裏切ることはできない」

「そこまで腐ってはいないか。その清廉(せいれん)さは評価しよう」

 マウロはレーザー通信をそこで切った。代わって無線をオン。

「目標は脚部。コクピットは狙うな。無力化だけすればいい」

 二機のドライバイニヒと戦車、計三つの主砲が龍を狙う。

 僚機と戦車から放たれた砲弾は、指示通りに龍の脚部を狙って飛翔。バロッグによるエネルギー変換作用で軌道がずれた結果か、惜しいところで的(まと)を外す。

 一方、主砲が熱粒子砲であるマウロは、頭部を狙っていた。熱粒子砲の場合、筒(つつ)状のバルムンクフィールドを伸長させてその内側に高熱粒子を流しているから、原理的にバロッグによる軌道誤差を殆ど生じない――と技術者から繰り返し説明されている。正確な射撃で頭部を最初に破壊しておくことは、敵機の戦闘能力を低下させる意味でも、長距離通信能力を奪う意味でも、極めて重要だった。これは、フェルバルディからの伝授。ふたつの教えは役に立った。龍の頭部が溶解し、無様な粘土細工のように変形。

 避(よ)ければいいものを、龍は立ち尽くしたまま脚部への第二撃を許した。今度は戦車の砲弾が命中。股関節付近を爆砕(ばくさい)され、龍はうつ伏せに地面に倒れる。あまりに呆気(あっけ)なかった。マウロは、頭部を失った龍は再起動のために数十秒動けなくなるようだ、という話を今更思い出す。

 僚機から通信。

「相対バルムンク反応消失。機能停止したな。周囲の反応にも変化なし。――ん、これは、まさか」

「どうした、まだどこか不調か?」

「いや、大丈夫だ。敵機は近づいていない。ただ、センサーの感度に誤差が出ているかもしれない。詳細を確かめてから報告する。――ところで、どういう経緯だったんだ、ニルシッジ少尉」

「敵の罠だった。これまでとは別の一派が、施設ごとの殲滅を予定しているようだ。この龍はそれまでの足止めのため、ここへ来たというわけだ」

「さすが大学で弁論を嗜(たしな)んだマウロ・ニルシッジだな。よくもそこまで見破れるものだ」

「まあな」

 マウロはほっと溜め息(ためいき)をついた。なんとかうまくやった。条件をフェアに近づけるためには、いずれまた戦うであろう相手をここであっさり帰すわけにはいかなかった。騙(だま)し討ちに近いが、問題はない。龍との会話の内容は僚機には伝わっていないし、撃破後に龍の通信記録を消去すれば証拠は何も残らない。そのためのレーザー通信でもあった。

「で、あの龍のパイロットは、また捕虜にするのか?」

「そうだな……」

 考えていると、別の回線が割り込んできた。隊長特権。フェルバルディ用のドライバイニヒからだ。機兵内蔵のもののみならず、通信兵用のリュック型通信機、将校用のポータブル通信機まで、規格が同じものはすべてが相互通信の状態になる。

「こちらフェルバルディ。全員、そのまま聞いてくれ。我々はこれより、この施設からの撤収を開始する。まず負傷兵らを車輛へ。戦闘部隊は現状の警戒態勢を維持。ただし……」

 続いた言葉は、マウロには理解しがたいものだった。正気を疑いもした。

 しかし、マウロは従うことにした。フェルバルディの指揮はいつも成功に結びついていた。今回もきっとそうであるに違いない。そう信じて。



- 9 -


 茨木は無事に地上に出た。

 GT38からの距離はよくわからない。丘に隠れて見えないのだ。だから、あのときの衝撃が何によるものだったのかも、わからないままだ。ただ、砲撃のような音はもう聞こえてこない。

 澄んだ空気と、数日ぶりに浴びる日光がありがたい。凪沙から聞いたキャンプ位置はしっかり覚えているが、地形をこの目で確かめられなくては意味がない。それには月明かりよりも日の光のほうがずっと都合が良かった。加えて、今日はバロッグの光学干渉の程度がかなり低いようだった。雲も出ているが、光量は充分。

 自然条件には恵まれたものの、いったい、どれだけかかるのか。茨木はあまり楽観できない。凪沙が移動に用いた車の置き場所までは聞いていないので、移動は徒歩しかない。となると、日没までに辿(たど)り着けるとは確信できない。ここ数日の食事は、エネルギー的には最小限のもので、運動で体力を消費することなど考慮されてはいない。夜の冷え込みに耐えたれる体調ではないだろう。うかうかしていては凍死する。

 しかし、茨木に味方するのは日光だけではなかった。幸運にも、向こうから見つけてくれたのである。

 南西の稜線から現れた二機の龍(ロン)は、武装してGT38方面へ向かっていた。茨木が合図を送る道具を探しているうちに、先を行く一機が茨木を発見したようだった。龍は右に旋回し、茨木のところまで減速しながら寄って来ると、数メートル前で跪(ひざまず)く。動きで乾だとわかった。もう一機も遅れてやってきて、降着姿勢。が、動作シークエンスの繋ぎが若干ぎこちない。怪我を引きずっている姜(カン)の操縦か、と茨木は推定した。

「大尉、ご無事で!」

 コクピットハッチから出てきたのは、案の定、乾大輔だった。

「再会を喜ぶのはあとだ。小嶺からは話は聞いているが……、これから交渉か? さっきGT38で動きがあった。私の捕まっていた施設のことだ。爆発か、大質量の着弾らしき衝撃が数回あったようだが、確認しているか?」

 いつも笑っている乾の表情が曇(くも)った。青ざめた、とも表現できる。茨木は悪い知らせを予期した。

「先行した楠木との連絡が取れなくなっているんです」

 足元がぐらりと傾いたような錯覚が茨木を襲う。

「攻撃を仕掛けたのか」

「とんでもない。楠木はあくまで、大尉を返すよう啓示軍(オフェンバーレナ)と交渉しに行ったんです。でも、連絡は途絶えてしまいました。いま、状況確認に向かうところです」

 とは言うが、龍の出立(いでた)ちは交戦の可能性を十分に考慮した装備だった。通信途絶の示すところは自(おの)ずと限られている。

 茨木は口惜しさを噛(か)み締めた。どこで間違いがあったのだろうか。もう啓示軍は自由に撤退できるはずだった。放っておけば、血などは流れなかったというのに。どうして戦端が開かれてしまったのか。絶望的な状況。尾西ら二人に加えて、また部下を失おうとしている……。

「姜大尉、操縦を代わってくれ。怪我の治っていない君よりはやれると思う。なにより、彼女は私を助けるために無理をした。私が行かなければ。――行きたいのだ」

 後方の龍に向かって茨木が叫ぶと、乾が彼を遮って何か言おうとした。が、それより先に、茨木の視線の先で龍のコクピットハッチが開き、中からパイロットが出てきた。

 背が低い。

「是非、そうしてあげてください」

 操縦していたのは尹慶珠(ユン・キョンジュ)だった。

「どうして君が」

 機兵付の整備兵のなかには基本操縦を習得している者がおり、彼女がそのひとりであることは知っていたが、茨木は彼女を戦闘要員として考えたことはなかった。まだそれに足る訓練は受けていないはずだった。それならばまだ、傷を抱えている姜のほうがパイロットとしては適任だろう。

「姜大尉はどうした」

「別の重要な役割を担ってくださっています。――いろいろと事情が。隊長、まずはコクピットへ。設定変更中にお話します」



- 10 -


 姜宗義(カン・ジョンイ)は大きくゆっくりと息を吐(は)いた。

 彼の足下には、ふたりの兵士が気絶して転がっている。亜細亜連邦軍のなりをしているが、彼らは国民の兵士ではなく元老院の兵士だ。つまり、RAT。

 第三〇三軽量機甲師団の代表者に会いに行く。そう言い出したところ、三人のRATのうち二人が姜を送っていくと言い出した。ひとりが運転し、もうひとりが姜の隣で銃を持って。

 目論見どおりだった。RATの特務員たちは、紫龍隊の要(かなめ)を隊長代行の姜宗義と判断し、ひとりを機兵の出動監視に残してそれでよしとした。紫龍隊のキャンプに残ったそのひとりも、今頃はどこかに縛(しば)り付けられているはずだ。ただの機兵運用部隊と甘く見たのが彼らの失敗だった。

「俺を脅(おど)して言うことを聞かせようという考えは、もう持たないことだ」

 姜は、侮(あなど)りに対する苛立ちを顕(あらわ)にそう告げた。気絶している二人に対してではない。そんな無駄なことはしない。

「RATのほうで勝手に気を回したことだ。私は関知していない。もちろんカナタフ少将もだ」

 フロッティ・ヤトゥージル大尉は、目の前にRATふたりを転がされても動じなかった。おとなしい文官タイプの面構えをしているが、油断はできない。軍内の元老院派の代表格のひとりであり、三〇三師団の師団長でもある、あのカナタフの副官を務めているのだ。見たままの人間でないのは確かだ。

「攻撃は延期しろ。あの施設は紫龍隊が制圧対象としている」

「それは脅しですか?」

「取引だ。俺は貴官を見くびってはいないつもりだ。殺してしまって、敵を増やすのも面白くない」

「では、見返りはなんでしょう」

「あの施設をくれてやる」

「面白いことを言いますね。連邦の財産ですよ、あれは。もっとも、たとえ貰(もら)える物だとしても、瓦礫だらけの廃墟はあまり魅力的ではないですね」

 ヤトゥージルは知らないふりをする。

「本音を言えば、砲撃を加えないほうが理想的ではないのか? あれだけ榴弾砲を使えば、啓示軍(オフェンバーレナ)は殲滅できるだろうが、地下構造にも被害が及ぶぞ」

「なるほど」おっとりとした顔が微笑む。「知ってらっしゃる。誰が口を滑らせたのでしょうかね。――まあ、いいですが。普通はそんな話、聞いても信じやしません。あなたは違うようだ」

