黒龍隊の挽歌 第二話

只今訓練中



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 灰色の空に巨鳥が舞う。

 ディスプレイの望遠映像で正面にそれを確認した乾(いぬい)大輔は、深呼吸をして、獲物が射程距離に飛び込んでくるのを待つ。しかし彼は猟師ではない。そして獲物もまた、現実には鳥と異なる。啓示軍(オフェンバーレナ)の高速輸送機フリューゲイル。

 優雅な外見とは裏腹に、フリューゲイルの腹にはミサイル、ロケット弾、爆弾の類が大量に、あるいは機兵が数機積まれているはずである。あるいは、もう荷をぶちまけた後か。いずれにしてもその輸送能力自体が、亜細亜(アジア)連邦軍にとっての脅威である。撃ち漏らす手はない、と乾は気を引き締める。

 乾は機兵、龍(ロン)を操縦している。ただし、今現在は動かしてはいない。むしろ動かないようにじっと身を伏せている。風に揺れ、重力に引かれて動くべきところを自然の摂理に歯向かっているのだから、龍の全身を駆動するMMアクチュエータ自体は立派に仕事をしている。しかし、その制御をコンピュータがすべてやってくれるので、乾が操作するようなことはなにひとつない。ただただ、ロックオンした敵機が武器の有効射程距離に入るのを待つだけ。野原にカムフラージュネットを張って隠した機体が見つからないよう、祈りつつ。

 距離は着実に縮まっていく。完全に真正面に捉(とら)えた敵機を視界から逃すこともない。もうここまで引き付けたなら百発百中の精度で当てられるのではないか、という衝動と、迂闊(うかつ)な先制攻撃は相手にこちらの位置を教え却(かえ)って危機を招くという理屈が、乾の中でせめぎ合う。――確かなのは、測距値が、有効射程距離として教えられた値よりまだ大きいということ。

「焦るな、俺」

 乾の責任は重い。千載一遇のチャンスだから、というのは勿論(もちろん)ある。連日このロシア極東、アルダン高原で仲間とともに待ち続けて、ようやく目的のフリューゲイルを捕まえたのだ。しかしそれだけではない。ここで乾が逸(はや)ったとする。そのとき敵からの反撃のリスクを負うのは、乾よりも、周りに展開する対空砲のほうだった。機兵の装甲は戦車に劣るが、それでも車輛牽引(けんいん)型の対空砲よりは遥かに堅牢である。それでは、自分のはねた泥を仲間にかぶせることになる。そして幸か不幸か、攻撃のタイミングはこの場で最も索敵(さくてき)能力に優れる龍、つまり乾に任せられている。乾がトリガーを引けば、やや射程の劣る対空砲が順次ダメ押しの弾幕を張る手筈(てはず)である。誰かが先走る心配だけはしなくていい。もし新兵であれば、恐怖に取り憑(つ)かれ、段取りを忘れて先制攻撃に出てしまう懼(おそ)れもある。今回の作戦参加者は全員が、実戦を経験している。その点は信用できる。

 あと、十秒。

 そう見積もったとき、警報が鳴った。対地ロケットか何か。フリューゲイルは乾たちに気づかなかったわけではなく、敢(あ)えて直進を続けていたのだ。退避は……間に合わない。

「全員、そのまま」

 もはや無線封鎖の必要はなかった。乾はあたりに散っている仲間たちへ、狙いを解除しないよう指示する。

 四、三、二。

 無誘導タイプだったのか、それともバルムンクフィールドが攪乱(かくらん)してくれたおかげか。龍めがけて飛来した筒は、すべて外れて地面に穴を穿(うが)った。

 ――零(ゼロ)。

 乾は操縦桿(かん)のトリガーを引いた。それと相似に、龍の三本指が動き、手にした二連装のロケットランチャーへ発射の信号を送る。撃ち出された対空ロケット弾はフリューゲイルの予測針路やや下方まで到達すると、そこで殻を破って無数の散弾を撒(ま)き散らした。本来はヘリを攻撃目標として想定した兵装だが、レーダーを避けて低空を飛んでいたフリューゲイルには、うってつけだった。

 しかし。

 空中にばら撒かれた散弾がフリューゲイルに無数の穴を開けるかと思われたそのとき、巨鳥は悠然と翼を傾けて軌道を変えた。数発はかすめたはずだが、致命傷にはならない。数拍遅れて対空砲が火を噴き、無理なロールを決めたフリューゲイルを追い詰めようとするが、巨鳥は猟師を嘲(あざ)笑うかのように地面すれすれまで急降下して火線をかわす。あわや大地に衝突というところで、再び大きく翼を翻したフリューゲイルは、もう乾たちのすぐ目の前にまで迫っていた。次弾を放った乾は、しかし、その着弾を確かめられない。頭上を通過していくフリューゲイルが砂と電磁波の嵐を巻き起こし、バルムンクフィールドの対電磁防御などは簡単に破られて、センサー系が使い物にならなくなったのだった。身についた反射神経がランダム回避運動を取ろうとするが、乾は慌ててそれを踏み止まる。今ここで無闇(むやみ)に横とびなどしては、味方を踏み潰(つぶ)してしまう。

 仲間の対空砲の幾(いく)つかが果敢に攻撃を続けていることは轟音(ごうおん)でわかったが、乾は自らの持つ武器の威力ゆえに、攻撃できなかった。方向もよくわからないまま散弾を放てば、どうなるか。咄嗟(とっさ)にもその想像はできた。

 やがてセンサーが復帰したとき、上昇加速したフリューゲイルは、もはや遠方の点となっていた。

「やれやれ、また任務失敗か」

 乾はヘルメットを取って、袖(そで)で前髪と額の汗をぬぐった。

 ここのところ任務の第一目標を達成した覚えがない。もともと無理難題なのはわかっている。それでもやってみせねば、他の誰かに無理難題が拡大伝播(でんぱ)するだけなのだ。だから今日こそはやってのけるつもりだった。

 ――しかし。

 今は生き延びたことに感謝しよう、と乾は思った。

 点呼を取ると、仲間に死者、重傷者がいないことがわかった。乾は転倒した車輛を龍で助け起こして、補給拠点への帰路に就いた。わりと自分はついているぞ、と再評価しながら。


*   *   *   *   *


「ご苦労、乾中尉」

 龍を停止させてコクピットから出た乾に、そう言ってタオルを放ってくれた男がいた。

「いやあ、ありがとうございます、汪(ワン)大尉」

 ここへ来て知り合った男、汪凱威(ガイウェイ)。戦略軍の運用調整官という役職についており、今日使った対空散弾のような試作装備を持ってきては、そのスペックデータが真実のものかどうか確かめ、そして使い勝手についていろいろと質問して帰っていく。目立った問題がなければ、年明けにも対空散弾とその発射筒(ランチャー)の量産が始まる。そのときの達成感がたまらないと汪は言う。彼はパーソナルディスクに保存された電子データと乾の話とを平等に楽しみにしている。そういうところに乾は好感を持っていた。

「フリューゲイルを逃がしたのは残念だったな、中尉」

 汪は乾からパーソナルディスクを受け取りながらも、まずは乾の肩を叩く。

「まだ呼びなれないですねえ、その、中尉っていうのは」

 乾は本来、少尉である。戦時臨時階級で中尉になったのはつい最近のこと。きっかけは、前に配属された部隊の壊滅だった。生き残りは散り散りに各地の部隊へ送られ、乾はこの地でフリューゲイル輸送機の航路探索と迎撃(げいげき)を任されたのだった。隊長というわけではないが、戦闘指揮は預けられている。それがまだ慣れない。

「なに、中尉と言ってもだな。上がついているうちは、責任を取らされるわけじゃない。フリューゲイルを逃がしたくらいで、なんだ。――と言いたいところだが、実を言えば、やはり惜しい」

 汪の顔は正直だった。そうなってしまう経緯は、乾も噂に聞いている。

「大尉はつくばに居合わせたそうですね」

 つくばへ敵襲があったのは二ヵ月前、十月のことだった。啓示軍の狙いについては諸説あるが、龍の原型となった試作機、龍王(ロンワン)の奪取にあったという説が、乾の周囲では有力である。今では外廓聯(がいかくれん)の各支隊で隊長機を務(つと)める龍王だが、当時の外廓聯は初期生産分の龍で編成されており、龍王は量産型たる龍の改良のため継続して研究開発に供されていた。だからこそ安全な場所として日本の霞ヶ浦駐屯地に大事に囲われていたのだが、そこへ啓示軍が現れたのは、まさに青天の霹靂(へきれき)だったろう。その予期せぬ空襲を可能としたのが、啓示軍の象徴たる白銀の機兵、ノイエトーターと、それを支援するフリューゲイルだった。つまり、汪にとってはつくばに居合わせた仲間の仇となる。

「あの日命を落とした同胞のためにも、私はあれを手に入れて、調査したい。特にあの翼に装備された、マスディレクタだ。情報部もあれの名前と、見かけ上の反重力装置として機能すること以外、詳細は掴(つか)めていない。そうなると我々技術畑の人間が、現物から情報を得るしかないわけだ。難しいが、やりがいはある。うまくいけば、龍だって今のようなマスディフューザではなくマスディレクタを搭載して、空を飛べるようになるかもしれん。当初の構想どおりに機兵が既存の全兵器の機能代替を可能とする日が来るわけだ。ま、それは理想的なケースに過ぎないが。――おっと、君にあれを撃つとき手加減しろと言っているわけではないからな? 残骸(ざんがい)からでも充分得るものはある。まずはあれを啓示軍から没収することが第一だ。がんばってくれよ、乾大輔」

「はあ、がんばります」

「どうした、持ち前の元気がないな」

「少し疲れが出てきましたよ。あ、精神的にはけっこう平気なんですけどね、まあ、体力的に。もう若くないって感じますよ」

「君はまだ二十五とかそこらだろう」

「ばれましたか。――龍が一機だけ、パイロットも一人っていうのは、正直厳しい編成ですね」

「それはそうだろうな。EPUの真価も戦術データリンクを用いてこそ発揮される。せめて支援車輛にEPUを搭載しなければ……」

「あー、あー、そのご高説はまた今度聞かせていただきますから、まずは休憩室へ行かせて下さいよ。そこでいつもみたいに、まずアンケートから答えますから」

「ん、よろしく頼む」

 ようやく立ち話から解放された乾は、顔を洗い飲み物を取って、休憩室へ移動する。そこで本日使用――試用したロケットランチャー、「火筒(ほづつ)」の評価を行う。命中精度や操作性、追従性はもちろんのこと、索敵システムの都合から味方の対空砲との連携が取りにくかったという個別の事情まで、汪はすべて記録する。

 あいかわらず仕事熱心だった。前線まで出てきながら戦闘にも生産にも与(あず)からない彼ら運用調整官を、悪く言う者は少なくない。その反動からくる熱意、という見方もあったが、乾は別意見だった。乾の見る限り、陰口や面と向かった批判に対しては、汪はわりと鉄面皮(てつめんぴ)である。汪は好奇心で仕事をしている、という感触がある。技能を活(い)かせるという動機で職業軍人を選んだ乾とは違う。おそらく軍人としては稀有(けう)な性質の持ち主なのだ。だからエリートでも親しくできるのだろうな、と乾はふと思った。

「――さて」

 メモを終えてペンをポケットに入れた汪は、周囲に耳目(じもく)がないことを確認すると、机の上に身を乗り出した。内緒話だと気づいて、乾も顔を寄せる。

「乾君、君は黒龍隊の件は聞いているか」

「つい昨日、小耳には。東京の防衛だそうですね」

「そういう話だ。――何を笑っている」

「いえ、失礼しました。そんな平和な世界があるんだな、と思いましてね」

 隊の仲間の過半を失って、まだひと月。傷が痛まぬわけではない。それでも乾はここで戦っている。いくらつくばに敵襲があった事実があるとはいえ、東京防衛などに稀少な戦力を配置する上層部の決定が理解できなかった。きっと表からは知ることのできない別の事情があるのだろう、と察しつつ、それを含めたうえで、やはり笑うしかなかった。いつ敵の砲撃で死ぬかわからないあの恐怖を、体感したことのない連中がやることなのだ、と。

「お飾りだっていうんだろう。それは事実だろうな。そんなところへ龍が回されて、君のようにがんばっている将兵たちに必要な戦力が届かないというのは、軍の無能の証左だ。私もどちらかといえばその組織側の人間だけに、歯がゆいよ。君のために龍の一機も融通できればいいのだが」

 汪は少し考え込む仕草を見せたが、乾は手を横に振った。

「いいんですよ。今のはただの愚痴です。汪大尉は、俺たちのためにちゃんとした武器が生産されるよう踏ん張ってください」

「なんだその言い草は。私は負けてなどいない」

 見せたばかりの弱気を抹消して、汪は乾を小突く。乾は「そりゃないでしょう」と額(ひたい)を押さえて顔を引っ込めたが、汪はそれを慌てて呼び戻した。

「肝心の話を忘れていた。乾、黒龍隊の動向には気をつけておくんだぞ」

「なぜです?」

「君が黒龍隊に配属されていない、というのがまず理由のひとつだ。君は傍目(はため)に見てノンポリだし、機兵での実戦経験はあるし、日本人だ。黒龍隊の設立目的を考えれば、君こそ、その一員として適任だろう。しかし現実にはどうだ。君はここに残された。そしていざ箱を開けてみると、君を差し置いて黒龍隊に入ったメンバーは、どういうわけか素人ばかり……」

「気をつけなくていい理由がわかった気がしますが」

「話はまだ途中だ」汪はぶすっとして続ける。「素人ばかりの黒龍隊だが、ひとりだけ気をつけるべき人物がいる。隊長の、江藤だ。江藤博照。知っているだろう」

「そりゃあ、亜連であの人を知らない機兵パイロットはいないでしょう。赤龍隊を左遷(させん)されたって、これまた風の噂に聞きましたけど、いつの間にそんなところへ」

「それを見越した左遷だったんじゃないかというのは、穿った見方だろうが、私だけの突飛な想像というわけでもないんだ。素人を集めたのは、お飾りにちょうどいいという都合ではなく、あれに即戦力を与えてはまずい、という判断なのかもしれない」

「あの破天荒な御仁を利用したい、けれど下手を打つと自分たちが利用される、という上層部のジレンマですか。それなら俺にもわかる理屈です。で、当座は今のバランスで八方うまくいくとしても、賞味期限があるってわけですね」

「そう、まさしくそういうことだ。君もいつまでもここというわけではない。いずれは外廓聯が黒龍隊か、また新たな同等の何かが、君の居場所の選択肢になるだろう。しかし身の振り方というやつは、急に話を振られるわりに即答を求められるのが厄介なところでね。日ごろからアンテナは立てておくのが得策だ。どこが君のお気に召すかは私も興味あるところだから、決まったら教えてくれ」

 なんとも気の早い話だった。乾はまだここでの任務も終えていないし、そう価値のある人間だという実感もない。行き先を決めろ、と言われて思い浮かぶのは、壊滅した前の部隊の上官が最初だ。次は……、なかなか思いつかない。

「まあ、考えておきますよ」

 乾はパイロットスーツの襟元(えりもと)に手で風を送りながら答えた。とうに機兵を降りたはずの体がまた妙に熱くなってきたのは、自分の世界にまだ広がる余地があることを教えられたからかもしれない。

 それでも、乾は目の前の一歩の重みを忘れるつもりはない。広い世界へ羽ばたくにもまずは脚力が必要だ。黒龍隊にも同じことが言えると乾は思う。名に見合った実を具(そな)えるには、そうするしかないだろう。建前と乖離(かいり)した現実を、一人一人の手で手繰(たぐ)り寄せていかなければならない。

 汪を見送ってシャワー室へ入った乾は、降り注ぐ湯に顔を向けて呟(つぶや)く。

「お互い頑張ろうじゃないの、黒龍隊の皆さん」





- 2 -


 亜細亜連邦極東方面軍近衛軍第二七独立連隊第四機兵大隊。またの名を黒龍隊。

 十メートル超級の人型戦闘機械、機兵を唯一の戦力として配備されたその新設部隊の任務は、大陸での遊撃に手一杯である外廓聯に代わり、亜細亜連邦首都たる東京を守ることである。実際、秋にはつくばが敵襲に遭っており、いつ東京に敵軍――啓示軍(オフェンバーレナ)の魔手が伸びるかわからない状況にあった。中央議会が異例の速さで黒龍隊創設を可決したのはその緊張あってこそである。

 首都の危機という非常事態に備えた部隊であるがゆえに、黒龍隊には特権が与えられた。形式上は連隊配下、人数は五十名にも満たない組織でありながら、数万人を束ねる軍団司令部と同格の権限を有するのである。いざとなれば、他に困窮した友軍がいようとも最優先で施設を利用し、補給を受けられる。すべては世界の三分の一を占める大連邦の屋台骨を守るため。――その大義名分ですべての反対意見を押し切った形である。

 その栄誉ある黒龍隊に配属になった青年、南田竜時は、最悪の目覚めを迎えた。体の節々が痛い。早々にベッドに入ったはずだが、思ったより疲労が尾を引いている。それもそのはず、四日前の夜に配属を告げられ、そのまま訓練に突入し、以来、脳と体を酷使しっぱなしである。

 黒龍隊へ配属されるとはつゆ知らず、そもそも創設の話題すら一切耳にしていなかった南田と同僚は、完全に一時的な外出のつもりで士官学校の寮を出た。したがって目覚めた兵舎の部屋に私物はない。自分たちで取りに戻る暇など与えられず、近日中に、同室だった連中が適当にまとめて送ってくれる手筈になっている。どさくさ紛れにいくつかくすねられそうで怖い、と南田は思った。士官学校ではプライベートなどないも同然だったので、部屋に何も隠していなかったのが不幸中の幸いである。もっとも、部屋以外の場所にはいくつか隠したものがあるので、そのうち回収や処分のため顔を出さなければならないが。もちろん、実施の目処(めど)はさっぱり立たない。

 予定が立たないのは、やることがいちいち非常識で気まぐれで自分勝手な隊長、江藤博照(ひろてる)少佐のせいだった。隊長就任とともに少佐に昇進していたのを知らずに――知るはずもないのだが――「大尉」と呼んでしまったがために、懲罰的な筋力トレーニングを追加されたのがいい例だった。

「元気出せよ、竜時」

 南田の不景気な顔を覗(のぞ)き込んで、李峰國(リー・フェングォ)がほほえむ。

「おふぁふぇふぁ」

 うまく喋(しゃべ)れない。南田は口に突っ込まれていた物を抜き取り、咳(せき)払いする。

「おまえは、ルームメイトが元気なさそうだったら口にバナナつっこんで起こすのかよ。しかも皮ごと!」

 南田は峰國を追い払って身を起こすと、ひったくったバナナの皮を剥(む)いてかぶりつく。まともな朝食にありつく前に早朝訓練がある。食べておかないと身が持たない。

 ありがたいのはいいが、このバナナは一体どこから来るのか、と南田は考えた。昨日も目が覚めると、先に起き出していた峰國が二人ぶんのバナナを見て喜んでいるところだった。峰國がバナナ好きであることは、初めて会ったとき彼が道すがらバナナを食べていたこともあり、よく知っている。しかし、これは峰國の持ち物ではない。南田同様、私物は持ち込んでいないはずなのだ。基地の食糧を江藤が配布しているのか。――とりあえずわかるのは、こうした瑣末(さまつ)な疑問を抱けるほどには心身に余裕ができた、ということだ。

 南田はバナナを嚥下(えんげ)しつつ朝の準備を済ませていく。正装ではないので時間はかからない。髭(ひげ)はあとで剃(そ)ることにする。無人の間にチェックが入るといけないので手早くベッドメイク。

「トイレ寄っていくぞ」

「いいねー」

 峰國は南田の支度(したく)完了とともに部屋を出る。トイレに入るところで坂元とばったり会った。

「よう、坂元」

「よう、竜時」

 これは士官学校のトイレで遭遇したときと全く同じパターン。

「よう、坂元」

 峰國が同じように挨拶(あいさつ)をした。よう、とだけ坂元は返しつつ出て行く。

「先、行くわ」

「オーケー、こっちもすぐ行く」

 峰國が小便を垂れるなか個室へ入って力んでみた南田だったが、期待したものは出なかった。朝から出るようになったら生活に馴染(なじ)んだ証拠だと南田は思う。まだ慣れきってはいないのだと自己分析。

 集合時刻七分前に指定の場所へ到着。先に着いて並んでいるのは坂元と鷹山(たかやま)。それと対面するように、忌むべき隊長、江藤博照。南田と峰國を入れても五人。しかし、江藤は満足げに頷(うなず)いた。

「揃(そろ)ったな」

「訓練は俺たちだけですか。軍曹以下の隊員が来ていませんが」

「それはそうだ」江藤は笑う。「ソウチョウ訓練だからな」

 南田ら四人の曹長は一様に戦慄(せんりつ)した。笑えというのか。笑わないとまた懲罰が下るのか。しかしこの吟味(ぎんみ)の時間でもう出遅れている。これから笑ったところで明らかに追従の作り笑いであることがバレバレであり、それではかえって上官の機嫌(きげん)を損ねはしまいか。かといってこのまま沈黙を維持するのも賢明とは言いがたい……。

「おーい、準備できたぞ」

 救いの神は北嶋だった。黒龍隊副長にして整備班のボス。隊長の江藤とは少佐と大尉で階級にもひとつ差があるが、ふたりの会話は原則としてタメであるようだった。以前からの知人であることは、南田たちの誰一人として直接確かめたわけではないが、誰も疑っていない。

「四基ともいけるのか?」

 そばまで駆け寄った北嶋に江藤が問う。

「いや、三期だけだ。一基は調整中。モニタリングだけならできる」

「上等だ。さっそく使おう」

 江藤は満足そうな笑顔で南田たちに向き直る。が、南田にはなんのことかわからない。黒龍隊の主要戦力である機兵、龍(ロン)ならば四機あるが、この人型歩行兵器は初日の選抜試験で無理をさせたので、今日は整備班総動員でバラして点検整備する予定になっている。「いける」の意味が通らない。

「第一格納庫に移動するぞ。ついてこい」

 江藤は、北嶋がやってきた方向へ歩き出す。

「第一?」

 これまで格納庫といえば、龍を収容している大格納庫を指していた。衣食住などの生活物資を除けば、黒龍隊用の物資は猿之門基地駐留の他の部隊向けのものとは完全に隔離されている。したがって南田たちは他の格納庫に立ち入ったことがない。第一、と言われても、自分たちの格納庫が第何なのかすら記憶にない。

「いつもの第二からは遠いのですか。基地内配置でその名を見た覚えがないのですが」

 とりあえず追行しながら質問したのは坂元だった。南田はといえば、基地内配置は食堂や大浴場など最低限のものしかチェックしていない。

「名前が変わっているんだ。旧第一大格納庫。今は第五実験棟だ」

 北嶋が説明すると、鷹山が相槌(あいづち)を打った。

「阿賀(あか)少佐の部隊とやりあったあたりですね」

 四日前、鷹山が龍で機甲化歩兵部隊を制圧した話は南田も聞いている。その後、基地解放のため乗り込んだ南田と峰國は、基地を守ろうとした鷹山や坂元の龍と交戦することとなった。

 あれも江藤のシナリオの範疇(はんちゅう)だったのか、それは定かでない。結果が合格だったのだからよしとしよう、と言ったのは峰國だった。南田はそれに半分合意し、半分は受け入れられないでいる。不安だった出世コースからの脱落は免(まぬか)れたわけだから、その意味では嬉しい。黒龍隊の任務は関東の防衛にあると初日に江藤が説明していたので、外廓聯のように転戦に次ぐ転戦を強いられる危険な任務とも縁遠い。それでも現況を楽観できないのは、この上官の下でやっていけるのかという、こと組織に属するに当たっては誰でも遭遇する平凡な問題に悩んでいるからだった。士官学校の教官、御船は、江藤のことをむしろ頼りにしろと言っていた。あれを鵜(う)呑(の)みにするならば、今は従うのが上策である。しかし、本当にその器のある人間なのか、南田はまだ確信が持てない。今の江藤が御船の知っている江藤のままとは限らないのだ。人間、十年もあれば変わるには十分だろう、と南田は思う。

「おい、竜時。行くぞ」

 北嶋が鍵を開けたのに気づかず第五実験棟の外で立ち止まっていた南田を、鷹山が招く。南田は慌ててあとを追った。

 第五実験棟、旧第一大格納庫は、第二大格納庫の半分程度の大きさだった。その施設の来歴を、廊下を歩きながら北嶋が概説する。かつてここで乗俑機(じょうようき)の運用テストや設計開発が行われたこと、その延長で今回黒龍隊の駐留基地として選ばれたことを南田は初めて知る。鷹山は南田と同じ反応だったが、坂元は予備知識があった様子である。峰國はというと、余所(よそ)見をしていて話を聞いているのかどうかわからない。

「――しかし、乗俑機の黎明(れいめい)を支えたこの施設もその進化には対応しきれなかった。それで黒龍隊の機兵格納庫としては、より新しい第二大格納庫が選ばれたわけだね。第一大格納庫はその時点で第五実験棟として生まれ変わることになり、乗俑機だけじゃなく様々な装備品のテストやその運用訓練に使える多目的施設として改装された。そして」

