黒龍隊の挽歌 プロローグ

江藤、左遷



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 時に、西暦二〇二二年。

 人類は、前世紀に冷戦の終結をもって振り払ったはずの悪夢、第三次世界大戦という忌まわしい言葉を現実のものとして使わざるを得ない、混迷の時期にあった。

 二十世紀末のソビエト連邦の崩壊により、大国同士の全面戦争というヴィジョンは蝋燭(ろうそく)の火のようにふらりと消えた。その煙の筋も、民族紛争という波に飲み込まれて、世界の戦争形態はその様相を一変させたはずだった。それがまた大きく違う方向にうねることになってしまったのは、まったくもって、歴史の必然などという表現からは遠いものだった。

 「八月の悪夢」。それが今まさに地球を覆っている悪夢の序幕であった。

 一九九九年八月、ユーラシア大陸は突如として謎の隕石群の落下という惨事に見舞われた。幸いにも隕石の直径はいずれも百メートル未満だったが、その幸いを認識できないほどの恐怖を隕石群はもたらした。というのも、これらの隕石はおよそ常識で考えられる隕石、石ころなどではなかったのである。

 上空数千メートルから地表付近に至る過程で、質量を完全にエネルギーと化して消滅する物体。隕石の定義に当てはまるかどうかさえ疑問のこの物体は、おびただしい数をもってユーラシア大陸全域および周辺海域に落下した。この隕石の爆発のメカニズムはなおも解明されていないが、それが容赦ない衝撃波と落雷レベルの放電を地表付近に発生させた事実は、事の解釈にかかわらず、確固たる人類共通の記憶となっている。

 無論、被害はその一次的なものだけではない。

 世界規模での津波、洪水は言うまでもなく、断層や地下のマグマの対流にも隕石群は多大な影響を与えた。結果、各地で記録的な大地震や火山の噴火が引き起こされ、落着と爆発による一次作用とも相まって全地球規模での気象変動を招いた。加えて、震災や噴火による都市や村落の壊滅。港湾の破壊による海路の、あるいは著しい気流の乱れによる空路の途絶。農作物の絶対的な量の不足……。

 そして忘れてはならないのは、原発や核弾頭貯蔵庫などの損壊により放射能汚染された地域が各地に存在することと、数発の核ミサイルが誤射され百万を超える死者が出たことである。これらの地域では今でも放射能汚染に苦しみ悶(もだ)える人々が残されている。あまりの異常現象のために、レーダーが核ミサイルの発射を探知できず、核ミサイルの応酬という破滅を導かずにすんだのは皮肉である。

 かくして、直撃を受けていない他の大陸も含めて、悪夢と呼ぶにふさわしいだけの打撃を人類は被った。二十三年を経ても、死者・行方不明者の数は杳(よう)として知れない。

 この降って湧いた災いを幸運にも生き延びた人間が、まず何をするか。答えは明瞭である。生きたいという根源的な欲求を達成するための手段、つまりは、食料をはじめとする生活必需物資の確保である。

 隕石の爆発と天変地異により地球の総人口は少なくともその一割を減じていたが、食料を始めとする物資の不足はそれを大きく上回っていた。発生から一年間の物資争奪による死者数は億を数え、餓死した人口はそれを優に超えた。さらにユーラシア大陸では住居を失った多くの者たちが異常な寒暖や豪雨豪雪にさらされ、また数百万の骸(むくろ)が横たわった。

 どこの政府もこの騒乱に対処しきれるわけがなく、高まる反政府運動が戦乱の世を形成するのに要した時間がたった三ヵ月。そこには世界規模のネットワークと影響力をもつ反体制革命組織、ユートピアの暗躍があった。

 だが、何事にも歯止めはかかる。皮肉なことに人口の激減が食料の充足率を持ち直させ、飢えを満たした人々は復興再生の堅実な道を歩み始めた。同時に、アジアを中心に革命やクーデターなどを起こしたユートピアは、既存体制の打破、あるいは支配権の簒奪(さんだつ)に成功し、新体制構築を推し進め始めた。彼らは手中に収めた軍事・警察力を以て厳格な物資統制を断行し、未曾有(みぞう)の大混乱の終息を図った。これは一方で、民意による救済を隠れ蓑(みの)にアジアでの権益を得ようと企図していたアメリカの介入を抑止するものでもあった。

 年が明けて、二〇〇〇年二月。

 「八月の悪夢」の惨禍のメインステージとなったアジア各国及びロシア連邦は、絶対的に不足する物資の相互補完を旗印に、大亜細亜同盟を結成した。これはユートピアの思惑の延長上と見られたが、彼らの独力で計画実行されなかったのは明らかだった。この時点で、ユートピアという常識を超えた巨大組織は、自己を保持するだけのエネルギーを物的にも精神的にも失っていたのである。

 卓抜した指導者ウォレノフ・ライルスキーの病没。全体を統括する存在を失ったユートピアは、各地の政権への介入のためもあり物理的、組織的双方の面で分裂を開始していた。それを止めようとする意志と力もありはしたが、対する流れに到底拮抗(きっこう)しうるレベルではなかった。

