黒龍隊の挽歌 第二十九話

銃創よりも深く



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 レーダー上に三つの輝点。うち二つは不規則に移動している。それを凝視しているうちに、催眠術でもかけられているようだと、藤居は思う。

 藤居は乗機、角龍(ジャオロン)を旋回させた。視野を二つのビルが横切り、そして、レーダーの輝点の一つが正面に来る。しかしすぐに消えてしまった。

「ターゲットD(デルタ)、ロスト。シャドウ、もしくはデコイと推定」

 背後から円道の声がする。通信機を介さない、生の声。

「索敵継続。ターゲットC(チャーリー)に再起動の兆しは?」

「ありません。撃破と断定します」

「断定は却下だ。継続監視」

「了解」

 不動のターゲットC(チャーリー)を含め、残る輝点は二つ。最初はA(アルファ)からE(エコー)の五つだった。A(アルファ)は撃破、B(ブラボー)とC(チャーリー)がまだ残っており、D(デルタ)は誤検知(シャドウ)か敵の囮(デコイ)かもしれないが判断保留。E(エコー)はデコイと確定できている。肉眼で捉えられる距離だったからだ。

 最初に潰したターゲットA(アルファ)は機兵だった。エントゼルトゾルダートの四脚型で、ミサイルの軌道から位置を特定できた。その姿は九式対戦車ミサイルの誘導用カメラが捉え、角龍まで送ってきているので、電子的な欺瞞(ぎまん)ということはない。

 ターゲットC(チャーリー)も同様に姿を確認しているが、撃破できたかどうかはわからない。もうミサイルが残っていない。観測を援護してくれる味方もいない。自分で出向いて確かめない限りは安心しきれない。

 しかし、藤居の前には最優先で対処すべきターゲットB(ブラボー)が残っていた。前、というのは藤居が向きを合わせた結果で、その位置関係を維持するために藤居は角龍を移動させ続けなければならなかった。敏捷(びんしょう)性から判断して、B(ブラボー)も機兵のようである。

 三機の機兵相手に、単機でよくやっているものだと、藤居は自嘲する。同時に右手の指でトリガーを引く。それに応えて、角龍の抱えた不知火(シラヌイ)単装型から、射程六十キロメートルを誇るベースブリード式ロケット弾が発射される。

「あれ、武装選択、間違っていませんか」

 円道が慌てている。ターゲットB(ブラボー)との距離は推定六キロメートル。角龍はその距離に適した別のロケット弾も装備していた。

「いいんだ。狙ったのはグルーテイルのほうだ」

「グルーテイル……。こちらではキャッチしていません。上空には何も」

「いや、着陸しているな」

「目視確認ですか?」

「状況からの推定だ」

 説明を省き、藤居は角龍を大きく移動させる。先制攻撃を加えたからといって安心してはいられない。弾頭が終端誘導に入るまでは単純な弾道を描くため、たとえそれでグルーテイルを葬ったとしても、残るターゲットB(ブラボー)から発射元を特定されやすい。反撃が来る前に、その場を去らねばならない。が、藤居は完全に姿を消すつもりもなかった。

 命中は御免被(こうむ)るが、ターゲットB(ブラボー)には是非とも角龍を狙ってもらわねばならない。でなければ他に矛先が向く。藤居は防衛戦をやっているのだ。守るべきものがいくらもある。残る唯一の攻撃手段である、ロケット弾の使用すら、苦渋の選択なのだ。破壊されるのは敵機だけでは済まない。都市が、市民の財産が、下手をすれば市民の命が、損なわれる。しかし他にどうすることもできない。藤居にはすでに万全の結果を求める余力がないのだから。

 挑発に乗って、ターゲットB(ブラボー)が自ら姿を現した。三脚型のエントゼルトゾルダート。

 藤居は相対バルムンク反応から熱粒子砲の作動を察知したが、十全な回避運動の余裕はなかった。辛うじてコクピットへの直撃は避け、胸部に被弾。バルムンクフィールドが消失するが、そのときすでに、角龍からは反撃のロケット弾が発射されていた。

 必中を期待できる状況ではなかった。しかし、結果として藤居は賭けに勝利した。

「ターゲットB(ブラボー)、撃破」

 円道の宣言に、今度は藤居も異議を唱えない。カメラ映像でしっかりと確認できている。ロケット弾はコクピットを直撃し、それを吹き飛ばしていた。

「状況終了」

 藤居の宣言に反応し、モニタがブラックアウト。即座に回復。ただし映し出される情報は様変わりしている。

 何の変哲もない、亜細亜連邦軍霞ヶ浦駐屯地。

 レーダー画面上を跋扈(ばっこ)していた輝点はひとつも存在しない。オートレンジになったレーダーは周囲の施設に反応するばかり。正面で大破したはずの三脚型ゾルダートは跡形もなく、何も壊れたものはない。施設も、角龍も。煙も移動熱源もない。各種ロケット弾の残弾数表示だけがブラックアウト前と同じ値を示していたが、何ら不思議はない。藤居は幻を見ていたのではない。実際に角龍は地を踏みしめ、不知火単装型を振り回し、ロケット弾を発射した。――模擬弾だったが。

「本当なら、ターゲットC(チャーリー)無力化の確認と、D(デルタ)が本当にデコイであったかの調査がまだ必要だった。それから、F(フォックストロット)以降の敵がいなかったか、グルーテイルは実際に隠れていたのか……、確認すべきことは幾つもある。これが実戦なら、な」

 藤居と円道が実施していたのは、角龍の搭載コンピュータを駆使した新式の戦闘シミュレーションであった。仮想現実体験用のメットを被ってビデオゲームを行うのと基本は同じである。

 フルCGのシミュレーションとは、臨場感が違った。こちらのほうが実際の対応を体で覚えられそうだと藤居は高く評価する。もちろん、広い場所も実機の稼働コストも必要なので、もっと積極的な利点があるのだろうが、それはまだわからない。評価試験のメニューはまだまだ残っている。

「ご苦労、藤居准尉」

 演習を見守っていた駐屯地の士官が、眠そうな声をかけてくる。

「四番倉庫に専用の整備台を用意した。岩津中佐の計らいだ。そちらへ機体を収容するように」

「了解」

 敵は藤居と円道にしか見えていなかったのだから、傍目(はため)にはさぞ退屈だったろうと藤居は察する。せめて監督官の見られる端末と情報を共有すれば良いだろうに、そんな設定はされていなかった。技術的にはおそらく可能なのだろうが。

 藤居は監督官の指示通りに、出てきたのとは違う倉庫に入って機体を降着させ、待機モード移行を指差確認してから、ようやくヘルメットを脱ぐ。引っ張られて少し上にずれたバンダナを、定位置に修正。溜め息を漏らしたのはそのあとだった。

「お疲れですか?」

 円道の声が、より鮮明に聞こえる。ヘルメットを脱いだせいだけではない。早く汗臭い座席から脱出したいのか、円道が身を乗り出しているのだ。しかし、藤居の座っているシートの背もたれが、彼女が出るのを妨害している。そういう設計なのだ。自然と、藤居の耳元に円道の顔が近寄る。

「いや……。このコクピットは、どうも問題だなと思ってね」

「たしかに、狭いですよね。でも、将龍(ジャンロン)では同じ複座仕様コクピットを一人用に改造しちゃったんですから、江藤少佐は贅沢です」

「少佐は体が大きいんだ、しかたがない」

「そりゃ、その点私は小さいですけどね」

 でも体のどこもかしこも小さいってわけじゃ、と、円道が口のなかでごにょごにょと呟く。

「――どうして少佐の悪口の話になったんだ?」

「え? あ、私てっきり、藤居准尉は二人乗りが嫌なのかなって」

「ああ、いや。スペースの話じゃないんだ」

 藤居は話を逸らす先を探し、運良くそれを見つけ出した。

「角龍や、原型の複座型に始まったわけじゃない、そもそも論だけどね。俺は、機体正面から乗り降りする構造はどうかと思っていたんだ。装甲一枚の凹みで噛合が狂って、脱出に支障をきたすような設計は、どうも信用ならない。装甲が衝撃に耐えたとしても、奥の機構部分が壊れてしまえば、やはりパイロットは閉じ込められてしまうし」

 逃げ出せずに蒸し焼きになる、そんな未来を想像して藤居は顔をしかめる。

 宇宙空間での運用すら視野に入れた龍(ロン)のコクピットは、太陽の放射熱にも耐えられる設計である。実際、暖炉の谷の火炎発生領域での戦闘にも耐えた実績はあるが、兵器の生み出す高熱は、暖炉の谷の比ではない。

 更に言えば、計算は機体に損傷がない場合で考えたものだろう。損傷があれば機密性や断熱性が低下する。あまりに傷の多い機体では、暖炉の谷の中央に突入はできなかっただろう。その程度のものに藤居は、藤居たち亜細亜連邦軍機兵パイロットは乗っている。損傷をものともしない生残性を機兵に与えるだけの時間は、亜細亜連邦にはなかった。

「たしかに、ハッチが開いたとしても、正面では敵の砲火に晒されている可能性が高いですね

「ああ。せめて、非戦闘要員も乗る後部座席くらいは、機体背面から出入りできるようにするべきだ」

「同感ですけど、でも、それではメインロケットの配置を大きく変えないといけませんよ」

 推力偏向ノズルの向きにもよるが、大なり小なり、ロケットエンジンの燃焼熱に晒(さら)されて龍の腰背面は高温化する。そこを出入りに使うのは、敵の弾が飛んでこなくても、危険である。

「それだけの価値はあると思う。将龍の成功例から言って、メインスラスターを腰に移すのはそう難しくないんじゃないか? いや、素人考えなんだが」

 言いつつ、藤居は体を拘束していたベルトの類を外し終わり、起動キーを引き抜いてポケットに収め、機体正面のハッチを開放する。そして改めて感じる。ここをロケット弾や擲弾で狙うのはあまりにたやすいと。

 角龍を黒龍隊の手元に置きたい江藤からは、この試験期間を通じて角龍の欠点をあげつらうように言われている。しかし、この角龍はむしろまともなほうだと、藤居はそう思っている。角龍は後方からの指揮、火力支援を前提に設計されているからだ。対して、龍は最新型でもあいかわらずコクピットハッチが正面にある。また、角龍とは兄弟機ともいえる将龍も、切込隊長としての運用を想定していながら、コクピットの防護に特別の配慮がない。もっとも、基地での独自改造機に過ぎない将龍でそこまで大幅なレイアウト変更は不可能だった。将龍を作った最大の目的は、雷麒麟(ライキリン)に代わってAHシステムを作動させることであるから、早期に稼働にこぎつけることを優先せねばならなかった。

 戦力としては、将龍よりも角龍のほうが期待されているのだろうと藤居は推察する。円道にシステム面の難癖でもつけてもらって、何とかするしかないだろう。実際には順調な仕上がりという印象だったが、命令とあれば仕方が無い。

 岩津中佐が用意してくれた専用整備台は、最新の型のものだった。龍のマイナーチェンジに合わせた設計変更が主だが、機兵への乗り降りに使う足場の位置もずいぶんと改善されて、使い勝手が格段に良い。猿之門基地では将龍用の一台しか設置されていないが、霞ヶ浦では数に余裕があるようだった。

「角龍はどうだ、藤居准尉」

 声をかけられて、藤居は左脇にヘルメットを抱えたまま敬礼する。件(くだん)の岩津中佐が藤居のことを待ち構えていたのだ。岩津は昨日も一度格納庫のほうに顔を出した。予測して然るべきだったと藤居は反省しつつ、脳の大部分では岩津に返答すべき内容を精査していた。

「上々です。不知火使用時の機体安定といい、敵の捕捉精度といい、申し分ありません。懸念といえば、外部リンクのフル活用をした場合にどうか、といったくらいでしょう」

 今しがたの訓練では、角龍は自機の発射したミサイルや、近くを飛行しているプローブから情報を受け取ることで、単機ながら多数の敵を相手にしていた。しかし、本物の敵はもっと捕捉困難で、予測しがたい行動を取る。もっと多くの情報を得なければ対多数の戦闘は現実的ではない。そのため角龍には、従来の龍にあった戦術データリンク機能を拡張した、戦場管制システムが搭載されている。龍はプロトコルの特異さゆえに龍同士でしか十全な情報のやり取りができなかったが、角龍は違う。もっと多彩なプロトコルを利用可能であり、機兵に限らず近くの味方なら大抵は情報源として利用でき、即座に自分の知識として活用できる。機甲化歩兵がヘッドマウントディスプレイ(HMD)でエントゼルトゾルダートを目視すれば、中継された情報を読み取った角龍がそこへ鉄の雨を降らせるまで数秒しかからない、という寸法である。逆に角龍からネットワークの末端の機器に対して指示を与えることも設計の範疇(はんちゅう)で、故に角龍は将龍よりも指揮官向きだと言える。

 しかし、機兵を用いるのは変則領域内。そこで友軍とのネットワークが十全に機能するはずはなく、角龍のポテンシャルが発揮される状況は極めて特異な、稀有(けう)なケースとなることが予見される。藤居は、そんな都合のいい環境条件を入力した評価にどれだけの意味があるのかと、暗に訴えたのだった。

「コストの無駄だと言いたいのか、准尉」

 岩津中佐は藤居の意を的確に捉えた。

「いえ、そこまでは。ただ……」

「効率的な運用でない、とは同感だ。実際、ネットワーク化を先駆けた米軍が、こと変則領域内についてはネットワークを恃(たの)みとしない方針を徹底している。しかし准尉、この角龍は画期的な兵器だと私は捉えているがね。特に、君のような立場の軍人にこそ、意味のあるものだ」

「と、仰いますと?」

「いかにも江藤が欲しがりそうな玩具(おもちゃ)だということだ」

「は。――は?」

「わからんなら、いい。いずれわかろう。――戦場管制システムを下ろしても、なお角龍は優秀な機兵と言えるだろう。君の意見は違うのか」

「――いえ。同感です」

「円道軍曹はどうか」

「は、はいっ。同感です。むしろ戦場管制システムの本体は、機外に存在するべきでしょう。二三式戦場管制車は、まさにそのような考えで生産が始まっているわけですから。機兵に搭載できるサイズではリソースに限界がありますし、振動の問題も根本的に回避できません」

「正論だ。角龍が画竜点睛を欠く点を十分に指摘している」

 岩津は他人事のように呟く。実際、岩津は霞ヶ浦駐屯地において機兵の運用を取り仕切ってはいても、角龍を開発したフェイジアインダストリーズとは関係がなかった。

「――とはいえ、江藤の玩具としては申し分なかろう。レポートさえきちんと提出されるなら、評価後のこの機体がどうなろうと私の知ったことではない。ただし、メニューは形どおりにこなせ。それが命令だ。うやむやにして猿之門に持ち帰ることはまかりならん」

「了解しました、中佐」

「では、引き続き頑張りたまえ」

 岩津は踵(きびす)を返して去っていく。

「なんでバレたんでしょう。角龍のお持ち帰り計画のこと」

 藤居の背に寄り添い、円道が小声で訊ねた。

「江藤少佐を個人的に知っているような口ぶりだったな。前にこっちにいた北嶋大尉と知り合いだって話は聞いていたが……。まあ、よかった。中立というよりは、やや協力的のようだ」

「泳がされている、とかありませんか?」

「考えすぎだろう。――ん、あれは」

 岩津の背中に視点を固定していた藤居は、倉庫を出たところで誰かが岩津に話しかけ、一緒に歩き出すのを目にした。どこかで見た男である。服装からして、軍の人間ではない。SMITS(スミッツ)のユニフォームの一種だ、と気づいて、藤居はその人物を以前どこで見たかも思い出した。

 昨年十二月、防人(サキモリ)型を富士工場から搬送する際に、偽装龍王(ロンワン)を黒龍隊に送り込ませた男だ。SMITSの主任、ジョンソン。藤居が何語で話しかけてもろくに返事をよこさなかったが、岩津と話しているところをみると、やはり日本人と対話できないわけではないらしい。

「どうかしました?」

「SMITSの主任が来ている。またここで龍王のテストでもやるつもりかもしれないな」

「角龍の対抗馬ですか」

「いいや、龍王の量産型と将龍とは競合するけど、角龍はあくまで別計画だ。――そんなことより、早く休憩に入れ、円道軍曹。それから、記憶の新しいうちにレポートの草稿を書いておいたほうがいい」

「藤居さんは?」

「俺もシャワーを浴びてレポートを書くさ。岩津中佐が提出を認可してくれないと、角龍を持ち帰ることもできない」

「そうですね、ちゃちゃっと片付けちゃいます」

 円道は猫のように軽やかさで駆けていく。

 しかし、藤居は、円道のようにはいかなかった。ちゃちゃっと片付ける、というわけには。

 藤居は文章があまり得意でない。毎度のレポートは、推敲を重ねてなんとか提出しているのだ。人の倍以上の時間をかけて。円道はその時間で次の試験のための準備も終えるだろう。

 幸いにして、藤居にはバックアップとして群山がついていた。円道は角龍の機体管制と情報処理でバックアップをしてくれるが、群山は操縦その他の作業を藤居と交替でやってくれるという意味でのバックアップである。機兵の操縦は神経への負荷が大きい。次の試験項目で疲労に起因する不公平な評価を下さぬよう、藤居は休まねばらなかった。

 藤居は部屋に戻って群山に申し送りを済ませると、汗のまとわりついた操縦服を脱ぎ、シャワーを浴びた。軽く浴びたつもりだったが、シャワー室を出ると群山はもういなくなっている。角龍のネットワーク接続試験に立ち会うためだろう。藤居は誰にともなく頷(うなず)くと、脱いだ服を洗濯機へ放りこんで、部屋着に替える。バンダナも新しいものを出した。いつ誰が来るともわからないので、額の傷も隠さず横になるのはためらわれた。

 藤居は群山と共同の部屋を割り当てられていた。もとは四人部屋のようなので、これでも良い待遇であろうと藤居は思う。円道が男であれば人口密度はもっと高くなったに違いないが、藤居はもっと過酷な密度をかつて体験していた。それは中国にいたときのことだ。階級がもっと低かったこともあり、この程度の部屋に八人が詰め込まれた。

 レポートを一通り書き終えると、藤居はベッドに横になった。

 ジョンソンのことを考える。あの人物は、ただのSMITS主任などではないような気がした。RAT(ラット)の門宮(かどみや)も、ただの警護員ではないのだろうが、その門宮がボスとして扱っていたジョンソンは、やはり只者ではあるまい。偽装用だったとはいえ、登記上は紛れもなく龍王であったあの陸(ろく)番機を一存で動かしたのだ。龍王の所管はSMITS、しかし元を辿(たど)れば、行き着くのは……。

 藤居は首を振った。今考えたことは、不用意な憶測に過ぎない。下手な考え休むに似たり。むしろ、何も考えず休むべきだった。

 角龍のネットワーク接続試験に向かった群山から、コールはない。特に問題はないということだろう。

 自分が先達として示せることは、もう数えるほどしか残っていないかもしれない。藤居はそんなことを考えながら、まどろみのなかに落ちていった。



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 銃声が轟いた。拳銃のものではない。もっと重い音が。

 邸宅が燃えていた。庭の観葉植物を次々と呑み込む炎を、藤居は双眼鏡で見下ろしている。

 ――どうして。

 藤居は叫んでいた。火にまかれて進退窮(きわ)まった者、血を流して倒れている者、サブマシンガンを撃ち続け自分に誰も近づけさせない者、ただ呆然と立ち尽くす者……。藤居の手も声も届かぬそこで、数十の人間がそれぞれの方法で事態を受け止めている。銃声が彼らの希望を消し去ったのだ。

 双眼鏡を離した藤居の手は、いつの間にかライフルの重い銃身を抱えている。

「作戦は成功だ」

 誰かの快哉(かいさい)が聞こえて、藤居はそこに東部方面軍将校の姿を発見する。その男、軍服をきっちりと着こなした欧陽(オウヤン)中佐は、藤居に気づいて顔をしかめる。

「貴様、味方に銃を向けるのか」

 違う、それはおまえの台詞(せりふ)ではない。藤居は激しい違和感を覚える。

「敵はテロリストだ。貴様の敵はあの炎の中にいる。まだ、生きている。狙撃しろ。その技量を見込んで、作戦に抜擢したのだぞ」

 欧陽と現場でそんな会話をした記憶はない。そもそも、あのとき欧陽は藤居から見える場所にはいなかった。現場指揮には来ていたようだったが、どこの装甲車に指揮所があったのか、藤居は知らされていなかった。

 これは夢だと藤居は気がついた。事実とは異なる、しかし記憶に基づいて構成された夢。

 気がつくと欧陽中佐の姿は消えていた。藤居の周囲の景色も一変している。火と煙が藤居を取り巻き、そして、眼前にひとりの青年が倒れている。

 藤居はその男を知っていた。駆け寄って助け起こす。これも事実ではないことを、意識のどこかで自覚しながら。

「しっかりしろ、廖(リャオ)伍長。――廖! 廖栄讃(ロンツァ)!」

 息はあった。廖栄讃は、藤居に揺すぶられてようやく目を開ける。

「藤居か。作戦はどうなった。――燃えているな。人質は無事か」

 栄讃の意識は朦朧(もうろう)としている。煙を吸っただけではない。服は血を吸って重くなっている。

「作戦は成功だ。欧陽中佐はそう言っている」

「そうか。じゃあ、孔魅(くみ)も助かったんだな。――いてぇ。俺、撃たれたのか。誰だ」

 栄讃が腹を押さえて呻く。

 俺じゃない。藤居はそう答えようとしたが、声が出ない。もう一度、怒鳴る勢いで繰り返そうとしたが、声帯は思うように機能しなかった。大きく開けた口から僅かばかりの空気が漏れ出る。

 突如、藤居の抱えた体が大きく跳ねる。

 廖栄讃の胸に大きく穴が空いていた。撃たれたのだ。栄讃は即死している。

 弾道を読んで、藤居は犯人を探す。燃え盛る邸宅を見下ろす、二十階建てのホテル。その一室に、大ぶりのライフルを抱えた青年の姿があった。

 藤居のよく見知った男だった。誰よりも、よく知っている。いつでも鏡の前にいる。見間違う余地はない。

 ――違う。


*   *   *   *   *


「俺じゃない!」

 望みどおりの大声を、藤居は現実の聴覚で感知した。

 じっとりと汗をかいている。

 部屋に群山の気配はない。寝ぼけた叫び声を聞かれなくてよかったと、藤居は胸を撫で下ろす。

 夢の内容はまだ頭に残っていた。忘れるわけがない。東部方面軍にいたことも、所属部隊に廖栄讃という友人がいたことも、過去の事実である。いずれも、過去となった。藤居は部隊を去り、栄讃はもうこの世にいない。

 時計を見て、シャワーを浴びなおそうかと考えているうちに、部屋を訪(おとな)う者があった。

 額のバンダナを感触で確かめ、上着を羽織って、慎重にドアを開ける。駐屯地内にあからさまに危険な人間が侵入している確率はずいぶん小さいが、蒸散せずにまとわりついている夢の残滓(ざんし)が、藤居にそうさせた。

「こんにちは」

 見たことのある女が藤居を見上げている。しかし、名前は覚えていなかった。藤居の記憶にあるのは、彼女がこの駐屯地内で龍(ロン)に乗っているということだけ。所属がどこかも知らないし、話したこともなかった。ただ、視線が合ったと感じたことはあった。そのときと比べると、今回は随分と距離が近い。

「あなたは……」

 相手は口の前に指を一本立て、黙ってついて来るよう促した。

 藤居は訪問者に従い、部屋を出ることにした。



- 3 -


 円道紗耶はシャワーとレポート提出を済ませると、残った時間の使途について一考していた。

 まず、藤居の部屋を訪れようかと検討したのだが、うまい口実が見つからなかった。レポートを提出してしまったのは失敗だったと円道は悔いる。書き方を聞きに行くという作戦が使えなくなった。

 角龍(ジャオロン)のお持ち帰り計画について、岩津中佐の妨害の可能性を議論するという名目も思いついた。が、岩津の言葉を思い返すに、やはり敵ではないという印象が拭えない。口止め料を要求されているわけでもないので、特にするべきことがない。ただレポートさえ出せば、それで江藤の密命には応えられるだろう。これでは藤居と二人きりで話をする口実にはならない。

 二人きり。問題はまずそこである。

 江藤と裏取引をして霞ヶ浦行きのチケットを手に入れたにもかかわらず、藤居と二人きりで個人的な話をするという円道の野望――第一段階に過ぎない――は、未だ実現されていない。一緒に派遣された群山が邪魔者なのだ。あの癖毛で寡黙で無愛想な機兵パイロットが。

 群山は今どこにいるのか。藤居と一緒に部屋にいるようなら、訪ねても意味が無い。円道は電子端末でスケジュールを確認して、ガッツポーズを取った。群山は次の試験のために角龍のところへ行っている。スケジュール通りならば。

 部屋が藤居と一緒である以上、群山が仮眠したまま寝過ごしたなどとは考えられない。藤居がそれを許さないだろう。確実に群山が部屋を出ていると円道は断定した。憂慮するのは、勤勉な藤居がろくに休まずまた現場に出ているというケースだ。それでは二人きりにならない。

 まずは偵察。円道は決心して部屋を出た。

 ネットワーク接続に必要な作業は、もっぱら角龍の周辺で行われる。接続対象は駐屯地及び近隣の施設だが、そこにはすでに駐屯地司令部の管理するネットワークが存在するので、角龍はそこへ参加するだけでいい。つまり、中継点の一つに相互アクセスできれば、戦場管制システムのより実地的な試験が実施可能となる。問題が予想されるのは通信機器の互換性くらいのもので、邪魔なバロッグさえ発生しなければ、順調にスケジュールは進行するだろう。

 順調すぎてスタッフが解散する前にと思い、円道は格納庫へと足早に向かう。――向かおうとして、ほどなく立ち止まる。

 方向が違う。角龍は四番倉庫に移ったのだった。円道は回れ右をして倉庫の並びへと向かう。機兵の足ならほとんど気にならない距離だったが、人間の徒歩では少々面倒であることに今更気づく。

 四番倉庫に移って、整備台が新しくなったのはいいが、人間の居住性はこれまで使っていた格納庫の方が良かった。実は岩津中佐の嫌がらせかもしれないと円道は想像する。江藤と知り合いのようだから、きっと遺恨の二つや三つや四つや五つはあるに違いない。もし真実だとしたら、根暗である。群山と同じだ、と円道は噴き出す。

「楽しそうだな」

 思い浮かべていた当人の声がしたので、円道は飛び上がって心臓を押さえた。そのあとで、群山の口調が幾ばくか自分を馬鹿にしたものであったように感じられて、円道の眉は釣り上がる。そうしたところで大して迫力などないことは重々承知の上だったが。

 廊下に面した休憩所の、コーヒー専門自販機の前に立っていた群山は、すでに円道に背を向けていた。自分から声をかけた割には愛想がない。円道が思い切り舌を出してみても、群山は機械がコーヒーを差し出すのをじっと待っていて、気がつかない。

「もう休憩? ネットワーク試験は終わったの?」

 円道はできるだけ嫌味ったらしい口調を心がけたが、群山は特に気にする様子もなく、ゆっくりとコーヒーを手に取って、ひと啜(すす)りした。それからようやく、円道を向き直って目を合わせる。

「もうじきだろうな」

 それ以上言うことはないとばかりに、群山は再び缶に口をつける。円道は無性に頭にきた。

「何もわかんなくても、とりあえず立ち会うのがあんたの仕事でしょうが」

「わからないわけじゃないが、フェイジアインダストリーズ(FI)のスタッフが俺に手伝わせようとしない」

 群山の言い草は、いかにも彼が休むための口実であるように円道には聞こえた。皮肉のひとつも言ってやりたくなる。

「で、自販機の動作チェックを代わりにやっているの?」

「馬鹿か、君は」群山は本気で心配そうに円道を見返す。「俺はそこの計算室でシミュレーションを試していた」

「操縦シミュレーションで腕を磨こうって?」

 藤居に腕が及ばないことを、群山は気にしているのかもしれない。円道はそう思ったのだった。円道の口からその事実を指摘したことはないが、本人が一番よくわかっているだろうから。

「違う。啓示軍(オフェンバーレナ)の関東空襲シナリオだ」

 あまりにさらりと出てきた言葉に、円道はぎょっとした。

「そんなプログラム、どこから」

「演習用プログラムを改変したチャチな奴だ。参考にはなる。例えば、啓示軍航空部隊が防空網を突破するにはどれだけの戦力が必要か。逆に、どれだけの防空施設が破壊されれば関東が丸裸になるか」

「ミサイルは前から飛んで来てるじゃない。最近はあんまりないけど」

「ミサイルを打ち込んでも埒(らち)が明かないとなって、制圧部隊を送り込んでくる可能性はある」

 連合軍が戦線を押し戻している現状、そのような可能性はごくごく小さいのではないかと円道は思ったが、ひとつ忘れていることに気づいた。啓示軍は空や海からやってくるとは限らない。無論、地中からということもないだろう。しかし虚空から現れる可能性ならあるのだ。事実、暖炉の谷からは二個機兵戦隊が忽然(こつぜん)と消え去り、後日、該当部隊の欧州での活動が報告されている。彼らは自ら意図して中央アジアから欧州へと時空跳躍を行ったのだ、おそらくは。啓示軍とてそうそう便利に時空跳躍を使っているわけではないはずで、何らかの地理的な条件があるのだろうが、日本にそれを満たす場所が無いとは言い切れない。

