黒龍隊の挽歌 第二十七話

過去を巡る旅路



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「――起立多数と認めます。よって本案は可決いたしました」

 同時通訳を聞くまでもなく、議長の言葉を受けて喝采(かっさい)と怒号が沸き起こった。無論、喝采しているのが多数派であり、桜小路(さくらこうじ)慶多(けいた)もそのひとりだった。

 先月、他でもないこの横浜議事堂から始まった右院議員拉致(らち)事件は、首謀者どころか実行犯の殆(ほとん)どを取り逃がすという後味の悪い結末を迎えた。捕まった議会関係者は全員無事に保護されたが、それは軍や警察の活躍の結果ではなかった。エデン系過激派武装組織のなかで最も戦闘に長けた一団、九天軍が、ようやくの犯行声明とともに全員を解放したのだ。

 九天軍の捜索は今なお続けられているものの、芳しい成果は聞こえてこない。最低限、再びの議会襲撃を防ぐため各組織で警戒態勢の改善案が出されたが、多くは実施に先立ち法律を改める必要があった。日本政府管掌(かんしょう)のものばかりではなく、亜細亜連邦中央議会で審議すべき案件もいくつかあり、なかでも最も波瀾を呼んだのが、たった今可決した案件である。

 黒龍隊の復権と、その隊長の禁足解除が認められのだ。

「おめでとうございます、桜小路先生」

 閉会後、先日の襲撃の痕跡を残す廊下を歩いているところで、桜小路は野崎托塔(たくと)に声をかけられた。

「やあ、これは野崎先生。その後、怪我のほうはどうですか」

 九天軍に捕まった右院議員のひとり、野崎托塔は、今月初めに右院が再開されるとすぐに出席したが、右腕を包帯で巻いて吊(つ)った姿だった。一週間以上が過ぎ、もう白い布は身につけていないが、それで完治というわけではない。まだ右腕をかばうようにして歩いているのを、桜小路は遠目に見て知っていた。

「年を取ると、傷の治りが悪くなってしかたありませんな。二十年昔なら、とっくに治している程度の傷なのですが」

「そりゃ、そうでしょうな」

 野崎托塔は理知的の見本のような人間だったが、その身に刻まれた傷跡の数では、日本選出の歴代中央議会議員のなかで一位といわれる男でもある。亜細亜連邦の黎明(れいめい)期にあって日本政府の改革に奔走した托塔は、多くの荒事にも関与しており、この世に悪霊なるものが実在するなら彼の近辺はさぞかし賑(にぎ)やかだろうと桜小路は思っている。実際、あれは改革というよりも新生に近かった。徹底的な破壊。亜連への参加に踏み切った当時の日本首相、重見(しげみ)喜一郎(きいちろう)の懐刀は、たいそう切れ味が良かったのだ。血を求める妖刀のように。

 同じく政治家であった父を「八月の悪夢」で失ったことが彼を変えたという者もあるが、桜小路は、元来野崎托塔はそういう男なのだという感触を持っていた。理知的であることと、破壊に対して容赦(ようしゃ)のないことは、全く矛盾しない。感性に由来する理性なき破壊と、感性によるブレーキを理性で抑え込んだ破壊と、いずれが苛烈(かれつ)なるものか。その命題の答えが、野崎托塔を見守ることで得られるだろう、と考えることがある。

 とはいえ、時は過ぎた。五十そこそこで中央議会議員に選ばれた托塔は、必要悪としての暴力が自らの役割であるとはもはや位置づけていない。それを任せられる然(しか)るべき組織をこの二十年で作り上げたということなのだろう。いや、少なくとも十年前には、托塔自身が怪我をすることはなくなっていた。

 托塔のもとで働くようになった彼そっくりの甥、兜跋(とばつ)は、抜き身の刃の危うさを感じさせない点に限っては伯父の托塔と大きく違っている。兜跋は托塔のあとを追って歩き始めたが、どのようにその道が拓かれたのかをまだ知らないに違いない。それを学ばずして伯父に比肩する政治家には決してなれないだろうが、托塔はそれでよしと思っているのかもしれない。野崎托塔は必要なことを理性によって成し遂げる男であったが、彼が密かに抱えたであろう悲哀について、桜小路は知らない。

 野崎の家系から血生臭さは消え、あとは托塔が墓場まで悪霊を連れて行けばすべてが収まる……。そのように捉えて認識も固定化した頃に起きたのが、先日の横浜議事堂襲撃事件だった。乗り込んできた九天軍の狼藉(ろうぜき)に遭(あ)い、托塔は久しぶりに大怪我をした。ロケット弾で吹き飛ばされた木片が右腕に刺さったのだという。ろくな治療もされぬまま二日間地下通路を歩かされていたのだから、傷は悪化していたに違いない。まだ入院していても批難はされまいが、中央議会議員は何よりも自分自身の保身のために、働けることを示す必要がある。拉致こそ免れたが怪我を負った楢田(ならた)議員も、秘書らに不平を漏らしつつ、しっかりと出席している。事情はどの国も変わらない。今日も欠席者は皆無である。

「しかし、永田町の暗鬼はまだまだ健在でしょう」

 桜小路は托塔の右肘の当たりをつつく振りをする。

「私は黒龍隊をもとの鞘(さや)に戻すので精一杯だったが、あなたはもうひとつの目的も一緒に達成してしまった。見事な議会工作でしたよ。転んでもただでは起きない。私も見習いたいものだ」

 半分以上、本心を桜小路は吐露(とろ)していた。

 九天軍の右院議員拉致が中央議会全体に投じた石はひとつだったかもしれないが、生じた波紋はひとつではなかった。黒龍隊の取り扱いについて解体も視野に入れて堂々巡りの議論を続けていた右院が、その復権に向けて大きく傾いたのと同時に、揉めていた別の案件も一方に流れが定まったのだ。九天軍のような無法者をのさばらせぬためには、排除の実行部隊を強化するだけでは足りぬ。巌(いわお)のように強固な管理体制が必要である。それには大統領府を現実に設置するのが最良ではないか……と。

 もちろん、偏った主義主張の個人や団体に大統領府を牛耳られる虞(おそれ)は誰しも理解している。可能性は否定できない。しかし、座して食い荒らされるのを待つよりは、自ら改革の痛みに耐えようという風潮になったのだ。煽動(せんどう)したのは、予(かね)てより大統領府の権力暴走に対する予防措置を研究し、率先して大統領府設置推進に向けて動いていた男。他ならぬ野崎托塔である。

 いったい何がこの男に若き日同然の胆力、実行力を保たせるのか。やりがいのある仕事を追い求めるうちに気づけばこの道へ入っていた桜小路だが、父の影響で若くから政治家を志した托塔は……。いや、父の影響と決めつけるのは固定観念であるな、と桜小路は思い直した。

 生まれによって、予(あらかじ)め敷かれている道は異なる。それはどんな博愛主義の人でも認めざるを得ない事実であろう。しかし、その道を最後まで歩き通すかどうかは、あくまで本人が選ぶことである。道を見つける目さえあれば、あとは意志の力があればよい。

 では、さて野崎托塔の志とは、人生の目標とは何であろう。ただの権勢欲ではありえないと桜小路の直感は告げている。となると愛国心か?

 そんなバカな、と桜小路の血肉がそれをも否定する。彼にとっての国とは、亜細亜(アジア)連邦ではない。三十歳も過ぎてから誕生した巨大連邦にどうやって愛着を持てるというのだろうか。あまつさえ、彼は大統領誕生を推進している。どこの国の人間がその座に就くか全く不透明だというのに、どうして祖国の、日本の国益に利する結果を確信できようか。

「なになに、遅れた時間を取り戻したに過ぎませんよ」

 桜小路には正体不明の動力によって、托塔は腕を振って謙遜(けんそん)した。それは同時に豪語でもあった。実際に囚われた身として同情を誘う演説をぶたずとも、いずれ同じ結果が得られたはずだと托塔は言っている。

「この戦争を勝ち抜くには、大統領府が必要です。先生にもいつかご理解頂けると信じております」

「ま、その話はまたいずれ。ところで野崎先生、今日は甥御さんの姿がまだ見えないようですが」

 いつもなら控え室から野崎兜跋が駆けつける頃合である。代わりの秘書が来る気配もない。

「実はあれにもそろそろ別の仕事を覚えさせようと思いましてね。今日からは別の者に同行を頼んでいるのです。――そういえば桜小路先生こそ、例の美人秘書を最近見かけませんが」

 残念なことに、現在桜小路は美人と呼べる秘書、つまりは女性の秘書をひとりしか持っていなかったので、すぐに誰のことを言われたのか分かった。

「阿納(あのう)ですな。彼女はあれを機に体調を崩してしまったもので、休ませておるのですよ。なに、今度大統領府に関する勉強会にお呼びいただければ、阿納も連れて参りますぞ」

「そのような発言はお控えになった方がよろしいですよ、桜小路先生」

「おっと、これは失言でしたわい。――それでは、これにて」

 阿納真理よりベテランの秘書が迎えに来たのを見て、桜小路は話を切り上げる。托塔もこれと言って必須の話はないようで、ふたりはそれぞれ廊下の別の方向に歩き出した。

 振り向きざまに銃を撃つ、そんな近世ヨーロッパの決闘シーンが桜小路の脳裏をよぎったが、それは誰にも言わなかった。



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 南田は一陣の風となって基地の構内を走っていた。

 龍(ロン)を収容する第二大格納庫の角を曲がり、なにやら溶接の光が漏れる工作棟を横目に駆け抜け、黒龍隊の詰所に入る。自分の席が用意されている待機室には入らず、禁止されている二段飛ばしで階段を登る。ブリーフィングルームその他の配置された二階は素通りし、三階に辿(たど)りついた南田は、ようやくそこで減速をかける。江藤の執務室前で速度ゼロ。息を整えるのもそこそこにノックする。

「江藤少佐! 江藤少佐!」

「待て! 待て待て待て! まだ入っているぞ!」

「あ、失礼しました。――って、トイレの個室じゃないんですから。開けてくださいよ。っていうか入りますよ」

 鍵がかかっていなかったので、南田は了解を取り付けるという無駄なシークエンスを省略した。すると、かすかに異質な匂いに気づく。そして、異状がもうひとつ。正面の執務机に江藤の姿がない。

 部屋を見回すと、江藤は部屋の右手に据えられた応接用のテーブルセットについて、難しい顔でひとりの将校と向い合っていた。そしてよくよく見てみると、ふたりが挟んでいるのは書類や電子端末ではなく、木の板である。そこに木片がいくつも転がっている。遠目に見ても将棋セット以外の何物でもなかった。

「待て、待て待て待て」

 江藤はまだ繰り言のように待て待てと言っている。南田が入って来たのには気づいているようだが、一瞬たりとも顔は向けない。

「待ったなし、というルールでしたね、江藤少佐」

 江藤が顔を盤面から離せないのは、どうやら来客が王手をかけたためであるようだった。部屋に違う空気を混入させたその客の、若干訛(なま)りのある日本語を聞いて、南田はそれが見知った人物であることにようやく気づいた。

 客は北部方面軍の日系三世、カネジュ・イルベチェフ大尉だった。

 普通なら禿頭(とくとう)――自由意志でこまめに剃(そ)っているのであって断じて生えないわけではないという――ですぐにピンと来そうなものだが、最近南田の近辺でツルピカといえば、胃之上食堂店主の鹿室(かむろ)匠(たくみ)のほうが強烈に印象深い。それにイルベチェフは軍帽でその頭皮を覆っていることが多かったが、温帯の日本で店を営む鹿室は帽子をかぶる習慣がない。春が到来したというのに、イルベチェフは今日も室内で帽子をかぶりっぱなしである。どう贔屓(ひいき)目に見ても、鹿室に軍配が上がる。だいいちイルベチェフの頭にはテカりがない。それではてんでダメだろう、似顔絵も描きにくいし、と密かに隊員と批評しあったのもロシア潜伏中の思い出である。

「イルベチェフ大尉。いつの間に日本へ」

「いつ日本へ、のほうが礼儀正しくはないか。南田曹長」

「これは失礼しました」

 つい言の端に本音が出たのがばれてしまったが、南田は動揺しなかった。

「失礼ついでに申し上げますと、幹部教育を終えて少尉に昇進しました」

「おお、それはおめでとう、南田少尉」

「ありがとうございます。――しかし、どうしてわざわざ日本まで。ダーダネルス作戦が片付いたとはいっても、大尉が前線から離れられるほど戦局が落ち着いたわけではないんじゃないですか」

 黒龍隊を潜伏させたダーチャまでときどき様子を見に来ていたイルベチェフは、部下がなかなか一人前になってくれなくてね、とたびたび愚痴を漏らしていた。また、新たに機兵の扱いを覚える後進の育成のため、自分の部隊を数日離れることもあったのを南田は覚えている。イルベチェフの上官たちはまったく便利に彼をこき使っていた。黒龍隊が日本へ戻るときには、部下も全員退院したのでそろそろ前線に戻る、と言っていたはずである。彼らの宿願であろうモスクワ奪還を果たさぬまま、こんなところで将棋など指している場合ではない。

「なに、ちょっと横浜に用があってね」

「買い出し紀行だな」

 頭を抱えている江藤が妙なことを言う。

「違うからな、南田少尉」

 イルベチェフは否定して、立ち上がる。

「中央議会に呼ばれたんだ。今朝、証言してきた。ついでの用事もあるからしばらく居座らせてもらうよ」

 凝った肩をほぐしつつ、南田の方へ歩こうとしたイルベチェフを、江藤が呼び止めた。

「おいコラ、勝負はまだついていないぞ」

「どう見ても詰んでます。本当にありがとうございました」

「いや、まだわからん。おい竜時、チェックしろ」

 招かれて、南田は盤面を観察する。子供の頃は祖父を相手によくやったものだが、まさかそんな細かい個人情報まで調べているんじゃないだろうな、と南田は歩きながらちらりと考える。が、いざ盤面に向かうと余計な思考は消えた。空手の型をやるときと同じ集中力で持って、全パターンを検証。さほど難しくはなかった。

「必至ですね」

 王手ではなかったが、負けには違いない。イルベチェフは完璧に外堀を埋めていた。

「そりゃ必死にもなる」おそらく洒落(しゃれ)のつもりで、江藤は唸(うな)る。「飯代がかかっているのだからな」

「かかっていた、ですね。過去形ですよ、少佐。本当にごちそうさまです」

 肩を並べたイルベチェフは本当に嬉しそうである。

「お、もう霞(かすみ)を食って満足したか。よしよし、安く上がった」

「ハハハ、そんなわけありますか」

 と、平和を満喫しているふたりを見て、南田は自分が韋駄天(いだてん)と化して基地を駆け抜けたのは無意味だったのではないかという徒労感に襲われた。彼らはもう知っているのかもしれない。速報を届けに来たつもりだったのだが。途端に気が抜けて、南田は椅子にもたれかかる。

「どうした、竜時。腹でも減ったか」

「まあ、減ってなくはないですけどね。ずいぶん走りましたから。――しかし一体、誰から聞いたんです? 櫛田(くしだ)大将ですか?」

「何をだ?」

「いまさら勿体(もったい)つけなくてもいいじゃないですか」南田は横目で睨(ね)めつける。「黒龍隊の権限復帰がさっき右院で可決された件ですよ。もう、阿賀(あか)少佐から速報聞いて走ってきたのが馬鹿みたいだ」

「おおおおおおおおお!?」

 耳元、というほどの至近距離でもなかったのだが、江藤の上げた咆哮(ほうこう)は南田の鼓膜をかつてないほどに震わせた。

「マジか、それはマジの話か南田竜時」

「え、知らなかったんですか」

 あまりにくつろいでいるので、てっきり勘違いをしてしまった。

「初耳だな」と、イルベチェフ。「この早さ、俺の証言が良かったに違いないな」

「冗談なんかじゃないですよ。こんなことで担いだ日には、どんな恐ろしい報復を受けるかわかったものじゃないですからね。おっつけ、電話なり電子メールなりで連絡が来るんじゃ……」

 と言っているそばから執務机の電話が鳴った。江藤は身を翻(ひるがえ)して椅子の背もたれを乗り越え、最短距離で電話に走る。南田は倒れかかった椅子を支える。イルベチェフはただ見ている。

 珍しく神妙に電話に出ていた江藤は、おそらくこれもまた極々稀なことに音が立たないほどそっと受話器を戻し、深く深呼吸した。

「イルベチェフ。メシは外で食うぞ。竜時もついてくるがいい」

 行き先は、自(おの)ずと知れた。基地から出られない江藤は、南田たちが胃之上食堂の珍メニューについて語らうのを耳にするにつけ、しきりに俺も行きたい行きたいと曰(のたま)っていた。

「運がいいですね、イルベチェフ大尉。大衆的ですが、なかなかいい店ですよ」

「なんだって、臭いのは勘弁願う」

 イルベチェフが逞しい表情筋を駆使して閉口してみせるので、南田は慌てた。

「いえ、タイシュウというのはですね……」

「冗談だ。知っている」

 イルベチェフは吹き出し、南田の肩を叩いてから、どこかへ電話をかけようとしている江藤を見た。

「食事は大勢の方が楽しいでしょう。もう少し誘いませんか」

「駄目だ」番号をプッシュしながら、江藤は強く言い切った。「ひとりにでも漏らしたら連鎖的に広まる。どんな病気の伝播(でんぱ)より早いぞ。五十人も連れて行けるか」

「そんなに高速ですか」

 デンパの字をおそらく今度は本当に勘違いして、イルベチェフは目を瞠(みは)った。病気の電波なるものが存在するなら自分もそれくらい驚くだろうが、と想像しつつ、面倒くさくなったので南田はもう注釈しない。

 江藤のかけた電話の相手は、留守だった。

「おい、竜時。北嶋を呼んでこい」

「え、誰も誘わないって言った舌の根も乾かないうちに、何ですか」

「北嶋は別だ」

 というわけで南田は、浮き足立っている自分を他の隊員に悟られぬよう細心の注意を払いながら、北嶋の姿を探した。詰所、工作棟、第二大格納庫、と先ほど走ってきた道を引き返していったところ、難なく発見。北嶋は格納庫の一番奥、鋭意改造中の龍複座型のそばに机を置いて、ひとりで張り付いていた。

 江藤から特別扱いの北嶋だったが、南田が事情を説明すると、あっさり外出は無理だと言われてしまった。

「こいつに取り付ける予定の、エアインパルサーの評価機がそろそろ届くはずなんだ。一応、上級の機密物資に属するから、僕が立ちあってサインしないと受け取れない」

 と、さも残念そうに説明を加える北嶋の手元に、クリップボードに隠された弁当箱を南田は発見した。

「江藤少佐に、それまで待ってもらいましょうか?」

 わざと言ってみた。うまいこと北嶋を外食に付き合わせ、裕美子夫人の弁当を余らせることができたら、その処理という恩恵に与(あずか)る誰かに貸しを作れるという打算があった。

「いや、飢えた江藤を繋ぎ留めておくのは危険だ。早く連れ出してしまうのがいい」

「なるほど、それはもっともですね」

 他の仲間達を放って外食することへの僅(わず)かばかりの良心の呵責(かしゃく)は、その理論で取り払われた。お返しとして、南田はこれ以上の追及をやめることにする。欲張っては却(かえ)ってよくない目に遭うような気がした。

「けれど、穴蒲(あなかま)大尉に見つからないように注意するべきだね。権限が戻ったとしても、基地司令である櫛田大将から外出禁止を言い渡されたら江藤もそうそう逆らえない」

「ああ、穴蒲大尉は完全に大将サイドですからね。難物だ」

 南田は苦笑する。直接命令を受ける立場ではないが、できれば出くわしたくないランキングの上位に最近お目見えしたのが穴蒲静香大尉である。基地司令の副官という立場を顕示し、あちこちで厳しい正論をぶってまわるので、基地の誰もが彼女を恐れている。特に、規律を無視したりねじ曲げて解釈するのが大好きな江藤に慣れてしまった黒龍隊隊員の間では、耳にタコができるという奇病が蔓延(まんえん)している。

 留守のあいだにとんでもない将校が増えたものだ、倉知(くらち)や阿賀はずいぶん優しい人間だった、などと溜め息をつきあった南田たちだが、当初は彼女の権勢も一週間と持つまいという希望的観測も持っていた。自分の親ほどの年齢の将官に向かっても躊躇(ちゅうちょ)なく悪口雑言を垂れる我らが隊長ならば、一介の大尉ごとき余裕で撥(は)ねのけるだろう……と。

 しかし、当ては外れた。江藤は穴蒲から小言を浴びせられるばかりで、ほとんど反撃らしい反撃に及ばなかった。中途半端な攻撃は却って穴蒲を刺激し、余計に江藤は凹まされた。まったく、見るに堪えなかった。

 そうして南田たちはひとつの事実を知った。円道や秋月らが配属された時から南田も薄々妙だとは思っていたが、どうも江藤は、対女性恐怖症とでも言うべき弱点があるようなのだった。もっとも、これについては落胆するばかりでもない。江藤に難しいお願いをするときは円道ら情報班女子隊員六名にご協力願えばよい、という必勝パターンが判明したのだから。

 櫛田大将が江藤のその弱点を知ったうえで穴蒲静香という人材を選んだのかどうかは不明だが、少なくとも、大将は現在その相性を認識してうまく利用している。江藤が駄々をこねそうな指示は、だいたい直接ではなく穴蒲から伝達される。南田が江藤の執務室にいるときにもしばしば内線がかかってくるので、それはよく知っている。

「詰所の裏に車を回した方が、目につかないと思うよ」

 普段からその視線を避ける方法を考えているのか、特に思案する様子も見せず、北嶋が助言をくれた。

「そうします」

 南田は敬礼して格納庫をあとにする。

 助言を受けた通りに車を出してきて、詰所の裏に止めた。こっそり停めたかったので、ガソリン車ではなく電気自動車を選んだ。ドアもそっと開け閉めして、いざ江藤を呼びに行こうとしたところで、面倒が起きた。ちょうど詰所の裏口から出て来た円道と鉢合わせしてしまったのだ。

「や、やあ、紗耶(さや)ちゃん。お昼かい?」

「あ、そうです。でも、杏里(あんり)たちと先約があるんでダメですよ?」

 はきはきとした口ぶりは、つぶらな瞳と並ぶ彼女の最大のチャームポイントだと南田は評価しているが、今は少々声量を抑えて欲しいシチュエーションである。

「女の子同士の井戸端会議に首をつっこむほど俺は無謀じゃないよ」

 自分から声を落としてみたが、言葉選びがまずかった。円道が頬をふくらませ、より大きな声を出した。

「井戸端会議って、おばさんみたいな言い方しないでください!」

「ああ、ごめんごめん、じゃ、俺も男同士で食べに行くところだからさ、また今度ね」

「りょーかいです」

 と背中越しに返事はあったが、後日サシで食事に行く予定はないし、約束を取り付ける目処(めど)も立たない。負け戦を挑むものではない、とは、円道と同じ情報班の秋月杏里から受けた忠告である。その秋月はというと、男など掃いて捨てるほどいる、とでも嘯(うそぶ)きそうな才色兼備の女なので、南田は端(はな)から照準外に置いている。平凡の域を脱しない男が、あまり高望みをするものではないのだ。

 控えめなところが神に受けたのか、南田は壁一枚向こうの詰所の戦友たちに感付かれることなく、江藤とイルベチェフを車に乗せることができた。静かにモーター始動。ルームミラーで後ろを見て、江藤と目が合う。やはりガソリン車の馬力じゃないと帰りの坂を登れないかもしれない、と一抹の不安が南田の顔を曇らせた。江藤はこれに気づいて言った。

「いま、俺が重すぎてEVじゃ駄目かもしれん、と思っただろう」

「まさかまさか」

「機兵だって電動なんだ。電気の力を信じてさっさと出せ」

「ラジャ」

 発車。一応、穴蒲の視界を横切らぬよう迂回してゲートへ向かう。

「どうして遠回りを?」

 もう基地の見取り図が頭に入っているらしいイルベチェフが、後部座席で首を傾げる。これは説明をせねば、と南田がその順序を組み立ていると、実は基地司令の副官が口うるさい女でな、と江藤が説明を始めた。禁足解除でよほど機嫌が良いらしい。

 車が基地のある丘を下りきるまでの間に、穴蒲静香の性格から容姿、言葉遣い、挙措(きょそ)に至るまであることないことを吹き込まれたイルベチェフは、うーん、と意味ありげに唸った。

「なんだ、貴公、俺の話を信じないのか」

「いえ、そういうわけでは。むしろその逆で、そんな女性ならできれば会ってみたかったなと。俺はちょっと気が強いくらいが好みなので」

 ルームミラーでイルベチェフの様子を窺うと、どうやら興味があるのは嘘でもないようだった。そういえばイルベチェフに決まった相手がいるという話は聞いたことがなかった、と南田は思い出す。しかし、イルベチェフは間違いなくエリートであり、風貌も、好みは分かれるだろうが決して醜男(ぶおとこ)ではない。付き合う相手ならもっと他に探しようがあるというのが一般的な見方だろう。

「たしかに歳の頃は大尉とお似合いですが」

 南田は、江藤がイルベチェフの発言にぎょっとしている隙に会話に割って入った。

「オススメはしかねますよ。江藤少佐の話は六割がた真実です。しかしどうしてもと仰るなら、あとで櫛田大将のもとへご挨拶に行ったらどうでしょう?」

「おお、竜時、それはいいアイデアだ」

 江藤の手が後ろから伸びてきて、南田の頭をわしゃわしゃと撫(な)でる。一向にありがたくないし、なにより痛かった。

「イルベチェフが勝手に出向くなら俺にとばっちりはないし、俺が櫛田の親分の御尊顔を拝する必要もない」

「やれやれまあ、横須賀の英雄も江藤少佐にかかってはヤクザの親分と一緒ですか。しかし少佐に御同道願えなくとも、俺は挨拶には伺うつもりでいますよ。失礼な言い方になりますが、ぶっちゃけ、江藤少佐を檻から出すためだけにわざわざ日本まで足を運んだのではないわけでして」

 やはりそうか、と南田は得心した。江藤が進めている雷麒麟(ライキリン)の復元計画は、北熊(セヴェルメドヴェーチ)の協力があればこそのものである。しかし、龍複座型を素材とした模造品の製作をこの猿之門で進めることに、北熊側のメリットは見当たらない。それゆえ、彼らが無償で黒龍隊に協力しているような違和感があった。計算高い連中という噂とは大いに異なる。だから南田は、何か裏があるのだろうと思っていた。

 北熊独自の試作機であるドラコーンが彼らの本拠地たるオムスク周辺で開発されていたことからも、雷麒麟の代替機体を遠く日本で作らせるというのは不自然だった。成果を黒龍隊が独り占めしたり、そうでなくても近衛(このえ)軍の横槍が入って掻(か)っ攫(さら)われる事態を憂慮してしかるべきだろう。しかし、機兵の開発状況を様子見するという名目で猿之門を訪れ、江藤のみならず櫛田大将とも懇(ねんご)ろになろうというのなら、そこそこのメリットがあるように思われる。

 イルベチェフが擦り寄ろとうしている現猿之門基地司令、櫛田伴雪(ばんせつ)は、亜細亜連邦軍で最も有名な将官のひとりである。少なくとも極東方面軍士官学校ではその名を覚えずして卒業することなどありえない。なぜならば、日本が亜細亜連邦に参加するきっかけを作ったのが、当時自衛官だった櫛田伴雪だからである。彼がいなければ日本は今頃アメリカ合衆国の新たな州となっていた、とまで断言する人も少なくない。

 とはいえ、櫛田は南田の脳内メモリにおいては日本史の登場人物たちと同じアドレスに保管されていた。まだ五十代で現役なのだ、と南田が思い知ったのは、櫛田が猿之門基地の司令になったというニュースを聞いてからのことだった。イルベチェフのように、遠路はるばる人脈を作りにやってくるという発想は南田にはなかった。基地内の規則が厳しくならなければいいが、などと卑近な心配しかしていなかった。

 自分が軍の中でも特別なところに所属しているという事実は、配属当初にその重い責任を意識することで自覚していた。しかし今でも、別の視点から南田は己の立場の特異性を発見することがある。生死を別にしても、黒龍隊の行動ひとつで大勢の人々の利害が動くのだと南田は学んだ。今ならば、江藤のような図太い人間でなければ黒龍隊の隊長は任せられなかっただろうという分析もできる。

 客体化された新たな視点で黒龍隊という組織を眺めたとき、南田は、それがいかに歪(いびつ)であったかに気づいた。江藤を抑えるべき立場の個人が誰もいないという異常さに。

 右院の軍事委員会や戦略軍参謀本部といった「組織」の判断は、綿密な検証を経るために、「個人」の判断よりも遅くならざるを得ない。しかし有事において、江藤は組織の裁可を待たずしてさまざまな超法規的活動を許されている。早い話が、江藤は有事を宣言しさえすれば合法的にクーデターが可能な立場にあると、南田は発見したのだ。もちろん、クーデターなど起こしても市民の支持が得られなければすぐに瓦解(がかい)するのは自明のことで、中央議会はそれゆえに危険性を低く見積もっている。――あるいは、そのような利用方法を前提として黒龍隊を作ったか、である。

 楢田、桜小路といった何人かの中央議会議員は猿之門基地を訪れたことがあり、南田もおぼろげにどういう人格の持ち主であるかを知っている。そして、彼らがそれぞれ全く違うことを考えているのだと気づいた。元老院の意向が強く反映される外廓聯(がいかくれん)が、いつか中央議会に害を為すかもしれない、という虞から黒龍隊は生まれたと南田は思っていたが、思惑はそれだけではないようだった。積極的に黒龍隊を拡張して外廓聯を弱体化・形骸化させ、ひいては元老院の力を落とそうと目論む者。薄氷を踏むがごとき対米外交の新たなカードとして、かつて同盟国であった日本の土地と人材に立脚する機兵部隊に価値を見出した者。――ダーダネルス作戦への投入も、予めそれを知りながら容認した一派もいたようだと、江藤が北嶋に漏らすのを聞いた。

 策動しているのは直接の利害が絡む議員ばかりではない。ロシア西部やウクライナ、ウズベキスタン……。そうした失地を回復するまで延期とされた右院改選を、自国に有利なタイミングまでさらに引き伸ばすべく、取引の一環で言を左右にしている勢力もある。

 そうした各々の思惑で、黒龍隊が弄(もてあそ)ばれるようなことがあってはならない。その予防措置としても、江藤に与えられていた大権を制限し、一方で、外部からの江藤に対する要請――脅迫を含む――を監視し、遮断する人間が必要だった。そこへ名乗りを上げたのが櫛田なのだ。猿之門ごとき小規模な基地に大将閣下が司令として赴任したのはそういう経緯があったためである。

 江藤はずいぶん煙たがっているが、櫛田は黒龍隊にとって有益な人物のはずだと南田は考えている。南田にはその偉大さの実感がわかないが、年配の世代の軍人には、大なり小なり、櫛田への畏敬の念がある。その櫛田が目を光らせることで多くの策謀を未然に防げるだろう。イルベチェフがお近づきになろうとしているのも、積極的に櫛田の発言力や抑止力を利用したいというよりも、北熊と黒龍隊との交わりは一切怪しいものではない、と無害性をアピールするのが差し当たって最大の目的ではないか。北熊は慎重な連中だとも噂に聞いている。

 そんなことを考えていると、もう商店街のアーケードがすぐそこに迫っていた。

 南田は何度か使ったことのある駐車場を目指した。アーケードのメインストリートを一本折れた先にある胃之上食堂は、一応車道に面してはいるものの、道は狭いし、一台分しかない駐車スペースは普段から鹿室のワゴンが占有している。違法に路駐をして警察と揉めるのは御免だった。前の基地司令の頃はたいそう地元とつきあいが良かったらしいだけに、面倒を起こすと軍からも市民からもバッシングを受けるのは黒龍隊である。狙い撃ち間違いなし、と南田は揺るぎない自信を持って言える。

 しかし、南田の目指した駐車場が見えるよりも早く、江藤が口を挟んで駐車場をよそへ変えさせた。胃之上食堂から遠いうえに、狭くて入りにくい場所で、南田はむっとしながら車を停める。そんなときでも電気自動車は静かなものだった。どこかの静香様にも見習っていただきたい、と詮なきことを思う。

「日本の街並みは温かみがあって好きです」

 イルベチェフは空気を雑踏の空気を胸いっぱいに吸い込んでから言った。

「うさぎ小屋だとかぬかした異邦人も昔おったが」

 江藤はつまらなそうに鼻をほじりながら、しかし口元はにやにやを抑えきれない複雑怪奇なる表情で、三人の真ん中を歩いている。久しぶりの娑婆(しゃば)の空気というやつである。もしかすると、選抜試験のあの日以来かもしれない。とすると四ヵ月ぶりである。ただし、時空跳躍による空白の半月を除いた計算で。

 ずんずん先頭を歩く江藤が日本人としては規格外の身長――と体重――の持ち主であるので、否が応にも人目を引いた。先日峰國(フェングォ)たちと四人で歩いたときとは、向かってくる視線の密度が明らかに異なる。今日の南田はいつでも操縦服に着替えられるつなぎを着ているから寧(むし)ろ目立たないはずなのだが、それを打ち消して余りある注目材料がある。

 残りの二人の服装が一般人からかけ離れすぎているのだ。穴蒲にうるさく服装の乱れを注意された江藤は、ここのところ基地内でも正式な軍装を着用するようになっており、今日も例外ではない。また、中央議会に召喚されたイルベチェフも、北部方面軍が式典用と近年新たに採用した純白の礼服をばっちり着こなしており、負けず劣らず街中で異彩を放っている。マスコミやその手のマニアからカメラを向けられてもおかしくない。

 さらに南田を閉口させたのは、自分の歩幅でずんずん進む江藤が、ときおり唐突に立ち止まることであった。

「おおっ、『可動魂mini』の『パンタロンX 何度目だ劇場版・版』が飾ってあるではないか!」

 また始まった。江藤は玩具店のショーウィンドウに猛然と駆け寄ってガラスにへばりつく。進行歩行と殆ど直角の動きである。南田は溜め息をついた。

「なんだい、あれは」

 江藤のいわゆるオタク趣味をまだ知らないであろうイルベチェフが、興味津々に南田に質問してくる。

「古い特撮ヒーロー番組の主人公ですよ。その玩具(おもちゃ)です」

「ふむ。知らないな」

「一応、タウンゼントブロードキャストの番組ですから、ロシアでもやっていたと思いますよ」

「テレビはあまり見せてもらえなかったし、タウンゼントブロードキャストなら尚更だ。日本じゃどうだか知らないが、ロシアであの局を見られるのは富裕層だけだったよ」

 イルベチェフの少年時代があの大災厄と未曾有(みぞう)の変革の時代にぴったり重なっていることを、南田は意識させられた。年齢の違いが培(つちか)った経験の差に直結するのは明らかだが、八月の悪夢を挟んでいるのといないのとでは、積まれた中身に大きな隔たりがある。ましてや、イルベチェフは日本という国家に生まれ育ったわけではない。ゆえに、言葉だけが通じても、伝えられないことがある。江藤はパンタロンXを見て熱く燃え上がることができるが、イルベチェフはそうではない。

 燃え上がった江藤がなかなか戻って来なかったので、結局力ずくで江藤を引き剥(は)がした。中背(ちゅうぜい)ながら逞(たくま)しいイルベチェフの上腕二頭筋が、ゆったりめの縫製(ほうせい)であるはずの袖をぱっつんぱっつんにし、南田たちが普段二人がかりでやる仕事をさっくり片付けてくれた。

「江藤少佐、まずは昼食をば」

 イルベチェフに諭された江藤はようやく玩具店を振り返るのをやめる。

「ううむ、そうであった。腹が減っては戦はできん」

「しなくていいです。お店の人に迷惑です」

 南田は入念に釘を刺したが、南田は二十メートル先のゲームセンターの店頭に設置されているUFOキャッチャーが鬼門に思えて仕方がなかった。そして悪い予感は的中し、「パンタロンXX版テンガロン\textasciicircum(ハット)のフィギュアがあああ」と叫ぶ江藤を二人がかりで引きずる派目になった。もはや目立つどころの騒ぎではない。

「あ、そこの角で曲がってください!」

 全方位から迫り来るオールレンジ視線にむずむずが頂点に達していた南田は、胃之上食堂を射程圏内に収めると直ちに駆け出し、案内にかこつけていちはやく路地へと逃れた。江藤とイルベチェフが余人の視線を気にすることなくあくまでゆっくりと談笑しながら歩いてくるので、時間を持て余した南田は、席を確保するべくひとりで先に店に入る。

「大将、三人、空いてるかな」

 いつもは余韻まで楽しむ戸の音も聞かず、南田は店主、鹿室に声をかけた。

 しかし、返事を待つまでもなく、店が空いているのは一目瞭然だった。空いてはいるが開いていないのかと疑うべき有様だった。カウンターにもテーブル席にも誰もいない。下げられていない丼や湯飲み、箸などが、数人の客がいた痕跡が残るのみである。そして、カウンターの向こうに鹿室の姿もない。

「大将? おーい、鹿室さん」

 無人のはずはない。奥で揚げ物の用意をしているのかもしれないと思い、南田はそちらを窺(うかが)いながら奥へと入った。と、上から人の声と、ぱたぱたと足音がする。

 この店の二階は、鹿室がときどき寝泊まりに使っていると聞くが、もちろん、南田が昼飯を食べに来て、唯一の料理人である彼がカウンターの中にいなかった例(ためし)はない。店の奥にあるトイレよりさらに向こう、暖簾(のれん)で仕切られた先に階段があるのは見えていたが、そこを誰かが昇り降りする場面に遭遇したことは皆無である。

 今も世間的にも昼飯時であり、休憩を入れるにはまだ早いはずである。何事かあったのかと南田はあれやこれや想像を働かせつつ、初めて耳にするこの店の階段の足音に、自分の方からも近づいて行く。そして暖簾のところで、階段を軽やかに駆け下りてきた相手とご対面することと相成った。

