Wezverd Fragments

#004 “クリストフ”



 そこは悲鳴と怒号に満ちていた。

 国際科学シンポジウムの会場は、その半分が炎に呑まれ、さらに四分の一はすでに倒壊している。事件第一報がメディアから発信されて二時間が経つが、あたりでは未だに暴徒と警官隊、そして警官隊同士の衝突が続いており、一向に沈静化する様子がない。救急車や消防車さえ、それらの混乱のために消火活動を阻まれており、多くの負傷者が路上にうずくまる他ない状況にあった。

 ドイツ、ボン市で開催されていた国際科学シンポジウムは、八月の悪夢以来の異常現象に関する研究成果を、広く一般市民に広めるためのものだった。それを悪魔の集会の如く罵り、長蛇の列を為したのが、作為終末論者である。

 八月の悪夢とその後の異常現象はすべて人為的に仕組まれたもの――。妄信的にそう主張するデモ隊が、長蛇の列をなしたのが五時間前。三時間前から散発的に投石や銃撃が始まり、それが警官隊の制圧能力を超える規模にまで激化するのに、一時間を要さなかった。

 会場にいた人々が避難行動に移るころには、数を増した暴徒が会場を包囲。建物に火がつくに至り、警官隊は鎮圧より会場の人々の脱出を優先させたが、そこでこの事件が突発的に起こったものではないと多くの人間が知ることになった。救出に動いたはずの一部警官隊が、暴徒化した作為終末論者を館内に引き入れると同時に、会場内の人々を殺害にかかったのだ。以来、警官隊同士の戦闘までが始まり、火災と倒壊も進行したことで、死傷者は時とともに増加している。

 そんな混乱の中、普段は警察に取材を制限されるマスコミは、枷から逃れて自由に行動できていた。特に過激な取材をお家芸とする局などは、救急や消防の邪魔になろうとお構いなしである。現場に乗り付ける取材用の車輛は後を絶たず、今もまた、白い一台のワゴンが会場の裏手に停車した。

 車輛自体は当たり前の取材用ワゴンだったが、それは普通ではなかった。中に乗っているのは運転手の若い男が一人だけ。しかも、主だった騒動からは離れた場所であり、報道するべきものもない。表に通じる道は高いフェンスで仕切られているために、この裏手には暴徒の姿はないのである。もっとも、暴徒がいないというだけの理由で、ここが会場に取り残された人々の脱出口になるかといえば、それは難しい。窓の隙間からはもうもうと煙が漏れ出ており、何の装備もない人間が通れる道ではなかった。それらの関係で、そこは嘘のように群集から隔絶されているのだ。

『治安出動した軍が道をふさがれて遅れているようだ。これでは……、いや、どのみち猶予はないな。急いでくれ、クリス」

 車内に積んだ無線機から仲間の声がする。クリストフは窓越しにくすんだ白壁を見上げ、短く返事をした。

「善処する」

 三秒後、バッグを肩にひっかけて、クリストフは車を降りた。背の低い植木を飛び越えれば、すぐフェンスにつきあたる。バッグから取り出した工具で手早くフェンスを切って通り抜けると、足音を抑えつつ、目立たないドアのひとつに駆け寄る。貼り付けられたプレートによれば関係者以外立ち入り禁止らしいが、クリストフは上着の内側から拳銃を取り出すと、そのドアの錠に向かって発砲した。もとより外では銃声が断続的に飛び交っていたから、今の音を聞きつけて誰かがこの裏手まで回ってくるという心配は無用である。錠が壊れ、ドアが開く。一階部分が煙に包まれていないのを確認して、クリストフは踏み込んだ。