 同年四月、大亜細亜同盟が雄大且(か)つ無謀な宇宙移民計画を立案する精力を内外に示したのとは対照的に、ユートピアは幾つかの派閥勢力に分裂した。これ同時に、統制力の低下によって理想を見失った徒党が、半ばギャング化して各地に散らばる結果となった。

 そして二〇〇二年。

 早くも国力を回復したアメリカは再びアジアの市場を虎視眈々と狙っており、結束の弱い大亜細亜同盟の相互保護貿易政策は瓦解寸前にあった。一方、大亜細亜同盟内部では、旧ユートピア系の中小勢力を糾合した新組織「エデン」が反体制の最大勢力を築き、各国で活動を激化していた。

 その両者に対して牽制と防御を図ったものか、大亜細亜同盟は予(かね)てより進めていた空前絶後の連邦樹立を前倒しで実行した。歴史を大きく変える、亜細亜連邦の樹立である。この日、七月五日を境に、世界はアメリカ合衆国と亜細亜連邦、そしてEUという三大勢力が割拠するようになり、旧世紀に誕生した第三世界は第四世界と名を変えることになった。

 時は流れて、二〇一九年。

 地域によってはまだ絶望的な内戦や飢饉が続いていたものの、世界は一定レベルの安定を維持していた。それが強権発動と躊躇なき軍事力の投入に支えられたものではあっても、自らの生活を確保された人間はそこで世界の有り様に妥協し、己の平穏をうわべだけでも形作って、その狭い殻の中に閉じこもって笑っているのが現実だった。

 明るい変化もあった。蓄力(ちくりき)システムの発明など、「八月の悪夢」後から観測されはじめた異常現象の活用。各国共同で設立した人類宇宙開発センターが新世代型宇宙往還機GSP-Ⅲ(サード)の軌道投入に成功。科学と産業の発展と地球外移民に、人々は夢と希望さえ持てるようになっていた。人は災厄を乗り越えて、文明の新たなステージに踏み出したのだ。

 だが、同年五月。地球と宇宙の境である中間圏に直径五キロメートルの巨大隕石が出現するという不可思議な事件が発生。物理学を無視した異常な低速で隕石は北海に落着した。いくら低速といっても質量が質量である。隕石は巨大な津波を引き起こし、周辺国の臨海部と世界の海上貿易に被害を及ぼした。

 徹底した情報統制が敷かれ、一般市民に真実は伏せられたが、被害は現実である。証拠といわれる映像や目撃談も多く、「北海疑惑」と称される巨大隕石落下説は広く浸透した。「八月の悪夢」の再来だ、世界は終わってしまうのだと世界で騒がれたが、これがまさに、第三次世界大戦という悪夢の始まりであった。

 時を同じくして、ひとりの男が政治の舞台にその姿を現した。かつてのユートピアの指導者ウォレノフ・ライルスキーの孫であり、十年以上行方不明になっていた男、ハンス・ライルスキーである。世界情勢に陰から影響を及ぼしていた祖父と違い、公にその身を晒(さら)した彼は、北海に落着した隕石の管理責任者を自称した。そして事実、その隕石に近づけるのは彼だけだった。他の船やヘリなどはことごとく機関に事故を起こすために、隕石の調査は彼に任せるしか術(すべ)がなかった。

 程なくして、北海の隕石の管理権を欲したさまざまな勢力が、ハンス・ライルスキーに接近した。彼は多くの組織を手玉に取った末、ドイツ軍に自分の組織を独立機関として組み込むことを条件に、間接的な管理権をドイツに委譲した。ドイツ軍に特殊機甲部隊が設立されるのは、その二ヵ月後のことである。

 二〇二一年。

 ハンス・ライルスキーは、秘密裡(り)に開発・量産していた人型機動兵器、「機兵」を戦力に、ドイツでクーデターを起こした。「八月の悪夢」後の混乱でもクーデターを経験しなかった他の欧州主要国の戦慄は想像に難くない。電撃的に軍部を武装解除させ、その日のうちにドイツ政府を解体したその驚異的スピードは、旧ユートピア系の勢力の介在を窺(うかが)わせるものがあった。

 彼は政府を解体はしたものの、自らを国家元首とすることはなかった。ドイツという国の主権を奪った上で、代わりに国家を建てるのでもなく、自らの率いた特殊機甲部隊の下に軍と警察を編入し、啓示軍(オフェンバーレナ)という軍事組織をつくったのだ。その際に彼が世界に向けて行った演説の中で、彼の理念をもっとも顕著に表した言葉がある。

「私だけが世界を正しく導いていける」

 彼が軍事組織の下に執政機関を置くという凶行に出たことで、ドイツ第三帝国の名を想起する人は少なくなかった。だが実際には、啓示軍内部でネオナチのような極右勢力は掃討の対象とされていた。それは、ハンス・ライルスキーの目的が「世界が生き残る唯一の方法を万民に示す」ことであり、その方便として自らの世界制覇を位置づけていたからである。自分以外の価値観のもとで人種抑圧が行われるのは、彼にとっても悪だったのだ。

