黒龍隊の挽歌 第八話

前線司令部防衛任務



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 ウズベキスタン東部の山中。空を鈍器で無理やり切り裂くような、凄まじい烈音が轟いた。

 山林の一点から生じたそれは、山の斜面とほぼ直角をなして突き進み、やがて下降に移る。しかし、望遠カメラを使ってそこまで確認するのは、茨木彪(たけし)の仕事ではなかった。彼の役目は別にある。

 龍(ロン)の動体センサーが、砲声に驚いて飛び立つ小鳥たちを捉(とら)えていた。自動追尾を始めたマーカーを視線認識装置で解除すると、茨木はヘッドマウントディスプレイをヘルメットから取り外し、ほっと息をついた。多少は人間工学に則(のっと)って設計されているとはいえ、やはり目の前に人工的な映像がちらつくのは気持ちが良くない。ヘッドマウントディスプレイを収納スペースに収めた茨木は、いっそ永久にその蓋(ふた)を開けずにいたいものだと思ったが、この手の任務が続く限り、それは無理だとわかっていた。そう、いまは任務が第一なのだ。茨木は疲れた目をしばたかせながら、通信機のスイッチを入れた。

「茨木だ。着弾はどうか?」

 稜線の向こうに没した鉄の筒が、目的の範囲に命中したかどうか。茨木はこの砲撃任務の責任者として、部下にそれを尋ねた。

「中心点が五十メートル北にずれましたが、正常に着弾したようです。変則領域による干渉は認められません」

「よし。正確な観測は専属部隊に任せて、尾西は戦車隊との通信可能地点まで移動しろ。私たちは撤収後、先に合流ポイントに向かう」

「質問が。移動中、接敵した場合は?」

「勝てるなら戦え。そうでない場合は逃げろ。尾西の報告がなくても、遅かれ早かれ戦車隊は動く」

「了解」

 早口の交信は二十秒で済まされた。急ぐのにはわけがある。

 茨木は傍らの龍にカメラを向けた。二機の龍が大型のロケット弾発射機を抱えて、支持棒を外したり畳んだりしている。龍の肩まである長大なランチャーを六本束ねたこの「不知火(しらぬい)」は、さすがに龍一機では発射もままならない。着弾点を絞り込んだ攻撃では尚更だ。そもそも、車載型と設置型の並行開発という形で設計された大型ランチャーを無理やり機兵に持たせたのだから、無理もない話ではある。

 しかし、そんな代物であっても、急いでそれを携行して立ち去らなければならない。今しがたの砲撃は変則領域越しに行ったが、それでも、弾道から敵がこちらの位置を割り出せる可能性も残っている。そのことは任務に関わる全員が承知しているので、茨木が指示するまでもなく、二機の龍は見る間に不知火を搬送状態にしてしまった。

「よし。撤収するぞ」

 ランチャーを搬送するため僚機二機は動きが鈍い。茨木は自機を先頭に立たせ、進みやすい道を選んで下山を開始した。ひとまず、攻撃を行った場所とは裏の斜面に回りこむ。

 ロケット弾の発射から二分が経った。メインモニター脇の時計でそれを確認した茨木は、反撃がないことを悟った。まだ正確な着弾判定は聞いていないが、攻撃は成功といってよい。また、近くに脅威となる野砲はないようだ。

「予定通り、乾(いぬい)は俺について来い。楠木は不知火を本隊に運んで、そのまま合流地点まで本隊を護衛だ。ゾルダートの別働隊がいる可能性も否定できん」

 無事に下山しきったところで、茨木は部下に再度指示を出した。隊員は実戦経験者ばかりだが、先日組まされたばかりのメンバーなので、念を入れるに越したことはない。大きなロケットランチャーを重そうに抱えていく龍を見送って、茨木たちの二機の龍は山並みを盾に進軍を開始した。


*   *   *   *   *


「ここは外れか」

 茨木が到着地点で漏らした呟(つぶや)きは、彼自身、ある程度予想していたものだった。敵の戦車を恐れ、大きく迂回して敵の前線拠点に着いたとき、そこはすでに友軍の歩兵中隊によって制圧されていたのだ。大きな戦闘があった痕跡もなく、ここが探していた拠点ではないことを茨木は悟る。砲撃に反撃がないのも当然だった。

「残念です、大尉。シベリアでの借りを返したかったのですが」

 この作戦に召集されて再会したパイロット、乾大輔が口惜しさを吐露した。彼が最近、追い続けていた獲物を惜しくも逃したという話は、茨木も聞いている。

 啓示軍の新型輸送機フリューゲイル。ICBMを封じても、このフリューゲイル部隊が動いている限り、亜連の極東方面軍轄区までが空襲の危険に晒(さら)される。謎だったその航路のひとつを割り出した乾は、アルダン高原で待ち伏せを行ったが、不首尾に終わったという。しかし、今必要なのは慰めの言葉ではない。ここは戦場である。

「急くな、乾中尉。過剰な焦りはミスを生む。戦場でのミスは死に繋がる」

「はい」

 茨木の戒めに、乾は明朗に答えた。

 この明るい性格が、乾の長所だと茨木は思う。一ヵ月前、友軍の過半が脱落した戦場で、ひとりでも多くの仲間を助けるべく機兵でしんがりを務めた向こう見ずなパイロット。それが乾である。幾多の死を目の当たりにしてきながら、まだ彼が戦い続けられるのは、憎しみや闘志ではなく、明日への希望が見えているからだ。

 対して、自分はどうだろう。希望から目をそむけて何年になる。愚直に抗(あらが)う朋(とも)を笑い、現実主義者の皮をかぶって何年経った。ふと襲ってきた自問の刃に、茨木は身震いした。だがその内心の葛藤を表に出してはならない。茨木は、隊長としての役割に徹することで、脳裏に浮かぶ旧知の顔を追い払おうと考えた。

「わかっているな、乾。残された輸送ルートの割り出しは、決して楽ではない。地道に、そして確実に行くぞ。ダーダネルス作戦の成功は、我々の任務達成が必要条件であることを忘れるな」

「数十万の人間をひとつの生物の如(ごと)く動かす。それが肝でしたね」

「そうだ。だからこそ、すべての空襲ルートを封鎖し、脳である前線司令部への攻撃を完全に阻止しなければならない。たとえその所在がどこであっても、だ」

 乾に、というよりも自分に言い聞かせるつもりで、茨木は覚悟を口にした。



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 空路でタシケントに到着したのが、作戦標準時で十九日の二三〇四(ふたさんまるよん)時。

 作戦標準時というのは、グリニッジ標準時の代わりに亜細亜連邦軍で使うもので、単に基準となる緯度をその都度使い勝手のよいところに設定したものである。今回のダーダネルス作戦では東経七〇度線に作戦標準時が設定されているので、タシケントの現地時間とはほとんど誤差がない。戦場が東経六〇~七〇度あたりに収まっているからこその時間設定で、特に七〇度線の近くには兵站(へいたん)を支える重要拠点が多く、人為ミスを減らすためにもこのあたりでの時間誤差を小さくするのが有効なのである。

 前線まで五百キロほど離れているとは知っていても、闇夜のタシケントに降り立ったときにはさすがの江藤も身震いがした。この一ヵ月半で、かなり感覚が鈍ったということだろう。「脾肉の嘆」の故事とは少々違うが、思わず溜め息が出た。

ゴン太が心配か?」

 北嶋が溜め息の意味を勘違いしたようで、別の心配事をわざわざ思い出させてくれた。

アデタバ・ヨシダに預けたんだ。大丈夫だろう」

 自分に言い聞かせて、江藤は四十数人の統率に専念しようとした。危険度は低いとはいえ、この基地の忙しさは殺人的だ。殺気立っている兵士もいるので、極東方面軍のぼんぼん大隊が通路でぐずぐずしていようものならもめ事になる。そうなる前に、指定された場所まで移動しなければならない。

 せっかく再会したゴン太をまた人に預けてきたのは、もちろんこれから先、こっそり狼を預かってくれる親切な場所など期待できないからだ。もちろん安全性も期待できない。アデタバ・ヨシダという知己を得たいま、新青海(チンハイ)基地はゴン太を置いておくのに最も適した場所となった。ヨシダは難色を示したが、「労働一号の件も含めて借りは通常の三倍にして返す」という江藤の言質(げんち)を取ったうえで承諾してくれた。

 江藤は二十人ほどの部下を連れて貨物置き場に向かった。そこには、基地の乗俑機が運び出してくれた龍や機兵用トレーラーが待っており、それをトラックと連結したり自走させたりして基地から外に出す。江藤も自ら龍に乗り込んだ。

竜時、暗いから足下に注意しろよ。おまえを信用して俺たちはついて行くんだから、障害物とのクリアランスを大きく取って進め。マスディフューザの作用範囲も考えろよ」

 愛機のコクピットから、江藤は最前列を進む南田機に声をかけた。

「了解です」

 返事は緊張した声音だった。わかっているから声をかけるな、と言いたそうにも聞こえる。江藤は意地悪く笑ってやった。

 新青海で龍は増えたが、搬送車の不足はそのままだ。しかたなく四機を車列に混ぜて自走させているが、第一小隊としての連携の練習にはちょうどいい。

 基地の設備や貨物を踏んだり蹴飛ばしたりするといけないので、暗視カメラの映像と対物センサーを駆使しつつ、細やかな操作で龍を歩行させる。特に、先頭を行かせている南田は、足下ばかりでなく先の様子も見ながら進路を選択しなければならない。道路に出るまでにかなり神経が磨り減ることだろう。