「まあ、過去にいろいろとな。もっとも、もう関わるまいと決めて過ごしていたのだが」

「疲れましたか」

「ああ」GT38での短い生活が思い起こされる。が、もうセピア色だった。「貴官もやめてしまえ、関わるのは」

「しかし、啓示軍が存在する以上、放っておくわけにはいかないでしょう」

 聞き分けのない子供でも相手にするように、ヤトゥージルは常に譲歩しながら姜を納得させようとする。紫龍隊の部下たちなら簡単にひっかかるだろうと姜は思った。

「徒労だ。そのうち誰かが力を手にする。首を突っ込まず、干渉もされず……。そんな立場を早々に作っておいたほうがいい」

「ご忠告は記憶に留めておきましょう。ですが私はまだまだ、精力的に関わりあいたいと思っているんですよ。そして、私以上に熱心な方々が亜連には大勢いらっしゃる。彼らの意向がある以上、私にGT38の攻撃を中止するという選択はありえません」

「なるほど。了解した」

 何を言っても無駄だと姜は判断した。これ以上、交渉に時間を割(さ)くのは得策ではない。キャンプに戻ったほうがまだ幾(いく)らか役に立つことがあるだろう。この体さえ全快していればまだやりようもあったが、特務員を伸(の)すので精一杯というところだった。姜は特務員から取り上げた銃を適当に放り出し、踵(きびす)を返す。

「お帰りですか。お大事に」

 乱闘で傷口が開いたのを見破られていたようだった。服の上から血は見えないのだが。やはり、油断ならない。

「――ああ、ひとつ付け加えておきましょう。施設への攻撃は、カナタフ少将個人の義務感に端(たん)を発していますが、ご存知のように、元老院派の実力者は少将だけではない。厄介な霧も晴れてきたようです。あなたは別のところへも交渉へ行かねばならないでしょうね。羽を生やして」

 姜は思わず足を止めた。

 それは盲点だった。というより、知らなかった。バロッグの消失が始まっていたなど姜には初耳だった。その情報があれば、尹(ユン)や楠木の言い出した作戦に乗りはしなかったのだが。

「忠告に感謝する」

 姜は帰り道を急いだ。良くない結末が見える。――やはりあの場所にはもう関わるべきではなかった。そう運命を呪いながら。



- 11 -


 第三〇三軽量機甲師団の介入。それは茨木にとっても予想していない出来事だった。いずれ友軍が追いついてくることは勿論(もちろん)考えていたが、それはこの方面に展開する部隊が相互に連絡を取れるようになり、GT38に啓示軍(オフェンバーレナ)がいるという情報が他の部隊にも伝わったあとのことと考えていた。啓示軍を追跡していなければ、紫龍隊もこんな場所へは来なかった。それなのに、GT38ごと啓示軍を殲滅しようという勢力が現れるとは……。

 しかし、不自然な出来事ではなかった。元老院派として有名な三〇三師団の幹部なら、GT38の正体を知っていたとしてもおかしくない。彼らには、可及(かきゅう)的速(すみ)やかにGT38を制圧する意義があったということだ。彼らにそこまでさせるGT38の正体とは何なのか。不自然ではないが不思議ではある。応龍隊のメンバーが潜んでいたことと何か関係があるかもしれない。

 応龍隊と手を組んだラリサ・コルヴァクら元SMITS研究員と、元老院派の対立。自分もフェルバルディも偶々(たまたま)そこへ巻き込まれてしまったのだと茨木は気づいた。GT38へ立ち寄らなければ、フェルバルディたちは早々にもっと西へと撤退していた。金星也(キム・ソンヤ)の目的に副う意味ではそれでも全く構わなかった。茨木自身は彼らの捕虜となったまま何処(いずこ)かの収容所へ送られただろうが、こうして部下の命を案じるような事態は迎えずに済んだのだ。

 茨木は不運を呪わずにはおれない。そして、闘わずにはおれない。境遇という敵に敗北するつもりはなく、楠木冴子は助けてみせると己に誓う。尹慶珠(ユン・キョンジュ)が決死の思いで起動させたこの龍が、彼女の想いが、誓いを果たす力となってくれる。尹の待つキャンプに全員を連れて帰るのだ。

 茨木と乾の龍(ロン)は、地形を利用して身を隠しながら進み、GT38へと最短距離で突撃できる位置についた。楠木の龍はすでに確認している。頭部は大破だが、コクピットに外傷は認められない。希望は残されている。

 主な敵戦力は、機兵が四機と戦車が一輛と推定されている。うち一機はすでに車列とともにこの地をあとにした。姿が見えるのは例の三脚型が二機。残る一機と戦車はどこかに隠れているのか、それともどこかへ移動済みなのか。

「いつまで待ちますか?」

 乾の問いの意味は、こうである。待てば彼我の戦力差は縮まり、楠木を助けられる確率が高まる。しかし待ち過ぎれば関係は逆転する。三〇三師団は施設ごと攻撃を加えるという。榴弾砲による長距離攻撃だろう。それが降って来るようになってはもう遅い。楠木がどこにいようと、雨のように降り注ぐ榴弾が啓示軍や住人ともども彼女を殺すことになる。龍に乗っている茨木と乾もその危険は免(まぬか)れない。

 あと一機だけでも減ってくれれば、勝ち筋が見える。そう思って粘ってみたが、そろそろ見極め時だった。

「俺が囮(おとり)をやります」乾が言い出した。「俺があそこをつっきるんで、釣れた連中を後ろから片付けてください。――装備は軽いほうが良さそうだ」

 乾機が二股(ふたまた)の槍、雷紫電(ライシデン)を地面に置き、マウントしていた火縄用の弾倉もひとつ外して茨木に渡そうとする。

「待て、乾。おまえとは前の部隊でも共に死地を潜り抜けたが、あのとき生き残れた最大の理由がなんだったか、考えたことがあるか」

 返事は早かった。

「大尉の知性と俺の運気です!」

 乾らしい冗談だった。これに茨木も即答で応じる。

「そうだ」

「――へ?」

「ふたりで助けあい、共に生き残ろうとした。それが良かったのだと、私は信じて疑っていない。だから今回も、片方を捨石にする作戦は認めない。吶喊(とっかん)するならば、同時だ。それしかない」

「しかし」乾は反駁(はんばく)する。「火力の差は前の戦闘で明らかです。地形だって向こうに有利で……」

「乾、おまえは見落としている。彼らにも弱点がある。非戦闘要員や負傷兵は、さっきの先発隊ですべてではないだろう。機兵一機のバルムンクフィールドで保護できる領域は限られているからな。入りきれなかった車輛がまだ残っているはずだ。機兵と戦車は彼らを巻き込まないように戦わなければならない。そこを利用するんだ。おそらく敵は――」

 茨木はGT38の望遠写真を手元の双方向通信モニタに呼び出し、二号棟に印をつけた。その印は、通信中の乾のコクピットでも同じように記入される。

「――ここの一階ガレージに残りの車輛を待機させている。ここを盾にするよう回り込む。接近戦にさえ持ちこめば……」

「あとは技術でカバーできる、ですねー? 了解っす」

 いつものわざとらしい明るさを取り戻した乾が、地面に刺した雷紫電を龍に引き抜かせる。狙いどおりに建物まで肉迫できるかどうかは、殆ど運頼りだった。

「行くぞ!」

「了解!」

 ふたりは同時に稜線(りょうせん)を飛び出し、GT38へと続く緩やかな傾斜を疾走(しっそう)する。行く手の建物の合間から、大きな盾――いや板状の大型RBRセンサーを装備した三脚型が身じろぎし、すぐさまその腕、すなわち砲塔を向けてくる。滑腔砲だと茨木は形状で判断。バロッグによる弾道偏移で当たらないと信じ、これは無視。下手に避ければおそらくそこへ正確無比の熱粒子砲が襲ってくる。

 警告する間もなく、乾は初弾を回避していた。正面と別の方向からRBRセンサーとサーマルセンサーに感。茨木の予期通り、乾は熱粒子砲に襲われた。が、乾は反復横跳びの要領でこれも回避。タイミングまで予測済みだったらしい。場違いながら苦笑が漏れた。

 攻撃が乾に向いた隙に、茨木は最大加速。二号棟への距離はかなり詰められた。と、そこへ戦車の姿。レオパルト2系の近代改修型。

 ――ここまで近づけただけで幸運というものか。

 砲塔が回転している隙に、手近な建物の陰に滑り込む。砲弾がそれを貫(つらぬ)き、茨木機の携帯していた火縄の砲身を巻き込んで爆発。ほとんど柄(え)だけになったそれを捨て、茨木は龍を二号棟の裏へと向ける。空いた利き腕に予備の火縄をセット。戦車の第二射を回避し、応射。当たりはしたが、正面装甲だった。貫通できない。すぐに身を潜めた。

 足元に動体反応。啓示軍の兵士。ロケットランチャーなどの警戒すべき武器は携帯していない。左手の雷紫電を向け、空中で放電。逃げていく。

 ――そうだ、逃げればいい。楠木さえ取り戻せれば文句はない。今日のところはそれで。

 迎撃の手が弱い。乾が二機引き付けてくれているようだったが、推定ではあと一機、三脚型がいるはずだった。そしていずれか一機にはあのフェルバルディが乗っているだろう。

 三時の方向に相対バルムンク反応。レベルC。上昇中。――Bプラス到達。

 龍が半身を捻(ひね)って火縄を向ける。その先には倉庫のシャッター。ラリサ以外は顔も知らない住人たち。今朝も食べた野菜。思い浮かべてしまえば当然のように指が動いた。攻撃モーションをセカンダリに変更。龍は火縄を撃つのをやめて倉庫へと走り、左手で繰り出した雷紫電がシャッターに突き刺さる。が、妙に硬い手応え。シャッターの奥に何かが。

 相対バルムンク反応レベルA。茨木は雷紫電を放電。シャッターが弾け飛ぶ。電圧が急低下。只ならぬものを感じて茨木は後退。

 倉庫の暗がりの中から、一機の機兵が現れた。大ぶりの楕円状の盾を正面に構え、鮮血のように赤い目が茨木を睨む。亜細亜連邦軍のものとも、啓示軍のものともつかぬその姿は、他でもない、影龍(インロン)だった。


*   *   *   *   *


 乾は大型センサー付きの三脚型から、その右腕、すなわち主砲を奪い去った。もっとも、先に右腕を取られたのは乾のほうで、おかげで飛び道具がなくなった。目くらましの煙幕くらいは使えるが……。