「きゃっ」

「うわっ」

 暖簾をくぐったところで至近距離に南田の顔を認めた相手は、高く短い悲鳴を上げた。南田もまた驚きが口をついて出ていた。何故ならば、相手が「きゃっ」と言ったからである。役作り不要でそのまま時代劇に出られそうな鹿室が、どんなに驚いたとしても小型犬のような叫びを上げるわけがなかった。そして、あの入道のような頭が、若い女性に化けるわけはもっとなかった。

「あの、ごめんなさい。今日はもう店じまいなんです」

 ふたりで口をパクパクとさせていたが、やがて女のほうが先に言葉を取り戻した。

「え、あ、そういえば暖簾なかったっけ」

 店の外にかかっているはずの暖簾の柄を、今しがた目にした記憶がない。

「でも、どうして? ご飯切れちゃったとか?」

 というかあなたは誰ですか、と聞きたかったが、失礼にならない言葉がすぐには見つからなかったので先送りにした。

「今日は鹿室さんの……、店主の御友人が突然見えて、それで。本当に申し訳ありません。私が鍵をかけていなかったのがいけなかったですね」

 清楚というと古臭く芸のない形容だったが、南田はそれ以上に彼女に似合う表現を知らなかった。そんな女性に頭を下げられて、南田はたじろぎ、慌てた。心拍数の増大を意識する。二番機、パイロットのフィジカルコンディションに異状発生、と空耳が聞こえる。

「おい竜時、ここでいいのか?」

 看板で見つけたのか、江藤とイルベチェフが戸をガラガラと開けて入ってきた。

 まだ名も知らぬその乙女が今度は江藤たちに向かって同じ謝罪を繰り返しそうな気配を察して、南田はくるりとその場旋回。今日は休みだそうです、と叫んだ。

「なんだ竜時、作戦中みたいな大仰な声を出して。――店休日くらいチェックしていなかったのか」

「店主が急用だそうであります」

「何? 休養だと?」江藤の声が急に大きくなった。「晴れて外出できるようなった俺様が、最初のお出かけ先としてここを選んで来てやったというのに、店のほうが休憩中とは何事だ。基地の連中が贔屓にしていればいい気になりおって。どれ、プロとしての根性というものを俺が……」

 腕まくりをして歩み寄ってくる上官へ、南田はどう立ち向かうべきか考えた。体格差があるから、普通に押さえこむことはできない。関節を決めるか、急所に一撃を加えるか、いずれかを選ばねばならない。しかし江藤が全身に固定装備する分厚い肉のせいでどちらも一発勝負で成功させるのは難しそうだった。方策は立たなかったが、先走りした脳の一部が、背後に小声で語りかける指令を送ってしまった。

「ここは任せてください」

「え、でも」

 困惑しているのは南田の脳の主流で冷静な部分も同じだった。が、一度立ち向かうと決めた体は素直に戦闘態勢に入る。気づけば江藤相手に「かかってこい」という指のジェスチャをしている。

「ほう、面白い」江藤は肩をぐるぐる回してほぐし始めた。「俺を倒してから行け、の王道パターンだな。望みどおり駆逐してやろう。だが、あいにく俺は少年漫画の主人公じゃないからな。いくら体がなまっていても、おまえごときを潰(つぶ)すのに連載数回分も使ったりはせん。見開き一頁(ページ)でKOだ」

 ――まずい、死亡フラグを立てた。南田の脳は全会一致でそれを認めた。

 イルベチェフが止めに入ってくれる気配は微塵もなく、南田は覚悟を決めるしかなかった。

「聞き分けの悪い大人にはお仕置きが必要ですね」

 言い終わらないうちに突進開始。喉を鷲掴みにしようと迫る江藤の右腕をしゃがんでかわし、股間の正面に占位。容赦なくそこを蹴り上げようとしたが、膝で阻まれた。岩でも蹴ったような衝撃を受け、南田の動きは鈍った。そこへ江藤の左腕が伸びてきて、南田の首を捕まえる。南田は手足をばたつかせてもがくが、そのまま空中に吊り上げられる。

「口ほどにもないな、若造め」

 成人男性ひとりを左腕一本で持ち上げてなお、江藤の表情は余裕綽々(しゃくしゃく)だった。膂力(りょりょく)の圧倒的な差である。しかし南田とて伊達に四ヵ月も江藤の部下をやっていたのではない。無闇に焦らず、脳が酸欠に陥る前に、やるべきことをやる。

 南田はカウンターの上でばたつかせていた右手の動きを止め、江藤の眼前にフックを繰り出した。リーチが足りるわけもなく拳は空を切ったが、南田は当てることを目的とはしていなかった。フックの通過したあとに、砂のような微細な粉末が撒き散らされ、江藤の顔に振りかかる。

「くっ、目潰しか」

 江藤が自由な右手で顔を覆う。南田の首を締める左手の力も弱まった。が、まだまだ南田が脱出できるほどではなく、これだけでは起死回生には至らない。もっとも、南田にとってはまだ計算の範疇(はんちゅう)である。

「小癪な真似を!」

 目潰しに怒った江藤は両手で南田の首を締めようとしたようだったが、それは未遂に終わった。江藤は突然大口を開けて息を吸い込むと……。

「ハ、ハ、ハクショーンッ!」

 盛大にくしゃみをした。南田の計算通りに。

 南田は砂など日ごろ持ち歩いていないし、予め外で拾ってくる理由も存在しなかった。使ったのはたった今現地調達した粉末である。カウンターに置いてあった瓶入り胡椒(こしょう)。

 くしゃみで完全に力の緩んだ江藤の腕を、南田はがっしりと掴んだ。そして懸垂の要領で下半身を持ち上げ、分厚い胸板めがけて両足で蹴りを叩き込む。

「喰らえ大魔王!」

 さすがの江藤もこれにはたたらを踏んだ。そのままもつれ合って床に倒れる。さっとかわしたイルベチェフは完全に面白がっていて、まだ止めに入らない。江藤よりも先に関節を決めるしかないと判断して、南田は相手の腕を取る。が、側頭部に江藤の頭突きを受け、軽く脳震盪(のうしんとう)を起こした南田は、逆に寝技をかけられることになった。

「う、げ。ぐががが」

 南田はかつてない野獣のような呻き声を上げた。実は、関節はまだ完全に決まっていないのだが、南田にのしかかる江藤の体重が何よりの凶器だった。骨と筋肉が悲鳴を発し、臓腑は声すら出せない恐慌状態である。

「ギブ、ギブギブギブ!」

「テイク、テイクテイクテイク!」

 江藤は南田の降参宣言を無視してさらに体重をかける。関節を固めそこなったのは自覚していたらしい。が、自覚しているからこそ江藤は修正を図った。物理的重圧に耐えかねてろくに動けない南田の体をゆっくりと確実に捕捉しなおす。

 今度こそ決められた。

 南田はあらん限りの咆哮を上げた。

 およそ一分はそうしていただろうか。殺人一歩手前の江藤の寝技は、店の奥から飛んできた「うっさいんじゃボケが!」という怒声によって終焉を迎えた。――もとい、決定打となったのは怒声ではなく、一緒に飛んできた南瓜(かぼちゃ)のほうだった。

「誰だ、痛いぞこれは!」

 江藤が自分の頭にぶつけられた南瓜を拾い上げながらふりかえる。重圧から解放された南田も、スルメ寸前まで伸された上体をなんとか起こして様子を窺う。

 暖簾よりこちら側に立っているのは、鹿室ではないが、同年輩の男だった。そして額に血管が浮きそうなほどおカンムリであることまで一目瞭然である。南田はその怒りの様子も含めて、その人物を記憶していた。ダーダネルス作戦中に出会った男、というのはすぐ思い出せたが、名前は出てこない。

 しかし、江藤は違っていた。

「ん、なんでおまえがここにいるのだ、アダテバ」

「アデタバだ!」

 さらに何かを投げつけようとした男の手を、暖簾の奥からぬうっと伸びてきた手が掴んで止める。今度こそ、胃之上食堂主人、鹿室匠の登場だった。

「おいてめえ、食べ物投げるなって昔から言っているだろうが」

「うるせえ、火の通ってない芋なんてまだ食い物とは認めん」

 江藤と同レベルの言い訳をする男のことを、南田はようやく完全に思い出した。アデタバ・ヨシダ。新青海(チンハイ)基地で倉庫区画のひとつの責任者をやっている日系人である。南田は現地で追加配備された龍を受け取りに行ったとき直接顔を合わせている。また、江藤と荒野をさまよった仲であることや、西フェルガナ基地への出発前にゴン太を預けた相手であることも聞いているので、縁が深い相手だという実感もある。しかしそれがどうしてここに、と考えて、南田は鹿室の脇で壁に張り付いている女性の言葉を思い出した。

「店主の御友人って、ヨシダ少佐のことだったのか」

「なんでえ、おまえら、知り合いか?」

 鹿室が江藤、南田とヨシダの顔を交互に見る。しかし江藤とヨシダが依然として睨(にら)み合い、そして唸り合っているので、南田が代表して頷(うなず)いた。

「去年の暮に、新青海基地で。特に江藤少佐とは縁が深いんですが……」言いさして、南田は説明不足に気づき、江藤を指さした。「あ、大将、これがうちの隊長の江藤博照少佐です。外出できるようになったんで、念願叶えようとやってきた次第だったんですが、来客中だったんですね。また今度伺います」

「こら、勝手に話を決めるな、部下の分際で」

 江藤は南田の腹に肘を打ち込み、そのまま体重をかける。南田は再び車に轢(ひ)かれた蛙の有様になる。

「だから暴れるな。人がせっかく友と語らっているというのに」

「俺はメシを食いに来たんだ。作ってくれないならもう少しここで暴れてやる」

「やれやれ困った御仁だな、こりゃ」

 鹿室が引き継いで、溜め息をつく。

「よしわかった。ダチが来たからって勝手に店じまいしようとした俺にも落ち度はある。飯なら振舞おうじゃないか。ちょうどアデタバとも知り合いのようだし、な。――ヤエちゃん、このお三方を二階に案内してやってくれ」

「お、オヤジ、話が分かるな」

 江藤がむくりと起き上がり、南田は息を吹き返した。水抜きされる豆腐の気持ちがよくわかった。

 鹿室はカウンターの向こうへ移動し、さっそく何かを作り始めていた。メニューを選ぶ権限はないらしい。が、反面、特別メニューにお目にかかれる可能性もあるわけで、南田の期待は高まる。先日の炭炉丼のようなメニューは勘弁願いたかったが。

「こちらです」

 ヤエと呼ばれた女性が慎ましい挙措で江藤を階段の方へ誘導する。狭い廊下と階段なので、さらにイルベチェフ、ヨシダと一列になって続き、南田は最後尾で、江藤が登りきったのを見届けてから階段に足を乗せた。江藤が階段を踏み抜くかもしれない、と本気で心配していたからだが、瀕死の状態の階段に南田が止めを刺す虞も残っていたので、やはり慎重に足を運ぶ。

 二階は、六畳の和室になっていた。中央にはまだ炬燵(こたつ)が出っぱなしになっていて、昼間から日本酒の用意がしてある。すでにちびちびとやっていた模様で、実際、真っ先に炬燵に入ったヨシダはすぐ酒瓶へ手を伸ばした。

「ダーダネルス作戦では、いろいろあったみたいだな。よく生きて帰った」

 ヨシダは注いだ一杯を江藤に差し出そうとして止まり、自分の口に戻す。

「そちらは仕事中だな」

「おまえはどうなんだ」

 遠慮なくヨシダの向かいに陣取った江藤は、酒瓶のラベルを見て呻き声を上げる。少しくらいいいじゃないか、という結論を導く屁理屈をこね始めたに違いないと南田は察する。

「俺は半分、休暇だからな。そっちの大尉殿は?」

「申し遅れました。第一〇四機械化歩兵師団、第二独立機動混成団所属のカネジュ・イルベチェフ大尉です。私も半分休暇のようなものですので、よろしければ……」

「おお、いける口か。ささ、座って座って。汚い部屋で申し訳ないが」

「誰の家だ。――しかし、休暇だと? 責任者を外されたのか、おまえ」

 イルベチェフへと注がれる酒から目を離さずに、江藤は尋ねた。

「そんなわけがあるか!」

 と拳を振り上げて叫んだヨシダだったが、すぐに力なく腕を引っ込め、やり場を求めて結局酒瓶に落ち着いた。

「だが、似たようなものかもしれん。一時的にせよ、俺は新青海を追い出されたようなものだ。これが飲まずにいられるか。まあ聞け」

 顔に赤みはさしていないがヨシダは完全に絡み酒である。しかし一方的に絡まれるのを江藤がよしとするはずがなかった。身を乗り出して、酒瓶をかっぱらう。

「こら、貴様、飲む気じゃあるまいな」

「うるさいっ。これは般若湯(はんにゃとう)だ! 酒ではない!」

 江藤はラベルをびりびりと剥がすと、小さく丸めてゴミ箱へ投げ入れた。

「ぬぅ、そんな言い逃れが罷(まか)り通るものか。だいいち、コップも杯もないだろうが」

「ならば直接口をつけるまでよ」

「それはたとえ司法が許しても俺が許さん。加勢しろ、イルベチェフ大尉」

「了解」

 大人げなく炬燵で暴れまわる三人の男たちを、南田は壁際に立ったまま呆然と眺めていた。どうにも居所がなかった。一回り年上の連中ばかりが管を巻いているところへ混ざるスキルを南田は持ち合わせない。というか、今混ざったらどんな社交スキルがあろうと怪我をするのは間違いなかった。

 江藤らの暴れっぷりがおふざけのレベルに留まっているのを認めてか、ヤエがこっそりと部屋を出た。そのまま階下へ向かう。所在のなかった南田は、さきほど店を散らかしてしまったことを思い起こし、自分も忍び足であとを追った。酒だ、般若湯だ、と喚(わめ)いている三人に呼び止められることはなかった。

 下りてみると、昼食を用意してくれているはずの鹿室の姿はなく、彼女だけが塵(ちり)取りと箒(ほうき)を持ってしゃがみこんでいた。

「あ、俺やりますよ」

 南田はすっ飛んで行って両手のものを掻っ攫った。自分で散布した胡椒であったし、下心もあった。醤油や味噌とは別種の甘い香りが身近に感じられて、制御を取り戻したはずの南田の心臓の鼓動は再びアラームを発する。

「じゃあ、お願いしますね」

 申し出に対し、ヤエは一切遠慮しなかった。軽やかに腰を上げると、テーブル席に残っていた食器を下げ始める。せっかくの芳しい香りが遠のき、あからさまにがっかりしてしまう顔を、南田は努めて引き締める。幸い、カムフラージュはたやすかった。舞い上がる胡椒が鼻腔を刺激するのに耐えねばならない状況にあったから。

「あの、大将は?」

 胡椒を集め終わった南田は、テーブルを拭き始めたヤエに訪ねてみる。胡椒を集め終わるまで何度もタイミングを逸した結果である。

「ちょっと材料が足りないぜ、だそうです」

 ヤエが入口の方を見る。どうやら商店街で調達中らしい。南田の下心はむくむくと膨れ上がる。

「アルバイトですか? 前は見かけなかったと思うんですが」

「そうなんです。この四月から始めたばかりで。まだお料理の手伝いは殆どできないんですよね。お店にはよくいらっしゃる……というわけではないですよね。軍人さんだったら」

「ええ、残念ながら」万感の思いを込めて南田は溜め息をつく。「けれど、可能な限り来るようにしています。大将の飯はうまいですから」

 そしてこれからは別の理由で、という本心をそのまま口に出せる南田ではない。しかしここで会話を止めてしまうほど奥手でもなかった。

「さっきはお騒がせしてすみませんでした。あの大男ですけど、黒龍隊っていう機兵部隊の隊長で、一応偉いはずなんですが、中身がただの悪ガキと一緒で困っているんですよね」

 言っているそばから、二階で大きな物音がする。炬燵をひっくり返したのではないか、と南田は推定したが、せっかくの場を放棄してまで止めに戻る気は起こらない。三人の分別に期待する。

 ヤエもまた、鹿室の友人ということで荒っぽいのは想定済みなのか、慌てて上へ行くことはなかった。ちらりと天井を見遣り、苦笑しただけで、会話を続ける。

「じゃあ、あの丘の上の基地に? ときどき機兵が動いているのは見かけます」

「それ、俺が乗っていたかもしれないですね。俺、南田竜時って言います。南田ってちょっと言いにくいんで、大概、竜時のほうで呼ばれるんですが。ちなみに竜時はタツとトキって書きます」

「あ、だったら南繋がりですね」ヤエは白い歯を垣間見せた。「わたしはミナガキって苗字なんですけど、南の垣じゃなくって、南に小さい柿って書いて南小柿なんです。果実の柿。珍しいでしょう? わたしの場合も、やっぱり面倒だってことで、ヤエって呼ばれてます。個人的な知り合いで、苗字で呼ぶ人はいないかも」

「そういえば大将もそう呼んでいましたね。でも、抵抗ないですか? 誰からも下の名っていうのも。たとえばさっき会ったばかりの俺がいきなりヤエさんって呼んだら変じゃないですか」

「いえ、全然構わないですよ。わたし自分の名前すごく気に入っているんです。響きももちろんなんですが、椰子(やし)の枝で椰枝、っていう字の選び方も」

 南田は幸いにも椰子という漢字を思い浮かべることができた。しかし、彼女にふさわしい名という印象は受けない。八重桜のヤエとしたほうが椰枝の容貌、立ち居振る舞いに合致している。もっとも、生まれたばかりの赤ん坊を見て成長後の今を見越した名前をつけるなど無理な相談だが。

「椰子というと、歌を思い出しますね。名も知らぬ遠き島より、っていうあれ」

「勘がいいですね、南田さん。その歌が両親の発想のもとだそうです」

「へえ、それはまたどういう?」

「ええと……」

 椰枝はどこから説明しようかと考える様子を見せ、そして、ふと噴き出した。

「南田さん、いいんですか? わたしなんかと話し込んじゃって。あの調子じゃ隊長さん、本当に酔っ払ってしまいますよ」

「あー、まずいですよね。まずいのは分かっているんです」

 踏み込みすぎたかという一抹の後悔とともに、南田は苦虫を噛み潰した。

 禁足を解除されたとはいっても、江藤はまだ保護観察のようなものであろう。酔っ払って基地に帰ったことがばれたら、穴蒲大尉や倉知大佐、櫛田大将たちから説教を喰らうだけでは済まない。また、酔っ払った江藤がどのように化けるのか、南田にはまだ知識がない。それゆえの不安もあった。アデタバ・ヨシダのように絡み始めたら厄介である。江藤が力加減を忘れてお戯(たわむ)れに及べば、南田たちに骨折、脱臼、肉離れなどの甚大な被害が及ぶのは火を見るより明らかである。

 椰枝との対話時間が惜しい南田であったが、長期的な視野で計算すれば、ここで切り上げるべきという答えが出る。怪我をしてしまっては、しばらく胃之上食堂に顔を出せなくなるからだ。江藤が品行方正にしていれば――そう装えれば――黒龍隊への監視も緩み、外食しやすくなるという期待も持てる。

「この身が持つか心配ですけど、そろそろ行ってきます」

「御武運を」

 ゴミ箱を差し出しながら、椰枝は微笑む。そこへ塵取りを傾けて胡椒を流し込んだ南田は、咄嗟(とっさ)に顔を背けた。椰枝にくしゃみをかけてしまうわけにはいかなかったし、自分の顔がにわかに赤くなったのも悟られたくなかった。



- 3 -


「すると何か、おまえは自分で導入させたコンピュータに仕事を盗られて、それでいじけてこんなところで油を売っているのか」

 江藤は、ヨシダが新青海(チンハイ)基地を離れた経緯を聞き終えると、豪快に噴き出した。般若湯だか唾だか判然としない飛沫が対面のヨシダにかかる。イルベチェフにも飛沫は及んでいたが、さっと上体を引いてよけていた。

「うるせえ。俺は、ダーダネルス作戦からのオーバーワークでもういっぱいいっぱいだ、と上申しただけだ。HAOS(ヘイオス)に荷の仕分けをやらせようって言い出したのは俺じゃない。畜生、人手を寄越すか、仕事の一部をよそへ押し付けるのがいいと俺は進言したんだ」

「しかし考えたものですね」と、酒を舐(な)めていたイルベチェフ。「EPUの並列演算能力はそれだけでも大きな武器ですが、HAOS特有のファジィな入力受付と解探索を組み合わせれば、鬼に金棒だ。我々は機兵の制御でその恩恵を得ていますが、これまで人間がいろいろな都合を考えて決めていた輸送と保管の段取りを引き継ぐのも、朝飯前でしょう」

「そういえばまだ昼飯前だな。あのハゲ本当に作る気あるのか」

「俺の親友をバカにする奴は許さん」

 ヨシダが炬燵をひっくり返した。酒瓶とコップはイルベチェフが直前に退避させたが、つまみや小皿が畳に投げ出される。もちろん江藤の顔面にも。

「だいたいどういう知り合いだ、おまえとここの店主とは」

 江藤は片手で受け止めた炬燵を押し返し、口で受け止めたつまみのサキイカを食みつつ訊ねた。

「奴とは輝かしいハイスクールライフを分かち合ったのだ。匠は数年間、インドにいた」

「おまえのハイスクールライフというと、年がら年中、乗俑機(じょうようき)の自作だと思っていたがな」

 江藤はヨシダがジャンクから自作した乗俑機、労働一号のことを思い出す。戦車の車体を流用した多足型で、人間的なマニピュレータを備えるでもなく完全に重機然としていたから、乗俑機の区分に当てはまるのか微妙な代物ではあった。しかし個人製作のレベルを超えていたのは江藤も認めるところである。龍王(ロンワン)に破壊されて、現物はもうないが。

「俺が手を出したのは乗俑機という言葉も広まる前のことだ。はじめのうちは、コーヒーのオリジナルブレンドと同じく、教養豊かな俺の幅広い趣味のひとつでしかなかった。しかし、だ。俺は匠と出会った。別のインド人の友から、日本人がいるぞと紹介されたのがきっかけだった。奴はあの頃から料理が得意だった。日本料理だけじゃない。俺がインド人の友、マーバラスという男だが、そいつと一緒に匠の食事に招かれたとき、すでにインド料理の極意を会得しつつあった。奴は料理の天才だった。――そのときだ、俺が自分に深い劣等感を抱いたのは。俺は知識と教養と品性に溢れ、多少人にわけてやってもまだまだ余るくらいの傑物(けつぶつ)だったが、これぞという一芸を持っていなかった。何をやっても、ハイスクールで一番ということがないことに気づいた。マーバラスも他に真似(まね)されない一流の特技を持っていた。しかし俺には、それがなかった」

「それで乗俑機の道を究めようと思い立ったわけですね」

 イルベチェフが酒を注ぎなおしたコップをヨシダに回す。ヨシダはそれを受け取って一息に呷った。

「日夜ロボットアームの機構や自動制御の学習と独自研究に打ち込むようになった俺は、たびたび突き当たる壁に頭を打ちつけながらも、とうとう高みに到達した。卒業制作に自分ひとりで作ったロボット、アデターバン号を提出し、全校のみならず全国のその道の人間からも喝采を浴びたのだ。――しかし、挫折の度に打ち付けた俺の頭の髪は抜け落ち、毛根もすべて死滅した。俺がこの髪型になったのはその頃なのだ。匠は俺が会うより昔から綺麗に頭全体を剃っていたし、マーバラスもターバンで隠してはいたが実は若禿だったから、世の人々は俺たち傑物トリオを三禿同盟と呼ぶようになった。賞賛と羨望(せんぼう)を込めて、な」

 滔々(とうとう)と語るヨシダは、イルベチェフが注ぎ足したおかわりを再び呷(あお)る。酒瓶はもうほとんど空になっていた。

「ヨシダ少佐、たいへん勉強になりました」

 南田が、江藤の横にいつの間にか正座していた。いつ壁際から移動したのか江藤は気づかなかった、というか気にしていなかった。ともかく、なにやら感激している様子の南田を、江藤は小突く。

「こんな奇人変人の経験談を人生の参考にするんじゃない」

「どの口が言うんですか」

「この口だ」

 江藤は南田の顔面に生暖かい息を吹きかける。

「うわっ、酒くさっ」

「般若湯だと言っておろうが。竜時も服用するか?」

「すみません」と、イルベチェフ。「もう空になりました」

「仮に薬にしたって」と、鼻をつまんだ南田。「用法用量を守って正しくお使いくださいよ」

「おうおう、なんだか楽しそうだな」

 階段を上がってきたのは鹿室だった。鹿室で禿頭というのは気が利いているな、と江藤はそのつるつるの頭を見上げて思う。が、すぐにそんなことは忘れてしまった。鹿室の持っているお盆から、ほのかに甘い、いい匂いがする。

「遅かったな、匠。どこで道草を食っていたんだ」

 ヨシダが空の酒瓶を片目で覗き込みながら訊ねると、鹿室は得意げにこう答えた。

「食ってたんじゃない。食わせてやろうというんだ」

 やいやい散らかしやがったな、とつまみの破片をよけながら、鹿室は炬燵の上にお盆を置いた。そこには小ぶりの土鍋と人数分の取皿が載っていた。江藤の胃袋だか腸だかが、きゅうと縮む。唾液が活発に分泌される。

「俺様特製、道草粥(がゆ)だ。まずはこれを食っててくれ。あと余っている具材で天ぷらでも揚げてこよう」

「これはうまそうだ」

 江藤は舌なめずりをしてお盆ごと手前に引き寄せたが、杓子(しゃくし)を先に南田に奪われた。

「土鍋から直接食べようとしたでしょう」

「ぬう、どうしてわかった」

「貴様、そんなことを考えていたのか。独り占(じ)めは許さん。おまえはむしろ最後に取れ。そこの若いの、頼む」

「了解」

 南田が江藤を押さえつけにかかる。なんの返り討ちよと江藤は意気込んだが、おかしい、体が動かない、と気づく。イルベチェフが炬燵から抜け出し、江藤を羽交い締めにしていた。

「イルベチェフ、おまえもか!」

「ロシアじゃ日本風の粥は食えんのです。江藤少佐は金縛りにします」

「おぬぉぉぉれっ」

 江藤は一瞬本気を出して、ふたりを振り払う。体がなまってダメかもしれないと思ったが、南田どころかイルベチェフをも壁まで吹き飛ばせた。絶好調である。

 しかし、時すでに遅かった。ヨシダは恐ろしいまでの手際の良さを発揮し、粥を全部取り分けてしまっていた。均等に、である。江藤は胃袋の奥底から嘆息した。

 道草粥には、たしかにそこらの道端で見たような形の種々雑多の葉が入っていた。まだ熱々の粥をぱくりとやると、苦味、渋味と甘味とが絶妙に調整されており、例えるならビターチョコレートのような美味さだった。後味もくどくない。が、次の一口を促す余韻がある。茶碗一盛りにもならない粥はすぐになくなってしまった。

「ぬう、天ぷらはまだか」

「もう少し味わって食べればいいじゃないですか」と、南田。

「よし、じゃあ、もう少し味わわせろ」

 江藤は南田の皿を掻っ攫おうとしたが、チョップで払われた。空手チョップ。そういえば空手をやっていたのだったと江藤は思い出す。隊員の履歴書にはきちんと目を通している。そのうえで、選んだのだから。しかし南田に関しては、空手の技量をアテにしたわけではなかった。

「この乱暴者め」ヨシダが自分のことを完全に棚の上に押しやって江藤を窘める。「俺の苦労話の続きでも聞け」

「ああ、そうだった。ひとつ釈然としなかったのだ。HAOSに仕事を奪われたおまえが、どうしてまた日本へ来た。労働二号の製作に打ち込むいい機会ではなかったのか」

「まるっきりの休暇というわけじゃない」ヨシダは残る粥をかきこむ。「それが厄介なところだ」

「半分は任務か。それで日本に来たということは……」

 はて、何があるか。江藤の脳内検索には何の出来事も引っ掛からなかった。新青海基地のような巨大基地は、日本にはない。ヨシダの倉庫管理のノウハウを活かせる場所などないのだ。むろん、乗俑機の開発に参加する、などということもあるまい。

「HAOSが誤配をやらかしたんだよ。チェンナイに送るはずが、荷は成田に行っちまった。直前に予定外の輸送機変更が入ったから、その情報を取得しそこねたんだな。システムの設計ミスだ。最適化のためのルーチンは俺がアプリケーションに教え込んだから間違いはない。設計者はハードとソフトを過信した。やはり処理内容を人間が監視すべきだったんだ。それを任せきりにした」

「おまえがやれば良かったではないか。それをやっても、完全に人力でやるよりはずっと負荷が減っただろう。遊んでいたのか?」

「いや、休んでいた。副官が過労で倒れちまって、その看病でな……。と、そんなことはどうでもいいんだ。俺はたしかに誤配が発生したとき休んでいたが、どのみち、俺や部下にその荷の監視はできなかった。許可されていなかったんだよ。機密物資だとかで」

「ほう、機密物資ですか」

 イルベチェフが元来細い目をいっそう細めたので、殆ど線になった。

「基地内の工場区画から出た荷だ。本来の宛先がチェンナイだったことをあとから聞かされたが、他には、コンテナ四個に収められていた、としかわからない。機兵用の部品じゃないかと俺は睨んでいる」

「じゃあ、誤配というのも実は何者かの陰謀でわざと日本に運ばれた可能性も?」

 南田の発言に、ヨシダは頷いた。

「それもあって、誰か幹部が現地へ行って、直接現品を確かめて取り返してこいという話になった。それで日本までやって来たわけだ」

「大事な副官の看病もやめて、な」

 江藤はヨシダの副官をよく覚えていた。鼻の高い美人だった、というのも記憶が長持ちした要因のひとつだが、彼女は車道に飛び出して江藤を轢きかけた相手でもあり、それが最大の理由である。

「それはどうでもいいと言った」

 ヨシダは声を荒らげ、炬燵に握り拳を振り下ろした。

「ヨシダ少佐、荷を確かめるよう言われたからには、確認方法について情報開示があったわけですか」

「ああ、そうだ」

 イルベチェフが生真面目な質問をしたせいで、江藤の思惑から外れ、ヨシダは冷静さを取り戻した。もっとも、酒が抜けたわけでもないが。

「荷の入ったコンテナの固有番号を控えている。あとは……。いや、これは言えん。言えんが、中身を確かめる術はある」

「それはおかしな話だな。中身を確かめられるのなら、おまえは荷の見かけなり材質なり、知っているんじゃないのか」

「全く知らん」

 首を左右に振るヨシダは、とぼけているふうではなかった。

「全くわからん」

 江藤も同様に首を振った。こいつは酔っ払って意味不明なことを言っているのかもしれない。一度、酔を覚ました方が良さそうだと江藤は思った。そして、そうまでして聞き出す価値のある愚痴なのか、という疑問も湧いてきて、天ぷらはまだか、というところへ思考は落ち着いた。するとタイミングよく、階段を上る音が聞こえてくる。

「おお、待ちかねたぞ、親父」

「歳はそう変わるまいに」

 鹿室が大皿にどっさりと天ぷらを載せて現れた。江藤が歓喜の叫びを上げていると、あとから天つゆや塩を盆に載せた女の子が現れて、南田がいそいそと立ち上がりそれを配るのを手伝う。

「それじゃ、鹿室さん、わたしそろそろ……」

 全員に小皿と箸が行き渡ったのを確かめて、彼女は言った。

「おお、そういえばヤエちゃん、講義の時間だったな。夕方はまた来てくれるんだっけ」

「ええ、五時には戻れますけど、お店開けますか?」

「おう、こいつも用事で出掛けるって行っているからさ。じゃ、行ってらっしゃい」

「はい。では皆さん、失礼します」

 その頭の下げ方を見て、江藤は様式的な美を感じるとともに、どこか懐かしさを覚えた。ぱたぱたと階段を下りて行く足音を聞きながら、母に似ていたのだ、と思い当たる。

 ふと気づくと、南田が隣でもじもじとしていた。炬燵に入れなくて、というわけではなさそうだった。第一、もうそれほど寒い季節でもないのだ。

「竜時、送って来い」

「え?」

「天ぷらを優先するというなら、それでもいいが。好きにしろ」

「――拝命いたしました」

 南田は立ち上がり、店から出た彼女を見失うまいと駆けて行く。が、階段を降りる途中で一言だけ言い残した。

「江藤少佐、ちゃんと俺の分、残しておいてくださいよ!」

「おう、わかった」

 おまえの言い分はな、と口中に呟く。望みを把握はしても、叶えてやるつもりは江藤にはなかった。

 南田が店を出て行く音を聞き届けるより早く、四人の三十代男性は食事を再開した。人参や椎茸はすぐ中身が知れるが、なかには口に入れるまでわからないもの、味わっても正体不明のものが交じっていた。なんだこれ、それは鰐(わに)だ、ではこれは、駱駝(らくだ)だよ、などというやり取りがあったが、何を食べても誰もまずいとは言わなかった。全員、満足顔でご馳走様をする。もちろん皿は空になっている。

「ときに、ヨシダ少佐」

 食後の玄米茶を啜(すす)っていると、イルベチェフがやや改まった声を出した。

「午後の所用、私も同行させて頂けないでしょうか」

 イルベチェフは秘密の荷物の正体が気になるようだった。新型の兵器やその部品というヨシダの見立ては理にかなっているが、他の可能性もある。新青海基地の工場区画には、SMITS(スミッツ)の研究施設も入っており、空港から何かを送り出すばかりではなく、何かを運び入れるのも容易な立地にある。

 江藤はイルベチェフに顔を寄せて、小声で訊ねる。

「暖炉の谷から消えたあれの残骸だと疑っているのか」

「ええ、あれが貴重な材料であることは、彼らがいちばんよく知っているんですから」

 あれ、とは、現地で多数現れたあの化物、鎧蜘蛛(ヨロイグモ)のことである。“壁”が消えたのち、いまだ活動中だった多数の鎧蜘蛛が啓示軍と同様に忽然(こつぜん)と姿を消したが、残骸――というよりも死骸――はそうではなかった。RAT(ラット)と軍の元老院派が現場を封鎖する前に、北熊はその一部を持ち去ることに成功したらしいが、それは、あの日江藤ひとりが破壊した鎧蜘蛛とどっこいの数である。無力化と完全な活動停止との違いを考慮しても、なお百体は下らないはずの死骸は、おかしなことに最近の航空写真にはひとつも写っていない。イルベチェフが回収数を少なめに言っているとしても、あの状況下、北熊にそれほど多くの輸送能力があったはずはない。誤差はたかが知れている。となると、自然消滅したか、RATが処分もしくは持ち去ったか、ということになる。イルベチェフが疑っているのは後者だ。たしかに新青海基地なら、死骸を調査するのにも隠しておくのにも申し分ない。なにせ広大すぎる基地だ。すべての施設を回っている間に、最初に見た施設が建て替えられる、という冗談もあるほど。

「現物を確かめられたとして、どうするのだ。奪うのか?」

「場合によっては。しかし、たぶん確認だけで終わるでしょう。彼らが何にあれを利用するのか、まずはそれを知りたい」

「おい、こら」と、ヨシダ。「内緒話をするな。あれとか彼とかなんのことだ」

「ヨシダ少佐、あなたを巻き込みたくない。だから知らないほうがいい」

「連れて行くということは、むしろ俺から巻き込むということだ。ん、巻き込まれる、か。ええい、どうでもいい。――匠、片付けをしてもらっていいか」

「へいへい、承知」

 軍人の都合はとっくにわきまえている、という顔で、鹿室が食器をまとめて部屋を出る。足音が下まで行ったのを聞き届けてから、ヨシダは続けた。

「おまえら、暖炉の谷で何か見たな。それがコンテナの中身だと思っているんだろう」

「まあ、そういうことだ」

 自分の特異体質について話した数少ない相手である。江藤はあっさりとそれを認めた。

「何を見た。あまりろくなものではなさそうだ。ゾンビとか、人造人間とか、そんな類か」

「グロテスクな趣味だな。だが、方向性は間違っていない。――暖炉の谷の噂については、どんなものを聞いている?」

「妙な伝染病が流行ったとか、それで部隊が現地に足止めされているとか、だな。信じられる範囲のものは。啓示軍が煙のように消えたとか、核ミサイルが使われたとか、そんな話も聞いたことはある。俺からすれば、本当に暖炉の谷に啓示軍はいたのか、と疑っているところだ」

「つまり、元老院派と議会派の衝突を、啓示軍との戦闘として偽装したと?」

 イルベチェフは、本心ではそんなバカなと憤慨しているはずだったが、さも興味深そうに質問した。

「あるいは灯(ともしび)教の強制排除か。バロッグのど真ん中だ。そのくらいごまかせるだろう。そんな状況だったからこそ、箍(たが)が外れた、とも考えられる。――だが、それじゃコンテナに詰めてこっそり移動させるような厄介な荷物は出てこない。なら、俺の想像は外れているんだろう。正解を教えろ。俺は後悔はしない」

「しかし、本当にあとに引けなくなる。もしかするとあなたの命に関わることだ」

「いいじゃないかイルベチェフ。アベタダも子供ではない。自分のケツは自分で拭く」

「アデタバだ、この阿呆(あほう)。覚える気があるのか」

「なるほど、いざとなったら忘れてもらえばいいですね」

 イルベチェフはさらりと恐ろしいことを言った。冗談かどうか、江藤にはわからない。自分もロシアで何か薬を使われたかもしれない、と想像して、それならば特異体質のこともばれているかもしれない、と認識を改めた。江藤ひとりが自白したところで妄想と受け取ってくれるだろうが、より北熊との接触が長かった北嶋と藤居も、江藤の体質のことは知っている。ただの伝聞ではなく、実際に力を利用した場面に立ち会っている。