 ただ、そうだとしてもやはり、啓示軍が日本に直接乗り込んでくる確率は高くないように円道には思われた。日本に限らず、変則領域に覆われやすい土地が亜連には五万とある。狙うなら南京(ナンキン)の戦略軍でも叩いたほうが啓示軍にとっては有益ではないのか。横浜では今、中央議会が開かれているが、それもいつまでも日本で続くわけではない。

 群山の計算の動機に対する疑問は消えなかったが、備えあれば憂いなしの言葉は円道も認めるところであったので、是非はともかく措(お)いて、話を次へやることにする。

「そういう計算なら、角龍のEPUにさせればいいのに。ノイマン型の力技に頼るよりずっと早いし、機体が待機中なら、その程度のリソース使っても問題ないよ。どのみちこの評価中は、EPUをシャットダウンさせずに熱耐久を見るって決まっているし」

 気になる点はシミュレーションの動機よりもむしろそちらのほうだった。が、つい専門家としてのコメントを素直に――皮肉も含まず――出してしまい、円道は少しばかり後悔する。しかし、いずれにせよ円道の言葉が群山に恩恵を与えることにはならなかった。群山は首を横に振り、面倒臭そうに言葉での説明を付け足す。

「俺もそのつもりだったが、駄目だった」

「どう駄目なの。角龍側では通信規格にちゃんと対応しているんだから、作業は基本的に中継器の設置のほうでしょ。だったら、コクピットは使えるはずじゃない」

「接続の前にHAOS(ヘイオス)のアップデートが必要だとかで、コクピットからも追い出された」

 機兵用のプログラムの更新はよくあることだった。個々のアプリケーションが最多だが、OS自体の更新も珍しくない。どんどん開発される周辺機器に対して機能拡張しなければならないし、当然、セキュリティも常に強化されている。機兵を乗っ取られでもしたら目も当てられない。

「でも、ここの計算機じゃ、捗(はかど)らないでしょ?」

「そのとおりだ。だからそれは諦めた」

「じゃあ、何をしているのよ」

「定時報告を送ろうとしていた。猿之門に」

「定時報告?」

 そんな義務を、円道は課せられていない。角龍ぶんどりの件か、と問おうとして、どこに耳があるかわからない現状に思い至って口を噤(つぐ)む。

「だが、それも駄目だった」

「またか。どう駄目だってのよ」

「猿之門に繋がらない」

「え? 留守番電話?」

「馬鹿か、君は。――都市間基幹回線が繋がりにくくなっているようだ」

 そんなはずはないと、円道は群山を引っ張るようにして計算室に入る。作業中の端末はひとつしかない。モニタを見ると、確かに、通信に失敗した旨のログが何行も並んでいる。

「またタイムアウトしたのか。やはりおかしい。こっちの部屋の端末には繋がるし、食堂のメニューも確認できたんだが」

「ちょっと貸してみなさいよ」

 椅子を奪い、円道は猿之門基地の秋月杏里(あんり)宛にチャットを開始する。が、秋月はオフラインだった。タチアナ・タチバナも、徐(シュ)小燕(シャオイェン)も。誰もいない。

「駄目だな。オンライン状態と認識されているのは、駐屯地とその近辺の施設だけ。問題はこの駐屯地にあるようだな。点検作業があるとは聞いていない。ということは……」

「え、ちょっと、何を言いたいのよ」

 背筋が寒くなったのは、その答えをすでに知っているからか。少なくとも非常事態であることを円道はすでに理解していた。

「敵襲かもしれない」

「数パーセントくらいの確率はあるかもね」

 取り乱した内心は極力隠して、円道は、霞ヶ浦駐屯地が攻撃される状況を頭の中に列挙しはじめる。

 まず、敵は何者か。啓示軍か、九天軍ほかのエデン系武装組織か、軍内部の叛乱か。

 攻撃の形態は。空襲か、爆弾による破壊工作か、サイバーテロかもしれない。

 目的は何か。霞ヶ浦駐屯地の戦力は大したことはなく、機動力もないが、開発拠点になっているから貴重な資料なら幾つもある。狙われているのはむしろそちらか……。

「――円道!」

 目の前に手をかざされて、円道はようやく群山に声をかけられていることに気がついた。

「ごめん、ちょっと沈思黙考してた」

「そうか。てっきり思考停止かと思った」

「敵襲なら、知らせないと」

「数パーセントの確率だろう? まずは藤居准尉に指示を仰げばいい」

 部屋へ行こうというのだろう、群山が席を立つ。それを尻目に円道は、迷わず通信機のボタンに指を伸ばした。

 円道ら情報班六名は全員が下士官だが、職務上、士官用とほぼ同等の通信端末を与えられている。藤居もまた、准尉ではあるが端末を保有する。隊内の藤居のポジションを鑑(かんが)みれば当然だと円道は思っている。近頃士官になった四人組とは格が違う。人間としての格が。人格とはよく言ったものだ、と。

 携帯用通信端末の型は腕時計、ブローチなど幾つかあるが、円道のそれは女性用のコンパクトを模したもので、ポケットに入れて常に持ち歩くようにしていた。同僚と食事の時間を調整するなど私信まがいの用途にしか使っていなかったが、ついに本来の意味で役に立ちそうだった。

 自分を褒めたい気持ちでいっぱいの円道だったが、しかし彼女のコンパクト型通信端末は活躍の場を得られなかった。藤居が応答しないのだ。コール音から識別するに、電波は届いている。バロッグによる信号エラーというわけでもない。

「トイレかも」

 群山が端末を勝手に覗き込みながら呟(つぶや)く。円道は即座に端末を閉じて、ポケットに戻した。ポケットにハリセンの用意がないのが悔やまれた。

「やっぱり非常事態なんじゃ……」

「ああ、思い出した。出なくても無理はない。准尉は部屋に来た女とどこかへ出かけたんだった」

「何よそれ!」

「詳しくは知らない。俺も部屋に忘れ物を取りに行って、たまたま見ただけだ」

「それから?」

「知らない。俺はそこで引き返した」

「なんでよ。忘れ物は?」

「必要というほどではなかった。それに、准尉の邪魔をするつもりもない」

 あたしの邪魔なのよ、と円道は心のなかで怒鳴る。しかし、そんな場合ではないことを理性が思い出し、話を戻す。

「監視カメラにアクセスできる? 敵が来ているなら、わかるはず」

「ここからか?」

 群山はそれらしきメニューを数回辿り直し、それを発見したが、アクセス可能ないずれの画面も平穏そのものだった。ご丁寧に、何かの枝を咥(くわ)えた鳩がカメラを横切るのを見せられて、円道は安堵の溜息を漏らす。

「大丈夫そうね」

「今はまだ、な。――ん、ちょっと待てよ」

 首を傾(かし)げた群山は、あるひとつのカメラ映像だけを画面に最大化する。画質は粗いが、それが今朝まで角龍が世話になっていた格納庫だということに円道は気がついた。格納庫の中は見えないが、近くを歩いている人間はなんとか個人として識別できる。

「これ、岩津中佐じゃないか」

「そうみたいね。隣にいるのは……、あれ、どっかで見たような。けど、思い出せない」

 忘れているのはそれだけではない気もしたが、気のせいだろうと円道は考えた。ともかく、怪しい人物は映っていないのだ。これ以上カメラ映像をチェックしていっても、得られるものは多く無いだろう。失う時間の心配をするべきだった。

「とにかく部屋まで行ってみよう。准尉がいなかったら、岩津中佐に相談しましょ」

「信用できるのか? この駐屯地が丸ごと敵性になった、とも考えられる」

「岩津中佐は、江藤少佐と知り合いみたい」

「敵対しない理由にはならない。特に、うちの隊長は嫌われ者だ」

「あんた、それ藤居准尉に言ったら張り倒されるよ」

「わかっていないな。准尉は、自分の信条を人に押し付けたりしない」

 何か言い返そうとして、円道は言葉に詰まる。言われてみれば、事実、藤居はそういう人間だった。何事にも控えめで、紳士的。円道はそれを好意的に捉えていたが、群山の他意の無さそうな発言が、果たして今までの認識は客観的だったかという揺らぎを円道の胸中に生じさせた。

 なぜ、藤居は常に一歩を引いているのか。誰かにどうしても伝えたいこと、同意してもらいたいことは、持っていないというのか。

 口を閉ざしたまま、円道は藤居の部屋に向かう。数歩遅れて、群山がそわそわと周囲を警戒しながらついて来る。武器はないようだった。円道も持ってはいない。

 幸と不幸が一点ずつあった。幸いだったのは、藤居の部屋まで誰にも襲われることなく辿り着いたことで、不幸だったのは、そこに藤居がいないことだった。女と出て行って、そのままということか。それがスムーズな推定だったが、円道は無性に腹が立った。非常事態かもしれないというのに、普段女子隊員と話し込むこともないのに、よりによってどうして今、藤居はここにいてくれないのか。

「警報が出ない。敵襲は考えすぎだったかもしれない」

 扉を叩こうとさえしていた円道を、群山の一言が止める。

「あんたが言い出したことでしょう? 可能性レベルでも、きちんと対応してみせるのが黒龍隊ってもんでしょう」

「たしかに建前では関東防衛が任務だが……」

 群山は何か言いたげだったが、円道がその続きを許さなかった。今度は迷わず、四番倉庫に直行する。そこしか思い浮かばなかった。藤居も、もうそこにいるかもしれない。

 情報収集能力の高い角龍を確保しておけば、もし何事かが起きていたとしても、状況を的確に把握できる期待値が大きい。円道の狙いはそこにあった。また、そもそも、円道たちには角龍を措いて他に武器となる物などない。何も物騒なことが起きていなかった場合でも、自分たちが評価試験中の機体を見に行って怪しまれることはない。何食わぬ顔でHAOSのアップデート現場を見せてもらってもいい。群山ならたしかに更新作業の邪魔だろうが、自分ならそうはならないと、円道は自信を持って言える。

 無言で追随する群山とともに、別棟になっている四番倉庫に移動する。群山が静かなのはいつものことで、むしろ今しがたのやりとりが異常だったくらいなので、その沈黙は何のメッセージ性も無いと切り捨てて差し支えない。そういうものだと認識していたはずなのに、円道は今、群山が何も言おうとしないのをもどかしく感じていた。

 廊下もまた静かなものだったが、外から車の音や通りすがりの話し声は聞こえてきている。昨日と変わらぬ様子で、緊迫した雰囲気はない。駐屯地が現時点で戦場になっていないのは確かなようだった。

「敵、いるかな」

 四番倉庫の入口は、円道たちのいた建屋に対して垂直に開かれている。窓もないので、中の様子を窺うには入口の前に回り込む必要があった。それは、どこかに潜んでいるかもしれない狙撃手に、たやすい的(まと)を提供する行為に他ならない。

 もっとも、いまだ誰の死体も血痕も見たわけではなく、本当に敵襲だという証拠は得られていない。外界との通信が途絶する原因は、何も敵襲だけとは限らない。機器トラブルの可能性もある。

「角龍を狙ったのなら、いるかもしれない」

 群山はいつの間にか消火器を抱えている。せめてもの飛び道具、または鈍器として使うのだろう。円道は、たった三十メートルの距離を詰められずにいる自分がとんでもない道化ではないかという羞恥を抱きつつあったが、背後の群山の姿を見て、決して笑い事ではないと思い直すことができた。

「走るよ」

 意を決して外へと足を踏み出そうとした円道の袖を、群山が引っ張って制止した。

「伏せろ」

 その通りにした。丸め込んだ背中に、石礫(いしつぶて)と砂を巻き込んだ突風が吹きつける。自然の風ではなく火薬の爆発だという理解が、聴覚と嗅覚によってもたらされる。

「遅かったの!?」

「まだ遅くない」

 群山が消火器のピンを抜いて飛び出た。頼り甲斐がないと思っていた背中が、煙の中に消えていく。円道は慌ててそのあとを追った。爆発がどういう類のものかはっきりしないが、戦闘の火蓋が切られたことにもはや疑いはなかった。角龍を確保するなら今だった。

 円道が四番倉庫の入口に着くと、群山はすでに中へと走り込んでいた。行く手では二人の男がルール無用の殴り合いをしている。どちらも作業着のようだが、同僚ふたりが口論の末、という雰囲気ではない。

 群山は消火器を頭上に掲げ、それを迷わず一方の男の肩に振り下ろした。不意打ちを受けた男が呻(うめ)いて膝をつく。もう一方の男がここぞとばかりに回し蹴りを入れ、結局、円道が駆け寄るより先に決着がついた。

「助かりました」

 不審者をチェーンで縛り上げたのち、うっすらと覚えのある顔が、腕をさすりつつ会釈する。唇の端からは血を垂らしているが、瞳には闘志が漲(みなぎ)っている。

「ここで何をしているんだ」

 群山は倉庫内を見回しながら訊ねた。他に質問できる相手はいない。不審者は延びてしまったし、角龍のOS更新作業にあたっていたはずのフェイジアインダストリーズ社員も見当たらない。

 しかし、群山の質問文は適切でないように円道には思われた。この男がここで何をしているかではなく、ここで何が起こったかのほうが重要な情報だろう、と。訊かれたほうも困惑するに違いないという円道の予想は、しかし、男の不敵な笑みによって裏切られた。

「今日は情報部から来たつもりですがね」

「失礼、安(アン)准尉」

 円道も思い出した。安文俊(ウェンジュン)。暖炉の谷で黒龍隊を保護しようと努めてくれた人物だが、その言行は、黒龍隊を脅していいように利用しようとしているようにしか見えなかった。もう誤解は解けているのだが、未だにこの男――と周富窪(チョウ・フーワー)――の背後にいる組織については、わからないままだった。

「まあ、半分は私用ですが、それはまたあとで。ご覧のように、この駐屯地は狙われています。まずは対応を」

「九天軍か」

「さて、どうでしょうか。九天軍が軍事拠点の制圧を狙った事例は、日本においてはまだありません。しかし、横浜以来の行動がこれまでの九天軍の活動とは一線を画しているというのもまた事実で、現段階ではどちらとも申せません。――まあ、何者かが襲ってきたのは揺るぎのない事実です。いまだにサイレンも鳴らず、ここへ駆けつける兵隊もいないということは、すでに司令部が掌握されているか、そもそも内部の犯行という可能性も……」

 安の口舌を銃声が遮った。円道は咄嗟(とっさ)にうずくまったが、群山に二の腕を引っ張られて、角龍の整備台の影に駆け込む。その間、安が拳銃で応射し、援護してくれていた。

「その機体を早く」

 安は弾切れになった拳銃を舌打ちとともに投げ捨て、自分も物陰に転がり込む。

「おまえはどうするんだ」

 と問うた群山の声は、彼の口の中でくぐもって相手に届かなかったようなので、円道が同じことを安に向かって叫んだ。

「そこに張り付いている連中だけ、蹴散らして頂きたい。あとはお構いなく。アテが有るのでね」

「了解」

 整備台に横たわった角龍のコクピットへは、タラップで容易にアクセスできる。タラップに弾除けはついていないが、具合のいいことに、ハッチは開け放たれたままだった。ハッチ開放に手間取らずに済むので、狙撃される危険は小さく抑えられる。

「行くよ」

「そうしてくれ。俺は後ろに座るつもりはない」

 ハッチが前方ひとつしかないのだから、後部座席要員である円道が先に入るしかない。それは正論なのだが、弾が飛んでくるかもしれないところへ自分のようにか弱い女を先に行かせる神経は、些(いささ)か認めるに抵抗があった。

 文句を言ってもいられないので、円道はタラップを駆け上がり、コクピットへと飛び込んだ。弾が飛んで来たのかどうか、よくわからなかった。確かなことは、狭い後部座席に収まるまでに、膝と頭をぶつけてしまったこと。地味に痛い。

「火は入っているな」

 前部座席に乗り込み、ハッチを閉じた群山が呟く。火というのは喩(たと)えに過ぎないが、角龍の電源とシステムは、すぐに使える待機状態にあった。HAOSの更新作業の関係だろう。その更新も無事完了しているようで、待機画面に映し出されたHAOSのバージョン番号の末尾が大きくなっている。

 円道はすぐさま機体のコンディションをチェックした。オールグリーン。

「システムオールグリーン。起動モードは戦闘(コンバット)を推奨」

「了解。コンバットモードで起動」

「未知のネットワーク検出。まだリンクできていないんだ、これ。それとも遮断されたのかな。接続要求する?」

「わかるかよ。俺は上官じゃない」

 群山の意識は、どの武器を使って倉庫入口の敵を駆逐するか、という検討に没入しているようだった。今回の試験では火砲類が豊富に準備されており、それらの一部は早くも格納庫からこの四番倉庫の方へ移されているが、しかし肝心の弾は装填されていないはずだった。砲撃の訓練をしに来たのではないのだ。中身がちゃんと入っているとして、せいぜい、通信中継器をカプセルに入れて射出する、不知火用の特殊弾頭くらいだろう。駐屯地には他にも龍(ロン)が配備されているから、当然火縄の弾倉は調達可能だが、まずはそれなしで安文俊を救ってやらねばならない。

 そうこうするうちに、角龍が整備台から動き出すのを見て取った敵は撤退していく。より重火力を備えた仲間を呼びに行ったのかもしれない。敵は今の数人だけではない。それは角龍の各種センサーが早くも教えてくれていた。

「無線交信、多数感有り」

「内容は」

「いちいち聞いてられないっつの」

 しかし、敵味方の識別は急務だった。安の示唆したように、駐屯地に裏切り者がいるおそれもある。もしかすると少数派は自分たちのほうかもしれない。もしそうだとしたら、一刻も早く藤居を見つけて、即座にここを離脱するべきだと円道は思う。

 円道が情報を把握しきれないでいるうちに、群山は角龍を倉庫から出している。弾倉が空の火縄を恰好だけ構えて、駐屯地内の道路を走ってくる装甲車に正対する。

「こちら黒龍隊、群山軍曹。敵はどこだ」

 群山が呼びかけた直後、装甲車は道路を跳ねて横倒しになった。攻撃されたのだ。ロケット弾らしき白煙の軌跡がまだ残っている。

「四時方向、レーザー感有り。本機に……」

 機体が急激に加速し、円道は危うく舌を噛みそうになった。回避運動を取ったのだとわかったが、事前に一声あっても良かった、と思う。

「レーザー、感無し。同方向に金属反応」

 そこに施設はあっただろうかと円道が確認しているうちに、群山はもう角龍をそちらへ向けてジャンプさせていた。角龍の視野と連動したモニタが、茂みの陰から逃げ出そうとする軽トラックを映し出している。敵だ、と円道は認識した。

 幌を取り払った軽トラックの荷台には、慌ててロケットランチャーを担ごうとする人影があった。が、角龍の着地のほうが早い。行く手を角龍の足に遮られた軽トラックは、よけきれずにそのまま衝突して、フロントガラスが砕け散る。荷台の人影も転がり落ちた。

 他にも敵がいる。その確信が、円道に情報把握を急がせた。

 しかし状況も円道を待ってはくれなかった。警報。

「再度、レーザー照準感知。八時方向」

 群山は自身の判断で別の攻撃目標を捉えていたようだが、優先順位に応じて急旋回を行う。カメラ映像にフレームインしたものを見て、円道は絶句する。

 AH-64アパッチ。亜細亜連邦軍では運用していない、米国製戦闘へリ。

 アメリカ陸軍が寝返ったとは考えにくい。したがって、敵は正規軍ではなく、強奪や横流しによって手に入れた装備を用いる組織、すなわちテロリストであると円道は断定した。そして驚いていた。これが猿之門で最近噂に聞いていた、九天軍の戦力なのかと。

 カメラでは拡大されていたが、アパッチとの距離は四キロメートルあった。実弾を携帯していない角龍には攻撃の術(すべ)がないが、敵が正規装備の対戦車ミサイル「ヘルファイア」またはその同等品を抱えているなら、余裕で有効射程内である。バロッグのない通常領域で、これを回避するのは極めて難しい。最も強固なコクピットの正面装甲でも防ぐことはできない。せいぜい、腕を犠牲に胴を守るのが精一杯だろう。

 しかし、どういうつもりか、アパッチは照準用のレーザーを当てたまま、ミサイルを撃って来ない。円道はふと思い当たるものがあった。

「降伏勧告とかされているんじゃない?」

「さっきからだ」

 群山が苛立たしげに答えて、操縦桿を操作する。それに従って、角龍が武装を解除した。もっとも、もとから張りぼてのようなものだったが。

 円道は多くの音声情報の中から、ようやく降伏勧告のメッセージを拾い出す。電波に乗せたデジタル信号でも同様の内容が発信されているようだった。

「降伏せよ、霞ヶ浦駐屯地の諸君。我々は諸君らの指揮系統を掌握した。降伏せよ。我々の目的は殺戮ではない。しかし心せよ、我々は血を恐れるものではない」

 勧告は繰り返しその文面を繰り返していた。おそらくは録音なのだろう。

「いかにもそれらしい口調だ」

 ヘルメットなしで操縦していた群山は、通信の音声出力をスピーカーに頼っていたが、そのボリュームを十分の一程度にまで落とした。

「適当に返信しておいてくれ」

 もう自分はすることがないとばかりに、群山は操縦桿から手を離す。正面には依然としてアパッチがホバリングしている。時折鼻先を左右に向けるのは、そちらにも威嚇対象がいるということなのだろう。しかし、目下のところ角龍が最大の脅威として認識されている模様である。

 見張られていては動けないが、円道にはやれることが多く残されていた。パッシヴセンサーの稼働状況はアパッチに感知されない。敵戦力を把握し、その目的を推定し、それを阻止する方法を検討できるはずである。角龍自体の移動や行動という変数がなくなったおかげで、むしろ情報を捌(さば)きやすくなったとも言える。さらに、味方との交信も幾つかの方法が考えられる。反攻の策を練るうえでも、実行に移すうえでも、連絡の確保は急務となる。

 円道はまず駐屯地内の動きを探った。霞ヶ浦駐屯地には機兵や装甲車、対空自走砲が配備されているが、それらの抗戦は見て取れない。

 しかし、駐屯地がやすやすと沈黙したのとはまた違うようだった。集音した情報から判断すると、小銃、手榴弾などでの防衛が行われている模様である。ただそれも、指揮系統が絶たれているという敵の言葉が正しいなら、長くは続くまい。

 対する敵戦力は、アパッチの他、最初に角龍を襲ってきたような武装トラックが数輛。駐屯地を制圧したような口調の割には少ない。おそらく、すでに数十人規模の敵が、建物内に展開している。周辺に啓示軍の襲撃を受けた過去のある霞ヶ浦駐屯地は、かつてに比べ防備を強化しているが、敵がもとから駐屯地内にいたとすれば、何も難しいことはない。安文俊の洞察は、おそらく正解だと円道は思った。

「武器は手に入らないの?」

 円道は前髪をかき上げながら訊ねた。最寄りである四番倉庫に実弾が皆無であることは承知の上だが、この駐屯地全体では、少なくない武器が存在するはずである。駐屯地所属の機兵パイロットが何らかの理由で出動できずにいるとしても、機兵やその武器までもが失われているとは限らない。アパッチが角龍を攻撃してこない事実が、その傍証になる。

「死に急ぐなって」

 群山が言った。円道は味方の抵抗が続いているうちに動き出したいとばかり思っていたので、この一言を穏やかに受け止めることなどはできなかった。

「あんた、もうちょっとやる気出しなさいよ」

「しかし、面倒だ」

「面倒って、言うに事欠いて……。真面目にやれ」

「相手が啓示軍なら、本気で潰しにかかる。奴らは侵略者だからな。だが、エデンはもともと同じ市民だろう。なかには住民登録されていない連中もいるんだろうが」

「何て奴。テロリズムを肯定する気か」

「肯定はしない。アパッチにヘルファイアで狙われるのは迷惑千万だ」

「じゃあ、鎮圧すべきよ。黒龍隊にはその力が与えられているんだから」

「力、ねえ」

 群山が鼻で笑った。黒龍隊の権限が未だ完全回復していないことを指してか、あるいは角龍が丸腰であることを指してか、それは円道にはわからなかった。どちらにしても、猿のように喚き立てたいという円道の衝動に変わりはなかったが、それを押し殺したのは正解だった。群山は続けて建設的なことを言った。

「――なら、君が命令を。操縦はしてやる」

「え?」

「武器らしきものは戦場管制システムしかないんだ。情報戦は、どちらかといえば君の領分だ。君が指示を出せ」

「そんなこと言ったって、リンクが死んでるんじゃ裸も同然よ。――あ、変な想像しないでよ」

「していない。真面目にやれ」

「わかってるわよ」

 真面目になりすぎれば、プレッシャーに押しつぶされる。それは自分がいちばんよくわかっているのだ。

 円道は考えた。こんなとき、藤居ならどうするだろうかと。きっと頼りになるに違いない、という印象は円道の中で強固である。しかし、具体像は全く思い浮かばない。

 自分の能力を活かすなら、群山の言うように、戦場管制システムを武器にするしかない。が、その枢要な機能である外部ネットワークとのリンクは現在使用できない。接続さえできれば、現在動かす者のいない防衛システムを角龍から起動することも可能かもしれないが、何百ページにも及ぶ仕様書を読み返さなければそれは確認できない。コクピットで電子ファイルを閲覧できるので、語句検索を活用すればだいぶ楽にはなるが、いまモニタ類から目を離すのは得策ではないように円道には思われた。

 そうこうするうちに、機外で動きがあった。爆発音。数百メートル先の建屋の屋根が吹き飛んでいる。

「食堂だな」群山が呟く。「今夜は戦闘糧食か」

 何が起きたのか。食堂からもくもくと立ち上る煙は、多くを語ってくれない。料理の失敗などではなさそうだが、食堂を襲う必然性も認められないので、円道は当惑した。

 ただ、好機ではあった。アパッチが角龍から鼻先をそらして移動を始めている。また、角龍のセンサーは近くで別の機兵が起動したことを感知していた。識別信号は出ていないが、BFGの作動によって方位まで確定できる。

 安文俊が何かやってくれたのかもしれない。自分たちは決して孤立してなどいないと、円道は勇気づけられた。

 そして、差し伸べられた助けの手は、精神的なものにとどまらなかった。十秒と間を置かずして、戦場管制システムと外部ネットワークとの接続がなされたのだ。断続的に再試行が自動で行われていたはずだが、円道は何も設定をいじってはいないから、誰かが接続先のほうで回線を開いてくれたということになる。ただ、安文俊がやったにしては、いかにも早い。安とは別に、駐屯地内で侵入者への抵抗を続けている者がいるのだと円道は察した。岩津中佐の仏頂面が思い浮かぶ。

「なんだかよくわからないけど、リンクできた」

「どこまでアクセスできる?」

「ずずっと奥まで、ってわけにはいかないみたいね。少なくとも監視システムは全然見られない。カメラ映像で屋内の状況がわかると思ったのに」

 他にも、部屋単位の警報信号や、駐屯地の様々な形式の通信インフラを介した情報のやり取りを覗き見ようとしてみたが、アクセス権が無い。近隣の防空兵装を遠隔制御してアパッチを撃ち落せないかとも思いついたが、当然のごとくパスワードを要求された。もちろん、円道はそんなものは知らない。

 そんななか、角龍に付与された権限で使えそうなものがあった。GUIに赤いボックスでアイコン化されたそれは、駐屯地の消火システムである。試しに近くのスプリンクラーを探して作動させてみる。コマンドは通った。ただ、本当に散水が実行されたかどうかは確かめる手立てがない。

「やってみよう、賭けだけど」

「おい、俺の命まで勝手に賭けないでくれ」

 勇気に水をさす発言が前部座席からあったため、円道は消火システムを弄る手を止めた。

「優しくないのね、あんたって」

「大きな誤解だ。俺は優しい。ただ、君がその対象でないというだけだ」

「誰になら優しいっていうわけ?」

「まあ、姉さんくらいか。両親はもう死んでいるし」

 そのくらいのこと、気の毒がるに値しない。円道はなお悪態をつく。

「そのお姉さんに一度お目にかかりたいもんだわ、まったく」

「俺もできればそうしたい」

「は? シスコンなの?」

「姉さんは行方不明だ。パリに留学中、欧州事変に遭った。あとはわからない。だから俺の敵は啓示軍なんだ」

 九天軍などはどうでもいいというわけか。そんな言い草が通るはずがないと円道は思い、再び消火システムを探る手を動かす。

 藤居なら、あの責任感の塊のような人ならば、己の遺恨によって義務の遂行を疎(おろそ)かにすることはない。どうして今角龍の操縦桿を握っているのが藤居ではなく群山なのだろうかと、円道は内心で力いっぱい己の不運を嘆いた。しかし、嘆いていても始まらないと思い直し、建設的な方向へと軌道修正する。