 どうしたものか、と乾は考える。考えた結果、相手の肩関節にねじ込んでいた雷紫電を、今度はうなじの部分に突きつける。エントゼルトゾルダートに共通のコクピット位置だった。とどめの一撃は、ささない。

「武装解除しろ。腕ごとパージだ。できるんだろう、そういうの」

 悪人になりきって叫んだ相手は、凶器をつきつけている三脚型ではない。乾に熱粒子砲を向けて立ちはだかっているもう一機のほうである。つまり、一機目を二機目に対する盾にした。

 相手の躊躇は明らかだった。大成功、と乾はほくそ笑む。これで二機引きつけたことになるから、茨木の負担は減っているはずだ。敵が武装解除に応じずとも、この膠着(こうちゃく)状態を維持していれば、いずれ茨木が加勢に来てくれるはずだ。

 しかし、どこまでも思惑(おもわく)通りというわけにはかなかった。

 三脚型の首が前方にスライド。中からパイロットが飛び出す。文字通りに、飛び出した。「射出座席(イジェクションシート)!?」

 想定外の展開に、乾の反応は遅れた。健在の三脚型から熱粒子砲が放たれる。放棄された三脚型を貫通して、乾機にもダメージ。高熱の微粒子が鳩尾(みぞおち)の辺りを突き抜けたようだった。冷や汗。コクピット位置に来ていたら乾は大火傷(やけど)を負っていた。

 二射目をおとなしく待つような真似はしなかった。機体損傷報告表示は黄色(CAUTION)。まだ動く。胸部マルチランチャーから発煙弾射出。煙幕で一時的に相手の視覚とRBRセンサーから逃れる。

 どうやって接近するか。片腕を失っている今、そうそう機敏に回避運動は取れない。建物を盾にすれば熱粒子砲の威力をかなり減殺(げんさい)できるが、ジリ貧だと乾は判断した。

 少しだけ横に位置をずらしてから、直線軌道で突撃。熱粒子砲が龍の脇をかすめ、微細な熱粒子のいくつかがコクピット内の側面モニタを通り抜けたらしい。有機ELが爆(は)ぜて飛散し、乾の頬にも高分子の飛沫(ひまつ)が及んだ。

「あちっ」

 その痛みを倍以上にして返すつもりで、乾は煙幕を抜け、三脚型へ迫る。熱粒子砲は再チャージ中。機関砲の火線が龍の装甲をなめたが、駆動系は機能を失わなかった。二本の脚が交互に動き、地を踏みしめて前進。敵が目前に迫る。セオリーでは、先ほど実践したようにまず敵の最大の武器を奪うべく狙いを定める。乾は敢(あ)えて、雷紫電を相手の喉(のど)の位置めがけて突き出した。この一撃に賭ける。

 迸(ほとばし)る電光。


*   *   *   *   *


 パイロットはさっき地下で会った男だろう。あの身のこなしからいって、そう考えるのが妥当だった。言葉を交わしてしまっただけに、戦う以外の選択肢を考えてしまったがために、ためらいが生じる。一方、向こうはこちらの存在に気づきはしまい。交戦やむなし、と茨木は観念する。

 雷紫電の電圧は回復していた。茨木は再度襲いかかる。影龍は迫る槍先をかわさない。盾で受けた。青白い電光が走る。にわかに盾の表面に生じる白い靄。雷紫電の電圧が再び急低下、ほとんどゼロに。

 効いていない。茨木は早々に雷紫電を放った。と、その柄がすぐさま切り裂かれる。影龍が、盾をつけていないほうの腕を横様に薙(な)いでいた。前腕に大きな鉤爪(かぎづめ)が二本。知らない武器だった。

 茨木は間合いを取った。鉤爪の威力は、龍王の炎草薙(ホムラクサナギ)と同等か、それ以上と思われた。しかし、影龍は飛び道具を持っていないように見える。再び火縄をプライマリに選択。発射。――白い靄がまたしても攻撃を無効化する。

 “ベルリンの壁”と同じものか。

 盾に攻撃しても無駄だと理解し、茨木は足元を狙った。鉤爪を構えてにじり寄って来ていた影龍は、慌てずこれに反応し、盾を地面に突き立てるようにして受け止める。

 その隙こそ茨木が狙ったものだった。予熱していた背部スレイプニルロケットの力で大きく跳躍(ちょうやく)。頭上を飛び越え、空中で機体を百八十度回転させつつ、影龍と倉庫の間に着地。背後を取った。戦車から見ても影龍が障害物となるはず。位置取りは完璧。影龍の無防備な背中へ向けて第三射。命中。影龍がよろめく。

 すかさず追撃を……試みたが、邪魔が入った。警報。側面から攻撃が。回避運動。――違和感。茨木専用のモーション設定ではなかった。動作にロスがある。間に合わない。

 砲弾が龍の左腕を吹き飛ばし、胸部まで到達。

 衝撃が襲う前に、茨木は見た。襟元(えりもと)を特別に明色で塗り分けられた三脚型ゾルダートを。まるで黄色のマフラーを巻いているようだった。


*   *   *   *   *


 乾は賭けに勝利した。

 しかし、戦いには負けた。

 三脚型ゾルダートと乾の龍が同時に倒れる。目の前の敵機は仕留めたが、数瞬ののちに、別方向からの攻撃が龍の膝を撃ち抜いていたのだ。壁のように垂直に見える地面の上を、砲塔を回転させながら後退する戦車が見えた。茨木が相手をしていたはずの戦車。

 ――駄目だったのか。

 とんだ芋蔓(いもづる)式の敗北だった。右半身を集中的に欠損した今、乾の龍はもはや立ち上がることすらできない。背部ロケットを噴射しても、絡み合うように共に倒れたゾルダートに機体を押し付けるだけで、脱出には繋がらない。反撃の策はもうない。

 乾は思わず視野中の空を仰(あお)いだ。雲の切れ目から光がさしこんでいる。

 その光を遮る影がひとつあった。

 ゆっくりと影は大きくなってくる。降下しているのだ。シルエットは無人偵察機の類(たぐい)に似ているが、もしそうだとすれば乾の遠近感が狂っていることになる。それは小さめに見積もっても、旅客機ほどの大きさがあるように見えるのだ。いちばん似ているのは、いつか見たSF映画に出ていた宇宙船。

 ――いったい、何が起きている。



- 12 -


 感電の痺(しび)れから立ち直ったマウロは、コクピットをこじ開けてもらって、外に出た。マウロを見下ろしているドライバイニヒは、首周辺をマフラーに見立てて黄色く塗ってある、フェルバルディ用の機体だ。

「すみません、受領したばかりの機体を……」

「マウロ、おまえが気に病むことじゃない。性能が悪かったとRW(エルヴェー)重工に苦情を出すだけのことだ。BFG関連の不調の件を持ち出して、起訴してもいい」

 フェルバルディが冗談を言っているのは明白だった。ここ数日の苛々が見事に抜けている、と感じる。そして、今朝までの自分はこの冗談を素直に笑えなかっただろう、ということにも気づいた。――生き残ったという達成感がそうさせたのか? いや、まだ脅威は去っていない。ただ一難を退けただけに過ぎない。

「脱出した二人は無事か?」

 ユプシロンの乗り手が語りかけてくる。啓示軍(オフェンバーレナ)の共用周波数に合わせて。比較的近距離とはいえ、バロッグの干渉を感じさせない明瞭な通信だった。エントゼルトゾルダートよりも通信機器の性能が良いのか。

「パイロットは大丈夫だ。しかし、この二機のゾルダートの再起動は絶望的だな。もうあれの護衛にはつけん」

 フェルバルディが答える。あれ、というのは先ほど着陸した大型輸送機のころだ。T2(テーツヴァイ)と呼ばれている。啓示軍の形式に則ったコードネームだが、もちろん見たことも聞いたこともない。

 その得体(えたい)の知れない輸送機に便乗(びんじょう)して脱出する、というのがフェルバルディの決めた方針だ。乗せてもらう代わりに、マウロたちが輸送機を離陸まで守る。その取引が先方と成立したからこそ、あの輸送機、T2はここへ下りてきた。

「亜連軍の足止めには火力が必要だ」

 ユプシロンがマウロのほうへと歩み寄ってきた。マウロは焦った。契約を履行できなくなったから、殺そうというのか。

「これを貰(もら)って行こう」

 ユプシロンがマウロの機体のそばにしゃがみこみ、ドライバイニヒの右腕を何度か回してもぎ取った。肘(ひじ)のジョイント部分を器用に指で外して、携帯していた部品を代わりにはめ込む。難なくはまった。持ち手の形になっている。規格が合わせてあるらしい。ドライバイニヒの右腕であった熱粒子砲が、数分のうちにユプシロンの手持ち火器に化けた。

「だが、俺がここを離れるからといって、変な考えは起こさないほうが身のためだ」

 マウロの心を呼んだように、ユプシロンからの声が釘を刺す。あの輸送機は非武装だから、残存戦力で制圧可能ではないかと検討していたところだった。

 あの機体、ユプシロンは敵性。そう教えられている。あの輸送機も同じ組織に属するものに違いない。彼らの正体は啓示軍からの離反者であり、ユプシロンは開発中だった啓示軍の新型機兵が奪われたものだ、という噂(うわさ)を聞いたことがある。そんな相手と取引をしてしまったフェルバルディの図太さには驚かされた。

 しかし、皆が皆、そう率直に感心できたわけではない。少しでも連中と馴(な)れ合うことを嫌った者は、すでに陸路で西へと出発した。マウロの同僚もひとり、そちらへ加わった。指揮はラディール軍曹が執(と)っている。身軽になったから大丈夫だろうとフェルバルディは言っていたが、心配だった。離陸を見届けたら自分はそちらへ追いつこうと考えていたが、それはもうできなくなった。T2とやらに乗るしかない。亜連は投降さえ認めないつもりらしく、仮に認められたとしても、マウロにその気はない。