 もし北熊が江藤の変速領域感知能力に気づいているならば、雷麒麟の再生計画を猿之門基地で進めることにあっさり賛成したのも納得が行く。“ベルリンの壁”をも突破したAHシステムの起動キーとして、江藤の異能が必要であると彼らは考えたのだろう。

 それは、江藤も前から考えていたことだった。おそらくは長野も、だからこそ江藤に雷麒麟を託した。しかし、実機が大破した今、仮説を確認することはできない。猿之門基地では龍(ロン)の複座型にAHシステムの模造品を組み込む改造を進めているが、構成ハードとして必須と思われるエアインパルサーモジュールがなかなか手に入らなかったため、まだ完成していない。それは、今日、届くことになっている。仮説の検証が可能になるのだ。これから忙しくなる。

 そんななか、最大の懸念材料は、やはり穂積(ほづみ)と九天軍のことだった。商店街に出かければ尾行か待ち伏せに遭うだろうと予測し、それをあぶり出すために、わざわざ遠く人通りの少ない駐車場を使ったり、あちこちの店の前で突発的な行動を取ったりしてみたのだ。今日のところは収穫なしだが、時間の問題だろうと江藤は思っている。穂積は必ず接触してくる。ただし、いきなり命を狙いはしないだろう。何者によって殺されるのか、相手に認識させてから殺さねば気が済まないタイプだった。阿納真理(まり)に伝言を託し己の存在を知らしめただけでは、満足していないはずだ。

 江藤は何よりもこの問題を早期に片付けたかった。体を分けられるなら並列処理するだろう。もちろん分割した両方を穂積と九天軍の件に当たらせる。鎧蜘蛛の死骸を元老院の下部組織がいじり回している、というのも確かに興味深いが、処理の優先度は低い。

 そして、今RATと正面切って対立したくない事情が江藤にはあった。江藤はRAT警護員の門宮(かどみや)に穂積や九天軍の件で協力を依頼している。鎧蜘蛛の死骸を扱っているとしたらそれは間違いなく組織の裏を知る特務員たちだが、特務員も警護員もRATにはかわりない。給料の出所は一緒なのだ。そして、門宮が本当に特務員でないという保証もない。RATからの情報提供がなくなったばかりに、鎧蜘蛛の謎を追っているうちに穂積の魔の手にかかる、または穂積を取り逃がす、といった結末は避けたい。

 ヨシダがイルベチェフとともに鎧蜘蛛の件を調査してくれるのなら、それは都合がいい。江藤にとっては。

 江藤は今日猿之門基地を一歩も出ていないし、イルベチェフやヨシダとここで昼食を囲んでもいない。もちろん般若湯も飲んでいない。そういうことにすれば、万事うまくいく。穂積の件に専念できる。イルベチェフやアデタバの調査結果はもちろん流してもらうが、彼らへの見返りは、何かしら用立てられるだろう。江藤の権限はおおよそ戻ったのだ。それくらいは朝飯前――もう昼食後だが――である。

 江藤は暖炉の谷で“ベルリンの壁”が生じたこと、それに前後して鎧蜘蛛が出現し、啓示軍の尖兵となって亜細亜連邦軍を襲ったこと、そしてその特徴などをヨシダに語った。イルベチェフが所々で北熊の分析結果を持ち出して補足を加えた。江藤はGT72鉱山基地で同種と思しき物の死骸を見ていることを付け加え、イルベチェフは、北熊も三年前に鎧蜘蛛を確認していたことを新たに明かした。

「つまり、暖炉の谷で熱に浮かされて見た幻覚なんかじゃないってことだ」

「ヨシダ少佐も、コンテナを無事確保できたなら、それを見ることになるでしょう」

 それまで補足説明を要求する以外ずっと黙って聞いていたアデタバ・ヨシダは、深く深く息をついた。

「まったく、酒が抜けちまった気分だ」

「信じるのか?」

「コンテナの中身が本物かどうか、確かめる方法を与えられていると言ったろう。おまえたちの話す鎧蜘蛛の特徴は、その確認方法と矛盾がない。携帯用の相対バルムンク反応センサーで、特定のパターンを検知できるはずだと、俺はそう聞かされている」

「なるほどな、それなら、中身を視認する必要はない。コアの活性化に必要な最低限の環境は、コンテナ内の装置が維持しているんだろう。保存のためにも、ただ放り込んだだけではないはずだ」

「だろうな。――しかし、この世にそんな化け物がいたとは、嬉しいような悲しいような複雑な心境だ。ネス湖ももう一回調査したらどうだ、と言いたくなる。日本の河童(かっぱ)も、だ」

「化け物とは限らんさ」江藤は言った。「機兵を作る技術があれば、単純な衝動に従って動く自律歩行兵器を作ることは、さして難しくないはずだ。問題は、誰がそんなものを必要としたか、だ。あれは兵器としては欠陥品もいいところだ。市街地ではまず使えない。そしてただ局地戦をやりたいだけなら、あのような形態を取る必要はない。むしろ邪魔だ。機兵が有用なのは、あれが技術的にも運用思想的にもインテリジェンスの塊であるからだ。しかしあの鎧蜘蛛の行動様式は、インテリジェンスの対極に位置している。コアに食らいつく、ただその本能に従うだけだ。そして、仕掛けがわかった以上、あれはもうさほどの脅威ではない」

半分は、釈迦(しゃか)に説法の話である。ヨシダは下手な機兵パイロットよりは余程機兵の根本を理解している。

「いいだろう、俺もそこまで聞かされて興味を持たない無感動な人間じゃない。イルベチェフ大尉には一緒に来てもらおう」

「ありがとうございます」

「おまえはどうするんだ、江藤」

「俺か。俺は遠慮しておく」

 即答すると、ヨシダの額に血管の筋が浮き上がった。

「おい貴様、借りは通常の三倍にして返すと言っただろう。ゴン太を預かるときのことだ。忘れたか」

「いやいや、覚えているともよ。落ち着いて聞け。黒龍隊隊長が表立って動けば、コンテナの送り主は警戒するだろう。現物を押さえるのには協力する。だがそのときまでは、水面下で進めるのが得策だ。イルベチェフも、着替えたほうがいいぞ」

「たしかにおまえは目立つからな。大尉の服は、用意できるのか? 極東方面軍の大尉用のやつだ」

「ふむ」江藤は記憶にある猿之門基地の士官リストを検索する。「基地司令部に手頃な体格の奴がいたはずだ。部下に届けさせる。受け渡しの場所は変えたほうがいいな……。よし、この商店街に『読字堂(よみじどう)』という本屋がある。そこへ持って行かせよう。三時でいいか?」

「俺は漢字がよく読めん。店の名前はなんと言った?」

 江藤はイルベチェフの顔を見た。こちらも、あまり自信はなさそうな様子である。結局、ヨシダの手帳に簡単な地図と店名を書き込んでやった。店主にこの筆跡を見せれば手形になるだろう、という狙いもあった。

 店主のことを思い出すと、これからこの足で顔を出したい、という気持ちもあった。しかし、あとからヨシダたちが行くとわかっているから、江藤が予めそこへ寄ってしまうのはまずかった。何かあると思われてしまう。監視をしている誰かに。穂積の手下はともかく、軍の情報部やRAT、警察などの手合いは、江藤の尾行チェックくらいやり過ごしていると評価すべきだった。だから穂積も手を出せない、とも考えられる。尾行は護衛でもある。

「俺は下で竜時を待つ。あとは日系人同士、親睦(しんぼく)を深めているがいい」

 江藤はそう言って炬燵を抜け出る。

 階下では、鹿室がもう片付けを終えており、ラジオに耳を傾けながらメモ用紙にボールペンを走らせていた。ラジオは歌謡番組である。南田はまだ帰っていない。

「内緒話は終わったかい」と、鹿室。手は止めない。

「ああ。何をしているんだ?」

「ん、これか。これはちょいとメニューを考えているところだ。お得意さんから、二十人分の仕出しを頼まれているんでな。日取りはまだ決まってないんだが、腕に縒りをかけてくれと言われちゃ、今から気張って考えておかんと。仕入れのこともあるし」

「ほう。仕出しもやるのか。頼んだら、うちにも届けてくれるか?」

「いいともさ。けど、軍相手だからって他の客より優先はしないぜ」

「おい、俺を見くびるなよ」江藤は笑った。「歴史に名を残そうという江藤博照さまだぞ。そんなチンピラめいたことをするものか」

「おうおう、そりゃ志の高いこった。元帥さまでも議員先生でも大統領でも、なんでもいいからなってみせやがれ。そしたらうちでサインを飾ってやろうじゃないか」

「じゃあ、今度来たとき書いてやろう。色紙を用意しておけよ、親父」

「色紙が無駄にならないといいがな」

 そんなやりとりをしていると、南田が戸をがらりと開けて入ってきた。

「天ぷらは?」

「うまかったぞ」

 江藤がぽんと腹を叩いてみせると、南田はがっくりと肩を落とした。



- 4 -


「いいなあ、竜時は。俺がゴン太の散歩当番に行っている間に」

 基地に帰った南田は、車を戻したところでたまたま近くを歩いていた峰國(フェングォ)に発見された。外出の件は隊内ですでに露見しており、ごまかすこともできなかったので、胃之上食堂まで行ってきたことを白状したのだった。それで、並んで詰所へ戻る道すがら、不平を言われている。

「後半は食べ損ねたんだ。大した役得じゃなかったさ」

 その代わりに駅まで椰枝とおしゃべりを楽しめたことは黙秘している。そもそもアルバイトの女子大生の存在を話していない。

「ま、いいけどね。次回があるから」

「次回って、少佐がそうそう奢(おご)ってくれるわけがないだろう」

「おや。おやおや。竜時はすっかり忘れてしまったんだね」

 峰國はジャケットの裏のポケットをまさぐって、幾重にも折りたたまれた紙片を取り出した。

「じゃーん」

「なんだ、それ」

 峰國の手から掠め取って、南田は丁寧に紙を展開してみた。折り目だった部分が削(そ)げてしまっているが、内容を読み取るに不都合はなかった。マーカーペンで走り書きされた短い文章である。

「あ」

 思い出した。それは、ダーダネルス作戦の出端も出端、新青海(チンハイ)基地に預けたはずのゴン太を、西フェルガナ基地へ向かう途上で発見したときに書かれたものだ。こっそり連れて行くのを黙って見過ごしてくれれば、日本に帰ってから食事を奢ってやる、と取引を持ち出したのは江藤だった。

 南田はそんな約束があったことも、江藤が証文を書き、それを峰國が預かっていたことも、すっかり忘れ去っていた。その後啓示軍(オフェンバーレナ)との初の実戦やら、消滅砲の着弾やら、今でも信じがたい時空跳躍現象やらと重大なイベントの連続だったので、それも無理からぬことだ、と南田は自己弁護する。峰國の人並みならぬ食い意地に注目すべきであって、決して、自分の記憶力に問題があるわけではない。そもそも情報は取捨選択されるべきもので、記憶もスリムアップして然るべきなのだ……。

「思い出せた? 奢ってもらえるのは、俺と、竜時と、坂元と、北嶋大尉だ。限度額は明記されていない。うわあ、もう待ちきれないなぁ。隊長の謹慎解除おめでとうございます、だね」

 証文をひったくり返し、また畳んで懐の奥深くにしまい込む峰國。

「坂元は覚えているかな」

「竜時ほど物覚えは悪くないと思うよ」

「うっさい」

 実を言えば、気にかかるのは坂元がこの件を覚えているかどうかではない。実技も暗記科目も卒のない男であるからして、十中八九、坂元は覚えている。ただ、おそらく坂元は、峰國と同じテンションで騒げる状態ではない。それも昨日今日に始まったことではなく、暖炉の谷で再会してからずっと、まるでひとりだけ地球の破滅の日を知ってしまったような様子なのだ。

 坂元が周囲に見えない刃を張り巡らし、そうしてひとりで背負い込もうとしていた核弾頭の秘密は、皮肉にも、黒龍隊に牙を剥いた久留(ひさどめ)によって明らかにされた。しかし、バロッグによる当時の密室状態をいいことに、亜細亜連邦軍はダーダネルス作戦において一発たりとも核弾頭の封印を解除していないとして糊塗(こと)した。これにより坂元個人が引き受けるべき責め苦は消滅した。さらには、黒龍隊が議会派と組んで仕掛けた元老院派制圧作戦についても、情報の錯綜(さくそう)により生じた不幸な行き違いということで結局お咎(とが)めなしとなったし、感染症疑惑もそろそろ払拭(ふっしょく)できた。この麗(うら)らかな春の日差しの下、もっと肩の力を抜いてよいはずなのだが。

「坂元は、久留のことがよほどショックだったんだろうな」

 坂元や鷹山と久留とは、階級を越えて親しくする仲だった。演習で知り合ったという彼らは、養成課程の枠組みが同じだったというだけの南田よりもずっと、深い絆を持っているように見えて、南田には眩(まぶ)しいほどだった。それを裏切られた坂元の気持ちは、察するに余りある。

「さあ、俺にはよくわからないな。久留のことでショックだったのは何も坂元に限ったことじゃないと思うし、それに、俺が知っているのはどっちかっていうとピリピリしているほうの坂元だもの」

 峰國はあさっての方向を見つめてそう言うと、そのまま詰所の裏口とは違うほうへ道を折れた。ゆっくりとした歩調を見て、散歩に誘われているのだと悟り、南田は駆け足であとに続く。それは防火用水を溜めた池沿いの小径(こみち)だった。

「そいで多分、俺は竜時ほど今の坂元を不自然だとは思っていない」

 峰國は背中を向けたまま話を続ける。

「よくあることだよ。自分を動かしていた緊張の糸が切れると、人形さんはどうやって手足を動かしたらいいのかわからなくなっちゃうんだ。でも心配ない。坂元はそのうち気づくよ。自分は人形じゃなくて、他の誰でもない自分の意思で動けるんだって。今は、中途半端にちょっかいを出すのは良くない気がするな。手を差し伸べれば、坂元はそこに新しい糸を見つけてしまうかもしれない」

「峰國……」

 南田はそのとき喉まで出かかった言葉をどこかへなくしてしまった。

「――俺はときどき、ひょっとするとおまえはすごく頭がいいんじゃないかって、思うことがあるよ」

「なんだそれ」峰國は笑いながら振り返った。「ひょっとすると竜時は俺のことをすごくバカだと思っていたわけだ?」

「いや、そうは言わないけどさ。言わないけど、当たらずといえどもなんとやらだな」

「ぬぬ、犬も歩けばというやつだね」

「それは違う」

 やはり峰國は峰國だな、と安心する一方で、南田は峰國の分析がかなりの部分で正解なのではないかと認める気持ちにもなっていた。それこそ、当たらずといえども遠からず、ではないかと。

「ねえ、竜時」

 峰國は池の淵に柱を作る羽虫たちを手で払いながら、それでもまだ進むのをやめようとしない。

 ふと、南田は峰國と初めて会った日のことを思い出す。叛乱と思ったのが入隊試験のためのやらせとわかり、黒龍隊配属を知らされた直後から江藤のしごきは始まった。深夜になってようやく隊舎のベッドに身を投げることができ、そこでようやく、南田は同室となった峰國と改めて自己紹介を交わす時間を得られた。

 出身地の岡山について自慢話をした南田に対して、峰國は、自分は孤児で生まれた土地はよくわからない、と言った。それまでの笑顔を絶やさず、何ら悲壮ぶることなく。

 しかし眠りに落ちる少し前、上段のベッドから峰國はちょうど今のように「ねえ、竜時」と問いかけてきたのだ。「知らない人ばかりのとこに来ちゃったけど、俺はまず竜時と知り合えて良かったと思っているよ」と。あれからそんな恥ずかしい台詞は聞かされていない。別の意味で一緒にいて恥ずかしくなるようなアホらしい言動は数々披露してくれたが。

「ねえ、竜時ってば」

「あ、ああ、聞いているよ」

 また何かこっぱずかしい青春台詞(ぜりふ)が襲ってくるかもしれないぞ、と南田は万全の態勢で身構えた。

「洋伸はさ、久留の使っていたベッドを綺麗さっぱり片付けちゃったけどさ……。もし俺がいなくなっちゃっても、俺のベッドはそのままにしておいてくれないかな。あ、もちろん天気の日に布団を干してくれるのは大歓迎なんだけど」

「なんだよ、いきなり」

 予想以上に湿っぽい話が出てきて、到底乾かしきれないぞと南田は思った。峰國がどこかへいなくなる……。それは戦死したらということなのか。

 峰國は立ち止まり、振り返る。

「何、たじろいでるのさ?」にやにやと峰國は笑っている。「俺みたいな優秀な機兵パイロットを、出身地の東部方面軍がいつまでも放っておいちゃくれないって話だよ。ほら、俺たちが消えている間にさ、紫龍隊とかいうのが新しく作られてたみたいじゃない。この調子じゃ、桃(もも)龍隊とか橙(だいだい)龍隊とかエメラルドグリーン龍隊とかできる日もそう遠くないと睨んでいるんだよね、俺は」

 南田は目の前の男を池に投げ込んでやりたい衝動に駆られたが、ありったけの理性でもって自制した。

「オーケー、お安い御用だ。峰國がそんなのにスカウトされる頃には、きっと俺が江藤少佐に代わって黒龍隊隊長に出世しているからな。部屋のひとつやふたつはどうとでもできる」

「もし本当にそうなったら、俺はどこにいたって黒龍隊に戻る。そいで竜時の右腕になってやるよ」

「なんだ、おまえ、隊長にならなくていいのか。鶏口となるも牛後となる勿(なか)れ、だろう」

「興味ないね。俺はリーダーのガラじゃないから。もし祖国から隊長待遇で呼ばれたとしても、断る」

「俺は」南田は考えたままを口にする。「向いているだろうか。隊長に。黒龍隊のって冗談は別として、一般論でだ」

 峰國は暫く南田を見つめていたが、やがてこう言った。

「経験さえ積めば、必ずいい隊長になると俺は思うね。だから、当面は生き延びることだ。――何があっても、生き残れ」

 言葉が銃弾となって南田の腹を貫いたようだった。峰國は両親に捨てられたのではなく、両親と死別して孤児となったのかもしれない。連邦樹立前後、日本よりも重大な治安の乱れが生じた大陸で。

「約束する」

 南田は、力強く宣言した。

「俺はいつか立派な隊長になってみせる。それまで生きているし、おまえのベッドもそのままにしておく」

「よろしくね。お宝を隠してあるんだから」

 いつも通りの峰國が笑った。



- 5 -


 江藤は約束の三時に間に合うようにイルベチェフの制服を届けさせた。読字堂まで使い走りをしたのは朝井である。背恰好(せかっこう)が近いから、帰りは北部方面軍大尉のなりをするがいい、と言っておいたが、果たして本当に変装して戻って来た。それが三時半。

 四時になると、江藤は龍(ロン)の改造作業に顔を出そうと第二大格納庫に向かった。階下の待機室では、朝井の変装が案外似合っているという話でまだはしゃいでいたので、記念撮影に一枚混ざっておいた。

 格納庫へ着くと、昼に届いたエアインパルサーモジュールの試験運転を始めるところだった。雷麒麟では太腿(ふともも)の左右に布を垂らすような恰好で設置されていたが、改造中の龍とはまだケーブル類でしか繋がっていない。二基の積層板状のモジュールは、別の通常配備中の龍にがっしりと抱えられており、これから通電し徐々に推力を発生させる算段である。

 北嶋の指図で外部電源からエアインパルサーモジュールに電力が供給される。電圧信号を変化させる機構自体はモジュールに内蔵されており、制御はケーブルで繋がった改造中の龍から行われる。そのコクピットには坂元がいる。ハッチは開放されておリ、傍らに立った夏明仁(シャー・ミンレン)が機器操作や指示伝達のサポートをしている。

 起動は順調だった。人為的な変速領域の発生を江藤は第六感で感知した。マスディフューザの波動と似ている。マスディフューザは機兵の足に標準装備されている重力作用線拡散装置で、暖炉の谷で知覚が拡張されてからというもの、江藤はそばで機兵が歩くたびにその波動を感じている。今も、エアインパルサーとは別に、それを抱える群山(むらやま)機のマスディフューザが第六感をくすぐっている。定格作動のマスディフューザが及ぼす刺激は弱い。機械油の臭いでも漂ってくればそちらへ意識を持って行かれる程度である。それに比べ、エアインパルサーからの波動は徐々に刺激を増しており、並大抵の五感への入力では掻き消されないレベルに達している。実際、エアインパルサーは格納庫内の空気を圧縮、整流してジェットを生じさせているが、その大音量をもってしても、江藤はなおエアインパルサーの作動状態を知覚することができた。

「定格範囲、上限です」

「信号波形維持。推力は?」

「群山軍曹の計測で、一五二キロニュートン。スペックの曲線と計測誤差範囲内です」

「よし。耐久テストに移行する。そのまま三分」

「了解」

 モジュールは、添付された仕様書に記載された性能をしっかりと発揮しているようだった。北嶋は解析用のパソコンから離れ、江藤のほうへ歩いてくる。

「どうだ?」

「良くも悪くも、スペック通りだな」

 江藤はジェットの轟音にぎりぎり負ける程度の声で返事をした。離れた隊員たちに聞かせられる内容ではない。

「雷麒麟に乗っていたときの感覚とは違う。似ているが、違う。他のバルムンクシステムへの影響もないようだ」

「原因は何だと思う」

「推力は前のより向上しているし、エアインパルサー自体の問題じゃない気がするな。勘だが。やはりBFGとの組み合わせが肝なんじゃないか」

「なら、過渡応答のテストは省略して、早いところ複座型に取り付けてしまおう」

「やる気だな。だが、まだ量産されていないんだ。試供品は大事に扱ってくれ」

「おまえにそれを言われるとはね」

 北嶋は苦笑して、解析用パソコンのほうへ戻って行く。

 今日中には、機体に組み付けたうえでの再試験が可能だろう、と江藤は見積もる。それでもまだ、マスディフューザと似たり寄ったりの刺激しか発しないようなら、複座型の操縦を坂元と交代してみようと江藤は考えていた。それが波動に変化を生じさせるなら、いじるべきは機体ではなく人体のほうである。江藤と同じような体質を、後天的に付与する研究が必要だ。もしくは、先天的に素養を持つ人間を探し出す努力が。いずれにしても黒龍隊の手に余る。

 RAT(ラット)の門宮には、横浜議事堂襲撃にそういった人間が関与していないか探らせているが、ここのところ顔を見せない。本業が忙しいのかもしれない。最後まで協力し続けるという保証もない相手であるので、他にも調査の手を広げるべきだった。

 阿納真理たちが無事に帰ってきた今、九天軍探索の時間的制約はかなり緩和された。早いに越したことはないが、数日で必ず成果を出せなどと要求しなくてもよい。そうすると江藤にも、RATよりずっと頼れる筋があった。士官学校の同期に、故あって軍籍を離れた友人がおり、もう何年も前から興信所をやっているのだ。本人は探偵と名乗りたがるが。そこへ連絡することを江藤は数日前から考えていた。考えているのだが、ためらいがまだ残っている。先方は江藤の体質のことを知っているので、その点は憂いなく話せるのだが、制約条件は他にもある。三十路(みそじ)を半ばまで踏破しても、交友関係は難しい。

 三分間の耐久運転のクリアを見届けて、江藤は格納庫を出た。出たところで穴蒲静香に見つかった。穴蒲は漆黒の長髪を春風にたなびかせながら江藤へ詰め寄ってきた。

 江藤は迎撃において先手を取った。

「何も疚(やま)しいことはしていないぞ、穴蒲大尉」

「何か疚しいことをしたのですね、江藤少佐」

「禁足解除おめでとうございます、くらい言ったらどうだ」

「禁足解除おめでとうございます。それで早速羽目(はめ)を外されたようですね。桜小路議員をはじめとする数々の好意的な方々の努力が水泡に帰すことがなければよいのですが」

「何も疚しいことは……」

「北部方面軍の将校と密かに外出したのは把握しています」

 うっ、と江藤は声を詰まらせた。門衛を買収しておくべきだったかもしれない、と反省する。

「櫛田司令は今回に限り看過なさるご所存のようですが、これからは司令の許可を得たうえで外出されるようにしてください」

「大将の命令か。緊急時にいちいち許可など取ってはおれん」

「緊急という概念の何たるかをぜひ一度ご教示頂きたいものです。せっかくの江藤少佐のお言葉ですから、基地の全員を集めさせましょう。それとも実演なさいますか? 商店街の使用許可はこちらで取っておきますが」

 これが男なら最後まで言わせず張り倒していた。確実に。しかし穴蒲静香は女だった。それも、江藤からすればまだ若い女だった。それゆえに江藤はろくに睨み返すことさえできず、穴蒲の肩の向こう、無人の領域に目のやり場を求めつつ、鯉のように口をパクパクとさせた。すると、まさに僥倖(ぎょうこう)、詰所の裏から白い人影が現れた。

「お、イルベチェフ大尉!」

 江藤はそちらへ大きく手を振った。穴蒲はしばらくそのまま江藤を見つめていたが、やがてさっと首を巡らせて後ろを確認した。こちらへ歩いてくる北部方面軍の白い軍装姿を見て、江藤が注意をそらすための嘘をついたわけではないと納得したのか、穴蒲は説教を中断する。

「もしイルベチェフ大尉が司令と対面を望む場合、予め私に話を通してください」

 次の用事があるのだと言わんばかりの早足で穴蒲は去って行く。江藤はほっと胸を撫で下ろして詰所のほうへ向かった。

「実にいいところに出てきてくれた」

「お役に立ててなによりです」

 イルベチェフの服を着たままの朝井が敬礼する。

「本物のイルベチェフ大尉から、回収要請が入っているんですが」

「ふむ」

 江藤は時計を見る。午後四時半。

「藤居たちが富士工場から戻る頃だな。拾って来させろ」

「ラジャ」



- 6 -


 富士工場から例のごとく開発部の試製品を受け取って帰る途中、藤居はイルベチェフとヨシダを猿之門市街で拾った。イルベチェフとの再会は、朝井からの電話を受けるまで予想だにしなかったことで、にわかに心が躍った。

「久しぶりだな、藤居」

 車に乗り込みながら、イルベチェフは藤居に握手を求めた。藤居は即座に握り返した。

「ダーダネルス作戦完了お疲れ様でした。次はモスクワですね」

「イランが片付けばな。米軍の展開が遅れているから、早くて来月だろう」

 続けて乗り込んできた頭頂の輝かしい男、アデタバ・ヨシダとは初対面だったが、基地へ着くまでにおおよその人となりは掴めた。江藤とよく似ている。――表面的にはそう言える。

 何ら屈折のない人間なら、見たままが正体であろうが、短時間でそこまで見極められはしない。黒龍隊の誰ひとりとして、久留がRATの工作員であることを看破できなかったように。若い隊員たちが未だ江藤の内面を殆ど知らずにいるように。

 藤居自身、イルベチェフのことをよく知っているとは言い難い。茨木彪(たけし)に対する尊敬の念がふたりを結びつけているに過ぎず、そしてその繋がりすら、幻像に過ぎないかもしれないのだ。藤居が茨木に師事したのは一ヵ月にも満たない期間である。イルベチェフと茨木の交わりはもっと短い。ふたり揃って、勝手な理想像を茨木に重ね合わせている可能性を、藤居は排除できない。幻が消えてしまったなら、藤居とイルベチェフとの間に残るのは、利害関係だけだ。

 基地へ戻るとすぐ、江藤の執務室に二人を案内した。江藤はゴン太と追いかけっこをして遊んでいたが、室外には一人と一匹のはしゃぐ声が全く漏れていなかった。遮音性は完璧である。

 ゴン太は新青海(チンハイ)基地で恩義のあるヨシダのことを覚えていた。突進してくると、後ろ足で立ち上がり、ヨシダの膝に抱きついた。

「おお、あのときの狼か。ずいぶん大きくなった」

「もう六ヵ月ですからね」

「どうりで重たい」

 ヨシダが足を振っても、ゴン太は膝にがっしりと組み付いていて離れない。

「ゴン太、いい加減にしておきなさい」親が言った。「禿がうつるといかん」

「ぬかせ」

 ヨシダは思い切り足を蹴り上げた。ゴン太が遠心力に負けて宙を舞う。

「キャヒン」

 ほぼ鉛直上向きの軌道。ヨシダは自由落下に転じたゴン太を自ら両手で受け止め、赤ん坊のように抱き直した。

「ワウワウ」

「なに、もう一回だと? 食えない狼だ。飼い主に似たな」

 ヨシダはゴン太を床に下ろし、勝手に応接セットの椅子に腰を落ち着けた。

「どうした、遠慮せず座れよ」

「俺の部屋だぞ」江藤は駆け戻って来たゴンタを抱き上げて、ヨシダの向かいのソファに腰掛けた。続いてイルベチェフがヨシダの隣に。あとひとつ残ったのが江藤の隣だが、藤居はそこへ掛けるべきか退出すべきか量りかねた。すると、江藤がゴン太の前足を操って手招きをする。

「藤居も座れ。おそらく、何かしら手伝ってもらうことになる」

「了解しました」

 四脚の椅子が埋まると、ヨシダがまず、仕事が不首尾に終わったことを報告した。藤居にはまだ何のことか分からない。

「コンテナはあったんだ。番号も合っていたが、センサーは全く反応しなかった。中身がすり替えられていたんだ。とんだ無駄足だった」

 ヨシダは懐からトランシーバのような機器を取り出す。ガワは実際にトランシーバから流用し、偽装しているようだった。ゴン太が江藤の膝から机へ乗り移り、そのセンサーに鼻先を寄せる。

「で、その中身……、鎧蜘蛛の死体の行方はわかっているのか?」

 藤居への解説を兼ねてか、江藤が言葉を変えて問う。ヨシダは胸を張った。

「当たり前だ。俺はプロフェッショナルだからな」ヨシダは日本語から英語へ切り替える。「コンテナ到着後に、その中身を運び出すのに十分な数のトラックが施設から出ていることを調べ上げた。廃棄物の搬出という記載で、スケジュールも前から決まっていたというが、そんなのは反証にならん。トラックは京都に向かった。もう荷はそこに届いているだろう」

「ふむ、京都か」江藤は少し考える様子を見せてから答えた。「ツテはいくつかあるが、時間がかかるな」

「今すぐにでも京都へ向かおうと考えています」と、イルベチェフ。

「そんなことだろうと思った。――藤居、土地勘はあるか」

 もう話の要点は掴んでいた。藤居は即座に返答する。

「観光で行ったことがありますが、もう何年も前になります。たしか、富士本が左京区の出身だったはず。彼のほうが適任でしょう」

「ううむ、富士本か。あいつには複座型のコクピット改修を任せているからな。外したくない」

「なんだ貴様、荷が気になるのか気にならないのか、どっちなんだ」

 ヨシダが江藤を睨む。と、その隙にゴン太がセンサーのアンテナ部をくわえてひったくり、そのまま走り去る。ヨシダはそれを追いかけて応接セットから姿を消す。

「藤居准尉が来てくれれば心強いが」

 正面のイルベチェフが藤居をじっと見つめる。藤居は江藤のほうを向くことで、その視線から逃れた。

「江藤少佐、富士工場へ行ったついでに様子を見せてもらいましたが、『角龍(ジャオロン)』壱番機の完成は目前です。私が京都へ行けば、霞ヶ浦での試験スケジュールに響くことになります」

「それは群山にも用意をさせているだろう。間に合わなければ、群山を霞ヶ浦へ送るまでだ」

 言ってから、江藤は顔をしかめた。

「――何か、行きたくない理由があるのか。芸子さんにトラウマがあるとかじゃないだろうな」

「いえ、江藤少佐とは違いますので。ただ、若手にもっと成長の機会を与えてもよいのでは、と」

「だから群山を霞ヶ浦に……。ん、そうか、おまえが言いたいのは」

「ええ、新しい幹部たちのことです」

 江藤は自分を重用しすぎている。そのきらいは配属当時からあったが、それはやむをえぬことだと藤居は理解していた。だが、今はもう、そうではない。

 藤居には、江藤が自分の首を絞めているように思えてならない。若い部下たちが自分を心から信用してくれるわけがないと、江藤は未だに決めつけている。ダーダネルス作戦での様々の体験を経ても、なお。江藤が過去に負った孤独の傷は深く、それゆえになかなか自信を持てないのだろう。だから北嶋や藤居以外の部下に弱みを見せられない。自分の秘密を明かせない。重要な案件を任せられない。それらのことが結局、彼らからの信頼を遠ざけてしまっているのだと、藤居は見ているのだが。

「――ひとりを選ぶなら、誰が適任だと思う」

「戦力的には、実技、応用力を兼ね備えた坂元少尉が良いでしょう。しかし……」

「安全装置の壊れた銃を貸す気にはなれん」

「とすると、南田少尉でしょう。李(リー)少尉は日本に来たばかりですし、鷹山少尉の髪は目につきやすいですから」

「なるほど、あの天パは確かに……。イルベチェフ、竜時でも大丈夫か?」

 話を向けられて、イルベチェフは思案顔になる。

「部下の育成に手を焼いている男ですよ、俺は」

「面倒まで見てくれとは言わん。もし役に立たなければ、途中で置いて行ってくれていい。その頃には現地の人間を合流させられるだろう」

「そういうことでしたら、構いません」

「おまえもいいな、アデデバ」

 江藤はまだ部屋を走り回っているヨシダにぞんざいに呼びかける。

「アデタバだ! 手伝いなんぞ誰でもいい。まずこいつを大人しくさせろ!」

 そう叫ぶヨシダは息が上がっている。江藤は一声でゴン太を止められるはずだったが、ヨシダが力尽きてその場にへたり込むまで、その決まった言葉を口にはしなかった。


*   *   *   *   *


 京都へはすぐにでも発つという話だったが、ヨシダが鹿室へ電話を入れたところ、事情が変わった。京都なら、力になってくれる知人がいると言うのである。鹿室なら無責任な安請け合いはしないはずだ、というヨシダの断言もあり、もろもろの用意も整えてから万全の態勢で出発しようということになった。

 その夜、ヨシダは鹿室の自宅に向かったが、イルベチェフは基地に泊まることになった。夕食後、藤居はイルベチェフとともに風呂に浸かりに行った。

「風呂は久しぶりだ」

 浴槽で手足を伸ばして、イルベチェフは体の芯からくつろいだ吐息を漏らす。

「藤居、ひとつ聞いていいか」

「いくつでもどうぞ」

「なら、質問を増やそう。いつも独りで入るのか?」

「そうですね。普段は詰所のシャワーで済ませるか、時間を外しています」

「それはもったいない。何故だ」

「見られたくないんですよ、これを」

 藤居は額を指差して見せる。鏡がなくとも、位置も大きさもしっかり把握している。普段はバンダナで隠している裂創の痕がそこにはある。

「あのときの傷か」

「いえ、それはこっちです」

 藤居は額の他の部分を指し示す。それは西フェルガナ基地の消滅跡から飛ばされる直前、龍(ロン)のコクピット付近に貫通弾を受けたことによる内装剥離(はくり)で負った傷である。しばらくバンダナに代わって包帯を巻いていたが、イルベチェフが運び込んでくれたシムケントの病院の処置が良かったのか、もう目立たない。

「同じ誤解をされそうなので、ますます見せづらくなりました。あのことがなければ、もうバンダナをしなくてもよかったんですが」

「しかし、君は許しているんだろう。彼らに伝えていないのか?」

 彼らとは、坂元と鷹山のことだった。消滅砲の抉(えぐ)った大地の底を歩いていた藤居の龍を、敵機と誤認して狙撃したのは、当時の編成でいう第三小隊である。すなわち、坂元、鷹山、久留の三名。

「あれは不可抗力だったと、坂元少尉には言いました。久留を取り押さえるときのことですが。逆上していた彼は聞く耳を持たなかった。今も、おそらく自分を許してはいない。それを許せば、鷹山少尉を撃った久留のことも許す道理になると、そう思っているのでしょう」

「鷹山少尉はどうなんだ」

「知らないようです。坂元少尉が隠していますから。実際に火縄(ヒナワ)を発射したのは坂元少尉ではなく鷹山少尉のほうかもしれない。いずれにせよ、鷹山少尉は知らなくていいことです。あの戦闘のデータは封印しましたし、他に事情を知っている隊員には俺から口止めをしてあります。時空転移現象の解明のために記録を公開しない限り、秘密は守られるでしょう」

 イルベチェフは微動だにせず、黙って水面を見つめていた。そのままゆっくりと湯の底に沈み込み、顔が隠れてたっぷり三十秒ほどしてからようやく浮上する。のぼせたのか窒息したのか、しばらく呼吸を整える。

「茨木といい君といい……」イルベチェフはそこで深呼吸を挟んだ。「どうしてそこまでマゾヒスティックになれるのか、疑問だ。それが大和魂だというのなら、俺が祖父母からもらった血はずいぶん薄れてしまったことになる。俺が今、やり場に困っているこの感情は、おそらく疎外感だな。どこかに大和魂濃縮還元カプセルは売っていないのか」

「もうひとつの質問は、見当がつきましたよ。どうして京都への同行を辞退したか、ですね」

「その通りだ。今の話でわかったから、いい。そろそろ坂元との痼(しこり)を解決しようというのだろう」

「ええ、新型のテストは長引くかもしれませんし、そのまま霞ヶ浦へ転属ということもありえます。階級もあちらが上になった。――わかっていたことですが。下の者が上の者の弱みを握っているというのは良くない。金輪際(こんりんざい)、もう誤射のことは気にしないよう、納得してもらいます」

「江藤少佐はこのことを?」

「知らないはずですが、どうでしょうね。実はどこからか気づいているかもしれない。でもお膳立てをしてもらうつもりはありません。あの人にこれ以上負担をかけたくない」

 つい口を滑らせた。九天軍の事件の折、江藤と個人的に接触を図る不審人物が現れたことは、本人にしか伝えていない。藤居は自分の迂闊(うかつ)さを呪ったが、イルベチェフはその点を衝(つ)いてはこなかった。