 同年四月、「私だけが世界を正しく導いていける」の主語を「我々」に置き換えたものをスローガンにして、啓示軍は欧州各国に対して武力侵攻を開始した。当初こそ欧州事変と呼ばれたこの出来事は、およそ事変という呼称で済まされる生易しいものではなかった。啓示軍戦争の、そして第三次世界大戦の勃発である。

 啓示軍の機兵エントゼルトゾルダートはその攻撃力を遺憾なく発揮し、啓示軍は電撃的に対抗兵力を打破した。緒戦における機兵の戦果は全世界で煽情的に報道され、アメリカと亜細亜連邦では同様の兵器の開発が急ピッチで進められることになった。

 啓示軍は主要拠点を制圧した上で、市民のライフラインを握り、それから漸次、囲い込んだ地域の支配を進めた。

 啓示軍は略奪や暴動を厳しく取り締まり、治安を維持。地球の地軸異常変動説に基づいてその対策を講じるなど、大義名分に恥じぬ施策を強く推し進めた結果、制圧国の国民を短期間のうちにその軍政下に収めることに成功した。啓示軍支配地域の外から見れば全く理解しがたいことであるが、占領された欧州各国の軍隊が啓示軍の戦力と化していることを例にとれば、そのあまりに従順な被支配者ぶりは認識できよう。

 そうして雪達磨(だるま)式に増加する啓示軍の圧倒的な戦力と、高度で出所不可解な軍事技術の前に、支援に出たアメリカ軍も亜細亜連邦軍も敗退。わずか半年ほどの間に、ヨーロッパは完全に啓示軍の軍政統治下に置かれてしまった。

 このため、五月に暫定的に停止されていた国連の安全保障理事会は再開の見込みがなくなり、アメリカと亜細亜連邦の恣意(しい)的な軍事力行使に歯止めをかけるものはなくなった。アメリカは北大西洋条約機構に基づいて欧州の解放を叫び、啓示軍に対し全面的闘争の意志を示して宣戦布告としたが、亜細亜連邦は欧州との境界に守備軍を編成・配置しただけで、国境を越えての兵力投入の意思を示さなかった。

 二〇二二年六月、啓示軍は武力を背景に経済封鎖を押しのけて補給路を確保し、一方でアメリカ軍の上陸作戦を阻止。星条旗の威信をどん底に叩き落した余勢を駆って、ついに亜細亜連邦領に侵攻を開始した。

 啓示軍は亜細亜連邦の欧州方面軍を壊走させ、主要な都市や工業地帯、穀倉地帯を手に入れたが、内政の事情か動きが鈍り、七月半ば、早くも戦線は膠着状態に陥った。それでも九月には大侵攻を再開し、欧州方面軍の主力を壊滅させ、ウラル山脈の手前までを制圧。続いて南方にも手を回し、西部方面軍の二個軍団をも壊走させたが、ここに至って、啓示軍は機兵による戦術的優勢を減ぜられることとなった。

 亜細亜連邦軍もまた、機兵の開発に実りを得て、完成した機体の実戦配備に踏み出したのである。その機兵運用の中心となる部隊の名を、外廓聯(がいかくれん)という。

 これからの物語は、その外廓聯にスポットを当てるのではなく、またひとつ、別の戦場を描くものである。

 二〇二二年十一月二日。やがて世界に名を轟かせるその男は、まだ外廓聯にいた。




 朝霧に包まれた山中。

 静寂を想起するその景色に、無粋な異物が入り込んだ。機関砲の火線。一筋、そしてまた一筋。ひとたび聴覚を機能させれば、そこが爆音渦巻く戦場であることを悟らぬ者はいない。

 今また、朝霧を掻き消さんばかりの砲声が鳴り響いた。続く着弾で、棚田の土が吹き飛び、爆音を響かせる。直後、ロケット弾が発砲のあった方向へと撃ち込まれ、更なる爆音が鳴り響く。が、標的の姿はそこにはない。

 嘲笑(あざわら)うかのように、霧の中から一瞬だけ巨人が姿を覗かせた。人型を模した巨大兵器「機兵」。今のものは、啓示軍のエントゼルトゾルダートである。エントゼルトゾルダートはすぐにまた霧の中に消え、それを砲弾が追う。

「地上砲座! 二脚のゾルダートタイプがもう一機、どこかに隠れている! 三時の方向に二射、あとは弾数と相談して適当に撃っとけ!」

 外部音声を出力しながら、反対方向から別の機兵が姿を現した。ゾルダートとは明らかに異なる外観。そして、こちらは三機で隊を組んでいた。先頭の一機だけ肩の形状が大きく違うが、紛れもなく三機とも亜細亜連邦軍の機兵「(ロン)」である。

