黒龍隊の挽歌 第二十六話

九天軍襲来



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 空には雲が、山には霧が立ち込めていた。

 木々には季節外れの実りがあった。それは本物の果実ではなく、数多(あまた)の切れ端である。幹や枝に突き刺さり、引っかかっているのは、炭素複合材や繊維製品、そして――肉。人肉。

 旅客機の墜落現場に駆けつけたRAT(ラット)警護員、門宮(かどみや)洗(すすぐ)は、ずいぶんと久しぶりに人肉の焼ける臭いをかいだ。仕事で人を撃ち殺すことはあっても焼き殺すことはなかなかないし、日本勤務では野外での荼毘(だび)に出くわすこともない。

 連れのうち何人かは堪(こら)えきれずに吐いている。主に二十代前半の若手だった。三十に差し掛かった門宮は、彼らとは一線を画す。免疫があるのだ。門宮が六歳のときには日本でもそこらじゅうで死体を焼いていた。第二次世界大戦からおよそ半世紀ぶりのおぞましい光景だったと、当時を知る数少ない高齢者は語る。まるで戦争。それはその通りだと門宮は思う。あの「八月の悪夢」で、日本人の五人にひとりが死んだ。隕石落下直後の死者はもっと限られるとしても、火葬場をパンクさせるには十分すぎる数だ。

 あの大災害を思い起こすと、ここの死体など人口統計の誤差程度にしか門宮には感じられない。中型旅客機の乗客乗員二百二十六名。名簿の記載どおりならば、それが死体数の上限値である。実際には生存者もわずかにいるようなのでその数は差し引かねばならないが、問題なのはむしろ、五体と臓腑がばらばらになって散らばっている死体のカウントだった。いちいち綺麗に復元している時間はない。門宮たちの仕事は死体の復元ではないし、人命救助でもない。数を気にしているのは探し物があるからだった。物ではなく者。ある人物の生死を確認すること、ただそれだけが、門宮たちが召集された理由だった。

「門宮、そっちは終わったか」

 同僚の築嶋(つきしま)が、年齢を感じさせない足取りで機首方向から歩いてくる。

「いいや、あと少しだ」

 門宮は叫び返す。通信機は使えなかった。立ち込めている霧はバロッグである。このバロッグが墜落の原因であるとマスメディアは報じ、事故調査委員会も当然そのように報告書を書くだろう。軍には念のため、啓示軍(オフェンバーレナ)やエデンのテロリストからミサイル攻撃を受けたわけではないことを保証してもらう必要があるだろうが、それは門宮の知ったことではない。もともと門宮や築嶋にとっては、こんな現場での仕事はイレギュラーなのだ。元老院議員とその財産を守るという、RATの存在意義を謳(うた)った文句そのままの仕事こそが、門宮たちの与えられた領分である。プロとして多少の変則的な仕事には対応して見せるが、これは少々、行き過ぎている。

「急げよ。こっちは合わせて百十名だ。そして該当者は無し」

「ということはあと五人分、行方不明か」

 気持ちの悪い汗が脇を流れていく。

 人体が飛散したであろうと目される捜索範囲はほぼ調べつくしたというのに、まだ五人分が見つかっていない。数え間違いや見落としもあるかもしれないが、門宮を焦らせるのはそのようなミスの可能性ではない。全乗客乗員の九八パーセントを当たってもまだ問題の人物が見つからないという、その事実こそが焦燥の源だった。

「バロッグが死体を隠しちゃったんじゃないだろうな」

 築嶋の冗談を、門宮は笑えなかった。

「よせやい、築嶋さん。変則領域たって、そこまでルールを無視されたんじゃたまったもんじゃない。どうも俺たちは早いところ次の仕事に移ったほうがいいように思えるんだが、どうだい、築嶋さん?」

「サボるな門宮。予定時刻までは捜索を続行だ。――おまえの考えたことはわかるぞ。だが、山狩りは無理だ。じきに消防も軍も駆けつける。あと報道もだ」

「じゃあ、まんまと逃げられたわけだ、ケーニヒの野郎に」

「だから、時間まで探せって言うんだ。いいか、俺たちは特務員じゃない。警護員にできることをやるぞ。俺も手伝う」

「了解。――捕まえたら尻掘るぞ、あん畜生(ちくしょう)」



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 横浜は一九九九年に血と肉と瓦礫(がれき)と塩水で埋め尽くされたのち、莫大な予算を投入され亜連の中枢都市として生まれ変わった。今では商業の街として東京に迫る繁栄を見せている。計画的に再建された街並みは機能的であり、そして、美しい。

 ブルーシティと呼ばれるようになった現在の横浜は、消費の中心であるとともに政治の中心でもある。それを体現するのが、地理的にもブルーシティの中央に位置する地上百二十階の超々高層建築ブルーアイズである。ショッピングモールと集合住宅がパイ生地のように重なった上の更なる高層には、亜細亜(アジア)連邦を構成する各国の利害を調整し対外的な折衝を請け負う中央機関、代行執政府がオフィスを構えている。

 そのブルーアイズの展望室から見下ろすと、西南西に古めかしく荘厳な石造りの建物があるのがわかる。周りが緑地になっているのでよく目立つ。掘もあり、ギリシアやローマの宮殿と日本の城とが渾然(こんぜん)一体となった様相を呈している。中央議会の横浜議事堂でございます、と観光ガイドが毎日の説明を繰り返す。

 家族連れや友人連れ、恋人たちでひしめき合うブルーアイズの展望室と比べ、横浜議事堂の石壁の中は静かなものだった。大理石と絨毯(じゅうたん)に彩られた広い廊下が多少の喧騒(けんそう)は吸収してしまうように思えたが、実際は大声を上げる者がいないだけなのだとも、阿納(あのう)真理(まり)は知っていた。

 真理は議事堂の中心近く、控え室のひとつにいた。やたら豪勢なソファに身を委ねる気にはなれず、壁際の花瓶が置かれた窪(くぼ)みにノートパソコンをねじこんで、書類の確認と作成に没頭していた。五十人で立食パーティーができるほど広い控え室だが、今は真理がキーボードとタッチパッドに触れるのよりも振幅の大きい音波は出ていなかった。真理のボス、右院議員である桜小路(さくらこうじ)がいないこの場所は、たいへん仕事がはかどった。

「なあ。例の決議、君はどうなると見る?」

 と、せっかくの効率的な作業環境を破壊したのは、真理が避けたソファにどっかりと腰を下ろして長い脚を組んでいる青年だった。仮眠を取る、邪魔しないでくれ、と言われた真理は、完全に無視して仕事に打ち込んでいた。何も言われなくても、そうしていただろう。

 かけられた問いについて、真理は即答可能な状態にあった。ちょうどそれに纏(まつ)わる書類の文面を精査し、自分でもあれこれ考えていたところだったので。――しかし。

「さあ、なるようになるのではないの?」

 突き放すような目、と他人から形容されるいつもの目つきでもって、真理は相手を見返した。

「君はどっちになるよう手を尽くしたかな、と思ってね」

 真理に話しかけた男、野崎兜跋(とばつ)は、真理の視線にも言葉の棘(とげ)にもまったく気分を害した様子がない。どちらかというと面白がっている。

 溜め息が漏れた。たいていの人間が距離を置こうとする真理の仕草を、逆に好んでいるのがこの兜跋という男なのだ。しかし、だからといって簡単には自分の言動を変えられないのが真理である。長い時間をかけてようやく身につけた様式は、家の壁紙よりも張り替えるのに難がある。相手のペースに乗せられていると自覚しながら、それでも引き出せる情報の価値を信じて、真理は対話に応じる。

「反対に決まっているでしょう。これは元老院の罠に違いないわ。安易に飛びつくべきではない。誰でもわかりそうなことなのに、野崎議員は何を狙って……」

 真理たちのいる控え室から厚い壁を隔てた向こう、中央議会の議場では、右院がある新法の成立を議論している。市民にはまだ明かされていないその法案は、元老院から提示されたものだ。亜細亜連邦大統領任命条件の緩和。法案の中身を最短で表現するとそうなる。

 亜細亜連邦には樹立当初から大統領に関する規定がある。亜細亜連邦の行政の長たる大統領は、中央議会と元老院のそれぞれで実施される選出会議において三分の二以上の賛成を得た者が指名され、地球総人口の約四割を統べる大権を得る。しかし二〇〇二年七月の連邦誕生から二十年と八ヵ月、これまで誰一人として大統領は指名されていない。大統領がいなければ行政府たる大統領府は組織できず、やむなく代行執政府がその役割を果たしてきた。

 やむなく、というのは実は建前である。個人に数十億の民を統べさせるなど現実的にはタブーだった。亜細亜連邦は言葉も文化も全く異なる多数の国が結集した巨大連邦である。歴史ある欧州連合ですら長らく大統領を選べなかったというのに、敵愾心(てきがいしん)丸出しで睨(にら)み合う各構成国家からたったひとりの人間を選ぶなど、内戦と分裂を招くだけだった。百害があろうが他のもっと致命的な害を避けるためだけに集まって生まれた亜細亜連邦を、そんなことで水泡に帰すわけにはいかなかった。しかし大権を定めないことには統制が取れないのもまた確かであり、そこで苦肉の策として、制度上は大統領府の設置を前提としておきながら、実際には中央議会の運営する代行執政府がその代役を常時受け持つことが、当初から決まっていた。仮初(かりそめ)の組織で二十年持ちこたえてきたのではなく、最初からあるべくして代行執政府は存在し、大統領の座は空席なのだった。

 その大統領を、いま、元老院は指名しようとしている。具体的に候補者の名が挙がっているわけでも、元老院が指名を宣言したわけでもないが、指名に纏わる厳しい諸条件――実際に大統領など指名されることのないよう入念に用意された防止策――を緩めようとする法案に、それ以外の意図を読めようはずがない。緩和の結果として大統領指名における元老院の影響力が弱まるように法案が書かれているため、一部の右院議員はこれを好意的に受け止めているが、事はそう単純ではない。ただ都合がいいばかりではないのだ。ひとたび大統領が生まれてしまえば、元老院はその手綱(たづな)を取るだけでこれまでより強力な支配力を得られる。実質的には、元老院が今度こそ自らの手で亜細亜連邦を牛耳ろうとしているのではないかと、真理はそう疑わずにはおれないのだ。

「たしかに伯父貴は柳に飛びつく蛙かも知れないな。いや、寧(むしろ)ろ、それを見習った小野道風のほうか」右院議員、野崎托塔(たくと)の甥は肩をすくめる。「しかし道風は馬鹿だ。柳に飛び移れたからといって結局蛙に何の益があったのだ。努力はただすればよいというものではない。目的が正しくなければ。――と、君はそんなふうに考えているんだろう」

「想像力が豊かなことね」

「文学青年だからな。妄想はお手の物だよ。で、今の推測が正しかろうがどうだろうが、俺の意見がそれと違うのは確かなんだ。伯父貴はちゃんと展望を持っているよ。この戦争を勝ち抜いたあとの、十年先、二十年先の亜細亜連邦のことをしっかり見ている」

 自信に満ちた兜跋の口調が、仕草が、真理には忌々(いまいま)しい。

「さぞやよくお見えでしょうね。ローマ帝国や元でも及ばぬ巨大独裁国家の姿が」

 兜跋は再び肩をすくめた。

「三権は分立しているさ。大統領が指名されたとしてもね」

「それが形ばかりになるのがわからないの? 大統領は手にした力で中央議会と司法院を潰(つぶ)せる」

「無理だ。抑止力がある」

 さも自明のことのように兜跋は言った。

「情報を操作されてしまえば、民衆は無力よ」

「民衆じゃない。とぼけるなよ。君が作った、黒龍隊だ」

「私が作ったわけじゃない」

「では、君が守った、と言い換えよう。ダーダネルス作戦に送り出したはいいものの、戦場から姿を消してしまった黒龍隊が、実はロシアの片田舎に隠れていましただなんて恥ずかしい話を、タカ派は認めなかった。そんななか、黒龍隊の立場を維持するために、隠居していた櫛田(くしだ)大将を担ぎ出すシナリオを書いたのは、君だろう。他の誰にも、あの鮮やかなシナリオが書けるものか」

「何を言っているのかわからないわ。櫛田大将は御自分の意志で後見を名乗り出たのよ」

「では中央議会に召喚したのも君の仕業(しわざ)ではないと? ――まあ、いいさ。櫛田大将の演説は見事だった。あれで反対派も沈黙した。俺や伯父貴にとっても都合がいい」

 兜跋は真理の前で野心を隠すことがない。他の誰の前でも猫をかぶっているが、初対面でその本性を看破した真理の前では、却(かえ)って地を出すようになった。迷惑極まりない。

「野崎議員は黒龍隊の戦力補充に賛成と受け取っていいのかしら」

「そうさ。ただし無条件じゃない。櫛田大将に江藤博照の頭を押さえて頂くだけでは、不足がある」

「今の黒龍隊は、有象無象(うぞうむぞう)の新兵器相手に評価レポートを作る、ただの試験部隊よ。これ以上、何を要求しようというの?」

「それはまだ秘密だよ、真理さん」

 口の前に指を立てて、兜跋は微笑(ほほえ)む。ぞっとした真理は、とっておきの台詞(せりふ)で相手を凹ましてやろうと息を吸い込む。――しかし。

 部屋全体が微震するのを感じ、真理は身構えた。平素、議事堂が揺れることはまずない。地震が来たか、あるいは……。

「聞こえたか?」

 兜跋が虚空(こくう)を見つめながら問う。真理も何か重い物が倒れるような音は聞いた。しかし揺れとの因果関係がわからない。ことによっては議場の議員たちが危ないが、駆けつけるためには廊下に出なければならない。音のしたほうへ。議員や秘書たちは議事堂内での武器携帯を許されていない。真理は自分が動くべきかどうか判断しかねた。

「来る。隠れて」

 と言われても、ソファの裏にしゃがみこむくらいしかできない。真理が息を止めると同時に、乱暴にドアが開け放たれて、廊下から誰かが踏み込んできた。重い足音。

「撃たないでくれ、誰もいない」

 兜跋の声。確認します、と慇懃(いんぎん)な声がしたので、真理はゆっくりと立ち上がった。

「その男の発言を訂正します。怪しい者は、誰もいません」

「どうやらそのようですね」

 部屋に入ってきた男は銃口を下げた。普段の議事堂の警備員ではなく、今日の議会のため特別に配置された軍の機甲化歩兵部隊の隊員のようだった。その証として、骸骨(がいこつ)のような細身のパワードスーツを身に着けている。たしか着俑機(ちゃくようき)という代物だと、真理は思い出す。

「こちら上妻(こうづま)。全控え室のチェック完了。秘書ら八名を保護。これから誘導する」

 着俑機をつけてもまだ細身のシルエットを保つ男、上妻は、通信機の送話スイッチを切ると、真理たちにとにかくついて来るよう指示して廊下に出た。機械に補助された腕が、子供ひとりくらいの重みがありそうな巨大な銃を軽々と取り回している。

 撃つべき標的がいないことを確かめて、上妻、移動開始。真理は兜跋とともに駆け足でそれを追う。廊下に出るとすぐ近くに他の秘書たちがいた。上妻と同じような格好をした兵士がふたり付き添っている。

「テロですって」

 顔見知りの女性秘書に耳打ちされ、真理はやはりそうかと頷(うなず)く。襲撃に接するのは初めてではない。軍の護衛がいるだけ安全だと安堵(あんど)するべきか、それとも軍が警戒するほどテロリストの攻撃が激しいのだと悲嘆すべきか。上妻という士官の背中に動揺はないが、他のもっと若い兵士たちは落ち着いてはいなかった。

 と、再び爆音。どうやら議事堂内に侵入されているようだった。

「議場のほうは?」

 ハイヒールを脱いだ真理は、上妻に追いついて訊ねた。

「ご安心ください。他の者が避難誘導中です。議員と秘書の方々の退避が済み次第、掃討に移ります」

 つまり、軍は広域制圧兵器を使うつもりなのだと真理は解釈した。超音波か何かの。――いや、隔離するからにはガスかもしれない。後遺症もやむなしの即効性重視型を使うのだとしたら、当然、議員を巻き込むわけにはいかない。

 何にせよ確実に脅威を排除できるのはありがたいことだった。中央議会議員は再選の心配よりも先に命の心配をする。その秘書もまた然り。危険を覚悟することと危険に無頓着であることとは違う。脅威の排除のためなら同情など捨てられる。軍には思う存分テロリストを叩きのめしてもらわねばならない。だから邪魔になってはいけないのだ。――が、真理が予防措置に出るのは数秒遅かった。

「おい軍人さん、これは本当にエデンの襲撃なんだろうな? 俺たちはエデンの姿を見ていない。これが軍のクーデターだと疑うこともでき……痛っ!」

 側頭部にヒールを叩きつけられた兜跋は口をつぐむ。

「すみません、上妻さん。この馬鹿者も本心じゃないんです。どうか耳を貸さず任務に専念なさってください」

 ぎょっとした顔をすぐにスマイルで覆い隠して、上妻は頷いた。進行方向へ向き直るが、止めた足をすぐには踏み出さない。一行はホールにさしかかっていた。

「この先は横から狙撃される可能性があります。一気に駆け抜けてください」

「わかりました」

「ほいよ」

 言ったそばから兜跋は駆け出した。上妻よりも先に。行ってしまったものは仕方ないということなのか、上妻は真理にそのまま続くよう促し、自身はホールに繋がる他の通路に銃の狙いをつける。銃声や爆発音が近づいているのは真理も気づいていた。どうやら避難が終わっても敵を一網打尽というわけにはいきそうもない。

 真理は怖気(おじけ)づきつつある後続に頷いてみせ、走り出す。運動はおしなべて苦手で、脚力には全く自信がないが、走破すべきホールとてそうだだっ広いわけではなかった。まだテロリストが顔や銃を覗かせているわけでもなく、余裕で走り抜けられると……そう思ったのだが。

 真理は気づくと宙に放り出されていた。絨毯の上に転がってようやく、轟音や衝撃の記憶を脳が反芻(はんすう)し、真理は何が起きたかを理解する。足元で爆発が起きたのだ。大理石の床が吹き飛び、階下への大穴が貫通している。真理はほとんど無傷で済んだ幸運を自覚した。

「阿納、しっかりしろ」

 駆け寄って来た顔馴染(なじ)みの秘書が、真理の手を取って助け起こしてくれる。兜跋の声も聞こえたが何を言っているかはわからなかった。何かが、うるさい。機械の動く音。

 なんだろうと見回した真理は、大穴からドラム缶のような金属製の円筒が現れるのを目にした。ただのドラム缶なら良かった。それはどうも回転砲塔のようだった。光が爆(は)ぜる。風圧を感じて身をすくめた真理は、不意に自分の手を引く力が消えてしまったのに気づいて、目を開く。つい今の今まで生きていた、顔も名前も家族構成も知っている人間が、鮮血の花を咲かせて死んでいた。

 悲鳴は出なかった。ああ、またか、という無力感が、感情を麻痺させている。そのように自己分析できるのも、場数のなせるところだった。

 上妻が銃に付属の擲弾(てきだん)で砲塔を狙い撃ち、命中した弾がまるで空き缶を潰すように砲塔を破壊するのを見届けて、真理は兜跋が走りぬけた側へと逃げる。そちらのほうが戻るより近かったので。

 砲塔を壊しても、脅威は去っていなかった。それは真理にも予期できていた。砲塔だけが宙に浮いていたわけではない。その根元の部分はまだ生きている。人一倍の想像力は不要だった。乗俑機(じょうようき)である。それしかない。軍用機が奪われたのか、産業用のものが改造されたのかはわからないが、どちらであってもおかしくない。つまり、いずれもテロリストの持ち物として珍しくない。

 砲塔の残骸が一旦穴の奥に引っ込んで、今度は腕が出てきた。三本指のロボットアーム。それは警戒色で塗られた円筒状のタンクを握り締めていた。

「退避!」

 上妻が叫びながらロボットアームの肘の辺りに銃を乱射。流れ弾に当たらないよう真理はその場に身を伏せる。と、背中に重いものがのしかかってきた。兜跋だった。しまった、と真理は判断ミスを悔やんだ。これでは急に動けない。流れ弾を回避できたらその次は、あの危険を自己主張する円筒状の物体の脅威から逃げなければならないのに。

 ロボットアームが、把持(はじ)していた物体を床に投げつけた。忽(たちま)ち白っぽいガスが溢(あふ)れ出し、ホールに充満していく。内容物の正体はすぐにわかった。催涙(さいるい)ガス。身を持ってそれを検知することになった真理は、もう、思考を続行できる状態にはなかった。ただ悪態だけは頭にあった。

 顎(あご)が痛いぞ、馬鹿者。


*   *   *   *   *


 ありったけの対戦車擲弾発射筒(RPG)を持って来い、と大声で部下に命じた阿賀(あか)正義(まさよし)は、その舌を湿らせるよりも早く、議事堂で大きな爆発が起こるのを目撃した。議事堂の表玄関から百メートル離れた阿賀にはその爆発の規模と指向性がよく見て取れたが、中にいる人間には、むしろ何がおきているかわからなかったに違いない。中にいる人間とは、すなわち上妻たち十名の部下と、彼らが保護しようとしていた議員、そして秘書たちである。

 エデンの襲撃が始まったのはたった十分前だった。どこからともなく集まった一団が、火炎瓶や拳銃を手に、シュプレヒコールを上げながら議事堂の正面に押し寄せてきたのが発端だった。一人や二人ならともかく、ダース単位で数えるべき集団がどうやって警察の警戒網を潜り抜けたのか。訝(いぶか)りつつも中隊の半分を差し向けて迅速(じんそく)な鎮圧を図った阿賀だったが、まんまと罠に引っかかってしまった。正面のテロリストは囮(おとり)だった。裏手に現れた主力は改造重機と乗俑機を押し立てた重武装部隊。とても警察の火力では歯が立たない。

 しかし、阿賀たち機甲化歩兵部隊はまさにそうした敵を殲滅(せんめつ)するために組織されていた。阿賀自身も着込む軍用乗俑機甲種「タヂカラ」は、生身の兵士が二、三人で携行する武装を一人で扱える。配備数は四機と少ないが、捕捉さえしてしまえば、改造重機や乗俑機の外装を撃ち貫いて機関や駆動部分を破壊することは容易だった。これに加え、より簡易な構造の着俑機「イダテン」であっても、乗俑機を相手にするに十分な火力を装着者に付与する。

 後方で指揮するため議事堂付近に残っていた阿賀は、敵主力の報を聞いたとき、すでに部下が突破された場合に備えてタヂカラを装着済みだった。少数の手勢を率い、議員らの直衛につけておいた上妻らと挟撃(きょうげき)するつもりで敵主力の背後に回ったが、見通しが甘かった。議事堂に穴を開けて突入した敵の火力は想像以上に高く、対人制圧兵器主体で武装していた阿賀たちは一分と持たずに押し返されてしまった。

 中の上妻たちは全員イダテン装備である。非装甲で、生物化学兵器にも全く耐性のないイダテンでは、食い止められないかもしれない。――不安を抑(おさ)え込みながら再武装の準備をしているところで、爆発が起きた。