 脱衣場へ上がって、ふたりだけになったとき、イルベチェフは質問がひとつ流れていたことに気づいた。

「その大きな傷は、いつのものなんだ」

 藤居はちょうど鏡を見ていた。バンダナで隠している大きな傷。自分が生まれ変わったときには、つまり江藤と出会ったときには、もう包帯の下に存在していた。

「二年前、東部方面軍で治安維持をやっていました。その頃に負った傷です」

 藤居は嘘をつかなかった。

 さりとて、十分な説明をしたわけでもなかった。



- 7 -


 南田にしてみれば、「京都旅行をして来るがいい。きっと桜が綺麗だぞ」という江藤の発言は唐突もいいところだった。そして珍しいことに、嬉しく喜ばしい「唐突」だった。大好きな時代小説で数多く舞台に選ばれている、あの京都を、洛中を、旅行できるのである。イルベチェフ大尉とヨシダ少佐という目上の人間が道連れであろうと、絶好の機会には違いない。江戸の史跡なら士官学校時代に少しずつ回ることができたが、京都まで足を延ばすことはこれまでできなかった。正拳突きで待機室の壁を破砕できそうなくらい南田の心は躍った。

 早朝、羨ましがる峰國(フェングォ)に、俺のベッドを残しておけよと言い残して、南田はイルベチェフを連れて基地を出る。運転は夏明仁(シャー・ミンレン)。商店街近くまで送ってもらう。

 ボストンバッグを抱えて、まだ暗く人気のない歩道に降り立つ。雑嚢(ざつのう)ではなく、かつて部活の遠征に使った私物を持って来たのは、軍人だと見られないようにするためである。当然、私服である。イルベチェフもロシアからの手荷物に私服を詰めて来ており、今朝はそれに着替えていた。いかにも中産階級の旅行者らしい小洒落た恰好である。軍務で来たのならせいぜい部屋着くらいしか持たないだろうと思っていたので南田が訊ねてみると、半分休暇だからな、という返事があった。

 軍と懇ろのレンタカー業者が特別に早くから店を開けておリ、そこで二〇一七年製のハイエースを一台借りた。予め話は通してあり、ハイエースの後部の座席は取り払われて、軍用の物々しい無線通信機が据えられている。暗号式とのことである。それでもまだ余りあるスペースには、毛布やクーラーボックス、武器が詰め込まれ、銀行強盗の全国ツアーに出掛けられそうな有様である。

 武器は軍が運んだもののはずだが、もしかしたらエデンにも同様に武器満載の車を流しているのかもしれないと想像して、南田は少しぞっとした。もっとも、もし仮にそうだとしても、倉知大佐が信用を置いている――あるいは弱みを握っている――業者だという話であるから、背中から撃たれるとか爆弾を仕掛けられているとかいう心配はしなくてよい。南田はキーを回してもハイエースが爆発炎上しなかったことで証拠を得た気分になり、そのまま運転して、胃之上食堂の裏につけた。普段は置いてある店のワゴンが、今日はどけてあった。

 店からは仕込み中らしい匂いが漂い出ていた。鹿室はいる。ヨシダも鹿室の自宅から一緒にここへ出て来て、待機しているはずだった。ふたりは示し合わせてある通り、裏口から店内へ入る。

 鹿室が揚げ物をするときに姿を消す奥のスペースに、南田は初めて踏み入った。かつてない驚きと感動が胸を駆け抜ける。厨房(ちゅうぼう)などどうでもよかった。そこには、桜色のカーディガンを羽織った椰枝が立っていた。

「遅いです」

 椰枝は両手を腰にやって立腹を表現した。

「もう少しで置いていくところです」

「ご、ごめん」

 南田は、椰枝の私服姿が放つ輝かしいオーラに全面的に降伏するしかなかった。早朝からアルバイトの椰枝が店にいることも、椰枝がこれからの予定を知っているふうなのも全くの想定外なのだが、それには頭を下げているうちにようやく気がついた。

「冗談ですよ、頭上げてください」

 小さく噴き出すと、椰枝は横へよけて南田とイルベチェフを中に招き入れる。

「大将から、聞いているの?」

「はい。昨日、夜にまたバイトに入ったときに」

「大将、どういうつもりなの」

 椰枝にではなく、カウンターの中で野菜を刻んでいる鹿室へ向かって、南田は詰問した。個人的に浮かれる旅行ではあるが、基本的には、これは極秘任務である。猿之門基地の主だった幹部には大まかな話が通っているものの、いかにも訳ありそうな取り合わせの将校三人が京都へ旅立つという情報を、一般市民――に紛れた情報畑の者たち――に知られるのはまずかった。椰枝が誰かに伝えようとしなくても、知ってしまった以上は、誰かに嗅ぎつけられるリスクが生じる。鹿室なら体制を怖れぬ週刊誌の記者が押しかけてきてものらりくらりとかわせるだろうが、成人しているかどうかもわからない女子大生に、同じレベルは期待できない。――というのは建前で、南田の偽らざる本心としては、椰枝を僅かにでも危険に近づけるような真似は許せないのだった。

「どうもこうもねえよ、あんちゃん。京都で力になってくれる知り合いがいるって、言っておいたじゃねえか。聞いてねえのか」

「聞いていませんよ。それが誰かなんて。――まさか、南小柿さんの知り合いだなんて」

 言ってから、おや、と南田は首を傾(かし)げる。椰枝はさっき、「もう少しで置いていくところです」と言った。つまり。

「南小柿さん、一緒に来るの?」

「ええ、そうです」

 回し蹴りで機兵を打ち倒せそうなくらい南田の心は躍った。躍り狂った。

「椰枝ちゃんは前は京都に住んでたんだ。だからあっちには知り合いがたくさんいる。その中のひとりが、滝を登る勢いの商人(あきんど)で、物流関係にめっぽう顔が利いてな。紹介状じゃあなんだから、直接ついていって、口利きをしてあげましょうって寸法になったわけよ」

「それでは、大将の直接の知り合いではないのですか」と、イルベチェフ。

「いいや、俺も知らないわけじゃない。何度か会ってる。ただ、椰枝ちゃんのほうが付き合いは深いし、今夜は予約も入っているし、それに……」

 コホン、と南田の隣で上品な咳払いが聞こえた。鹿室は自分の額を見上げるようにして沈黙し、やがて言った。

「おっと、なんでもない、なんでもない。とにかく椰枝ちゃんに行ってもらうほうが都合がいいんだ。アデタバはじきに……」

 鹿室のよく通る声は当然二階まで聞こえていたのだろう、上からヨシダが何事か叫ぶのがわかった。どたばたと階段を下りる足音。ほどなくゴルフバッグを抱えたヨシダが姿を現し、厨房の揚げ物コーナーはやたらと人口密度が高まった。

「その大荷物、本当にゴルフセットですか」

「まさか。いろいろ必要なものを詰めようと思ったら、これにしか入らなかった。さあ、出発しよう。行ってくるぞ、匠」

「おう、気ィつけてな! 椰枝ちゃんも」

「はい、行ってきます」

 三人のノリに押し切られるかたちで、南田とイルベチェフは降りたばかりのハイエースに再度乗り込む。運転は、もちろん、南田である。

 何時間運転することになるかと想像すると、南田の気は重くなる。しかし、椰枝と一緒の京都旅行と思えば、時間は長いほど良い。京都観光のためなら我慢できると思っていた、残り二名の存在を、にわかに煩(わずら)わしく感じてしまう南田であった。


*   *   *   *   *


 出発が早かったのが幸いし、渋滞もなく、南田たちの京都到着は正午を回る前だった。想定時刻より半時早い。しかし、ハイエースを停めた駐車場の近くで公衆電話を見つけて椰枝が電話したところ、彼女の知人は、すでに中華料理店で待ち受けているという。

「フィリップといったか? その人は、匠と同じ料理人だったのか?」

 ヨシダに聞かれた椰枝は首を横に振った。

「ベンチャーの社長をやっていて、ちょっとお金持ちなんです」

「何。ちょっと癪(しゃく)に障るな、それは」

 乗俑機製作でベンチャーを立ち上げる野望でも抱いた時期があったのか、もしくは今も軍を辞めてそちらへ突き進むプランを密かに温めているのか、ヨシダは明らかにやっかみ口調になった。

「しかし、これは奢ってくれる流れですよね。そのフィリップさんは」

 南田が言うと、イルベチェフが「しまった」と呟(つぶや)く。

「手土産(みやげ)が必要だったのじゃないだろうか。南小柿さんは、その人に大きな貸しがあるというわけでもないんだろう?」

「とんでもない。フィリップさんにはお世話になってばかりです。親の代からの付き合いで、昔は父が資金を貸したこともあったようですが、とっくにそのお金は帰ってきていますし……。フィリップさんがわたしによくしてくれるのは、父への恩義というよりも、私たちが親族同然の付き合いだからでしょう。何度もうちに来ていて、小さい頃にはよく遊んでもらいました」

「いくつくらいなの、フィリップさんって」

 南田は、急にそのあたりの情報が気になり始めて、単純な興味を装って訊ねる。

「四十歳には、まだなっていなかったと思います」

 確率は低くなったが、しかし油断はできないぞ、と南田は思った。独身かどうかもそれとなく確かめておかなければ、と作戦を練る。

「大物というには若い。出発を遅らせただけの価値のある男であればいいな」

「また無駄足になるのは御免だぞ」

 イルベチェフとヨシダの言葉によって、南田は幾ばくか頭を冷やされる。鎧蜘蛛の死骸を取り戻すのが本来の旅の目的である。考えても始まらない移動の時間はもう終わった。思考を切り替えるべきだった。

 フィリップの待つ中華料理店は椰枝が位置を記憶しており、ほどなく一行は到着した。南田の予想よりもずっと大きく、そして高級そうな店だった。次は十年先まで食べられないような料理が出てきそうだった。生唾を飲み込んで、南田は椰枝のために先に立って扉を開ける。椰枝がフィリップの名を出すと、慇懃(いんぎん)な店員はすぐに店の奥へと案内してくれた。行き着いた先は、普通の声では話が漏れない、個室同然の空間だった。テーブルを前にするのと同時に外からの音が意識されなくなったのでそれがわかる。

「お待ちしていました、皆さん」

 すでに多くの料理が並べられた回転テーブル。その向こう側に、白いスーツに身を包み、両手を広げて歓迎の意思をアピールしている長身の男がいた。南田は肩透かしを受けた気分だった。長身で、スーツをかっこよく着こなして、というところまでは想像通りだった。日本語を流暢(りゅうちょう)に使えることも椰枝の話からわかっていた。しかし。

「遠路はるばるお疲れでしょう。私がフィリップ・リーです。まずはどうぞお掛けになってください」

 南田は勝手に頭の中に形作っていた金髪碧眼(へきがん)のフィリップ像を即刻デリートした。欧米的なファーストネームを持つことは、香港などでは昔からあることだった。戸籍の名前と関係なく、ビジネス用にそのような名前を使うこともあるとも、聞いたことがあった。――南田はすっかり失念していた。

 互いの紹介が終わると、まずは雑談を交えながらの食事となった。これからの予定を考えてか、量はさほど多くなかったが、味のほうは南田の中華料理像を改めさせるに足るものだった。ありきたりなメニューであるはずの麻婆豆腐も、レトルトや、基地の食堂でたまに出るそれとは全く異なった。豆腐はプルプルと弾力を持ち、挽き肉にも噛めば滲(にじ)み出る旨みが凝縮されていた。麻婆豆腐と一括(くく)りに同じ名で呼ぶことにすら南田は抵抗を覚えた。

 餌(え)付けされたなどとは認めたくなかったが、南田は、フィリップ・リーに対して前もって抱いていた反感をすべて捨て去っている自分に気づいた。フィリップの椰枝に対する接し方が、姪や従妹(いとこ)に対するものと同種であるとわかったからでもあろう、と自己分析するくらいの冷静さはある。

「それで、問題の荷なのですが、調べられますか」

 南田は点心に伸ばすつもりだった手を収め、率先して本題に切り込んだ。すぐにヨシダが、荷の総量や密度、その他取扱い上の制限を告げる。

「所在は掴めています」フィリップは、精気に満ちた眼差しで南田を見返した。「実は昨夜のうちに、おおよその条件から目星をつけておいたのです。その業者へ私から急の割り込みで仕事を依頼してみると、いくつか、なんとしても別案で済ませようと取引を誘導する業者があった。普段、私に対してそのような出方はできないはずなのに。――そして今伺った条件を加味すると、もう在処は明白です」

「条件をご提示ください」

 イルベチェフは言った。椰枝は要(い)らぬといった代償だが、おそらく椰枝以外の全員は違う見解だった。特定したというその場所を、フィリップは、このやり手の商売人は、無条件では教えないだろう。

 フィリップはくつくつと笑った。

「条件などと。椰枝の大切なご友人の方々です。この料理同様、私の気持ちとしてお受け取り下さい」

「料理同様ということは」イルベチェフは先程まで見事に使いこなしていた箸を置いた。「これも解毒剤を必要とするということか」

 フィリップは噴き出し、腹を抱えて笑った。その様子を見て南田は、おや、と思う。

「わかりました。交換条件がないと信用できないと仰るなら、ひとつ、お願いしたいことがあります」

「何でしょう」

 自分が請け合えることかどうかは怪しかったが、やはり椰枝の手前という境界条件は強力であり、南田は誰よりも早く口を開いてしまった。すると、顔を伏せて息を整えていたフィリップは、イルベチェフではなく南田のほうに視線を合わせた。

「南田少尉。事が終わったら、私の買い物に付き合ってくれないか」

 南田は、いや、フィリップ・リー以外の全員が、呆気に取られた。


*   *   *   *   *


「ああ、もし、そこの御一行」

 フィリップと別れ、ひとまず通りを歩き出した南田たちを、そう呼び止める者があった。

 最初は誰も反応しなかった。南田はフィリップの発言に門宮洗(すすぐ)的な意味があるか否かを必死に考察していたし、ヨシダは今しがた食べた中華料理の名前を忘れずに覚えて帰って鹿室に作ってもらおうという考えで頭が一杯であったし、イルベチェフは早くも荷の奪還のための戦術を練るのに集中していた。だから、その背後からの声がもう一度繰り返されたとき、遠慮がちにそばで男三人を呼び止めたのは椰枝であった。

「あの、わたしたちのことみたいなんですけど、あれ」

 三人は一斉に振り返り、椰枝の指し示す先、サングラスに鍔(つば)広帽、裾(すそ)の長いコートという怪しげな出で立ちの人物を凝視した。

 用があるなら走って前に回ればよかったのに、と南田は思ったが、その不審人物が体を斜めに構えてこちらを手招きする様子を見て、どうして走らなかったのかだけは理解できた。悠然とこちらを手招きする、ただその動作を取りたいがために、追いついてこなかったのだ。気づかれずに去られるというリスクを冒してまで。

 その変人っぷりを把握した瞬間から、南田はもう、相手に名乗らせる必要を半分ほど感じなくなっていた。

 痺(しび)れを切らして南田たちのほうから歩み寄るのを、変人は辛抱強く待った。そしてようやく薄手の手袋に包まれた手を下ろし、サングラスは取らぬまま、言った。

「江藤博照のお知り合いの方々ですね? 私は江藤の古い知り合いで、こちらで探偵をやっている者です」

「あの、お名前を伺っても?」

「探偵です」

 変人は、探偵という一語に繰り返し強勢を置いた。

「は?」

「ですから、私のことはただ『探偵』とお呼び下さい」

「はあ」

 南田は江藤の前でつくのと全く同種の溜め息をついた。

「さしあたり、午後の予定はどのように?」

 探偵の質問には、まず目立たない路地まで強引に移動してから、ヨシダがかいつまんで説明した。

「なるほど」

 あいかわらず宝塚の男優のような声を張り上げると、探偵は、フィリップの教えてくれた倉庫までの行き方や、良い偵察ポイントなどを、すらすらと披露した。

「すごいですね、さすが探偵さんです」

 椰枝に褒められた探偵は調子に乗ってわざとらしい高笑いを始めたので、ヨシダがこれを黙らせようと一発殴る。ヨシダの力加減の大雑把ぶりを思い出した南田は慌てて止めようとしたが遅かった。探偵は吹き飛んで、舗装の古い道路に倒れた。

「――オ、オヤジにもぶたれたことないのに!」

 あくまで宝塚ボイスで探偵は抗議し、そして、「ああ、でもここは『これが若さか』だったかな。いや、でもサングラス飛んでないし。えーと、えーと」などと独りでブツブツ言っている。

「何だ、こいつ、演劇でもやってんのか」

 ヨシダはパンチ力の調整を誤ったことが自分で納得行かないような顔をして、探偵よりも己の握り拳を眺めて首を傾げる。

「とにかく、少しお静かに」

 イルベチェフがそう言いつつ手を貸そうとしたが、探偵は先にひとりで立ち上がり、ずり落ちかけていた帽子をそそくさと整え、コートの埃(ほこり)を払った。

「失敬、コホン、面白そうな仕事で、コホン、ついつい、コホン、興奮してしまいました」

 探偵は声量を落としたが、埃が喉にでもついたのか、やけに空咳を交じえた。

「とにかく、コホン、ひとまず現地まで、コホン、私が、コホン、ご案内して……。それから作戦を練りましょう。情報なくして勝利なし」

 ようやく咳が取れてまともに喋(しゃべ)ると、探偵は四人の顔を改めて順繰りにゆっくりと観察し、これで全員かと訊ねた。南田がそうだと答えると、探偵は握り拳を突き出しぐっと親指を立てた。

「宿の手配はこの探偵めにお任せあれ。良き所を押さえてありますゆえ。――おお、まずはご婦人を先に宿へお連れしましょうか」

 南田は少し考えて、頷いた。探偵の言うように、鎧蜘蛛の死骸が運び込まれたと思しき倉庫はとりあえず偵察のみになるだろうが、目前でトラックが出て行くなど、予期せぬトラブルが起きないとも限らない。椰枝を現地まで連れて行くのは危険だった。それに、いざというとき、落ち合う場所がハイエースを停めた駐車場というのでは不便極まりない。敵地に入っては拠点の確保を最優先するべし、と、士官教育のうえでも教わったばかりである。

「それでは参りましょう」

 探偵が意気揚々と歩き出す。南田が椰枝と並んでこれに続き、少し離れた後ろを、ヨシダとイルベチェフがついて来る。後列のふたりは何やら話し合っているようだったが、南田には、意味のある言葉としては聞き取れなかった。そんなことよりも、椰枝とのお喋りに集中することを選んだのだった。



- 8 -


 怪しげな探偵だったが、宿も下見の案内もしっかりとしたもので、鎧蜘蛛奪還作戦の検討と準備は日没までに完了した。

 南田、イルベチェフ、ヨシダの三人は、椰枝を宿に残し、再度問題の倉庫へと舞い戻った。探偵は面白そうなので是非見学したいなとど曰ったが、ヨシダが腕を回して肩をほぐし始めると、おとなしく引っ込んだ。ふたりとも賢明な判断だと南田は評価した。

 侵入目標は、伏見は桂川近辺に並び建つ倉庫群のひとつである。おそらく八月の悪夢ののち瓦礫を取り払って再開発した区画で、倉庫も比較的新しい。昼間の下見では、フェンスの破れなど都合のいい侵入口候補は見つからなかった。フェンスどころか高い塀に囲まれている。

 作戦はいくつも提案され、協議されたが、大別すると二通りである。ひとつは、江藤から徴発の命令書を出してもらって、堂々と正面から乗り込んで現物を押さえる作戦。黒龍隊隊員の南田がいるのでそれは理論上可能である。もうひとつは、夜陰に乗じて盗み取る非合法の作戦。こうして日没まで待ったのは、後者が選択されたからである。

 盗むと一口に言っても、具体的にはいろいろある。三人揃って覆面をし、警備員や作業員をふんじばって荷を持ち出す強盗プラン。無辜(むこ)の市民に危害は加えずに、荷だけこっそりと頂いて行く紳士的泥棒プラン。あるいは口八丁の詐取プラン……。互いにあまり知らぬ能力を推し量りつつ、最も安定した作戦展開が望めるものを選択した。

「結局、殴りこむんですね」

 南田は、他の二人が意見を翻(ひるがえ)すことを少しだけ期待して、グレーの毛糸の覆面の下で呟いた。それを聞いたヨシダの、黒い目出し帽に皺(しわ)が寄る。笑ったらしい。

「こういうのは久しぶりだ。腕が鳴る」

 そう言ってヨシダが素振りするのは、ゴルフバッグから取り出して来た釘バットである。なるほど江藤と気が合うわけだ、と心底納得する。

「そろそろ開始しよう」

 塀際のふたりからやや下がった位置で、イルベチェフが言った。まだ覆面をかぶっていないイルベチェフは、ヨシダの釘バット素振りとは別の風切り音を立てていた。鈎(かぎ)縄を塀の上端に引っ掛けるべく、勢いをつけて回しているのだ。どこからそんな物を、と問うた南田に、江藤から預かった私物だとイルベチェフは答えた。

 日本の法律についてもっと詳しく的確にわかりやすく説明してくれる人間がいれば、こんなことにはならなかったかもしれない。己の不甲斐なさを嘆きつつ、南田は「了解」と答えるしかなかった。

 イルベチェフは見事一発で鈎縄を塀に引っ掛けた。逞しい腕がぐいと引いても危うさはない。頷いて、イルベチェフは覆面を被(かぶ)った。大きな目玉をぎょろつかせた赤い獅子頭(ししがしら)を。南田は入手経路についてもう訊かないことにした。

 三人が相次いで塀の内側に侵入する。赤外線センサーもなければ放し飼いのドーベルマンも現れず、投光器の光も銃弾も襲ってこない。そのまま何の障害もなく、四棟横並びの倉庫の、向かって右端の側面まで移動して身を潜める。左二つは冷凍、冷蔵用との情報をフィリップ・リーから得ていたので、鎧蜘蛛の死骸があるのはおそらくここか、もう一つ奥ということになる。

 正面シャッターが閉まっているのはわかっていたので、窓でも破って入ろうという算段なのだが、だからと言って無闇(むやみ)矢鱈(やたら)とリスクを大きくするつもりはなかった。スペースの都合などで冷蔵用倉庫に運びこんでいないとも限らず、そして侵入を繰り返すほど南田たちが監視に発見される危険も積み重なっていく。

 ヨシダはゴン太にさんざん齧(かじ)られたトランシーバ偽装センサーを取り出し、スイッチを入れる。ヨシダが説明を受けたところによれば、ここのようにノイズの少ない環境なら、たとえ壁越しでも、鎧蜘蛛の死骸が発する特有のバルムンクフィールドを感知できるとのことだった。

 センサーは、反応した。ヨシダが袖で押さえたブザーから音が漏れ聞こえる。

「ビンゴだ」

 小さく快哉(かいさい)を上げたヨシダは、窓を見つけると、その下でうずくまった。その背にイルベチェフが乗って、壁に手をつく。次は南田の番だった。

「南田少尉、行きます」

 ヨシダの尻を踏み台にし、イルベチェフの背を蹴って、肩へとよじ登る。男三人でトーテンポールを作ってやっと窓へ手が届いた。叩き割る前にダメ元で窓をスライドさせてみると、幸運なことに、鍵が開いていた。さらにお誂(あつら)え向きなことに、窓をくぐった先はキャットウォークになっていて、飛び降りる必要がない。闇の中には人気(ひとけ)もない。

 南田は窓ガラスを蹴らないよう気をつけながら、倉庫内へと侵入を果たした。月光のもとでぬらりと目玉を光らせる獅子頭に手を貸して中に引き入れ、さらに、そのイルベチェフが釘バット携帯の危険人物へと鈎縄を垂らす。やがて三人の強盗は何ら破壊を行うことなく獲物のそばまで到達してしまった。

「このままじゃこそ泥に成り下がってしまうな」

「泥棒に上も下もないですよ。上手と下手はあるでしょうけど」

 キャットウォークから梯子(はしご)で下へ降りる。光が届かなくなって、手元と足元が見えない。南田はゆっくりと慎重に、一分の時間を費やして降りたが、続くイルベチェフは規則正しい音をかすかに立てつつするすると降りてきた。

「すごいですね、さすが北熊(セヴェルメドヴェーチ)のホープ」

「すごいぞ、この獅子頭。さすが暗視ゴーグル内蔵」

 南田の膝の力を奪い去ったイルベチェフは、すぐにそれらしき木箱が積み上げられているのを見つけた。目の慣れてきた南田もそれを確認し、近づく。触って確かめてみると、よく引越しに使う段ボール箱ほどの大きさだった。

「それだけ触って大丈夫ということは、罠はないようだ」

 後ろに控えていたヨシダが南田の横へやってきて、センサーを近づける。周期の短い、激しい電子音が鳴る。袖で押さえたくらいでは効果が足りなくなって、慌ててヨシダはスイッチを切る。

「間違いないな。しかし、これは破片だけだろう」

「本体は向こうですね」

 イルベチェフが別の場所にもっと大きい箱を発見したようだった。

「しかし、あれは人の力では無理だ」

「小さい箱をいくつか持ち帰れば、証拠になるし、それだけでも解析には事欠かないんじゃないのか。この世のものとは思えない怪物だろう」

「河童のミイラよりは貴重でしょうね」

 南田がそう言ったときだった。虫の飛ぶような音がかすかに聞こえたかと思うや否や、倉庫の壁にぐるりと設置された蛍光灯と天井のメタルハライドランプが一斉に点灯した。 目が眩(くら)むなか、南田は条件反射で、ちょうど触っていた木箱の山の影に隠れる。動いたのはしかしイルベチェフの方が先だった。南田は獅子頭に背中をぶつけ、その仮面の奥でイルベチェフが何事か吐き捨てているのを聞いた。ロシア語のようだったが、意味は察しがつく。暗視ゴーグルの防眩(ぼうげん)機構がお粗末であったらしい。

 ヨシダはどうしただろう、と南田が心配した瞬間に、銃声が響く。

「そこまでだ、こそ泥」

 遠くから威圧的な男の声がする。恐る恐るの震えた声でも、アドレナリンにまみれて無闇に勢いづいた声でもない。こういう状況に慣れた人間だからこそ発せられる、冷ややかに相手へと命令する声だった。

「その物騒なバットを放って、両手を上げろ」

 ヨシダの舌打ちと、釘バットが床に転がる高い音がした。その残響のなかから、南田は、近づいてくる足音を聞き分ける。

「オーケー。それと、奥にも隠れたな。そっちも手を上げて出て来い。早くしろ。抵抗しないなら、危害は加えない」

 見られたとあってはしかたがない。南田は手を上げて木箱の陰から出る。ただしイルベチェフにはまだ出るなと仕草で示した。まだ逆転の目がないではない。

「――おや、そこな若人(わこうど)よ」

 顔を向けると、こそ泥をきつく見咎めていた男の声が、突然砕けた。声音(こわね)の変化で、南田も相手に気づいた。

「門宮さん……?」

「やはり南田竜時くん。こんなところで何をしているんだ」

 門宮洗は、ヨシダと南田に交互に向けていた銃口をヨシダだけに固定した。

「もしかして、このハゲオヤジに脅迫されて無理やり……。いやあ、それでもこんなところに来る理由がないな。黒龍隊は京都観光旅行中かい?」

「失敬な」ヨシダが英語で吠えた。「俺は新青海(チンハイ)基地東エリア倉庫管理課の頭(かしら)だぞ」

 あっさりと身元をばらしてしまったヨシダに南田は驚いたが、この場で逃げない限りは、RAT(ラット)が身元の照会を終えるのはコンピュータの処理速度と回線速度に依存する時間の問題であり、彼の判断は正しいと評価し直した。もっとも、理論的に正解に行き着いたものであるかは疑わしいが。

「なるほど、それでここまで」

 わずか数秒で事の経緯を察したらしく、門宮は銃口を下げて頷いた。

「ヨシダ少佐、その人はRATの警護員の、門宮さんです。以前、お世話になったこともあります」

 南田の紹介を聞いているのかいないのか、ヨシダは木箱の山を指差し、言った。

「こそ泥は自分のほうだと認めるか。それなら話は早い。明日にでもすべて回収させてもらう」

「どうやら行き違いがあったようだ、少佐」

「なんだと?」

「この荷物の宛先は変更されたんですよ。もうずっと前のことだ。しかし、新青海基地の担当者は古いデータをシステムに入力してしまった。システムは土壇場(どたんば)で正しい宛先を自動取得して日本へこれを送ったものの、担当者は誤配と勘違いをして日本へ連絡を寄越し、返事も受け取る前からあなたを派遣した。ソウロ……もとい、せっかちなことにね。そうした事情をこちらが把握したのはつい先程だったんだが、いやはや、もうここまでお出でとは恐れ入りますよ」

「信用できんな。俺たちを追い払うための出任せかもしれん。だいたい、どうしてRATが軍の輸送任務を請け負っている?」

「SMITS(スミッツ)宛の輸送の警護は、通常業務の一環ですとも」

「ふむ。それは道理だが、しかし俺はRATが好かん」

 門宮が呵々(かか)大笑する。

「やれやれ、それではやはり、実力行使でお引き取り願うしかないようですね」

 一転して鋭い目つきになった門宮が銃を構える。ヨシダが横に転がり、そして南田は駆け出す。背後でイルベチェフが動く気配もあった。そして。

 倉庫は再び闇に落ちた。

 そのなかで幾つもの叫びが錯綜する。銃声が響く。爆発の音と揺れ。――いずれも至近ではない。そしてもっと遠くへ去っていく足音。

 光が戻った。

「そろそろ放してくれないかなあ。これはこれで幸せだが」

 門宮がいくぶん熱っぽい声を出す。正面から腕を押さえていた南田と、後ろから羽交(はが)い締めにしていたイルベチェフと、脚にしがみついていたヨシダは、一斉に離れた。倉庫には新たに数人のRAT隊員が現れ、同じ数の銃口が包囲陣形を取っている。

 南田はようやく事態を把握した。別に侵入者がいたのだ。それが南田たちを囮にして逃げ出した。

 三人が両手を上げて降参したところで、倉庫の入口からさらにもうひとり、RATの隊員が駆け戻って来た。シャッターは上がっていないが、爆発で大きく破られておリ、大の男が難なく通り抜けられた。

「逃げられたぞ。おい門宮、そんな奴らはさっさと帰して、追跡にかかれや」

 いかにもベテランという貫禄を感じさせる男だった。そして些(いささ)かヤクザっぽくもあった。古株の岡っ引きだな、と南田は勝手に配役を想像する。

「築嶋(つきしま)さん、やられたのか」

 門宮が岡っ引きを気遣う。彼の袖は血で黒く染まっていた。

「撃たれたわけじゃない。爆弾のほうで巻き添えを喰らった。――ええい、やっぱり中身をひとつ抜いて行ったな、あのアマ」

 築嶋はぶつぶつ言いながら、もう倉庫を出て行く。傷も構わず自ら追撃に赴く気のようである。数人が包囲を解いてあとに続く。

 門宮は手のサインでさらに数人を向かわせると、手を上げたままの南田たちにウインクした。

「そういうわけだ、竜時くん。あとヨシダ少佐に……、ああ、見覚えのある御方だな。んー、北熊のカネジュ・イルベチェフ大尉か。うふふ写真よりずっと……、おっと、いけないいけない。ともかく取り込んでいるから、今日のところはお引き取り頂くよ。行き違いの件がまだ納得いかなければ、明日以降、交渉に応じる。何なら付近の連邦軍にここを包囲させても構わない。どうせこの騒ぎで、輸送は延期になるだろうし」

 南田は左右の顔色を窺い、そして、頷いた。

「わかりました、引き上げます。どうもお邪魔様でした」

「大したお構いもできなくて残念だよ」

 門宮の皮肉を聞き流しながら、南田たちはめいめいに落とした釘バットやら覆面やらを拾い集め、三人肩を並べて、すごすごと破られたシャッターへと向かう。

「ちょっと待った」

 門宮が大きな声を出すと、誰からともなく、ぎくりと足を止めた。

「テイクアウトはサービス外だ」

 顔を見合わせ、三人はそれぞれ抱えていた木箱を元へ戻さねばならなかった。



- 9 -


 風呂へ行くための装備一式を取りに江藤が士官用宿舎の自室に立ち寄ると、ちょうど机の電話が鳴った。イルベチェフからの経過報告だった。しかしリアルタイム通信ではない。イルベチェフが向こうで通信装置相手に口述した内容を、通信機におまけとして付けておいた暗号化装置が加工し、この机の上の電話機――と偽装している多機能通信装置――が受信して、いまデコードを完了したところである。コール音はデコード完了の合図であり、イルベチェフの声が告げる報告日時は、現在時刻より一時間以上遡(さかのぼ)る。手製ゆえに暗号形式すら秘匿できる利点はあるが、一時間では、緊急通信には使えない。廃品からの流用ではなくもっとまともな部品を使って高速化する必要を感じながら、しかしそんな暇はないなと江藤は嘆息する。誰か信用のおける人物に任せるべきだった。

 イルベチェフの報告はさすがに的確だった。江藤は京都の倉庫で何が起こったのかをすんなりと把握できた。イルベチェフはさらに、門宮の語った内容の真偽を確かめて欲しいこと、南田はじゅうぶん役に立っているのでこのまま随行させること、江藤が連絡を入れた京都の知人はハイエースよりも安全で快適な寝床を用意してくれたことなどを報告した。

 そこまでの再生内容には、背後で会話している南田とヨシダの声が混ざっていた。なにやら楽しそうで江藤はむっとする。が、そのふたりは宿へ先発したのか、やがて声が聞こえなくなった。そしてイルベチェフは、切り上げるような調子の声を一変させ、話を続けた。

「断っておきますが、倉庫から逃げた別の侵入者は、北熊(セヴェルメドヴェーチ)の手の者ではありません。状況からそう疑われるのは至極尤(もっと)もなことですが、どうかこのカネジュ・イルベチェフを信じて下さい。あなたの友人を返り討ちにするのも、あなたの部下を盾にするのも、俺の本意ではないんです」

 では何者が期を同じくして倉庫に忍び込み、鎧蜘蛛の死骸を持ち去ろうとしたのか。そう問い返すことは叶わない。

 姿を見せなくなった門宮が京都にいたというのも、勘繰るには格好の材料である。穂積と九天軍が中央議会に続いて元老院を狙うことを警戒し、門宮は動いているはずだった。九天軍を探る手がかりになるからこそ江藤の個人的な頼みも引き受けたと思われる。その門宮が何の結果も出さぬまま京都へ移動したとなれば、九天軍が京都に潜伏しているとか、そこで元老院議員が九天軍よりも切迫した脅威に晒(さら)されているとか、そのような事態が察せられる。またあるいは、門宮がRAT(ラット)においては下っ端に過ぎず本人の意向など関係なく配置換えされてしまったとか、自称するようにただの警護員に過ぎなかったとか、そうしたつまらない真実があるのかもしれない。

 蓋を開けてみなければ何も分からない。そのためにまず蓋に手を伸ばすのが順序だが、果たして、現地の南田にそれを任せうるか。イルベチェフのみならず、ヨシダも完全に信用はできない。そもそも、鎧蜘蛛の死体云々(うんぬん)の話が予めヨシダとイルベチェフの仕込んだでっち上げである可能性も、ないではないのだ。

 彼らの世話を頼んだ京都の知己、自称探偵を、常に同行させるべきかもしれない。士官学校の同期で、特に利害関係のない時代からよく知っているので、信じられる相手である。しかしこの探偵は探偵で少々能力に信用のおけない点がある。士官学校出の実技の様子を思い出すと荒事を任せるには不安だったし、また、それが別の友人に露見するとあとからたいそう怒られそうな雲行きでもある。いずれも士官学校を出ながら軍に残らなかった者たちで、この十年余、軍の内部に偏重した人脈しか築けなかった江藤にとっては、失うに惜しいパイプである。機嫌取りも兼ねて大仕事を任せるくらいがあとあと良い方に働くかもしれない。リスクは、所詮どの選択肢にも漏れ無くついてくるのだ。もう一方の友人、密かに猿之門で江藤の手助けをしてくれている男には、別の供物(くもつ)を出せば済むだろう。

 頭の中で幾多の知人の利害とリスク、リターンのバランスを調整し、それを実現するためのガントチャートを作成した。初めに組み上がったものは、江藤自身のコピー人形が半ダースほど要る失敗作だった。江藤はやむなく自ら行動する部分を大幅に削除し、誰かに命じ、依頼し、また誰かを騙し、焚き付けることにして、分身の秘術を体得せずとも実行可能なスケジュールに修正する。成功率は下がるが、この評価は江藤の各人に対する信頼度に大きく依存しているので、気の持ちようによっては寧ろ泥船を大船に造り変えたと自賛できる。彼らの能力や言葉を信用さえすれば。

「――信用しろ、信用しろ、信用しろか」

 北嶋はRATを、藤居は南田を、イルベチェフは己自身と北熊を、それぞれ信用しろと言う。まるきり信じて疑うなとまでは誰も言わないが、しかしおまえは疑う側に傾きすぎているぞという主張は一致している。

 それほど人間不信に陥っているだろうかと江藤は自問する。信じているなら自分の体質のことも野望のことも話せるはずだと、善の心が主張する。信じたふりをしてこき使い、しかし肝心の部分は適当な嘘で塗り固めておけば安全だと、悪の心が提案する。全会一致で人間不信という現状は認定された。

 江藤は改めて、仲間と呼ぶべき人々を信じていないのだと思った。部下やかつての同僚、士官学校の同期たちは勿論(もちろん)のこと、子供の頃からの長い付き合いになる北嶋にすら、全幅の信頼を寄せているわけではない。話していない重要なことがたくさんある。例えば、穂積克(かつ)のこと。そして命を狙われている可能性が高いこと。