 ドアを閉めると、耳にまとわりついていた銃声や絶叫が遠のく。廊下は薄暗い。電気は止まっていた。

『聞こえてるか、クリス。今、エルネストから連絡が入った。夫妻は四階西側にいる可能性が高い、とな」

 ワゴンの中で聞いたのと同じ声が、耳にはめた小型通信機から聞こえてくる。

「どうしてわかる」

『テレジアの助けたスタッフが、夫妻とは三階に下りる前にはぐれたと言っている。そんで、エルネストが四階東側で見つけた死体のなかに、夫妻はいなかった」

「五階より上という可能性は」

『それより上じゃ、もう助からねえよ。――頼むぜ。テレジアもエルネストも、そっちまで回る余裕はない」

「了解」

 頭に入れておいた地図を頼りに、クリストフは階段に向かう。

 二階のところで防火シャッターに突き当たると、用意していたガスマスクを装着し、拳銃を構えなおして慎重に進んだ。敵も……地球啓蒙教会シンパの警官隊も、マスクは用意しているだろう。

 火の手の回った三階をなんとか通り抜け、四階の防火シャッターをくぐると、意外にもそこには火も煙もなかった。消火設備が生きていることに気づいたクリストフは、身を引き締める。

「ベネディクト。敵は警官隊だけじゃないかもしれない」

『おいクリス、それはどういう意味だ」

 通信機から返って来るバックアップ要員の声は、遠くなっていた。電波がよく届いていない。クリストフは壁に背を寄せて周囲を警戒しつつ、送話音量を最大にして小声で吹き込んだ。

「四階は消火も排煙も正常に行われている。おそらく、わざと機能が生かされているんだ。地球啓蒙教会の幹部に唆されただけの警官に、そこまでの工作はできなかったはずだ」

『施設管理の連中にまで、奴らの手が回っていたってことか。――ふむ。クリス、無理はするな。じきに……」

「待った。人がいる」

 敵なのか、というベネディクトの問いには答えず、クリストフは息を殺して身を潜めた。

 ドアを開けてよろよろと廊下に出てきた小柄な男は、クリストフのほうに向かって数歩前進したが、そこで崩れるように倒れた。警官ではないと見極め、クリストフはその男――自分より年下とわかる少年に駆け寄る。

「おい、しっかりしろ」

 抱き起こすと、その少年の体は弛緩しており、目は泳いでいた。クリストフは少年の額に小さな傷を見つけて一瞬ぎょっとしたが、すぐに、それがしばらく前の傷だと気づく。脳挫傷の類は心配なさそうだった。

「しっかりするんだ。ここにいては危ない」

 上体を揺り動かしてみるが、少年に反応はない。

『おい、負傷者か?」

 不意にベネディクトの声が耳に届く。さっきから呼びかけていたのかもしれない。

「少年だ。傷はない。煙を吸ったわけでもないようだが……」

『そうか。――酷なようだがな、クリス。今は……」

「わかっている。コミレット夫妻の救出が最優先だ」

 ベネディクトの先を取って自分の任務を言ってみせると、少年の虚ろな瞳がクリストフを捉えた。

「コミレット? それはケヴィン・コミレットとジュリア・コミレットのこと?」

 次いで開いた口から、クリストフが今まさに探しているふたりのフルネームが出てきた。

「ふたりを知っているのか? 見たのか?」

 少年が口をきけたことに安堵したのも束の間のこと、クリストフは即座にそう問い返した。だが、少年の視線はクリストフを離れて天井へと移り、ここではないどこかを幻視しているようだった。

