Wezverd Fragments

#006 “ウルゼル”



 ウルゼルはもう三時間近く、二階の部屋に引き篭もっていた。花柄のシーツがかけられたベッドと、その上に独り座らされた熊の縫いぐるみとを無視して観測すれば、およそ世の中の少女が自室としたいとは思わない、そんな部屋の中。気づけば日は落ち、蝙蝠たちのざわめきも聞こえなくなっていた。

「暗くなったわね」

 重たくて分厚い辞書と哲学書をなんとか持ち上げて本棚に戻すと、ウルゼルは靴を脱いでベッドに飛び乗った。そして部屋にひとつしかない窓から外を眺める。視野の半分は、屋外から窓際に迫る庭木の枝葉に遮られているが、残る半分の面積からは月が見渡せる。そして今日は満月がそこに現れることを、ウルゼルは知っていた。

「月は綺麗だよね」

 熊の縫いぐるみが、手を取られて動きだした。弾かれたように立ち上がり、軽やかなステップで窓際に歩み寄る。右手をかざして月を見やり、嬉しさのあまり踊りはじめ、やがて勢いが過ぎて足を滑らせ、尻餅をつくという寸劇を披露する。

「どこが綺麗だと思うの?」

 熊を見下ろして、ウルゼルは問う。

「女神様が住んでいそうなところ」

 ウルゼルを見返して熊が跳びはねる。

「月には大気がないわ。宇宙服を着た女神様なんて見たくない」

 否定された熊は、腕を組んで――実際には、そうしようと試みたものの腕が届いていなかったが――少し考える仕草を見せたあと、何かを閃いて再びジャンプした。

「きれいに円いところ」

「それじゃ太陽も一緒よ。それに、円いのは満月のときだけ」

「いろいろ表情を変えるところが人間みたいで面白い」

「人は決まった順序で表情を変えたりしないわ。もっとも、とても無表情なあなたには、それでも面白いのかもしれないけれど」

 ウルゼルが呆れた声を出すと、熊は躍動を止め、シーツの上に転がった。人の手から離れたそれは、もう生を演じることをやめている。

「やっぱり私って、表情が乏しい? お人形みたい?」

 熊は動かないまま、声が続く。

「ええ、そうね。私が言うのもなんだけど、もうちょっと社交的な表情を覚えたほうがいいと思う。――でも変よね。言葉はそんなに生き生きしているのに、どうしてそんなに無表情なの? もし私の目が見えなかったなら、きっとあなたはずっと微笑んでいると勘違いしたに違いないわ。――あ、目が見えなかったら、微笑むってことがどうこうことかは、わからないのかな」

「微笑むっていう表情を認識することは可能だよ。それがどういう感情を表現するためのものであるかも、状況から推定できる。でも、それを真似することは、とても難しい。こう見えて私は、あなたとは少し違うの。わかるかな、ウルゼル」

「わからないわ、そんなこと」

 ウルゼルは熊を取り上げ、それをじろじろと観察する。

 いったい、何が面白くてこのようなものを作るのだろう。これは実在の熊の体型ではない。本当の熊は人の言葉を話さない。擬人化はイソップの童話の世界だけで完結していればいいのに、なぜその虚構を現実の世界に持ち込もうとするのだろう。――ウルゼルにはそれが理解できない。これをウルゼルに買い与えた養母エリーゼは、同様にウルゼルの心が理解できなかったのだろう。

 完全に寝そべり、ウルゼルは熊を床に向かって無造作に放り投げた。

「あら、乱暴じゃない」

 抗議の声が上がった。

「叱る?」

 天井を見つめながらウルゼルは訊ねる。

「どうしようかな。よくわからない。どうするべきなのかな」

 枕元から伸びた手が、ゆっくりとウルゼルを撫でる。懐かしい父の手より体温が低いが、むしろ心ぬくもるものがあった。母親の手とは、こんなものだっただろうか。

「あなたって、変な人ね。コロナ」

「それ、よく言われるセリフね」

 ウルゼルは顔の角度を変え、膝立ちになって彼女を覗き込む黒髪の女――コロナと目を合わせた。縫いぐるみに生を演じさせていた彼女の手は、他にもさまざまな力がそなわっているらしく、ウルゼルはコロナに撫でられているととても心が静まる。