 関われば危険に晒してしまうから黙っているのだ、という自己弁護は、裏を返せば、誰もそれだけのリスクを負ってまで自分を支えてなどくれまいという諦めである。恨む気持ちはない。誰しも守るべきものがあり、そこには必然的に順序が生じる。ただ寂しいのだ。

 ベッドで眠っていたはずのゴン太が吠えた。江藤を励ますように。

「安心しろ、俺はそうそう死にはせん。おまえを守らにゃならんからな」

 江藤はひとしきりゴン太とじゃれ合うと、着替えや洗面具を入れた籠(かご)を持って部屋を出た。

 考え事をしていたせいもあって、すっかり風呂には遅い時間だった。もとより人口密度の低い猿之門基地であるため、まっとうな時間を過ぎると、風呂には殆ど人がいなくなる。江藤は一向に引き締まらない自分のボディラインを今日も脱衣所の鏡で確認してから、人気のない浴室へ入った。

 髪を洗い、顔を洗い、髭を当たるのは面倒なのでやめておき、いざ体をとナイロンタオルを手にとる。もう片手で、持ち込んだプラスチックの小籠の中から石鹸を取り出そうとして、江藤はそれを昨夜使い切ったことを思い出す。予備は自室に置いてあるが、イルベチェフの報告のせいで忘れてしまった。

 困ったことになった。浴室や脱衣所の隅には往々にして誰かの忘れて行った石鹸が置いてあるが、江藤は普通の石鹸が肌に合わないので、いつも持参のものしか使わない。つまり体を洗えない。洗わないことには湯船に浸かるわけにはいかない。浸かりたいのだが。

「うがががががががが」

 洗ったばかりの頭を再び掻き毟(むし)る。しかしそうしたところで頭皮から石鹸が分泌されるわけではない。

 と、そこへカラカラと音を立てて石鹸ケースが滑ってきた。

「使いたまえ」

 ぎょっとして江藤は声のしたほうを向いた。

「櫛田大将!」

 一糸纏(まと)わぬ姿の櫛田が、同じ列の三つ先のシャワーを手に取り、湯温を確かめていた。江藤が櫛田と風呂で出くわすのは初めてである。そして江藤は思い出す。カーネル・サンダースに負けず劣らず白髪が多いのと大将という階級とでついつい年寄り扱いしがちだったが、櫛田伴雪は、実はまだ還暦を迎えていない。四十代で元帥まで登り詰めた金星也(キム・ソンヤ)のような異端児がいなければ、櫛田も若き元帥と呼ばれる日が来たかもしれない。もっとも、今となっては櫛田が元帥になる可能性はずいぶん小さくしぼんでしまっているが。

「使わないのかね」

 櫛田は洗面器に湯をためながら江藤の動きを見守っている。

「せっかくのご好意ですが、石鹸は自分専用のものしか使わないのですよ」

 言って、江藤が石鹸ケースを送り返そうとすると、櫛田は「待ちなさい」と諭(さと)した。

「君は、自分が欲しくてたまらない物は、自分以外の人間には探し出し得ないとでも勘違いしているのではないか」

「哲学ごっこでありますか? 私には特別な石鹸が要るのです。大将閣下が使っている石鹸なのでは駄目なのです」

「さて本当にそうだろうか」

「そうですとも」

「では確かめてみるがいい」

 やけに石鹸を見せびらかしたがる御仁だ、と怪訝(けげん)に思いながら、江藤は渋々ケースを持ち上げて開けてみる。さてどんなビックリドッキリ石鹸だろうと少しだけ期待していたが、江藤は、自分で想像していた以上にビックリドッキリした。

「どうしてこれを」

 江藤は石鹸を掴み取って、櫛田に掲げる。それは江藤がいつも遠方より取り寄せている石鹸と全く同じ品だった。

「それは君のためにだけ生産されている商品などではない。私が同じものを持っている可能性を、どうして、君は想像できなかった」

「確率の問題を議論しております」

「君はいつからその銘柄を使っている」

「前のものから変えて、もう四、五年といったところですか」

「では当然、君の同僚のなかにはその石鹸のことに気づき、どんな物なのか訊ねた者もあっただろう。なにせ君は一年と同じところに留まらない風来坊だからな」

「しかし、私と大将閣下とに共通の知人など……」

「前基地司令の穂積少将は、防大で私の先輩だった。同じ駐屯地にいた期間も長く、交誼(こうぎ)があった。少将の家にお邪魔することもしばしばで、だから私は克のことも、生まれる前からよく知っている。他人の持ち物にすぐ興味を示す、好奇心旺盛な子だった。――そして克は、東部方面軍で君と同じ大隊に配属された。その後のことは、今更私の口から聞くまでもないだろう。私はあの忌まわしい出来事が起こる以前、克から穂積少将を介して、私の肌にも合いそうな良い石鹸があることを教えてもらった。克にはずいぶん昔に私の肌の問題について話したことがあったが、まさか症状までしっかりと覚えているとは私にも驚きだったよ。そう、あの子は父親に似てたいへん義理堅かった」

 江藤は石鹸を見つめながら、穂積克にこの製品のすばらしさについて語ったときのことを思い出す。

 あれは気の合う者同士集まって、基地での酒盛りを敢行した折だった。皆おおいに楽しんだが、江藤ともうひとり、セルゲイという酒豪を残し、他はすべて酔いつぶれてしまった。

 夜の明けぬうちにすべての痕跡を抹消し全員を撤収させなくてはならず、ふたりで分担して全員を順に処置することにした。なかでも穂積はひどいありさまで、江藤はやむなくトイレに連行してまずひたすらに吐かせ、それからシャワールームに行って汚れた顔と服――服は二人分――を洗った。穂積のタオルを探せる状況ではなかったので、江藤が自分の洗面具を持ち出してタオルを貸した。

 それまでぐったりとしていた穂積だったが、江藤の洗面セットの中から見慣れぬ色の石鹸を見つけ出すや否や、どうして基地内で売ってない石鹸を持っているのだと絡んできた。これまたやむを得ずして一発鉄拳を叩き込んでおとなしくし、それから江藤はその石鹸のなんたるかを一から説明してやった。子守唄代わりに。完全に寝入ったところで、先に回復した穂積と同室の仲間にあとを頼み、セルゲイと一杯やり直してから寝床に潜った。

 穂積克が叛乱を起こす、その二ヵ月前のことだった。

「お借りしましょう」

 江藤はナイロンタオルに石鹸を数度こすりつけ、泡立ちを確認してから、それをケースに戻して櫛田の方へ滑らせる。勢いよく滑走していったそれを、櫛田は足で止めた。堰(せ)き止めたのではなく、真上から押さえて。まだまだ現役である。

「江藤少佐、克のことは聞いているかね」

 芋をたわしで擦るような按配(あんばい)で髪を洗いながら、櫛田が問うた。

「ええ。なんでも派手に逃げ出したそうで」

「日本に戻って来ているようだ」

「ほう? それはどこからの情報で」

「どこからの情報であれば君は信じるのか。北熊(セヴェルメドヴェーチ)か」

「これは手厳しい。私はただ、どこかの曲者が大将閣下に出任せを吹聴(ふいちょう)していないか心配しただけのことですよ。で、あいつがどうかしましたか。招待状を出して、旧交を温めるパーティーでも催しますか。それなら先に忠告しておきますが、酒は出さないほうがいい」

 江藤は冗談を言ったつもりだったが、櫛田はくすりとも笑わない。もっとも、江藤もどちらかと言えば怒らせるほうを企図していたので、別段残念でもない。

 櫛田は黙ってシャンプーを手に取っていたが、それを髪へ塗りつける前に、再び口を開いた。

「招待するまでもなく、克はやって来るのではないか。私はそんな気がする。君の知っている克は、違うかね?」

「相違ないですな。あれは確かに来るでしょう」

 そして、そう遠くないうちに。

 穂積はもとより、標的が警戒心を弱めるのを待つというような、迂遠な策を取るタイプではなかった。今日現れなかったのは本当に意外だったのだ。獄中での生活があるいは穂積の性格を変えてしまったか……。

 これに関係し、九天軍が横浜議事堂を襲い死傷者を出したことも江藤は気に留めていた。熱心な議会派で、それゆえに元老院を討たんと叛乱を起こした穂積が、同行する九天軍の議事堂襲撃を看過するはずがない。やはり江藤の知るままの穂積克は獄中で死んだのかもしれなかった。

 しかしそれでも、「心して待て」と宣言したからには、来るだろうと江藤は信じて疑っていない。愚直さゆえに安易に叛乱など企て、実行したのだから。

「いざ克が君の前に現れたなら、どうするつもりだ」

「取っ捕まえて、もう一度牢へ放り込む。それしかないですな。――ああ、やはり酒は準備しておくのが上策でしょう。神代の昔からよく使う手だ」

「克を助け出したのは九天軍。同伴されては些か迷惑な相手だ。そして彼らは杯を受けまい」

「それこそ好機というもの。一網打尽に引っ捕らえるまでです。横浜で好き勝手やったツケは払わせねばなりません。あれに加担していたとなれば、穂積の罪もまた重くなるでしょうな」

「私にはまだ決心がつかない。君のようには」

 櫛田はシャワーで髪をすすぐ。泡は容易に流されて、櫛田の体から浴室の床へ、そして排水口へと落ちていく。あとには湯の流れだけが残る。

「大将閣下は、穂積が現れたとしてもそのまま見逃すと?」

「しがらみが、私にそうさせるかもしれない。少なくとも父親に対面させるまでは、私は克を逃がしてしまうように思われる。過去もこのように洗い流せれば楽なのだが」

 丸めた背中が、櫛田の纏う老いの色を殊更に強調する。江藤はにわかに腹が立ってきた。

「それは無理でしょうよ、大将閣下。あんたはいつまで経っても、何歳になろうとも、『横須賀の英雄』だ。この時代を築いた一人として、ゆくゆくは教科書に名を連ねる偶像だ。そんなあんたに、叛乱首謀者として扱われている穂積を庇(かば)うなどという選択肢はない。その役柄から逃れられなかったから大将なんて階級にいるんだろう。あんたは自分がどうするのかわかっているくせに、まだ迷っているふりをして、俺を試しているんじゃないのか。黒龍隊隊長がかつての叛乱首謀者と内通していると、そんな報告を戦略軍に出したいのか。あんたは何をしに猿之門に来た。横須賀の英雄は、今度はどう国を導こうというんだ」

「落ち着きたまえ、江藤少佐。私は黒龍隊を罠に嵌(は)める企みなどしていない。八つ当たりはやめておくがいい。自分がいちばん惨(みじ)めだぞ」

「俺が……惨めだと?」

 荒げた声が、ひときわ大きな残響を生み、それがしつこく江藤の耳に押し寄せる。落ち着けと、櫛田の言葉を重ねるように。

「そうだろう。君は、私の心配を素直に受け取ろうとしない」

「迷っているのはあんたのほうだ。弱気になっているのも。――俺はそのどちらでもない。穂積が来れば迎え撃つ。九天軍とて敵ではない」

「それを強がりと気づかないほど、私は鈍くはない。君は口で言うほどに、かつての仲間のことを割り切れてはいない」

「何を根拠にそんなことを」

「君という異端児と会わなければ、克が叛乱という手段を選択肢として考えたとは思えない。あれは素直すぎる子だった。変わったことを言う人間の影響を受けやすい。君は、克の凶行を未然に止められなかったことを、悔いているのではないか」

「あいつの責任を俺が負う道理はない」

「まさしく君が指摘した通り、過去からは逃げられんぞ」

「だからこそ、決着をつける」

 江藤は洗面器に溜めた湯を頭からかぶって、立ち上がる。湯船に浸かるのはやめ、櫛田のうしろを抜けて脱衣所へと戻った。

 逃げ戻ったのだと、自覚していた。


*   *   *   *   *


 不貞寝していた江藤を深夜に叩き起したのは、ゴン太の前足だった。ぺしぺしぺしぺし。当たっているのは肉球だが、体も大きくなってきたしさすがに痛い。江藤は堪えきれなくなって起き出した。

「どうしたゴン太、他流派、猫パンチの練習か。精が出るな」

 江藤はゴン太を抱きかかえようとしたが、ゴン太はするりと抜け出て、ベッドから床に着地。そのまま闇の中で姿を見失ったが、ワウワウ吠え出したので居場所がわかった。机の方である。そして江藤は卓上で小さく光るLEDに気がついた。留守番電話の未読メッセージがある場合の、点滅パターンである。

 どうやらゴン太は、電話で起きなかった江藤を見兼ねたものであったらしい。机に向かった江藤は今度こそゴン太を抱え上げて髭ジョリジョリの愛情表現を行うと、電話に向き直った。暗号通信機を経由したものではなく、普通の電話回線からの着信である。こんな深夜にかけてきやがったのはどこのどいつだ、くだらん用事だったらどんな見せしめの刑に処してやろうか、などと考えながら再生ボタンを押す。聞こえてきたのは、少々意外な知人の声だった。

 長いメッセージではなかった。聴き終えて、江藤は時計を見る。午前三時三十四分。録音時刻から十分と経っていない。かけ直す必要はないと江藤は判断した。電話の用件は呼び出しだった。ならば、行けばいいだけのことだ。

 門衛にも見つからないように細心の注意を払って、江藤は基地を抜け出した。引き出しに常備している七つ道具のひとつ、催眠スプレーを持って来たのが役に立った。閃光弾も懐に入れてあるがこれはコストが桁違いなので滅多なことでは使わない。以前長野にすられたぶんは、いつか再会したらきっちり何かで返済してもらうつもりでいる。

 ともかく、江藤は無事に丘を下り、猿之門郊外の運動公園に到着した。林の中のベンチの下に、ひとりの人間が寝転がっているはずであり、江藤はそれを探した。それがいつもの待ち合わせ方法なのだ。江藤はベンチの下に潜んでいた猫だか鼬(いたち)だかに危うく攻撃されそうになりながらも、ようやく四個目にして、目的の人物を発見した。

「遅いよ、博照」

 ベンチの下から抜け出てきた男は口を尖らせた……に違いない。月明かりでは表情まで見えないが、江藤は経験からそう断定した。

「おまえこそ毎度ベンチの位置を変えるな、守谷(もりや)」

「おっとっと、不用意に僕の名を呼ぶのは感心しないぞ、博照。壁に耳ありロバの耳。謎の協力者Mって言ってくれなきゃ」

「言うか、面倒くさい。だいたい、おまえの苗字が守谷だってことを知っている人間が、この猿之門にどれだけいるんだ。ここじゃあ人の苗字で通しているだろう。夜宮(よみや)さん、でなけりゃ単に、読字堂の店長さん」

「だから名前を出すなって。今のを聞かれたら、何もかもおジャンじゃないか」

「わかった、わかった。――それで、俺に渡したいものとは、なんだ?」

「これだよ」

 守谷は角形二号程度の封筒を江藤に手渡す。

「知人の知人のそのまた知人のツテを使ってようやく手に入った。嬉しいだろうから一刻も早く渡してあげようと思って、呼び出してみた」

「ん、おまえにそんなもの頼んだっけな。俺はそういうのは自分で……」

「コラ、エロいものじゃないぞ。夜とは関係ない」

「え、じゃあ、なんだよ」

「博照がずっと探してた冊子だ。まあ、開けてみればいいじゃないか」

「はてな」

 江藤は封筒を開けてみる。もとより軽いのが不思議だったが、滑り出てきたそれを触って、江藤はまるで感電したかのような衝撃を受けた。この、ざらりとした安っぽい再生紙の感触は……。

「十数年ぶりのご対面って奴だね、博照。間違いはないと思う。むかし博照が話していたとおりの内容を確認した」

 守谷はちょっと前に頼まれたかのように言ったが、実際、江藤がその話をしたのも十数年前である。あの頃探しても見つけられなかったものが、今になって手に入るとは、予期せぬことだった。諦めていたのか、忘れていたのか、江藤自身ですらあやふやなのだ。なにより、守谷がずっとそれを覚えて気にかけてくれていたことに江藤は驚いていた。江藤は何らの前金も払ってはいなかった。

「すまん、恩に着る」

「大事にしてくれよ。あといくつ現存するかわからない。まあ、電子化はしておいたけど、その紙の経年劣化と手垢が語る歴史までは、再現できない。似せて作ることはできるが、偽物は偽物だ」

「そのデータは」

「もちろん、僕の書庫に封印してある。僕以外が触れることは、まず、ないね」

 江藤は安心した。木を隠すなら森の中。守谷が電子化して所蔵する数多(あまた)のデータに紛れたならば、そうそう見つかることはない。たとえ気まぐれな泥棒が読字堂の金庫という金庫――実際ひとつもないかもしれないが――を奪っても、データは流出しない。封印したというからには、パソコンにキャッシュも残していないはずだ。

「重ね重ね、恩に着る。着膨れしそうだ」

 江藤は手を合わせて拝んだが、守谷は不満そうに鼻息を漏らした。

「それじゃあ全然恩に着てないってことになるじゃないか。博照はもとから太っているんだから。脱げるものならまずその面(つら)の皮から脱いでみて」

「哺乳類は脱皮しないのだ」

「日焼けしたら剥けるよ」

「俺は水着なんて着ないの、知っているだろう」

「ああ、僕も見たくはない。だから遠泳のときは頑張って博照より前をキープしたんだ。体力勝負の苦手な僕が、だ。忘れるものか」

「俺もおまえが対岸まで泳ぎきるとは思っていなかった。こうしてみると懐かしいな、士官学校時代も」

 守谷黄道(かつみち)は、江藤の同期で、よくつるんで行動していた。悪童として伝説になっていると後輩から聞いたことがあるが、守谷が運動全般を苦手とした事実は、どうやら殆ど口伝されていないらしい。所詮、伝説などその程度のものなのだと、江藤はそれを知って思ったものだ。士官学校で悪童などと呼ばれる男とくれば、頭脳のほうはさておきまず体力と運動神経には自信があるに違いないと、そう勝手に情報を付加するのだ。

「昔話を始めると長いよ、博照」守谷は手をパンパンと叩いた。「僕も三時間後には用事あるから、早く戻らないと」

「おう、すまなかったな。今後ともいろいろと頼む。逆に手伝えることがあったら言ってくれ。俺の権限もだいたい戻った。役には立てると思うぞ」

「そんなことより、なあ、博照。なにか、僕に言うべきことがあるんじゃないのか。最近のことで。つい最近のことで。もう二十四時間以内の最近のことでさ」

 江藤はぎくりとした。やはり、ばれた。急に寒気がしてきたのは、薄着で出てきためばかりではない。

「――聞いたか」

 おそるおそる、江藤は訊ねた。守谷が頷くのがわかった。

「本人がさ、自慢の電話をかけてきたよ。名探偵の出番が来たとか、大捕物の予感だとか」

「すまん、あいつのことは……」

「やむを得ない事情があったと、そういうことにしておこうか、博照」

 守谷の声音が少し変化している。これは怖い兆候である。だから江藤は乗り気ではなかったのだ、京都の知人を探偵として紹介することは。

 江藤は平謝りの台詞を残すと、封筒を抱き全力疾走で公園から逃げ出した。

 伝説は必ずしも過去の真実ではないが、言い伝えられるだけの意味と、聞いて心に留めるだけの価値を有する。運動音痴という、およそ士官学校にあるまじき学生だった守谷黄道は、同時に悪童と呼ぶに相応しい問題児でもあった。その点において後輩たちは誤っていない。守谷黄道こそ、江藤が恐れる数少ない男のひとりなのだ。

 齢(よわい)三十を重ねても、友情とは厄介なものだ。基地の私室にこっそりと戻った江藤は、ベッドに潜り込みながら、いつか自伝にそう書こうと心に決めた。



- 10 -


「これなんてどう?」

 聞かれて、南田は指差されているウインドウを覗き込んだ。エレガントな、機械式時代の趣をセンス良く引き継いだ腕時計である。銀の輝きは奥ゆかしい程度に調整され、文字盤も一見では普通だが、よくよく見れば凝った字形を浮き彫りにしてある。さぞ身につける者の知性を強調することだろう。――というような感想を口下手ながら説明すると、相手はにっこりと笑ってくれた。

 ああ、これが南小柿椰枝であったなら。南田はそう嘆かずにはいられない。

「いい趣味をしているようで、安心したよ」

 フィリップ・リーは、実のところ買う気などなかったようで、また店内を歩き始める。

 荷の奪回の件はまったく片付いていなかったが、善後策を猿之門の江藤と協議する間、実行員に過ぎない南田はフリーとなった。そんなわけで午前中、フィリップとの約束を果たしに寺町京極商店街に繰り出した次第である。

「時計を新調するんじゃないんですか」

 フィリップは気ままに時計宝飾店を歩き回るばかりで、特に何を買うわけでもない。南田に品物についての意見を述べさせては、それを聞いて楽しんでいる。これまでに門宮のような類(たぐい)の下心は見せていないが、なにぶん未経験なので、油断は禁物である。

「南田君」

 いかにも成金趣味の、豪華絢爛(けんらん)たる金色の鳩時計の前でフィリップは立ち止まった。

「君はどうして軍人という道を選んだんだい」

 幾通りかの答えを、南田は引き出しの中に持っていた。どれを選んで口に出すか迷った時間だけ、返事が遅れる。しかしそれも三秒に満たない。

「俺が狙えるなかで一番の高給取りでしたから」

 結局、選ぶのはいつもこれだった。面接でも、国防を志して、などと模範的すぎる回答を口にしたことはない。決意のほどを力説するだけの材料を、南田は持ち合わせないからだ。南田が士官学校の受験を決めたのは五年も前のこと。この大規模な対外戦争の予兆など全く見られなかった。当時、家族や友人たちの生活を守ろうと思うなら、警察官や役人になるのが効果的だったはずだ。

「失礼かもしれないが、君の家は経済的にそう裕福ではなかったのかな」

「――ええ。もとから並以上ではなかったと思いますが、父が死んでから、特に」

 何を余計なことを話しているのだ、と咎める自分と、どうせ仲間には言えないのだからここで愚痴っておけ、という奔放な自分が衝突するのを南田は意識した。後者が優勢である。

 高校卒業後の人間関係では、南田が父親を亡くしたことを知っているのは、履歴書を見る立場にあった者に限られる。黒龍隊においては江藤のみ、あるいは北嶋もだが、いずれにせよその話題が出たことはない。

 八月の悪夢を経験した世代からしてみれば、片親を亡くした人間など何の珍しさもないのだろう。ろくに生命保険も下りなかったあの時期の死没に比べれば、南田の受けた経済的ダメージはそれほど深刻ではなかった。当時は存命だった母方の祖父の援助もあり、計画的貯金を取り崩して建て替えたばかりの持ち家もあり、ひとまず食住に困ることはなかったのだから。

 ただ、それは現状の維持が精一杯で、支出の増大に耐えるものではなかった。南田には兄弟が下に二人いて、家計の収支は悪化する見込みしかなかった。

 それゆえに、弟たちの将来の学費を確保しようと意図して南田が給金の付く士官学校を進学先に選んでも、褒めてくれる誰かがいるわけではなかった。母の口からは何度も感謝の言葉が出ようとしたが、それは先制して封じた。父を失っていちばん辛いのは母だとわかっていた。大恋愛の末に結ばれたという過去を、両親はともに隠していたが、祖父や叔母たちがこっそり教えてくれるので実は小さい頃からよく知っていた。その情報の事細かさたるや、思春期を経てやっと理解できる過激な内容も含まれていたほどである。

 母は何度も再婚を考えただろう。南田を産んだのがまだ二十二歳だったし、南田の進路選択は、八月の悪夢で若くして伴侶(はんりょ)を亡くした男の間に再婚を志向する流れが生じた時期でもある。それらしき男が母と親しげに話をしているところも見たことがある。

 しかし母はその道を選ばなかった。それが自らの愛のためだったのか、これから多感な時期に突入する弟たちの感情を慮(おもんぱか)ってのことだったかは定かでないが、南田は、母の選択をありがたく思っている。南田も、不自由がないではなかったが、代わりの父親など欲しくはなかった。

 だから南田は、母の口から「ごめんね」とか「ありがとう」とか聞かされたくはなかった。聞いてしまえば、南田はもう、自分の感謝を的確に表現すべき言葉を失う。当たり前の言葉では、言い表すことなどできないのだ。

 しかしその一方で、誰からも褒められない現実は少しずつ痼として積もっていった。弟たちには士官学校受験前から「軍人ってかっこいいだろ」と自慢してきたし、学費は母が祖父から相続した遺産から出ていると思い込ませてあるので、やはり感謝の言葉など出ない。士官学校時代のたまの帰省では必ず高額の土産を要求された。京都旅行に行けなかったのは日程調整の他にそうした懐事情も影響していた。ことさら自分の不幸を――それもたいした不幸ではない――人に吹聴するのは憚(はばから)られ、寧ろ下手に深く同情されては自分は今でも幸せだと反発したくなるのも経験上学んでいたので、士官学校に入ってからは誰にも父のことは言わなかった。誰にも。坂元も鷹山も知らない。峰國(フェングォ)も。

 李(リー)峰國は孤児であり、軍に入ったのもそれを前提に奨学金を貰(もら)っていたからだと言っていた。南田よりよほど「かわいそう」と言われて然るべき身の上だが、不思議なことに、過去を語る峰國の様子には同情を乞うような湿っぽさがない。八月の悪夢による人口減少率が日本より甚大だった中国で育てば、自然とそうなるのかもしれない。もしそうだとすれば、すでに日本で比較的平和に育ってしまった南田に、密かに羨んでいる峰國の特質をこれから獲得する術(すべ)はない。

 吐き出しても溜め込んでも、ストレスは常に内向きに移動するばかり。――そう思っていた。しかし、吐き出す相手が繋がりの薄い人間ならばどうか。この、フィリップ・リーのような人間ならば、どうなのか。南田は揺れていた。

「君は良い家庭に育ったようだ」

 気付けばフィリップがそんなことを言っていた。

「椰枝は君とは逆だな。経済的には恵まれていたが、彼女の両親は、一人娘をあまり熱心にはかまわなかった。いや、言葉が違うな。よく娘の面倒を見ている両親、という役を熱演していたが、その実、娘と心を通わせていたとは言い難い」

 フィリップの唐突な語りに、南田は戸惑った。椰枝の明るく礼儀正しい振る舞いから、そのような家庭環境は想像できなかった。

「意外そうだね。まあ無理もない。両親がそうであったように、彼女もまた幼い頃から優れた役者だった。初めて会ったとき、彼女はすでに、幸せなおうちの娘、というロールプレイに腐心していた。今の彼女の人格もその延長にある。しかし……」

 フィリップは金の鳩時計を離れ、もっと地味な棚へと移動する。価格帯は変わらないが、並んでいる商品の外見は大きく異なる一画だった。ともするとススや手垢でも付いていそうな、古めかしい懐中時計たち。耳を近づければ蒸気機関車の排気音と警笛が聞こえてきそうでもある。

「彼女は変わることを望んだ。心から両親に愛して欲しいと望み、それが実現されているかのように振る舞っても、結果はついてこない。自らの選んだ道の誤りを認めざるを得なかったんだ。だから彼女はアメリカの大学へ進学することで、親元を離れた。そしてこの春、帰ってきた」

「どうしてです?」

 アメリカでは秋から新学年が始まる。春に帰って来るというのはいかにも中途半端である。帰らざるを得ない何かが、起きたのか。

「まあ、事情がいろいろあってね。そのへんは私の口から語るわけにはいかないが。重要なのは、南田君、椰枝はまだ仮面をかぶったままだということだ。仮面、などと言っては生ぬるいな。彼女は……脱皮していない。古くなった皮を脱がないことには、それ以上成長できない。私は彼女の叔父のようなものだが、悲しいことに、脱皮を手助けしてやることができない。私は彼女が脱ぎ捨てるべき古い皮のほうに属する人間だからだ。新しい体を形作るには、やはり、若い世代の息吹が必要だ。――南田君、君は椰枝のことが好きだね?」

「あ、はい」

 言ってしまってから、南田は慌てて口を塞ぐ。否定の言葉を探すが、フィリップが話を継ぐほうが早かった。

「君はまだ、椰枝のことを殆ど知らない。君が好きになったのは彼女の仮面、脱ぎ捨てるべき古い皮のほうかもしれない。だとすれば私は君に何も期待できないが、ここへ君を連れてきたうえでの憶測としては、おそらく君が見た輝きは、彼女の内側から漏れ出るものだったと思える。だから、お願いする。彼女の力になってやって欲しい」

「いや、そんな、突然言われても」

 南田は泡を食うばかりだった。密かに敵対視していた相手から、大量の塩を送り付けられるとは予想だにしなかった。塩もあまりたくさんでは処分に困る。塩分の取りすぎは体に毒だ。

「すまない、せっかちだとはよく言われる。それが商才の一部だという持論もあるが、これは商売ではないからな。君の主張は尤もだ。突拍子もなく言い出すべきことではなかった。これは完全に私の身勝手だよ。でもわかってほしい。君に将来の選択肢が多くは与えられなかったように、私だって、選べる手段は限られているんだ」

「フィリップさん。あなたは起業に成功して、現にその影響力で手助けもしてくれました。そんなあなたが椰枝さんの友人候補を探すための人脈に事欠くとは、俺には信じられません」

「たしかに、声をかければいくらでも集まるだろう。しかし、利害関係を意識してしまう者では、駄目なんだよ」

「俺だって、何かと名目を作って、財産家のあなたに金を無心するような男かもしれません。この発言自体、無欲をアピールするための作り事かもしれない。どうしてあなたは俺を信用できるんです」

 それがわからないことには、南田も、フィリップ・リーという男を信用できない。

「さて、なぜかな」フィリップは南田の顔をしげしげと眺める。「実を言うと、私にもよくわからない。ただ、時計の趣味だけで判断したわけでないよ。なぜだか君を見ていると落ち着くんだ。昔知っていた誰かに、似ているのかもしれないな。――そうか、それで私は、君をここへ連れて来ようと思いついたんだな。なるほど」

 独りで勝手に納得して、フィリップはまた歩き出す。他に誰も客のいない店内をぐるりと一周して、店のカウンターの前で止まる。しかし、まだ商品は手にしていない。どれかに目星をつけるようなタイミングもなかった。

 フィリップは、カウンターの向こうで腕時計の分解をやっていた店員の青年に、例の品はできているか、と訊ねた。店員はフィリップの顔を認めると、お待ちください、と一揖(いちゆう)して去り、やがて店主らしき作務衣(さむえ)姿の老人を連れて戻って来た。

 職人上がりと一目で分かるその老人は、恭(うやうや)しい手つきでフィリップに紙の箱を差し出した。手のひら大、といっても女性の手にはやや余る程度のそれを、フィリップは南田の目前で開封する。

 白い緩衝材を解いたのちに現れたのは、今しがたウインドウで見ていたような、古式ゆかしい懐中時計だった。真鍮(しんちゅう)製のハンターケース。フィリップが竜頭(りゅうず)を押して上蓋を開けると、現れた文字盤は大理石のような白。刻まれた文字は漆黒。蓋の裏の装飾は、宝珠を掴み雲中に身を踊らせる龍を彫り込んだもののようだった。

「よくできているな」

 フィリップが感嘆すると、老人は穏やかに微笑んだ。

「これで八度目でございます」

「そうだな。何度も作り直させて悪かった。これで完璧かどうかはわからないが、私にはもう、これ以上は確かめようがない」

 南田は顔を近づけてしげしげとその懐中時計を検分した。確かに立派な時計だが、どうやら機械式のようである。いまどきクォーツにもできるだろうに、というのが南田の正直な感想だった。

 道楽だよ、とフィリップは自嘲した。

「昔手放した時計の、再現をしてもらったのさ。あれは一品物だった。いくつかの写真と、私の記憶だけが資料だ。ここの主人は気まぐれな私の記憶によく付き合ってくれてね。京都一、いや日本一、もしかしたら世界一の時計職人だと私は誉め讃(たた)えている」

「もったいないことで」

「正当な評価だ。これのオリジナルは、祖父が北京の職人に作らせたものだというが、その店も弟子筋の店もすべて二十年前の混乱で失われてしまっていた。しかたなく全く別の職人に当たってみたが、ろくに資料もないレプリカ製作の仕事だから、何度も断られたよ。引き受けてくれても、違和感だらけの代物しか出てこない場合も多かった。何年もそうして失敗を重ねていたところ、知人の紹介で仕事を受けてくれたのがここ、繭山(まゆやま)時計宝飾店だった。もうこれで駄目なら諦めようかと思っていたが、いや、よくやってくれたよ」

 そう語るフィリップの目は、この店にあるどの品物にも負けぬほど輝いて見えた。よほど大事な品なのだと南田は察する。時計を作らせたという、祖父の形見かもしれない。

「さてこれを」

 フィリップはチェーンを摘んで懐中時計を持ち上げると、南田の手を取り、ゆっくりとその上に置いた。

「――これは、どういう」

「君に差し上げる」

 フィリップの言い出したことが南田には即座に理解できなかった。が、冗談ではないことがその真剣な眼差(まなざ)しから伝わってきて、そして南田はそれこそ機械仕掛けのように首を横に振った。

「そんなわけにはいきません。これは、フィリップさんがようやく手に入れたレプリカじゃないですか。今説明してくれたばかりです」

「わかったんだ。ついさっき、これを手にとった瞬間に。――この時計は私の記憶にあるオリジナルと区別がつかない。しかし、それでも、これがあくまでレプリカであり、オリジナルとは別物であるという認識が私にある限り、私はオリジナルに纏(まつ)わる人々の息吹をこのレプリカに感じることはできない。それがわかった。ようやくにね。だから、私にとってのこれの役目はもう果たされてしまった。これは過去を慰めるためにではなく、新たな息吹を記憶するために生まれたような、そんな気がしてきた。だからこれは君に貰って欲しい。若い君に。君たちに」

 つまりは、椰枝を頼むとフィリップは繰り返しているのだった。樹脂製のデジタル式腕時計に慣れた南田には、その真鍮製のハンターケースは、ずいぶんと重たく感じられた。



- 11 -


 午後、南田は再びハイエースを高速に乗せ、日本列島を西進していた。

 買い物から帰ると、探偵の用意してくれた宿に門宮から連絡が入った。昨夜の侵入者の行方についてだった。

 門宮の語ったところによれば、RAT(ラット)は侵入者が博多行きの新幹線に乗るところまで追跡したが、尾行を気づかれたようで、連絡を受けて博多駅で張っていた隊員たちはそれらしき人物を捕捉できなかった。RATとしても九州配置の人員を使って追跡を続けるつもりだが、あまり人手は割けない。興味があるならそちらでも探してみてはどうかと門宮は提案したそうである。

 一方で、江藤からも連絡が入っており、荷の宛先がそもそも日本だったというRAT側の主張は、どうやら事実らしいとわかった。江藤は黒龍隊の権限を濫用(らんよう)してぶんどる算段もしているとのことだったが、これは早くても四日はかかるという悠長な話である。すると南田たちとしては、京都でただ待っているより九州へ行ってみようかという話になった。

 ただ、九州の話が南田たちを京都から引き離すための策であるとも疑った南田は、出発を前にしてヨシダに話しかけた。

「門宮さんの言ったように、近くの部隊に頼んであの倉庫を封鎖したほうが安全じゃないですか? このあたりは、議会派の力が強いはずです。江藤少佐から非公式にでも声をかけてもらえば……」

「可能だろうな。だが、RATの人手不足を補ってやる義理はない」

 イルベチェフにも同じ話をしてみたが、判断はヨシダと同様だった。いちばん荷に対して責任のある立場のヨシダが頷いているのだから、南田に反駁(はんばく)の余地などなかった。

 かかる次第で、車内のメンバーは昨日と同じである。

 椰枝も、乗りかかった船だからとついて来ている。

 大学の講義はと訊ねると、今週はもともと休講が多いので大して支障はないと言う。もっとも、前期の初っ端であることを除いても、休講が多めにならざるを得ないことを南田は知っている。あらゆる専門家は戦争協力のために講義を蔑(ないがし)ろにせざるを得ないのが昨今の世情である。大学もその例外ではない。運営費交付金や個別の研究費は体制が握っているのだ。

 南田は椰枝が京都で引き返さなかった理由を考えていた。フィリップはまだ数日京都にとどまるらしく、椰枝は残って京都観光でもするほうが自然であるように思われた。なのにどうしてまた退屈な九州行きの車に乗っているのか。

 自分に都合のいい解を妄想するのは簡単である。しかし、そうそう脳内麻薬で蕩(とろ)けてはいられない。フィリップが椰枝の意向を確認したうえで南田にいろいろな話をしたとは思えず、彼の心証を頼りに迂闊に事を進めるのは得策とは思われない。

 フィリップの話が法螺(ほら)ではないのなら、椰枝は今、新たなアイデンティティの確立を目指している。両親に代わる依存の対象を探している。そのための大学であり、胃之上食堂でのアルバイトであり、この旅である……と、そのように考えて何ら不自然はない。要するに、変わった出来事を、刺激的な日々を、椰枝は求めているのだ。

 すると、やはり椰枝は南田の第一印象とは異なる性分の女性だと言わねばならなかった。フィリップが指摘したように、南田は南小柿椰枝の表層を知るに過ぎない。フィリップの言葉を信じたとて、あの叔父気取りの男が椰枝を根底まで、芯の部分まで理解しているということにはならない。

 あるいは彼は南田にそれを望んだのかもしれない。フィリップと南田とでは、さまざまに違いがある。生まれた年と、土地と、家庭環境。そして財産。彼の持つものを南田は持たず、南田の持つものを、彼は持たなかったのかもしれない。フィリップ・リーの語った過去は、予め椰枝の話した内容を除外すれば、この懐中時計に纏わる断片ばかりだった。

 そういえば、ふたりには共通点がないでもない。父が物故して久しいという点がそれである。しかし、以(もっ)て絆を感じるには不足も甚だしい。彼は母親や他の家族のことには触れなかった。――中国人であるなら、兄弟はないのが当たり前だろうと南田は後から気づく。やはり故郷の隔たりは理解の妨げになる。フィリップは椰枝を齟齬(そご)なく理解しうる人間をずっと探していたのかもしれない。この、彼にとっての異郷の地、日本で。

 不思議なことだが、考えれば考えるほど違いばかりが浮かび上がるあの実業家とともにいる間、南田は本来持つべき警戒感を維持できなかった。年に一度会うかどうかの親戚などより余程親密な空気を彼は作り出していた。それは実際に作り物かもしれない。若くして会社を興し、財をなしたのだ。初対面の相手の懐に造作もなく入り込むくらいの特技は具えていて当然である。

 南田は、果たして自分もその術中にはまったのか、それとも性向の多少異なる者同士のほうが却って親密になれるという通例に該当するだけのことなのか、見極めきれずにいる。もし前者であれば、知らず知らずのうちにフィリップに踊らされ、そして自分もまた意識することなく椰枝に繋がる操り糸と化してしまう虞がある。フィリップの思う椰枝の幸福が彼女自身の願いと同一である保証はない。百歩譲っても、南田の思うところの椰枝の幸福とすら一致しないかもしれない。そう考え始めると南田は不安でならない。疑心暗鬼を生ずという問題集頻出の故事成語は勿論知っているが、馬糞を饅頭と思い平らげるような愚は犯したくないのである。――そして、いまも南田の鼻腔(びこう)にほのかに漂い来るのは、饅頭の匂いなどとは比べるべくもない甘美な香りである。

 椰枝が隣に座っている。その現実こそが、南田をあれこれ惑わせる元凶ともいえる。

「南田さんって、口だけなんですね」

 突然の椰枝の呟きに、南田は危うくハンドル操作を誤るところだった。山陽自動車道に乗ってそろそろ三時間。結局ずっと運転を任されている南田を除く三人は、もう半時前から一言も発していなかった。ヨシダ特製ブレンド――実は彼の荷物の大部分がコーヒーセットと釘バットで占められていた――をしこたま飲まされた南田はさっぱり眠くならないので安全だが、利尿作用もなかなか強烈で、そろそろパーキングエリアかサービスエリアに入る必要を感じてもいた。思考がまとまらない一因かもしれない。

「南小柿さん、起きてたんだ」

 南田は昨日からの自分の言動に不手際や不義理がなかったか高速検索してみたが、思い当たる節はない。ヨシダやイルベチェフに比べれば、それはまだ頼りなげに見えるかもしれないが、しかし倉庫潜入の折の一部始終を椰枝に語れば、あの二人もそう頼もしいばかりの大人ではないとわかってもらえるだろう。

「ほら、それです」

 椰枝がまた頬を小さく膨らませたかと思い、南田はちらりと助手席に目を向ける。すると、待っていたのはそんなかわいらしい表情ではなく、軽蔑の色をはっきりとなした横顔だった。

「南小柿じゃなくて、椰枝って呼ぶんじゃなかったんですか?」

 しばらく言葉を失って、南田は前に左に何度も視線を転じた。

「――なんちゃって」

 椰枝が噴き出した。そして、大きく吸い込んだ。

 息を止めていたのだと南田は気づいた。椰枝は無理に表情を作っていたのだ。今はもう、南田が二段ベッドの天井に貼り付けたいと思ってやまない笑顔の椰枝である。

「ああ、ごめんごめん、名前のほうが気に入ってるんだったよね」

 本当はこれっぽっちも忘れてなどおらず、ただそう呼んでみるタイミングを窺っていたとか勇気がなかったとかそういう問題に過ぎないのだが、ありのままを吐露する気にはなれず南田は言葉を装った。

 南田は動揺していた。どうやって外堀を埋めたものかと思案する暇すらなく、望みの花が、ふわりと風に乗り堀を越えてこちらへ飛んで来きそうな日和(ひより)である。さらに、花の生育を見守っていた男はどうぞ持って行きなさいと言う。何かしらの裏があるのではないかと考えてしまうのは、寧ろ理性を正常の範囲に留めている証であると、そう南田は自己を弁護する。これで裏がなかったら、自分はあまりにも幸せすぎる。

 南田はふと、ひとつの巷説(こうせつ)を思い出す。

 ――これは、ひょっとして死亡フラグなのか?