「ここで手柄を立てれば、お姉さんを探すのにも有利になるって考えない?」

「いつも考えている。機兵パイロットになったのも、それが一番、俺が成り上がる確率が高いと判断したからだ」

「今がその千載一遇のチャンスだって言っているんだけど」

「俺はやらないとは言っていないぞ」

 不満そうに反駁(はんばく)し、そして数拍の間を置いてから群山は付け加えた。

「指揮は君に任せると言った。ただ、無責任な命令は困ると釘を刺したかっただけだ。じゅうぶんに勝算があるんなら、文句はない」

「じゃあ、黙っていなさいよ。――よし、作戦決まった。消火システムでアパッチの隙を作る。あたしが合図したら、機兵格納庫までジャンプして。あと、マスディフューザのリミットを解除。着地のときに土煙起こすよ」

 うんともすんとも、群山の反応はない。何か間違った命令をしただろうかと円道はにわかに不安になる。

「何か反論でもあるの?」

「別に。黙っていろと言われたからな」

 脳周辺の血管が常より高い内圧に晒されるのを円道は感じた。

「了解、だけは言ってよし」

「了解」

 作戦は、急誂えながら用意できた。あとはタイミングである。それを支配するのは、三者が考えられた。駐屯地内で起動したもう一機の機兵と、反撃のため駆け回ってくれている安文俊、そして彼とはまた別に動いてくれているらしい、角龍のリンク接続を許可してくれた何者か。

 特に機兵は重要度が高い。角龍はその存在を感知したが、BFGを搭載していないアパッチには、正確な相対バルムンク反応は検出できず、その起動を察知できていない。機兵が本格的に動き出し、ノイズとは峻別できるレベルの熱や電波の放出を始めない限りは。

 その非対称性を理解してのことだろう、もう一機の機兵は、まだ、格納庫を飛び出す気はないようだった。アパッチが射程に飛び込んでくるのを待っているのかもしれない。

 当ててくれなくてもいい、不意の攻撃でアパッチの注意さえ引きつけてくれれば、消火システムによる攪乱がかなり有効に作用すると期待できる。逆に言えば、このまま何も条件が変わらなければ、消火システムを遠隔制御したところで、アパッチの十分な隙を作り出せる公算は大きくない。群山に賭けだと言った所以(ゆえん)である。格納庫までのジャンプは、言うは易しだが、群山のプレッシャーは相当大きいに違いない。

 円道はとにかく三者のプラス要素と群山の頑張りに依拠するしかなかった。格納庫にさえ辿り着けば、あとは煙幕を張っているうちに必要な武器を手に入れ、反攻に移れるだろう。その一瞬を待つ。息を殺すようにして、消火システムの操作を復習しながら。

 この判断を、努力を、藤居は褒めてくれるだろうか。そんなことが、何よりも気になっていた。



- 4 -


 李峰國(リー・フェングォ)は待っていた。食堂のカウンターに肘をつき、顎を両手の上に乗せて。かねがね噂に聞いていた、霞ヶ浦駐屯地の定食をである。天井に採光窓を持ち、壁の一面をガラス張りにしてその向こうにテラスまで設えているオシャレ食堂に足を踏み入れて、峰國の期待は否が応にも高まっている。

 駐屯地に到着して真っ先に、峰國はここへ駆け込んだ。藤居たちに挨拶もしていないし、蛟(チャオ)なる新型機兵のテストパイロットとして来たことを然るべき人間に伝えてもいない。それくらい峰國のなかでこの食堂の優先度は高かった。そこへ来てさらに食堂の開放的なデザインが峰國の欲望を刺激した。

 もう提供時間を過ぎたと当番兵に突っぱねられたが、もちろん峰國は屈しなかった。当番兵の説得に五分を要したが、本当の闘いはそれからだった。以後二十五分が待機時間となっているのだ。記録はなおも更新中で、まだまだ伸びる見込み。

「ちぇ。誰も戻ってこないか」

 峰國が来た時点では、厨房には後片付けと夕食の仕込みにいそしむ当番兵たちが五人いた。それが全員いなくなってしまったのは、一体どういうことか。当然、峰國の定食の準備は完全に滞っており、もう厨房に立ち入って自分で作ったほうが早そうだった。

 実際、そうしても誰も見咎める者はない。背後のテーブルをふりかえっても、峰國の他には誰もいないのだ。食堂全体が静まり返っている。蛇口からシンクに水の滴(したた)る音すら聞くことができる。

 しかし無音ではない。遠くからヘリコプターらしきローター音が聞こえている。アパッチのものだと記憶が告げているが、資料で聞くばかりで実際に耳にした経験は少なく、断言はできない。ただ、極東方面軍が使用しているあらゆるヘリコプターとも音が違うことには自信が持てる。

 妙なことだった。米軍が演習に来るという話は聞いていない。ときおり銃声や砲声もしているが、演習でないとしたら、これは厄介だと峰國は思う。敵襲を知らせるサイレンは鳴っていないが、別にサイレンは敵襲の必要条件ではない。むしろ常の敵襲よりもっと危険な状況を示唆しているのかもしれないが、とはいえ峰國はまだここを離れるわけにはいかなかった。何のために食堂に来たのか、忘れてはならない。

 誰か来ないものか。未練がましく、テラスのほうを見やる。すると、ちょうど誰かがその向こうを走って行く。兵曹のようだが、トレーニング中という様子ではない。そして、それは正解のようだった。峰國の視界を横切り終えるまえに、その兵曹は倒れた。撃たれたのだと、銃声を聞くまでもなく峰國は理解する。

 辺りが急に騒々しさを増した。銃声がいくつも近づいて来ている。銃声だけではない。もっと危険な物の音が。

 反射で動いた。カウンターから間近の机の下に滑り込み、塞げるだけの顔の穴を塞いで丸くなる。

 数秒後、食堂の屋根が吹き飛んでいた。

「むっかー。頭に来たぞ」

 つい今しがたまで机であった木片を撥(は)ね除(の)け、峰國は立ち上がった。頭上には青空。視線を水平に戻せば、食堂はまるっきり廃墟である。厨房はどう見ても使えそうにない。そんななか自分が無傷であるのは、きっと日頃の行いのおかげであると峰國は自己評価する。

 命拾いはしたものの、計画が完全に狂った。これ以上待ってもしかたないぞと峰國は観念し、歩き出す。もうこの場所に用はない。せっかく、江藤の下命を待たず独断で霞ヶ浦に乗り込んだというのに。

 銃声はもう遠のいている。食堂の爆破をもってこの周辺の戦闘は終結したらしい。置いてけぼりの感が峰國のネガティヴな感情をさらに深く抉(えぐ)っていく。

 押しても引いても開かない扉を蹴破って外へ出ると、駐屯地の外れに佇立する機兵の姿が目に入った。龍(ロン)の複座型……、正確には、その派生機たる角龍(ジャオロン)だと気がつく。戦場管制システムによる機兵運用の効率化と、情報収集能力を活かした火力支援が売りのはずだが、このうち後者はお留守のようだった。手にも体にも火器を装備していない。身動きできないのだと峰國は理解した。敵が、角龍を取り囲んでいる。食堂を廃墟に変えた憎き敵が。

 藤居たちはあの機体の評価のために三日前から出張していたが、それはこんな事態のためではなかった。霞ヶ浦駐屯地が何者かの攻撃を受けることなど、江藤は考えていなかったはずだ。峰國も、まさか食堂をいきなり吹き飛ばされるとは思ってもみなかった。これは復讐に値する。

 個人的な意趣返しはともかく、角龍には早急に援護が要ると、峰國は冷静に判断した。しかし、峰國は身一つでここまで来ている。龍は猿之門基地に置いて来た。あれは、あちらで必要になろうから。

 何か武器になるものを、と周囲を走査した視線が不審人物を捉える。食堂の向かいの建屋に、割れた窓から侵入しようとしている。拳銃で狙うには距離があったので、安全装置だけは解除しつつ、まず接近する。不審人物は峰國に対して背を向けていたし、その注意は窓の奥にばかり注がれているようだった。

「動くな」

 十分な距離まで忍び寄った峰國は、その声で存在を明かし、同時に拳銃の狙いをつけていた。目算、一メートル。まず外さない。

「撃つ気なら、もうやっているでしょう、あなたは」

 峰國をちらりと振り返り、安文俊(アン・ウェンジュン)は溜め息をついた。

「お遊びに付き合っている時間はないのです」

「遊びだなんて、シッケイな」

 頬を膨らませてみせるが、安は無反応だった。窓からの突入のタイミングを読むのに専念している。――そして、実行した。すぐに銃声が聞こえてくる。肩をすくめて、峰國もそれに続いた。

 奇襲は効果的だった。峰國と安が敵三名を撃ち殺すのに、十五秒を要さなかった。

「なんだ、こいつら」

 ざっと死体を検分し終えて、峰國が首を傾げる。

「九天軍か、とは聞かないのですね。群山軍曹はそうでしたが」

「軍は軍でも、連邦軍でしょ、こいつら」

 服こそ着替えているが、彼らが今ここへ乗り込んできたのではないことは、峰國には明らかだった。死体のひとつの歯についていた青海苔は、峰國がついさっき食堂のカウンターで味見したものと同じ物のようであり、他のひとつの口からは、今日の昼定食である和風ハンバーグと思しき匂いがした。峰國が賞味できなかった、霞ヶ浦駐屯地の自慢の定食である。つまり、彼らは昼食を駐屯地内で取ったわけである。

 なるほど、と峰國は合点が行った。

「横浜議事堂のときから、ずっと内通者がいるんじゃないかって疑われていた。でも見つからなかった。当然だねえ、個人じゃなく組織が加担していたんじゃ、急場の捜査体勢で見つけられっこない。あんたはこれを知らせに来たのかな。それとも……」

 峰國は銃口を安に向けた。まだ安全装置は外したままだし、弾も残っている。

「やめましょうよ。私は黒龍隊に利するよう動いているんですよ?」

「あ、そうだね。九天軍が横浜議事堂を襲ってくれたおかげで、黒龍隊は自由を取り戻したよ。ありがとう。でもこれはちょっとやりすぎだ」

「濡れ衣ですよ。それに、仮にあなたの言う通りだとしても、あそこで窮地に立たされている群山軍曹と円道軍曹を助けたいという気持ちは変わらないはずです。糾弾はあとにしてくれませんか」

「給弾なら、まだ必要ないって」

 峰國は廊下に面したドアに向けて発砲する。男の悲鳴が聞こえ、そちらに目をやった安は慌てて二発の追撃を放つ。

「あーあ、殺しちゃったのか」

 頭蓋を破壊されて、男は絶命している。いろいろと聞き出したいことがあった。

「すみませんね。私には手加減の余裕がないんです」

 そう答える安は、弾倉の交換を失敗した。手が震えているのだ。

「まあ、信じておくとするよ」峰國は安の肩を叩く。「で、とりあえずどうするの?」

「司令部を解放します。指揮系統を取り戻す意味もありますが、なにより、人質を取られているのは面白くない」

「オーケー。でも、戦力が少なすぎるなあ。ひとりでやる気だった?」

「まさか。応援の当てならあります。私はきっかけさえ作ればいいんですよ。しかし、正直なところ、敵の出方が早くて劣勢でした。あなたにここで会えたのは幸運ですね。協力して頂けますか、黒龍隊のために」

「そうまで言われるとなあ。――いいけど、じゃあ使えるものは全部使っていこうね」

「何のことですか」

「蛟だよ。とぼけなくってもいいのにさ」

 安はシラを切ろうとしたようだったが、峰國の表情に釣られたように、ふっと笑った。

「江藤少佐が、何か言っていましたか」

「いや、俺の推論。でも、今更、新型機兵の試験なんて割り込ませて来る連中は、他に考えられないって。どこから持ち出したか知らないけど」

「お察しの通り、蛟は我々が用意した機兵です。麒麟計画を後押ししていたのと同じ流れですよ。――ただ、実働段階に仕上がってはいるはずですが、あいにく龍との互換性が低いという難点がありまして」

「ここで一回使えればそれでいいから、部品互換性なんてどうでもいいよ」

「いえ、問題なのは寧ろ操縦系です。今すぐあなたが使うというのは……」

 そんなものを作って何に使うつもりだったのか、峰國は疑問を覚える。採用させるつもりがあれば互換性は必須である。が、そんな開発が進められた経緯を調べるのは別に今でなくて良い。

「ま、悪いようにはしないからさ、とにかく蛟のところに案内してよ。場所、わかるんでしょ?」

「そう仰るなら、ご案内しましょう」

 安は廊下に出るのではなく、飛び込んで来た窓へと引き返す。ガラクタに死んだ侵入者の服を巻きつけて外へと放り出し、弾が飛んでこないのをよく確認してから、外へと飛び出す。

「さ、走って行きますよ。弾が飛んでくる前に」

 慎重さをかなぐり捨てた安は、峰國の想像以上の初速で駆け出し、さらに驚くべき加速を見せる。その足元のアスファルトに火花が散る。銃撃である。峰國はずいぶん久しぶりに、本気で走らざるを得ないと覚悟した。


*   *   *   *   *


 安と峰國が高速回転させていた足を止めたのは、とある格納庫の裏だった。

「流石(さすが)ですね」

 ふたりとも被弾せずに走りきった。さして厳しい攻撃の密度でもなかったが、掩体(えんたい)も目眩ましもなしでの突破に、さすがの峰國も肝を冷やした。もっとも、途中、援護射撃が何回かあり、無事だったのは多分にその恩恵である。襲撃か叛乱か不明ながら、ともかくそれに抵抗を続けている人間がいるということなのだろう。ただ、安がそれを計算ずくで走りだしたとは、峰國には思えなかった。

「度胸があるのかないのかわからない奴だなあ」

「いえいえ、どちらかと言えば度胸がいるのはここからです。ま、私の個人的事情ですが」

「どういうこと?」

「私が手に入れた情報通りなら、蛟はこの中に搬入されているはずです」

「手に入れた情報って、変な言い回しをするな。あんたの仲間が仕込んだ一件じゃないのか」

「まさしく、私の仲間がやったことです。私ではなく。――ああ、富窪(フーワー)でもありませんよ。あいつはインドに行ったままなので」

「つまり、内輪揉め?」

「難しい質問ですね。我々はもともと一枚岩ではなかった。亜細亜連邦と全く同じように」

「なるほど、大変なのね。でも今問題なのは、俺が蛟に乗れるかどうかってことだけだよ」

「保証はできませんよ。敵に制圧されている可能性もありますから」

「敵か。便利な言葉だね。ひとつだけ言っておくと、俺は自分の敵は自分の都合で判断するから」

「その判断は常に私に対しても行われているというわけですね」

「お利口さん」

 峰國は拍手し、安はぎこちない表情で微笑んだ。

「ここで話していても始まらないな。じゃ、俺先に行くから、適当に援護してよ」

 ためらいなく峰國は格納庫へ侵入した。空かした腹が、無駄な時間を許さない。

 西部劇ばりの銃撃戦を展開するにやぶさかでなかった峰國だが、彼を迎えたのは空虚な暗がりだった。猿之門基地の第二大格納庫に劣らぬ高さと奥行きをもった格納庫に、人影はひとつもない。ただし、人型の姿はあった。

「ビンゴ」

 足を前に放り出すお決まりの姿勢で、一機の機兵がくつろぐように座っている。峰國の見たことのない姿形で、すぐに蛟だとわかった。峰國は他に完全新型の機兵を知らない。

 ――いや、本当にそうか。

 峰國は蛟の姿をまじまじと見つめ、見覚えのある特徴を幾つか認めた。龍とエントゼルトゾルダートの中庸といった風情は、この蛟が初めてではない。似たものを峰國は戦場で目にしている。GT72鉱山基地で。そして、暖炉の谷で。

「よくやるよ」峰國は、後ろから入ってくる安に聞こえるように言った。「SMITS(スミッツ)に、いや、軍に喧嘩を売る気なの?」

「だから私は反対したのです。いや、計画はとっくに中止になっていたはずだった。しかし、現に機体は我々の目の前にある。おそらく、麒麟計画が凍結された時点で、密かにこちらの計画が再浮上していたのでしょう。私や富窪は全く知らされていなかったことです」

「造ったからには、使えるようになっているのかな」

 峰國は蛟へと向かう。未調整ゆえに飛んだり跳ねたりできないかもしれないが、固定武装を使えれば角龍の支援はできる。よもや空包ということはないだろうと峰國は安心していた。ここには火薬の匂いが満ちている。

「あら、先客かしら」

 明らかに安とは異なる声がした。女声。そして、独り言にしては声が大きい。これは警告なのだと峰國は感じ取り、足を止めた。声をかけたということは、狙撃するつもりはないのだという読みがあった。

 声の主はすぐに見つかった。格納庫の奥、キャットウォークにひとりの女が立っている。身長百六十センチ強。服は明らかに軍装と異なる。SMITSや出入りの企業のものでもなさそうで、女が駐屯地襲撃犯の一員であることはほぼ明らかだった。なにせ目から下には布地を巻いて覆面をしている。おかげで年の頃はよくわからない。

 女はコンバットナイフや手榴弾で武装しているようだったが、銃は見えない。手榴弾を放られても手近の蛟の陰に隠れられる間合いなので、直近の危険は認められない。蛟の肩の上に乗っている以上、先客云々の言葉とも考え合わせて、蛟の奪取が目的だろうと推定できた。

「あれ、お仲間?」

 念のため安に問い合わせると、安は全力で否定した。

「とんでもない。知りませんよ」

「そう。じゃ、こそ泥ってやつね」

 峰國は女へ向けて拳銃を撃った。が、距離が遠い。二発、三発と次々に火花を散らすが、女には当たらない。が、峰國はよしとする。今のは牽制に過ぎない。

「下手くそ」

 女が笑っている間に、峰國は残る蛟までの距離を走り切る。安もそれについてきた。――というより、峰國は追い越されていた。

 安は先に蛟へと取り付いて、ハッチ位置を峰國に指し示してくれる。峰國がそこへ取り付くまでには、安がどこかの遠隔操作スイッチを押してハッチを開放させており、見慣れないコクピットレイアウトを俯瞰できた。

「これって」

「BMIの援用です」

「あ、知ってる。身長の自乗を体重で割るやつのことだな。うちの隊長の前ではちょっと口に出せない言葉だ」

「ブレイン・マシン・インタフェースに決まっているでしょうが!」

 安が峰國の尻を蹴飛ばし、コクピットの奥へ叩き落す。

「痛いな」

 しかし、怪我の功名。ぶつけた頭が何かのスイッチを押したらしく、コクピット内にLEDの火が灯る。

 峰國は龍の搭乗経験からの類推で起動操作を行う。完全な停止状態ではなかったらしく、すぐにOSが立ち上がる。

 その間、安は拳銃を三発撃っていた。女の声がまた「やーい、下手くそ」と言っている。安が牽制に徹しているのではなく、当てようという努力が報われていないのだということは、その表情からありありと伝わってくる。

 峰國とて安を焦らせて楽しんでいるわけではなく、蛟を起動させようと躍起になっていた。だが、うまくいかない。手元のキーボードや操縦桿のボタンを操作しても、画面が進まなくなってしまった。

「起動しない。ハッチ閉めてみる」

 安の抗議の声はハッチの向こうに消える。インターロックがかかって起動できない可能性を考えた行動だったが、ハッチが閉じるのを待っていたようなタイミングで頭上からHMDが降りてきて、峰國はほくそ笑む。これをかぶれということらしかった。

 お膳立て通りHMDを装着した峰國は、思わず顔をしかめた。にわかに頭痛が始まった。

<認証エラー>

 目の前に五ヵ国語でそう表示されている。その字の羅列が、繰り返し明滅。神経に障る。

 不快感に耐えかねて、峰國はHMDをかなぐり捨てた。別の起動方法があるかもしれないが、それを探している時間はなかった。

 峰國はハッチを開放する。すると、ハッチを反射的に避けた安が、勢い余って足場から転落した。しかしそれが正解だったろう。安に代わってハッチの前に立ったのは、覆面の女だった。その手には、古風にもトンファーが握られている。殴られたらアウチの一声ではすまない。

「お生憎(あいにく)様。あなたには動かせないみたいね」

「あんたにもね」

 手にはもう拳銃を用意していた。峰國はそれを女に向かって撃つ。女は身を引いてよけたが、態勢さえ崩せればひとまず効果は十分だった。峰國は逃げ場のないコクピットから抜け出し、足場から飛び降りる。下でまさに起き上がろうとしていた安の背中を踏み台にして、衝撃を緩和してから着地。

 振り仰げば、覆面の女が今にも飛び降りようかという思い切りのよさで身を乗り出している。峰國は拳銃でそれを狙い撃とうとした。だが、手元が狂った。女が拳銃目がけて何かを投擲(とうてき)してきたのだ。金属同士の澄んだ衝突音と振動が伝わり、銃を構え直したときには、もう女は着地していた。

「逃げろ、安文俊!」

 警告はしかし無用だった。足をひきずって逃げ惑う安には目もくれず、女はトンファーを構えて峰國へと突進してくる。これなら外さないと確信して引き金を絞ろうとした峰國を、突如、頭痛が襲う。<認証エラー>の紅い文字列がフラッシュバックする。

 気がついたときには、拳銃を弾き飛ばされていた。眼前に覆面があり、その下で女の口が笑ったのがわかった。

「パイロット一匹、捕まえた!」

 どこに隠し持っていたのか、手錠が出てくる。手首に嵌(は)められるすんでのところで、峰國は後ろへ身を投げ、そのままごろごろと転がって、倒立。上下逆さまのまま、体の前後を入れ替えて女と正対した。

「鬼さんこちら」

「呆れた運動神経ね。でも、ちょうどいいかな。――サチ、出番よ!」

 峰國は驚きの展開に目を奪われた。女の叫びに呼応して、今しがた峰國が動かそうとしていた蛟が、にわかに立ち上がったのだ。まさか無人で動いたのではあるまい。誰かが入れ替わりに乗り込んだのだ。敵はカードを隠していた。

「ううぇうぇ、反則!」

 逆立ちを解除して、峰國は身構える。覆面の女を捕まえて盾にできないかと考えたのだが、女は小走りに後退していく。あとのことは機兵にお任せ、という寸法だろう。

 安は落下時に自慢の足を痛めてしまったようだが、それでもなお、落とした拳銃を拾って覆面の女を狙おうとしていた。女はそれに気づいていて、引き下がったのかもしれない。ともかく安の銃撃は、のしのしと前進を始めた蛟の装甲によって阻まれた。峰國は対物ライフルやプラスチック爆弾など役に立つ品を探したが、目につくものはない。

 安は銃撃を諦めて、格納庫の出入口のほうへ後退する。やはり足運びがぎこちない。峰國は肩を貸して一緒に走った。しかし、その行く手は機関砲掃射によって阻まれた。床と壁、シャッターに多数の孔が穿(うが)たれ、人体ではひとたまりもない威力であることを物語っている。火線は明らかに後ろからふたりの頭上を飛び越えたもので、振り返れば、蛟の腹部に左右一門ずつの機関砲が備わっているのを発見できた。

 これは万事休すかと思ったとき、峰國の耳は、覆面の女が蛟へと指示を出すのを聞き取った。

「サチ、施設の損害は最小限に」

 機関砲の使用を窘(たしな)めるものだと峰國は解釈した。実際、追ってくる蛟は機関砲の再掃射を行わない。代わりに、右肩の後ろに吊っていた大刀をゆっくりと抜く。表面を研磨する前の鋳物のような、煤(すす)けた感じの刀身が目を引く。龍王(ロンワン)や雷麒麟が使った炎草薙(ホムラクサナギ)とは全体の構造も異なるようだが、この瞬間に機能までは予測できない。

 安を支えて、峰國は格納庫の外に向かって逃げる。蛟は歩速を早めながら刀を上段に構える。格納庫の天井を切っ先がかすめ、そこから腕の動きは急に加速して、黒い刀身が峰國たち目がけて振り下ろされる。格納庫の外へは、間に合わない。

 頭上で風切音。南田と交わした約束のことが、峰國の脳裏をよぎる。

 鉄の擦り切れるやかましい音がした。そしてぱらぱらと煤が降って来る。刀身はまだふたりの体を叩き斬っていない。蛟は切っ先を作業用クレーンのチェーンにひっかけたのだ。滑稽な様子だが、峰國も笑っている余裕はない。

「ふう、間一髪」

 床の弾痕を避け、格納庫の外へ出る。蛟がチェーンを振りほどこうとぎこちない動作で頑張っているうちに、蛟と、奥から見ている覆面の女の視界から逃げる。

 外へ出たからといって安全でもなかった。アパッチが我が物顔で低空を周回している。峰國は手近な物陰に隠れてから、安に言った。

「早く逃げなよ。ここは俺が食い止めるからさ」

「しかし、機兵を相手に」

「やり方は何かあるんじゃないの? ま、これから考えるけど。ともかく、俺の仲間は俺が助ける。あんたはあんたの仕事に専念すればいいよ。仲間のケツを拭くんだ、お互いに」

 安は心底感激した様子で、峰國の手を取った。

「重ね重ね、あなたには……」

「早く行きなって、邪魔なんだから!」

 蛟がクレーンを引きちぎるような音が聞こえ、峰國は安の尻を蹴飛ばした。その運動量を無駄にせず、安文俊はよろよろと走り出す。傷ついてはいても、自慢の足には違いない。

 それをゆっくり見送る時間などなく、峰國が身を隠していた物置が、ほぼ真横から突き出された煤色の刃によってスクラップにされる。そのまま地面を舐(な)めるように峰國の方へと襲ってきた刀身を、峰國はリンボーダンスの要領で躱(かわ)すと、飛び散った倉庫の中身のなかにスコップを発見して拾い上げる。

「さて、頑張っちゃおうかな」

 久々に気張って、峰國は眼を見開いた。



- 5 -


 監視していた相対バルムンク反応が増大した。同じ方角に新たな熱、振動源が発生。機兵が動き出したのだ。格納庫をくぐって外へ出たその姿が、カメラ映像で確認できる。見慣れないシルエットだったが、円道はそれよりもアパッチの挙動を凝視していた。

「今よ、跳んで!」

 円道はチャンスを見逃さなかった。何かを探すように駐屯地上空を周遊していたアパッチが、新たな機兵の起動に気を取られてか、角龍(ジャオロン)に完全に背を向けていた。

 合図と同時に、円道はアパッチ直下の大型放水装置を作動させていた。付近の建屋を消火するために設置されたクレーン状のもので、ポンプで加圧されるため放水圧も高い。高射砲には及ぶべくもないが、低空に進入していたアパッチに水鉄砲を当てるに十分な代物だった。角龍の動きに気づいて振り返ろうとしたアパッチの風防に、局所的などしゃ降りの雨をプレゼントする。

 群山は合図にしっかりと反応した。予備燃焼なしに角龍のメインロケットエンジンを噴射し、足りない勢いは助走でカバーして、跳躍。過(あやま)たず、目標の格納庫前へ着地する。円道は着地の寸前にマスディフューザの出力を最大に引き上げ、広範囲に角龍の重量作用を拡散。狙い通り、大々的に土煙を捲き上げた。

 目眩ましは、アパッチのヘルファイアには通用しない。熱源をカットしなければならないが、メインロケットの余熱はそうそう短時間に散逸するものではない。先手を打つしかない。角龍は格納庫へ入り、武器を探す。

 数日使った格納庫なので、勝手はわかっていた。群山は速やかに角龍の武装を整える。ライフル砲の火縄、多目的擲弾発射筒である火筒(ホヅツ)、そして各々の交換用弾倉。アパッチ相手に格闘戦は無理なので雷紫電(ライシデン)は置いていく。他にも奥に緑褐色の幌をかぶった大きな荷物が増えていたが、中身を確かめている時間はない。アパッチが今にも反撃に転じるかもしれない。もう一機の機兵がうまくやってくれていることを祈りながら、円道は群山にアパッチの狙撃を委ねた。

「ロックオン」

「撃って!」

「もう撃った」

 火筒の対空散弾が発射され、土煙の向こうをふらふらと飛んでいたアパッチを直撃する。回転翼をやられたアパッチがその場で墜落に転じる。直下には駐屯地の建物があった。円道は青ざめ、叫んだ。

「まずい、受け止めて!」

「無茶だ」

 反論しつつも、群山はフットペダルを踏み込んでいた。格納庫を走り出て、墜ちゆくアパッチに向かって跳躍する。しかし、武装して重くなったぶん、瞬発力はずいぶん低下していた。加速度が円道にそれをわからせる。――間に合わないかもしれない。

 空中に飛び上がった角龍のコクピットで、接近警報が喧しく鳴り響く。アパッチに対して作動したものという円道の理解は、正しくなかった。

 アパッチの機体が、横合いから飛び出してきた何かに衝突されて、大きく落下軌道を変えた。角龍も危うくそれと衝突しそうだったが、群山が咄嗟にやったものか、最新の自動姿勢制御が働いたものか、角龍が火筒をかなぐり捨てる反動で姿勢を急変更。間一髪でそれを免れた。