「ねえ、コロナ。どうして人生って自分で選べないのかな」

 ウルゼルが前置きもなく問うと、コロナは手を止め、首を少し傾げる。しかし、表情はマネキンのように固まったままで、快活な声音とのギャップが著しい。まるでロボットのようだとウルゼルは思う。二時間前、彼女を窓の外に発見したときから、ずっと変わらない顔。

「少し、不気味」

 ウルゼルは正直に言ってみたが、コロナの表情は笑いも怒りも悲しみもしない。ただ、「そう」と応じただけだった。

 コロナを窓から招き入れたのは、ウルゼルの思い立ったことだった。コロナは樹の太い枝に座って、足をぶらぶらさせていたが、ただ遊んでいるわけではなく、そこから門のほうを注視して、何かを見張っているようだった。

 ガラスを挟んで、たった二メートルほどの距離にいたのだが、声をかけられるまでコロナはウルゼルの存在に気づかなかったらしい。いきなり声をかけたらびっくりして枝から落ちてしまわないかと、ウルゼルは声を出してから気づいて心配したのだが、コロナがびくりと体を震わせることなどなかったし、ウルゼルをふりかえった顔に驚きは表れていなかった。そしてお互いに何ら警戒することなく、ふたりで部屋にいるという今の状況に至った。

 何をしていたのかと、まず、ウルゼルはそれを訊ねた。人を探していたのだ、とコロナは答えた。ウルゼルはその件については質問を重ねなかった。なんとなく見当がついたからだ。

 一階の広間では今、親戚や両親の友人、そしてその他の知らない大人たちが大勢集まって、話をしている。この家にあれだけ人が集まった例は、たぶん過去にないだろう。その彼らの主要な議題は、他ならぬウルゼルの今後の人生に関することだ。ウルゼルが部屋に引き篭もっているのは、そのためである。大人たちが自分の処遇を巡って意見を対立させ、声を大にするさまは、もうたくさんだった。一秒たりとも、再び見ようとは思わない。

 コロナは、あの大人たちのなかの誰かに用があるのだろう。それで、いつ終わるとも知れないあの話し合いの場から、その人物が抜け出したりしないか、見張っていたのだ。あるいは、遅刻してきそうな誰かを探していたのかもしれない。そのために木に登る、というのはウルゼルにはない発想だし、どういった利点があるのか推測するのも難しいが、世の中には自分と違う発想の持ち主がたくさんいるという普遍的事実を、ウルゼルは既に知っていた。

 わからないのは、コロナが本来の目的を放棄して、こうして一緒に部屋にいてくれる理由だった。もう二時間になる。この部屋の中にいても、窓に貼りついていれば見張りも続けられたはずだが、コロナはウルゼルの哲学書との格闘をじっと見守っていたので、それは全く実行できていない。この不思議な女性は自分を攫いに来たのではないか、という想像もしてみたが、すぐにその可能性は排除した。

 ――いったい誰が、九九年組の子供を欲しがるだろう。社会のゴミなどを。

 物心つく前に母は死に、そして三ヵ月前、父も失った。もはやウルゼルを必要不可欠とする人間など、この世にいないに違いないのだ。だから大人たちも揉めている。これから自分がどこで生きていくことになるのか、自分には決める権利がない。一縷の望みを託して哲学書を読んでみたところで、大人たちの理屈や感覚は推し量りがたく、状況打開の道は拓けなかった。ウルゼルの心は暗澹たる沼へと沈む。