「やはり、俺も行こう。戦車はさすがに連れて行けないが」

 覚悟ならすでに決めている、とフェルバルディは続ける。もともと、ユプシロンとともに亜連軍の撹乱(かくらん)に向かう予定だった。

「それではここの守りが不安だ」

「なに、心配ない。機兵部隊の攻撃はもうない。すべての龍(ロン)を破壊したからな」

 それは捕虜から得た情報だった。しかし、その捕虜がいたからこの部隊はここまで追ってきたようにも思える。やはり拾うべきではなかったとマウロは結論した。

「マウロ、あとは任せる。基本は指示通りに、しかれども臨機応変に、だ」

「了解しました。隊長もお気をつけて」

 南の方角へ出撃していくドライバイニヒとユプシロン。奇妙な取り合わせを見送ったマウロは、さっそく臨機応変な対処に取りかかろうと決めた。

 龍のパイロットは全員T2に乗せるように、というのがフェルバルディの指示だった。しかし、おそらくはユプシロン側からの要請だろう。敵対する両者同士が互いに牽制(けんせい)し、輸送機の奪取を考えないように工作しているのだ。そうマウロは考えていた。

 幸いにしてユプシロンの目がなくなった今、それに従い続ける意味はない。パイロットらを生かしておくべきではないのだ。輸送機側のスタッフに対しては、「まだ攻撃の意図が見られた」などといくらでも説明できる。

 まずは遠くの、最初に交渉に来た龍のパイロットから片付けることにした。女の声だった。顔を見れば迷いが生じるだろう。だからコクピットごと吹き飛ばすのがいい。戦車にやってもらう。バロッグによる砲身内での暴発が厄介だが、それは直(じき)に問題ではなくなる。

 準備はもう始めておくのが良い。戦車はもう履帯(りたい)が傷(いた)みきっており、次の拠点まで持たないので、ここで放棄することになっていた。早く言っておかないと、乗員たちが戦車を降りて輸送機へ向かってしまう。その前に話をしておかなければならない。動かなくなったドライバイニヒのそばを離れ、歩き出す。

 そしてようやく、マウロは気づいた。最初に倒した龍は、寝返りをうったような姿勢で転がっている。――たしか、うつ伏せに倒れたはずではなかったか。

 背後からせわしない足音。近い。マウロはふりかえろうとした。顎(あご)の近く、見下ろす位置で何か白いものが光る。そのうしろに少女の顔。

 ――さっき裏庭に来た娘じゃないか。

 飛び散る鮮血。喉が熱い。少女の顔が赤く染まる。

 続いて後頭部に衝撃。とどめの一撃だった。

 喉を切り裂かれたのだと理解する前に、死にゆく絶望を感じるより先に、マウロの意識は途絶えた。



- 13 -


 ナイフで人を殺したのは久しぶりだった。

 腕がなまっている。一撃目が浅くなってしまった。昔、同じミスで指導教官に叱(しか)られたことを凪沙は思い出す。ナイフでの先制攻撃は一撃での致死を心がけるようにと教わった。でなければ刃に毒を塗っておく。女の力で生き抜くにはそれだけの思い切りのよさが必要だ、と。

 目のまわりにかかった返り血を拭(ぬぐ)う。他のところは無視。放っておいても邪魔にはならない。

「殺す必要があったのか」

 背後で楠木が問う。

「騙(だま)し討ちされておいて、よく言える」

 死体を機兵の下に引きずりこんで隠しながら、凪沙は答える。

 茨木と別れたあと、凪沙はバトゥらしき人影を追ったが、追跡は断念せざるを得なくなった。地下に啓示軍(オフェンバーレナ)が展開していたのだ。足踏みしているうちに、バトゥはどこかへ消えてしまった。しかたなく二号棟から外に出た凪沙は、龍(ロン)が撃破されているのを発見。やがて救援が駆けつけて戦闘が再開した隙に、気絶していた楠木を助け出した。衝撃吸収パックが異常展開したせいで窒息しかかっていた。放っておいたら死んでいただろう。

 酸欠の脳がまだ正常に機能していないのか、楠木はまだ納得が行かないようだった。

「ふりかえらなければ、気絶させるだけでもよかった。ふりかえってしまったのが、この男の運の尽きだ。――それより、周りに変化はないか」

「ない。あの宇宙船みたいなのの周りに、みんな集まってる。戦車もそっちに行った」

「了解。そのまま見張りをよろしく、少尉殿」

 凪沙はゾルダートの脚の下をくぐり、龍の臀部(でんぶ)に取り付く。そこには、生命維持装置の点検ハッチと並んで、コクピットに通じるインターフォンの収納スペースがある。蓋(ふた)を空けて、コール。回線は生きていた。数秒の間ののち、パイロットのレシーバーに繋がったと思しき音。

 乗っているのは、乾大輔と尹慶珠(ユン・キョンジュ)のどちらだろうか。姜(カン)ではなく、尹が龍に乗り込んだ事情は、楠木から聞いて把握している。機兵の操縦ができたとは知らなかった。調査が甘かったか、と凪沙は後悔したが、今は役に立ってもらわねばならない。

「こちら小嶺。応答を」

「乾だ。驚いたな。茨木大尉は?」

「すでに脱出しています。楠木も自分のそばに」

「そうか、ふたりとも無事だったんだな。――俺は龍の頭をつぶされた。再起動に手間取っている。外はどうなっている?」

「三脚型の一機と、影龍(インロン)が南下しました。接近中の三〇三師団を叩(たた)きに行ったものと思われます。ここに残っている戦力は戦車のみ。今は輸送機のほうに移動しています」

 凪沙は楠木に目配せして、状況の変化について尋ねる。――変化なし。

「影龍がここにいたのか。――そういえば、変な輸送機が降りていたよな。あれは応龍隊のやつだったってことか」

「そうだとすると、どうやら応龍隊は啓示軍と合同でここから脱出するようです。残っていた啓示軍の兵が次々に輸送機に乗り込んでいます。ここのスタッフも連れて。離陸にはまだ時間がかかる模様」

 少し前に、例の装置が台車に載ってゆっくりと搬送(はんそう)されているのを遠目に見た。あの調子では、まだ積み込めてはいない。啓示軍のほうはあまりそれには興味がないようで、車から輸送機に荷物を移すのに忙しい様子だった。

「ようやく撤退する気か。こちらも目的は達成した……ようなもんだから、逃げるかな」

 陽気な調子で乾は言った。凪沙は何かがおかしいと感じる。

「まだ、尹慶珠が」

「尹が? 彼女もここに来ているのか」

「姜大尉が囮になって、代わりに彼女が龍に乗っていると、楠木から聞きましたが」

 数秒の沈黙。

「――しまった。そうか、君は知らないのか。茨木大尉は脱出して、俺たちと合流した。そして尹と操縦を代わって、俺と一緒に楠木を助けに来たんだ。茨木大尉の……、もう一機の龍はどうなったんだ?」

 横たわっている。そばには戦車が。輸送機からも目につく。啓示軍は放置するつもりなのかもしれない。そうだとしても、危険は消えていない。ここは無差別の砲撃対象になっている。輸送機が飛び立ち、それを感知した三〇三師団が攻撃を中止する可能性に賭ける気は、もう凪沙にはない。

 位置関係を把握した乾は、少し時間をくれ、と言った。何か策があるらしい。乾を待つ間、凪沙は楠木にも状況を説明する。

「大尉が、あたしのせいで……」

 実にその通りだったが、責める言葉を凪沙は思いつかなかった。楠木に責任を痛感させたところで、事態が好転するわけではないのだから。

「――凪沙。ひとつ、確かめておきたんだけど」

 楠木はひときわ声を潜めた。

「何?」

「あんたにとって、茨木彪はどういう存在なの」

 血流の変化を自覚。しかし凪沙は努(つと)めて冷静を装った。

「護衛対象。そして、護衛の妨(さまた)げにならない限りは、命令を聞かなければならない相手」

「そんなことは聞いてない」

 外の監視を続けようとした凪沙の耳を掴んで、楠木は無理やりに顔を正対させる。即座に別の表現を考えたが、それで納得しないのは明らかだった。凪沙は諦める。話は早々に終わらせてしまうべきだった。そろそろ、殺した啓示軍将校を誰かが探しに来てもおかしくない。

「――特別な敬意を抱く対象だ」

「どんな?」

 楠木はさらに踏み込んでくる。どのみち、話は長くなるらしかった。

「わたしは、小さい頃に父を亡くした。十二までは祖母がわたしを育ててくれたが、そのあと家を出た。全寮制の学校に行った。そこでは寮母に世話になった。卒業して、軍に入った。特殊部隊の訓練には専属の女性教官がついた」

「いつも女」

「そう。――まわりに男がいなかったわけじゃない。けれど、わたしが頼れる相手は常に女だった。その反動なんだと思う。あのひとは、頼れる男だ」

「同感ね。あたしはそこが好き」

 よくも臆面(おくめん)もなくそういう言葉を口にできるものだ、と凪沙は呆れる。

「けど」楠木は続ける。「あのひとはあたしを見てはくれない。あのひとは周りのすべての人間と真摯(しんし)に向き合おうとする。誰も特別扱いはしない。そんなのは、あたしのお兄ちゃんじゃないんだよね……」

 楠木は目を伏せた。凪沙は迷ったが、結局、訊(たず)ねた。

「兄がいたのか」

 首を横に振って楠木は笑った。見ても嬉しくならない笑顔。

「血縁じゃないんだ。隣のお兄ちゃん。もう他の女と結婚しちゃった。あたしは、その影を追ってるんだろうって、自分でもわかる。バカなことをしているなって思う。泣けてくるじゃない? 尾西はこんな女をさ……」

 なんと声をかけるべきか凪沙にはわからなかった。

 戦死した尾西隆範(たかのり)が楠木に想いを寄せていたことは、彼の日記を通じて知っている。日記を持っていたところを捕まったあの夜、茨木に事情を説明したときに、日記をざっと検(あらた)めた茨木に問われたのだ。盗んで読むべき内容がここに書かれているのか、と。凪沙は否定した。日記に書かれている内容など知らなかった。尾西の日記だということすら知らなかったのだ。盗み出したのは、別の目的があったからだ。

