黒龍隊の挽歌 第二十八話

卜者は嗤う



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 バルムンクフィールドがもたらす、全身の毛穴が引き締まるような感覚。

 機兵の操縦席に収まる江藤は、久方ぶりの戦いに武者震いしていた。ただ懐かしいばかりでなく、これまでになく調子が良い気がする。溜まった鬱憤(うっぷん)がもたらす作用かもしれない。

 鬱憤晴らしということなら、正面切って対峙する標的は、全く不足がなかった。対啓示軍(オフェンバーレナ)戦の象徴として持て囃(はや)されている龍王(ロンワン)である。正確にはその陸(ろく)番機。さらに正確を期すなら、龍王とは名ばかりの偽装機体だった。少なくとも前に戦ったときは。化けの皮を剥(は)がすまでもなく、江藤は気配でそれを看破した。今も、正面に感じる波動は、龍王特有のものではなく、龍(ロン)と大差ない。すなわち依然として陸番機の本質は龍から脱していないということである。それゆえに――江藤はほくそ笑む――最新の複座型をベースに改造した新たな愛機、「将龍(ジャンロン)」が引けを取るはずが無い。

 太股(ふともも)の外側に接続されたエアインパルサーが、内蔵されたコアにより変則領域を御してジェット噴流を形成。足元からの浮揚感が生じる。

 始め、という審判の合図が下るやいなや――実のところ若干フライング気味に――江藤は操縦桿(かん)を握り締め、吼(ほ)える。

「いざ、尋常(じんじょう)に勝負!」

 フットペダルを踏み込むと、将龍のつま先が地を蹴り、計算された遅れ時間で背中のロケットエンジンが点火。前方への強大な推力を発生させ、見る見るうちに陸番機との距離が縮まる。

「うわ、迫ってこないでよ、オッサン!」

 龍王は外部スピーカ出力全開で暴言を吐くと、手にしていた円盤状の物体を江藤へ、将龍へ向かって投げつける。新型擲弾(てきだん)「封魔(フウマ)」。黒龍隊で以前テストを実施したもので、江藤は当然、その特性を承知していた。簡易BFGを内蔵しているためバロッグ内を飛翔できる。さらに赤外線、電波、相対バルムンク反応などの信号の中から予(あらかじ)めセットされたものをパッシヴに利用して目標を認識し、追尾、衝突寸前に自爆する。つまり一種のミサイルである。ただし飛翔速度は極めて遅い。自転車くらいなら追いかけられるが、自動車なら逃げられる程度である。当然、機兵で振り切れない速度ではないし、避(よ)けるまでもない。

「斬ッ!」

 江藤は将龍の得物(えもの)を一振りし、飛んできた封魔を叩き落す。飛翔能力が低いので、急速上昇は勿論(もちろん)のこと、重力に従う方向であっても軌道修正は緩慢である。せめて膝あたりにと足掻(あが)く様子を見せたが、結局、地面に墜落。

 その間に龍王は、将龍の予測進路上を外れ、やや横合いに占位。野球の打手よろしく、刀を振りかざして迎え撃ちに来る。江藤はフットペダル側方に増設したエアインパルサー専用のペダルへ脚を当て、機体の腰から発する推力を偏向、龍王へ正対して、打ち合う。

 硬い金属同士の衝突が大音響を轟かせた。そして互いに折れた刀の先が、各々の頭部を掠(かす)めて飛んでいく。落下予想地点ではわっと人垣が散る。

「ままよっ!」

 江藤は操縦桿の攻撃トリガーを再び引く。残った部分の刃で龍王の頭をかち割ろうとするが、それは龍王の手に止められた。作業性よりも武器としての攻撃性を選んだ、鋭利な四本指が、がっしりと刀を掴(つか)んでいる。

「甘いよ、オッサン」

 声に合わせるように、龍王の目が瞬く。音圧を光量に変換している。光学バルムンク走査やモールス発信用の発光機能を利用した、殆(ほとん)どお遊びの機能。江藤は笑われているように思えていきり立つ。

「ぐらんまよっ!」

 引いても取れない刀を思い切ってパージ。そのままセカンダリ登録の攻撃シークエンスで三度アタック。

「ジャン・ロン・パーンチ!」

 セカンダリ攻撃シークエンス、すなわち何の種も仕掛けもない拳が、龍王を襲う。まともに頬へ叩き込まれた龍王の上体が揺らぎ、江藤はそこへ続けて肘鉄、前蹴りを繰り出す。一撃を受けるごとに退いた龍王は、背中のロケットを使って上空へ逃げ、そこで態勢を立て直そうとするが、それとて江藤のシナリオから外れるものではなかった。

「サマーソルトキック!」

 上空へ追撃して、龍王の胸部へ蹴りを入れ、そのまま後方宙返り。着地九・九九。ただし江藤の自己採点。

 龍王は姿勢制御を完了できぬまま落着した。背中が完全に地面についている。

「勝負ありだ」

 無線で阿賀(あか)の声。あいかわらずルールの判定は自動機械のようにすばやく、間違いがない。

「よっしゃあ、勝ったぞおおおおおおおっ」

 江藤はコクピットでガッツポーズを取った。


*   *   *   *   *


「女の子の顔殴るなんて信じられない!」

「勝てば官軍だ、ぐははははははは」

 スピーカから大音量で出力されているのはともに軍人とは思えない台詞(せりふ)である。

「やれやれ、猛々(たけだけ)しいこった」

 並んで見物、もとい、見学していた鷹山が苦笑する。音割れを起こしつつ未だ止むことを知らぬ江藤の雄叫びに対する感想である。刀の先が折れて飛んで来たのにはさすがに肝を冷やしたが、幸い死傷者は出ていない。江藤のやらかすことにしてはまだ安全な部類であり、それゆえに鷹山は笑っていられるのだと、傍(かたわ)らの坂元には分かる。龍王を操縦する少女、五百蔵(いおろい)惟織(いおり)に対する同情があれば深刻な表情にもなったかもしれないが、それは欠片(かけら)も感じられない。かつて模擬戦に乱入され打ち負かされたことを、鷹山は根に持っているのだった。

 坂元は親友につられて笑いかけたが、江藤の唸(うな)り声に何やら別の波長の声が混ざり始めたのに気づいてぎょっと顔をこわばらせた。まるで獣の声である。ついに人間をやめたか、という諦念が坂元の心中にちらりと現われたが、すぐに帰って行った。将龍の腹の中から聞こえてくるのは紛うことなく獣の咆哮であった。

「ゴン太を乗せたのか、あのオッサン。本当に信じられないな」

 鷹山は笑いを通り越して唖然としている。坂元は、江藤がコクピットに愛用のシートを据えつけたのだと思い至った。さすがに抱いて乗っては操縦の邪魔になるし、映像通信時にすぐ露見する。複座型から改造された将龍にはコクピット後部に余剰スペースがあるが、それは指揮通信システムの増設に使うと聞かされていた。どうやら騙されていたらしい。北嶋やその右腕たる矢俣(やまた)は確かにそのように使うと言っていた覚えがあるので、彼らも被害者だろう。ただ、単独犯ではないはずで、誰か唆(そそのか)されたか脅迫されたかして、据え付けを手伝った者がいる。誰か、などと謎めいた扱いの必要もない。どうせ朝井秀和か、杜洋伸(ドゥ・ヤンシェン)、夏明仁(シャー・ミンレン)あたりだろうと坂元は見当をつけた。この三名はいずれも前科がある。

 九天軍の騒ぎでさすがにシリアスになっているかと思いきや、江藤は全く江藤のままだった。坂元は妙に安心する。これが、天衣無縫(むほう)の問題児でありながら士官学校で英雄視された男の面目躍如(めんもくやくじょ)であろう。

 自分はそこまでは至らなかったと、坂元は素直にそう評価できるようになった。最近のことだ。藤居が江藤に忠実であろうとするのもわかるような気がしてきた。尤(もっと)も、尊敬という感情はまだ芽生える気配がないが。

 何も決定的な資質の差があったのではなく、全力で競い合える仲間さえあれば、自分ももっと成長できただろう。そこが分岐点だったのだとも、坂元は考えるようになった。江藤の同期には優秀な人材が多かった。いずれも曲者(くせもの)揃(ぞろ)いだったと聞く。伝説が確かなら。江藤が伝説以上の人物であったので、残りの者たちも推して知るべしだろうと坂元は思う。

 対して自分には、鷹山のように波長の合う相手はいても、互いに高め合い、新たな力を生み出すような相手はいなかった。機兵操縦者の養成課程に移らなければ、自分が士官学校卒業時の首席答辞をやったろうという確信が坂元にはある。それがつまらない環境だったと気づいたのが最近なのだ。ようやくだ、と坂元は自嘲する。

「なんだ、変な笑い方して、気持ち悪いな」

「いや何、おまえとゴン太は一緒なんだなって思っただけだ」

「どう好意的に解釈しても褒め言葉には聞こえねえ」

「まったくだ」

 空を仰いで坂元は笑った。が、背後から近づく足音に気づいて振り返ったときには、一切の友好的ムードを消していた。そうさせたのは、よく訓練された者特有の足運びである。

 近寄ってくるのはRAT(ラット)警護員の門宮(かどみや)であろうと、坂元は首を回しながら予想していた。大陸からの帰還以来、江藤に会いに通ってくる門宮の存在は、坂元も把握するところであった。南田から聞いた話では、過日黒龍隊に五百蔵の龍王をけしかけたのが門宮だったという。そこで今日も監督なりオブザーバなりの名目で同行している可能性を、坂元は高く見積もっていた。

 しかし、実際に坂元が目にしたのは、門宮よりも年嵩(としかさ)の男だった。RATの制服に身を包んでいることには違いがなく、坂元が想定していた門宮の役割を、今日は別の人間が担っているらしかった。

「三連勝おめでとう、黒龍隊の諸君。さすがは噂の江藤博照といったところか」

 無闇に強烈な眼差(まなざ)しをしたその男は、坂元と目を合わせてそう言った。いかにもヤニ臭そうな息使いで、実際、漂ってくるにおいは坂元が吸うものよりずっときつめの銘柄のものだとわかった。坂元は門宮洗(すすぐ)に対してそうしたにおいを確かめられるほど接近したことはなかったが、おそらく、あのジェンダー不明者はこのような特徴を排除しているだろうと思った。任務のために。それはすなわち、この男は門宮よりも安全な部類だという識別である。いかにもガラの悪そうな初老の男性だが、対処方法が確立されている典型的な人格であれば、予期せぬ問題に遭遇するリスクは小さい。

「いいんですか、そんなことを言って」

 鷹山が邪険に応じる。RATを信用していない点において、鷹山の上を行くものは少ない。その稀少な例外は自分だと坂元は思っている。鷹山以上に久留(ひさどめ)を信じ、そして最大の判断ミスを犯した。その一部始終を知るのは騙した当人である久留と、坂元の告解を受け容れた藤居だけだが、いずれも今この猿之門にはいない。

「問題などない。俺の仕事はあのガキがオイタをしないよう目を光らせることだ。龍王が勝とうが負けようが、俺の給料には反映されん仕組みよ」

 くつくつと笑い、そして思い出したように男は名乗った。RAT警護員の築嶋(つきしま)。首から提げたIDカードにも同じように書かれている。歳からして明らかに、RAT設立以前にいずこかで職に就いていたはずだが、職歴の紹介はなかった。

「江藤少佐と話があるのなら、もうじき降りてきますよ。次からはこの坂元と交代なんで」

 鷹山が言うとおり、坂元はこれから、将龍の操縦を代わらねばならない。

「そうだろうとも。アポは取ってあるからな。しかしSMITS(スミッツ)はあの娘の代打を用意していない」

「そりゃ、機体のほうがそもそも代打みたいなものじゃあね」

 鷹山の皮肉を無視して、築嶋は奥の将龍を、それから眼前の坂元を見た。値踏みされていると坂元はすぐに気づく。

「自慢の改造機兵を任されるということは、坂元少尉、おめえさんが黒龍隊のパイロットじゃナンバーツーだってことかい」

「ご想像にお任せします。ところで築嶋さんと門宮さんはどちらが格上ですか」

「奴と俺なら同格よ。まあ、歳を食ったぶん、経験から俺が言わせてもらうことはあるがね。一方で奴には俺のわからん世界の知識がある」

 あまり知りたくない世界だと坂元が思うのと同時に、鷹山も肥溜めの底でも嗅いだような顔をした。

「今日は門宮さんじゃないんですね」

「なんだ、俺も代理だと言わせたかったわけか。それならそうだ。五百蔵のお守(も)りは門宮がずっとやってきた。俺のガラじゃない」

「ええ、お察ししますが」

「おい、そう警戒してくれるな。俺は男色でもない」

 笑っておくべきかとも考えたが、結局坂元は唇を微(かす)かに動かすに留めた。鷹山はもう少しサービス精神を持ち合わせていたが、それとて、声を出し歯を見せるほどではなかった。ゴリラの例に倣(なら)って考えるなら、ヒトが笑うとき歯を見せるのは相手への敵意がないことを示す意味があるのだと、そう聞いたことがある。それが正しいとすれば、やはりここで口を開けて笑うべきではない。

 似たようなことが前にあった。坂元は記憶の糸を手繰り、四ヵ月前に行き着く。あれは忘れもしない、西フェルガナ基地でのことだった。基地の防衛責任者であった安(アン)超備(チャオベイ)は坂元たち第三小隊に親しげに声をかけに来たが、あとから振り返ってみれば、その狙いは黒龍隊の中枢――江藤と北嶋――を亡きものとしたのちに、残る戦力を自らの手駒として拾い上げるための布石に過ぎなかった。あるいは、RATとしての身分を隠していた久留と密かに接触するためか。

 あの件に関しては久留も安に裏切られたことになる。ふたりが共謀の関係にあったことは状況からしてほぼ確実だが、久留がただ命令に従っていたのに対し、安は独自の考えと目的を忍ばせていた。

 安は啓示軍へと降ろうとした。それで何がしかの地位の確保が期待できたのかもしれないが、結局裏切り者は消滅砲の光のなかに消えてしまった。

 一方の久留は、のちに暖炉の谷で黒龍隊の仲間を次々と手にかけようとしたが、あれは元老院の意向を堅守するがゆえの行動であり、決して啓示軍に与(くみ)しようとしたわけではなかった。少なくとも坂元の信じる限りにおいてはそうだ。

 安超備が本当に戦略軍や啓示軍相手に諜略で渉(わた)り合えると思っていたのか、今となっては定かではない。何があの将校を危険な賭けに駆り立てたのかも、証拠なしに憶測する他ない。わかるのは、わかったのは、安超備は敵であったということだ。その苦い経験から、藤居に対する過(あやま)ちに連なる出来事の発端となった安の裏切りから、坂元は学んだ。この築嶋のように接近してくる者に対しては最大限の注意を払わねばならない。さもなくば次に失うものは、己の命や、肩を並べる鷹山かもしれないのだ。

「RATはこんなところで油を売っていていいんですか」数秒の空白に鷹山が終止符を打った。「九天軍も捕まっていないのに」

「さてね。連中は中央議会を狙ったが、同じ体制側だからといって元老院議員も同じように目の敵にしているかどうかはわからんさ。ひとくくりにエデンとは言うが、九天軍は主義主張を表に出さない雇われの兵隊だ。クライアントの意向で動く。金が払われる限りは」

「詳しいですね」

「詳しくて当たり前だ。業務上必要な知識だからな。日本ではともかく、中国では元老院議員の命を狙おうという輩(やから)が大勢いる。九天軍がそいつらに雇われて動くこともあるし、俺は実際、やりあったことがある」

 築嶋は顔の数箇所を指で示す。よく見ればそれは火傷や銃創の名残(なごり)のようであった。

「経験豊富な築嶋さんの勘では、九天軍は今回、標的を中央議会に絞っているわけですか。だからこうして龍王の警護に人員を割ける。それも、築嶋さんほどの人物を」

「さすが士官学校を出た優秀な坊ちゃんたちだ。若い頃の俺よりか随分と頭が切れる。しかしな、その頭脳だって九天軍から中央議会を守れなけりゃ意味はないんだ。九天軍を捕まえるのは黒龍隊の仕事だ。手を抜いていると、痛い目を見るぞ」

「手抜きなんて」

 鷹山が言いさして、押し黙る。

 坂元は代わって口を開いた。

「築嶋さん。ご助言、ありがたく頂戴(ちょうだい)しました。さっそく、気を引き締めてかかりたいと思います。つきましては、そろそろ非公式のお喋りは仕舞いにしませんか」

「どういうことだ、少尉」

「横浜議事堂の一件で、九天軍には協力者がいました。それがRATでないという保証を、黒龍隊はまだ手に入れていないもので。敵にこれ以上情報を漏らすわけにはいきません」

 坂元がにこりと笑うと、築嶋はぎょろりとした目でそれを睨(にら)んだあと、唾を吐くようにして「士官学校のボンボンが」と呟(つぶや)いた。

「正式な用件は江藤少佐が承ります。どうぞあちらでお待ちください。じきに、あれも降りて参りますので」

 調子を合わせた鷹山が、まだ外部スピーカで高笑いを続けている将龍と、観戦のテント席とを左右の手で示した。築嶋は反撃の余裕を存分に残しているようだったが、無言で頷(うなず)いてふたりのそばを離れていく。

「ヤクザ上がりなんじゃないのか」

 築嶋の姿が充分に小さくなってから、鷹山が言った。

「想像力がないな、鷹山」

「否定するのか?」

「いいや、その線は大いにありうると思う。が、他にもあるだろうと言いたいんだ。例えば、元はエデンの活動家なんてな」

「RATにテロリスト……。寝返ったということか。いや、RATが諸葛孔明ばりにエデンの注目株を寝返らせたとかだろうな。警察だって暴力団の中に協力者を作るようだし、ありうることだよな。問題はダブルスパイの可能性か」

「偽とはいえ、龍王絡みの仕事を任せているんだ。RATも信用は置いているんだろう。ま、いずれにせよ仮定の話だ。情報漏れには注意しようぜ、というだけだ」

「なあ坂元、本当にRATが九天軍と繋がっていると疑っているのか?」

「RATも、だ。警察、消防、議事堂の建築に携わった企業……、疑えばキリがない。近衛(このえ)軍だって信用はできないんだ。だからあのとき藤居さんは、現場からの報告を、信用できるところだけに制限した」

「なるほど。だけど俺たちは続く九天軍の犯行を防げなかった。内通者はまだのうのうとしているわけだな」

「ああ、だから油断ならないのさ」

 坂元は、兜ならぬヘルメットの緒を締めた。将龍と龍王、双方の応急点検が済み、将龍のコクピットからは江藤らしき――間違えるべくもない――人影が出てこようとしている。

「じゃ、俺行ってくる」

「右手使えないんじゃないか?」

 江藤が龍王相手に繰り出したパンチは、将龍の設計仕様の範囲外だろう。鷹山はそれを心配しているのだと、坂元には理解できた。

「わかんねえ。でも左手だって困りはしないさ」

「そっか。まあ、気楽にな。どうせ勝ち越しは決まったんだ」

 鷹山のアドバイスには適当に手を振って応え、坂元は演習用グラウンドの中央へと向かう。

 その先では、将龍のコクピットから降りた江藤が、高笑いのしすぎで顎(あご)が外れたと騒いでいた。


*   *   *   *   *


 坂元と鷹山のやりとり、そして築嶋の去来を視界の隅に捉えながら、北嶋は楢田(ならた)右院議員を相手に大事な話をしていた。いまのところ猿之門基地独自の改造機でしかない将龍を制式化し、生産ラインに乗せるという案件である。一部拠点のみを用いた少数生産の実施はすでに右院で可決されているが、その生産枠を巡って、龍王の量産検討モデルでもあるあの陸番機と争っていたのだ。

「約束通り、将龍のほうを採択していただけますね」

 しつこく確認する北嶋を見返し、楢田は鷹揚(おうよう)に頷いた。

「五番勝負で、三番連続勝利だったのだ。私はもうそのつもりでいるよ。もっとも、このまま全勝してくれれば、そのほうが中立派の説得材料は増える。がんばりたまえ」

「軍事委員会委員を努めておられる先生のお力で、もう決まりなのでは? まだ龍王に流れる余地があるのでしょうか」

「そりゃ君、私がこっちだと決めたからには、委員会から戦略軍に指示を出せることは間違いない。しかしね、工場に勝手に生産を開始させて既成事実を作ろうとする強引な者が出てくることも、考えられんわけじゃない。たとえば野崎托塔(たくと)のような曲者には気をつけねばならん。――おっと、今のは聞かなかったことにしておいてくれ」

 絶対にわざと口走ったのだと北嶋はわかったし、その粘々とした嫌らしさに背筋がぶるぶる震えそうだったが、そういう男だからこそ利用価値があるのだからと自分に言い聞かせて我慢した。

「複座型との部品共有率も高く、いち早く実戦に投入可能であることなども、良い説得材料になるかと思います。実際、将龍用の部品試作を頼んだ工場の作業スケジュールを調整できれば、二、三機はすぐに組み上げられます」

「君、わかっとることを繰り返さんでもいい。手は打ってある。――これ以上は、言わせるな。私にも立場というものがある」

 思わせぶりに笑う楢田に合わせて微笑みながら、北嶋は、すでに将龍の凖量産化の布石が打たれていると確信した。ひとまずこれで、黒龍隊がお遊びの機体改造で無駄金を使ったなどと監察院の突き上げを受けることも避けられるし、あわよくば、AHシステム搭載機を黒龍隊のパイロット全員に調達することもできるかもしれない。そうなれば、あとは江藤の決断を待つばかりだ。暖炉の谷から帰って以来、江藤がずっと考え続けている例の計画が、夢ではないところまで近づいて来ている。

 阿賀の合図で、第四回戦が始まる。

 将龍には坂元が乗った。龍王の側はパイロットの変更なし。

 果たして、坂元は太刀打ち出来るか。手数の多彩さではまだまだ江藤に及ばないものの、坂元は、おそらく藤居のレベルには追いついている。以前は鷹山との連携あってこそという戦法が多かったが、数日前に将龍でのシミュレーション戦をやらせてみたところ、坂元がスタンドアローンでの戦闘に大きく磨きをかけていたことを北嶋は知った。隠れて修練するタイプだということも。

 開始から三十秒。将龍と龍王は互角に渡り合っている。激しい斬撃の応酬。しかし双方ともマニピュレータへの反動はうまく抑えていることを北嶋は音で察知した。その点、江藤は扱いが粗雑である。さっきも四本指の新型ハンドをひとつおじゃんにしてくれた。開発部へは破壊試験をしたとでも報告しておかねばならない。

 壊したと言えば、二機が使っている刀のほうが素人(しろうと)目にも瞭然と見事に破断しているが、あれはもともと鈍(なまくら)と呼ばれる炎草薙(ホムラクサナギ)の製造不良品である。壊しても別に文句は出ない。勿論(もちろん)、だからと言って観客に殺人的ファウル球を放り込まれると困るわけだが、坂元ならば、手加減を心得ているだろう。相手のパイロット、五百蔵惟織のほうも、江藤のペースに乗せられなければそこまで無茶はしないようである。

 最初にここで黒龍隊に挑んできたときと比べると、彼女の情緒はかなり安定していた。隊のなかには先週の富士工場出張で一足早く彼女を見ている者もいて、そのときも言葉遣いはともかく思考回路は正常そうだったと証言している。部下たちはその報告のあとで五百蔵を口説くか口説かないかで盛り上がっていたが、今日、このあとアプローチに出る者はいるのだろうか。北嶋は自分と妻との馴れ初めに思いを馳せ、そうしているところを突然どつかれて我に返った。

「お帰り。また白昼夢か」

 眼前に江藤がいて、人差し指の先にヘルメットを乗せ、ボールよろしく回転させている。北嶋に打撃を加えた凶器はどうもそれらしかった。気づけば楢田は離れて別の隊員と話を始めている。近づいてくる江藤を避けたのか、北嶋に呆れたのかは定かでない。

「おまえ、築嶋さんと話があるんじゃなかったのか。というか顎は治ったんだな」

「気合で治したし、築嶋との話もちゃちゃっと済ませた。門宮と違って、効率的な男だ」

「で、どうなんだ」

「門宮は姿を消したな。築嶋は明言していないが。しかし京都の俺の知人も、門宮から接触は受けていないと言っている。竜時にも連絡はないようだ。俺とつるんでいたのがばれて組織を追われたかもしれんな」

「そうだとしたら、こうやってSMITSが龍王を連れて来ることはなかっただろう。――あの陸番機も変わりなしか。設計はほとんどやり直しているみたいだが」

 北嶋が龍王のことを訊ねると、江藤は深く頷いた。

「ああ。たしかに機兵としての性能は上がっているかもしれないが、あいかわらずの紛(まが)い物だな。肆(し)番機のような兇暴性は感じない。マクシム隊長の参番機のように、内奥(ないおう)に力を秘めている感じとも違う。あれは器だけだ。ほれ、殴ったらいい音がしただろう?」

 呵呵(かか)大笑する江藤の手の甲を北嶋はつね上げる。江藤は一転して悲鳴を上げた。

「四本指タイプはまだ品薄なんだ。やたらめったら壊してもらっちゃ困る」

「早いうちにダメ出ししとくほうが後々安全だろうと思ってな」

「ダメ出しはいいが、ダメージは自重しろ。モーションデータ消すぞ」

「ぐぬぬ。しかしあの技で“人形”に渾身の一撃をかましたのは、おまえだって知っているだろう」

 それを言われると、北嶋も頷かざるを得ない。“ベルリンの壁”の内側、暖炉の谷特異点での戦闘の模様は、録画を具(つぶさ)に観察している。たしかに江藤があの場で逆転できたのは、パンチというモーションが通常の龍には仕込まれていない突飛なもので、それゆえにノイエトーターも対応しきれなかったと見るべきだろう。しかし。

「あれは“オルロフ”の効果のほうが大きかったんじゃないのか。ただ殴っただけじゃ、そのまま帰っては来れなかっただろう」

「むう、あの塊か。あれがテレポートについて来なかったのは、返す返す残念だ」

「イルベチェフ大尉の話では、あれは複数あるということだったな。なら、別のを探せばいい」

「案外北熊(セヴェルメドヴェーチ)がまだひとつふたつ隠している可能性も俺は疑っているんだが、当面、AHシステムの再現をやってみせるくらいしか取引材料がないんだよな。北嶋、他に何かないか」

「おまえが九天軍を捕まえたら、元老院がSMITSからお裾(すそ)分けしてくれるかもしれないぞ。――しかし、あれ以来動きを見せないな、九天軍は。報道管制を敷いているだけか?」

「いいや、俺の知る限り、潜伏したままだな。南田が西大(さいだい)でやりあったのは、レベルの低いザコだったようだし」

「横浜議事堂のときと同じか」

「日本のような治安レベルじゃ、アジトから目標地点まで堂々と戦車で正面突破ってわけにゃいかない。だから九天軍も、大陸でやるような集団行動は前から避けて、こそこそ動き回っていたもんだ。つまり下っ端の現地調達は連中の常套(じょうとう)手段だったんだが、今度のは、ちょっと徹底しすぎていて気持ち悪いな。ひょっとするとだ、本当は九天軍じゃないかもしれないぞ」

「でも、議事堂で捕まったテロリストは、自分は九天軍の一員だと自白しているんだろう?」

「だから、現地調達組にはそう信じ込ませているが、果たしてその実体は……あの陸番機とご同様かもしれん。そういうことだ」

「なるほどな。けれど本物だろうと偽物だろうと、捕まなきゃいけないことに変わりはない。バロッグを味方につけたような犯行が可能だった理由も、梶間(かじま)先生の協力を得て早急に解明しないとな。そういえば、彼ら、いつ戻ってくるんだ?」

「わからん。あの倉庫番野郎が、サンプルのひとつも持ち帰らんと男が廃(すた)るとかぬかして、ずるずる先延ばしにしているようだ。あまり細かい話はできんから、とにかくカブトガニ饅頭(まんじゅう)が腐らんうちに帰って来いとは言っておいた」

「もっと真面目に急いでもらったほうがいいだろう。先月の議事堂襲撃と議員の拉致(らち)は九天軍の最終目的じゃないはずだ。拉致したかと思えば解放してしまうし、目的がはっきりしない。次にどう出るかがさっぱり予測できないが、しかし何か起こす前に、本当にどうにかしないと」

「ああ、そうだな……」

 頷きながら、江藤が何か別のことを考えていることを、北嶋は見逃さなかった。隠し事をしているな、という一言が出かかったが、それを無理やり飲み込む。江藤が話すまいと決めているのなら、それは、知ってしまえばリスクが生じる内容だと推測できた。

 しかし、今日の北嶋には、ひっかかることがあった。そういえば、先日から自宅と基地との往復時に機甲化歩兵部隊の護衛を付けてもらっている。もしや、九天軍の次の狙いは黒龍隊だと江藤は読んでいるのではないか。だとすれば、知らないわけにはいかない。それとも、知らず気づかずを装ったまま、何らかの自衛手段を進めておくべきか。――いずれにしても難しい。北嶋は、隠し事や腹芸といったことは全くの専門外なのだ。

 ふたりで沈黙していると、遠くでどよめきが生じた。そういえば、機兵の勝負から完全に意識がそれていた。さて、どうなったか……と顔を上げた北嶋は、一瞬、日差しが遮られたのに気づく。そして風切り音。鈍の折れた切っ先が、放物線軌道で北嶋たちのほうへ迫っていた。

「退避いいいいい!」

 北嶋は全力で駆け出しながら、遺書の書き直しは早いに越したことはないと思い知った。





- 2 -


 将龍(ジャンロン)と龍王(ロンワン)の交流試合が終わったのち、ただ見ているだけだった黒龍隊情報班は、仕事らしい仕事もせぬまま遅めの昼食とあいなった。一方、パイロットと整備班の男たちはグラウンドの後片付けを言いつけられたので御飯はもう少しお預けである。おかげで汗臭い男どもに囲まれることも絡まれることもなく、情報班の女子隊員たちはお気に入りのテーブルで穏やかに昼食を囲むことができた。

「このまま午後も楽チンならいいのにね」

 おっとり気質の韓鈴華(ハン・リンホァ)が言った。

「何言ってるの、戦場管制車のシステムアップデートと、拡張機能のテストがあるでしょ。あれ鈴華の仕事だかんね? あたしたち手伝わないよ?」

 情報班のリーダー格、秋月杏里(あんり)が釘を刺す。

「ぶー。わかってますよー。でもやりたくないなあ」

「どうして? 別に苦手じゃないでしょ」

「拡張機能に、龍(ロン)とのリンク強化があるでしょ? そのテスト、坂元少尉としなきゃいけないんだよね。あの人ちょっと恐いんだよなあ」

「なるほど」

「それはわかる」

 栃原(とちはら)蛍(けい)、徐小燕(シュ・シャオイェン)が相次いで賛同。

「その点、紗耶(さや)は問題ないよね」と、秋月。「というか、願ったり叶ったりか」

「だよね」

「紗耶も大胆なんだから」

「あ、その話まだ詳しく聞いてなーい」

 ここで初めて声を上げたのは、タチアナ・タチバナである。食べることに専念しがちなタチアナは、普段は皿を平らげるまで聞き手に専念しているが、出張中の同僚の噂となると飛びつかざるを得なかったようである。