「ま、教育はときに厳しくしないとな」

 江藤は送話スイッチを切ってからそう呟いた。

 気苦労もあるが、それはそれでいい。江藤は、黒龍隊隊長という身分に充足を覚えはじめている自分に気づいた。赤龍隊でも小隊長はやっていたが、いま自分の手の中にある力は、そのときの比ではない。議会の紐付きなのが癪に障らないでもないが、棚から出てきた牡丹餅(ぼたもち)の味に文句をつける気はない。

 思えば、ここまで来るのにずいぶんかかった。三十四という年齢から客観的に評価すれば、じゅうぶん順調な出世なのだろうが、これ以下のペースでは最終目的地に辿(たど)り着けるのかかなり怪しかった。ぎりぎり、というのが江藤の感想である。

 理不尽な命令に非常識な対抗手段をとってきた、悪あがきの十二年。本意に反する任務に、ときに正面から、ときに裏から抗って、転属命令をくらい続けた十二年。その間、亜細亜連邦の各地の現状をつぶさに見て回り、また、軍内部に名を広められたのは良かったが、その生活は落胆の連続でもあった。

 これまでの人生の三分の一を無駄に費やしたと後悔はしたくない。江藤はそう思う。過去、すなわち経験は糧(かて)だ。それを活かすも殺すもこれからの自分次第なのだ。ようやく軍内の重要ポストに就いた今、道は拓けたといっていい。まだ新しい地盤を固めるので手一杯だが、目の前に拓けた道が、士官学校時代に追い求めたものであることは間違いない。

「だが江藤、おまえは急ぎすぎだ。勝手に他人を巻き込むな」

 頭蓋のなかでその言葉が響いた。

「性急に過ぎる、か。そうかもしれん。だが、おまえの進む道では遅すぎるのも確かだぞ。茨木」

 江藤は十二年間保留してきた反駁(はんばく)を、ようやく口にすることができた。



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 先発していた北嶋は、江藤との合流予定地点で新戦力の受領を済ませていた。

 支給されたのは、隊員の身の回りの物に加えて、二二式機兵搬送車乙型「ヤドカリ」三輛、電源車、それから龍のオプション装備や補給物資である。これで龍の移送と整備、充電にはじゅうぶんな態勢が約束された。ディハン将軍の言葉が真実だったと知った北嶋は、さらに遅れて届けられた代物を見て、間抜けな声を出して驚くことになった。届けられたのは、新品の一八式情報化装甲車二輛である。

 北嶋は矢俣たち数人を引き連れて、その一八式情報化装甲車の車内に足を踏み入れた。戦車などに比べるとずっと広く、人が前傾姿勢で歩きまわる隙間がある。入るのは皆初めてで、聞きしに勝る豪勢さに感動してあちらこちらを触りまくった。

 この一八式情報化装甲車を知らない陸軍士官は相当のもぐりである。地上用レーダーセンサーや光通信装置、そして変則領域内での機能を保証するためのBFG(バルムンクフィールドジェネレータ)が備わっており、それをEPU(エクスペクトプロセッサ)の前身とも言うべき高性能コンピュータで管理している。この車輛の実用化によって、戦場の情報化におけるNATO諸国との格差が一気に縮んだのだから、自走コンピュータという俗名で持て囃(はや)されるのも当然だった。略すのが好きな日本人の間では「ジソコン」などという馬鹿みたいな名前で呼ばれているが、性能と調達費は莫迦にならないものだ。

 今回受領したものは特に機兵部隊用に改修を施したものだそうで、これで他部隊との連携や、機兵パイロットの情報面でのバックアップが可能となった。ハードウェアの観点から言えば、そうなのだった。

「しかしこれ、誰が操作するんですか」

 矢俣が管制システムの操作盤を見下ろして、首をかしげている。マニュアルは添付されているが、普通なら一ヵ月の習熟期間が取られるのだから、整備班員が使いこなすのは容易ではないだろう。

「運転はできるけどな」

 運転席のほうから夏明仁(シャー・ミンレン)の声がした。姿は見えない。しかしそれは夏が小柄であるからではなく、運転席はこの管制室と仕切られているからだ。連絡用の窓を閉めてしまえば、完全に遮断される。そうなっているのは、コンピュータを積んだ管制室の温度管理が非常に重要だからで、もし運転手が暑さ寒さに悲鳴を上げていても、管制室の面々は涼しい顔でいることになる。

 夏は連絡窓のところに顔を覗(のぞ)かせ、北嶋にある提案をした。

「策敵や通信の担当は決めておいたほうが良いのではないですか?」

 それは実にもっともな意見だった。運転なら誰でも一通りできるが、他の役目はそうはいかない。数人に集中的に学ばせたほうが効率的だ。

「そうだな。江藤と合流したら決めるとしよう」

 北嶋はそう答えながら、頭では別の問題を考えていた。厚木以来、江藤や自分を狙っている怪しい連中のことである。情報部の若者が危惧していたように、呂孝明(ル・シャオミン)らが戦略軍内部の造反者だったとしても、それなりのバックボーンがなければ高速連絡機のジャックなどできるわけがない。とすれば、実行犯にだけ注意していても用心が足りない。いったいどの勢力が黒龍隊の邪魔をして得をするというのか。

 北嶋は今朝、その疑問を新参隊員に尋ねてみた。すると、自称正義のスパイ周富窪(チョウ・フーワー)の返答はこうであった。

「調べてみたところ、大きな可能性は三つですね。北嶋の旦那」

 三日月形の目に見上げられ、そのとき北嶋は少々たじろいでしまった。特に旦那と呼ぶときのねっとりした感覚には、南田が「越後屋、越後屋」と呼ぶのも頷けるものがあった。

「中央議会に不満を持っている元老院派か、世間がそう思うのを逆手にとって元老院派を陥れようとしている議会派か。あるいは、一年前に崩壊した軍閥派の残党ですね。連中が再度ちょっかいを出してきたら、そのときは自分が正体を暴いてみせますよ」

 そう豪語した周富窪は、もうひとつ尋ねようとした北嶋が口を開くより早く、急ぎ立ち去った。なんでも、整備機材の扱いを矢俣たちに習いにいくということだった。

 最初は心配していたのだが、周富窪は話に入るのが上手いらしく、妖気を煙たがる隊員たちとも早々にコミュニケーション術を確立してしまったようだ。矢俣に整備機材の扱いを習うというのは、単にコミュニケーションのためだけではなく、実際に黒龍隊一員としてやっていくに当たって知っておくべき事柄だと判断した結果だろう。防諜任務があるとはいっても、彼がある派閥から送り込まれたスパイだということは伏せてあるので、彼もおおっぴらに主任務に没頭するわけにはいかないのだ。まったく気苦労の多い仕事だと、北嶋は感心してやまない。

 しかし、いったい周富窪という男はどれほど信用できるのか。北嶋はまだそれを見極めかねていた。彼の持ってきた情報は戦略軍の機密事項だったが、あれがでっちあげの偽物だとしても自分たちには確認のしようがない。今朝訊(たず)ねる機会を逸したのは「君はその三つのうちどこに属しているんだい?」という質問だった。

 それでも江藤は彼の話をおおかた信じたようだ。江藤は例の士官食堂でその理由を理論的に説明してみせた。曰(いわ)く、呂孝明らの勢力が黒龍隊のダーダネルス作戦参加を阻もうとしたことからして、それと敵対する周富窪は議会のタカ派勢力あたりの回し者だろう、と。

 彼が議会派の間者なら、つまり、黒龍隊の行動が議会派の不利益に繋がらぬよう監視を寄越したということだ。江藤はもともと派閥と縁のない人間で、黒龍隊隊長に取り立ててもらったことを除けば、議会には一切の恩も義理もない。その抜擢(ばってき)に関しても、早く黒龍隊を編成させたかった議会が、横槍を回避するために無派閥の人物を選んだだけのことなので、江藤はまったくありがたみなど感じていなかった。そんな江藤が隊長であるから、黒龍隊創設を推進した人々は、黒龍隊がよその子飼いになってしまわないように手を講じたというわけだ。

 やはり本人に聞いてみようか。北嶋はそう思ったが、すぐにその案を打ち消した。よほどの事がない限り、潜入工作員の類が所属を明らかにすることはないだろう。

 今はそんなことより、龍の塗装の手筈(てはず)を考えなければならない。行動秘匿(ひとく)のため途中のオアシス都市に寄り道できないから、西フェルガナ基地で順次塗装するか。北嶋はぼんやりと構想を練り始めた。だが、家族宛(あて)の手紙に書き忘れたことばかりが頭にちらついて、結局まともに計画など立たなかった。



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 タシケントから南西に延びた幹線道路は、意外と快適だった。高校で覚えた世界史の知識がまだ腐っていないなら、たしかここはかつてのシルクロードのはずだ。そうは思い至っても、旧時代の商人たちの旅路に想いを馳(は)せるでもなく、南田はただ、車窓から闇夜の砂漠を眺めていた。

 目的地の西フェルガナ基地までは、距離にしておよそ二百キロ。夜通し走って基地を目指すのだが、到着は明日の夜明け頃になる。というのも、黒龍隊の行動を秘匿するためだとかで妙な回り道を指示されており、さらに途中からは整備されていない道を行くことになるので、多めに時間がかかるのだ。

 運転のシフトが自分に回って来る頃にはそのガタガタ道に差し掛かっているだろう。となればその前に安眠しておくべきだと南田は考えたのだが、タシケントに来るまでの飛行機で仮眠を取ったせいか、眠くはなかった。