「凪沙。あんたには謝らなくちゃいけない」

 凪沙が言葉を探しあぐねているうちに、楠木が再び語り始める。

「あたしの荷物から尾西の日記を盗んだの、あんたじゃなかったんだね。今日、出発前にキョンから聞いた。あんたが無抵抗だった理由もわかったよ。乱暴をして、ごめん。あんたはキョンのことを思って何の言い訳もせずに出て行った。それも、ごめん」

 意外な話に、ようやく見つけたと思った言葉がどこかへ逃げてしまった。

「気にしていない。どちらも」

 ひとまずそれで場を凌(しの)ぐ。しかし嘘ではない。茨木には事情を説明した。それ以上の理解は求めていなかった。――あのときはまだ、その自覚はなかったが。

「なんで気づかなかったんだろう、あたしは。キョンがあの日記を盗んだこと。考えてみれば当たり前のことなのに」

「慶珠にはそういう手癖(てくせ)があったのか」

「バカ言うんじゃないよ。キョンはマジメな子だ。一途(いちず)なんだ。――だからさ、尾西の日記に、自分のことがどう書いてあるか確かめたくなったんだと思う。こればっかりはキョンも言わなかったけど。わかる」

 自分の想像を確信している楠木の思考回路は、凪沙には馴染(なじ)みのないものだった。そういう考え方ができるのか、と素直に一種の感動を覚える。凪沙が当初抱いていた尹慶珠のイメージはだいぶ異なるものだった。

「わたしは、尹慶珠が敵対派閥の工作員である可能性を憂慮していた。だから、彼女が冴子の荷物から何かを盗み出したとき、それを更に盗んで彼女の目的を探ろうとした」

「キョンが工作員? 噂の、裏のRATみたいな?」

 小さく吹き出した楠木は、まだ凪沙の正体を知らない。教える必要は、ないだろう。そのほうが良い。知れば無用の危険が付きまとう。楠木には、機兵や戦車、地雷との戦いだけでじゅうぶんだ。

「ヘンなこと考えるんだね、凪沙は」楠木は呆れ顔で笑う。「あの子が機兵を操縦できるのは、教習で成績が良かったからだけじゃない。ちゃんと訓練を積んだからなんだよ。こっそり教えていたのは尾西だ。キョンは一言一句聞き漏らさない勢いで覚えていたっけ……」

 楠木の目じりににわかに涙がたまる。

 三人の関係は、凪沙が小説やドラマを通じてしか知らない類のものだったらしい。自分があの夜に踏み込んでしまった領域が、とても神聖なものだったように思えてきて、凪沙は自然にこう言っていた。

「ごめん」

 楠木が面食らう。

「あんたが謝るのなんて初めてじゃない?」

 そうだっただろうか、と凪沙が回顧しようとしたとき、インターフォンから声がした。急いで応答する。

「小嶺。楠木も聞いてくれ。――いいか? よし。援護の準備が整った。俺が戦車と輸送機のほうに発煙弾を飛ばす。サブカメラが直ったから、ちゃんと見えてる。大丈夫だ。発煙弾は時限信管で作動。奴らの手前に煙幕を展張する。風がないから一分くらいもつはずだ。残弾が四発。二発ずつを二回で、二分は稼げる。それで大尉を助け出して逃げられそうか?」

 即座に脳内でシミュレート。いちばん良さそうな手は、シャッターの吹き飛んだ倉庫に逃げ込むことだ。例の装置も搬出された今、もうあそこには誰も残っていないだろうし、中に入れば数基のエレベータがある。地下まで逃げれば、啓示軍には勝手のわからない迷路だ。一方、凪沙と茨木はもう慣れている。どうにかなるだろう。

「戦車に狙い撃ちされる。大丈夫なの?」

 凪沙が各動作の所要時間を計算しているうちに、楠木が乾に問い返した。

「むざむざ的にはならないさ。メインロケットで、それこそロケットみたいに飛び回るようプログラムを組んだからな。手足が片方ないから重量的にはぎりぎりクリアだ。もっとも、だいぶじゃじゃ馬っぽいんだが。まあ、発煙弾はちゃんと撃ちこんでやるから安心しろよ」

 乾は事も無げに説明したが、楠木は目を丸くして反駁しようとする。そんなのは無理だ、とでも言おうとしたのだろう。凪沙はその口を事前に塞いだ。

「やれます。乾中尉、援護をお願いします」



- 14 -


 乾は片腕だけで龍(ロン)に身を起こさせると、即座に上体を左右角修正。軌道確保。最初の二発を胸部両側面のマルチランチャーから射出。龍の足元では、三脚型の陰から楠木らが飛び出す。輸送機と戦車の手前で煙幕展張成功。

「さて、回避運動」

 背部のスレイプニルロケットエンジンの爆発的推力を呼び起こす。が、それはバロッグの中では危険だった。もちろん、機体をバロッグの影響から守るためのバルムンクフィールドを同時に展開。今までは死んだふりをするために機能を停止させていた。展開正常。変則領域同士の干渉を検知するRBRセンサーも使用可能になる。

 乾は異変に気づいた。パターンがおかしい。干渉が無さ過ぎる。しかし、見慣れないものではない。むしろ、よく記憶している。涌(わ)き出る冷や汗。

「バロッグが消えている!?」

 大地は本来の姿に戻っていた。レーダーも機能。

 龍が片足で着地。再び跳躍。過度の重心偏移は何とかOS調整で対応している。戦車からの攻撃は無い。見れば、車体の周辺に兵士たちの姿が見えた。ちょうど降りようとしていたらしい。

 ――焦って仕掛けることもなかったか?

 しかし、ふたりはもう茨木機のそばまで走りきっている。コクピットとインターフォンにそれぞれ取り付いた。ほどなく、ハッチが開く。茨木は無事のようだった。そこまで見てから、乾は薄れてきた煙幕を再展張。輸送機の様子は見えない。

 攻撃が無いのなら、無闇に飛び跳ねることもない。乾は建物の陰に隠れ、落とされた龍の右腕を探した。火縄を回収できれば、だいぶ不利が解消できる。

 と、そこへ着信音。遠距離からの無線。紫龍隊のコードだった。回線を開く。

「こちら乾」

「繋がったか!」

 興奮気味のその声は、一瞬誰のものかと思ったが、すぐに姜宗義(カン・ジョンイ)と気づく。

「バロッグが消えてしまった。最悪のタイミングだ。作戦は中止する。GT38からすぐに離れろ。全員に通達」

「できません、もう少しなんです」

「その少しが命取りだ。そこは空爆の対象となっている。それらしき機影をレーダーで感知した」

「――マジか」

 最後は独白だった。

 茨木を加えた三人の人影は、どこかの建物に逃げ込むようだった。煙幕は薄れてきている。

 その奥には、滑走を始めた輸送機の後姿。慌(あわただ)しい出発だった。

 それと同じ方向から、強力な相対バルムンク反応を感知。同時に耳障(ざわ)りな高周波の音波をマイクが拾う。忘れえぬ音だった。変則領域制御による浮揚・飛行システム、マスディレクタ。啓示軍(オフェンバーレナ)の空襲阻止のための作戦で、乾はそれに煮え湯を飲まされたのだ。

 合点(がてん)がいった。あの装置を積んでいるなら、こんな荒地に輸送機が降りられた理由も明快になる。マスディレクタ搭載機は、離陸もまた従来の航空機より遥かに機敏にこなす。緊急離陸で空爆の難から逃れようというのだ。決してそれは、無駄なあがきではない。乾はそれを知っている。

 右の手足を欠いた龍。背後から迫る攻撃機。正面には逃げいく輸送機。残された戦友。

「すげー簡単な問題だな」

 乾の龍は物陰から出た。空爆はおそらくクラスター爆弾か、小型の燃料気化爆弾。そんな凶器から茨木たちが身を守るには、建物だけでは足りない。龍の機体を盾にする。それしかないと思った。

「空爆が来る! すぐに隠れろ!」

 外部スピーカで出力しながら、三人の走った方向へ飛ぶ。過剰燃焼の警告表示。無視。むしろ、推力と連動したペダルを最大に踏み込んだ。最大推力発生までタイムラグ。

 突如、戦車からの砲撃。

 ――畜生(ちくしょう)、まだ誰か残っていたのか。

 被弾した。機体と視野が大きく回転する。三人の姿は見つけられなかった。推力が最大に到達。跳躍飛行シークエンスの中断を試行。無効。

 方向を完全に反転させられた乾の龍は、全速力でGT38から遠ざかる。


*   *   *   *   *


 乾の警告を、楠木は銃声と同時に聞いていた。

 前を走っていた茨木が倒れる。エレベータは目の前だった。凪沙が銃を構える。

「ダメだ」楠木は叫んだ。「早くエレベータに!」

 凪沙に先を急がせ、代わって応射。ひとりの兵士が倒れたが、まだもう一人が残っていた。

 外からは鉄の擦(こす)れるような騒音が伝わってくる。加えて、腹にまで響く砲撃の音がひとつ。何が起きているのかわからない。

 啓示軍の兵士がろくに狙いもつけずに小銃を撃ち放つ。何か喚いている。凪沙の殺した士官のことが脳裏に浮かんだ。――太腿(ふともも)に灼熱。

 楠木はたまらず尻餅(しりもち)をついた。

「冴子!」

 凪沙の声と、銃声。兵士が小銃を取り落として倒れる。ふりかえれば、凪沙はエレベータの扉の前におり、その奥の籠に、腹を押さえた茨木が力尽きて倒れこむところだった。

 楠木は立ち上がろうとしたが、思わず呻(うめ)き声が漏れ、その場に崩れた。這うようにしてエレベータへ向かう。

 死んでたまるか、と楠木は歯を食いしばる。尾西が身を挺(てい)して守ってくれた命なのだ。生き延びて、勝ち抜いて、この戦争を終わらせて、平和になった世界で好きな人と結婚して、子供を産んで……。