「あれ、タチアナ、聞いてないっけ?」

「あのねあのね、杏里に決まりそうだった霞ヶ浦行きの枠をさ、紗耶ってば、自分に変えてくれるよう江藤少佐に頼んだんだよ」

「キャーッ。なにそれ、健気すぎない?」タチアナは叫んで、それから周囲を慮ったか声を落とした。「でも、そこまでする相手かなあ、准尉って」

「そう言うタチアナちゃんは、イルベチェフ大尉のご帰還を心待ちにしてたりするのかなー!?」

 栃原が矛先を転じるが、タチアナは泰然としていた。

「いや、全然」

「えー。同じ日系ロシア人じゃん!」

「違うって。親はそうだったけど、わたしの国籍は日本にあるの。生まれたのも日本だし」

「ぬー、ややこしい。何度聞いてもわからない。でも、イルベチェフ大尉とは話してたんじゃないの?」

「うんにゃー、全然。私ロシア語ほとんど使えないもん。向こうも潜伏中にそれ知ってるし、あれから接点ないよ」

「大尉は日本語ペラペラじゃん」

「だから、それなら私が特別に大尉と仲良くなる理由がないでしょ?」

「ちっ。脈なしですかー」

「そういう蛍が狙ってたりして」

「それもいいかもねー。北熊のエリートだし!」

「エリートっていうなら」と、秋月。「隊長だって独身だよ」

「ないないないないないないない」

 四人分の唱和。

「尻にしけそうだから、そう悪い物件でもないと思うけどな」

「まあ、たしかに、わたしたちが言ったら大概の要求は飲むよね。でも杏里も本気で狙ってはいないでしょ?」

「当然。他にいくらでも高級物件あるもの。戦争が終わったら結婚するのもいいなー」

「くっ。この女、殺す」

 タチアナが唸った。

 ――そして江藤も自室で同じ呪詛を吐いていた。

 江藤は情報班のおしゃべりの一部始終をイアホンで聞いていた。盗聴器を仕掛けたのは円道だ。そういう取引の結果、彼女は霞ヶ浦へ行った。

 かかる次第で江藤に罪悪感はない。そもそも、当人たちとて食堂でする話に秘匿性など期待しているわけがない。江藤もそんな話にたいした実りを期待していたわけではなかった。

 継続は力なり。下手な鉄砲数撃ちゃ当たる。次回以降に望みを寄せて、江藤は腰を上げようとした。

「え、占い?」

 ふと気になる言葉が耳に飛び込んできて、江藤は外しかけたイアホンを再び耳に押し付けた。

「そう。通信隊の子から聞いたんだけど、最近このあたりで流行ってるみたいだよ」

 話題の提供者は栃原である。聞いたことある、と二人ほど声が続いたが、短く高い声だったため江藤には区別がつかなかった。

「占いって、手相とか? いまどき血液型とか言わないよね。せめて星座ならまだ歴史を感じられるぶん、楽しみ方もあろうってもんだけど」

 秋月の物言いは有無を言わせない。おそらく傷ついたであろう栃原だったが、それを隠して話を進める。

「普通の占いじゃないんだってば。なんとその占い師、変則領域の発生を予言するのよ」

「そりゃ聞き捨てならないわね。たとえばどんなふうに予言するの?」

「『明日の昼頃、塚入(つかいり)橋東のバス停前で可視性バロッグが出て、通行止めになるでしょう』みたいな感じらしいよ」

 これを受けてタチアナが笑った。

「天気予報みたいだな。じゃあ人生の指針みたいなことは何も言わないんだ」

「それがそうでもないんだって」韓鈴華もまた伝聞を披露する。「変則領域は物理現象に干渉するもので、人間の脳のはたらきも化学反応の一形態に過ぎないから、人の意識や無意識も変則領域の影響を受ける……。それがその占い師の持論らしいの。バロッグの中で事故が起きやすいのも、ただ機械やコンピュータの誤作動ばかりが原因じゃなくて、当事者の精神状態に異常が生じているからあんなにたくさん起きるんだって」

「うーん、擬似科学じゃない、それ」

 慎重派の徐小燕が遠慮がちに口を挟むと、秋月もこれに賛同した。

「その日の天気だって人の気分に影響あるんだから、バロッグだけ特別扱いするのは非論理的だね」

「ま、それはともかくさ。予報のほうはかなり当たるって評判らしいよ」

「気象台のデータを盗んでんじゃないの?」

「あー、それはないよ、杏里」と、タチアナ。「気象台はどこどこのバス停前だとか、そんなピンポイントの予報はできないはず。私、気象予報士目指してたから、これは確か。もし技術的にそんな精度の予報が可能だとすれば、その占い師はあちこちにセンサーを張り巡らせているんだよ」

「じゃあ、金持ちの道楽? つまんないなあ」

「いや、面白い道楽だと私は思うけどね」

「ふふーん、タチアナはお金持ち目当て、と……」

「そうなの、タチアナ? それなら鷹山少尉なんかオススメだけど」

「どうしてよ、杏里」

「確かめたわけじゃないけど、多分彼、お金に困ったことなさそうなのよね。坂元少尉とはそこの臭いが違う」

「事情通だなあ杏里は」

「ふふふふふ。情報料として食後のミルクティーを所望する」

「何言ってんの、半分は勝手に喋ったんじゃない」

 一同笑って、撤収の気配。椅子を引き、トレイを取り上げる音が重なり、そして声が遠ざかっていく。

「静香(しずか)さんも一緒ならよかったのに」

「こら、壁に耳有り。静香さんじゃなくて、穴蒲(あなかま)大尉でしょ」

「明後日(あさって)から長期出張だっけ。寂しくなるね」

 それ以上はもうホワイトノイズに紛れて聞き取れなかったが、これまた意外な情報を江藤は獲得できた。規律に口うるさいあの穴蒲静香が、情報班の女子隊員らには好かれていたとは。

 さすがに甘さが過ぎただろうかと江藤は省みる。その甘さは何よりも自分に対するものだ。苦手を克服しようとせず、ただ避け続けた結果がこの有様だ。部下を信用して己の秘密と志を打ち明けるどころではない。まだまだ準備期間が必要だ。

 平時なら、部下の合コンの世話でもして人望を得ることもできた。実際にその手は使ったことがあり、まずまずの効果を得られた。しかし、あいにく今は戦時であってそれどころではない。戦時であればこそ江藤は事を急いでいるわけで、これはなんとも歯痒(がゆ)いところである。

 江藤は戦争の早期終結を思うが故に焦っているが、一方で、穂積(ほづみ)はこの戦争の終わらぬうちに計画を完遂しようと急いでいるはずだった。穂積の前回の敗因はいくつも挙げられるが、その因子の多くが、今では穂積に有利な状態へと変化している。啓示軍(オフェンバーレナ)との戦争は混乱の度を増し、各地でエデンは勢いづいて、特に厄介な九天軍が穂積の味方についている。名が挙がっている幹部も二人、昊天(こうてん)と蒼天。そして、九天軍にはもしかすると自分と同じ能力――変則領域感知能力を持つ人間がいるかもしれない。

 穂積の狙いが元老院であるという見方は、対策本部で全く異論の出ないところであった。江藤も、若干の疑問点はあるものの、やはり最終的な狙いに変化はないと考えている。

 しかし江藤が他の幹部たちと認識を異にするのは、元老院よりも先にまず自分が狙われるという点である。

 それはひとつには私怨が根拠である。そして敵に江藤と同じ能力の保持者がいる場合、一方的に変則領域を利用できるというアドバンテージを保つために、敵は最優先で江藤を狙うはずだとも考えられた。

 前者はともかく後者は人に説明などできないので、組織的な対策は取られていない。皮肉なことに、江藤を監視するための態勢が穂積への牽制(けんせい)になっているようなのだが、江藤としては、むしろこれを邪魔に感じていた。

 さっさと襲って来てくれれば、返り討ちにしてさっさと懸案を解決できる。逆に江藤が襲う立場であれば、外堀を埋めるだけ埋めてニヤニヤと相手の出方を見守るところであるのだが、江藤の知る穂積にはそんな迂遠な攻め方はできない。

 とはいえ、世の中そうそう予想通りには行かなかった。自分で予告したくせに、穂積はまだ姿を現さない。

 やはり、九天軍との共闘という状況が穂積の行動に制約を加えているのだと、江藤は想定を改めざるをえなかった。だとすれば、取るべき策は大きく二系統に分けられる。九天軍の組織をかき回して箍(たが)を外すか、はたまた、穂積が血気逸(はや)って箍を吹き飛ばすまでたっぷり挑発してやるか。この挑発というカテゴリには罠も含む。

 答えは自明。九天軍が切っても痛くない尻尾しか残さず、それゆえに殴りこむべきアジトもわからない現況では、餌を準備するほうが簡単である。

 引き出しからゴン太の餌を出してやりながら、江藤は穂積のための餌はどこから引っ張り出せばいいのか考え始めた。

 体の大きくなったゴン太は、餌へのがっつき方が幼狼の砌(みぎり)そのままなので、消費量がそのままスケールアップしている。総量も問題だが、ドッグフードばかりではなくできるだけ自然界に近いものを取り入れるようにしているので、生肉の安定供給についても江藤は日々頭を巡らせている。

 前は厨房から調達していたので問題はなかったのだが、それが阿賀にばれて倉知(くらち)に告げ口され、倉知が櫛田に上奏し、櫛田が穴蒲静香に注意しておくよう命じたものだから、えらい目にあった。

 最近は、外へ出かける部下についでに調達させていた――褒美として胃之上食堂に寄るなどの多少の自由行動を許しているのだ――が、このままでは持ちそうにない。どうもゴン太は、生肉に飢えているようで、基地内で散歩中に誰彼構わず噛み付こうとするのだ。スキンシップの延長なのかどうか、育ての親たる江藤も判別しかねている。とにかく生肉の供給を増やしてやらねばならない。いっそゴン太自身に狩りでもさせれば、運動と一石二鳥になるし、自然界に近いライフスタイルでもあるし、申し分ないのだが……。

 ――いかん、いかん。

 江藤はかぶりをふって、思考をリセットした。必要なのはゴン太用ではなく穂積用の餌の調達である。

「自分で狩りに行く、か。案外いいアイデアかもしれんな」

 執拗(しつよう)に皿を舐(な)めるゴン太の首筋を撫(な)でながら、その手のストロークを重ねるたびに、江藤は徐々に己の閃きに自信を深めていった。


*   *   *   *   *


 龍王に、あの惟織とかいう小娘に敗れたことは、坂元にはちょっとした屈辱だった。今回は不意を打たれてもいないし、機体も同等。現に江藤は三戦三勝したのだから言い訳はできない。強いていうなら、坂元用の動作設定にも編集元の、江藤の癖が残っていて、少々使いにくかったという事情はある。だが結局それも、今日の対決までに動作設定の総チェックを終えられなかった自分に落ち度がある。

 試合終了後、同僚たちは皆龍王やそのパイロットのほうを取り囲んだので、坂元は将龍を格納庫に運ぶと、整備班の目を避けるようにしてすぐ医務室へ向かった。軽度だが打ち身をしていた。それを誰かに気づかれるのは、負けたことを慰められるよりも癪(しゃく)だった。

 髭の軍医に湿布を貼ってもらった坂元は、付き添いが誰もいないのをいいことに、少々寄り道をするというアイデアを思いついた。

 どうせ早く戻ったところで、将龍の整備点検を手伝わされるに決まっており、そして、坂元は自分がどのくらい将龍を壊したか自覚していた。整備班に怒られ恨まれるのはもうわかっているし、ちょっとばかり修理を手伝ったくらいでそのミスが帳消しになるとも思わない。

 同じ過ちは繰り返さない。

 それこそパイロットの目指すべきところという確信から、やはり、坂元は寄り道をしていくことにする。罪悪感はない。別に遊びに行くわけではないのだから。



- 3 -


 何か柔らかいものにしきりに鼻をくすぐられ、李峰國(リー・フェングォ)はベッドで目を覚ました。なにやら薄灰色の毛に包まれたもの――すぐに尻尾とわかった――が眼前で左右に揺れている。

「くすぐったいだろう。あ、ダメ、そこは!」

 峰國はたまりかね、ゴン太の尻を抱き上げる。もう首根っこを掴んでどうこうできる大きさではない。後ろ足を宙に浮かされたゴン太は不安げな声を出し、しゅんとした顔で峰國をふりかえった。

 峰國はその獣の口に細い鎖が咥(くわ)えられているのを見て取った。

 それからの動きは早かった。ゴン太を完全に空中に持ち上げると、腰を軸にくるりと回転させて、そして仰向けに放り出す。それから口の根元を右手でがっしりと掴み、むりやり口を開けさせる。

 ゴン太の牙から逃れた鎖が滑り落ち、金属の触れ合うかすかな音を立ててシーツの上に落下する。それを拾い上げた峰國は、どこもちぎれかけていないことを丹念に確かめると、溜め息を吐いてそれを元の位置に戻した。ベッドのマットの隙間に。

 気づくと、ゴン太が苦しそうな声を漏らしていた。片手で顎を掴んだままであることを峰國は思い出し、解放してやる。常日頃から峰國に噛み付いている悪戯(いたずら)小僧も、今日ばかりは完全に懲(こ)りた。そそくさと二段ベッドから飛び降り、部屋を退散していく。

 ゴン太の足音が遠ざかり、静寂に包まれた部屋の中で、峰國は寝起きの屁をした。大きな音がしたが、文句を言う下段ベッドの住人はいない。思っていた以上に南田竜時というルームメイトに依存していた自分に気づき、峰國は頭を掻(か)いた。それほど柔な性格ではないつもりだった。大昔の自分とは、訣別(けつべつ)できたと思っていた。

 しばらくぼうっとしていたが、廊下を歩いてくる足音がして、峰國はようやく動き出した。現在午前十時少し前。深夜にアラート待機に就いていたので、まだ寝ていてもいい刻限だが、寝なおす気分ではなかった。

 鏡の前でまばらに伸びた髭を剃っていると、締め切っていなかったドアがきいと開いた。

「おはよう、鷹山」

 廊下をうろうろしているのが鷹山であることは、話し声でとっくにわかっていた。

「悪い、起こしたか」

「いいや、ゴン太に起こされた」

「なるほどね。そういえば外で走ってるの見たわ」

 得心したのは確かなようだが、鷹山の関心はそこにはないようだった。そわそわとしている。

「どうしたの?」

 峰國が手を止めて鷹山のほうを見ると、通り過ぎようかどうか迷っていた様子の鷹山は、意を決した様子で部屋に入ってきた。

「坂元を見なかったか?」

「いや、見ていないけど」

「実は、坂元が帰って来ないんだ」

 鷹山の話はそれから数分続いたが、結局のところ最初のその一言に要点は集約されていた。もう少しディテールを付け加えて正確に表現すれば、昨夜九時半頃にちょっと用事があると言い残して出て行ったきり、今朝まで一度も坂元を見ていないという観測情報である。

 峰國は天井に目を向けてひとしきり考える素振りを見せてから、おろおろとしている鷹山に向き直った。

「鷹山。それ、もうみんなに聞いて回った?」

「いいや、下の階はこれからだ」

「話を知っているのは?」

「俺が直接話したのは明仁(ミンレン)と栃原だけだ。でも、ふたりには隊長たちにばれないよう探してくれって頼んでおいたから……」

「坂元ならちゃんといるよ」

 早口になっていた鷹山が、峰國のその一言で口を噤んだ。そして首を傾げる。意味が伝わっていないようなので、峰國はもう一度同じことを言った。坂元はちゃんといる、と。

「おい、峰國、おまえ、見ていないと即答した舌の根も乾かないうちにだな」

 鷹山から胡乱(うろん)な視線で眺められ、峰國はもう少し説明を加えることにした。

「いなくなったなんてことはない。ありえない、というか、あっちゃダメだからさ。すぐに隊長に報告に行こう」

「江藤隊長が坂元をどっかにやったのか、竜時みたいに」

「違う違う。真相がわかるまで裏口を合わせてもらおうってことだよ、鷹山」

「それを言うなら『口裏を合わせる』だ。あいかわらずだな、おまえは。――でも、たしかにそのほうがいいかもしれない」

 思案顔もすぐに引っ込め、鷹山は「サンキュ」と軽く手を振って出て行こうとする。峰國は鷹山より三秒長く思案顔で硬直してみたのち、結局、そのあとを追った。鷹山ひとりでうまく事が運ぶとは楽観できなかった。


*   *   *   *   *


「坂元が帰ってこないだと?」

 鷹山と峰國に訪われた江藤は、ふたりの話を聞くやいなや、椅子から身を乗り出すという大げさなリアクションを取ってみせた。しかし、実は盗聴器ですでに把握していたネタである。江藤の盗聴網、名づけて「エトロン」は、基地のあちこちに行き届いている。円道と取引して盗聴器を仕掛けさせたのも、エトロン拡張のほんの一端に過ぎない。

「まあ、たいしたことじゃあるまい」江藤は背もたれに体重を戻してゆったりと言った。「女でもできてよろしくやっているんじゃないのか。竜時みたいに」

「は?」

「ひふへ?」

 鷹山と峰國の口が開きっぱなしになる。

「竜時は胃之上(いのうえ)食堂のバイトの娘と一緒に九州旅行中だと言ってあるだろう」

「聞いてないです」

「同上。イルベチェフ大尉やヨシダ少佐と極秘任務に就いたんじゃなかったんですか」

「その通りだが? 鹿室の知り合いで店の手伝いをしていた女子学生がだな……。いや、そんなことはどうでもいい。坂元の話だった。士官用の通信端末は携帯していないのか」

 江藤は自分の腕時計を掲げて示す。江藤が支給を受けたのは二年ほど前なので、先ごろ士官になったばかりの峰國たちが支給された端末は型番が変わっているかもしれないが、基本的な通信機能は互換性が保たれているはずである。啓示軍(オフェンバーレナ)に人工衛星を押さえられて以来、使える機能は随分と減ってしまったものの、バロッグさえ出ていなければ携帯電話として使用できる。尤もそれも、サービスエリアは限定されるが。

「もちろん、呼び出してみたんですが」

 鷹山は溜め息をつきながら、実際に自分の端末――ブローチのように首から下げていた――で呼び出しを行う。と、ほどなく遠くで着信音がする。

 音はそのまま近づいてくる。持ち主が出ず、鷹山もコールをやめないため、いつまでも鳴りやまない。そのまま音は部屋のすぐ外、開け放ったドアのところへやって来た。

「ワウ」

 現れたのはブローチ様の端末を咥えたゴン太だった。

「こんなことになってまして」

 鷹山は肩をすくめる。江藤も頭をかくしかなかった。ゴン太の好奇心と行動力の育ちっぷりは、体格の成長ペースに勝るとも劣らない。

「困ったちゃんだなあ」

 峰國がにこにこしながらゴン太を見つめる。と、視線を受けたゴン太は端末をその場に放り出して一目散に走り去った。江藤がこれまでに見たことのない反応である。何が起きたのかよくわからなかった。

「そんなわけで、坂元は完全に行方知れずです」

 ゴン太の唾液にまみれた通信端末を袖越しに摘(つま)み上げながら、鷹山が困った顔をする。しかし、坂元が帰らずに困るのは江藤とて同じだった。

「少々の遅刻は多めに見るが、正午までに戻らんようなら、ちょっと予定を変更せんといかんな」

「ランチの予定ですね」と峰國。

「阿呆か。任務の話だ。実は、今朝急に舞い込んだ出張依頼がある。坂元を行かせるつもりだったが……。鷹山、代わりに行くか?」

「場所と目的によりますよ」

「悪い話ではない。霞ヶ浦の連中が、テストパイロットを欲しいと言ってきたのだ」

 言った直後、江藤は、部下たちが食いついてきたのを視覚で捉えた。

「その話、詳しく」

「藤居さんの角龍(ジャオロン)とはまた別ですか」

「それがな」江藤は気分を良くして答える。「なんでも俺の将龍(ジャンロン)とSMITS(スミッツ)の偽龍王(ロンワン)……じゃない、量産検討型か。とにかくこのふたつに加えて、次期生産枠を争う第三の評価対象機種が持ち込まれたのだとよ。前衛用という話だから、砲撃や後方支援に特化した角龍とは完全に別件だな」

「なんだか最近、新型ラッシュですね」

「第二次ベビーブームとでも言うべきだな。龍(ロン)の採用のときだって対抗馬はいろいろあった。そのひとつが影龍(インロン)、つまりは今の牙黒鷲(ガコクシュウ)だ。そして出遅れたのが雷麒麟(ライキリン)」

「そのブームでテストパイロットが足りなくなったんですか」

「ざぁぁぁっつらいと。機体は用意したがパイロットは準備してない。そこで藤居たちに続いてうちから誰か寄越せ、という話だ」

「でも妙な話ですね」鷹山が眉を動かした。「新型の開発なんて、少なくとも俺は聞いたことがありません。龍の改造機ですか、北熊(セヴェルメドヴェーチ)のドラコーンのような」

「さてな。名前も仕様も聞いとらん。当の霞ヶ浦にもまだ到着していないってことでな、まあ、現地でのお楽しみだ。もっとも、事前情報が漏れて来ないってことは、どうせ大した機体じゃないと思うんだがな」

 江藤が笑うと、ふたりもそれに合わせた。暢気(のんき)に構えている場合かと、南田ならば怒ったかもしれない。坂元ならば確実に釘を刺しに来ただろう。江藤も問題は自覚している。

 機兵パイロットが手薄になっているのだ。南田に藤居、群山と、これまでに三人のパイロットが猿之門を離れており、さらに現在坂元が行方不明。このまま坂元が戻らなければ、鷹山なり峰國なりを代わりに霞ヶ浦に出張させることになるので、残るは江藤含め四名にしかならない。猿之門があまりに手薄である。実際、またもや誰かの策に嵌(は)められているのではという疑念が晴れなかったため、江藤はまだ霞ヶ浦からの打診に対して「検討中」としか返答していなかった。

 横浜議事堂襲撃以来、黒龍隊の活動制限は撤廃される流れにあるが、油断はできないと江藤は考えていた。野崎托塔や桜小路慶多(けいた)らの計略とアジテーションですっかり鳴りを潜めたかにみえたアンチ黒龍隊の一派が、新型機兵を口実とする阿漕(あこぎ)な手で黒龍隊の無力化を図っているのだとも邪推できる。

 ただ、もしそうならば、彼らには彼らなりに黒龍隊の代わりとなる組織の用意があるに違いないのだが、江藤にはその具体的候補が思い当たらない。外廓聯(がいかくれん)はまだ前線を点々としていると聞く。元老院から金星也(キム・ソンヤ)に完全移管された外廓聯を、他の誰かがいいように利用するなどもはや不可能である。別に機兵部隊でなくともよいという話もあろうが、エデンの最強実行部隊と恐れられる九天軍が動き出した今、そんじょそこらの歩兵部隊に後釜を任せるのは現実的でない。それ相応の人員と装備と組織とを揃えるとなると、水面下で済ませられるものではなく、したがって江藤のアンテナに引っかからないはずがない。

 ――と、江藤は自信満々だったのだが、さっぱり尻尾(しっぽ)が掴めないので、愚直に動いてみる気になった。霞ヶ浦に坂元を送ろうとついさっき決めたのはその一環だった。が、肝心の坂元が戻らない。

 江藤が坂元を選んだのにはふたつの理由がある。まずひとつは、将龍の組み上げとエアインパルサーのテストにおいて彼が期待以上の働きをしたからである。そしてもうひとつは、坂元が以前から炎草薙の生産工程を見学したがっていたことが挙げられる。隊員選抜の時点でその趣味的な関心を把握していた江藤は、赴任数日の段階で、いずれ見学の都合をつけてやると約束までしていた。口約束だったが、折角(せっかく)お膳立てが整ったので話を振ろうと思ったのだ。たまには部下の喜ぶ顔でも見て楽しもうと目論(もくろ)んでいたのに、肝心の当人がいなくなるとは全くの想定外である。

「隊長、俺それ行ってみたいんですけど、いいですか?」

 考え事をしていた江藤は、それを峰國が口にしたのだと認識するのに数秒のタイムラグを要した。目を合わせると、峰國はいつもと寸分違わぬ、のほほんとした笑顔である。

「おまえが試したいのは、新型じゃなくて霞ヶ浦の飯のほうだろう」

 鷹山が茶々を入れる。なるほどそれなら、意外な峰國の積極性も理解できると江藤は思った。富士工場と同じく、SMITSなど軍外部の組織が同居している都合で、霞ヶ浦の食事は少々毛色が異なる。

「ま、鷹山が俺も俺もと手を挙げんのなら、任せてもいい」

 江藤は幾つかの計算を数秒で終わらせてから答えた。

「朝井たちの文句は聞く前から黙殺決定ですか」

「朝井を出すなんて言ったら、黙殺されるのは俺のほうだ。先方は言外に士官をよこせと言ってきているからな」

 そこがまた、罠らしくもある。しかし江藤は状況を利用することを選んだ。黒龍隊を舐めてかかると痛い目に遭うのだと、関係各位に知らしめるのに都合がいい。そのために、峰國には出発までにいろいろと言い含めておくことがある。

 嬉々とした峰國と、依然として坂元を心配している様子の鷹山を執務室から追い出すと、江藤は早速、具体的に計画を練り始めた。――謎の新型機を黒龍隊で掠め取る計画を。

 基地司令の櫛田や軍事委員会の桜小路の尽力のおかげで黒龍隊の戦力回復は着々と進んでいるが、江藤はまだ満足していなかった。まず、試作した将龍でAHシステムの再現に失敗したため、さらに将龍を継続的に生産して実験ペースを上げたいという思惑がある。また、龍の追加配備も決まらないため戦力の数的不足も解決されていない。雷麒麟自体の復元も北熊に完全に依存しているので心許(こころもと)なく、江藤は乗俑機乙種の調達と改造によって理想との差を是正する方策を考えていたところだった。すでにハイヴィレッジコンツェルンや秦和精機にデモ機を寄越せと言っているのだが、色良い返事はまだない。

 ここで新型機を上手い具合に黒龍隊管轄下での継続的試験に持ち込めれば、事実上、黒龍隊の戦力としてカウントできる。まともに動くならの話だが、最悪の場合北嶋に改造してもらえばそこそこの性能は発揮できると江藤は踏んでいる。もしそれすら駄目でも、機体を解析すれば将龍や雷麒麟を改良する上での技術的なヒントを得られるかもしれない。

 横取りはただの夢想ではない。実際、藤居をすでに同様の作戦に従事させている。霞ヶ浦で藤居たちがテストしている新型機「角龍」は、群山や円道も合わせた三人でそれぞれに問題点を並べ立てることにより、猿之門基地での試験続行に持っていく予定なのである。角龍は将龍と同じく複座型ベースの派生型で、指揮管制と並んで砲撃戦を重視したコンセプトであるため、角龍の試験名目で射爆場の使用も容易になると期待できる。ダーダネルス作戦中は桁違いのバロッグが出ていたせいで、黒龍隊は砲撃戦の経験値を積めなかった。うまくいけば来月からその遅れを取り返せるわけで、亜連最強の機兵部隊への道が一気に平坦になる。実力に占める装備の性能の割合は大きいが、それも戦略家としての自分の采配(さいはい)の賜物(たまもの)であると江藤は信じている。したがって一片の疑念も躊躇もない。寝耳に水の新型機をくすねて何が悪い。耳に入ってきたのなら、それは自分のものである。江藤は耳糞ひと欠片すら対価として支払うつもりはない。

 具体案は、いくつも数は考えつかなかった。下手にハードウェアの根本的問題を指摘してしまうと開発元に機体を引き上げられてしまうので、全くの逆効果となる。したがってソフト面でのアプローチに限定され、自(おの)ずと数は減ってしまうのだ。

 比較検討した結果、やはり、デフォルトで入力済みのモーションパターンにケチをつけて、猿之門での再教育と試験メニューの改変を提案するのが穏当なやり方であるように思われた。新型機のモーションパターンにぎこちなさが残るのは実際やむを得ないことだと江藤も承知しているが、敢えて「開発側に現場の視点が足りない」などと文句を書き添えることで、申請を通すための道具とするのだ。開発元との関係悪化に陥らないようにアフターケア――黒龍隊の奢りで飲みに行くエトセトラ――は必要となるが、それは安いコストである。店は胃之上食堂にするのがいい。

 ただし、以上の検討はひとつの懸案事項を無視したものだった。とりあえずの方策を定めた江藤は考え事を一時中断して、部下たちから提出された各種の試作装備の評価レポート群に目を通していたが、集中できないのですぐにやめてしまった。握っていたネズミ型マウス――ゴン太が齧った痕(あと)がある――を放り出し、椅子の背もたれに限界近い荷重をかけて伸びをする。

「やはり穂積が臭いよな」

 天井に向かって呟いてみると、疑念が確信にまた一歩近づいた。

 坂元の失踪は、動きを見せずにいた穂積がとうとう痺れを切らした結果なのかもしれない。盗聴でこの件を知ってから、その疑惑に辿り着くまで、数秒とかからなかった。このような事態は予期していたからだ。しかし誤算があった。

 江藤は、穂積らが人質を取って自分をおびき出そうとするなら、きっと直接戦闘能力が低く、それでいて頭脳面あるいは精神面で隊の支えとなっている人間……、つまりは北嶋あたりを狙ってくるだろうと構えていた。坂元が捕らえられたのだとすれば、これは意外なところを衝(つ)かれたことになる。坂元は、利口すぎて首輪をつけてもすぐ抜け出てしまう犬のような男だ。きちんとリサーチできていればまず標的にはしない人物のはずだが、思うようなチャンスがなかなか得られず、待つのに耐えられなくなって見境なく捕まえたのが坂元だったという経緯を想像すると、なるほど穂積克(かつ)らしい器不足っぷりだと江藤は思う。もしかすると、坂元に逃げ回られるか反撃を受けるかして、こちらへ脅迫を送って寄越す余裕をなくしたのかもしれない。想像するだに滑稽で笑えてくるが、しかし坂元が素直に窮地に陥っている可能性も意識せずにはいられなかった。

 坂元がひょっこり帰ってくるにせよ、脅迫状が届くにせよ、正午までには事態が動くと江藤の勘が告げている。ここは待つのが無駄のない選択だが、より良い結果を求めるためにはリスクを負うべきである。差し出せるものは、と江藤は考えて、己の身ひとつしかないと結論づけた。自分に連なる何物も、何者も、失うには惜しい。そして責任を取りうるものも、己自身を措いて他に見当たらないのだった。

 江藤は比喩的にも物理的にも重い腰を上げた。もとより現場に出るのは望むところである。デスクワークはつまらない。

 さしあたり、坂元の外出先とその目的を江藤は調べることにした。常日頃から気持ち悪いくらい仲のいい鷹山に何も言い置かなかったということは、何か仲間に対して後ろ暗いのか、サプライズパーティでも企画しているのかのどちらかしか考えられない。江藤は立ったまま端末を操作して隊員の個人情報を呼び出してみたが、鷹山の誕生日はずいぶん先だった。つまり、坂元はまた何か独りで抱え込んでいる。

 藤居を呼び出して調査を命じたいところだったが、あいにく霞ヶ浦では役に立たない。しかたなく自分で坂元の悩みについて想像してみると、江藤は存外にたやすく、彼の外出の動機めいたものを探り当てた。昨日のSMITSとの模擬戦である。将龍と龍王陸番機の五番勝負は三勝二敗で将龍に軍配があがったが、三勝は江藤が初戦から連取したもので、二敗は坂元がパイロットを代わってからの戦績となる。坂元の半分はプライドでできているからこれはさぞかし堪えたに違いない、と江藤は今更ながらに部下の気持ちを忖度(そんたく)した。

 きっかけがわかればあとは簡単である。海岸で夕陽に向かって咆えるような男ではないので、夜に周りが寝静まったところでこっそり抜け出し、人知れず修行に勤(いそ)しんだのは疑いがない。その帰りに捕まった、あるいは単純に遭難して帰ってきていない、というのが現状だろう。

 問題は、どこへ行ったかである。将龍の実機を触ろうとすれば格納庫に行かなければならないが、ここには夜間の緊急出動に備えたアラート待機メンバーが常に詰めているので、頑張っているところを人に見られたくない坂元のような人間は絶対に寄り付けない。第五実験棟でシミュレータを使用するのが次善の選択となるだろうが、昨夜は全筐体(きょうたい)に視線追尾式のターゲットシステムを組み込む作業が徹夜で行われていたから、坂元は棟内から漏れ出る灯りを見ただけで引き返したはずである。

 誰でも思いつく二箇所が駄目だったとすると、三番目に考えられるのは、データ分析だった。模擬戦のデータをあれこれ分析して龍王のスペックを推定する試みは今この瞬間も実施中だが、将龍視点の映像の生データなら、昨日の一七〇〇(ヒトナナマルマル)時までに資料室のストレージに保存されたはずである。それは坂元の権限でも閲覧可能であり、資料室への入室にも制限はない。ただ出入りすればIDカードの読み取りで記録が残る。しめた、と江藤は拳を握り締める。