 北嶋は、説明のタイミングをよく制御していた。息を継いだ北嶋は、先頭を歩いていた江藤に目配せしてドアを開けさせる。

「これが徹夜で実装したばかりの機兵操縦シミュレータだ」

 到着した部屋には四つの丸っこい箱が並んでいた。箱は壁や床から伸びる十数本の支柱に囲まれており、三次元的な振動や加速度の再現が可能であることを窺(うかが)わせる。航空機用のシミュレータから改造したのであろう、と南田は推測する。予備知識はなかった。南田たちの受けた機兵操縦訓練は、実戦部隊である外廓聯からのフィードバックで絶えずメニューと備品を更新されていたが、こんな代物(しろもの)にはお目にかかっていない。

「運がいいな、おまえたち。開発元を除けば、ここが最初の設置らしいぞ、こいつは」

 江藤はたいそうご満悦の表情だった。すでに一度試し乗りしているのか、シミュレータの出来の良さを褒めちぎりはじめる。そして南田たち四人の若者は、早朝訓練のメニューと、なぜ四人だけが呼び出されたのかを理解した。なるほどこれでは全員を一度に集めてもしかたがない。黒龍隊の機兵パイロット要員は、この場の五人のほかにまだ四人いる。あとから交替でその四人が訓練を受けるのだろう。

「明日にはそこの壁にモニタをつける予定だ。そうしたら各シミュレータからの転送映像や、シミュレーション空間の俯瞰図を表示できる」

 北嶋が南田たちに向かって言った。徹夜のわりには元気そうで、「明日には」というのもあと二十四時間仕事をし続ければ、という意味なのかもしれない。南田は副長の健康管理問題について隊長に具申すべきかどうか考え、しかし後ほど差し向かいで江藤と話すのは危険だ、と判断した。同じパイロットの朝井軍曹が、江藤と親睦(しんぼく)を図ろうとして雑談を持ちかけ、バニーガールのすばらしさについて大いに盛り上がっていたはずが、いつのまにか格納庫内をうさぎ跳びさせられる話になっていたのが昨日のことだ。書店での成人指定雑誌の件を朝井に教えたのは南田であったから、少々胸の痛む事件だった。朝井の尊い犠牲を無駄にしてはならない。江藤とふたりきりなど極力避けるべきなのだ。

「どうした、竜時。浮かない顔だな」

 下の名で南田に呼びかけたのは、三人の同輩ではなく、シミュレータの一基に乗り込む気満々のオーラを発している江藤だった。通りすがりの民間人、箕輪(みのわ)として南田に接していたときからの癖なのか、江藤は南田を下の名で呼んだ。坂元も鷹山も苗字で呼ばれるし、南田の姓が隊内で重複しているわけでもない。友人には竜時と呼ばせているが上官にもそう呼ばれるのは明らかにおかしい。南田は自分だけ軽く扱われているような気がして、つい、自ら禁を破ってしまった。

「江藤少佐。その、竜時という呼び方なのですが」

「ん? タツトキだったか?」

「いえ、リュウジで結構です。――そうではなく! なぜ自分だけ苗字でなく下の名で呼ばれるのでしょうか」

「俺も名前で呼ばれているよ、竜時」

 江藤が答えるより先に峰國が指摘した。

「おまえは、李って苗字が基地内でかぶっているからだろう」

「あは、そうか」

「妙なことを聞く奴だな。みんなおまえのことは竜時と呼んでいたではないか」

 何を今更、と江藤の顔が言っている。やはり箕輪と偽名を使い下手な変装をして南田たちを評定していた間に、竜時と呼ぶ習慣が染み付いてしまったらしい。

「あれは、プライベートでのことです。一軍人としては、南田曹長と呼んで頂きたく……」

「ああん?」江藤が粗野な声を出し、凄んだ。「貴様、バロッグ発生中にこの基地で叛乱が起きたと認識していたくせに、それへの対応中の出来事を、プライベートだと?」

「い、いえ、あの、そういうわけでは」

「公私混同はけしからん。罰として腕立て二百」

 江藤は異議申し立てを受け付けない威容で宣言した。不満はもちろんあったが、逆らって鉄拳(てっけん)制裁でも受けようものなら顔が骨ごと変形しかねない。北嶋が助けに入る様子もなく、南田は「了解」と答えるしかなかった。

「フン、予定が狂ったわ。では鷹山と峰國、シミュレータに乗り込め。俺と一対二の実戦形式訓練をやるぞ。操縦服は手足とメットだけの簡易版が据(す)え付けてあるから、着替える必要はない。パーソナルディスクも北嶋が前もってデータをコピー済みだ。プリセット選択で自分の名前を選べばいい。――ようし、十五秒で着席!」

 ふたりが速やかに従って動き、シミュレータの箱の中に消えていく。数分後、シミュレータが上下に震動をはじめ、どうやら仮想空間の機兵が歩行を始めたとわかると、北嶋は仮眠するといって姿を消した。あとには坂元と南田だけが残されている。

「馬鹿だな、おまえ」

 シミュレータの揺れるさまを座って眺(なが)めていた坂元が、ちらりと南田の腕立て伏せに目をやってそう言った。何かの軽口が続くかと南田は期待したが、それはなかった。

「そう思うよ」

 南田の返事は完全にタイミング遅れになった。

 腕立て伏せ、残り九十五回。





- 3 -


 早朝訓練が終わると、もう朝食の時間になっていた。南田たちは起き出して来たほかの隊員らとともに食事をし、江藤が思いつきで今日から始めた朝礼を聞き、体操をして、それから龍(ロン)の解体に取り掛かることになった。整備士だけでは時間がかかりすぎるし、勉強になるからと言って江藤はパイロット八人にも参加を命じたのだ。北嶋も仮眠を終えて指揮を執っている。参加者三十九名。

 南田たちの予想とは裏腹に、シミュレータの話は一切出なかった。久留(ひさどめ)や朝井といった他のパイロット四名が第五実験棟に呼び出されることもなく、彼らはせっせと龍の分解作業に精を出している。実機に乗ることすら稀(まれ)だったパイロット候補生に、解体整備の経験はない。南田たちとていい勉強の機会だとは思うのだが、今朝のことが話題に出なかったことが気になって作業に没頭できない。

「なんだったんだ、今朝のは」 

「韃靼(だったん)ってタタール人のこと?」

「おまえはどこで日本語を学んできたんだ、ホントに」

 鷹山と峰國(フェングォ)が作業の合間に話をしているのを聞いて、南田は、自分の心配のひとつが杞憂だったことに胸を撫(な)で下ろす。しかし、片付かない問題は隊長、江藤のことだ。

「シミュレータの件、俺たちから話していいのかな」

 南田は二次電池モジュールを運ぶついでにふたりのそばに立ち寄り、声を落とした。

「いいだろ。口外するなとは言われてないからな。けど……」鷹山は苦い顔になる。「あまり進んで話したくないね、俺は」

 鷹山と峰國のコンビは、仮想空間での江藤との模擬戦で惨敗した。単純に相手を撃破するだけの潰しあいで、二対一の優位な条件を活かせずに負けたなどと自分で喧伝(けんでん)するのは御免こうむる、と鷹山は言っているのだ。坂元に話を振っても同じ答えをよこすだろう、と南田は推定した。南田と坂元も、江藤の機体に命中判定のひとつも与えられないまま敗北している。

「暇を見て、朝井たちにシミュレータのことと模擬戦の様子を伝えないか」

 南田が提案すると、鷹山が怪訝(けげん)そうな顔をした。

「どうして?」

「あのシミュレータに入っているシナリオは俺たちが訓練中に経験したのと違っただろう。機兵がはまるような落とし穴なんて、いくら廃墟マップでも設定されていなかった」

「まぁな。あるかもしれないとわかっていれば、あんなマヌケはやらかさなかったさ。それも峰國とまとめて同じ穴に……」

 そして身動きの取れなくなったところを立て続けに狙撃されて、両機とも撃破判定。南田の場合は、狭い街路で江藤機の背後から襲いかかったものの、使用した雷紫電(ライシデン)が辺りに充満していたガスを爆発させて自滅。落とし穴と同様、ガス管の破損による可燃性もしくは支燃性ガスの充満などという環境設定は、三ヵ月の機兵操縦訓練で行ったシミュレーション戦には一度たりとも存在しなかった。

「たぶん、江藤少佐は前もって新型シミュレータの更新内容を知っている。向こうは一機だけでも、情報っていう強力な仲間がいるんだ。まんまと他のみんなまで罠にはまることはないだろう」

 そうすれば江藤の卑怯な勝利はなくなり、実力が試される。本当に御船の言うような、従うに足る上官なのか、確かめられる。南田はそう考え始めていた。

「竜時が教えたいなら好きにすればいいさ。けど俺は、話す気はない」

「どうして。情報を共有すればこちらが有利になる。負けたところまで細かく伝えなくたっていい。都市に地下構造やパイプラインの設定が盛り込まれているって教えるだけでいいんだ。それだけで彼らの勝算は増える」

「それが考え物だって言ってんの。俺はあいつらに勝たせて自分の立場を低くするつもりはないよ。教えるなら、まず俺たちがあのおっさんを倒してからだ」

 鷹山のこだわっている部分について南田はようやく理解した。いずれ士官となり、部下を率いていく身の自分たちが、下士官相手にかっこ悪いところは見せられない、ということなのだ。しかし、と南田は思う。先にシミュレータを体験した南田たちからリークがなくとも、久留や朝井たちが自力で江藤に勝利する可能性はある。面子(メンツ)を重く考えるなら、先に情報を与えておくほうが無難というものだろう。おまえたちは俺たちの情報があったからこそ勝てたのだ、と。鷹山はそのシナリオを全く想定していない。機兵の操縦適性で階級が決まっているわけではないのに。

「はいはいはい、そこの方々。サボらないでくださいよー」

 若い整備士が慌しく三人のそばを駆け抜けていく。南田は、その名前を記憶から掘り起こす。

「たしか、矢俣(やまた)だっけ」

「ああ、北嶋大尉の一番弟子って感じの奴だな。あれに告げ口されるのもつまらない。あとでまた話そう」

 鷹山は工具箱を抱えると、作業が遅れ気味の機体のほうへ歩いていく。

「気にしなくていいんじゃない?」

 峰國が立ち上がりながら、南田とは目を合わせずにそう言った。

「何のことだ」

「いろいろかな?」

 直後に峰國を呼ぶ声がして、南田は追及の機を逸した。


*   *   *   *   *


 その後、南田が鷹山とじっくり腰を落ち着けて話をする時間はなかった。

 龍の解体が昼までに終わり、門外漢がいても邪魔なだけの工程に入ると、南田たち曹長四人は阿賀少佐から呼び出された。彼の指揮する機甲化歩兵部隊、第三二歩兵連隊第七中隊のあらましについて見学することになっていたらしいのだが、阿賀と約束をしたらしい江藤からはそんな話を聞いていなかった。坂元が江藤を電話で呼び出そうとしたが捕まらず、副長たる北嶋から許可を得てようやく見学を開始。主要な将校との顔合わせと、乗俑機などの装備品一式の紹介、そして訓練風景を見せられて、二時間ほどで解放された。それから戻ると、江藤はすでに他の四人の機兵パイロットを第五実験棟に連行していた。全員が江藤に負けたことは、四人の帰ってきた顔を見れば一目瞭然だった。

 幸い、夕食後は就寝まで自由時間が与えられた。パイロット組は夕食前に体力トレーニングが入ったので、何人かは疲れてもう寝ようとしていたが、南田はそれを強引に捕まえて、江藤を除く機兵パイロット八人全員を兵舎の談話室に集めた。そう難しくはなかった。初めて階級の差を利用したまでのことだった。

「あれは反則ですよ」

 朝井秀一が午後のシミュレーション戦の模様を一通り解説し終えて、最初に表明したコメントがそれだった。

「しかしな、それはおまえもおかしいだろ」

 鷹山がげらげらと笑う。

「犬が飛び出してきたから踏みつけないように立ち止まったら狙撃されたって? なんで犬だなんてわかったんだ。仮想空間内に犬なんてオブジェクトは用意されてないだろう。何を見間違ったんだ」

「きっと、更新差分に犬がいたんですよ」

 朝井は真面目な顔で反駁(はんばく)するが、鷹山は笑いを堪(こら)えるのにずいぶんと苦労をしていた。腹筋を押さえながら、しかしな、と繰り返す。

「同時に出撃した久留は、そういう動物は全然見ていないんだろ」

「ああ、見ていない」

 久留は、鷹山たちとは前から対等のつきあいがあるので、上官のいないところでは彼らに敬語を使わない。

「そういうわけだ、認めろよ、朝井。なにも言い訳を作らなくたっていい。江藤少佐はあの外廓聯にいたんだ。おまえたちより強くて当たり前だ」

 それを言うなら「おまえたち」ではなく「俺たち」だろう、と南田は思ったが、口にはしない。士官候補は威厳をキープしておくべきという鷹山の考えを、南田は全面的に否定しているわけではない。余計なことは黙っているに限る。

 朝井は面白くなさそうに、背後の壁沿いに立っていた癖毛の男に話を振った。

「群山(むらやま)たちは、どうだったんだ。動物とか出ただろう? いや、次は植物だったかもしれないな。蔓(つた)で機兵を足止めする巨大植物」

「どこのビオランテだ、それは」

 南田はついつい口を挟んでしまった。が、叔父のコレクションで覚えたその植物怪獣の名にピンと来る人間はおらず、南田はその発言について深く後悔するはめになった。

「いや、いいんだ。忘れてくれ。なんでもないよ。――続けてくれ、群山」

 慌てて取り繕(つくろ)って、さらに間違いに気づく。群山は、まだ何も喋ってはいないのだ。続けてくれ、ではなく、始めてくれ、だった。

「実力不足で負けた。以上です」

 群山は、朝井とは別の意味で面白くなさそうに答えた。興味自体が無い、と言わんばかりの無表情。南田は、何を騒いでいるのだと批難されているように感じた。男たちの体温でぬくもっていたはずの部屋が、少し冷めた。

「あいかわらず無口だなぁ、軍曹殿は。よし、ここは俺が」

 引き継いで喋りだした大柄の男は、パイロット組最後のひとり、杜洋伸(ドゥ・ヤンシェン)だった。峰國と同じく中国出身――かなりアバウトな定義での話――だが、育ちは日本ということで、むしろ日本語のほうが達者である。南田は黒龍隊配属以前から彼を知っているが、初めて話をしたときはその堪能(たんのう)な言葉遣(づか)いに驚いたものだった。ただし、もっと不可解に日本語にこなれた男を今の南田は知っているが。

「俺と群山軍曹のときは、生き物みたいなのは出ませんでしたね。まあ、そんなの気づく前に先制攻撃をもらってそれどころじゃなかったというか。待ち伏せ場所を探していて、いい窪地(くぼち)を見つけて確保しようとしたら、そこで待ち伏せされてたってオチです。陽動役だった軍曹は俺を援護に来ようと駆けつけてくれたんですが、そこで返り討ちです。ズドーンと一発」

「ズドーンって、火縄(ヒナワ)を使ったのか」

 南田は驚いて訊(たず)ねた。亜細亜連邦軍の機兵用百五ミリライフル砲、その名称が火縄である。百二十ミリ滑腔砲(かっこうほう)がスタンダードの主力戦車に比べて火力が劣るのは否めないものの、機兵の装甲は戦車よりずっと薄い。機兵同士の戦いなら十分な火力と言える。しかし、話はそう単純ではない。バロッグによるエネルギー変換現象はその運動エネルギーを歪(ゆが)めてしまう。機兵同士の戦闘はまず変則領域内であると考えてよく、したがって飛び道具は最適な選択ではないという考えが亜細亜連邦の機兵開発コンセプトの根底にある。機兵の投入が遅れた亜細亜連邦軍が、先達である啓示軍に対して少数の機兵投入規模で太刀打ちできているのは、亜細亜連邦軍が機兵対機兵の戦術を熟考して龍の仕様を決定した功績が大きいだろう。龍は自ら展開するバルムンクフィールドによって機体周辺のバロッグを排除し、その限られた範囲内で最大の攻撃力を発揮するよう、文字通りの格闘戦を主眼に設計されている。一方の啓示軍が大量投入している機兵、エントゼルトゾルダートは、変則領域に因(よ)る命中精度の低下を数で補うコンセプトから、火力に偏重している。いずれの志向も一長一短だが、亜細亜連邦領内は地球上で最も変則領域の発生が頻繁で、ホームグラウンドでの戦いに限れば龍のほうに分があるのは確かだった。そして、その長所を確実に伸ばすため、南田たちの受けた戦闘訓練は接近戦重視で、火縄による砲撃訓練は実戦形式では一度も行われなかった。相手の土俵で戦うのは死を意味する、と教官が言っていたのを南田は思い出す。

「いや、あれは九式ATMでしたね」

「へ、現金自動預払機?」

「峰國、おまえ……」

「わかってる、わかってるって。対戦車ミサイルね。ちょっとびっくりしたんでボケてみただけ」

 峰國の言い訳が真実かどうかはともかく、杜の話を聞いて驚いた隊員は少なくなかっただろう。九式対戦車ミサイルがシミュレーション戦で登場するとは、想像していなかったし、もし早朝訓練でも使われていれば南田はもっと早く撃破されていただろう。

 九式対戦車ミサイルはもともと機兵用ではなく、ヘリや軽装甲車輛向けに配備されていた保護カバー付きのミサイル発射システムである。龍の腕に括(くく)りつけられるよう改造するだけでよかったため、火縄より早く投入されている。破壊力も命中精度も火縄に勝るが、コストが最大の問題となった。ミサイル一発では目標をひとつしか破壊できないが、同じ調達費で賄(まかな)える火縄とその砲弾をうまく使えば、その五倍の目標を破壊することも可能なのだ。加えて、機兵に装備させるよりは車輛に搭載したほうがゲリラ戦の便がよく、混戦極まる前線では機兵にまでこのミサイル発射システムが回ってくることは稀である。したがって、これも優先度の都合で南田たちはまともに訓練を受けていない。

「後進育成の素質がないんじゃないか?」と、鷹山。「ATMなんて使えるわけないだろ。っていうか、杜たちにはそんな選択しなかったんだろ? アンフェアだな」

「もともと二対一なんだからフェアじゃないだろうさ」

 それまでずっと黙って聞いていた坂元が口を挟(はさ)んだ。

「そもそも、戦争にフェアも何もない。勝敗がすべてだ。今朝、俺と鷹山も江藤少佐と勝負して、負けた。だが、次は負けるつもりはない。そのために、さっさと解散して明日に備えるのが得策だと俺は思うね」

 坂元は誰の返事も待つことなくひとり席を立つ。鷹山もその行動は予想外だったらしく、ぽかんと親友の顔を見上げている。坂元が自分から負けを公言するなど、士官学校の同期の誰が聞いても信じまい。

「ちょっと待ってくれよ、坂元。勝つために、情報を共有しようっていう趣旨なんだ。少佐のずるい手だって無限にあるわけじゃない。そのうちパターン化するはずだ。そのポイントを押さえれば、俺たちの勝算は……」

「ああ、たしかに江藤少佐はそれで負けるかもしれないさ」

 すでにドアに手をかけていた坂元は、そのまま部屋を出ながら吐き捨てた。

「でも、それは俺の勝利じゃない。むしろ惨めな敗北だ」

 ドアが閉まる音を最後に、部屋はしばし静まり返る。

 坂元の言葉に南田は考えさせられた。彼の言うように、これは江藤からの試練であり、パイロットそれぞれが独力で克服すべきなのかもしれない。それに対して自分は、シミュレーション戦で江藤の裏をかくことで、逆に力量を確かめようと考えていた。果たしてどちらがまっとうな軍人だろうか。税金で糧(かて)を得る者として、ふさわしい選択をしているのは坂元か、自分か。――南田はその場を繋ぎ止めるための言葉を見つけられなかった。

 やがて鷹山が椅子(いす)を引いて立ち上がると、次々とそれに従う者が続き、全員が自室へと引き上げていった。南田も峰國とともに戻るしかなかった。

「みんなで話せて楽しかったねー」

 二段ベッドの下段にもぐりこんだ南田へ、上段から峰國が声をかける。南田はああともうんともつかぬ声で返事をして、会話へは発展させなかった。峰國もその気配を察したものか、沈黙する。

 南田の口から溜め息が漏れる。

 今日も疲れた。





- 4 -


 北嶋三朋(さぶとも)は家庭持ちである。その北嶋にとって不幸のひとつは、黒龍隊の創設が隠されていた手前、前任地のつくばからタイミングよく引っ越すわけにはいかず、結果、妻と娘をつくばに残しての単身赴任となっていることだった。早くまた一緒に暮らしたいと北嶋は切望しているが、妻子を猿之門に呼び寄せることについては、ためらいもあった。つくばは一度敵襲を受けたが、猿之門とどちらが安全かと考えてみると、今後は猿之門のほうが戦場になる可能性が高いのではないかと推察された。

 その相談、というのは対外的な口実に過ぎないのだが、北嶋は毎晩、宿舎からつくばへ電話をかけるようにしている。つまり、愛する妻と話さない日はない。しかしさすがに忙しくなると、電話を好きな時間にかけるわけにもいかず、残念な結果になる。妻の裕美子に怒られる、というのは稀だが、それ以上に堪(こた)えるのが、娘がもう寝てしまっていることだった。幼稚園での出来事を楽しげに語ってくれる娘、朋美(ともみ)の話に耳を傾けるひとときは、北嶋にとってこの上ない安らぎの時間だった。髭の軍医に出してもらった胃薬などよりもよほど胃痛に効く。

 今夜は龍(ロン)の点検の目処がつき、九時には上がれたので、なんとか寝室に向かう前の朋美と話ができた。男の子が砂場で動物の糞(ふん)を踏んでしまった、というのが最大のニュース。男の子の名前には覚えがある。よくちょっかいを出してくるのかもしれない。つくば勤務であれば、夕方その時間に抜け出して公園に見張りに行けるものを、と口惜しく思いながら、もちろん娘にそれを告げることはなく、おやすみを言って妻と電話を代わってもらう。朋美はよくできた子なので、妻が毎晩寝かしつけなくても、ひとりでちゃんとベッドに行く。自慢の娘である。

 そのあと妻と何を話すかというと、主に、他愛もない話である。つくばと猿之門のどちらが安全か、という話題は、実は電話では出すことがない。盗聴の可能性があることを、つくばから転勤となるときにすでに話してあった。冬物を買い足すタイミングの難しさについて裕美子が詳細に語るのを熱心に聴いていると、耳がノイズを拾った。ドアをノックする者があるようだった。

「ごめん、裕美子さん、誰か来たみたいだ。――うん、そう、宿舎だからね。――いや、江藤じゃないよ。あいつはノックなんてしないから。じゃあ、おやすみ」

 愛してるよ、と最後に付け加えるのは忘れない。忘れたことなどない。受話器を置き、ドアまで邪魔者、もとい来客を出迎えに行く。士官用の宿舎には下士官や兵はおいそれと入れない。基地司令代理の倉知(くらち)は自宅からの通いであり、宿舎には普段から寄り付かないので、可能性は低い。そういうわけで見当はついていた。まだ基地の知り合いが少ないというだけのことだが。

「なんでしょう、阿賀少佐」

 満面の笑みで歓迎とは逆の意思を表明することも、北嶋には可能だった。

「休んだところすまないな。少しだけ、中で話がしたいのだが」

「少しだけでしたら」

 北嶋は阿賀を迎え入れた。士官用とはいえ、さして広くもなく、一人部屋であることが最大の売りのような部屋である。電話する前まで座っていた椅子を阿賀に勧め、自分はベッドに腰を下ろす。

「それで、なんでしょう。――愚問ですか。江藤のことですね」

「よくわからない」

 阿賀は生真面目(きまじめ)な顔のまま無責任なことを言った。

「わからないとは?」

「江藤少佐の、軍の規律を乱すような言動については、基本的に直接本人へ苦情を持って行くようにしている。しかし今回は、江藤少佐がやっていることなのかどうか、そもそも人為的な事件なのかどうかも、まだわからないのだ」

「阿賀少佐、話が見えないのですが」

 もっと具体的で整理された説明を要求すると、阿賀は少し考えてから、ためらいがちに口を開いた。

「黒龍隊が来てからのこの数日、物資、主に食糧の紛失が多発しているのだ。いずれも被害は小額だが、保安の上でも、これは見過ごせない事態だ。関係各所から報告を受けた倉知大佐は、私に内々に調査を命じたのだが……」

 そこから先は口を濁す。北嶋は阿賀がどんな捜査をしたのか想像してみた。隠しカメラもICレコーダを設置する姿が思い浮かんだが、そういった警察の組織的捜査の真似(まね)というよりも、おそらくは探偵のような調べ方だろうとイメージを修正する。機甲化歩兵部隊は治安対策における最後の実力行使を担う部隊であって、犯人探しが目的ではない。しかし今回の場合、専門外の阿賀であっても容易にあたりをつけられる容疑者がいる。北嶋は、本当に残念ながら、心当たりがある。

「江藤が怪しい、というわけですか」

 阿賀は溜め息混じりに頷いた。

「紛失は江藤少佐の近辺で多く発生している。しかし、状況証拠に過ぎない。確実なところを掴みたいが、あの男の部屋に踏み入る権利は、私にはない。倉知大佐でも、黒龍隊隊長の部屋に許可なく立ち入ることはできない。――そこでだ。江藤少佐とは旧知の間柄だという君に、頼みがある」