「追伸! 危なくなったら適当に退避するんだぞ」

 先頭の小隊長機らしき一機が、付近の地上部隊に指示を出しつつ、霧の中に消えたゾルダートを追う。

 その小隊長機のコクピットには、日本人としては規格外の大きさの巨漢が収まっていた。男は所狭しとコンソール類をいじりながら、器用にペダルやレバーを操作し、起伏の多い地形をスムーズに走破していく。敵の反撃を想定していないような動きである。

「ちっ、これくらい自動で対応できんとはな」

 噛まないように軽く舌打ちして、男はセミオート操縦の設定をすばやく変更。パイロットの各種操作を直接アナログ入力するセミマニュアルモード仕様に仕立て上げた。パイロットの操縦センスに重点を置いたモードである。

「大尉」

 先を急ぐ男の手元で、サブモニターが別のパイロットの顔を映し出した。僚機のパイロットである。だが、すぐにその映像は乱れて、音声とともに消えた。

「おい、どうした」

 男は通信が途絶したのを気にかけ、追撃をやめて手ごろな崖の陰に入る。自機や周囲の情報を表示しているモニター群に目を通すと、僚機二機と共有していたはずのバルムンクフィールドが単機展開に切り替わっていることに気がついた。後続の二機がいつの間にか追随をやめていたのだ。技量による走行速度の差があるにしても、距離の差が出るのが早すぎる。

 同一のバルムンクフィールド内にいなければ、自機の張っているフィールドが電波信号を弱めてしまい、安全かつ確実な電波通信はできない。しかたなく男が僚機を待っていると、明らかにセミオート走行を続けているとわかる速度で僚機は追いついてきた。

「大尉、無闇に追うのは危険です。隊長と合流するまでは一定の距離を保ちましょう」

「ここに陣取ったほうが安全ですよ」

 バルムンクフィールドが再び共有され、安全に通信ができるようになったところで、僚機のふたりが口々に男を制止しようとしはじめた。

「馬鹿モンがっ。ここを戦場にしたら、いろいろ面倒だろうが。ブリーフィングどおり、農地へのダメージは抑え、砲戦部隊の安全も確保する。いいな?」

「しかし、バロッグが晴れてしまった以上、迂闊に追撃して待ち伏せを受けるわけには」

「バロッグの外では機兵なんてただの的(まと)ですよ」

「そんなこと、お前らに言われるまでもない。だが案ずるな、この先はまたバロッグだ」

「ただの朝霧では。センサーには反応ありませんよ」

「いや、バロッグだ。朝霧とごっちゃに出てはいるが、間違いない」

 男は強く言い切った。

「感じる、のですか」

 遠慮がちに隊員が尋ねる。

「ああ」

 短く小隊長は答えた。

「なら、センサーより当てになる。なあ?」

「ああ。行きますか、大尉」

「だから、ついて来いと言っているだろうが」

 男は通信用モニターに映った二人の隊員の顔を小突くと、追撃を再開した。

 立ち止まっていたせいでゾルダートのセンサー反応が消失してしまったが、三機の龍は獲物の逃げ道を容易に推定できた。男の予言どおり先の山中には変則領域の霧、バロッグが発生しており、機兵が砲火を逃れて撤退するにはもってこいの道ができあがっていたのだ。

 追跡すること数分。龍の小隊はいまだに獲物を捕捉できないでいた。

「まずいな、隊長の追った一機と合流されるかもしれんぞ」

 小隊長の巨漢は、やや焦り気味に呟いた。

 隊長と連絡を取ることを考えはじめたそのとき、右翼についていた僚機からの映像通信が届いた。

「大尉、一時の方向に敵を感知!」

 声とともに、センサーの画面が転送されてきた。うっすらと二機の反応。

「よし来た!」

 巨漢の龍は、僚機を置いて単機で飛び出した。携行していた二又の槍「雷紫電」を右手に持つと、背部ブースターを使って一気に斜面を飛び越えた。目まぐるしく変化する視界。各種センサーで得られた情報が正面モニターに付記されるため、迷彩を施された二機のエントゼルトゾルダートを識別するのも、そう難しいことではなかった。着地と同時にロックオンに成功。向こうも追いつかれたのに気づいたらしく、片方のエントゼルトゾルダートは転進して機関砲を構えた。

「敵さんよ、三対二だぜ。いいかげん観念しな!」

 小隊長機の両肩についていた重機関砲が火を噴いた。手前の一機に向かって二本の射線が集中する。ゾルダートは煙幕弾を発射するとともに、回避運動を取りつつ機関砲による反撃を試みるが、動きにくい地形で激しく回避運動をしているため、狙いが定まらない。

「援護射撃、はじめーいっ! 頂上の奴を抑えろ!」

 小隊長は後続機に指示を出し、手前の敵機に向かって雷紫電を構えて走る。迎撃をものともせず突っ込んでくる小隊長機の行動にひるみつつも、ゾルダートは懸命に攻撃を続ける。疾走する龍の小隊長機は、その射線をギリギリのところでかわし、そのまま背中のロケットブースターを噴射した。踏み出すたびにドシドシ音を立てていた足が宙に浮き、代わって砂塵を起こしながら最短距離で突っ込む。さすがに龍にも数発の着弾。だが恐れの一切を見せず、龍は手にした雷紫電を両手で構えて突き出した。