 敵がやったのだとすぐにわかった。上妻たちが携行した一八式対物ライフルでは、擲弾を使ったとしても、あれだけの爆煙を巻き起こすには至らない。

「上妻、状況を報告しろ。聞こえるか、上妻。――誰でもいい、上妻班の者、誰か応答しろ」

 返事は聞こえてこない。ノイズが激しい。阿賀ははっとした。

「小笠木(おかさぎ)、RBRチェック!」

 対物ライフルの弾倉を運んできていた小笠木は、阿賀の声を聞くと弾(はじ)かれたような勢いで反応し、通信機材一群のそばに設置されていた箱に駆け寄る。ちらりと見ただけで叫び返した。

「全周囲レベルC! バロッグです!」

 阿賀は思わず舌打ちした。警察が武装乗俑機の接近に気づかなかったのはそのためか。あるいは、気づきはしたが連絡がつかなかったか。阿賀たち自身もそのような環境に取り込まれつつある。襲撃の第一報は各種の回線で然(しか)るべき機関に伝わっているはずだが、敵の本命については定かでなく、増援を当てにもできない。問題はそれだけではなく、これから突入する議事堂内でも迂闊(うかつ)に火器は使えなくなったのも手痛い。

 最低限、タヂカラの作動環境だけでも確保しなければ優位性が失われる。まずは議事堂の屋上と地下にある施設用バルムンクフィールドジェネレータ(BFG)から押さえるべきだと即断した阿賀は、手早く指示を出して議事堂へ踏み込んだ。

 暴徒を警察に任せて合流した橋谷(はしや)の一隊を地下に向かわせ、阿賀は小笠木たち若手を連れて屋上へと向かう。議事堂に入っても上妻たちとの連絡はつかず、議場の右院議員たちの安否もわからないという状況は阿賀を焦らせたが、しかしここで判断を誤ってはならないときつく自分に言い聞かせて阿賀は走る。タヂカラの鈍重な足運びがもどかしい。

「先行しましょうか」

 イダテン装備の小笠木が伺いを立てる。以前プラント火災でミイラ取りになったトラウマは、すでに克服した顔つきだった。阿賀は任せてよいと感じた。

「よし、行け。だが気をつけろよ」

「了解」

 小笠木ら三名が非装甲ゆえの軽快な足取りで階段を駆け上っていく。阿賀も最大速度で追った。安心などはできない。襲撃者もバロッグに気づいているとするならば――バロッグを突入に利用したと思えるタイミングの良さなのでまず間違いなく把握している――、乗俑機を使い続けるためにBFGを確保する必要がある。可搬型BFGがあればその制約はないが、そんなものを抱えていたのではあのような電撃的な議事堂突入はできなかったはずだった。地下か、屋上か、いずれかは戦闘になると阿賀は見通していた。

 予(あらかじ)め頭に入れてある議事堂の構造図を頼りに、屋上のBFGへ到着。その阿賀を待っていたのは、敵ではなく、かつてBFGとして機能していた鉄塊と、それを途方に暮れた様子で取り囲む若者たちだった。

「馬鹿な。あいつら、BFGを破壊したのか」

 議員が目的だろうに、ここへわざわざ戦力を割いて破壊したということは、そうすれば阿賀たちの戦力が落ちるという期待の表れだった。やはりバロッグの現出を相手は承知している。しかし、相手もまた外部にBFGを必要とする重機や乗俑機を使っているのだ。帰るためにはその作動環境を担保しなければならない。――自爆攻撃が目的でない限り。

 胸騒ぎがして、阿賀は地下へ向かった橋谷を呼び出した。繋がらないかと思ったが、幸い、ノイズに負けぬ橋谷のはっきりとした声が返って来る。

「隊長、やられました。奴ら、地下のBFGをぶっ壊しやがった」

「接敵したか」

「いいえ、壊してすぐトンズラしたようです。ひょっとすると今頃正面玄関を吹っ飛ばして堂々と……」

 にわかにノイズが大きくなり、その先は聞き取れなかった。

「戻るぞ」

 阿賀は速やかに踵(きびす)を返す。バロッグが近づいているのは明らかだった。濃度によっては、無線どころかタヂカラ自体も全く動けなくなる。登るときは行儀よく一段一段踏みしめてきた階段を、また同じように下りる手間隙は惜しい。阿賀は一気にショートカットすることにした。手すりを乗り越えて一階分を自由落下。――着地。タヂカラは野戦用だけにこの程度の衝撃に対する強度は確保されている。身体にかかる負担は完全に減殺(げんさい)されるものではないが、根性でカバーできる範囲。想定内の痛みであることを確かめ、いざ再び走り出そうとした阿賀だったが、しかし足は一歩も前に出なかった。阿賀の足は動こうとしているのに、外側から拘束を受けている。タヂカラが、機能を停止しているのだった。

 直後、階段を部下たちが転げ落ちてきた。彼らの身に着けていた機械骨格も突然動きを止めたのだろう。対物ライフルは補助なしの腕力で振り回すには重過ぎる。転げた拍子に暴発しなかったのは不幸中の幸いだった。

 もうこの場所はバロッグに飲み込まれてしまった。そう悟らされた阿賀は、左腕をもぞもぞと動かして袖の部分から引っ込めると、胸の前の空洞に備えられた機械式の解放レバーを引っ張る。すると各所のロックが外れ、重い鎧がばらばらになってその場に崩れ落ちた。足回りに残ったパーツを蹴飛ばすように脱ぎ捨てて、阿賀は部下たちを一瞥(いちべつ)。

「急げ。奴らは自爆攻撃をする気かもしれん。議員の安全を最優先確保」

 息を呑(の)む気配を背にして、阿賀は廊下のほうへ走る。議場への通常の入り口はもうひとつ下の階だが、上から狙撃や強襲に使えるポイントを、下調べしてあった。拳銃を使えるかどうかも怪しいが、なんとなればナイフと肉体で自爆役なりリーダーなりを捕らえれば勝機はある。阿賀はそう自分を奮い立たせたが、勝ち目の薄い戦いになったと冷静に理解してもいた。ひとりでも議会関係者から犠牲を出せば、それは阿賀たちの負けなのだから。

 廊下を走りきらないうちに、どこかで大きな爆発があった。そばの窓がびりびりと震える。窓のそばに背をつけて外を見渡すと、狭い視界ながら、爆発がどこで起きたかについて明瞭な答えを得られた。正門のほうから歩み寄ってくる一団。これこそ不幸中の幸いだと阿賀は感謝した。窓ガラスを拳銃で叩き割って、その一団へ向かって怒鳴る。

「奴ら自爆する気だ! 議事堂内を対人制圧、急げ!」

 声が届いているか心配だったが、相手のひとりがしっかり聞き取ってくれた。視線が阿賀を捉え、返事が来る。

「了解。やります」

 スピーカ出力されたその声は、阿賀の背後の三人にも届いたはずだった。全員、通信機を兼ねた耳栓をしっかりと上から押さえつける。

 数秒後、耳栓を忘れたのではないかと疑いたくなる、壮絶な音波が襲来した。地獄で罰を受ける数万の罪人たちの金切り声。あるいは、黒板に思い切り爪を立てて引っかいた音。喩(たと)え方はいろいろあるが、この音波の直撃を浴びた者の反応はパターンがごくごく限られている。のた打ち回るか、うずくまるか、気絶する。

 阿賀たちは耳栓と訓練の甲斐(かい)あって、そのいずれにも該当せず、議場へ乗り込んだ。議員数十名と三人のテロリストを確認。即座に制圧。しかし今日の出席者は百を優に超えているはずだった。まだ議場の外に助けるべき人々がいる。秘書らも加わるのでさらに二百か三百、といったところ。

 制圧した三人の拘束と爆発物チェックを部下に任せ、阿賀は開け放たれていた扉から廊下へと出た。その先で床に転がっている正装姿が二十人ほど。できるだけ早く制圧を完了しなければならないプレッシャーを切実に感じつつ、阿賀はその人々の間を走り抜ける。

 と、そこで攻撃音波が止んだ。まだ頭蓋(ずがい)の内側を悲鳴が反響するなか、乗俑機らしき歩行音を聞き取った阿賀は拳銃を握り締めてそちらへ向かう。それは最初に爆発のあった方向だった。敵が逃げようとしていると気づいた阿賀は、警戒のため遅めにしていた足を全力疾走に変える。勢いよくホールに走りこみ、散らばっている瓦礫を飛び越えて――危うく生身で階下にダイブしそうになった。床には直径四メートルほどの大穴が開いていた。

「隊長……」

 呻(うめ)くような呼び声に反応して、阿賀は日頃から右腕と恃(たの)みにする上妻がそばに倒れていることに気づいた。

「乗俑機が……議員と……それと秘書の、十名前後を連れ去り……まし……た」

 上妻は腹を押さえながら声を絞り出す。阿賀はもう喋(しゃべ)るな、と手で制止した。上妻の体の下には血だまりができつつある。そして、近くにほかのスーツ姿の死体がいくつか転がっているのも目に入った。阿賀は、負けたのだ。

 しかし失点を抑えるための戦いはまだ終わっていない。阿賀は絨毯の乱れと硝煙の臭いから、その乗俑機が去ったと思しき道を辿(たど)った。足跡や血痕(けっこん)でそれは容易に特定できたが、すぐ見つけられるだろうという見込みは外れた。阿賀の着ていた乗俑機甲種タヂカラがそうであったように、敵の乗俑機もバロッグの影響で動けなくなったに違いないのだが。

 いくつか部屋を行き来して、ようやく阿賀は乗俑機を発見した。頭頂部に回転砲塔を持つ改造機。すでにその武器は破壊され、動力も停止している。そしてもぬけの殻だった。議会関係者も、襲撃者も、見当たらない。

 これ以上、痕跡からの追跡は不可能だった。どちらを向いても爆発跡があり、硝煙が立ち込めている。

 阿賀は頭を働かせる。突入口はすでに味方が固めているはずで、そちらに向かっても意味はない。では多ければ百人にも及ぼうかという人間はどこへ消えたのか。煙になって消えたわけではない以上、物理的にそれだけの人間を収容できる空間が、まだチェックしていないどこかにある。消去法で、阿賀の向かうべき先は一箇所に絞られた。

「阿賀大尉」

 部下のものではない声がかかった。ふりかえると、増援の味方部隊の隊員が追いついていた。役に立つと見定めた阿賀は、ついてくるよう手で示し、そこしかないと確信した敵の逃げ道へと向かった。地下通路へ。

 議員たちが緊急時に逃げられるよう造られたという地下通路は、これまで自分の目で確認したことはなかったのだが、本当に存在した。昔の防空壕のようだった。連れてきた青年が驚いている。もっとも、それは阿賀も同じだった。――せっかくの入り口は、ガムのような粘膜で塞がれてしまっていた。

 ノイズ交じりに、青年のかぶっていたヘルメットから通信の音声が漏れる。青年は耳を押さえるようにして応答した。

「もう少し寄ってくれ。ノイズが激しい。――ああ、よく聞こえるようになった。侵入者の一部は地下通路を使って逃走した。数十名の議員たちが拉致(らち)されたと推定される。所定部署への通達後、機兵での包囲は解除。すぐに地下通路の続く先の封鎖に回ってくれ。――どこかだって? 俺も知らないさ。江藤少佐に問い合わせてくれ。なんとかしてくれる。知らない部隊や警察には無闇に話さないように。誰が内通しているかわらかない。――ああ、よし、任せたぞ」

「内通だと?」

 ありうるな、と納得しつつも、しかし問い返さずにはいられない不穏当な言葉だった。

「詳しくはのちほど。我々は救護に回りましょう。ここの封鎖を任せられる人員は?」

「うちの部下にやらせる。――聞こえていたな、橋谷」

 阿賀の喉元の通信機もまた、使えるようになっていた。外にいる機兵が建物に近づいて、BFGでバロッグを無効化してくれているのだろう。今向かってます、という返事に頷き、阿賀は改めて青年の顔を見た。ヘルメットの奥に、額に巻いたバンダナが覗いている。その名をようやく阿賀は思い出した。

「藤居准尉だったな。急を要する怪我人がいる。手伝ってくれるか」

「もちろんです。阿賀大尉」

 その青年、藤居祐輝のことを、阿賀は黒龍隊でもっともさまになる敬礼をする男として記憶していた。



- 3 -


「これは最悪の事態だ」

 ソファを体重以上の何かで深く沈ませて、中央議会右院議員、桜小路慶多(けいた)は深く深く溜め息をついた。

「それは言われずともわかっておりますよ、議員どの」

 ガラス製のテーブルを挟んで向かいに座った江藤博照は、顎の髭(ひげ)の剃(そ)り残しを指で探しながら相手を宥(なだ)める。形ばかりに。

「いいや江藤君、まだまだきみはわかってはおらんよ」

 桜小路議員はネクタイを振りほどき、放り捨てる。一般市民やマスコミの前では澄ましているが実のところ面倒な服装や儀式は大嫌いだと――つまりこの老人が性質的に自分の近縁であると江藤は前から聞かされていたが、どうやら眷族(けんぞく)ではあっても同族ではないなと感じた。江藤ならばこの密室に入る前から邪魔なネクタイなどかなぐり捨てている。いやそれでも周囲の目をはばかりすぎというもので、端(はな)からネクタイなど着用しない。自ら首に縄をつけられる趣味は持ち合わせない。

「うちの阿納君が捕まったちゅうことは、この際、些細(ささい)なことだ。――そう言ってしまえるくらい、最悪だ」 

 これを聞き、江藤の隣で神妙な顔をしていた阿賀正尊が、申し訳もございませんと頭を下げた。江藤の見た限りで、これで三度目のことになる。

「もうええ、阿賀君。きみらのせいじゃない。議事堂の内側から手引きした者があったのは明白だよ。常任の警護ではない君らに責任はない。少なくとも私はそう思っとるし、他の議員にもヒステリックな言動は許さないつもりだ」

「しかし」と阿賀は自分の非をなおも主張する。「五名の議会関係者が死亡しました。拉致は推定二十八名。エデン制圧時に我々が使った音響攻撃で、めまいを訴えている者がさらに三十名強。うち七名は病院に搬送されております」

「ようそれだけで済ませてくれたと、私の立場ではそう言うしかない。むろん、阿納君たちのことは心配というのが本音だ。一刻も早く無事な姿で再会したいと思っとる。だから君らには引き続きがんばってもらわんといかん。意気消沈しておる場合ではない」

「そうそう」

 捕まえた髭を引っこ抜きながら江藤が口を揃(そろ)えると、阿賀が横目で睨んだ。

「現場にいなかった者は気楽に言えるな」

「禁足を食らっていては、駆けつけようもない」

 江藤とて、ネクタイがあれば床に投げつけたい気分なのだ。もし黒龍隊に事前に警備命令が出ており、自分が議事堂近くにいれば、間違いなくバロッグの出現をすぐに感知できた。そうすればバロッグの発生した街区に早々に龍(ロン)を回して、バロッグ発生に乗じたエデンの議事堂襲撃を未然に防げただろう。百歩譲って議事堂外壁への攻撃を許したとしても、議会関係者の死傷と拉致は絶対にありえなかったという自信がある。

 しかし実際には、黒龍隊は襲撃の第一報を受けてようやく出動を許される有様だった。ここのところ日本ではエデンのテロ事件が頻発しており、今日の議会が狙われることは十分に予想できたにも拘(かかわ)らず。

 とはいえ近衛(このえ)軍が無策だったわけではない。エデンの保有戦力に対し警察では火力不足だろうということで、阿賀たち機甲化歩兵部隊を横浜まで派遣した。それが精一杯だったのだ。――江藤は現在、黒龍隊を自発的に出動させる権限を取り上げられており、命令を出してもらうにしても、近衛軍統監部とてさまざまな制約をクリアせねば命令を下せないように規則が作られた。戦略軍参謀本部ならば流石(さすが)に一声で黒龍隊に出動要請を出せるが、今日のような事態では、南京(ナンキン)の参謀本部が事件を知って動き出しても時既に遅しである。

 さらに歯痒(がゆ)いことには、ようやく出動命令を受けても、江藤自身は現場へ出向くことを許されていなかった。猿之門基地から出てはならないのだ。第一報を受け取った時点できな臭さを感じ取っていた江藤は、地団太(じだんだ)を踏みつつ使える手駒をすべて議事堂へ送り込んだが、それとてわずか三機の龍に高機動車一輛に過ぎない。ダーダネルス作戦で運用した戦力のたった三分の一。

 もっと機兵を配備してくれていれば、周辺に網を張ることもできた。たかが三機では、議事堂内のバロッグ排除と、直近の機甲化歩兵部隊や警官隊を支援するので手一杯になるのも当然だった。ダーダネルス作戦もまずまずの成功裡(り)に終わり、前線での機兵の損耗も一段落した今、富士工場に近い猿之門に龍を回す余裕がないわけではない。これは明確な意図を持って仕向けられた戦力の制限だった。

 こうなってしまったのは――江藤の指揮権が著しい制限を受け、黒龍隊が関東防衛という本来の目的を果たせないような状態になってしまったのは、ダーダネルス作戦から凱旋(がいせん)してすぐのことだった。どれくらいすぐだったかというと、基地へと続く丘を登りきり、ゲートをくぐったトラックから江藤が降りた瞬間である。出迎えに混じっていた見慣れぬ士官から、命令権の一部剥奪(はくだつ)と黒龍隊に纏わる軍規及び法令の変更が今現在を以(もっ)て発効したことを告げられたのだ。そしてその士官、穴蒲(あなかま)大尉は最後に付け加えた。第二七独立連隊隊長代理の任を解き、櫛田伴雪(ばんせつ)大将が正式に連隊長の任に就く、と。

 異例の人事というものを我が身で何度も体験してきた江藤だが、これには虚を衝(つ)かれた。大将閣下を引っ張り出して連隊長の椅子に据えるとは思ってもみなかった。こうして、創設以来不在同然だった、江藤の直属の上官がとうとう配置された。江藤が勝手に動き出さないための重石(おもし)が。

「禁足の解除には至らなかったが、前回の決議で、黒龍隊の対テロ出動の条件緩和を勝ち得たのは幸いだった」

 桜小路は江藤をフォローすると同時に、自分の尽力をアピールした。何を言いたいのかはわかる。

「ご安心ください、桜小路さん。救出のための協力は惜しみませんとも。しかしそのためにはまず、議会を再開して我々の権限をもとに戻して頂きたい。気持ちだけでは成果は出ない」

「だめだ、それは難しい。今回の件、私のような黒龍隊擁護派が襲撃を手引きしたのではないかと憶測する者もあるのだ」

「ふむ、それは確かに臭い」

 今回拉致されたと思(おぼ)しき行方不明者のなかには、桜小路とは多くの議題で意見を異にする議員が少なくなかった。つまり、いま桜小路やその同志が議会運営を継続すれば、思惑通りの決議が得られる公算が大きい。襲撃者が本当にエデンであるのか確認は取れていないし、犯行声明も届かないとなれば、マスコミは桜小路らが陰謀を企てたというシナリオを書いて記事や番組のネタにするだろう。直接選挙で選ばれる立場ではないとはいえ、桜小路にとってそれは面白い成り行きではないに違いない。なにしろ身の潔白を立てるのが難しいのだ。桜小路の秘書、阿納真理も行方不明になってはいるが、死体が出たわけではない。

「いま中央議会は疑心暗鬼に囚われている。特に去年あたり入ったばかりの新参議員は、横浜の治安は信用ならないというイメージを植えつけられてしまったな。右院ばかりではない。あの様子では左院議員たちも難色を示すのではないか。――いっそ私より野崎議員が捕まらずに残ってくれたほうが、議会運営には影響が少なかったかもしれんな」

 桜小路が口にしたのは、同じ日本選出枠の右院議員でありながらしばしば意見の対立している野崎托塔のことである。野崎の場合は関係者が全員行方不明者リストに名を連ねている。いつぞや黒龍隊の様子を視察に来た楢田(ならた)議員も当初その行方不明者リストに載っていたが、瓦礫の下から救出されて今は病院にいる。桜小路は楢田とは協力することが多いようだが、しかし有事においては寧ろ野崎托塔のほうに信を置いているらしかった。たしかに、楢田のもとへ顔を出した北嶋からの連絡は芳しいものではなかった。あれは平時に活きるタイプだ、と友は控えめに言っていた。

「とはいえ」江藤は緩やかに反駁(はんばく)する。「野崎議員とでは、こうして関係者で角突き合わせて善後策を協議することはなかったでしょうな」

「それは、そうだろう。うちの阿納君がロシアまできみをスカウトに行って以来、直接顔をあわせる機会こそなかったが、ずっと緊密にやってきたものな。その阿納君がここにいないのが大変残念だ」

「ですから彼女たちの救出策を練っているのでしょう。どうやらお疲れのようだ」

 実のところ休みたいのは江藤自身である。出された茶を次々と飲み干した結果、膀胱(ぼうこう)に因果が巡って来ていた。いつまでも髭を引っこ抜いて紛らわせるものではない。

「どうです、休憩にしませんかね? ションベン出せば頭もすっきりするかもしれません」

 湯飲みに口をつけていた阿賀が咳き込む。

「たしかに、阿納君に隠れて葉巻をふかせるのも今のうちだなあ」

 桜小路は笑ったが、すぐに冗談だぞと打ち消した。

「江藤君、気遣いは無用だ。それより、いったん話をまとめてしまおう。どうも、今夜はもう情報が入ってこないようだからな」

 ここにいる三人が各自の情報網を使って消えた襲撃犯と議員たちの行方を追っているが、いまだ、居場所は突き止められないでいる。議事堂の退避用地下通路の繋がる先にはすべて人をやったが、いずれも外れだったのだ。未知の出口へ逃げたのか、あるいは出口まで行かず途中で潜伏しているのかもしれず、今は機動隊から選抜された精鋭が地下通路に潜って分かれ道をくまなく探している。彼らが何かを察知すれば複数のルートで確実に連絡が来るはずだが、この三十分ほどはどこからも何の連絡もない。

 議事堂で捕縛したテロリストを尋問したところでは、彼らはやはり反体制ゲリラグループ、エデンの一派であるらしい。しかしそんなことは聞かずともわかっている。どうやら音響攻撃に晒(さら)されたのは下っ端ばかりのようで、作戦の全容やその目的、移動先などの情報は得られそうにない。引き続き尋問は続いているが、江藤は新たな情報は期待していない。エデンに突破された警官隊や拉致の難を逃れた議員たちの証言がまとまれば、首謀者の肖像も浮かんでこようというもので、江藤がいちばん心待ちにしているのはその結果である。

 待つのはそろそろ限界。その思いは江藤も同感だった。

「では話を戻しますが」と阿賀。「これは最悪の事態だということでしたか、桜小路さん、何か仰りたいことがあるようですね」

「そう、それだ。いいか、これは最悪の事態だよ」

「それはもう伺いました」

「いやいや、やっぱりきみはわかっとらんな。これは最悪の事態でなくてはならん、と言っているのだ」

「はあ」

 江藤と阿賀が曖昧に頷くと、桜小路はやれやれと天井を仰いでから茶を含み、そして幾分勢いを取り戻した目でふたりを見据えた。

「いいかね。これが最悪の事態だと皆にわからせることができれば、新たな議決を必要とせずに、黒龍隊の自由な行動が取り戻せるかもしれんのだ」

「皆とは?」

「市民だよ。亜細亜連邦市民。さしあたっては日本人……、いや、首都圏内か、この猿之門だけでもいい。どうして黒龍隊を使わないんだ、とシュプレヒコールを上げてもらえれば、先日の決議を解釈し直す範囲で対応できる。民主主義は数がものを言う」