 一発、クリストフは平手で少年の頬を叩いた。

「ふたりを見たのかと聞いている」

 少年はゆっくりと頬に手を当て、やがてその痛みを認識しはじめたのか、まなざしにいくぶん正気の色が戻ってきた。

「どうなんだ」

 重ねて問い質すクリストフの手を払い、少年は初めて自分の力で上体の姿勢を保った。

「そのふたりなら、探しても無駄だよ。死体に用があるんなら話は別だけど。――痛いな」

 無表情のままの少年を見ながら、クリストフは呆然となった。

「死んだというのか、夫妻が」

「ああ」

「見たのか」

「ああ。ぐちゃぐちゃだった。爆弾だよ。小さいけど、威力のでかい」

 少年は淡々と語る。凄惨な現場を見た精神的ショックのせいか、とクリストフは察した。よく見れば、口元と衣服には嘔吐の痕跡がある。

「悪いが思い出してくれ。夫妻はどこで爆殺された? 殺されたのは本当にコミレット夫妻だったか?」

 まくしたてると、少年は自分が出てきたドアのほうを指して「向こう」と答え、そして口元だけで笑った。

「間違うわけがない。あれはケヴィン・コミレットとジュリア・コミレットだよ。――親の顔を間違える息子がいると思うかい?」

「――おまえ」

「俺はザック。ザック・コミレットだ」

 クリストフは言葉を失った。夫妻に一人息子がいることと、今回のシンポジウム出席に際して息子もドイツへ連れてきたことは知っていたが、情報では、今日この場所には同行していないはずだった。

「ザック。辛いだろうが、今はここから離れなければ。奴らが来る。煙だってそのうちに……」

「奴ら? 三人称を使うのはおかしいな。犯人なら、あんたは今ここで会っているよ。どこにも行っちゃいない。――行く気はないさ」

「まさか、おまえ……」

「ああ、そうさ、二人を殺したのは俺さ。俺が、ふたりに爆弾を持たせたんだ。爆破のスイッチを押したのも俺だ!」

 感情を爆発させたザックの叫びは、廊下中に響き渡る。危険だと認識しながらも、それを止める術をクリストフは思いつかなかった。

「苛立たしい親だったよ。でもな、死んで欲しいなんて一度も、一瞬だって思ったことはなかったんだ! なのに、俺は……。なんでだ。どうなってるんだ。――盗聴器だって、リーダーはそう言っていたのに!」

「伏せろ!」

 クリストフは唐突にザックを突き飛ばし、自らはその反対側に転がった。耳を振るわせる銃声。床の穿たれる音。クリストフではなく、まずザックを狙ったとわかる軌跡だった。

 体勢を立て直したクリストフは、ドアの影から狙撃を行った警官を見つけると、直ちに応射した。ガスマスクで顔を覆った警官が、くぐもったうめき声を漏らして倒れる。しかし、すぐにその後ろから別の警官が現れた。

「階段へ。急げ」

 柱の影に身を隠したクリストフは、銃撃の合間に自分のガスマスクを外し、ザックに放った。しかし、ザックは手の届く場所へ落ちたそれを拾わない。

「俺はなんとでもなる。早く行くんだ」

「行く? ――どこに。どうして」

「呆けている場合か! すぐに下にも回りこまれるぞ」

 声を張り上げたが、ザックは反応しない。その間にも、柱を穿つ銃弾の密度が上がっていく。狙いをつけて応射できるだけの隙は、すぐになくなった。

『クリス、無理はするなと言ったぞ。おまえだけでも無事に帰って来い」

「黙ってろ」

 ベネディクトに怒鳴り返し、警官隊に向かって閃光弾を放り投げる。自身は目を瞑って反対側の壁に走りこみ、途中でザックの襟を掴んで強引に立ち上がらせた。

「死ぬつもりか、おまえは」

 叩きつけるようにしてザックを柱の陰に押し込むと、ふらつきつつも、ザックは自分の足で立った。しかし、その目はまだ別の世界を見ており、こう言った。

「死ぬべきなんだよ、俺は」

「ふざけたことを……。おい、耳を塞げ」

 ザックに身振りで指示しながら、クリストフはまた別の手投げ弾を取り出した。口でピンを抜いて、再び始まった銃撃の源に投げつけると、数拍ののち、爆風と爆音が廊下を席捲する。

 煙に反応してスプリンクラーが作動するなか、クリストフはザックの腕を引いて走った。階段は下りずに素通りし、別の通路を突き進む。追っ手の気配はいったん途絶えたが、階下はもう手が回ったと見るべきだった。

 走りながら、手遅れと知りつつも一応ベネディクトに応援を要請したが、通信機がいかれたのか電波が届いていないのか、返答はなかった。自力で切り抜けるしかないと、クリストフは腹を括りなおす。だが、それは諦念ではない。クリストフの希望と闘志は健在だった。