 瞬きするほどの間の後、ゾルダートは機関砲を備えた右腕を肩から失い、同時に龍にのしかかられていた。

「アメリカ式に電気椅子といこうかぁ!」

 龍はゾルダートの肩口から雷紫電を引き抜き、改めて喉元に突き立てた。飽き足らず、さらにその先端を胸のほうにえぐりこむ。巨漢のトリガーひとつで雷紫電が放電し、頭部とコクピットとの間の電気系を破壊、同時にコクピットにも放電攻撃を加えた。コクピット間近にまで雷紫電を押し込んだので、パイロットはショックで気絶しているだろう。

 一丁あがり、と勝者はほくそ笑む。

「大尉、十時の方向に新たな敵影! 距離……うあぁ!」

 撃墜スコアを増やした男のもとに、通信機を通した僚機からの悲鳴が伝わった。

「どうしたぁ!」

「左腕に被弾、左肘が利かなくなりました。さっきの奴には被弾させましたが、今ので逃げられました」

「新手のほうは?」

「そっちもとりあえず退いたみたいですが……」

 僚機の返答を聞きながら、小隊長は自分でも状況を確認していた。斜面の頂上にいた一機は横からの支援で逃げおおせ、掩護を行ったほうも状況不利と見て退いたらしい。新手の一機は、隊長の部隊が追っていたもののはずだ。さしもの隊長も、このバロッグで見失ったのだろう。

「だが、再度攻撃してくる可能性もあるな。手負いの獣は怖い。警戒しつつ、隊長と合流するぞ」

「いえ、まだ行けます。次弾が来ないところを見ると、敵も弾を撃ち尽くしたようですし……。それに、ここで退がっては赤龍隊の名折れです」

「アホぬかせ。敵に捕捉されたのに、弾を温存せずにおくなんてのは素人もいいとこだ。だいたいお前の龍はもとから修理が万全じゃないだろうが」

「向こうも被弾させました。五分五分ですよ」

「ダメージコントロール性能は龍のほうが低いのを忘れたか。もういい、お前は軍曹とともに後退し、整備班のところに戻っていろ。隊長の隊とは俺だけで合流する。おっと、その前にライフル……火縄を渡せ。まだ弾は残っているだろう。さすがにこの機関砲だけでは心もとない」

「しかし大尉、実戦で使ったことは無いのでありましょう?」

「だから渡せと言うとるのだ。一回撃ってみたかった。早くしろ」

 小隊長にせかされ、損傷したほうの龍が大型の銃を手渡す。銃といっても、それは機兵を人間と見立てたときの表現で、実際には105ミリライフル砲である。

「大尉、微(かす)かに熱源の移動を感知しました。データ転送します」

 下がれとの命令を半分無視して、被弾していない方の一機が、右方を警戒しつつ通信を入れてくる。

「おう、でかした。――む、この様子だと、一目散に逃げているようだな。二人は負傷者の搬送支援を」

「了解!」

 今度こそ二機は後退。残った隊長機の龍は、雷紫電をマウントに据えると、火縄を両手でしっかり保持して歩きはじめた。




 八月の悪夢の後、既存の科学理論では説明できない現象が世界中で起きるようになっていた。たとえば、物質の結晶構造がかわったり、ぬくくなったわけでもないのに氷が溶け出したり、空飛ぶ雁(かり)めがけて猟銃を放った猟師が、跳ね返ってきた弾で足を貫かれたりと、具体的な現象は多種多様であった。

 これらの現象は特定の場所で、限られた時間だけ起きることが多く、その時間的・空間的領域は変則領域と名づけられた。

 変則領域の発生頻度は、八月の悪夢における隕石落下の規模ときれいな相関を示した。亜細亜連邦領では豊富な研究材料から変則領域の定性的分析が進められ、変則領域の大まかなカテゴリー化に漕ぎ着けた。

 そのなかで特に注目を集めたのが、地面から数十ないし数百メートルの高さで広範囲に発生し、一定の閾値(しきいち)を超える運動量を持つ物体の運動エネルギーをランダムに変換する変則領域だった。この種の変則領域はときとして霧のように肉眼で観測できることから、変則領域研究の第一人者サウエル・ワタナベ博士によって、バルムンクフォッグ、略してバロッグと名づけられた。

 幾多の悲劇を生んだ変則領域だったが、人類がそれを利用しはじめるのに長い時間はかからなかった。変則領域の原理は不明でも、ある程度の性質がわかれば、利用応用は可能だった。

 重力の作用を拡散する変則領域。特定波長の電磁波を吸収する変則領域。変則領域の影響を排除する変則領域。そうした人工の変則領域発生法が確立されるにしたがって、バロッグは天然の変則領域を示す言葉と化していった。