「ふむ。――わかるか、阿賀どの」

「いや、よくわからないが、百戦錬磨の桜小路さんが言うのならそうなのだろう」

 顔を見合わせる三十代の男ふたりの姿は、沈んでいた桜小路の気分を盛り立てる結果となった。

「私は自信があるよ、この作戦には」

 桜小路がかつて教諭を務めていたという話を、江藤はその得意そうな顔を見て思い出した。

 実際、よく考えた提案だと江藤は思っていた。桜小路の言わんとするところがわからなかったわけではないのだ。江藤が第三者ならこの提案に乗るよう助言するだろう。しかし江藤はこれには乗れなかった。

「残念ですが、議員どの、黒龍隊としてはその線では動けません」

「ほう、どうしてかね」

「猿之門基地の前司令が、地域住民とたいへん懇(ねんご)ろであったことはご存知ですかな? 妙な意味ではなく、本当に住民から支持され、頼りにされていた」

「ああ、穂積(ほづみ)少将のことか。パーティで同席したこともあるからね。それは知っている。そう、彼を頼れば話は早いだろう。職を辞したとはいえ、ついこの間まで猿之門基地にいた男だ。あとから入ったきみの頼みをそう無碍(むげ)には扱うまい」

「それが、期待できないのですよ。穂積前司令の辞職は、予定されたタイミングではなかった。辞めざるを得ない事情があって、退任されたのです。その遠因は、他でもない、この私にあります」

「きみが、かね?」

 桜小路は首をひねる。いくら思い出そうとしても無駄だと江藤は知っている。彼が江藤を黒龍隊隊長として推薦するために集めた資料の中に、その件は詳しく書かれていないはずである。

「軍にとっては醜聞(スキャンダル)でしてね」

 当事者が語るのも妙なので説明を阿賀に任せたかった江藤だが、さっぱり阿賀にその気がないようなのでやむなく自分で続ける。

「去年の夏ごろ、前線に程近いエカテリンブルク近郊で、将校らの叛乱があったのです。その首謀者が穂積克(かつ)中尉。穂積少将のお子さんでした。現場に居合わせた私は鎮圧に参加し、穂積克を取り押さえる手柄を立てました。公にはされませんでしたが、もちろん穂積克は収監です。父である穂積少将の辞任も、表向きは健康問題ということでしたが……。まあ、あとはお察しください」

「つまり江藤少佐、君は穂積芳喜(よしのぶ)にとっては仇だということか」

「まあ、そういうことです。跡を継いで基地司令代理となった倉知大佐も穂積少将の教え子だったんで、いまだに、私を見る目は厳しいものがありますね」

「しかしそれは逆恨みというものだろう。叛乱を起こしたのは穂積君の息子であって、君は軍人としての責務を果たしたまでだ」

 江藤は失笑した。

「それはとんだ事実誤認ですよ」

「何が違うというのかね。私は、恨まれるべき人間を黒龍隊の長として推薦した覚えは……」

「失礼」

 堪えられなくなり、江藤はやおら立ち上がった。膝のぶつかったガラステーブルが揺れ、阿賀が飲まずに置いていた湯のみから茶がこぼれる。桜小路は殴られるとでも思ったのか、だんだん乗り出していた身体を一気にソファの背もたれまで後退させた。これもとんだ勘違いだったが、江藤にはそれを笑う余裕などなかった。

「ちょっと、厠(かわや)へ」

 もう本当に膀胱が限界だった。


*   *   *   *   *


 トイレで小用を足す。黄色の液体から湯気が立ち上る。身体がぶるぶると震え出したので、江藤は狙いが外れないように一歩前へ出た。

 この震えには合理性がある、という話を江藤はふと思い出す。小便とともに熱量を排出してしまった体を温めるため、筋肉を震わせることで発熱を促しているのだと。

 自分の能力もそのようなものだと江藤は思っている。変則領域がこの世に現れ、下手をすると命にも関わるので、危機を回避できるように体が対応した。変則領域を感じ取れるように。

 これで他の皆にも同じような適応が起こっていれば何も苦労はなかった。今日のようにバロッグの発生を利用した襲撃事件があっても、阿賀や警官隊がバロッグの発生に気づいてさえいれば、不意を衝かれずに済んだのだ。百歩譲って、百人に一人しか持ちえぬ能力だとしてもいい。それでも世界に数千万といれば、どんな超能力も本物と認めてもらえる。

 江藤の場合は、その能力の実証が難しいために困っている。認めてもらえれば、バロッグ対策のために貴重な人材ということで、禁足など最初から受けなかったに違いない。しかし迂闊(うかつ)に主張するとカウンセラーをつけられるのがオチだとわかっているので、慎重にならざるを得ない。実際、飛行機が落ちるぞと空港で喚いたときも誰一人として救えなかった。人を信じさせるには、共感と、客観的なデータによる裏づけの、少なくとも片方が必要だ。

 暖炉の谷でヴォルフと出会い、自分のような力を持つ者が皆無ではないことを江藤は知った。しかし尚、イレギュラーであることには変わりがなかった。あの戦場で江藤の変則領域に対する知覚はさらに鋭敏に研ぎ澄まされたが、ともに戦った部下たちが、新たに第六感を獲得した様子はない。何か条件があるはずだと江藤は考える。自分やヴォルフにだけ当てはまる何かが。

「おや、切れが悪いのですか」

 気配のないところから声をかけられて、江藤はびくりとした。この単発の震えはあまり合理的な機能ではないな、などと暢気(のんき)に構えられるのは、声で誰だかわかったからだ。

「うちのトイレに何の用だ、門宮。ヘンなことに使うんじゃねえぞ」

「あらあら、少佐ったらとんだ偏見持ちなのね。アタシはせいぜい車の中よ?」

 と、わざとらしくオカマぶってみせるのは、やはり間違いなく門宮洗だった。実際にはオカマでもニューハーフでもなく、男色家……というのも本性であるのかどうか定かではない。江藤としては寝室までつきあって確かめてみるほどの興味はなく、部下が食われたという話が出るまではあまり本気にしないでおこう、という程度の認識である。性癖についての理解はそれでよい。捨て置けないのは、この男がRAT(ラット)のなかで本当のところどのような役職についているのか、ということだった。RATの表の顔である警備部の人間だと本人は主張しているが、偽龍王(ロンワン)の一件といい、このところよく勝手に基地内に忍び込んで来ることといい、信じるほうが難しかった。共感かデータによる裏づけが必要である。

「実を言うと、今日は御注進に及んだのですよ」

 素の口調に戻って、門宮はそんなことを言い出した。そして隠れている間は我慢していたものか、自分も小便を始める。

「聞いてやろう」

 膀胱の中身を綺麗さっぱり出し終えてしまった江藤は、ゆっくり丁寧(ていねい)に物をしまいながら門宮の話を待ち受ける。どうやら今回は、SMITS(スミッツ)から妙な物を押し付けに来たのではなさそうだった。試作品にはもううんざりするほど付き合わされている。

「四日前の旅客機墜落は御存知ですね。乗客乗員二百二十六名のうち助かったのはたった十六名という大惨事の、あれです」

 江藤は危うく物の先端をチャックに挟み込むところだった。飛行機事故といえばついさきほど思い起こしていたばかりだったので、また体に不合理な反射が起きてしまった。

 門宮の言う飛行機事故は、突拍子もない話題ではなかった。考えてみれば、その事故についての疑念が江藤の中にあったから、数ある記憶の中から飛行機に関わるものがピックアップされたのかもしれない。だとすれば話題のニアミスは偶然ではなく必然である。

 数年ぶりに日本の本土に旅客機が落ちた原因は、急に航路上に生じたバロッグだと報じられていた。しかし江藤は、誰かがミサイルでも打ち込んだのかもしれないとも初めから疑っていた。観測されている限り、バロッグは地表近くに最も多く分布しており、そして深刻なバロッグが生じやすい場所はとうの昔に航路から外されているので、最近ではあまりバロッグによる空の事故は起きなくなっているのだ。もちろん、戦争で空の管制がごちゃごちゃになっているので、そのぶん事故の危険性は高まっているとも言えるのだが、だからといって本土上空で大手の飛行機がバロッグに突っ込むなどというケースは信じがたいのだった。

「誰がやったんだ」

 うちがやりました、という答えもありうるなと想像しながら、江藤は単刀直入に尋ねる。

「俺はやっていませんよ」

 組織の他の連中のことまでは責任を持てない、とでも言いたげに門宮は答える。

「まあ、無関係とは言いませんが。でなければこうして情報を提供することもできないわけで」

「なんだ。もったいぶらずに話せ。あと出し終わったんならソレをしまえ」

「おっと、ついつい。――いえこれは冗談で。お伝えしたいのはまず、行方不明者が七人いるということです。あ、これは身元不明の死体の数を差っ引いた数で、つまり運がよければまだ生存者が七人いるということですが」

「その生存者をRATで探しているのか? 人探しの助っ人を頼むなら相手が違う。興信所ならツテがなくもないが、紹介料は安くないぞ」

「素人を頼りはしませんよ」門宮は一笑に付す。「これは御注進だと申し上げたはずです。こんな寒いところで長話もなんなので間の説明を省きますが、江藤少佐、あなたはその消えた乗客に狙われる虞(おそれ)がある」

「それでは参考にならん」江藤も負けじと笑ってやった。「機会あらば俺を殺そうと考えている輩は、残念なことだが、けっこう多くてな。名前がわかっているならさっさと教えろ。墜落した飛行機から消えた奇術師は誰だ」

「穂積克です」

 その名を聞いた途端に江藤は動いていた。門宮の襟首を掴(つか)み上げ、ずんずんと壁まで押して行って叩き付ける。身長差ゆえに相手の足を宙に浮かせるのは造作もなかった。喉仏を拳に圧迫された門宮がくぐもった悲鳴を上げる。

「おまえ、盗聴器を仕掛けてあるなら今すぐその場所を吐け」

「し、仕掛けちゃいま、せんよ、そ、んなもの……」

「なら立ち聞きか」

「それも、違いま、す。ともか、く、手、を。息が」

 江藤は腕を下ろした。万力から解放された門宮は重力に囚われて落ちる。尻をつけずに着地できたが、背を壁に預けて息を整えなければならなかった。

「いったい何があなたの逆鱗(げきりん)に触れたのやらわかりませんが」

 門宮は喉が凹んだとでも心配してか、しきりに手でさすりながら言った。

「穂積克の父親がここの前の基地司令ということと、去年の叛乱事件にあなたも巻き込まれていたということ以外、俺は何も知らないですよ」

「本当か」

「いえ、正確じゃなかったですね、今のは。知らなかった、です。正しくは。――というのも、事件のことを同僚から聞き及んだのはつい先日のことでして。なんでもずいぶんなご活躍だったそうで。あなたがあそこにいなければ、穂積克はもう少し計画通りに事を進められただろうに」

「どんな尾ひれの付いた話を聞きかじってきたか知らないが、あいつが俺を殺そうとするだろう、というRATの……、おまえの推論は正しい。――そうか、穂積がな」

「ご自覚されているのなら話は早い。あなたはいつ狙われてもおかしくない。軟禁中とはいえ、基地への侵入者がいないとも限らないのでお気をつけ下さい」

 紛れもない基地への侵入者に言われては、江藤も戯言(ざれごと)と切り捨てることはできない。どんな警備が必要だろうかと頭を巡らせて、ひとつの疑問が浮かぶ。

「まだ穂積に手を貸す連中がいるのか」

 叛乱事件では穂積と共謀した将校全員が逮捕されている。例外は死者のみ。王やら国やらを担いでいたなら、実行部隊が下っ端しか残っていなくても闘志を保てようが、穂積克はそれほどたいそれたカリスマを持つ人間ではなかった。憤懣(ふんまん)を抱えた将校の一団がいて、そのなかでいちばん頭が切れたのが穂積だったので、主犯格となった。ただそれだけのことである。到底、獄中にあっても結束の象徴となるような器ではなかった。

 今回、穂積が墜落した飛行機に乗っていたということは、まず脱獄してどこかへ潜伏していたという前段階が存在する。脱獄だけなら運が良ければ単身で可能だろうが、潜伏生活には支援が必要だ。どこかの物好きだか、目先の金にしか価値を見出せない輩(やから)だかが、それをやったに違いない。そしておそらく、飛行機の墜落現場で穂積が見つからなかったことにも、その連中が一枚噛んでいる。

「軍内部については同僚が目下調査中です。しかし穂積が強力なバックアップを得たのはもう確認された事項です。手を貸したのは軍の外の連中でした」

「軍ではない……。エデンか」

「御明察。ただ、エデンも亜連の体制憎しで寄り集まっているだけのネットワークですから、連邦軍人である穂積を敵(かたき)と嫌う者も多い。全面的支援を得たわけでなく、あくまで構成一団体が穂積を抱え込んだだけの状態ですが」

 門宮はそこで一息つき、顔をしかめた。

「穂積はジョーカーを引き当てましたよ。奴に手を貸しているのは九天軍。ご存知ですよね、エデンのなかで最も戦い慣れした、PMC同然の一派です」

 もちろん江藤はその名を知っている。まだ二十代だった頃に、銃を持って戦ったこともある。たしかにあれはプロだった。どうして制服を着ていないのかと不思議に思うくらい、彼らはただ戦うことに特化している。主義主張を叫ぶこともなければ、とりあえず目立つ建物を壊すというパフォーマンスもやらない。戦って、略奪して、姿を消す。それだけ。それゆえに通常エデンと一括(くく)りにされる雑多な武装勢力のなかにあって、九天軍だけは別格の強さだった。おそらくはエデンに属する一般的な団体、つまるところの反体制思想の持ち主たちは、九天軍に金品を渡して戦闘を発注している。九天軍はエデンの傭兵なのだ。

「九天軍が穂積を得たところで金にはならない。別のパトロンがついているはずだ。調べろ」

「ちょっと、江藤少佐、それはお門違いってモンでしょうよ。俺たちは元老院の身辺警護が仕事であって、軍の小間使いじゃない。そんな注文は警察か、戦略軍の情報部が受け付けているでしょう。そっちを当たってください」

「穂積は元老院を潰すつもりで叛乱を起こした。脱獄した今でも、その願いは変わっていない。RATはそう思ったからいろいろ調べているんだろう。ついでに俺を餌にさっさと穂積をおびき出せれば、元老院議員に害が及ぶ前にあいつを始末できる。そう画策しているんじゃないのか」

「被害妄想ですよ。だいいちあなたは軟禁中だし、指揮権もだいぶ制限されてしまった。穂積とやり合うために出かけるなんてことは許されないでしょう。投げ込めない餌に意味はない」

「俺がいつまでもここで引きこもっているほど大人しくはないと知っているから、こうして穂積の話を吹き込みに来たんだろうが、おまえは。それも正解だよ。だから、餌がせいぜい効果的に動けるように、情報を流せと言っている。おまえ、頭は悪いほうか」

「やれやれ、あくが強すぎて俺の好みじゃないですよ、あなたは。じゃあもうひとつお教えしておきましょう。軍はまだひた隠しているようですが、実は穂積の脱獄は今年の初め、もう二ヵ月半も前のことです。九天軍が牢を派手に吹っ飛ばして穂積を連れ去ったんです。以降、穂積は九天軍と行動をともにしていたものと推定していますが、いかんせん九天軍自体が掴みどころのない組織ですから、詳しくはわかっていません。確かなのは、穂積を牢から連れ出して匿(かくま)うよう九天軍に依頼した謎の人物Xは、去年の暮れにはその意志を固めていたってことです」

「元老院議員じゃないのか、そのミスターXは」

「面白い冗談ですね。もし事実なら下っ端の俺たちはとんだ道化というわけだ。――さて、道化の出番はあまり長いと白けてしまう。そろそろ退散しますよ」

 門宮は江藤の脇をすり抜けて出口へと向かい、手を洗う。

「あ、そうそう、言い忘れていました。例の議事堂襲撃の件ですが」

 洗い終えた手の水を飛ばしながら、門宮はふりかえる。

「うちが審議妨害のためにあれをやっただなんてことはありませんから、変な詮索はよしてくださいよ。俺の菊座にかけて本当です」

 声を潜めた会話にうんざりしていた江藤は、ここぞとばかりに腹から声を出した。

「さっさと消え失せろウンコ野郎が」


*   *   *   *   *


 長いトイレから戻り、談話室のドアを開けようとした江藤は、ドアノブに手をかけたところで動きを止めた。阿賀でも桜小路でもない男の声がする。二、三、会話が交わされるのをドア越しに聞き、言葉としては判別できなくともその波長を記憶と照合することに成功。正解に行き着いたところで思わず舌打ちが出た。

「お越しでしたか、櫛田大将」

 談話室に入るなり、江藤はぶっきらぼうにそう言った。それを受けて、桜小路の横に腰掛けていたカーネル・サンダース似の将校が顔を向ける。

「来たのではなく、帰ったのだよ。江藤少佐」

 櫛田伴雪は怒るでも笑うでもなく静かに訂正した。その瞬間、江藤がほのかに熱気を感じたのは空調だけのせいではない。

「たしかに基地司令と連隊長の座はあなたのものだが、この談話室は幹部なら誰でも使えるはず。そして階級に関係なく、先約が優先されるのがこの基地の原則。呼びもしないのにあとから入ってきた大将閣下に、お越しでしたかと挨拶するのにどのような不備がありますでしょうか」

「いくらまだ若いとは言っても、君はもう子供ではない。とりあえず席に着きたまえ。明日からの捜索態勢をあと半時で決めるのだから」

「大将閣下はいつからこの件の責任者に? 基地司令と連隊長の座ごときではやはり物足りませんか」

「無礼が過ぎるぞ、江藤少佐」と、阿賀が睨む。

「まあ、江藤君や、重石役が赴任して面白くない気持ちはわかるが、まずは座りたまえよ」

 桜小路までが宥めるように言い聞かせてくるので、江藤はしぶしぶ阿賀の隣に腰を落ち着けた。向かいの櫛田はそろそろ還暦を迎えるはずだが、体格、風格ともに「横須賀の英雄」と呼ばれた往時からの衰えを感じさせず、そこらの新任幹部など及ぶべくもない威圧感を発している。

「よろしい」

 櫛田は江藤の着席を待っていたらしく、沈黙を破る。

「江藤少佐、明日は黒龍隊を議事堂襲撃犯の捜索に当たらせる。機兵も出してよい。編成を阿賀少佐と話し合ってくれ」

「参謀本部から要請が?」

「出させた。私がな」

 櫛田はこともなげに言ったが、それは江藤がこれまでに知己を頼って手を回してもさっぱり実現しなかったことである。

「ただし、君が直接出向くことはまだ許されていない。したがって任務優先度AA(ダブルエー)の行使は封印されたままとなる。一般の部隊と同じ扱いで任務に就いてもらう」

「それは異存ありません。が、機兵を使うということは、何か捜査に進展があったのですか。機兵が必要そうな状況が生じたということであれば、ご説明いただきたい」

「君は私が機兵の運用について素人であると想定し、無為に部下と装備を危険に晒すことの無いよう慮(おもんぱか)ってそのような言い回しを選んだのだろうが、それは杞憂(きゆう)だ。隠居同然の閑職(かんしょく)に就いていた私だが、情報収集と勉強は怠っていない。機兵を投入すべき状況を適切に判断できるくらいの知見は備えている」

「被害妄想ですな。――痛っ。やめろ阿賀」

 テーブルの下で靴を踏み潰されて江藤は悲鳴を上げた。

「やめろだと。貴様こそ大将への非礼な言動を慎め」

「忠犬だな」反射的に思いを口にし、さらにそれに続く憎まれ口がひゅるひゅると喉を通り過ぎそうだったが、江藤は自制した。給料分くらいは頭を下げてもいいだろう、と妥協したのだった。

「では櫛田大将、この私奴(わたくしめ)に機兵が必要な理由を教え願えませんでしょうか」

 阿賀がさらに何か言おうとしたが、櫛田のほうが早かった。

「襲撃に使われた乗俑機と重機は、非常に効果的に運用された。鉄球とロケット弾で議事堂の裏に穴を開け、内部に比較的小型の武装乗俑機を突入させ、拉致に至った。彼らは本来議員たちを逃がすための地下通路を利用し、突入時に使用したビークルはすべて乗り捨てた。実にスマートだ。阿賀少佐が捕らえたしんがりも、トカゲの尻尾(しっぽ)に過ぎなかった。たいへん優秀な作戦指揮官がいる、ということだ。が、ひとつ解せないことがある。どうしてその優秀な指揮官が、バロッグを背にしながら襲撃を実行に移すような博打(ばくち)をやったのか。たしかにバロッグのせいで警察も軍も彼らの陽動に気づくのが遅れてしまったわけだが、彼らにとっても不意のバロッグは邪魔者だったはずだ。重要な手駒であるビークルがすべて使えなくなるかもしれないリスクを抱えて、突入を命じることができたのは何故か。バロッグを過小評価していたわけではないことは、議事堂の定置型BFGを二箇所とも迅速に破壊していたことからまず間違いない。そこで私はこう考えた。彼らには味方したのは、地下通路の情報とその鍵を渡した内通者だけではない。バロッグもまた彼らを利する方向に働いたのではないか。つまり、敵はバロッグを制御する技術を保有している可能性がある」

「そんな技術があるのかい、櫛田さん」

 と、付き合いがあるらしい桜小路が疑義を挟む。バロッグの制御といえば、バルムンクフィールドを展開して部分的にその効果を排除することしか亜連ではできていない。逆に、そうであるからこそ、兵器でありながら汎用性を重視した機兵というプラットフォームが創生されたと言える。あっちに出ろ、こっちでは消えろ、などと自由に制御できるのであれば機兵など全く無用の長物である。

「これは今しばらく他言無用でお願いしたいのですが」

 そう前置いて、櫛田は隣の桜小路に顔を向けた。

「啓示軍(オフェンバーレナ)はそれと疑われる兵器を幾度か使用しております。ダーダネルス作戦中の奇妙なバロッグの振る舞いも、啓示軍の開発したバロッグ制御システムに起因するものではないかと調査が進められており……」

「お待ちを」と江藤は遮る。「あのバロッグは啓示軍にとってもかなり厄介だったはず」

「外廓聯の働きで、啓示軍は予定の操作を行えなかったのだろう。しかし、技術はもう完成したかもしれない。今度こそ巨大なバロッグを亜連に発生させて、防衛体制を崩そうとしてくるかもしれないし、あるいは大掛かりな装置ではまた妨害を受けると諦め、小型化してもっと別の利用法を模索したかもしれない。たとえば、敵国の反体制勢力に技術供与してテロを唆(そそのか)すような方策は、コストもリスクも小さい」

「なるほど。啓示軍がエデンを支援しているか」

 桜小路はそれで納得してしまった。阿賀も不審な顔はしていない。やむなしか、と江藤は反駁を控える。

「――それで機兵の出番ですか。戦闘用としてではなく、移動可能な高度のバルムンクシステムとしての役目を期待されておられるわけですな」

「機兵でそのエデンの秘密兵器を感知できるというのは、希望的観測に過ぎない。そのことは指摘には及ばない。私とて重々承知している。しかし機兵を使う確実なメリットがひとつある」