 着地とともに群山のほうでカメラ走査。一見して、アパッチは建物から外れて道路に墜落したとわかった。破片の被害までは、陰になっているのでわからない。かわりに、もっと大きな物が画面には映し出されている。四つん這いの姿勢から立ち上がろうとする、十メートル超の人型の機械が。

 アパッチに体当たりを駆けて軌道を変えてくれたその機兵は、龍ではなかった。龍王でもない。啓示軍(オフェンバーレナ)の鹵獲機体でもなく、初めて見る姿である。

 しかし、ふたりにとってそれは真新しいものでもなかった。

「影龍(インロン)……なの?」

「牙黒鷲(ガコクシュウ)だろう、彼らの自称なら。でも、あれは違うぞ」

「わかんないよ、そんなの」

 よく似ていた。GT72鉱山基地で初めて遭遇し、暖炉の谷では共闘した、あの牙黒鷲に。ただし、群山に指摘されて見れば、たしかに頭部など幾つかの箇所が明らかに異なる形状をしていた。もっとも、機体を大きく改造した可能性もあり、同一機体であるかどうかの判定はまだできないと円道は慎重になった。暖炉の谷の中心部に突入したあとの彼らの行方を、黒龍隊では誰も知らないのだ。

 牙黒鷲の存在は、亜細亜連邦軍では叛乱軍もしくはテロリストとして扱われてきた。それは、龍王と競合して開発が進められていたプロトタイプ「影龍」が、開発チームの造反により強奪されてテロ活動に使われている、というのが牙黒鷲に関する公式見解だったからだ。実際、牙黒鷲が反体制ネットワーク「エデン」に属する過激派と行動を共にしていたという報告もあり、亜細亜連邦軍は何度も攻撃を受けている。九天軍と同等に、ともすればそれ以上に警戒されている厄介者のはずだった。暖炉の谷では啓示軍に対する共闘が成立したが、あれは現場の判断でのことに過ぎない。今ここにそれが現われたとなると、円道は自分がどうするべきなのかどうかわからない。

 その機兵は角龍をふりかえった。右手には、黒く大きな刀を握っている。

 画面に一瞬のちらつきがあった。相手の出しているバルムンクフィールドのせいだと円道は推測した。角龍は戦場管制システムのリンク維持のためにBFGを起動していないが、敵のミサイルの誘導機能を少しでも撹乱しようと思えば、起動させておいたほうが有利となる。ただし、人工のバロッグを見に纏うようなものなので、電波による交信は阻害される。

「話しかけてみる?」

 こちらもバルムンクフィールドを展開してそれを相手と共有するか、あるいはレーザー通信や発光信号、単純な音声出力でも対話は可能である。

「好きに――」

 群山は何かを言いさしてやめた。急に角龍が横走りし、予期していなかった円道は頭を打った。ヘルメットなしでは、なかなか痛い。

「ちょっと!」

「交戦開始」

「え?」

 円道はカメラ映像に目を戻す。牙黒鷲に似た機兵が、刀を構えて、急接近している。

 群山は躊躇なく火縄を使った。一〇五ミリ径の砲弾が旋回しながら砲口を飛び出し、相手に命中する。――たしかに、そのように見えた。

 おかしなことが起こった。機兵が無言で襲いかかって来たことではなく、砲弾が機体をすり抜けたことだ。そして相手は、敵と判断せざるをえないその機兵は、何事もなかったかのように大上段に刀を振りかざす。

 円道は呆気に取られていたが、群山の操縦は乱れていなかった。敵の大仰な剣筋を読み、余裕を持って躱す。空振りに終わった敵機は、刀を構えなおそうとするが、その動きはいかにも遅い。そして、今しがたの構えと全く同じだった。最近の龍ならばこのようなモーションパターンは発生しにくい。パイロットの指示に対して、EPUの高速演算により絶えず複数の出力選択肢が用意されるので、たとえ環境が全く同一だとしても、パイロットの操作と機兵の動作は一対一ではない。特に格闘戦においては、相手に動きを読まれるのを嫌ってワンパターンの行動は取らないようプログラムが設計されている。一撃目を外した時点で、同じモーションパターンを繰り返すことはありえない。龍ならば、そうである。しかしこの相手は違った。

 これは牙黒鷲ではない、ただ似ているだけだと、円道は悟った。牙黒鷲の動きは、暖炉の谷で可能なかぎり映像に収め、解析している。牙黒鷲は機体骨格そのものが龍王や龍とは異なるが、それを抜きにしても、異質だった。より洗練されており、パイロットが意のままに操っているという感じがした。BMIを使っているのではないかと円道は疑ったが、エンジニアである北嶋は、それだけでは説明できないと唸っていた。その牙黒鷲と、目の前のこの機兵とは、似ても似つかぬ動きをしている。

「とろい……」

 呟いたのは群山だったが、円道も同感だった。アパッチへの体当たりや、今の踏み込みはなかなかの瞬発力だったが、総体としては完成度が低い。まるで未完成である。SMITSの偉いさんが岩津と話していたことを円道は思い出す。

「これ、SMITSの試作機?」

「かもしれない。前例はある」

「龍王の偽装タイプか」

「誰が作ったなんて関係ない。敵の手に落ちたなら、破壊する」

 動きが悪いのは試作機のせいだ、という円道の解釈とは異なり、群山は乗り手が正規のパイロットではないと考えたらしかった。いずれにせよ、その動きの悪さは説明できるが、群山の仮説は相手の動機をも説明している点でより合理的だった。それは円道も認めたが、しかし、群山が敵機を照準に収め、すかさず発砲するのまではいただけなかった。周りの施設に被害が出たらどうするのか。藤居がいるかもしれないのに。

 群山の操縦は存外に迷いがなく、止める間はなかった。敵機は蟹歩きの要領で打ち込む隙を窺っていたが、角龍が火縄を向けるのに反応して、またあの瞬発力を見せた。避ける素振りなど微塵もない。当然、砲弾は直撃する――はずだった。

 袈裟(けさ)切りを危ういところで躱した。砲弾はまたもや目標をすりぬけ、背後で着弾して煙を上げている。

 この機兵には実体がないのか。まさか、そんなはずはないと円道は頭を振る。直後、それを相手のほうが証明してくれた。重量を乗せた蹴りを入れられ、角龍は無様に尻餅をつく。質量がなければこうはならない。

 立ち上がろうとする角龍に向かって、敵は、胸部の格子状パネルから何かを発射した。機体に短い振動。衝撃と呼ぶほどではない。遅延性の火薬か、と閃いて、円道は被弾部の切り離しを考える。が、群山がカメラで確認した結果が円道のモニタにも表示されて、思い止まった。どうやら火薬ではない。

「トリモチ……。捕獲する気なわけ?」

「アパッチも撃たなかったしな」

 群山は手足を激しく動かし、角龍もまた似た行動をとった。腰にくっついて動きを阻害していたトリモチが剥がれ、押さえ込みにかかっていた敵の手を危うくすり抜ける。

「やっぱり、細かい動きは苦手ね、あいつ」

 円道は戦場管制システムの操作よりも敵機の観察に注力していた。勝ち目はある。いや、むしろ勝てないほうがおかしい。火縄さえ普通に当たってくれれば、すぐにでも決着する。

 距離をとった群山はまたもや火縄を使ったが、今度も命中しなかった。相手はよけもせず悠然と距離を詰めてくる。

「何かがおかしい」

 群山が呟く。

「それはわかってるけど」

 円道は火器管制のインターフェースを開き、火縄の使用を禁止する。どうやって回避されているかわからないが、後ろで着弾の煙が上がっているのだから、その被害は見過ごせない。

「雷紫電を取りに行ってよ。格闘戦じゃないと、ここじゃ……」

 駐屯地への被害が。そう言おうとして、円道は自分の見たものに違和感を覚えた。

 ディスプレイに映される映像、そしてテキストやグラフで示される駐屯地の被害情報に、円道は見覚えがあった。予知能力を持ったと誤解するまでもなく、からくりは理解できた。

「――あたしたち、このままじゃ勝てない」

「わかった」角龍を必死に回避運動させながら、群山が応じる。「雷紫電を取りに行けと言うんだろう」

「そうじゃない……。角龍は実戦と模擬戦を勘違いしている! プログラムが騙されているの!」

 駐屯地の被害状況は、藤居と実施した模擬戦、啓示軍迎撃シナリオの場合と一致していた。異なるのは角龍のすぐ近くの施設に関してで、角龍が火縄を撃った場所のぶんだけ、被害箇所が増えている。画面で表示されている煙や瓦礫は、よく見ればCGで合成されたものだ。敵機の動きに気を取られすぎて、見落としていた。

「解除しろ」

「できないから困ってるんじゃないの」

 火器管制システムは火縄の実弾を使ったと勘違いをしている。しかし実際には、今まで発射したつもりの火縄の弾は、実はすべてが、まだ弾倉と砲身の中に収まっているのだ。敵が全く傷つかないのも当然だった。

 敵との追いかけっこは続いていた。火器が使えない以上、角龍は逃げるしかない。雷紫電を取りに行ったところで、きちんと機能するかどうかわからない。棍棒くらいにはなるだろうが、角龍にそのような応用的なモーションが仕込まれているかどうかは、確かめていない。

 操縦を群山に任せるしかない円道は、OSに自己診断をかけてみた。エラー検出が十数件。しかし、戦闘機動に伴う各センサの些細な同期ずれなどを知らせるものばかりだった。火縄の発射不能との関係性は認められない。

「誰かがハッキングしているのかも」

「誰かって、誰だ」

「敵に決まっているじゃない」

 その敵は何者なのか、というのが真の命題である。

 アパッチが駐屯地施設に落ちるのを防いだときまでは、味方だと確信していた。それが襲ってきたので、おかしくなった。九天軍だとすればどうしてアパッチに体当たりなどしたのか。味方が攻め入っている建物へ墜落しそうだったのでやむなく破壊しただけか、それとも第三勢力で、邪魔なアパッチにとどめをさしたのか。はたまた、あの機兵は敵などではなく、角龍のほうが九天軍の手に落ちたと勘違いされているだけかもしれないが、そうだとすれば相手はとんでもなく迂闊(うかつ)なパイロットである。

「こっちが捩(ね)じ伏せればわかることよね……」

「おい、少佐みたいなこと簡単に言うな。やるほうは楽じゃない」

「大丈夫、リンクを遮断する。それで火縄も使えるはずよ」

 円道は戦場管制システムの強制終了をOS側に入力した。

 応答なし。

 戦場管制システムは動きつづけている。その動作状況をモニタしてみた円道は、自分が指示した以上の通信が行われていることに気づき、愕然とする。消防システムへのアクセスなどは、全体の通信量に比べればささやかなものだった。円道は戦場管制システムの力を過小評価していた。今、接続先は霞ヶ浦駐屯地の外まで広がっている。本来、パスワードを入れなければアクセス出来ない範囲まで。

 まだ本当の意味での強制終了手段が残されていることを、円道は思い出した。ハードウェアの結線を機械的に解除するのである。ただし、それは角龍を完全に停止させることになる。目の前の脅威をどうにかしなければ、到底実行できるものではない。しかし、角龍の情報処理機能は戦場管制システムに包含される設計となっているため、それを敢行しない限り、角龍はこの状況を模擬戦と勘違いしたままだ。

「もう、どんな罠よ、これ!」

 冷静な判断ができていない、という自覚があった。こんなときに藤居がいてくれればと、思わずにはいられなかった。



- 6 -


 日本で基地や駐屯地が襲撃されるという事態について、藤居は、何度か考えたことがあった。黒龍隊の権威がどれほどのものになるか未知数だった設立当初、啓示軍(オフェンバーレナ)が東京攻略の前哨戦としてまず猿之門基地を叩きに来る虞(おそれ)はあったし、加えて、元老院派やRAT(ラット)が些事(さじ)にかこつけて猿之門基地を占拠するシナリオも考えられた。それは決して突飛ではなかったはずであり、むしろそうした危機感を抱かない南田たちの有様を憂えたものだった。

 ダーダネルス作戦から帰還すると、黒龍隊の権限がかなりの制限を受けたことで、猿之門基地への敵襲の可能性はずいぶん低下した。そう考えて、外患よりむしろ黒龍隊の内憂をどうしたものかと頭を悩ませていたのだが、そんな藤居に再び外部へ対する緊張の糸を張り詰めさせたのは、横浜議事堂を襲撃した九天軍だった。

 軍に入隊し、右も左もわからないうちに中国――東部方面軍へ配属された藤居にとって、九天軍の存在は身近なものだった。中国には総帥「鈞天(きんてん)」の統べる九天軍の最大戦力が潜伏していると言われ、実際、九天軍が関与したとされるテロの半数は中国で起きている。藤居自身が九天軍相手に出動したことも何度かある。九天軍と知らぬうちに戦ったことも、実はその倍くらいの回数があるのではと藤居は思っていた。そんな九天軍が身近な横浜に現れたことは、否が応にも、藤居に血と硝煙の世界を思い起こさせた。今日の午睡の夢のように。

 政治的要求を出さず、クライアントの求めに応じて武力を行使する九天軍は、厄介な相手である。思想信条ゆえの作戦内容の束縛がなく、また、政府が鎮圧を困難と見た場合に選択肢に入ってくる取引も、九天軍相手では成立しにくい。クライアントを割り出してそちらに話をつけるほうが早い、とは治安維持部隊の間でよく言われたことだった。

 横浜議事堂襲撃事件で、九天軍に地下の大規模秘密通路“ルート”への逃走の手引きをした内通者の存在が浮かび上がったとき、藤居は真っ先に軍か警察を疑った。いずれも黒龍隊にとっては味方であると同時に仮想敵でもある。八月の悪夢による混乱期、旧体制が瓦解して誕生した現体制を、再び動乱によって塗り替えようと企む者は必ずいる。少なくとも黒龍隊隊員はそう考えて備えておくべきだったし、藤居は現に、内通者をあぶり出す方向で襲撃事件の捜査に当たった。東部方面軍での経験が役に立った。

 しかし、藤居は自分の見当違いを思い知らされることになった。

 九天軍は中央議会議員を連れて“ルート”に逃げ込んだが、それを包囲した連邦軍と警察の幹部部隊は、“ルート”の爆破という罠にはまった。人的損失は甚大で、派閥も何も見境なく、幹部と幹部候補生が軒並み死傷した。その責任の一端は、九天軍の背後を見誤った自分にもあるだろうと藤居は思い返す。ただそのときとしては、藤居の心にあったのは別のことである。誰がその罠を可能にしたか。地上から現場を支援していた藤居が、ビルの屋上に不審な人物を捉えたのはそのときである。

 春だというのに厚手のコートを着込んだ男だった。男は藤居の疑惑を暗に肯定した。変則領域を利用した時空跳躍が可能であるという疑惑を。そして一枚の名刺を残して去った。保科(ほしな)晃(あきら)の名が記されたそれを。

 江藤にも相談したが、その男と九天軍の目的は読めなかった。わからないまま九天軍は鳴りを潜め、今日に至ってしまったが、警戒は怠らなかった。おかげで、今もこうして敵の手を逃れられている。

「近いな」

 藤居の隣で、岩津中佐が呟いた。主語は必要ない。ふたりが身を隠しているこの部屋までずっと聞こえていたヘリの音が、轟音と振動を境に途絶えたということは、墜落したということだ。機兵のものらしきロケットの噴射音も聞こえていたから、機兵は駐屯地防衛側、ヘリは侵入者側、と推定できる。機兵の運用はテロリストにできるものではないからだ。

「降伏勧告に全員が従ったわけではないようですね。――終わりました」

「すまん」

 岩津は、藤居に巻かれた左腕の包帯を確かめるようにさする。巻いたそばから滲んでいた血は、端部に届く前に止まった。完全な止血ではないが、しばらく動けそうだった。

 敵襲を知り、直ちに司令部へ走った藤居は、間一髪で岩津を助けることができた。逆に言えば、岩津以外は助けられなかった。藤居が岩津に会ったのは司令部の手前で、そのときすでに敵は中にいた。奥からは銃声と、物を倒すような音、怒号、悲鳴が聞こえた。

 敵はどこからともなく現れたのだ。そうなることを予期して、ゲートや通用門ではなく司令部へ直行したのだが、一足違いだった。間に合ったたところで、多数の敵に対して何ができたかはわからないが、せめてもう数人は助けられたはずだし、敵がどのように司令部内へ出現したかの情報も得られただろう。

 恐るべきは敵の展開の迅速さだった。司令部からはすぐに何人もの敵が出てきて、すでに藤居の説明を聞いて逃げようとしていた岩津が、後ろから撃たれた。

 建物を移って身を隠したと思ったところで、追っ手と鉢合わせして、ふたりは窮地に陥った。そこで幸運に助けられた。追っ手が銃を使おうとしたとき、廊下のスプリンクラーが突然作動したのだ。敵のほとんど頭上の位置だった。予期せぬシャワーにひるんだ隙に、藤居と岩津は逃げて身を隠した。

 しかし幸運だけに助けられたわけではない。

 部屋を訪ねてきた彼女の情報がなければ、藤居があのタイミングで司令部に駆けつけることはなく、岩津も捕まったか、殺されていただろう。彼女は襲撃を察知していた。まさにそれを知らせるために、藤居に会いに来たのだ。

「行動する前に、ひとつお耳に入れたいことがあります。敵は特殊なバルムンクシステムを利用している可能性があります」

 藤居は、自分が受けた説明をそのまま、岩津に伝えた。もっとも、そのバルムンクシステムが具(そな)えているであろう機能については、藤居はもう知っていたのだが。

「瞬間移動ということは、光速を超えることになる。変則領域は相対性理論に対しても例外を生み出せると言うのか。にわかには信じがたいが、今、そのメカニズムを理解する必要はないな。肝心なのはスペックだ。敵はそれをどのように使えるか、どこまで推定できている?」

「そうですね、数十名の人間を対象に、数百メートルの時空跳躍が可能でしょう。構造物は障害とならないと推定します。――敵はおそらく九天軍。横浜での二回のテロは、その技術を用いて成功させたと私は考えています」

「使用間隔はどうだ。今こうしている間にも、敵の増援が瞬間移動してくる事態を警戒すべきか。どう判断する?」

「それは……、どうでしょう。時空跳躍対象の人数と使用間隔との相関については、情報が不足しています。ただ、現象を操作しているのが機械システムである以上、電力なり計算なりの制約で、そう立て続けに使うのは難しいように想像します」

「不確かだな。ただの想像で、兵の指揮はできないぞ」

 その一言で、藤居は九天軍の時空跳躍システムの存在可能性そのものを否定されたような気になったが、それは誤解だった。

「とはいえ、まずは兵隊を揃えないことにはな」

 一瞬、岩津の表情に苦笑めいたものが混じる。十年前の、今の自分と同じ年頃の岩津の姿を、藤居は想像した。命令の判断基準ではないので、根拠がなくとも悪くはあるまい。そもそも、藤居は将校ではない。実際的な命令はともかく、目的設定レベルでの命令は、将校が下すものだ。岩津や江藤、そして将来の南田たちが。

 藤居の内省を読み取ったわけではないだろうが、岩津は、これからの行動指針について考えを明らかにする。

「これから戦力を集める。しかし、幾つかの困難を伴う。まず、通信は傍受されると考えねばならない。もともと、司令部が情報を統括できる仕組みになっているからな。あくまで通信に頼るなら、先に通信設備を押さえてネットワークから物理的に独立させるか、あるいは情報発信によって居場所を特定されても攻撃を受けない、安全な場所を探さねばらない」

「残りの障害は?」

「先にそれを聞くか。君は江藤よりも……、いや、その話は敵を制圧した後だ。我々の現有戦力が拳銃二挺のみと極めて貧弱であること、これは自明だな。もうひとつ大きな問題となるのは、敵が何者かわからないということだ」

「九天軍とは限らないと?」

「私はそれを君に問い返したい。敵が九天軍だと断定しているなら、どうしてさっき、追っ手に応射しなかった。君の射撃の腕は、上の下といったところのはずだ。あれが敵だとは確信できなかったからではないのか。それとも、私はここで軍人としての心構えを説く必要があるのか」

「道義的な躊躇ではありません。私は予備弾倉を持っていませんし、どこで補充できるともわからない状況です。貴重な武器を使うには値しないと判断しただけのことです」

「言い訳のように聞こえるのが、私の勘違いであれば良いが。――私が疑いの余地を残しているのは、敵が降伏勧告を出したところが、九天軍には似つかわしくないからだ。あの勧告の時点で、奴らはすでに司令部を掌握していた。武器の管理システムを通じて戦車、装甲車を出動不能にすることもできるし、司令部の上級将校を人質にしてもいい。駐屯地内の反抗を抑える手段はいくらでもある。実際、この駐屯地の戦力の三分の一でも稼動していれば、あの程度のテロリストなど制圧可能だ。それが現実には達成されていないのだから、おおむね敵の思惑通りに事態は推移している。では、敵の目的はそもそも何か? この霞ヶ浦駐屯地は基本的に実験場だ。角龍(ジャオロン)のような評価中の兵器や、評価を終えたが配備に至らなかったもの、一般部隊では運用が難しいものなどがそのまま防衛戦力として配備されているが、それらの戦力を奪取したところで、関東一円の陸海空軍を相手にどうこうできるものではない。九天軍であれば、そんなゲリラ戦術の基本から逸脱した目的を設定するはずがない。それがクライアントの要求だとしても、契約しないはずだ。したがって、九天軍ではない、自らの目的達成のために動く武装組織ではないかと私は疑っている」

「それは、たとえば、RATのような?」

「私が元老院派であったら、君は今の発言で十分すぎるほどの不興を買えただろうな。――RATならば確かに、駐屯地制圧の能力を持っているだろう。まだ公になっていない、SMITS(スミッツ)謹製のバルムンクシステムを利用できる可能性も高い。しかし、この霞ヶ浦はもともと元老院派の影響力が強い場所だ。かつて龍王(ロンワン)の試験をしていたことからもわかるだろうが、今でもSMITS関係者は多い。あまりおおっぴらに言えることではないが、利害関係をともにしている幹部も少なくない。司令部の武力制圧などせずとも、いくらでも元老院派の意思を具現化することができる。対立派閥数人の流血はあるとしても、RATの大規模投入など不要だ」

 ジョンソン主任とあなたの間に利害関係はないのか、という質問は飲み込んで、藤居は論点を変える。

「議会派という可能性は。中央議会議員の過半数は今、横浜にいます。関東を議会派が掌握すれば、東京なり横浜なりを亜連の首府として宣言できる」

「そして大統領を立てて現状を追認させる、か。しかし、そうさせる圧力があったとは思えない。元老院派の大多数は、議会派や中央議会そのものの排斥を狙っているわけではない。ただ理想の統治体制実現のための方法論が異なるだけだ。わざわざ啓示軍という目下の敵に対して弱みを作ることはしない」

「議会派の中に、大きな動きがあったのかもしれません。今こそ元老院の支配から抜け出す好機だと。軍の全権を掌握しつつある、金星也(キム・ソンヤ)元帥に対する恐れもあるかもしれない」

「それこそ、元帥に強硬手段を取らせる口実を与えるだけだ。元帥は必要とあれば関東全域を制圧してでも荒療治を行うだろう。中央議会議員の命も関係ない。彼らには代わりがいくらでもいるからな」

「では、やはり元老院に対する恐れなのかもしれません。ダーダネルス作戦中に起こった数々の変則現象について、元老院がいち早く対策を打ったことは、もう中佐のような方ならばご存知でしょう。元老院は、我々の知らない知識と技術を握っている。SMITSが龍王をごく短期間で実用化したことからも、それは疑われていたことですが、暖炉の谷の一件でそれが決定的になった。あそこで起こったことの真実が、隠蔽されている情報が、議会派の主導層に伝わったとしたら……」

「それは、君自身の恐れのように聞こえるな。暖炉の谷で何があった。言われているような、伝染病があったとは思えない。差し支えなければ聞かせてもらおう」

「“ベルリンの壁”です。啓示軍は暖炉の谷の中心に第二の“壁”を作りました。我々は……、というのは黒龍隊と議会派、元老院派、そして応龍隊の共同戦線ですが、辛くもそれを消滅させました。その途上で、多くの同士討ちが発生したのですが、それが啓示軍のバルムンクシステム、というよりも“壁”の拡張機能によってもたらされた疑いが強いのです。もしかしたら、啓示軍が制圧地の人心を掌握できているのも、その効果の延長のことかもしれません。元老院は、どうもそれを前から知っていた。啓示軍が暖炉の谷に至れば“壁”を作れるという見込みも含めて。でなければ、あのバロッグのなか、元老院派が早急に暖炉の谷包囲網を作った理由を説明できません。元老院がその情報を明かさない以上、啓示軍と同様に敵だと見ることが可能でしょう。亜連の市民はすでに、我々軍人も含めて、元老院によって操られているのかもしれないのですから」

「それが事実なら、確かに、公開できる情報ではない。しかし、こう言ってはなんだが、准尉。まだそこまで飛躍する必要はない。私は君の本来の想定を全く否定しているわけでもないのだ。つまり、駐屯地の制圧が単なる通過点、手段に過ぎないとすれば、あれが九天軍であるとしても頷ける。むしろ、その目的さえ解き明かせれば、敵が何者であるかなど瑣末(さまつ)な問題だ」

 それは一理ある、と藤居は思った。岩津の表現はまだ控えめですらあるかもしれない。彼らの目的内容をつきとめ、吟味して、初めて敵か味方かが判定される。それが真理だろう。

 ただし、真理というものは、情動とは別のベクトルの果てに存在する。

 相手は、撃ってきた。自己保存のため、藤居と岩津が彼らを敵と見做(な)して行動することに、誰が文句をつけられるだろう。

 しかしそれでは駄目なのだと、藤居は自分の考えに歯止めをかける。武器を持った者が、情動のままに行動してはならない。暖炉の谷で起こった同士討ちは、啓示軍に助長されたものだとしても、元を辿れば亜細亜連邦軍将兵の心に根ざしたものだろう。イルベチェフの部下、タマリアノフ少尉は、歪んだエゴと防衛本能から暴走に至った。タマリアノフだけではない。RAT特務員としての任務を逸脱してしまったに違いない久留にも、同じことが言える。そして程度の差こそあれ、藤居も、江藤も、古菅も、マヒロフスキーも、あの場にいた全員が狂っていた。

 ――人は、失敗を教訓にすることができる。

 かつて藤居はそう諭された。江藤博照から。ありふれた言葉であったかもしれない。しかし藤居の心に響いたのは江藤の声が初めてだった。

 司令部を制圧し、藤居と岩津をも襲った彼らについて、敵と結論付けるにはまだ早い。岩津の判断は正しい。流血を避けつつ、彼らの目的を探るのが理想だろう。

 藤居はそこで思索に決着をつけ、岩津に相槌を打とうとした。時間にして、岩津が口を閉じてから数秒といったところだった。異変は、そのほんの短い間に起こっていた。

「あなたの状況分析能力の高さは、この私が認めよう」

 藤居たちの背後、数メートルもしない位置から、声がした。誰もいなかったはずの空間から。

 藤居が拳銃を向けた先に、ひとりの男が立っていた。脛までかかる裾長のコートを羽織り、英国紳士が好きそうな帽子を、目深にかぶっている。

「おまえは!」

 情動が引き金を引こうとするのを、藤居はきわどいところで抑制した。この男を射殺してはならない。横浜で藤居が取り逃がしてしまった不審人物が、今度は向こうから現われたのだ。聞かねばならないことが幾つもある。――ひとまずそう、たった今、どうやってその場所へ現れたのかと。

「前回、名刺を渡したはずだが、藤居祐輝准尉?」

 帽子の鍔(つば)の下から、男の瞳が覗く。前回は見えなかった。おかげで写真を調べても本人かどうか判断できなかった。目を見れば、顔の印象はだいぶ固定される。藤居は確信した。

「あれはあなたの名前ではない」

「良い指摘だ。あれが自分の名刺だなどとは、この私は一言も言っていない。それは確かだよ」

「時空跳躍を可能とするバルムンクシステムが存在する、ということも確かのようだな」

 そう口を挟んだ岩津は、藤居よりも余程落ち着いているように見えた。拳銃を男に向けているが、撃つのをためらっている。感情の制約ではないと藤居は見て取った。男が時空跳躍してきた影響で、副次的にバロッグが発生している可能性を、岩津は憂慮しているらしい。バロッグ内での敢えての発砲は自傷行為である。

「その鋭い洞察力。やはりあなたを自由にしておくわけにはいかないな、岩津中佐。我々が仕事を終えるまで、拘束する」

 男が言い終えるかどうかのうちに、背後の扉が開いて、誰かが勢いよく踏み込んでくる。ふりかえると、すでに相手の顔――下半分に覆面をしている――が眼前にあった。藤居は腕に鋭い打撃を受けて、銃を取り落とす。次の瞬間には岩津も同じ有様となった。