「私なら、江藤の部屋を気軽に訪ねて、そして消えた備品や食べ物が置かれていないか確かめられる、というわけですね」

「やってくれるか」

「しかたないですね。本当に江藤がそんな悪さをしているのであれば、叱(しか)らねばなりません。困った友人です」

 北嶋が簡単に引き受けるとは期待していなかったらしく、阿賀は拍子抜けしたような、安堵を一歩通り越した緩い顔になった。それを見て、北嶋はふと閃(ひらめ)いた。これはいいチャンスである。あくまで個人的に。

「で、阿賀少佐。報酬の件なのですが」

 スマイルの使い分けは、北嶋の得意分野である。


*   *   *   *   *


 阿賀との交渉を終始優位に進めた北嶋は、しっかりと報酬の約束を取り付けて、その五分後には、江藤の部屋のドアをノックしていた。

「入れるなら、入って来い」

 部屋の主は、誰が来たのかを確かめることもなく、そう叫んで寄越した。しかし、明らかに電子錠が機能している。数字ではなく、文字列でのパスワード入力を求められるタイプ。同じインターフェースでメール形式の書置きも残せる。今は、江藤が設定した出迎えのメッセージが表示されており、「合言葉を入れやがれ」とある。合言葉を知る者だけが訪問できる、ということらしい。

 合言葉を知らされた覚えはなかったが、北嶋は迷うことなくそれを入力した。子どものころ秘密基地の入構許可のため使っていた合言葉が、有効だった。他にも使えるパスワードはあるのだろうが、懐かしいその言葉を江藤がきちんと登録していたことを、北嶋は嬉しく思った。

 これからその友人の悪行を暴こうというときに、気持ちが鈍るようなシチュエーションではあったが、それは一般論に過ぎなかった。無用の感傷でとんでもない被害を受けた経験は枚挙に暇(いとま)がない。ゆえに北嶋は全く躊躇(ちゅうちょ)なく、ドアを開けた。

「お、北嶋か。なるほど入れるわけだ」

 机で何か書類と格闘している江藤は、顔を一度も上げることなく、来訪者を特定した。

「これが黒龍隊隊長どののお部屋か」

 初めて入ったのをいいことに、物珍しそうに室内を見回した。北嶋よりも数段広い私室だったが、未開封のダンボール箱が山積みで、居住空間は同等以下。

 怪しすぎる部屋の有様に、北嶋はつい笑ってしまった。外廓聯では前線を旅し、左遷後は近衛軍のオフィスの片隅で一ヵ月かそこら過ごしただけの男が、これだけの引越し荷物を持っているはずがない。高校卒業までに収集した怪しげな私物はほとんど実家に預けていると聞いていたし、実際、北嶋の実家にもなぜかまだその一部が預けられたまま残っている。

「なにがおかしい」

 やっと顔を上げて、江藤が顔をしかめる。実は拗(す)ねた表情に近いのだが、それを知るものは北嶋を含めごくごく少数である。

「この荷物に決まっているだろう。どこで拾ってきた」

 北嶋はほとんど問題の核心に切り込んだ。これだけ押収候補物品が山積みとあっては、もはや遠回りをする気が起きない。

 これに対し、江藤はちらりと室内の状況を確かめて、首をひねった。

「何も荷物など拾っていないぞ。命拾いなら何度もしてきたが。例えば……」

「江藤、僕は武勇談を聞きに来たわけじゃない」

「ふむ」

「拾ったのでないとしたら、何だ、この大量の荷物は」

「シリョウだよ、シリョウ」

 江藤は手近な箱のひとつを片手で引き寄せ、中身を取り出す。分厚いバインダーで、表にHAOSとある。機兵管制用に使われている軍用OSの仕様書であり、たしかに、それは立派な資料だと言える。あまりに立派過ぎて、それとまともに向き合う気になる人間は、おそらく発行部数の一割にも満たない。投げ出さずに目的を達する人間はさらにその一割と北嶋は見積もっている。ちなみに、北嶋は一割には入るが一パーセントには漏れる。仕事柄、所有はしているが、斜め読みがせいぜいである。むしろ部下の矢俣のほうが詳しいので、面倒は任せている。

「あいかわらずその手のものは好きなんだな」

「暇であれば、龍のモーションパターンどころでなく、OS本体からいじりたいくらいだ」

 しかしそれは幹部のする仕事ではない。倉知司令代理に刺された釘を、ここで江藤に移植してやりたい北嶋だったが、話がそれるのでやめておく。目的を忘れてはならない。他ならぬ、報酬のために。

「仕様書だけでこんなに箱が集まるわけがないだろう。基地の物資をくすねているんじゃないだろうな。部屋に勝手に出入りできないのをいいことに」

「失敬な。泥棒などするものか」

「した記憶があるんだが」

「高校生の若気の至りだ。今は、もうしない」

「どうだかな。中身を調べさせてもらおう」

 北嶋はダンボール箱の柱から、真ん中の部分を抜き出そうとする。江藤なら、最上段にダミーを配置するくらいのことは、呼吸と同レベルの無意識で実行する。

「待て、黒龍隊隊長の権限でもってそれは拒否する」

 江藤は慌(あわ)てて制止する。

「職権濫用(らんよう)の見本をどうもありがとう」

 少し迷ったが、北嶋は箱を元に戻した。手ごたえとしては、米か火薬かといったところだった。

「何か後ろめたい資料だということはよくわかった」

「いや、後ろめたいわけじゃないが、面倒なのだ。そのうち見せる。だが、今はダメだ」

「おお、なるほど。裕美子さんと朋美にくれるクリスマスプレゼントか」

「あー、こっちに呼び寄せるのか? それなら、何か考えておこう」

「それはまだわからないが……」

 その事案の進展のためにこそ、箱の中身を探らねばならない。

「俺の荷物ばかり気にしているが、何か用だったんじゃないのか? 酒なら、すまんが今は飲めん」

 酒の話を出すということは、北嶋を追い払う気満々ということである。北嶋は酒には強くない。しかし追い払われるわけにはいかなかったので、居残るための話題を探す。それはすぐに見つかった。なにせ隊長と副長の間柄である。それぞれに戦闘指揮と装備管理の責任者でもある。話題には事欠かない。

「龍の解体は予定通り進んでいる。いまのところ、異常はない」

 この部屋にも盗聴器が仕掛けられていないとも限らない。北嶋は具体的な言及を避けたが、江藤はその意図と配慮を読み取った。

「この部屋については問題ない。龍にも特に仕掛けはなしか」

「盗聴器も爆弾も剃刀(かみそり)も画鋲(がびょう)も汚れた黒板消しも出てこない。きちんと仕様通りに組まれている。ハードはね。HAOS(ヘイオス)のほうは、何かいじった形跡がないか若いのにチェックさせているが、どうもおまえに任せたほうがよさそうだな」

 江藤がさきほど取り出してみせたバインダーはまさしくそのためにある。

「俺は他にやることがある。そんなことまでやっていられん。まあOS関係についちゃ、すぐに実害が及ぶような仕掛けをする奴はいないだろう。当面放っておいてもいいさ」

「そうならいいが。他に何か、注意することはあるか?」

 そうだな、と考えるような台詞(せりふ)を吐きつつも、江藤は休戦していた書類との戦いを再開する。

「健康管理、だな。もう休めよ。おまえはすぐ腹を壊すからな」

「誰のせいだ」

 さすがに呆れて、北嶋は今回の捜査を打ち切ることにした。忌々しいが、たしかに、休んだほうがいいかもしれない。

 それは部下たちにも言えることだと、北嶋はドアへ引き返しながら思う。配下の整備班には、龍になにか悪意の仕掛けが施されていないかチェックするために、マニュアル記載の手順よりずっと面倒な解体点検をやらせた。江藤もパイロットたちをしごいているようである。若者ばかりの隊がそれでまとまるのか、一抹(いちまつ)の不安を覚えながらも、とりあえず北嶋は妻と気兼ねなく連絡できる手段を新たに考えるのに没頭して自室へと帰った。





- 5 -


 翌朝、峰國(フェングォ)は珍しくご機嫌斜めだった。南田の寝覚めにまたバナナをつっこんだところまでは昨日と同じだったが、南田が起き上がったときには、先に出るといって部屋をあとにしていた。

「皮ごと放り込むなっつうの」

 バナナを頬(ほお)張りながら、峰國に何かあったのかと考える。良くない夢でも見たのだろうか。もしそうなら、南田よりも目覚めが早いことにも説明がつく。だが……。

 時間には余裕があったが、峰國のことが気になった南田は、さっさと支度を済ませて兵舎を出た。他の部屋の同僚たちはまだ支度中か、起き出していないようだった。

 霧さえなければ兵舎の玄関前は見晴らしがいい。峰國がまだ近くにいるなら目に入るはずだったが、いない。早朝訓練の集合場所へ向かったらしい。目に付かないのは峰國の姿ばかりではなく、黒龍隊の整備士も、阿賀たち他の部隊の隊員も、出歩いてはいなかった。猿之門基地は啓示軍(オフェンバーレナ)との戦争が始まってから部隊を大陸へ派遣したため半ば空き家状態で、人通りが少ないのだ。だからこそ、初日のような茶番も仕込める。満員だったら龍(ロン)の転倒で兵を押し潰していた。

 思い返すほどに、江藤の入隊試験は危険なものだったと再認識させられる。スタン効果重視の近接攻撃武器、雷紫電(ライシデン)での戦いだったとはいえ、機兵であれだけやりあって、怪我人が出なかったのは幸運のおかげに過ぎないと南田は思う。江藤博照という男に、本当に隊長としての資質があるのか、やはり南田は士官学校の教官の言葉を疑わずにはおれない。

 峰國がどうして早く出たのか見当もつかなかったので、南田は集合場所に急ぐことにした。峰國がどこかへ寄り道をしていても、現地には江藤がいると予想できた。遅刻者に懲罰を与えようと楽しみにしているだけに、自分が遅れることはない。忌々(いまいま)しいが、都合は良かった。二人だけで、話をしておきたいことがある。今度は腕立て伏せを命じられるようなヘマはやらない。南田は戦意を高めてしっかりと歩を進めた。

 そして。

 思い切り踏んづけてしまった。

 軍靴越しにも伝わる柔らかな感触。そして漂う臭い。

「――くそっ」

 南田は泣きたくなった。どうして獣の、形状からしておそらくは犬の糞が基地内に落ちているのだ。野良犬が、丘を登りきって侵入したのか。だとしても、猫はまだしも、犬に塀や有刺(ゆうし)鉄線は越えられない。残る侵入経路は正面のゲートとなるが、監視の兵はいったい何をやっていたのか。

 いつ入り込んだとも知れず、また現在の居所もわからぬ犬について大至急で報告を回す義務はないと判断し、南田は靴の洗浄に全力を注いだ。余裕があったはずの時間は靴を念入りに地面にこすりつけている間に無慈悲に過ぎ去っていき、結局、南田が早朝訓練の集合場所に駆けつけたときには、機兵パイロット全員が揃っていた。員数には江藤も入っている。

「懲罰」

 江藤は、トランプゲームでいちばん最初に上がれたときのように満足げに、それを宣告した。

 今日はついていない。演習場を走らされながら、南田は己の不幸を呪う。

 昨日に引き続きシミュレータによる戦闘訓練なのだが、昨日とはふたつの点が違っていた。ひとつは、久留たちと合同で行われていること。もうひとつは、第五実験棟に向かう前に数キロのランニングを課されたことだった。

 南田の足は歩行、走行ともに達者だったが、懲罰ぶん余計に走らされたため、最後は大柄でハンデのある杜洋伸(ドゥ・ヤンシェン)と同時のゴールインとなった。早々にノルマをこなした坂元たちは一息入れている。何人かの、ようやくか、という視線を南田は感じた。無理もない。食堂が込む前に訓練メニューを消化しないと、オススメメニューが他の部隊に消化されてしまう。その焦燥(しょうそう)感は南田とて共有していた。

 冬だというのに、第五実験棟に入った南田は、エアコンで棟内が涼しいと感じた。今日に限ってヒートポンプを逆サイクルにしているわけではもちろんないのだが、ウォーミングアップには過剰(かじょう)すぎる運動をした南田としては、すぐにでもシャワーを浴びるか、さもなくば購買に直行してアイスを入手したいところだった。そして、これももちろん、無理だとわかっている。演習を一秒でも早く終わらせるのが次善策だろう。

 シミュレータの前に整列した南田たち八人は、昨日と違う点がまだあることを知らされた。調整中だった四基目のシミュレータが使えるようになったというのだ。そして。

「今日はちょっと趣向を変える」

 江藤は、自分はシミュレータに乗らないと宣言してから、部下の整列を崩させて自分を囲むように呼び寄せ、詳しい説明を始めた。

「マップの基本レギュレーションに変化はない。おまえらがここに来るまで訓練で使ってきたヤツにちょっと差分を入れただけの代物だ」

 あれってちょっとだっけ、と誰かが呟いたので南田は慌てて声のしたほうの足を踏んだ。どうせ峰國かと思ったら、口の中でくぐもった悲鳴を上げたのはどうやら朝井だった。

「今日の目玉は、仮想敵がコンピュータだってことだ」

 朝井の呟きと悲鳴と身じろぎには気づかなかったらしく、江藤は愛車自慢をするどこかの金持ちのような顔で説明を続ける。

「ただコンピュータ相手というだけではむしろ興醒(ざ)めだろうが、案ずるな俺のかわいい部下たちよ。機体の動作パターンこそパーソナルディスクのデフォルト準拠だが、思考ルーチンには特別の工夫を凝(こ)らしてある。基地の電算室にはプロトタイプのEPUが設置してあるのを知っているか? なりはでかいが、龍に搭載しているモデルと処理能力自体に大きな違いはない。そのゴキゲンな多元連立方程式の近似解計算能力、俺の個人的な戦術データベースとを使って、コンピュータが俺のパソコンからの命令に従って各々行動計画を立案、実行し、逐一(ちくいち)コマンドを与えることなく模擬戦を展開できるようソフトを組み上げた。つまり、俺の考えを一から十まで伝えなくともきちんと任務を果たしてくれる、そんな理想の部下たちを仮想空間内に現出せしめたのだ。この俺が」

 最後の「俺が」のところで、親指を使って自分を指し示す江藤。

「勝利条件は、敵の全滅ですか」

 坂元が質問の形で先を急(せ)かした。江藤は気を悪くしたふうもなく、首肯(しゅこう)する。

「特定機体、もしくは施設の撃破を目標に設定するのも面白いが、今日は単純に行く。味方機に損害を出すことなく、短時間で、敵方の龍を全滅させることで最良の評点を得られる。火器の自由選択と、全攻撃手段によるコクピットへの直撃を許可する。なんせコンピュータ側にパイロットの負傷レベルに応じた動作変化を仕込む暇がなかったのでな、デジタルにゼロかイチ、デッドオアアライヴで決める。よって、今回に限り非致死制圧は特に加点しない。コンピュータ側もそこは同じだから気を抜くなよ。手加減を期待していたら即座に戦死だ」

 昨日すでに群山を火器で撃破している当人の台詞ではない。

「あの、相手が電算室のコンピュータってことは、シミュレータは四基同時に乗り込めるんですか」

「いい質問だ、久留。このシミュレータの最大の長所は、実機に準じたインターフェースと振動、加速度の環境をパイロットに提供することだ。その他の部分はゲームプログラムと一緒で、電算室のEPUなら余裕で同じ機能を再現できる。EPUに『中の人』はいないからな。そのおかげでこのシミュレータはすべて同時に使用可能になる。便利だろう。まあ、そのためにわざわざ俺がプログラミングまでしたんだから、便利で当然だが」

 全員が大なり小なり顔を綻(ほころ)ばせる。四人出撃で総勢が八人。二周で全員が訓練を終える計算になる。昨日のように、江藤相手に二人ずつタッグを組んで立ち向かっていては四周が必須だった。覚悟とのギャップが安心を生む。一部から拍手すら出た。それを誰も追従とは誤解しないだろうと南田は思った。

「チーム分けは、曹長の四人と、それ以外の四人だ」

「その編成には疑問があります」

 南田は気づけば口を開いていた。

「江藤少佐、士官学校を出たかどうかで隊員を括るのは、いかがなものでしょうか。自分たち四人は、たしかに士官学校で特別な教育を受けました。しかし今この演習で問われているのは、第一に、機兵の操縦技術であるはずです。指揮の勉強ではないわけで、仮にそうだとしても、指揮官だけ集めてどうするんです。船頭多くしてなんとかですよ」

「ふむ、いいことを言うな、竜時。船を陸(おか)に上げる強襲揚陸作戦というのはなかなか面白い。機兵サイズでやってみるか。船のあるマップを追加するよう開発部に手配しておこう」

 よくわからないうちに話を流されたと気づいた南田が相手に食らいつくための台詞を考えているうちに、当の江藤は軍曹及び伍長の四名をシミュレータに乗せてしまった。そして別の部屋から端末を操作するために姿を消す。残った南田たち四人は、予定通り壁に新設された観戦モニタの周りに集まって開戦を待った。

 久留たちが出撃時の設定を行っているであろう待ち時間、画面には待機中という文字列以外に何も出力されない。仮想空間の鳥瞰(ちょうかん)図くらい出せばいいのに、と南田が思っていると、峰國が映画館みたいだ、と言い出した。

「竜時、ポップコーンない?」

「あるわけないだろ。っていうか、朝飯がまだだろ」

「お腹すいたんだよね」

「バナナ食ったじゃないか」

「んー。それが、無かったんだよね。一本しか」

 どうしてだろう、と首を傾(かし)げる峰國に、南田は自分の口に放り込まれたバナナのことを思い出して礼を言おうとする。が、モニタが開戦の様子を映し出したことでそのタイミングは失われてしまった。

 マップは山林に面した新興住宅街だった。リアリティのあることに、本当に丘を切り崩して造成したかのように高低差がある。建築物は立体データとしては殆(ほとん)どただの箱なのだが、テクスチャとバンプマッピングのおかげで色々な家屋が並んでいるように見える。目を細めて見れば、普通の町並みと変わらない。しかし、同時に嘘っぽくもあった。換言すれば、作為的だった。平屋ばかりではなく高層住宅があるのはいいとしても、川は不自然なまでにしっかりと護岸されていて川面(かわも)と橋の間に相当な余裕があり、山の木もどこの原生林かと思うくらい平均的に樹高が高い。つまり、機兵が身を隠せるような地形が現実にはありえないくらいたんまりと用意されている。

 その、一辺が十キロメートルほどの仮想空間が、チームデスマッチのリングである。

「誰か知らないが、火縄二梃(ちょう)のガンマン気取りがいるぞ」

「うわー」

 四十インチのモニタは複数の長方形に分割され、それぞれ仮想空間内の違う場所の光景をランダムに映し出している。そのうちのいくつかが動く龍の姿を捉えており、坂元が指摘したように、一機の龍は両手に百五ミリライフル砲、火縄を装備していた。普通なら一挺しか与えられないうえ、両手を塞いでしまっては、機兵の強みである臨機応変な対応が取れなくなる。弾倉の交換もままならない。相手の出方がわからない場合には愚作である、というのが観戦する四人の共通認識であった。実戦経験者の江藤が配下のコンピュータにそんな選択をさせるとは思えず、やはり久留や朝井、杜、群山の誰かということになる。

「あ、左下、見てみろよ。指揮をやる気だぜ」

 鷹山が指差したそのブロックに映った龍は、背中に大きな荷物を背負っている。情報通信パック。車輛や歩兵からの情報支援が得られない場合に、それらに代わって索敵と通信を行うバックアップ役を機兵部隊の一機に割り当てて、機兵だけでの独立行動を可能にするための装備である。外廓聯と同じく機兵しか戦力のない黒龍隊としては、将来扱う可能性が高い。もっとも、まだ装備不足の黒龍隊には情報通信パックの実物など一個もないのだったが。

「縁の下の力持ち系だな。誰だろう」

 情報通信パックは単純に機体重量を増加させるばかりでなく、重心位置が高くなるために安定性が低下し、さらに、同じく背部に存在するジャンプ用ロケットエンジンの出力も情報通信パックの耐熱性の問題から制限を受けることになる。単純な戦闘を行ううえではデメリットが多いのだ。数が出回っていないのはコスト高のせいばかりではなく、量産が進まずにコストが下がらないという悪循環に陥っている結果だというのも、南田たちには有名な話だった。

 南田は、自分が前半組だったなら情報通信パックの使用を思いついただろうかと自問する。たぶん、思いつかなかった。おそらく、無難に火縄と雷紫電で遠近の武器を揃え、あとは選択可能なようなら九式対戦車ミサイルランチャーを腕にマウントしたことだろう。南田は自分のことだけを考えていた己を恥じた。士官学校を出ていない四人の中に、士官学校を出た自分よりもよほどリーダー向きの人間がいる。久留だろうか、と推定。初日の、江藤が仕組んだ有事対応訓練兼隊員選抜試験の折にも、久留は同行のメンバーを仕切っていた。

「久留以外の誰かだろう」

 坂元がまるきり反対のことを言った。

「ああ、あいつは身軽さを信条とするからな」

 鷹山が同意。そして、あの動きは久留っぽいぞ、と別のブロックに映る龍を指し示す。山林を抜け、護岸された川へと身をかがめながら走るその龍は、火縄と予備弾倉のみで武装し、なるほど龍の優れた運動性を最大限活かすことを考えているようだった。ヒットアンドアウェイ。あの日もまさにそうだった。機甲化歩兵部隊に捕まっていた鷹山と、捕まろうとしていた南田および坂元を助け、それ以上の打撃を与える色気は出さずに速(すみ)やかに撤収の合図を出した。

「朝井はそんな慎重な奴じゃないよな」

 鷹山の意見に南田は頷く。仮想空間に犬がいた、と喚(わめ)いていた姿は記憶に新しい。

「すると群山軍曹か。杜洋伸はどちらかというと、指示を受けるキャラだ」

 坂元と鷹山が訓練時代に久留と知り合ったように、南田もチーム編成の縁で杜洋伸のことには多少詳しい。命令を受けてからそれを実行するまでの手際のよさを、教官が褒めていた。兵として理想的な性格だと言えるだろう。消去法で残った無口な男、群山は、どういう性質の人間であるのかまだ掴めていない。

「あれは群山だよ」

 峰國が事も無げに断言した。

「どうしてわかる?」

「動きに見覚えでもあるのか?」

 しかし峰國は日本で機兵の操縦訓練を受けたわけではない。南田たちもロシアで合同訓練に参加したことはあるが、中国の峰國とは全く接点がなかった。群山と知り合う機会があったとは、南田には思えなかった。

「あれ見ればわかるよ」

 峰國が指差したのは、観戦モニタのどこでもなく、シミュレータだった。

「三番のシミュレータだけ、シリンダが動いていないでしょ。ってことは、あのシミュレータに乗り込んだパイロットは今、龍を静止させているんだ」

「そうか」鷹山が手を打った。「三番には群山が乗ったはずだ。頭いいじゃないか、峰國」

 南田たちは互いの意見とシミュレータの揺動(ようどう)をもとに、仮想空間中の龍とそのパイロットの同定を済ませた。江藤の指示を受け電算室のプロトタイプEPUが動かしている龍は、たしかにデフォルト設定の動作しか取らないため、すぐに判別がついた。敵に遭(あ)ったわけでもないのに突然路上で立ち止まって関節のゼロ点出しを始めたり、走行中にいきなり方向を変えたかと思うと二度、三度とふりむき続け、結局元通りの方向に進んだりといった挙動不審を披露している。

「江藤少佐は自信満々だったが」坂元が苦笑した。「これは勝負も見えているな」

「どっちが勝つの?」

 と、峰國。鷹山がこれに答えた。

「久留たちに決まっているだろ。ひとりかふたりは相打ちになるかもしれないけど、こりゃ、全滅ってことはありえない。電算室のコンピュータは所詮プロトタイプだってことだ」

 これを聞いた坂元が、わかったぞ、と呟いた。

「指揮官がいくら優秀でも、部下のスキルが水準に達していないことには始まらない。少佐はそれを俺たちに教えたかったのかも知れない」

 筋の通った話だ、と南田はひとまず認めざるを得なかった。そしてまさにそのとき、観戦モニタの一画で、朝井機と思しき龍が火縄の砲撃により相手方の龍を撃破していた。

 朝井の龍は片腕を上げて、誰かに合図をした。それを見てか、画面の別の場所で、情報通信パックを背負った龍がおもむろに潜伏場所から出て動き出す。朝井はどうやら目標の座標を味方から知らされて、その恩恵で勝利を得たようだった。

「あっけないもんだね」

 峰國が残念そうにしている。外廓聯出身者である江藤の指揮に期待していたのかもしれない。南田も、これからの巻き返しに期待したい、と思っている自分に気づく。士官学校の伝説となった男が、ただのつまらない大人に成り果てたのではなく、まだその異才ぶりを留(とど)めていることに望みをかけたかった。忠臣蔵の大石蔵之助のように、やるときはやるのだと。

「何か、策があるのかもしれない」

 口にしてみると、そうに違いないと思えてきた。江藤が頼れる上官かどうかはともかく、一筋縄ではいかない人間であること明らかだった。部下のためになる訓練ではなくとも、自分が勝利して悦(えつ)に入るための様々な仕込みをしている可能性は高く、朝井たちがそうそう調子に乗っていられるはずはないのだった。

 それから二十分。一撃を加えては離脱、潜伏するという一進一退が続いたが、久留機が二機を撃破し、コンピュータ側の残存戦力は、ビルに隠れて対戦車ミサイルと火縄の発射のタイミングを窺う一機のみとなった。対する人間側は久留が相撃ちで行動不能になったものの、まだ三機が無傷同然で残っている。都市ガスの漏洩(ろうえい)や地下構造の脆弱(ぜいじゃく)化などといった危険要素も発現していない。計算能力の都合でオミットされたのか、注意力により回避されているのか、観戦側としては判別しかねた。