「それは?」

 思いつかなかったので、江藤は素直に尋ねた。

「黒龍隊が健在だと世に知らしめることだ」

 櫛田は嘲(あざけ)るでも沈黙をもって洞察を促すでもなく、味も素っ気もない調子でこれに即答した。

「黒龍隊はダーダネルス作戦を生き残った。それは大変なことだっただろう。立派なものだよ、五十名余りの命をあの戦場で守りぬいたのだから。しかし、最後で台無しになった。君たちは暖炉の谷での啓示軍包囲戦に参加したあと、ロシアに逃げ隠れてしまった。戦いに加わらず、居場所を戦略軍や近衛軍に連絡することもなく……」

「お待ちください、大将閣下。その件については報告書を近衛軍、戦略軍、それから軍事委員会にも提出しておりますので、そちらを参照頂きたいですな」

「無論、内容は把握している。暖炉の谷で蔓延した、正常な判断力を失い味方同士で殺しあってしまう奇病を脅威と判断した君たちは、戦線を離脱し、また同じ戦場にいた自分たちがキャリアである可能性を憂慮して自らロシア僻地(へきち)に隠れた。後方への直接通信以外は中継段階で発病者に握りつぶされると考え、これも自重。バロッグ消失の二週間後に、ようやく軍の指揮系統の回復と奇病流行の終息を確かめ、姿を現した……。なるほど君の書いたことが真実なら冷静な対処だった。しかし我々現場にいなかった者にはそれを確かめようがない。そして、奇病云々(うんぬん)の話が真実だったとしても、それを一般に公開するわけにはいかない。少なくとも市民は……、いや、問題なのは寧ろ同じ軍の仲間だ。機密のレッテルで封印された真実に触れることのない大多数の将兵たちは、黒龍隊を臆病者としか見ない。任務優先度AAを使って、やったことはただ逃げ隠れただけか、と。君たちはまずその汚名を払拭(ふっしょく)せねばならない。そのための方策をいくつも練っていたが、今日の事件はちょうどいい糸口になる」

 エデンの掃討など名目に過ぎない、と櫛田は言っている。他でもない被害者、桜小路の横で。阿賀にしても部下が大怪我をしている。今の櫛田の発言にはあまりいい思いはしないはずだったが、文句が言葉として出ることはなかった。

「黒龍隊の復権。そのために私は引退を先に延ばし、今回の仕事を引き受けた。この最後の大仕事、当事者たる君がもっと自覚して取り掛かってくれなくては困る」

 櫛田はその言葉で全員の反論を封じた。江藤は勿論、黒龍隊を設立から支援してきた桜小路も、黒龍隊との相互連携がなければ変則領域内での治安維持活動に支障をきたす阿賀も、運命共同体なのだ。

 その後、櫛田主導による対策会議は実際には三十分とかからずに終幕した。



- 4 -


 江藤の足は自然と格納庫へと向いていた。士官用宿舎の自室に戻ってシャワーを浴び、ベッドに身を投げゴン太と眠ってしまうのが標準的なストレス解消法だったが、今宵(こよい)はそれだけでは収まりそうになかった。

 格納庫にはまだ煌々(こうこう)とした灯りがついていた。アラート待機で数名が詰めているはずだが、最近格納庫の隅に小部屋を作ってそこで暖を取れるようにしたため、格納庫のメインの照明をつけておく必要はない。よく見ると、点灯しているのは格納庫の奥の一画だけだった。そこには稼動状態とは程遠い、龍(ロン)のバラバラ肢体が安置されている。

 江藤は誰が残っているのか見当がついた。

「門限を過ぎてるんじゃないのか、北嶋。おーい、北嶋ー。恐妻家ー」

 大声で呼ばうと、龍の腹の中から北嶋三朋が顔を出した。すぐに江藤の姿を認めて、怒鳴る。

「愛妻家だ!」

 小部屋のほうから若人の噴き出す声が漏れ聞こえる。江藤もにやりと笑った。――笑えた。体重以上にのしかかっていた荷重が薄れる感覚。

「そこまで根を詰めてくれなくてもいいんだぞ、北嶋。家に帰って二人目でも作ってろよ」

「労(ねぎら)い方を知らないよな、おまえは」

 北嶋は開け放ってある龍のコクピットハッチに背を預け、腕を組む。

「――制御系の拡張はあらかた終わった。あとはエアインパルサーの現物が届くのを待つばかりだな。明日は早く帰らせてもらおう」

「そうしろ。どうせこれは、俺の道楽のようなものだ」

「馬鹿を言うなよ。この複座型の改造くらいしか、俺のプロ意識を満足させる仕事はないんだから」

 北嶋は格納庫を見渡す。江藤もそれに倣(なら)った。一ダースの龍を格納する広さがあり、半ダースを解体整備できる作業台まで用意された文句のない格納庫である。しかし、実際に収まっている龍は三機しかない。北嶋が主導して改造中の複座型を員数に加えて、ようやく三分の一ダース。全く寂しいものだった。

 四機の龍はすべて、帰還した黒龍隊に与えられた新規製造機である。なにしろ、黒龍隊はダーダネルス作戦に十機の龍で臨み、そのうち一機も日本に連れ帰られなかった。暖炉の谷での最終突入まで生き残っていた機体も、もともと他の大破した機体から部品を融通して騙し騙し使ってきたものだけに、もはや再起動は不可能だった。黒龍隊は二月の頭に猿之門へ戻ったが、補充が与えられるまでの三週間は、関東地方防衛の役目など全く果たしようがない状態だった。

 もっとも、戦えないのは機兵がないばかりが原因ではなかった。

 隊員の怪我は、ロシアでの潜伏中におおかた回復した。日本に戻ったときにはまだ包帯や痛み止めの欠かせない者もいたが、任務がこなせないほどではなかった。乗俑機なり装甲車なり与えてくれれば治安出動の加勢くらいはできたに違いないのだが、それでも黒龍隊は一歩たりとも基地を出ることを許されなかった。戦略軍は、江藤から指揮権を剥奪するという軍事委員会の決定だけでは物足りなかったのだ。

 未解明の精神病罹患(りかん)者。それが黒龍隊の全隊員に適用された扱いであり、軟禁の名目だった。初めのうちは阿賀たちすらも黒龍隊を遠巻きに胡乱(うろん)な目で見ていた。どこまでが罹患を信じた眼差(まなざ)しで、どこからが「何をやらかしたら精神病などという名目で軟禁されることになるのだ」という視線であるかは判然としなかったが、怒る気持ちにはならなかった。

 実際、あれは精神病と呼んでも差し支えない。暖炉の谷で味方同士撃ち合っていた異郷の友軍将兵たちのことを思い起こし、江藤はそう思った。

 啓示軍(オフェンバーレナ)の絶対防壁“ベルリンの壁”が発生した事実は情報統制により伏せられ、暖炉の谷包囲戦にてこずったのは現地で急速に広まった精神病のためと伝えられた。もちろん、これも軍内部での話で、市民向けには何の公式発表もない。一部のメディアは嗅ぎ付けて騒いでいるようだったが、江藤の見る限り、まんまと囮に釣られてしまっている。怪しい精神病のことばかり空想妄想を交えて報じ、“ベルリンの壁”が発生したことには全く気づいていない。実際、現場を知る何人かが情報を漏らしたところでにわかに信じてもらえる現象ではないし、なにより、証拠が乏しい。バロッグがまだ消失していなかったせいで、あれを観測した映像は軍とRAT(ラット)以外誰も持っていないに違いなく、そして、同じような映像ならいくらでもCGで作成できるのが現代である。

 いつ仲間を襲うかわからない、という理由で武器を取り上げられた黒龍隊だったが、実はその間に議会がいろいろと紛糾していた。なにしろ病気の正体は元老院派やRATの隠蔽(いんぺい)工作のためはっきりしない――仮に情報がすべて伝えられたとしても常識的な頭脳に信じられたかどうかは疑わしい――ので、議会での楽観論と悲観論は完全に平行線を辿った。

 しかしやがては、病気は再発しないという楽観論が優勢となった。一ヵ月が経過しても再発と確認された事例がなかったことに加え、金の問題が深刻だという主張が生じたのである。もし病気を名目にして黒龍隊を拘束し続けるとなると、暖炉の谷周辺に展開した数万の将兵をも同様に隔離し続けなければ道理に合わないが、そんな収容所を作る予算の余裕はない。これをがんばって説いたのが桜小路たち黒龍隊創設推進派だった。彼らの努力の結果、江藤以外の隊員は基地を出てもよいことになり、銃は戻され、機兵が配備された。

 あとは江藤の権力さえ戻れば黒龍隊は再生するが、しかしこれはまだまだ議論が紛糾中だった。精神病の名目が潰(つい)えただけのことで、江藤にこのまま黒龍隊を預けてはならぬとする勢力が態度を変えたわけではない。江藤自身、彼らの言い分には納得できる。ダーダネルス作戦中の行動は、時空跳躍という到底信じてはもらえない部分をあの手この手で偽装して――これについては北熊(セヴェルメドヴェーチ)の情報筋に世話になった――報告してあるが、西フェルガナ基地からGT72鉱山基地までの南下を裏付ける目撃情報やデータは一切あるわけがなく、またその移動経緯の言い逃れも苦しいものがあった。まして、最後は暖炉の谷で敵とされる応龍隊と結託したり議会派と組んで元老院派の制圧に乗り出したり……と、攻撃材料はいくらでも揃っている。特にマヒロフスキーへの攻撃は、古菅(こすが)が議会派の代表として陣頭指揮を取ってくれなければ相当まずかった、と複数の議員から江藤はお叱りを受けた。かつての上官の狐目の顔を思い浮かべ、初めて礼状なるものをしたためてみようかと検討した江藤だが、結局、まだ書いてもいない。

 そんなわけで、当面、指揮権は戻りそうになかった。つい先日、対テロ出動に関してはかなり制限が緩くはなったのだが、それを勝ち得た経緯については江藤はまだよく知らない。今日の事件がなければ、いつものルートで情報が来る頃合だった。桜小路の美人秘書、阿納真理からのメールで。

「議事堂を襲ったのは、やっぱりエデンなのか」

 首をめぐらせたまま物思いに耽(ふけ)っていた江藤を、北嶋の問いが呼び戻す。

「犯行声明は出ていない。藤居や阿賀の部下から聞いたところを総合すると、どうも九天軍が噛んでいるな。そのものではないにしても、リーダーが九天軍から派遣されているとか、九天軍出身者だとか、そんなだろう。カーネル・サンダース閣下から機兵を使うお許しは出た。今度は音響攻撃といわず、雷紫電(ライシデン)だって使えるだろう。さすがに火縄やらは無理だろうが」

「テロリスト相手に口径一〇五ミリのライフル砲を使う気か、おまえは」

「東や北じゃ、被害拡大を防ぐためには善良な市民への被害もやむなしということが多いんだぞ」

 江藤は昔を思い出す。東部方面軍の治安維持部隊にいた頃の直属の上官が古菅だった。やはり礼状など出してやるまいと江藤は考え直す。

「消耗品はまだ足りているんだな」

 確認すると、北嶋は頷いた。

「継ぎ接(は)ぎして稼動機体を揃えていたダーダネルス作戦中の苦労に比べたら、最近の整備なんて入門編のようなものだ。新規格になっているぶん、複座型の改造のほうがよほど訓練になっているさ。――ああ、明日は阿賀少佐のところへ応援を回したほうがいいかもしれないな。メーカー修理に回す暇はないんだろう?」

「ああ、それはやったほうがよさそうだな。阿賀に電話かメールを入れておこう」

「本当なら上妻中尉の見舞いにもいけるといいんだが」

 複座型から降りながら北嶋は溜め息をついた。江藤以外の隊員は外に出られるようになったが、それでも、幹部である北嶋の監視は厳しい。自宅のほかに商店街にでも寄ろうものならしっかり尾行がついてくる。上妻の入院した病院には他にもダーダネルス作戦帰りの傷病軍人がたくさんいるので、当然、商店街ほど自由にはできないだろう。

「暇ができたら、行くだけ行ってやれ。顔を見せるだけでもいいだろう。阿賀たちにはそんな余裕がないだろうしな」

「ああ」

 頷いて、北嶋は固まった。おもむろに江藤の目を見据える。

「なんだよ」

「おまえ、今、カムフラージュになると考えただろう。俺に病院でスパイみたいなことをさせようとしても、無駄だぞ。俺にはそんな芸当はできない。富窪(フーワー)くんには別の接触手段を考えてもらえ」

「ちっ」江藤は目をそらした。「チャンスだと思ったのに」

「俺はあれを改造するだけだ。部品の調達はそっちでやるっていう話だっただろう」

「そうはいってもなぁ。おおっぴらに注文できる品はもう全部やっちまったよ。あとはこそこそやるしかないんだ。北熊に預けて来た雷麒麟(ライキリン)を、堂々と取り寄せるわけにはいかんだろうが。絶対にどこかの検問でひっかかる。しかも、だ。今日のあれのせいで、余計にチェックは厳しくなるぞ」

「内通者がいるとかいう話だったか」

 北嶋は声を落とした。なかなか心得が身についてきたなと江藤は感心した。やはり周(チョウ)富窪を病院に向かわせて北嶋と接触させるのが正解のように思われる。

「議事堂からの抜け道なんて、城を例に取れば古来から別に珍しい話じゃないが、あの短時間で入り口を突き止め、そのうえ通路内でも使える何らかの移動手段まで用意していたというのは、出来過ぎクンだ。藤居の判断は正しかった。うまくいけば、俺たちが機兵でうろちょろせんでもそっちから足がつくかもしれんな。うむ、それに期待しよう」

「あまり捜査協力に乗り気ではないようだな」

「手段が気に食わないだけだ」

 江藤は櫛田の案を北嶋にざっと説明する。

「なるほどね」北嶋は実際、感心しているようだった。「事前の知識が違うとこうも考えることが変わってくるんだな」

 北嶋はまさしく問題の本質を突いていた。櫛田は、肝心なことを知らないのだ。啓示軍が第二のベルリンの壁を暖炉の谷に作ったこと。その力によって亜細亜連邦軍の同士討ちが発生したこと。そして、変則領域を操るような襲撃作戦は、何も啓示軍から技術供与など受けずともできるかもしれないこと。

「俺なら、おそらく、同じことができる」

 北嶋が言い出しにくそうにしていたので、江藤は自分から告白した。

 櫛田は犯人らが変則領域を操っていると推定したが、そこまでいかずとも、変則領域を機械類の作動に影響が出ない段階で鋭敏に感知し、さらに分布の推移を感じ取ることができれば、事足りる。決まった日時に必ず襲撃する必要があるのなら話は別だが、議会はここのところ連日開かれており、敵は偽装した重機や乗俑機を街に忍ばせ、バロッグが都合よく議事堂を覆ってくれる時を待てばよかった。

「仮に、仮にだが、おまえと同じ力を持つ人間がエデンにもいるとすると……。江藤、おまえが秘密を明かす日がやってきたんじゃないか? 差し迫った利害が絡めば、おまえの話を真剣に取り合わざるを得ないだろう。何も完全に信じてもらう必要はない。調べを進めるうえで十分考慮に値すると認識させられれば、無為に時間と労力を失うことは避けられるし……」

「駄目だ、駄目」江藤は大きくかぶりを振って否定した。「それでめでたく俺の第六感が信じてもらえたとして、そのまま容疑者にされるのがオチだ。科学音痴の作為終末論者だけでも鬱陶(うっとう)しいのに、国家権力まで相手にしたらさすがに俺でも身が持たん」

 故に、敵に変則領域を感知できる人間がいるという前提での調査は、黒龍隊だけで密かに行わねばならない。幸い、警察との連携は取れているので、仮説を裏付ける証拠、たとえば襲撃に使われた乗俑機や重機の移動記録などは、いずれ手に入ると期待できる。気がかりなのは、捕まった議会関係者の命がそれまで持つかという点だった。証拠が揃ってからでは遅いかもしれない。調査にあまり時間はかけられない。

「江藤、むきにならずに聞けよ」

 北嶋はさらに一歩を詰める。

「なんだ?」

「RATに協力を依頼できないか。GT72でも暖炉の谷でも、証拠の処理をやったのはRATだった。彼らはきっと、変則領域について世間の共通認識以上のことを知っている。軍や政治家を恃みとするより期待値が高いんじゃないか?」

「蛇の道は蛇というわけか」

 江藤は腕を組み、考えた。

 たしかにRATなら、情報網も、武装した襲撃犯を見つけた場合の制圧能力も、申し分ない。八月の悪夢で残されたクレーターなどの、変則領域がしばしば発生する場所を警備している組織でもあるので、今日議事堂を覆った程度のバロッグであれば活動に大きな制約は受けないに違いない。

 しかし、江藤には抵抗があった。

 RATには昔から胡散(うさん)臭いものを感じてきたが、暖炉の谷で疑心はさらに増幅された。部下の久留(ひさどめ)が実はRATの潜入工作員であり、元老院派制圧作戦の肝心なところで裏切って鷹山たちを手にかけたと聞かされたとき、江藤は胸に直径三十センチの風穴を開けられたような感覚を味わったのだ。後味はまだ消えていない。報告書や各種の書類を作成するたびに、江藤は、猿之門に帰還した隊員の名簿にひとり欠員があることを強制的に思い出さされる。密かに黒龍隊を監視するという本来の目的を果たせなくなった工作員、久留正弘(まさひろ)は、暖炉の谷で元老院派が連行したまま全く音信不通である。書類上は、ダーダネルス作戦中に発動された特別規定第一〇号に則(のっと)って、他の部隊に転属となったとされている。

「RATと通じるとなると、支援議員やら櫛田大将やらがいい顔をしないだろうな」

 もっともな言い訳を見つけて、江藤はそれを口に出した。久留の件は、軍事委員会が元老院に向けて抗議を送ったらしいが、それに対して元老院が謝ったという話は聞かない。江藤としては怒りよりやるせなさが先に立つ事件だったが、久留と話したことも同じ釜の飯を食ったこともない老人たちにとってはやはり違うのだ。

「だから、ここだけの話にするんじゃないか。俺とおまえ、あとは藤居くんに話すかどうかだ」

 つまり、江藤の能力についてもともと知っている人間に限ると、北嶋は言った。

 江藤は南田や峰國(フェングォ)の顔を思い浮かべたが、まだ決心はつきかねた。一月十八日未明の暖炉の谷の特異点から、五日後のロシアの片田舎まで、二度目の時空跳躍を一緒に体験したふたりだが、江藤の能力に特に気づいた様子はない。あれらの現象は“ベルリンの壁”や、AHシステムと呼ばれる雷麒麟独自の謎の制御機構が相互作用して引き起こしたものだと捉えているようである。つまり、他の隊員と同じようにあの一連の出来事を位置づけている。江藤が打ち明け話をしたところで、誰も冗談と思って信じないか、あるいは江藤の正気を疑う。後者の可能性は深刻である。凱旋以来、真実を隠し続け、噂しか知らない周囲からの好奇の視線を受け続けている若者たちにとって、隊長の精神破綻は我慢の限界を破る槌(つち)となる。黒龍隊崩壊の危機を隊長自ら招くわけにはいかなかった。

「そうだな、北嶋の言う通りだ。RATを使うのが一番いいだろう。門宮がどうせまた俺の様子を見に来るだろうから、そのとき話を振ってみる。藤居にも話を通しておこう」

「やけに素直だな。気持ちが悪いぞ」

「疲れているのさ」江藤は笑おうとして、失敗した。「今日はもう休む。おまえも早く帰れ。俺たちの選んだ道は、まだまだ先は長いんだ」

 江藤は踵(きびす)を返して格納庫を出る。

 寄ってよかったという満足と、自室へ直行すればよかったという後悔がぶつかり合う。

 RATを頼ってみるというアイデアは、江藤ひとりでは無意識の拘(こだわ)りが障害となって思いつけなかっただろう。それはプラスだ。北嶋が副長としてそばにいてくれることは、就任時に予期した以上に、助けとなっている。北嶋なくして江藤は野望を抱き続けることはできなかった。

 しかし、余計なことを話してしまったという思いも強かった。

 北嶋には妻子とともに囲む食卓が何よりも似合う。昔から北嶋を見てきた江藤には、誰よりもそれがわかる。なのに、今の話をしたせいで、また北嶋はその暖かい家庭から一歩遠のいてしまった。北嶋は今夜もまだ帰らないだろう。阿賀たちの乗俑機の修理に必要な機材と資料を帰宅前にチェックしようとするはずだった。

 北嶋をあまり頼ってはいけない。北嶋の妻子が猿之門に越してきてから、江藤は強くそう意識するようになった。それなのになかなか脱却できない自分がいることに、江藤は苛立ちを抑えきれなかった。北嶋を頼るつもりがなければ、格納庫になど来る必要はなかった。無意識に来てしまったという事実が、江藤の依存心の根深さを鏡よりも明白に映し出している。

 格納庫から出ると、夜空は晴れて星が煌いていた。

 江藤は星空を仰いで歩きながら、自分の無意識の願望を発見していた。

 ――本当は、脱獄したという穂積克のことで北嶋に愚痴りたかったのだ。

 心置きなく愚痴を漏らせる相手を、江藤は他に持たなかった。



- 5 -


 土曜日昼過ぎの人出を、南田(みなみだ)竜時(りゅうじ)は甘く見ていた。猿之門もまだまだ捨てたものではない。

 南田は階級を同じくする三人、李(リー)峰國(フェングォ)、坂元唯史(ただふみ)、鷹山諒真(りょうま)と肩を並べて、猿之門の中心地たるアーケード街を歩いていた。これは今週の予定にはなかった行動である。本来なら、週末もお構いなしでみっちり続く教育訓練を、今この時間も受けているはずだった。遠き九州の上級兵科学校で。

 ラッパでも吹き鳴らせと言いたい気分で凱旋した南田たちは、随分な温度差に晒された。戦力の補充を受けられず、あまつさえ江藤の権限も制限されて骨抜きとなった黒龍隊だが、抜かれたのは骨だけではなかった。南田たち四人の曹長は、少尉昇進の条件として上級兵科学校への入学を近衛軍統監部から命じられ、神奈川の猿之門基地から、福岡は久留米(くるめ)の上級兵科学校へ飛ばされてしまった。

 嫌がらせではないか、というのがこの人事に対する南田の感想だったが、悪い話じゃないと断言したのは坂元である。

 実際、たった一ヵ月で上級兵科学校を出られるというのは異例なのだった。普通、極東方面軍では士官学校を出てもそれだけでは少尉にはなれず、上級兵科学校に半年は通うことになる。そこで陸軍、海軍、空軍といった組織に応じた教育と訓練を受けるのだ。南田たちは機兵科とでも言うべき新たなカテゴリに属し、さらに早急に前線へ送り出す必要があったために、そのあたりは配属後に体で学べという扱いだった。そのかわりに、戦力として一定のレベルをクリアするまでは階級を曹長に止める。