「悲しい?」

 目じりから耳のほうへと伝わっていく涙を目に留めて、コロナが再びウルゼルを撫でる。

「悲しいんじゃない。悲しかったの。過去のこと。今は、コロナがいるから、嬉しい」

「でも、泣いている。嬉しくはなさそう」

「そう見えないだけよ。嬉しいもん」

「ふうん」

 それきりコロナは沈黙するかと思ったが、ウルゼルの予想に反し、二の句が継がれた。

「下の人たち、さっきからずっと、あなたのことで真剣な話をしているね」

「え、聞こえるの?」

 ウルゼルは驚いて、耳を澄ます。声の大きい男がいて、その話し声だけは断片的に聞こえなくもないが、ウルゼルには到底、会話の内容まで聞き取れない。

「私は、あなたとは少し違うから」

 床に下りて耳を当てようとしたウルゼルを、コロナが止める。さきほども同じ言葉を口にしたことを、ウルゼルの耳は覚えていた。

 コロナに支えられながら立ち上がったウルゼルは、今度はうつ伏せにベッドに倒れこんだ。そして呟く。

「コロナは、かわいそう」

「どうして?」

「私は、あの人たちの声を聞いていたくないから、ここにいるの。でも、コロナみたいに耳がよかったら、もっと遠くまで逃げなくちゃいけない。とても通りなんて歩けないもの。かわいそうよ」

「意味がわからない。説明して。どうして、通りを歩けないの?」

「外に出たら、私やお父さんを悪く言う人たちがたくさんいるもの。九九年組だ、邪魔だ、いなくなってしまえって。お父さんがいた間はそれでも我慢できたけど……。もうここにいたって……」

 再び涙が溢れてくるのを自覚し、ウルゼルは布団に顔を押しつけた。

「だから、消えてしまいたい?」

「まさか。私はもっと生きていたい。やりたいことはたくさんあるもの。勉強して、友達を作って、恋をして、そうね……、月面旅行にも行ってみたい。百歳までは生きるわよ」

「そのためには、今を乗り越えないとね」

 ――そう、それが問題なのだ。

 ウルゼルはシーツを強く握りしめる。

「今の私は不幸だわ。早く、幸福な人生に移らないといけない。でも、やっぱり、人生って計画通りにはいかないものなんでしょう?」

「それはそうよ。でも、あなたの目指していることはきっと実現できる。だって、あなたのお父さんにはできていたもの」

「え?」

「あなたのお父さんは、たしかに不遇だったようだけれど、多くの友達に恵まれた。好きな研究を仕事にしていた。恋もしたから、お母さんと結ばれて、あなたがいる」

 指摘された点を、ウルゼルはよく考えてみる。

「私、まだ友達がいないから、わからない。あの人たちって、いい友達? エリーゼおばさんは、よく私のことで溜め息をつくわ。お父さんが死んじゃってから、回数が増えた気がする。きっと、私のことが邪魔なんだ。でも、他の大人たちも同じように思ってる。だからいつまでも話し合いが終わらないのよ」

 いざ口に出すと、やはりそうに違いないという認識が強まって、ウルゼルはむしゃくしゃしてきた。

「エリーゼおばさんは、あなたを嫌っているわけじゃないみたい」コロナは昂ぶるウルゼルを撫でる。「ただ、あなたのことがわからなくて、困っている。あなたを嫌う人たちがいることにも、どう対処したらいいかわからないでいる。だから、誰かもっといい人に引き取ってもらえないか、話しているんだね。でも、ちょっとウルゼルの面倒を見るのは、他の子を育てるのより難しそう。みんな楽な生活はしていないし、なによりあなたのことを思えば、自分のような悪い環境では引き取れない……。それで堂々巡りしているようだけれど」

 コロナは本当に階下の声がよく聞こえるらしく、もはやウルゼルの知らないことまで把握しているようだった。しかし、情報の処理を誤っているとウルゼルは感じた。

「そんなの嘘よ。私がこの縫いぐるみを欲しくなかったみたいに、あの人たちも私みたいな子供なんて欲しくないんだ」

「その熊のこと、エリーゼおばさんに言ったことないでしょう?」

「あたりまえじゃない。そんな立場じゃないもの」

「優しいのね。でも、エリーゼおばさんはそれで悩んでいたんじゃないかな」

 盲点をつかれ、ウルゼルはしばし押し黙る。そのような視点を持ったことはなかったが、コロナの言わんとするところはわかった。ここでの生活をふりかえれば、思い当たる節がないではない。