「冴子、立てるか!?」

 駆けつけた凪沙に楠木は助け起こされた。その小さな肩に頼って、エレベータへ。

 急ぐ。しかし歩みは遅い。焦りと痛みが楠木を苛(さいな)む。

 ――空爆まであとどれだけの時間が残されているだろう。

 首を回して、倉庫の外に広がる空を見ようとした。そして見た。腹から大量の血を垂らし、渾身(こんしん)の力でなんとか立ち上がった兵士の姿を。

 凪沙を突き飛ばした。離れる体温。不意に喪失感を覚える。

 銃声。胸を槍で突かれたような鋭い衝撃。

 楠木は冷たい床に倒れ伏した。


*   *   *   *   *


「駄目だ、逆だ、このっ」

 あらゆるインターフェースを力任せに操作したが、姿勢制御はうまくいかない。乾の龍は、すでに人型の体(てい)をなしてはいなかった。ロケットの燃焼停止すら、命令が伝わらない。

 強く検出されていた相対バルムンク反応が、レベルDに低下。それだけGT38から離れてしまった。

 機体が大きく振動。異常燃焼を続けた背部ロケットが爆発したらしかった。加速感がなくなる。――落ちている。乾は歯を食いしばった。衝撃。

 地面を何度も跳(は)ねながら転げ、五体の名残(なごり)もすべて削り落とされて、ようやく龍の胴体は停止した。

 胴体部分に据(す)えられたカメラはまだ生きていた。モニタが乾に見せてくれるのは、空と、流れ行く雲ばかり。

 出し抜けに、その雲の手前を一瞬で横切っていく円筒状の物体。

 精密誘導爆弾だろう、と乾は察した。しかし、そうとわかっただけで、それを受け止めることも、撃ち落とすことも乾にはできない。あれはもうバロッグの妨害を受けることなく、その本来の機能を発揮して、無慈悲にGT38へと吸い込まれていくのだ。

 乾は絶叫した。


*   *   *   *   *


 外で鳴り響いていた高音が、急速に遠ざかっていく。

 ――いや、耳が聞こえなくなったのか?

 手もつかずに倒れたというのに、楠木はその痛みを感じていなかった。五感が麻痺(まひ)しはじめている。乱射される銃の音とは別に、近くで単発の銃声がしたと感じるが、それも幻聴かもしれなかった。

「凪沙」

 声を振り絞って叫ぼうとしたが、かすれた声しか出ない。凪沙は……どこだ? 見えない。何も。

 ならば、伝えておかねばならない。

「大尉のこと、任せたからね」

 凪沙にそれが聞こえたかどうか、定かではなかった。

 喉に血が溢(あふ)れる。しかし、窒息の心配は無用だと、もうわかっていた。

 ――楠木!

 いちばん聞きたい声を、最期に聞けた。


 爆風がすべてを呑みこんだ。



- 15 -


 砲兵部隊を潰して舞い戻ったフェルバルディが目にしたのは、廃墟と化したGT38の姿と、無残なマウロの亡骸(なきがら)だった。

 燃料気化爆弾だとすぐにわかった。被害が爆風によるものばかりだったからだ。もっとも、マウロはそれ以前に鋭利な刃物で殺害されていたようだったが。

 T2は事前に離陸し、難を逃れたようだった。連絡が取れるか、と傍らの青年――ヴァルターに尋ねる。答えは否だった。

「T2(テーツヴァイ)は隠密飛行中のはずだ。連絡を取ることはできないが、代わりに、撃墜されてもいないだろう」

 収容が間に合わず地上で死ぬ羽目(はめ)になったのは、啓示軍(オフェンバーレナ)の将兵だけのようだった。戦車の中に残っていた兵士は、フェルバルディが見つけたときにはまだ息があったが、苦しまぬようとどめをさしてやる他に、何もできはしなかった。

「亜細亜連邦軍が来る。地下を確かめて、すぐにここを離れなければ」

 そうだった。あの頑強な地下構造で息を潜めている者がいるかもしれない。友軍にせよ、ここの住人にせよ、味方に無差別爆撃を受けたかもしれないイバラキの部下にせよ、残っている者があれば連れて行こう。フェルバルディは首から愛用のマフラーをとると、それをマウロにかけてやり、あとはふりかえらずに倉庫へ向かった。

 倉庫内のエレベータは、無事に残っていた。表示によれば、二基ともに、籠は階下にある。誰かが降りたに違いない。希望を託して扉が開くのを待つ。

 籠は地階へとふたりを運ぶ。まるで地獄に送られているような気がして、フェルバルディは暗鬱(あんうつ)な気分になる。

 点滅で昇降中を示していた現在位置表示灯が、代わって地階を指す記号を浮かび上がらせる。フェルバルディは扉に向かって一歩を踏み出し、そして異状に気づいた。籠は減速していない。表示は地階を示し続けている。

「故障か」

「どうも違うようだ」

 ヴァルターも驚いていたが、何かを悟っているようだった。エレベータはふたりを更に地下深くへと運ぶ。核シェルターではないのかとフェルバルディが疑い始めるに至って、ようやく下降が止まった。外に出る。

 薄暗い部屋の中央に、女がひとり、背中を向けて立っていた。

「ラリサ、どうして残った」

 ヴァルターに呼ばれ、女はふりかえった。手には、読みかけらしい小さな冊子。手帳にしては分厚い。

「来てしまったのね」

 ラリサはページを閉じた。何かを諦めたような目。

 部屋の様子は、理科室か、博物館の展示室に似ていた。机にはノートや試験管、フラスコが並び、戸棚やガラスケースには、重そうな書籍や動物の剥製(はくせい)、鉱物の標本などが並んでいる。

「――ここは秘密の部屋。私と、夫だけの」

 その夫というが過去の人間であるのは明らかだった。部屋の空気と床の埃とがそれを物語っている。

「思い出とともに死ぬつもりか? 君にはまだ、やることがあるだろう」

 ヴァルターが厳しい口調で問いかける。

 ラリサはゆっくりとかぶりを振った。

「私は彼の仕事を引き継いだだけ。この場所に残った記憶とともに。夫を闇に葬ったRATが、もうすぐここへ来る。夫が命を賭(と)して守ったものを、奪うために。その前に、すべての資料を破棄するつもり。彼との約束だから。それですべておしまい。もうあなたたちに協力することもないわ」

 述懐(じゅっかい)するラリサの傍らを通り過ぎ、ヴァルターは机に乗っているノートのひとつを取り上げていた。ページを捲(めく)って、記載内容を確かめている。

「俺たちに接触してきたのは、彼のほうからだった。それが、こんな資料を隠し持っていたとはな。スパイだったのか」

「それは違う」ラリサは強く否定した。「たしかに彼はRATの特務員だった。とびきり優秀な。だけど……、だからこそ彼は、知ってしまった秘密を守る役目を自らに課した。そして託すべき相手を探した。慎重にね。あなたたちは、このGT38の秘密を継ぐ者として最も有望な候補だった。見極めのために協力を始めた。でも、最終決定の前に彼は……」

 フェルバルディは朧気(おぼろげ)ながら事の次第を掴めてきた。しかし、GT38の秘密というのがわからない。イバラキの言っていた人体実験の話をラリサは否定した。あれは真実を隠すための言動だったのか。それとも、また別の何かが隠されているのか。フェルバルディが知りたいのは、ヴァルターの属する組織とラリサたち元SMITS研究員との関係ではなく、この場所の秘密のほうだった。

「伴侶(はんりょ)である君が判断してくれ。俺たちがその情報を受け取るのに相応しいかどうか。俺たちにはそれが必要だ」

「できないわ。これは私とあのひとだけのもの。ふたりが、ふたりだけが共有してきた財産。誰にも渡したくない。――あの装置が、この気持ちを教えてくれた。私の本心を」

「やはり、そうなのか」

 フェルバルディは思わず大声を上げていた。

「あの装置は、そういう働きを持っていたんだな。なら、こういうことになる。ここ数日の間、俺が感じていた迷いこそが、俺の本当の心を写したものだった……。ヴァルター。俺は決めたぞ。俺はおまえたちとともに行く。行って、正す。イタリアを、世界を、ありのままの姿に戻すのだ」

 もうマウロのような若者を戦場に出す必要はないのだと、フェルバルディは理解した。マウロの血は世界平和のために必要な犠牲などではない。マウロだけではない。すべて兵士たちは偽(いつわ)りの正義のために戦っている。もう世界は軍隊同士で争うべきではない。しかし闘うべきなのだ。心を操ろうとする者たちに対して。

「単純な人」

 ラリサがそっと呟(つぶや)いた。

「装置はフェアバンテの手に渡った。あなたは今、彼らに都合のいい結論を下すよう、思考に干渉を受けているのよ」

「それは間違いだ」ヴァルターが冷静に言う。「あの装置が影響を及ぼせる範囲はごく狭(せま)いものだ。しかも、バロッグが消失した今、その影響力自体もかなり弱まっているだろう」

 歩み寄るヴァルターから、ラリサは距離を取った。

「いいえ、私は惑(まど)わされない。夫との記憶が私を支えてくれている。人類にとっての害悪は、ここで抹消するほうがいいのよ」

 ラリサが白衣のポケットに手を入れた。嫌な予感がフェルバルディの背筋を走り抜ける。取り押さえようとヴァルターが動く。フェルバルディも床を蹴(け)った。

 部屋が輝きに包まれる。

 フェルバルディは脱力した。ヴァルターの肩を掴んで床に伏せさせたが、警戒したようなことは起きなかった。――スイッチが引き起こしたのは爆発ではなかった。

「何、これ……」

 ラリサは茫然(ぼうぜん)自失の有様だった。彼女も起爆のスイッチだと思って押したらしい。しかし、壊れたのは机から落ちた試験管くらいのものだった。

「どういうことだ」

 フェルバルディが言おうとした台詞(せりふ)はヴァルターに先取りされた。

「――こんなところに分散体があったとは」

 では、これが“秘密”の本当の姿なのか。

 フェルバルディは改めて部屋を見渡した。来たときの薄暗さなど嘘のように、部屋全体が神々(こうごう)しいまでにきらやかな光に包まれている。床が、発光しているのだ。まったく仕掛けがわからない。

「何なんだ、これは」

 フェルバルディは問い直す。

「とんでもない変則領域の発生装置だ。これはそのパーツに過ぎないが……」ヴァルターの顔が苦渋(くじゅう)に歪(ゆが)む。「道理で、ただの一端末があそこまでの影響力を示したわけだ。主体として機能していたのはこっちだったというわけか。――しかし、なんてことだ。ようやく見つけたというのに、これでは大きすぎる。牙黒鷲では運べない」