「フィリップさんが残念がってましたよ」

 いきなり残念などと言われて、南田の脳裏に自身の葬儀の様子が描かれた。

「何を?」

 思わず南田は片手をハンドルから上衣の内ポケットの位置に動かしかけた。

 懐中時計のことは、誰にも話していなかった。どうしてフィリップが南田にこれを譲ったのかと問われたならば、繭山時計宝飾店での話を少なからず説明する必要が生じてしまう。それを避けたのだ。

「できれば今夜の晩餐(ばんさん)に招待したかったみたいです」

「なんだか、気に入られちゃったな」

「年下の友人が欲しいのかもしれません。どうしても、会社の偉い人が付き合いの中心になってしまうようなので」

「なるほどね。――戦争さえ片付けば、休みを取って会いに行くこともできるけど、今は次回を約束できないな」

「お店にも?」

「それって……」

 胃之上食堂のことか、と問おうとしたとき、後ろから暗号通信の着信音が聞こえてきた。すぐにデコードが開始されるが、それもすぐに終わった。よほど短い内容なのだろう。イルベチェフがヘッドセットを取る物音がする。

「なんでした?」

 イルベチェフがヘッドセットを耳から離したようだったので、南田は連絡内容を訊ねた。

「江藤少佐からだ。だが、よくわからなかった。少尉、聞いてくれ」

 イルベチェフは席を立つと、通信機を操作してスピーカー出力に切り替え、再生し直した。

『あー、江藤だ。岡山で吉備(きび)団子とカブトガニ饅頭を買って来い。そこで一泊してよし。以上』

 わずか六秒。

 そして六秒後には、目前の笠岡インターチェンジで一般道に降りるため、南田は強引な車線変更を敢行していた。



- 12 -


 岡山は南田の故郷である。さらにわざわざカブトガニ博物館などという全国的にはあまりメジャーではない観光スポットの土産を江藤が指定してきたことに、南田は何らかの作為を感じずにはおれない。なぜなら、そこは南田の実家から車で二十分かそこらという近場なのだ。

 南田の懸命の交通法規スレスレ運転が報われることはなく、カブトガニ博物館の閉館時間には間に合わなかった。このタイミングまで含めて江藤の策謀ではないかと南田は疑ったが、さすがにそれは考えすぎだろうと思い直す。――まさか、それで南田の実家を宿にしようなどという流れになるとは、南田は予見できなかった。

 土産を手に入れないことには岡山を離れられない、という不可解な判断を年長者二名が下したのも要因の一つである。二人は江藤からのメッセージには何か重要な意味が隠されているに違いないと睨んででもいるのか、南田がいかに抗弁しても、君はまだまだ若いとか、士官たるもの常に発言の裏を読めだとか、そんなふうに諭されるばかり。あれよあれよという間に、南田はハイエースを実家近くの空き地まで運転させられたのだった。

 南田の母、綺美子(きみこ)は、突然の長男の帰省――しかも三名の客連れ――を大いに喜んだ。簡単に事情を説明すると、何日でも泊まって行けと勧める。いや明日には発つからと南田が念を押しても、詳しい事情を隠しているおかげで、休暇で来ていると勘違いした母の思考を軌道修正するのは玄関先では不可能のようだった。

 その母の声で玄関は活気に満ちていたが、家の奥からは声や物音が聞こえてこず、ひっそりとしている。上の弟の虎鉄(こてつ)は、去年から県外の大学に進んでいるので、むしろここにいてもらっては困るが、下の弟の颯馬(そうま)はまだ高校三年生である。

「颯馬は? 部活はやってなかったよな」

「あの子は合宿中で昨日からいないんだよ。残念だねえ。あんたが軍隊でロボットに乗ってるって知ってから、いつその話を聞けるかと待ち遠しくしていたのに」

「ロボットじゃなくて、機兵だよ」

「軍隊用語なんて知らないけど、ロボットなんだろ?」

「ニュースでだって使っている言葉だって。それに、人が乗って操縦するものをロボットとは言わないの」

「人が乗っても乗らなくても、車は車、飛行機は飛行機。ロボットはロボットじゃ、ないの?」

 南田は溜め息をついた。

「母さん、虎鉄がいないからって、あいつみたいな屁理屈はやめてくれよ」

「おまえが寂しかろうと思ってね」

「まさか。うるさい弟がいなくてせいせいするね」

 軽口半分、本音半分である。ダーダネルス作戦中の孤独や不安のなかにあっては、弟たちと喧嘩した日々もやけに懐かしくいとおしく感じられ、まだその余韻が南田の胸の内に残っている。だが、ヨシダやイルベチェフに振り回され、さらに椰枝相手にどぎまぎしているところを弟どもに見られずに済むのは正直ありがたい。

「うーん、これだけいるなら、今日はすき焼きにでもしようかねえ」

 全員が荷物を置いて腰を落ち着けたころ、台所で冷蔵庫の中身を確認していた綺美子が言った。

「いや、母さん、そんな構わなくていいよ。布団だけ出してくれれば……」

「何を言うんだ、南田少尉」

 さっそくコーヒーセットをゴルフバッグから引っ張り出してきたヨシダが、背後からわざとらしく南田の肩を叩く。

「親の愛情は真摯(しんし)に受け止めるものだ。俺もすき焼きというやつは十年以上食べていないしな……」

「ああ、俺もばあさんが死んでからはご無沙汰だなあ」

 と、居間の方からイルベチェフ。耳がいい。

「しかしですね」

 いったい金を出すのは誰だと思っているんだ、と内心憤っていると、イルベチェフが早速買い物に行こうと言い出す。そして南田にだけ見えるタイミングで片目を瞑(つむ)ってみせた。もともと頬の筋肉が張りすぎて目の細い男なので危うく見逃すところだったが、南田はそれに気づいて得心した。イルベチェフは経費で落とす気である。黒龍隊の経費で。

 スーパーでは、運がいいのか悪いのか、昔の知り合いには出くわさなかった。会いたい顔もあれば二度と見たくない面もあるが、八方美人的に日々をやり過ごしていた南田としては、会えば誰相手でも言葉を交わさぬわけにはいかない。しかし成人式にも出なかった南田は、地元の人間とは殆ど没交渉である。距離の取り方が分からない。親しかった友人たちも、ずいぶん変わってしまったかもしれない。悪い方向に、である。幻滅を避けるためには深くは立ち入らないのが得策だろう。一方で、今なら懐かしさと冷却期間とのおかげで、かつて腹に一物抱えた相手であっても楽しく立ち話くらいできるのかもしれないとも南田は想像していた。もっとも、そうだとしても積極的に好きになるとまでは考えられず、したがって期待より警戒する気持ちのほうが強い。また、近況報告などはだいぶ話をごまかさなければならないのも憂鬱(ゆううつ)の種だった。黒龍隊でのことはあまりおおっぴらに話せない。たとえ母相手でもそれは同じである。

 ダーダネルス作戦での体験を語るにはまだ時間が要る。それは、不用意に漏らせば累(るい)が及ぶかもしれないという危機意識のためばかりではない。あの不思議な現象の数々について、真実でなくてもいい、とにかく自分で納得の行く説明を見つけるのが先決だと思われるのだ。だから、あの不可解の具現である鎧蜘蛛の死骸を追うこの旅には、椰枝のことを除いても、南田は期待を寄せていた。まだその面での収穫は得られていないが。

 若き青年が種々の悩みをうだうだと頭の中で転がしていると、イルベチェフがすぐ妙な具材を籠に放り込むので、南田はしばしば思考を中断され、籠の中身を走査、選別して夾雑(きょうざつ)物を元の棚に戻す作業を強いられた。若くして日本からロシアへ渡ったというイルベチェフの祖母は、果たして本当にすき焼きというものを食べたことがあったのだろうか。百歩譲ってキュウリは入れるかもしれないが、まちがってもキウイはないと南田は思うのだ。

 好きなものを入れるからすき焼きじゃないのかと問答をふっかけてくるイルベチェフをあしらいつつ家に戻ると、ヨシダの淹れたコーヒーの薫(かお)りがふたりを出迎えた。居間では綺美子とヨシダと椰枝が炬燵を囲み、貰い物らしい菓子をつまみながら談笑している。

 なんとも平和な光景だった。今が平時で、本当に休暇でここに来ているならどんなに良かっただろうという想いがにわかに南田の胸に立ち込める。年より老けて見えるヨシダは、まさに父親のようである。イルベチェフはさしずめ従兄(いとこ)か叔父か。代わりの父など要らぬと己の心を固めてきたが、やはり心のどこかではこういう家庭を切望していたのかもしれない。ヨシダの冗談に歯を見せて笑っている母、綺美子を見ていると、やはり母には大人の男の支えが要ったのではないかと、過去の己の判断に自信が持てなくなってくる。

「俺、風呂の支度してくるよ」

 料理はあまり得意とするところではないので、南田は風呂に逃げ場を求めた。

 母に再婚を拒ませたのは自分の言動であったかもしれない。そう考えて、南田はこの家で過ごした日々を思い返す。

 風呂のシャワーヘッドは壁の高低二箇所に掛けられる。幼い頃の南田には、高い位置にシャワーヘッドが固定されている場合、これを取ることは極めて困難だった。ホースの下のほうを持ち上げてみても、たわむばかりでヘッドはなかなか浮き上がらない。頑張って浮き上がらせたはいいものの、支えを失って落ちてきたシャワーヘッドに危うく殴られそうになったこともある。

 そんなときは結局、父がやって来て下ろしてくれた。母は「だから上には掛けないでって」とやんわりと叱り、父はごめんごめんと頭を下げる。弟たちはまだひとりで風呂に入れなかったので、南田か父が、一緒に連れて入浴していた時代である。

 それも、ずいぶん昔のことになった。父亡き後、父方の祖父がまだ家にいたが、腰を痛めがちだったので高い位置にシャワーヘッドを置くことは稀だった。日本人成年女性の平均身長を下回る母はもとより低い位置にしか掛けない。自然と、高いほうのシャワーヘッド掛けは何か別の用途に使われるようになり、そうでないときも、ただ空いているだけになった。南田家の男三兄弟は皆かつての父以上に背が伸びたが、容易に掛けられる体格になってもなお、その位置は空席であり続けた。そこに掛けてよいのは父だけという不文律があったように南田は感じていた。――それも、南田こそが率先して母や弟たちに禁忌を植え付けたのかもしれなかったが。

 浴槽をスポンジで擦り、シャワーで洗い流した南田は、ふと思い立ってそのヘッドを常とは異なる頭上に戻してみた。頭上といっても、仰角は浅い。父も今にして思えば特に長身ではなかった。最も背が伸びた末弟、颯馬ならば、下に掛けるほうが却って無理な姿勢を要求されるのではないか。

 いざ掛けてみれば、格別に何か感慨が沸き起こるものではなかった。たかがシャワーである。当たり前だと、南田はそう思ってシャワーを背にし、浴槽に栓をして湯を張り始める。これも昔は水を貯めてから沸かすしかできなかったが、父の死ぬ一年前だったか、給湯システムを交換して今のようになった。虎鉄はともかく、颯馬は以前の仕様が記憶にないかもしれない。颯馬はあんなに親しかった叔母のことさえ記憶が朧(おぼろ)げなのだから。

 南田の叔母であり、父の妹である、南田祥子(しょうこ)。結婚はしていなかった。十五年前、家族の前から忽然と姿を消したその日までは、まだ。

 南田が一歳のときまでは同じ家に住み、その後短大へ進学して家を離れた祥子だが、義姉の綺美子とも実の姉妹のように仲がよく、長期の休みには必ずといっていいほど泊まりで遊びに来ていた。祥子が九州で就職してからも交流は途絶えず、小学校に上がる前の南田は祥子に連れられて長崎へ旅行をしたこともある。

 南田の幼少期の人格形成において、人とちょっと変わった考え方、感じ方をする女性だった祥子の影響は計り知れない。虎鉄や颯馬が南田に言わせれば少々粗野で類型的な男児であるのも、叔母との触れ合いの期間が短かったからではないかと、常々南田は思っている。

 その祥子は、風呂場で座らず、腰掛けず、立っていることが多かった――ようである。南田も大人の股を軽々とくぐれるくらい小さい時分には祥子と一緒に風呂もシャワーも使ったそうなのだが、これも幸か不幸か、記憶にはない。母は、見たはずだとからかうが、これは確かに憶えていないのである。別に恥ずかしがって隠しているわけではない。長崎の旅すら、断片的な光景と会話が、楽しかったという獏とした印象のなかに漂っているに過ぎないのだから。

 今、祥子に纏わる過去を鮮やかに思い出したのは、何も母が連れにその件を喋らないかと心配してのことではない。きっかけは給湯システムであり、そして、深入りを促したのは背後のシャワーヘッドである。

 南田は水音を背にして、シャワーヘッドを仰視した。そのまましゃがんで、昔の視界を再現してみる。そして思い出した。この位置に掛けていたのは、父や祖父ばかりではなかった。母よりは父に身長が近かった叔母、祥子。終始直立でのシャワーを好んだ彼女は、ごく自然に、それを高い位置へ戻していたのではなかったか。南田の耳の奥で、若かったはずの母の声が蘇る。「ダメよ、祥子ちゃん。上じゃあ竜ちゃんが取れないんだから……」。

 叔母はいったいどこへ消えてしまったのか。捜索願は出したが、彼女もその痕跡も見つからなかった。無責任な流言のなかには、勤め先で出会った男と駆け落ちしたという説もあったらしい。祥子なら必ず相談してくれたはずだと両親はその説を否定していたが、やがて父と死別した母は、この説を受け入れるようになっていた。生きていてくれればそれでいい、という一念であろう。南田も、それは同感である。しかし未練がましく、街を歩いていると時々、雑踏の中に叔母がいるのではないかと目で探してしまうことがある。

 だからこそ、だった。南田はようやく、自分の心を動かしたその実体がなんであったかを知った。

「あの、竜時さん」

 廊下からやって来た椰枝に、下の名前で呼ばれても、南田は純粋にときめくことはできなかった。胸の一部が冷たく痛む。南田は、椰枝の雰囲気の中に叔母、祥子と同じものを嗅ぎとっただけのことなのだ。だから、よく知りもしないうちに惹(ひ)かれた。

「飯の前に入る? 二十分くらいかかるよ」

 椰枝さん、もしくは椰枝ちゃんという呼び掛けを織り交ぜようかとも思ったが、結局、それだけ言って南田は口を閉じた。黒龍隊情報班の面々には何の恥じらいもなく呼びかけられるというのに。紗耶ちゃん、杏里ちゃん、タチアナ……。

「入浴剤があるから使うようにと、おばさまが」

「そっか、わかった。ありがとう」

 しまってあるとしたら、洗面台の下の収納スペースに違いない。南田はかがんで入浴剤を探す。椰枝は立ち去らない。南田の当ては外れ、すでに見つけた入浴剤をよけて、あれこれ収納物を掻き回す。――と、チェーンを固定せず、ただジャケットの内ポケットに入れるだけにしていた懐中時計が、滑り出た。

「あ」

 声を上げたのはふたり同時だった。

「アンティーク、ですか?」

 文字盤の見えないハンターケースだが、それが懐中時計であることを椰枝は瞬時に見て取った。つまりそういう物を持ちたがる階級の人間と縁があるということで、南田は椰枝との間の見えない壁を初めて明確に意識した。

「ああ、うん」

 南田は曖昧(あいまい)に答えるに留めた。フィリップから貰った、とは言い出せない。しかし何かは言わねば椰枝の気分を害する、という義務感から、南田は半ば口を開いた。口は開けたが言葉は出てこない。椰枝は南田の発言を待っている。

 気まずい沈黙が流れた。

 そのうちに、南田が入浴剤を探しあぐねているのかと心配したらしく、台所から綺美子がやって来た。

「竜時、見つからない? いつもの洗面台の下……って、なにあんた、高そうな物持ってるのね」

 椰枝の後ろから背伸びをして顔を出した綺美子は、興味深そうに懐中時計に視線を注ぐ。一方で、椰枝の視線はすでに南田の顔に固定されていた。突然よそよそしくなった南田に、奇異の念を抱いていることは想像に難くない。

「貰ったんだ。友達から」

 ようやくにも南田はコメントを添えた。

「へえ、気前のいい友達を作ったものね」

 綺美子が息子を疑っていないのは声音でわかったが、椰枝に見つめられていると、南田は入浴剤を風呂へ投入する作業を口実にその視線から逃れずにはおられなかった。

「同じ部隊で同じ部屋の、中国人だよ。李峰國(リー・フェングォ)っていうんだ」

 笑顔をかぶせ、事実を混ぜた出任せは、南田が母に何かをごまかすときの常套(じょうとう)手段だった。綺美子にはお見通しだったかもしれなかったが、彼女が口にしたのは、「大事にしなさいよ」という言葉だけだった。



- 13 -


 気まずい空気はすき焼きを囲むヨシダやイルベチェフの活気で吹き飛ばされ、南田はまずまず晩餐を楽しむことができた。

 男陣が代わる代わる披露して綺美子と椰枝を楽しませたのは、江藤の話題である。日本人離れした巨体に、破天荒な言動の数々、しかし実は士官学校で伝説になるほどの俊英であったことなどを、多少脚色して語ったのだ。南田たちも互いに初耳の話があり、各自どこまでが本当の話なのか探ってみるのがまた面白かった。例えばイルベチェフが言うには、江藤は七つの秘密道具を持っているが、誰の証言を集めても七つ目の正体が明らかではない、とのことだった。南田はひとつふたつ思い当たる道具があった――例えばあの鈎縄――が、むしろ七つどころではなくたくさん道具を隠しているのが事実ではないか、とつっついた。

 椰枝が風呂を使い、綺美子とヨシダが食事の後片付けと談笑に興じている間、南田はイルベチェフとふたりで炬燵に入ってテレビのニュースを見ていた。先月の旅客機墜落の原因について事故調査委員会のまとめた中間報告の紹介や、ダーダネルス作戦で啓示軍(オフェンバーレナ)の支配から解放された地域から中継される市民の様子――これはここ連日行われている――、そして最近啓示軍の空襲を受けたアメリカ東海岸の都市群の様子……。ヘッドラインはすべて血の臭いを漂わせているが、演出され、鼓舞されているのは悲哀ではなく憤怒(ふんぬ)の情である。

 田舎のことで空襲も受けず、ニュースの他には物価高騰と流通の停滞を通じてしか戦争を感じることのない母には、この報道の作為性はどう映るのだろうかと南田は考える。啓示軍の侵略行為を悪と見做すに異存はないだろうが、さて、彼らを撃退するために息子が戦場に出ていたと知ってもなお、素直に戦争を肯定できるだろうか。自分の子でなければ死んでも構わない、というスタンスを母が取るのであれば、南田は嬉しさより悲しさが、そしてさらに寂しさが勝る。ひいては、今もなお最前線で戦う将兵たちを忘れ、不埒(ふらち)に恋心など抱いた己を南田は恥じ入る。それも、過去に縛られた偽物の恋心だ。誰に対しても申し訳が立たない。

「さっきのは、貸しということにしておく」

 ニュースが他愛もない話題に移ったところで、イルベチェフが静かに言った。南田は自分の心の澱(おり)が見透かされていたと知った。もちろん、イルベチェフが南田の葛藤の詳細まで知る由(よし)もないが、しかし対処は適切だった。おかげですき焼きはまずくならなかったし、母にもどうやら余計な心配はかけずにすんでいる。あと片付けるべき問題は椰枝のことだけだ。負担を軽減してくれたイルベチェフには貸しを宣言する権利があると南田は認めた。

「でも、俺に何か返せるでしょうかね」

「君は全く、自信のない男だな」

 イルベチェフは呆れたように言った。この自信に溢れる北熊(セヴェルメドヴェーチ)の闘士からすれば、たしかに気弱だろうと南田自身も思う。

「藤居のは謙遜だが、君のはただ、いじけているだけだ。みっともない。母上には聞かせたくないな」

「それは、言われるまでもありません。母には心配をかけたくないですし、実際、こんなこと家族の前じゃ言えませんよ。俺は長男です。親父も爺さんもいない。俺が南田家の最年長の男なんですから」

「その意気やよし。だが、竜時。南田少尉。君はもっと多くの人間の期待に応えるべきだ」

 例えば誰の、という問いを南田は飲み込んだ。君も将校だろう、自分で考えろ、と叱咤(しった)されるのが明らかであったし、自分でもみっともないと思った。

 ニュースが天気予報のコーナーを終え、ここ岡山から明日の目的地である福岡までの天気をチェックし終えると、イルベチェフは炬燵から出て立ち上がった。

「竜時、俺は車の中で寝るから、寝床はいらないとおふくろさんに伝えてくれ」

 猿之門からの通信がいつ届いてもすぐ対応できるように、という意味だと南田は解した。昨夜京都で泊まったときより、イルベチェフの焦りは募っているのだろう。南田と違い、何ら挙措に変化を見せてはいないが。

「わかりました」

 南田も立ち上がり、ハイエースのところまで送るつもりで一緒に外を出た。工作員として働くイルベチェフが車を置いた空き地までの道を忘れるはずはなかったが、もう少し、ふたりで話をしたいと思った。イルベチェフは制止しなかった。

「大尉、ひとつ聞いていいですか」

 空き地に到着し、ハイエースの座席を倒して毛布を広げるのを手伝いながら、ようやく南田は切り出した。

「三つまでいい、というのが物語の典型だが、まあひとつでも悪いことはないな」

 イルベチェフは予期するところがあったらしく、不思議がることもなく鷹揚に構えている。

「江藤少佐が土産なんて言い出したのは、俺を帰省させたかったからですよね。実家に泊まるかどうかまではともかくとして、とにかく故郷を見せようと手配した。その狙いは俺には掴みかねますが、ノーリスクじゃないことだけはわかります。岡山で一晩過ごすぶんだけ、追跡対象は遠くに移動できる。だったら、目的もよくわからない江藤少佐の指示を無視して、福岡へ急ぐという手もありました。それを選ばなかったのは、どうしてですか」

「おや、君もなかなか、思ったより勘がいいんだな」イルベチェフは立ち止まってにやりとした。「藤居が君を気にかける気持ちが少しわかってきた」

「藤居さんが?」

「兄貴分は大事にするといい。家で長男の役割を担い続けてきた君には、時として甘えるのもいい勉強になるだろう。――さて、俺がどうして寄り道に異を唱えなかったか、か。簡単だな。俺は江藤少佐に一目も二目も置いているからだ。五目並べができる日も遠くはあるまい」

 それが冗談なのか否か南田は判断しかねたので、ひとまずスルーに徹して次の言葉を待つ。

「どうしてそれほど信用できるのかと、不思議そうな顔だな。まあその気持ちも理解できる。俺は最初期の機兵操縦訓練を受けた者同士として江藤少佐を以前から知っていたが、付き合いがあったわけじゃない。初めてゆっくり話をしたのは、君たちに隠れてもらったあのダーチャでのことだった。つまり君のほうがずっと長く、江藤少佐のそばにいる。俺が江藤少佐について知ったふうな素振りをするのが、君にとって気にくわないことであるとも、俺は自覚している」

「俺は別に、そんなことは」

 口では否定してみたが、図星ではないかと南田は気付かされた。

 最初は反撥(はんぱつ)もしたが、ダーダネルス作戦で幾度も助けられ、また核使用阻止のために元老院派の制圧を試みる段にあっては軍人としての意地の通し方を示してもくれた江藤を、今では少なからず尊敬しているのだ。もっとも、相変わらず不真面目で、気まぐれで、肝心なことは秘密主義なので、なかなか全面的に信じるには至らないが。

 南田と同じ境地に、まだ十時間も共に過ごしていない程度のイルベチェフが到達している。もしかするともっと先にまで。それが気に入らないという感情を、南田は否定できないと自覚した。

「江藤少佐は壁を持っている」

 そう、イルベチェフは唐突に喩(たと)え話を始めた。

「ベルリンの壁のような、分厚い障壁だ。彼は遠慮なくどんどん人の懐に入り込むようでいて、実は全身を取り巻く壁によって常に一定の距離を残している。俺の印象はそんなだ。そして、俺は別にその壁を取っ払いたいとか、乗り越えたいとかいう欲求は持っていない。今の付き合いで十分だし、むしろ、気に入っている。壁の向こうに何を隠しているのか毎度わくわくさせられるからな。壁がなくなってすべて見通せるようになってしまっては……、つまり最初から種が知れてしまったら、どんな巧妙な手品も興醒めだ。だから俺は、あの人が今度はどんな手品を披露してくれるのかと期待して、指示に口を挟んだりはしなかった」

 南田は戦慄(せんりつ)に似た興奮を抱いた。これが、北熊が独りで活動させる工作員のメンタリティか。機兵パイロットであるよりも、隊長であるよりもまず、彼は工作員なのだ。北熊の影響力を拡大し、また、実際に事を制御するための。

「それを笑顔で言えるあなたが、俺は正直、恐ろしいです。黒龍隊に貸しを作ろうとしたり、モスクワ奪還の一番槍を狙ったり、最近の北熊の権力拡大志向は素人目にも明らかです。前の軍閥派と同じ危うさを感じずにはいられません。はっきり言って、危ない橋じゃないですか。金星也(キム・ソンヤ)元帥は、北熊そのものを粛清できなくとも、あなたのような実行部隊を消すくらい簡単なはずだ。なのにあなたは、楽しんでいるように見える」

 それが強がりの笑顔であれば、まだ南田の理解の範疇なのだが。

「ああ、楽しいな。任務が危険でスリリングであればあるほど、それを達成したときの満足感は高まる。マトゥモトフ少将のソファーに沈み込むときの幸せだって何倍にも感じられる。それを思うと、俺は笑わずにはいられないのさ。もっとも、俺だって成果がでないときには疲れもするし、息抜きも欲しくなる。女に振られれば堪える。普通の人間のつもりだ」

 だから君もスリルと達成感に酔えるようになるはずだ、とイルベチェフは言いたいのかもしれない。そう察したうえで南田は、事前に許可された回数内で質問を加えた。

「江藤少佐は、息抜きを用意してくれたんですかね」

 イルベチェフは少し考えてから答えた。

「ダーでありニェットでもある。君にとってはこの旅は息抜きとしての役目が大きいかもしれない。ヨシダ少佐にとっては半々。そして俺にとっては大部分がニェットだ。江藤少佐と連携した行動はすべて、スリルに満ちた実戦だよ」

「RAT(ラット)のことですか、それとも、九天軍……」

「ニェット。関係ない。RATも九天軍も、北熊より歴史が古いんだ。江藤少佐と手を携えるという状態こそがスリルの源だ。なにせ江藤少佐は、利用価値のある相手とは積極的に交誼を結ぶが、一方でいざとなれば親しい友人でも切り捨て、裏切る男だ」

「まさか」南田は思わず叫んでいた。「最初から蔑ろにしているならともかく、少佐はそんな信用を逆手に取るような卑劣漢ではありませんよ。イルベチェフ大尉のことは、ダーダネルス作戦での恩もありますし、掌(てのひら)を返すようなことはないはずです。もし北熊から先に手を出したなら、話は違ってくるでしょうけど」

「ニェット。我々が先制攻撃を加えるとしたなら、それは黒龍隊に対する効果的な防衛手段が他にないときだ」

「ハハ、ありえませんよ」

「君はそうして笑うが、しかしありうることだ。現に彼は、一年前、親しかった同僚を自ら……」

 イルベチェフはそこで突然口を噤(つぐ)んだ。そして。

「何奴!」

 イルベチェフは鋭い誰何(すいか)の声とともに、何か細長い物を手裏剣よろしく空き地の茂みの中へ投げつけた。南田が懐中電灯を取って光を投げかける前に、がさがさと草を掻き分ける音が離れて行く。

「動物には違いないようだが」

 イルベチェフは南田についてくるよう指で示し、茂みへと歩み寄る。そこにはもう動物の息使いはない。

 イルベチェフはぼうぼうと茂った草の間に頭をつっこむ。そのままさらに数歩奥まで進み、それからようやく茂みの手前、南田のそばまで戻って来た。手にはボールペンが握られている。より正確に表現すれば、ボールペンとしても使える暗器である。手裏ペンといったところか。今はペン先ではなく刃先が覗いている。

「勘違いだったようだ」

 イルベチェフはそれだけ言うと、スイッチで刃先をペン先に切り換え、ポケットに戻す。そして南田によく休むよう告げ、ハイエースに戻ってさっさと毛布をかぶってしまった。

「あとで、夜食持ってきます」

 話の続きを期待したわけではなかったが、そう窓越しに言い置いて、南田は自宅へ戻った。



- 14 -


 江藤は大きくくしゃみをした。

「誰か俺のことを噂しているぞ」

「どうせ悪口だろう」

 眼鏡に飛沫を掛けられた北嶋が眉を引きつらせながら応じる。

「むう。狐目の古菅(こすが)かナイト気取りの茨木か。いや、守谷の奴か……」

「穴蒲大尉じゃないのか」

「その確率は高い」

 ただし穂積のほうがもっと有力だ、と江藤は思ったが、もちろん口には出さなかった。北嶋には、どうしても告げる必要が生じるまでは、黙っておくつもりである。とはいえ、穂積のほうでは江藤を釣るための餌として北嶋をどうこうしようとするかもしれない。そこで基地と自宅との往復に、阿賀の部隊から護衛をつけさせた。阿賀が部下に護衛訓練をさせたいのだという嘘をついて。これを信じ込ませるのが難事と思われたが、実直な軍人として認知される阿賀の口裏合わせが効果覿面(てきめん)で、北嶋はすぐに納得してくれた。江藤は阿賀への見返りとして、黒龍隊用に手配した乗俑機や着俑機の関連備品の横流しを約束せねばならなかったが。

 江藤と北嶋は差し向かいで今日の試験結果について討議していた。複座型の腰回りに実際に装着したエアインパルサーは、もはや外部からの制御や電源供給を受けずに自立稼働が可能になった。演習用グラウンドで試運転を担当した坂元は、その軽快な運動性能に魅入られたか、最近の陰気臭さもどこへやら、目を輝かせ声を上ずらせていた。防人型のマイナーチェンジ用に開発された部品なども流用してあちこち改造を加えた複座型は、操縦後の坂元の言葉を借りるならば、「もはや龍(ロン)ではない」。

 たしかに江藤もその性能には満足していた。ろくに試験もされぬまま実戦投入されていた亜細亜連邦軍の機兵も、ようやく完成の域に近づきつつあると実感した。この改造内容をそのまま正式な改修プランとして開発部に提案してもいいかもしれない。実機はともかく、データなら矢俣(やまた)が逐次整理しているのですぐに渡せる。――ある一点を除いては。

 矢俣に渡さず、北嶋と江藤だけで分析を繰り返している部分こそ、この複座型改造計画が真に目的とする部分である。戦闘能力の向上は二の次三の次で、むしろ予算執行の帳尻合わせを容易にするためのカムフラージュとしての意味合いが強い。

 雷麒麟に組み込まれていたAHシステム。その再現こそが江藤の本当の狙いである。そしてその観点では、改造計画は成功どころか、暗礁に乗り上げようとしていた。

 AHシステムの再現は、ロシアで雷麒麟から抜き取ったデータと、矢俣の記憶する部品の実装状態に基づいて行っている。江藤はハッキング技術を駆使して麒麟計画の資料を探したが、AHシステムに関する有意義な情報は得られなかった。かつて麒麟計画に携わったという周(チョウ)富窪(フーワー)にも調べを進めさせており、こちらは幾らか成果が上がっている。雷麒麟を宝のようにしていた長野の証言も欲しいが、これも、消息を富窪に探らせている段階である。

 富窪の報告によれば、AHシステムはスタッフ間の噂において存在が知られていたに過ぎず、正式な文書にその名は一度も記されていないという。その名も誰がつけたかはわからない、と富窪は説明しているが、江藤は雷麒麟のコクピットで、モニタに表示された「AH」の二文字をしっかりと見た。噂のあとで誰かがそんな表示を出すようにいたずらをしたのかもしれないが、いずれにせよ、エアインパルサーの性能は長野が扱っていたときよりも向上し、“ベルリンの壁”を突破することもできた。何という名であろうと、そうした機能を持つ隠しシステムが存在したのは確かなのだ。

 AHとはすなわち、バルムンクシステム系統の全体設計を行ったSMITS(スミッツ)出身の技術者、A.H.のことである。これについては異論を聞いたことがないと富窪は書いている。富窪に限らずスタッフの殆どがこの技術者と何度か会っているが、計画凍結より少し早くに、A.H.は姿をくらましている。A.H.は麒麟計画の途中成果を古巣のSMITSに売るために姿を消したのだと見る者もあるという。真相はわからない。富窪の組織では探索を続けているらしいが、よほど逃げ隠れがうまいのか、現在に至るまでA.H.は行方不明である。

 もう何者かに消されてしまったとすれば、見つからないのもそう不思議ではない。江藤は密かにそう思っていたが、意外なところから、彼の生存を示唆する情報が飛び込んできた。

 情報を持って来たのは藤居だった。横浜での九天軍包囲作戦の折、藤居が地上で発見した不審な男が、一枚の名刺を江藤宛に残して消えたという。その名刺に書かれていた名は、保科(ほしな)晃(あきら)。他ならぬA.H.の名であった。しかし名刺には大学院生としての所属が記されており、十数年前のものとわかっている。本人ならばせめてSMITS時代の名刺を持っていて当然で、すると保科本人ではない可能性もある。ただ、今その名刺を江藤に渡そうとする人間がいるということは、保科はまだこの世に影響力を持つ状態にある――生きている――ことになるのではないか。江藤はなんとか時間を見つけて保科晃の出身大学を訪ねてみようと思うようになった。できればお忍びがいい。