 上級兵科学校へ行かなくてよいという話は機兵操縦訓練の頃から聞かされていたが、実務で実力を認められればそのまま少尉になれるという話があったことは、最近ようやく知った。ダーダネルス作戦から帰還して、さらに半月が過ぎた頃、すなわち二月の下旬だった。どうせ大半は死ぬのだからと前線に送り出して、生きて帰って来たのでしかたなくそんな決め事を作ったのではないか、という疑いも抱かないではない。が、もはやどうでもよいことだった。少尉への昇進を判断すべき立場にある江藤が、その権利を凍結されたのだから。

 黒龍隊の暴走を抑止する対策は取ったが、さすがに幹部育成まで止める手はないということで、軍事委員会では代替条件が急遽(きゅうきょ)策定され、右院はわずか十分でそれを通し、軍はそのための教育態勢をでっち上げた。その結果が三月まるまる一ヵ月の教育訓練であり、おかげで南田たち士官候補四名は仲間と引き裂かれ九州へ送られた。

 南田もメリットがわからないではなかった。曹長と少尉では幹部かそうでないかという厳然たる違いがある。もちろん給料にも違いが出る。さまざまな計算をすると結論は得というところに落ち着く。坂元にわざわざ説いてもらわずとも、それはわかるのだ。そもそも少尉への昇進はかねてよりの南田の懸案事項であった。

 それを素直に喜べず、むしろ不安を覚えたのはどうしてか、南田は自覚していた。それは、少尉への昇進が叶ったとして、黒龍隊に戻れるとは限らないからだった。一応、特殊な事例として南田たちの所属は黒龍隊から外されず、上級兵科学校での短い教育訓練を終えれば、猿之門基地に戻り黒龍隊の幹部陣として活躍するのだと説明されていた。しかし、三月末日という卒業期日までに黒龍隊を骨も肉も見境なく切り崩そうとする法案なり裁判結果なりが出る虞はじゅうぶんにあった。

 南田の心配をよそに月日は過ぎて、三月も下旬となった。ダーダネルス作戦で実戦を経た身からすればいまひとつしっくりとこない教育を受けるのも、あと少し。これまでのところ、黒龍隊をさらに無力化しようとか解体しようとかいう動きは出ていない。後ろ盾の一部である右院議員や、軍のお偉方ががんばっている結果なのだと南田は推定している。決していじけた江藤の愚痴が誰かの憐憫(れんびん)の情を引き出したなどということはない。

 ともかく黒龍隊の立場は低空飛行ながら徐々に高度を回復している。あの頃はそんな心配もしたよなと笑い話にできそうな按配である。

 が、今再び南田の心配事は息を吹き返そうとしている。ドラッグストアの安売り広告を横目に物価の上がり具合を確認し、さらに気分は陰鬱(いんうつ)となる。

 急遽、土日は休みとするから猿之門基地へ帰れと言われたのは、金曜の夕方の座学を終えたときのことだった。つまりは昨夜のことである。それから夕食もそこそこに荷物をまとめて――奇跡的に特に課題を出されなかったので荷物の選定は下着のローテーションくらいしか迷うところがなかったが――夜行バスに乗り込み、そしてようやく猿之門まで帰り着いた。日曜の夜にはまた夜行バスで逆の行程を辿るのだろう、と未来に思いを馳(は)せると気が重いが、今は久しぶりに隊の仲間の顔を見られることをよしとすべきだと、南田は自己暗示をかける。硬く狭い座席で尻が痛くなったのも我慢する。品不足で物価が高いのも土日が休みになったのも強制的に猿之門へ帰らされるのもたいした問題ではない……。

「しかし本当にいいのかね、道草食って」

 古着屋の前で立ち止まっていた鷹山が、追いつきがてらに言った。

「江藤少佐が許可したんだ。責任は取ってくれるだろう」

「そもそも、隊長以外に俺たちを叱ろうと思ってる人はいないんじゃない?」

 南田が請け合い、峰國が茶々を入れた。

「物言わぬ監視は、しっかり付いているだろうな」

 坂元が周囲に聞こえない声で警鐘を鳴らす。が、目は近くのファーストフード店二階席の女の子を品定めしている。南田は器用さに感心するとともに、坂元はやはり少し変わったなと思う。笑うことが少なくなった。前ならば、ここで笑っているはずだ。気づけよ馬鹿め、とでも言いたげに。

「まあ、昼飯を外で食ったからってペナルティはないだろう。基地の厨房(ちゅうぼう)はもともと俺たちの分はカウントしていないんだし、食って帰るのがマナーだ。――あ、そこで左だったろ」

 四人はメインの通りから小路へ入る。少し歩いて立ち止まったのは、猿之門基地で評判の小さな店の前だった。アーケード街の隅にいい店がある、という噂には、風変わりな店名の看板がかかっているという情報も含まれていた。胃之上食堂。解剖学的に胃の上流には食道がある、という洒落(しゃれ)と思われるが、それを店主に確かめた者は、南田の知る限りでは皆無だった。面白くないですよ、などと言おうものなら……。

 のれんを押し、格子戸を横に引いて開ける。このときがらりと大きく音が鳴るのを南田は気に入っていた。実際に食事にありつくまでもなく、その敷居をまたいだだけで幾分落ち着きを取り戻した。

「らっしゃい! よう、あんたらか。しばらくだったな」

 店に入ると正面やや左手がカウンターで、右手には四人掛けの小さなテーブル席が三組。蕎麦(そば)屋かうなぎ屋か、といった造りの店だが、アジア各地から集めたと思しき民芸品があちらこちらに飾られており、飲み屋のような雰囲気もある。それでもここが基本的に和食の店だと誰でもすぐ理解できるのは、南田たちを景気よく迎えた店主のいかにも板前といういでたちゆえだった。挙句(あげく)に禿頭(とくとう)と鉢巻(はちまき)の取り合わせである。ムニエルとかパスタとかマリネとかいう品は間違ってもメニューには載せないだろう、と黒龍隊の間では認識が一致している。

「それが、九州に缶詰だったんでね」

 テーブルも一卓空いていたが、南田はカウンターを選んで座った。特に文句も出ず三人が横並びに続く。

「なるほどな。俺の味を覚えたひとりもんが、一週間も間を空けて我慢できるわけがないよな」

 大将は葱(ねぎ)を切る手を休めずに言った。包丁がまな板を叩くリズムが小気味よい。その背後には彼とこの店の名が載った新聞記事や賞状が貼り付けられている。何度も眺めたので南田はこの大将の名をしっかりと記憶していた。鹿室(かむろ)匠(たくみ)。

「たしかに大将の飯はうまいんだけどさ。基本的には外食無理なんだよね、俺たち」

「おう、真面目に仕事してるんだな」

「まあ、ね」

 仕事どころか学生に戻っている、とまで漏らすと機密保持に抵触するかもしれない。そう思った南田は言葉を濁し、カウンターに溜め息を落とした。

「おいおい、うちでの溜め息は、俺の飯の美味たることに感激したときだけにしてくれねえかな。注文は?」

「あ、俺、梅カツどん」

 壁にかかったぶんのお品書きを精査していた鷹山が手を上げた。以前、第三二普通科連隊の小笠木上等兵が、あれは絶品ですよと太鼓判を押していた品である。おそらくはこの店のオリジナルで、梅の香りと酸味が見事にとんかつを引き立てる、らしかった。前に来たときは小笠木の話を聞いていなかったので、気づきもしなかった。隠れメニューかもしれない。

「俺はあなご定食で」

「天丼! 天丼!」

 坂元、峰國が続いて注文する。南田は慌てた。まだ何も決めていなかった。お品書きに目を走らせ、これまでに食べた炒飯(チャーハン)と唐揚定食以外のものを、とだけ考えて、選んだ。

「じゃ、俺は炭炉(たんろ)丼で」

「なんだそれ」と峰國。

「読み方はわかんないけど、なんかの炭火焼だろ? 炭火焼ってわかるか?」

 南田は字を峰國に指し示す。峰國は一旦頷いて、しかし納得しかねたようで改めて首をかしげた。南田は店主、鹿室に目をやったが、もう料理に取り掛かっていてカウンターの会話など耳に入らないようだった。とりあえず注文の意図は伝わったようなので南田はほっとする。

「それさ、もしかして……」

「サーベルタイガーの一種ッスね」

「うわわっ」

 顔を背けていた右隣の席から急に割り込まれた南田は、驚きのあまり大声を上げて立ち上がった。椅子(いす)を倒しそうになったが、幸い峰國が背もたれを押さえてくれたので椅子も自身もこけずに済む。

 しかしその驚きはまだまだ序の口だった。

「な、なんで、おまえっ」

 南田は上ずった声で、忽然(こつぜん)と現れた右隣の客を指差した。行儀が悪いと母に叱られた記憶の強い所作(しょさ)だが、今は他にどう手を動かすべきか思いつかない。

 ――しかたがない。ダーダネルス作戦中に黒龍隊に付きまとっていた謎の工作員、周(チョウ)富窪(フーワー)が、さも平和そうに爪楊枝(つまようじ)で歯の掃除をしているのだから。

「なんでって、そりゃあ兄さん、お気づきではないようでしたのでね。それはスミロドンと読ませているんですよ。恐竜じゃないです。サーベルタイガー。れっきとした猫の眷属です」

 そういうおまえは狸の眷属だろう、という感想は言葉にはならなかった。もっと優先して問うべき事柄がいくつもあるはずだが、口を金魚のようにぱくぱくさせるしかできない。

「いたのか、周富窪」

 いちばん遠い席の坂元が無感動にその名を呼んだ。置物を擬人化した漫画がそのまま動き出したような男は、不気味なくらいの満面の笑みを浮かべた。

「奇遇ですねえ、皆さん。まさかこんなところでお会いしようとは」

「それはこっちの台詞だ。おまえ、ロシアで療養中じゃないのかよ」

「大袈裟(おおげさ)ですねえ、竜時兄さんは。あんなかすり傷、とっくに治りましたよ」

 胸を叩いてみせる富窪。暖炉の谷で負った傷は、決して浅くはなかったはずだった。だからこそ黒龍隊と同じ潜伏先に動かすことはできず、北熊が責任を持って面倒を見ると言ってどこかの大きな病院へ運びこんだのだ。それきり会ってもいないし消息も聞いたことはなかった。

「ま、座ったら? 竜時」

 峰國は南田を席につかせ、そして富窪への尋問を代わった。

「君らのグループがうちの隊長に付きまとってた事情は聞いたけど、まだそれの続きをやってんの?」

 峰國が使った「君らのグループ」という遠まわしの表現は、ここが商店街の一画の定食屋という事情を特別に意識したものではないはずだった。周富窪が誰の命令で動いているのか、南田は未だに知らされていない。江藤にしつこく聞いてみたこともあるが、知らないとの答えしか得られなかった。

 ただ、ダーダネルス作戦中の行動はすべて黒龍隊を守るためだった、という証言は、今では信用してもいいと思っている。北熊(セヴェルメドヴェーチ)は周富窪を重要な取引相手として扱ったからだ。北熊の信用がなければ、暖炉の谷で重傷を負った周富窪に適切な治療を受けさせることはできなかった。野戦病院に残しておいては、確実に敵の手が回る。周富窪の敵が黒龍隊にとっても敵であるかどうかはまだ分からない。どういう利害があって黒龍隊を守ろうとしたのか、それが明らかになれば判別もつくに違いないが、なかなか謎を解き明かす機会はなかった。

「そうだ、何をしに来た」

 鷹山も問いを重ねる。

 富窪らの当面の狙いである、ダーダネルス作戦中の黒龍隊の保全はひとまず達成された。南田たちは無事に猿之門に帰って来られたのだ。新兵器試験部隊として規模縮小されるとか、隊解散とかいう憂き目が待っているかもしれないが、今はまだ差し迫った状態ではない。したがって、富窪たちはしばらく別の仕事にかまけていいはずである。

 しかし、周富窪はここにいる。

「またまた、おとぼけになられちゃ困りますよ。あっしは皆様からのご指示で働いております。誓って、北熊から黒龍隊の動向監視など命じられてはおりませんとも」

「何も指示なんて出した覚えがないんだけどな、俺たち」

 峰國の言葉に、南田も頷いた。まだ北熊の手配した病院で療養中だと思っていたくらいなのだから。

「え」富窪の笑顔が瞬間冷凍された。「――おっと、これはあっしとしたことが。口が滑ったようで。お忘れください。いやあ、奇遇ですね、皆さん。こんなところでお会いするなんて」

「今更遅いっつの」南田は富窪の頭を上から手で押さえつける。「吐け。誰から何を頼まれてるんだ、おまえ」

「うちのボスだろ、大方」

 富窪が口を割るより早く、坂元が推論を披露した。

「そうなのか」

 ありそうなことだ、どうせそうだろう、とほぼ信じながら、それでも南田は富窪を解放しなかった。確認するに越したことはないし、指示の内容までわかったわけではない。

「まあまあ、抑えて抑えて、いや、これ以上押さえないで」

 富窪は南田の手がどくのを待ってから、続けた。

「――江藤の旦那(だんな)から調べ物を頼まれていましてね。今日はその中間報告ということで寄らせて頂やしたが……。あいかわらず旦那は禁足中で、あっしも基地には入れないもんで、困っていたんですよ。ここで兄さん方にお会いできたのは本当に良かった。さすがは北嶋大尉のご紹介のお店。ツキがある」

 南田は江藤に嵌(は)められたことを悟った。昼食を外で取っていいと許可すればこの店に寄るとお見通しだったのだ。通話が盗聴されていても、言葉のやり取りだけでは行き先はわからないはずだった。だから富窪も、外に控えているであろう監視にはマークされずに接触できる。しかし、わからないこともあった。

「北嶋大尉と会ったのか?」

「ええ、今朝、病院で。こっそりですけどね。――あ、周りに気取られちゃいませんよ。これでもこの道長いんです。北嶋大尉もなかなか芝居がお上手になった」

「病院って、誰か病気に? 愛妻の裕美子さんか?」

「いえいえ、ご家族は全然大丈夫です。そして病気じゃなくて怪我のほうですね。兄さんたちのお隣さん、第三二歩兵連隊第七中隊の将校の方です。名前は、えーと、上妻中尉」

「阿賀少佐の右腕だな」坂元の反応は早かった。「昨日の議事堂襲撃テロか?」

「ええ、あれらしいですね。もう命の心配はないようですが」

「おい、そんなにひどかったのか、昨日のテロって」

 鷹山の声が大きくなった。

「声が大きいですよ、鳥の巣の兄さん」

「鷹山だ」

「失礼。鷹の巣の兄さん。――もしかして皆さん、ご存じないんで?」

「何をだ」

 勿体(もったい)をつける富窪への苛立ちを努めて抑えながら南田は尋ねた。

「議員及び秘書、職員、警備員らで死傷者十二名。行方不明者二十八名。軍、警察の被害と入院未満の軽傷はカウントしてません」

 富窪は他の客たちの様子を窺ったあと、声を落としてすばやく告げた。その内容を理解するのに南田は数拍を要した。

「――冗談のセンスがないぞ、おまえ」

 喉を湿らし、ようやく言えたのがそれだった。昨日のテロは、まっとうなデモ隊に紛れた数名の過激派が起こしたもので、火炎瓶などを放ったもののすぐに鎮圧されたと報道されていた。数名の死傷者を伏せるくらいのことは想像の範疇(はんちゅう)だったが、富窪から聞かされた人数はそれを逸脱している。

「行方不明ってのはどういうことだ。月曜の旅客機墜落とごっちゃにしていないだろうな」

「まさかまさか。あれもきな臭い感じはしますがね。あっしはまだよく知らないんで、お教えできることは何も。――しかしこれは参りやした。まさか兄さん方が何も知らされていないとは。こりゃ……」

 その先を富窪は飲み込んだ。鷹山の頼んだ梅カツ丼が、場違いなまでにうまそうな香りを漂わせてカウンタに出現していた。ヒソヒソ話は潮時だった。

「とにかく、これを旦那にお渡しください。あっしは今日中にインドに向かわないと行けないんで、やはり直接伺うのは無理でしてね。横浜議事堂の件は、旦那からお聞きになるのがいいと思います」

 南田の袖に何か細長いプラスチック製のものを滑り込ませ、富窪は立ち上がった。無闇に引きとめたり追い立てたりしては監視の目を引く。それゆえに南田たちは、何か不穏な気配を感じつつも、まずは鹿室の自慢の飯を平らげることに専念するしかなかった。

 ちなみに炭炉丼(すみろどん)については、南田はこれをハズレとして基地の仲間に報告せざるを得ず、さらには長らく猫を正視できなくなったのだが、それは後の話である。



- 6 -


 南田が頭から湯気を立てて乗り込んでくるという江藤の予想は的中した。

「議事堂のテロの話、聞かせてください」

 開口一番の台詞を聞いて、こいつは少しだけ成長したなと江藤は認めた。以前なら間違いなく、聞いていません、とのたまったところだ。聞いていないからなんだ、と怒鳴る手間が省けた。

「そうカッカするな、竜時よ。誰が盗み聞きしているともわからん回線で、秘匿(ひとく)事項は話せんかった」

「それを承知しているから、今ここで、教えてくださいとお願いしているんです」

 と、そこへ残りの三人がやってきた。ゆっくりと歩いて紳士的に。もちろん湯気は出ていない。坂元を筆頭に、敬礼とともに帰隊宣言。

「よく帰ったな四人とも。どうだ、訓練のほうは。いや、思想矯正か」

「特にこれといった思想の誘導があったようには感じませんでした」

 すぐさま坂元が答える。異論は誰も持たないようだった。

「ふむ、誰ぞ手を回してくれたかな。まあ、けっこうなことだ。もうすぐおまえたちも幹部だ。残りの一週間も気を引き締めて行け」

「江藤少佐」

 口を挟んだ南田の目が、話をそらすなと訴えている。江藤は深く息を吸って鼻から出した。

「締めの一週間を控えたおまえたちを急遽呼び戻すことになったのは、他でもない、昨日横浜で起きた議会襲撃テロのせいだ。襲撃を行ったのはおそらくエデン系武装組織、九天軍。連中はバロッグを巧妙に利用して横浜議事堂に突入し、右院議員たちを誘拐した。阿賀の隊も警備に加わっていたし、うちからも出動要請を受けてすぐに応援部隊を出したが、だめだった。おそらくは内通者がいた。そいつが議事堂から地下通路に通じる秘密の抜け穴を開放して、九天軍の逃亡を手助けしたようだ。――というのが、軍の睨んでいるところのあらましだ」

「地下通路、ですか。地下鉄の廃線とかですか」

 鷹山が首をひねる。

「イエスでありノーだ。地下鉄の廃線が近くにあるのは事実だが、横浜議事堂から直接そこへは降りられない。奴らが降りたのは“ルート”と呼ばれる要人脱出用の地下通路のことだ。ブルーシティ開発のとき、大規模共同溝と一緒にこっそり造ったものでな、これがまただだっ広いのだ。それこそ植物の根っこの如(ごと)く縦横無尽に張り巡らされていて、地下鉄の線路とも何箇所かで繋がっている。通路というより迷宮だな。一度逃げ込んでしまえば、いくらでも逃げ回れる」

「そんなものがあったとは」

「小説みたいな話だろう? 誰かがうっかり漏らしても、まともな人間は信じないだろう。が、機密は機密だ。おまえたちはじきに幹部になるから教えておくわけだが、この話、下士官以下には喋るなよ。うちで知っているのは俺と北嶋、あとは藤居だけだ。阿賀のところも尉官以上だけと思っていい。ルートの存在は原則として近衛軍の将校にしか知らされないことになっている。知っていても断片的な情報ばかりだ。俺とて全容はわからん」

「警察はこのことを」

「知っている。どのあたりで敷居を作っているかはわからんが、対策本部は“ルート”の存在を前提に動いている。実際、警察には日暮れまでに“ルート”の出口をすべて押さえてもらった。しかし九天軍が網にかかったという報告はまだ来ない。空き家に閉じ込めたのなら餓死するまで放っておけばいいが、ルートは本物の共同溝やら地下鉄やらへ破壊活動を行うのに都合がいい場所だ。連れ去られた議員たちがいつまでも無事とも限らん。そこで、軍と警察は共同で“ルート”の捜索に乗り出そうとしている。うちも限定的だがその作戦に参加する。ついては、人手が足りないからおまえたちを呼び戻したというわけだ。――どうだ、満足か、竜時」

「ありがとうございます。その事情はよく理解できました。――が!」

 南田は江藤が机の広げていた書類の上に、どん、と手をついた。それから拳を広げて、包んでいたメモリーデバイスを示す。

「周(チョウ)富窪(フーワー)に何をやらせているんです。それについても知る権利があると思いますが」

「おうおう、うまいこと受け取ってきたな、ご苦労」

 手を伸ばしてメモリーデバイスを取ろうとすると、南田がすっとそれを摘(つま)み上げたため、江藤の手は虚しく空気と手汗を握り締めることになった。

「どういうつもりだ」

「お聞かせ願えないのならこれは処分します。基地にウイルスでも持ち込まれたら大変ですから」

 取り押さえろ、と江藤は坂元と鷹山に目で命じたが、通じなかった。プロトコルの問題かはたまた権限の問題か、ふと江藤は考える。

「周富窪は、黒龍隊を駒としてキープしたいどこかの誰かが送り込んだわけでしょう。手足をもがれたような状態で飼い殺しになっている黒龍隊に、また危機が迫っているというのなら、反撃の準備はしなくちゃいけません。俺たち黒龍隊全員で。隠し事は一切無しにしてください、少佐」

 上級兵科学校では交渉術を教えていただろうかと記憶を漁りながら、江藤はしげしげと南田の毅然(きぜん)とした顔を見つめた。それをはぐらかされる前触れと勘違いしたのか、南田がさらに何か言おうとしたので、江藤は先手を取った。

「奴には北熊(セヴェルメドヴェーチ)との連絡役を頼んだ。雷麒麟の解析と修復のために、あちこち飛び回っている」

「あれの口ぶりと、辻褄(つじつま)は合いますが……。しかし、どうしてあの試作機を。麒麟計画は凍結されたままなんじゃないんですか」

「詳しいな。調べたのか」

「ええ、坂元が」

 視線を転じると、坂元はただ頷いて見せた。

「なら、その通りだ。麒麟計画はカチコチに凍ったままだ。あれの試作機は、俺が乗ったもの他に未完成のやつもあったらしいんだが、戦災で行方不明になった。開発関係者も散り散りで、解散直前に事故で死んだ者も多いらしい。最近は龍(ロン)の性能も安定してきたし、メジャーアップグレードも近いって状況で、いまさら生産ラインの共有もろくにできない機種を増やす必要はない。――普通に考えると、そういうことになるが」

 江藤はそこで一息をついた。

「覚えているだろう。雷麒麟は絶対障壁のはずの“ベルリンの壁”を突破した。俺の知る限り、同じ芸当ができるのは龍王(ロンワン)と牙黒鷲(ガコクシュウ)だけだ」

「じゃあ、雷麒麟を調べ上げて、“壁”を通り抜ける方法を確立しようとしているわけですか」

 峰國(フェングォ)は興味津々の様子だった。“壁”を通り抜けた先で実際に戦闘を行い、そして不可思議な光に包まれて二度目のテレポート現象を体験したのだから、当然のことだった。

「時機が来ればすべて話すつもりだったが」江藤は本音を吐いた。「これはまだ正式に進められることではない。“壁”を抜けたことや例のテレポートのことを軍は信じない。だから、雷麒麟の修復は事情を知る北熊に任せるしかない。それとて公になれば問題となる。情報の漏洩(ろうえい)を避けるためには、まず、伝達を最小限に絞るのがいちばんだ。わかるな。盗聴されようが拷問されようが自白剤を打たれようが、知らないことは話せない」