「どうやら策はなかったみたいだな」

「あったとしても、破られた。俺たちも負けちゃいられないぞ」

 坂元と鷹山が交戦意欲を増大させるなか、南田はむしろほっとしていた。本人の意図した結果かどうかはわからないが、結果としては、江藤は部下のやる気を引き出すことに成功している。前線から遠く緊張感の薄れがちな日本にあっても、黒龍隊を名実ともに外廓聯に次ぐ独立機兵部隊として育てようという力が働いている。それならば、もう江藤が何をどう考えているかなど些細(ささい)な問題のように思えてきた。

 しかし、南田の先刻の期待は裏切られなかった。

「あれ、動きが鈍いかな」

 最初に異変に気づいたのは峰國だった。執拗(しつよう)に残る敵を追いかけ回していた朝井機が、何もないところでふらついている。初めは進路がぶれる程度だったが、それは見る見るうちに悪化し、突き当たりのアパートのところで立ち止まれずにそのまま衝突してしまった。直後、折れた先の道から朝井機めがけてミサイル攻撃。朝井の龍は回避どころか、まだ起き上がってすらいない。直撃、大破。戦死、とモニタに字幕表示。

 ミサイルの弾道から敵の逃げた位置を探知したらしく、群山機と思(おぼ)しき情報通信パック付の龍が行く手へ回る。やや遅れて、データを受け取ったのだろう、残る杜洋伸の龍も朝井に代わって追撃にかかる。仕様上、マップの領域外へは逃れられないため、二機で追えば逃すことはないはずだった。

 相手は逃げなかった。群山の龍の前に自ら姿を現し、同時に発砲。狙いが甘く、群山は回避運動を取るまでもなく被弾を免れたが、そこで反撃に出ようとしたのが間違いだった。

「危ない」

 南田はつい叫んでいた。もちろん群山に聞こえるはずはなく、彼は頭上から崩れ落ちてくる瓦礫(がれき)の塊(かたまり)に気づかなかった。コンピュータ側の龍が放った直径百五ミリの砲弾により生み出された瓦礫は、容赦なく群山の龍を押し潰す。撃破判定ではないが、コンピュータがゆっくりと次の狙いを定める猶予(ゆうよ)を与えてしまった。立て続けに腹部――コクピットに直撃。そこだけ厚めに設計された装甲といえども、戦車でもなければ連続の被弾に耐えるべくもなく、結局、数秒長く生き延びただけで群山にも戦死判定が下される。

「一対一かよ……」

 唖然(あぜん)としたのは、何も声を出した坂元だけではなかった。むしろ残る三人は声すら出ずに、言葉通り口を開いたままモニタを凝視していた。

 敵の背中を道路の行く手に捉えた杜が、すかさず火縄を発砲。肩に命中し、腕が丸ごと吹き飛ぶ。それでも、コンピュータ操作の龍には左腕のミサイルランチャーが残されていた。背を向けたまま左腕がぐるりと背中に回り、ミサイルが発射される。誘導装置はランチャーに備え付けられているため、龍自体が首を向けて誘導してやる必要はないのだ。コンピュータならではの、恐怖や狼狽によるタイムラグと無縁のすばやい反撃に、杜は対応できなかった。胸部に直撃を受け、こちらは著しく取り乱したところを、コンピュータ操作の龍が続く一発で撃破。

「ミサイルはあれで撃ち止めのはず。まだ久留が、動けるはずだ」

 鷹山が最後の希望を託すように、最初に戦線離脱していた龍を探す。二機目の獲物と引き換えに脚を失った久留機だが、片腕で丸腰の龍が相手ならまだ戦いようがある。久留は武器をまだ持っているのだ。

 しかし、鷹山は失念していた。機兵は戦場でも自ら武装を交換可能な兵器である。コンピュータ側の最後の一機は、殆ど弾を使っていない群山の龍から火縄を奪い、自分の武器とした。モーション自体は、基本パターンの組み合わせで可能である。途中ゼロ点出しを挟んでも、ゆっくりとそれをやる時間がコンピュータにはあった。久留の龍が片足で跳びながら決戦に臨んだとき、もはや武器の優位は失われていた。

 交差する砲弾。

 倒れたのは久留のほうだった。観戦モニタに大きく「状況終了」の文字。

 シミュレータのハッチが開き、中からよたよたとパイロットたちが這(は)い出してくる。まるで生気を失ったかのような四人に比べ、天井のスピーカから発せられた江藤の声はすこぶる気分爽快(そうかい)の様子だった。

「次、さっさと乗り込め。俺はもう二回戦にワクテカしているんだ」

 どうやら江藤がかつてコンピュータオタクと呼ばれた種族の生き残りであることに、南田は気づき始めていた。





- 6 -


 南田は泥棒の抜き足差し足よりも慎重にと心がけて、辺りを入念に警戒しつつフットペダルを踏み込んだ。

 やはり仮想空間内での出撃初期位置はかなりランダムに配置されるようだった。さすがに敵中にただ独りなどという無体な配置にはなっていないようだが、少なくとも、センサーにかかる範囲に味方はいない。バロッグの濃度が高く探知範囲が狭いだけで、割合近くにいるのかもしれなかったが。

 久留たちが通常領域――バロッグ等の発生している変則領域に対して、八月の悪夢以前と同じごくあたりまえの空間をこう呼ぶ――での戦闘だったのとは対照的に、南田の放り込まれた仮想空間は白い闇に覆われていた。おかげで、携行するよう選択した武装の大半はまともに使えない。装備を抑(おさ)えて軽快さを武器にしていた久留に倣(なら)い、南田は使えそうにない火砲類をほとんど外して、適当な場所に隠した。必要が生じたら取りに戻るつもりでいる。手元に残したのは雷紫電のみ。あとは胸部に内蔵するマルチランチャーに装填(そうてん)した照明弾、信号弾、発煙弾など、小手先の道具である。群山に感化されて情報通信パックも背負っていたのだが、バロッグの中では最も役に立たない代物なので真っ先に外した。これは自機では再取り付けができないので、仲間と合流しない限りこのまま日の目を見ることはない。

 仮想空間の地形は、高緯度の森林地帯をモチーフとしたものだった。樹高は二十メートルを超えているうえ、葉も密についているので、やはり機兵が身を隠すのに都合がよい。赤外線もレーダー派も地形とバロッグのおかげでまともに探知手段としての用を為(な)さないので、互いのバルムンクフィールドを感知する相対バルムンク反応を頼りに敵を、そして味方を探すことになる。それはこの模擬戦の場合、実戦よりも厄介な側面を持っていた。相対バルムンク反応は相手のバルムンクフィールドジェネレータの型によって異なるパターンを検出するので、亜細亜連邦軍の機兵、龍(ロン)と、啓示軍(オフェンバーレナ)の機兵、エントゼルトゾルダートの区別は容易である。しかし、双方がともに龍であるこのシミュレーションにおいては、検出したパターンから敵味方を区別することができない。生産時期によるバルムンクフィールドの微妙な性状の違いすら判断材料に使えないのだ。下手に攻撃すれば同士討ちになりかねない。味方同士を区別する合図を事前に四人で決めておけばなんとかなったかもしれないが、南田はとてもそこまで見通せなかったし、さすがに坂元もこれには閉口しているだろう、と想像する。

 南田は自機のバルムンクフィールドの展開を最小限に抑え、その狭い効果範囲に収まるほど短い歩幅でちびちびと前進していた。そうしたほうが、相手からの相対バルムンク反応センサーによる発見を防げるためである。物音もできるだけ立てないようにセミマニュアルモードでの歩行。絶えず力加減を調整するので手足が疲れる。それでも、歩行に伴う機体の揺れは、南田の目指した目標よりもずっと大きくなってしまっている。そして苛々(いらいら)することに、機体が枝葉に接触するとスピーカからガサガサという音が出力される。容量の無駄遣いとしか思えなかった。

 南田がいよいよストレスに堪えかねて叫びたくなってきたところへ、遠くから爆発音が聞こえてきた。一回、そして数秒を挟んで二回目。戦闘が始まったのだと南田は理解し、フィールド出力半径と歩幅を少しだけ広げて、EPUの高速演算により見積もられた音源の座標へと向かった。

 三回目の爆発はなかなか聞こえず、音源推定位置に近づいても相対バルムンク反応が強まらない。いくつかのシナリオが考えられたが、南田が遭遇したのはそのなかで一番初めに思いついたものだった。龍が、数本の木を下敷きにしてうつ伏せに倒れている。三度目の爆発が起こらなかったのは、それがもう必要なかったからだった。龍は右足の脛(すね)から下を失っており、さらに、背中には大きな穴が開いていた。おそらくは正面から貫通しており、コクピットは無事ではない。――そういう判定が下ったと確信できる損傷具合だった。

 眼下の龍が敵味方どちらのものか、もはや確かめようがなかった。撃破扱いの相手には通信を送れない。動かないのでモーションパターンの個性で見極めることもできない。

 もし自分がこの龍を倒したならば、と南田は考えてみた。爆発を聞きつけて味方がやってくるのを期待して、この近くに残っておくだろう。敵のほうが先に来るかもしれないが、待ち受けるほうが先に相手を探知できるし、残骸をデコイとして自機の反応をごまかすこともできるため、様子を見て逃げることはできる。リスクは小さい。

 三人の誰かが同じように考えたならば、近くに残っていることになる。どうにかして、自分が南田竜時であることを伝えなければならない。――しかし、この倒された龍のほうが味方であったなら、それは虎穴に飛び込むに等しい選択となる。南田はフットペダルに力をこめるべきか否か逡巡(しゅんじゅん)した。

 そして。

 知性より反射神経に答えが要求された。南田機に向かって背後から飛びかかってくる龍の反応。近い。

 南田は雷紫電で対空防御の構えを取りながら横へ跳びのいた。龍の残骸からは離れる方向へ。しかし相手はそこへ軌道修正をかけて落ちてくる。重力加速度を活かした雷紫電の一撃が南田を襲う。同じ雷紫電の先端で弾(はじ)くが、龍本体の重量をどうにかできるものではなかった。二機の龍がもつれ合って仮想空間の大地を転がる。

 シミュレータはその挙動もなるだけ忠実に再現すべく景気よく回転した。平衡感覚を狂わされ、嘔吐(おうと)の衝動が込み上げるなか、南田は雷紫電が龍の手から離れていないことを確かめ、抱き合うようにしている相手へと突き立てようと試みる。回転は無限に続くはずもなく、やがて止まった。運のいいことに南田は上になっていた。相手の首は目の前。南田は一旦(いったん)龍の身を起こすと、雷紫電のターゲットを急所に定めて息を吸った。

「待った!」

 声が聞こえた。一瞬、シミュレータの外からかと勘違いをしたが、違う。共有されたバルムンクフィールド内で無線が使用可能になっているのだった。声は自らの名乗りを上げている。李峰國(リー・フェングォ)と。

「峰國か!」南田は慌てて操縦桿のトリガーから指を離した。「同士討ちは勘弁だぞ」

「ごめんごめん。でも他に確かめようがなくてさ」

 相手がコンピュータの操る龍であれば応答はない。返事を待てるだけの優位を、峰國は潜伏により確保しようと考えたらしかった。

「もう少しで竜時にやられるところだったよ」

 作戦が半ば失敗に終わったと峰國は苦笑する。南田は和んでいる場合ではないと思い出し、すぐに、撃破されていた龍のことを尋(たず)ねる。

「いや、俺が見たときには、もうやられていたよ。むしろ俺が飛びかかろうとしてた奴なんで、拍子抜け拍子抜け。ほんと、すぐ近くにいたんだけどね。別の龍には気がつかなかったな」

「けど、飛び道具は使えないはずだ」

「百パーセント使えないわけじゃないでしょ。流れ弾や残弾の心配をしないなら、撃つのは勝手だ。たまたま普通に飛んでくれることを祈って、さ」

「じゃあ、あれは火縄か対戦車ミサイルの攻撃だって?」

「断言もできないなあ。この仮想空間じゃ破損箇所のエフェクトがアバウトだから。凶器の判定は難しそうだよ、ワトソン君」

「おまえはどこで日本語を……っと、散れ!」

 別に装甲越しに気配を感じたわけではなく、警報が脅威の接近を南田に告げていた。相対バルムンク反応レベルC。南田や峰國のようにこそこそとではなく、堂々と勢いよく向かってくる龍がいる。接近に伴い、反応はレベルBまで強まった。一機ではない。二機の反応が重なっている。

 霧と林に隠れていたその姿が顕(あらわ)になった。左右に併走して迫ってくる二機の龍は両方とも火縄を手にしている。雷紫電は携行していない。

 ――さっきの龍をやったのはこの二機か。

 南田は操縦を戦闘モードに切り替えてすばやく相手の進行ルート延長線上から外れた。峰國の言ったように、変則領域内だからといって飛び道具が全く無用の長物になるわけではないのだ。雷紫電のリーチより、火縄がバロッグの影響を受けずに高確率で目標に命中する有効射程のほうが長い。

 向かってくる龍は躊躇なく火縄を発砲した。弾は南田機ではなくポリゴンの木を撃ち抜いたが、その倒れる木が南田の逃げ道を塞(ふさ)ぐ。続く攻撃。精一杯の回避運動を取ったものの、機体が樹木に引っかかったところでとうとう被弾した。

「ちっ」

 損傷状況を示すモニタ表示にちらりと目をやり、南田は左腕が肘(ひじ)のところで飛ばされているのを確認した。右腕の雷紫電は使える。それならば勝機はあった。

「そっちは弾切れだよな!」

 背部ブースターで大きく跳躍。相手に弾倉交換の暇を与えず、南田は相手を組み敷いて首筋に雷紫電を突き立てた。スイッチをオン。電撃のではない。通信回線を開くためのスイッチを南田は押した。

「俺だ、そっちは誰だ? また鷹山か、坂元じゃないよな?」

 南田は問答無用で仕掛けてきた二機の龍を、江藤支配下の機体だとは断定していなかった。前例があるだけに。

 返事は、数秒待っても来なかった。相手をコンピュータと判断し、南田は容赦(ようしゃ)なく雷紫電の電圧を解放する。実機であれば、頭部に搭載されたEPUがダウンし、龍は立ち上がることもできなくなっているはずである。シミュレータはそれを再現するべく、組み敷かれた龍の撃破判定を下した。

「これで一機」

 南田は相対バルムンク反応センサーを頼りに、峰國と敵のもう片割れを探した。少し遠い。動きを止めていた自分が集中砲火を受けないよう、峰國が敵を誘導してくれたらしいと南田は気づく。今だけではない。普段からいろいろと気遣われている。

 ――そんなに頼りないか。

 奮起して、南田は峰國の援護のため機体をジャンプさせる。士官学校での成績は、決して悪くはなかった。坂元や、さらにその上をいく優等生たちほど目立ちはしなかったというだけのことだ。カリキュラムに沿った教育ではなく、配属後の実務ではもう少しいい評価を得られる、という自信も南田にはあった。

 着地。

 もちろん、評価とは実績を示してこそ得られるものである。それを示すのがこのシミュレーションの最大の意義だと南田は意識し、裂帛(れっぱく)の気合とともに相対バルムンク反応の源へと突進した。木をなぎ倒し、敢えて相手の注意を引く。二対一という状況を認識したコンピュータがどう動くか。可能性を絞りきれないが、サシで相手をしていた峰國にとって有利な状況に転じるのは明らかだった。

 逃げ回る峰國へ断続的に砲撃を加えていた龍は、南田の接近に気づくと火縄の狙いをそちらに改めた。砲口が完全に旋回し終える前に、南田は龍をかがませる。頭上を砲弾が通過。二発目が襲ってくる前に、ばねを利かせて跳躍(ちょうやく)。

 機体が操作に追従している間に南田は次の手も打った。胸部マルチランチャーから発煙弾を選択し、ノーロックで発射。地面か木かに衝突した発煙弾はたちまち辺りを煙で包み込んだ。ただの煙ではなく、レーダー波や赤外線を乱反射する機能を持っている。バロッグのエネルギー変換による攪乱効果と相(あい)俟(ま)って、それはコンピュータ機に南田機を見失わせた。南田はその煙幕を上に突き抜けて、相手の頭上を取る。コンピュータ機は悠長に弾倉を交換していた。南田は勝利を確信する。

 着地、全速前進、雷紫電の突き。

 刹那(せつな)、仮想空間内が青白い光で照らされる。南田の眼前には、首筋と背中に二又の槍を突き刺された哀れな龍の姿があった。峰國がタイミングを巧(うま)く合わせてきたのだった。

「これ、仲間じゃないよね」

 そう訊(たず)ねる峰國だったが、冗談なのか、さして不安そうな声音でもない。

「大丈夫、確認済み」

 それからふたりは、残る相手に備えて龍の武装を改めた。相手が火器を主軸に据えている可能性が高まったので、峰國は今倒したばかりの龍から火縄を頂戴(ちょうだい)し、南田は出撃直後に隠しておいたものを再び装備した。火縄と対戦車ミサイル。弾数は予備弾倉分を含めそれぞれ二十一発と四発。

 準備万端整ったが、南田は少し疲れを感じていた。龍を歩かせているだけで、頭がくらくらする。気負いすぎたかもしれないと反省するが、まだ模擬戦を終了するわけには行かなかった。モニタに状況終了の四文字が表示されない限り、まだコンピュータ機は残っているのだ。

 ステルス性を高めるため再びマニュアルモードに移行。手足のちょっとした震えが機体の挙措(きょそ)に影響する繊細な仕様であり、実際、南田機の歩行はふらついた。

「竜時、酔った?」

「ちょっと」

 正直、そうだった。ごまかしてもしかたがない。機兵パイロットにとって酔いは宿命のライバルだと南田は教えられてきた。峰國も同じ教育を受けてきたのだろう。つまりは常識である。

 機兵のスケールまで人体を拡大すると、歩行時の浮き沈みの振幅も拡大されるが、乗り込んでいる人間の感覚器官にとってその上下幅は大きすぎる。そこで機兵の歩行は人間の歩行とは少々異なり、コクピットのある腰より上があまりぶれないよう入念に計算されたモーションが設定してある。戦場でパイロットが乗り物酔いを起こしていては、ろくに自走もさせられない。しかし走行時はそのような免震機能など無視され、最速で目標地点まで移動することを至上として機体が制御されるので、戦闘中のパイロットの疲弊は移動のための低速自走時より格段に激しい。

 実機での訓練が少なかった南田にとって、それは知識であって経験ではなかった。明日からは過去形で語れる、と南田は自分を励ます。ゲロを吐くとしても敵を殲滅(せんめつ)してからにしたい。

 龍の足元を注意して見ながら、歩を進める。一分ほどは精神力でカバーしていたが、時折視野がぼやけるのには抵抗できなかった。どうも限界が近い、と南田は自覚する。そんなときだった。龍が踏みしめようとした先の地面を、何か白くて小さなものが横切った。弾丸の類(たぐい)ではない。もっとずっと遅く、そして平和な物だった。

 それを踏み潰さないよう慌てて足の着地点をずらしたが、それがいけなかった。重心が傾いて、南田の龍はよろける。マニュアルモードでは自動姿勢制御の作動が遅く、手動発動のためのレバーもあったが、頭がふらふらしていた南田はそれを引くタイミングが遅くなってしまった。機体――シミュレータの筐体(きょうたい)が大きく傾き、嘔吐の衝動がこみ上げる。

「キャッチ! セーフ!」

 危ういところで峰國が機体を受け止めてくれ、南田は二重の意味で事なきを得た。が、長期的に見てそれはふたりの失敗だったと言える。

 鳴り響く警報音。頭上から迫る熱源。二機は回避運動を取る間もなく、降り注いだ対戦車榴弾の雨に打たれて呆気(あっけ)なく撃破扱いとなった。


*   *   *   *   *


 洗面所へ走る者、そして仲間に担ぎこまれる者たちを見送った北嶋は、小さく溜め息をついた。これから朝食だというのに、全くかわいそうなことだった。いや、食べたものを出さずに済んだぶん幸運だったのか。北嶋は首を大きく横に振る。もともと、必ずどちらか一方を選ばなければならない道理はなかった。これは天災ではなく、人の為した災いなのだ。どちらがマシだったか、ではなく、どうしてこれをやったのか、その責を問う必要がある。

「責任者出て来い」

「おーう」

 間違いようのない大質量の生む足音で、北嶋は背後から接近する人物が誰であるかをとっくに断定していた。江藤博照。黒龍隊隊長にして、北嶋の古き友。悪友と呼ばわる者もあったが、北嶋としては、悪いのは一方だけだと思っている。

「何をした」

 昨夜パソコンで行っていた作業が、今のシミュレーションに加えられた改変と関係しているのは明白だった。HAOSの仕様書を手元に置いていたのも頷ける。

「ん、振幅の設定値を全体にいじったな。実戦向きに。デフォルトの値では、ありゃ、嘘だ。機兵はそんな快適な乗り物じゃない」

 江藤に悪びれる様子はない。確信犯であるのは間違いなかった。

「いじった内容はわかってる。何が目的なんだ、と聞いているんだよ」

「訓練。それ以外の何物でもないさ」

「確かに、実戦を意識した高度な経験を積ませることはできるかもしれないが、江藤、気づいていないのか? 彼らの雰囲気、決していいとは言えない。おまえは最高のチームを作りたいんじゃないのかと、俺は思っていたんだけどな。これでは、団結には程遠い」

 江藤の厳しい訓練を、隊員たちは理不尽と感じているだろう。これまでの訓練の常識とあまりに違っているし、その意義を江藤が自ら説明することもない。そして、江藤憎しで隊員たちが団結しているかといえば、それは違う。派閥(はばつ)というほど明確でもないが、八人のパイロットの関係には偏りが見られた。

 そして今の訓練で、状況はさらに悪化した。坂元と鷹山の二名だけが、江藤の仕掛けに勝利したのだ。士官候補とそれ以外、日本人とそれ以外、などと対立の要因はいくつも存在したが、そこへ勝者二名と敗者六名という新たなカテゴライズが生まれてしまった。雪解けが来るとすれば、全員が江藤の課題をクリアするときくらいしか北嶋には思いつかない。そして、江藤がそれほど緩い課題など出さないことも、よく知っている。だから先行きが不安なのだった。

「共通の敵というのは、団結を得るための格好の材料だよ、北嶋。だがな、団結ってのは料理みたいなもんでな。一種類だけ上等な材料を使ったって、他の材料も揃えないことには、作れっこないのさ。わからない話じゃないはずだ。啓示軍(オフェンバーレナ)というわかりやすい侵略者、世界平和の敵が現れても、残りの世界が垣根を取っ払って仲良くなるなんてことはなかった」

「彼らがそれに気づくまで、待つつもりなのか? うまいコミュニケーション術とは言えないぞ」

「そうとも。ご指摘の通り、俺はあのボンボンども相手にうまいこと考えを伝える自信がない。あの『悪夢』より前の世界を、亜細亜連邦も大亜細亜同盟もない世界をさっぱり知らない世代だぞ?」

 それは北嶋にもわかる。右腕候補として育成中の矢俣と接していても、世界の見え方の相違を意識することは多い。江藤はさらに文句を連ねる。

「外廓聯では戦場という環境が共通項を生み出していたが、ここではそれもないし、扱う部下も何倍にも増えた。整備班も入れれば、赤龍隊の全員よりも大所帯なんだぞ」

「そういうマイナスのオフセットがあるからこそ、積極的になる必要が……」

「無理だ、無理。向いてない」江藤は大げさに手を振る。「俺にできるのは憎まれ役。鞭(むち)だな。飴(あめ)は別の役者に振るさ」

「俺にやれって言うんじゃないだろうな」

 江藤はにんまりと笑った。

「そうもいかんだろう。おまえには整備士の取りまとめを任せてあるんだ。人数としちゃ俺より負担が大きい。友人にそんな無理はさせられん。ちゃんと、他に役者を手配してあるんだ」

 つまり、無理な仕事を任せても何ら心苦しくないと江藤が位置づけている、そんなかわいそうな人間がいるらしいと北嶋は推察した。

「また夏(シャー)伍長あたりに何か吹き込む気じゃないだろうな」

 北嶋は釘を刺す。初日の「試験」では、江藤に事前に因果を含められていた夏明仁(ミンレン)が基地のBFGを停止させたりしたものだから、本当に緊急事態なのだとすっかり騙された。素直すぎる部下にも困りものだと痛感させられた事態だった。

「ない、ない。おまえの知らない奴だよ。ま、近いうちに紹介する。期待していてくれ」

 ああ腹が減った、と呟いて、江藤は第五実験棟を出て行く。北嶋も朝食はまだだった。士官用の食堂を使うので、げっそりとしたパイロットたちの顔を見ることなく、平穏な心で、一日の元気の源を摂取できる予定である。何やら企んでいるらしい江藤を問い詰めるにも都合がいいが、決して口は割るまいという経験則があるため、北嶋はひとまずエネルギー摂取に全力を傾けようと心に決めた。そして懐に潜ませた小瓶の存在を手で確かめる。