 機兵は、それら変則領域制御システムによってはじめて存立しうる新たな兵器である。以前から建設用に普及しはじめていた「乗俑機」を発展させたものであるが、機兵の機能は既存の乗俑機の比ではない。変則領域内でのあらゆる戦闘を既存の兵器に代わって実施するのが機兵の役目であり、ユーラシア大陸の戦場では、それは不可欠の存在と化しつつあった。

 機兵にとって、周囲の変則領域の有無を知ることは極めて重要である。変則領域にすっぽり包まれた戦場であれば機兵は圧倒的な主導権を握れるが、そうでない場合、機兵は歩兵の携行する対戦車ミサイル一発で戦闘不能になるリスクを負うことになる。しかし、変則領域の探知システムはまだまだ未発達で、曖昧な予想しか立てられない。たとえいい加減にでも予想が立てばいいほうだと苦笑する者は数知れない。戦車大隊を壊滅させて砲兵隊陣地の奇襲まで成功させた機兵部隊が、帰りの山道で歩兵部隊に遭遇し、全滅した事例もある。


「だからこそ、自分はエースパイロット足りうる」


 赤龍隊第二小隊の小隊長を任されている巨漢、江藤博照は独白した。

 彼、江藤博照はある特技、いや特異体質を持っていた。

 体の発育が異様にいいというのは、生まれてすぐからの特異体質だったが、彼のもうひとつの特異体質は、十一歳になって一ヵ月ほどが過ぎた頃に発覚した。それはすなわち、一九九九年八月。八月の悪夢。

 人には直接感知できないはずの変則領域。それを、彼は感じることができた。

 視覚でも聴覚でも触覚でもない。強いて言えば、嗅覚に近いものだった。

 どの器官が彼にその能力を与えているのかは知れない。脳に直接、という表現がいちばん近いが、体に痛みやしこりを感じることもある。だがそれが脳のもたらす擬似的な感覚であることは、数年のうちに判明した。たまにひどく痛んだとき、病院に行っても何の傷も疾患もないと言われることが続いたからだ。

 士官学校時代、彼がたまたま居合わせた飛行場で輸送機が着陸に失敗し炎上、多数の死傷者が出たことがあった。原因がバロッグだと、彼はすぐにわかった。飛行機の着陸を見合わせるよう管制塔に殴り込みに行ったのだが、警備員に捕まり、それをのしている間に輸送機は落ちた。

 警備員にいきなり暴力を振るったことで、彼は捕まった。教官の尋問と説教、それからフェンスに囲まれた病院に一日顔を出して、やっと江藤は解放された。大人たちからは墜落への関与を疑われずに済んだが、事故を防げなかった力不足を彼は自ら責めた。

 それから何年も経ち、科学者が変則領域の存在を立証し、人工の変則領域が作られるに至って、軍人となった彼は一度テストをしてみた。変則領域が人に感知できるか否か研究していた軍の機関に、被験者として応募したのだ。だが、彼の体はそれら人工の変則領域にはまったく反応を示さず、彼は何も言わずに通常の任務に戻るしかなかった。

 そういう経緯もあり、彼が自分の能力について語ることは少なかった。酒の上で同僚に話すこともあったが、冗談以上の話として受け取られた様子はなかった。それが少し変わってきたのは、機兵、龍に乗って戦場に出始めてからのことである。

 敵機の感知はできずとも、天然の変則領域の分布がおおよそわかるだけで、ばかにならない戦術的優位が得られる。彼のいた小隊はダメージが低く戦果が大きいと、遅からず噂になった。もっとも、彼自身に限っては無謀な突撃を繰り返すために被弾率が高く、そのせいで噂が噂の域を超えることはなかった。

 ほどなく彼は今の部隊、赤龍隊に配属された。機兵主軸の特殊部隊「外廓聯」の三つある分隊のひとつである。機数のそろわない機兵をかき集めた部隊だけあって、パイロットも俊英ぞろいだったが、そのなかでも江藤が同類を発見することはなかった。

 やがて江藤はエースパイロットとして確固たる名を上げた。だがその特殊能力に関して赤龍隊の外に話が漏れることはなく、あくまで仲間内だけの秘密として語られた。どこからか嗅ぎ回りに来る者があれば、皆で煙に巻いて追い返した。

「あのときの連中の顔は面白かったな」

 敵の追走中にもかかわらず、江藤は思い出し笑いを抑え切れなかった。

 笑いが収まったところで、いや、例の感覚が笑いを収めたというべきだろうか。江藤は右手のほう一帯で変則領域がなくなっていることを感知し、敵機の逃走ルートをさらに絞り込んだ。敵は無駄に蛇行する羽目になったに違いない。地形情報を参照して、先回りをする。転がり込んできた好機に、江藤は隊長率いる別働隊との合流を後回しにした。