「そうね、おばさんには悪いことをしたわ。私が他の子と違うのが、そもそもいけなかったのよ。――でも、私はやっぱり縫いぐるみなんて欲しくない。縫いぐるみを好きなウルゼルを演じることなんて、無理」

 巡り合わせが悪かった。それに尽きると、ウルゼルは思う。六年前に母が死んでしまったのは、その夏に起きた大災害のせいだった。父が死んだのは、仕事で街に出かけた夜に暴動に巻き込まれたせいだった。どちらも運がなかったと、そう大人たちは言っていた。つまり、特定の誰かが悪いのではない。――自分も含めて。だから、偽物の自分を演じるという苦行を自分に課したくなどない。なのに、その意志を貫こうとすると、自分にさらなる不幸が押し寄せてくる。ジレンマだ。

「あなたはあなたでいればいい。あなたは正しいわ、ウルゼル」

 呟くように言ったコロナは、ウルゼルではなく、窓から見える満月を見ていた。

「ウルゼル。実は私ね、月から来たんだ」

「嘘よ。月に行って帰ってきたのは、アポロに乗っていた人だけ」

 唐突な話題とその内容に、ウルゼルは自分の顔が笑っているのか怒っているのか自覚できなくなった。コロナのほうはあいかわらずの無表情で、本気なのか冗談なのか判断がつかない。

「嘘じゃないよ。みんなが知らないだけ。信じられない?」

「――わからない」

 自分でも意外な答えを、ウルゼルは口にした。嘘に決まっていると思う。いや、思っていた。絶対のことと信じていたのに、コロナに言われると、これまで知っていた世界に嘘がなかったのかという疑問が浮かび上がってきたのだ。

「私も最初は、わからないことだらけだった。言葉、習慣、文化。少しずつ覚えていったけど、まだこのとおり、表情っていうのが覚えられない」

「喋るほうが、難しくない?」

「ううん。文法を覚えるのは時間と環境の問題。発声は周波数と強弱のパターンを学習すれば模倣できる。でも表情はそうはいかないの。筋に信号を送る段階で私は挫折しているんだよね。逆に、それさえわかってしまえば、あとは試行錯誤で入出力の関係を学習して、表情を会得できると思うんだけど。――あ、ちょっと難しい言葉使っちゃったね」

「いいよ。音で覚えたもの。あとで辞書を引くわ」

「へえ。それ、ちょっとした才能よ」

「そうかな。みんな、できるんじゃないの?」

「世間知らずだね、ウルゼル」

 そうかもしれないと、ウルゼルは気づく。自分の知っていた世界、自分が捉えていた世界は、なんだったのだろう。自分は見間違いだらけの世界観を基盤として、自己と他者とを認識していたのではないか。つまり、自分は台本を読み間違えていた演者だ。台本をちゃんと読めないくせに、もっと別の、傑作の台本を手に入れようと夢想していた、哀れな少女……。

 台本をちゃんと読めるようになれば、両親と同じになれるのかもしれない。そう考える一方で、ウルゼルはやはり闇から目をそらせない。その両親は不運によってこの世を去ったのだ。

「私はいったい、どうすればいいの……」

「それは答えられない。私にはわからないもの。ウルゼル自身が考えていくしかないよ」

「無理よ」

 コロナのほうに寝返りを打って、天井を見つめる。遠い。

「誰かと一緒でもいいんだよ」

 より近くなったコロナの瞳がウルゼルを捉える。

「じゃあ、コロナが一緒に考えて。これからも一緒にいてくれない?」

 勇気を出して、ウルゼルは提案した。

「ごめん、それは無理」返事は早かった。「もう行かなくちゃ」

「待って。月から来たって話、信じるから」

 ウルゼルはコロナにしがみついてみたが、コロナは首を横に振った。

「そんな理由じゃないよ。下の話し合いが終わったから。――私が探していた人は、もう来ないみたい。ウルゼルのことを、一緒に考えてくれる人も決まったようだよ。ベネディクトって男の人、わかる?」