「起きてるのか?」

 反対側の窓側、運転席から南田に声がかかった。南田が窓に額を預けたまま頷くと、坂元唯史はまた質問を寄越した。

「不服なのか?」

 その問いが唐突だったので、南田は坂元のほうをふりかえった。

「不服?」

「編成のこととか、あるいは形だけの作戦参加のこととか。何かなきゃ、そんなにテンション低くはないだろ?」

 言いつつ、坂元は片手をハンドルから胸ポケットに移し、煙草を取り出した。

「やるか?」

 坂元流の気の使い方だとわかったが、南田は坂元の右腕を追い返した。

「そういうのは、だいぶ前にやめた」

「だいぶ前って……。そんな年かよ?」

「十五で隠れて吸ってたら、弟が真似してな。それでおふくろにばれて、叱られるより泣かれたよ。じいさんが喉頭癌で死んだのはその半年後だった。俺もその葬式以来、吸いたくなくなった」

 南田は、まだ皺(しわ)の少なかった時分の母の泣き顔を思い出し、目を細めた。

「そうか」

 坂元がめいっぱい右に伸ばしていた腕を引っ込め、自分の口に一本咥(くわ)えるかに見えたが、結局そのまま箱をポケットに戻した。

「こぼす愚痴があるなら、聞いてやってもいいぞ」

 坂元が声を低くしてそう言った。顔が笑っているところを見るに、江藤の口真似のつもりだろう。たしかに、あの隊長ならそう言いそうだと南田は思った。

「愚痴とはちょっと違うが、せっかくだから聞いてもらおうか」

 南田は再び窓に上体を向けてから、そう答えた。横に四人並べる機兵搬送車だが、今は南田の隣の峰國(フェングォ)が寝入っていて、坂元の隣と後部座席は空席である。峰國は叩くかバナナの話でもしないことには起き出さないので、坂元との会話に気兼ねは必要なかった。

「坂元、実を言うと俺は、ほっとしているんだよ」

「ほっとした?」

「ああ。厚木で襲撃犯の何人かが死んだ。それで急に怖くなった。人を殺すことが、仲間が死ぬことが、そして自分も例外でないってことが、怖くなったんだ。いや、違うな。前からそういう気持ちはあったんだ。ただ、それが表に出ていなかっただけだ。やっとそれに気づいた」

「それは違うんじゃないのか? あいつらは俺たちを襲った。ふりかかる火の粉は払う。ただそれだけのことだろう。啓示軍(オフェンバーレナ)が亜連を侵略している以上、俺たち軍人には奴らと戦う義務がある。そりゃ、命のやり取りをするのは俺も怖いが、俺たちがただ何もせずにいたら、啓示軍は日本まで攻めて来るんだぞ? そうしたら俺たちや俺たちの家族が死ぬ。それが嫌だから、士官学校を辞めずに軍に入ったんじゃないのか? 少なくとも、俺はそうだし、鷹山も同じ事を言っていた。おまえだって同じものだと思っていたんだけどな」

「俺は……」

 南田は口ごもった。

 坂元の語る論理が、自分の中に無かったわけではない。だが、それは言い訳として存在していただけではないのか。自分の才能で最大限稼げる職業と思って軍人になることを決め、なかでも給料のいい幹部候補生を目指したわけだが、結局それは自分をできるだけ安全なところに置いておきたかったゆえの選択ではないのか。

 湧き起こる自問に、南田は心の中で否と叫んだ。あえて機兵パイロットの養成課程を選んだのは、自分に適性があるのなら、それを役立ててみたいと思ったからだ。それは生半可の決意ではない。外廓聯の戦果が知れ渡っている今でこそ、機兵は戦場の新たな花形として扱われているが、半年前は事情が違った。機兵はまだ得体の知れない新兵器で、特に変則領域内で使うための兵器だから、いつどんな事故に遭うかわからない。いっぽうで、啓示軍の機兵に苦しめられてきた亜細亜連邦軍にとって、龍が期待の星であることにかわりはなく、機兵パイロットの道を選ぶということは、すなわち、身を取り囲む危険と肩にのしかかる重責の双方と闘っていくことだった。

 決意は立派だった。だがそれは不用意な決意ではなかったのか。機兵は紛れもない戦闘兵器である。それに乗るということは、殺人を仕事として請け負うという意味を併せ持つ。普通の幹部候補生でいれば、かなりの確率で、直接引き金を引かなくて済むところに行けたのは間違いない。わざわざその道を捨てて、機兵パイロットの道を選んだ。自分はそれに本当の意味で自覚的ではなかったのではないかと、南田は結局、その点に関して答えが見つからなかった。

 気づけば南田は一分以上沈黙を続けていた。坂元はじっと先行車輛のテールライトを見つめてハンドルを握っている。何か言わなければと思ったが、口を開けば自分への安っぽい弁護を語ってしまいそうで、それはためらわれた。

「俺はね」

 そう沈黙を破ったのは、南田ではなかった。座席が揺れ、南田より若干高い位置に顔がせり出てくる。

「俺は入隊を条件に生活保護と奨学金もらってたから。他に考えることはなかったよ」

「峰國、起きてたのか」

 坂元が驚いて言った。南田も、てっきり熟睡しているものと思っていた。

「今起きた」

 そう言うわりには、峰國は歯を見せて笑ってみせるほど意識を覚醒させていた。

「悪い、起こしたか」

「いや、もとからよく眠れなかったんだ。カフェオレを飲まないとよく眠れないみたい」

「カフェイン摂取したら普通は眠くなくなるだろ」

「ああ、なんだか巷ではそうらしいね。――今何時?」

 峰國は目をこすりながら、坂元に時刻を尋ねる。

「〇一四一。作戦標準時でな。――峰國、機兵のパイロットを選んだのはどうしてなんだ?」

「俺のところは志願制じゃなくて、勝手に編入されたから。理由なんてないよ」

 峰國はさらりとそう答えた。たしかに、孤児だった彼には、東部方面軍の出世街道から敢(あ)えて乗り換える選択肢などなかったのだろう。この男にも笑顔の下に隠した野心があるのだろうか。

「今更こんなことで悩むのは、俺が甘ちゃんだってことか」

 南田は窓を少し開け、外の空気を入れた。流れ込む冬の空気が乾いた髪を揺らし、顔を冷やす。少し落ち着いた。だが、微量に混じった排ガスが、南田に完全な安息を与えはしなかった。



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 盗聴していた会話に江藤が異変を察知したのは、そろそろヘッドホンを外して仮眠を取ろうと思ったときのことだった。

「ん、おい今のって」

「誰も唸(うな)ってないよな?」

 南田と坂元の声だ。李峰國が景気づけに何か冗談でもやっているのかと、最初はそう思ったが、現場の空気は少々それと異なるようだった。

「おい、その袋だ。見てみろよ」

「あ、それ、俺の雑嚢(ざつのう)」

「おまえはいったい何を入れてるんだ」

「バナナを隠しているのは秘密だよ」

「おまえの食うバナナは袋の中でひとりでに動くのかよ。竜時、開けてみろ」

 そこで一旦会話は途切れ、ひとしきり物音がしてから、やがて三人が一斉に同じ単語を発した。

「ゴン太!」

 江藤は驚きのあまり天井に頭をぶつけてしまった。

 ゴン太は、新青海基地を発つ前にアデタバ・ヨシダに預けてきたはず。それが何故、部下らの会話していた機兵搬送車にいるのか。それも李峰國の雑嚢の中などに。

「峰國、ゴン太を拉致監禁していたのか。てっきり少佐がどこかに預けたのかと思っていたのに」

「違うよ、ゴン太が密航したんだ。俺は何も……。ああ、俺のバナナが半分以上なくなってる!」

 なるほどそういうことか。幼いながらも知性溢れるゴン太なら可能だろう。江藤はゴン太を今すぐにでも撫(な)で回してやりたい衝動に駆られながら、しかしもっと場所を選んで密航してくれ、とも思った。

 ほどなく、江藤は隊長の権限を私用し、黒龍隊の車列は予定より早い休憩を取ることになった。江藤と北嶋、それに南田たち発見者三人の計五人は、会議と称して一台の車に集まり、他の者を締め出した。幸いなことにちょうど藤居が仮眠中だったので、緊急の幹部会議だという江藤の出まかせは、ずいぶんと信憑性を帯びた嘘になった。

「少佐が潜ませたのではなかったのですか?」

 人払いを入念に確認したのち、南田がそう口火を切った。

「俺はそんなことしとらんぞ」

 江藤は膝に抱いたゴン太を撫でながら、憤然とした顔を部下に向けた。かわいい愛狼を戦場に連れて行くわけがない、と、きつく付け加える。

「峰國、おまえ本当に無実だな?」

「も、もちろんであります、サー」

 峰國の慌てぶりは演技なのだか地なのだかわからない。しかし皮だけになった相当数のバナナを見れば、峰國も被害者であることに間違いない。南田のその弁護は、江藤の推測とも一致した。

「するとつまり、ゴン太くんはヨシダ少佐のところから逃げ出して、こっそり峰國くんの雑嚢に入りこんだのか。困ったものだ。どうするんだ、江藤」

 北嶋が眠たそうな顔で江藤を見る。眠気を纏(まと)った北嶋の顔は、ときとして怒った北嶋のそれより怖い。江藤はそちらと目を合わせないようにゴン太を見下ろしながら、考えるのも面倒になってこう言った。