 入退室のログは基地のイントラネットで確認できるので、江藤はさっそく端末でそれを呼び出した。

「ビンゴ」

 最新二十人の入室者リストの中に、坂元の名があった。ただし入室の時間帯は江藤の想定よりもずいぶん早く、昨日の昼前。模擬戦は終わっているが、まだSMITSの撤収すら済んでいない時間である。データのコピーも終わっているわけがなかった。元データたる将龍のパーソナルディスクが、この時点ではまだ抜き取られていないのだから。

「何しに行ったのだ、あいつは」

 首を傾げながらリストを閉じる。と、消える間際に、坂元のひとつ上に記載された名前が目に留まった。穴蒲静香。再びリストを表示させると、ふたりは十分弱の差で資料室に入っている。併記された退室時刻を確認すると、一分程度だが、ふたりは同時に在室していたことになる。

 江藤は内線を穴蒲に繋いだ。

「穴蒲です。ご用件をどうぞ。まずはアブストを十五秒で」

 相手が誰かわかったうえでの、この応答である。愛想は欠片もない。ミクロンオーダの微粒子すらない。オングストローム単位を検出する感覚が必要になるだろう。

 職務上やむなく電話をかけることはこれまでにも数回あったが、常にこの調子で、一度は江藤の方から即座に切ったこともある。――結局、用が片付かないので掛け直す羽目になったが。

「質問がひとつ。昨日、資料室で坂元唯史は何をしていた」

 十秒の余裕を持って江藤は閉じ、穴蒲の返事を待つ。

「坂元少尉ですか? そういえば会いました。ですが、何をしに来たかまでは聞いていません。私はすぐに部屋を出ましたから」

「しかし記録によれば、熱い抱擁を交わすだけの時間はあったわけだが」

「そういう仲ではありません」

「冗談だ」

「わかっています。少佐のユーモアが最低だということくらいは」

「ぬう」

 少しばかりの後悔と、そして意外な郷愁とが江藤の胸を侵蝕する。今のは江藤のオリジナルのネタではなく、機兵操縦訓練を受けていた頃に仲間内で軽く流行った言い回しだった。誰が言い出したのか忘れていたが、穴蒲にばっさりと斬り捨てられた拍子にそれを思い出した。

「――江藤少佐?」

「あ、ああ」

 何度も呼ばれていることに気づき、江藤は慌てて応答した。

「すまん、なんだ?」

「通信機器にトラブルでも?」

「いや、ちょっとばかりトリップしていただけだ」

「出張ですか? あらゆる外出は櫛田司令の許可を取るようお願いしたはずです」

「むう、それはボケなのか? まあいい。あとひとつだけ質問だ。坂元は元気そうだったか」

「打ち身があるようでしたが、精神的には健康そのものでした。ただ成熟の余地はかなりあると……」

「そうか。ありがとう、大尉。では失礼」

 穴蒲の説教を無視して一方的に通話終了。そのまま部屋を出る。穴蒲への聴取は空振りに終わったが、坂元の行方のヒントはやはりあの地下の資料室にあるように思われてならなかった。

 資料室への移動中、江藤は記憶を辿り、誰が「熱い抱擁」シリーズを仲間内で流行らせたのかを再確認した。訓練から赤龍隊配属まで一緒だった男、セルゲイだ。親しい間柄だったが、ある日、殿(しんがり)を務めて帰還しなかった。セルゲイの死に様は何度も夢に見ていたが、気づけば、ここ最近はその悪夢から解放されていた。抱擁といえばセルゲイの持ちネタだったはずだ。それを、忘れかけていた。

 時間は感情を磨耗させる。程度の差こそあれ、喜怒哀楽のいずれにも必ず劣化は訪れる。

 親しかったセルゲイの口癖を早くも忘れかけていたのは、しかし、単純な劣化作用ではないはずだった。江藤はセルゲイの記憶を努めて封印していた。自分の判断力がもっと高ければ、あのときセルゲイを犠牲にせず赤龍隊全員を生き残らせる術(すべ)があったかもしれないと思うからだ。阿納(あのう)真理(まり)の誘いに乗って黒龍隊を引き受けたとき、江藤の胸の内では、これで力が手に入るという期待と、また仲間を失う――そして今度は正真正銘、自分に責任がある――という不安とが拮抗(きっこう)していた。今は期待のほうが高まっているが、不安が消え去ったわけではない。セルゲイを完全には忘れ去れないのだから、それは道理だと江藤は自嘲する。そして自戒する。きっと忘れてはならないのだろう。いつかは対峙しなければならない。穂積克の再来が、なによりの実例である。

 江藤は地階に下り、資料室の前に立った。

 この部屋には多くの記録が集められている。印刷物は傷(いた)むし磁気ディスクも光学ディスクも完全に劣化を免(まぬか)れたわけではないが、それでも人間の勝手で曖昧(あいまい)な記憶よりは、数段ましな正確性が期待できる。

 胸が疼(うず)くのをごまかし、江藤は悠然と暗い部屋へ足を踏み入れた。いざ、探偵ごっこの開始である。

 資料検索とデータアーカイブ閲覧用のパソコンをすべて起動し、セキュリティログをさらって、最近ログインした人間をリストアップしてみた。結果はすべて空振りだった。データをアーカイブに入力するのに携帯型ストレージを直接持ち込んだ者や、過去の資料を閲覧しに来た穴蒲など少数の士官が見つかっただけだった。江藤の知る限り、彼らの中で坂元と親しい者は皆無である。

「ままよ」

 諦めるにはまだ早かった。江藤は机や床を矯(た)めつ眇(すが)めつ調べ、埃の排除された跡を探した。なにしろ、資料室の掃除は有り体(てい)に言ってぞんざいである。坂元がデータでなく紙の資料を閲覧したなら、座ったあとや、あわよくば書棚との往復の痕跡までをも洗い出せる可能性がある。

 そして、実際、それは可能だった。

 奥の書棚から分厚い年次記録が何冊か持ち出された形跡を江藤は発見した。靴跡もうっすらと識別できる。サイズは坂元の体格と合致。江藤は歩き方の癖をもそこから読み取ろうとしたが、本を抱えている人間の足運びを普段のそれとは単純に照合できないことに気がついて、舌打ちした。しかし執務室から確認した入退室のログと照らし合わせれば、まず坂元と決め付けて損はなさそうだった。

「何を読んでいたのだ、あいつは」

 坂元が閲覧したらしき年次記録十余冊は、発行年も場所も不揃いである。しかしそれをすべて机に並べてみた江藤は、全身の毛穴が逆立つような身震いに襲われた。でたらめに集めたと思われた年次記録は、ひとつの共通項を持っていた。古菅と同じ治安維持部隊に配属された新人時代から、黒龍隊隊長という現在に至る十二年分の履歴を、坂元は何らかの目的を持って調べたのだ。

 江藤はほとんど確信に近い恐れに震えながら、手近の一冊のページをめくった。ただ単に来歴を調べるだけなら、わざわざ各方面軍の年次記録を持ち出すまでもない。江藤の外廓聯以前の配属履歴情報には黒龍隊の全員がアクセス権を持っている。だから坂元が知りたがったのは別のことなのだ。それは江藤博照という個人名だけでは検索できない事象の連なりに違いない。

 ――過去十二年間に、亜細亜連邦軍が直面した変則領域絡みのトラブル。

 坂元がその関連項目を見たという確実な証拠はない。しかし幾つかのページは不注意からか角が折れていた。変則領域と無関係の記事には、そうした粗雑な扱いの痕跡はない。

 江藤にはそれで充分だった。

 坂元唯史は、上官の告白を待たずして、その秘密に気がついたのだ。

 どこまで正確に推測したか、それはわからない。とはいえ坂元のことである。厄介な変則領域関係のゴタゴタが、江藤が関わることで綺麗さっぱり解決しているという相関は露見したに違いない。

 適当な嘘をついてごまかすか、あるいは妙な誤解を生じないようにいっそ真実を語るか。対応は二択だが、いずれにせよ坂元は自分の言葉を鵜呑(うの)みにはしないだろうと江藤は想像した。話の裏を取りに動くに違いない。

 すると失踪の過程もだんだんと見えてくる。坂元が手軽に聴取に赴ける相手はふたりしかいない。ひとりは勿論、黒龍隊にあって江藤の最大の知己たる北嶋である。しかし北嶋と話すなら、人目を忍んで基地を出る必然がない。むしろ、北嶋は妻子の待つ家との往復を阿賀たちに護衛されているので、内緒話には全くもって向いていない。すると、やや考えにくいことだったが、坂元はもうひとりの江藤の知己に会いに行ったということになる。もっとも、必要な推定材料は軍内部で開示されているから、誰かが江藤と身近な協力者との繋がりを探し当てる可能性は考慮しておくべきだった。江藤は部下の調査能力を過小評価していたと認めざるをえなかった。

 暑さにうだる水牛のように江藤は唸る。

 困ったことに、守谷(もりや)黄道(かつみち)は根っからの話好きなのである。



- 4 -


 兎(と)にも角(かく)にも守谷に会いに行こうと決めた江藤は、陽も昇りきらぬうちからこっそり基地を抜けだそうとしていたところを、櫛田に捕まった。櫛田とはここのところ雪解けを見ているが、やはり目の上のたんこぶには違いない。腹ごしらえに草餅を頬張ったのがまずかった。あれがなければ、見られることなく抜け出せたに違いなかった。

「外へ出るときは、一声かけてもらう約束ではなかったかね」

 江藤の肩を叩いて振り向かせた櫛田は、あいかわらずの無表情で釘を刺す。木陰に隠れようとして完全に失敗した江藤は、滅多にやらない最敬礼を決めてむりやり取り繕う。

「実は、今から報告に参上つかまつる予定でした」

「いけしゃあしゃあと。――ともかく、ついて来なさい。車の中でその報告とやらを聞こう」

 櫛田が言い終わらないうちに、その背後に防弾仕様車が停車する。何の合図を受けずとも後部座席のドアが開き、櫛田は慣れた調子でさっさと乗り込んでしまった。ここで逃げても穴蒲にまたチクチク言われるだけだと想像した江藤は、二秒後には櫛田の隣へ巨躯を押し込んでいた。

 運転手は江藤の見覚えのある男だった。いつも櫛田が基地から出るときに使っている中年の下士官で、穴蒲同様、櫛田が猿之門着任の折に連れてきたスタッフである。助手席にはてっきり櫛田の副官たる穴蒲静香が乗っているものと江藤は思い込んでいたが、意外にもそこは空座になっていた。

「どこへお出かけで?」

 統幕本部なり統監部なりで櫛田が出席するような会議の予定は、今日はないはずだった。とはいっても江藤は自分がその領域の情報に対して割り振っているメモリの容量を過大評価はしていなかったから、これは素直に質問したのである。

「東京まで。用向きは極秘だ」

「俺は東京まで出かけなくてもよいので、そこらへんで降ろしてもらえますか」

「理由次第ではこの車でそのまま連れ帰らせる」

「なるほど。それでは説得するしかないですな」

 ふたりが会話する間に、車はゲートを出て、丘を下って行く。遠くの山林に葉桜がちらほらと見えたが、市街に入っていくと鑑賞はできなくなった。

 車が塚入橋にさしかかるまでに、江藤はこちらから穂積をおびき出す作戦の必要性について櫛田に説いてみせた。穂積と縁の深い櫛田が相手であるし、また運転席には後ろの話が聞こえないようになっているので、婉曲な表現は無用だった。しかし、坂元が行方不明であり九天軍に捕まった可能性があること、そして坂元が気づいたと思われる江藤自身の能力については、一切触れなかった。

 櫛田は殆ど黙って聞いていたが、江藤が九天軍を捕えるために外出を許可せよとの結論に戻って来ると、静かに反論を開始した。

「戦力を分散しているこの折に、ひとりで外に出て餌になりたいとは、常軌を逸しているな。どのような皮算用をしたのか知らないが、九天軍にみすみす黒龍隊隊長を奪われるような許可を、私は出すことはできない」

 たやすく意図を看破された江藤は、思わずほくそ笑んだ。前向きに捉えるなら、話が早い、ということである。

「では計算過程をご紹介しましょう、大将閣下。まず、戦力分散を閣下がご懸念なのも尤もですが、どうかもっと若々しい柔軟な思考をお取り戻しください。この分散態勢は、死に体ではなく純然たる攻撃態勢なのです。穂積と九天軍に対するね。連中の動きが掴めない以上、全戦力をこの猿之門に集中させているよりも、数箇所に分散配置したほうが対応が早い。二機一組の龍(ロン)が現場に到着すれば、九天軍の制圧には十分だというのがポイントですな。ついでにここと霞ヶ浦となら都市間基幹回線が繋がっているので、バロッグが出ても連絡途絶の心配はなく、あくまで単一組織として機能できる。あそこは実に便利ですよ、大将。ゆくゆくは黒龍隊の支部にしたいくらいだ」

「機兵の戦力過剰集中の弊害は、貴官の持論だったな。では少佐、続きを聞こう。どうして今、九天軍への攻撃に専念できる? 未だ確実な索敵が可能となったわけではない。あちらが潜伏に専念した場合は如何(いかん)とする。分散態勢が長く続けば単一組織としての連携能力は失われていく。そこへ啓示軍(オフェンバーレナ)の大規模な強襲でもあれば、二隊は容易に各個撃破されるだろう。九天軍との短期決戦の機運が到来していると、貴官は何を根拠にそう言えるのだ」

「西海道大学の梶間准教授の証言により、九天軍が新型……いえ、新種のバルムンクシステムを使用して、バロッグを予見もしくは誘発している可能性が高くなりました。これについてはすでに報告書に記載した通りです。この情報をもとに、ここのところ九天軍に手を貸している連中を芋蔓(いもづる)式にずるずるずるるるっとピップアップできると期待できます。そうすれば新種のバルムンクシステムのスペックや、さらには九天軍の隠れ家も順に明らかになるでしょう。決戦はぼちぼち……、定量的に言えば、一ヵ月のうちに到来すると断言できるのです」

「その程度の根拠で自信満々に断言されては困る」

「もちろん、この程度で納得されては困りますよ、大将閣下。俺は無能な人間に上に立たれるのが嫌いなものでね。最大の根拠は他にある。それを作りに行きたい、と申し上げている」

「そのための外出ということか」

「イエス。罠には餌が必要だ」

 餌は他にも考えてあるが、それは言わない。奥の手の奥の手。まだやると決めたわけでもない。

「私が訊いているのは、どうしてこのあとすぐにでも出かなければならないか、ということだ」

「穂積がこれ以上待てるわけがない。こちらが誘えば必ず食いつく」

「仮にそうだとして、一回分限りの餌を食い逃げされては元も子もない。貴官をガードするための手筈は整っているのか。阿賀少佐も忙しいはずだが」

「ええ、あいにく相談する暇もなく。まあ、さっき決めたことなので仕方がないですな」

「ならば、準備の時間が必要だ。餌を巻くのは七十二時間以降とする。これより早い作戦実行は、連隊長兼基地司令として認めない。よく協議し、熟考するように」

「これだから」江藤は荒々しく息を吐き出した。「嫌だったんだ。協議した結果が決断の先送りだ。黒龍隊隊長であり、穂積をよく知っているこの俺が一刻を争うと言うのだから、素直に許可すればいいものを。やはり相談など時間の無駄だった。上官など要らない。組織を硬直化させるだけだ」

 江藤は懐から拳銃を取り出して、構えた。

「あんたも穂積に罪を重ねさせたくはないはずだ。それなら俺の思うとおりにやらせてほしい。さもなくば、このままあんたを拉致して幽閉する」

 眉間に狙いを定められても、櫛田は動じなかった。異変に気づいた運転手の動揺が車のそれとなって伝わってきたが、櫛田は何でもないから安心しろと言わんばかりに掌(てのひら)を掲げてみせるだけで、表情筋ひとつ動かさない。まさしく笑顔のないカーネル・サンダース像である。江藤は、櫛田が慌てふためくことを期待していた自分に気づき、自己嫌悪を覚える。

「できると思うのか」

 沈黙を十秒と保つことなく、櫛田は言った。

「一ヵ月ならば可能だ。そして、奴との決着をつけるのにそれほど長い時間をかける予定はない」

「私の幽閉の実現性について訊ねたのではない。決着をつけられるかと訊いている。克との決着を」

「友人としての私情があるからこそ、奴とのケリは必ずつける」

「克がいなかったら、どうだ」

「――どういう意味だ」

「克が指導的立場にいるという証拠はまだない。九天軍は克の身柄をパトロンに引き渡したかもしれないし、あるいは九天軍にかつての叛乱首謀者たる穂積克が加わったという事実を作り上げ、協力者を得やすくするためだけに、脱獄から潜伏までを支援したに過ぎないのかもしれない。極端な話、克がもう生きてはいないことも考えられる」

「ばかばかしい。奴は現に、俺に接触してきた。桜小路の秘書を通じて、挑戦状を叩きつけてきたのだ。九天軍がそこまで演出を行う必要がどこにある」

「江藤博照、貴官は自分の特殊性についてもう少し認識を深めるべきだ」

 突然頬を叩かれたような感覚があり、江藤はまじまじと隣の将官を見つめた。櫛田は微動だにしておらず、叩かれたというのは幻覚に過ぎない。

 ――もしや、この男も俺の体質を知っているのか?

 考えすぎだ、と江藤は自己否定に達した。己の能力を証明しようとしたのはまだ若い頃の話であり、何度か受けた変則領域感知テストでもすべて陰性の結果を残している。公式に江藤の能力を示唆する直接的記述はない。間接的なデータなら、年次記録に残っていたわけだが。

 坂元が己の発見について言いふらした可能性も一瞬考えたが、完璧主義の坂元のことなので、中途半端な状況証拠では仲間に得意げに話を広めはしないとすぐに考え直した。現に鷹山は、坂元が重大な秘密に触れたことに全く気がついた様子がなかった。

 江藤が黙っていると、櫛田はなお続けた。

「九天軍の情報収集能力について正確なところは未だ明らかでないが、彼らの犯行の成功率からいって、黒龍隊隊長の過去の反動的言動を調べ上げるのに不自由はしないだろう。貴官が幾度となく上官や地方行政に食ってかかり、独断専行を重ね、相手の懐にねじこんだ実利をもって免罪符としてきた過去のことだ。本当ならば、江藤博照、君は克とともに叛乱に加わっていてもおかしくなかった男だ。九天軍はそんな貴官を味方につけようとしている。貴官と親しかったあの子の……克の存在を使って」

「味方にだと?」

「そのぶんでは、冷静な観察力を失っているようだな。横浜議事堂の一件で、何者かが

“ルート”への逃走の手引きをした疑惑……。あれは黒龍隊にとって決して他人事ではないことを知っておきなさい」

「阿賀や上妻を疑っている連中がいることなら、気づいている」

 憤然として答えた江藤を、櫛田は哀れみを帯びた眼差しで見返した。

「違う。阿賀少佐を介してではなく、黒龍隊が直接的に、九天軍に手を貸したという見方があるのだ。龍のBFGを用いれば、遠隔地からでもある程度のバロッグ挙動予測はできるだろう、という推測だな。包囲作戦の折も龍は参加していたから、同様の疑惑がつきまとっている。音響攻撃の技術を転用すれば“ルート”内の爆弾を遠隔操作できるに違いない、という話も出ているようだ」

「技術音痴の妄想だ」

「そう退ける者のほうが多数派であるのは確かだ。でなければ、多数決原理に従う中央議会が黒龍隊の復権を認めることはなかった。しかし貴官と克の交友を知る者は、決して黒龍隊の裏切り疑惑を軽視していない。数こそ少ない彼らの影響力もまた、軽んじられないものがある」

「辺境の拠点で缶詰になっていた俺たちのことを、どこの誰が知っているというのだ」

 櫛田の洞察の精緻さを認めつつも、江藤はやはり納得しきれなかった。江藤博照という人格のうわべしか見たことのない者が、知ったような口を利くことに。そして怒りを覚えた。己のみならず友をも侮辱するその言説に。

 江藤にとって、穂積克は友人だった。それは間違いのないことだった。叛乱に走った友の愚行は明らかだが、それを余人に指弾されるのは我慢ならない。眼前の櫛田が、穂積の父の代からの付き合いであればこそ、江藤は辛うじて拳銃を穏便にホールドしていられる。

「亜連のどこへ行ったところで、間諜から逃れることはできない」

 あいかわらず拳銃など見えないかのように、櫛田は江藤を諭し続ける。その指摘の正しさを幾多の経験で学んできただけに、江藤は、沈黙を選ぶほかなかった。

 車はいつしか猿之門の市街を抜け、東京への距離を縮めている。運転手は後部座席の成り行きを見守りつつも、当初の目的地へと向かっているようである。守谷のいる読字堂(よみじどう)へと引き返すには随分と行き過ぎてしまった。そして、いまだ櫛田を説き伏せられてはいない。このままカージャックを続けて猿之門にUターンさせるのも手だが、江藤はそんな気分にはなれなかった。櫛田伴雪(ばんせつ)という過去の英雄に対し、正々堂々かどうかはともかくとして、自分なりに納得のいく方法で勝たねばならないという強迫観念が江藤の中に生まれていた。

 車に乗り続けるか、降りるか。考えあぐねていた江藤を動かしたのは、櫛田でも運転手でもなく、にわかに肌を走り抜けた刺激だった。節足動物が駆け抜けたような感触だったが、江藤は、それが一種の幻覚であるとすぐに気づいた。未完成の第六感が、触感に姿を変えて変則領域の存在を江藤に知らせているのだった。ただ、その実体はよく掴めない。あまり典型的な感覚ではなかった。しかし、どこかで覚えがある。

 江藤は前触れもなく車のドアを開けた。驚いた運転手が減速しつつ路肩に寄せられる場所を探す。しかし櫛田は全く動じることなく、ただ江藤を見つめてこう言った。

「出かけるのはいいが、早く帰って来るように。金(キム)総司令は一日たりともボスポラスの日程を遅らせることはない」

「なんだと、くそ、もう始めるのかよ。了解」

 敬礼とともに、江藤は止まりきらない車から歩道へと飛び降りた。路面で二回転したうえで、受け身をとって立ち上がる。櫛田を乗せた車は、後続車輛との衝突を避けるため再加速するしかなく、すぐに江藤の視界から消えてしまった。

 往来の人々の奇異の視線を全身に受けつつ、江藤は拳銃をしまって歩き出す。知らない道だが、迷うことはない。変則領域の存在は、まだ江藤の第六感に呼びかけ続けていた。


*   *   *   *   *


「変則領域を感じ取れるのか、そりゃ、すごいな」

 同僚、セルゲイ・リーが目を剥(む)いて驚きを表現したのを、江藤はよく覚えている。まだ外廓聯の設立前、機兵の生産も始まっておらず、試作段階の龍を使って機兵の運用方法を詰めている頃のことだった。

 江藤は前の任地から厄介払い同然でその検討部隊へ転属となり、その他のメンバーも負けず劣らずの曲者ばかりが集まっていた。啓示軍の脅威に対抗するための期待の人材はSMITS(スミッツ)やその他の戦略軍諮問機関へと出向しており、江藤たちの部隊はといえば、政治的な思惑で形だけ編成された、特に結果を求められることもない吹き溜まり部隊だった。変則領域内戦術検討会という名を掲げてはいたが、実態は看板よりずっとお粗末なものだった。極端な例を挙げれば、銃砲がバロッグで使えなくなるなら竹槍でも代わりに使ってみようか、という議論を丸一日続け、大真面目に報告書にまとめていたくらいである。もっとも、議論を迷走させた最大要因は江藤自身だったが。

 竹槍で試合をしてみよう、と江藤は提案した。近くに竹は自生していなかったので、まずはモップで試すことになった。掃除のたびに事前練習に励みつつ、近場での変則領域の発生を待つこと数日。待望の霧は近隣の町を包み込み、電化された都市基盤を停止させるほどの大物だった。

 治安出動が必要ではないかと囁かれていたが、自治権侵害を嫌った自治体からの要請はなく、軍は動かなかった。警察は頑張ったようだったが力不足で、日が経つにつれ略奪暴行が相次いだ。江藤は自治体からの要請を待たず有志を募って出かけようとしたが、検討会を存続させることに意義を見出すお偉方の差し金でそれは未然に阻止された。

 そうこうするうちに、江藤たち変則領域内戦術検討会も、文字通り変則領域内に取り込まれた。会議室に相対バルムンク反応センサを設置し、モップを槍代わりとした模擬戦が始まった。

 それは本当にただの槍の勝負以外の何物でもなかった。変電所で爆発を起こすようなバロッグでも、まさかモップごときを破損せしめるような敏感さは持ち合わせなかった。しかし、江藤にとっては肌身の感覚から自明のこととはいえ、周囲が安心するにはやはり実験は必要だった。江藤は人並みに啓蒙の努力をする気になった。

 江藤は下馬評通り他の検討会メンバーを打ち破って勝ち進み、そして同様に五人抜きをして江藤の前に立ちはだかったのが、江藤に次いでの大男、セルゲイ・リーだった。すでに呼吸が合うことを悟っていたふたりは、対峙とともにほくそ笑んだ。互いの計画が同じであることをその笑みから確認しあうと、試合開始の合図とともに両名はモップを振りかざして室外へ躍り出た。追いすがり、立ちはだかる将兵たちを悉く振り払って――もちろんモップを使って――車庫まで強行突破。あとに続いた数人の仲間たちと共に装甲車を制圧して、騒乱収まらぬ町へと向かった。

 道中、バロッグによるエンジンの爆発を恐れた運転手に、江藤は濃度の低い道筋を随時伝えて誘導した。セルゲイは黙ってその様子を見ていたが、とうとう町まで無事に辿り着くと、深い溜息をついてこう言った。

「死ぬかと思った。全く命知らずだな」

「命なんてたいそうなものを知っていると豪語するほど俺は傲慢じゃないが、変則領域の在処くらいならわかる。知恵も努力も必要ない」

 どうしてあっさりと秘密を明かしてしまったのか、江藤は何度かふりかえって首を捻(ひね)ったものである。仁王像のような顔をして笑うと案外剽軽(ひょうきん)なセルゲイには、告白を促す特殊な性質が――それこそ江藤の特異な体質と同じように――具わっていたとしか未だに言いようがない。

 セルゲイは突拍子も無い江藤の発言に疑いを示すことなく、「そりゃ、すごいな」と感心した。江藤は不覚にも胸を打たれた。自分だけが持つ能力について、ただ純粋にすごいと評価されたのは、意識した限りにおいては初めてだった。

 その日から、セルゲイとは新たな親友となった。それまで江藤が秘密を自ら明かした相手は、子供の頃からの付き合いである北嶋や、士官学校で苦楽と寝食を共にした守谷や茨木などごくごく限られていたが、セルゲイのあっけない受容によって江藤はその枠を拡大する気になった。そして装甲車制圧メンバーを中心として、気の合う同僚たちに自分の能力を示した。信じる者と信じない者とがおよそ半々で、それは江藤の期待値よりもずっと良好な結果だった。穂積克は後者であった。よく酒を酌み交わした仲だが、穂積は江藤の話を法螺(ほら)として認識していた。江藤は別にそれでもよかった。異質な能力を示しても、排斥されなかった。種のわからない手品のような扱いでも、話の種になり、人間関係の潤滑材として機能してくれた。不満などなかった。いまだゆりかごにあった機兵の開発への参加も面白く、都会で放映しているアニメや特撮番組を生視聴できないことを除けば、充実した日々だったと言える。なにより、あそこでは誰も死ななかった。――穂積が叛乱に走るまでは。

 穂積が何をきっかけとして叛乱の意志を固めたのか、江藤は知らない。親しくはあっても心の奥底までさらけ出して付き合ってはいなかったということだろう。

 穂積の思考をトレースはできないが、しかし、その行動が完全に江藤の予想外だったわけでもない。江藤もまた、体制に対する不満を持っていた。だからこそ改革を期して士官となったのだから。採択した方法論が異なったというだけで、江藤と穂積の志の方向性は近しいものだった。

 だから、櫛田が口にした、穂積を介して黒龍隊と九天軍が繋がっているという推測は、あながち見当違いでもない。論理的に否定しがたいがゆえに、尚更江藤は櫛田に対する苛(いら)立ちを募らせた。歩道をひとり歩く今ならそう自己分析もできる。車内での自分は冷静ではなかった。

 春風の強制対流を受けて頭を冷やされた江藤は、ようやく気が付いた。己の重大な見落としの可能性に。穂積の再来について、櫛田が真に示唆したところに。

「認めたくないものだな……。自分自身の、バカさゆえの過ちというものを」

 台詞回しを楽しめるくらいには、江藤はいつもの調子を取り戻していた。

 それが行く手の変則領域のおかげであるかもしれない、と思いついても、江藤はもう動揺はしなかった。己と変則領域――その発端と思しき八月の悪夢との間にどういった宿命があるのか知らないが、使える力は利用し、逆に副作用で困ったときには悪態をつく、ただそれだけのことだと開き直った。己の個性について、なぜそうなってしまったのかと自問する必要などない。あるようにあればいい。

 そして江藤は、緑地公園に発生したバロッグの中へと分け入っていった。それがどのような変則現象を呈するものか予測もつかなかったが、迷いはなかった。そうすることが、至って自然に思えた。ただそれだけのことだった。



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 李(リー)峰國(フェングォ)は午前の訓練メニューを消化して、さらに日頃は溜りがちのデスクワークも通常の三倍のスピードで片付けて、空いた時間で自室に戻っていた。隠したバナナを取り出して食べるためではない。断じてない。あわよくば昼から霞ヶ浦に向かうことになるのだから、携帯食をここで――しかも昼食前に――消費してしまうのは得策ではない。腹を空かしておいたほうが正餐(せいさん)の感動も深まる。なにしろ久しぶりのご馳走が期待できるのだから、目の前の小さな我慢などたやすかった。峰國は我慢の子であった。

 食い意地が張っているのはむしろ江藤のほうだと、見切り発車で始めた荷造りの傍ら、峰國は考えていた。江藤は多分、出所不明の新型機兵を狙っている。ただ見たいとか触りたいとかデータが欲しいとか試乗したいとかではなく、現物を懐に納めようとしている。さきほど執務室で話したとき、江藤の目に欲がありありと浮かんでいたので、峰國はすでに確信の域に達している。

 パイロットとして新型を是非とも試したい、というような衝動を、正直、峰國は持ち合わせない。前に防人(さきもり)型を任されたのも実のところ迷惑だった。もっとも、乗りたくないというこだわりがあったわけでもなく、ただ面倒くささが優先されたに過ぎない。したがって、何がしかのメリットがあるなら、モルモットになるのも悪くないと考えるのが峰國である。バナナ一年分とかカフェオレ一年分とか、そういったご褒美さえあるのなら。

 そんな峰國が今回敢えてテストパイロットに志願したのは、むろん、下心あってのことである。胡散(うさん)臭さも陰謀の臭いもプンプンするが、峰國の嗅覚はこれをむしろ魅力として捉えている。狙うところはちょっと仲間にも漏らせない――霞ヶ浦の飯がうまいらしいなどと鷹山が言いふらさないことを祈る――が、このチャンスを見逃すという選択肢はなく、峰國はこっそりと暗躍する道を選んだ。

 いつもと表情が変わっていることをふと自覚して、峰國は表情筋の制御を修正する。いつもの顔の復活。

 不意に部屋のドアの開く音がして、峰國は振り向いた。咄嗟のことだったが、表情筋の制御は完璧である。しかし、その努力は報われなかった。廊下側から顔を覗かせていたのは、鷹山ではなく、そもそも黒龍隊の誰でもなく、峰國の普段の顔など知らない人物だった。華奢な体に、アスリート的な短髪の持ち主、SMITS(スミッツ)出向の龍王(ロンワン)パイロットでもある、五百蔵惟織。

「お、お邪魔様」

 侵入者はぺこりと頭を下げ、半分押し開けていたドアを閉めて退散する。探検気分でうろついていたのか、それとも偵察活動なのか、ともかく個室に人が残っているとは思っていなかった様子である。