「遅くなってごめんなさい」

 ラフな調子のその声で、どうやら女らしいと分かった。藤居も岩津も動けない。動けば、覆面の女が手にしたトンファーで痛烈な一撃を浴びせてくることは明白だった。それでなくても、殴られた腕の痺れがひどく、しばらくまともに使えそうにない。

「外が騒がしいようだね。首尾は?」

「可もあり不可もあり、まあ均(なら)して言えば順調ね」

「となると、この私も負けてはいられないな」

 男は藤居と岩津の落とした拳銃を拾い上げると、片方をポケットに入れた。そしてもう片方を慣れた手つきで構え、岩津に言う。

「この駐屯地に保管されている『オルロフ』を渡してもらおう」

「何のことだ。オルロフ?」

「知らないか。ま、名前はこの際、重要ではない。あなたは別の名で認識しているのかもしれない」

「しかし、名がわからなければ答えようがない」

「名など便宜的なものだ。元老院がこの地に封印しているもの、と換言してもいい」

「あいにく、与(あずか)り知らぬ物のようだ」

「困ったな、君以上の階級の将校たちも、皆同じ返事だった。もう少し殺さなければ駄目か。――連れて行く」

「二人とも?」

 覆面の女が、藤居を見る。情報を引き出すには無用の、そして彼らにとっては危険なだけという、自らの立場を藤居は意識した。

「二人ともだ」

 男は強く言い切った。藤居は、そこで安心する小心振りを見せたところで、誰からも後ろ指など差される筋合いではなかった。それでも、藤居の心のうちの大部分を占めたのは焦りだった。

 決定的に閉じ込められてしまう前に、岩津を逃がさねばならない。彼は有能な指揮官であり、今は抵抗できずにいる将兵たちを動かす、大事な鍵なのだ。自分ひとりが逃げたところで、せいぜい数人を動かせるだけだろう。しかし岩津が無事ならば、数十人、数百人の組織的反攻が期待できる。

 藤居は、特別に与えられていた士官用通信端末を使った。利用可能なすべてのチャンネルで、SOS発信。駐屯地がバロッグに覆われているとしても、SOSという単純な情報だけに、劣化に対する強度が大きい。あたりには幾らでも受信設備がある。近ければ同類の携帯通信端末に直接届きもするだろう。これまで使わなかったのは、それで位置が露見して自分の身の安全が確保できなくなるのを恐れたためだったが、すでに拘束されようとしている今、そのリスクはもう何らの制約にもならなかった。

「何をした」

 男は、藤居の僅かな動きをも見逃さなかった。あるいは、自らに埋め込んだ受信機器で藤居の送ったSOS信号を読み取ったのではと疑ってもいいくらいの、目の険しさだった。そう、男の目はもう隠れていない。この男が何者か分かれば、その目的は推定しやすくなる。仮に九天軍幹部だとすれば、それなりの巨大組織である、普段から監視している諜報筋が顔くらいは知っているだろう。だから藤居は、ここで自分の身を危険に晒しはしても、情報を持って生還する必要があった。

 覆面の女が、藤居の腕から通信端末を剥ぎ取り、ついでに藤居の胸板を蹴り飛ばした。藤居がたたらを踏んで壁際まで下がるなか、女は奪ったそれを男に渡す。数秒ほど検分した結果、男は自分の推測が正しいことを確認できたようだった。

「助けを呼んだか。ま、有効な手だな。封じなかったのは、この私のミスだろう」

「どうするの?」

 女がどの程度不安を覚えたかは、その覆面に隠されていて分からない。しかし男のほうは泰然としたものだった。

「好機だろう。ちょろちょろ逃げ回る鼠を、まとめて捕まえられるわけだから」

 男の声に、不自然な、そして高回転の足音が重なった。近づいて来ている。

「ふふふ、お呼びのようですね!」

 芝居がかった叫びとともに、ひとりの男が部屋に飛び込んできた。知っている顔。

「安文俊(アン・ウェンジュン)!」

 咄嗟に叫んだ自分の口を、藤居は慌てて塞ぐ。安が姿を現すのと同時に床に投げつけた、果実のような物体が、からからと音を立てて床をすべり、白い煙をもくもくと吐き出し始めていた。

 岩津は躊躇なく駆け出した。安と入れ違いに廊下へと出て行く。壁際まで下がっていた藤居には、岩津と同じだけの時間的余裕はなかった。しかし、問題ではない。藤居はコートの男を取り押さえた。岩津の背中が拳銃で狙われていたから。

「藤居准尉、早く」

 安が脱出を促しているが、その姿はもう煙に遮られて見ることができない。

「行って下さい、岩津中佐をお願いします」

 叫び返した直後、背中に鈍痛が走った。息が詰まる。安が反駁したら応答できないところだったが、幸い、相手は心得てくれていた。了解、とだけ言い残し、足音が遠ざかる。

「身代わりのつもりかな。人はひとりひとり平等だというのに」

 煙が晴れてくると、目の前に銃口があった。覆面の女の姿はない。岩津と安を追ったのだろう。

「今、求められてるのは幹部の役割だ。俺に求められているのは、ここであなたの真意を聞き出すこと」

「真意? この私が嘘をついていると?」

「あなたは保科晃ではなかった」

「いかにも。では、話をそこに戻そう。君は、この私が保科晃ではないと断言した。私は横浜で君と話したとき、あまり顔を見せないようにしていたつもりだが、どうして出会い頭にそう決めつけられた?」

「保科晃という技術者については調べた。SMITSの研究員で、現在は行方不明。学生のころの写真は入手できた。どこかで見たような気がして、金星也元帥に似ていると気づいた。若くして、牙を抜いたらこんな感じだな、と。その第一印象が強かったが、あなたには、その高慢な雰囲気以外に金元帥と共通する部分がない」

「なるほど、それは正しい分析だな。この私も認めるところだ」

「どうして名乗らなかった」

「この私が名を告げたところで、君の尊敬する隊長殿には効果が薄いと判断したからだ。しかし、保科の名であれば江藤は興味を示すと予想できた。あの男は雷麒麟の秘密に気づいただろうからな」

「雷麒麟の秘密とは何だ」

「聞いていないか? AHシステムと呼ばれているもののことだ。もっとも、私も詳しいことは知らない。情報元とて、千里眼の持ち主ではないのだから。そこで、保科の名を聞いた江藤の反応を見れば何かわからないかと、そう考えた。横浜で君と出会わなければ、直接お届けに上がる予定だったよ。保科の名を騙(かた)るような真似(まね)をしたのは、あの場での思いつきに過ぎない」

「なるほど。距離も防壁も関係なく飛び越えられるなら、猿之門基地に侵入するのも簡単だろう。ちょうどここへ入ってきたように。AHシステムは保科のオリジナルではなかったということか」

 それは喋りながら閃いたことだった。記録はないが、この男は保科の所属した研究室と深い繋がりがあったに違いない。時空跳躍の技術についても同じことが言えそうである。保科が雷麒麟に組み込んだ技術の源流は、その出身研究室、宇邨(うむら)研にあったと考えるのが妥当だろう。

 まだ九州から南田が戻っていないのが残念だった。当初の目的とは違ったが、南田は保科の古巣である宇邨研を調査し、准教授の梶間を九天軍の脅迫から救ったという。通信の傍受を警戒したため、詳しい情報は口頭報告を待つことになっていたが、梶間の件はおそらく、この男が仕組んだものだと推定できる。

「やはり秘密を知っているのか。そして、面白い指摘だ。だが保科の名誉にかけて、君の指摘は見当違いだと証言しておこう。この私の『九頭竜(くずりゅう)』と保科のシステムとは個別に開発されたものだ。機能は一部似通っているようだが、これは生物学における収斂(しゅうれん)の概念を引用することで、難なく理解できる事象だ。君は薬学部だったな、生物の単位は取っていたかい?」

 藤居は、時空跳躍を目の当たりにしたときに倍する驚きに体を貫かれた。

「いい反応だ。調べたよ、黒龍隊のことは。特にその隊員の過去について詳しくね」

「狙いは黒龍隊だというのか」

「惜しい。厳密には、少し違うな。黒龍隊には『九頭竜』完成のために少しご協力願いたいだけだ。それさえ叶うならば、何も血生臭い手段に出る必要など、この私にはないんだ。それはこの霞ヶ浦駐屯地についても同じだ。戦争ごっこ自体に興味はない」

「戦争に興味がないのなら、時空跳躍装置を完成させて、何に使う? 商売でもする気か」

「それが目的達成のための効率的な手段となるなら、着手するに吝(やぶさ)かではないが。学究のためだと言っても君は信じないのだろうな」

「理解できないな。あいにく、大学は中退した身でね。あなたが調べたとおりだ」

「そして軍に入隊した。何故かな。それほど家庭が困窮していたわけでもないようだが」

 そう、それが理由ではなかった。藤居は数年前を思い出しつつ、しかし男のその質問を無視して、尋ね返す。

「九天軍は時空跳躍装置を兵器として利用する気ではないのか」

「それは、この私が九天軍とどういう関係なのかを問うているのだと解釈するが、それでいいかな」

 藤居の沈黙を、男は肯定と解釈した。

「たしかに、九頭竜を純粋な研究目的で完成させたいというのは、個人としての思惑だ。九天軍とは共生関係にあるから、彼らが要求すれば、私も無碍(むげ)にすることはできない。九天軍も別に玩具が欲しいわけではなく、依頼主の無理難題を解決しなければならないから、九頭竜に頼ろうとする。誰かの行動が、純粋にその個人の欲求の表れであることは、むしろ稀だと言える。それが組織の、人と人との繋がりの常だ。さて、君は岩津中佐を逃し、自らはここに残った。これは誰の要望を実現したものか。ここにはいない上官の、江藤博照の望みを斟酌(しんしゃく)した結果だろうか。それとも、もっと広範に、亜細亜連邦軍の連帯意識がそうさせたのか。ここへ一緒に来ている仲間の安全を思えばこそ、かもしれないな。どれでも理由としては尤もだ。私は否定も批判もしない。ただ、君自身の、他者との関係を排除しても尚残る思いは、どこへ隠れてしまったのか。それが知りたい」

「人はひとりで生きているわけじゃない。他者との関係をなくすなんて仮定は無意味だ」

「そうかな。君はかつて、実践したのではなかったのか。他者との関係を、煩わしいしがらみを自ら絶つことを。――永久に」

 男は当てずっぽうに喋っているだけなのだと、藤居はそう思い込みたかった。しかし、男はそうさせない。彼の口にした名が、そうさせなかった。

「廖栄讃(リャオ・ロンツァ)。君は同僚であり親友である彼を死なせてしまった。君はそれを悔い、もう誰も殺さずに済むよう、死を選ぼうとした」



- 7 -


 自分を罵倒する声に気づいて、藤居は的へ向けていた銃を下ろした。

 狙撃の指導担当の軍曹である。たぶん、銃の扱い方がなっていないとおかんむりなのだろう。的にすべて命中させる自信を持っていた藤居は、軍曹の初歩的な指示をあまり真面目には聞いていなかった。結果を見せれば満足だろうと思ったのだ。だが軍曹は結果より形式にこだわる性質なのだろう。それを見誤ったのは失敗であると認めて、藤居は舌打ちする。

 舌打ちが聞こえたわけでもないだろうが、軍曹がまた何か喚いた。しかし、こちらにわかるように言ってもらわねば困る。北京(ペキン)語は大学の教養で良い成績を取っていたが、この軍曹の言葉は訛りが強い。意識して耳を傾けなければ、藤居には別の言語か、獣の唸り声にしか聞こえない。本人も自分の訛りの強さは自覚しているはずなのに、敢えて、聞き手に合わせようとしないのだ。伝える気がない。あるいは、こちらの一方的な努力を前提として考えている。

 遠くで睨みを利かせる軍曹は無視をして、次の兵士に場所を譲る。銃を置きに戻る途中、何かに足を取られて体勢を崩したが、それが誰かの故意に突き出した足だという仮説は、立証できなかった。容疑者は通り道の脇にいた全員であり、容疑者でない者もすべて共犯者である。見て見ぬふりをしているのだ。

 軍曹はしばしば唾と文句を撒き散らす人間だったが、藤居に対するそういった悪戯(いたずら)を見咎(とが)めることはなかった。注意が行き届かないのか、とも思ったが、それは違った。他方では、藤居のやることへの批評の目だけは厳しいのだ。あれも共犯者だろうと藤居は悟った。もしかすると主犯かもしれない。

 自分が銃の扱いで他の兵士に劣るとは思えない。軍曹は新入りの才能に妬いているか、でなければ、差別しているのだ。イレギュラーである自分を。

 自分が他の新兵と同じように扱われていないことを、藤居は早い段階で自覚した。東部方面軍配属のその日から、すでにその気配はあった。疑惑が確信に変わるまで三日を要さなかった。

 自分が日本人だから。考えられる原因はそれしかなかった。

 いまどき、中国にいる日本人というだけなら、もう珍しくもない。亜細亜連邦の成立から十数年が過ぎているのだ。移住者や、国際結婚も増えた。増えれば、それは当たり前になっていく。胎動期の衝突など過去の話だ。

 しかし、軍人となると、この社会問題は現在進行形となる。文化的バックボーンの異なる人間に武器を持たせ、体制の手先として使うことを、警戒しないはずがない。だからこそ他の日本人とは隔絶された環境に放り込まれたのかもしれないが、それは逆効果、愚挙だろうと藤居は思った。精神的に追い詰められた人間が、平静ならば考えもしないような暴挙に及ぶといった例は、枚挙に暇がない。自分も遠からずそうなってしまうかもしれない。このまま同僚たちから疎外されたままでは。

 その日の勤務時間が終わると、藤居は飲みに出かけた。翌日が非番であるか否かに関わらず、深酒はしない。もとより酒に強いほうではない。アルコールを摂取すればすぐに呑まれ、赤くなるので、傍目にもそれは明らかだった。

 繁華街を少し外れて、もう奥へ入るのはやめておこうか、とためらう程度のみすぼらしい路地で、店に入る。看板代わりの酒瓶に趣があったから選んだ。そんな調子で店は毎度新しく選んでいる。いい酒、いい料理を求めているのではない。できるだけ多くの場所を見て回りたいのだ。そのために中国へ来た。

 大学を中退したのは、そこで学べる内容にどれだけの価値があるか、疑問を抱いたからだった。

 藤居が幼児の頃、八月の悪夢を機に、世界は大きく様変わりした。日本の体制も変わった。しかし、大学教育は旧態依然としていた。これまでの人類史にない、人口数十億の巨大連邦にありながら、大学の教員たちにはその一員としての自覚がなかった。藤居は薬学部に入ったが、年輩の教員たちは、日本の医療事情を前提とした話しかできなかった。若手の教員でも、日本の医薬品の競争力をどう保つか、といった視点が多く、それは藤居の志向とは異なっていた。

 利潤の追求など、企業が社員研修で教えればよい。日本政府に指導要領を縛られなくなった大学は、もっと国際的な、いかに低廉に医薬品を世界に行き渡らせるかといった課題に注力する人材を育てるべきだった。アフリカまでは無理でも、せめて亜細亜連邦に加盟した仲間の国々くらいには、医薬品の恩恵をくまなく届けたい。結果として日本人が亜連を、世界をリードする立場を占めることができれば、そのとき初めて日本人という所属集団を誇るに値するであろう。藤居はそう思っていた。

 苦労して受験勉強をしたのに、入学するまで気づけなかったのは失敗だった。それでも、失敗を失敗と気づいていない連中と一緒くたになって人生の貴重な数ページを浪費するくらいなら、過ちを認めて道を改めるのが正しいと信じた。それで大学を、日本を、飛び出した。

 軍に入ったのは、方便である。こうして外国に滞在するのに、資金の心配をしなくていいし、制約が疎ましくなって除隊を選ぶとしても、習得技術でそれなりに再就職のつぶしが利く。

 もうひとつ正直に加えると、本物の銃を撃てるということもあった。水鉄砲やエアガンで遊び、当たり前のように本物に憧れた。しかし治安維持が強化されたためなかなか本物の銃には触れない。ともすればサバイバルゲームにも警察の介入があった。

 藤居の射撃の腕前には定評があった。玩具でも本物でも、銃の形式を問わず、藤居は高い命中率を披露できた。今の部隊でも、少しずつ名が広まっている。ただ単に日本人としてではなく、射撃の名手として。

 カウンターについた藤居を認めて、酒瓶片手に席を移ってきたのは、まさにその点で藤居の顔と名を覚えた男だった。

「やあ、君は藤居だな。こんなところで会うとは、今日の俺はついている。一人酒とはいかにも寂しい。さあ、一緒に飲もうじゃないか」

 それが廖栄讃(リャオ・ロンツァ)との出会いだった。

 栄讃はすでに酔っていたが、藤居に聞き取りやすく発音する気配りのできる男だった。それに気づいたから、藤居は席を立つことなく、会釈をして杯を持ち上げた。

 相手が軍人であることは一目でわかったが、見覚えはなかった。求めるまでもなく、栄讃は自己紹介をした。すでに軍歴三年の先輩だった。

 栄讃がよく喋るので、藤居は受け身に回って酒を舐めた。

 実は日本人のガールフレンドがいるのだという話に入り、栄讃の言葉は聞き取りづらくなった。しかし、筋はわかりやすい話で、藤居はむしろ深く相槌を打った。日本語の練習や日本文化の勉強のために藤居を利用したいという魂胆が見えた。

「孔魅は史跡を調べるために北京に来たんだ。そういう日本人は、案外多いらしい。藤居も、実はそれが狙いで東部方面軍勤務を希望したのか?」

 志望動機を聞かれ、藤居は、配属希望調査の面談と同じ答えを使った。旧来の国境をまたいで活躍する一角(ひとかど)の亜細亜連邦軍人となるためには、若いうちから祖国を離れての軍務経験が不可欠であり、そこで培われる人脈も日本では得がたいものである。日本人だからこそ、極東方面軍以外への配属が望ましい。なかでも東部方面軍轄区、つまりは中国での勤務は効果が高い。北京語を操れるようになれば、対話可能な亜細亜連邦市民が数億人増えることになる。――面接官には大いに受けが良かった。

「ふむ、よくわかった。で、本音のところはどうなんだ?」

 建前などない、と藤居は笑って否定したが、栄讃は絡んできた。女を追ってきたんじゃないのか、それとも女から逃げてきたのか、あるいは自慢の銃の腕を実弾で試したくて日本を出たのではないのか。日本ではテロリスト相手でもなかなか発砲が許されないと聞くぞ、と。

「俺は人を撃ちたいわけじゃない」

 軽くいなすつもりが、出てきた声は存外に険しいものになって、藤居は自分が頭に来ていること、酔いがだいぶ回ったことを自覚した。

 栄讃が椅子を倒して立ち上がった。充血した目が、暗めの店の照明よりもよほど強い光を放つ。これは喧嘩だな、と藤居は思い、受けて立とうと椅子を引いた。と、先に栄讃が動く。頭突きだ、と藤居は焦った。

「ゴメンナサイ!」

 日本語を使い、腰を直角まで曲げてお辞儀をし、栄讃は謝罪した。

「怒らせるつもりなかった。俺は、藤居と友達になりたい」

 大の男としては率直すぎる感情表現に、藤居の酔いは一気に醒めた。そして気づいた。藤居が酒場巡りに求めていたものは、一方的に他の客の様子を窺うような情報収集ではなく、本当はこのような感情のぶつけ合いだったのだと。

 藤居は自分こそ悪かったと詫びを入れ、互いに酒を注ぎなおして乾杯した。それから自分の大学中退に始まりこの酒場に至るまでの経緯を、改めて栄讃に語った。面接官にも同僚にも言わなかったことばかりを。

 日本語をよく解さない栄讃は、何度も内容を聞き返してきた。最初の二、三度はレコーダーのようにそっくり同じ説明を繰り返したが、四度目からは、より平易な表現への言い換えを意識した。修辞的な内容も省いた。すると、自分の考えそのものが何やら装いを変えてしまったことに藤居は気がついた。虚飾を捨て去ってみれば、自分の信念や不満というのは、案外簡単な言葉で言い尽くせるものだった。

 自分こそ、人にものを伝えるという観点が欠如していたのかもしれない。先に酔いつぶれてしまった栄讃に肩を貸し、兵舎に向かって夜道を歩く道すがら、藤居はしみじみと自らを省みた。

 藤居は周りから疎外されているとばかり感じていた。それは決して間違いではなかったが、事実のただ一面に過ぎなかった。視点を変えてみれば、因果は瞭然としている。軍曹や他の同僚たちを批難はできない。要は自分の努力が足りなかったのだ。

 藤居は異邦人としてここへ来た。逆の立場を、中国出身の軍人が日本に赴任した場合を想像してみれば、同じことが起こったに違いないのだ。体制が大きく変わった今でも、中国国民の日本に対する感情は必ずしも良くない。所得格差、八月の悪夢における被害程度の差から来る不公平感など、不満の種はいくらでもある。日本人の多くも、中国の都市インフラ再建のために使われる亜連の予算が多すぎるだとか、しばしば理不尽な恨みをぶつけられるだとかで、良い感情を持っていない。藤居のように、市民レベルでの亜細亜連邦の融和を理想と掲げる者は、少数派なのだ。少数派は努力しなければ現況を打開できない。藤居はそれを怠っていた。少数派であることに甘んじていた。理想を夢想と自嘲していた。

 藤居と同僚との関係は徐々に雪解けに向かった。北京語もほぼ不自由なく使えるようになり、酒場巡りには同行者が増えた。藤居の下戸は変わらなかったが。

 狙撃指導の軍曹とは一度勝負をして、白黒をつけた。勝ったのは藤居である。それを契機に、藤居は軍曹から素直に技術指導を受けられるようになった。やがて藤居は北京界隈で有数の狙撃手となり、治安出動で手柄を上げた。昇進もした。

 廖栄讃とは同じ現場に出ることもあり、それ以上にプライベートでよく顔を合わせた。彼の想い人、孔魅にも紹介され、休日の都合がつけば三人で遊びに行った。栄讃と孔魅の、ゆるりとした進展を眺めるのは何よりも楽しかった。

 そんな幸せがずっと続けばよかった。せめて、藤居に転属の時が訪れるまでは。

 物事は、藤居の願望とは逆の順序で到来した。

 廖栄讃は死んだ。人質を取って籠城するテロリストを鎮圧するという任務中だった。栄讃を殺した銃弾はテロリストの撃ったものではない、と言う者がある。藤居もその任務で傷を負い、北京の軍病院に入院した。

 そこで確かに、藤居は死のうとしたのだ。自らを手にかけて。



- 8 -


「君の自殺を止めたのが、江藤博照。言わずと知れた、君の今の上官で、黒龍隊隊長」

 男はまるで、あのときあの病院にいたかのように、事実を指摘した。しかし、藤居にはこの男に横浜以前に会った記憶がない。そもそも、あの軍病院には軍人と軍属しかいなかった。九天軍と共生関係にあるなどという輩はいたはずがない。

 ――本当にそうか?

 藤居は重大な見落としに気がついた。気づいたのは自分でなく、また栄讃(ロンツァ)のおかげかもしれない。その栄讃のことを持ち出す眼前の男に、何の縁もないはずの部外者に、藤居は怒りを覚えた。

「まるで、見てきたような口ぶりだ。おまえは、軍にいたのか」

 あるいは、まだ軍に籍を持つのか。

 軍に裏切り者がいたのなら、横浜議事堂の件は簡単に説明がつく。奇蹟的なあの襲撃の成功理由をバルムンクシステムのみに求める必要はない。

 この男の言動はブラフかもしれない。人間を自在に時空跳躍可能なバルムンクシステムなど、この男は、九天軍は、使っていないのかもしれない。何か他のトリックですべてを説明できる余地が残っている。この霞ヶ浦駐屯地の襲撃についても、そうだ。再検討が必要だと藤居は認めた。

「この私が、軍にいた? それは面白い冗談だな。私は、他者を排除したうえで、この私自身の求めるところを究めんとしている。軍隊などという愚かな組織に属するものか。個人の意思や主張など封殺し、上意下達で一糸乱れぬ作戦行動を追求する……。それはたしかに効率的な一面を持つ。だが、命令に従っただけの人間は自らの思考責任を忘れ去る。指揮官の誤ちが正されることなく実行される。冷酷なまでに効率的に。それは君がよく知っていることだろう。廖(リャオ)栄讃を殺したのは誰か、今一度思い起こすがいい」

 目の前の銃口から弾が発射され、藤居の頭蓋を撃ち貫いて死に至らしめたとしても、それは拳銃の責任ではない。拳銃は何も判断をしていない。藤居を殺すのは、引き金を引くこの男。

 しかし、これが啓示軍(オフェンバーレナ)との戦いのさなかであればどうか。敵兵は命令により藤居を殺すのだ。その判断は誰のものか、本当のところは突き止めようがない。責任の所在は不明確だ。

 廖栄讃の命を奪った責任は誰が負うのか。藤居は病院のベッドで散々悩んだ。孔魅は泣きながら藤居を責めた。同じ狙撃班にいたのに、どうして栄讃への誤射を防げなかったのかと。

 責任は誰にあるか? 自分の弾でテロリストを射殺したときには気にもしなかった問題に、藤居は苛まれた。死ぬほど、悩んだのだ。江藤に救ってもらわなければ、実際、死んでいただろう。いや、ありがちな表現をとるならば、藤居祐輝はそのとき一度死んだと言ってもいい。黒龍隊の仲間が知る藤居祐輝は、生まれてまだ数年の幼子に過ぎない。

「――何がわかる。そこにいなかったおまえに!」

 子供のように感情が昂ぶり、涙が溢れるのを、藤居は抑えられなかった。

「当然、仮説に過ぎない。この私が調査した限りにおいては、そのように分析できる、というだけのことだ。本当のところがわからないから、知りたいと思う。私はそういう人間だ。だから答えてほしい。君の、他者を排除したうえでの本心を。君はなぜここに残ったか。なぜ死ぬことをやめ、軍人であり続けるか。なぜ江藤博照に従うか。君自身はいったい何を求めるか」

 いったん口を閉ざして、男は拳銃を下げる。

「この脅しにはもう意味がないな。私は君の本心を知りたい。だから君を殺すことはできない」

 藤居はそこに隙を見出し、男の手から拳銃を奪い返した。そのまま、男の顔に向ける。その顔は、笑っていた。

「君も私を殺すことはできない。君は私から情報を引き出さなければならない。本当は、この駐屯地の幹部がどうなるかなど知ったことではないのだろう。江藤博照のために有益な情報を持って帰ることが第一なのだ、君は。だから岩津中佐を逃がし、自分はここに残った。そうまでして尽くす理由は何だ? 君が生き延びたのは、君の選択だ。江藤博照が瀕死の君に奇蹟的な処置を施したわけではないのだからな」

「まず、本当の名を教えてもらおう」藤居は言葉に惑わされぬよう意識を集中した。「銃は殺すだけが能じゃない。死なない程度に傷つけることも、玄人(くろうと)には可能だ」

「聞いてどうする。名など便宜的なものだ。――こういう話は知っているだろうか。古来、本名と魂を密接に結びつけて捉える文化は、多く見受けられる。名を知ればその者を操れるといった迷信の類だよ。もちろん、非科学的だ。しかし逆説的に、名とは本来魂を記述するべきものだと捉え直すなら、私はこれには大いに賛同する。名は本人の意図によらず勝手に与えられるが、魂はそうではない。魂……、人格の素地は遺伝子にあるが、どう育てるかは本人の自由だし、その結果の責任を誰かになすることもできない。だから私は、自らに名をつけた。便宜的ではない、真に意味のある名を。今ここで君に教えるわけにはいかないが……」

「脅しじゃない」

 遮って、藤居は男の脚を撃とうとした。しかし果たせなかった。足元が地震のように激しく揺らぐ。

 壁と天井の一部が崩れるに至り、振動は収束した。粉塵交じりの風が吹き込んで来る。見ると、壁を突き破ったのは機兵の頭だった。見たことない形。首の向きから推定すれば、仰向けに倒れている恰好になる。

「サチめ、てこずっているな」

 まるで子供の将棋でも観戦しているような気楽さで、男の目はなお笑っている。建材の破片が切創を残しているのに、そこに滲む血を気にする様子もない。

 見知らぬ機兵が身じろぎし、再び壁を崩しながら立ち上がる。すると、開いた風穴から外が見えた。こちらに機体正面を向けた角龍(ジャオロン)がいる。今の機兵と格闘戦をやっているらしい。角龍を起動できるのは、藤居の他には群山しかいない。連絡できなかったが、事態を早期に把握して、対応してくれたのだ。

「サチ、聞こえるか。君のプランを実行していい。今そいつに乗っているのは、間違いなく群山信(まこと)だ」

 男はやはり喉や内耳に通信インプラントを仕込んでいるようだった。通信相手は、角龍と対峙する機兵のパイロットだろう。バルムンクフィールドを通過しなければならないから、電波で直接届けているのではなく、どこかを中継しているに違いない。しかし藤居が最も気になったのは通信手段でも通信相手でもなく、伝えた内容だった。角龍に群山が乗っていることを確認したからといって、何ができるというのか……。