「タシケントで発見されれば、まだどこかに預けようもあっただろうが……。今となっては、連れて行くしかあるまい」

「まずくないですか?」

 坂元が予想通りの反応を示した。

「ここで捨てて行くわけにはいかないだろうが」

 睨(にら)みつけると坂元は押し黙ったが、今度は北嶋が難色を示した。

「司令部の目に入ると、何かと問題だろう。中央議会にも迷惑がかかる」

「俺は議会への慈善活動で軍人をやっているわけじゃない」

「しかし、おまえの立場だって悪くなるぞ」

「それはそうだが、なんとかする。人目につかないように隠せばいい。五十人近くいるんだからそれくらいできるだろう」

 そう言ったものの、江藤は自分でも自信がなかった。好奇心旺盛で活動意欲満々のゴン太を、他の部隊の目から本当に隠しきれるだろうか。いつまで司令部防衛任務が続くかわからず、しかも前線への投入も視野に入れられているという状況は、ゴン太の同行に関して極めて不都合だった。それを考慮すれば、四人が諸手(もろて)を上げて賛成してくれないのも当然である。

「クーン」

 揉めている雰囲気を感じ取って不安になったのか、ゴン太が鳴いた。最初に拾ったときと同じ声だった。江藤はゴン太を胸に抱きしめると、四人に向かって頭を下げた。

「頼む。ゴン太を連れて行かせてくれ」

 本気でこの姿勢をとるのはずいぶんと久しぶりだった。

 しばしの沈黙の後、「しょうがないな」と北嶋が呟き、あとの三人も今更反対はできないと腹をくくってくれた。江藤は日本に帰ったら全員に食事を奢ってやると約束し、峰國はそれを証文にして残した。


*   *   *   *   *


 緊急対策会議を終えた江藤は、ゴン太を懐に隠すと、人目を引かないように注意しつつ車を降りた。他の連中が解散してから数分。車のライト以外に灯りがないこともあって、もう人の目はない。

 江藤はそのままその車輛の脇に沿って少し歩き、荷台前方部分に手をかけた。機兵搬送車は車高が高い。夜の闇の中で手がかりと足場を見つけるのに少々苦労したが、背があるので登ること自体は楽だ。詳細を語ると、腹がつっかえないように気をつけねばならないのだが、それはこの体格と付き合いの長い江藤にとって日常茶飯事である。ゴン太が間に挟まってつぶれないように、という点にだけ注意を払えばよい。

 無様な光景を夜の闇に隠してもらった江藤は、登った所で正面にある狭い隙間を覗き込んだ。姿こそ見えないが、案の定、そこには人の気配があった。

「富窪。出て来い」

「へい」

 そばに寄って来た周富窪は、やはり悪徳商人の笑みをたたえていた。その腕を掴(つか)んで隙間から引っ張り出すと、江藤は引き寄せた富窪の耳元に囁きかける。

「聞いていたな」

「はい。音だけは」

「内容はわかったか」

「おおよそ。旦那の意外な一面を拝聴しました」

 臆面もなく富窪がにやついているのが、他の車の灯りに照らされて見えた。江藤は掴んでいた富窪の胸倉を放り投げて地面に叩き落そうかとも思ったが、今しがた人に頭を下げたところだったので、手荒な真似をするのは憚られた。江藤は富窪をゆっくりと地面に下ろすと、自分も荷台から飛び降りる。

「おい富窪、ひとつ尋ねるが、おまえは防諜任務で来たんだよな」

 退散しようとする富窪の襟首を掴みながら、江藤はそう尋ねた。富窪は逃げられないことを悟り、早々に観念して江藤のほうに向き直った。

「へい。その通りで」

 何か嫌な予感がしたのだろう。富窪は少々うろたえた声を出した。今度は江藤がにやつく番だった。

「ではゴン太を他部隊の目から守る任務をおまえに課す」

「は、はい?」

 期待通りの反応。江藤は意趣返しに成功した。鳩が豆鉄砲を食らったような顔を捕まえて、さらに追い打ちをかける。

「立派な防諜だろう。俺からの至上命題と心得ろ」

「それはそうですが、ゴン太って、犬コロですよね。犬のお守りなんてしていたら本来の任務に支障が……痛いっ!」

 唐突に江藤の頭突きを食らった富窪が、大いによろけた。

「犬コロとは失敬な。ゴン太は犬じゃない。狼だ」

「わ、わかりやした、旦那。ゴン太坊ちゃんですね」

 富窪が涙声になる。しかし、江藤はそれが絶対に演技に違いないと確信し、一切疑う気がなかった。それよりもゴン太坊ちゃんという言葉の響きが気に入った江藤は、富窪を放っておいて、懐からゴン太を出して話しかけた。

「ゴン太坊ちゃん、か。うむ、なかなか良い呼び方だな。よーし、いいか、ゴン太。この妖怪は見かけによらず良い妖怪でな、おまえの面倒を見てくれる。だから噛み付いちゃいかんぞ。噛み付くなら峰國で我慢しろ」

「アウ」

 いくぶん眠そうにゴン太が返事をした。

「待ってください旦那。まだお引き受けしたわけではありませんよ」

 富窪が慌てて口を挟む。

「文句があるというのか」

「勘弁願いますよ。ただでさえ旦那は危険な身の上なんですから、あっしはそっちの対応で手一杯です」

「なに、そう気負うことはない。仮に、西フェルガナ基地におまえのいう軍閥派残党が潜り込んでいたとしても、基地でどうこうされることはあるまい」

「北嶋大尉の話じゃ、新青海でもそんなこと言ってたそうですが?」

 そこを突かれると痛い。江藤は反撃の言葉が見つからず息を飲み下した。

「ぬう、わかった。ゴン太の世話は整備班に手伝ってもらってもいい。だが、基本的にはおまえの役目だ。ろくに水先案内もできないのが露見するのも、それでかなり防げるだろう。わかっていると思うが、俺が密偵を飼っているなどと、あいつらに勘付かれるわけにはいかん」

「へい、それは承知しております。では、あっしはこれにて失礼を」

 言うが早いか、富窪は足音も立てずに走り去った。



- 6 -


 数度の休憩を挟みながら道を往くうちに、やがて夜は明けた。明かりがなくとも見渡せるようになった大地に、道路やビルといった人工物などは見当たらない。ただ、ひとつの例外を除いて。

「これが西フェルガナ基地とやらか」

 なにもこんな場所に基地を作らなくても良いだろうに。連隊長の身分となってそれなりに「偉く」なった江藤だが、やはりお偉方の考えることは理解不能だと思った。

 江藤の眼前には直径一キロメートル近いクレーターがあった。日はまだ低く、クレーターの底部はまだ薄い影が残っているが、江藤たちの立っている高台からはクレーターの全景がよく見渡せた。そのクレーターのまさに中央に、西フェルガナ基地の主要施設が建っている。奇想天外という形容がまず浮かんだが、あることに気づいて江藤は呆(あき)れるのをやめた。

 クレーターの南西から南にかけての部分が、不自然に隆起している。変則現象の一端と見做(みな)されている不自然な地殻運動。八月の悪夢から数年のうちは珍しくなかった現象だ。最近ではなりを潜めているが、中央アジアで確認された異常地殻変動はかなりの数にのぼるという話だ。このクレーターはもしかすると……と、そこまで江藤が思考したとき、声がかかった。

「ここが前線基地なんですか? 猿之門より小さいように見えますが……」

 ふりかえると、南田が不思議そうな顔をしていた。一大反攻作戦の司令塔と聞いて、よほどたいそうな施設を想像していたのだろう。

「施設は一級のものが揃っているだろうが、そのぶん人手は少なくていい。生活の規模としては小さいのだ」

「なるほど。そもそもここは秘密基地でしたね」

「そういうことだ。あんまりたくさん人がいると。食い扶持(ぶち)をごまかすのも大変になる。――ん、とすると俺たちは中には泊めてもらえないのかな」

 江藤が快適な寝床の心配を始めたところ、南田のさらに後ろの搬送車から、藤居の呼ぶ声がした。やっと司令部から返事があったらしい。

 搬送車まで戻った江藤は、藤居から無線機を受け取った。向こうの言葉は軍用英語だった。通信士に日本語のできる人間くらい用意してくれと思ったが、厚木以来の慌しい移動経緯を考えると、ここにそんな要員を準備する暇はなかっただろうと納得する。

「我々にどこに陣取れと?」

 通話を終え、無線機をフックに戻した江藤に、藤居が尋ねてきた。

「クレーターの東に大きな倉庫があるから、そこへ行けとさ。藤居、あとのことは北嶋とおまえに任せるぞ。ちょいと野暮用ができた」

 江藤は藤居の肩に手を置いて、にんまり笑った。

「どちらに?」

「防衛部隊の司令官殿にお呼ばれしたんでな。ちょっと行って来る。――おーい、竜時、出かけるぞ。運転しろ」

 怪訝(けげん)な顔の藤居をあとに残し、億劫(おっくう)な顔の南田を捕まえて、江藤は小ぶりの装甲車輛で基地中央へと向かった。


*   *   *   *   *


「私がこの基地の防衛指揮を任されている、安超備(アン・チャオベイ)中佐だ」

 そう名乗った目の細い中国人将校は、江藤の事前イメージとずいぶん違っていた。新青海基地のディハン将軍を若くしたような将校だろうと江藤は勝手に決め込んでいたのだが、安超備という男には下腹の贅肉もなければ照りかえる額もなく、威厳を感じさせるようないかつさもない。少々メイクを施せば二十代といっても通じそうである。特筆すべきは人の良さそうな顔つきで、これは広報向きのあつらえだと江藤は思った。一大反攻作戦の秘密前線司令部で、防衛隊を指揮するような人間には見えない。