 ――たしか、この先に。

 もう一度見取り図を頭の中に呼び出して、クリストフは実行可能なオプションを選定する。確実ではないが、可能な道を。

 ふたりはコンファレンスルームのひとつに逃げ込んだ。廊下に沿って並んだそれらの部屋はすべて、外に面した窓を持っていたが、クリストフはでたらめにその一室を選んだわけではない。ここは四階であり、ただ飛び降りたのでは高い確率で死ぬ。しかし、クリストフが選んだこの部屋だけは、窓の二メートル向こうにフェンスがある。裏手を隔離していた高いフェンスの一画だ。それにうまく掴まれば、下まで擦り傷程度で降りられる。

「行け。助かる道はこれしかない」

 背を押されたザックは、クリストフが打ち破った窓から首を出し、下を見て口笛を吹いた。

「命を絶って、楽になれってこと?」

 ふりかえったザックは、へらへらと笑っていた。クリストフはその頬をもう一度叩こうとして、右腕に走った痛みにどっと汗を噴き出す。手榴弾を投げるため柱の陰から突き出した腕は、銃弾により肉を少々抉られていた。

「さっき、コミレット夫妻を……両親をその手で殺したと言ったな」

 呻こうとする口を意志で制御し、クリストフは押し殺した声でザックに訊ねた。

「――プレゼントだって言って、爆弾を渡したんだ。笑ってたよ、父さんも、母さんも。俺がプレゼントなんて十年ぶりじゃないかって。まったく、人がいいよ。騙されてるなんて知らずに、機嫌よくしてさ、俺の無理を聞いてここまで連れてきてくれた。ふたりとも、忙しかったのに」

 軽薄な笑みを作っていたザックの顔が、見る見るうちに様相を変じ、目じりに涙が溢れていく。

「――それで俺のやったことはと言えば、ふたりを殺す爆弾のスイッチを押すことだった。リーダーに騙されたんだ、なんて言い訳は、ふたりにできるはずがないよ。だから……」

「だから死ぬのか」

 クリストフは、左手に持ち替えた銃の感触よりも、さらに冷たい声を出した。

「たしかにおまえは重罪を犯した。両親を殺し、現在進行形で多くの流血を招いているこの陰謀の一翼を担ったのだから。――そんなおまえが死ねば、たしかに再犯の可能性のある人間がひとりこの世から消えて、そのぶんだけ世界は安全になるだろう。しかしおまえの犯した罪は、おまえの過ちだけがひとりでに生んだものじゃない。そして今のおまえは、己が罪に至った過程とその結果の意味をじゅうぶんに認識している」

 ザックは力なく頷く。その拍子に涙が床に滴った。

「なら、おまえにはやるべきことがある。罪を繰り返すな。そして他の誰にも繰り返させるな。それがおまえに課せられる、いや、おまえが自らに課すべき罰だ」

「罰……。罪滅ぼしをしろっていうのか」

「違う。罰を受けることでは、人は罪から解放されない。償いは恨みを消しうるが、悲しみと罪を消し去ることはない。両親を殺したその罪は、一生おまえから離れることはない。人の命は何物を以てしても贖えない。おまえはただ、罪を知ったがゆえに、罪と戦わねばならない」

 ザックは言葉をなくしたかのように、ただクリストフを見つめ続けた。その目は確かに、この世界に焦点を結んでいる。

「そのためにはまず生きろ」

 右腕を伝う血よりも温かい声をかけてから、クリストフはザックに背を向けた。あらゆる時間稼ぎが突破され、追っ手が近づいている。

「おまえがフェンスをつたって下に降りられるまで、俺が奴らを食い止める」

「そんな、それじゃあんたが……」

 クリストフのプランを否定しようとして、ザックが言葉を喉のところで飲み下す。威圧的な靴音が、訓練を積まない者にもじゅうぶん聞こえる距離まで迫っていた。

「生きろ、と言ったぞ」

 言い置き、クリストフはコンファレンスルームから飛び出る。ちくしょう、という叫びが背後で遠のいていくのを、クリストフは満足げに聞いた。

 バッグを廊下に放り、警官たちが反射的にそこへ銃弾が撃ち込んだ隙に、クリストフは別の角度から警官を狙撃する。その奇襲により、クリストフは先頭のひとりの肩を貫いたが、利き腕でない左腕での射撃ではそれが精一杯だった。続く警官の発砲をかわしそこね、今度は左の太腿を抉られる。倒れざまに最後の手投げ弾を放ったが、催涙弾ではマスク着用者には効果がない。当然のように、白い煙の向こうからはまだ銃弾が襲いかかってくる。