 意外なのは峰國のほうも同じだった。もう帰ったと思っていた。龍王陸番機はすでにSMITSが運び出している。パイロットだけがどうしてここに残っているのか。

 逃走した五百蔵を追いかけるべきか、峰國は迷った。今朝の、鷹山に付き添うかどうかの選択よりも、ずっと難しい問題のように思われた。一分ほどあれこれ考えて、結局、追うことにした。ただし、相手に気づかれないように。

 峰國は窓から外の様子を見渡し、誰の目もないことを確かめると、そこから外へ出た。江藤の持ち物から興味本位で失敬した鈎縄(かぎなわ)を使って。

 きょろきょろと辺りを警戒しながら、五百蔵が小走りに去っていく。峰國は真後ろからつけるのではなく、並走するかたちでその足取りを追った。半ば予測行動である。フェイントをかけられたら見失ってしまっただろうが、五百蔵惟織の歩みは単純だった。ただ人目を忍ぶことしか念頭に置いていない。匂いすら隠蔽して秘蔵バナナを間食できる峰國から見れば、児戯に等しかった。

 少女を追って、峰國は基地内のうらぶれた一画へと足を踏み入れた。正面に見える、錆の浮いたシャッターは、たしか古い資材置き場だったはずである。黒龍隊には縁のない場所。ゴン太の散歩を仰せつかったときでも、ここにはあまり近づかない。部外者のほうがかえってよく出入りする、という話は聞いたことがない。

 五百蔵がその資材置き場の勝手口に入っていったことは、ドアの近くで不自然に揺れている雑草のおかげで一目瞭然だった。技能に劣るからといって不審者を見逃す理由にはならない。プロ以外の犯行を放置するような警察では、市民に信頼されないだろう。――亜連にはそれが実在するが。

 屋内に入ってから完全に駆け足にでもなったのか、峰國がドアを抜けると、もう五百蔵の気配はなかった。しかし、迷うこともなかった。錆と埃だらけのシャッターはどう見ても動かした形跡がなく、勝手口はくぐり抜けたそこひとつ。袋小路……と思いきや、そうでもないことに峰國はすぐ気がついた。かくれんぼは得意分野である。隠し部屋や抜け道のにおいがプンプンする。

 デザートを漁るゴン太と同等の鋭敏な嗅覚によって、峰國は秘密の通路を発見した。それは荷物や布でカムフラージュされていたが、五百蔵の細腕でも動かすことは容易そうだった。実際、五百蔵はそうしたのだろう。他に隠れられそうな場所はすべてチェックした。

 峰國はわくわくしながら秘密の通路に進入した。明かり取りから日光が差し込んでいるので暗くはなかった。小部屋を繋いだような造りで、おまけに何度か袋小路に偽装されていたが、いずれも簡単なごまかしだった。設計上はおそらく巧妙な偽装も可能なのだろうが、作業者にその仕様を満たそうという意欲がなかったのだろう。多数の人間が使っていることが窺(うかが)える。

 途中で階段を下って以来、窓がなくなって通路が暗くなった。電気のスイッチらしきものはあったが、タライでも降ってくると嫌なので峰國は敢えて触れなかった。

 道を間違えたつもりはなかった――そもそも分岐点などなかった――が、下りに下ってドブ臭い排水系のメンテハッチに出たとき、峰國は一瞬引き返そうかと思った。それを踏みとどまらせたのは、かすかに峰國の頬を撫でた空気の流れと、鼻腔に漂い来た泥や草木の匂いであった。この先に出口があると直感する。

 排水系からまた猿梯子(さるばしご)を登って、峰國は出口に到着した。光が漏れていたのでそれと判じた。おおよその標高を意識していた峰國は、喜び勇んでいきなり飛び出すことはしなかった。まずはそっと外の様子を覘(のぞ)き見る。案の定、そこは崖だった。基地の外縁、フェンスを越えた外側。つまりはもう、軍の敷地外。数十メートル先に、古い舗装の道路が見える。

「こんなところに口裏があったとは」

 それを言うなら裏口だ、と突っ込む者はなく、そもそも人影など全くない。道路まで視線を移しても、車は走っていないし、往来する人もない。

 ここは完全に秘密の抜け穴なのだ。本来唯一の入口であるはずのゲートを通らず、誰にも見られずに基地の外へ出て、また密かに戻ってくるための。

 峰國は出口――崖に穿(うが)たれた穴をくぐって、外へ出た。基地の敷地外へと。五百蔵のかぶせていったカムフラージュ資材をそっくりそのままに配置しなおすと、それは遠目にはただの茂みでしかなかった。あの少女の雑な神経で作れるものではない。

 車道まで出て裏口の秘匿性の高さを確かめると、改めて、いったい誰がこれを作ったのかという疑問が湧いた。とりあえず自分でないのは確かだった。黒龍隊の誰かが作ったとも思えない。もう何年も前に作られたように見えたからだ。もしかすると基地造成時からあったのかもしれない。設計どおりに。――横浜議事堂の地下通路のように。

 由来はともあれ、これでふたつの謎が解けたので、峰國は満足だった。門宮洗がしばしば守衛にも気づかれずに基地に入って来ていた謎と、昨夜坂元がこれまた誰にも知られずに基地を抜け出せた謎のふたつが。

 こうなると坂元の捜索も、この通路を使っている人間を探し出して事情聴取するのが手っ取り早いように思われた。もしかしたら坂元は前から抜け道を利用していたのかもしれず、そうだとすれば、今どこへ姿を消しているのかも自ずと知れてこようというものだった。

 否、情報源は人のみではない。坂元は何らかの痕跡を残したとも期待できる。

 峰國はさっそく靴跡をチェックした。よくよく見れば踏み敷かれた雑草が秘密通路の存在を示唆していたが、地面もしっかり踏み固められていて、靴の形を割り出すなど不可能だった。通路内のドアノブやら壁から指紋を採取すれば坂元がここを通ったことは立証できそうだが、もっと有益な、行き先特定のヒントを峰國は欲していた。

 再び車道まで出てみる。あいかわらず通りかかる車はない。人も来ない。雀が三羽飛んでいったが、何かに追い立てられた様子もない。いたって長閑である。向こうの歩道の脇に生える、セイヨウタンポポの黄色い花弁が微笑ましい。もっとも、峰國は綿帽子のほうが好きだったが。

 そういえばこの辺りではいつごろ綿帽子が見られるのか。峰國は花の様子を確かめようと、車道を横断して駆け寄った。セイヨウタンポポは遠目よりも多く繁茂していたが、周りを取り巻く邪魔な雑草を掻き分けてみても、綿帽子は見つからない。

 なお諦めきれずに歩道を進み、観念して基地側の歩道へと戻ろうした峰國は、ようやく発見に至った。綿帽子ではなく、求めていた物証を。

 峰國が車道の真ん中で拾い上げたそれは、ナイフだった。コンバットナイフ。坂元の持ち物に違いない。

 検めてみると、刃こぼれやシミはないものの、柄の部分に新しそうな擦過跡がある。車のタイヤと接触したのかもしれないが、坂元が肌身離さず持っている愛用物がこんなところに落ちていることと合わせて考えて、やはり彼の身に何かあったと峰國は結論づけた。

 ナイフをポケットにしまって、腕時計を見る。都合のいいことに、そろそろ江藤の執務室に呼ばれている時間である。ついでに報告できる。時計は士官用として支給されたもので、通信機としての機能も持ち合わせているが、峰國は口頭で伝えることにした。江藤のみに通じる秘匿通信モードを、この端末は備えていない。チャンネルの指定は可能だが、他の将校の端末や通信隊の設備に割り当てられた上位権限で盗聴も可能な仕様だと聞いている。

 基地に戻った峰國は江藤を探したが、これがどこにもいなかった。北嶋は残っているし、他の主だったメンバーもそれぞれ仕事についていた。ゴン太もいた。司令部もうろちょろしてみたが会議も行われていない。櫛田も不在なので説教を受けているわけでもなさそうだった。食堂や私室のほうも探したが、やはり空振りだった。

「李少尉」

 穴蒲静香の声だとすぐにわかったので、峰國は背中を向けて退散しようとしたのだが、穴蒲はもう一度峰國の名を呼んで制止した。逃げるなよ、と言い含めた声音だった。

「はい、元気です」

 とりあえず返事をして向き直ったが、穴蒲はにこりともしていない。司令部に立ち寄った際に、江藤を探していることがばれたようだった。ばれて何が悪いというわけでもないが、峰國はこの女に対して警戒心を抱いていた。秘蔵バナナの一部を摘発、没収された恨みもある。

「江藤少佐なら外出なさいました」

 何か面倒なことを言われると身構えていたところに、意外な発言が出た。

「どこへ?」

「行き先までは感知していませんが、東京方面だとか。おひとりで向かわれたそうです」

「え、俺に捕まえに行けってことですか」

「どうしてそうなるのです」

「ただの親切で教えてくれるほど、優しい人じゃないでしょう、大尉は」

「――言わせておけば、このぐうたら士官は!」

 鬼女の形相に変じた穴蒲から、峰國は一目散に逃走した。途中、殺気を感じて首をすぼめたら、頭上を何か鋭利な物が掠めていった。危ないところだった。

 詰所に戻り、冷蔵庫からアイスコーヒーを出して一息つくと、峰國は穴蒲から聞いた話を思い返した。江藤がひとりで東京方面へ出かけたという話。

 おかしな話だった。江藤は峰國に再来室の時刻を指定した。つまりその時点では外出の予定はなかったわけで、この数時間で何か急ぎの用事を思いつき、しかも誰にも告げずに出て行ったことになる。相当急いでいたか、人目を忍んでいたか。後者だとすれば江藤は五百蔵よりだいぶうまくやったと言える。穴蒲大尉くらいしか外出を把握していなかったのだから。恐るべきは穴蒲静香である。

 もしかしたら、報告の必要はないかもしれない。峰國はそこに思い至った。

 江藤は最初から、坂元が拉致された可能性を念頭に置いていたのかもしれない。勝手に基地の外へ出て帰らないなど、非常事態を疑って然るべきところである。それなのに江藤は暢気に構えていた。そう装っていた、と疑える。何度も同じ手は食わない。昼行灯(あんどん)のようでいて、実は半分くらいは真面目なことを考えているのはもうばれているのだ。話を大きくしなかったのは、隊の混乱を避ける意図があったのだろう。不祥事を外部に漏らしたくないという事情もあったかもしれない。いずれにせよ、江藤の隊長としての判断に間違いない。

 が、しかし。峰國は不満である。江藤が自分や鷹山には何も知らせずに、ひとりで事態に対処しようとしているのはどうしてだろうか。役に立たないと思われているとすれば、甚(はなは)だ心外である。霞ヶ浦派遣の件も取り消されるかもしれず、看過できない認識の齟齬と言える。

 たまには頼りになるところをアピールしておくのもいいかもしれない。それには何がいいだろうか。坂元の居場所を江藤より先に見つけて報告したならさぞかし効き目がありそうだ。いっそ救出まで単独でやってしまえばもう効果は絶大に違いない。おっちょこちょいキャラと認識していた同僚から助け出されたら、坂元がどんな顔をするか。それも見ものである。

 愉快な想像はむくむくと膨らんだが、峰國はそれを網で捕まえて籠(かご)に放り込み、倉庫にしまって鍵をかけた。坂元の捜索と救出ごとき、やってできなくはないだろうが、少々関係各位への刺激が強すぎる。己の分というものをわきまえなければならない。

 それに、坂元を取り返すことは実はとても簡単なのかもしれない。少なくとも江藤にとっては、ひとりでちょっと出かければ余裕で片付けられる程度の問題であるかもしれない。そんなところへしゃしゃり出て手柄を掻っ攫(さら)った日には逆効果もいいところである。江藤はたいそうオカンムリになるだろう。

 いろいろ考えると、リスクのほうが大きいのは目に見えている。それならば余計な色気など出ぬのが賢明というもので、峰國は霞ヶ浦に思いを馳せつつ自分の仕事を優先することに決めた。SMITS撤収後にまだうろうろしていた五百蔵のことも放っておくし、依然坂元を案ずる鷹山にも、何も言わないでおく。言っても混乱が生じるだけだった。特に、隊長である江藤がいない今は。

 ま、こっそりと手を打つくらいは問題ないか、と峰國は思い直す。動くのが自分以外なら、労力は最小限で済むし、責任もごまかせる。ちょうどいい使い走りにも心当たりがある。

「峰國さん、なんだかはりきってますね」

 書類をどんどん片付けていると、朝井に異変を感づかれた。峰國はいつもの笑顔でこれをごまかす。朝井はまだ霞ヶ浦へのテストパイロット派遣の件を知らない。峰國にも、言えることと言えないことの境界は存在するのである。朝井にごねられては霞ヶ浦の飯を食えなくなるおそれがある。

 ――やれやれ、李峰國少尉も大変だ。

 他人事のように内心で笑って、また一口、コップの中の黒い液体を体内に取り込む。牛乳を混ぜ忘れて、カフェオレになっていないことに気づいたが、これもまた、峰國は放っておいた。



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 四月十五日、昼下がり。

 司令部棟の地階、照明の切れかかった廊下を進み、坂元は目的の部屋の前に立った。

 資料室。札にはそう書かれており、実際、そのとおりの場所だった。南田はときとして図書館代わりに使っているようだが、坂元にはそうした読書の趣味はない。

 ドアの隙間から光が漏れている。地下なので光源は電灯に違いない。

 坂元は違和感を覚えた。これまでも何度かこの資料室には来たことがあるが、昼間に先客がいるのは初めてのことだ。

 セキュリティをクリアして中に入る。

 電灯は消し忘れなどでなかった。奥の本棚の間からひとりの女が出てきたことでそれは証明された。櫛田の副官、猿之門基地の規律の女王である。

「何か調べ物ですか、大尉」

 坂元が先制して声をかけたのは、帰るところらしい穴蒲と視線が合ったためだ。

「まあ、そんなところです。あなたこそ、どうしたのですか。暗い地下室にこもるようなタイプだとは思っていませんでしたが」

「俺は文武両道ですよ」

 言うと、穴蒲が眉を顰(ひそ)めた。なかなかいい顰みだと坂元は思った。が、情動を煽るには至らない。いかに端整で精巧だろうとマネキンが恋愛の対象にはならないのと同じかもしれない。これも人間味の一種だとは思うが、タイプではない、ということだ。

 内心そんなことを考えているとは一切表情に出さない坂元を、穴蒲はただの軽佻浮薄(けいちょうふはく)な新米士官とみなしたらしい。目つきを鋭くして説教モードにチェンジした。

「坂元少尉。俺、などという言い方はやめなさい。言動はすべて、立場というものを考えて……」

「ラジャ」

 大仰(おおぎょう)に敬礼して、坂元は穴蒲の脇を通り過ぎる。そのとき香水の匂いがして、坂元は、予想外のことについふりかえった。穴蒲はそれに気づいた様子もなく、後ろ姿はすぐに廊下へと消えた。

「堅物でも女は女か」

 誰もいなくなった資料室で坂元はひとりごち、気を取り直して目的の書棚に向かう。

 見たいのは軍の年次記録である。いちばん手前に並んでいたのは猿之門基地で独自に基地関連の出来事をまとめた薄い冊子だったが、これは興味の対象外。奥に続いて極東方面軍作成の数センチ厚のハードカバーが存在感を示しており、坂元はこのなかから年次を選んで数冊を引き抜いた。さらに、腰を少しかがめて、同じ棚の下段からも数冊を取り出す。東部方面軍の二冊と北部方面軍の一冊。目当ての資料はまだあったが、これだけですでになかなかの重みになったので、坂元はひとまず手近の机に引き上げる。

 腰掛けると、坂元はポケットから一枚の手書きのメモを取り出した。それは江藤の経歴を複数の資料で調べてまとめたものだった。坂元はこれを携帯して、寸暇(すんか)あらば眺めていたので、各方面軍の年次記録を選び出すには記憶だけを参照すれば十分だった。すなわち眼前に積んだこの資料は、江藤の軍歴を浮き彫りにするための道具なのである。

 江藤博照といえば、日本の士官学校を卒業してその名を知らぬ者はないとされる有名人である。伝説も数多い。もちろん坂元も黒龍隊配属前からいろいろと聞いていたし、ダーダネルス作戦参加までに経歴は一度洗い出している。噂通り、行く先々で問題を起こすせいで頻繁に任地を転々としていることがわかり、果たして黒龍隊隊長の地位もいつまで持つものかと、密かに鷹山と賭けをしてもいた。

 しかし、これから調べるのはもっと深い事実である。江藤に関係した珍妙な騒動のなかに、ある一貫したキーワードが隠れているのではないか。そう睨んだからこそ、各軍轄区の出来事を時系列で確認できるこの資料を坂元は選んだのだ。見えない糸を手探りで探すために。

 そのキーワードの存在を坂元が推定したのは、ダーダネルス作戦中に黒龍隊の機兵と情報化装甲車が記録した膨大なデータを見ていくうえでのことだった。鷹山たちは――坂元が言葉を交わす相手は誰も――まだ気付いていない。これには、彼らが坂元と同じ情報を持っていないことが決定的な境目となっている。

 そもそもダーダネルス作戦の記録は、いろいろと障りがあるということで江藤と北嶋が封印しているのだ。それゆえ全員分の記録を相補的に吟味したのは彼ら二名を措(お)いて他にはいない。坂元がそれをどうやって見たかと言えば、何も江藤の厳重な封印を破るハッキング技術を身につけたわけではない。矢俣がこっそり手元にコピーを残していたのを、脅して手に入れただけのことである。北嶋に隠れて案外悪いことをしていた矢俣は、いくつかの戦闘記録映像などを興味本位でチェックしたあとは、将龍の改造作業に没頭して、ディスクに埃が積もるに任せていた。

 ディスクの存在を知ったとき、坂元がそれを手に入れようと思い立ったのは、西フェルガナ基地で自分の犯した過ちを具に確かめておきたいという反省の念からだった。

 記憶だけでは結論の出ない疑問がいくつもあった。自分はいかにして久留に誘導され、そしてバロッグの中で味方を誤射することになったのか。久留はどこまでを目標としていたのか。亜連を裏切ったと久留が断じた安(アン)超備(チャオベイ)は、本当のところ何を目的として動いていたのか。誰が黒龍隊の敵で、誰が味方だったのか。

 記録を見て早々に確認できたのは、藤居の龍(ロン)を撃破したのが鷹山の放った砲弾だったことだ。坂元ら第三小隊の記録は「おそらく時空跳躍による不具合により」消失していたが、藤居機や南田機の観測情報から発射元を割り出すことができた。

 坂元はこれを鷹山に告げるべきか悩んだ。誤射の責任は小隊長として攻撃を指示した坂元にあるが、鷹山が素直にその理屈を受け容れないのは明らかだった。坂元もまた発砲しており、運良く外れていなければ坂元こそが直接的な犯人になっていた可能性もある。しかし、鷹山は結果がすべてだと撥(は)ね退(の)けるだろう。自分の撃った弾が藤居の龍の腹を貫通した、その事実こそが意味を成すと。

 塞いでいた坂元に、光明をもたらしてくれたのは他ならぬ藤居だった。彼は坂元を許し、鷹山を許し、あまつさえ久留すらも恨んではいないと言った。また、鷹山が真相に触れることの無いようにすると言ってくれた。

 坂元は藤居に一言も礼は言わなかった。当人がそれを望んでいないと感じたからだ。だから代わりに、同じ過ちは繰り返さないと誓った。自分だけでなく、周りの人間の過ちも未然に防いでみせると。そういう士官になる義務を自らに課した。

 ロードマップはすでに作った。まずは、黒龍隊の周りで起こったすべての事象を客観的に把握することが肝要だと坂元は考えていた。

 藤居と話をしたその夜から早速取り掛かったのは、自分たちの遭遇した数々の超常現象についての分析である。あれらの有様を丹念に見返すことで、当時は見落としていた何かがわかるかもしれない。そう思っているのは坂元だけではないはずだ。

 江藤と北嶋はだいぶ前から、現時点で可能な検証を終えた、しかし何もわからない、と言っている。しかしこれを信用するのは単純に過ぎる。判明した事実があまりに危険なために、部下たちにすら隠さざるを得ない、という事情があるのかもしれない。

 疑念は別に偏ったものではない。客観的に分析しようと決めた以上、坂元は正常な判断力の範囲ですべての可能性の振れ幅をカバーしたいだけのことである。ゆえに、仮に江藤たちが何かを隠していたとしても、それを責めるつもりは坂元にはない。鷹山たちに累が及ぶのを嫌って核弾頭の秘密を自分の肚(はら)に収めようとした自分と、今の江藤は同じ立場にいるのかもしれない。そう考えると、むしろ共犯者として加わることでふたりの重荷を一部受け持ってやるべきではないかという義務感すら湧き起こるのだ。

 最も不可解なのはやはり時空跳躍現象だが、興味はそれだけにとどまらない。南田や峰國(フェングォ)らが交戦したというモンスター型の乗俑機(じょうようき)「鎧蜘蛛」を坂元は直接見ていないし、“ベルリンの壁”の内側や、ノイエトーター、トーデスゲヴァルトといった啓示軍の強力な機兵の戦いぶりも拝んでおきたい。そしてあの影龍(インロン)――牙黒鷲(ガコクシュウ)とやらが今後継続して信用するに足る相手なのかという命題についても、判断材料が欲しい。神出鬼没な応龍隊のことだけに、いつ急な選択を迫られるかわからないのだから。

 あまりにも多く、そして悉(ことごと)く容易ならざる課題である。そこで坂元は、最初は映像と音声の記録を網羅的にチェックすることにした。矢俣が十数個の別個の機体で保存されたデータを時間軸で整理しようとして断念した痕跡があったので、それを引き継いで整理しなおす傍ら、編集するデータを倍速で見て、聞いておく。

 鍵は、そうして見つかった。

 鍵は、あまりに常識外れの形をしていた。

 判断の客観性を保つため、坂元は努めてそれを鍵と思わないようにした。ガラクタの凹凸がたまたま錠前に合致したに過ぎず、偶然は二度もないはずだという立場で続きのデータをチェックした。しかし、すっぽり鍵の収まる穴が次々に現れた。“ベルリンの壁”の発生など、明らかにスケールの違う問題の究明には使えないが、身近なレベルでの謎の多くがそのキーワードひとつで繋がった。それを否定できなくなった坂元は、閃きを仮説として格上げした。そして先ほど、龍王との試合で、坂元は仮説がさらに補強されたという手応えを得た。

 見つけたガラクタを正真正銘の鍵と認めた坂元は、それを利用して開けられる錠前が過去にもあったのではないかと思いついた。鍵を利用して新たに真実を探るステップに踏み出したのだ。扉自体が隠されているかもしれないが、存在に気づいてしまえば場所を特定するのは比較的容易である。

 坂元は一時間かけて資料のチェックを終えた。江藤の経歴をメモしておいた紙は、今や追加の書き込みで真っ黒になっている。そして結果も黒だった。坂元は確信した。

「江藤博照は、まさしく異端児だ」



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 日が暮れるのを待ってから、坂元は鷹山や門衛の目を盗んで基地を抜け出し、商店街に向かった。店じまいの近い書店に入り、奥のほうでやたら分厚い全集物などを物色する……ふりをする。坂元が入った時点でちらほらと残っていた客は、やがて店内に流された「家路」を聞くと、三々五々に散っていった。

 そして坂元だけが残る。客としては、最後だった。まだ店の人間が残っている。アルバイトの学生は「家路」を最後まで聞かずに元気のよい挨拶を残して姿を消したので、残るは店長だけだ。他にも店員はいるが、この街の通りがまばらになる頃合に引けてしまうのが通例であることを坂元はすでに調べていた。

 前々から怪しいとは思っていたのだ。この書店のことは。

 黒龍隊創設のあの霧の日、阿賀の部下を叛乱軍と誤認して逃走した坂元たちは、この店で息をついて作戦会議をした。それは、目立つ場所にあったこの店が、都合よく鍵もかけられずに留守になっていたからだ。それだけなら偶然とも思えるが、抜き打ちテストを企画した張本人である江藤もまた、この店で立ち読みをしていた。まるでここに受験生たちが逃げ込んでくることを予期していたかのように。

「閉店ですよ」

 閉店時刻十五分後まで粘っていると、ついに声をかける者があった。坂元はふりかえり、そこに線の細い男の姿を認める。背恰好(せかっこう)からして店長に間違いない。が、近くで顔を見たのはこれが初めてだった。

「これは失礼。――夜宮(よみや)さん、ですか」

 胸にはそう名札がついているが、坂元は敢(あ)えて相手の名を問うた。

「ええ、ヨミヤです。ヤミヤとかヨルミヤとかじゃありません」

 にこやかに答える店長に対し、坂元はあくまで真顔を崩さない。なぜなら、ここにもまたひとつ隠れた扉があったと気づいたからだ。

「十二年前のお名前を聞いてもよいでしょうか」

 これを聞いて、店長の笑みが固まった。

「――父の手の者か」

「いいえ。ただ、俺はあなたの顔に見覚えがある。写真でね。しかしそのキャプションには夜宮とは書かれていなかった。それだけのことです」

「ああ、なるほど」店長の顔のまわりで時間が再び動き出した。「博照の部下か。そして僕の後輩。そういうことだね」

「坂元少尉であります。どういう事情か教えて頂けますか、守谷先輩」

「『先輩』ねえ、いい響きだなあ。――なに、別に複雑な話じゃないさ」

 店長は椅子を引っ張ってきて、坂元に勧め、自分は近くにあった脚立(きゃたつ)に腰をかけた。

「数百年にわたる武門の家計の末裔(まつえい)である僕は、歴史にそのまま染められたような親父の意向に逆らって、軍への入隊を拒んだ。そしてこの街で偽名を使って本屋の主人をやっている。親への仁の心は足りないかもしれないが、そのぶん僕は友情に篤(あつ)くてね。士官学校時代の馴染(なじ)みがたまたま近くの基地に赴任して来れば、協力は惜しまない。ただし親父の手前、表立っての支援はできないから、その点については博照にも気を使ってもらっている。ところで君は、博照のお使いで来たというわけではなさそうだ。僕に何をさせたい。こわいな、今にも恐喝でも始めそうな顔つきだよ、君は」

「江藤少佐についてお聞きしたいことがあるのです。あの人の、体質について」

「ああ、よく太るよな、あいつ。身長も日本人離れしている。僕は生物学の権威でも何でもないから、なんで博照のエネルギー吸収率があんな高いのか聞かれたって、残念ながら正解は答えられない」

 はぐらかされようとしている。坂元はそう判断し、予想応答集のなかから最適と思われるパターンを選び出した。

「あの分厚い肉が、キャパシタのような働きをしている。俺はそんな仮説を立てています」

「キャパシタ? いわゆるコンデンサということか。鼻がコンセント代わりになるならそれは便利そうだが、誓って言おう、あの鼻に電源プラグを挿したって金属端子の腐食が早まるだけだ」

 明らかに、実際に江藤の鼻に電源プラグを挿した経験があるという口ぶりである。見かけとはギャップがあるが、しかし伝説とは寧(むし)ろよく合致する。さぞかし問題児だっただろう。

「変則領域がいかに奇妙な現象を引き起こすとはいえ、質量とエネルギーの和くらいは保存されるでしょう。江藤少佐のあの巨体には、対価となるエネルギーが蓄えられている。そういう意味で、キャパシタではないかと思うのです」

「対価とは? 七世紀半ばの年号じゃなさそうだ」

「江藤少佐は変則領域に干渉できる。そうではありませんか、守谷先輩」

 守谷の顔色が今度こそ変わった。

「君、坂元だれ君だったかな」

「唯史(ただふみ)です。『唯物史観』から適当な二文字を拾って下さい」

「じゃあ唯史。聞くけど、君はその仮説を本気で信じているのかい」

「可能性は高いと考えています。しかし証明には至らないので、こうしてお話を伺いに参った次第です」

「なるほど、つまり君は信じていないわけだ。博照のことを」

「どういうことですか」

「博照を信じているなら、あいつに正面から聞けばいい。それをわざわざ僕なんかに聞きに来る時点で、君は博照のことを信用していないんだよ。博照が嘘を言うかもしれないとか、博照には知られずに秘密を掴みたいとか、そういう浅ましい考えが君を支配している」

 浅ましい、とは予期せぬ言葉だった。坂元は足に力が入るのを感じる。

「そのお言葉で十分です。これから基地に戻って本人に確かめます」

「おや」守谷は首を傾(かし)げた。「前言を撤回しよう。唯史、君は江藤をそれなりに評価してくれているようだ」

「組織は信頼によって成り立つものですから」

「優秀だねえ。その信頼のために、隊長の力になるつもりがあるかな」

「元よりそのつもりです。江藤少佐が自身の能力のことを俺たちに黙っていた理由はいくつか見当がつきますが、今となっては、隠し続けるのが上策とは思えない。そんな力があるのだったら、やらなきゃいけないことがいくつもある」

 “ベルリンの壁”や消滅砲のような啓示軍(オフェンバーレナ)の超兵器への対抗策や、先日横浜の議事堂を襲った九天軍の追捕、そして機兵そのものの技術革新、停滞気味のワタナベ理論の拡張……。もしかすると、八月の悪夢とは何だったのかを探る手がかりにだってなるかもしれない。江藤はそれほどの重大な事柄を――だからこそ――隠していた。

「ふうむ、これも天啓というものかね」腕を組んで、守谷がしきりに頷く。「実は博照に伝えようかどうか迷っていた情報があるんだが、唯史、この件を預かってみないか?」

 そうして聞かされた守谷の話を、最初は訝(いぶか)った坂元だったが、結局は大先輩の提案に乗ることにした。


*   *   *   *   *


 猿之門の夜道は押しなべて暗い。午後十時を過ぎればコンビニエンスストアと自動販売機が最大級の光源となるが、それらすら、この街では数が少ない。特に猿之門基地のある丘へと続く道はそうした人工の光と縁遠い。こっそりと裏手から帰るとなると、いっそうである。

 月明かりを頼りに歩きながら、坂元は守屋に言われたことを思い返していた。

 ――変則領域の振る舞いを予知する占い師がいる。

 守屋の情報というのは、一昔前に世俗受け志向の雑誌や報道番組が多用したネタと同じパターンの噂話だった。坂元は有象無象の人間の程度の低いおしゃべりに付き合うのは大嫌いだが、なかでもこの類(たぐい)の話には虫唾(むしず)が走る。

 まだバルムンクフィールドの制御も覚束(おぼつか)なかった時代には、変則領域とは完全に科学と相容れない現象なのだと信じたがる人々が決して少なくはなく、彼らは代わりに全く別の方面から変則領域というものを理解しようとした。殊(こと)に、日本人は昔からその手の話に乗りやすい。坂元は学校の同級生たちがそうした占い師などの登場する番組や記事を面白そうに見て、登下校時の話題にしているのが不可解でならなかったが、やがて悟った。人間は理解できないものを恐れるがゆえに、無理矢理にでも説明をつけようとするのだと。

 今日(こんにち)において大多数の人が幽霊の存在を信じないのも、ただ非科学的だと判断する理性のためばかりではなく、霊の存在を信じようとする強迫観念が存在しなくなったことの影響も大きいだろうと坂元は考えている。自分が遭遇するかもしれない危険について、科学がその正体を詳説してくれるのだから、わざわざそれと背反する体系の概念など持ち出して説明をつける必要はない。人類が未だバルムンクフィールドのような技術を発明していなかったなら、新興宗教が世界的に権勢を得ていたかもしれない。変則領域を科学者の傲慢が生み出した災厄だと訴える「地球啓蒙教会」が勢力を伸ばした事実があるのだから。

 どうしてそういう人々――インチキ超能力者と、それを見て喜ぶ大衆――が存在するのかは理解できたが、坂元の嫌悪感は寧ろ増大した。

 人が不可解な事実に遭遇した場合の選択肢は大きく分けて三つある。自らの知識を増やし、推論や検証を重ね、理解に辿(たど)り着こうとするパターン。そうした知的能力の拡張を志向せず、事実や理屈のほうを捻(ね)じ曲げて、わかったようなつもりになって満足を得るパターン。そして、理解を完全に放棄するパターン。

 最初のパターンを常に取れるのが坂元の考える理想の人間像だが、現実問題として、最後の諦めるというパターンもある程度許容せねばならない。この世界はなぜ存在するのか、などという問題には答えの出しようがない。出たとしても検証できない。しかし二番目のパターンはあらゆる場合において最低の選択だと坂元は断じる。ヒトはまだまだ進歩しなければならない。後退などもってのほかである。