「黒龍隊隊長、江藤博照少佐であります」

 やっと略式的に返事をしたのは、後ろに控える南田に小声で呼びかけられてからのことだった。逡巡と表現するには、江藤の戸惑いは少し長すぎたわけだが、それでも、安は社交的な笑みを絶やさない。一波瀾起こすつもりで来た江藤は拍子抜けするしかなかった。

 軍に名を響かせつつある江藤博照が、こんなところで手玉に取られるわけにはいかない。そう思った江藤は、がちがちに緊張した南田が英語でつっかえながら名乗りを上げている間に、崩されたペースの応急修理にとりかかった。なんとか名乗り終えて安堵した南田が、大きすぎる吐息を漏らした直後には、もう準備万端である。自己紹介を終えて、安が席を勧めるその直前に、江藤はさっさと椅子に腰掛けた。

 安超備もさすがに呆気にとられたとみえたが、特に気分を害した様子も見せず、彼以上に呆れて立ち尽くしていた南田に席を勧めると、自分も江藤に続いて腰掛けた。丈の低いガラステーブルを挟んで、標準的な体格の安と巨漢の江藤が向かい合う。普通なら安が萎縮するところだが、やはりそうはならなかった。なるほどこれは大事を任されるだけの人物かもしれないと、江藤は納得する。

 少し遅れて、遠慮がちに南田が席に加わったが、これはおまけのようなものである。むしろこんな新米丸出しの曹長など連れていては、黒龍隊が軽く見られるマイナス要因でさえある。それでも南田を連れてきたのは教育のためでもあり、なによりその程度の不利など問題にならないという江藤の自信がさせたことでもあった。しかし、こちらの同伴者の入室を認めながら自分はひとりだけで会うという安超備もなかなか侮れない。江藤は、彼の笑みの下に隠れる本性を垣間見ることに、この会談の最大目標を設定した。

「遠路はるばるご苦労。聞くところによると、諸君らの移動中を狙って不穏分子が策動していたようだが、ここではその心配はない。この西フェルガナ基地に派遣されているのは、すべて戦略軍が選び出した優秀な部隊だ。君らも、その例外とならないように期待している」

 見下ろされる視点位置にありながら、安の態度に気後れは見受けられない。今の発言の最後は普通皮肉と捉えるべき部分なのだが、素直にそういったとも思わせるのが、安超備の表情だった。

「自分も、ここでは妙な事件などありえないと期待しております」

 ぎこちない笑顔で相応に皮肉を返して、江藤は安の表情を窺(うかが)った。独特の笑みが、苦笑という分析しやすい表情に一瞬だけ変化する。何かを企んでいる人間は、だいたいこういうときにボロを出すものだが、安の表情の変化は極めて自然だった。裏で何も考えていないほど単純な男であるはずはないが、少なくとも、ここが安全だという話は信用できると江藤は判断した。もちろん、啓示軍に発見されれば別の意味での危険に晒されるわけだが。

「要件を手短に話そう。連絡事項が三つある。まずひとつは、防衛部隊の指揮と警戒網の監視はこの管制塔で一括して行うこと。そして二つ目は、移動指示を出した倉庫と、この管制塔を除いて、すべての施設への立ち入りを禁じるということ」

 安が言い出したその二つの点は、江藤語に翻訳するとこうなる。

「『議会の手先』である黒龍隊に司令部内部は見せられない」

 予想済みのことだったので、江藤は別に憤りなど感じなかった。むしろ、中心部から外れた倉庫に配置されたことで、懸案だったゴン太の存在隠蔽も容易になった。好都合である。

「了解であります。して、三つ目は?」

「臨時増員だよ。タシケントで装備の受領は済ませてあるな?」

「滞りなく。その運用人員ですか」

「そういうことだ。人数は六人。一八式情報化装甲車用の新鋭のスタッフだ」

「新米の、ですか?」

「たしかにそうだ。貴官の部下の多くと同様にな」

 そう言って、安は南田を一瞥(いちべつ)し、さらに言葉を重ねた。

「ここで古参兵を入れても、隊のまとまりが乱れるだけだろうと、上が配慮したのだよ。感謝しておいたほうがいい」

 これは思ったより手ごわい。江藤はそう手ごたえを感じ取ったが、まだ余裕があった。もっとやりにくい相手を上官に持ったこともある。それに比べれば安超備の舌など二流である。

「ところで、防衛部隊は他にもいると聞き及びましたが」

 江藤は基地に着いたときから気になっていた点を訊ねてみた。

「その通りだ。すでに周辺の防衛ラインに配置完了している」

「それで姿が見えんわけですか。で、我々は事態を見てから出動となるわけですか?」

「機兵とはそういう扱いをするべき兵器だ、と認識している。少佐の認識は異なるのかな?」

「いえ。意外と中佐は見識のある指揮官のようで、もっけの幸いであります。それでは、他に用件がないのでしたら自分はそろそろ失礼を。機兵をこの砂漠に合わせて模様替えしなければなりませんからな」

 そう言って、江藤は立ち上がる。遅れて南田が続こうとしたとき、安がそれを制止した。

「待ちたまえ。江藤少佐、土産(みやげ)を忘れているぞ? ――入れ」

 安の言葉に応じてドアが開き、部屋の人数が三人から九人に増加した。壁を背にして整列したその六人は、いま聞いたばかりの臨時増員に間違いない。状況的には間違いないのだが、それでも江藤は何かの間違いだとしか思えなかった。

「こ、これは」

 思わずあとずさった江藤は、そのまま椅子に膝を折られてへたり込んだ。



- 7 -


「あー、頭いてえ」

 防臭マスクをかなぐり捨てて、矢俣丞(じょう)は簡易ベッドにへたりこんだ。龍の塗装変更は実習でやったことがあるが、そのときより頭痛がひどい。実習では一機だけを塗装したところを、今は三機同時進行でやっているのだから、当然の結果ではある。しかも風に吹かれて異臭は流れてくれるし、そもそもこの寒さでは風に吹かれること自体が辛い。気分が悪くなってふらついていた矢俣は、北嶋の温情で早期休憩の処置を受け、こうして倉庫内の仮設寝台にいるのだった。

「まだ六機もあるのかよ。最後の三機にはまた駆り出されるんだろうなあ。参るよ、まったく」

 ぼやいてみても、反応があるはずはない。先刻黒龍隊の詰所となったばかりのこの倉庫は、幾つかの部屋に分けられていたが、矢俣が休んでいる仮設寝所には今、誰もいないのだ。整備班の半分は塗装作業、残り半分は新装備のお勉強。機兵パイロットのうち五人が龍の組立作業に従事しており、第三小隊の三人が組み立て済みの龍で待機。以上だとパイロットの勘定が合わないが、基地中央に出向いた江藤と南田が今どこで何をしているかなど、矢俣は知らない。きっと南田曹長は隊長の災禍を一身に引き受けてくれているのだろう、と、うずく頭の片隅で矢俣はそう思った。

 矢俣は少し眠ろうと、改めてベッドに横になった。棺桶に収められた故人のような姿勢でしばらく目をつぶってみたものの、眠気は来ない。眠ろうと思えば一日十八時間は眠れるはずだったが、倉庫の防音性能が低く、外でやっている龍の組立作業がうるさくて睡眠が阻害されているのだ。

 頭痛薬は効くだろうか。医療キットが搬送車のどれかに積んであるはずだ。それを思い出した矢俣は、後頭部を抱えながらよろよろとベッドから立ち上がると、頼りない足取りで仮設寝所を抜け出した。

 車を停めている所まで行くのは大した苦でなかったが、何台もある車を見ると、その中から医療キットを探し出すのがひどく大儀に感じられた。矢俣は誰かに手助けしてもらおうかと考えたが、近くに人気はない。塗装やら何やら仕事はたくさんあるのだから当然だ。

「矢俣、具合でも悪いのか?」

 諦めて手近の搬送車から探ろうと歩み寄ったとき、車の陰から偶然南田が現れた。江藤に連行されて基地中央に行ったはずだが、すでに戻っていたらしい。思っていたより悪い目にはあわなかったらしく、むしろ顔色が悪いのは自分のほうだろう。矢俣は見えないところで貧乏くじをひかされた気がした。

「塗装の臭いで、ちょっと頭痛です」

 矢俣が事情を簡単に付け加えると、南田は気の毒そうな顔をして、頭痛薬なら効き目はないだろうと言った。矢俣は南田が「休んでいれば直るさ」と続けるのかと思ったが、それは予想が外れた。

「矢俣、いいものを見せてやるよ」

 南田が悪童の笑みを浮かべる。しかし矢俣にピンと来ない。今朝ついたばかりのこの土地で、南田が先輩風を吹かせて案内するような場所があるだろうか。疑問はあったが、とりあえず矢俣は南田に着いて行くことにした。

 南田は車陣の反対側に向かって歩いていく。このまま行けば、タシケントで受領した一八式情報化装甲車、いわゆるジソコンが二輛並んでいるはずだ。そんなものは昨夜受領に立ち会った自分のほうがよほど詳しいのだが、いったい南田は何を見せようというのか。