 変化は如実に表れた。刀を手にした敵機が近付いているというのに、角龍は牽制も退避もせず、ただ佇立(ちょりつ)している。ついさっき、その機兵をこの建物に突き飛ばしたのは角龍に違いないはずだが。

「何をした」

「まあ、見ているといい。感動的だよ」

「答えろ」

 藤居は改めて拳銃を構える。威嚇に留めず発砲しようとしたが、男は素直に口を開いた。

「黒龍隊には特殊な人間が集められている。江藤博照は自分でスタッフを選んだつもりになっているかもしないが、それは半分、間違いだ。その特殊なメンバー個々の都合というものを、この私はよくよく分析したうえで、ここに臨んでいる。今私が指示したのは、群山信のためだけに用意された作戦の実行だ。彼にしか通用しない。反面、彼に対する効果は絶大だ。――ほら、あの通りに」

 男の指し示した先で、あろうことか、角龍がコクピットハッチを開放した。それだけではない。ハッチを足場にして、群山が姿を表す。両手を上げて。

「馬鹿な。群山、何をしている! 円道、群山を止めろ!」

 通信機を取り上げられた今、叫んでもほぼ無駄だと分かっていても、そうせずにはいられなかった。その横で、男が冷ややかに言い放つ。

「角龍は頂くよ。九頭竜の完成のために、あの機体は極めて有用だ。安心したまえ、パイロットには手出ししない」

 しかし藤居はそう甘くはなかった。ここで男を動けないようにし、そのうえで、角龍のもとまで駆けつけて群山の行動を阻止すれば、彼らの思い通りにはならない。組み立てた予定を即時実行に移す。

 銃声が響いた。

 藤居は呻いた。撃つより先に、撃たれた。上体をそらしてよけたが、耳の上にかすり傷を負った。熱い痛みでそれがわかる。

 撃ったのは覆面の女だった。安と岩津を追ったはずだが、男の危機を察知して戻ったらしい。藤居が通信端末でそうしたように、男もインプラントを通じてSOSを発信したのかもしれない。

「銃を捨てなさい」

 女が言った。刺し違えることはできると藤居は踏んだが、その道は選ばなかった。ここで捨てるべきは、命ではない。

 藤居の放った銃が床に転がる。女は覆面を指でつまんで首元に下ろし、素顔で、男のほうを見た。

「大丈夫?」

「ああ。サチも問題ない」

 女は角龍とそれに迫る機兵の様子を見て、頷いた。

「ご対面というわけね」

「憧れるかい?」

「そうね。でも、私はまだいい」

 ――群山の知人が乗っているというのか、あの機兵に。

 藤居は久留のことを思い起こしたが、久留では、群山にだけ効果があるという制約条件に合致しない。

 群山は、相手の機兵に向かって、何か話しかけている。藤居の位置から数十メートルの距離で、口の動きがあるのはなんとか見て取れるが、声を拾うには遠すぎる。ただ、人質を盾に武装解除を命じられた、という様子でないのはわかる。群山は自らの意思で武装を解除した。そのように見える。

 角龍のコクピットの奥から、円道が出てきた。群山をコクピットに引き戻そうとするが、群山はそれを乱暴に振り払う。バランスを失った円道は、あわや足場を踏み外し、七メートル下に落下しそうになる。群山はそれに気づくことなく、正面を、正体不明の機兵のほうばかりを見ていた。円道は自力でハッチの端を掴み、落下を免れる。藤居はいつの間にか止めていた息を再開した。

「君はどうしたい」

 男の問いかけは、肩を寄せる女のほうではなく、藤居に向けられていた。

「群山信は、角龍を我々に明け渡そうとしている。彼自身の思惑によってだ。君は、どうする。ここで黙って見ているのか。角龍を自爆でもさせるか。――もしそのような機能があるのなら、だが」

 無論、他のあらゆる亜連製機兵と同様に、角龍には自爆機能など搭載されていない。藤居の知る限りは。円道が群山を止められない以上、今この状況を観測している自分こそが、やらねばならない。

 ――しかし、どうやって。

 藤居が奥歯を噛み締めた、そのときだった。外と通じた壁の穴から、人影が飛び込んできたのは。

 人が空を飛んだのではなかった。ロープを掴んで空中に身を投じ、自分自身を振り子としたその人物は、軌跡の最下点で拘束を解除し、水平投射された自分の体の運動量を武器にして、男女に突っ込んだ。

 女が男を突き飛ばし、女自身も華麗に後転を決めて、その肉弾を回避した。見事に躱され、床をごろごろと転がった肉弾は、目を回しながら立ち上がった。それは藤居のよく知る男だった。安文俊よりも余程よく知っている。ここに来るという話は聞いていなかったものの、見違えようがないのだから、疑いはない。

「うう、この峰國(フェングォ)さまのターザンキックを受けて立っていられるとは、只者じゃないな」

 藤居以外の二人もさすがにどこから突っ込んでいいのか当惑した顔だったが、やがて女がふき出した。

「逃げたと思ったら、今度は自分から飛び込んでくるなんてね。面白いじゃない」

 女が峰國に銃を向ける。が、狙いを定める間もなく、それは女の手から撥ね飛ばされた。峰國が先に撃ったのだ。自分よりも鮮やかだったかもしれないと、藤居は密かに感嘆した。

「兵法三十六計を勉強すると、わかると思うよ」

 にやにやと笑ったまま、峰國は横目で藤居を一瞥する。

「行ってください、藤居さん。群山が決定的に変なことをしちゃう前に」

「李少尉、あなたが直接行けばいい」

「んなこと言ってないで、早く。円道が泣いちゃいますよ」

 峰國が一瞬だけ視線を合わせ、ウインクする。藤居は逡巡し、結局、捨てた拳銃を拾って走り出した。廊下に出るのではなく、崩れた壁のほうから、足場を見つけて降りていく。



- 9 -


 藤居を見送った峰國(フェングォ)は、拳銃の先にいる一組の男女をどうしたものかと考えていた。

 女のほうの覆面が取れたので、年齢はだいたい読めるようになった。おそらく四十前後。顔つきと話し方からして二人とも日本人。心身ともによく訓練されているようだが、軍人の臭いはしない。

 具(つぶさ)に観察しても答えが決まらないので、峰國は、当事者に聞いてみることにした。

「さて、どうしよう。投降してもらえるのかな。それとも、ここで殺し合いをする?」

「弾がもう残っていないのはわかっているんだけど」

 女に図星を指されて、峰國は苦笑する。

「問答無用で射殺しておいたほうが良かったかなあ。ま、それだと竜時や藤居さんに嫌われちゃうから、やめといたんだけどね」

 そう、後悔はしていない。リスクは承知の上での選択だった。

「命を賭けるなんて馬鹿馬鹿しいけど、君とはちょっと勝負してみたくなった。いいでしょ、あなた」

「君は、言い出したら聞かないものな。いいよ、ただし、殺さない程度にね。この私も彼とは話がある」

「わかってる。昨日だってちゃんと手加減したでしょ? ――そこの君も、異存ないよね」

「投降してくれればいいのに。面倒くさいなあ」

 拳銃をくるくる回して弄びながら、峰國はわざとらしく溜息をつく。

「挑発のつもり? 悪いけど、そういう心理戦は効かない。彼の手に入れたデータを見る限り、君は私には敵(かな)わない。けど、どうやら一、二割は可能性があるみたいだから、チャンスをあげる。君はそういう立場を謙虚に自覚しなさい」

「いやいや、わからないぞ」峰國は拳銃で遊ぶのをやめてホルダに戻す。「実はこれまで手加減してたんだ。本気出したら強いかも」

「よく言うものね」

「これ以上は言っても無駄みたいだ。じゃあ行くよ、おばさん」

「それは挑発と受け取った!」

 女は腰に挿していたトンファーを引き抜き、構えるが早いか挑みかかってきた。

 ――トンファーを構えたのはフェイント。本命は蹴りだ。

 足運びから峰國が読んだ流れは的中した。受けるか、躱すか、それが問題だった。猶予はわずか数刹那(せつな)。

 峰國は女の脚が持ち上がるのにタイミングを合わせ、それを下から掬うように蹴り上げた。運動量を受け止めるようなヘマはやらない。斜めに逃がして、間合いの詰まった相手の頭へ肘を入れる。

 浅かった。よろめいたかに見えた女は、トンファーを捨てて峰國の袖を掴むと、鮮やかに投げの体勢を作る。抗する間もなく体が宙に浮く。しかし峰國は慌てなかった。相手がこちらの腕を掴んでいるうちは、互いに手出しはできないのだ。受け身さえきちんと取れれば問題ない。――いや、待てよ、と峰國はにわかに焦る。空中で手を離されたら話は別だ。これは競技ではなく、実戦なのだから。

 杞憂だった。女は型通りに投げを完遂した。しかし、その先は競技通りではない。技あり、一本、の一声で状況が停止するわけではないのだ。案の定、眼前に女の拳が迫る。峰國は器用に首をひねり、耳元で風音を聞く。顔を潰されるところだった。

 女の腹に膝蹴りを入れ、峰國は不利なポジションから脱出する。体勢を立て直そうとする女の額に頭突きを食らわせ、ガードの外れた首に喉輪をかまし、床に倒したところで鳩尾(みぞおち)に拳を叩き込んだ。これで戦意もしくは意識を喪失しなければ次は脳を収める頭を攻めるつもりだったが、そのとき浮かんだ女の苦悶の表情が、峰國の闘争心をにわかに鈍らせた。

 ――似ている。

 誰にだろう、と考えてしまったその隙に、峰國は股間を蹴り上げられた。ガードしそこねた。アウチの悲鳴も出ない。反撃を回避しようと転げて逃げるが、機敏さが足りない。

 立ち上がった女が、跳び箱の踏切板を踏むような勢いで、峰國の腹を踏みつける。金的のダメージから回復していない峰國は、かわすことも、腹筋で防御することもできなかった。臓腑の集団家出未遂事件が発生し、峰國はその場にのびた。

「誰か来る」

 男の声がやけに遠くに聞こえたが、峰國は意識を保っていた。

「駐屯地の人間ではないな。手こずりすぎたというつもりはなかったが、援軍が来てしまった事実は無視できない。撤収だ」

「このパイロットは?」

「私は負ぶわないぞ」

「私だって御免よ。引きずるのも」

「では、置いて行こう」

 どうして殺そうとしないのか、峰國には解せなかった。考えているうちに足音は遠ざかり、やがて、別の足音が近づいてきた。こちらも一組の男女。

「生きているか」

 聞き慣れない男の声。

「気絶すらしていません」

 峰國の顔を覗き込んだ小柄の女が、即座に断言する。憐れみは一切感じない。

「立て。死んだふりの必要はない。我々は味方だ」

 命じたのは女のほうだった。同じ女でも、さっきの相手よりずいぶん歳若い。娘と言っていいだろう。しかし、場慣れから来ているであろう冷酷さがある。金的の痛みはまだ残っているのだが、それを訴えても通じないだろうと断念する。黙っていると脇腹を蹴られかねない脅威を覚えたので、峰國は言われたとおり立ち上がった。野戦服に身を包み、拳銃や小銃で武装した男女が、峰國をじっと見ている。

「やあ、どうも」峰國はラフに敬礼。「俺の味方って言うけど、何を根拠にそう判断するの? 俺が何者かわかってる?」

「黒龍隊の機兵パイロット、李(リー)峰國少尉」

 これにも女のほうが答えた。ふむ、と峰國は頷く。軍装を見境なく味方と判断しているのではないらしい。服の刺繍(ししゅう)の委細を読み取れば、峰國の名と階級を知ることはできるが、発音まではわかるはずがない。こちらを探していた、というところだろう。

「私は」

 男のほうがようやく自己紹介できるとばかりに口を開いたが、峰國は先を制した。

「紫龍隊隊長、茨木大尉でしょ。お初にお目にかかります」

 茨木はきまり悪そうに頷き、その横で、女の目が険しくなる。若いなあ、と峰國は思った。男の方は、自分より年上、江藤と同い年だったが。

「話が早そうでなによりだ」茨木は咳払いをして言った。「岩津中佐と安准尉は私の部下がサポートしている。今頃は人質救出作戦を開始しているはずだ」

「それは頼もしいですね。でも、角龍のほうはどうしてくれるんですか。奴らはどうも、あの機兵を欲しがっているらしいんですが」

 途中で何があったかわからないが、外では、角龍と蛟(チャオ)とが戦闘を再開している。あいかわらず火器は使っていない。

「わかっている。藤居には援護が必要だ。そちらは手を打ってある。君には、私たちを手伝ってほしい」

「ラジャ。人質のほうですか」

「いや、人質は九天軍が目的達成のために選んだ手段に過ぎない。我々は目的そのものを奪う。オルロフと呼ばれる物だ。黒龍隊は、そこの名称を認識しているか?」

 峰國が首を横に振ると、茨木は苦々しげに呟いた。

「江藤め、それでは駄目だ。――説明は必ずする。だが、今は時間がない。協力してくれるか」

「ラジャ、と申し上げましたよ」

「良い返事だ」

 峰國は茨木たちとともに部屋を出る。秘密の明かされるときは近い、と予感しながら。



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 藤居は手前の機兵の脇をすり抜け、角龍(ジャオロン)の足元に至った。コクピットから出ていた群山は、藤居が到着する前に奥へ戻ってしまい、何を会話していたのかはわからない。

 相手の機兵も、機体の鳩尾あたりにあるコクピットハッチを開けていた。いかついHMDを装着中のパイロットが見えていたが、藤居が横目で見ているうちにハッチは閉じられてしまった。一方、角龍のハッチは開放されたままである。それは未だ群山を止める必要があることを藤居に教えている。

「群山、何があった! 相手は敵ではないということか!?」

 通信機を奪われた藤居は、叫ぶしかない。

 返事はなかったが、角龍には動きがあった。佇立から降着姿勢に移行。群山の顔が辛うじて覗けるようになる。対峙する機兵は、それをただ見守るばかり。こちらは降着姿勢を取る様子がない。跪(ひざまず)かせている、という印象を藤居は受けた。

 藤居は角龍の機体をよじ登った。声が聞こえてくる。ふたりの言い争う声が。

「降りないって言ってるでしょ。あんたこそ、降りなさい。でも、敵前逃亡よ。覚悟しなさい」

「知ったことか。もう、軍に縛られる理由もない。降りろ」

「痛いっ。髪を引っ張るな、このバカ、シスコン!」

「シスコン? どういうことだ」

 藤居は、円道をコクピットの後部席から引きずりだそうとしている群山の肩に手を置いて、尋ねた。円道が、続いて群山が、藤居を見る。

「姉が帰ってきたんです。もう軍にいる理由はなくなった。俺は抜けますよ。命を賭けるには値しない場所だ」

 淀みなく語る群山の目に、狂気は感じられない。しかし、自他共に気づかぬまま狂っていたという、暖炉の谷での経験が思い出される。群山は何らかの幻惑にかかっていると藤居は疑った。フラッシュバックの一種かもしれない。群山とは、暖炉の谷の中心近くでともにぎりぎりまで戦った。

「その手を放せ、群山軍曹。君が降りるというのなら、そうすればいい。ただし一人でだ。角龍は軍の財産だ。私物化は許されない」

「許すも許さないも、関係ない。俺は自分がそうしたいから、そうするだけです。干渉は受けません」

 群山が円道の髪を放し、別の物を手にする。円道の悲鳴。藤居はそれより先に動作を完了していた。

「君が降りるんだ、群山信。誰の干渉も受けないなんて、そんなことは不可能だ。生きている限り。どうしても不可能を求めるなら、君に選べる道はひとつしかない」

「正気ですか、藤居さん。味方に銃を向けるなんて」

「敵か味方か、それは俺自身が判断する。君は今、俺の味方としての立場を放棄したんだ。俺は敵を撃つのにためらわない」

「なるほど。聞いていますよ、噂は。あんたは中国で味方を狙撃した。そのときも同じように言ったんだろう。都合の悪い相手は、敵なんだ」

「違う」

「いや、正しいんじゃないですか。俺は賛同します。だから、俺と姉さんの再会を邪魔する准尉は、俺の敵なんです。――姉さん、頼むよ」

 それがうわ言でないことは、背後の駆動音でわかった。敵の機兵が刀の切っ先をゆっくりと近づけてくる。藤居だけを狙い澄まして。

 円道が何かを叫んだ。藤居の体まで数十センチに迫った切っ先が、動きを止める。

 敵機の胴体に赤いレーザーが照射されている。照準用レーザー。機兵が飛びのき、レーザーの発振源を振り返った。藤居の目もそれを追う。

 敷地内の倉庫のひとつから、龍(ロン)が半身を覗かせていた。火縄の狙いを保ったまま、全身を陽のもとに晒す。標準の型ではないとわかる。藤居の知らない派生型だった。

「わわっ」

 群山が悲鳴を上げて、ハッチの足場から落下した。円道が突き落としたのだ。藤居も群山に体勢を乱されて落ちるところだったが、その手を円道が捕まえる。

「中に」

「ああ」

 落ちた群山は見ず、藤居は角龍の座席について、ハッチを閉じた。表示灯の幾つかがエラーを示している。藤居は生体認証が完了すると直ちに緊急(エマージェンシー)を宣言し、休止態勢(スタンバイモード)になっていた機体を、戦闘態勢(コンバットモード)にシフトチェンジした。バックグラウンドで処理されていた情報が一気にディスプレイに流れこみ、万華鏡のように彩りを変える。

「あれは何だ」

 正面の機兵の情報は、角龍のデータバンクにも登録されていない。

「不明です。影龍(インロン)と似ていますけど、多分……」

「ああ、彼らではない」

 江藤は、フェアバンテと名乗る彼らを信用していた。何か通じるところを感じたようだった。その彼らが、九天軍と組んでこんなことを仕掛けるはずはない。

 目の前の機兵は、彼らが脱走時に残したデータなり試作機なりをもとに、開発が続けられたものだろう。その存在は、藤居の権限では知ることができなかった。そんな闇が、亜細亜連邦軍にはいくらでもある。

 影龍もどきと、加勢してくれるらしい龍とが睨み合っている。角龍の足元で群山が退避するのをカメラが捉えた。火器管制システムからの攻撃提案を、藤居は却下する。

「円道軍曹、角龍の異常について手短に頼む」

「はい。火器管制システムが仮想現実での演習実行中として欺瞞されています。火縄を撃てません。それと、戦場管制システムが暴走しています。外部ネットワークに進出して、何かのコマンドを送り続けています。内容までは追えていません。――すみません」

「いい、だいたい把握できた」

 あの男は九頭竜なるバルムンクシステム完成のために角龍を欲しがっていたが、角龍はもう、半ば占領されていたのだ。予め何かを仕込まれていたとしか考えられない。フェイジアインダストリーズにも内通者がいたのかもしれない。

「藤居准尉、龍から情報受信しています。デコードしますか」

「罠……だとしても、もうかかっているな。頼む」

 情報が視覚化されてディスプレイ上に展開される。

「情報登録。音声返信、レーザー、行けるか」

「今なら」

「よし。――こちら藤居、任務了解」

 影龍もどきの識別表示が、「蛟(チャオ)」という名に変更される。また、龍のほうは「龍・健児(コンデイ)型」と修正された。

 パイロットの署名も添えられていた。尹慶珠(ユン・キョンジュ)。すでに会ったことのある人物だった。藤居は彼女から九天軍の襲撃を警告されたのだ。霞ヶ浦駐屯地で龍の操縦訓練を受けていたが、尹の元々の所属は、紫龍隊である。恩師、茨木が率いる独立機兵部隊。茨木自身もここに来ている。しかしすぐには出てこられないと、尹は言っていた。彼女が龍に乗り込んだということは、おそらく、その時が来たのだ。

 龍・健児型が火縄を発砲した。仮想ではない。蛟は被弾し、膝をついた。藤居はそれに背を向け、角龍を跳躍させる。

「どこへ行くんです」

「駐屯地の通信設備だ。外部ネットワークを物理的に遮断する」

「無駄です。戦場管制システムは既存の通信技術をすべて駆使してコマンドを送り続けます。電話回線一本でも残っていれば、どこかに基地局を作って悪さを続けるんです。逃げるのなら、敵が全然来ないところへ。そこで角龍の基板を破壊すれば、諸悪の根源を潰せますから」

「駄目だ。角龍を猿之門に持ち帰るのが俺達の任務だ。基板を壊せばメーカー修理になる。任務を果たせない」

「あなたはどこまで江藤信者なんですか!」

 円道の絶叫に、藤居は笑って答えた。

「命を救われれば、信じもするさ」

 何度かの跳躍を重ねて、角龍はアンテナ群の前に着地した。火縄は相変わらず仮想現実上での発砲しかできない。藤居は避難勧告を外部音声出力しつつ、低いものは踏み潰し、細いものは握り潰し、太いものは機体全体で押し倒して、徹底的に破壊する。

 もちろん、対象は地上構造物だけではない。地下埋設のインフラもすべて遮断する必要がある。藤居は角龍のバルムンクフィールドを最大展開させ、そこを横切る電波なり光なりといった信号によるフィールドへの干渉を目印に、共同溝が浅くなっている位置を探りだす。そして、脚部マスディフューザを片足だけ敢えて停止させ、拡散されていない本来の機兵の接地圧を以てして、共同溝の直上の地面を踏み抜いた。一度では届かなかったので、何度も何度も踏みにじる。かつて父が、庭で毒虫を見つけたときにやっていたように。

 藤居の父は頼りない男だった。一家の主と呼べる器ではなかった。しかし責任感だけは持っていて、現実とのギャップに苦しんでいたのは間違いない。だから、藤居が家に一言の相談もなく大学を中退したときも、父がありもしない威厳を背負って叱ろうとするのをただ冷ややかに聞き流していたのだ。どんなに怒らせても、ビンタひとつ張れない男だった。彼が踏みにじれるのは毒虫くらいだった。

 近くに住まう祖父がいけなかったのだろう。祖父は遊び好きの人間だったが、こと責任に関しては厳格だった。無責任なことはしないし、他人にも許さない。家族には特にその目が厳しかった。とりわけ長子である父には。父はずっと監視されていた。祖父にその気はなかったにしても、父からしてみればそうだったろう。

 藤居は、父のようにはなるまいと心に決めていた。誰かの期待など知ったことではない。自分の思うがまま生きればいいと思っていた。放蕩息子を自認して憚(はばか)らなかった。軍隊に入って、中国に赴任するなど、難しいことではなかった。血縁のしがらみを遠ざけられるという解放感すらあった。

 しかし、代々の責任感を藤居はしっかりと受け継いでいた。日本の優れた薬をもっと世界に広く普及させたい、そのためにはまず各地の空気を吸わねばならないと栄讃(ロンツァ)に理想を語ったとき、結局それは皆の期待に忠実であろうとする態度ではないかと指摘された。それも滞在費を自分で稼いでいて、少額ながら親に仕送りすらしている。立派な志だと栄讃は賞賛したが、藤居は父に似ていると言われたようで素直に喜べなかった。ただ、嫌なだけではないのも確かで、これが血なのかと慄(おのの)いた記憶がある。

 藤居が自分の責任感の問題と究極的に向き合ったのは、それより数年あとのことだった。それは、廖(リャオ)栄讃が任務中に命を落したあとであり、そして、江藤博照と出会う前のことになる。藤居はその時、病院のベッドの上で、いかにして死ぬべきかを考えていた。



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 北京(ペキン)の軍病院は建て替えられたばかりの高層ビルだったが、見晴らしの良さそうなその屋上に、入院患者は出入りを許されていなかった。医師や看護士、清掃員は問題ないのだというから、つまりは自殺防止措置なのだった。過酷に使役されるインターンがこの病院にいれば、きっと彼らも出入り禁止の対象となったはずだ。

 しかし、なにも屋上からでなければ飛び降り自殺できないわけではない。高校物理で、自由落下とは言っても大気中では空気抵抗があるため、途中で加速が止まり、あとは一定速度で落下するのだと習った覚えがある。終端速度という名前だった。自殺のときは差し詰め終末速度か。なんにせよ、死ぬのに必要な高さはたかが知れている。

 藤居の病室は十二階。実験も事例調査もしていないが、おそらく条件はクリアしている。窓は数センチの隙間しか開けられない構造になっているが、構造は、壊せばいい。要は、設計強度を超える力を加える手段を藤居が持ち合わせない、というのが問題だった。何か、バールのようなものがあればいいのだが。

 面会に来てくれるのは軍人だけだった。家族や友人が気軽に面会できるのは低層階の病室だけらしい。十二階は低層階の扱いではなく、藤居を見舞うのは部隊の仲間くらいのものだった。あとは、同じ任務で怪我をした者の行き来があったが、動ける者は藤居を残して皆退院してしまった。家族は縁を切ったようなもので、藤居が負傷したことも知らないだろう。医師と看護士以外に、藤居の普段の話し相手はいない。バールのようなものを差し入れてもらうのは、どうも難しそうであった。

 首を締めたり、濡れた布を口に押し当てたりといった処方は、やはり生存本能が邪魔をするのでうまくいかなかった。失血死に十分な深さの切創を作れる刃物も見当たらない。一度踏ん切ったらあとは自動的に死ぬ、自分の力では引き返せない、という処方が必要だが、医師はその問題を解決してくれないと分かっていた。相談したら最後、別の病棟に移されて、面倒なことになる。

 軍病院は優秀だった。これでは自殺できない。自分のような半端者には。藤居は今日も溜息とともに外を眺める。

 つまらない景色だった。なにしろ軍病院は軍の基地施設内に建っている。亜細亜連邦軍設立後に大改築された北京中央基地には、東部方面統幕本部を皮切りに、多数の司令施設を収めた十階程度のビルがざらにある。藤居の病室からは殆ど軍の建物と空しか見えない。上層階なら繁華街も見渡せるようだが、そこは将校たちのために用意された領域だった。例外となるのは、やはり屋上だろう。将校といえども屋上には出られない。病人である限り。

 包帯巻きの額を分厚い窓に押し当てて、見るともなく外を見下ろしていた藤居の視界に、ふっと影が差した。基地上空を飛行機が通ることはないが、鳥が日光を遮ることはままある。しかしそれは一瞬のことだ。今日の影は覆いかぶさったまま消えようとしない。一天俄(にわか)に掻き曇ったか、と藤居が顔を上げると、目の前に人間の足があった。ぷらぷらと揺れる二本の足が。藤居は悲鳴を上げて、ベッドに尻餅をつく。

 ガツガツ、と窓を叩く音がして、足が視界から消えた。代わりに、逆さ吊りの成人男性の頭から太腿(ふともも)までが出現する。獣のように吼(ほ)えながら手をばたつかせている。

 特筆すべきはそればかりでなく、熊のような大男である点、より正確には冬眠前の雄熊の体格を有している点も漏らせない。そして、包帯。暴れてはだけた作業服の隙間から、胴体に巻いた包帯が覗いている。猟師に鉄砲で撃たれたか、といった具合。あるいは、任侠映画で山場に息絶える、ボスの右腕といったところ。

 目は、それくらいの迫力がある。血走った目。それが藤居を捉えた。

 藤居は再度悲鳴を上げたが、もう下がるところがなかった。何かの救いを求めてさまよった手が掴んだのは、看護士へと繋がるコールボタンだった。

 説明するうちに、藤居は徐々に冷静さを取り戻した。これはホラーではなくアクション、もしくはコメディのシーンである。そう理解さえすれば、もう恐ろしくはない。

 藤居が看護士に状況を説明しなおすと、向こうでベテラン看護士の声がして、了解したので安心していいとの頼もしいお言葉を頂いた。

 それから何分、逆さ吊りの熊を見上げていただろうか。いい加減見飽きた頃に、上からもう一本ロープが降ってきた。男が四苦八苦してそれを体に巻きつけると、まるでハムの製造中のような有様になったが、ともかくその肉塊はロープの巻き上げによって上昇していき、藤居の病室の窓からは見えなくなった。

 藤居はしばらく窓を注視していたが、特大ハムが落下して来ることはなかった。落ちては来なかったが、歩いて来た。藤居の病室まで。

「お、いたな、いたな。元気か、若いの。さっきは助けを呼んでくれて助かったぞ。――あ、これは土産な。いや、お見舞いだ」

 体格に比例した声を張り上げて――普通に話しているつもりのようだが――男は病室に踏み込んで来る。持参したのはまさかのアダルトビデオだった。手渡されても、困る。看護士は半分以上が女性なのだ。若いという条件をつけて篩にかけても、三割は切らない。

「どういうつもりですか」

「命の恩人に、恩返しのつもりだ」

 男はそばの回転椅子を引き寄せて、座る。藤居はその椅子がギィと鳴るのを初めて耳にした。

「受け取れませんよ。ここでいつ見ろって言うんです。再生機もない。士官用の部屋とは違うんです」

「では、それも今度差し入れよう」

 そう言ってのける大男は、今は清掃用らしい作業服を着ているが、どうやら士官のようである。態度で、見分けが付く。藤居は士官に対する不信感から、ありがたいはずの申し出を断ることにした。