 そんな坂元の胸のうちは表情にも出ていたようで、守谷は話を途中で引っ込めようとしたが、坂元は頼んで最後まで教えてもらった。江藤が変則領域に干渉する力を持っているなら、他にも似た能力を持つ人間がいて不思議はなく、ただのオカルトと見縊(みくび)ってはいられない。

 具体的な内容に入ると、守谷の話は簡潔で要点がよく整理されていた。その占い師の出現はおよそ一ヵ月前であること、猿之門から横浜にかけた地域でのみ噂が広まっており、占い師の活動はその範囲に限られると推定されること、年齢不詳の男性という話が主流ながら、一部に占い師が女性であったという噂も混在していること、そして変則領域発生に関する予言は必ず的中すること。噂を知ったマスコミや警察もそろそろ動き出していること。

 守谷がこの話をまだ手元に置いていたのには、安全な伝達の機会が得られるまで待っていたという側面と、もうひとつ、江藤にこれを告げていいものかという迷いがあったからだった。守谷黄道自身がそう言ったのである。

 守谷曰(いわ)く、自分と同類かもしれない占い師のことを知れば、江藤はその正体を確かめたくてたまらなくなる。しかし江藤はどこに行っても目立つので、話題の占い師にこっそり会いにいくというわけにはいかない。黒龍隊隊長という身分は江藤にとって諸刃(もろは)の剣となっている。江藤がその剣を巧く使ったならば、密かにその占い師と面会する手筈(てはず)を整えることもできるだろうが、緊密に連絡を取れてはいない間柄、守谷は江藤がどれほど権力という剣の扱いに慣れたか見極めかねると言うのだった。

 それならば自分がまずその占い師に探りを入れてみようと坂元は宣言した。守谷はそれを期待して話を持ち出したのであろうし、坂元としてはそのように婉曲(えんきょく)に依頼されずとも、情報さえあれば同じ結論を出しただろうと想像できた。

 江藤の秘密を探るうえでも重要だが、その占い師には他にも興味がある。種や仕掛けがあるにせよないにせよ――変則領域の振る舞いを予言しているにせよ、積極的に制御しているにせよ――、九天軍が横浜議事堂襲撃を成功させたこととの関連を疑わずにはいられない。

 しかし坂元の知る限り、事件の対策本部は、九天軍が変則領域を味方につけたという見方はしていない。警察はあの日の失敗について軍の防備の手抜かり若(も)しくは内通を疑いつつあり、軍は逆に警察側のミスと不穏分子を炙(あぶ)り出そうとしているようである。

 畢竟(ひっきょう)、経験の違いが人々に異なる判断をさせるのだ。坂元は黒龍隊に配属されてから多くの不可解な現象を体験してきたが、彼らは日常的なバロッグを超えるショッキングな出来事を体験していない。年配の層なら八月の悪夢という最大級の衝撃を受けた経験があるものの、あれを人為的災害と見做(みな)す地球啓蒙教会を破防法適用対象として警戒し弾圧してきた体制側としては、やはり敵と同じ思想には走れないだろう。九天軍が変則領域を操ったという見方は、軍や警察においては禁忌なのだ。だからこそ、旧来のしがらみからも常識という名のフィルタからも解放された黒龍隊が、九天軍の秘密を暴かねばならない。

 さて、会ってみるのは既定路線として、坂元はひとつ問題を抱えていた。どこへ行けば占い師に会えるのか、わからないのである。

 件(くだん)の占い師は決まった店を持っていない。ランダムな時間帯に、街角に簡易ブースが忽然(こつぜん)と姿を現し、そこで商いをしているようなのだ。ブースはプライバシー保護用に最低限の壁や幌を設けただけのものらしく、分解すれば軽自動車にも積めるだろう。撤収時に乗り込む車を目撃しない限り、行方を追う手がかりにはならない。実際、二度目を占ってもらった人間の話は出てきていないのだ。噂に興味を持った客も、偶然に頼らなければ望みは叶わないことになり、これは果たして商売と呼べるのかという疑問すら浮かぶ。が、おそらく法律に触れた営業であるので、警察に捕まらないためにはその都度場所を変えるのは当然かもしれない。

 守谷は引き続き情報を集め、後日それをまとめた資料を送ると言っていたが、坂元はそれを当てにしてただ待つつもりはなかった。九天軍の次の犯行は明日かもしれない。そして今度は数名程度の死者では済まないかもしれない。昼夜を問わず、口実を見つけて基地から出て、自ら発見確率を高めるべきだろうと坂元は考えた。

 あまり上策とは言えないが、乗俑機を用いての市街地巡回というのが現状で最もマシな方策だった。機兵パイロットはおとなしく基地で待機しているのが本分だろうが、不幸にして黒龍隊には四機しか機兵が配備されていない。南田が九州に、藤居と群山が霞ヶ浦に出ているが、まだ二人は余裕がある。本来なら、機体をスタンバイさせつつパイロットも交替で格納庫に詰めるべきなので、むしろ人数は不足している。しかしこの戦時下、そんな万全の態勢を保っている部隊は極めて稀である。江藤も、その上の櫛田も、坂元の提案を無碍(むげ)にはしないと期待できた。成功見込みは七割といったところか。

 次善の策をあれこれ練りながら、坂元は基地が建つ丘の「裏門」へと辿り着いた。

 丘がなだらかに平野部と繋がっているのは南面だけであり、その他の方向では、敷地の外縁に張り巡らされた有刺鉄線の外側に、崖という更なる仕切りが存在する。だから基地への出入りは南面からしか行われず、道も門もひとつしかない。しかし身一つであれば他にも道がある。有刺鉄線も乗り越えず、崖も飛び降りずに済む道が。

 それは排水系にいったん潜り、地下を迂回して二つの障壁をパスするというものである。ゴン太の散歩を仰せつかって基地の辺境をうろついていたときにたまたま見つけた抜け道だが、簡単に外まで出られたのには驚かされた。おおかた、恋人との逢瀬(おうせ)を目的とした若い兵士が以前に開拓したのだろう。現在ここを通る人間が何人いるのか知らないが、通行料はまだ取られたことが無いから、きっと誰も掌握していないに違いなかった。

 その抜け道の市街地側の端、すなわち裏門は、さすがに人目につかないようにカムフラージュが施してある。軍隊仕込みなので巧妙だが、そこに抜け道の入り口があると知れてしまえば、カムフラージュなど時間稼ぎにしかならない。もう夜遅く、昼間とてあまり人通りのない一画であったが、それでも坂元は誰の視線もないことを念入りに確認した。

 そして、見つけた。崖の下を走る細い道路沿いの、コンクリート壁に覆われた廃バス停のベンチに、誰かが腰掛けている。

 これが昼間であれば、どうせ子供が秘密基地ごっこでもしているのだろうと深く気にも留めなかっただろうが、この夜更けにそこに人がいるというのは怪しげだった。酔っ払いか、野宿をする気の旅行者もしくか。ホームレスが居ついているという話は聞いたことがないが、誰も廃バス停を具に監視しているわけでもないので、その線も一応考慮する。黒龍隊の社会的地位向上のため市民との交流は推奨されているから、予想のいずれのパターンであっても、多少のお節介をやいておくほうがプラスになると坂元は結論付けた。

「バスは来ませんよ」

 坂元がつかつかと歩み寄って声を掛けても、ベンチに座った女――少女と呼ぶべき年齢かもしれない――は反応しなかった。体はまっすぐベンチに乗っているが、その体の乗った首は周期的に前後に往復運動している。いわゆる、舟を漕いでいる状態である。

 酔っ払いか。家出少女か。後者であれば厄介だった。坂元は扱った経験がない。もう二度、三度と声を掛けても起きる気配がなかったため、坂元は最寄りの交番の在所を思い出し、そこまでひとりで誘導可能かどうか検証する。

 坂元は応援を不要と判断した。女の体の線は細く、荷物も、やや大きめながら中身の詰まっていないトートバッグがひとつだけ。これなら背負っても行ける。

 酒気の有無を確かめようと、坂元は身を屈めて女の顔を覗きこんだ。暗くて顔つきも表情も読めないが、どうやら酔っ払いではないようだった。ただ睡魔に襲われているだけだ。心地よさそうな吐息のリズムが澄ました坂元の耳に入った。

「その子から離れなさい」

 坂元に向けられたであろうその声は、もちろん眼前で眠りこける少女の放ったものではなかった。坂元の右方十メートルもない歩道に、いつの間にかふたつの人影がある。片方は男である。声の周波数とシルエットからそれは明らかだった。もう片割れは、女か、痩身(そうしん)の男。背は百六十センチ前後。ふたりともレインコートのようなものを着ていて、あまり詳しくは情報を得られない。

「その子から離れなさい。今すぐ」

 男は繰り返した。

 坂元は怒りと羞恥(しゅうち)心で顔が熱くなった。成人しているかどうかも怪しい小娘相手に注意をそらされ、二人もの接近に気づかなかったとはにわかに認めがたい事実であった。裏門に入るところを見られぬよう、注意を払っているつもりだったというのに。

 しかも、男は坂元の行為を誤解している節がある。交際相手を作る余裕のないここ数年だが、そこまで欲求不満はたまっていない。いくらたまったところで警察沙汰になるような真似(まね)はしないという自負があった。いや、世の中から警察がいなくなろうが、あるいは男尊女卑の悪法が罷(まか)り通ろうが、坂元は自他を問わずそうした行為を許すつもりはない。

「交番へ連れて行こうとしていたところです」

「危ないから、離れて」

 今度はもうひとりのほうが言った。女のようだった。わからず屋の小児に言い聞かせるような口調に違和感を覚え、そして坂元は、眠っている少女の腕が動くのを察知した。左手がトートバッグの中に入り、何か細長い物を取り出す。右手がその長物の一端に添えられ……。

 咄嗟(とっさ)に身を引いた坂元の頬を風が撫でる。そこだけに吹いた風が。

 坂元は尻餅の態勢からスムーズに後転して車道に立った。少女はベンチに腰掛けたままだが、その右手には長さ数十センチの細い板状の物体が握られており、そこだけ白く月明かりを反射していた。刃物ではない、と坂元は瞬時に判別した。しかし硬そうな光である。殴られていたらただではすまなかった。

「だから警告したんだ」男が笑った。「その子は危険だ」

 少女が引き続き襲ってくる気配はない。むしろ、水平に薙(な)ぎ払った腕がどんどん垂れつつある。再び体が眠りに戻ろうとしているようだった。

「随分と寝相が悪いようですね。それとも躾(しつけ)が悪いと言うべきですか?」

 坂元は少女を視野から外さないように注意しつつ、やって来た男女のほうも視野の右端に入れる。

「野性の矯正は、理性の鍛錬よりもずっと難しいものだ。まず目指す終着点の設定が容易ではない。ただ押さえ込むばかりでは却(かえ)って実際的でない。君がいまアリアの一撃をかわしたのも、君に備わる野性のおかげだ」

 男は廃バス停のところまでそのまま歩き、アリアと呼んだ少女の長い髪を撫で、何事か囁(ささや)いた。少女はむくりと顔を上げ、すぐに坂元の存在に気づいて目を留めると、今度は明らかに力の入った手つきで例の板――羽子板に似ているかもしれない――を構え直す。

「やめなさい、アリア。彼はこの私の客だ」

 そう諭(さと)す男に頭を押さえられて、少女の殺気めいたものは鳴りを潜めた。

「おなかすいた」

 けだるそうな少女の声。

「アリア、ご飯買ってきたから、こっちで食べましょう」

 坂元に声をかけた位置から一歩も動いていない女のほうが、少女を呼んだ。少女は謎の武器をトートバッグに放り込み、それを肩にかけて女のほうへ走っていく。

「保護者と考えてよいようですね」

「それ以上に的確な表現は浮かばないね、この私にも」

 人を食ったような応答を聞きながら、坂元は、この連中は何者だろうかと考えていた。ありきたりの市民だとは言えない。少女の繰り出した素早い攻撃を見れば、訓練されていることは明らかだ。

 軍や警察の一員であればよい。そうでなければ、さしあたり敵性と分類せざるを得ない。ただし、市民感情を損ねてはならないとお偉方に言いつけられている以上、確証のないまま邪険に扱うこともできない。よくよく見極めねばならない。

「ずいぶんと活発な娘さんのようですが、武術でも?」

 当人が二十メートルほど離れた位置でおにぎりらしきものに手をつけているのを捉えながら、坂元は男に訊ねた。返事を待ちつつ車道から歩道へと戻る。男は両手を出しており、奇襲を受ける心配は少ないが、レインコートに似たその容積のある袖の中に暗器を忍ばせているかもしれず、坂元は完全に警戒を解いたわけではない。

 そんな坂元の警戒を知ってか知らずか、男は横に並んだベンチの片方に腰掛け、もう片方を坂元に勧めた。坂元がこれを無視すると、男は強いることはなく、「護身術だよ」と言った。

「あの子は物騒なところで育った。だからあのような癖がついてしまっている。これでもだいぶ、平和な社会に慣れたほうだ。そうでなければ、君はさっき頬骨を砕かれている」

 たしかにあれにはそれだけの威力があっただろうと認めつつ、坂元は、少女がそのように育った経緯を想像した。

「難民ですか」

「そのつもりだが、残念なことに法律はそのように扱ってくれていない」

「当然でしょう。亜細亜(アジア)連邦内での難民認定が認められるのは非常に稀です。しかし移民と難民のいずれにも認定されない場合でも、亜細亜連邦市民として最低限の生活を保証する社会福祉システムがどの構成国にもあります。言うまでもないでしょうが、日本は『最低限』の水準が高い。その子にももっと文化的な生活を送らせることができますよ」

「あいにくとそれも享受できない身の上でね。だから住所もなく、各地を転々としている」

「つまり、すでに法に触れた身ということですか」

「さあ、司法がどう判断したかは把握していないが、追われているのは確かかな。うまく撒(ま)いているので実害はないのだが。――ああ、旅をしながら仕事もしているから心配には及ばない。君に金を無心する予定はない」

 坂元は相手の発言のどこまでが本気なのか見極めかねた。逃亡中の犯罪者なら警察に連絡するべきだろう。黒龍隊の治安維持権限を用いて捕えることも、法解釈上、不可能ではないと思える。しかし酔漢の冗談に過ぎないのかもしれず、簡単に事を大きくするのは賢明ではない。

「ここで夜を明かすつもりなのですか」

「そのつもりだったが、君にこうして目をつけられたことで、移動しなければならなくなったのかもしれないな」

「是非(ぜひ)そうして下さい。ここは軍の基地のそばです。不審者の接近を許すほど、甘い時勢ではないことをご理解下さい」

「わかるよ。横浜では物騒な事件もあったようだし。飛行機が落ちたのもあったな。あれは悲しい事件だった」

「事件?」

 坂元はそろそろ戯言として切り捨てようとしていたが、その言葉を聞いて、一歩ベンチの方へ踏み出した。

「あれは事故ですよ」

「マスコミはそう言っている。しかし事実は異なる」

「何を根拠に」

「あの日あの空域に変則領域は生じていないからだ。飛行機が落ちたのには別の原因がある。事故調査委員会の発表の早さから言って、誰かが意図的に誤った結論に議論を誘導したんだろう。それが具体的に何者であるかは、この私の推し量れるところではないが」

「どうしてわかるんです」

 坂元は半ば答えを予想しながら――期待しながら――重ねて問うた。

「それがこの私の生業(なりわい)だから。あまり細かいことは商売上の秘密なので申し上げられないが」

 もはや間違いはなかった。レインコートのような妙な外套は、ファンタジー世界に出てくる呪術師や魔法使いが着るローブの代わりなのだ。この男こそ、守谷の言っていた占い師だと坂元は確信した。

「そんな力があるわけがない。ないものは説明できなくて当然です。悪質な商売に手を染めているとなれば、小官としても然(しか)るべきところへ通報せざるを得ませんが……」

「信じられないかい? 私には寧ろそれが不思議なくらいなのだが、実際、予報を的中させてみせるまでなかなかお客の方々にも信用されなかったな。滑稽(こっけい)だよ。すでにヨーロッパでは大多数の人がこの力を信じているというのに」

「そんな話は聞いたことがありませんが」

「おかしいな。軍人が、自分たちの戦っている相手の掲げる大義名分を聞いたことがない?」

「啓示軍は、世界を救うなどと夢のようなスローガンを占領政策に用いはしても、変則領域を予知できるなんて宣言してはいませんよ」

「君はよく知らないのだ。ハンス・ライルスキーが何を以(もっ)て世界の危機とし、どのようにそれを乗り越えようとしているのか。彼は変則領域の長期的同行を感じ取っているからこそ、このままでは人類の存続が危ういという結論に至り、世界規模で連携した回避策を提言して、一刻も早い着手を訴えた。しかし世界のメディアはこの発信を歪曲(わいきょく)し、改竄(かいざん)して、前時代的な夢想家が凶行に出たというイメージを作り上げてしまった。啓示軍は各国を制圧したのではない。新たな生存戦略への移行を阻む軛(くびき)を、万民に代わって排除したのだ。その証に、彼らのいわゆる『支配』は実にスムーズに進んでいる。これは人々が啓示軍の、ハンス・ライルスキーの打ち出した生存戦略を有意義と認めたことの、何よりの証拠だ。翻(ひるがえ)って、亜細亜連邦を見てみれば、地球人口の三分の一を代表する中央議会がテロの対象になっている。平和な未来を迎えるにはどちらの指導者に従うのが得策か。面白い命題だとは思わないかい」

 男の口調はお仕着せというよりも自論の紹介といった程度の緩いものだったが、坂元はそれをテクニックだと見抜いた。強硬に断言するよりも却って相手の同調を得やすい側面がある。ただ、それも相手次第である。何も考えていない者には簡単に言い切ってしまったほうが効果的であるし、話し手の作意を看破する洞察力がある人間ならば、そのような小手先の技術は挑発的ですらある。もちろん坂元は、もう一秒たりとも目前の男の長口上を許す気はなかった。

「啓示軍の工作員というのであれば、警察を呼ぶまでもない。手足の一本や二本はへし折ってでも、今ここで捕縛する」

「勇ましいことだ。が、できるかな」

 できる、と内心で坂元は即答していた。しかしその宣言の必要は感じなかった。すでに歯を食いしばり、男へ飛びかかっている。

 と、そこへ猛然と迫り来る影があった。はじめ、それを無視して先に男を捉えようとした坂元は、影が想定外の速さで接近するのに気づいて戦術を改めた。

 振り向くと、あの少女が間合い――坂元が暗闇でも懐のナイフで喉を裂ける距離――にまで踏み込んでいる。坂元は防御を選んだ。少女の振り下ろした武器に対し、コンバットナイフの柄でその側面を叩いて軌道をそらす。坂元はそのまま攻撃に転じたが、反射的に首筋を狙おうとした腕を、理性が制止する。ナイフには空を切らせ、のけぞってこれをかわそうとした少女の腹に蹴りを入れる。これには加減はしなかった。少女は背中から歩道に倒れこむ。坂元のように運動量を回避に転用することもできず、アスファルトの上で死に体になった少女の利き腕を、坂元は踏みつけた。武器を封じたところで、ナイフで再び首筋を狙う。ただし、今度は脅しが目的である。肌に触れるか触れないかというところで刃を止める。

「保護者としては、降参するところだろ」

 坂元は獲物から目を離さずに勧告を出したが、返って来たのは了承の言葉でなければ恨み言でもなく、高笑いだった。

「君には参るよ」

 それが自分に向けられた言葉ではないことを、坂元は遅まきにして悟った。背後、直近で風を切る音がして、首筋に衝撃が走る。

 ――気絶する。

 予期したところで、すでに坂元の体の制御は失われており、ただその場に転げるしかなかった。倒れた先は路面よりもずっと柔らかな何かだったが、それを不思議に思うだけの時間は、もう残っていなかった。



- 8 -


 坂元にとって、殴られてそのまま朝まで気を失っていたというのは、認めるにいささか抵抗のある現実だった。しかしながら認める勇気を持たねばならないと坂元は認識していた。実際、カーテンの隙間から漏れ入るものは日光以外の何物でもないのであり、途中で目覚めた記憶もない。記憶がないのなら、仮に起きた履歴があったとしても無意味である。何か夢を見ていたような気はしないでもないが、情景も感触も余韻も、一片たりとて再生できなかった。

 少女を打ち負かしたあのとき、占い師の連れの女は戦力外であると予断していたのが敗因だった。思い起こしてみるにそれだけは確実であった。後頭部を検(あらた)めたところ、気絶の原因となった一撃は、どうやら凶器と呼ぶべき類の物を用いていなかった。手刀足刀の類であろう。

 しかし坂元は、油断も無理からぬことという自己弁護を捨て去れないのだった。あの占い師たちが本当に政府非公認の難民であるとしたら、ああも攻撃的な自衛力は諸刃の剣となる。政府の管理を受けない戦力はテロリストとして徹底的に排除の対象とされる。――RAT(ラット)を除いて。

 彼ら三人はRATかもしれない。その可能性はあると坂元はさきほどから考えている。しかし、テロリストと推定するのがより聡明であるとも言える。九天軍と直接の関連があるかどうかはともかく、エデンという烏合の反体制連合の活動は日本近辺で活発化しており、あの三人もその潮流に乗って猿之門へ流れて来たのだという想像である。

 いずれにしてもイメージにギャップがあるが、と坂元は思った。現在身を置く空間、どうも古いアパートの一室らしきその場所を改めて見渡す。テロ組織のアジトにしては、芸も風情もなければ地の利もない。

 見覚えなどないのだが、それでいて、どこにでもあるような、庶民的精神を落ち着かせてくれる造作である。建物の在所は定かでないが、都会の真ん中などではないようだった。静かすぎるし、日当たりもいい。かといって人里から隔絶されているわけでもないようで、遠くに人の生活の音がしている。配達中であるのか頻繁に停車する原付、そして道路工事だか建設工事だかに従事する重機類の息吹が聞こえてくるのだ。つまり、外に出ればその後はどうにかできる。丸一日以上気絶していたのでなければ、今日は日曜日のはずであり、平日静かなベッドタウンだとしても人の往来を期待できる。

 唯一の問題は、六畳間の対角に陣取って坂元を監視している少女の存在だった。廃バス停で寝ていた少女。坂元は窓側に、少女は廊下側に位置しており、坂元がカーテンを少し開けて外を窺おうとするだけで、例の武器をふりかざして襲ってこようとする。

 坂元が目覚めて以来、彼女の保護者であるはずの男女の姿はなく、近くにいるような気配もない。つまり部屋にふたりきりである。一対一なら本来坂元が気後れする場面ではないのだが、愛用のナイフは没収されており、さらに相手も武器を携帯しているとなれば、さすがに状況を不利と判断せざるを得ない。それでしかたなく、疲労なり空腹なり便意なり、相手の緊張が緩むのを坂元は待っているのだった。しかし、まだなおその兆候は全く見えない。坂元の体感時間で言えば、そろそろ二時間は経過している。

「ここを出る」

 方針を変えて、坂元は意思を明確且(か)つ簡潔に宣言した。

「ダメ」

 少女の返事は簡潔という点で坂元を凌駕していた。

「許可なんて求めてない。俺は自分の居場所に帰るだけで、それは当然の権利だ」

 言葉を弄(ろう)すればあるいは説き伏せられるかもしれないという期待は、流浪の身の上らしき彼女の教育水準が低い可能性をあてにしたものだった。

「権利なんて、誰が保障してくれるの」

 予想外に高度なセンテンスが返されたので、坂元はどう応じるべきか即座には思い浮かばなかった。この少女は想定範囲を超えた知性を備えている。坂元が権利を主張したところで、今この場で日本政府や亜細亜連邦代行執政府の権力が助けに来てこの少女を排除するわけではない。また逆に、彼女自身は亜細亜連邦に存在を登録されていないであろう難民で、あの保護者たちの他には誰も守ってくれなければ、他者を尊重し権利を認め合う立場にもない。今この場を支配しているのは、純粋なる戦闘力に他ならない。それをこの少女は理解している。となれば、坂元にも別の言いようがあった。

「おまえに俺は殺せない」

 それを聞いた刹那、始終物憂げな少女の表情に苛立ちが走った。

「殺せる」

 少女は愛用の武器を握り締める五本の指のうち、親指だけをスライドさせた。何かの留め具が外れ、鈍器だと思っていた板状の物体の内側から、面内回転によって黒い刃が飛び出してきた。肥後守(ひごのかみ)を数倍にスケールアップしたようなそれが、彼女の武器の真の姿であるようだった。刃渡りは五十センチを下らない。坂元が奥の手としてまだ携帯している刃物では太刀打ちできない。しかし、坂元はそれを相手にする気はなかったので、困りはしなかった。

「おまえの保護者はどうして俺を殺さない? それは利用価値があるからだ。だからおまえは勝手に俺を殺せない」

「逃げるようなら、炭素刀を使ってもいい。“ソウテン”が言っていた」

「ソウテン? あの男のことか」

 保護者の男のほうを指して尋ねたが、少女は黙して答えない。

 坂元は考えた。ソウテンといえば決して一般的な名ではない。中国などの漢字名を日本読みしたか、あるいは……蒼天。九天のひとつで、方位は東。九天軍は日本方面最高責任者にこの名を与える。

 坂元は自分がどこにいるのか明確に意識した。ここは最前線なのだ。黒龍隊と九天軍との争いの。

 九天軍の幹部が猿之門基地の周りをうろうろしていた。これは重要な情報である。

 九天軍は横浜議事堂を襲い、さらに地下で軍と警察を罠にかけたが、その目的は判然としていなかった。ただ体制側の戦力を割くだけなら、もっと確実な方法がいくつでもあっただろう。つまり、まだ彼らは全力を出していない。それが捜査側の大方の意見だった。その力の矛先がわからないことが、何よりも恐れられていた。

 しかし、坂元は情報を手に入れた。九天軍は猿之門基地を狙っている。あるいは、黒龍隊や阿賀の機甲化歩兵部隊を作戦遂行上の障害として警戒している。これだけわかれば、警察が敵の足取りを捉えるのは容易だろう。実体が掴めないからこその脅威であって、見切った瞬間に、勝ちは決まる。逆に気づくのが遅れれば危険だ。これは時間の問題なのだ。一刻も早く少女の監視を逃れ、この情報を仲間に伝えなければならない。

 ただ、坂元にはわからない点も残されていた。どうして自分が生かされているのか。黒龍隊所属であることは持ち物からもう露見しているに違いない。ひとたび逃げられれば、事の成否をわける重大な情報が相手に漏れる。そうと分かっていて何故殺さずにいるのか。作戦上、人質が必要というのならまだ話はわかる。だが、蒼天は坂元の身柄を確保しておくという欲を見せつつも、あくまでそれは欲であって、災いに転じるようなら容赦(ようしゃ)なく傷つける許可をこの少女に与えている。やり口が一貫していない。そこに坂元は気味悪さを覚えた。

「俺を生かしているのは遊び半分……。本命の作戦には関わらないわけか」

 探ろうと思っての坂元の独り言に、少女は反応しない。坂元は隠し持つナイフをいつでも取り出せるよう体勢を変えつつ、さりげなく身を乗り出して、明瞭に少女に向かって話しかけた。

「となると、おまえも、員数外というわけだな」

 この言葉に、少女は眉をぴくりと動かした。足が半歩、前へ出る。

「わたしのこと、あまり怒らせないほうがいい。蒼天の命令には従わないといけないけど、いつもいつも思い通りに事が運んだりしない。――何を言っているかわかるか? 半殺しにして足止めするつもりが、うっかり息の根を止めてしまうこともあるって話をしているんだ。獲物が暴れれば、余計にな」

 そのとき、少女の口元はたしかに笑っていた。すでに何度も獲物を屠ってきた人間の、狩人の顔だった。

 これ以上の挑発は交戦突入の危険を高める。落ち着かせるか、それともこのまま激昂(げきこう)させて技の精細さを貶(おとし)めるか、いずれの戦術を採るべきか坂元がためらっていると、同じアパートのどこかでカタンと物の倒れる音がした。そして坂元は微(かす)かな息遣いに気づく。

 誰かが近くに潜んでいる。

 反応して動いたのは、坂元より少女のほうが早かった。少女は炭素刀(カーボンブレード)を腰だめに構えて坂元の側へと動く。速い。坂元はその場、窓の下に身を伏せた。直後に頭上の窓が割れたのを、坂元は音と破片で判断した。男のものらしいくぐもった悲鳴が真上、数十センチのところで聞こえ、しかしその気配はどこかへ消えてしまう。階下に落ちて戦闘不能、もしくはすでに急所に一撃を受けただろう、と坂元は推定する。

 坂元が畳の上を転がって窓のそばから離れ、立ち上がると、少女はそれまで自ら封鎖していた扉をためらいもなく蹴り開き、坂元には目をくれることもなく、出て行ってしまった。追ってみると、少女の行く手に玄関がある。その先は共用の廊下へと連なっているようだった。

 その玄関のドアを破って突入してきた男があった。少女はためらいもなく出会い頭にカーボンブレードで斬りつけ、鮮血が玄関に迸(ほとばし)る。致命傷を負ったその男を蹴倒し、少女は廊下へ走り出て行く。

 いい筋だな、と坂元は場違いに感心し、今守るべきは自分の身の安全だと判断した。ひとまず侵入側の素性を確かめようと、坂元は割られた窓の脇に戻り、慎重に外の様子を窺う。

 窓の下で肩を押さえながら退却中の男がいた。窓から侵入しようとして少女に機先を制された男だろう。坂元が閉じ込められていたこの部屋は三階のようで、斬られて真っ逆さまに地面まで落ちたのだとすれば、どこか骨も折っていておかしくない。動けるだけで上等と言える。

 しかし坂元は拍手を送る義理を感じなかった。男の恰好は戦闘を重視した構成だが、軍や警察のものではない。したがって、坂元の失踪と今の居場所を探り当てて救出に来た、という状況には該当しない。エデン内の仲間割れが起きたか、あるいは……。

 坂元の見下ろしていた負傷者に、外の塀のほうから慌てて駆け寄る者があった。こちらは戦闘に向いた服装ではない。通行人のふりでもしていたのか、何の変哲もない私服である。いや、気になるのは服装などより、挙措だった。戦士、兵士の動きではない。それがひどく場違いに見え、本当にただの通りすがりの男ではないかとすら坂元は疑った。が、すぐに思い出した。あの非戦闘的な男には見覚えがある。

「汪(ワン)大尉!」

 相手の名にわざと階級をつけて呼び、坂元は窓から手を振った。全くそんな間柄ではなかったし、無闇に馴れ馴れしく踏み込んでいく習性も坂元は持ち合わせなかったが、これは作戦だった。

 ぎょっとした顔で、私服の男が坂元を見返す。やはり戦略軍特別運用調整官、汪凱威(ガイウェイ)だった。暖炉の谷で久留とともに複座型龍(ロン)に乗っていた士官で、顔と名前はロシアで入院中に覚えた。イルベチェフに集めてもらった資料で。したがって相手は自分のことなどまず記憶していないだろう、とわかったうえで、坂元は汪に呼びかけたのだった。

 案の定、汪は坂元を黙らせようとした。銃で黙らせる、などという選択をしない男であるのは、やはり資料に記載されていた事項である。果たして北熊(セヴェルメドヴェーチ)の情報は正しかった。汪はジェスチャで坂元に声を出すなと伝えつつ、窓の下に駆け寄って来る。負傷した男はそれとすれ違いに引き上げていく。汪のほかにも支援部隊が近くにいるな、と坂元は分析した。

「君は、黒龍隊だな、そのワッペンは。私を知っているのか」

「ええ、暖炉の谷であの場におりましたから。それに、あなたに危害を加えた裏切り者は、私が友人と錯覚していた男です」

「なるほど、あのときの。しかし、昔話をしている場合ではないぞ。君はどうしてここにいる。黒龍隊が裏で動いていたということか」

「汪大尉こそ、特別運用調整官殿のなさるお仕事とは思えませんが」

「言うな。私も好きでこんな仕事をしているわけでは……。と、いかん、獲物が逃げる。黒龍隊には悪いが、あれはこちらで押さえさえてもらう」

「あれ、とは」

「九天軍の娘だ。最近、蒼天の近衛に加わったカーボンブレードの使い手。すでに五人が殺されている」

「それなら、もう六人を超えていますよ」

 坂元が言ったちょうどそのとき、家の裏手から悲鳴が聞こえた。急所に一撃を受け、しかし即死しそこねたという哀れな男がいたようである。あるいは、あの少女が消耗してきたということか。