 もちろん江藤には当分そんな暇はなかった。櫛田の着任により第二七独立連隊連隊長としての様々な雑務からは解放されたが、これまで権利を停止されていたぶん、仕事が山と溜まっている。必要になりそうな資材をせっせと発注し、様子見しておきたい軍施設にアポを取り、数々の裁定の書類に判を押す。並行して、軟禁中に加わった試験部隊としての仕事もこなす必要がある。たとえば試作兵器の評価結果報告書。一応は部下に作らせているが、最終的には江藤が目を通して――そして悪口を書き足して――開発部やメーカーに送り付けねばならない。そして書類仕事のみならず、明日には藤居ら三名を霞ヶ浦へ送り出すというイベントも待っている。龍の新型機の試験をあちらで十日間実施する予定なのだ。

「A.H.――保科晃を連れて来ないことには、どうにもならんなあ。しばらく完成はお預けか」

 江藤は北嶋のプライドを慮り、これまでその考えを口にするのは避けてきたが、あまり北嶋が根を詰めすぎるので敢えて禁を破った。

「いや、単純に、外的環境が違っているのかもしれない。長野中尉が使っている間には沈黙していたシステムが、おまえが乗ってから姿を現したんだ。今日、おまえが試作機に乗っても変化がなかった以上、あのときの特殊な環境を再現してやることも考えるべきじゃないか」

「そんなことを言ってもよ」江藤は大欠伸(あくび)をした。「バロッグはともかく、“壁”まで再現するってのは無理だろうよ」

「無理だなんて言い出したら、時空跳躍だって常識で考えたら有り得る話じゃないんだ。しかしおまえは、あの特異点から俺たちのところへ帰ってきた。西フェルガナ基地のときと違って、あまりにも作為的な座標だ。しかもあの時点でおまえは俺たちの場所を知らなかった。なのに跳んで来たんだぞ。あれはバロッグのエネルギー変換みたいな、ランダムな現象じゃない。人の意志によって制御された現象だ。“壁”なり暖炉の谷なりの力を借りたにせよ、雷麒麟には、そうした操作を行う機能が秘められていたんだ。それなら、俺たちだって同じシステムを構築する手立てはあるはずなんだ」

 声を荒げる北嶋を宥(なだ)めようと、江藤は慌てた。

「そ、そうだな。雷麒麟を作ったのが啓示軍(オフェンバーレナ)ではない以上、“壁”がなくったって、どうにかなるはずだよな。保科は“壁”の生み出す変則領域の利用を前提にはできなかったはずだ。――にしても、その本来の鍵はいったい何だろうな。SMITS出身の保科が利用できたもの、か」

 江藤はまず龍王(ロンワン)を連想した。ヴォルフと乗り込んだ特異点から江藤だけ弾き出されたとき、龍王のそばに転移したという事実もある。しかし、二度目の折には龍王はいなかった。二度ともそばにいたのはヴォルフの牙黒鷲(ガコクシュウ)だが、時空跳躍の先の座標をヴォルフが設定したとは思えない。雷麒麟やそのそばの何物かが座標を指定したというよりも、寧ろ、あの場所に出ると読んで北熊(セヴェルメドヴェーチ)が黒龍隊の潜伏先を決めたというほうがもっともらしくはないか。なにしろ北熊は、麒麟計画と無関係というわけでは……。

 江藤は首を振った。今は、人を信用してみようと決めたのだ。

「疲れているんじゃないのか? 禁足が解けてから、また何か始めているだろう。真夜中にも出かけているようだし」

「疲れているだと? おまえに言われるとはな。さっさと帰って娘の子守唄でも歌ってろよ。俺は風呂にでも行く」

 それならばと、北嶋はファイルや筆記具を片付けて立ち上がる。

「江藤。今度、うちで夕食を食べないか。もう自由に出られるって話したら、裕美子さんが是非(ぜひ)呼べって言ってくれてるんだ」

「ああ、社交辞令でないようなら、そのうちにな」

 それより先に片付けねばならないイベントがあることを、江藤は忘れてはいなかった。ゴン太が悪戯(いたずら)をしないように、引き出しの奥深くにしまってあるのだ。源紅麗葉(くれは)から預かったあの扇子は。


*   *   *   *   *


 江藤が風呂へ行くと、先客はひとりだけだった。江藤はある確信を抱いて中へ入る。案の定、櫛田が湯船に浸かっていた。

「昨日の件、どうなっておりますか」

 いちばん湯船に近い鏡の前に座り、江藤はどっかりと腰を下ろす。

「難しい。RAT上層部に私的にコンタクトを取ったが、元老院議員の意向をちらつかせて、逃げの一手だ。RATと事を構えるのは得策ではない。京都に向かわせた一団は引き上げさせるのが良かろう」

 新青海(チンハイ)基地や北熊の知人への便宜をそこまで優先すべきではない、と櫛田は言外に告げている。

「いえ、そのまま福岡へ向かわせます。これはRATからの協力要請に応じるものでもあります」

 江藤は、RATの荷物をかっぱらった何者かが博多へ逃亡した件を手短に説明した。もちろん、南田たちが倉庫へ侵入した件には触れない。そして、もうひとつ重要なお使いを南田たちに任せようとしていることにも。

「気前がいいことだ。久留米で人材でも発掘しようというのかね」

 何かしらの企みの臭いを鋭敏に嗅ぎ取って、櫛田は釘を刺してきた。

「私は黒龍隊の人事に口を出す権限を持たないが、敢えて言おう。人を見出すなら君か北嶋大尉が出向くべきだ。組織を鍛え上げるための労を惜しんではならない」

「鍛えるために、でありますよ、大将閣下。俺は当面、部下を増やそうとは思っていないのです。必要なスタッフは、四ヵ月前にすでに選びましたゆえ」

「それは何を目的とした人選だね」

 櫛田は料理の名前でも訊ねるような調子で言ったが、しかしこれは重大な問いだった。おまえはどんな野望を抱いて黒龍隊隊長の座についているのかと、櫛田はそう聞いているのだ。返事如何(いかん)では、櫛田は黒龍隊お目付けとしての役目を返上し、議会に再び黒龍隊危険論が巻き起こるよう仕向けるかもしれない。「横浜の英雄」という偶像あってこその保護観察処分なのだ。

「ハンス・ライルスキーは、己が治世を遍(あまね)く世界に広めるべく征服に乗り出した。俺はというと、あんたらの始めた連邦内の下らん派閥争いをやめさせ、ちゃんと国民に尽くす国家の姿を取り戻そうと、亜細亜連邦軍の征服を夢見ている」

「なるほど、すると軍閥派の偶像だった私は、目下最大の排除対象か」

「軍閥派は応龍(おうりゅう)事件で潰えた。まだ猛犬が二頭残っている以上、負け犬を苛(いじ)めている暇はない。ま、捕まえて食えば、多少力が付くかもしれんと思うことはありますが」

「連隊長を兼務する私が邪魔なのだろう、君は」

「とんでもない。雑用をお任せできるようになってありがたく思っております」

「大人になれ、江藤少佐。貴官が私の目に適(かな)う人物になれば、第二七独立連隊に新たに機甲化歩兵部隊や今より大規模な情報部隊を編入させることもできる。力を得たいと思うなら、まずは力に従うことだ。私に従え」

「やなこった。力など、ゴールへ続く道のひとつに過ぎない」

「もう一度聞こう。ゴールとはなんだ」

 江藤は洗顔フォームを湯で流し、頬を両手で張ってから語り始めた。

「昔々、あるところに、俺というひとりの高校生が住んでおりました。俺は座学、実技ともになんでも卒なくこなせたので、進路は選(よ)り取りみどりのミドリムシでしたが、そのぶん選択肢の多さに頭をかかえるという不幸に見舞われておりました。偉くなって、この胸糞の悪い世界を少しでも自分の好みに作り変えるには、どの道に進むのがいちばん利口だろうか、とね。それはもう、ご飯がたった三合しか喉を通らないくらいに悩んだのです。――そんなある日のことでした。俺は、図書館でとあるコピー誌を手にしました。隣の本を取ろうとして、落ちてきたのを拾い上げたのがきっかけでした。それはまた表紙も変色してみすぼらしいくせに、『有事を想ふ』とかそういう分不相応にご大層なタイトルが付いていて、俺はついつい噴きだしました。どこの自意識過剰な連中が書いたんだ、とね。そのまま俺はそのコピー誌をパラパラめくってみました。すると、全員が筆名、匿名で書いているその論文集が、どうやら防大生か若手自衛官の書いたもののようだと気づいたわけです。命令系統に加わる以上、必然的に体制に阿(おもね)るしかないその道を自ら選んでおきながら、何を喚いているのだ。――そう笑い飛ばすくらいのつもりで、俺は机に座って読んでみました。大部分は、やはり難しい言葉をふりまわすだけで根っこの幼稚な論文ばかりだったので、俺は図書館で笑い声をこらえるのに随分苦労しました。けれどもそのなか一編だけ、妙に俺の気を引く文章があったのです。そいつだけが建設的に、自衛官がどう主体的に外交に関与していけるかとか、軍国主義とは決定的な一線を引く理念だとか、その実践にあたって生じるであろう諸問題への対応策などなどを、明確な論理展開でもって書いていました。大した奴だと俺は思いました。今の亜細亜連邦軍には、これを書いた奴がいる。俺が候補から真っ先に外した道で、俺の設定したのと同じゴールへ辿り着こうとしているバカがいる。こいつは八月の悪夢を経験した今でも同じ考えでいるのか。亜細亜連邦が生まれ日本の外交なるものの定義自体が大きく変容してしまった今でも、まだゴールを目指しているのか……。そんな疑問、興味から、俺はしだいに士官学校への進学を、軍人として生きる道を真剣に検討するようになりました。それから十五年、俺は、亜細亜連邦の体制を維持するための虎の子部隊、黒龍隊の隊長となりました。未だにそのバカは見つかりませんが、わかったことがありました。多分あいつも、まだあの論文を書いたときの青臭い情熱を引きずっている。傍目(はため)にはひどく遠回りと思える方法で、しかし本人は正解と信じている方法で、まだ、走っているに違いない。――おしまい、おしまい」

 長い沈黙があった。

 天井から水滴が滴(したた)って音を立てた。

「危険だな。若い者はその熱意ゆえに暴走しがちだ。そして、暴走は常に不幸を呼ぶ」

 櫛田はそれから「少しのぼせたようだ」と呟いてゆっくりと立ち上がる。

「大将。三十四、五という年齢は、若いうちに入りますか」

「さて、自覚次第と言ったところか」

 櫛田は湯から上がり、江藤の背後を通過する。

「君のゴール設定については理解できたつもりだよ。しかし、私が思うに、君はまだその人と同じだけの経験をしてはいないのではないか。今のその人の考え、志は、君が推し量るところとはまた違っているかもしれない」

 その先に続く言葉は、あるいはあったのかもしれないが、脱衣所への扉まで行き着いた櫛田はそのまま摺硝子の向こうに消えてしまう。

 逃げ戻ったのだと、江藤は思うことにした。

 一九九九年、櫛田伴雪は当時三十五歳にして横須賀基地占拠を煽動し、米軍排除、大亜細亜同盟加盟という日本の歴史のルート変更を力技で成し遂げた。伝説ではなく、これは事実である。





- 15 -


 南田は二階の部屋で目を覚ました。

 カーテンの隙間からうっすらと明かりが差し込んでいる。もう日の出は過ぎているようだが、田舎のことゆえ、車通りの喧騒などで時間を判断することができない。立ち上がってカーテンを開けるよりは手っ取り早いと思い、南田は、寝る前に枕元に置いた懐中時計に手を伸ばした。竜頭を押して蓋を開き、文字盤を見る。針が動いていない。耳元に寄せてみると、やはり、コチコチと時を刻む音は響いてこない。

「これだから機械式は」

 南田はとりあえずネジを巻つつ、別の時計を探した。いつもつけているデジタルの腕時計が机の上にあった。午前六時四十四分。

 起床喇叭(ラッパ)がなくともきちんと朝早くに覚醒するのは習い性になっていたが、今日の場合は、隣でいびきをかいているヨシダの影響も大きいに違いなかった。物音を立てても起きそうにはないので、南田は気兼ねなく箪笥(たんす)を開け閉めして、お目当てのものを発見した。高校の頃から使っているトレーニングウェア。袖を通すだけで気分が引きしまってくる。これは南田にとって空手着に準ずる服装なのである。

 他の部屋では、まだ母や椰枝が寝ている。包丁がまな板を叩く音がしないということはそういうことである。廊下と階段を抜き足差しで抜けた南田は、玄関もそっと開けて、空き地へと向かう。そこは以前から南田の朝の稽古(けいこ)場だった。

 初めにハイエースの中を窺ってみたが、無人だった。毛布は綺麗に畳まれており、通信機に着信を告げる点灯もない。イルベチェフも朝の散歩に出たのだろうと南田は合点した。

 型の練習を始めると、毎日のようにここで独り演舞を繰り返した十年間の出来事が、そして士官学校を巣立ち猿之門へ向かった日の朝のことが、とりとめもなく、時系列もばらばらに去来した。うまくできなかった小学生時代。犬を散歩させている人々の視線が気になって集中できなかった中学生時代。練習をサボったのが叔母に露見してお仕置きをされたのは、何歳のときだったか……。

 特に意識せずとも、体が自然に型を続ける。しかし脳は確実にその運動のために処理容量を割いているはずだった。それゆえに雑念を排して思考できるのだろうと南田は勝手に考えている。

 南田は椰枝のことを考えた。惚れたと思ったのは、どうも、間違いだった。恥ずかしさで顔から火が出る思いだが、幸いなことに、椰枝に謝罪の必要はないはずだった。南田から椰枝に何か言ったわけでも、その逆の事実もないのだ。フィリップ・リーのお節介を別にすれば、ふたりは友人としての距離を保っている。フィリップから懐中時計ともども受け取ってしまった重責は、友人としてでも、果たせないものではない。

 数分に及ぶ型を終えると、気分はすっかり落ち着いていた。ダメ押しにひとつ大きく深呼吸。

 息を吐き終えたところで、南田に拍手を送る者があった。

「イルベチェフ大尉」

 散歩から戻ったイルベチェフは、口の前で指を一本立てた。静かにしろ、ではなく、階級をつけるな、という意味だと南田は理解した。

「どこを歩いてきました?」

「まあ、ぐるりと四キロほどな。考え事にはちょうどよかった」

 イルベチェフは爽快そうに歩み寄ってきたが、南田の肩を抱いて頭を寄せたときには、ハンターの如(ごと)き鋭い目つきになっていた。

「夕べ、あれから考えたんだが……。竜時、女には気をつけろ」

 南田はぎくりとした。イルベチェフの観察眼と洞察力を恐ろしいと感じた。

「わかっています」

 皆までは言わせぬつもりで決意のほどを顔と声に示すと、イルベチェフは「それならいい」と南田の肩を二度叩き、次に横顔を窺ったときには、ただの気さくな筋肉男に戻っていた。


*   *   *   *   *


 別れを惜しむ綺美子から余計な土産をいろいろ持たされつつも、一行は朝九時には出発した。

 南田は出発から三日目にしてようやく運転の責から逃れることができた。イルベチェフが、交通事情はだいたい掴んだからと、自ら今日の運転係を申し出たからである。念のための補助、という名目で、南田は助手席に着いた。昨日までそこに座っていた椰枝は、運転席の後ろ、南田からは右後方に席を写している。暗号通信機のそばにはヨシダがはりついた。

 南田はイルベチェフの視線の配り方に違和感を覚えていた。イルベチェフは顔を殆ど動かさないが、眼球だけ動かして絶えず各ミラーを確認しているのだ。神経質そうな挙動にも見えたが、準三次元運動を行う機兵が操縦できて、二次元運動しか行わない自動車がうまく操れないなどということはないはずだった。最高時速も機兵の方が速い。

 高速に乗ってから小一時間。南田は、イルベチェフが尾行ないしは襲撃者を警戒しているのだと気づいた。昨夜の空き地でのことが思い出される。あれを機にイルベチェフは警戒を強めたのか。いや、違うかもしれないと南田は考え直した。昨夜を機に変わったのは、イルベチェフではなく、自分のほうだった。昨日までの車中でも、イルベチェフは――もしかしたらヨシダも――周囲への気配りを怠っていなかったのに、南田がそれに気づいていなかっただけかもしれないのだ。椰枝がどうしてついてきたのかという疑問で頭が一杯で。

 ダーダネルス作戦を経て、自分の視野が広がったことは間違いない。南田は今でもそう思う。これまでの感覚では納得できない様々な事象――目前でのあっけない人の死、時空跳躍、集団精神異常――を胸に納めるためには、視野を広げ、理解の幅を拡大せざるをえなかった。しかし、それではまだ不十分だったのだ。

 南田は、空手の師匠に実戦への応用について教えられたときのことを思い出す。型の練習では自分相手、試合では一対一だが、実際に身を守るための徒手格闘術としては、対多数、包囲された状況での心体の用い方を学ばねばならない。ヒトの視野は水平二〇〇度、垂直一二五度と言われるが、その視野全体を等しく注視することはできない。それ以前に、敵がすべて視野角に収まってくれると期待することもできない。故に南田は、視野中の注目すべきオブジェクトを瞬時に抽出して、それのみに、限られた脳の処理能力を割り当てるという技術を習得した。そして、音や臭い、気配――科学的に言えば、体毛の感じる空気の流れや電位変動、識閾(しきいき)下に拾った物音などであろう――から死角の敵の動きをも感知し、間合いに入られる前に一度その方向を目に入れておく、というステージにも進んだ。そうすることで、周囲のすべての敵の位置情報を脳裏に焼き付けるのだと師は言った。しかし、その師のもとを離れる高校卒業までに、南田は与えられた課題を達成できなかった。

 結局のところ、精神領域における修練が足りないのだった。たしかに物の見方は豊かになったが、ある方向に注目すると、別方向への注意が散漫になってしまう。実体はひとつである問題を、ふたつの別の問題と誤認してしまう。

 自己分析の結果と、その壁を乗り越えた結果見えてきた真実について、南田はイルベチェフに伝えるべきか考えた。認識の齟齬は連携を乱す。この経験不足のチームにとってそれは危険だと思えた。この先、九州で待つイベントを考えると、チームの完成度は高めておきたい。

 しかし、今ここでは駄目だった。それは何も会得していないことを暴露するようなものだと南田は考えた。イルベチェフは真相を掴んだうえでこうして九州への運転を担っているのだから、急ぐことはない。サービスエリアでの休憩中にでも伝えればよい、と南田は結論づけた。

 かつて富士工場に行く途中で銃撃された経験を活かして、南田は周囲の警戒に努めた。やがて車中の静謐(せいひつ)に堪えられなくなり、南田はラジオをつけたが、もちろん番組の内容は殆ど頭に入ってこなかった。

 博多到着後、せっかくなので四人でとんこつラーメンを食べ、それから二時間後の待ち合わせをして椰枝とデパートで別れると、軍人だけでRAT(ラット)の支社に顔を出した。警備会社としての、表の事務所に。すでに門宮から話が通っており、どうぞどうぞと中へ通される。

 ヨシダは呟いた。

「いつぞやとはえらい違いだ」

 大通りに居を構えているだけあって、支社の様子は一般企業と何ら変わることがない。受付も綺麗どころの若い女性を配してあり、会議室のひとつに通されるまで、胡散(うさん)臭そうな人間は一人も見当たらなかった。

 まあこんなものか、と南田は納得していた。久留も見た目は普通の、寧ろひ弱そうな若者だった。いかにも屈強な男などは、犯罪抑止効果はあるだろうが、目立ちすぎて潜入や尾行には向かない。つまり通常の警備にしか使えない、不便な人員である。表と裏を柔軟に使い分けねばならないRATとしては、そんな不便な社員はできるだけ雇いたくないのだろう。とすると、この地方雑誌で表紙を飾れそうな受付のレディたちも、実は様々な暗殺術に長けているのかもしれない。そう考えて、南田はぞっとした。イルベチェフは正しい。女には注意しなければならない。

 数分待たせて現れたRATの管理職からは、こそ泥の逃走経路としてRATが検討し、すでにその可能性を潰した範囲について情報提供があった。

「顔も分からない人間を、どうやって追跡したり、来ていないと判断したりできるんですか?」

 南田が疑問をそのまま口にすると、企業秘密です、と管理職の男は答えた。地下鉄の監視カメラの情報を常から盗み見しているんだろう、とヨシダが言うのを、この男は否定も肯定もしなかった。そういう世界なのだろうと南田は了解する。

「では、このメイノハマから西は、まだ人を遣っていないのですね」

 イルベチェフは机に広げられたコピー地図――これまでの説明でいろいろ書き込まれている――の一点、とある駅をボールペンで指し示して訊ねた。

「ええ、そこから先は、まだ。佐賀では警察に検問をお願いしたので、県境は越えていないはずです」

「そりゃあ、さぞかし大量に飲酒運転を検挙できただろうな」

 ヨシダがそう茶化す横で、イルベチェフはRATの管理職に提案を行う。――予定通りに。

「では我々は、西海道(さいかいどう)大学を当たってみようと思います。奪われた荷の性質を考えると、変則領域研究センターが設置されているこの大学は、収穫を期待できる場所のはず」

「それは、そうでしょうね」

 管理職は言葉を濁した。この男は荷の中身について詳しくは知らないのかもしれないと南田は思った。一方、門宮が知っているのは明らかなので、こちらが情報をちらつかせるぶんには損がない。

 西海道大学の調査は任せろと豪語してRATの支社を出ると、これからの移動を計算に入れても、まだ椰枝との合流時刻までは余裕があった。

「お、カラオケではないか。寄って行こう。是非とも寄って行こう」

 ヨシダがまた江藤のような駄々を捏(こ)ねだして、やむなくといった流れで南田とイルベチェフはこれを容れる。一時間で取った部屋に入ると、ヨシダは早速、父の十八番(オハコ)だったとかいう浪曲を熱唱し始めた。

 苦笑しながら、南田は腰を落ち着けると、ジャケットの内ポケットから懐中時計を取り出した。無言でそれをイルベチェフに渡す。イルベチェフはハンターケースの蓋を開け閉めしたり、矯(た)めつ眇(すが)めつ検分する。フィリップからこれを見せられたときの南田とは違い、線の如く細められたイルベチェフの目は真剣そのものだった。

「リアルタイムで信号を出している様子はないな」

 しまいには懐から何かのセンサーまで取り出して調べたイルベチェフは、懐中時計を南田に返却した。

「では、安全だと?」

「分解してみなければ確かなことはわからないが……。分解して初めて機能する罠もある。念を入れるなら、専門家に任せるべきだ」

「そりゃあよかった」もう二曲歌い終えたヨシダが笑う。「匠の奴が、怪しい男に騙されてたわけじゃないってことだろう」

「ですから、まだ確定ではありませんよ、ヨシダ少佐」

「しかし、もう盗聴の心配はないのだろう」

「少なくとも、ここにいる限りは」

 イルベチェフが但(ただ)し書きをつけても、ヨシダの笑顔が曇ることはなかった。

「じゅうぶんだ。持ち歌が尽きてしまった」

「洋楽もありますよ」

 と、南田。

「ふむ。では探すとするか」

 本気で選曲にかかるヨシダは放って置いて、南田はイルベチェフに向き直る。

「あの様子だと、RATは西大を重視してはいないようですね。あの支社自体が、一応の応対をすることしか考えていないようでしたし。やっぱりただ俺たちを京都から引き離すための作戦だったのでは?」

「しかし、尾行はいる。ただ追い払うだけなら尾行は必要ない……。すると、俺の勘違いは思ったより重大だったらしい」

「勘違いというのは?」

「京都の倉庫で、俺たちをダシに逃げ出した女のことだ」

「女?」

 南田は思わず鸚鵡(おうむ)返しになる。

「憶えていないのか。一旦追って、それから戻って来た男は、『あのアマ』と言ったぞ」

「よくそんな日本語聞きとりましたね。大尉がそんなに育ちがいいとは知りませんでした」

「褒めるなよ、南田竜時。俺の日本人の血が恥ずかしがるだろう」

「皮肉なんですが」

「むう。――ともかくだ、あの女が本当に荷を盗み出したのかもしれん、と俺は考え直し始めている」

 南田は、すぐにはその意味を掴めなかった。腕組みして考えて、イルベチェフがあれを手の込んだ自作自演だと位置づけていたのだと推察する。

 前にもそんなことがあったような気がした。記憶を検索した南田は、すぐに当たりを引いた。藤居や峰國(フェングォ)と富士工場まで防人(サキモリ)型を受領に赴いたときのことだ。山林に潜む狙撃手に襲われた南田たちを、通りがかった門宮らの装甲車が助けてくれたが、あれもまた、自作自演だったとすればすっきり説明が通る。狙撃手の死体は出ていないし、あのときはまだ知りようもなかったが、門宮が意図的に黒龍隊との接触を図ろうとしていたのは今や明瞭である。

 しかし、南田を納得させるその仮説を、イルベチェフはもう捨て去っている。

「もしかするとあの門宮という男は、組織に対してあまり忠実ではないのかもしれない。そして、わざと俺たちをこっちに来させた。そうとも考えられないか?」

「逃げた女とグルだと?」

「そこは判断しかねるな。たまたま、口実として利用しただけかもしれない。いずれにしても随分な偶然だが」

「門宮さんの部下……ではないようでしたが、以前一緒に任務に就いていた女の子がいました。本当にまだ高校生くらいだった……」

「確かに、若そうな感じだったな。小柄で」

 頷くイルベチェフに、違和感を覚える南田。すぐにその正体は判明した。

「って、カネジュ・イルベチェフ大尉! あなたは逃げる女を自分で見ていたんですか!?」

「厳密には、逃げる前からもう見つけていた。俺が隠れた位置からは、向こうの潜んでいる姿が丸見えだったからな。あの女も俺の視線に気づいて、さっさと逃げ出したんだろう。でなければ、やりすごしたほうが安全だったろうさ」

「そんな話、初耳ですよ」

 どうしてこう江藤と仲良くなる人間は皆ひねくれているのだ、と南田はうんざりとしてきた。例外は北嶋くらいのものだろう。ひねくれているから仲良くなれるのか。それがイルベチェフの言うところの壁を取り払う、あるいはあっても困らないものにするための、必須条件なのかもしれない。しかし南田は人の道を踏み外してまで江藤の真意などわかりたくはなかった。

 事前に打ち合わせをしたうえで、RATに西海道大学行きを宣言したのは、移動中に江藤から新たな指令が下ったのがきっかけだった。

「西海道大学出身の変則領域研究者、保科晃を探せ。支援人員はまた現地で合流させる」

 それが江藤からのメッセージの全文だった。南田には保科という男の名は初耳だったが、イルベチェフが詳しく知っていた。雷麒麟のバルムンクシステム制御系に不思議な細工を仕込んだ技術者であるらしい。それが雷麒麟の特殊な性能の鍵となっていることくらいは、聞かずともわかった。椰枝がサービスエリアでお手洗いに行っている間の手短な作戦会議だったので、実際、聞く時間はなかった。

 限られた時間内でイルベチェフが説明したところでは、保科晃は大陸の数箇所の拠点を転々としながら麒麟計画に携わったあとの足取りが不明で、江藤から今頃そんな指令が来るということは、保科が日本に戻っているという情報が入った可能性が高いということだった。そして、保科を捕まえることができれば、江藤が進めている龍(ロン)複座型の改造――雷麒麟の代替機としての改造は、最大の障壁を取り払われることになると。イルベチェフはヨシダの手前それ以上を語らなかったが、南田は、それがすなわち時空跳躍などの特異な現象の解明に繋がると理解した。

 椰枝のことで意気消沈していた南田は、俄然やる気を出した。現象の再現さえできれば、科学技術の進歩はもちろんとして、これまで秘匿してきたダーダネルス作戦の真実を堂々と知らせることができる。母や弟たちにも語って聞かせることができる。自分の体験したすべてのことを……。

 保科の探索はヨシダの目的とは関係がないので、南田はヨシダが戦線離脱するかもしれないと憂慮したが、ヨシダは至ってやる気満々であった。変則領域内でどう機械を動かそうかと日夜考えている人間にとっては、保科の所属した研究室は世界的に有名であるらしい。南田はそんな研究室など全く知らないし、ましてやそのなかの一人の名など、聞いたところで日本史の登場人物と苗字が同じだくらいにしか思わなかったのだが。

「問題は、門宮とやらが何も言ってこないことだ」

 ヨシダが話を戻す。

「もし大学に荷の一部がすでに運び込まれているなら、俺は喜んで貰って帰るぞ。味方をするつもりならどうしてさっさと連絡をよこさない」

「組織に隠れて連絡となると、そう簡単には行かないでしょう。こちらは移動しています」

「だからこそ、やりようがあるだろう。イルベチェフ大尉、例の探偵に仲介を頼んでみてはどうだ」

「おやおや、ばれていたんですね」

 イルベチェフはそう言って、やや毛が伸びて青くなったスキンヘッドを撫でる。

「探偵に見張らせているんでなけりゃ、京都を離れてこんなところまで来るか。――まあ、ラーメンは旨かったから無駄足にはならないが、しかし俺としては意地でも荷を持ち帰りたいんでな」

「少佐の受けた命令のほうが、手違いなのでしょう? 手柄になるんですか?」

 南田が怪訝な顔をすると、ヨシダはマイク片手に滔々と語り出す。

「状況は、現物の在処次第でどうとでも変わるんだ、竜時。権利があろうがなかろうが、物を実際に持っているのは極めて重要なことだ。RATが化物ロボットの残骸をきっちり手元に押さえていなければ、命令変更という事実は掻き消えただろう。あれは手違いなんかじゃない。過去に遡ってデータを改竄(かいざん)したのだ。もちろん、利害関係のある人間が様々な取引をした結果でもある。そのなかには俺の上官だって入っているのだろうが、俺は、何の利益も得ていない。だから取り返す。いいか、俺たちは今、争奪戦の真っ只中にいる。正当性は、あとから作ればいい。亜細亜連邦自体、そんなものだろう」

「勝てば官軍、の理屈か」

 南田は呟き、ならば勝たねばなるまいと意気込む。されど、そのために断行すべき難事を思うと胸が痛かった。

「門宮さんに連絡をつけるのはいいとして、江藤少佐に言われた保科晃の調査は今日からでも進めますよね」

「それがいいだろう。門宮に問い質(ただ)すよりも早く結果が分かるかもしれない。ただ、敵か味方かはっきりするまでは、警戒は維持しなければならないぞ」

「わかっています」

 南田は自分の声が興奮気味になるのを抑えられなかった。

 イルベチェフも自分を一人前扱いしない、それが悔しいわけではない。自分の失点がわかるだけに、それをまだ取り返していない自分と、完遂する勇気が揺らぎがちな自分とが煩わしいのだ。

「イルベチェフ大尉、ヨシダ少佐。いざとなったら、俺がカタをつけます。任せてくれませんか」

 カラオケボックスを出る間際、南田は提案した。全力で熱唱していい気分になっていたふたりは、顔を見合わせたあと、南田に向かって頷いた。



- 16 -


 都市高速に乗って福岡市を西に走ると、四時頃には目的地に到着した。

 西海道大学。二十年ほど前、八月の悪夢でぼろぼろになった旧キャンパスを放棄してこの地へ移って来た元国立大学である。現在では連邦直轄(ちょっかつ)大学に移行している。

 一般の住宅地からは離れており、学生向けのアパートや店舗が点在する他は、大部分を藪や田畑に囲まれている。もともと山林を切り拓いて造成したので、田畑は昔からのものだが、それが住宅や商業施設に取って代わられずに殆ど残っているのは、この西海道大学が変則領域研究のための特区に指定されたせいだと言われる。

 今でこそ信頼性を認められつつあるバルムンクシステムだが、特区指定当時は、まだ変則領域という用語が学術的に市民権を得る前でもあり、大抵の人間はこれを忌避した。いつ実験で爆発やその他の怪奇現象を起こされるかわかったものではない、という恐れが根強かったのだ。実際、爆発事故もあった。ただし、これには尤もらしいディテールを伴った事件説も複数あり、最近でもたまに週刊誌が掘り返してネタにしている。平穏な日々を過ごしたい市民は近づくべきではない場所、それが西海道大学の社会的な地位である。

 しかし、もちろん、通う学生たちはそんな危険を意識してはいない。どうして商業施設が進出してこないのか、不便で仕方ない、と不平不満を募らせている。

 ――といった事情は主に、南田が久留米で士官候補の教育を受けている間に、西海道大学出身の他の候補生から聞いたのである。爆発事故の件は南田も知っていたが、昨今の学生の事情など知る由もない。士官学校への進学を早々に決めた南田にとって、現実的な検討には至らなかった大学である。

 江藤から、現地の協力者とやらの合流について続報はなかった。暗号通信機はウンともスンとも言わない。京都での場合と同様に向こうから接触してくるに違いない、ということで、一行はさっさと大学構内に入ることにした。

「理系のキャンパスは、左ですよ」

 南田は助手席からイルベチェフに道案内をしている。道路地図はもう片付けていた。それに気づいた椰枝が、後ろから話しかけてくる。

「来たことあるんですか?」

「あー、昔ね。小さい頃。都市高からの道順は覚えてなかったけど、ここまで来ればもうわかる。――あ、大尉、ゲートの手前で左折して下さい。そこで見学登録しないといけなかったはずです」

「了解」

 イルベチェフが言われたとおりにハイエースを停め、南田が降りて手続きを済ませる。軍人の身分は隠し、一般の見学と詐称すれば入構は容易だった。同期生から聞いた話で予測できたように、ルールは昔と変わっていない。

「もしかして、大学で働いていた竜時さんの叔母様って」

 椰枝は南田が戻るとすぐに話を続けた。自分の発見に興奮している様子で。――南田はそれをわざとらしく感じた。感じるようになっていた。

「そ。叔母さんはここの工学部で事務の仕事をしていたんだ。家族で遊びに来て、親父が車を入れるときもこうしていた。これから探す保科って人を、叔母さんは知っていたかもしれないけど、悲しいかな叔母さんのほうが先に行方不明なんじゃ、聞きようもないよね。全く、ままならないよ」

 却って淀(よど)みなく話せるようになっている自分を南田は嫌悪する。おかげで、表情を無理に繕う必要はなかった。自嘲のために勝手に笑顔になる。

 椰枝は祥子の話を聞いていた。どこまで聞いたのだろうか、という疑問が浮かんできたが、南田はこれに重しを付けて沈めた。そんなことを気にする必要は、ないのだと。

 道沿いに十階建ての巨大な棟が連なっており、緩やかな坂になっているその道を登っていく。手前から理学部、工学部、農学部。坂の中程の、いったん平坦になっているあたりで来客用駐車場へ車を停め、四人は目的の研究室を探した。保科の所属した、通称、宇邨(うむら)研を。

 最初に、教授の宇邨という男を訪ねた。研究室という組織は、教職員以外は数年の周期でメンバーが入れ替わってしまう。院生室や実験室を覘いて保科のことを訊ねたところで、十年以上前に大学をあとにしたOBの消息など知る由もない。そういう判断で、真っ先に宇邨教授に会いに行ったのだが、アポなしなのが悪かった。宇邨は出張で不在にしていた。月曜まで出てこないだろう、とのこと。

「どういったご用件で?」

 無人の宇邨の部屋の前にたむろしていた南田たちを見つけ、宇邨の不在を教えてくれたのは、同研究室の准教授、梶間(かじま)だった。梶間はひとまず空いていたゼミ室に南田たちを案内し、その用向きを尋ねた。表面上はごく何気なく。しかし、用心深くこちらの様子を窺っていることを南田は梶間の挙措から感じ取った。

「ここの卒業生の保科晃さんについて、お聞きしたいのですが」

 ただの見学者を准教授の梶間がいちいち相手にするはずはなかった。ここへ招き入れられたことすなわち梶間がすでに心得ている証拠と見做し、南田は率直にその名を出した。

「保科とは、私がここで助教の職を得て以来のつきあいです。戦争が始まってからは、音沙汰がありませんが……。お聞きになりたいのは、彼の研究についてでしょうか? それなら、在学中の論文をご紹介しますが」

 返事を待たずに梶間は椅子を引いて立ち上がり、キャビネットからいくつかの封筒を引っ張り出す。どこか焦った様子であるのを南田は怪訝に思い、梶間の着席を黙って待つ。

「これなどは、今でも通用する内容ですよ」

 梶間は乱雑に広げた論文のひとつを取り上げ、南田のほうに寄越す。「酸化珪素系結晶における電圧印加と見かけの質量分布変化のin-situ解析」と太字のゴシック体でタイトルが書かれているが、南田にはピンと来ない。

 隣に座ったイルベチェフが、論文の余白部分を無言で指差した。一見、何の変哲もないが、表紙の裏、すなわち二ページ目の余白部分に、黒い模様が透けているのに気づいた。何か書き付けてあるのだ。南田はページをめくり、英語で書かれたその文章を読む。そこには難しい専門用語など一語もなく、南田にも理解できる平易な表現で、梶間の声なき声が記されていた。

<私は監視されている>

 その書き出しで、南田は梶間の妙な様子について納得できた。

<おそらく盗聴もされている。したがって、ここで私の置かれた状況について詳しく話すことはできない。そこで、これまでの経緯を簡単に記す。どうかこれを持って警察か軍に駆け込んで欲しい>

「なるほど、初めて拝見しますが、なかなか興味深いですね」

 適当なことを口で言いつつ、南田は読み終わったページをヨシダたちのほうへ回し、自分は次のページの余白へと読み進めた。その脇では、先に読み終えたらしいイルベチェフが別の論文を手に取って、例の手裏ペンで何事か走り書きを始めた。