「いえ、結構です。たいしたことはしていません」

「俺の命はそんなに軽いか」

 大男が眉間に皺を寄せると、結構な凄みになった。藤居はたじろぐ。

「いえ……。命の重みは、誰だって一緒でしょう。体重には関係ない」

「誰がデブだ、ムキー!」

 妙なノリに対応しかねて、藤居は、渡されたアダルトビデオに目を落とす。肩まで届く茶髪の女の子が、胸と股間を強調した扇情的なポーズでパッケージを飾っている。眠らせていた衝動には劇的な目覚まし効果のはずだったが、自分でも意外なほど、それは中途半端な覚醒に終わった。直立して人前を歩いても問題ない。

 黒髪のほうが、いい。髪型もボブカットのほうが好みだ。パッケージの子は十分に美人で、スタイルも良かったが、そこが今ひとつ掻き立てられない原因らしいと藤居は気づいた。自分が女性の髪にフェティシズムを抱いているとは無自覚だった。そういえば今まで好きになった相手は皆、そんな髪の色、形であった。もちろんお洒落な女の子はしばしば髪を弄るので、ずっとそんな色形であったわけではない。それゆえに今まで自覚していなかったのだが、たぶん好きになった瞬間は皆、黒髪のボブカット、もしくはその亜種だったように思われる。――孔魅も一時期ボブカットだった。シャンプーのCMに出演できそうな、艶やかな黒だった。

 藤居はアダルトビデオをベッドに放り、包帯越しに額を押さえた。

 孔魅は廖栄讃(リャオ・ロンツァ)の彼女だった。お似合いだった。自分はそれを眺めているのが好きだった。それだけのはずだったが、いつしか藤居は、ひとりで孔魅に会うのを意図して避けている自分に気がついた。背徳感がそうさせたのだ。自分が親友を裏切りそうなのが怖かった。

 栄讃は言葉の壁による孔魅との距離に焦りを感じていた。日本人同士のふたりが仲良くなりすぎることを、誰よりも警戒したのは栄讃だったに違いない。それなのに、栄讃が藤居に対して彼女との接触を制限するような言動は一度もなかった。そういう彼だからこそ好ましく思ったのは、藤居だけではない、孔魅も同じだった。孔魅の気持ちが栄讃に固定されていることは明らかだった。――そう自分に言い聞かせていただけかもしれないと疑い出すと、藤居はどうしようもなくなる。

 どうして栄讃を死なせたのだと彼女に泣きつかれたとき、その背中に手を回したくなった自分の気持ちは、どういう類のものだったか。それを考えるたびに、藤居は自分に罰が必要だと強く感じる。こんな額の切り傷などでは到底足りない。

「どうした、傷が痛むのか」

「いえ、大丈夫です」

 むしろ、もっとこの傷が痛めばいいのにと、藤居は思う。藤居の生存本能など無視して、何の反抗も受け付けず命を奪ってくれるくらいの深い傷が欲しかった。

「あなたは何をしていたんですか」

 士官が高層ビルの窓掃除など普通はしない。体に包帯を巻いていることからして、この大男も入院患者だと考えるのが自然だが、しかし入院患者ならなおのこと、窓掃除などしない。病院が許すまい。

「窓掃除だ」

「どちらかと言うと、汚したんじゃないでしょうか」

 藤居は窓に目をやった。男がもがいて、手や露出した下腹をぶつけた痕跡が残っている。使用後の中華鍋をキッチンペーパーで拭って、窓になすりつけたようだった。後始末が大変だろう。

「まあ、不測の事態で残念な結果にはなったが。失敗を期して始めたわけではない」

「そうでしょうね。しかし、どうして窓掃除なんて。病室を覗く趣味でも?」

「他人のプライベートなど、知ったことか。これには話せば長い事情があってだな……」

 それから長く続いた大男の話を要約すると、訓練中につまらない悪戯で上官を驚かして怒りを買い、百叩きにあったうえ、この病院の窓拭きという罰を食らった、ということだった。もちろん、半分も信じられない。それでも相槌は打った。

「しかし、途中で支えのロープが一本切れてしまってな、あの有様だ。助かったぞ。落ちたら周りに大迷惑だった。知っているか、飛び降り自殺は後始末が結構大変なんだぞ」

 藤居はどくんと跳ねた自分の心臓を押さえ、落ち着ける。まさか自分の心が読まれたわけではあるまい。病院で受けそうなブラックジョークをかましたつもりでいるのだ、この巨大な肥満漢は。

 男の腕時計が電子音を鳴らした。アラームだろう。

「おっと、いかん。いや、行く。もう行く」

 慌ただしく立ち上がり、踵を返そうとした男に、藤居は待ったをかけた。

「これ、お返ししますよ」

 見るあてのない、見てもおそらく気分が乗りきらない、アダルトビデオ。

「なんだ、趣味じゃないのか? どんなのがいいか、言ってみろ。洋物でもアニメでもいいぞ。最新の3Dがいいか? 何でも用意してくる。再生機もセットでだ」

「いえ、いりませんが。また来るんですか?」

「窓拭きが、だいぶ残っているからな」

 決め台詞のように呟くと、自分でそれに酔ったような横顔を見せて、男は去った。

 何者だったのだろう。藤居はベッドに身を投げ、天井を見つめながら考えた。彼は名乗りもしなかった。妄想癖を抱えた病人ではないかという結論に至り、その日は就寝した。寝るまでそのことしか考えなかった。


*   *   *   *   *


 翌日、藤居は自殺方法の検討を半日怠ったことに気がついて、遅れを取り返すべく、改めて頭を捻ることにした。

 あの大男が肉体的な傷よりも重大な心の病を抱えているとすれば、本来、屋上には出られない。足場のない窓掃除などもってのほかだろう。入院患者であっても、うまくやれば屋上に出られる可能性が出てきた。

 病院のスタッフは、昨日の今日で警戒しているだろう。しかし下見は今日からでも始めなければならない。退院まで、早くて四日。自殺をするならこの病院にいるうちがいいと藤居は決めていた。少しはメッセージとしての効果があるだろう。欧陽(オウヤン)中佐への。あの日指揮を執っていながら、何の罪にも問われていない、あの男へのメッセージだ。

 自殺スポットを求めて藤居が廊下を出歩いていると、窓の外を何かが落ちて行った。鳥にしては大きい。そして、落ちた軌跡に張り詰めたロープが残って、振れている。顔を寄せて下を覗くと、案の定、特大のハムがぶら下がっていた。

 ハムが回収されるのを見守ったあと、半時ほど時間を潰してから病室に戻ると、大男が待っていた。案外に早く解放されたらしい。病院からさんざん説教モノだと思ったのだが。

 男はベッドの上に一ダースのアダルトビデオを陳列していた。

「やめてくださいよ。迷惑です」

「なんだ、そう興奮するな」

「してませんよ」

 とはいえ、男として興味がないわけでは決してない。見るだけは見てみる。

 さまざまなジャンルからチョイスされた十二本である。藤居の基準で言えば、アブノーマルが多い。その大半は、ボール球もいいところだ。かえって気を削がれる。そしてパッケージを一瞥(いちべつ)する限り、黒髪、ボブカットの両条件を満たす品はない。

「ここじゃ見られませんから」

 やんわりと断ろうとすると、男はその言語を待ってましたとばかりに得意な顔をした。

「心配無用。再生機も用意してきた」

 登山用リュックを漁り始める大男の腕を、藤居は掴んで止める。太い腕だった。自分が幼子だった頃の、大人の腕を思い出す。あれは父の腕だったか。記憶が曖昧だ。

「遠慮するなって。おまえは、俺の命を救ったんだ。これくらいのことはさせろ」

「見返りを求めてやったわけじゃないですから」

「そう言うな。これが気にくわないのなら、別のものにしよう。何がいい。願いを叶えてやろう」

 なるほどランプの精の役が似合いそうだと藤居は思いつつ、願い事を検討した。人知れず屋上へ出る方法を知りたいのが本音だが、この男から病院に知らされては計画が頓挫する。秘密を共有するための、嘘の口実が要る。すぐには思いつかない。さしあたり時間稼ぎをしようと藤居は決めた。

「ひとまず、名前を教えてください。まだ聞いていません」

「おお。そういえば自己紹介がまだだったな。俺は江藤博照大尉だ。第四七空挺師団の所属だ」

 それで高い所での作業訓練をしていたのか、とか、体の傷は落下傘降下で失敗して百舌(もず)の早贄(はやにえ)になった痕ですか、とかいう皮肉は言わないでおいた。江藤なるこの大男は、自分が今日も滑落したことを、藤居には知られていないと思っている。それとも、そもそも恥と感じる価値観がないのか。

 藤居も、嘘の口実を頭の半分で考えながら、簡単に自己紹介をした。所属部隊を聞くと、江藤は目を円くした。

「つまるところの治安維持部隊じゃないか。俺も、昔いたことがある。違う部隊だが。最初の配属先だった。その怪我はどうした。暴徒にタコ殴りにでもされたか」

「銃創ですよ。場所が場所だからって、大事をとってこの通り、長期入院です」

 藤居は自分の額を指さして苦笑する。

「生きていてなによりだ」

 江藤は何気なく言ったのだろうが、そのフレーズは、嘘の話を考案中だった藤居の思考を停止させた。藤居がなにより大事にしていた親友、廖栄讃は、もう生きてはいない。

 本当なら孔魅にその言葉をかけて欲しかった。生きていてなにより、と。しかし藤居は孔魅に責められ、慰める役に回るしかなかった。

「――すまんな。まだ、おまえは慣れていなかったか」

 江藤は藤居の沈黙の理由を、誰か大切な仲間を失ったという事情を察した。

「しかし、慣れろ。軍人として生きるなら。殺し、殺されるのが軍人だ。いずれ誰かが命を落とす、必ずな。それはおまえの責任ではない。おまえが殺したみたいに思い悩むのは間違いだ。そんな悩み方をしても、誰も褒めてはくれんぞ」

 たしかに孔魅は褒めてはくれない。しかし、褒められるために悩んでいるわけではない。ただ胸に収めるだけではどうしようもない、爆発しそうな怒りと悲しみがあるのだ。

「戦死者が出ても、誰にも責任がないなんてこと、俺は認めたくありません」

 栄讃は独断専行で死んだのではなかった。テロリストが取った人質のなかに自分の恋人がいると知っても、栄讃はあくまで任務に忠実であろうとした。内心では命令など無視してすぐに孔魅を助けに行きたかったはずなのに。自制する彼に愚行を促した人間がいた。その人物が問題なのだ。

「上官か」

 推測を重ねて、江藤はあさっての方向を見つめた。

 上官という言葉に、藤居は欧陽中佐の顔を思い浮かべる。中佐は藤居の直接の上官ではなかったが、部隊の指揮系統を辿ると彼に行き着く。普段の訓練、任務では彼の名の承認印しか見かけない。良くも悪くも政治向きの人間なのだと同僚が言っていた。そのうち軍を辞めて政治家になるぞ、と。その欧陽中佐が珍しく部隊指揮を執ろうとしたのが、あの人質事件だった。

 テロリストが資産家の邸宅を占拠し、獄中の仲間の解放を要求して籠城に入った、そんなわかりやすい事件だった。邸宅では歴史文化の愛好家を集めたパーティが開かれており、孔魅もそこにいた。一般には立ち入りできない史跡の見学を狙っていた彼女は、そこでコネを作るあてがあったらしい。栄讃も、彼女が近々そのようなパーティに出ることは知っていた。ただ、正確な日付と場所までは知らなかったのだ。現場を包囲し、双眼鏡で邸宅内の様子を窺って、孔魅本人をそこに見つけるまでは。

 栄讃も藤居も、一刻も早く孔魅を助け出したかったが、突入命令はなかなか出なかった。パーティには地方政府に連なる要人も出席していたらしく、テロリストの要求を飲んで人質を解放させるという選択肢が長々と議論されていたのだ。言明されなかったが、そのような動きの雰囲気は現場にも伝わっていた。

 長期戦となった。先に精神を消耗しきったのはテロリストのほうだった。苛立ちを募らせた一部の男が、人質のなかの若い女性に暴行を加え始めたのだ。ホールでのことで、その様子は監視中の誰もが見ていた。

 何人かが突入を具申した。狙撃要員だった藤居は、大通りを挟んだ反対側のホテルの一室から、いつでもその狼藉(ろうぜき)者の頭を撃ち抜けるよう狙いをつけていた。命令など待っていられない気持ちだった。ホールにはまだ多くのテロリストと、彼らの毒牙に怯える女性たちがいた。そして孔魅も。

 何度問い合せても、欧陽中佐は突入も狙撃も許さなかった。要人が戦闘に巻き込まれるのをどうしても避けたいようだった。もうすぐテロリストの仲間を解放する、それまでの辛抱だと欧陽中佐は言った。

 そんな判断があるかと藤居は激昂した。自分の腕ならば、他の誰を誤射することもなく、ただ照準内の野獣だけを狙い撃てる。女性は一秒でも速く助けなければならないし、テロリストにも立ち場を思い知らせてやらねばならない。

 藤居は命令を無視して、引き金に力を込めた。窓ガラスに蜘蛛の巣状のひびが、そしてホールには血の花が広がった。成功だった。藤居はターゲットの頭だけを見事に吹き飛ばしたのだ。

 突入部隊の一部が、その嚆矢(こうし)に呼応した。テロリストも応戦する。藤居は、報復のため人質に銃を向けたテロリストを、次々と狙撃していく。やめろと叫ぶ声が聞こえる一方、援護してくれる仲間もあった。おかげでホールにいたテロリストはほどなく全滅した。

 しかし、テロリストはまだ多く残っていた。突入部隊が邸宅に踏み入った直後に、あちこちで火が放たれた。それがどちらの手によるものか藤居はわからなかった。場所を変えて援護しようと考え、無線で現況をよく確かめようとして、藤居はそれが繋がらなくなっていることに気がついた。

 バロッグだった。

 遠くで手を振る狙撃班員がいて、あちらも通じないのだと藤居は理解した。バロッグはもう辺りを包み込んでしまったのだ。

 邸宅内は大混乱に陥った。テロリストと人質、突入班とが入り乱れて動き回るなかに、藤居は栄讃の姿を発見した。怪我をした女性を火のそばから助けだそうとしている。女性は孔魅ではない。栄讃は庭まで女性を逃がすと、他の隊員に渡すまで守ることもなく、邸宅内に戻って行く。孔魅を探しているのだ。

 その背後を、ナイフ片手に忍び寄るテロリストがいた。テロリストは脱出に移りつつあったが、そのテロリストは身を守る銃を栄讃から奪い取ろうとでも考えたのだろう。孔魅を探すのに夢中の栄讃は、背後の脅威に気がついていなかった。近くに仲間は見当たらず、無線が通じないのがもどかしかった。

 藤居は再びライフルを構えた。バロッグが弾道を歪めるのはわかっていた。しかしこのままでは栄讃がやられるという焦りが、藤居に、今度もうまくやれるという自信を抱かせた。照準誤差を常より三倍大きく見積もり、栄讃には当たらないよう細心の注意を払って、発砲。

 倒れたのはテロリストでなく栄讃のほうだった。

 何が起きたのか、藤居にはわからなかった。自分が栄讃を撃ってしまったのか。それとも偶然近いタイミングで、別の弾が栄讃を貫いたのか。

 今となってはもう正確に状況を思い出せない。そこには、こうあってほしい、こうだったはずだという願望が反映されているかもしれない。藤居はもはやそれを識別することすらかなわないのだ。

 燃え盛る邸宅の中で、栄讃は死んだ。即死だっただろう、と同僚が言っていた。藤居自身は、確かめられなかった。かつて藤居に狙撃を指導した軍曹が、藤居の手からライフルを奪い、拘束したからだった。

 ――どうして栄讃を殺した。親友だったのではないのか。

 軍曹が悲しげに言った。藤居は額に銃創を負っていたが、それも軍曹に撃たれたのか、テロリストに反撃されたものか、記憶がない。自分で撃ったのかもしれない。記憶の欠落はその傷が脳にも影響しているせいだと軍医は説明した。

 事件後、藤居は軍法会議にかけられる日を病院で待ったが、待ちぼうけに終わった。噂によれば、真実を明らかにしてはまずい事情が上層部にあるようだった。欧陽中佐はテロリストの卑劣な行いを許さず狙撃を命じ、藤居はただそれに従ったというシナリオが事実として罷(まか)り通ることになった。関係者には事実上の箝口(かんこう)令が敷かれ、藤居は心の凝りを誰かにぶちまけることも禁じられてしまった。

 ――廖栄讃を死なせたのは、殺したのは、自分かもしれない。

 命令を下したのは欧陽中佐。それが今後も語られ続ける事実なら、責任は欧陽中佐にある。しかし真実は、そうではない。藤居が独断で放った弾丸によってあの状況は生み出された。たとえ栄讃の体を貫いた弾の線条痕が、藤居のライフルと一致しなかったとしても、責任は藤居にある。

「俺も上官や同僚とはよく揉めたな」

 江藤もまた回想に浸った目をして、しみじみと言った。

「てめえのやり方は気に食わんっつって、掴み合いの喧嘩だ」

「連戦連勝だったんでしょうね」

「あいにくそうもいかん。俺も通常の三倍の速度とか五倍のエネルギーゲインが山でな。六人、七人となると、さすがに勝ち目がなかった。ま、いつの世もマイノリティは虐げられる運命よ。つっても、俺はマゾじゃないから反抗をやめなかったけどな。そのうち上官たちのほうが面倒がって、俺は左遷された。いや、栄転だ、栄転」

 この男は大したものだ、と藤居は感心した。逆境をものともせず、叩かれても叩かれても、自由に生きてきたわけだ。それも、軍隊という閉鎖的な組織の中で。

 自分には耐えられないと藤居は改めて思い知る。何を頼りに、何に縋(すが)って闘えるというのだろう。決闘でもあるまいし、射撃の腕は喧嘩には役立たない。銃を使うときは誰かが死ぬときだ。たとえ法が許そうと、藤居はもう誰も殺したくない。これ以上の責任を背負えそうにない。

「閑話休題。リクエストは何だったか」

「じゃあ、黒髪のボブカットの子が出ているやつを」

 どうしてそこで違う答えが口をついて出てしまったのか、藤居にはわからなかった。すぐに発言を取り消そうとしたが、江藤はにやにやと笑みを浮かべて頷いた。もう遅い。

「期待していろ。くよくよする気もなくなるような、いいやつを差し入れる」

 江藤はこれから立ち寄る店についての思案をぶつぶつ口から漏らしながら去った。

 勘違いをされている。江藤は藤居の悩みを上官との諍いだと読み取ったようだ。しかし藤居が解決を必要としているのは、上官ではなく自分自身との向き合い方だった。攻撃を命じず事態をじりじりと悪化させた欧陽中佐よりも、最後の堰を決壊させてしまった己が憎いのだ。欧陽中佐は引き金を引いていない。銃を抱えてすらいない。栄讃が銃弾を受けて倒れたとき、銃を構えていたのは、藤居だった。それだけは確かだ。責任は因果関係の確実な者が負うべきである。

 ――やはり、自分は死ぬべきだ。

 藤居は、江藤との会話で生まれつつあった生への未練を捨てた。


*   *   *   *   *


 次に江藤が訪ねてきたとき、藤居はもう屋上へ出る方法を発見していた。あとはタイミングを待つのみだった。それまでの暇な間に、ちょうど江藤が来てくれた。

 江藤の差し入れてくれたビデオは、なかなか好みの女性がパッケージを飾っていた。案外、見る目があるのだなと藤居は感心したが、ビデオの中身を藤居が見ることはない。今夜、実行するのだから。

 幾つかの他愛もない会話の後、もはやこの男相手に何ら恥じ入るところもあるまいと、藤居は、以前ぼんやりと考えてみたことを話題にしてみた。

「変則領域っていうのは、霊的な現象だって説、聞いたことありませんか」

「ほう、どんなのか言ってみろ」

「八月の悪夢のせいで、何億という大勢の人がいっぺんに死んだでしょう。なだれ込むように。それで霊界が飽和してしまって、入りきれなかった霊たちが下界に溢れてしまった。それこそが変則現象の原因。変則領域っていうのは、つまりは心霊スポットなんだって説です。どうですか」

「前に、そんな特集記事を読んだことがあるな。エロ週刊誌だったか」

「俺は、自分で考えたんですけどね」

 変則現象が霊のしわざだとすれば、あの日藤居のライフルの弾道を歪めたのも、すでに処刑されていたテロリストたちが仲間を守るためにやったのだと位置づけられる。遊びで考えただけのことで、真面目に信じているわけではなかったが。生きてもいない、誰とも特定できない者に責任を転嫁するつもりなどない。腐っても、藤居は一家代々の性質を受け継いでいるのだった。

「八月の悪夢の始まりは、軌道上への隕石群の出現と、それらの地表付近でのエネルギー化現象だ。霊が溢れて変則領域を生んでいるのだとしたら、順序がおかしくはないか。この点はどう説明する」

 意外にも江藤が真剣な視点でコメントをくれたので、藤居はその場で考えてみた。

「これまでの死の蓄積が、ちょうどあの一九九九年八月に閾値を超えたのかもしれません。ただし、単純なトータルだとすると、いずれにせよいつかは悪夢が起きたことになりますから……。そうですね、仏教的に言えば、四十九日を迎えるまでの、現世にバッファされている霊魂の量が問題となるんでしょう」

「増えすぎた人を、神が滅ぼしにかかったわけだ」

「一神教的に考えるならそうかもしれません」

「どちらでもいいが、では現在生き延びている俺たちは、救われたのか。それとも、まだ災厄のさなかにあって、遠からず滅び行く運命なのか。それでは責め苦を負わされたようなものだ。おまえはどう思う」

「これから次第でしょう。亜細亜連邦が生まれたように、あの災厄をきっかけに世界がまとまりつつある側面もあります。もちろん、紛争も途絶えていませんが。再び後者のほうに傾くようなら、そのときは、人類は滅ぶべきなのかもしれません。これは神の加速試験かもしれない」

「せっかちな神だな。全知全能な、一神教的な神ではなさそうだ」

「江藤大尉とは良いお友だちになれそうですね」

「俺とおまえがか」

「まさか」

 滅相もない、と藤居は手を降った。

「大尉と神様がですよ」

「ふむ。会えるものなら会ってみたいものだ。変則領域を生み出した何者か……、それを神と呼ぶならば」

 話を合わせているのではなく、本気で江藤はそう願っているようだった。藤居は、当初江藤を精神面の患者と疑っていたことを思い出し、その可能性が消えたわけではないなと認識しなおした。もっとも、もう藤居には関係の無いことになる。今、楽しく会話ができるなら、江藤の話に実があろうとなかろうと、どちらでも構わない。

「おまえ、顔によらず話が面白いな」

 江藤は藤居の肩を叩いて言った。木槌で叩かれているようで、痛い。

「この病室、個室ですからね、好きに話せます。他人に聞かれていたら、そう自由には話せなかったでしょう」

 江藤にはきっと意味のない条件なのだろうと藤居は想像した。他人がどう思うかなど、気にしていないように見える。

「心置きなくエロビも見られるし」江藤が下品な笑いを浮かべる。「いい部屋だな」

「ええ……。でも、俺が個室に入れられたのは、たぶん、日本人だからですよ。昔よりは多いのでしょうが、ここではまだまだ少数派です」

 それだけではなく、事件について口外しないように、という配慮も含まれているだろうと藤居は睨んでいる。寝言であっても、あの事件の内容を漏らされるのは嫌なのだ、欧陽中佐たちは。いっそ口封じまでやってしまいたいのかもしれないが、それをやれば他の隊員たちが黙っていなくなるから、そこまでは踏み切れない。おそらくそんな匙(さじ)加減の結果として自分はこの病室に入れられたのだ。しかし彼らの思惑は外れることになる。自分の行動によって。

「少数派の隔離は、いつの世でもあったことだ」

 何に触発されたか、江藤が先輩風を吹かして語り始める。

「それは少数派の迫害が目的であることもあるし、逆に保護のためそうすることもある。昔、佐渡にトキの保護センターがあっただろう。あれはトキをいじめて楽しむための施設ではなかった。サドとは言ってもな。――あ、無理に笑うな。別にオチじゃない。が、その保護センターの柵に貂(てん)が入り込んで、トキを次々と襲った事件もあった。柵がなければトキも飛んで逃げられただろう、とは素人考えかもしれないが、ともかく、思惑とは逆の作用が働いてしまうケースは、ままあるということだ」

 藤居は、江藤の話の要点がよく掴めず、首をかしげた。

「隔離したから少数派になった、というケースもあるな」

 江藤はそう付け加えると、椅子を軋ませて立ち上がった。夕食の時間が近くなっていた。

「感想、聞かせてくれよ」

 下手なウインクをして、江藤は病室から出て行った。


*   *   *   *   *


 夕食が下げられたあと、藤居はとうとう人知れず屋上に出た。

 眼下には、基地のみならず、煌びやかな街の夜景がある。

 フェンスを越えれば、その三歩先は空。そして更にその先は黄泉路(よみじ)である。

「飛び降りるつもりなら、止めておけ、後始末が結構大変なんだぞ」

 殺風景な基地を見渡していた藤居に、そう声をかける者があった。その指摘は二度目だった。

 ふりかえると、階段を上がってきたすぐのところに、江藤がいた。照明を後光のように背負い、笑いながらこちらを見ている。

「まさかと思ったが、こっちの方向に殻を破るとはな。自殺して命を捨てるくらいなら、敵陣に突っ込んだほうがマシだとは思わんか? おまえの給料を払っている市民は、そういう仕事にこそ期待しているんだ。とかくこの世は物騒だからな」

 そう続ける江藤は、にやついていながらもどこか真剣な眼差しをしていた。

「おまえがいつどの任務で怪我をしたか、そんなことはとうに知っていた。自分を責めるな、藤居。死ぬには早い」

 どうりで、足繁くやって来たわけだと、藤居は合点がいった。誰かに頼まれたのかもしれない。藤居が死のうとしていることを見抜いた誰かに。だが、それが誰かなど、どうでもよかった。藤居はここで死ぬと決めたのだ。

「生きて、戦えと? 敵に突っ込めば、また敵を殺すことになる。いや、その敵というのだって、誰にとっての敵なんだか……。敵とか味方だなんて関係ない。もう、人を殺すのはうんざりだ」

 法や人道に背く悪者なら殺してもいいと、そう単純に割り切っていた。自分の撃った弾丸が人の命を奪うという、頭だけでの知識が、全身の不快感を伴う肉体的認識へと変わったあのときまでは。

「自分が自分を殺すのはいいわけだ」

「それは……、俺が許すんです。誰も困らない」

「だから、後始末が面倒だって教えているだろうが、まったく。だいたい、おまえが人を殺すのをやめたからって、誰かが代わりに軍人になって、銃を手にして、人を撃ち殺すんだ。命令する者がいる限り。軍という組織がある限り。――いいや、たとえ軍がなくなっても、この世から殺し合いがなくなるわけじゃない。敵とか味方だなんて区分は、決して消えない。おまえの言うとおり、それを決めるのは観測する個人だからだ。みんな仲良く同じ夢を見ない限り、争いをなくすことはできないさ。喧嘩も人殺しも戦争も、だ」

「それはわかっています。でも、程度ってものならある。代行執政府がエデンの要求をまともに審議すれば、過激なテロも、それを鎮圧するための強引な任務も、ぐんと減らせるんじゃないんですか。どうしたってまともな交渉方法じゃ取り合ってもらえないと諦めるから、武器を手にする連中が出てくる。子供にだって想像がつくことです」

 そうすれば、そもそも栄讃が死ぬような事件は起こらなかったのだ。今更責任を取り沙汰しても無益だが、改めなければ、また同じことが繰り返される。

「――俺はもう、そんな一方的な暴力装置の歯車ではいられません」

 遺書は用意してある。藤居が死ねば、多少なりと政府や軍の体質を批判する原動力にはなるだろう。それがささやかな栄讃への償いだ。

「おまえの言う通りかもな」

「だったら……」

 死なせてくれ。そう叫ぼうとして、藤居は気づいた。どうして自分は、この期に及んで、この江藤というよく知りもしない男の許可など求めているのだろうと。

「俺は政治家には向いてない。高校んときにそう悟った」

 江藤が急に何を語りだしたのか。藤居はそれが気になってしまう。

「俺は軍の体質が嫌いだ。体制を守るためなら市民を犠牲にすることもいとわず、ひとたび命令あらばテロリスト掃討と称して村落を焼きもする。助けを求める無抵抗の人間を殺し、殺した数だけ英雄に近づいたと思い込んでいる輩もいる。まったく、吐き気がする。一杯も呑んじゃいないっていうのにな」

「じゃあ、いったいどうして軍なんかに」

「変えてみたかった。軍のシステムを。今の亜細亜連邦が軍閥と切っても切れない間柄なのは、自明のことだ。まともな思考力さえ持ち合わせていればな。その連邦を変えるなら、選ぶべき道は三つだ。ひとつ目は、亜連を裏から操る元老院議員を探し当てて、自分も仲間にまぜろと押し掛けること。ふたつ目は、いまだに金権と腐敗の残滓(ざんし)にまみれる政界に乗り込んで、中央議会議員の座を狙うこと。残る三つ目が、軍に入って成り上がることだ。最後のオプションについちゃ、皮肉なこったよな。俺の嫌いな軍閥派の存在が、その道を可能にしていたわけなんだから。――どれがいちばん自分にとって現実的か、答えは一秒で出た。もう十何年も前のことだ。藤居、おまえはなぜ軍に入った」