「おのれ、小娘と侮ったつもりはなかったが。少尉、援護を頼みたい」

「配当はあるのでしょうね」

「強欲だな。私は金(キム)元帥にも顔が利く、と聞けば満足か」

「信じましょう」

 成り行き次第では保護を頼むつもりだったが、坂元はより多くの成果を欲した。睨んだとおりに、汪凱威が坂元にとって御しやすい性質の男であったことで、その欲はいっそうかき立てられた。

 坂元は窓から降りるのは困難と見切りをつけると、すぐにそこを離れて廊下側に向かった。致命的な裂傷を負って倒れている男がいたが、自分にできる手当てなどないと峻別すると、そばに落ちていた拳銃だけを拾って通り過ぎる。階段を下りつつ残弾確認。三発。血の汚れが心地悪いが、神経質に拭いている時間はなかった。すでに階下にも戦闘の気配はない。少女は建物から脱出したようである。

 ――いや、泳がされているのか。

 坂元は足以上に頭脳を高速回転させて、汪の狙いを推し量る。

 汪は少女を逃がし、彼女が守っているという九天軍幹部「蒼天」の居場所を突き止めようと考えているのかもしれない。あとで尋問するために今は攻撃を手加減せねばならず、それでなかなか捕まえきれないでいる、という線も浮かぶ。戸籍のない人間相手のこと、いずれも飛躍した発想とは坂元は思わない。

 ただし、ここで重要なのは、汪凱威が治安維持や諜報の世界に生きる人間ではないということである。彼は特別運用調整官。軍人とはいっても、その実態は役人に近い。こんなハンティングにはそぐわない身分の人間なのだ。

 特別運用調整官はバルムンクシステム全般を専門とし、その運用最適化に努めるポストである。その特別運用調整官がテロリスト捕縛のために自ら動くのならば、それは、九天軍の一連の犯行の影にかつてない新たな変則領域利用新技術があるからだと推定できる。汪にとって、そして汪を派遣した何者かにとっては、九天軍の組織殲滅(せんめつ)よりもその新技術を取得するほうが重要なのかもしれない。

 坂元には理解できないことだが、汪凱威ならそんな目的のために慣れない現場に出てくることも十分ありえる。実際、暖炉の谷で龍王(ロンワン)を連れた特攻紛いの作戦に従事していたのだ。使命感や興味のためにそれだけのリスクを取れるのが汪凱威という男だと、坂元は予(かね)てより分析していた。

 いずれ金星也(ソンヤ)に顔を繋ぐよすがになるかもしれない、と微かに考えていた坂元だが、ここで出会ったのは幸運だった。想定よりもずっと早くに、もう少し地味なところで役に立ちそうである。

 しかし、そう単純に構図を捉えることに、坂元の意識の半分が反抗していた。自分に都合のいい想定に基づいて動くとどんな落とし穴が待っているか、それはダーダネルス作戦で身をもって学んだ。今またここで進む道を過つのかと、勇む足を制止する力が存在する。

 そもそも、九天軍は本当に変則領域を味方につけていたのか。横浜議事堂襲撃時の絶妙な突入タイミングから櫛田や江藤はそう推定したようなのだが、坂元には異論もあったのだ。九天軍が常から議事堂周辺に潜伏していたとすれば、何も変則領域の制御や予報が可能でなくとも、あの犯行は可能ではないのか。建設業者に紛れれば容易だろう。事実、九天軍が使った戦力は主に工事用の乗俑機を改造したものだった。気象台の情報が内通者によって操作されていたことも考えられる。探すべきはむしろ内通者ではないのか。九天軍が変則領域を操れるにせよ、単にゲリラ戦術が巧いだけにせよ、内通者が議事堂から地下の“ルート”への逃走を助けたのは確実なのだ。

 もしかすると、汪は確実な証拠を得ているのかもしれない。九天軍が亜細亜連邦の諸機関よりも高度な変則領域制御技術を持っているという証拠を。そうでなければ、用兵の実践に疎(うと)い汪に五名以上の戦力――坂元が見ただけでもうその人数になる――が与えられることはない気もする。

 あるいは、坂元とは危機に対する評価が異なるのかもしれない。機械の性能の優劣ではなく、パラダイムシフトとなるような画期的技術を九天軍が握っているとすれば、確証を待たずして手荒な真似に出るに十分な理由となる。啓示軍(オフェンバーレナ)が機兵によって欧州を制覇したように、九天軍の新兵器が亜細亜連邦という巨大国家を土台から揺るがすかもしれないのだ。坂元の脳裏に、暖炉の谷で発生した“ベルリンの壁”の光景が甦る。

 ――待て、焦るな。

 坂元は路地に出て、少女が逃げたと思しき方向へ全速で走りながら、再度思考にブレーキをかける。

 坂元は気がついた。他者から見れば、九天軍ではなく黒龍隊こそがその疑惑の対象となることに。ダーダネルス作戦において黒龍隊を西フェルガナ基地に送り、スケープゴートとして処理しようとした連中は、どうして黒龍隊が生き残り、暖炉の谷まで転戦を続けたのか不思議でしょうがないはずなのだ。北嶋たちが欺瞞(ぎまん)して提出した記録も、戦略軍の分析で看破された可能性がある。消滅砲すら回避し、“ベルリンの壁”も突破し、叛乱部隊とされる応龍隊とも共闘した部隊となれば、疑わないほうがどうかしている。ましてや、隊長の江藤博照は、それこそ世界がひっくり返りかねない特別な力を持っているかもしれないのだ。

 思い返せば、坂元が最も確かめたいのは、そんな能力が実在するかということだった。だから噂の占い師を探そうともした。それが九天軍幹部「蒼天」だったとすれば、まだ、坂元には対話の必要がある。そのためには、汪に貸しを作るのでは少々心許ない。

 勘で曲がった角の先に少女の背中を発見し、坂元は閃いた。ハイリスク・ハイリターンの窮余の策を。

 躊躇(ちゅうちょ)の時間は短かった。黒龍隊の立場は、坂元がこれまで認識していた以上に危うい。しかしその危機意識を共有している人間がいったいどれだけいるか。藤居は霞ヶ浦へ抜けているし、最近視野の広くなってきた南田も九州へ行っている。鷹山はこういう面では回りが遅い。峰國(フェングォ)はあの通り当てにならない。今この目前のチャンスを逃すことは、濁流のなかで浮き輪に手を伸ばさないに等しい自殺行為だと、坂元は判断した。そして、追っ手のひとりが放った銃弾が獲物の足を掠めたのを見て、決断した。

 転倒した少女を、ほどなく数人が取り押さえる。坂元が追いついたときにはすでに両手を背中で拘束されていた。坂元は誰かが蹴飛ばしたカーボンブレードを拾い上げながら、少女の足の傷を観察した。やはりかすっただけのようだが、それでも止血の必要はありそうだった。

 少女が見かけによらぬ恐ろしい獣であることは、昨夜の交戦と、今しがたの逃走劇で十二分に理解している。しかし、坂元は、多数の男たちが流血した少女を拘束している様子を平静な心で見ることができない。そういう自分に気がついて、坂元は自己を嫌悪した。この化粧気もない小娘が自然体に発する色香に惑わされ、油断し、命を落とした警察や兵士が幾人もいたに違いない。坂元の手にあるこの凶器は、これまでに何人もの血で洗われてきたはずなのだ。

 習い性で、カーボンブレードの構造、特性を仔細に観察する。全体に軽量でありながら、刃は硬質。ただし刀身は複合材料で靱性(じんせい)も確保されているようである。刃こぼれはない。柄は刃を収納するために中が空洞になっており、把持(はじ)した感覚は通常の刃物と大きく異なる。これを振り回せばさぞかし慣性制御が難しいだろうと坂元は想像し、自分でも一振りしてみる。手から抜け落ちそうな感覚があり、坂元は柄を持ち直す。そのとき、柄に刻まれた漢字三文字を発見した。

 亜璃亜。

 少女の名だと、坂元は思い出した。蒼天と思しきあの男がそう呼んでいた。

 改めて少女、亜璃亜(ありあ)の顔を見る。路面に這(は)い蹲(つくば)らされ、憎悪と屈辱に歪むその顔を。闘志を失わぬ双眸(そうぼう)を。

 坂元は冷静な行動を取るよう自分に言い聞かせねばならなかった。

 やがて、どこで道に迷っていたか、汪凱威が息を切らしながら走って来た。カーボンブレードを収納状態にした坂元に近づき、肩を叩く。

「よくやった。――まったく、何人殺す気だ、この娘は」

 汪は吐き気を堪えた様子で少女を見下ろす。坂元は密かに拳に力を込めた。

「大尉、直ちに撤収しましょう」覆面の一人が、暴れる獲物から目を離さずに言った。「銃を使ってしまった。人が集まります」

「そうだな」

 汪は無線機でバックアップ班に連絡を取ろうとしたが、その喉元に、坂元は手にしたカーボンブレードを突きつけた。刃の展開応答性は期待以上だった。

「大尉、予定の変更を要求します。――他の連中は動くなよ。ボスを死なせたくなければな」

 寸止めを心がけた坂元の一振りだったが、慣性の制御が甘かった。炭素製の刃が微かながら汪の皮を破っている。

「おい、何のつもりだ、少尉」

 思いのほか肝の据わった態度で、汪は坂元を見返した。首から滴(したた)る血を気に止める様子はない。

「配当を頂きたいのです、大尉。ここで覆面部隊の素顔を衆目に晒されたくなければ、この女を私に預けてください。九天軍掃討の音頭は黒龍隊が取ります」

「このような所業、将校にあるまじき……、いや、将校だからこそ自分で考えて決めた結果か。しかし、状況が見えてないから君はそういう誤った判断を下してしまうんだ。私はこの娘を手放すわけにはいかない。派閥の面子(めんつ)の問題ではない。下手をすれば亜連が滅ぶ」

「核弾頭を使おうとしたお方の言葉とは思えない」

「あれは……。いや、それを説明している時間はないな。少尉、今は私を信じてここからともに撤収しようじゃないか。説明はそれからいくらでもしてやる」

「汪大尉、あなたはご自分の立場が認識できていないようだ」

 坂元はカーボンブレードを僅(わず)かに手元に引く。反射的に動く汪の体。首筋を伝う血の筋が太くなる。

「――遊びはそのくらいでやめときな」

 背後からの声に、攻撃動作が伴うのを坂元は感知した。汪を突き飛ばした反作用でそれを避ける。そのとき一瞬、誰とも知れない男の腕が見えた。ただ、声質からして亜璃亜の保護者ではありえない。

 汪の手下がまだ残っていたのかと見当をつけつつ、坂元はカーボンブレードを握る手に力を込め、体勢を立て直す……と、すでに顎の下に鉄拳が迫っていた。避けられない。

 坂元は流れる空を見た。そして、背中から路面に落ちる。

「見込みのある男だと思ったが、これはちょっとばかし見込みがありすぎたな。士官学校のボンボンと言ったのは、撤回しようじゃないか」

 坂元が口元の血を拭きながら見上げるその男は、昨日猿之門基地の演習グラウンドそばで立ち話をしたRATの警護員、築嶋だった。遅いぞ、と汪は口角泡を飛ばす。

「あなたが本当の指揮官ってわけですか」

「俺は官憲じゃないからよ。指揮という言葉は、どうだろうな」

 言いつつ、築嶋は獲物を運ぶよう周りの男達に指示した。その伝達の速さは、上司と部下という関係で理解するのが最も手軽である。亜璃亜は気絶させられ、そこへワゴンが到着する。偶然通りがかった車などではなく、汪のバックアップ班であるのは疑いがなかった。

「その女をどうするつもりだ」

 坂元はワゴンの後部座席に押し込められる亜璃亜を意識しながら、焦点はあくまで築嶋に合わせて、訊ねた。

「黒龍隊に預けるのでないのは、見りゃわかるか。まあ、元老院の思惑なんざ庶民は知らなくていいことよ。今日ここであったことは忘れちまいな。――そうだな、汪大尉」

「あ? ああ、そうだな。しかし築嶋……」

 汪が何かを気にしている。坂元と築嶋は同時に彼の視線の先を追った。ワゴン車の前方、乗用車の離合も面倒そうな狭い道の先に、一体の乗俑機が立ちはだかっている。

 工事用の乙種、秦和精機の型落ち品だと坂元は見積もった。が、いまひとつ自信は持てない。その乗俑機は少なからず改造されている。黒と薄紫を主軸として派手に彩られた姿を見れば、汪も築嶋もそれに気づかないはずはない。

「築嶋、あれは君が手配したものか?」

「とんでもない。あれは……」

「『藤丸』って名前らしいな」

 坂元は、その乗俑機の胴に白で抜かれた漢字二文字を読んだ。そのうえで見直せば、どうやら藤の花を描いているようである。デコトラの仲間だと坂元は分類した。が、ここでも安易な先入観は禁物だった。秦和精機製の乗俑機は生半可な知識では改造が難しく、テロリストもあまり使わない。それをあのように趣味全開で弄り倒しているとなると、まず只者ではない証拠である。

 もしかすると、江藤ではないのか。坂元は乗俑機の乗り手、もしくは手配主についてそんな想像をしたが、前者の可能性については即座に潰された。「藤丸」が機体正面を覆っていた防護パネルを頭上に跳ね上げ、胴体に収まる乗り手の姿を明らかにした。江藤ではない。体格が違うし、性別も違った。

「そこのあんたたち、いったい何してるんだい」

 ご丁寧に操縦席から身を乗り出し、しっかりと指を突きつけて、女は鋭く声を上げた。その声に反応して築嶋がびくりと動いた。強面の男が何事かと坂元が意外に思ってちらりと目をやると、銃を向けようとした部下を築嶋は制止しただけのようだった。

「若い娘を車に押し込んだように見えた。事と次第によっちゃあ、容赦しないよ」

 言っている当人のほうは、坂元からすれば、若くはないようだった。年増呼ばわりは気が引けるが、付き合おうとは思わない、そんな程度である。もっとも、たとえ若かったとしても御免だった。自分よりも勝気な女など、腹が立つだけだに違いない。巴御前はこんな感じだったろう、と想像し、引き合いが巴御前などというのは自分らしくないと坂元は内心で笑った。南田の歴史好きをうつされたかもしれない。

 現代に蘇った巴御前は、まるで馬を御すが如く、脚の操作だけで乗機「藤丸」を前進させる。ワゴンとの距離は十メートルに縮まった。乗俑機はろくに走れないのでワゴンと競走はできないが、すでに間合いは女に有利である。改造でオミットされていなければ、藤丸の腕はアンカーとして射出でき、女がその気なら即座にワゴンの運転席は粉砕される状況にある。

「女性が倒れていたんです。ひき逃げかもしれないですが、私は犯人を見ていない。とにかく怪我が心配なので、これから病院へ連れていくところですよ」

 と、口からするする嘘を引き出して披露したのは汪凱威だった。

「轢(ひ)き逃げ? 銃声が聞こえたようだけどね」

 女が乗俑機を更に一歩進める。汪は一歩後ずさる。

「築嶋、君からも説明してさしあげたまえ」

 あっさりと前線を退いた汪に対し、築嶋は小さく舌打ちをした。

「築嶋……?」

 女が眉――穴蒲静香に劣らず気品溢れるラインだと坂元は思った――を顰め、汪から築嶋へとわずかに視線を動かす。その後の見開きぶりは一転して激しかった。

「もしかしてあんた、豹紋の築嶋じゃないか? あたいは紅麗葉(くれは)だ。源紅麗葉。あんたが豹紋の築嶋なら、覚えがあるはずだ。まあ、あの頃はあたいも小さかったから忘れられていてもしかたないけど、親父の、源奉(まつる)の名は忘れちゃいないはずだね?」

「もちろん、忘れるはずがございません、お嬢様」

 築嶋がその場に膝をつき、頭(こうべ)を垂れる。

「ご立派に御成りで。見違えました」

「あたいを覚えているのなら、その娘を預けてもらえないかい。いや、築嶋、おまえもうちへ来るといい。親父も喜ぶ。せっかく勤めた警察を辞めたって噂を聞いてから、親父はずっとおまえのことを気にかけていた。親父だけじゃない、錬丸もそうだ。あれも最近は、若い衆の不甲斐なさを嘆くたびにおまえを引き合いに出して褒めているよ。あたいも、おまえに負ぶわれて病院へ行ったことは覚えているよ。あのときは兄貴が家にいなくて本当にどうなるかというところだったね……。さあ、立ち話もなんだ。積もる話は移動してからということで、どうだい?」

「残念ながら」

 築嶋は立ち上がると、銃を構えていた。

「――源紅麗葉と知って、銃を向けるか」

「今はこれが私の仕事なんですよ、お嬢様」

 築嶋は弱々しい弁明を口にした。しかし銃のホールドは完璧で、いつでも乗俑機の操縦席を狙撃できる体勢である。

 坂元は、再びカーボンブレードでリーダーを――本当のリーダーである築嶋の首を狙うチャンスではないかと自問した。築嶋は女に集中しており、奇襲の成功率は高いと思える。しかし坂元は、この二人の会話をもう少し聞いていたかった。築嶋が警察にいたという話を。これは九天軍に協力している内通者を特定するうえで、極めて重要な情報と言える。いま奇襲を仕掛ければ、相手の人数から言って、亜璃亜を連れてここを離れるのがせいぜいだろう。したがって、築嶋の話を聞くことはできない。仮に築嶋を捕まえたとして、吐かせられるという根拠もない。一方、源紅麗葉は自然に情報を引き出してくれている。これを利用するほうが得だろう、と坂元は結論を出す。

「この男は今、RATにいる」

 築嶋が言おうとしないことを、敢えて坂元は口にした。狙い通り、紅麗葉はその情報に食いついた。

「RATだって? 元老院のガードマンが小娘を攫おうってのかい。築嶋、あんた、親父に顔向けできないような仕事をしているんじゃないだろうね」

 睨(ね)めつける紅麗葉を、築嶋は無言で見返す。銃の狙いは外していない。その背中を見ている坂元は、築嶋が浮かべているであろう苦悶の表情を確かめられない。

 汪は双方の顔を交互に窺っていたが、ちらほらと野次馬が集まりつつあるのに気づくと、築嶋に近寄って何事か耳打ちした。退いたほうがいい、というような言葉が漏れ聞こえる。

「お嬢様」

 築嶋は乗俑機のエンジン音に掻き消されそうな声で言った。

「ここは先代やお父上への恩義に免じて引き下がりましょう。娘も置いて行きます。しかし、今回だけです。次に会ったときは、私はRATの、元老院の僕のひとりに過ぎません。いいですな?」

 返事を待たず、築嶋は銃を収め、部下に撤収の合図を送る。何人もの犠牲を出したRATの下っ端たちは、亜璃亜を放り出すのに渋々といった様子を隠しきれなかったが、しかし築嶋の命令は守られた。それだけの力をこの元警察官は持っているのだと坂元は認識した。門宮同様、この男も侮れない。二級警護員という階級は、能力を量るのに適切な指標ではないらしかった。

 紅麗葉は乗俑機でワゴンのフロントガラスを破ることもなく、築嶋たちが去るのを見送った。坂元は、築嶋の素性について本人に語らせるという目論見が外れたことに舌打ちして、立ち上がった。残されたのは坂元と紅麗葉、そして亜璃亜しかいない。汪は築嶋とともに消えた。

 亜璃亜を助け起こし、手足と口の縛(いまし)めを解く。これで病院に運ぶところだとは、汪の出任せもひどいものだった。縛めに使われた紐は銃創の止血に使えた。逃げようと暴れるかと坂元は覚悟していたが、亜璃亜はぐったりとして抵抗しなかった。口に当てられていた布は、声を封じるためだけのものではなかった。声をかけても、起きる気配がない。

「どうするつもりだい」

 乗俑機を降りた紅麗葉がそばに立っていた。猿之門の建設会社、「桃源協」の跡取り娘、源紅麗葉。過日基地に乗り込んできたという話は秋月から聞いていた。秋月が誰に聞いたかは知らないが、伝聞による情報の劣化は最小限だと評価できた。紅麗葉が名乗るより早く、坂元はその名を思い出していたからだ。

「基地には軍医がいる。腕は悪くないはずだ」

 しかし、他の選択肢を坂元は探している。

「このあたりにだって病院くらいはあるさ。でもその子、訳ありなんだろう? だったらうちに運べばいい。あたいのうちに。そろそろ若い衆が駆けつけて……」

 紅麗葉が言いさしたそばから、男たちの声が聞こえてきた。お嬢様、と異口同音の雄叫び。そこへ車のエンジン音が重なる。

 どうやら怪我人は車で運んでもらえるらしいと坂元は安堵し、そして、そう感じる自分に居心地の悪さを覚えながら、どっかりと路面に尻をついた。



- 9 -


 都内に分け入り、江藤が探し当てた変則領域の源泉は、緑に覆われた広場だった。可視的な異状はないようで、駆け回る子供、フリスビーを追う犬、肩を寄せ合う恋人たちが、それぞれに日曜日を謳歌(おうか)している。

 しかし、江藤の五官はたしかに反応していた。広場の中心を見据える江藤の視野はぼやけている。嗅覚は樟脳に似た匂いを、聴覚と触覚は一ヘルツオーダの拍動を、味覚は甘みを感知している。――甘みは出掛けに食べた草餅のぶんかもしれない。人工の変則領域、バルムンクフィールドを感知できるようになっても、脳は未だにこの第六感に独自の信号を割り当てられないでいる。

 ヒトが複数のセンサを具えていて幸いだった、と江藤は思う。五官から得られる環境情報を相互に照らし合わせることで、異常な情報を識別できる。誰にでもある能力。

 江藤が特別なのは、抽出した異常信号をノイズとしてフィルタリングするのではなく、有意信号として利用する点である。新規信号とノイズとの切り分けが課題だが、今回の場合は問題ではない。江藤が焦点を当てている、広場中央の噴水周辺だけが、ぼやけて見えるのだ。

 啓示軍(オフェンバーレナ)やフェアバンテが使っていた防護壁、シュッツネーベルに見かけは似ている。しかし触覚が受ける信号は全く異なっている。臓腑に垢擦りを擦り付けられたような、あの不快感はない。むしろ、どこか懐かしい、安らぎの波動が交じっていることに、ここまで来て江藤は気がついた。

 初めてではない。ここに来るのは。

 江藤は広場をぐるりと見渡し、木々の向こうに白い建物を見つける。病院。看板にそう書いてある。そしてその名には覚えがあった。江藤は首を傾げた。つい最近調べたばかりの、近々訪ねようと思っていた場所だった。入院した阿納真理を見舞うために。

 桜小路は秘書の入院先を隠していたが、彼女の居所を調べるのは江藤にとって難しいことではなかった。技術的には。江藤には、黒龍隊隊長がわざわざ調べて右院議員の美人秘書に会いに行ったという事実を作ることに抵抗があった。しかし、今日は名目がある。九天軍に捕まっていた間のことを聴取するという立派な名目が。

 昨秋、彼女は確かに江藤を見定めにエカテリンブルクにやって来た。経歴に書かれていない事柄を確かめたかったのだ。彼女は江藤の力、第六感の存在を確かめて満足したらしかったが、江藤のほうでは聞きたいことを山ほど残していた。今日こそは、阿納真理と一対一で話をし、半年来の宿題を片付けたい。それは江藤の個人的な問題にとどまらず、九天軍がバロッグを利用できている謎を解く鍵にもなる。そして、大事な質問は先程またひとつ増えてもいる。

 会うべくしてここに来た。江藤は因縁やら運命やらと呼ばれるレールにおとなしく従うことが大嫌いだったが、今日ばかりは、たまたま軌道上を歩いてやってもいいという寛大な心持ちにあった。何故なら、自分がここを訪れるのは二度目であることを、明確に思い出したからだ。

 篁(たかむら)記念病院。広場に面した白亜の建物は、もう十年以上前、江藤が診断を受けに来た場所だった。変則領域が人体に及ぼす影響の調査を軍で行うことになり、その献体に江藤は志願したのだ。己の能力が公に認められるかもしれないと期待して。そこで仲間が見つかるかもしれないと希望を抱いて。

 しばらく経って発表された結果は、変則領域そのものによる人体への影響は認められない、というものだった。世界中の複数の研究機関が発表した内容と一致していた。そうでなければ巷にバロッグ防護用のBFGが普及することはなかったわけで、これは幸いなことなのだろうが、江藤個人にとっては残念な結果だった。自分が特異な存在であることを、孤独を、再認識させられた。牙黒鷲を操る青年、ヴォルフと出会うまでは、江藤は誰一人同類を持たなかった。

 いや、ひとり、グレーゾーンの人物がいた。江藤の能力を知ったうえで、それゆえに黒龍隊隊長という力を江藤に与えようとした女……、阿納真理。その彼女がここへ入院している。

 病室のスライドドアを、江藤は緊張してノックする。受付で阿納真理の病室を聞き出し、面会謝絶ですがという呼び止めと物理的制止を振り払ってここまで来た。ナースステーションから扉を遠隔ロックされたかもしれないし、病室の電話が鳴って真理自身が閉めたかもしれない。――自分は招かれざる客か? 江藤は自問する。世界を作り変えてみせろと真理は言った。経過報告なら、歓迎してくれてもいいはずだ。結果だけ見せろ、では虫が良すぎる。

 果たして、ドアは開かれた。内側から。そこまではよかった。江藤は「うへぇ」と悲鳴を上げる。胸元に水をかけられたのだと、現況は理解できた。しかし経緯がわからない。

「あら」

 空になったコップを頭上に掲げたところで真理はきょとんとして静止する。手にしたコップを振り下ろすつもりだったのは間違いない。

「ごきげんよう、江藤少佐。頭から水をかけるつもりだったのですが、計算が狂いました。兜跋(とばつ)ではなかったのですね」

「あの兄ちゃんも苦労しているな」

 江藤は真理の手からコップを取り上げて、全く元気そうな病人にベッドへ戻るよう促す。真理はおとなしく従うと、枕元の内線電話でステーションにかけ、問題ない、と告げる。

「てっきりあの馬鹿者が懲りずに訪ねてきたのかと思いました。失礼しました。でも、ただの$H_2O$ですので、自然乾燥をお待ち頂くだけで結構です」

「酸じゃなくてよかった」

 冗談で口にしたが、この女は実際にやりかねないなと思って、江藤は身震いした。しかし、気後れしている場合ではない。江藤は自分が座れそうな強度の椅子がないのを見て、壁際に陣取って腕を組んだ。威圧的に。

「どうして入院を?」

 地下で救出したあのとき、真理は怪我をしてはいなかった。

「医師に言われたからです」ベッドに腰掛けた真理は即答する。「もっと早くから入院を勧められていたのですが、仕事に切れ目がないので延ばしていました」

「持病か」

「の、ようなものです。お尻のあれでは、ありませんよ」

「そんなことは聞いていない」

 江藤は頭を掻いて、窓を指さした。

「向こうの広場に変則領域が発生している。それが、わかるか。噴水のところだ」

 真理は立ち上がって、窓のほうに回る。まずレースのカーテン越しに、次にそれをよけて広場を凝視していたが、やがて江藤に向き直って首を振った。横に。

「残念です」

「何が? あんたが変則領域を感じ取れないことか。それとも、俺が狂人であると知ったからか」

「どちらともイエスです。私にはもう昔の力がない。そして、いまだその力を持つあなたは、人類のなかで極めて少数派、つまり、狂っていると見做される環境にある。残念なことです」

 真理は再びベッドに腰掛け、目を伏せる。過去の出来事を、感情を、噛み締めるように。

「おまえは『力』というが、そう呼ぶには、随分と害が多かったのではないのか。むしろこれは病気ではないかと、俺は疑うことがある」

 自分は十年前からここに入院しなければならなかったのではないか。力を、感覚を失った真理ではなく、持ち続けている自分のほうこそが。江藤は自分があるべきところにいないという感覚を呼び起こされる。最近は、あまり感じなくなっていたあの違和感を。

「突然変異体を病気と呼ぶのかどうか、専門的な解釈は私にはわかりません。あれがヒトという種のもつばらつきの一端であるのか、それとも、変容した環境に対して能動的に変化しつつある尖兵(せんぺい)があなたなのか。それでも私は、あの力を肯定的に捉えています」

「あんたは、俺よりも強いのかもしれん」

「いいえ、私には助けがあった。それだけのことです。独りではなかった」

「親兄弟か」

「違います。父にはその力はなかった。子供の私を精神病と心配して、治療を受けさせたくらいですから。母には可能性がありますが、私は母の顔を写真と動画でしか見たことがありません。兄弟もいませんし、検証不可能なのです。私が子供を生めば、じきにわかるのかもしれませんが」

「ふむ」

 江藤は、真理と野崎兜跋の顔を足して二で割ろうとして、失敗した。再計算は自重する。余計なお世話というものだ。

「では、その助けというのは」

「西海道大学の宇邨(うむら)教授を御存知ですか。私はそこで研究材料をやっていました。当時は准教授でしたが」

「なんだと」江藤はつい声が大きくなった。「宇邨研は人体実験をしていたというのか」

 なるほど宇邨が行方不明にもなるだろう、と江藤は得心もする。南田たちが准教授の梶間を連れて帰って来たら、聞き出すべきことが幾つもあるようだった。

「少佐、病室ではお静かに。――宇邨研ではよくして頂きました。私にとって、いちばん幸福だった時期かもしれません」

 真理の顔を見て、それは真実なのだろうと江藤は感じ取った。力の喪失によって研究材料としての価値を失ったことが、彼女を不幸せにしたのではなさそうだった。会えばいつかは別れが来る。人の世の常。それは江藤のほうが多く経験している。

「俺は今、教授の宇邨と、OBの保科(ほしな)という男を探している。九天軍の事件と関わりがあるようだが、ふたりとも行方不明だ。何か知らないか」

 江藤は注意深く真理の反応を見守る。

「私を疑っているのですね? 内通者として」

「奴らの乗俑機に殺されかけた、という話は聞いている。野崎兜跋ほか複数の秘書たち、それに機甲化歩兵部隊の証言も一致する。しかし、あんたは少々特別だ。兜跋はたいした情報も持たずに“ルート”から逃げ出してきたが……」

「穂積中尉の伝言の件でしたら、あれは、あちらが私の素性を知っていて、託したのでしょう」

「穂積が、力のことを信じたというのか。まさかな。ありえんことだ」

 モップを持って装甲車を強奪し、暴徒鎮圧に繰り出したあの日、穂積克も一緒だった。道義心のために、軍人の理想像から逸脱せぬために、穂積はついて来たのだ。本人がそう語った。そして無事に鎮圧を終えたあと、こうも言った。

「今回は運良く何事も起こりませんでしたが、大尉、次からはもう少し慎重に事を運ぶべきですよ。いくら我々が変則領域を専門として、慣れているといっても、センサーを準備しなければ変則領域を見たり感じたりはできないのですから」

 こいつはセルゲイのように自分を受容してくれはしない、と江藤はそのとき見切った。その後何度か酒の席で冗談めかして話題にしても、やはり冗談として認識されるだけだった。穂積は一線を越えなかったのだ。セルゲイとは違って。穂積にとっての江藤博照は、ただ悪運の強い男だった。

「穂積中尉よりも、江藤少佐、あなたのほうが頑(かたく)ななのではないですか。人が変わりうるという現実に対して。私はもう一度あなたに伝える必要があるようですね。逃げないで、江藤博照。あなたも独りではないはず。現実に立ち向かい、そして作り変えて」

「そのために、九天軍を呼び込んだんじゃないだろうな。力任せの変革を進める輩が現れれば、それを看過できない俺も、力任せの手を使うのに躊躇しなくなる……。それを狙っただろう」

「そんなに悪い女に見えますか」

「美女はみんな悪女に見えるな」

「あてになりませんね。容姿で内面を看破できるなら、少佐は穂積中尉の叛乱を未然に防げたはずです」

 未然に、という部分が江藤の胸に突き刺さる。江藤は事後に対処した。穂積を捕まえたのは自分だが、道を過たせたのも自分かもしれない。とにかく相手からは白黒をつけると宣告されている。穂積克は敵になったのだ。――江藤が受け取った情報がすべて正しいなら。

「疑って悪かった。あんたのことは、とりあえず信じよう。そのうえでひとつ聞きたい。言伝を頼んだのは、このなかの誰だ」

 江藤はポケットから愛用の電子手帳を取り出し、一枚の画像を表示させてから、真理に見せた。それはちょうど、モップの乱の直後に撮った記念写真だった。

「少佐の左隣の方です」

 左というのが、向かって左なのか、写真の中の江藤にとっての左なのかは明示的でなかったが、間違いようはない。反対側の隣は仁王像そっくりのセルゲイ・リーなのだから。

「確かにこの顔だったか」

「ええ、雰囲気もこの写真通りの人物でした」

「そうか」

 大きな溜め息が出て、江藤は自分が息を止めていたことを知った。

 ――安心しているのか、俺は。どうもそのようだ。が、何に対して?