「その理屈はわかりますが」と、坂元。「いつまで待つ気だったのですか。西フェルガナ基地で俺たちを抹殺しようとした黒幕を暴くまでですか。それならいっそのこと、少佐を消滅砲の直撃から生き延びさせた現象のことを明かし、そのような窮地へ追い込んだ裏切り者がいたことを訴えたほうが良いのではないですか」

「安(アン)超備(チャオベイ)は死んだし、西フェルガナ基地も地下シェルターくらいしか残っていない。それこそお偉方に信じさせるのは無理な話だ。俺たちは今、正気を疑われるわけにはいかん。伝染病の件をまだ信じている奴らもいる。せめて、暖炉の谷の封鎖が解除されてから、と考えていた」

「坂元、その件は今はいいでしょ。竜時も」

 峰國が何か言いたげな南田の肩を掴み、その手からメモリーデバイスを取ると江藤のほうへ放った。メモリーデバイスは机の上で跳ねることも無く小さな音を立てる。

「すまんな」

「いえいえ」笑顔で応じた峰國は、しかしこれから牙を剥(む)くところだった。「隊長は北熊とつるんで雷麒麟の謎を解いたとして、どうするんですか。本場の“壁”をすり抜けて、ベルリンに切り込みます? ハンス・ライルスキーを討ち取って、戦争を終結に導いた英雄になりますか?」

 刹那(せつな)、江藤は殺気を孕(はら)んだ目で峰國を見上げた。図星の証を示す大失態だと気づいたが、もう遅い。

「――バカを言うな」

 江藤は全身の筋肉を弛緩(しかん)させて笑ってみせたが、それでごまかしきったという自信は得られなかった。北嶋にしか打ち明けていなかった計画を、当てずっぽうとはいえ言い当てられた衝撃は、それだけ大きかった。

 いっそ、確かめておくべきだったのではないか。江藤は自分の選択の是非を疑う。雷麒麟のバルムンクフィールドキャンセラーの原理を解明し、黒龍隊の機兵すべてにその機能を付加して、ベルリンへ奇襲をかける。そのときおまえたちは俺の後ろに続いてくれるか、と、そう尋ねるべきだったのかもしれない。

 誰も何も言わない。その沈黙は機兵コクピットの殺人的なエアバッグよりも強烈に江藤を締め付け、窒息の危機に陥れる。が、それは秒針がたかだか十分の一周するだけの間のことだった。

 机上の電話が鳴った。江藤は緩慢な動きでボタンを押し、通話に出る。フリーハンドモード。会話は双方ともに筒抜けになるので、四人の若者たちは当然、黙り続けた。

「江藤だ」

 名乗った声が掠れていることに自分でも驚く。

「穴蒲です。たった今、阿賀少佐から連絡があり、“ルート”近傍の共同溝に九天軍の痕跡を発見したとのことです。場所は横浜、ブルーシティ西の……」

 江藤がメモを取り終えると、以上です、とそっけない声を最後に電話は切れてしまった。

「どうにかならんのか、あの副官は」

 江藤はメモした紙を手早く飛行機形に折ると、それを若者たちへと向かって滑空させた。翼につけておいた不均衡なクセが紙飛行機を斜めに飛ばす。くるりと後ろを大回りして戻ってきたところで、鷹山の天然パーマの森に捕らえられて不時着した。

「ほら、さっそく仕事だ。行って来い。朝井たちは昨日から待機しっぱなしで疲れているからな」

「機兵で何をするんです」

 鷹山が頭に刺さった紙飛行機を元の姿に戻しながら訊ねる。

「九天軍は新種のバルムンクシステムを使ってバロッグをうまくやり過ごしている可能性がある。要は、歩くRBRセンサーになれということだ」

「了解。で、江藤少佐はおいでにならないので?」

「出られるかよ。指揮は藤居が取る。朝からブルーシティにいるから、適当に連絡取って合流しろ。阿賀の助言もよく聞くように。――以上。他に質問があったらそのふたりに聞け。おそらく俺より詳しいだろう」

 そうして、江藤は若者たちを追い払った。もとい、送り出した。

 足音と声が完全に聞こえなくなり、南田が勢いよく開け放ち帰りも閉めずに出て行ったドアの陰から、門宮が出てきた。しきりに額をさすっている。

「いやあ、図らずも、なかなか面白い話を聞かせて頂きました。“ベルリンの壁”を抜けられる機兵が存在する……。それになんですか、テレポート? うーん、興味深い」

「全部忘れろ」

「無理ですわん」

 門宮が腰をくねらせたので、江藤は手元のペンを投げた。矢の如(ごと)く股間へと飛んだペンは、命中直前に門宮の手によって掴まれる。

「恐い恐い。まあ、俺もあなたと友好を維持しないと仕事の差し障りがあるんで、当分は口外しませんよ。上に告げ口したところで、警護員の給料が上がるわけでもなし。下手をすると、SMITS(スミッツ)の機密をどこで盗み見たのかと、身内から妙な疑いをかけられかねないですからね」

「龍王の紛い物をうちにけしかけた男の台詞とは思えんな」

「右手があることすらしらない左手が多くてですね。まあ、RAT(ドブネズミ)だけにそもそも手じゃなく足だろうってツッコミも可能ですが。とにかくダーダネルス作戦で軍にちょっかい出していた連中は、俺とは全く所属が異なります。そもそも、俺は警護員で、少佐の前に現れたのは特務員。厳然たる違いがあるんですよ」

 ちくりと江藤の胸が痛んだ。厳然たる見かけの違いもあったならば、久留正弘に手痛い裏切りを受けることもなかったのだが。

「話は変わるが」江藤は咳払いをする。「九天軍に穂積克の救出を指示したパトロン、誰だかわかったか?」

「気が早いなあ。昨日の今日ですよ。RAT(ラット)内でそのへんを担当している人間に、話を通したばかりです。それよりも、穂積が横浜議事堂の襲撃に参加してないか調べるのが先決じゃないですかね」

「どうせ調べているのだろう。さっさと話せ」

「一枚噛んでいるに違いない、と睨んではいますが、証拠はまだ出ちゃいないようで。むしろ江藤少佐のお考えを拝聴したいぐらいですね。どうです、襲撃の手口に穂積克と似たような点は?」

「わかるわけがない。俺があいつとやりあったのは、あいつが叛乱を起こしたとき、一回ぽっきりだ。ただ、穂積は元老院を批判していたが中央議会には好意的だった。議事堂を襲って死者も出すような作戦を、あいつが主導するとは思えん」

「なるほど、少なくともリーダーは別にいる、と。やはりか」

 門宮は何事か納得すると、話を変えた。

「そういえば、さっきの彼らが穂積に狙われる可能性もゼロじゃないなあ。機兵を使っていたら遠目にも黒龍隊だとわかってしまう。微力ながら、護衛を割くよう上に掛け合ってみましょうか?」

「あいつならそんなことはしない。そんな人手が合ったら、最初に話した件のほうに回せ」

「余計なことはするな、ですか。まあ、もう前金として面白い話を伺ってしまったことだし、クライアントの指示には従うとしましょう」

「貴様は元老院の手下だろうが」

「そうですが、アルバイトは別ですよ。うふふ」

「野心家だな。見直した。俺もせいぜい貴様に見限られないよう野心を磨くとしよう」

「何を堅いことを。あたしと少佐の仲じゃないの」

「――失(う)せろ」

 クライアントの指示には素直に従って、門宮は消えた。



- 7 -


 南田は久しぶりに横浜の空気を吸った。

 ブルーシティの愛称とともに生まれ変わった横浜は、綿密な計画に基づいているだけあり、快適に、効率的に楽しめる。昔ながらの老舗(しにせ)やら江戸っ子の気風に憧れがないのであれば、横浜が東京に劣る点はないだろう。

 これが平時であったなら、そして軍人という職に就いていなければ必ず深夜まで遊び倒すところなのだが、基地の仲間から昨日の横浜議事堂襲撃事件の詳細を聞かされては、そんな気分は春風とともに吹き飛んでいた。

 ブルーシティ西、とわかりやすい町名のついた区画に機兵搬送車を停めると、藤居が駆け寄ってきた。藤居は今朝から夏(シャー)明仁(ミンレン)ら武器の扱いに長じた隊員数名を連れて阿賀の中隊に加勢しており、ティータイムも過ぎた今ではさすがに疲れが見える。

 藤居は、九天軍が共同溝の光ファイバー網に細工をしたこと、その位置へ繋がる“ルート”の一端を捜索したところ数人の足跡が見つかったこと、さらにその近傍で排泄(はいせつ)の痕跡を発見したこと、を南田たちに説明した。

「つまりトイレがなくってしかたなく、ってことですよね」

 具体的に言ってしまうと高名な議員諸氏も哀れなものだ、と同情しながら、それでも誤解があってはいけないので南田は確認をした。

「もう丸一日が経つからな。量からして、九天軍ではなく捕まった議員たちのものだろうと推定されている」

「しかし」

 と声をあげた坂元は、そのまま口を噤んだ。

「どうした? 意見があるなら何でも言ってくれ」

「――要人退避用であれば、トイレくらいは用意されているのでは」

「あるところにはある。が、九天軍はそこを通らなかったんだろうな。乗り物を使った形跡もあるから、あるいは通ったがいちいち停まらなかったのかもしれない。いずれにせよ、トイレ近くにはもういないだろうということだ。警察が虱(しらみ)潰しに確認をしてくれているが、装備を整えた主力は捜索範囲をもっと絞っている」

 藤居はブルーシティ全体地図の一部分を指で示した。三次元的に広がる地下通路だけに、それとて大変な範囲である。

「陽動の可能性はないんですか?」

 鷹山が疑問を呈した。光ファイバーへ細工したのは“ルート”潜入直後に別行動に移った囮部隊かもしれない。議員たちを連れた本隊はまったく別のどこかへ、捜索の網の外へ逃げているかもしれない。排泄とて、意図して多量の痕跡を残すことは難しくない。

「どのみち出口は封鎖しているから、決定的な取りこぼしにはならない。期待値が最も大きいところを狙うわけだ」

「でも、本隊が出口の封鎖を突破したら?」

「ゲリラというのは、居所がわからないから恐いんだ。どこにいるか判明すればあとは時間とコストの問題だ。――で、これから龍(ロン)でやるのはその居場所特定になる。説明は聞いているか?」

「大雑把(おおざっぱ)には。九天軍がバロッグ回避用に何らかの新種のバルムンクシステムを使っているということだけ」

「使っているらしいだな」坂元が訂正を差し挟む。「まだよくわからない話ですよね」

「ああ……。江藤少佐はあまり期待していないようだったな」

 張り詰めていた藤居の体から空気が抜ける。その様子が気になった南田は、言葉の意味を取るのに時間がかかった。

「――ん、じゃあ誰がこの作戦を」

「櫛田大将からのトップダウンらしい。ただ、江藤少佐も承諾はしたことだ」

「はあ」

 基地を離れているせいで、新しい基地司令の印象は薄い。カーネル・サンダースに似ているという江藤の口癖は当たっていると思う。だが表情は感情に乏しい。あれでは客寄せにはならない。

 南田が気づくと鷹山が別の懸念を議題に上らせていた。

「しかし平気ですかね、街中で龍をゆったり歩かせて」

「なにいってんの鷹山。龍はどうしたって兵器でしょ」

「寒いから黙ってろ、峰國(フェングォ)。――街にはまだ九天軍や、便乗して何か事を起こそうっていう他の武装グループが待ち構えているかも。RBRセンサーを注視しながら道路を忍び足で歩いた日には、膝と言わず股関節と言わず、後頭部直撃でも何でもロケットで狙い放題ですよ」

「それで済むなら安い、とお考えなんだろう。櫛田大将閣下は」

「そんな。龍が一機でいくらすると……」

「相手は戦車や自走砲を持っているわけじゃない。ロケット弾攻撃だって長期戦をやるだけの蓄えはないはずだ。膝を打たれて歩けなくなったとしても、それで過激派の居場所が突き止められるなら十分な成果だ。壊れた箇所だけ直すならそう高くはないし、動けなくなったところに止めをさすだけの火力は存在しないから、必ず回収して直せるという保証もある」

「ああ、なるほど」

「ただの推測だ。そのままには取るな。ただ、江藤少佐が不承不承にでも認めた作戦だ。きちんとこなせば、悪い結果にはならないさ」

 そういう次第で、具体的な打ち合わせに移った。

 運んできた龍は、動員できる全戦力、すなわち三機。パイロットが藤居を含め五人と明らかに余剰だった。そこで龍一機につき指令係一人という組を構成単位として三隊に分けることを藤居が考えた。坂元の龍には鷹山が、峰國のには藤居が、そして南田の龍には阿賀が付くことになった。阿賀は当然、自分の部下への指示も出しながらのことになるが、藤居が頼み込むとあまり悪い顔はしなかった。何と言って頼んだのかあとで聞いてみよう、と南田は思う。

 南田は龍を起動し、文字通りに立ち上がらせた。いつもと別の角度から眺めるブルーシティの街並みは興味深いが、注視するべきは相対バルムンク反応センサーの出力画面であり、歩行時の龍の足元である。景観を楽しむ余裕はない。

 ブルーシティ西は交通規制がかけられており、いつぞやの雪達磨(だるま)回避訓練に比べれば歩行は容易だった。二十分歩き回って、物損なし。センサーに怪しげな反応もなし。

 阿賀が飛ばしてくる助詞と助動詞の少ない指示にも慣れて、捜索範囲の消化ペースは向上している。南田と阿賀の班に任せられたぶんの七割はもうチェックを済ませた。地下では軍と警察が同時に動いており、地上から龍がチェックした範囲内の通路にあとから九天軍が舞い戻ったりしないよう、タイミングを合わせて包囲網を狭めてくれている。逆に言えば龍の動作は地下の捜索隊の動きに律速されている。勝手に行き過ぎると阿賀から怒声が飛んでくる。そのたびに南田は基地の食堂で殴られた記憶がよみがえって肝を冷やす。

 暴力による教育と矯正をすべて排除しようとしたかつての日本の教育指針は間違いだったな、と南田は思う。叩きのめさないと話を聞かない者もいる。特に、自分が正しいと思い込んでいる輩にはその割合が多い。悲しいかな、一度徹底的に痛めつけないとわからないのだ。人は言葉をもってコミュニケーションを取れる生き物であるはずなのに。

 ――そこまで考えて、南田はぎくりとした。それは立場を変えればテロリストのやり方を全肯定する論理に他ならないと気づいたのだ。厚木基地でエデンの一派が次々に殺されていった様子は、今でもときどき夢に見る。決して小気味よくもなければ、生き残ったテロリストの改悛、転向に結びついたとも思えない出来事だった。

 議会関係者に死者を出している九天軍とはわけが違う、だから九天軍は許せないが厚木基地のエデンは可哀相(かわいそう)だった、という弁解を思いついたが、詭弁(きべん)だとすぐに自覚した。厚木基地であのとき軍に死者が出なかったのは奇跡的だった。管制塔はロケット弾による攻撃を受けて壁に穴も開いており、当然、そこに人が立っていれば高い確率で死亡していた。相手が乗俑機や車に乗っていて、自分が機兵に乗っているという優位な環境が憐憫の情を生んだに過ぎない。生身で臨んだ守備隊は、一分一秒でも早く敵を無力化しようと躍起(やっき)になって当然だった。

 南田はようやく三ヵ月前の藤居の気持ちを理解した。龍に乗るがゆえに生じる哀れみを理由に、龍に乗らない者たちをとやかく言う権利などない。だから藤居は、遠慮のない火力を用いてエデンを撃滅しようとした守備隊のことを責めず、彼らの前に絶好の標的を放り出す結果となった南田の立ち回りを批判することもなかった。撃って当然、撃たせて当然。だれも傷つかないような都合のいい結末は、相応の余力を持つ者だけが望みうる。藤居は努力したが至らなかった。それは他の誰のせいでもなく、力及ばぬ自身の不甲斐無さ故として……。

「こら、南田! 三歩後退、右旋回九十度、直進!」

 阿賀の怒鳴り声がヘルメット内蔵のヘッドセットからびんびん響き、南田は慌てて交差点まで戻って道を折れる。

「すみません、阿賀少佐。センサー画面に集中しすぎました」

「適当な嘘をつくな」

 即座に看破されて南田は息詰まった。真面目な阿賀にはこう言えば通じるはずだと見込んだのだったが。膝上の双方向通信モニタに映された地図を見て、早とちりに気づいた。南田は所定のルートもタイミングもまだ違えてはいなかった。

「あれ、予定変更ですか。――もしかして」

 九天軍が見つかったのか。もし地上に逃れ出てきて、捕り物に参加することになるなら、今度こそ誰も殺さずに捕らえてみせる。それくらいの力は中央アジアで身につけて来たと、南田はうぬぼれたかった。

「いや、まだわからないが、予定外の事態だ。地上の立ち入りを規制していなかった箇所で、立坑(たてこう)掘削を始めた連中がいる。共同溝そばだ。脱出ルートを作ろうとしている虞がある。小笠木を走らせたが、おまえも行け。いざとなれば機兵で掘削機を止めろ」

「了解」

 いきなりの見せ場に南田は逸(はや)る気持ちを抑えて速度を上げた。行く手にクレーンと掘削機が見える。高さだけは機兵並だが、アスペクト比からして龍の前では棒切れに等しい。

 行き着いてみると、下で着俑機を装着した小笠木らしき人影が、数人の現場作業者に囲まれていた。線の細い小笠木では屈強の男たちを複数相手にするのはどうも頼りない。会話で済まなくなったら危険である。着俑機とて着用者をスーパーヒーローにするわけではないのだ。

 焦点を小笠木に合わせてズームアップ。同時に、外の音を拾う。工事内容を問い合わせているようだが、地図に定規を当てなければそれが“ルート”からの脱出口かそうでないかを確かめたことにはならない。しかし小笠木は相手に押されていた。そもそも“ルート”の存在を知らない小笠木に、共同溝工事と昨日の議事堂襲撃との関係を的確に説明することは不可能だった。軍の命令だ、の一言で要求を通すしかない。小笠木もおそらくはそうしようとしたに違いないが、南田は彼を囲む作業者たちの容貌(ようぼう)を見て、不可抗力だなと思った。いずれもヤのつく稼業に就いていそうな強面(こわもて)の男たちである。南田の龍に気づかぬ距離ではないのだが、全く腰が引ける様子がない。肝の据わり方が尋常ではない。

「軍隊さんが何と言おうが、工事が遅れたら損するのはこっちなんだ」

 ひときわ肉付きのいいリーダー格らしき男がそう言って踵を返すと、他の男たちも作業に戻っていく。工事区画の入り口に取り残された小笠木が、軍の権限について高らかに宣言するが、全く聞いてはいない。

 南田はその強硬姿勢を怪しんだ。大の大人が、軍に面と向かって逆らうことがどういうことか、知らぬわけではあるまい。自衛隊だった時代とは違うのだ。血で血を洗って連邦体制を築いた〇〇年代、最も多くの返り血を浴びたのは亜細亜連邦軍である。それでもこちらが工事差し止めを低姿勢に要請したのは、日本人が二十世紀後半の五十年で築いた平和主義の所産というものだった。それを突っぱねるとは、どうやら相手は同じ平和主義を標榜(ひょうぼう)する仲間ではなさそうだとわかる。もっとも、顔つきからして明らかに平和を愛する市民には見えなかったのだが。

「阿賀少佐、連中は小笠木を無視し始めました。動いて構いませんか」

 他と通信していたらしい阿賀の返事は、数秒遅れた。

「待て、そのまま監視だ。状況を確認している」

「了解」

 しかたなく南田は待った。そうこうする間にも掘削機は地下へ続く穴を穿(うが)っているが、見張っている限りは、立坑からぞろぞろと数十名もの人間が出て来られるはずはない。

 数分待ったが、軍の応援は駆けつけてこない。

「阿賀少佐、捨て置くんですか」

「口を挟むな。――今、地下で包囲網を組み替えている。慌てるんじゃない。そちらはおまえひとりに任せる」

 たしかに、足元から小笠木の姿が消えている。南田は工事の進捗(しんちょく)を監督する羽目(はめ)になった。相対バルムンク反応センサーにも、あいかわらず妙な変化はない。施設用の定置型BFGがいくつか稼動しているようだが、バロッグの警報を待たず常時作動とするビルも決して稀ではない。都市部でよくある反応分布だった。

 作業者たちが妙な行動をしないかも南田は抜かりなく注意する。見れば見るほど物騒な顔をした者ばかりだった。武器を与えたら機甲化歩兵部隊にも匹敵するかもしれない。もし彼らが業者を装ったエデンの一団だとしても全く驚きはない。

 やがて気も緩み始めたときだった。

 南田は二ヵ月ぶりに出くわすこととなった。大地を揺るがす激震と轟音、そして立ち上る黒煙に。

 揺れと音はすぐに収まった。地震ではなく、地下で何かが爆発したのだとすぐにわかった。何よりの証拠が目の前にある。立坑から噴き出続ける黒煙。

 無線は錯綜(さくそう)していた。やはり軍や警察が仕掛けた爆発ではない。九天軍がやったのだ。共同溝に痕跡を残したのは罠だったのかもしれない。

 何が起きたのかについてあまり長く考察している時間はなかった。クレーンは揺れに耐えたが、立坑に突き刺さっていた掘削機は爆圧も直接受けたらしく、垂直から明らかに傾いていた。そして時計の針のようにゆっくりと鉛直線に対する角度を増し、今にも倒れようとしている。ピサの斜塔どころではない。

 南田は作業員たちに警告を発しながら前に出た。掘削機はターゲット登録済みだったので、捕まえるのは難しくなかった。多少大きいが代表的な把持(はじ)シークエンスである。掘削機のフレームを両手でがっしりと掴み、肩に乗せて荷重を一直線に受け、踵(かかと)の踏ん張りをきかせる。――仰角四十五度で静止。

 一切、難しいことはなかった。南田はやりきった。


*   *   *   *   *


 地下で爆発が起きたことは、峰國からの観測報告ですぐにわかった。あらかじめ爆薬を仕掛けたところへおびき寄せられたか、と当たりをつけて、藤居は情報班の円道紗耶へ通信先を切り替えた。

「起爆指令の電波か何か、感知できたか?」

「いいえ。もう一度洗い直していますけど……」

「地下の状況は?」

「混乱しています。通信途絶が三組。そのうちひとつは、最後に銃撃戦らしき音が確認されました」

「そうか。何かわかったら教えてくれ」

 送話を切り、藤居は考える。

 獲物は網を脱した。情報班が早めに位置を特定してくれれば、もしかすると網を張り直せるかもしれないが、あまり期待はかけられない。相手はじゅうぶんに引きつけて起爆させたに違いなく、罠にかかった味方の被害は甚大だろう。

 まったく大したものだった。相手は常にこちらの出方を読んでいる。どうやら内通者は今も捜索側に潜んでいるようである。それも、意思決定に関わるクラスの人間だろう。地下に潜伏中の仲間とそう密に連絡をとる手段はないから、こちらの作戦を漏らしているのではなく、あちらの作戦通りに事が進むよう誘導している可能性が高い。