「大学を中退したことは、もう話しましたね」

「ああ、聞いた。たしか薬学部だったな。それがなぜ、治安維持部隊に入った。血を見ることは明らかだったはずだ。採血で見慣れているつもりだったか」

「まさか。日本の大学は、世界を見ていなかった。亜細亜連邦の生まれた意味を理解していない、と感じました。だから、ひとまず自分の感覚で世界を見て回ろうと思ったんです」

「軍の医薬部を狙えば良かっただろうに」

「医薬部の敷居は高いんです。俺の学力じゃ、ちょっと……。でも、俺がやりたいことは別に医薬部レベルの知識と技術、経験を必要としませんでした。どちらかというと、違う国の人間がどんな生活をしていて、どんな医薬品が求められているか、という辺りに関心がありました。製薬の専門家と組んでマーケティングをやりたかった、とでも言いますか……。言葉はあとからこじつけただけです。とにかく俺は、日本人の古くせせこましい感覚に縛られたくなかった。手っ取り早く着手するには、軍に入って極東方面軍以外の任地を希望するのがいちばん楽でした」

「その夢は果たさないのか。死んでも幽霊になれると信じているのか? 変則領域霊界説に、そこまで入れ込んでいたとは思えんが」

「夢は自由な人間が追うものです。その権利がある人だけが、許される。俺にはもうその資格はありません」

「ウジウジしやがって。腹が立ってきたぞ。――いいか、人は、失敗を教訓にすることができる。おまえは自分の弱点を意識した。弱いから死ね、という理屈を俺は好かん。弱さを知った者は、それを補強して強くなればいいんだ。弱い自分そのものを否定するな。欠陥を否定したのでは、強度対策は取れん。ロープが切れたなら、もっと強いロープを探せばいい。それが切れればまた強くする。繰り返しだ。あるいは、予備のロープをつけておくのでもいい。対策はひとつとは限らない。おまえの答えは、おまえが探せ」

「栄讃への償いは、どうすればいいんです」

「知るか。それも自分で探せ。生きて、な」

 江藤は、最初に声をかけた位置から一歩も近づいては来なかった。会話で距離を稼ぎつつ、得意の腕力で自殺を阻止しようとは考えなかったのだ。

 藤居は、屋上の縁から退いた。

 そして別の道へ歩み出した。新たな生き方へと。

 根本的に変えたのではない。自信家で直情的な自分を補強する、理知と謙虚というフレームを増設したのだ。それですべてが上手く行くようになったわけではない。今でも藤居は壁にぶつかり、悩んでいる。しかし、もう命を、命題を投げ出そうなどとは惑わない。

 目的意識を新たにした藤居は、若年士官増員計画の採用に受かり、特例の昇進をして、曹長となった。そして機兵の操縦を覚え、そこで茨木の指導と薫陶を受けて己に磨きをかけ、然る後、黒龍隊に呼ばれた。他ならぬ江藤から。断る理由などなかった。

 ――自分は、あなたを支えるためにここへ来ました。

 藤居は江藤にそう言ってみせた。江藤とて完全でないことを、変則領域を感知できるマイノリティとしての苦しみに喘いでいることを、藤居はもう知っていたから。

 言ったことは守るつもりでいる。藤居家の男は、代々責任感が強いのだ。



- 12 -


 藤居は角龍(ジャオロン)を特撮映画の怪獣のように暴れさせて、都市間基幹回線を破壊しきった。もう信号の通過は感知されない。――地下については。

 まだ信号が消えたわけではなかった。円道の監視によれば、角龍からのネットワーク探索とコマンド送信はまだ続いている。空中波が残っているようだった。しかし、目立つアンテナは最初に破壊し尽くしている。小型の中継器までは探しきれたものではない。

「円道軍曹、レーダーキラーは実行可能か。ノイエトーターのまねをするんだ」

 啓示軍(オフェンバーレナ)の切り札、ノイエトーターには幾つもの驚異的な特長があるが、レーダーキラーと連合軍側で通称しているものもそのひとつである。恐るべき出力のレーダー波による弾幕妨害(バラージジャミング)で、半径数キロメートルのレーダーシステムを悉(ことごと)く破壊する能力のことだ。角龍も、戦場管制システムを実現させるために強力なレーダー発信装置を内蔵しているため、通信帯域と物理的領域を限定すれば、同様の技が可能だと藤居は考えた。開発者もそれは検討したかもしれないが、藤居は操縦に関する項目を優先して仕様書を読んだため、レーダーキラーについての記載の有無はわからない。円道なら、専門の方面であり、元来藤居よりずっと早く文書を読み進める力がある。その円道に期待した。

「駐屯地内のレーダー波受信機に対しては、理論上、効果が期待できます。でも、発振専用端末は破壊できません。クエリが通らなくなってルーチンが停止する可能性はけっこう期待できますけど……。万全ではありません。すでにプログラムを外部に移植して、こちらはモニタだけしているとも考えられます」

「つまり、それを止めるためには、角龍からコマンドを送る能力は残さないといけないんだな」

「その通りです。やっぱり角龍は破壊できませんね」

「俺は最初からそのつもりだったよ。だが、江藤少佐だけじゃなく、敵もこの機体を欲しがっている」

「あの機兵……、蛟も、角龍に致命傷を与えず捕獲したいようでした。このウイルスが作動していることを、敵はまだ確認できていないってことでしょうか」

 藤居は曖昧に頷いた。たしかに、すでに謎のプログラムは動いているのだから、敵が角龍を奪う必要はない。しかし、まだ次の段階が残っている、とも考えられる。角龍を直接操作しなければならない何かが。だから角龍を壊すのではなく、パイロットに機体を明け渡させようとした、ということかもしれない。

 ――あれは、結局どうやったのだろうか。

「群山の行動は想定外だった。円道、君は大丈夫か」

「平常のつもりですけど、自己診断じゃ、駄目ですね。“ベルリンの壁”効果は、たぶん自覚できないものです」

 ふたりの考えていることは同じだった。蛟は、何らかの装置を使って、群山に洗脳のような操作を加えたのかもしれない。そう疑うほど、普段の群山からは考えられないことだった。利敵行為に走り、同乗の円道の生命も顧みないとは。

「今は、バルムンクフィールドを張っています。このままにしておきましょう。暖炉の谷では、これで防げたんですよね」

「それも、俺たち当事者の観測に過ぎない。あのとき正気だったかどうかなんて、今となっては……」

 ふと、射撃指導の軍曹の顔がよぎる。

 ――どうして栄讃(ロンツァ)を殺した。

「わからない」

 藤居は頭を振って、惨劇の記憶を追い払う。

「お姉さんが帰って来たって、言っていました。群山軍曹がおかしくなったのは、敵パイロットから音声通信が送られてきてからです。たしかに女性の声でした。その声が、言ったんです。『信、その機体をちょうだい』って」

「彼の姉はテロリストだったのか?」

「みたいですね」

 それはありえない、と藤居は胸中で否定する。黒龍隊の隊員選抜は入念に行われたはずだ。――江藤が細工する際に、敢えて危険因子を取り込んだというのか。テロリストを姉に持つ男を。

 ちらりと湧いた疑念を、藤居は再び頭を振って追い出した。江藤に疑いを持つなど、やはり自分は精神を操作されているかもしれない、と藤居は警戒する。

 仮に群山の姉がテロリストだったとしても、それが江藤の采配で配属になったとは限らない。久留がRAT(ラット)の特務員であったことを、江藤は知らなかった。群山も誰かの思惑によって隊員候補に入れられたひとりなのかもしれない。その誰かが、あのコート姿の男とも繋がっていると考えると、横浜以来の内通疑惑がおおよそ片付く。

「藤居さん、敵機、来ます!」

 警報より早く、円道がそれに気づいた。尹慶珠(ユン・キョンジュ)が擱座させたはずの蛟(チャオ)が、角龍を目がけて走って来ている。

「龍(ロン)は?」

「ごめん、やられた」

 答えたのは円道ではなく、ちょうどレーザー受信した龍からの声だった。訛りの取れない日本語。尹慶珠に違いない。その声からは動転がありありと伝わってくる。

「何に撃たれたか、わからない。脚とメインロケットが使えない」

 群山がやったのだ、と想像がついた。拳銃や手榴弾程度では普通、機兵を止めることなどできないが、至近距離からなら幾つかの急所を狙うことでそれが可能となる。

 龍の構造でどこが一番弱いか。それは、乏しい補給のなかで中央アジアをさまよった経験が、黒龍隊隊員に刻みつけた知識だ。己の弱点を知る者こそ強くなれるとは、江藤の持論でもあったなと、藤居は妙なことを思い出す。

「こちらで対処する。尹伍長は後退を」

「了解」

 話しているうちにも、当然、蛟は距離を詰めている。

 相手は刀を持ったままである。踏み込みの間合いに入ってはまずいと、藤居は飛びすさる。すると、蛟はそこで停止した。

「その機体を明け渡してちょうだい」

 女の声を、藤居も確かに耳にした。通信に割り込んでいる。いや、角龍が許容したのだ。乗っているふたりの意思を問うことなく。

「断る」藤居は外部音声出力で返した。「――そう答えれば、では人質を殺すぞと出るんだろうな」

 円道や群山は、人質の存在を直接確認していなかった。だから敵も交渉材料には使わなかったのだろう。そんなことをしなくても角龍は半分無力化したようなものだった。だがここへきて、条件が変わった。蛟は劣勢に立ち、そして、上級将校たちが捕まる現場にいた藤居が、コクピットに収まっている。蛟のパイロットはコート姿の男と交信可能だから、そのような状況の変化を把握できている……と、そう考えねばならない。峰國(フェングォ)があの男を捕縛していれば話は別だが、それはあくまで希望的観測である。

「話が早いじゃない」

 人質の殺傷に対する気後れを、その声から読み取ることはできない。群山の姉、サチは、他人への関心が薄い点で弟とよく似ているようだった。

「さあ、そこで機兵から降りなさい」

「拒否する」藤居は即答した。「人質を殺せば、ここで角龍を破壊する」

「自殺行為ね。機体を壊すだけで済むと思っているなら大間違い。わたしは腹いせにあんたたちを殺すよ」

「そうはさせない」

 藤居が言ったのではない。円道でもなかった。声は外部環境音の一部として聞こえたものだ。藤居は懐かしいその声を待っていた。恩師、茨木彪(たけし)の到着を。

 蛟の持っていた刀が砕け散った。砲弾が当たったのだ。角龍が自動で弾道をサーチして、発射元を教えてくれる。そこには小ぶりの戦車といった風情の装甲車輛がいた。

「BMD-4です」

 円道が説明するのと、角龍がデータと照合してその名を表示するのはほぼ同時だった。ロシアの空挺戦闘車。極東方面軍での配備を藤居は聞いたことがない。茨木が任された第五の独立機兵部隊、紫龍隊が、指揮車輛代わりに運用しているものだろう。茨木は戦うつもりでここへ来たのだ。ここで機兵操縦訓練中だった部下、尹慶珠に、密かに九天軍に対する警告を与えて。

「まったく、私としたことが。待ち合わせに遅れてしまうとはな。紳士の名が廃る」

 BMD-4の百ミリ滑腔砲が、第二撃を放つ。蛟は脚に被弾したが、直撃ではなかった。普通ならこれだけ近い標的を外すはずがないが、逆に近過ぎたのかもしれないと藤居は分析した。バルムンクフィールドが火器管制装置に干渉した可能性がある。

 擱座を免れた蛟は、建物を盾にして、追撃を避ける。角龍の位置からは遮蔽物もなく狙い撃てるが、仮想現実の砲弾しか撃てないのでは百五ミリライフル砲も無用の長物である。

「円道、フィールド解除。BMD-4と通信回線を。暗号化も頼む」

「了解」

 円道の仕事は早かった。映像通話で、藤居は数ヵ月ぶりに恩師の顔を拝む。

「お待ちしていました、茨木教官。人質のほうは?」

「おおよそ無事だ」と、姿は見えないが岩津らしき声。「安心して戦え、藤居准尉。犠牲はこれ以上増えない。ジョンソン主任が兵装管理システムを復旧してくれている。じきに駐屯地の全戦力が出動可能だ」

「どうやらそのようだな」

 また別の声が聞こえた。誰かが通信に割り込んでいる。通話画面が分割され、そこに現れた顔は、コート姿のあの男だった。

「よく練りこんだ計画だったのだが、思わぬ邪魔が入ったよ。よくやったものだと、この私から賞賛を捧げよう」

「何者だ」

 と、茨木。画面はBMD-4でも同様に表示されているらしい。

「我が名は昊天(こうてん)」

 藤居には秘して語らなかったその名を、男は名乗った。しかし本名ではない。それは九天軍最高幹部の名のひとつ。彼の立場を示すものに過ぎない。そして、藤居と対峙した際に語ったプロフィールとは細部が異なってもいる。彼はあくまで協力者だと自称していた。

「ようやく本当の犯行声明か」

 岩津が画面に顔を出す。狭い車内で茨木と位置を入れ替えたらしい。頬に尋常でない血がついている。人質救出劇は十五禁でないと放送できないだろうと藤居は思った。

「司令部を占拠したメンバーにボスはいなかった。貴様が昊天だという話は信じてやる。本物なら、ボスの仕事をするがいい。貴様らは敗北した。残るメンバーに武装解除を呼びかけろ」

「命令か。しかし君は、この私のボスではないからな。従う必要はないだろう」

「九天軍の惣領……。鈞天か。よほどの人格者のようだな。貴様のようなへそ曲がりを従わせているのだから」

「よせ、岩津。らしくないぞ」

 遮ったのは茨木だった。大尉が中佐に向けた言葉遣いではない。江藤ならそんなルールは蔑ろだが、茨木に限ってそれはないと藤居は思っていた。しかし、窘めを受け入れて引き下がる岩津を見て、藤居は閃いた。岩津が江藤をよく知っているふうであった謎も、同時に解決された。江藤と茨木という、藤居にとっての恩師ふたりは奇しくも極東方面軍士官学校の同期だった。岩津も、そこでの仲間だったのだろう。南田や坂元、鷹山たちが話している様子にどこか似ている。

 ひとまわり年齢と経験を重ねても、人の本質は変わらないということか。藤居は自分が捨てた学生という帰属集団、そして失った友のことを思い、胸が痛む。

「人格は重要ではない。自分の役に立つのは誰なのか。それを見極めれば、自ずと身の振り方は決まる。私が九天軍に身を置くのも、君らが亜細亜連邦軍という組織から権利と給金を貰うのも、本質的には同じことだ。君たちも上官を人格で選り好みしてはいられないだろう」

 正論だ、と素直に認めている自分に藤居は気づく。上官を選べれば、あのようなことは起きなかった。江藤の下に来られたことを、どれだけ感謝したことか。力のないものに選択肢は与えられない。だから江藤は上を目指すのだ。人々にもっと多くの選択肢を与えるために。

「さて、挨拶はこのくらいにして、ここはお暇(いとま)させてもらおう」

 昊天は帽子を脱いで、一揖(いちゆう)する。頭を下げたままの状態で画像は静止する。割り込みが終わったのだ。画面分割も解除され、再びBMD-4のみとの通話に戻る。

「格納庫です! 今朝まで使っていた場所!」

 円道が、ぎりぎりで発信源をつきとめて、叫んだ。

 同時に、昊天も声を大にしていた。自力ではなく、スピーカーによって。駐屯地の放送用設備がジャックされている。

「九天軍の兵士たちよ。敵は人質の祈りよりも、我々に対する抗戦を選んだ。彼らの勇気ある行動を讃えて、我々も態度を明らかにしよう。――戦え。その血に酸素の溶け込む限り」

 角龍が、新たな機兵の反応を感知する。円道の察知した、割り込み通信の発信元とそれは一致している。今日の昼まで、角龍がその身を横たえていた格納庫だ。

 その格納庫から、緑褐色の幌をかぶった何かが出てくる。識別は、蛟。

「もう一機いたのか」

 幌を振り払い、その全身を現した機兵は、やはり蛟だった。角龍の処理するデータと画像が欺瞞されていない限りは、真実である。

 警告音。ロックオンされている。新手の蛟の左肩に乗った、長細い箱が角度を変える。ミサイルだ、と悟ったときには、それはもう発射されている。まっすぐ角龍めがけて飛んでくる。回避の時間はない。それが現実かどうか疑う暇も。

 角龍のCIWSが起動した。ミサイルを自動で迎撃し、弾頭破壊に成功。大小の破片が装甲に突き当たる音を聞いて、藤居はミサイルが現実のものだと実感した。角龍が発射したのもまた、幻影の砲弾ではない。幻にミサイルを破壊する力はないのだから。

「FCS復旧! ウイルス、停止しています!」

 円道が状況理解に有益な情報を提供してくれる。

 藤居は火縄の照準を定めた。回避は考えない。十一発までリセットされた残弾数が、ひとつ減る。

 命中、とは評価できなかった。藤居の狙いからはそれてしまったのだ。頭を狙った攻撃が、左肩に当たった。対戦車ミサイルを収めたコンテナの固定が外れて、落ちる。

 続いて発砲しようとした藤居は、被ロックオン警報と円道の悲鳴、機体に響く細かな振動に促され、回避運動に転じた。二機の蛟とは別の方向から、機関砲の攻撃を受けていた。無視できるような小口径ではない。弾道を辿ると、そこに装甲車がいた。駐屯地のものらしいが、完全に角龍だけを標的にしている。

 しかし、装甲車が九天軍のものとまでは断定できない。屋内に閉じ込められ、情報も遮断されていた駐屯地の兵士たちにとって、角龍と蛟のどちらが敵であるかを峻別するのは困難だろう。藤居はやむなく、建家のひとつを掩体にして逃げこむ。

「岩津中佐、敵味方の判断は」

 別途応戦中らしいBMD-4からの返事は数秒遅れた。

「不可能だ。敵は、連邦軍の一部を取り込んでいる。手引きをしたのは内部の人間だ。おそらく、時空跳躍装置のようなものは、使われていない」

「怪しい将兵は全員隔離して閉じ込めるしかなかった」茨木の声。「今は、岩津中佐が信用できる者だけに命令を出している。しかし、当然、動いているのは命令を聞いた者だけではない。皆が独自に、やるべきことをなそうとしている」

 その彼らの立場が藤居にとって敵と断定するに足るものであるか、それはたしかに、この状況で確かめられるはずがない。

「蛟が逃げます。二機とも」

 角龍のカメラでは捉えられない状況を、円道がリンク先の情報から読み取って、報告する。

「ボスにあるまじき行動だ」

 開いたままの回線で、円道の声を聞いた岩津が、感想を漏らす。

「撃破します」

 蛟の位置を正確に把握した藤居は、掩体から飛び出て狙撃しようとする。

「待って、藤居さん!」

 円道が張り詰めた声を上げた。ペダルを踏もうとしていた藤居の足が、遊び代でとどまる。直後、角龍が待機モードに移行した。その場に膝をついて、降着。続いて再起動シーケンスに入る。戦場の情報やBMD-4との交信は途絶えてしまい、コクピットがしんと静まる。

「パワーダウンか?」

「いえ、私が落としました。戦場管制システムを緊急遮断するために」

「直ったんじゃ、なかったのか。俺は敵を追おうとしていた。それを遮る必要があったのか」

「怖い声、出さないでください」

 小さく鼻をすする音が聞こた。

「――すみません。追跡結果が出たんです。ウイルスの目的は、極東方面軍の防空システムでした。陸海空すべての連携した上位のシステムがハッキングされていました。おそらく、三十分以上前から」

「なんだって」

 月並の返事が出たが、内心では、藤居は得心していた。どうりで、明らかに変事が起こっているのに、近場の航空部隊が様子も見に来ないわけだ。

「ウイルスの複製の一部が、まだ動いていることもわかりました。私が命令を上書きすることもシステム上可能でしたが、復旧のための正しい処置がわかりません。でも、角龍自体がネットワーク上にあることを確認しながら動くプログラムであることは解明できたので、再起動をかけたんです」

 それだけのことを、今の戦闘のさなか、藤居の情報支援をやりながら済ませたのだ。藤居は後ろに乗る童顔の女性に改めて驚嘆する。

「――よくやってくれた。あとは各拠点が対応してくれるはずだ。蛟も、誰かが追ってくれているだろう。機兵の足で逃げられるものじゃない」

 しかし、いつまでも戦場で機体を停止させておくわけにもいかない。外には九天軍が残っているのだ。ボスに見捨てられた彼らが、なお忠誠を尽くしているのであれば。

「再起動後、戦場管制システムは使わずに、感染部分を隔離してくれ。武器と機体の管制に関わる部分も、急を要するなら停止していい。俺は支援射撃に留める」

「了解」

 角龍の再起動終了まで、攻撃を受けることはなかった。藤居は胸を撫で下ろして、索敵。BMD-4は健在で、他にも熱源が増えている。車輛や、乗俑機だろう。続々と動き出している。

 無線では誰何(すいか)の声が飛び交っているが、角龍の捉えた熱源のうち、九天軍の戦力は半分にもなるまいと藤居は目算した。それだけの母数が、動いている。逆に言えば、九天軍がたったそれしきの数で霞ヶ浦駐屯地を押さえられる時間など、せいぜいがこの程度だったのだ。

 昊天は、オルロフなる物を見つけたのだろうか。藤居は蛟、あるいはその残骸を探しながらも、つい考えてしまう。九頭竜なるバルムンクシステムは、実在するのか否か。そして、蛟に乗っていたのは本当に群山の姉だったのか。確認すべきことは幾つもある。

 蛟は混乱に乗じて逃げ切ったようだった。群山の姿も見えない。

 戦闘は着実に終息に向かっている。

「HAOS内部のプログラム隔離、終了しました。ネットワーク上の複製が本当に止まったかどうか、できれば確認したいんですが」

「岩津中佐に問い合わせて、通常の戦術データリンクを繋いでもらってくれ」

「了解」

「並行して、ログもチェックを。蛟の逃走経路が読めるかもしれない」

「やっています。――なに、これ」

 その呟きのあと、円道は絶句してしまう。

 藤居は、視界範囲に適性の移動物体がないことを確かめて、後部席を写す天井の鏡に目をやった。今日はそれが初めてだった。円道はログを表示しているであろう画面を見つめて、呆然としている。ヘルメットをかぶっていないので、その様子が明瞭にわかった。藤居好みの髪型が、少し乱れているところも。

「円道軍曹、報告を」

 ゆっくりと、藤居は言った。円道は、唇を結んで一度湿らせる。

「――防空システムの復旧は不可能です。システムに属する主要防空設備が、物理的に破壊されています。もう、ハッキングなんて関係ありません。コントロールすべきレーダーも、ミサイルも、対空機関砲も、もう存在しないんです!」

「冷静になれ、円道紗耶。戦場管制システムは、それらの存在を認識できなくなっていた。事実はそれだけだ」

 しかし、戦場管制システムが読み取った情報は、防空システム上で認識されている情報と等価だろう。実物が健在だとしても、ネットワークとして機能しなくなったのであれば、極東方面軍の防空網が丸裸にされたことにはかわりない。第一及び第二太平洋艦隊の防空型艦艇ならば、システムとリンクせずともスタンドアローンで迎撃可能だろうが、開戦以来の空爆に対応し続けてきた両艦隊の残弾は決して豊富ではない。

 藤居はBMD-4の岩津と茨木に、事実のみを報告した。

「なるほどな」岩津はあまり驚かなかった。「こちらで今しがた手に入れた情報とも符合する。ソフトかハードかはともかく、防空システムは現在、沈黙している。民間空港の管制塔も、便の殆どが行方不明になって大わらわだ」

「九天軍の目的がこれだとすると、中佐、私たちは最悪の事態を想定しなければなりません」

「正しい指摘だが、ひとつ間違いがある。想定ではない。もう、それは起きている。――見ろ」

 BMD-4から、ファイルが転送される。画像だった。

 藤居は絶句した。

 啓示軍の機兵が、新型の飛行モジュールを身につけて、我が物顔で日本の空を飛んでいる。数は、一個機兵戦隊ほど、二十機前後。飛行モジュールを装備できるのは、新型のトロイパペゾルダートだけだと聞く。藤居たちは暖炉の谷で一機とだけ交戦しているが、バロッグ内でも滑腔砲を使えるという極めて厄介な相手だった。

「敵が、来る……」

 円道の声が震えている。

「もうひとつ悪い知らせだ」と、岩津。「どうやら猿之門基地がすでに敵襲を受けたらしい。その敵が啓示軍かどうかは、まだ確認が取れていない。今の霞ヶ浦がそうであるように、猿之門も、ネットワークから消滅しているせいだ。この原因が通信設備の破壊によるものか、バロッグの干渉によるものかも不明。原始的なヒューミントにより、以上の情報が得られた。真偽と詳細の確認は司令部が進めている」

「戻りましょう、藤居准尉」

 唐突に音声で割り込んできたのは、李峰國だった。

「間に合うかわかんないですけど、俺は竜時と約束があります。だから……」

「俺も戻る」

 藤居は皆まで言わせなかった。

「俺も江藤少佐と約束があるんだ。――だけど、円道軍曹、君はここに残れ」

「どうしてですか!」円道が、眉を吊り上げる。「あたし、降りません」

「必要ない。角龍はひとりで操縦可能だ。戦場管制システムの基板を外していくから、君はここに残って、ウイルスの解析を行ってくれ」

「それ、急ぎなんですか!?」

 さっき似たようなことを自分が言ったな、と藤居は苦笑する。しかし、彼女の意見を容れるわけにはいかない。

「昊天の目的をはっきりさせる必要がある。啓示軍が侵攻してきたのは、偶然ではないだろう。もし共闘しているのなら、防戦態勢を考え直さないといけない。俺と峰國が反射行動で猿之門を助けに行っている間に、君が、君の優れた頭を使って、その務めを果たすんだ」

「甘いです、准尉。角龍なら空から来る敵に対して有効だってお考えかもしれませんけど、十六っていう角龍の同時追尾目標数は、あくまでベストコンディションでの値です。FCSに任せ切りのターゲットクラスタ認識では、多弾頭を用いた攻撃や多数の敵機に対し、適切に対処できません。人力で脅威度を任意指定できますが、それじゃ回避運動に集中できない……。それをカバーするための複座仕様です」

「できるのか、君に。君は情報支援要員としてしか訓練を受けていない」

「説明を読めば、できます」

「その手で人を殺せるのか、と聞いているんだけどね」

 それを言うと、円道の勢いが止まった。

「君はこれまで、直接引き金を引いて誰かを傷つけた経験はないだろう。だが、角龍に乗るということは、ジソコンで龍を情報支援するのとはわけが違う。ターゲットを選別するとき、君は、これから奪う命の選択をするんだぞ。君が選べば、それはもう誰の判断の干渉も受けず、敵へと飛んでいく」

 一息を置いたが、円道の反論はない。鏡で見る円道は、肩を落としている。北京(ペキン)の軍病院で日がな悶々としていた自分が、窓の外の江藤からどのように見えたか、藤居はわかった気がした。

「俺は、啓示軍と戦う。九天軍とも。蛟に乗っているのが群山にとってどれだけ大事な人だろうと、必要とあればその命を奪う」

 とどめと畳みかけると、円道が藤居の視線に気がついて、鏡越しに目を合わせた。その円(つぶ)らな瞳を正面から見据えるのは久しぶりだった。

「できるんですか、藤居さんに」

「できる」

 藤居は断言した。できなかった自分は捨てた。いや、消えたのではない。ここにいる。しかし、支えを作った今の自分は、もう外からは前と同じに見えないはずだ。

「本当に? あなたは優しい人でしょ。優しすぎるくらい。そんなに頑張らなくてもいいんですよ。あたしは、わかっているんです。藤居さんは背伸びをしているだって。江藤少佐に気に入られたいからですか? 恩返しがしたいからですか? 自分の為に生きようとは、思わなくなっちゃったんですか?」

 予想外の指摘を受け、今度は藤居が言い返すタイミングを逸した。

「あたしは降りません。先に降りるのは、藤居さんのほうです。だって後ろからは降りられませんから」

「君が降りるなら、もちろん道を空けるさ」

「甘いです。そしたら、あたしは角龍の操縦席に移って、機体ごと逃げ出します。あたしを置いて猿之門基地の救出に行くなんて、できないように。むしろ、そのままひとりで戻って戦っちゃいますよ。あたしは、何の約束もないけど、それでも杏里やタチアナ、小燕(シャオイェン)たちを助けたい」

 あながち、脅しではなく実行に移すかもしれない。

「参ったよ」

 円道の気迫にすっかり呑まれて、藤居は藤居は両手を上げた。

「やっぱり、このコクピットは、どうも問題だな」



――続く――