 頭痛のせいであまり声を出す気にもならないので、矢俣はただ南田の背中だけ見て歩いていた。それで気づいたのだが、南田の足取りが、ここ最近で一番弾んでいるように見える。そんなに心弾むものを見物できるのか、それとも自分の頭がまだふらふらしているせいでそう見えるのか。矢俣がどっちだろうなと考えていると、もうジソコンの前に着いていた。

「静かに、覗くんだぞ」

 南田の注意に、わけのわからないまま矢俣は頷く。それから南田はジソコンの運転席にまわりこみ、大きな音を立てないようにそっとハッチを開けて、矢俣を手招きした。南田に倣って静かに運転席のハッチまで登ったところで、南田がこう耳打ちした。

「中に入って、後部区画を見てみな。ただし、向こうから気づかれないように気をつけろよ」

 南田が陽気に見えていたのは間違いではなかった。矢俣を運転席に押し込めようとする南田は、やはり何か面白いことを隠した顔をしている。

「え、え、なんですか? これ入ったら罠とかありませんよね?」

 江藤ならやりかねない。そう思った矢俣は、一応南田に尋ねてみた。

「バーカ。いいから入れよ。静かに、だぞ」

 背中を叩かれて、矢俣は首をかしげつつも、そっと運転席に下りた。運転席の照明はもちろんついていなかったが、後部区画との連絡用の小窓から、明かりが差し込んでいる。さらに会話らしい音も断続的に響く。後部区画に誰かがいるらしいが、声の判別まではつかない。矢俣はハンドルに背を向けて座席に膝立ちすると、小窓のほうに頭を寄せ、片目だけで後ろの小窓を覗き込んだ。

 最初に目に入ったのは北嶋だった。指揮用の椅子に座って、何かを見ている。その北嶋の視界に入らないように注意しながら、矢俣は身をよじらせて北嶋の視線の先を見た。管制システムのコンソールに、見慣れない隊員の姿がある。その隣の席にも、同様に見覚えのない人が座っている。顔は見えないが、そんなものは見るまでもない。服が違うのだ。

 いつの間にか頭痛など消えていた。南田の処方は正しかったらしい。今となっては目の前の正体不明の人々のほうがよほど気になる。矢俣はさらに体を曲げて、視野を移動する。すると、同じ服装の人間があと二人以上いることが確認できた。まだいるかもしれないが、これ以上は体が限界だった。柔軟体操を日課にしていればよかった、と矢俣は悔いた。

「だ、誰っすか、あれ!?」

 運転席の上部ハッチから車上に出ると同時に、矢俣は堪えきれずに少々大きな声を出してしまった。南田が慌てて口を塞ぐかと思ったが、見てみると車上に南田の姿がない。ともかく運転席のハッチを戻して地面に降りると、矢俣は南田の姿を探した。

 ジソコンの周囲をぐるりと一周してみたが、見つからない。さては車体の下かと思った矢俣が地面に這(は)いつくばり、舌打ちして再び立ち上がったとき、目の前に南田が立っていた。そう見えたが、実は立ってはいなかった。南田は、背後から首を締め上げられて、足が宙に浮いていた。

「え、江藤少佐、何を?」

 矢俣は南田を締め上げる背後の人物に尋ねた。

「懲罰だ。なぁ竜時?」

 江藤は南田の顔を背後から覗き込むが、江藤に締め上げられている南田は、とても返事をするどころではない。目を白黒させている。もっとも、もし江藤が本気で絞めているなら南田はとうに気絶しているだろうから、江藤はほとんど冗談でやっているのだろう。

「まったく、秘密にしておけといったのに」

 江藤はそう言うと、ようやく南田を解放した。地面に崩れ落ちた南田は、喉を押さえてゲホゲホと咳をする。さっきまでは矢俣が頭痛で苦しんでいたが、今度は矢俣が南田を気の毒がる番だった。

「あれはうちの追加人員だ」

 江藤は矢俣の言ったことを聞いていたらしく、質問するより先に矢俣の疑問に答えてくれた。

「で、でも、あの四人、みんな女ですよね? しかも若い!」

 矢俣はジソコンの中で見た四人の姿を思い起こす。制服が違うばかりではなく、四人はみな体の線が細く、丸みを帯びていた。男ばかりの環境に慣れていた矢俣には、そういうイレギュラーな特徴はすぐ見分けがついた。

「正確には六人だ」

「六人も!」

「おい、変な期待はするなよ。あくまで臨時増員。このまま正規隊員となるかは未定だ」

「そ、それでもじゅうぶんであります」

 矢俣は、実際にこぼれ出るまで自分の溜め息に気づかなかった。



- 8 -


 朝昼兼用の食事のときに集合をかけ、そのとき女性隊員六人を隊員全員の前で紹介した。北嶋と、南田や矢俣といった例外を除き、黒龍隊の大半は初めて彼女たちを見たことになる。彼らはひとりひとりが自己紹介するたびに拍手し、歓声を上げ、さらに臨時とはいえ黒龍隊の一員となるという話を江藤が付け加えると、怒涛(どとう)のスタンディングオベーションが起こった。

「正直な連中だな」

 集合を解いて自分も食事を受け取りながら、江藤は北嶋に言った。

「荒地に花、だよ。みんなの心がすさまずに済みそうで、なによりじゃないか」

 そう返す北嶋も笑顔だったが、それは心配事がひとつ減った安堵から来るものだろう。妻以外の女性にまったく目を惹かれない北嶋の性分は、とっくに解析済みである。加えて最近は子煩悩(ぼんのう)も併発している疑いがある。驚くほど温和な表情で食事を口に運ぶ北嶋には、きっと食卓を囲む妻子の幻像が見えているに違いない。そんな北嶋から視線を転じた江藤は、いやでも臨時増派の六人に目が行ってしまう自分に気づいた。

「やっぱ、俺は苦手だ」

 江藤は食事の味など感じないくらいに動揺していた。

 あまり人には話さないが、実は若い女性の相手が苦手である。決して嫌いではないが不得意なのである。子供のときから近所のおばさんには愛想よくできたが、クラスの女子に笑って話しかけようとすると、どうしても言動がぎこちなくなってしまった。それがなかなか克服できず、最近では、ひょっとすると自分は大いに青春を損したのではないかという気にもなっていた。

 だが、二十代のときに近衛軍統監部配属になり、女性事務官の多いそこでの勤務は江藤にそれなりに免疫をつけた。外廓聯左遷後に、数年ぶりにまた近衛軍統監部に配属されたが、そこで江藤はもう立派にやっていける自分を発見しもした。

 しかし、それでもやはり苦手だ。なんだって六人揃って二十歳から二十五歳の枠に入っているのだろうか。まだ自分と同じくらいの歳なら楽に対応もできるが、十年下の世代が六人もいっぺんに来られては降参だ。江藤は彼女たちの指導は北嶋に任せてしまおうと心に決めた。

「うかない顔ですね、旦那」

 いきなり耳元で妖怪が囁(ささや)いたので、反射的に江藤はその顔面に拳を叩き込んでいた。

「痛い、痛いですよ、旦那」

 周富窪が恨めしそうに呻く。

「いきなり耳元に現れるからだ。気配くらいは出しておけ」

「イエッサー。――おお、いててて」

 まだわざとらしく顔をさする富窪は、ゴン太を連れていなかった。すると諜報の帰りかと、江藤は察した。

「首尾は?」

「ぼちぼちです旦那。あの六人の素性を司令部のデータバンクから吸い上げてきました」

 不気味な笑い声を漏らしながら、富窪は自慢げに目を三日月形にした。江藤はもう一回殴ろうかとも思ったが、続きが聞きたいので我慢した。

「あれは戦略軍が勝手に選んだ人員ですね。あとで議会から文句のつかないように、手続き上はタシケントで臨時徴用したという形を取る予定のようです」

「何を調べてきたかと思えば、そのことか。おまえ、あれがスパイじゃないかと疑っているのか?」

 江藤は指で女子隊員らを指し示す。いつの間にか南田や坂元たちが寄り集まって、彼女たちを質問攻めにしていた。答えるほうの表情も緊張感がないから、普通に見ればどっちも新米の甘ちゃんである。

 富窪はその様子を見て苦笑したが、視線を江藤に戻して、まだ油断は禁物という顔を見せた。

「断定はしませんがね、可能性は考慮に入れています。事実、吸い取ったデータでは信頼性が足りないので、完璧に経歴の裏が取れたとは言えません。ですが少なくとも、オムスクで養成されていた機兵管制要員の一期生だというのは、真実でしょう」

「それくらいは実際に技能を見ればわかる。もっとおまえにしかできないことをして来い。さもなくば、おまえはゴン太の玩具だ」

「手厳しいですね、旦那。たとえばどんな情報をお望みで?」

「データバンクに侵入できるのなら、ここの食糧備蓄がどれくらいか調べられるか?」

「食糧備蓄を? 旦那、ここの備蓄まで食い荒らしちゃまずいっすよ」

「阿呆(あほう)が。ここの人員の規模がそれでわかるだろうが。近くに展開しているという防衛隊が全く姿を見せんのが、俺は気になっているんだ」

「ははぁ、それでですか、なるほど。ではそうですねぇ……。搬入の記録と実際の貯蔵庫を調査すれば、明日の朝には報告できると思います」

「そうか、では頼む」

「アイアイサー」

 敬礼したかと思うと、富窪は足早に消えた。やはり足音も消したうえでの所作である。

 あれがプロか、と江藤は少し感心した。



- 9 -


 昼食後、藤居以下の第二小隊に警戒待機の順番が回ってきた。

 考えてみれば、昼食の間は誰も当直についていなかったのだから、怠慢というか、油断なのではないかと藤居は思ったのだが、江藤は増員の女子隊員を全員の前で紹介することに重きを置いたらしかった。そんな気遣いに実際に価値があるのかは疑問符の付くところだが、藤居は江藤のそういう配慮やこだわりが嫌いではない。