 ほどなく、江藤は自分の選択に自信を深めることになった。格好の待ち伏せ場所に行き当たったのだ。

「よっしゃぁ、いっちょ、俺の腕を見せてやる」

 目の前に、高さ数メートルほどの岩が露出していた。その両脇は濃緑の藪に覆われた高みである。ずいぶんとおあつらえ向きの場所であるうえに、更にはその先で変則領域が途切れている。これはセンサーで確認しているから間違いないことだ。こちらが敵を視認してすぐに狙撃すれば、敵はこちらを探知する間もない。

 江藤の龍は岩に近寄ると、立て膝(ひざ)をつき、左手で岩を掴んで機体を固定させた。前方から見れば、頭部と、火縄を持つ右腕だけが土手から突き出ている格好である。その頭部、顔の部分に額から照準用バイザーが下がる。実戦にしては理想的な射撃体勢であった。少なくとも、体勢だけは。

「ほ、ほ、ほーたる来い」

 口ずさみながら、江藤は計算どおり敵機が向かってくるのを待った。

 歌を三曲歌い終わり、四曲目の選定に入ったところで、電子的に拡大表示された正面モニターにようやくエントゼルトゾルダートが姿を現した。一機だけしか見ないが、もう一機も後ろについている可能性が高い。どちらにせよ、まずは今見える一機を確実に撃破するべきである。それには狙い通りの、いや願ってもないほど絶好の位置。

「安全システム解除。手動照準にて狙撃モード……喰らえぇぇ!」

 江藤は逐次照準を補正しつつ、断続的にトリガーを引いた。一発、続いて二発、三発目が砲口から飛び出し、獲物のもとに迫る。実際には一秒もない間であったが、江藤には待ちわびるほどの長さに感じられた。

 エントゼルトゾルダートの右脚が崩れ、転倒した。主要な関節部分に打撃を与えたようだ。

「おおっ、命中か!?」

 江藤は飛び上がらんばかりに喜んだ。なにせ直感任せの照準だった。だが、その喜びの表情は数秒後にコクピットに響いた警告音によって膠着した。

「敵機確認」

 警告メッセージが大きく点滅表示される。運悪く後続の一機に横を取られたらしい。こちらが感知できたならば、向こうも感知できている。江藤にとっては危機であった。新たな敵を視認できていない。

「ちっ」

 そのまま息を潜めているのはリスクが大きい。江藤は待ち伏せ場所から飛び出し、大博打(ばくち)に出た。見晴らしのいい山肌に着地し、扇状に前方索敵をかける。うまくいけばいい奇襲となるが、敵に先にロックオンされれば、江藤の龍はただの的である。

「いたな!」

 江藤は運良く機先を制することができた。敵機に対して逆光の位置に立っていたのが僥倖(ぎょうこう)だった。まだこちらを発見できていないゾルダートに急いで照準を合わせ、火縄の残弾を撃ち込む。

 反撃がきたときのために適当に回避運動をとってから、江藤は敵の状態を確認した。電子ズームで大きく表示されたゾルダートは、こちらに右腕の滑腔砲を向けながら擱座していた。ややあって、右腕がだらりと垂れ下がる。

「完璧」

 江藤は安堵と陶酔の混じった呟きを漏らした。

 そこへ、通信着信音。

「江藤大尉、無事か」

 やや年上の、落ち着きのある声が届いた。映像は、ノイズが多くて誰だか判別できない。

「無事であります、隊長」

 いつの間にか接近していたのは、赤龍隊の隊長マクシム・ペトロフ率いる別働隊であった。隊長が江藤に状況確認をしている間に、隊長機に随伴した二機が、擱座した二機のゾルダートに止めを刺す。

「見てのとおり、ここの二機は自分が抑えました。向こうでも一機、電気椅子に処しましたから、スコア三機ですよ。勲章もらえますかね」

「勲章だと? 江藤大尉、寝言は寝てから言うものだ」

「は?」

「あの二機を狙撃したのは俺の隊だ。おまえの弾は少なくとも決定的打撃にはなっていない。流れ弾が向こうの崖を崩して農家一軒を押しつぶしたのは確かなようだが」

 隊長はそういって、自機でズームした農家跡の映像を転送する。

「こ、これは……」

 江藤はヘルメットの間に手をもぐりこませて頭を掻いた。

「幸い、この周辺の住民はとうに避難済みだったからよかったが……。勲章の代わりに始末書を与えてやる』 

「た、隊長! そ、そのことは、認知しておりましたので問題はないかと。ところで、見事な側面攻撃でした。感服します」

 江藤は今更ながらに世辞を言って、話題をそらそうとする。

「感服せんでもよい。が、何が問題ないだ? 訓練もろくにしていないセミオートライフルを部下から奪い取り、弾倉ひとつ分の砲弾を無駄に使ったことがか? まったく、赤龍隊のいい恥さらしだ。 何度こういうことを繰り返せば……」