 真理の証言で、ミスの可能性は消えた。九天軍が偽の穂積を担いでいるかもしれないという櫛田の指摘は杞憂だった。しかし、穂積が本物であると信じ切ったそもそもの瑕疵(かし)が、遡(さかのぼ)って消去されるわけではない。江藤は運良く、ババをひかなかっただけなのだ。では、安堵の対象は己の運の強さか。穂積が信じた運の強さ。――それも違うかもしれない。

 穂積克は生きている。とにかくそれだけは確かになった。

 それならば、と江藤は気を引き締める。坂元はやはり穂積に捕まったのだろう。基地に連絡して現況を確認し、まだ本人も脅迫状も来ないようなら、櫛田にも明かさなかった奥の手を……。

 そう考えた時だった。声を吹き込もうと顔に近づけていた腕時計型通信機から、緊急着信音が鳴り響いた。

「病室では……」

「漫才をやっている場合ではない」

 江藤はその場で通信を受ける。廊下に出るよりはマシだった。この部屋の防諜は、おそらく右院議員の桜小路がきちんと配慮している。

「俺だ。江藤だ。何があった」

 連絡は情報班のタチアナ・タチバナからだった。迅速且つ的確。江藤は殆ど相槌(あいづち)だけを返して、一分以内に通信を切った。詳しい話はできない。傍受の恐れがある。通信隊の支援が必要になる。

「何が起きたのです」

 只事でないのを悟った真理が、心配そうに訊ねる。

 江藤は通常の三倍の苦虫を噛み潰しながら答えた。

「九天軍が動いた。――目黒の機動隊が壊滅した」



- 10 -


 亜璃亜の手当のために坂元が敷居をまたいだ源邸は、周囲の一般住宅の数軒分も敷地のある、和風の家だった。会社の、桃源協の事務所とは別になっているようだが、昔は兼用だったのだろう。任侠映画のロケ地に使えそうだと坂元は感心する。源奉は、文化の継承者と言えるだろう。

 亜璃亜の手当は紅麗葉が家政婦と一緒になって手早くこなした。念のため全身を隈なくチェックしたため、坂元含め男は全員外に出された。今は終わって、亜璃亜は坂元の目の前で、布団に寝かされている。古傷が幾つもあったそうだが、もう手当の必要はないとのことだった。

 紅麗葉も家政婦も、本当に怪我人の扱いに慣れている。仕事柄か。土木建設業というのは表だけの顔かもしれないと坂元はまだ疑っている。なにしろ社員の人相が悪い。おしなべて悪い。隊長格の由利(ゆり)錬丸などほとんど、『猿の惑星』に出てくるゴリラである。あの映画ではゴリラは軍人だった。彼らも、武器を与えれば立派な軍隊になるだろう。すでに組織はできている。

 またもや、六畳の部屋だった。障子の向こうに廊下があり、その先が外に面した窓なので、差し込む光でうっすらと室内は明るい。押入れに物を収納しているためか、他に部屋はいくらでもあるということなのか、畳の上に調度品は特にない。造り付けの仏壇があって、それがこの部屋の主のようだった。

 まるで亜璃亜を見守るように、仏壇には三つの遺影が佇(たたず)んでいる。先代夫婦と思しきふたつと、もうひとつ、四十に届かない風貌の女性のものが。紅麗葉は築嶋と話したときに母親のことを言わなかった。つまり、紅麗葉の死別した母親なのだろう。八月の悪夢で命を落としたか。位牌の裏を見ればわかりそうだが、坂元はそこまでする気にはならなかった。

 それよりも興味を惹かれる物が仏壇にあった。琥珀色の珠。直径は十五センチといったところ。中国の龍(りゅう)が持つ如意輪(にょいりん)を思わせたが、坂元は別の連想もしていた。――龍(ロン)の記録映像で繰り返し見た、鎧蜘蛛の目玉に似ている。色相、光沢の様子、透明度、いずれも酷似している。

 珠をどうしても手に取ってみたくなった坂元は、亜璃亜の枕元から立ち上がろうとした。と、そこで亜璃亜が寝言を漏らす。

「行かないで、お母ちゃん」

 立ち上がる気配に無意識が反応したようだった。坂元が腰を落ち着けると、亜璃亜は落ち着いて深い眠りに戻っていく。

 ――お父ちゃんと呼ばれたなら、その役になりきって撫でてやることもできるが、お母ちゃんではな。

 坂元は如意輪もどきのことは忘れて、亜璃亜の過去を想う。坂元の世代では、九九年組(ナインティナイナーズ)の孤児が数多くいたが、亜璃亜はおそらく未成年である。八月の悪夢による死亡者数の増大はもう収まった頃に彼女は生まれている。もっとも、五年、六年が経っても定職につけない人々もいたそうだし、内戦のなかった日本でもテロは頻繁に起きていたから、親を失う事由は幾らでもあっただろう。加えて、亜璃亜はどこで育ったやらわからない。偽占い師たちが亜璃亜を保護したのは、おそらく日本ではない。

 こうしてすやすやと眠っているところを見ると信じ難いが、亜璃亜の戦闘能力は目を瞠(みは)るほど素晴らしかった。硬く切れ味に優れる反面、衝撃に脆いはずのカーボンブレードで、何人もの男を続けざまに倒した。絶妙な力加減と足運びである。しかし、殺人を躊躇しない精神こそが彼女の最大の武器かもしれない。

 自称保護者のあのふたりは、この娘をいいように利用している。亜璃亜は愚昧ではなかったが、無知だ。普通の幸せな家庭を知らない。だから利用されてしまう。

 この少女をまっとうな世界に戻してやらねばならない。坂元はそんな義務感に駆られる。猿之門のアーケードで見かけた少女たちと同じ生活を送る権利が、亜璃亜にはあるはずなのだ。そのためにはまず信頼できる知人のなかから里親候補を選出し……。

 駄目だろうな、と坂元は妄想をしぼませた。視座を変えれば、猿之門で遊んでいた少女たちのほうこそ無知なのだ。世界で起きているテロと紛争を知らない。日本で起きるテロなどまだまだ生やさしいということを、実感としては知らない。坂元とて、肌身で知っているわけではない。その点、亜璃亜は知っている。今更平和な世界に放り込まれたところで、そこに欺瞞を感じずにはおれないだろう。

 この世界こそを、変える必要がある。根本的な解決はそれしかない。

 危険な思想であることを坂元は自覚している。方法を誤れば、エデンや啓示軍のやっていることと何も変わらない。力で押し着せるのでは駄目だ。ならば、どうする。坂元にはまだ答えがない。

 紅麗葉が様子を見に来た。何かの用事があるのか、あるいは普段着なのか、着物に着替えている。よく眠っている亜璃亜を見て、微笑んだ。

「落ち着いたようだね。傷よりは心のほうが心配だったんだけど、もうすっかり良さそうだ」

 紅麗葉は坂元とは対面に正座する。

「坂元少尉と言ったっけ。もしよかったら、この子をうちに預けないかい」

「そういうことは、よくやっているのですか、こちらでは」

「築嶋のことかい」

「いえ、もっと全般に」

「まあ、人相の悪いのが集まっているからね、嘘で着飾ったところでしかたがない。うちの社員は殆どが、ワルだった連中だよ。でも、あくまで過去の話だ。うちで働くからには悪さはさせない。逆か。悪さをやめるまでは働かせない。働かない奴には食わせない。爺さんの代からやっていることだよ。訳有りの人間に居場所を与える。それがうちの本当の仕事だと、親父はいつも言っている。看板掲げている土木建築は、そのための方便に過ぎないのさ」

 つまり、民間版の刑務所、更生施設というわけだと坂元は了解した。国のやりようは当てにならないという不満がその根底にある。紅麗葉や「若い衆」たちから感じる反骨の気概からすれば、納得である。

 ここはひとつの国と呼べるかもしれない。そう坂元は考える。紅麗葉を女王とする王国。源奉の理想を具現化した理想郷。「桃源協」とは、桃源郷にあやかった名に他ならないだろう。

 しかし。その楽園を自ら出て行った者もいる。

「RAT(ラット)の築嶋は、元は不良少年だったのでしょうか」

「あたいは、荒れていたころの築嶋を知らないけど、不良なんて生易しいもんじゃなかったみたいだね。豹紋の築嶋って言ってね、湘南一帯で名を轟かせていたらしい。頭の堅い爺さんじゃ駄目だった。まだ若かった親父だからこそ更生させられたんだと思う。築嶋のほうも、改心した後は親父には感謝しきりだった。うちを出て警察に就職してからも、よく顔を見せに来ていたんだ。小さかったあたいも遊んでもらった。少なくともあの頃の築嶋は、悪い人間じゃなかった」

 築嶋は再び生まれ変わることを選んだ。RATとして。それも元老院を守るだけの純粋な警護員ではなく、国家の都合で個人を犠牲にする、汚い仕事を請け負う者として。築嶋にとっては、亜璃亜の国籍の有無など関係なかっただろう。何があの男を変えたのか。

「もし知っていたら教えてください、紅麗葉さん。築嶋はここへ連れて来られたとき、もう人を殺していましたか」

 息を飲んだ紅麗葉は、坂元を見返すだけで、答えない。

「この子は、亜璃亜は、もう何人も殺しています。今日も襲ってきたRATを手に掛けた。状況としては正当防衛だったとしても、亜璃亜には手加減も躊躇もない」

 日本で裁きを受ければ、未成年ということでかなりの減刑があるだろう。だが大陸で犯してきた罪に関しては、当該国の法で裁かれるのが常だ。複数の国で死刑を言い渡されてもおかしくない。

 その亜璃亜を、紅麗葉は責任をもって預かると言えるのか。

「築嶋の過去についてはやっぱりあたいにはわからないよ。でも、そうであってもあたいは驚かない。人を殺めちまった人間が、ここにいないわけではないからね。人は変われるんだ。親父も、あたいも、ここのみんなも、それを信じている。信じているからやっていける」

「ひとり殺すのと、何人も繰り返し殺すのとでは事情が違うでしょう。後悔も反省もなかったということだ」

「それはあんたたち軍人にも言えることさ。戦争に行った軍人が罪人でも狂人でもないのなら、この子だって、まっとうな人間として生きられるはずだよ」

「そんな簡単な話じゃない。軍は国家の代行者としてしかたなく人を殺すこともある。しかし亜璃亜には法の庇護(ひご)がない。誰も亜璃亜に人を殺してくれとは頼んでいない。――いや、エデンか。あいつらが命じているんだ。この子はやはり、あなたがたに預けるべきかもしれない。暫定的にでも」

「――そんな簡単な話じゃない」

 亜璃亜が目を開け、坂元を見上げていた。寝惚けている様子はない。坂元は唇を結んで少女を見下ろす。

「私は自分で選んであそこにいる。都合がいいから。あそこを出たら、みんなを探せない。私はみんなを探し出すまで戦う。蒼天は私に協力してくれる。私も蒼天のために相応の働きはする。それが契約というもの」

「契約だと。誰がそれを見届ける? 九天軍にいいように利用されているだけだ、おまえは。――みんなというのは、誰だ」

「昔の仲間。今は離れ離れ。死んでしまった子もいる。早く助けないといけない。国は助けてくれない。敵は国に守られている」

 亜璃亜の言葉は不明確だったが、人身売買、児童買春といった言葉を坂元は想起する。

「そうさ、国は助けてくれないのさ」紅麗葉が吐き捨てるように言った。「でも、だからって何をしてもいいわけじゃないんだよ、亜璃亜。同じところまで堕ちてやることはない。あんたの仲間は、あたいたちが探してあげる。でも見返りは求めないよ。あたいたちは当然のことをするだけなんだから。契約も何も要らない。だからここへお残り。いいね?」

「勝手に探してくれるというなら好都合。でも私はここには残らない。契約ではないんでしょう。探す人間は多いほうがいい」

「勝手を言うな」

 坂元が、言った。紅麗葉への同情からではなく、ただ亜璃亜の言い様が癪に障った。

「おまえは連れ去られるところを助けられ、おまけに怪我の手当までしてもらったんだ。おまえの目の前にいる、源紅麗葉に。その恩は返せ。怪我が治るまででもいい、ここでゆっくりしていろ。その間、九天軍とは関わるな」

「うるさい奴」

「軍やRATに引き渡してもいいんだぞ」

「なら、どうして私を助けた」亜璃亜は年齢離れした妖しい笑みを浮かべる。「おまえに私は引き渡せない」

 坂元が「おまえに俺は殺せない」と告げたときの抑揚とそっくり同じだった。

 ひとつ溜め息をつき、坂元は紅麗葉の顔を見た。

「口で言っても通じないようだ。腕っ節の強い連中に、逃げないよう見張らせてください。俺は基地に戻って隊長と亜璃亜の処遇を協議します」

 腰を上げようとして、気づく。すでに廊下に控えている者がいる。女王の護衛は厳重だった。

「あんたも黒龍隊ということは、隊長ってのはあのデカ男だね」

「一度お会いしたことがあるそうで」

「茶会の約束を忘れるなと伝えておくれ。なんなら、あんたも来るがいいさ。親父には話を通しておくよ」

「それはどうも。できるだけ早くまた顔を出します。見張りはくれぐれも厳重に。カーボンブレードは俺が持って帰りますが、得物がないからって油断できませんよ」

「いつになりそうだい。私も出掛けなくちゃいけない用事がある」

「さて。昨日から音信不通にしていた件もありますので。ネックなのはうちの隊長よりも基地司令の副官……」

「お嬢様! 大変でございます!」

 ドタドタと廊下を走ってくる者がある。亜璃亜を視野から逃さぬよう注意しつつそちらを振り向くと、由利錬丸が障子を外す勢いで開けたところだった。

「何事だい、錬丸」

「へい。目黒の現場から電話がありまして、何やら近くで大きな爆発があった模様です」

「ガスかい? それともバロッグ?」

「わかりません。わかりませんが、爆発があったのは警察だという流言が飛び交っているようです。これはテロかもしれません。ひとまず、救援が必要なようなら駆けつけるよう、現場には伝えておきましたが」

「九天軍の仕業か」坂元は亜璃亜に詰問する。「何か知っているなら、話せ。洗いざらいだ」

「蒼天は自分の予定をいちいち話さない。私は、あのアパートでおまえを見張ることしか命じられていなかった。これで、洗いざらい」

「埒が明かないよ、少尉さん。あたいは目黒に行く。もともとその予定だったしね。あんたも出動だろう。亜璃亜のことは任せて、早く行きな」

「そうさせてもらいます」

 だんまりを決め込む亜璃亜を一瞥(いちべつ)して、坂元は六畳間を出る。廊下には錬丸の他に四人の男たちが控えていた。いずれも暴力団とやりあえそうな居丈夫たちである。坂元も、これには勝つ自信がない。

 後ろ髪をひかれる思いを断ち切って、坂元は源邸を辞す。カーボンブレードは風呂敷に包んでもらって持ち出した。柄は唐草。

 太陽は南中にある。それを見上げて、長い一日になりそうだと坂元は覚悟した。



- 11 -


 篁記念病院から爆破現場、目黒の機動隊基地に駆けつけた江藤は、そこで阿賀正義と会った。中隊の部下を多数引き連れている。武装は完璧。近隣施設で耐乗俑機戦を警察に指導していたところに、連絡を受けたらしい。

「九天軍の狙いは、最初から軍と警察だったのかもしれない」

 阿賀が珍しく現場で予断を口にしたのは、橋谷(はしや)の小隊に突入指示を出した直後のことだった。警察と消防がすでに死傷者の運び出しを進めているが、瓦礫(がれき)をどけるのに人力では不足があるということで、タヂカラやイダテンのパワーアシストを受けた一個小隊を振り向けたのである。これは、爆破の実行犯がどこへ行ったのか皆目(かいもく)検討がつかないという手持ち無沙汰(ぶさた)のせいでもあった。阿賀は、犯人発見の報あらば残る戦力で即座に追撃するべく、今は堪えてじっとしているのだ。無為に走りまわれば、乗俑機の電池が消耗し、いざという時に十分な活躍ができなくなる。

「議事堂を襲ったのは挑発が目的だったということですか」

 中隊の新米、小笠木(おかさぎ)が質問する。

「限られた戦力で、より多くの相手を引きずりだそうとするなら、最良の手だ。残念ながら我々は、同じ三十人が誘拐されたとき、一般市民よりも議員の保護を優先せざるを得ない」

「だとすると」江藤は顎を掻いた。「嫌な予感がするぞ」

 “ルート”の罠で、軍、警察ともに多くの死傷者を出している。それも若手幹部ばかり。そして今、機動隊の拠点が叩かれた。爆発物処理を専門とする目黒の機動隊を、爆破という挑発的な方法で潰したのだ。関東の他の機動隊所在地は今頃大慌てで防備を整えているに違いないが、しかし、九天軍がこれまでに見せた戦力規模では、奇襲以外での勝利は難しい。九天軍の狙いが治安維持能力の減殺にあったのは正しいとしても、それはもう、完了したのではないか。

 問題は、次の標的だった。何重もの手間をかけて作り出したこの状況を、九天軍はどう利用する気なのか。それとも、もう雇われの九天軍の仕事は終わりで、パトロンが直接出てくるステージなのか。

 沈思黙考する江藤の瞼(まぶた)の裏に、穂積の顔が浮かぶ。

「――猿之門か」

 江藤は目を見開いた。

「まさか。何の価値がある。実働機兵は三、四機だけ。それなら他にいくらでも狙いやすい拠点がある」

 阿賀は否定したが、内心の揺らぎは隠しきれていない。

「黒龍隊の幹部は半分が出払っている。おまえたちはここへ主力を集めてしまったし、戦いようによっちゃ機兵は寧ろ御しやすい相手だ。議事堂を襲った連中が集まれば、基地は制圧できる」

 横浜以来の情報漏洩はまだ続いているようだった。それも、江藤のすぐ近くで。

「しかし、奴らに何の益がある。パトロンにしてもだ。黒龍隊に集められた試作兵器か?」

「それほどの価値はあるまい。機兵用の装備ばかりで、乗俑機では運用が難しい。奪ったところで豚に真珠だ」

「では、何だ。櫛田司令か」

「違う。狙いは、俺だ。敵の頭は穂積だよ。穂積克。奴は俺を狙っていたんだ。本気で」

 江藤は居ても立ってもいられなくなり、近くの高機動車を目がけて走りだす。

「借りるぞ。俺は基地に戻る。おまえたちもさっさと来い」

「待て、相手が穂積だとすれば、それも陽動なのかもしれないぞ。基地は倉知大佐にお任せすればいい!」

「かもしれん。だが俺は自分の部下がいちばん大事だ。人任せにもできん」

 阿賀はなお呼び止めていたが、江藤はもう高機動車を発車させていた。声はすぐに聞こえなくなる。

 走らせながら、江藤は無線で猿之門を呼び出した。多少バロッグが出ていても、どこかが中継してくれるはずだった。しかし応答はない。通信隊の設備に異常でもあるのか。――破壊されたか。

 強引な追い越しを重ね、信号も無視して、江藤は猿之門へと急ぐ。こんなことなら高機動車ではなくパトカーか救急車、消防車を借りてくるのだったと江藤は後悔した。サイレンを鳴らせれば自ずと避けてくれるだろうに。

 途中、バロッグ注意報発令のせいで徐行指示のエリアもあった。多くの車はそれに従っている。実際のバロッグ分布はわからないものの、誰しも事故は御免である。安全側の選択はこの二十年で浸透した常識、身を守る術である。しかし江藤は、己の勘、感覚を信じて、そこでもアクセルを緩めなかった。

 この分なら、無線が通じないのも単にバロッグが濃いだけかもしれない。そう楽観的に考えようともしたが、この場合安全側の思考とは悲観的になることだった。

 猿之門基地を襲った穂積が、江藤の不在を知ったら、どうするか。北嶋たちが人質に取られるかもしれない。そうなったら北嶋の両親にも妻子にも合わせる顔がない。子供の頃からさんざん世話になった親友である。北嶋がいなければ……。江藤は昔を思い出して涙ぐんだ。涙は視野をぼかした。

 それで見落としてしまった。対向車線で無理な追越をかけた軽自動車がいた。同時に江藤も中央線を越えていた。衝突しそうになる。当たれば軍用車が勝つ。江藤は急ハンドルを切って回避。が、尻がかすった。

 江藤の車はガードレールに突っ込んで止まった。抜いたばかりの車が避けきれずに玉突きを起こす。が、高機動車は頑丈だった。相手も、軽くバンパーが凹んだ程度。

 軽自動車の無事を願いつつ、車を降りて対向車線を見る。

「危ないじゃないのさ!」

 怒声とともに何かが空を切って飛んできた。江藤は思わず掴み取る。筒状だと触覚が教える。続いて視覚で確認。発煙筒。それを握りしめたまま、投擲(とうてき)した人物を睨む。

「げ。おまえは」

 長身の派手な女が江藤を睨み返している。

「――源紅麗葉」

「気安く呼び捨てにすんじゃないよ!」

「い、今のはどう聞いたって独り言だろうが。独白にまで敬称を求めるのか」

「独り言にしちゃ声がデカ過ぎんだよ、あんたは」」

 ずんずんと江藤に歩み寄った紅麗葉は、そのまま江藤の胸ぐらを掴んで顔を近づける。香水と汗の混じった匂いに江藤はむせる。

「目黒で爆発があったそうじゃないか。警察が狙われたんじゃないかって。何が起きているんだい」

 紅麗葉は、周りの事故車輛までは届かない小声で囁いた。

「機動隊が完全に壊滅している。偶然の事故ではありえん。九天軍だろう。だが、奴らの本当の狙いは基地だ。俺は急いで帰らねばならん。あんたはここで警察の相手でもしていてくれ」

「ちょっとお待ち。基地って、猿之門基地のことかい」

 紅麗葉の腕の力が強まる。鼻同士がぶつかりそうになって、江藤は顔を背けつつ頷く。

「冗談じゃない。猿之門を戦場にしようだなんて」

「俺が好きでやるわけじゃない」

 が、自分の撒いた種だと、江藤は知っている。

「誰があんたを好きだって? 寝言言ってる場合か。――こいつ、まだ動くようだね。あたいを乗せてきな」

 紅麗葉は江藤を解放し、高機動車の空いている座席に乗り込む。

「俺は戻るんだぞ。反対方向だ」

「だから出せって言ってるんじゃないか」

「ということは紅麗葉、おまえ、引き返すのか」

「そうしなきゃ、誰も避難誘導なんてやらないだろう? あんたたち軍人は、切羽(せっぱ)詰まるとすぐに市民のことを忘れちまうんだから……。桃源協は自警団の音頭も取ってる。あたいが戻れば、今からでもなんとかなる。誰も死なせや……、いいや、怪我ひとつさせるもんか」

 梃子(てこ)でも座席から動きそうにない様子の紅麗葉を見て、江藤は、従ったほうが早いと計算した。紅麗葉の体重は知らないが、それごときでへばるエンジンでもあるまい。

 周りのクラクションを無視して、江藤は無言で運転席に戻る。握っていた発煙筒はポケットにねじ込んだ。

「では行くぞ、紅麗葉」

「呼び捨てにするんじゃないよ」

「お嬢様と呼んでほしいのか?」

「それもバカにされているみたいで癪だね」

「だろうな、その歳では。――アウチチチ!」

 紅麗葉に首筋を摘まれて江藤は悲鳴を上げた。エンジンの唸りがそれを隠す。高機動車は急発進する。

「どう呼べば満足だ」

 首をさすりながら江藤は尋ねた。

「そうさね……」

 尖った顎に人差し指を当て、紅麗葉は数秒間考えるポーズを取った。

「紅麗葉さまとお呼び」



- 12 -


「坂元、どこでよろしくやってたんだ」

 裏口からこっそり戻った坂元は、隊舎に入ったところで鷹山に後ろを取られた。腕で首を締められる。

「あとで話す。まずは少佐に報告させろ。一大事だ」

「残念だが隊長なら出掛けているぜ。その前に俺に報告してもらおうじゃないか。――ん、本当に女の匂いがするような?」

「気のせいだろ。欲求不満野郎」坂元は鷹山を振り払う。「少佐がいないって?」

「ああ、目黒の三機が九天軍にやられたんだ。隊長はそれを聞いて現地に向かった」

「独りで行かせたのか」

「もともと独りで外出してたんだよ。あ、櫛田司令も一緒だったんじゃないかって説もあるな。喜べよ、これは俺たちに戦力が戻ってくる前兆かもしれない」

「だといいが。戻りはいつだ?」

「さあね。九天軍の尻尾が掴めれば俺たちにも出動命令が出る。現場で会うほうが早いかも。――いずれにせよ、そろそろ通信隊経由のメールで現場レポートが届いてるかもな。見てみよう」

 一緒に二階の詰所に移動する。

「やけに人が少ないな」

 坂元は詰所を一望して違和感を覚えた。

「何言っているんだ。通常任務でみんな席を外している時間だろう。おまけに九州やら茨城に四人も行ってるんだ。――あ、違うな、五人か」

「五人? 誰だ?」

「峰國(フェングォ)だよ。おまえのいない間に、霞ヶ浦から追加のテストパイロットを寄越せって話が来てさ。それでついさっき出て行った。もったいない奴だよ、おまえ。隊長は本当なら坂元に行かせるつもりだったんだ。新型のテストパイロットだぜ?」

 なるほど峰國が不在では部屋が静かに感じるのも尤もだった。しかし、坂元の焦燥感はそれでは拭(ぬぐ)い去れない。

「その新型の話、信じたのか」

「え?」

「黒龍隊の戦力が分断され過ぎだ。敵の罠かもしれないぞ」

「九天軍か。でも連絡は隊長に直接だったんだぜ」

「裏切り者がいるのを忘れたか、鷹山。少佐はどうして看過したんだ……」

「あの、ちょっといいですか、坂元少尉」

 情報班の徐小燕(シュ・シャオイェン)が席を離れ、立ち話をしているふたりのところへやって来た。彼女から話しかけられるのは、坂元には珍しいことだった。

「基地の外のネットワークに繋げなくなってしまったんです。イントラネットは無事なんですが。外で何か変わった様子はありませんでしたか?」

「バロッグとかか?」坂元は源邸から基地までの道程を思い出して、首を振る。「いいや、特に気になることはなかったな。バロッグ注意報も出ていなかったし、共同溝工事もしていなかった。セキュリティコードの定期変更のせいじゃないのか?」

「今日ではなかったはずです。念のため、管掌の通信隊士官にも問い合わせたんですが、やはり大丈夫でした」

 坂元は、ある感覚が甦るのを意識した。遠く離れた異郷の地で、誰も頼れず、神経を磨り減らせながら小隊長の勤めを果たそうとしていたあの日々の感覚。胃酸の味。

「北嶋大尉はどこにいる。歩兵連隊の出動状況は」

「第七中隊で残っているのは一個小隊だな。上妻(こうづま)中尉がリハビリがてらに待機中。他は午前中から警察の訓練のつきあいに出かけて、今は目黒に駆けつけているんじゃないか? 北嶋大尉は……、最後に見たのは工作室だったけど」

「洋伸(ヤンシェン)、外線かけてみろ! どこでもいい!」

 突然声をかけられた杜(ドゥ)洋伸は、椅子ごと一回跳ねて、それから受話器に手を伸ばす。そのままポーズ固定。

「出ませんね」

 氷結が解けたように、杜は受話器を戻す。

「回線は生きているんだな?」

「音が違うからわかりますよ」

 何を当然のことを、と憤る杜の向こうで、「それ、欺瞞ですね」と声を上げる者があった。タチアナ・タチバナ。

「いま警察、消防にかけてみましたが、誰も取りません。ありえないことです。呼び出し音は偽装されたものですよ」

「やっぱりな。この基地は情報封鎖を受けている」

 入隊試験の日の状況とよく似ている。が、あのときは主にバロッグのせいだった。人為的な操作は都市間基幹回線のアクセスポイントなど、数箇所に限られていた。偶然と思っていたあの出来事も、江藤が変則領域を感知できるからこそ実現できたのかもしれない。やはり江藤の能力は本物なのか……。

 坂元は現実に立ち戻る。今はそんなことを考えている場合ではない。詰所の視線はすっかり坂元に集まっている。

「少佐の悪戯とは思えない。至急、北嶋大尉を探してこの件を伝えてくれ。鷹山は上妻中尉のところへ。直接だ。電話や無線は使うな。杜伍長は格納庫に行って、アラート待機の連中が寝てたら叩き起こせ。俺は倉知大佐のところへ行って来る。――徐、いや、秋月。隊員の現在地把握を頼む」

 踵(きびす)を返しながら、早くも詰所が浮き足立つ気配を坂元は感じ取る。できれば詰所にも誰か頼りになる人間を残したかったが、絶対的に人員が不足しており、それはできない。北嶋が上がってくれば少しは落ち着くだろう。ただし戦闘指揮は期待できない。自分が戻って来なければ。それまで、敵が待ってくれればいいが。


*   *   *   *   *


 倉知恵子は司令部にいた。櫛田赴任までは基地司令代理を務めていたが、その任から外れても、基地業務隊の長である倉知の仕事場はやはり司令部だった。

 猿之門基地には現在、江藤の黒龍隊と阿賀の第三二歩兵連隊第七中隊、倉知の基地業務隊の他、一個通信隊、一個情報戦術隊、二個高射隊、二個ヘリコプター飛行隊が駐在する。常駐拠点が情報的に孤立した場合、拠点の司令、すなわち今この時では倉知が、これら駐留部隊に暫定の命令を下すことができる。ダーダネルス作戦でのように特別規定第一〇号の発令は必要ない。

 しかし、黒龍隊と阿賀の中隊を除けば、猿之門基地駐留部隊はいずれも白兵戦など専門外である。特に情報戦術隊は新聞、ラジオなどをうまく軍務に利用してやろうというデスクワーク部隊なので、基地内や地域の運動会では万年最下位グループに属する。ヘリコプター飛行隊も観測ヘリと小型の輸送ヘリしか持たない――しかも配備数は定数未満――ので、対人戦で直接に役立つものではない。業務隊と高射隊には歩兵経験者がいるので、武器さえ持たせればこれらは一応の戦力になる。が、それでも、最新テクノロジーに支えられた機甲化歩兵部隊に比べれば、大人と子供のようなものだった。

 坂元は、火力を求めて倉知に会いに来たのではなかった。もし戦力確保を最優先するならば、真っ先に上妻と危機感を共有すべきで、他ならぬ自分自身で赴いていた。その仕事をを鷹山に振ったのは、倉知との交渉のほうが重大だと坂元は考えたからである。倉知を通じていち早く掌握すべき部隊がある。

「通信隊の制圧を命じていただきたいのです」

 給食分科隊長と来季の収穫予想を吟味していた倉知に、坂元ははっきりとそう進言した。給食分科隊長はぎょっとして口をつぐみ、倉知はようやく坂元を直視した。それを狙っての単刀直入の発言だった。