 ――いや、そうとも限らない。

 藤居は仮定を置き換えてみた。向こうはこちらに露見しないような連絡手段を持っているかもしれない。藤居はそのような技術……というよりも現象を知っている。

「峰國、相対バルムンク反応に変動は見られなかったか?」

「え? ちょっと待ってください。――いいえ、ないですよ。でも、他のBFGが地下からの反応を遮っちゃっている可能性はありますね。三機の観測データを照らし合わせれば、もしかすると……」

 峰國は藤居の考えを察したようだった。自分でもまさかと思うような突飛な考えだが、そもそも議事堂襲撃のときからして彼らの行動には不可思議な点が多く、疑いをかけるには不足がない。

 ――もし彼らがテレポートの技術を持っているならば、軍と警察を手玉に取る作戦展開も極めて容易。

 自分たちの経験から推定すると、消滅砲の照射跡や“ベルリンの壁”のような最大級の変則領域でしか、あのような現象は引き起こせない。横浜の街中で使えば、すぐあちらこちらのビルのバロッグ警報装置が反応するだろう。しかし地下深い“ルート”内ならばハードルは下がる。大規模なバルムンクシステムの作動に必要な電力も共同溝から拝借可能だろう。確信にはほど遠い推論だが、自分たち以外は思いもつかない可能性であるだけに、見過ごしてはならない気がした。

 相手がテレポートを使えるとしたうえで、藤居はさらに考えた。この起爆のタイミングの良さは、情報が漏れたり誘導されたのではなく、見計られた可能性はないだろうか、と。なにも指揮系統の情報をつまみ食いせずとも、包囲網の狭め具合を調べる術(すべ)はある。峰國たちの乗っている龍だ。三機が地下の動きと連動していることは、そのちまちまとした進行を見れば容易に想像できただろう。だとすると……。

 藤居はブルーシティの高層建築群を見上げた。龍を観察することで絶好の起爆のタイミングを計っていた人間が、そのどこかにいるかもしれない。

 そして藤居は見つけた。この街ではあまり目立たない十階建て程度のビルの屋上で、春風に吹かれているコート姿の人影を。帽子を目深(まぶか)にかぶっているようだが、さすがに藤居の視力をもってしても顔かたちまでは識別できない。

 見つめること数秒ののち、藤居は走り出していた。ただの野次馬でしかないと頭の冷静な部分が告げていたが、そんな新参者の意見を、藤居の生来の直感は聞き入れなかった。峰國に監視を命じつつ、そのビルに入る。するとすぐに、屋上の人物がビルの中に戻ったと報告があった。エレベータですれ違いになるのはまずいと思い、藤居は階段を使った。エレベータの籠の在処を確かめながら駆け上がる。

 六階に着いても、エレベータに動く様子はなかった。屋外の非常階段は別として、屋内には階段がひとつしかないので、そろそろ行き会っておかしくない頃である。七階へと続く踊り場で、藤居は拳銃をすぐに撃てるよう準備した。ただの野次馬相手に大袈裟ではないか、と再び冷静な自分の諌(いさ)める声が聞こえ、今度はその理も認めて銃を隠す。

「鋭いが、いかんせん甘いな」

 声がしたのは、足元の六階のほうからだった。明らかに藤居に向けられていた。

 階段脇の通路の陰から、コート姿の男が藤居を見上げていた。銃を触る藤居の動きを捉えたその瞳は、ぎりぎりのところで帽子のつばに隠れて、見えない。年齢は三十代から五十代、と大雑把に絞り込む。

「あそこで何をしていた」

 銃を出そうとすれば先に撃たれるような気がして、藤居はそのままの体勢で尋ねた。

「たぶん、君の直感した通りのことをだ。――江藤博照は優秀な部下に恵まれている」

 こいつは敵だ、と藤居はその瞬間に決定的判断を下した。自分の銃を意識するとともに、相手が武器を持っているのか否か、ポケット類や手の位置に注意する。

「ここで事を構えるつもりはない。といっても、そちらからすれば関係ないか」

 男はくつくつと笑うと、コートの内ポケットに手をやった。藤居も銃を構える。が、男が取り出したのは何の変哲もなさそうな名刺入れだった。藤居が先制して撃たないという確信があるのか、男は藤居から目を離して名刺入れを覗き込むと、そこから一枚を取り出して、階段の平たい手すりの上に置いた。

「良かったら、江藤博照に紹介してくれ。君たちが抱えている疑問の答えが見つかるかもしれない。ゆっくり話したいのも山々だが、あいにく先を急ぐ。これで失礼させてもらおう」

 またしも計ったようなタイミングで、男の背後でエレベータのドアが開いた。

「待て!」

 エレベータに乗り込もうとする男を藤居は追う。が、踊り場まで降りたところで慌てて壁に寄り添った。エレベータに先に乗っていた女が、藤居を狙って銃を構えていたのだ。

 結局銃声はひとつも鳴り響かず、エレベータは階下へと降りていった。

 藤居はすぐさまビルの外を封鎖するよう連絡を入れたものの、地下街への連絡通路を押さえるには至らず、どうやらそこから逃げられたようだった。警察にもふたり連れの外見などを報告をしたが、男の残した名刺については、藤居は何も話さなかった。

 西海道大学工学府機械工学専攻博士後期課程、保科(ほしな)晃(あきら)。

 そう記された名刺を、藤居はそっと胸ポケットにしまいこんだ。猿之門基地に戻り、江藤に直接手渡すまでは、このことは誰にも口外しないと心に決めて。



- 8 -


 翌日、猿之門基地を訪(おとな)う一団があった。

 一見して肉体労働者とわかる屈強の男たちが十名あまり。ゲート前で押し止められたために密集しており、正確な頭数はなかなか数えにくい。

 門衛は再三彼らのお引取りを願ったのだが、どう言葉を変えても納得していただけなかった。門衛は大変困り果てた。最近赴任した大尉殿から、決して市民を基地内に入れないよう厳命されている。大尉殿の舌鋒(ぜっぽう)は容赦(ようしゃ)がなかった。赴任は今年になってからだというのに、すでに処分を受けて減俸になった同僚は枚挙に暇(いとま)がない。いくら相手が「礼をしたい」という好意的な市民だとしても、入れてはならぬという命令に例外はないだろう。しかし、柔軟な解釈というものについて再考しなければ、大尉殿のご機嫌を損ねる前に目の前の野獣たちに圧殺されるのではないかという恐怖が一秒ごとに深まっていく。同僚がトイレから戻ってこないのも、きっと遠目にこの様子を見たうえでの判断に違いなかった。

「通してくれりゃあいいんだよ、兵隊さん。俺たちゃ仁義に則って礼をしにきただけなんだからよ。そう、恐がるな」

 一週間海に向かってバカヤロウと叫んでもここまでしわがれないだろう、という声で、黄色いヘルメットのリーダー格が凄みを利かせる。門衛は一歩退こうとしたが、背中が壁にぶつかった。平時ならば車止めだけのゲートは、この戦時下にあってはさらに重くて密な鉄の柵を重ねられているが、彼らの体格ならそれとて突破可能だと思えた。目前の危機を避けるには彼らを通すしかない。だが、それはあの穴蒲静香(しずか)大尉の強烈な制裁を受けることを意味する。大尉は新しい基地司令の副官である。彼女が進言すれば、減俸どころか首が飛ぶことになるかもしれない。せっかく手に入れた平穏な地位を捨てたくはない。妻は出産が近いのだ。職を失うことは生まれ来る命を危険に晒すことにも等しい。

「さっきから返事がねぇな、兵隊さん」

 ヘルメットの男がゲート外側の鉄柵に手をかけた。乗り越えるなら威嚇射撃も許されるが、手が震えて銃を掴めない。

「おいおい、待ちなよ、そこの旦那」

 一団の背後から別の男が現れた。盾の紋章が入ったRAT(ラット)の制服を着ている。名前は知らないが、最近、基地内で見かける顔だった。門衛はひとまずほっとする。ヘルメット男は鉄柵を掴んでいた手を離した。

「なんだ、若造」

 なんだなんだ、とリーダーに続いて野次が飛ぶ。門衛はRATの青年が逃げ出さないか心配したが、当人は至って涼しい顔をしていた。

「軍隊には軍隊なりの仁義ってのがあんだよ。そこの門衛さんだって、あんたらを通すと上官への仁義に悖(もと)るのさ。なにせ最近は物騒だ。横浜でテロだって起きたしなぁ」

「その横浜で世話になった。助けてくれた部隊に礼がしたい。調べたら、ここの所属だと聞いた。黒龍隊って部隊だ」

「おやおや、黒龍隊か。そりゃ尚更、面会謝絶だろうな。しかし旦那、あんたがた、いいところへ来たよ。いや、俺がいいところへ来たのか。とにかくちょっと待ってなって」

 RATの男は猿のような身軽さを発揮して鉄柵を乗り越えると、門衛が取りたくても取れずにいた内線電話の受話器を手にした。内線電話の連絡先一覧を指で辿って、目当ての番号を見つけると、借り物とは思えないほどふてぶてしい姿勢で相手と話し始めた。門衛は番号を見ていた。確かその番号は、基地司令の控え室、穴蒲静香大尉の詰める部屋のものだった。

「やあもう、静香、元気だったー? あたしよー。ス・ス・グ・ちゃん」

 突然RATの男は女になった。少なくとも喋り方だけは。

「えー、いまゲートのとこにいるんだけどさ、黒龍隊にどうしてもお礼がしたいって逞しいお兄さんたちが押しかけてて大変なのー。――うんうん、そう。いいチャンスじゃない? やあねぇ、恐い声出さないでよ、もう! ――オーケー、それじゃ、待ってる」

 自称ススグちゃんは受話器を置き、門衛にウインクした。門衛がたじろいでいると、次は表情を切り替えて斜め四十五度の笑顔を見せてくる。白い歯を見せながら。ある意味二刀流なのだなと門衛は理解し、そして戦慄した。三月二十六日を新たに厄日として登録すべきだと思った。

「おい、どうなったんだ、気持ち悪い兄ちゃんよ」

 肉体労働者のひとりが鉄柵越しにRATのススグちゃんを睨みつけ、周りの者たちも口々に同じようなことを叫び始める。

「あたふたするんじゃないわよ」

 と、女の声がして、逞(たくま)しい集団が一斉に沈黙した。門衛は思わずススグちゃんをふりかえったが、口はやや斜めに結ばれていて次の声は聞けない。

 門衛は混乱した。今のは口調だけでなく女のような声だった。とはいえ決して高い声でもなく、男の裏声と言われればそうかもしれないと思う。ただしその逆の可能性もある。地声の低い女性なら男のふりもできるだろう。相手の身体的な性別をどちらとも断言できなくなってしまった。

 内線電話が鳴った。門衛は今度は動くことができた。ススグちゃんがニヤニヤしたまま屈強の男たちを眺めているので、歩いていって受話器を取った。

「はい、ゲートです」

「市民の方々にお茶を用意したまえ」

 年嵩(としかさ)の男性が開口一番にそう命じた。

「は。――は?」

「いい茶葉がないのはわかっているが、大事なのはもてなしの気持ちだ。早く淹(い)れに行きたまえ。その場はRATの警護員に任せていい。それから行く前に、黒龍隊の隊長が間もなくそこへ向かうと市民の方々に説明差し上げろ」

「は、りょ、了解しました」

 電話は切れた。

 門衛は誰からの電話であったのか頭を巡らし、確実な正解に辿り着いた。ススグちゃんは静香、つまり穴蒲大尉に電話をかけた。大尉は基地司令の櫛田大将の副官である。大将の年の頃は電話の声と合致する。

 門衛は全力をもって命令に従った。


*   *   *   *   *


 鉄柵は開かれ、ただゲートの車止めだけを挟んで、江藤は「市民の方々」と対峙(たいじ)した。

 たしかに一般市民には違いなかろうが、この集団を呼ぶのに最もふさわしい言葉ではないのも確かだと江藤は思った。メイクをすればさぞかし見応えのあるゴブリンの群れに化けるだろう、と想像する。もっとも、湯飲みのお茶を揃ってふーふー吹きながら少しずつ飲んでいるというのは随分と新しいゴブリン像だが。

「――で、あんたが黒龍隊の頭(かしら)かい」

 黄色いヘルメットをかぶったゴリラっぽい男は、お茶を啜(すす)り終えるとおもむろにそう切り出した。

「ああ、そうだ」

 こちらは紙コップの茶を飲み終えて、江藤は頷く。櫛田に言われてゲートまでやってきたときには、この一団は熱い湯飲みを持つことも放り出すこともできずあたふたしていた。結果としてはお茶を冷ます間にだいぶ彼らの頭も冷えたようで、門衛がお茶を出したのは正解だと言える。まずは場を収めろと櫛田には命じられていたが、もはやその必要はない。――ゴリラは元来、知性的な動物である。肉体派であると同時に紳士なのだ。脅かさなければ暴れることはない。だから江藤は「ああ、そうだ」と返事をした。「文句あるか」という台詞は飲み込んだ。

「俺たちは、猿之門じゃちっとは名の知れた建設会社の、桃源協(とうげんきょう)の者だ」

 ゴリラはヘルメットを取る。

「昨日は助かった。おかげでウチの若ぇ衆が怪我しねぇで済んだ。恩に着るぜ」

 江藤はどういう経緯でこの一団が訪れたのか理解した。南田が掘削機を支えて工事現場の人間を助けた件だった。現場に出られない分、部下の報告書はかつてないくらい丹念に読んでいる。トウゲンキョウ、と聞いて桃源「郷」ではなく桃源「協」と頭に浮かんだのもそのおかげだった。日本全体で見れば零細企業だが、この猿之門や近隣の市において築いている地位はそこそこのもののようだった。

「それはどうもご丁寧なことだ。しかし部下がやったことでね。礼がしたいというなら、機兵に乗っていた当人を呼んで来よう」

 江藤はさっさと踵を返したが、二歩目は踏み出せなかった。二十メートル先にこちらを睨んでいる女がいるのだ。今この場を離れることは許さない、とばかりに。

「どういうつもりだ穴蒲静香」

 小さく呟(つぶや)いたところへ、「どうもこうもないでしょう」と話しかける者があった。

「せっかくの市民と親睦を深める機会を、ご自分からフイにしちゃまずいでしょうよ。何のためのセッティングだか分からなくなる」

 門衛の収まるべき場所に門宮洗が立ち、茶菓子をつまんでいる。

「ちょ、貴様、いつからそこにいた」

「少佐が大将閣下に言いつけをもらう前からですよ。さらに言うと、セッティングを思いついたのは俺です」

 市民感情を味方につけたほうがよい、とは桜小路から言われたことだったが、他から同じ話は出ていない。やはり一昨日の桜小路との会話は盗聴されていたのではないか、と江藤は疑った。ずんずんと詰め寄って門宮の首を締め上げようとしたものの、間合いを覚えた門宮は最初の腕の振りをかわすと、ゲートの車止めをくぐって外に逃げた。江藤は苦虫を噛み潰しながら立ち止まる。ゲートを越えることは――基地から出ることはできない。

「おー、恐い! 市民の皆さんの前ですよ、もうちょっと紳士的に振舞うほうが得策ってモンでしょう」

「この野郎、覚えてろよ、門宮」

 思い切り殺気を放ってから、江藤は努めてにこやかに、姿勢を斜めにずらしてゴリラたちへ向き直った。頬が引き攣(つ)る。

「あー、コホン、部下は当然のことをしたまでだ。部下の給料も、育成にかかった費用も、掘削機を受け止めた機兵も、すべては税金で賄(まかな)われている。そんなわけだから、納税者たるあんたらがいちいち礼を言うことはない。押しかけるのは文句があるときだけにしてくれ。こちらも忙しい。サインが欲しいってんなら先着五名だ。シャツでもパンツでも出しやがれ」

 実際、基地から出られないとはいえ、江藤は忙しい。急に忙しくなった。“ルート”および地下共同溝で起きた大爆発は、ブルーシティの地下で九天軍捜索に当たっていた軍と警察の幹部クラスを大量に死傷させたのだ。そして追い込んでいた魚は網の破れ目から逃げ出た。要人退避用である“ルート”の地図を有象無象の一般兵士、警官にまで渡せないという体制側の弱点を衝かれたのだ。

 櫛田からの内線電話を受けたとき、江藤は次善の策を講じるため、集められるだけの情報を相手に格闘しているところだった。邪魔されたくないので渋ったが、権限復帰についての軍事委員会への口利きをダシにされては、結局ここまで出てくるしかなかった。

 今このとき、黒龍隊における九天軍捕縛作戦の案出は完全に停滞している。事が事だけに、任せられる相手は限られる。しかし藤居は阿賀と一緒に横浜に残っており、いつ戻るかのめどもつかない。そして北嶋に負担をかけるのはよそうと決めたばかりである。

「サインはいらない」ゴリラのボスがきっぱりと辞退する。「が、ここで左様かと引き下がっては仁義に悖るのだ。軍は掘削機を支えるためにロボットを揃えているわけではないだろうよ。なら、あれは恩に切るべきことだ。受けた恩は返すのが筋だ。俺たちにきちんと筋を通させてくれ」

「あら少佐、さっそくいい風向きじゃない?」

 女言葉で口を挟んだのは遠く離れた穴蒲大尉ではなくやはり門宮だった。もっとも、穴蒲も意見は同じだろうと江藤は察する。聞いていれば櫛田も桜小路も口をそろえたに違いない。

「お気持ちだけ頂いておこう。一部隊が地元企業と度を越えて馴れ合うのはよくない」

 かつて軍に、そのような関係を進んで結び、そして去年瓦解(がかい)を迎えた派閥があった。その轍(てつ)を踏む愚は犯せない。

「あいやしばらく。汚い金を渡そうというわけではない」

 ヘルメットを小脇に抱えたまま、懐から何かを取り出そうとする男を、江藤は待て待てと制止した。

「そちらがそのつもりだろうと、一度できた関係を悪用する者は出てくるものだし、たとえ実態が清廉であっても、第三者から疑いをかけられるような付き合いは迷惑なのだ。金品は一切受け取りかねる」

「ぬう、強情な男よ。だがこのユリ・レンマル、気の強さなら負けん。どうあってもこれは受け取っていただく!」

 男は懐に忍ばせていた何物かを江藤へ向かって投げつけた。江藤は巾着(きんちゃく)袋でも飛んで来たならばホームラン級に打ち返すつもりで身構えたが、意表を衝かれた。水平面内で回転しつつ飛来した物は、角形八号と思しき封筒だった。打ち返すわけにはいかず、咄嗟(とっさ)に受け取る。見てみると、桃源協の社名が印刷されているが、宛名は達者な筆書きである。

 黒龍隊隊長様。

 ほのかに墨汁の香りがするそれを裏返すが、送り主の名は無い。最初から必ず手渡すつもりだったのか、封もされていなかった。

「ついでにこの場で読んで頂く。返事を貰(もら)って帰るのが親分からの……、社長からのお達しでな」

 由利(ゆり)だか百合(ゆり)だかと名乗ったゴリラ男は、梃子(てこ)でも動かんとばかりにそこへ胡坐(あぐら)をかいた。これでは基地の出入りを完全に妨げる。市民との親睦を図るからには兵隊を呼んで排除するわけにもいかず、江藤は相手の出方と櫛田や桜小路の要求の両方に反感を覚えつつ、封筒の中身を引っ張り出す。

 それは一枚の手紙だった。

 まさか中身まで筆で書いてあろうとは思わなかった。草書だったらこの場では読めないぞ、と危ぶんだが、幸いにも行書だった。美しさには欠けるが堂々とした筆致である。

 特に難解な文字も出てこず、さらりと全文を一読した江藤は、案の定署名に桃源協社長とあることを確かめてから顔を上げた。

「茶会に招きたい、だと?」

「そうだ。あいにく社長は体を悪くされていて、出向くには難がある。そちらから御足労頂けるなら、相応の礼をもって迎える。桃源協の誇りにかけて」

 最後の一言によって、ふと十年以上昔の面白くない思い出を引っ張り出された江藤は、親善のことを忘れた。

「ホコリにかけるなら乾かした茶葉がいいぞ。やたらと舞い上がらなくなるからな。――要は接待を受けに来いという話だな。そういうことなら、俺は行けん」

 手紙を封筒に戻してつき返そうとした、そのときだった。

「あああ、もう、苛々するね!」

 荒々しい女の声がした。後ろからではない。念のためふりかえったが、やはり穴蒲は動いていなかった。次に門宮に視線を移すが、目の合った門宮は何度も首を横に振った。そして指差す。桃源協の野獣たちを。――いや、その背後を。

「どこ見てるんだい、こっちだよ、デカ男」

 その声は確かに一団の背後から聞こえてきた。

「お嬢様」ユリがひときわ低い声を出す。「ここはわたくしめにお任せ下さるということで、特別にお連れしたのですぞ」

「ああ、いないふりをする約束だったね。それは覚えているさ。でも聞いちゃいられないじゃないか。あたいが話をつけよう。みんな、おどきっ」

 聞くや否や、人垣がさっと割れた。むさ苦しい男どもの奥に隠れていたのは、椅子に腰掛けた、薄紫の着物姿の女だった。黒と金の帯を締め、結った髪に簪(かんざし)まで挿した姿は絢爛(けんらん)、艶(あで)やかであるが、着物にあしらわれた藤の花が、幾分かのたおやかさを添えている。

「お嬢様……ということは、社長の娘か」

「そうさ」女は立ち上がって答えた。「あたいは源(みなもと)家長女、クレハ。紅葉(もみじ)の間に麗しいと書いて、紅麗葉(くれは)だ」

 仁王立ちに近いポーズを取り、源紅麗葉は折角のたおやかさを惜しげもなくかなぐり捨てた。切れ長の目が江藤をねめつける。付けているのか地毛なのか、いずれにせよ長い睫毛(まつげ)の持ち主である。ついでに犬歯も人より長いのではないか、と江藤は瞬時に想像した。

「こりゃあよく名づけたもんだな」江藤は腹から笑った。「そいつは鬼女――女の鬼の名だ」

 伝承にある鬼の名は紅葉。生まれたときの名が呉葉。知っていなければ紅麗葉などと字を当てるはずがない。

「じゃかあしいっ。あたいは気に入っているんだよ! 他人様の名前にケチつけてないで、あんたも名乗ったらどうなんだい、この唐変木(とうへんぼく)が!」

「なんだ、そんなことで腹を立てているのか」

 江藤は門宮に肩をすくめてみせる。

「俺は江藤博照。黒龍隊隊長、階級は少佐だ。ほれ、この階級章の模様で少佐ってわかるようになっている」

 自分でも階級章を見ながら丁寧にご説明申し上げていると、江藤の側頭部に何かが直撃した。封筒でないのはすぐにわかった。

「なにをしやがるお嬢さん」

 と他人が呼ぶには歳が行き過ぎているかもしれないが、凝視して年齢を見定める気など毛頭ない。それよりもまず投擲(とうてき)物の正体が畳まれた扇子であることを確かめた江藤は、紅麗葉にガンを飛ばした。