 物陰になんとか転がり込んで一時をしのぎ、不用意に追走してきた警官ひとりを狙撃する。命中。しかし、クリストフの腕もそれで限界だった。催涙弾の影響を自分でも受けて、涙で視界が利かなくなる。すぐに嗅覚も駄目になった。まわりがわからない。

 いつ撃ち殺されるのか。仰向けのまま、クリストフは長いとも短いとも知れぬ時を待った。思い返そうにも、まだ二十年にも満たない人生。後悔しているのかと自問し、クリストフは否と即答した。

 ――あいつは、ザックは、俺より三つは若い。

 違うだろう、と苦笑する自分がいるのをぼんやりと知覚して、クリストフは自分がこんなところで朽ちようとしているそもそもの原因を思い起こす。遡れば、それは一九九九年の夏。

「そうだ、俺は罪と戦って来たんだ。この最悪の事件が、いや、この最低の世界がユートピア崩壊に端を発する惨劇ならば、その罪はユートピア自身にある。それを知るが故に、俺は戦わねばならない」

 気がつけばクリストフは声をあげていた。意外に恐怖を感じないのは、すでに神経が死にかかっているからかもしれなかったが、知らず知らずのうちに声が出たのは、自分という存在の証をこの世界に残したかったからかもしれないと、クリストフは思う。悲壮感はない。ただ、最後まで戦ったという達成感が、外界との接点をなくしたクリストフの内奥を満たしていく。

「――生きろ」

 胎内のぬくもりに帰ろうとしていたクリストフの殻を、その言葉が破った。途端に右腕と左脚の痛み、そして催涙ガスによる感覚器への打撃に晒されて、クリストフは呻きを上げる。

「おまえはまだ戦わねばならない」

 ――何故だ。俺はもう、じゅうぶんに戦った。

 そう問おうとはしたものの、実際には咳が出るだけだった。

「真に罪を知るものこそ、生きろ。そして戦え。世界はまだ、その罪を知らないのだから……」

 クリストフは目を開いた。黒髪にかかった赤い液体をスプリンクラーに洗い流されながら、ひとりの青年が静かに微笑んでいる。

「ヴァルター……。助けに来てくれたのですか」

「ベネディクトから連絡を受けてな」

 青年は銃を紐で肩にかけると、クリストフが起き上がろうとするのに手を貸す。

「申し訳ない。あなたには、ここではもっと大事な役目が……」

 咳の合間に詫びると、青年は笑みを消して、言った。

「今、おまえを失うわけにはいかない。ともにこの世界とユートピアの罪を知る者として」

 はっとして、クリストフは気づいた。彼にとっての自分を、自分がザックの中に見出していたことに。生涯をかけて戦うと決めた罪から、それをザックに押し付けることで逃れようとしてしまったことに。

 青年は再び微笑む。

「だから、生きろ」

「――はい」

 頬を流れる涙の筋が、支流をつくって口の中に流れ込む。

 本当の涙の味だと、クリストフは思った。



 二〇〇五年四月三日。

 いわゆる「ボンの惨劇」の影で、ふたつの非合法組織が戦っていた。一方は、地球啓蒙教会の教えのもとに結束し、「八月の悪夢」以前の世界への回帰を羨んだ者たち。そしてもう一方は、かつての世界的革命組織ネットワークの遺児であり、世界が過去に犯した罪を償おうとした者たちである。彼らの戦いの起源と顛末は、あらゆる公的記録に残ることなく、ただ、一部の人々の記憶にのみ残された。「ユートピア」という言葉とともに。



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