「通信施設の不具合については報告を受けている。その瑕疵により制圧せよと、そう言っているのか?」

「そうではありません、大佐。九天軍ですよ。奴らが忍び込んでいる、あるいは、奴らと内通する者がいるはずです。この基地は狙われています。目黒は陽動でしょう。上妻中尉はすでに戦闘準備に入っています。ご命令を。今は大佐にその権限があります」

「坂元少尉、君は、私が君こそ九天軍の内通者だと疑う可能性を考えていたか?」

「正気ですか」

「それはこちらの台詞だ。――坂元少尉を拘束し、営倉に連れて行け」

 直ちに、室内の数名が動く。正当性云々よりも、付き合いの長さがものを言ったようだった。

「馬鹿な。九天軍への対応は」

 口では倉知に再考を求めながら、坂元は半分以上、諦めていた。退路を意識しつつ、迫る熟年士官らを視線で牽制する。

「残る黒龍隊隊員を拘束すればよい。やはり暖炉の谷で啓示軍(オフェンバーレナ)の洗脳を受けていたようだな。それとも北熊(セヴェルメドヴェーチ)の分離工作か。いずれにせよ、正気に戻るまで君たちは敵だ」

 話にならなかった。坂元は倉知や業務隊隊員の説得を諦め、速やかに離脱に転じる。年嵩の士官たちはついて来られない。

 黒龍隊全員捕縛の命令が基地全体に放送される前に、坂元は司令部を脱出した。ひと足遅れの放送を耳に入れつつ、迷わず格納庫を目指す。上妻の機甲化歩兵一個小隊が敵に回った場合、龍(ロン)以外では対抗できない。大人しく捕まって、ゆっくりと説滅する時間は、もうない。九天軍はきっと目前に迫っている。

 格納庫の入口手前二十メートルのところで、坂元は威嚇(いかく)射撃を受けた。警衛の当番兵が止まれと怒鳴っている。坂元は止まらずに格納庫へ駆け込んだ。

 格納庫内部にはまだ警衛の手は及んでいなかった。先に走らせた杜がどこまで説明したかは知らないが、一機の龍が武器を手に立ち上がろうとしている。

「俺は味方を撃ちたくはないですよ」

 龍の外部スピーカーが伝える朝井の声は、当惑に満ちている。通信端末を未回収の坂元は、龍の集音マイクが拾えるように叫び返す。

「九天軍はそこまで来ているはずだ。そいつらを倒せ。行動で分からせるのが早い」

「了解」

 しかし、九天軍よりも先に追っ手が現れた。坂元と整備班員たちは慌てて身を隠す。

 銃声はしなかった。降伏勧告もなく、代わりに警衛の悲鳴が聞こえた。

 坂元は人間用の武器を探すのをやめ、入口のほうを確かめた。警衛が倒れている。それにのしかかっている灰色の獣。

「ゴン太!」

 呼ぶと、ゴン太は尻尾を振りながら坂元のほうへ走ってきた。整備班のひとりが入れ違いに警衛に駆け寄って、銃を奪い取る。

 坂元はゴン太の体を受け止めた。前半分だけ。もう軽々と全身を持ち上げるような体格ではない。当番兵とはいえ、倒してしまえるのだ。

 顔を舐めようとするゴン太の首に、見慣れない巾着(きんちゃく)袋が下がっているのを見つけ、坂元はゴン太の口の妨害を垣間(かいま)縫ってそれを外す。重みがある。中身を出すと、それは士官用通信端末とナイフだった。坂元の。そして、あとからもうひとつ、ぺらぺらの紙が落ちてきた。拾い上げ、拙(つたな)い筆致の文字を読む。

 おかえり。

 峰國の仕業だと直感した。探してくれていたらしい。あれなりに。ただし本人はもういない。沈む船から逃げ出す鼠の話を坂元は思い出す。無意識の勘か。江藤が変則領域に対応した能力を持つように、峰國には危険を予知する能力があるのかもしれない。非科学的だが。

 朝井の龍が格納庫を出て、近づく警衛、他にも武器を持って駆けつけた基地の将兵たちを、威圧する。最近は治安出動が多いので、胸部のマルチランチャーには催涙弾などの非致死制圧兵器が装填されている。これは周知の事実で、ゆえに、抑止力を生じる。

 坂元は格納庫内に残る機兵に目をやった。二機の龍と将龍(ジャンロン)。龍の片方は何やら換装作業中らしく、両脚が外されている。少ない人手で、すぐに組み立てるのは無理そうだった。龍のもう片方には、操縦用のジャケットを引っ掛けた杜が、まさに乗り込もうとしている。

「将龍は出せるのか」

 将龍の近くにいた矢俣に訊く。矢俣は微妙な顔をした。

「動きます。けど、パンチで潰れた指がそのままですよ」

 責任持てませんがどうします、と言わんばかりの矢俣を見て、坂元は逡巡した。龍王(ロンワン)との模擬戦でハードやソフトの不具合は出なかった。が、対人制圧のシチュエーションで実機を動かしたことはない。自分の慣れの観点からも、将龍では実力を発揮できないだろう。あれで存分に戦えるのは江藤くらい……というより、将龍は設計段階から江藤に合わせて調整されている。コクピットの広さがいい例だった。

 坂元は結論を出した。

「矢俣、将龍に乗っていろ」

「マ、マジで言ってますか」

 矢俣は案の定うろたえた。機兵の扱いは乗俑機よりもずっと複雑で繊細、そして臨機応変の対応が必要になる。

「座ったまま火縄を構えていればいい。オートモードならやれるだろう。それでここを守るんだ」

「う、うす。坂元少尉はどうするんです?」

「詰所が気になる」

「詰所なら」坂元の近くにいた隊員が言った。「北嶋大尉が残りのメンバーを集めたようです」

「無線は使うなと……」

 言っているそばから、無線が鳴る。坂元の手の中で。

「誰だ」

「俺だよ、俺オレ」

「鷹山か。どういうつもりだよ」

「朗報だぞ。上妻中尉はこっちについてくれた。詰所の守りと、ゲートの迎撃態勢はこれでなんとかなる」

「了解。無線は控えろよ」

 返事を待たず、端末をチェーンで首に掛け、坂元は立ち上がった。ゴン太が将龍のほうへ走っていく。元後部席の専用ベッドで昼寝するつもりか、と、坂元はゴン太と自分たちの世界の違いを笑う。

 杜の龍も出ていくのを見送って、これで最悪の事態は防げたと、坂元は溜め息をつく。が、本当に大丈夫か、と自問して、落とし穴を発見した。資材置き場から伸びる、あの秘密通路。

 上妻はあの裏門を知っているだろうか。いや、知らないだろう。坂元はあの通路を封鎖しに行く必要を感じた。自ら退路を断つことへの不安が頭をよぎったが、負ける戦ではないと自分に言い聞かせる。奇襲を防いだ時点で負けは回避できた。あとはいかに勝つか。九天軍に作戦の失敗を悟らせず、ここで一網打尽にする。

 坂元は整備作業用の着俑機を拝借し、パワーアシストにより四十六リットルの水素ボンベを担ぎ上げた。龍の発電燃料用だが、手っ取り早い爆発物でもある。残る整備班に防戦を指示し、坂元は一人、裏口から格納庫を出る。

 上妻たちのおかげか、目的地に到着するまで坂元は誰にも見咎(とが)められなかった。中に入り、壁や柱の多い部分にボンベを置いて、手榴弾を投げる。即時離脱。全速で。

 古い資材置き場は盛大な音と土煙を立てて崩れ去った。破片が想像以上に勢いよく飛んで来たので、坂元は肝を冷やしたが、幸いにして怪我はなかった。

 これだけの爆発なら、敵味方を問わず注意を引くだろうと坂元は見込んでいたが、そうはならなかった。負けず劣らず大きな爆発が、程なくして基地のあちこちで起こったのだ。

 丘の下からの弾道攻撃か。もしかすると自分の爆破を見て呼応したのかもしれない、と坂元は考える。

「坂元少尉、聞こえているか」無線から上妻中尉の声。「応答してくれ」

「こちら坂元。今の爆発は何です」

「弾道は見えなかった。爆弾だろう。すでに仕掛けられていたんだ。敵はもう侵入している可能性が高い」

「まさか、いつの間に」

「わからないが、ここは……」

 続きは聞けなかった。移動していた坂元は、角を曲がったところで出くわした人影に、いきなり拳銃を発砲された。

 弾は着俑機のフレームで弾かれた。運が良かった。坂元は咄嗟にナイフを投げようとするが、作業用の着俑機はその素早い要求に答えられなかった。腕が重い。相手が二発目を撃とうとする。ナイフの柄をようやく掴む。

 二度目の銃声。それを聞いてから、坂元はナイフを投げた。相手の鎖骨のあたりに突き刺さる。坂元は被弾していない。石ころのような飛来物が相手の側頭部を打ち、狙いをそらしたようだった。坂元は目の前の敵を着俑機のパワーで組み伏せてから、やはり落ちていた石ころと、それを投げた人物の存在を確認する。

 坂元は目を瞠った。長い髪をそよがせ、掌中で石ころを弄ぶ細身の人影は、桃源協に任せてきたはずの亜璃亜だった。

「借りは返した」

 亜璃亜が坂元のほうへ歩み寄る。裸足だった。逃げてきたのだと坂元は断定する。桃源協の面々が、靴も履かせずに亜璃亜を外に出したはずがない。

「もう少し来るのが遅かったら殺されていた。わたしが、ね」亜璃亜は資材置き場の立っていたあたりを一瞥する。「――わたしの炭素刀はどこ?」

 坂元は、襲ってきた相手をまだ無力化しておらず、自由に身動きができない。首だけを向けて、睨む。

「あんなものはおまえには必要ない。九天軍とは関わるなと言ったぞ」

「それはわたしの勝手。わたしはいちばん都合のいいものを利用する」

 亜璃亜のすらりとした脚が坂元の目の前に来る。一度は動きを止めたその脚が、片方だけまた持ち上がり、坂元の下でくぐもった呻きを上げている男の頭を蹴った。男は失神した。

「何のつもりだ」

「いちばん都合のいいものを利用する。九天軍は、もういらない」

 はっとして、坂元は気絶した男の顔を見直す。覚えのない顔。基地の全員を知っているわけではないが、知っていたとしても、結果は同じなのかもしれない。

「この男が九天軍だというのか」

「そう。前から入り込んでいた。襲撃は予定通り。もっと人が集まる。ここが本当のターゲットだから」

「それを俺に教えて、どうするつもりだ」

 坂元は体を起こし、鈍重な着俑機を外す。その行為が、亜璃亜と行動を共にする前提での判断だと気づき、坂元は己自身に不審を覚える。これは亜璃亜の罠かもしれないのだ。

「わたしが裏切れば、報復がある。だから守ってもらわないといけない。あんたたちに。それには信用がいるんでしょ?」

「裏の取れない情報では、まだ信用には足らないぞ」

「なら、これならどう? ここには蒼天が来ている。一緒に来て。確かめさせてあげる。わたしが一緒なら、あんたも攻撃されないはず」

 基地の味方に撃たれそうだが、と坂元は憂えたが、しかし事実なら魅力的な申し出だった。罠だとしても、害が及ぶのは自分だけで済む。武器さえあればそれもくぐり抜けられるだろう。

 坂元は気絶した男の体からナイフを引き抜く。血が溢れる。失血死に考えが及んだが、止血はしない。これは、敵だ。そう坂元は信じた。

「いいだろう。蒼天のところまで案内するんだ」

 ――そして俺が蒼天を仕留める。亜璃亜には悪いが。組織を瓦解(がかい)させるにはリーダーを潰すに限る。

 亜璃亜には内心の声を隠し、坂元は周囲を警戒しながら進み始める。さきほど爆発のあった方角へ。そちらからは銃撃や怒声も聞こえ始めている。

「待って、もうひとつ」

 裸足で追いついた亜璃亜が、坂元と肩を並べて、囁く。

「蒼天を殺して」

 ぎょっとして見返した坂元の耳を掴んで引き寄せ、亜璃亜は続ける。

「助けてもらったときから、そのことは考えていたの。でも、紅麗葉という女は、そんな話は認めそうになかった。だから黙っていた」

「裏切れるのか。蒼天を。あの男はおまえの保護者じゃないのか」

「そんなふうに思ったこと、ない」

 亜璃亜は艶然(えんぜん)と微笑み、そして、坂元にくちづけする。

 ――この小娘。いや、この女は。

 坂元は亜璃亜を腕ではねのける。

「武器はまだ返さない。いいな」

「わかった。あんたがあいつを殺してくれるんなら、それでいい。――こっち」

 狩りをする動物の目になった亜璃亜が駆け出す。坂元は通信端末の電源を切って、あとを追った。



- 13 -


 猿之門基地のゲート手前で江藤の高機動車を迎えたのは、しゃがんで額のバイザーを下ろし、狙撃態勢をとった龍(ロン)だった。

「止まれー。止まらんと撃ーつ!」

 間違いなく朝井の声。

「俺だ、馬鹿者おおおお!」

 叫び返すが、ブレーキは踏まなかった。それだけ気が逸っていた。紅麗葉を送った分のロスを取り返そうという焦りがあった。そして部下のほうも昂っていた。よりによって、火縄の砲口を江藤のほうへと向ける。

 こいつは撃つ、と江藤は青ざめた。

 その通りになった。が、弾は江藤の頭上を通過し、背後で着弾。ミラーで確認すると、坂の下に乗俑機乙種、三節腕(さんせつわん)の姿があった。四本の腕それぞれに武装している。その三節腕が、足元付近の着弾の煽(あお)りを受けて、倒れる。

「おや、隊長。無事で何よりッス」

 龍の真下まで来た江藤にようやく気づき、朝井が嬉しそうな声を上げる。減俸だ、と江藤は今期の査定を決定する。

「中の敵は? 北嶋は無事か!?」

「詰所でしょう。上妻中尉と一緒にいます。敵はわかりませんが、基地の中で派手に爆発が……。止まらんと撃ーつ!」

「わかった、もういい、ここを死守しろ」

「ラジャ」

 龍のバルムンクフィールドから出る。途端、無線にあちこちの交信が飛び込んでくるが、黒龍隊隊員の声は聞き取れない。いちばん混乱しているのは業務隊のようだった。衛生兵を呼ぶ声に混じって、倉知を探す声が多数。敵は相当数が中に入り込んでいる模様。

 ゲートはもちろん閉鎖されている。江藤は高機動車を降り、通用門を開けさせて、中に入る。門衛が慣れない手つきで狙撃ポジションについている。江藤は、雑然と置かれたサブマシンガンを拝借し、黒龍隊詰所へと走る。

 朝井の龍を背後からロケットランチャーで狙う人影があった。江藤は即座に威嚇射撃。おののいているうちに距離を詰め、再び引き金を引く。男は倒れた。明後日の方向へロケット弾が飛んで行く。

「あ、やべ」

 見送ったそれが空中で弾けた。地上から撃ち落されたのだ。火線を辿ると、重武装のタヂカラの姿があった。江藤を見て、親指を立てる。上妻か、その部下か。

 敵襲を許したとはいえ、戦況は優位のようだった。これまでと違い、九天軍は奇襲に失敗したらしい。

 そう分析していた江藤は不意に背中からどつかれた……と思ったが、実はどつかれたのではなかった。胴体が大きな手錠のようなもので拘束されている。背中側にヒンジ。そしてその先にはワイヤー。ワイヤーの先には乗俑機の腕。

 江藤はとても嫌な予感がした。

 その通りになった。強烈な張力に抗(あらが)うこともできず、江藤は背中から地面に転げる。そして市中引き回しの要領で、江藤は地面を引きずられ、乗俑機のほうへと巻き取られていく。

 痛いなんてものではなかった。マシンガンはたまらず手放してしまった。

 ようやくワイヤーの張力が消えると、今度は別の腕が襲ってきて江藤を摘み上げた。秦和精機DV3300シリーズ。色からして軍用最新のDV3307。基地には配備されていないはずのもの。

「少しはダイエットしたらどうですか、大尉殿」

 大多数の乗俑機乙種の例に漏れず、DV3307に顔はない。顔に見立てたライト、表示灯の類もない。そんなのっぺらぼうが、蓑虫(みのむし)のようにぶら下がった江藤を笑っている。江藤はそののっぺらぼう、展開式バイザーの奥に座る人物が誰だかわかった。ちょうど探していたのだ。

「久しぶりだな、穂積。落ちる飛行機からどうやって脱出した」

「あなただって、できるでしょうに」

 それは減圧なしの落下傘(らっかさん)降下のことか、それとも……。

 訊ねる前にDV3307は歩き出し、江藤は歩みのたびに振り回され、喋るどころではなくなる。

「櫛田大将をどこに隠したんです」

 物陰に入ったところで、穂積は尋問を開始した。答えなければ壁に打ち付けられるのだろうと江藤は想像する。

「おまえは、俺を殺しに来たんだろう。あのカーネル・サンダースを探してどうする。立会人でも頼むのか」

「櫛田のおじさんがカーネル・サンダースですか。それに立会人。あいかわらずあなたは面白い。立会人とは悪くないアイデアです、大尉殿。いえ、少佐殿でした。出世おめでとうございます」

 江藤は居心地が悪くなる。振り子のようにぶら下げられて、酔ったわけではない。裏のない調子で祝辞を述べられたためだ。何かがおかしい。

「おまえを捕えた功績も、加味されたかもな。おまえは連邦の転覆を謀り、俺はそれを阻止した。体制を守るのが黒龍隊の役目だ。その隊長となるのにふさわしい行動だった」

「中央議会が黒龍隊に望んだ機能は、そうではないでしょう。元老院の外廓聯に対抗できればそれで良かった。あなたは私と同じ道を進んでいるのです。外廓聯を倒し、元老院に迫る、その役目を持っている」

「違うな」江藤は無駄とわかっていても暴れた。「俺の役目はおまえたちのような騒乱のもとを退治することだ。投降しろ、穂積。九天軍などに与(くみ)するとは見損なったぞ」

「自分に嘘を付くのはおやめなさい、江藤博照。あなたは亜細亜連邦の現状に満足していない。不満たらたらでしたものね。そして改革を望んでいる。そのために軍に入ったのでしょう。クーデターでさえ、計画のひとつとしてあなたは温めているはずです。九天軍はそれを実現してくれる。彼らに思想はない。かつての権勢を奪われて吠える負け犬や、現実の見えない無政府主義者たちとは違う。純然たる力です。私が、それを正しく使います」

 穂積の語調は次第に熱を帯び始めている。江藤は、時間稼ぎができると踏んだ。

「おまえは、騙されているぞ。九天軍に。奴らにだってトップがいる。九人の大幹部が。昊天とやらがはるばるおまえを連れて来たらしいな。そいつは空っぽの頭だったか?」

 本当に空っぽだったから、空中で飛行機を放り出されても、ぷかぷか漂って無事だったのかもしれない。荒唐無稽だが、啓示軍(オフェンバーレナ)が可搬型の時空跳躍装置を実用化したなどという話よりは、江藤にはまだ現実的に捉えられる。

「昊天なら死にましたよ」

「何?」

「昊天は旅客機とともに山中に墜落しました。生きてはいないでしょう。撃墜したのはRAT(ラット)です。私は運良く生き延びて、日本支部を統べる蒼天と合流した」

「そして横浜議事堂を襲ったか。どうしてだ。中央議会議員を殺したのは。おまえは元老院だけを標的にしていた。亜連の体制を全て否定していたのではなかったはずだ」

「そこまで覚えていてくれたのですね。それなら不思議に思うのも当然でしょう。以前の私なら絶対にそんな作戦には協力しなかった。“ルート”を利用するようアドバイスなどは。――でも、私もいろいろと勉強したのです。そしてわかった。この巨大連邦の歪みがどこを起点としているか。いいえ、あれは世界の乱れの源とも言えます。江藤少佐、あなたもそれを知れば、私と同じ気持ちになるはずです。そんな雁字搦めの組織に収まっていることはない」

 縛っているのはおまえだろう、と江藤は言ってやりたかったが、穂積の勢いは止まらない。

「あなたの可能性は、そこでは開花しません。あの日、モップを持って戦わねば治安出動にも出られなかったのを思い出してごらんなさい。私たちが行かねばどれだけの破壊と略奪が起きていたか……。亜細亜連邦軍の組織はもう腐っています。防臭剤で取り繕ったところで、腐った中身は変わりません。駄目になったものは捨ててしまうべきなのです。江藤少佐、亜連の現体制に固執していては、改革などできませんよ。あなたの望む世界はやって来ない。だから、そこを出るのです。軍を。黒龍隊を。そして私と一緒に来て下さい。そうすればきっと全てがうまくいく」

 穂積の口はようやく止まった。が、江藤は暫(しばら)く呆然としていた。沈黙が流れる。

「俺を殺しに来たのかと思いきや、なんだ、おまえは俺を口説きに来たのか」

「やめてください。面と向かって言われると照れます」

「冗談がうまくなったな」

「そんなつもりでは……」

 爆発が穂積の言葉を掻き消した。DV3307の左肩が吹き飛び、そこから伸びた腕に摘まれていた江藤の体は、地面に落下する。

「江藤少佐!」

 若い声の男が、未だ江藤の体を掴んで離さない手錠型マニピュレータのワイヤーを電動ノコの類で断ち切る。一方、DV3307の足元ではさらに土煙が上がっていた。誰かが対物ライフルで援護している。

「しっかりしてください、江藤少佐。もうちょっと痩せていれば、そんな枷(かせ)、効かなかったでしょうに」

 電動ノコを放り出し、心配しているのか呆れているのかよくわからない調子で江藤を助け起こしたのは、南田竜時だった。

「竜時! いつ戻ったのだ」

「今ですよ。ジャストナウ。細かい話はあとで門宮さんと……」

「門宮だと?」

「いま、援護してくれているのが門宮さんです。それより九天軍を」

 南田は立ち上がり、拳銃を両手でホールドして、DV3307ににじり寄る。門宮の攻撃で、すでにその左肩、右足、右肘から先が失われている。機体はもう逃げられない。

「そいつは穂積克だ。自決させるんじゃないわよ」

 どこからか門宮の声がして、直後、DV3307の下っ腹に大穴が開く。留め具を失ったのか、機体正面を防護する装甲板が、サンバイザーのような位置にまではね上げられた。搭乗者の姿が顕になる。

 拳銃の狙いをつけていた南田が、「えっ」と声を上げてうろたえる。

「門宮さん、違います。乗っているのは穂積じゃありません。女性です!」

 南田は銃を下ろし、門宮にもう撃つなと手を広げながら、操縦席に走り寄る。女性を助け出そうとでもいうように。

 江藤は叫んだ。

「バカモン、そいつは正真正銘、穂積克だ! 離れろ!」

 再び「えっ」とうろたえた南田は、もう穂積の手の内にあった。操縦席から身を乗り出した穂積が南田の頭に拳銃を突きつけている。

「穂積克……。女だったんですか」

「男だと思っていたのか? それはとんだ勘違いだったな。――撃つなよ、門宮」

 どこからか、了解、の声。

「とんだ邪魔が入ってしまいましたね」

 穂積芳喜(よしのぶ)の娘、克は、額にかかった髪を掻き上げて笑顔を見せた。

「ようやく顔を見せたか、穂積」

「フェイストゥーフェイスでこれを言う勇気がなかったんですけどね。しかたありません、白黒ははっきりつけると前に言伝もしてありますし……」

 穂積がなお言い淀んだそこへ、DV3307の背後から裸足の少女が現れた。リスのような機敏さで機体を駆け上り、サブマシンガンで江藤を、そして遠くから駆けつけようとしていた兵たちを牽制する。

「いいタイミングです。首尾よく行きましたか?」

「まあまあよ。――克、その男」

 少女は南田を見て、何か言いかける。

「わかっています。殺しはしません」

 穂積は南田を突き落とし、もうそれには目をくれず、江藤を見つめる。

「江藤少佐。お別れの前に、これだけは聞いてください」

「くどい。俺は軍を抜けんぞ」

「私はあなたが好きです」

 江藤は絶句した。誰かがわざとらしく口笛を吹いた。穂積は本気の顔をしている。

「大好きです。どうか私と一緒に来てください。今度こそ。――返事は、また会ったときにお聞かせください。ごきげんよう」

 少女が何かを放る。煙幕が穂積と少女の姿を包み隠す。

「逃がすな、かかれ」

 機甲化歩兵たちが気勢を上げる。それがすぐ傍らを駆け抜けても、江藤は動けなかった。

 心臓がぞくりとする感覚があった。

 立ち込めていた煙が、眩(まばゆ)い光に破られた。光はDV3307のあたりを中心に広がり、そして、縮んで消えた。

 女たちとDV3307の姿も消えた。煙のように。



- 14 -


「よし、九天軍が逃げていくぞ。勝ったんだ」

 鷹山が快哉(かいさい)を叫ぶ。

 しかし、坂元は不満だった。幹部クラスを何人か生け捕りにしなくてはならない。これまではその余裕がなかったし、正直、幹部かそうでないかを峻別する目は坂元にはまだ備わっていなかった。

「撤退経路の指示を出している者を捕えろ」

 上妻が無線で部下たちに命令している。傷の完治していない上妻は、限られた装備を元気な部下たちに回し、自分は後方での指揮に専念していた。

 阿賀の右腕と呼ばれるだけあり、上妻は優秀な指揮官だった。しかしそれでも、軍人に溶けこんでいた九天軍の一団が、黒龍隊詰所まで攻め上るのを阻止することはできなかった。詰所の手前にバリケードを築いて一進一退の銃撃戦を繰り広げていたところへ、坂元はようやく合流した。ひとりで。

「あなたの手柄だ、坂元少尉」

 戦闘中より柔らかな語調になって、上妻が坂元の肩を叩いた。

「そうだよ」鷹山が反対側の肩を叩く。「坂元が奴らのリーダーを倒してくれたおかげだ」

「ああ、そうだな」

 坂元は曖昧に頷いて、そのままうなだれる。見下ろす自分の服は、返り血で黒く染みになっている。鏡を見ていないが、顔も同じ有様だろう。蒼天と呼ばれた男の血。

 亜璃亜の案内で蒼天のもとへと辿り着いた坂元は、亜璃亜が報告と偽って蒼天の気を引いているうちに、ローブの背中をナイフで一突きにした。蒼天は絶叫を上げてもがき、坂元のほうを向き直って掴みかかろうとしたので、咄嗟に抜いた予備のナイフでその喉元を真一文字に裂いた。

 何かがおかしいと、坂元は気づいた。

 護衛たちが何もしない。リーダーを殺害した坂元を捕まえようとも、殺そうともしない。亜璃亜と目配せだけで語り合っている。

 そして何より、坂元の足元に崩れ、喉から空気を漏らしているその男は、昨夜の男ではなかった。歳の頃からして違う。全くの別人。あの占い師ではない。

「逃げろ」亜璃亜は言った。「蒼天殺しの名誉を持ち帰ればいい。あとはこっちで処理する」

「どういうからくりか教えてもらおうか」

 坂元はそれを知らずに去ることなどできなかった。

「あんたがわたしのそばに残るなら、教えてもいい。けど……」

「そいつは無理だな」

 坂元はその場を飛び退いた。先に護衛たちのほうが坂元に対して身構えていた。亜璃亜とは打ち合わせをしていない仲間が、悲鳴を聞きつけて戻って来たのだと、坂元は理解した。亜璃亜たちは憎き仇を追わねばならない。仇は逃げるのがここでの役目。

 そして坂元はひとりで隊に合流した。蒼天を失った九天軍の統率は徐々に乱れ始め、こちらの援軍が到着したのを機に、一斉に撤退に移った。今は追撃戦になっている。

「――了解。では、そちらもお気をつけて」

 復旧した電話を使っていた北嶋が、話を終えた。まだ完全復旧ではなく、霞ヶ浦の藤居たちにはまだこの非常事態を伝えられていない。繋がったのは基地内と、東京以西の都市間基幹回線を利用した範囲である。

 北嶋の話していた相手は穴蒲のようだったが、口を動かしていたのは殆ど穴蒲のほうで、やりとりの内容はよくわからなかった。坂元だけでなく皆が気にしていた。

 受話器を置いて、視線に気づいた北嶋は、皆を見返して微笑んだ。

「外出なさっていた櫛田司令はご無事とのことだよ。倉知大佐も保護できたそうだ」

 歓声が上がる。が、坂元はその波に乗れなかった。――倉知は坂元を狂っていると言った。

 そして、乗れないでいるのは坂元ひとりではなかった。

「そいつはめでたいこった」

 崩したバリケードの隙間から、江藤が現れた。口で言うほどめでたがっている様子ではない。金属の輪で体を縛られた情けない恰好では、喜ぶのは難しいかもしれない。その江藤に続いて、こちらは安堵した様子の南田、そして門宮が姿を見せる。九州まで一緒だったはずのイルベチェフの姿はない。

「みんな無事か」

「死者は免れた。黒龍隊は、ね」

「上出来だ」

 江藤は、北嶋の上妻に対する配慮を無視して、満足気に笑う。しかし、その笑顔は途中で険しい表情へと豹変した。

「穴蒲からの連絡はそれだけか、北嶋」

「いや」北嶋は言い淀む。「もうひとつあるにはあるが」

「俺が許可する。ここで全員に聞かせろ」

 江藤はその内容を知っているようだった。北嶋は神妙に頷き、もう一度詰所をぐるりと見渡した。

「今しがた、ボスポラス作戦が始まった。ダーダネルス作戦の目標補完、領土の完全奪還を期した、第二次反攻作戦だよ」

 何人もの隊員が背筋を硬くする気配が伝わってくる。また前回のように、前線に放り出されるのではないかと危惧しているに違いない。

 部下の同様を察したか、江藤は持ち前のどっしりとした声で「大丈夫だ」と宣言した。

「今次作戦で黒龍隊が前線へ赴く予定はない。今後もありえないだろう。俺が突っぱねるからだ」

 今度は胸をなで下ろす気配が伝播(でんぱ)する。

「が、しかし」江藤はひときわ声を大にした。「関東一帯の枢要な連邦機関を守るという、俺たち本来の戦いがある。こいつは向こうのよりもっと苛烈を極めるかもしれん。九天軍の襲撃がこれで終わったわけではない。そして、ボスポラス作戦が始まった今、敵も対抗措置に出る可能性がある」

「日本への攻撃、ですか」

 南田が訊ねる。それは坂元が問おうとした内容と一致している。

「そうだ。啓示軍(オフェンバーレナ)とて、ボスポラス作戦のボの字にも気づかないほど、間抜けではあるまい。必ずカウンターを当ててくる」

「それ、正解ですよ」

 門宮が突然口を挟んだ。耳に手を当てている。どこかと通信しているらしい。

「少佐は占い師の素質がありますね。的中です」

「何を言っている、門宮」

「ですから、来たんですよ、敵が。九天軍じゃない。――啓示軍です」

 どよめきが起こったのは、中よりも外のほうが先だった。あれはなんだ、と叫ぶ声がある。

 何人かが窓際や外へと走った。坂元は鷹山や南田とともに、外へ出る一団に連なる。縛られたままの江藤は置き去りにした。

 詰所の外には人だかりができていた。皆が西の空を注視している。傾きかけた太陽が眩しい。が、よくよく目を凝らせば、前景に横並びの点が見える。烏が家路につくにはまだ刻(とき)が早い。

「あれは……何だ?」

 ミサイルにしては遅いように思える。肉眼でこれだけゆっくりと確認できるなら、関東一帯に集中配置された高射群が、とっくに叩き落としている。

 門宮がぴょんぴょん跳ねる江藤を支えながら下りてきた。

「仲間の報告では」門宮が淡々と告げる。「飛行タイプの新型ゾルダートが二十機前後。厳密な数はバロッグにより特定不能、とのことだ」

「まさか、一個機兵戦隊(エスカドローン)が悠々と防空網を突破しただなんて。バロッグだってそんな都合よく……」

 南田が疑問を表明し終えるまえに、江藤が「いや」と遮った。

「バロッグは実際に出ているな。まだ高空にあるが、あれは……そろそろ下りてくる」

「江藤少佐、あなたはやはり」

 言いかけた坂元を見て、江藤はにやりと笑う。それから大きく息を吸い込んだ。

「さあ、皆の者。合戦の支度をせよ。敵は関東上空に有り!」



――続く――