<私はエデンの一派、九天軍に協力を強いられている。従わなければ、学生や家族の命が危ない。他に選択肢はなかった>

 九天軍という固有名詞の登場で、南田はうっかり声を上げそうになった。片手で口を押さえて、裏へと移る。

<九天軍は私にあるバルムンクシステムの設計図を見せ、それを実際に組み立てるために必要な部品をどこで調達できるかと質問した。嘘を教えることも考えたが、失敗すれば、やはり私や家族の命が危ないと考え直した>

<彼らは私の情報通りに部品を集め、少人数の監視を残して、どこかへ消えた。あれが何をする機械であるのか結局私には分からなかったが、ワタナベ理論についての深く正確な認識と、工学的なセンスを合わせ持つ人間が設計したことだけはわかった>

<九天軍といえばエデンのなかでも特に危険な連中だと聞いている。私は、あれが何に悪用されるかと思うと恐ろしくなる。どうか、これが一日も早く然るべき機関に届けられ、九天軍の犯行が未然に防がれることを望んでやまない>

<私がこれを誰に託すのか、現時点では私にも分からない。危ない橋を渡らせることに気が咎めないわけではないが、私には他に方法が思い至らない。大学間のネットワークはダウンしている。これもおそらく、彼らの仕業だろう。もしかしたら、協力者が学内にいるのかもしれない。誰を信用していいかわからない。迂闊に相談するのは自殺行為だ。私は恐ろしい>

<遅かった。とうとう起きてしまった。横浜で起きたテロは、間違いなく、彼らの犯行だろう。死者も出たとニュースでは言っていた。私のせいだ。これは私のせいなのだ。あのバルムンクシステムが、彼らにバロッグ内での犯行を可能にしたに違いない。まさか、私が、人殺しの手助けをしてしまうとは!>

<もはや猶予はない。宇邨教授が戻ればなんとかなると期待していた私の甘さが、人を殺したのだ。なんとかして、彼らのバルムンクシステムの弱点について、警察か軍に知らせなければ>

 論文の最後のページは、参考文献の列挙が終わったあとに紙面半分ほどの余白があった。梶間はそこに、なにやら設計図めいたものを書き込んでいた。記憶に頼って復元したのだろう、何度か書き直したあとが見受けられる。それがバルムンクシステム特有のルールで記述された設計図であると読解するのは、南田にもさほど難しいことではなかった。バルムンクシステムの塊たる機兵に乗っているのだから。

 南田がすべて読み終えた頃には、断続的に筆談を進めていたイルベチェフが、こちらの素性について大方説明を終えていた。梶間は口ではイルベチェフと研究の話をしながら、顔のほうには安堵(あんど)の涙を浮かべていた。

 ヨシダが梶間の手記に目を通すのを待つ間、南田はこの論文を持ち出すだけではなく、九天軍の監視を捕まえて梶間を自由にする方法はないかと知恵を絞った。しかし、人数もわからない相手をすべて捕まえる妙案はそうそう浮かぶものではない。結局何も思いつかないうちに、ヨシダが論文のページを揃え、懐にしまった。

 南田としては、いくつか質問しておきたい内容もあったので、ヨシダのその行動は早計に思われた。視線で訴えかけると、しかし、逆に睨み返された。そして無音のまま口が動いて、何かを伝えようとしている。読唇(どくしん)術など習ったことがないので南田は何度も繰り返されるその唇の動きを凝視することになったが、やがて理解した。

 ――戦闘準備。

 南田がはっとするのと同時に、イルベチェフがとうとう筆談の伝達速度に痺れを切らし、カムフラージュのために続けていた研究トークを前触れなく打ち切った。

「梶間先生、今すぐご家族と学生さんに連絡を取って、どこか、人の少ない場所へ集めてください」

「待ってください、そんなことをしたら」

「もう遅いのです。九天軍は、我々の来訪をあなたの手引きだと誤解した可能性が高い。奴らがどちらの制圧を優先するか、情報が乏しく判断できないが、どのみち我々が今守れるのはあなただけだ。さあ、早く電話を」

 真っ青になりながらも、梶間はゼミ室を飛び出して自室へ電話をかけにいく。ヨシダが直掩(ちょくえん)につく一方、イルベチェフは部屋の物色を始める。その意図は明白だった。駐車場まで戻れば釘バットを始めとする武器があるが、梶間の奪取を阻止せんと九天軍がすぐさま襲って来た場合に備え、消火器のひとつでも持っておかねばならない。

「あの、わたしは……」

 椰枝が震えを必死に抑え込んだ声を出す。南田はその先を言わせず、椰枝の手首を掴んで廊下に引っ張り出した。隣の部屋から、梶間がおろおろと電話をかける声が聞こえてくる。

 他に電話はないか。近くの教員の部屋に押し入って電話を借りる手もあるが、できれば誰にも見られない場所がいい。

 南田の脳裏に、公衆電話の置かれた一画の風景が蘇る。そうだ、昔、あそこで叔母が誰かに私用の電話をかけていた。

 南田は椰枝の手首を放すことなく走り出した。ペースに遠慮はない。椰枝が悲鳴をあげる。

「竜時さん、痛い、痛いです!」

「なら、ちゃんと走れ。演技はもういい」

 絶句する椰枝にはいちいち反応せず、そのまま廊下を進み、教員や院生の部屋の並びが途切れた休憩スペースに駆け込む。ガラス張りの喫煙室と、その向かいに、同じくガラス張りの公衆電話。基本レイアウトは変わっていない。力ずくで椰枝を連れて電話コーナーに入る。

「さあ、かけるんだ」

 ポケットの硬貨を叩き込み、受話器を取って椰枝に突き出す。

「――え、どうしてわたしが? 軍や警察になら、竜時さんがかけるほうが話が通りやすいでしょう」

 戸惑い、不思議がる椰枝を、南田は睨みつけた。そして怒鳴る。

「だから、その演技はもういい! 今は共通の利益のために動く時だろう。さっさとRAT(ラット)に連絡入れて、門宮でも誰でも話の通じる奴を呼び出してくれ!」

「だから、意味わかんないっ!」

 椰枝が声を張り上げ、そして南田の頬を張った。

 南田は一瞬、思考停止に陥った。女に頬を叩かれた経験が、南田には殆どない。少ないが強烈に記憶に刻まれている。中三で喫煙がばれたときの母の手加減なしの一撃。そして、もっと幼い頃、旅行中に叔母を困らせようとして隠れてみたあと、きまり悪く出て行ったときに貰った容赦のないビンタ。加害側のくせに、そのとき綺美子も祥子も泣いていた。そして今、椰枝の目尻にも、涙が浮かんでいる。

「わたしを映画に出てくるみたいなスパイだとでも思っているの?」

「他に考えようがあるのかよ」

 南田は、判断は間違っていないはずだと己に言い聞かせながら答えた。

「飯屋で会って、一度駅まで送って行っただけの男に、ホイホイ若い女の子がついて来るなんて都合のいいことがあるってのかよ! 俺を籠絡(ろうらく)すれば黒龍隊の内情がわかるって、そういう企みだろうが!」

 南田が顔を突き出して怒鳴ると、椰枝も負けじと顔を突き出した。

「思い上がらないで! わたしはヨシダ少佐が鹿室さんの友達だから、お手伝いしたかっただけよ。あなたなんて関係なかった。――なかったよ!」

 溜まっていた涙が筋になって頬を流れ落ちた。椰枝が拳を持ち上げて南田の胸を叩く。力なく。そこにはちょうど、フィリップから譲り受けた懐中時計が入っていた。

「南小柿さん……」

「名前のほうが好きだって、言ったじゃない」

 目を伏せたかと思うと、椰枝はそのまま電話ボックスを飛び出した。

 条件反射で南田はこれを追った。しかし、頭の中は全く明快ではなかった。自分が間違っていたのか、それともまた騙されようとしているのか、混乱して判断がつかない。

 でたらめに駆けて行く椰枝は、平均的な女子の脚力を超えてはいない。対して南田は自信のあるほうで、目指す背中はどんどん大きくなる。が、突如横から伸びてきた腕に南田のほうが捕まえられた。足だけが勢い余って前進を続け、背中から廊下に倒れる羽目になる。

「こんなところでかけっこをしている場合か」

 イルベチェフだった。

「大尉、逃げられました」

「九天軍が来たのか?」

「いえ、南小柿椰枝にです」

「ああ、それなら見たが……。ん、まさか、竜時、君は」

 イルベチェフの様子から、南田は自分がとんでもない勘違いをしたと悟った。目を覆い、耳を塞ぎ、すべての感覚を封印して己の失態との正対を避けたかった。しかし現実はそんな暇を与えてはくれない。

「おい、グズグズするな、車に戻るぞ」

 ヨシダが梶間とともにやって来る。――ふたりだけではなかった。背後から迫る影。

「ヨシダ少佐、うしろ!」

 危機に気づいたヨシダは、梶間の頭を抱えて一緒に廊下を転がった。その上を、イルベチェフの投じた手裏ペンがほぼ直線軌道で通過し、追いすがっていた怪しい男の首筋に突き刺さる。男は首に違和感を覚えたのも束(つか)の間、白目を剥いて昏倒する。

「まずはひとり」

 イルベチェフは男の首から手裏ペンを回収し、ポケットからガムでも入っていそうなケースを取り出してペン先を交換する。毒でも仕込んであるようだった。もう追ってくる影がないことを確かめ、遠目にこちらへ不審な視線を送っている学生たちの姿を認めると、イルベチェフは駐車場での合流を南田に指示。自らはヨシダとともに梶間を守って階段を降りる。

 もちろん、南田のやるべき事は別にある。

 遠くで椰枝らしき悲鳴が聞こえたのは、その直後のことだった。



- 17 -


 廊下に倒れている椰枝の姿を見つけたとき、ただでさえ熱くなっていた南田の血は一気に沸点に達した。

 椰枝を見下ろすようにして、南田に背を見せて佇(たたず)む男がいた。その手にスタンガンが握られているのを見て取った南田は、速力をさらに上乗せし、男の背中めがけて足刀跳び横蹴りを放つ。足音に気づいた男はわざわざ振り向いてしまったがゆえに、よりによって鳩尾(みぞおち)に渾身(こんしん)の一撃を受けた。そのまま、南田に踏み倒される恰好で廊下に伸される。

 男の手からスタンガンが転がった。南田はこれをすばやくを拾い上げ、まだ意識を残している男にとどめを刺そうとした。だが、男に向き直ろうとした南田の顔面に、別の何者かの足が弧を描いて迫る。わずかに勢いを減殺するのがせいぜいで、蹴り飛ばされた南田は壁に頭をぶつけた。立ち上がる間もなく、新手の男の接近を許す。見上げると、その手には拳銃が握られていた。この至近距離なら、相手が射撃に不慣れだとしても被弾を覚悟せねばならない。しかし南田は恐怖を感じなかった。撃たせなければいいのである。男は不用意に標的に近づきすぎだった。南田は男が狙いをつけるより早く手を動かし、銃身を掴んだ。男の動揺は明らかだった。南田は男の腕をぐいと引き寄せ、近づいてきた額に頭突きを見舞う。続いて起き上がりがてら膝を鼻面に叩き込み、崩れ落ちかけた男の後頭部に踵落としを決めて完全に沈黙させた。

 当然ながら、部外者の乱闘に気づいた学生たちが騒ぎはじめていた。南田は椰枝をゆすってみたが、完全に気を失っていた。やむなく彼女の体を抱え上げ、最寄りの階段を駆け下りる。

 来たときの扉とはずいぶん離れていたが、南田は自分の位置を把握していた。狙撃されそうな屋外を避けつつ、イルベチェフたちが先行した駐車場への最短ルートを取る。ここは右、次は直進、そして左。階を移動したので騒ぎはまだ伝わっていないが、いわゆるお姫様抱っこをして廊下を突っ走っていれば、いやでも人目を引いた。

「軍の者です! 道を空けてください!」

 信じてもらえたかはともかく、椰枝の頭や足とぶつからないように通行人がよけてくれる。あとは目前の扉を蹴り開ければ、駐車場までの一本道を走破するだけ……というところで、南田は「こっちだ」と呼びかける声を聞いた。女の声。椰枝より低い。

 いま脇を走り抜けたばかりのエレベータホールから、小柄な清掃員が手招きしている。といっても、招き猫の如く手を動かしているのではない。軍で隠密行動中に用いる「こっちへついて来い」という意味のジェスチャである。

 南田はそのジェスチャを信用の材料にし、踵(きびす)を返して清掃員のあとに続いた。清掃員はエレベータのさらに奥の、照明がついていない非常階段を下っていく。すでに一階にいるので、その先は地階である。

 階段はそう長いものではなかった。一階以上、二階未満といった程度。しかし途中に踊り場があり百八十度折れているので、もう廊下からは全く目に入らない位置にいる。

 階段の終わった先には扉があった。その他にはモップを立てるくらいのスペースしかない。清掃員は扉を開錠して中へ入る。南田が椰枝を抱えてそれに続くと、清掃員は扉を閉めて中から鍵を掛けた。一旦暗闇が訪れるが、電気のスイッチが入って、すぐにここが八畳ほどの倉庫だとわかるようになった。設備点検用だろう、棚にはヘルメットやら軍手やらが並んでいる。換気は動いているのだろうが、南田は少し黴(かび)臭いような気もした。

「車は先に脱出させた。外はもう九天軍が張っている。応援が来るまで、ここに隠れていろ」

 清掃員の姿をした女は、そう言いながら、南田と椰枝の怪我の程度を見定めている。南田もまた相手を観察した。どうも自分と同じかそれ以下の年齢のようである。しかし目つきには油断がなく、動きにも無駄がない。門宮が使っていた娘のような不安定さは感じられず、プロフェッショナルだと確信する。

「君は?」

「味方だ」

 女の答えは呆れるほど簡素である。二の句を継ぐ様子もないので南田は質問を重ねる。

「もしかして、江藤少佐から連絡を受けて……」

「違う」

「そうか。――で、どこの部隊が応援に来てくれるんだ」

「近くのだろう。いちいち聞いてはいない」

 そこで口をつぐんだ女だったが、自分の説明不足を自覚したのか、ややあって説明を加えた。

「私は別命でこの大学に潜入していた。九天軍が宇邨研に出入りしていることはわかっていたが、派手に動けば、本来の任務遂行の妨げになった。だから様子だけ見ていたのだが……。とんだ番狂わせだ」

「すまないな、君の任務を駄目にしてしまって」

「定められた優先順位に則って私は行動している。それは今も同じだ。謝罪の必要はない」

「そっか、ならいいんだけど」

 その任務とは何だったのか、興味があったが絶対に教えてもらえない予感がしたので南田は質問を自重した。

「その女は、民間人か」

「ああ。俺は軍人だけど」

「知っている。黒龍隊機兵パイロット、南田竜時曹長」

 正直なところ南田は驚いたが、それを隠して、にやりと笑ってみせる。

「訂正、もう少尉だ」

「了解。南田少尉」

「君はRAT(ラット)か。門宮さんと知り合い?」

「さあ、知らないな」

「じゃあ、どうして俺を知っているんだ。それほど有名になった覚えはないんだけど」

「黒龍隊の隊員は例外なく要注意観察対象だ」

「なるほど、RATであることは否定しないわけだ」

「少尉に真実を認識させる義務を私は負っていない」

 これは完全に負けている、と南田は諦めた。しかし、この女がRATに籍を持ち間接的にでも門宮と繋がっていることは間違いないという感触も得た。

「泣いていたな、その子は」

 唐突な話題に、南田は面食らって言葉を失った。

「少尉が泣かせたのか」

「――違う。と言いたいが、それこそ違うな。俺が間違ってた」

 椰枝を間諜や工作員の類と疑った。イルベチェフの注意喚起を誤った方向へ解釈してしまった。

「間違いは誰にでもある。私も最近ようやく気づかされたことがある」

「言うほど、君は歳を取っちゃいないだろう。俺は、少なくとも君よりは大人でなければならなかった。――いろいろ学んできた、成長したつもりだったのに。少尉になったって中身は何にも変わっていなかった」

「気づいたのなら、改めればいい。私はまさに、そうしているところだ」

「俺の場合、もう遅いかもしれない」

 南田は椰枝の顔を見つめながら、その髪を撫でたい衝動に駆られながら、溜め息を漏らす。

「自信がないのだな、少尉は。自惚れは欠点だが、しかし自分の実力も正しく評価できない者に指揮官は務まらない。今の少尉は確かに士官として失格だ。私の知るある新米少尉は、南田少尉と同じく機兵パイロットだったが、失敗を恐れない勇気を持っていた。実際に失敗もしていたから、あまり褒められたものではなかったが、やはり彼女は士官に向いていたと私は思う。彼女は自ら可能性を狭めることはしなかった」

「――俺も会ってみたいな」

「無理だ。戦死した」

 ぬるい感傷に浸っていた心臓が一気に凍りついた。もう遅いなどと言った自分は浅はかだったと南田は悔いた。

「そうか、残念だ」

「残念……、念が残る、か。私は彼女の念を受け継いで生きることに決めた。彼女がくれたいろいろなものを、ひとつだって捨てるつもりはない。彼女の残した悔いも、何もかも」

 背負った重みの違いを南田は思い知らされた。しかし、この女の浸っているのも所詮は感傷だと断じてもいた。死んだら何も残らない。残した悔いも自我とともに消え行くだけ。

 だが、死の寸前に己の胸中を満たすものが後悔であるような、そんな人生にしたくはない。そのためには、最後の最後までベストを尽くして、悔いをすべて消化しておかねばならない。その永く厳しい闘いにおいては、たしかに、自分を正確に評価することが肝要だろう。判断を狂わせる偏見、先入観、視野狭窄(きょうさく)、観察不足といった要素は悉(ことごと)く排除して。

 考えているうちに、頭がクリアになった。永く光を遮っていた霧がさっと晴れたようだった。今は、あるがままに物が見える。自分の心も。

 南田は改めて結論を下す。

「俺はやっぱり、この人が好きだ」

 叔母に雰囲気が似ているとか、出会いの少ない環境で恋愛そのものに恋焦がれているとか、そういう理由で以て自分の気持ちを否定するのは間違ったやり方だった。南田は叔母が好きだったが、もう彼女の細かな癖や声音、口調などは思い出せない。黒龍隊に合流した六人の女子隊員にも、人並みの下心でアプローチを試みたことはあっても、椰枝と出会ったときのような衝撃は受けなかった。軍人として冷静であろうとするばかりに、かえって人間として冷静な判断を下せなくなっていた。

 今更何を取り繕っても、椰枝には許してもらえないかもしれない。しかしそれは努力を重ねる理由にはなっても、努力を放棄する理由にはならないはずだ。この胸の奥から湧き起こる感情がある限り。

「外の様子を見てくる」

 これ以上は聞いていられないとばかりに、女は清掃員の制帽を整えて倉庫を出て行く。

 南田は話す相手もなく――気絶したままの椰枝に何か語りかけるのも洗脳のような気がして憚られた――、ジャケットから懐中時計を取り出した。蓋を開けると、一時間ほど前を指し示して針が止まっている。椰枝に軽く叩かれたくらいでは、ハンターケースが壊れるはずもない。朝、螺子(ねじ)の巻きが足りなかったのだ。

「ちゃんと進めないとな」

 南田は螺子をぐりぐりと巻き、腕のデジタル時計で時刻合わせをした。懐中時計は息を吹き返す。静かな地下倉庫で、時を刻む機械音がはっきりと聞こえる。

「いま、何時ですか」

 声に驚いて振り向くと、椰枝が目を開けていた。まだ意識がはっきりとしていないようである。電話ボックスでのことは思い出していないかもしれない。卑怯な気もしたが、南田は今を措いて言い出すチャンスはないと決心した。

「椰枝さん、俺……」

「ああ、やっぱり夢じゃなかったんだ」

 椰枝の手がすっと伸びて、南田の口を指で押さえた。

「あんまり都合がいい夢だなって、そう不思議に思って気がついたところです」



- 18 -


「だから女には気をつけろと言っておいたのに」

 紆余曲折、ようやく合流を果たした南田に向けて、イルベチェフが最初に向けたのはそんな台詞だった。

「なんのことですか」

 南田はむっとして聞き返す。

「俺たちをここへ来させた、あのお嬢さんのことだ」

 警察と歩兵部隊の到着後、南田と椰枝を地下倉庫から連れ出した女は、文系地区のカフェで迎えを待つよう言い置いて姿を消した。事件と何ら関係のない顔をして工学部棟を離れ、道路を渡った向かいの学内カフェで椰枝とぎこちない歓談を楽しむこと半時ほど、迎えに現れたのは果たしてそのRAT(ラット)らしき女ではなかった。彼女は代わりをよこしたのだ。

 それはまた二十歳前後の女性だったが、纏っている空気は全く異なった。血や硝煙の臭いなどとは無縁そうな、いかにも学生然とした快活な娘。彼女はカフェに入ったときからきょろきょろと誰かを探しているようだったが、南田は友人か恋人との待ち合わせだろうと思って次の客に注意を振り向けていた。だから、その娘が遠慮がちに話しかけてきたとき、南田は敵が不意打ちを仕掛けてきたかと慌てて身構えた。

「おお、ホントに空手だ!」

 遠慮を一瞬で吹き飛ばして、胸の前で小さく高速の拍手。それに満足したかと思うと、今度は南田の構えを真似しようとパントマイムのような動きを始めた。その無邪気っぷりに戦闘意欲をゼロまで削られて、南田は構えを解いた。

「君は、誰に言われて?」

 君は誰、よりも大事な質問だった。このカフェで待てと言ったのはさっきの偽清掃員なので、その点から彼女の仲間だと考えるのは合理的だが、南田の容姿と空手を使うことをセットで知らされているとは考えづらかった。椰枝救出のための奮闘をどこかから見られていたなら、ありえなくはないものの、このカフェで南田と椰枝という二人組みを探すという目的のためには全く不要な情報である。

「これは失敬! ワタクシ、カナエと申します。文学部の三年です」

 たしか鼎(かなえ)春嶽(しゅんごく)という江戸時代のちょっとマイナーな画家がいたな、と思い出しながら、南田は差し出された手と握手を交わした。おおむね柔らかい手だった。肉体労働にも戦闘にも向かない。

 椰枝とも握手を交わすと、推定鼎はそのまま椰枝の隣に入れてもらい、そしてやや不安げに二人の顔を見比べた。

「あの、南田少尉さんと、美味しい定食屋のバイトの方ですよね」

 ようやく、南田は求めていた答えを得た。彼女こそ江藤が手配した福岡における協力者だった。まさかこんなに若いとは思わなかった。

 しかし、ほどなく、南田は自分が半分しか正しくなかったことを知った。

「じゃあ早速、セーフハウスに移動しましょう」

 小説かドラマで覚えたらしい言葉を持ち出して、鼎は立ち上がった。

「ナギサちゃんに急ぐよう言われてますからね」

 そして案内されたのが、大学の西、海水浴場へと至る道沿いの骨董(こっとう)屋。住宅がまばらなら、客はまばらどころかさっぱり訪れないその店の二階の和室で、イルベチェフたちは待っていた。梶間はイルベチェフと何事か相談していたところのようで、ヨシダはというと南田たちと入れ違いに隣の部屋へと出て行った。

 それから、「だから女には気をつけろと言っておいたのに」である。誰のことを言っているのか、本当に特定しかねた。そもそも忠告を受けたのは今朝のこと。あの時点で怪しむべき女に数えられたのは、椰枝と、京都の倉庫にいた別の侵入者。カラオケ後は、あるいはこの二人が同一人物ではないかと、そう疑っていたが……。

「ナギサっていうらしいですよ、この人によれば」

「どうもご紹介に与りまして、カナエです! 早速ですが口を挟ませて頂くとですね、ナギサちゃんは悪い子じゃないですよ!」

 イルベチェフが不審者を不審者呼ばわりしたのを、カナエは許さなかった。

「連邦のお仕事でいろいろオープンにできないことはありますけど、あたしには友達だからって本名教えてくれたんですから!」

 そこへヨシダが、三人分のコーヒーを淹れて来た。うんざりした顔で見慣れぬ娘を見ると、誰にともなく言った。

「江藤はもう少しまともな人脈を築いたほうがいいな」

「失敬な! でもコーヒーは頂きます!」

 一口啜り、やれ熱いだの苦いだのと悲鳴を上げる。

「これはあたしに対する挑戦状として受け止めますよ! ――えーと、お名前を伺っても?」

「アデタバ・ヨシダ。日系インド人だ。あんたはカナエだな、さっきから声がよく聞こえる」

 間近で顔を向かい合わせるヨシダは耳を塞いでいる。声量はヨシダとて似たようなものだが、周波数的に厳しいらしい。

「よろしくアバタデさん」

「アデタバだ。間違えるな」

「ごめんなさい。でもついでに言っておくと、コーヒーまずいです。死ぬかと思いました。っていうか味蕾(みらい)の細胞が二割くらい死んだかもしれません。若者からミライを奪うなんて信じられない! ひどいですアデレードさん!」

 南田はそのカナエの喚きっぷりに戦慄を覚えた。そして既視感を。それからカナエが苗字でなかったことに今更ながら気づかされた。初対面で下の名を名乗るはずがないという先入観があった。

「あの、念のためだけど」

 南田はこめかみを押さえながら訊ねた。

「もう一度自己紹介してもらっていいかな」

「もちろんです」

 もとから正座だったカナエは、一歩分退いて改まった。

「西海道大学文学部の、江藤カナエと申します。絵を奏でるという、とてもとても文学的な表現で奏絵です。ちなみに二十歳なので合法的に般若湯もイケます」

 江藤博照も人間なら血縁がいる。そんな当然のことを、南田はこれまで一度も想像したことがなかった。

「いつも兄がお世話になっております」

 奏絵は丁寧に頭を下げた。



- 19 -


 江藤博照の十四も年下の妹、奏絵は、小嶺(こみね)凪沙(なぎさ)と名乗る女の正体をしっかりと把握しているわけではなかった。知り合ったのは先月だというから、凪沙が倉庫で話していた任務の件と辻褄(つじつま)は合う。何らかの理由で凪沙は学内に協力者を欲したのだろうが、それが江藤博照の妹だと知った上での接触だったのか、そこは謎である。

 ともかく奏絵は、久方ぶりに電話を掛けてきた兄からの命令と友人からのお願いの内容がたまたま一致したので、これは手っ取り早いと喜び勇んでカフェにやって来て、南田と椰枝をこの骨董屋まで案内したという次第らしい。凪沙にはただ案内だけを頼まれていたので任務終了。店には南田の残りの連れ二人も揃っていたので、兄から受けた任務も第一段階終了。すこぶる順調であることに気が大きくなってのあのテンションであったようだ。憔悴(しょうすい)した梶間とエネルギーの平均を取ってもまだ高かった。が、今はもう落ち着いている。程度をわきまえないところはいかにも江藤博照の妹らしいが、兄と違って礼儀を知らぬ人間ではなかった。

 沈静化した奏絵の状態維持は椰枝に受け持ってもらって、軍人たちはこれからのことを協議した。

 おそらく凪沙はこのまま現れない。その見方は三人とも一致していた。九天軍の手下どもを捕まえるのは、駆けつけた軍と警察に任せてよい、という点も。

 意見が分かれたのは、梶間の扱いについてであった。南田は論文に書かれたメモのコピーだけ貰って、あとのことは現地部隊に任せようと提案したが、イルベチェフはこのまま猿之門に連れて行くべきだと主張した。

「それじゃあ梶間先生のご家族の安全を保証できません。九天軍の手下が全員捕まるとは限らないんですから」

「だからこそ、だ。脅迫してもしかたがないと相手に思わせればいい。つまり誘拐するわけだ、俺たちが。それなら先生の意思なんて関係ない。九天軍は足が付くリスクを負ってまで先生の家族に危害を加えようとするだろうか」

「せんだろう」とヨシダ。

「でも確実じゃない」南田は反駁する。

「確率の問題だ。どこかに絶対の正解があると思うな、少尉」

 それはわかるが、イルベチェフが別の意図を持っているのではと疑うがゆえの、反対意見だった。さすがにイルベチェフは素人の思惑通りに尻尾(しっぽ)など出さない。

「俺はむしろ、長期出張から戻らない教授が臭いと思うがな」

 議論よりコーヒーの味確認により注力していたヨシダが、話の流れを変えた。

「宇邨教授は国からの命令で出張しているのです」

 梶間のそれは弁明ではないように聞こえた。表向きは国から、しかし実態は察しろ、と言っているようだった。

「この設計図、もとは教授が書いたという可能性は?」

 ヨシダは例の論文を取り出して、梶間に問い質す。

「否定はできません。しかし、科学的には大抵のことが、否定はできないのです」

「まあ、そうだろうがな。特に八月の悪夢からこっちは」

「宇邨教授を探すためにも、梶間先生にお越し頂くという考え方もあるな」

 イルベチェフはなおも梶間誘拐案を推す。

「軍が保護に動いているのに、こっそり連れて帰るなんてできますか」

「極東方面軍の都合など知らない。君も自分の都合を考えろ。先生がいたほうが、いろいろと謎の解明がはかどるのではないか」

 南田はそれを否定できなかった。ダーダネルス作戦中のデータを専門家に解析してもらえれば、何か新しい事実が分かるかもしれない。しかしそのために梶間を誘拐するなどという我田引水な選択には抵抗があった。これも自分の偽らざるべき気持ちだと南田は感じている。

「なんにせよ、何日かはこのまま残りたいぞ、俺は。はるばる南の島まで来て無駄足というのでは腹に据えかねる。先生をどうするかの結論は、先延ばしでもいいだろう」

 ヨシダはあくまで、この地で鎧蜘蛛の死骸の行方を調査するつもりのようだった。

「では、門宮さんの真意を確かめるまで、という期限でどうですか。それまで自力で荷の行方がわかればそれでよし、門宮さんから支援が受けられるならさらに残って調査、支援がないなら引き上げる」

 南田の提案にイルベチェフは頷いた。

「いいだろう。梶間先生はそれまでここで軟禁させて頂く」

「ここの店主にはどう説明するんです」

「店の商品を見たところ、いくつか連邦法に違反していそうな品を見つけた。強請(ゆす)ればいい。駄目なら金を積む。これは北熊(セヴェルメドヴェーチ)が出すから心配することはない」

 椰枝の耳にも入っているであろうにイルベチェフの発言は過激極まりなかった。これが遠慮のない、本来のイルベチェフの言動なのだと南田は悟る。やはり類は友を呼ぶのだろう。

「わかりました。ひとまず、江藤少佐に報告入れて来ます」

「車は雑木林の奥だ」

「了解」

 南田はひとり店を出る。店主に裏口を使わせてもらうと、雑木林とやらは目の前だった。雑木という言葉をイルベチェフは使ったが、実際には純度九十パーセント以上の竹林である。店の敷地との境界と思しき垣根も、竹で作られている。

 竹林の合間を流れる涼やかな風を体に受けながら、南田はイルベチェフのあの価値観、人格、生き方について考えた。

 彼は目的のためには手段を選ばないところがある。今は黒龍隊の利益に合致するような行動を取っているが、それは黒龍隊を味方につけたいという北熊の下心ゆえに違いなく、いざ変事あらば敵となる可能性もある。そのときは、すでに懐を探られただけに恐ろしい相手となるだろう。

 北部方面軍及びそれを支持する経済界と黒龍隊の対立。それは例えば、北熊が亜細亜連邦を制覇せんと企み、中国や日本の主要拠点を制圧にかかった場合だろうかと、南田はこれまでしたこともない想像に耽(ふけ)ってみる。平時ならまず無理だろうが、この戦争のどさくさに紛れてなら、実行も可能であるように思われる。なにしろ啓示軍(オフェンバーレナ)は本拠地から遠く離れた暖炉の谷で“ベルリンの壁”を形成したのだ。同じ技術をもし北熊が手に入れたならば、これまで自分たちの郷土の権利確保に終始していたあの派閥とて、欲を出さないとも知れない。もとは南下政策を取り続けた国の末裔である。

 それが叛乱と謗(そし)られる行為であろうと、北熊のためならイルベチェフはその実行を厭(いと)わないだろう。彼は北部方面軍将校としての身分より、北熊の一員としての誇りにこそ強い執着を持っている。脱クレムリンの新たなロシア、地域主義ロシアを形作るために奔走するのが彼の生き甲斐であり、他の地域の人間がどう批難しようが意に介さないだろう。愛する郷里の人々が覇を唱えるなら、彼はその実現に全力を注ぐに違いない。もちろん、北熊の理念に適いさえすれば、他に手段の選択に制限など設けない。

 友好的なのか腹黒いのか、利己的なのか利他的なのかよくわからない男だという印象を持っていたが、よくよく知ると、カネジュ・イルベチェフの行動原理には実にぶれがない。利するべきは北熊という限定された他者であり、それ以外の他者はもちろん、己をも犠牲にする覚悟でいる。

 翻って、自分はどうなのかと南田は問う。彼のようにぶれない何かを芯に持っているだろうか。

 こんな国家間戦争が起こるとは思いもせずに、ただ金銭的な都合によって士官学校を選んだ。その延長で軍人をやっている。もちろん軍人である以上は市民を守りたいという志があるが、軍が分裂して内戦でも起きたらどう身を振るのか。仮に日本が啓示軍の技術を独占して亜連の支配に乗り出したら、故郷だからとその尖兵(せんぺい)となるのか。

 もっと現実的な状況でもいい。戦争後に軍縮でもあって、除隊希望が募られたならば、自分は果たしてどうするのか。人生の目的が明確であれば選択は容易であるはずだが、南田には、それは極めて困難であるように思われる。場当たり的に軍に残留するという選択を許せるほど、南田はまだ自分を腐らせてはいない。自分の核として据えるものを何か見つけたいという欲求がある。それこそ、人生を闘い続けるために必要不可欠のものだ。以前は小さく気づかなかったが、今、南田はその存在を明瞭に意識している。

 イルベチェフのように、壮大な、人生をまるごと費やすような大事業はそうそう見つけられないかもしれない。しかし、せめて五年や十年という幅で自分の方向性を決定づけるものならば、南田にも見つけられそうに思うのだ。

 具体的なビジョンは、これまで湧かなかった。それは真面目に悩んでいなかった証拠だと、南田は猛省する。悩んでいる、というポーズをとった自分に、酔っていたに過ぎなかった。

 いま改めて検討すると、南田はこれまでの自分が恥ずかしくなるくらい、いくつも目的を思い浮かべることができる。

 叔母を探すために探偵稼業を始めるのもいいかもしれない。京都で会った、江藤の知り合いの探偵に弟子入りをするのだ。叔母を見つけて連れ帰ったならば、母の喜びはいかほどだろうか。想像するだけで胸が躍る。駆け落ちをしていたのならば、子どもがいるかもしれない。南田にとっては従弟(いとこ)だ。それを発見するのが楽しみでなくてなんであろう。

 ふたりの弟、虎徹や颯馬の面倒を見るのもいい。これまではただちょっと歳の離れた兄として接してきたが、今にして思えば、南田は父代わりとしての役割をも負うべきだったのだ。そんな大層な器ではないかもしれないが、とりあえず父親役のスタートラインを目指すということでも、当面の目標としては十分だろう。精神的な目標だ。

 椰枝のこと。もちろんそれも今なら考えに入ってくる。しかしこれについてはあまり逸(はや)った妄想に耽るのは自重する。彼女に関しては、顧みるべき過去がない。何もかもこれからだ。

 他にもまだ思いつくものはあったが、しかし、南田が最も強く心惹かれる目標はただひとつ、瞭然としていた。

 今年、南田は二十三になる。江藤は士官学校で浪人、留年なしの十二期先輩なので、三十五。黒龍隊隊長という大任を与ったのは去年、三十四のときである。

 あと十年で、同じ地位に就いてみせる。江藤より一歳若く、黒龍隊隊長の座を手にいれる。それは江藤を超えることであり、歴史の舞台に名乗りを上げて躍り出ることである。時代小説を通じて慣れ親しんだ過去の歴史ではなく、これからの歴史を形作る役者になってみせるのだ。

 それは、峰國(フェングォ)との約束を果たすことでもあった。もちろん峰國のほうにも守らせる。南田が黒龍隊隊長になったら、右腕として働くと峰國は言った。せいぜい扱(こ)き使ってやらねばなるまい。

 竹林を抜けたところに、ハイエースは停めてあった。竹林の中というより端だった。歩きやすそうな小径が林を迂回してここまで到達しており、時間的には小径を使ったほうが早かっただろう。考えてみれば、あの車体が通れたのだから人が通りやすい道がちゃんとあって当然だった。

 いざ車に乗ろうとして、南田はドアが開かないことに気がついた。鍵を受け取り忘れていた。昨日まではずっと自分が持って――ずっと自分が運転して――いたせいだろう。

「無駄足か」

 南田は小径のほうを使って骨董屋に戻ろうとして、ふと、思った。

 ヨシダには悪いが、もし鎧蜘蛛の死骸が一片も手に入らなかったとしても、南田にとってこの旅は無駄足ではなかった。

 南田の胸に収まる懐中時計が、完成に至る過程においてこそフィリップの慰めとなりえたように、この旅も、その過程に意味があった。こんなことがなければ出会わなかったであろう人々の過去や素顔に触れ、そして自らの過去とも改めて向き合うことになった。なによりも自分の新たな、いや、初めての大目標を設定せしめたこの旅は、決して無駄ではない。

 南田は蓋裏に雲龍を秘めたハンターケースを取り出して、その鼓動を掌に感じ取る。しばらくそうしていたが、やがてそれをポケットに戻して、実用のデジタル式腕時計を設定を外して手に取った。普段いじらないボタンを何度も押して、デフォルト表示の設定をタイマーに切り替える。設定不可能かとも思ったが、この軍用品は南田の思い付きを拒まなかった。

 音もなく始まる、十年先までのカウントダウン。

 南田はそのままキー操作無効のロックを掛ける。これで、無用だったハンターケースにも現在時刻の確認用という役目ができた。

 毎朝一番に螺子(ねじ)を巻こう。そう決めると、南田は再び竹林を通って店へと引き返した。

――続く――