 こんなこともあろうかと、髭軍医のくれた胃薬は常に持ち歩いている。





- 7 -


 まさか次なる波瀾(はらん)がこうも早く、しかも食堂を舞台に起ころうとは、南田は微塵(みじん)も想像していなかった。

「もう一度言っていただけますかねえ、坂元曹長」

 普段は気にならない朝井の訛(なま)り声が、人を不愉快にさせるためだけの音調に変容している。基地の飯がまずいとう他愛もない話題に興じていたはずが、坂元の不用意な冗談で、一気に場が緊張状態に陥ったのだ。まとわりつくような粘度をもった朝井の言葉に、ぱさぱさの肉を口に運んでいた坂元の眉(まゆ)がぴくりと動いた。

「自分だけ笑い損ねて機嫌を悪くしたか? ゲロの臭いのせいだろう、って言ったんだ」

 坂元は敵対的な態度に敏感であり、そしてより強硬な態度で臨む習性がある。注意しても無駄なのはわかっていたが、先んじて話題をそらし損ねたことを南田は悔いる。そして、自分よりも坂元の扱いに慣れているはずの鷹山が、自分と同じ側にはついていないことを残念に思った。鷹山も朝井を不機嫌そうに横目で見ている。

「たまたま勝っただけで随分な『上から目線』じゃないですか」

「偶然なもんか。あれくらいでへばる奴は訓練が足りないんだ。無駄飯喰らわずにトレーニングして来い。俺たちの足を引っ張らないようにな」

「わざわざ引っ張らなくてもすぐにこけるでしょうよ。いいや、どこぞに頭をぶつけるのが先かねえ。なにせ、ろくに前も向かず見下ろしてばっかりだ」

 今にもどちらかが食堂の机を叩いて立ち上がり、決闘を申し込みそうな勢いである。不穏な空気を感じてか、周囲の机から人気(ひとけ)が消えていく。

 昨日から見え隠れしていた亀裂がもはや決定的に広がってしまったことを南田は知った。朝井の隣の席では杜(ドゥ)が援護の気配を見せているし、坂元や鷹山とは懇意にしている久留も、今回に限っては彼らを庇(かば)おうとせず、むしろ朝井に同情的な視線を送っている。机の一番端では群山が無関心そうに箸(はし)を動かし続けており、事態収拾に動く様子はない。その向かいに座っていた峰國(フェングォ)はというと、尿意を催(もよお)したと言ってつい先ほど姿を消していた。朝井と坂元のちょうど間に座っていた南田を援護する者は、ひとりとしていない。

「落ち着こうぜ、ふたりとも」

 あまり深刻な顔で制止すると逆効果だと判断した南田は、笑いながら両者の前に手を広げた。

「こんなの、江藤少佐の思惑にはまるようなもんじゃないか。自分が嫌われてるのを察して、一致団結で立ち向かわれる前に先手を打って、仲間割れさせようって魂胆なんだよ。ひっかかったら、こっちの負けだ」

 数秒で思いつける精一杯の理を説いた南田を、朝井と坂元はしばらく無言で見つめる。やがて朝井が言った。

「南田曹長は、俺の話を信じてくれてますか」

 何を、とは南田は聞かなかった。例の犬の件である。昨夜、朝井が仮想空間で犬を見たと言い出したとき、それを信じるべきか否か、南田はおやつをチョコレートケーキにするかチョコドーナツにするかという二択問題なみに悩んだものだった。あのままであればここで再び苦悩する羽目(はめ)になったのだろうが、今朝のシミュレーション訓練を経た南田は即座に頷くことができた。

「ああ、白い犬だな。俺もさっき、仮想空間内を歩いているのを確かに見た」

「本当か?」と、久留。「観戦モニタでは見えなかった」

「あれは機兵サイズの、巨人の視点だ。森の枝葉に隠れた犬を大写しにすることはないし、隅に映ったくらいでは、誰も気づかないで不思議はないさ。それに、あれは俺と峰國が榴弾を喰らってゲームオーバーになる直前のことだったから、みんな龍(ロン)同士の戦闘に気を取られていたろう?」

 南田の説明に納得したのか、久留が頷く。一夜を経てようやく誰かに話を信じてもらえた朝井は、自分の背後の同僚たちを見返して、胸を張った。

「ほら見ろぉ、俺のいうことはでたらめじゃなかったべ」

 悪かったな、などと詫びる杜洋伸(ヤンシェン)たち。

 しかし、それで和解への平坦な道が拓けたわけではなかった。

「残念だよ、竜時」

 坂元がわざとらしく、深く溜め息をついた。

「おまえがそんな嘘をつくなんてな。それで言い訳になると思ったのか。変な犬に出くわしたせいで、気が散って榴弾を避けられなかった……。みっともないぞ、士官候補が」

 さすがに南田もカチンと来て噛み付き返す。

「士官候補は、この際関係ないだろう。それに、言い訳をしているのは坂元のほうじゃないのか」

「どういう意味だよ」

「周りを貶(おとし)めてれば、自分を誰も褒(ほ)めてくれなくったって、優越感には浸れるものな」

「竜時!」

 南田の胸倉を掴んだのは坂元ではなく鷹山だった。もう片方の手が握り拳となって途中まで振り上げられていたが、思いとどまって、武装解除する。ただし胸倉は掴んだまま。

「坂元も言い過ぎたが、竜時、おまえも今のは取り消せよ」

「撤回しなかったら?」

「その気にさせるまでだ」

 鷹山が襟を引っ張る力を強め、南田の喉が絞まる。格闘戦に持ち込めばどちらかというと南田のほうに分があるが、坂元が相手に加わるとなるとむしろ不利だった。南田が習っていた空手はあくまで精神修養を第一としたものであり、人数差を補うほどの実戦技術の差などはない。決め手となるのは、朝井たちがどう動くかだった。

 ――賭けてみるか。

 南田は次に自分が取る行動をイメージした。鷹山の腕を掴んでそのまま投げ飛ばし、即座に構えなおして坂元の攻撃を受ける。やれそうだった。そのあとの反撃を誰かが封じてくれたなら、そのまま勝ち逃げられる。

「貴様ら、何をしている」

 食堂の入り口のほうから鋭い声が飛んできて、南田は予定していた動きを破棄した。機甲化歩兵部隊の阿賀だった。江藤ほどの声量はないものの、阿賀の声は耳に意識されやすい周波数を持っている。黒龍隊パイロット全員が阿賀をふりむいた。

「朝っぱらから無駄に元気が有り余っているようだな。しかも……」

 阿賀はつかつかと詰め寄りながら、南田と目を合わせた。

「士官候補が率先してそれか。士官学校で将校の何たるかを学ばなかったか」

 鷹山が手を離す。南田は首元に手をやりながら、弁明した。

「お言葉ですが、阿賀少佐。これは喧嘩ではなく、一種の……」

「レクリエーションだとでも? ごまかすな。俺に事態を報告へ来た部下が、おまえたちの話をずっと聞いていた。元凶があの馬鹿の妙な訓練だというのは同情せんでもないが、だからといって基地内の規律の乱れを看過するわけにはいかんな。二秒やる。歯を食いしばれ」

 一、二。

 鉄拳の制裁が頬に炸裂し、背の低い阿賀のパンチ力を侮っていた南田は、見事に床へノックアウトされた。さらに鷹山、坂元にも同じ拳がお見舞いされる。三人を机にも椅子にも当てずに床へ転がす器用な芸当をやってのけた阿賀は、残る軍曹以下の面々に向かって言い放った。

「おまえたちも揉め事を起こすなら、こうなる覚悟をしてからやるんだな」

 南田は口の中に広がる血の味とともに、阿賀の厳しい表情を記憶に刻んだ。





- 8 -


 朝食後は肉体的には一休みして図上演習となった。東京近郊における機兵同士の戦闘を想定して、状況の細かなパターンごとに、最適な戦術を各自考え、それらの意見を集約して部隊の行動内容を決定する。本番ならば江藤がそのまとめを担うことになっているが、江藤は数度の模範を示したあとはすべてを若い部下たちの自由にさせた。誰が意見をまとめてもよし。ただし決定が遅れると事態はどんどん悪化するシナリオ設定になっており、揉めて時間を浪費すると被害が増える。また、当然拙速(せっそく)に過ぎても対応が空回りになることが多い。今回は敵を全滅すればそれでよしという単純なゲームではなく、最終的な隊の損耗および防衛対象の被害状況、それに至った各自の判断の是非について江藤が吟味(ぎんみ)し、評定を行う。

 図上とは言っても、紙の地図を広げるわけではない。猿之門基地の司令部には最新設備の整った作戦室がある。ビリヤード台によく似た形と大きさのモニタがあり、地図はそこへ表示される。部隊を表示する駒も実物ではなく画像が使われるが、これは双方向通信機能により差し棒で触れれば動かしたり消したりできる。他に、気象情報や索敵警戒網からの通達内容なども映し出され、戦場の動きがこの台を見るだけですべてわかるようになっている。

 図上演習は状況を変えて何度も繰り返され、すでに四回目に入ろうとしていた。回を経るごとに成績も良くなっている。初回などは散々だった。南田たちは図上演習に慣れていなかった。やり方の要領を得ないのとともに、まず違和感がつきまとっていた。この図上演習においては、第五実験棟のシミュレータによる模擬戦とは異なり、パイロットとしての技量は関係ない。情報収集と状況判断しかやることがなく、機兵による攻撃――火縄を撃ったり雷紫電で敵を無力化したり――は状況から定められる確率密度分布に則(のっと)り、乱数で成否を処理される。自分なら戦技で乗り切れるから、というような判断では成功しない。それをパイロットたちが思い知らされたのが初回。続く二回目では、積極的でリスキーな全戦力での攻撃を選んだ坂元派と、裏をかかれることを恐れて戦力の半数を守りに残そうとした南田派とで争いが生じ、意思決定が遅れた。その間に敵の増援が来てしまい、全戦力で当たってもどうしようもない彼我(ひが)戦力比となって、包囲殲滅された。敵を撃退したのは三回目になってようやくのことで、それも手持ち八機の龍(ロン)のうち半数が撃破され、防衛対象も八割の被害を受けての結果だった。

「慣れてきたようだな、おまえたち」

 江藤は大画面とは別の手元の端末をペンでいじり、次のシナリオを探しながら言った。

「だから昔ながらのRPGみたいなもんだって言っただろう。テレビゲームになる前の」

「だから知りませんよ、そんな先史時代」

 南田が思わず上官につっこんでしまうのは、初めて会ったときのその男が箕輪と名乗り民間人を装っていたときの癖が残っているからだった。また腕立て伏せでも命じられるかもしれない、と気づいたときには、もう口から出た音波を消すことなどできなかった。

「今度は沿岸だ。防衛対象は山ひとつ後ろの対艦ミサイル部隊」

 江藤は南田の発言に特に反応しなかった。ほっと胸を撫で下ろし、ワンテンポ遅れて、そのシナリオの内容について理解する。浮かぶ疑問。啓示軍(オフェンバーレナ)の日本への攻撃はすべて空からのものだ。機兵は空挺(くうてい)投入される可能性が高いため対応訓練を積む必要があるが、海からの攻撃は、未だかつてない。

「隊長」坂元が手を挙げる。「啓示軍の艦隊が日本沿岸まで来るというのは、かなり末期的というか、悲観的なシナリオではありませんか」

「非現実的だと言いたいわけだな」

 江藤は、それももっともだ、という顔を坂元へ返す。

「しかしだ。もしも欧州方面軍が、モスクワ全市を戦場にするような戦いを想定して訓練していたならば、五ヵ月前のモスクワ陥落(かんらく)も、今の啓示軍の版図(はんと)もなかったかもしれん。奴らに町を占領された市民に向かって、劣勢になった場合の訓練はしていなかったんだと言い訳するか?」

「了解。前言を撤回します」

 坂元は素直に引き下がったが、その目はまるで敵でも威嚇(いかく)するように熱気を帯びている。

 そして開始されたシナリオは、坂元の言ったとおり、かなり末期的な戦況を想定したものだった。太平洋側からトライアムファント級空母を中心とする五隻(せき)の啓示軍艦隊が迫っており、東京の制圧戦を始めようとしている。本来それを洋上で阻止するはずの亜細亜連邦海軍第一並びに第二太平洋艦隊はすでに敗北。対艦ミサイルを積んだ空軍機も空軍基地の滑走路と管制塔が空爆で破壊されているため出撃できない。横須賀に配備された垂直離着陸機にも対艦ミサイルを搭載できるが、こちらは射程が敵艦に劣るため、ミサイルを撃つ前に撃墜されてしまう。そこで黒龍隊がなすべきことは、地上の対艦ミサイル部隊の攻撃を成功させ、敵艦隊の防空能力を減殺(げんさい)。これにより垂直離着陸機からの対艦攻撃を可能ならしめることにある。

 黒龍隊の手持ちの戦力は、これまでの三回と同じで八機。江藤は員数外とすれば、南田たちパイロットと同じ数である。各自それに乗っているつもりでやるように、というのが江藤の意図らしかった。BLUE1からBLUE8までの識別コードを与えられた青い駒が図上から消えるとき、自分は無事ではないと思え、と。前回は、おまえたちは何べん死ねば気が済むのだ、とすら言い放った。 

「三機で小隊を編成して、揚陸艇を迎撃すべきだ。五機は待機して敵の別働隊に備える」

 仮想の友軍部隊から連絡が入り、敵戦力の動向が掴めた段階で、坂元が提案した。南田は思わずその表情を窺う。先刻全機での攻撃を提案したことから考えると、譲歩とも取れる発言だったが、その表情に柔らかさはない。

 照れ屋め、と内心で笑いながら南田はそれに賛同した。特に反対する者もなく、三機分の青い駒が画面上を移動し、山の裏側から海岸へと移動する。バロッグは観測されていないので、敵艦からの攻撃には注意しなければならない。迎撃を三機だけに任せるのはリスクの分散でもあった。

「揚陸艇ゼーシュテルンを確認。三十秒で射程に入ります」

 杜(ドゥ)の言ったとおり、五個の赤い駒が浜へと接近してくる。

「攻撃」

 群山が即座に自分の判断を口にする。三人が同じく攻撃と続いたが、峰國(フェングォ)がその流れを遮った。

「いや、引きつけよう。ゼーシュテルンに火縄を当てるのは難しい」

「だからこそ、攻撃回数は多いほうがいい」

 久留が攻撃に一票を加える。この時点で攻撃派が五人。多数決ならば、すでに結論は出た。そしてゼーシュテルンが射程に収まるまでもう十五秒ない。それをわきまえてか、峰國が自分の意見を重ねて主張することはなかった。ゼーシュテルンが射程に入るとともに、三機の龍が立て続けに火縄で攻撃。一隻に命中、ただし撃沈ではない。

「ゼーシュテルンより反撃」

「退避」

 これに異論を挟む者などおらず、龍三機はその場に伏せて隠れた――はずだが、視覚的にそれを出力する装置はついていない。着弾時に青い駒がその場から消え去るかどうか、その確率に補正がかかっただけのことである。結局、ゼーシュテルンからの攻撃は威嚇程度のもので、龍に届いていすらいなかった。龍からさらに攻撃。一隻を撃沈。それでもゼーシュテルンは果敢に浜を目指して来る。

「上陸されるぞ」

「望むところだ。陸(おか)に上がれば動けない」

 残る四隻のゼーシュテルンのうち、一隻は被弾で速力が落ちているので、いま浜辺に取り付こうとしているのは三隻だった。小型高速、そしてヒトデと名づけられた由来であろう多足型ホバーシステムによる荒っぽい上陸を長所とするゼーシュテルンは、反面、一隻に搭載できる兵の数が少ない。装甲車輛を乗せればそのぶん兵士は減るから、せいぜい三輛と三十人といったところだと南田は見積もる。上陸して散らばる前に、海に沈めればよい。

 龍によるゼーシュテルンの狙撃は、暗黙の了承のもと続けられた。しかし、命中率はどういうわけか低下していた。

「やっぱり、まずい」

 峰國が呟いた。さきほどの発言の意図を気にしていた南田はすぐに問い質(ただ)す。

「どうした、峰國」

「連射による腕への負荷が計算に入っているよ。一度MMアクチュエータの張力を回復させないと、命中率は下がるばかりだ」

 なんだって、などとありきたりな反応を示す間もなく坂元が叫んだ。

「待機中の五機から三機回せ。今出ている奴は後退だ」

「警告! 敵艦より艦砲およびミサイル攻撃」

「退避!」

 間に合わなかった。待機していた龍に操作を加えていた朝井以外、操作用の棒を構えていた者はいなかった。ゼーシュテルンをただただ狙い撃っていた龍をすぐに動かすことはできず、沖合いの艦隊からの攻撃によって前衛三機の龍が全滅した。朝井の操作により交代に向かおうとしていた二機の龍は無事だったが、このまま進ませるとまた艦砲の餌食(えじき)になる。

「水際阻止は放棄しよう。損害が増えるだけだ」

 そう言って、鷹山が山側での待ち伏せ作戦を提案する。バロッグが出れば形勢は優位になる、とも。

「それは不確定な要素に頼りすぎだ、鷹山」と久留。「だいいち、バロッグに出られると肝心の地対艦ミサイル群が撃てなくなる」

「地対艦ミサイルを発見される可能性もある。レーダーシステムは沿岸配置。見つかれば、やられるのは早い」

 群山がぼそぼそと反対意見を重ね、朝井は動かしかけていた青い駒にどう指示を与えたらよいか戸惑っている。

「損害を出してでも、ゼーシュテルンから上陸部隊が散らばるのは避けなきゃいけない。ここが勝負どころだよ」

 峰國が珍しくアグレッシブな策を提言する。それに従おうとした朝井の手を、坂元が止めた。

「待て、龍を囮(おとり)に使うんだ。山側じゃなく、海岸沿いに離脱だ。BLUE1だけじゃない。BULE2、4も同じように」

 しかし朝井は従わなかった。坂元を振り払って、さきほど全滅した龍の位置へと移動させる。

「ここに地対艦ミサイルが控えてるって、ばらすようなものだろうが!」

「じゃああんたが本番でその囮をやるんか」

 坂元は息を呑(の)み、いくらか落ち着きを取り戻してから答えた。

「やるさ。不可能じゃない以上、やってやる」

「それを鷹山曹長に命令できますかね」

 今度こそ坂元は言葉に詰まった。鷹山は、自分でもやってやると言いたげだったが、黙っている。朝井の指摘の本質がどこにあるのか気づいているようだった。

「艦砲、着弾。龍一機が損傷。――後退させよう」

 言い争っている合間もシナリオは進行する。杜が朝井とは別の操作棒を持ち出して龍を配置転換する。ゼーシュテルンはすでに部隊の揚陸を終えた。赤い小さな駒が浜辺に散らばって行く。

 南田はちらりと江藤を見た。一段高い位置に移って遠巻きに観戦している巨漢は、ただにやにやと笑っている。助け舟が出る気配はない。

「対艦ミサイルを撃たせよう。これ以上待っていたら包囲される」

「いや、敵艦は龍を狙ってこっちへ近づいてる。あと数分で有効射程に入る。それまでなんとか……」

「持つとは思えないな。全機撤退だ。ミサイル部隊も至急撤退させるしかない」

「それこそ間に合うものか。刺し違えてでも敵艦は沈めるべきだ。トライアムファント級は無理でも、随伴艦なら」

 意見は完全にふたつに割れた。操作棒の争奪、あるいは棒同士でチャンバラでも始まりかねない勢いだったが、まだ口だけで手は出ていない。敵兵を示す赤い駒はその間に攻撃位置につき、龍へ砲火が届き始めた。一機が脱落。残りは四機で、うち一機が手負い。

 もう半数が死んだ。南田はその場の面々のうちあと誰が生き残っているだろうかと想像した。自分は艦砲ですでに死んだクチのように思えた。――しかし、もしもまだ自分が生き残っていたなら、この状況下でどう動くか。指示する立場ではなく、駒のひとつである自分がどうしたいのかを考えたとき、ひとつの閃きがあった。

「あ、こら。――って、南田曹長」

 朝井の不意をついて操作棒をもらい受け、南田は龍の一機を浜辺へと向けた。

「竜時、何をする気だ」

 坂元の手が操作棒をひったくろうと伸びたが、南田は手前でそれを捕まえた。

「やりたいことがあるんだ」

「おまえは朝井の説教を聞いていなかったのか。これは、部下に命じるという想定の訓練なんだ。今その棒で動かしている駒に、命に、責任をもてるのか」

「命の責任なんて、取れるのかどうかわからない。誰にだって無理だとも思える。けど、こうするのがいちばん悔いが残らないってことは、わかるんだ」

 南田は龍を海の中へと入れた。渡河はともかく水中戦は仕様外だが、龍は宇宙用への換装を計画されているくらいなので、機密性が高い。その点はシナリオの環境設定に組み込まれているらしく、どうやら浅瀬のうちはそのまま動けそうだった。

 障壁は、いつ撃破されるかという時間の問題と、通信距離。

「俺も付き合うよ」

 峰國が杜の持っていたはずの棒でもう一機の龍を動かした。自分は生き残っているという自信があるらしい。峰國は敵兵を蹴散らしながら浜辺へと龍を進める。が、海までは入れず、そこで折れて浜沿いに移動させた。南田は自分の発想を峰國が読み当てたのだと気づく。

「発射システムとのデータリンクだ。残っている龍で中継。竜時が敵艦の位置情報を取ってくれる」

 幸い艦砲は来ない。混戦のさなか、同士討ちを避ける設定がしてあるのかもしれないと南田は推測したが、海へ入った龍へはもうその抑止力が働かない。魚雷の有効な水深はどれくらいだっただろうかと記憶を探る。――どうやら最初から記憶していないようだった。まあいい、と南田は落ち着く。どのみち引き返せはしない。それこそ蜂の巣というものだった。

「データリンク、確立。感度良好」

「BLUE2、敵艦位置捕捉。情報転送」

 うまくいった。数人が顔を見合わせる。

「ミサイル発射要請」

「要請受諾」

「発射確認」

「敵艦、発砲!」

「回避だ」

「いや、もう動かせない」

 急激な回避運動を取ればデータリンクが途切れる。時間との勝負。

「BLUE4被弾、大破。データリンク切断」

 峰國が中継に出した龍がやられた。しかしミサイルは熱源と画像認識による終端誘導に入っている。やがて画面に表示された判定は――。

 命中。

 いちばん図体の大きいトライアムファント級空母に打撃を与えた。しかし大型の艦ゆえ一撃で沈むことはない。艦橋やレーダーシステムを潰したならまた話は別だが、ただ当てただけでは、一矢を報いたという程度を超えない。

「もういいだろう。状況終了」

 江藤の声が響いて、台状の大画面が暗くなる。我知らず身を乗り出していたパイロットたちは、視線のやり場を江藤に求めた。あいかわらずにやにやとした、小学生に勉強でも教えているような顔がそれを受け止める。

「――作戦は成功ですか」

 南田の質問に、江藤は数秒の沈黙で含みを持たせてから、こう言った。

「さあ、わからん」

 全員がきょとんとした。

「どういう意味ですか」

 坂元が噛み付く。江藤は面倒くさそうに手を振って落ち着かせようとするが、南田から見ればそれは逆効果としか思えない。

「そこまで設定されてないんだ、このシナリオは」

「妙なところで芸が細かい割りに、チャチですねー」

 峰國が恐れ知らずにもシナリオの出来をけなす。南田は慌ててフォローする言葉を探したが、それは杞憂だった。

「うむ、チャチなものだ。しかし、それもしたかあるまいよ。俺が作ったわけではないからな」

 なんとも傲慢(ごうまん)ながら、尤(もっと)もな理由だった。

「今日の訓練はこれにて終了だ。各自、反省点があるだろう。レポートを出せとは言わんが、近々、その反省の成果を見せてもらう。心しておけ。解散」

 南田が、いやその場の過半の者が時計を見た。予定より長引き、正午を回っているが、これで今日の分が終了となるといかにも短い。

「午後は、どうして訓練がないのですか」

 久留の質問に、すでに片付けモードに入っていた江藤はぞんざいにふりかえりながら答えた。

「出張なのだ。阿賀におまえたちの肉体訓練を頼もうかとも思ったのだが、あいにく、あいつの部隊は昼から出動だそうでな。それはまた今度ということになった」

 南田はほっとする。今朝直々の指導を受けたばかりなので、全力でご遠慮申し上げたいところだった。

「自由行動ですか?」

 峰國が訊ねたのは、江藤の予定ではなく、自分たちの拘束条件についてである。

「おう。基地から出なければ好きにしていい。暇だったら北嶋の手伝いでもしていろ」

 電子端末などの持ち物をすべてポケットや小脇に片付け終えた江藤は、喜んでいいのかもまだ確証を持てないでいる八人を残し、さっさと作戦室を出て行ったのだった。





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 就寝前やら食事前後を除けば黒龍隊隊員として初めての自由行動ということで、パイロットたちは好き好きに散っていった。昼食にはとっくにいい時間なので、まず腹を満たしに行ったのが峰國(フェングォ)と杜(ドゥ)。坂元と鷹山は購買部へ嗜好(しこう)品を買いに行き、群山は兵舎に戻って休むと言い、久留はまだ道を制覇していない基地内を散策し、朝井は久留のお供にかこつけてうら若き女性隊員の姿を探すつもりのようだった。

 南田も購買部で高めの弁当でも買おうと考えたのだが、坂元たちの動きを見て、気まずい空気になるのを予想してやめた。目的地も定まらぬままふらふら歩いているうちに、ふと思い出して、南田は作戦室に戻ることにした。