 ウルゼルはひとまず頷く。ベネディクトという大人は、父と何度か会っていたのを覚えている。知る限りでは、ウルゼルの嫌いな人間ではない。安堵すべき事実なのだろうが、しかしウルゼルは今日ベネディクトが来ていたことを知らなかったし、父親とは仕事関係の知り合いだと思っていたので、その男が自分の引き取り手になるとは意外だった。

「いつか、また会える?」

 涙を拭ってくれるコロナの指の体温を感じながら、このぬくもりも音と同じように漏らさず記憶できればいいのに、とウルゼルは思った。

「そうしたいけど……。ごめんね、約束はできない」

 コロナが立ち上がり、ウルゼルの足元のほうを迂回して窓に取りつく。ウルゼルは体を起こして、その一挙手一投足を漏らさず見届けようと集中した。その耳が、階段を上がってくるふたりぶんの足音を感知する。片方はエリーゼのもの。もう片方はベネディクトのものだろう。ふたりの足音がドアまで辿り着く前に、コロナはここから消えてしまう。あまりにも自明な事柄だった。

 窓が開けられ、夜気が部屋に入ってくる。軽い身のこなしで窓枠に乗り、そのまま樹の枝へと飛び移ろうとしていたコロナは、思いとどまってふりかえり、横目でウルゼルと視線を合わせた。階下からの足音が近い。

「ウルゼル。覚えておいてね。地上からどう見えていても、月はいつでも円い。――そう、ただそのように見えていないだけ。あなたが見ていた世界がすべてではないことを忘れないで」

 言葉の終わりとともに、コロナは闇に消えていった。

ウルゼルは足音に急かされるように窓を閉め、ノックの瞬間を待ち構える。もう泣いてはいない。ウルゼルは今、愉快だった。最後の瞬間、コロナが微笑んだように見えたから。

「ウルゼル、入るわよ?」

 ノックとともに、緊張したエリーゼの声がする。しかし彼女はドアを開けられない。ウルゼルが中からノブをロックし、それを開けるための鍵を事前に隠しているからだ。ベネディクトがエリーゼと何か囁きあうのが聞こえ、鍵を探しに引き返そうとする気配をウルゼルは察知する。

「ちょっと待ってて」

 自らドアを開けに駆け出す。暗がりの中、床に転がっていたくまの縫いぐるみを蹴飛ばしかけた。ウルゼルは立ち止まってそれを拾い上げ、改めてそのメルヘンな容貌を観察する。

 ――室内の装飾品と考えれば、まぁ、悪い品ではない。

 縫いぐるみを本棚の空きスペースに座らせてから、ウルゼルはロックを解除してドアを開け、廊下の照明の逆光のなかにエリーゼとベネディクトとを見上げる。部屋の電気がついていないことに気づいたエリーゼは、「まあまあ」と高い声を出した。

「真っ暗じゃないの。寝ていたの?」

「ずっと起きていたわ」

「そうなの? こんなに暗くちゃ、ものが見えないでしょう。怪我をしますよ」

 傍らの男の存在など忘れたように、エリーゼは部屋の中を見回して、床につまずくような物がないか探しているようだった。電気のスイッチを入れればいいのに、とウルゼルは思い、少しあとに気がついた。電気をつけない、というウルゼルの選択をエリーゼは尊重しているのだ。そのときウルゼルは久しぶりに、養母に対して自然にほほえむことができた。

「いいえおばさん。新しいものが見えてきたわ」



 二〇〇五年。

 六年前に起こった八月の悪夢は、生ける者から生命を奪い、さらに、生き続ける者からも生活の場を奪った。都市単位で生じた難民は、生計を立てるあてもないまま近隣の都市、あるいは隣国に移り住むことが多く、特に欧州では移住先での失業率増大、宗教対立、そして治安悪化という深刻な社会問題を招いた。この移住者たちは職種や経歴を問わず「九九年組(ナインティナイナーズ)」と呼ばれ、時事問題のキーワードとなっていた。一方では人類が力を合わせ、地球と月とを結ぶ往還機の開発に向けて動き出していた頃のことである。

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