「なんだい、ちゃんと目を合わせられるじゃないか」

 子分たちが身構えるなか、紅麗葉は泰然と笑っていた。指摘されて思わず外しそうになった視線を、江藤は意地で保持した。

 ――逃げないで、江藤博照。こっちを向いて。

 前にエカテリンブルクで同じ言葉を江藤に向けた、阿納真理のことが頭をよぎる。あの女も議員たちと一緒に九天軍に囚われている。黒龍隊隊長というステージを江藤に用意し、そして何かをやらせようとしている女。まだ真意を聞き出していない。死なれては困る。こんなところでつまらない意地や苛立ちに囚われている場合ではなかった。

「どうしたんだい、急に呆(ほう)けた顔をして。――しまった、やばいところに当てちゃったか」

「いや」

 江藤は扇子を拾い上げた。

「招待の件だが、日取りはしばらく待ってもらえないだろうか」

「そりゃ、そっちにだって都合があるだろうからね。日程は追って詰めようじゃないか。――で、受けるんだね?」

「ああ、伺おう。この俺がどこへ行こうと俺の自由だ。だが、今はちょっと特別にそうじゃない状態にある。今はまだ、俺はこのゲートを越えることができない」

 江藤は車止めのバーに手を置いた。

「はん、お高く留まってることだね。下界は穢(けが)れるとでもいうのかい」

 紅麗葉は振り返り、丘の下の猿之門市街を見やる。ブルーシティに観光客を取られ、疎開でさらに寂れた街だが、彼女にとっては生まれ育った故郷、愛すべき住み処なのだろうと江藤は想像した。

「必ず行く」

 再度明言して、江藤は男衆の一人に扇子を渡そうとした。

「お待ち」

 お嬢様の鋭い声が響くや否や、男衆は差し出していた手をすばやく引っ込めた。紅麗葉がゲートの近くへ、江藤のほうへ歩いてくる。草履の音がずいぶんと懐かしい。

「口約束だけじゃ当てにならないからね。その扇子はここでうっかり失くしたことにしよう。善良な市民の落し物は、ちゃんと届けに来るだろうね、江藤少佐?」

 手を伸ばせば触れられる距離で立ち止まった紅麗葉は、江藤を挑発的に見上げた。江藤から見下ろす角度はさほど深くない。百七十センチはある。

「いいだろう。俺が持っていても、しかたがないからな。――門宮、おまえが証人だ」

 首を向けると、遠巻きに様子を窺っていたはずの門宮が、もうそばまで戻って来ていた。

「たしかに承りました。RATの門宮洗です。お見知りおきを」

 言って、ゴリラ男と手早く名刺を交換した門宮は、「ほう、由利公正の由利でしたか」と呟く。

「ようし、野郎ども、引き上げるよ!」

「うーす!」

 源紅麗葉の号令一下、桃源協の肉体労働者たちは堂々、悠々と丘を下っていった。

 その姿が稜線に消えるまで見届けて、江藤は畳んだままの扇子で頬をぺしりと叩いた。いつしか抜けてしまっていた気合が、それで再注入されたような気がした。



- 9 -


 桃源協を見送ってから門宮を連れて部屋に戻り、RAT(ラット)からの情報を吟味しつついくつか対策案を考え出した江藤は、櫛田や阿賀、桜小路らと再び会議を始めた。

 穴蒲静香がドアをノックしたのは、開始から半時ほどが過ぎた頃合だった。入室した穴蒲があまりにいつも通りのぷりぷりとした様子だったので、また櫛田宛の急ぎの電話でもかかって来たのだと江藤も阿賀も桜小路も思ったのだが、そうではなかった。穴蒲は帰ったはずの門宮と、そしてもうひとり、江藤の見知らぬ若い男を連れていた。

 若いとは言っても江藤よりは年下というだけであり、二十歳よりは三十歳に近そうだったが、江藤は断定しかねた。男は疲れているようだった。成人に限って言えば、疲れていると老いて見える。実際には男が二十歳そこそこという可能性もあった。

「誰だ、それは」

 江藤が誰よりも最初に尋ねた。本人ではなく穴蒲に問うたのは、門宮に櫛田の前でなれなれしく話して欲しくなかったのが理由のひとつだが、何より、身元不明の本人が口をマスクで厳重に塞がれていて喋れないようだったからだ。

「野崎兜跋。男性、二十七歳。右院議員、野崎托塔の甥で、その秘書。一昨日の事件で野崎議員とともに行方不明になっていましたが、本日一〇〇四時、“ルート”封鎖に協力していたRATの警護員に身柄を保護されました。確認済みの事項は以上です」

「他には? 状況がよく見えない。犯人から逃げ出してきたのか、それともどさくさに紛れて行方をくらましていたのか……。聞いていないのか」

 阿賀が催促すると、穴蒲は少しだけ眉を動かしてこう答えた。

「あまりにうるさく喋り続け、情報の把握にかえって支障をきたすと判断しました」

「それで、そのマスクかね」

 桜小路が失笑を必死に堪えている。がみがみと口うるさいのは穴蒲こそ得意とするところである。

「もういいだろう。取ってあげなさい」

「了解しました」

 櫛田の言葉に従い、穴蒲が兜跋のマスクを固定していた何重もの粘着テープを剥(は)がす。その手つきに配慮はなかった。二日間で髭が伸びているはずの成人男性に対して、たいへんにむごい仕打ちである。江藤たちが最初に聞いた兜跋の声は、悲鳴だった。

「兜跋君……たしかに兜跋君のようだな。伯父上によく似ている。野崎議員は一緒ではないのかね」

 マスクの取れた素顔を見て、桜小路が話しかけた。

「これは桜小路先生」

 兜跋は口の周りをさすりながら、穴蒲を睨んだ。

「私のこの扱いについて後日委員会で問題にできないでしょうか」

「そりゃ、難しいよ、きみ。それよりまずは説明してくれんかね。どこにいて、どうやって逃げて来た。相手は何人くらいいるのかね。武器は。移動手段は。逃げられたのはきみだけか」

「順を追ってご説明いたしますとも。――私に席はないですか」

 それから始まった野崎兜跋の話を聞いていくうちに、江藤は、厳重にマスクを施した穴蒲の気持ちを、控えめに言っても半分以上は理解できた。

「無駄口が多い男だな」

 江藤が阿賀に耳打ちすると、兜跋が睨んだ。

「聞こえているんだけどな、デブいオッサン」

 江藤は手元に投げる物がなかったのでひとまず我慢した。

「だいたい話は分かった。おまえは秘書ばかりと一緒に移動させられたから議員の行方はわからない。テロリストには地下通路の勝手を知っている者がいて、迷うことなく移動したというのだな」

 見るからにどこか粗を探す気満々で構えていた兜跋が、数秒目を瞑(つむ)って吟味して、そしてぱちりと開眼した。

「ああ、ひとつ忘れていた。どうやら奴らのリーダー格にソウテンとかコウテンとかいう人物がいるようだ。何度か会話でその名が出ていた。どうせ本名じゃないんだろうが、何かの役に立つだろう」

「蒼天と昊天(こうてん)か」阿賀が唸(うな)った。「やはり九天軍だった。しかし、昊天ということは……」

「この兄ちゃんの聞き違いでなければ、欧州帰りがいるってことだな」

 九天軍は、各地域の最上級幹部を方角で分かたれた九つの天の名で呼ぶ。中国に最大勢力を置く九天軍にとって、蒼天は東、つまり日本での活動を仕切る首魁(しゅかい)を指す。昊天は西、すなわち東欧ないし中央アジアを指すが、啓示軍(オフェンバーレナ)の侵略により九天軍もその地域での活動は続けられなくなったはずだった。昊天と呼ばれる幹部も死んだと戦略軍は分析していたが、どうやら、生き残るなり跡を継ぐなりした幹部がこのたび日本へ現れたようである。

 欧州帰り。それは江藤にとっては嫌なキーワードだった。九天軍が啓示軍からの技術供与を受けており、その技術でバロッグを操って横浜議事堂襲撃を成功させたという櫛田の仮説は、これで間接的ながら証拠をひとつ得たことになる。RATが穂積克への警戒を強めていたことからも、兜跋の証言は信用に値する。

「相手が九天軍となれば、軍からももっと人手を割けるよう手を回せるだろう」

「それでは遅いですよ!」

 兜跋は櫛田に向かって怒鳴り、そしてすぐに謝罪した。

「失礼しました。――しかし、しかし急がなければ他の人質たちがどうなるか」

 兜跋は“ルート”でも途中まで阿納真理と一緒だったと言う。が、逃げるときにはもう一緒ではなかった。

「明日の夜には実行するとかなんとか、奴らはそんなことを言っていました。聞いたのは昨夜ですから、もう今夜です。動員を待っている時間はない。今すぐ俺を……、私を道案内に使って地下の捜索をしてください」

 クールな二枚目ぶるのを好むらしい兜跋が、そのキャラクターを捨て、動揺も顕(あらわ)に櫛田に懇願する。

「リスクが大きい」

 櫛田は泣き落としには動じなかった。江藤はいくらか同情的になって、櫛田の言うリスクについて兜跋に解説してやることにする。

「収拾を急いだ結果が、昨日の罠だ。ここでまたおまえさんの誘導に乗ってみろ、またぞろ優秀な幹部クラスを失うことになる。それならいっそ……」

 と、そこまで言って、江藤は調子に乗り過ぎたことに気がついた。嘘も誇張も混ぜてはいないが、配慮も足りなかった。なぜなら、ここには右院議員桜小路慶多がいる。

「どうした江藤君、言ってやりたまえよ。中央議会議員など常に交代要員が――秘書やらのバックアップも含めてセットで控えている。だから、将来と能力にあふれる大勢の若者たちを危険に晒すだけの価値は、人質にはないんだと。私たち中央議会議員は命の危険を日々感じているが、恐ろしいのはエデンのテロリストだけじゃない。おおかた永田町では今頃、与党内で補選立候補者が牽制しあっているだろう」

「そんな……」

「兜跋君。きみは人格的にも伯父上とよく似ているのかと思っていたが、どうやら少し違うようだね。重見(しげみ)首相の秘書から中央議会議員までのし上がった伯父上のようになりたいのなら、清濁併せ呑むことだ。きみがいま考えるべきことは、伯父上を助ける算段ではない。横浜の悲劇における唯一の生存者として、テロとの戦いを煽動的に訴える役割のシミュレーションを始めるべきだ。七年前のブルーアイズ占拠テロの教訓を活かせず、再びブルーシティでの大規模テロを許した税金泥棒たちの粛清を……とかなんとか、な」

 桜小路の言葉には、江藤も息を呑んだ。桜小路がここにいなかったとしても、そこまで直截(ちょくせつ)に告げる気はなかった。

 隠れた剽軽(ひょうきん)者のようでいて、やはりこの老人も並みの精神力の持ち主ではなかった。自分のかわいがっていた秘書、阿納真理をも含めて、見捨てて当然だと言ったのだから。

「前提を変えてください。俺を信用してくれればいいんです」

 身内とはいえ中央議会議員の秘書を務めるだけあって、兜跋もそうそう愚昧(ぐまい)ではなかった。自分が横浜議事堂に九天軍を呼び込み、要人退避用地下通路へと導いた内通者として疑われていることを、きちんと認識していた。

「何を根拠に。君だけが脱出できるとはおかしいじゃないか」

「それは」兜跋は口ごもり、そして何かを閃(ひらめ)いた。「――もしかすると、俺はわざと逃がされたのかもしれない」

「ほう、自供開始か?」

 江藤は威圧的に身を乗り出したが、兜跋は自分の考えを整理するのに集中していて、意に介さなかった。

「人質が生きているという証拠を示すためだ。桜小路先生が仰ったように、たしかに人質には、唯一無二というほどの価値がないんだろう。しかし、もしそれを奴らのほうでも認識していたなら、人質の生存を世間に知らせておくことに価値が生じる。だから俺を逃がした。もちろん確実に地上に抜け出られるとは限らないから、きっと他にも何人かをそれとなく解放したんだ。逃げたほうは必死で地上まで出ていって、誰彼構わず自分たちが生きていることを訴えて助けを請う。そうすれば軍も強硬手段には出られない。人質がすでに殺されていた、と軍が嘘をつくことを、奴らは先手を取って封じようとしたんだ」

「おまえの伯父を俺はよく知らないが、少なくともおまえは偉くなりそうだな」

 江藤は感想を述べると、立ち上がり、兜跋に背を向けた。正面に櫛田を見据える。

「大将。どんな監視付きでもいい。俺とこの男を“ルート”に潜らせてくれませんか。少数であれば損害は小さい。奴らも獲物が少ないうちは罠の仕掛けの紐は引かないでしょう。場所が場所だけに俺の外出を見咎(とが)める者もいない」

 ここで快諾(かいだく)してくれれば本物のカーネル・サンダース像なのだが、櫛田はやはり首肯しなかった。

「さてな。黒龍隊を嫌う者にはむしろ好まれるだろうが、私としては賛成しかねる」

「ここで役に立てない黒龍隊なら、潰れても構わんでしょう。体制が利用する価値も、市民から尊敬される価値もない」

「――ほう」

 櫛田は黙考し、そして決断した。江藤は十秒と待たされなかった。

「そこの壁際の君、RATの人間だったね。ついて行ってあげたまえ」

 門宮が素っ頓狂な叫びを上げた。





- 10 -


 夕日を待たず、江藤と門宮、野崎兜跋の三人は“ルート”に潜った。

 追っ手の影に怯えながら逃げ出してきた兜跋の記憶は、ところどころ曖昧だった。昨日の爆発のせいか電源の切れた暗い“ルート”を、三人は何度も同じ道を行ったり来たりしながら、二時間かけてようやく確かな道筋に至った。

 その間に、江藤は兜跋との会話から、彼の執念が伯父でも他の多数の議会関係者でもなく、主に阿納真理個人に対するものであると悟っていた。この愚直な情熱が自分には足りないのだろうかという自問を、江藤は昔から何度も繰り返してきた。兜跋よりも若造だった頃から。

 江藤は人並みの男女交際の経験がない。日本人離れした体格に凶暴な顔を乗せて歩き、そしてたびたび不良どもをシメていた江藤に、まともに話しかけてくる女性は少なかった。男ですらそう多くはなかった。士官学校ではそんなこともなくなったが、そのときにはもう絶望的な男女比の世界である。母数が少なすぎて、片思いの相手すら作りようがなかったし、寄ってくる奇特な者もいなかった。親しい者との間で話題がそちらへ行くと、おまえはそもそも女の子の目を見て話せてないじゃないか、と異口同音に江藤を指弾した。思い当たる節は、あった。時間をかけてその悪癖の根源を絶つことに成功したが、身についた癖は結局今に至っても直っていないことを今朝、源紅麗葉に思い知らされた。親ほど年上の女性からは、むしろ好かれる傾向があるのだが、世の中は難しいと江藤は思う。

 兜跋の情熱は眩しいほどだったが、門宮もまた兜跋の顔立ちが気に入ったようで、機嫌がいい。大御所の一声で無理矢理同行させられた不満はとっくに口に出さなくなっている。

「しかし、いいのか門宮。警護員のおまえがこんな妙な仕事に従事して。『アルバイトでした』じゃすまないだろう」

 まさかこの兜跋が元老院議員だった、などというオチがあるなら話は別だが、それならせっかく逃げてきた兜跋を穴蒲に引き渡したはずがない。軍に協力するにしても、もう少し穏当な人物に案内をさせただろう。

「例の件は、RAT(ラット)としても早いところ片付けたいんですよ。それに、右院議員や近衛軍の議会派に貸しを作っておくのも悪くない、とも上は判断したようです」

 兜跋の耳を気にしたものか、門宮は穂積の名を伏せた。

 穂積の叛乱以来、江藤もあまりその名を口にして来なかった。叛乱自体をなかったことにしたい軍が緘口令(かんこうれい)を敷いたのも理由のひとつだが、それだけではない。

 江藤は過去を封印したのだった。叛乱事件以前の、まだ普通に知人として付き合いのあった頃の事柄でも、話には出さないようにした。目の前にやるべきことはいくらでもあり、過去に囚われている暇はなかった。当時は、西の戦線で啓示軍が優勢と見て取って、ここぞとばかりに活動を過激化させる反政府勢力が山ほどあった。

「門宮。奴が九天軍と一緒にいるとわかったら、RATはどう動くつもりだ?」

「まずは議員たちがあらかた解放されるまで静観するでしょう。さすがにRATが中央議会の議員を巻き添えにしたなんてニュースが広まっちゃ権威が危うい。右院議員と仲良くしておけという上からのお達しは、そんなに低いプライオリティじゃないですよ。しかしもし首尾よくこのまま助け出せれば、そのあとは……」

「軍は手を引けと?」

「そんなことにもなるかもしれません。まあ、わかりませんよ。決定権は俺にはない。なにせ一介の警護員だからなあ」

 それはますます信じがたくなりつつあるが、問い詰めたところで素直に正体を明かすはずもない。利用できるうちは利用するつもりの江藤は、その点には触れず焦点をずらした。

「一介の警護員ごときなら、これが九天軍の手の込んだ罠だったとしても痛手にはならないと判断されたのか。まあ、俺なら貴様がどんなポストに就いていようと、いなくなればせいせいするような気がするが」

「もう、ご冗談を」門宮は江藤の脇を突っついて言う。「RATは黒龍隊隊長のあなたを特別視していますとも。こんなところで死なれてはいろいろと予定が狂ってしまう。とんでもないことだ。だから上には、俺が命を張ってお守りします、と宣言して来ました。俺の男がかかっている、とお含み置き下さい」

「さっきから聞いていたら」やる気の差か、少し前を歩いていた兜跋がふりかえる。「まだ俺が九天軍とグルだと疑っているわけだな。遺憾だ。心外だ」

「むくれるな。俺は信用してやる。それに、おまえがむくれた顔をしたって誰が得をすると言うのだ。かわいい女の子とかならともかく……」

 懐中電灯だけが光源の世界で、江藤が実際にむくれた顔を判別したわけではなかったのだが、兜跋は鼻息を荒くして前進を再開する。あたしは得するんだけど、と呟いた門宮とはふたりとも少し距離を取った。

 江藤は実際、兜跋が櫛田たちを前に披露した強引な推測が正鵠(せいこく)を射ていると、つまりこれは罠ではないと感じている。考えではなく、直感である。

 強いて理由を挙げるなら、それがいちばん「らしい」からである。穂積克はこんな不確実な作戦を好んだ。それが、穂積が今一歩のところで秀才の誉れを逃していた所以(ゆえん)の最たるものだろう。結局、その弱点ゆえに穂積たちの叛乱は失敗し、江藤が制圧するところとなった。

 門宮に指摘されるまでもなく、穂積から恨まれているという確信が江藤にはある。この通路の先に、その面倒な相手が待っているというのも、直感に過ぎない。この直感は変則領域に対する知覚とは別で、普通の人間が抱く根拠のない推定と全く同じである。そのくせになかなか多弁な江藤の直感は、穂積は自分を殺そうとする、とまで告げている。

 それでもなお、江藤は進まずにはいられない。むしろ兜跋や門宮とは別種の原動力になっている。

 きっと自分は、封印した過去が入れ物のなかでなお朽ちることなく存在し続けているのを確かめたいのだ。と、江藤はまたも証明のしようのない仮説を立ててみた。どんなに目を背けても、そして人がどんなに無視しても過去が消えないものならば、自分もまだまだこの世界に対して悪あがきをする価値がある。そう思えた。

 進むに連れて一行の口数は減っていった。九天軍が近くに潜んでいるかもしれない、という配慮の結果でもあり、同時に疲労のせいでもあった。また、他の二人もそれぞれに考え事があったためかもしれない。

 素人の兜跋を先頭を歩かせるのはやめ、門宮、兜跋、江藤の順に変わったが、その隊列は二十分も持たなかった。兜跋が壁に手をついて立ち止まったのだ。やる気は依然充分でも、肉体が疲れ切っていた。

 無理もなかった。江藤とて、基地内での運動をサボったせいで、そろそろ足が棒になりそうなのだ。着俑機を付けて来たかったが、サイズ調整の時間がなかったので諦めるしかなかった。権限が復活したらまず黒龍隊に着俑機を一ダースほど、そのうちひとつは自分専用に特注で仕立てさせようと、江藤は決意する。

「ほらよ、掴まれ」

 江藤は兜跋に手を差し伸べた。訓練もしておらず、栄養状態も悪い人間を再び“ルート”に入れたのだから、負ぶうくらいは想定内である。お姫様抱っこは却下するが、門宮がやりたいというなら止めないつもりでいる。

 しかし、兜跋は江藤の手を払った。

「気の利かない洒落だな、江藤少佐。まだ大勢捕まっているんだ。せっかく逃げた俺が、何度もつかまれるかよ。――ほら、立てる」

 兜跋は立ち上がったが、数歩を進んで膝が崩れた。戻って来た門宮が、後ろへ回って抱きかかえる。

「くそっ、もう少しのはずなのに……」

 青年の無念の声が地下通路に響く。

「そうね、もう少しなのに」

 闇から返ってきたのが門宮の裏声でないことは、位置からして明らかだった。門宮が踏み入ろうとしていた行く手の暗がりのなかに、誰かが身を潜めている。

 門宮が銃を向ける気配があったが、それを掻き消す物音が重なった。

「真理さん!」

 兜跋が飛び起き、駆け出そうとする。門宮はやむなく銃をそらし、暴走する若者をしっかりと捕まえる。

「待てよ色男。あれが罠の餌じゃないとも限らない」

 這(は)ってでも前進しそうな兜跋の重石役は門宮に任せて、江藤は一歩ずつ注意深く前進した。懐中電灯の光量を最大にして前へ向ける。浮き上がった人影はひとりだけだった。光に手をかざす女は、人形のように細い。江藤は懐中電灯を床に置く。

「阿納真理か」

「ええ、真の理(ことわり)と書いて、マリです」

「そんなことは聞いていない。――本物か。よくぞ無事で」

 江藤が警戒を解いたのを見て、門宮もまた腕の力を緩めたのだろう。兜跋がなけなしの体力を振り絞って駆けて行く。が、何もなさそうなところで躓(つまづ)いて、真理まで五メートルの距離を残して前のめりに倒れる。そのまま起き上がらない。

「いくら春だからって、風邪を引くわよ、馬鹿者」

 冷たく言い放ったその台詞は照れ隠しを含んでいるのかいないのか、ともかく兜跋の背中には一瞥をくれただけで、真理はその横をすたすたと通過した。そして江藤のところまでやって来る。

「私たちを拉致した九天軍は、一時間ほど前に残る全員を解放して逃亡しました。すぐに各方面に連絡を」

「解放しただと? 奴らの狙いは何だったんだ」

「あら、これは綺麗な子ね」

 羽虫のように寄ってきた門宮が話の腰を折って口笛を吹く。真理は門宮を見て、そして自分の背後を指差した。

「あそこのゴミを拾って来て下さいますか? “ルート”に腐敗物を残したくないので」

「ん? ――ま、いいわん。お任せあれ」

 門宮は何かに気を使って、言われた通り兜跋を回収に行く。

 足音が遠ざかるのを待っていた真理は、兜跋を助け起こす門宮の声が聞こえはじめると江藤との距離をさらに詰め、そして小声で言った。

「穂積克という方から伝言です。『必ず白黒をつける。心して待て』と」

 江藤を黒龍隊隊長の座に導いた女は、今また、新たな戦いの幕開けを江藤に宣告したのだった。



――続く――