 案の錠、もとい案の定、誰も作戦室の鍵を閉めていなかった。自分は責任者ではない、と意識的あるいは無意識に考えている者たちの集団的無作為。誰かが鍵を閉めようと言い出せば、誰も反対はしなかっただろうし、頼まれれば引き受けもしただろう。そんなものだ。

 自分たちにはリーダーがいない。江藤からの直接指揮がない場合、黒龍隊――より正確には直接戦闘を担うパイロットたち――は、きちんと任務を果たせないのではないか。南田はそんな不安を抱く。有事の際、江藤が今そうしているように隊を離れていることは考えられる。近隣部隊との連携は必須なだけに、普段からの交流は欠かせないだろう。そういうときでも副長の北嶋が猿之門基地に残っているだろうが、あくまで技術畑の人間である。指揮の経験はないのだと、本人が自己紹介のときに言っていた。したがって、江藤が隊に戻るまでは自分たち士官候補がしっかりと隊をまとめていなければならないと、南田は双肩に重い責任を感じる。

 ――しかし、できるだろうか。

 灯りだけはきちんと消された作戦室に足を踏み入れながら、南田は自問した。昨日までは一抹の不安で済んでいたが、先刻の図上演習を受けて、不安は危機感へと書き換えられた。機兵という最新兵器を与えられながら、その真価を発揮することなく、みすみす東京を明け渡す……。そんな事態が待っていそうな気がする。

 不幸にしてそのような事態を迎えたとき、その責任まで背負い込もうという気持ちは、南田にもない。そこまで劣勢になっていたとしたらそれは軍上層部や中央議会の采配(さいはい)の問題があってのことで、そして、黒龍隊の指揮官である江藤が不在であったとしてもそれは南田のせいではない。

 ただ、悔いが残るだろう。南田は仮想の未来に自分の身を置いてみて、それを確信する。御船の言葉を疑うのも自由。江藤の自分たちへの指導力に不安を抱くのも自由。しかしそれらは必須でも不可避でもない選択であって、自分には他にやるべきこと、否、やりたいことがあるのではないかと、南田は気づき始めていた。

 一本の鍵が江藤の立っていたあたりに残されており、幸い、それで扉の施錠はできた。しかし、鍵をどこへ返しに行けばいいのか、わからない。江藤が管理を任されているのか、ただ借りてきただけなのかも不明。司令部の廊下を行き交う将兵に尋ねればよさそうだったが、あまり物を知らないのをおおっぴらにするのも気が引けて、結局一度建物を出てしまった。そして思いつく。北嶋ならば、知っているだろう。ついでに相談したいこともある。むしろ鍵の話がついでになるかもしれない。

 第二大格納庫へ行くと、整備班が龍(ロン)の組み立てをやっていた。分解チェックは終了らしい。北嶋の姿はない。代わって整備班を仕切っていたのは矢俣である。整備班には北嶋を除いて士官がいない。曹長はおらず、軍曹ならば数人いるが、それぞれ専門に特化しているため全体の取りまとめには向かないらしい。そのあたりの事情を聞かされながら、南田は矢俣から北嶋の居所を聞き出した。士官用の宿舎で休憩中とのこと。暇なら手伝ってくれればいいのに、とぼやく矢俣に礼を言って、南田は士官用宿舎に向かった。

「やあ竜時」

 途中でばったり峰國(フェングォ)に行き会った。昼食はもう済ませたらしい。南田はもう食堂に行く気が起こらず、弁当も売り切れているであろう時間だが、バナナなら手軽に熱量を摂取できて便利かもしれないと峰國の顔を見て思いついた。

「難しい顔をしているじゃない。虫歯?」

「俺は永久歯になってから一度も虫歯になったことがないよ。これから北嶋大尉に会いに行くところだ。作戦室の鍵、誰も閉めなかっただろう」

「あれ、そうだっけ」

 峰國は覚えていないらしい。

「でも、北嶋大尉に会いに行くのにそんな憂鬱(ゆううつ)になるの? あれほど人当たりのいい上官はそうそういないと思うよ? 亜連中、いや世界中を探しても」

「ああ、そうだろうな。その大尉だからこそ相談に乗ってもらいたいことがあって、ちょっと考えてたんだ」

「部屋に残してきたエロ本をどうやって回収するか?」

「士官学校にそんなもの残せるか! まあ、回収したい私物はあるけどね、今考えてたのは別のことだ」

「江藤少佐に一泡吹かせたい?」

「峰國もそう思うのか?」

「いや、俺はぜんぜん。長いものには、巻かれておこうよ。巻きついたのをあとで切るのは自由なんだから。よくわかんないうちに切っちゃうと、帯に短しそうめん流しだよ」

「それを言うなら、襷(たすき)に長し。――江藤少佐のこともあるけど、それより大事なのは、坂元たちだ」

「ああ、竜時は坂元に敵(かな)わなくって悔しかったんだ」

「違うよ」

 言ったそばから、それは嘘だと自覚する。しかし改めて認めるのもなんだったので、南田は話題をそらすことにした。

「なあ峰國、さっきの演習、ちょっと妙だとは感じなかったか」

「うん? どうして啓示軍(オフェンバーレナ)艦隊の当たり判定が適当だったかってこと?」

「例えばそれだな」

 実は江藤がやけに大人しかったことを妙だと言いたかったのだが、南田は話を合わせた。

「あれなら答えは簡単だよ。核弾頭さ。亜連の戦術核には地対艦ミサイル搭載可能のものもあるよ」

「核だって?」

 バカなことを、と初めこそ思ったが、しかしよくよく考えると、峰國はおそらく正解を言っているのだと南田は気づいた。戦術核弾頭の攻撃範囲ならば、随伴艦も巻き込んで艦隊を丸ごと消し去っている。命中部位の判定などに意味はない。龍の人工筋肉の疲労まで計算に入れていたわりに重要な部分が抜けていたように思われたシナリオだが、ミサイルの弾頭が核だったのならば合理的説明がつく。

「けど、そんなもの日本に配備されては」

「いないよ。公式見解ではね。でも、それを言ったら非核三原則時代の日本は本当に米軍に核を持ち込ませなかったかな。確か俺が昔見た資料だと……」

「もういい、わかった。そうだな、その可能性はある。あのシナリオを作った連中は、その使用を前提にしていたってことか。俺には、想像できなかった選択肢を」

「まあ、そのへんの実情はおいおいわかるよ。龍も明日には使えそうだし、訓練も実務と兼ねたものになると思う。俺たちのアラート待機も始まるかもね」

「――マジかよ。冗談だろ、おい」

 南田は大きくへこんだ。

「そんなに落ち込まなくても」

 怪訝な顔で覗き込む峰國を、南田は精一杯哀れんでくれと懇願する目つきで見返した。

「踏んじゃったんだ」

「ドジを? いや猫か。それともシコかな」

「違う」

 南田は足元を指差した。

「あちゃー」

 南田が上げた靴の下で、猫かどうかは知らないが、とにかく小ぶりながらまだ暖かそうな動物の大便が、臭いとともにその存在を主張していた。

「この基地、犬だか猫だか狸だかが出入りしているみたいだ」

 南田は靴を洗う場所がないか遠くを見回しながら、おまえも気をつけろよと峰國に忠告する。峰國が大げさに驚くものと予想した南田だったが、それは空振りだった。

「やっぱりね」

 峰國は神妙に納得した。

「気づいていたのか」

「ああ、朝からバナナがなくなっていたから、こっそり犯人を捜していたんだ。はじめはパイロット仲間を疑ったんだけど、さっき現場を洗い直したら白い毛を見つけてね。それでもそのときは、いやいや白髪かもしれないじゃないかと思ったけど、うん、もう迷うことはないよ。ここには犬がいるんだ。泥棒犬が」

「犬と決まったわけじゃないだろう」

「いや、わかるよ」

 だって、と峰國もまた自分の足元を指差した。

 白っぽい小さなけだものが、首を横に曲げ大口を開けて峰國の足首に噛み付いている。

 いつの間にその動物が接近し、峰國に攻撃を加えたのかさっぱり気がつかなかった。かなりの手練(てだ)れ、というはずもない。相手はまだ幼い犬のようだった。そしてそれは仮想空間内で見かけた仔犬によく似ていた。というよりも、仮想空間の仔犬は目の前のこれをモデルに作られたものだという直感を南田は得た。

「痛そうだな」

「うん、痛い。食われそう」

「バナナ盗難の犯人がそいつとすると、つじつまは合う。峰國の体に染み付いたバナナの匂いを嗅ぎつけて、同じ食い物だと見当をつけて噛み付いているんだ。きっと」

「ああ、なるほどね。だから噛みながら靴下をずり下ろそうとしているんだね、こいつは。――皮じゃないぞ、おーい。ていうかバナナじゃないし」

 峰國は眉をひくつかせているが、幼い獣を蹴飛ばすつもりはないようだった。見かねて、南田はバナナと人間の区別がついていない頭の悪い生き物の首根っこを捕まえ、峰國の足首から引き剥がす。片手で持ち上げてもなんら苦のない軽さ。二度に亘(わた)り靴を汚してくれた憎き敵の首級を上げた気になってそのまま高く掲げてみたところ、獣は嫌がって暴れるのではなく、むしろ嬉しそうに尻尾(しっぽ)を振った。高い高い、のつもりなどない。肩透かしを受けた気分。

「このバカ犬、誰かに似ている気がする」

 南田は手の中の獣を放り投げてはキャッチする虐待まがいの遊びを始めてみたが、残念なことにこれもまた相手を喜ばせてしまう。そこでお手玉はやめ、両脇を抱えるかっこうで固定する。

「奇遇だね、竜時。俺もそんな気がするよ。なんとかは飼い主に似るってね」

「ああ、たぶんこいつは野良犬じゃなくて」

「誰かが飼っているんだね、基地内で」

「基地外といいたいところだけど」南田は咳払いをし、「そんな非常識な人がいるとはね。いや、いるんだよな。やっぱりあの人なのか」

「どうもそうらしいよ。首に札がついてるもの。これはいいドッグタグ」

 峰國に言われて初めて気がついた。それくらい小さなタグ。百八十度回して持ち直し、狭い面積に彫り込まれた短い文面を読む。

<氏名:ゴン太 緊急連絡先:江藤博照>

 そのとき南田は天啓を得た。啓示軍のカリスマ的指導者、ハンス・ライルスキーもこのようにして戦争を始めたのかもしれない、というくらいに歴史を動かせそうな閃きだと、南田は思った。これは使える。

「峰國」

 南田は手にした獣、ゴン太をあやしながら、足首をさすっている峰國にそれを押し付ける。

「預かっててくれないか。俺はちょっと北嶋大尉と会って来る。そのあとでじっくり協議しよう」

 何を、と峰國は尋ねながらも、おっかなびっくり首根っこを受け取った。

「奪取した核弾頭の使い方について」

 峰國は、それで心得たようだった。





- 10 -


 靴を洗った南田は改めて士官宿舎へ赴いた。

 北嶋の部屋を呼び出し、作戦室の鍵のことを簡単に伝えると、共用の応接室で待つよう指示された。佐官がわんさかいてもおかしくない場所なので、南田は居住まいを正し力んで応接室へと移動したが、徒労だった。誰も通らない。猿之門の過疎具合に加え、日中でもある。江藤も阿賀も不在となると、黒龍隊どころか、この基地全体が深刻な士官不足に陥(おちい)るのではないかと心配になる。首都防衛の頼みとするならそれにふさわしい支援体制を整えてほしいものだ、と南田は配属されてから初めて軍組織に不満を抱く。

「ようこそ、竜時くん」

 現れた北嶋の開口一番の挨拶は、好意的だったが、南田はどうも手放しで喜べない。

「あの、北嶋大尉。大尉まで俺を竜時と呼ぶのですか」

「おや、気にしているのか。すまないね、江藤がいつもそう呼んでいるものだから。――あ、立たなくていい。座っていてくれ」

 北嶋は紙ではないカップにコーヒーを淹(い)れて持って来ていた。素直に座っているわけにはいかず、南田は立ち上がってカップを受け取る。

「わざわざすみません」

「ちょうど淹れようとしていたところだったからね。それに……」

 北嶋は胸ポケットから使いきりのミルクを取り出して南田に勧める。

「話があるんだろう?」

 ミルクを受け取ったその手でポケットの中の鍵を探っていた南田は、一瞬動きを止めた。

「なんでもお見通しなんですね」

「きみ、自覚はないかもしれないけれど、結構わかりやすいよ」

「では話題についても?」

「江藤のことだろう。実を言うと、思ったよりは遅かったよ。きみが訪ねて来るのは」

 そこで北嶋は黙ってミルクを注ぎ始めたので、南田もそれに倣う。先に混ぜ終わった南田は、間を持て余して口を開いた。

「江藤少佐とは、古いお付き合いのようですが」

「そうだね。もう二十年、いやそれ以上だな。うん、ちょうど四半世紀になる。――やれやれ、僕も歳をとったな」

 笑ってカップを取り上げた北嶋の左手には指輪があった。南田はそれに見覚えがない。

「結婚なさっているんですか」

「まさか。江藤はあの通りだから、そんな過去も予定もないよ。それどころか、同年代以下の女性とはまともに話せやしないんだ」

「ええと、いえ、大尉のことです。指輪をつけていらっしゃった記憶がなくて」

「ああ、作業のときは傷つけてしまうから外しているんだ。これをつけているときの僕はオフモードだと規定してもいいかもしれない。きみは予定はないのかい?」

「はあ、ないです」

「そうなのかい。モテそうな子だと思っていたんだが。竜時くん、悪いことは言わない。人生に伴侶(はんりょ)は欠かせないよ。裕美子さんの知り合いにきみくらいの歳の子が……」

 南田の微妙な表情にようやく気がついたらしく北嶋は我に帰った。

「――いけない、話がそれたな。江藤のことだった。やっぱり、不満を感じているのかい」

「はい。外廓聯で戦ってきた実績は、嘘ではないんでしょうけど。隊長としての資質に疑問を感じるのもまた確かです」

「たしかに妙な訓練をやっているようだね。僕も実戦経験なんてないからその妥当性についてはなんとも言えないが、奴なりに考えてのことであるのは、わかってやって欲しい。ただ、奴もまだ不慣れなんだ。あまりうまくない方法を取ってしまうこともある。きみたちパイロットの間に不破が生じていることも、奴の能力不足の証左だ。そのことについて、きみは不満を表明する権利があるだろう。僕にではなく、直接本人にね」

 南田は曖昧にうなずく。北嶋の言うようにしたいのは山々だったが、江藤のほうがまともに話を聞いてくれそうにないので、結局こうなってしまった。一度ぐうの音を吐かせてこちらの発言権を認めさせないと埒(らち)が明かない。課題を見事こなしてみせることでそれを達成しようと思っていたが、それもなかなか目処が立たない。そして、今朝のように坂元や鷹山だけが課題をクリアするのが常態化してからでは手遅れである。江藤に問題を気づかせても、亀裂が修復不能な域まで拡大していては意味がない。しかし南田はさきほど確保した。交渉の材料を。やりようはある。今なら坂元と朝井の対立もまだ修復の余地があるのだから。

「大尉から、俺たちの不満をそれとなく伝えてもらうわけにはいきませんか」

「無駄だろうね」

 北嶋は即答した。どうして無駄なのかの説明はない。

「では、このお願いなら聞いてもらえるでしょうか。俺たちが江藤少佐に対して意見表明の行動を起こすとき、それを止めないで頂きたいんです」

「なにやら穏やかでないね。実力行使に及ぶ気かい? ああ見えて江藤は強いよ。機兵に乗っていてもそうだが、生身でもチンピラをダース単位でのした実績がある。もちろん、非公式だけどね」

 公式に確認されていたらとっくにクビになっている。そんな過去を知っていて黙っている北嶋も同じ穴の狢(むじな)だなと南田は呆れた。しかし北嶋にそういう一面があるならば、根回しは成功裡(り)に終わりそうだった。

「軍内部で争うなんてまっぴらです。俺は江藤少佐に、話をちゃんと聞いてもらいたいだけなんです。そのために、ちょっと仕込みをします。江藤少佐もシミュレータにいろいろ仕込みをしていました。だからこれは、フェアな勝負です」

「勝負、ね。――いいよ、この件については中立を保つし、多少のお茶目があっても目を瞑(つむ)ると約束しよう。僕としても、きみたちパイロットの今の状態は思わしくないと心配していた。龍(ロン)のほうの準備は午後から順次片付く。万全の状態で使ってもらうためにも、早いところ亀裂は修復してくれ」

「もちろんです」

 高額装備を壊してはもったいない、という次元の話ではない。自分の双肩に東京の、日本の、亜細亜連邦の安寧(あんねい)が託されている。そう思うと、南田の返事は自然と力強いものになった。江藤の資質云々(うんぬん)に拘泥(こうでい)して、自分の責任を忘れていたことに、もう南田は気づいていた。


*   *   *   *   *


 洗ったコーヒーカップを携えた北嶋は、部屋に戻る途中の廊下で江藤と行き会った。

「なんだ江藤、まだいたのか」

「まだとはなんだ、親友に向かって。ちょっと探し物をしていて遅れたのだ。これから出る」

「いまちょうど竜時くんが来ていたんだ。おまえに作戦室の鍵を返しに」

「あー、鍵か。なるほど、あそこだったか。まいったな。――まあなるようになるだろう。それ、預かっててくれ。俺はちょっと統監部に顔を出してくる」

「出張って、統監部だったのか。てっきり富士の工場のほうかと」

「いや、もともとそっちの予定だったんだがな。今朝、呼び出しがかかってよ、富士はまた後日ってことになった。おまえに行ってもらうかもな」

「それは望むところだ。新型は早くこの目で見てみたいからな。しかし、統監部から急の呼び出しとは、穏やかじゃないな」

「まあ、思い当たる節はあるから、おとなしく行って来る。行かんと向こうも困るだろう」

「何をしたんだ、おまえは。初日のあれなら、倉知大佐に話を通していたんだろう?」

「それはクリアしてるんだが、ちょいと人事を巡ってひと悶着(もんちゃく)ってところだ」

 北嶋は、江藤が燃やした黒龍隊配属隊員リストのことを思い出す。

「しかし、大丈夫なのか」

 人選の不透明な経緯が黒龍隊創設推進派のなかで問題になるのはともかくとして、むしろ危険なのは、黒龍隊の存在を疎(うと)ましく思っている勢力のほうだった。この関東圏内にいくらでもいるに決まっている。道中、事故を装って危害を加えようという動きがないとも限らない。その点、猿之門基地にいるのは安全なのだ。反対派が目立って行動を起こせないよう、前々から人事を注意深く調整されている。黒龍隊の創設が、実は早くから一部で計画されていたことを窺わせるが、北嶋はそれ以上詳しいところは知らない。知ってしまうと危ない、と感じる。江藤は知っているのかもしれない。しかし北嶋は江藤と違ってハッカーではない。ごくあたりまえに、機械を制御するための道具としてコンピュータとネットワークを利用しているに過ぎない。戦略軍のデータバンクから黒龍隊隊員選抜リストを抹消するような真似はできない。

「安心しろ。阿賀が護衛を貸してくれた」

 江藤がおーいと声をかけると、江藤の背後で部屋のドアが開いて、すらりと背の高い男が廊下に出てきた。制服で将校とわかる。階級章は、中尉。いま出てきたのは彼自身の部屋なのだろうが、北嶋は同じ階にいながら、身覚えがない。

「第三二歩兵連隊、第七中隊の上妻(こうづま)です。以後、お見知りおきを」

 上官の阿賀と比べると頭ひとつ以上差がある。ふたりが並ぶと面白そうだ、と北嶋は想像する。

「こいつ、俺より背が高く見えるんだが、実のところ俺ほどではないらしい」

 いくつだったか、百九十一です、そうは見えないぞ若作りだな、どういう意味ですか、と会話が続く。上妻はいたって真顔である。そういうところは実に阿賀とよく似ていた。

「よろしく頼みます、上妻中尉。黒龍隊副長の北嶋です」

「こちらこそ、北嶋大尉。江藤少佐の安全は私が保証いたします。その代わりといってはなんですが、今度、我々の乗俑機の改造プランについてご相談に乗っていただけると助かります」

 阿賀よりはずっと社交的な表情をする男だ、と北嶋は記憶にとどめる。

「それは面白そうですね。ひと段落着いたら、拝見しますよ。――じゃあ江藤、気をつけてな」

「土産(みやげ)は買ってこないぞ」

「統監部の不興を買わなければそれでいい」

「へいへい」

 江藤は北嶋の肩を叩いてすれ違い、階下へと歩いていく。上妻も会釈をしてそれに従った。

 あれは護衛というより監視じゃないのか、と気づいたのは部屋に戻ってからのことだった。





- 11 -


 南田は部屋で峰國(フェングォ)とふたり、ゴン太の上手い使い方について協議していた。ゴン太の口は包帯でくるんでいたずらをできないようにし、安心してバナナを食べながら。

 普通に江藤へ届けて恩を感じさせ、それによりきちんと話を聞いてもらうという方法が最初に考えられたが、それは早々に保留となった。パイロット間の不和については、北嶋も気づいていた。江藤もわかっていながら放置している可能性がある。それならば今更指摘したところで江藤の指導に変化があるとは期待できなかった。そもそも江藤が恩を感じないという線も考えられる。道義心に頼るのは得策ではない、ということでふたりの意見は一致した。つまり行うべきは実利的な取引である。

「でもね、隊長の指導になにか具体的問題があるかな」

 交渉の具体案を詰めていく段階で、峰國はそう言い出した。南田は血が昇るの自覚しながら、それでも勢いは抑えきれずに、唾(つば)の飛ぶ勢いで答えた。

「なにって、わざわざ対立を煽(あお)っているとしか思えないじゃないか。シミュレーションのチーム分けもそうだし、坂元の行き過ぎた言動を止めないのもそうだ。そのくせ理想の部下をコンピュータ上に作って満足している、まるっきりダメ上司じゃないか」

 それに対し、峰國は首をひねる。

「あのチーム分けには意味があったと思うんだよね、俺は。士官候補の立場で見る下士官の行動も、その逆も、普段はなかなか見るチャンスがない。初めて気づく違いはあったと思うし、反対に何も違わないんだと気づかされる部分もあった。竜時もそれは同じでしょ」

 目から鱗(うろこ)が落ちた南田だったが、何か言い返せばそれを悟られるとわかっていたので、無言で峰國に次を促した。

「部屋割りにしても、多分、似たような配慮じゃないかな。国籍で分けるなら、俺は竜時とじゃなくて、杜(ドゥ)とか夏(シャー)あたりと一緒にされていたと思う。でも、俺も、杜たちも、みんな日本人とペアになっている」

「洋伸(ヤンシェン)と同室の富士本はもともと友達だよ。夏明仁(ミンレン)も日本育ちだから、峰國の言うような配慮があったとは思えない」

「うちには、日本語の苦手な人間はそもそも配属されていないよ。軍用英語なら母語の壁は少ないけど、基地の他の部隊や地域住民との関わりを考えれば、やっぱり日本語を不自由なく使える人間じゃないと都合が悪い。日本人以外の隊員でも、育ちは日本だっていう手合いが多くなるのは自然な結果さ。でも、それでも、偏見はあるよ。お互いにね」

「それを気づかせるための部屋割りを、江藤少佐がしたって言うのか」

「気づかせるだけじゃないよ。乗り越えるためだ。同じことが訓練内容についても言えると思う。何か気づかない?」

 訓練に感じた不満といえば、予(あらかじ)め説明のない特殊なシミュレーション仕様や、勝機のない不条理な状況設定がすぐに思い起こされた。それが教育の一環で、敢えて行ったのだと考えると、いずれも説明がついてしまうことに南田は愕然(がくぜん)とした。戦闘中に出くわす状況というのは、訓練でやったパターン通りというわけにはいかない。訓練では一般化のために端折(はしょ)られた細部について、常にその時と場に応じて、自分で危険性を考えなければならないだろう。そして、必ず模範解答の用意されていた訓練時代の模擬戦とは異なり、実際には勝ち目の薄い戦いを迫られることもあるに違いない。むしろ、黒龍隊はその危機的状況にこそ活躍を期待されているのだから、有利な環境での戦闘が起こる確率のほうが低い。南田は自分に課せられた責任の重さを昼の訓練後に自覚したが、それが自力で見出したのではなく江藤に誘導された結果なのだと、峰國の説を認めるならそういうことになる。

「考えすぎだよ、峰國は」

 認める気にはなれなかった。釈迦(しゃか)の掌(てのひら)の上の孫悟空だったなどとは。面白くない。

「そうかもね。俺が現状を正当化しているのは、そのほうが楽チンだからかもしれない」

「あっさり認めるんだな」

「可能性なら、いくらでも認めるよ。来年の俺にでも聞かなきゃわかることじゃないしね。わからないことは深くは考えない。疲れる。でも、竜時は隊長に何か物申さないとすっきりしないんでしょ? それは言ったほうがいいと思うんだ」

「文句があるのかないのか、どっちなんだ」

「竜時の気の済むようにしたらいいと思う。けど、どうすればスッキリするのか、竜時自身がわかってないように見える。精神的便秘だ」

「俺は……」

 きっぱり言い返そうとして、南田は言葉に詰まる。言語化する以前に、まさしく峰國の指摘するとおり、不満の在り処(か)を明確にイメージできなくなっていた。昨日までは、江藤に理想的上官の役を期待していた。しかし峰國の説が正しければ、江藤は十分にできた上官である。それでもコミュニケーションの悪さを批難することは可能だろうが、北嶋の言っていたように、江藤とて人の子であれば万能ではない。これから指導術を磨いていくところであれば、それに文句をつけるのは駄々をこねる子供と一緒である。現状を許容すれば問題は消失するのかもしれない。