 これ、とは床全体、もしくは更に大きな何かを指しているらしかった。その床からの光は全く衰(おとろ)えを見せず、フェルバルディはたまらず手をかざして光を遮る。

「思考への干渉作用が、まだ生きているのか」

 フェルバルディは自分の決心の正体に不安を覚える。

「いいや、そうじゃないさ。こいつは今、暖炉の谷の分散体とはリンクしていない。見に来た俺にとっちゃ、残念なことだがな」

 ヴァルターとは全く違う声がした。もっと年嵩(としかさ)の男の声。部屋の奥に誰かいる。

「来ていたのか」

「バトゥ、やはりいたんだな」

 フェルバルディとヴァルターが同時に声をかけた。互いに驚いて顔を見合わせる。

 奥で男が笑った。

「俺も顔が広くなったもんだ。元気だったか、ヴァルター。そっちの軍人さんは、お洒落(しゃれ)なマフラーはなくしちまったようだな。それなら俺がもらっとくんだった」

 フェルバルディからは部屋の奥にいるバトゥの姿は眩しくて確かめられないのだが、向こうからはしっかりと見えているようだった。そういえば、怪しげなゴーグルをつけていた、とフェルバルディは思い出す。食糧庫で偶然に出会った不審人物は、乾パンのお代だと称して、フェルバルディにGT38の地下構造の話を教えた張本人だ。

「何者なんだ、おまえは」

「そういう面倒な質問は、無精髭の兄ちゃんにでも答えてもらうんだな。今はそんな悠長な問答をしている場合じゃないぞ、と忠告しとこう。そろそろ上がりな。元老院派が包囲を始めたようだ」

 フェルバルディは続けて投げかけようと思っていた疑問を飲み込んだ。隣ですっとヴァルターが動き、座り込んでいたラリサを抱き上げる。

「戻るぞ、フェルバルディ大尉」

「放置していいのか、これは。探していたものなんだろう」

 言外に、バトゥの情報に信憑性があるのかと尋ねてみたのだが、ヴァルターの行動からは疑いの念が感じられない。

「彼に処置を任せる。――よろしくお願いします、バトゥ」

 エレベータに戻ろうとしていたヴァルターが部屋の奥を一瞥(いちべつ)。

「そこの美人さんの希望通りというのは、ちっと難しいが……。まあ、害にはならんように処理するさ。それで納得してもらってくれ」

 すべてを知り尽くしているような言動。

 ――現代に預言者がいるとすれば、それは彼なのではないか。

 フェルバルディはもう一度その顔を脳裏に焼き付けておきたいと願ったが、滾々(こんこん)と湧き上がる光のヴェールが邪魔をして、彼の怪しげなゴーグルの輪郭を辛(かろ)うじて見て取れただけだった。



- 16 -


 バトゥは部屋の中をゆっくりと歩いて回った。

 初めて来るのに、懐かしい。

 ラリサの夫とは、生前、何度も話をした。よく知っている。手書きのノートの筆致(ひっち)、メモに使われる単語の選び方、書棚の配置、飾り用のサンプルの趣味、それらのすべてが、彼の人柄を思い起こさせる。秘法との訣別の覚悟を決めた者にのみ、その継承の権利を与える仕組みを残したのも、彼らしい皮肉な趣向だ。

 バトゥは彼の名を知らない。本当の名については。ラリサが呼んでいた名がそうであるとも考えられるが、彼の性格を考えると、どうもそれも偽名のひとつであるようだった。彼にとって最も確かな名前は、アルファベットと数字の羅列(られつ)で構成された、RATのコードネームだった。

 思えば、バトゥが長年固持してきたポリシーを変えたのは、彼の死がきっかけであったかもしれない。浮世と関わらぬことをやめ、人間という生物の在り方を探すようになった。ときには導き、ときには謎をかけ、そしてときには審判を下す。

 探しはじめた答えは、まだ出ていない。

 この起動した分散体を誰がどのように利用するのか。それを見てみたい気持ちもある。しかし、その誘惑には断固として屈しないことにした。亡き友への手向け、という概念が検索にヒットする。

 バトゥはいくつもあるポケットのひとつから、卵ほどの大きさの茶色いカプセルを取り出した。この地上にいくつもない貴重な物だった。

 そっと地面に置く。底の丸いカプセルが転がっていかないように、反対の先端を指で軽く押さえる。

 床全体に及んでいた発光領域が、カプセルを中心として収束を始めた。まるでカプセルに流れ込んでいくかのように。やがて光はすべて消え去る。あとには元と変わらぬ様子の茶色いカプセルが残された。

 どくん。

 バトゥは小さな鼓動を指先に感じる。

 処理は終わった。もうこの床は“分散体”ではない。これらを“オルロフ”と呼び、元老院の指図で探し回っている者たちも、遠からず肩を落とすことだろう。もっとも、それは一時的なことで、いずれは別の分散体を探し始めるのだろうが。

 飽くなき探求。それはバトゥに非難できることではない。

 生への執着。これもまたバトゥの否定するところではない。

 だからこそ、バトゥはここに来た。

 エレベータに乗り込む。地上までは行かず、実験室で籠を止める。

「必要なものは揃えた」

 そこで待っていた相手に、カプセルを掲げてみせる。小さな銀色の欠片(かけら)が弧を描いて飛んできた。受け止めると、それは封をされた錠剤だった。

「それで血中の毒は中和できる」

 女の声。

「痛み止めはないのか」

 バトゥは一応不満を表明してみた。ナイフでやられた傷口が、まだ焼けるような感覚を残している。

「あれば使っている。おまえにはやらない」

 小嶺凪沙が冷たく言い放つ。

 彼女の膝に頭を乗せて、ひとりの男が横たわっている。結構なご身分と揶揄(やゆ)したいところだったが、その男はすでに呼吸をしていなかった。限りなく死に近い状態。血溜(ちだまり)が凪沙を中心に広がっている。失血死という判定がつくだろう。さっきまではまだ辛うじて息があったのだが。

 死なせるには惜しい、というのは正直な感想だった。しかし、惜しめば死者が甦(よみがえ)るというシステムにお目にかかったことはない。それは死に行くさだめなのだ。干渉はできない。――それが建前。

「完全に中和するには、もう一錠必要だ。後遺症に苦しみたくなければ、早くしろ」

 凪沙の声は震えていた。目からは涙が溢れている。まともな思考状態にあるとは思えなかった。

「もう呼吸が止まっている。死人を生き返らせろ、というのか?」

「できないはずはない。おまえは妙な力を持っているじゃないか。そのゴーグルだってそうだ。それを携帯していた間だけ、わたしはここの特殊な変則領域の影響から逃れられていた。もうわかっているんだ」

 バトゥは頭でも掻(か)きたいところだった。うっかり落とした愛用眼鏡(めがね)の機能を、部分的とはいえ解明されてしまった。知れるといろいろまずい代物だ。なんとか見つけ出せて安心していたのだが……。

「さあ、やれ。死にたくなければ。できないのなら、おまえも死ぬんだ」

 もはや道理の通じる精神状態ではないようだった。下手に言い聞かせて、毒を塗ったままのナイフを投げつけられたら、今度こそひとたまりもない。

「ええい、やろうじゃないか。俺もまだ死にたくはない」

 実のところ、茨木はまだ生きている。今すぐどこかの集中治療室に瞬間移動させれば助かるのだが、それはもちろんできない。バトゥは魔法使いではない。が、魔法によく似た科学技術の結晶を持っている。

「だが、ひとつ確認だ。いいかい、お嬢さん」


*   *   *   *   *


 ゴーグル越しのバトゥの視線を、凪沙は涙を拭って受け止めた。

「これで助けられるのはひとりだけだ」

 瞬間、言葉に詰まった。浮かんだのは楠木冴子の顔。

 激しい羞恥(しゅうち)。地下通路を歩いているとき、凪沙は一瞬だが、思ったのだ。揺れていた茨木が応龍隊と組み、凪沙に抹殺命令が下るような事態を避けるためには、誰かがまた戦死してくれるのがいいのではないかと。そうすれば茨木の啓示軍(オフェンバーレナ)に対する恨みは募(つの)り、体制に反逆する意志は育つまい、と。

 それなのに、楠木は死を悟った瞬間にこう言ったのだ。茨木を任せると。この身勝手な女に。邪魔者であったろう女に。

 死ぬべきは自分であるように思われた。命を移してやれるなら、バトゥに茨木を助けさせ、自分の命で楠木を甦らせるのが正解であるに違いない。

 そんな選択肢は実在しない。所詮実行できないからこそ思いつけるのだ。甘い。ずるい。この期(ご)に及んで自己を正当化しようと躍起(やっき)になっている。当たり前だった。誰も肯定などしてくれない。自分以外の誰も。

 すでに罪人なのだ、と凪沙は悟った。

 ならば、裏切るのは道徳と倫理だけにしておこうと決めた。

「――やってくれ。茨木彪を。助けてくれ」

 友の願いだけは、裏切れない。

「承知した」

 バトゥはつかつかと歩み寄ると、冷たくなった茨木の身体をひょいと持ち上げ、肩に担(かつ)ぐ。

「茨木の体は預かる。大仕事だからな、すぐというわけにはいかない。そうだな……、二週間後、日本で会おう。西海道(さいかいどう)大学の近くに、『あくたや』という骨董(こっとう)屋がある。主人には話を通しておくが、彼についての詮索はしないことだ。俺ほど寛大でも気まぐれでもないヤツが、世の中には大勢いるからな」

 琥珀色のレンズ越しに、凪沙を見下ろす双眸が見えた。まるで獅子のような眼光に凪沙は射竦(いすく)められる。身動きできない。息が詰まる。思考が止まる……。

 気がついたとき、そこにはもう誰もいなかった。



- 17 -


 二週間は長かった。

 広大な戦場を覆っていたバロッグは消滅し、通常戦力を活用可能になった亜細亜連邦軍は各地で啓示軍(オフェンバーレナ)を撃退。GT38はRATが制圧し、地下の調査が始まった。逃げた応龍隊の足取りは掴めていないようだ。