 初めて会ったときは、その旧世代的な世話焼き精神に閉口したものだが、いったん慣れると気持ちのよいものだと藤居は知った。ただ、江藤の場合は空回りになることも多いのが欠点だ。善意のつもりで何かをやらかして、結果的に敵を作ることも少なくない。そんな江藤をバックアップするのが、この隊での自分の役目であり、もともとそのつもりで江藤が自分を黒龍隊に招いたのは間違いないだろう。

「ならば、期待に応える人間であれ」

 藤居は、江藤と並ぶもうひとりの恩人に言われた言葉を諳んじた。しかしその言葉は重い。隊長と部下のあいだの緩衝材になってくれといわれれば、板挟みの葛藤にも耐えるし、第二小隊を預けられれば、立派にその責務を果たす。期待に応えるとはそういうことだ。

 龍の駐機位置は倉庫からほとんど離れていない。小隊長の責任の重さに思いを巡らせているうちに、藤居はもう自分に割り当てられた龍防人型の前に立っていた。午前中に塗装を済まされ、灰色だった機体色はこのあたりの大地に似せた色に変更されている。

 このままこいつを使わずに済むのなら、それがいちばんいい。防人型を見上げて、藤居はそう思った。機兵での実戦経験がないのは、なにも南田たち新米隊員に限ったことではなく、主に治安対策に従事していた藤居も、実戦で機兵を使ったことはない。南田ほど情緒を乱していない自信はあるが、範を垂れるほどの余裕があるかと問われれば、否と答えるより他ない。ここに敵襲がある可能性はかなり低いという話だからこそ、うわべの平静を保っていられるに過ぎないのだ。

 万一実戦になったとき、こんな自分が、ほんとうに峰國たち小隊員の世話まで見られるのか。藤居はそれがいちばん心配だった。

「藤居さん、いくら睨みつけても龍は動かせませんよ」

 その声と同時に肩を叩かれるまで、藤居は峰國の接近に気づいていなかった。峰國の気安い挙措に、どう反応してよいか戸惑う。

「も、もしかして痔(じ)ですか?」

 峰國が妙な深読みをして、藤居が龍に乗らずに佇んでいた理由を推理してみせた。あまり突拍子もなかったので、藤居は思わずふき出した。そもそも、よく痔などという単語まで知っているものだ。

「おいおい。訓練生じゃあるまいし、いまさら痔にはならないよ。ちょっと考え事をしていただけさ」

 藤居は苦笑いでごまかすと、そそくさと龍に乗り込んだ。

 待機任務というのは、いつでも即時出動できるように、龍に乗り込んで待機しておくことである。つまり狭いコクピットに三時間座りっぱなしになるということに等しい。機兵の操縦は体力的に二時間が限界だが、オート歩行なら数時間、さらに座って待つだけなら十時間はもつとされている。とはいえひたすらに待つというのも辛いもので、できれば読書でもしたいところである。実際、江藤の話によれば、直接的に敵を察知する役目がなく、他からの警報を待つシチュエーションでは、読書や小隊員同士のおしゃべりくらいは慣用的に許容されるものらしい。かといって厚木への出張訓練に本など携帯してはいなかったので、やはり藤居は二時間の退屈を覚悟せねばならなかった。

 最初の三十分ほどは、周辺の地形データを電子地図で確認したり、友軍部隊の配置を調べたりして時間を潰せた。次に猿之門での戦術シミュレーションのデータを呼び出して復習など始めてみたが、自分の反省すべき点を探していると、その何倍もの他人のミスが目に入ってしまい、待機開始から一時間が経つより前にそれはやめてしまった。自分には人に教えられるほどの腕も経験もないが、現状では黒龍隊が実戦レベルに到達していないことだけは痛切にわかってしまう。どうせなら、現状の危うさにさえ気づかずにいたほうが幸せだったかもしれない。

 あと二時間と三分。藤居は正面モニターの右上の時計で、解放までの時間を確認した。次は龍用の新兵装のマニュアルでも読み直すか、と藤居は思い立ったが、その実行を妨(さまた)げるものがあった。滅多に聞くことのない、インターフォンによるコール音だ。

「こちら藤居」

 反射的にスイッチを入れた藤居は、名乗りながら、いったい誰がインターフォンなど使うのかと考えた。インターフォンの外部端末は龍の尻の周辺にあるから、今のように龍が座っている状態なら誰でも手が届く。龍のインターフォンの存在も機兵関連の職能を持つものなら常識として知っているが、通話を第三者に転送できないなど不便が多いので、緊急時以外は使わない代物だ。戦場でコクピットハッチが開かなくなったとき、救助に来た人間と通話するのに使う、というのが最もポピュラーな使い道だと聞いている。

 しかし、緊急の場合は通話スイッチを五秒間押すことで、コクピット側の受話スイッチを無視して通話を開始できるのだから、これは緊急の要件ではないらしい。そして藤居が呼び出しに答えたというのに、龍の尻のところにいる何者かはなかなか口を開かない。藤居はもう一度「こちら藤居」と言ってから、さらに十秒ほど待った。

「あのう、藤居准尉ですよね?」

 ようやく届いたのは、若い女の声だった。さきほど紹介のあった新顔のひとりだろう。

「こちら藤居。用件は?」

「もしもーし、これ、藤居准尉の龍ですよね」

 何かおかしい、と藤居は気づいた。どうやら、こちらからの声が外の端末に届いていないらしい。変換機が壊れているのか、マイクが壊れているのか。ともかく話が通じないので、藤居は龍の後方監視カメラを使って、外にいる人物の姿を確認した。

 やはりあの六人のひとりだった。そうわかったのは服のおかげで、顔や髪型を覚えていたわけではない。あの六人は黒龍隊で使っている個人通信端末をまだ支給されていないのだろうから、藤居への呼びかけにインターフォンを使った理由はこれで見当がついた。しかし、用件のほうはさっぱり不明のままである。他方、女の呼びかけはまだ続いていた。

 しかたなく、藤居はコクピットから出た。ワイヤーを使って地面に下りると、コクピットハッチの開いた音を聞きつけたらしく、外にいた女子隊員は龍の正面に回って来ていた。

「すまない、インターフォンが故障しているようだ」

 まず事情を一言で伝えてから、藤居は初めてその女子隊員を正面から見た。日本人女性としては標準的な体格で、鼻は低いが丸く大きな瞳が印象的な顔だった。

「君は、たしか」

 言いつつ、まだ名を思い出せない藤居は、それとなく彼女の左胸についた名札を見た。龍の足首近くに立っている彼女とは少々距離があったが、視力三.〇はこういうときに役立つ。

「円道紗耶軍曹であります」

 藤居が読み取るのと同時に届いたその声は、軍人調子が全く似合っていなかった。情報処理関連の部門では旧時代的な訓練はやらないから、ああいう独特の発声や抑揚が身についてないのだろう。あれを習得するのが軍人の義務とは藤居は考えていなかったが、付け焼刃でなんとか似せようとして失敗した円道に、思わず小さくふき出してしまった。

「――すまない。で、何か用かい?」

 円道の眉が不愉快そうにひそめられたのまで見えてしまった藤居は、慌てて謝罪してから、そもそもの疑問を尋ねた。

「ジソコンに搭載した、機兵の遠隔管制システムのテストをしておきたいんです」

 円道は小脇に抱えていたファイルを見せながら、ゆっくり近づいてくる。何か問題でもあるのか、困った顔をしている。

「機兵管制システム? 初耳だな、それは」

「普通のジソコンにはついていませんから。でもこの隊で使う二台には積んであるんです。試作機を調整した物ですけどね」

 円道はファイルを開いてもっと具体的に説明を始めようとしていたが、それより先に藤居は納得してしまった。コンピュータの操作は寧ろ得意なほうだが、理論的、技術的なことは苦手なのだ。詳細を聞かされてもチンプンカンプンなので、概要だけ聞いて頭のなかに放り込んでおくのが藤居のスタイルである。

「へえ。それで、俺は何をすればいいんだ?」

 快諾(かいだく)の意を示すと、円道は藤居の目論見どおりファイルを閉じてくれた。藤居が内心ほっとしていると、円道もほっとした表情を見せていたが、すぐにまた困った顔に戻った。

「その、なんていうか、テストの実施を許可してくれるよう、隊長に掛け合ってもらえませんか」

 言いにくそうに、円道はゆっくりと言葉を紡(つむ)いだ。

「許可を得ていないのか」

「えっと、はい。そうであります。私たちが思いついたことなので」

「専門家の言うことだ。話せば、許可は出してくれるだろう。少佐はいないのかい?」

 何が問題なのかわからない藤居は、思いついた唯一の障害を口にしてみたが、円道は首を横にふった。

「いえ、あのワンちゃんと一緒にいましたけど」

「ああ、ゴン太と。なら話してくるといい。今は機嫌がいいから」

「それができれば苦労はしません」

「なんだって?」

「あの、その、なんていうか、隊長って怖そうじゃないですか。だから声をかけづらくって」

 円道は懇願する目つきで藤居を見つめている。円道の抱えていた問題はそこだったか

 と、藤居は盲点をつかれた思いだった。藤居自身は、江藤を見て怖いと思うことがなくなっていたからだ。

 藤居は「そんなことじゃ軍人は務まらないぞ」と戒めようとしたが、その台詞は、喉でつっかえてUターンしてしまった。自分も、最初見たときはかなり怖かった。病院で包帯を巻いたところを見たものだから、よけいにヤクザっぽくて恐ろしかった覚えがある。