 ――やはり違う、と南田は感じる。今のままではしっくりこない。では、何が。それを峰國は問うている。南田もそれを知りたい。

「竜時、難しい問題は置いといてさ、先にこいつの世話について考えておこうよ」

 考え込む南田に助け舟を出す形で、峰國が実際的な提案をした。たしかに、どんなに早くても、江藤が帰ってくる夕方だか夜まではこのゴン太を手元に置いておかなければならない。下(しも)の躾(しつけ)が不十分であることは身を以(もっ)て学んでいるし、鳴き声を出されたりまた何かを盗まれたりしても困る。包帯は緩めにしてあるので放っておけばほどけるだろう。かといって完全に固く結んでしまうと飲食を封じることになる。捕虜の健康は保証しなければならない。いろいろと加減が難しい。

「ひとまず、仲間を増やすのがいいと思うな」

 ひとり部屋に残ってゴン太の面倒を見るのは御免こうむる、と峰國は言っている。言いだしっぺの南田が部屋に残る手はないから、ゴン太の世話役をひとり捕まえる必要がある、ということだった。

「暇をしているのはパイロット仲間だろうけど」

 誰を誘うべきか。誰はやめておくべきか。そう考えている自分自身が、亀裂を広げる側に回っている気がして、南田は頭を抱え込む。

「あれ、竜時、イタイ頭……じゃないや、頭痛いの? おーい、竜時?」

 繰り返される呼び声が頭の中で反響する。竜時、竜時。本当に頭痛がしてきそうだった。聞こえているから竜時竜時とうるさく呼ぶな、と言ってやろうとして、気づいた。

「それだ」今度こそこれは天啓だと南田は思う。「やめさせる。少佐が俺をところ構わず竜時、竜時って子供みたいに呼ぶのを、やめさせる。俺は一人前の士官――候補か。区分はなんでもいい、一人前の軍人になってみせるから、江藤少佐にも、きちんと南田曹長として扱ってもらうんだ。それが俺の求める、ゴン太返還の条件だ」

 峰國はしばらく黙って南田を見つめていたが、やがて小さく拍手した。

「ラジャ。それで行こうか」

 まったくもって峰國には得のない話なのだが、それでも峰國は乗り気である。

 すまない、とか、ありがとう、とか言っておくべきかどうだろうかと南田が逡巡していると、廊下を歩く足音が近づいてきた。南田はトコトコ歩き出していたゴン太を捕まえて、ベッドの布団の中に押し込んだ。足音が止まり、ドアがノックされたのはそのすぐあとのことだった。

「南田曹長、李(リー)曹長、いますか」

 だみ声の持ち主を検索するのにコンマ五秒。朝井か、と南田は応じる。手は布団の上からゴン太を押さえつけている。

「やっぱり戻ってましたか。朝井です。ちょっといいですか」

 ドアノブをひねろうとする音。しかし鍵をかけてある。峰國が開けていいのかと視線で訊ねくる。南田はゴン太の重石(おもし)を枕に任せると、布団のふくらみを自分の体で隠すようにして、指でOKのサインを作った。峰國がドアを開ける。朝井の丸い目が怪訝そうに中をうかがう。

「何をしていたんです」

「ちょっと、やめてくれよ、その疚(やま)しいものを見るような目は。秘密会議だよ。対、江藤少佐の作戦会議」

「へえ」

 朝井は一応信じたようだったが、興味を示すでもない。そんなことより、とドアを押し開けて入ってくる。操縦服を着込んでいた。

「坂元曹長がシミュレータで自主訓練を始めてますよ。一緒にどうですか」

「自主訓練だって?」

 南田は耳を疑った。坂元は自分の弱点を克服するための鍛錬を怠らないが、すでに結果を出した対象については、特に情熱を傾けるわけでもない。鷹山とともに勝ち抜いてみせたシミュレーション戦を、日も変わらぬうちに反復練習するというのは意外だった。

「北嶋大尉に許可を取って、さっき始めたんですよ。俺は第五実験棟近くを歩いていたらたまたま曹長に行き会って、誘われました。で、せっかくなんで久留と手分けして、残りのパイロットにも声をかけて回っているところなんです。もう、気持ち悪くはないでしょう?」

 シミュレータ酔いはとっくに消えたが、別の理由で気持ちが悪い。坂元が、喧嘩していた朝井を自分から誘った。今日が四月一日でないかと疑いたくなる話だった。参加するしないに関係なく、まずその坂元の様子を見てみたいと南田は思った。しかし、背後でもぞもぞとゴン太の動く気配がある。――枕が動いた。

「あれ、なんか今、音がしました?」

「空耳だろう、空耳。そんなことより、朝井。朝井は参加するのか」

「そりゃ、最初に声をかけられたんだし、坂元曹長に仮想空間に犬がいるって証拠を見せるいいチャンスですからね」

 今日はどうやらついている。南田は空の高いところにいそうな何者かに感謝した。

「そんなに仔犬を探したいなら、朝井、いい話があるんだ。な、峰國?」

「え? ――ああ、うん。そうそう!」

 動けない南田に代わって峰國は朝井に耳打ちをする……ふりをして近づき、ひょいと背後に回りこんで、あっという間に朝井の首を固めた。

「ぢょ、ぐ、ぐるじい……」

「悪く思わないでくれよ、朝井」

 ちょうど布団から抜け出したゴン太を南田は逃さず捕まえ、丸い目をますます丸くした朝井の前まで持って行った。そして操縦服の前を勝手に開け、そのなかにゴン太を放り込んで、すばやく閉める。

「これ対少佐用の切り札だから。俺たちが戻るまで、この部屋から出さないようによろしく」

「おめでとう、じっくり犬を観察できるよ」

 峰國が朝井の首に回していた腕を緩めると、咳き込んで朝井はその場に膝をつく。その隙にふたりは容赦なく部屋から抜け出した。


*   *   *   *   *


 第五実験棟に着くと、四基のシミュレータはすべて稼動しており、観戦用のモニタの前には数人の整備士たちがたむろっていた。他に人影がないので、ひとまずそこへ歩み寄った南田は、彼らがただ観戦しているのではないことに気づいた。

「オーケー、通信はできたわけね。同期は取れてる? ふんふん」

 壁際から引っ張ってきた電話の受話器を肩に挟み、クリップボード上でボールペンを走らせているのは矢俣である。隣で通話を拾い聞きしているのは、夏明仁。もし峰國と同室でなかったら、南田はその名をまだ覚えていなかった。つまり、よくは知らない。

「いま、誰が入っているんだ?」

 矢俣が電話中なので、南田は夏のほうに尋ねた。他の整備士は名前すら覚えていない。

「坂元曹長と鷹山曹長、あと杜洋伸と久留軍曹です」

「群山は出てこなかったのか」

「寝るって言ってたしね」と、峰國。「明仁、これいつ終わりそう?」

「ついさっき始めましたからね、まあ二十分はかかります。でも……」

「でも?」

 夏は矢俣のほうを見る。視線を察知した矢俣は、まだ電話中である。

「――ああ、そう、いいじゃない。ちょうどこっちも」

 そこで矢俣はぐいっと親指を立てて見せた。

「パイロットが二名追加されたところ。そっち回ってもらうわ。じゃ」

 矢俣は受話器を置くと、夏にクリップボードのいちばん上に挟んだ紙を渡して、南田と峰國のほうへ向き直る。

「こっちまで来て頂いたところ申し訳ないんですけど」顔はまったく申し訳なさそうではなかったが、矢俣はそう前置いた。「第二大格納庫へ回って下さい。そっちで通信対戦できますよ」

「シミュレータをまた増やしたの?」

 と、峰國。南田もそんなものは見ていない。もっとも、今日は整備班の仕事を手伝っていないので、こっそり搬入されても気づかなかっただろうが。

「半分イエス、半分ノーです。解体ついでに、龍(ロン)の実機に最新のシミュレーションモードを実装したんですよ。あのシミュレータほどじゃないですが、機体の揺動も再現されます。配線、ちゃんとしましたからね」

「さらに戦術データリンクを利用して、近くの龍同士は勿論、計算機室のプロトタイプEPUを介して、ここのシミュレータともほぼラグなしの通信ができるってわけです。ということでおふたりは、第二大格納庫へどうぞ。今やっているところへ、乱入できますよ」

 別にここで待ってもよいと思った南田だが、矢俣や夏たちが自分たちの仕事ぶりを堪能して欲しそうだったので、ついつい快諾してしまった。面倒くさいと愚痴る峰國を引っ張って、来た道を戻ろうとする南田へ、矢俣が思い出したように声をかける。

「あ、スーツは本物を着て行ってください。マニュアルモードとか視点認識が利かなくなっちゃうんで」

 南田は少し後悔した。やはり面倒くさい。

 第二大格納庫へ行く道は、兵舎へと引き返す道とほぼ同じだった。就寝中に出動がかかってもすぐ乗り込めるようにという配慮からか、南田たちの入っている兵舎と機兵の格納庫は目と鼻の先である。それでも、峰國が昼に言っていたようにアラート待機が始まれば、当番のパイロットは敵が来なくても格納庫の一角で待機していなければならないだろう、と南田は自分たちの行く末を想像する。勿論、操縦服は完全装備を要求される。冬は着込んだぶん暖かくなるのでいいが、春、夏となってくるとかなり厳しいだろう。機兵を直立状態で収容できる格納庫は、当然、天井が高すぎて空調の効率が劣悪である。江藤にはその暑さもちょうどいいダイエットになるかもしれないものの、隊長にアラートが課せられるとは考えにくい。そもそも、黒龍隊においては江藤こそがルールなのだ。江藤はMかSかと言えばまずSである、と南田は断定する。サイズはSの正反対だが。

 そんなことを考えているうちに格納庫の手前、兵舎の横にさしかかった。朝井がゴン太をうまくあやして部屋でおとなしくさせているかどうか、少し見に戻ったほうがいいかとも思ったが、南田は結局それを峰國に提案しないまま兵舎の脇を通り過ぎる。部屋に戻ればまた一時間単位であれの世話に追われる気がしてならなかった。今は、坂元と鷹山をこの計画に誘えるかどうか見極めるほうが優先順位が高い。ことによっては、もうあのけだものなど放り出してよいかもわからない。仲間同士の亀裂さえ修復されるならば、江藤との距離感など、さしたる問題ではない。九人のバトルロワイヤルなら勝算は低いが、八対一なら、安心して挑(いど)める。

 ふたりは格納庫へ入る前にロッカールームに寄るのを忘れなかった。格納庫に面した三階建ての詰所の一階にそれはあり、支給されたばかりの機兵用パイロットスーツが各人のロッカーに一式揃っている。標準的な制服の上からジャケットのような上着やブーツなどを着用する形式で、重ね着式でありながらも狭いコクピットでの便を重視してスリムにデザインされている。ただし操縦中のコクピットの内装剥離(はくり)や、機外での銃撃戦を想定した防御性能もあれば、操縦及び通信用のインターフェースもわりと高密度に仕込まれているため、決して楽な服装ではない。着けていれば息が詰まる。

 着るのにまだ慣れていない南田は、アタッチメントを留める順序を間違ったりして、時間をかけてしまっていた。こうしているうちにシミュレータでは一戦終わっているのではないかと南田が疑念を抱いていると、峰國は要領よく着替えて、もうヘルメットをかぶるだけになっている。

「なんだか意外だな」

 無言で待ってくれている峰國に悪いと思って、南田はとりあえず口を開いた。

「失敬だなあ。早着替えは得意技のひとつなんだけど」

「いや、峰國のことを言っているんじゃない」

 南田は袖のアタッチメントを今度こそ手順どおりにはめながら、苦笑した。

「坂元のことだ。俺はあいつを見損なっていた」

 それを口に出した瞬間、南田は肩にかかっていた掴み所のない重荷がいくらか軽くなったのを意識した。偏見を持っていたのは誰よりも自分だったのかもしれない。そう認められる今の心境は、案外に、悪くない。気を揉まなくとも、なるようになる。楽に構えていればよいのだと、御船の声が聞こえるようだった。

 着替える前よりもかえって身軽になった心持ちで、南田は峰國とともに隣の第二大格納庫へと移動した。再組み立ての済んだ龍が、座った状態でふたりを迎える。その数も二。残る二機はまだ整備台の上に寝そべっている。手足もところどころ繋がっていない、俗に言うバラバラ肢体。ふとこの呼称は江藤が言い出したものではないかと南田は思いつく。機兵運用のノウハウは外廓聯が実戦で確立したようなもので、そこに初期から在籍していたらしい江藤が、つまらないくせに日本でやけに広まっている俗語の生みの親である可能性は、高い。南田もついついバラバラ肢体と言ってしまうが、それが江藤の影響だとすれば、どうにも歯がゆい。

「遅かったですね。すぐに使えますよ」

 南田たちを見つけて声を上げたのは、富士本だった。顔には見覚えがある。杜から聞いたところによれば、もともと富士本も機兵パイロットとしての訓練を受けていたが、身体能力の適性検査ではねられて、整備士へと転向したという。顔は合同訓練で合わせているので、記憶にあるのも道理である。待機中の龍のすぐ脇という立ち位置と、コクピットハッチから垂れた乗降用ワイヤーがまだ振り子運動をしている様子から察するに、富士本はわざわざコクピットに入ったうえで機体のチェックを完了としたらしい。

 南田は駆け足で龍のところまで行き、富士本に礼を言って、乗降用ワイヤーを握った。座った状態なので、整備台の高さを勘定に入れても巻き上げの長さはせいぜい二メートル。上下に蓋(ふた)を開けたハッチは、下側が足場となる。靴底でしっかりそれを踏みしめ、ワイヤーを離した手でハッチの上側のへりを掴み、コクピットを覗き込む。管制システムはすでに起動し、待機状態。富士本の言うとおりだった。すぐに使える。

 峰國、そっちはどうだ。そう横へ声をかけようとした南田を、突然のサイレンが圧倒的な音量でもって妨害した。龍からではない。咆哮(ほうこう)を上げているのは格納庫のスピーカーだった。わずかな時差つきで、外からも聞こえてくる。

「出動のサイレンだ」

 ひとしきり鳴り止んだところで、峰國が言った。そして間もなく、アナウンスが入る。黒龍隊の誰かではない。声が女性のものであったのでそれはすぐにわかった。しかし声の主の容貌(ようぼう)を妄想できるほどアナウンスの内容は穏やかではない。

 隣の市でバロッグを原因とするプラントの火災が発生。たまたま近くで任務中だった阿賀の中隊が救援に駆けつけたものの、火もバロッグも消えないため手がつけられないという。そこで各隊に支援を要請する、という文面は基地司令代理の倉知名義のものだが、その意図するところは明白だった。黒龍隊に、行けと言っている。それはわかるが、ただ素直に従えばいいものではない。倉知はこの猿之門基地の司令代理ではあっても、黒龍隊に何かの具体的行動を命じる権限はないのだ。

 南田が峰國や富士本たちと顔を見合わせて戸惑っていると、ヘルメットの通信機に着信が入る。隊の全員向けのチャンネル。

「北嶋だ。放送は聞こえたね? 誰でもいい、龍にすぐ乗り込める二人で出動してくれ」

「こちら南田です。いま峰國と一緒に龍に乗り込むところです。しかし、江藤少佐からの命令がないのに、動いて大丈夫なのですか」

「ついさっき江藤から外線で連絡があったんだ。組み立て済みの二機を出せ、という命令が出ている」

 それを聞いて、南田はほっとする半分、疑念も抱いた。出先の江藤がこうも早く連絡してくるだろうか。できすぎたタイミングのように思われてならない。

「またドッキリじゃないですよね、これ」

 叱責(しっせき)を覚悟で、南田は確認しておく。これで嘘をつかれたら、もう上官など誰も信用するものか、と心に決めながら。

「残念だけどこれは演習ではないよ。繰り返そうか?」

「いえ、了解です」南田はひとつ息を吸い直して、復命する。「南田竜時、プラントの救助支援のため龍にて現場に急行します」

「同じく、李峰國、急行しまーす」

 峰國の気負わない声に調子を狂わされながらも、南田は龍を立ち上がらせる。

「北嶋大尉、装備は?」

「胸部マルチランチャー用の消火剤は残念ながら未到着なんだ。現地で乗俑機用の消火機材が借りられるだろう。雷紫電だけ携行してくれ」

「武器を? 自衛のためですか?」

「竜時くん、君は江戸時代の火消しを知らないかい」

「知っています。なるほど了解しました」

 延焼防止のためプラントを破壊することもありうる、ということである。二機の龍は雷紫電を背中のラックに引っ掛け――ようとしてうまくできなかったので互いの背中に装備させあって――、格納庫を、基地の白亜の壁をあとにした。

 現場までは国道を使うのが早いはずだったが、それは車を使うならの話で、その車たちが仕事に買い物に使役(しえき)されているこの時間帯に、機兵が主要な道路を我が物顔で疾走(しっそう)するわけにはいかなかった。これが東京壊滅の危機ならともかく、プラントの火災はそれほどの危急の事態ではない。そこで何人かの命がすでに失われているとしても、ここで龍が消防車ばりに車に道を譲らせて進もうものなら、甚(はなは)だしい交通の混乱を招きもっと多くの死傷者を出すことになる。そこで二人は国道を迂回(うかい)し、山道を踏破(とうは)することにした。私有地を勝手に足跡だらけにするのも気が引けるので、できるだけジャンプを繰り返しながら。龍の背部ロケットは蓄力(ちくりき)機関、あるいはスレイプニル機関と呼ばれる最新式のもので、龍を蛙のごとく大跳躍させるに充分な瞬発力を有している。

「飛びます、飛びます」

 峰國が昔のコメディアンの真似をする。どこで覚えたのか知らないが、南田はその暢気(のんき)さには呆れるどころかいっそ感心した。

「よく緊張せずにいられるな」

「緊張はしているって。ストレスなしじゃベストは尽くせないよ。ま、逆もまた然りで、結局それを適度に保つのが正解だね」

「コツがあるなら教えて欲しいもんだ」

「だめー。秘伝の技だから」

「どこの秘伝だよ」

 そんな会話をするうちにプラントが見えてきた。そこから空へと拡散する黒々とした煙が何よりの目印となっている。

「一応、消防は展開しているね」

 峰國が言った。見ればたしかに、それらしき赤い車体が散見される。目立たせるはずの色なのだが、注視しなければ気づかなかった。燃え盛る炎は消防車に塗られた塗料などよりもずっと赤々しく、南田の視線を捉えて放さなかった。





- 12 -


 阿賀正尊(まさとし)は焼け落ちる寸前の煙突を見上げ、輻射(ふくしゃ)熱で体温以上に熱くなった装甲車の上面に向かって、腹立ち紛れに拳を振り下ろしていた。

 崩れた鉄骨を乗俑機でどけて消防車の進入路を確保し、またホースを借りて消防隊員の代わりに危険な消火活動を担いもしたが、それももう、限界だった。煙突に象徴されるひときわ大きな建屋が全焼の勢いで、もはや延焼を食い止めるのが精一杯となっている。

 最大の問題は折悪く発生したバロッグだった。防火用水を汲(く)み上げていたポンプのひとつがエネルギー変換現象の餌食となって機能を停止。バロッグの発生を知って慌ててBFG、バルムンクフィールドジェネレータを起動したものの、定置式のBFGは型が古く、効果範囲も狭かった。おかげで消防車は限られた位置にしか展開できず、阿賀たちの擁(よう)する乗俑機も動力源はディーゼルエンジンであり、同じ制約を受けている。挙句(あげく)、バロッグは上空にまで広がっているようで、期待されていたヘリからの消火活動も、実施を見合わせざるをえなくなった。

「橋谷(はしや)、聞こえるか」

 阿賀は自分が顔を出している装甲車より前方五十メートルほどのところに佇(たたず)む部下に通信機で呼びかけた。SF映画のスクリーンから抜け出てきたかのような、ほとんどロボットにしか見えない恰好(かっこう)の橋谷伍長が、振り返って手を振る。

「感度良好。突入指示か、阿賀隊長?」

 バロッグ対策を施した通信ケーブルが、阿賀の乗る指揮用の装甲車から橋谷の背中へと繋がっており、調達資金が無駄ではなかったことを教えてくれる。

「出せるものならとっくに出している。変則領域さえ消えてくれれば、すぐに突入だ」

「それはいつになるかわからんぞ、隊長殿。これ以上は工兵機が持たねえ。早いとこ突入を命令してくださいや。小笠木(おかさぎ)の坊主を見殺しにはできんぜ」

 橋谷の歯がゆさは阿賀とて理解できる。崩れた鉄骨に閉じ込められた消防隊員を助けに行った工兵機の操縦者、最年少の隊員でもある小笠木が、バロッグによる通信不良のせいで阿賀からの撤退命令を聞き損ねたらしく、続けて崩落してきた鉄骨に乗俑機ごと閉じ込められてしまったのだ。橋谷が若手への情に厚いことは、阿賀自身が新米少尉であったころに身を以て知っているが、しかし橋谷を行かせればミイラ取りをまたもやミイラにする危険が大きい。バロッグと火災のどちらかが収まるのを期待しながら、ただ指を咥(くわ)えて見ているしかなかったのがこの半時。実に長かった。小笠木が工兵機の狭い操縦席で意識を残しているのなら、もっと長く感じられているに違いないと阿賀は想像する。しかし、感情に流されて判断を誤るわけにはいかなかった。阿賀の言葉には、小笠木ひとりではない、橋谷をはじめ中隊全体の命がかかっている。

「抑えろ、橋谷。じきに黒龍隊が来る。そうすれば消火も強化できるし、鉄骨もどけられる。小笠木は必ず助けられるんだ。ベテランのおまえが、あのひよっこたちの仕事を増やすな」

「ぬう、了解だ。早く来やがれ、黒龍隊」

 橋谷が地団太を踏むのが見える。それで到着が早まるならいくらでも同じことをする用意があったが、阿賀はしかし、むしろ黒龍隊の到着は遅くなるだろうと予想を立てていた。黒龍隊の指揮官である江藤が統監部に呼び出されて猿之門基地を離れていることは、腹心の上妻中尉をその護衛につけた阿賀にとって、忘れるわけもない情報である。江藤を抜きにした黒龍隊はまだ練度が低い。若い隊員たちが他愛もない軋轢(あつれき)で食堂で喧嘩を始めるなど、訓練部隊同然、もしくはそれ以下のレベルである。それでも上がしっかりしていればなんとかなるのが軍隊だが、あの部隊は特殊で、副長の北嶋では代行できない権限も多数ある。それらの都合で、機兵の出動可否の決定には時間がかかるだろう。龍は江藤が帰るまで基地を出ないかもしれない。また、上妻が江藤の護衛ではなく常のように阿賀の補佐をしていたならば、バロッグが出始めていることを逸(いち)早く察知し、通信が届かなくなる前に小笠木の工兵機を呼び戻せただろう、とも思える。それでますます阿賀の苛立ちは募(つの)るのだった。黒龍隊さえ、江藤博照さえ猿之門基地に来なければ、倉知から面倒な内偵を依頼されることも、部下を窮地に追いやることもなかったのだから。

 そのとき、背後からあっという声が聞こえた。通信機からではない。が、すぐに通信機からも上ずった声が届いた。

「隊長、来ました! 西北西、山の手から龍が二機。――いま、ジャンプして……。うお、高いぞ」

 阿賀は振り仰(あお)いで工業団地上空に機影を探した。

 見つけた。

 弾道軌道で落下してくる二体の巨人。落とす影が阿賀を呑み込んだ。逆噴射で減速し、脚を目いっぱい伸ばした状態で、着地。コンクリートの地面から衝撃が伝わり、阿賀は車体と体が少し浮いたように感じた。震源の龍はというと、ほとんど座る寸前まで体を屈めて運動エネルギーを吸収し、肘や膝の隙間からMMアクチュエータが熱放散している証の湯気を漏らしながら、立ち上がった。

「お待たせしました、阿賀少佐。南田竜時、李峰國(リー・フェングォ)、救援のため只今到着しました」

 今朝殴りつけてやったひよっこの声だ、と阿賀は気づいて、自然と口元が綻ぶ。甲斐(かい)はあったのだと、その声の張りから察せられた。




*   *   *   *   *




 足元の装甲車から顔を出しているのは、やはり阿賀だった。豆粒程度に見えていた人影に指向性カメラの視点を合わせ、拡大することで、それは確認できた。南田は外部環境集音用のマイクを視点と同期させ、着目対象の声をよく聞き取れるようにする。

「遅いぞ、黒龍隊」

「すみません、道が混んで……」

「言い訳はいい。前方の煙突のある建屋に、工兵機と消防隊員が取り残されている。一機と一名。それですべてだ。変則領域のせいで我々では近寄れない。救助を頼む。何を壊してもいい」

「了解」

 立て板に水で必要な情報をくれた阿賀の言葉に乗せられて、南田はフットペダルを踏み込んだが、迷いはあった。それを読んだように、峰國(フェングォ)が無線で声を掛けてくる。

「機体のテストもなしで、平気かな。あれが崩れてきたら龍(ロン)だってただじゃすまないよ」

 変則領域が出ていても、バルムンクフィールドを展開すれば龍はその影響を排除できる。但(ただ)しそれは理論上の話である。理論どおりにハード、ソフトが実装されているかどうか、再組み立て後のチェックはされていない。つまりは賭けだった。分解前はちゃんと動いたという実績がプラス要素。変則領域をきちんと検知できていないという現状がマイナス要素。天秤のどちらの皿が重いか、答えは簡単である。