 バトゥが騒乱を仄(ほの)めかしていた暖炉の谷では、元老院派と啓示軍の間で激しい戦闘があったらしかった。勝利した元老院派が谷を封鎖したため、啓示軍の脅威が去ったことと、有名な変則領域の炎が消え去ったこと以外、発端も経緯も結果も謎に包まれている。凪沙はRATの組織を通じ、数日かけて詳細を探ったが、機密のランクがかなり高く設定されており、凪沙の権限ではアクセスできなかった。

 しかし、調査の途上で予期せぬ収穫があった。ダーダネルス作戦開始直後から行方(ゆくえ)不明とされていた黒龍隊が、バロッグの中で転戦し、暖炉の谷の攻防にも関与していたとわかったのだ。今は北熊(セヴェルメドヴェーチ)に匿(かくま)われているらしい。応龍隊の男もそれらしきことを言っていたが、凪沙が集めたのは信頼できる筋からの情報だった。

 啓示軍は撃退され、応龍隊は姿を消し、黒龍隊もおそらく無事。金星也が紫龍隊に託した仕事はすべて無用のものとなった。失ったのは役割ばかりではない。全戦力と隊長までも失った紫龍隊は、南京に呼び戻された。楠木は遺品だけの帰還。

 傷を治した姜(カン)は、隊長の座を引き継ぐためなのか、南京市内のあちこちを飛び回っている。元老院派への根回しは大変だろうが、おそらく上手(うま)くやるのだろうと凪沙は予想している。戦場にいた頃は気づかなかったが、姜の行動理念はRATの有力者のそれとよく似ているのだ。

 一方、数日で退院したものの療養を厳命されてしまった乾は、尹からの便りを受け取って日本のつくばへ向かった。尹は機兵の操縦訓練を本格的に受けるためそこに移っていたのだが、彼女の使う施設のすぐ近くに、かつて楠木の隣家に住んでいた軍人がいるとわかったのだ。楠木の遺品の一部を、ふたりは渡すつもりなのだろう。凪沙は空港まで乾に同行したが、ターミナルで別れた。一緒には行けない。楠木の友人を名乗る資格はまだないと思った。

 GT38を離れてから十三日。凪沙の行くべき場所は別にあった。

 九州北部、海に近い長閑(のどか)な郊外に、大学がある。西海道大学。バトゥの口から出た大学の名だった。

 西海道大学は、変則領域研究の分野で世界的リーダーシップを担っていることで知られる。バトゥが再会の場としてこの地を指定したのは、曰(いわ)くありげに思えた。

 一月三十一日。あの日からちょうど二週間目にあたる早朝から、目的の骨董屋を探した。

 簡単には見つからなかった。電話帳には載っておらず、人に聞いても有益な答えは返ってこない。紛らわしい地名があったおかげで遠回りもした。住宅地を離れ、人気の少ない道をバイクで走り回り、日も傾きかけた頃にようやくその小さな看板を見つけ出した。

 「あくたや」。

 「芥屋」と書くのかと思えば、平仮名(ひらがな)だった。海水浴場を案内する看板には「芥屋」と書いて「KEYA」とローマ字が添えてあったが。

 バイクを停めていると、店主らしき男が表に出てきて、凪沙を見るなり手招きをした。五十歳くらいのその男は、店内に足を踏み入れた凪沙に、無言で奥の階段を指し示した。

 古今東西のがらくたの合間をすり抜け、靴を三和土(たたき)で脱いで、狭い廊下を少し歩き、階段を上がる。

 バトゥ・ウォンは古びたテーブルの席について茶をすすっていた。その膝の上には年老いた三毛猫。凪沙は自分も茶を淹れようとは思えず、黙々と茶菓子をつまみ続けるバトゥに問いかける。

「首尾は」

「悪くない」

「どこだ」

「すぐに会わせる」

「では、すぐだ」

 そうはいかない、とバトゥがにやける姿を凪沙は想像したが、しかし、バトゥは茶菓子をかじり続けている。膝の上の猫と同じで、全く面白くなさそうに。

「無口だな」

「腹を立てているのさ。過去の自分に」バトゥは湯のみ残っていた茶を飲み干して、急須に手を伸ばす。「お嬢さんは、そういうことはないか。なぜあのときああしてしまったのだろうか、と悔やむことが」

「よくわかる。わたしも、わからないんだ。あのときの自分の判断が、正しいものだったかどうか。世の中、敵と味方さえ嗅ぎ分けられれば問題は片付くとわたしは思っていた。しかしそれは間違いだった。白か黒か。まず自分の心がどちらなのかすら、わたしは、わかってはいなかった」

「しかし、わからないなりに選んだ結果でも、責任は取らなければならない」

「ああ、過去は向き合うためにある。記憶は封印するものではなかった。あの日のことを、わたしは何度も思い起こしてきた」

 凪沙は俯(うつむ)いた。楠木の死を看過し、一方で茨木の復活を願った二週間前の自分は、やはり間違っていたのかもしれない。禁忌(タブー)に触れ、一線を踏み越えてしまった罪悪感……いや、恐怖が夜ごと凪沙を苛んでいる。

「――バトゥ、わたしは正しかったのだろうか」

「それを決めるのはお嬢さん自身だろうよ」

 その通りだった。肯定してくれる他者などいない。決めるのは自分でなければならない。

「結果と向き合いたい」

「いいだろう。隣の和室だ」

 凪沙は左手の襖(ふすま)に手をかけた。が、引く前にその手を止める。バトゥをふりかえって、口を開く。

「バトゥ。あのときの毒だが……」

「ブラフ(はったり)だろう? 知っている」

 見破られていた。凪沙はその技術を持っているが、あのときは毒も、それを使うだけの冷静さも持ち合わせていなかった。嘘に交えて咄嗟に投げたのは、ラリサから借りた服のポケットに残っていた生理痛の薬だった。

「副作用もない。今のところは」

「飲んだのか?」

「何の話だ?」バトゥは首を傾げる。「茨木彪の体のことだ」

「――あるのか、副作用が」

 急に鼓動が早まる。死ぬべき定めの人間を生き長らえさせたのだ。茨木自身が被(こうむ)るリスクも覚悟しておくべきだったのかもしれない。

「いろいろ考えられる。が、奴(やっこ)さん覚醒して経過を見ないことには、どの症状が現れるか言い当てることはできない。ただ、ひとつだけ確かだな。それを発症したとき、茨木は今までいちばん認めたくなかったものを、自身の内側に抱えることになる。大いなる矛盾。全(まった)き分裂。この男はそれに耐えられるほど強くはないかもしれん」

 茨木に会ったその日の凪沙なら、データで作られた彼の虚像を見ていた頃の凪沙なら、茨木彪が弱いなどとは見立て違いも甚(はなは)だしいと嘲(あざけ)ったに違いない。しかし、今はバトゥの言わんとすることがわかる。

 それでも敢えて、凪沙は首を横に振る。

「そうはならない。わたしが、そうさせない」

「相互依存か」

 バトゥは空になった湯飲みを置いた。三毛猫を肩に乗せて、椅子から重い腰を上げる。

「均衡が取れている間はいい。しかし、かつてヒトは……。いや、言うまいよ」

 バトゥはぶつぶつと独り言を口にしながら、テーブルをぐるりと回り、凪沙と正対すると、懐からよれよれの茶封筒を取り出した。

「これを渡しておこう。茨木か、お嬢さん自身が、いずれこの世界の謎と向き合うときが来るだろう。そのとき、それが役に立つ。ただし、用もないのに中身を見ることはお勧めしない」

 受け取った茶封筒は、軽い。入っているのは便箋だろう。世界の秘密を解き明かす情報量があるようには思えない。

「これは鍵、か」

「察しがいいことだ。さすがは玉兎(ぎょくと)の……、ああ、いや、これは失言。忘れてくれ。――いやはや、最近は面白い人間によく会うものだ」

 凪沙の横をすり抜けて、自称旅人が階段を下りていく。下でバトゥが店主と何か言葉を交わすのが聞こえたが、もう興味はなかった。

 バトゥ・ウォンの名は、SMITSの特別顧問の名簿に載っていた。玉兎の名を知っていたことも聞き捨てならない。しかし、あの男の素性(すじょう)は、必要となったときにまた調べればいい。優先順位は厳格に規定する。それがRATの流儀だ。

 茶封筒も畳んで懐にしまいこむと、改めて凪沙は襖に手をかけた。目下の最大の目的を果たすために。

 日に焼けた藺草(いぐさ)の匂いがした。八畳間の中央に蒲団(ふとん)が敷かれ、そこに茨木が寝かされていた。窓から差し込む西日に照らされた顔は、血色がよくわからない。

 そっと枕元に座る。呼吸に合わせて掛け蒲団が微かに上下している。息がある。生きている。本当に。

 何も言えず、何もできず、しばらくの間ただその寝顔を見ていた。

 気づけば、夕陽が和室を紅く染めていた。いざなわれるように、凪沙は窓の外を見る。

 目を疑った。夕陽が丸くない。山際から天高く紅い光が伸びている。

「綺麗だろう。あれは太陽柱というんだ」

 声に驚いて目を戻すと、茨木の瞼(まぶた)が開かれていた。見とれているようであり、眩しそうでもあった。凪沙は上体を動かして、茨木の顔へ影を作った。瞳が近い。ほっとした顔が凪沙を見上げる。

 伝えるべきことが多すぎて、ひしめきあって、却って言葉が出てこない。

 ――言葉は理屈か。

 必要なのは言葉ではないのだと凪沙は感じた。あの太陽柱の美しさは、言葉では示すことができないのだから。

 正しい選択はひとつしかないように思われた。どうすればいいのかがわかった。しかし、うまく果たせなかった。涙ばかりが止め処(とめど)もなく零(こぼ)れ落ちて、笑顔にはならない。

 茨木の手が凪沙を優しく撫(な)でる。

「ありがとう」

 凪沙は嗚咽(おえつ)を堪(こら)えることができなかった。父が死んで以来、はじめて。

 誰かに縋(すが)って泣けるということが、これほどまでに幸せであるとは知らなかった。



――紫龍新生篇 完――