「まぁまぁ、“結果良ければすべて良し”と言うではありませんか。ゾルダートを鹵獲(ろかく)できたんですから。良しとしましょうよ、隊長」

「そうでなければ降格処分にするところだ。――まぁ、あとでゆっくり話を聞こう」

「一杯やりながら、ですか?」

 クイッとおちょこを傾ける仕草をしながら言った。ノイズは薄れ、既に映像の通信も一応は可能になっている。

「撃つぞ」

「うぐっ!! ――了解であります。自分はこの場にとどまり、捕虜を監視。第四〇三重装歩兵大隊が到着次第、帰投します」

「それでよし。俺の隊はこのあたりを哨戒してから戻る」

「ご苦労様であります!」

 乗機に敬礼の仕草をとらせると、味方機が引きずり出した敵パイロットの監視を引き継いだ。

「残念でしたね大尉」

「そいつらよろしくお願いします」

 隊長の僚機から通信で皮肉が入れられる。江藤は啓示軍のパイロットを龍の手で掴み上げると、歯軋りしながら隊長の隊を見送った。捕虜となったパイロットらが、握りつぶされまいかと不安におびえたというのは、後日明らかになることである。

 やがて地上部隊が到着し、江藤は龍で握っていた二人の身柄を預けた。整備班の待機している野営地への帰途に就く。

 帰り道では極力ブースターを使わない。姿勢制御もロケットモーターには頼らない。燃費節約のために、てくてく歩いて戻るのだ。隊長に叱咤された腹いせに蹴る岩がないか探しながら。もし彼が目当ての物を見つけていれば、再び敵襲かと歩兵たちが騒ぎ出したことだろう。

 夜明け前からの作戦行動だったので、緊張の途切れた江藤は眠気に襲われた。自然と大きなあくびが出る。そのとき、急に彼の第六感が刺激されて、眠気は早くもUターンして行ってしまった。

 センサーで見ると、変則領域の霧バロッグが消失したところだった。だが、なにかいつもとは違う感じがしたと江藤は思った。胸にちくりと来るような感覚は、バロッグが消えるときのものとは少し違った。

 江藤は片膝立てで龍を停止させると、普段使うべきながらあまり使っていなかったセンサー類までフルに作動させ、辺りに異状がないか調べる。

「気のせいか」

 彼の第六感には擬似的に五感が伴うが、普通の五感と区別しにくいのが厄介だった。とくに触覚や嗅覚がかぶってくると、どちらなのかさっぱりわからない。

 やれやれと呟きながら、江藤は機体を立ち上がらせようとした。難しい動作なので、センサーの表示にはよくよく目を配る。それが江藤をして微弱な熱源反応に気づかせた。

 龍の足元だった。強度や大きさなどを考慮すると、恐らくは小形の哺乳類か鳥類だろう。江藤はハッチを開けてコクピットから身を乗り出すと、視認によってそれを確認した。薄汚れた灰色の毛が、震えながらうずまっていた。ともすれば、龍の重みを受けて潰されてしまいそうなほど近くだった。

「――仔犬か。おっと、まずいまずい」

 慌ててコクピットに戻ると、重力作用拡散装置「マスディフューザ」の出力を絞りこんだ。しっかり腕で体を支えているので、強風でも吹かなければ龍が転倒することはないだろう。

 江藤は改めて機外に出ると、ワイヤーを出して地面に降り立った。仔犬は逃げない。まだ震えている。

 おどかさないようにゆっくりと江藤は接近した。上から見て予想したのよりも更に小さいうえ、見れば衰弱気味である。親をなくしたのだろうか。

 仔犬が首を持ち上げて、その円らな瞳が江藤を捉えた。くーん、とひと鳴き。江藤はその顔つきを見て自分の間違いに気づいた。

「いや、犬じゃないな。狼か」

 狼の子供は江藤をじっと見つめたまま、逃げなかった。されるがまま、江藤に抱き上げられる。江藤の手のひらに乗るくらいの仔狼は、少し鼻をくんくんさせたかと思うと、すぐに眠りこんでしまった。

「――かわいい」

 いかつい巨体には似合わぬ言葉だった。




「江藤大尉、お前は何を考えているのだ」

 野生動物の子供を抱えて帰還した江藤は、隊長の静かな怒声を披露させることに成功した。

「かわいいでしょう」

「そういう問題ではない」

 隊長は眉間を指で押さえながらかぶりをふった。

「江藤大尉、君に栄転の話が来ている」

 ゆっくりと、隊長は一枚の紙を江藤に渡した。




 かくして、江藤大尉は外廓聯から外れ、極東方面軍統合幕僚本部のデスクワークにまわされた。ほとんど実戦など起きない場所にある、前線とは縁遠い部署である。

 おそらく司令部は飼い殺しの作戦をとったつもりだったのだと、江藤の去った外廓聯ではそんな噂が流れた。その噂が正しかったとしたら、その処置がやがて江藤大尉を新たな戦場に送り込む結果になり、そして後の歴史に彼が大きく関わることになることを、誰ひとりとして予想できなかったということになる。

 このときの選択が如何に重大なものであったか、担当官は後日、自らのこぼした種の実りに慄くことになる。

 秋風は冷たさを増し、季節は冬へと向かっていた。