「問題ないさ」

 南田は見積もりとは全く逆の解答を口にした。パイロットの基礎訓練をこなした富士本がチェックして、もう使えると言ったのだから、南田は無条件にそれを信用することにした。もしBFGがうまく機能せず、焼け落ちる建屋に生き埋めとなっても、そのときは残る二機の龍で仲間が助けに来てくれる。それを信じられれば、ここで二の足を踏む理由はない。

 近づくに近づけないでいた機甲化歩兵部隊の隊員たちが、龍の通すため道を空ける。それを通り過ぎる際に、南田は左右から応援の声がかかっているのに気づいた。その言葉のなかから、工兵機で取り残されているのは小笠木という名の隊員らしいと知る。おそらく、若い。兵だとすれば南田よりも。南田のやる気は俄然(がぜん)高まった。

 正面のバロッグの濃度を、相対バルムンク反応センサーでおおまかに計測。分布、特に奥行きがわからないことには正確な計測にはならないが、それでも、比較的濃い部類であるのは間違いない。

「相対バルムンク反応、レベルC。そっちはどうだ、峰國?」

「同じくC。上空もレベルD。さっさと拾い出して帰るのが無難だね」

 センサーに狂いはないようだった。すなわち、機甲化歩兵部隊が突入しなかったのは正解だった。二機の龍は、バルムンクフィールドでバロッグという不可思議な場を無効化しながら、そっと建屋に近づく。崩れているのは一箇所だけではなかったが、生き埋めの箇所はすぐにわかった。工兵機の機体の一部が見えている。炎の向こうに。

 南田は身震いする体を理性で押さえ込む。あれでは消防隊員はもはや助かるまい。が、工兵機のほうはまだ何とかなるだろう。

「これじゃ中身だけってわけにはいかないな。機体ごと引きずり出すしかない。手前の瓦礫をどける。峰國は……」

「上が崩れないよう支えておく」

「任せた」

 複雑な作業であるため、操縦はマニュアルモードになる。瓦礫のひとつひとつをターゲットとして画像認識させて、マニピュレータで掴み、排除する。ただ何かを壊すよりも多大な時間と集中力が必要だった。南田は何度も顔の汗を拭う。龍の表面温度はかなり上がっているはずだが、宇宙での運用も視野に入れた設計の龍は、コクピットまではなかなかその熱を伝えない構造になっている。ゆえにそれは、緊張の汗に他ならなかった。

 何分が経過したのか、南田にはわからなかった。工兵機を覆っていたコンクリートや鉄骨などはあらかた取り除くことができた。あとは、引っ張り出すだけ。しかし龍一機の膂力(りょりょく)では、軍用で重量のある工兵機をやすやすとは動かせない。

「峰國、手を貸してくれ」

「ラジャ」

 峰國の龍は雷紫電二本をつっかえ棒にして建屋の健在な壁を支えると、南田機と一緒に工兵機を抱える。

 爆発はそのとき起きた。

 雷紫電は特に役立つこともなく、圧倒的な量の瓦礫が土砂崩れのように南田たちに襲いかかってきた。工兵機を抱え込み、巧遅なマニュアルモードでの操縦になっていた龍は、緊急の回避動作を取れなかった。折角掘り出した工兵機もろとも、龍までもが、飴のように溶けた鉄骨の下敷きとなる。

 何が起きたのかを理解した南田は、モニタの脇に映し出された機体の損傷状況表示に目をやり、呻(うめ)く。BFG機能停止。運悪く、胸部のフィールド出力部分に鉄骨が刺さったらしかった。非装甲の出力部ではひとたまりもない。

「峰國、無事か」

 声を掛けるが、返事がない。どちらかの通信系統が壊れたか、あるいは、峰國が気を失ってしまったのか。

 幸いにも南田の龍は完全に埋まったわけではなく、首は外に出ていて、自由に動かすことができた。それで、峰國の龍が容易に身動きできないほどに瓦礫が積もってしまったこと、そして、巨大な煙突が今にも倒れてきそうな危険な状態にあることを、南田は認識する。

 南田は絶句した。あれが崩れてきたならば、BFGどころの損傷では済まない。早く抜け出さねばならなかったが、積もった瓦礫を再びマニュアル動作でどけていくのは難しかった。視界が狭く、覆いかぶさっている瓦礫の全体像が見えないために、それをターゲットとして画像認識する機能がうまく働かない。

 背部ロケットを使えば、その推力で瓦礫を押しのけて脱出することもできるかもしれない。南田のアイデアはしかし、危険なものだった。BFGは機能を停止している。バロッグに晒(さら)されたロケットエンジンを使えば、たとえ瓦礫と煙突から逃げられても、エネルギー変換現象で自爆する危険がある。だいいち、それでは自分しか抜け出せない。全員が助かるには、峰國にロケットエンジンの噴射をやってもらうしかない。

「おい、峰國、起きろ、通信機、直れって、おい、こら!」

 叫びに叫んだが反応はない。一方、煙突はこちらへ傾きつつあるように見える。

「くそっ、こんなのって……」

 どうにか手はないものか。手はないものか。手はないものか。思いつかない。何もできない。

「落ち着け、竜時!」

 耳に飛び込んできたのは峰國の声ではなかった。受話側のデフォルト設定音量などおそらく気にしたことのない大声は、他の誰でもない。

「え、江藤少佐?」

「よく聞け、竜時。これから、降下中の龍に煙突を狙撃させる。下手に動くな。そのままにしていろ」

 何を言っているのか、南田は咀嚼(そしゃく)に数秒を要した。

「ま……、待ってください、バロッグが出ているんです。狙撃なんて、できませんよ。外れたらそれこそ大火災です」

「バロッグなら心配するな」

「しますよ! 少佐、どこから話しているんです。そこには精度のいい相対バルムンク反応センサーでもあるんですか」

「そんなものなくてもだな。そっちでも確認できるだろうが」

「こっちはBFGがやられてRBRを使えないんです。けど、さっきまではたしかにありました」

「今はないと言っている」

「あなたの山勘なんて信用できませんよ」

「ええい、うるさい。とにかく黙ってそこで寝ていろ。――おい、やれ」

 了解、という誰かの声が聞こえる。巡らせた龍の首が、逆噴射しつつ高空から降下してくる影を発見した。龍だった。若干影が異なるが、そんなことよりも、それが火縄を構え、空中から狙撃する体勢を取っていることのほうがずっと重大だった。

「待ってくれ!」

 悲鳴は届いたのか、届かなかったのか。

 そのとき南田が確かめられたのは、上空の龍が火縄を発砲したという事実だけだった。

 南田は目を瞑っていた。襲ってくる衝撃を想定して。

 幾つかの激しい音が断続的に響いた。が、それだけだ。南田は、助かっていた。

 やがて機甲化歩兵部隊の乗俑機たちが南田機に群がり、積もった瓦礫を撤去しにかかった。そこへさっきの龍も加わり、ほどなく二機の龍と、工兵機が発掘される。

 機体の通信機能が失われていただけで、乗っていた峰國は無事だった。また幸いにも、工兵機の中にいた人間も命に別状はなかった。龍が盾になったのが良かった、と駆けつけた消防関係者が言っていた。おかげでふたりの命が助かった。阿賀の部下、小笠木上等兵と、彼が咄嗟の機転で工兵機の操縦席に招き入れていた、逃げ遅れの消防隊員の命が。

「君のおかげで助かった」

 龍を降りてへたりこんでいる南田の傍(かたわ)らに来て、そう例を述べたのは、救急車に運ばれていった小笠木上等兵当人ではなく、その上官、阿賀正尊だった。

「いえ、自分は何もできませんでした」

 まだ何がどうなったのか混乱している南田は、思っていることを素直に言った。己の判断に間違いは見つけられないが、しかし、結果を出したのは江藤だ。その江藤は、狙撃をやった龍と一緒に、どこかへ消えた。誰かが無線の向こうで怒鳴っている気配があったので、また勝手なことをやったのだろう。知り合いのいる部隊を命令系統無視で勝手に動かしたとか、そのあたりのことを。

「奴がどんな魔法を使ったのかは知らないが」阿賀は微笑(ほほえ)んだ。「小笠木たちが助かったのは、君たちのがんばりあってこそのものだろう。自信を持っていい、リュウジ曹長」

 自分がどんな顔になっているのか、南田はわからなかった。覚えのない表情筋の張り具合からして、きっと変な顔だろうということは察しがついた。感情面から類推しようにも、笑いたいのか、泣きたいのか、それもわからない。しかし言っておくべきことだけは明確だった。

「阿賀少佐。竜時は下の名で、苗字は南田です」





- 13 -


 本来なら徹夜で火災に関する報告書の取りまとめに参加させられるところだったが、江藤の発動した特権によって、南田たちは基地に戻って夕食にありつけた。あとから出頭する必要もない、と江藤は言う。一方、阿賀の部隊はまだ帰ってこない。たしかに自分は特別な部隊に配属されたのだと南田は実感した。

 夕食を基地で食べられるのはよかったが、南田はくつろげてはいなかった。疲労も、打撲も、たいしたことはない。リラックスの妨げは南田の体の外にある。それは、食事の載ったテーブルの反対側に、椅子を軋(きし)ませながらふんぞりかえっていた。

「バカな奴だ。たとえBFGが使えなくとも、OBSを使えばバロッグの有無は確かめられたものを」

 これまた特別な計らいで隊の詰所に食堂の十人分の食事を運ばせた江藤は、パイロットを全員集めて、食事を始めた。南田に説教を垂れながら。

「OBS……。光学バルムンク走査か」

 峰國(フェングォ)がなるほどと頷いている。

「それは隊長の言うとおりだね、竜時。龍の目からビーム出すあれなら、バロッグ由来の干渉パターンを検知できるじゃない。アクティブセンシングだから実戦じゃなかなか使わないと思うけど」

「最初の一字が同じだからって、光子力ビームみたいな言い方するな。語弊(ごへい)があるから」

 指摘された腹立ちを峰國に返し、南田は江藤を睨み据える。峰國はともかく、現場にいなかった坂元たちの前でくどくどと説教をされるのは気に食わない。多少言い返してやらねば気が収まらなかった。

「教えてください。なぜあのとき、変則領域が消えていると断言できたのですか」

「勘だ」

 江藤は即答し、箸を煮物の蓮根に伸ばす。

「嘘ですね。あのとき、もし変則領域が残っていたら無事では済みませんでした。そんな場面で無責任な決断を下せるほど、あなたは悪漢ではないはずです」

 ぐっと喉を詰まらせた江藤は、なんとか蓮根を嚥下すると、箸を置いた。

「上官を捕まえて悪漢とはな、無礼以前に古めかしすぎて、俺でもちょっと苦笑してしまうぞ。おまえ時代物の読みすぎだろう」

「なんで知っているんですか」

 時代小説が好きだということを。

「身上書に書いたんじゃないか?」

「そうでしたか」

 覚えはないが、話をそらされつつあることに気づいて、南田は適当に受け流す。

「それは兎(と)も角(かく)ですね」

「兎(うさぎ)に角(つの)はない」

 これは完全に無視して、南田は話題を元に戻す。

「教えてください、江藤少佐。どういう根拠でもって、離れた場所からバロッグの有無を判定したんですか。ご説明頂けないのであれば……」

「ほう、さもなければ?」

「あなたが基地で秘密裡に飼っている、犬の身柄を保証できなくなります」

 朝井以外には根回しをしていない。共犯の峰國は黙っているが、坂元たちはざわつき始めた。

「犬?」

 江藤は眉をひそめた――のか、威嚇の表情になったのか、南田には区別がつかない。しかし何か考えているようだったので南田は江藤の言葉を待った。五秒、十秒、十五秒。そろそろ持ち時間一杯ですと言ってみようか、と南田が思案を始めたところで、ようやく固まっていた江藤の顔が動き、唇が言葉を紡いだ。

「そんなもん、居ぬ」

 自分で言って、堪えきれずに江藤は噴き出した。もちろん、他に笑うものなど誰一人いない。それでも江藤はひとりで腹を抱えていた。南田は頭を抱えたくなったが、空手で体とともに修練した精神力で我慢する。交渉の脱線はそろそろ根本的に修正する必要がある。切り札を使うターンが来た。

「ネタは上がっているんですよ。ゴン太っていうんでしょう。阿賀少佐や基地司令代理にチクったらどうなりますか」

「ワウ」

 江藤が変な声を出した、のではなかった。杜洋伸(ドゥ・ヤンシェン)が母国語で悲鳴を上げる。ふりむいた南田は、杜の発した言葉の意味をおおよそ察することができた。うわ、犬だ、とでも言ったのだろう。灰白色の毛並みの獣、ゴン太が、杜の体を足場にして前足はテーブルの縁に掛け、顔を、そして舌を覗かせている。大勢の人間を前にして好奇心で興奮している模様。

「おお、ゴン太、どこに行っていたのだ」

 江藤が呼ぶと、ゴン太はキャンと答えてテーブルの上に飛び乗り、お盆の間を縫って主人のもとへと歩いて行く。

「昼飯の時間に帰ってこないものだから心配したんだぞ、こいつぅ」

 抱き上げたゴン太に無精(ぶしょう)髭だらけの頬ですりすりしながら江藤は猫撫で声を出す。

「あれ、なんだかバナナ臭いぞ、ゴン太。おまえは肉だけで自分の体を作れるんだから、あんな甘いもの食べちゃダメだって言っているのに、もう、しかたのない奴よのう」

 坂元たちの視線がその奇態に釘付けになるなか、南田と峰國だけは朝井を睨(にら)んでいた。

「朝井、あれほど逃がすなと言っておいたじゃないか」

 朝井は悲壮な表情でそれを受け止める。

「そら勘弁です。俺もこいつも動物です。クソを垂れなきゃ死ぬんです」

「そしてトイレで逃げられたのか……。我慢できなかったのか」

「便を我慢して死ぬのは我慢ならないですね」

 それ以上の追及をする気にはなれず、そもそも脅迫犯が被害者を糾弾(きゅうだん)する筋合いなどなく、南田は江藤とゴン太に向き直る。ヘンな人に攫(さら)われたかと思ったんだからな、と江藤が明らかな皮肉を口にしたからだった。

 南田は咳払いをする。切り札は風に吹かれて敵の手に渡ってしまったが、切り札は他者がその内容を知らないがゆえに切り札たりうる。手の内がわかってしまえば、それを逆手に取る戦術も展開できる。

「尻尾を出しましたね、江藤少佐。あなたは正真正銘、その犬、ゴン太の飼い主だ。ここにいる全員が証人ですよ」

 人差し指をびしっと突きつけて指摘。決まった、と南田は思った。

「いかにも俺はゴン太の養い親だが」江藤は悪漢の不敵な笑みをたたえる。「犬など居ぬのだ」

「証拠に頬擦りしながら、しらばっくれる気ですか!」

 南田が全力でつっこむ一方、基地内の建物の一室に現れた明らかな異物に、早くも順応しつつある者もいた。

「ああ、それで食事がひとりぶん多かったんですね。ゴン太のぶんだったのか」

「何を言っている鷹山、これは人間用の食事であって、ゴン太には俺の部屋にちゃんと専用のものを用意しているに決まっているではないか。必要な栄養素は同じ哺乳類といえど種によって千変万化するものであってだな……」

 とうとうと解説を始める江藤をよそに、鷹山は真っ白になっている。よく見れば、余剰の盆にのった食事はまったく手がつけられていないのに、鷹山の皿からは、メインディッシュが消失する事件が起こっていた。今日の肉はいつもと違って美味しかったのだが。

 段々と錯綜(さくそう)を始めた室内の会話がカオスに達する寸前、部屋をノックする者があった。パイロットたちは一斉に口を閉じ、ドアに注目する。ただ江藤だけは、顔を舐(な)めるゴン太と向き合ったままだった。その江藤が返事をする。

「おお、来たか。入れ」

 失礼します、と前置いてドアを開け、現れたのは、額にバンダナを巻いた青年だった。機兵用の操縦服を身に着けており、やや緩めた襟元からは階級章の端が覗いているが、よくは見えない。南田はそのなりと落ち着いたまなざしを見て、煙突を狙撃した龍を操縦していたのはこの男に違いないと直感する。

 青年は室内の全員を見渡すと、最後にゴン太に目を留めて、なるほどと呟いた。

「犬ではなく狼ですね、それ。――あ、失礼。実は入るタイミングを窺ううちに、話が聞こえてきたもので」

 江藤はそこで初めて来訪者をふりむき、おもちゃを取り上げられた子供のような顔をする。

「こら、正解を出すのが早いぞ、藤居」

 藤居と呼ばれた男は萎縮(いしゅく)するでも気を悪くするでもなく、自然と笑ってしまった口元を手で隠すべきかどうかで迷っているようだった。その光景は南田にとってちょっとした衝撃だった。自分はこれまでフィンガーポールの水がまずいまずいと不満を言っていたのかもしれない、という発想は、おそらくこの瞬間なくして得られなかった。この男は、ただ江藤を前から知っているというだけではない。二十年来のつきあいだという北嶋でも、このような反応は見せなかった。南田も北嶋も知らない江藤の側面を、この藤居という男は知っている。それゆえに、そんな顔ができるのだ。南田は、いくつも歳が違わないであろう藤居に対して、一種の畏(おそ)れを抱いた。

「正解だという確信は、なかったんですよ」藤居は結局苦笑しながら、やんわりと反論する。「子供にしては毛色が白すぎる気がしたので、不正解という返事もあると思っていました。目は普通だからアルビノでもなさそうですし。どちらかというと、江藤少佐が満を持して正解を発表できる土台作りのために言ったつもりだったんですが、まるで身内がネタ明かししたような言い草は心外です」

 その文面を坂元や久留が言ったら挑発的に聞こえるに違いない、と想像しながら、しかし南田は藤居という青年の言葉のどこにも棘(とげ)など感じなかった。

「狼だってイヌ科でしょう、犬じゃないっていうのはアンフェアだと思います、隊長」

 と、棘を刺しにかかったのは、ゴン太に肉を奪われた恨みのある鷹山だった。

「その論法でいけば、オオカミだけじゃない、アザラシもクマもイヌ亜目だからイヌの範疇ということが言える。さらに上の括りになる食肉目の別称はたしか、ネコ目だしね。まあ、犬といったらイエイヌということで普通は納得するんじゃないかな」

「それはつまり」峰國が咀嚼しながら割って入る。「ゴン太に猫撫で声を使うのは分類学的に正しいってことですね」

「違うだろ、論点が」

 峰國を引っ込ませて、南田は江藤に紹介を促した。こちらの方は、と。しかし江藤はまた都合よく煮物を喉に詰まらせて胸を叩いている。それを見て取った藤居が、もとからのびていた背筋をさらにしゃっきりと正して、敬礼をした。

「中部方面軍から転属になりました、藤居祐輝(ゆうき)准尉です。今日から黒龍隊の機兵パイロットに仲間入りさせてもらいます。どうぞよろしく」

 准尉と聞いて、江藤以外、全員が立ち上がって敬礼。

「と、いうわけだ。者ども、まあ座れ、座れ。藤居もだ。夕食はおまえの分も用意してあるぞ。挨拶は終わったんだから、細かい話は置いといて、早く食え。冷める」

 ひとり食事が進んでいる江藤が勝手なことを言う。しかしそれが江藤の企図(きと)した、この集まりの本当の目的なのだろうと南田は悟った。とりあえず食事をともに囲めば仲の悪い者とも新参の准尉とも打ち解けるだろう、という単純なアイデアだ。あまりに幼稚すぎて素直に思惑に乗るのに抵抗があったが、それでも、南田が江藤に対して漠然と期待していたマネジメントと、方向性に違いはない。

 案外、こんなものでいいのかもしれない、と南田は思った。食事に加わった藤居は、旧知らしい江藤とのみならず、階級が三つ下の杜洋伸たちとも談笑を始めている。峰國は、バナナを奪われた己の心境を思い出したものか、鷹山にメインディッシュの肉をわけてやっている。鷹山もそれを意固地に拒みはしていないし、坂元は朝井に、仮想空間で見た仔犬というのは江藤がゴン太に似せて作った偵察プローブかもしれない、という思いつきを披露(ひろう)している。群山はあいかわらず誰とも話していなかったが、ときどき視線を近くのやりとりに向けて相槌(あいづち)を打っているので、融けこんではいるようだ。昨日から南田が抱いていた不安と不満は、今ここには、存在しない。

「おい、竜時。なにをひとりでニヤニヤしているんだ。気色の悪い」

 テーブルの向こうから掛けられた江藤の言葉を聞いて、南田は、危うく忘れるところであった大事なことをひとつ思い出した。

「江藤少佐。前にもお願いしましたが、その竜時って呼び方はやめて頂けますか」

 外野の会話が中断されて、視線が江藤と南田に二極集中する。果たしてどうなるのかと気が気でない様子の者が七名。意味深に微笑んで箸を置き、南田を見つめている藤居。そして、久々に真面目な顔になった江藤は、南田を射るように見据える。

「俺が無線で指示を出すまで、錯乱していて、阿賀の声も聞こえてないなかった奴には、それくらいでちょうどいい」

 南田は膝の上で拳を握り締めた。崩れたプラントの建屋に埋まってしまったあのとき、阿賀の声を聞いた覚えはない。しかし、南田の龍の通信系統は生きていたのだから、それは江藤の言うように、南田が取り乱していたことの証だろう。そのカードを切られてしまっては、一人前の軍人として南田曹長と呼べ、などとはもう訴えられない。南田は己の力不足を痛感させられて顔を伏せた。

「――が」江藤の言葉は終わってはいなかった。「俺の隊長としての指導力も、上官ヅラして威張れるほどのものではない、な。只今訓練中だ。俺が、俺の思う理想の上官になれたとき、もう一度その件について話し合おう」

 南田は顔を上げる。藤居は何事もなかったかのように食事に戻っていた。江藤は、もう南田ひとりに視線を注いではおらず、室内の部下全員を見渡していた。

「おまえたちも、何か不満があったらとりあえず言ってみろ。それぞれ、必要性と準備が揃い次第、俺が対処してやる。たとえば坂元、おまえは刀剣型の機兵用装備を欲しがっているだろう? あれは、俺のほうで手を回している。すぐに配備とはいかないが、『炎草薙(ホムラクサナギ)』の製造現場の見学くらいは、近いうちに行かせてやれそうだ」

 それを聞いた坂元が身を乗り出した。

「マジですか! ――と、失礼しました。本当ですか、それは」

「嘘は言わん。それから群山、おまえは非番のときに兵舎でギターを弾(ひ)きたいと思っているだろう? 喜べ。近くの施設を使う部隊のトップに掛け合って、許可を得られる目処がついた。アラート待機中に弾いても構わん」

「あ……、ありがとうございます。しかし、どうして。ギターのことを」

 南田ほか多数が頷く。坂元についても同じ疑問が呈される。

「まあ、曲がりなりにも俺はおまえたちの命を預かる隊長だからな。なんでもお見通しよ。ぐわっはっはっは」

 わざとらしく笑ってふんぞりかえり、椅子の耐久試験を始める江藤を、止める者はいなかった。

 室内には。

 ドン、と勢いよくドアが開けられた。事前にノックなどなかった。あったかもしれないが江藤の笑い声のほうが大きくて聞こえなかった。しかし、大股で入ってきたその男の怒声は、その江藤すらも黙らせる力を持っていた。

「こら、江藤!」

 北嶋が片手で脇腹を押さえながら、もう片手のクリップボードで江藤の頭を叩いた。

「いてぇよ!」

「痛くしているんだ、当たり前だ」

「どうして殴る」

 南田ほか多数が頷く。江藤を哀れとは思わないが理由のない暴力は恐ろしい。

「あの大量のダンボール箱の正体、やっとわかった。おまえ、書類適当にごまかして隊員の私物を前の住処(すみか)から集めて、自分の部屋に運び込んだだろう。白状しろ。白状しないなら倉知大佐がこの件を戦略軍参謀本部と軍事委員会に報告して、おまえの権限について再考を促すことになるぞ」

 藤居含め全員が江藤を凝視した。明らかに越権、そしてプライベートの侵害である。

 増水したダムは決壊した。


*   *   *   *   *


 整備班を交えて数十人に膨れ上がった暴徒、もとい部下たちに自室へと乱入され、収集した彼らの私物をすべて奪還された江藤は、HAOSの仕様書やらゴン太用のドッグフードやらが入った残り少ないダンボール箱に囲まれて、力尽きて横たわっていた。さっきから電話が鳴っているが、出る気はない。部下の暴動に紛れて部屋へと入り、盗聴対策を施した江藤の特別な電話を妻への私用電話に使った北嶋が、折り返しの連絡用に番号まで教えてしまったのだろう。北嶋裕美子の電話の声は甲高いので聞いていて疲れる。もっとも、面と向かっても、それはそれで疲れるのだが。

 隣ではゴン太がすやすやと寝息を立てている。今日はあちこち走り回って疲れたのだろう。その背中をそっと撫でながら、江藤は、自分の力不足を痛感していた。

「あの程度でばれ、そして部屋まで突破されるとは、俺もまだまだ未熟だな。おかげで計画がパーだ。もっと訓練を積まねば、いい隊長にはなれん……」

 そして夢へと落ちていく。

 手段についての反省はしても、目的についての反省は一切していない江藤であった。



――続く――