「困ったな。俺は警戒待機中だから、この龍から離れるわけにいかないんだ」

「でも、隣のパイロットの李さんには『藤居准尉に頼むといいよ』って」

 円道は藤居の隣に並んでいるもう一機の防人型を指差した。どうやら、まんまと峰國から厄介ごとを押し付けられたらしい。藤居はヘルメットの端末を使って、峰國と個人通話の回線を開いた。

「峰國、円道軍曹をよこしたのはおまえか」

「あ、ばれました?」

 峰國のひょうきんな反応は、かなり早かった。こちらをモニタリングしていたに違いない。その証拠に、レンズ越しに見える龍の左眼が、こちらを真正面に捉えている。

「軍曹から聞いた」

「なら頼みますよ、准尉」

「どうしておまえが行かなかったんだ」

「俺が出向いても、どうせ隊長はまともに取り合ってくれません。その間、この場は俺が責任をもって預かりますから」

「――わかった。サボるんじゃないぞ」

 戻ってきた元気な返事は最後まで聞かず、藤居は通話スイッチを切った。

「少佐はどこに?」

 藤居は円道を見てそう尋ねた。

「あ、私が案内します」

「そうか。じゃあ行こうか」

「はい。――あ、ありがとうございます」

 背後で峰國機の眼球カメラが動いていることを確信しながら、藤居は円道と並んで歩きはじめた。



- 10 -


 昼食の前は待機任務だった南田は、午後は塗装係となった。今塗っているのは、第一小隊の四機の龍のうち、標準型の二機。群山杜(ドゥ)が使う機体だ。もちろん当のふたりも南田や整備班員とともに作業している。

 こうしていると猿之門と変わらない。南田は龍の上腕にスプレーを噴きかけながら、そう思った。寝床は硬いし、食事も猿之門基地の食堂よりお粗末だが、猿之門でやらされていた訓練がなくなった分だけ体力的には楽でさえある。昨夜抱いていた不安や緊張は、もうほとんど消えていた。

「何も起きないな」

 龍の胸板の辺りを塗装していた杜洋伸(ヤンシェン)がそう呟いた。

「起きないほうがいい」

 即座に、誰かの声がする。

「そりゃそうだ」

 杜は笑ったようだった。気づけば南田もつられて笑っていた。前線司令部といっても、敵の砲火に晒されるような場所ではない。ただここにいるだけが任務なら、楽なものである。

 しばらくして作戦が軌道に乗れば、黒龍隊の戦場投入もありうる。江藤からはそう釘を刺されていたが、勝ち戦への加勢なら怖くはない。江藤と北嶋が行方不明のときに作戦発動を聞いたので、自分はそのときの気分を引きずって、気負いすぎていたのだ。南田は自分の取りこし苦労をふりかえり、坂元たちのように気楽に手柄のことだけ考えていれば良かったと、後悔する気持ちが沸き起こった。

「おい、あれ」

 龍の頭を担当していた富士本が、周囲の注意をひいた。南田が足場を上って富士本の様子を見ると、彼はスプレーを持ったままある方向を指差していた。

「いったい何が見えたって……」

 そこまでで、南田の口はしばし閉まることを忘れた。富士本が指し示した先で、藤居が女性隊員のひとりと歩いていた。

「わ、一大事だ。何か起こってるぞ」

「ああ、藤居准尉は意外と手が早いんだな」

「俺も負けちゃいらんねぇ」

 南田が呆気(あっけ)にとられているうちに、杜が足場を降りはじめた。南田は藤居が女子隊員に手を出したとは信じがたかったが、とにかく目の前の問題への対処を優先した。足場をいちいち下っていては間に合わないので、着地点を確認して、飛び降りる。

「こらこら、塗装が終わるまでお預けだ」

 ようやく足場を下り終わった杜の襟を、先回りした南田は難なく捕まえた。杜がなお逃げようとするので、脚を払って地面に転がす。

 視線を藤居に転じると、藤居は倉庫のそばで歩みを止めていた。女子隊員と並んで、誰かと話している。杜を連行しつつ位置を変えて様子を見てみれば、話の相手は江藤だった。

「洋伸、勘違いみたいだぜ」

 杜の首をそちらに向けてやると、杜は舌打ちしてうなだれた。どうやら杜は、藤居に先を越されたと憤ったのではなく、藤居のあとに続こうと思っただけらしい。

「ほら、自分で歩け。おまえ体でかいんだから」

 杜をせっつきながら龍の塗装に戻った南田は、自分が安心を覚えていることに気がついた。だが、それがいったい何に対する安心なのか、南田はよくわからなかった。



- 11 -


 太陽が地平線の向こうに身を隠して一時間ほど。

 夕食を手早く済ませた藤居は、ヘルメットなどの装備を見につけ、充電を終えた龍のもとへ向かった。脇に携えた小冊子は、さきほど円道がプリントアウトしたばかりの演習実施要領である。

 基地北面の射爆場を舞台に、第二小隊とジソコン一号車で機兵管制システムの運用演習を行う。それが江藤に相談した結果決められたことだった。基地の安中佐から実施許可が下りるまで時間を食ったので、実施時刻は一九二〇時にずれこんだものの、円道が実施要領の編集に手間取ったため、結果的にはちょうど良かった。

 藤居は龍を起動させ、射爆場に向かって歩かせはじめた。峰國と朝井もあとに続く。

 さらにそれに並走するのは、北嶋が指揮するジソコン一号車である。もっとも、北嶋は今からテストする機兵管制システムについては門外漢なので、指揮と言うより新米女子隊員の監督が役目である。ミーティングのときにその編成を知った朝井などは、ハーレムだと羨(うらや)ましがっていたが、むしろ肩身が狭くて窮屈だろうと藤居は思う。

 射爆場に入ると、ジソコンは時折停止するようになった。停止するたびに、海に浮かべるブイのような物体を車体側面から下ろし、設置していく。それが通信中継用の端末であることは、ミーティングのときに聞き知っている。大きさは龍の頭ほどで、その中に複数の通信機器とバッテリーが入っているという説明だった。このブイのような通信中継端末の動作確認と、それを使って管制を行う慣熟訓練を兼ねたのが、今回の演習である。

 藤居たちの三機の龍が配置につくと、ジソコンはすべての端末を配置し終わって、射爆場の南端に引き返した。人間の視点では見えないところまで離れてしまったが、地面から十三メートルの高さにある龍の望遠カメラならば、鮮明にジソコンの姿を捉えることができる。そしてこの距離ならば、バロッグやバルムンクフィールドの阻害がない限り、通常の電波による通信が可能である。

 配置の完了を確認して、藤居は通信機の送話スイッチを入れた。

「朝井、峰國、ジソコンと中継器の位置は記憶させたな?」

「うっす」

「ばっちりですよ」

「よし。あとは手筈どおりだ。BFG稼動開始後、好き勝手に動いていい」

相対バルムンク反応センサーはセーフティ機能以外をカット、ですよね」

「ああ、そうだ。もし何をするか忘れたら、実施要領でカンニングしていいぞ。あくまで演習だからな」

「ラジャー」

「りょーかい」

 朝井と峰國は、返事と同時に動き出した。二機の展開したバルムンクフィールドが、相対バルムンク反応センサーの波形に変化を生じさせる。これで漠然と僚機の位置がわかるが、人が音を聞いて音源の位置を感知するようなもので、曖昧な探知方法に過ぎない。しかも実戦の環境では全く役に立たないことさえあるらしい。それを補うための、ジソコン改である。

 藤居は自機にもバルムンクフィールドを展開させ、相対バルムンク反応センサーを切った。これで、目と耳以外の機能は封じたことになる。龍の首を旋回させて二機の移動方向を確認すると、峰國の防人型が藤居の右手に、朝井の標準型の龍が藤居の左手側に向かっていた。

「さて、鬼ごっこの始まりだ」

 藤居の龍は僚機二機と垂直方向、射爆場の北限に向かって、滑らかに駆け出した。


*   *   *   *   *


 演習の様子を見るため、江藤は小型トラックに乗り込んで、射爆場を見渡せる丘に来ていた。すぐ後ろには、非番の第三小隊と整備班員たちが他二台の車で乗り付けており、丘を下ったところには演習実施中のジソコン一号車がいる。

 意外だったのは、安中佐が、少数のお供とともにやって来たことだ。前触れもなく倉庫に現れて見学を宣言した安は、ジソコンに乗り込む女子隊員らに「うまくやっていけそうか」などと声をかけ、ずいぶんと社交的な一面を見せた。そして演習が始まってからは、第三小隊の野次馬たちを捕まえて、あれやこれやと質問しているようである。

 初見でものわかりのいい男だと感じたが、防衛部隊の指揮を放り出すような怠慢な男だとは思わなかった。こんな性格をしていながらよく戦略軍で取り立てられたものだと変なふうに感心していると、そのとき江藤は、自分の見落としに気がついた。

「そうか、そういうことか」

 基地到着から十二時間ほどが経ったが、その間、警戒のサイレンが鳴り響くことは一度もなく、隊に漂っていた緊張感がどんどん稀薄になっているのを江藤は感じていた。それに不安を覚えたのは、自分に外廓聯でこき使われた経験があるからだろう。外廓聯での任務中は予期せず敵と遭遇することもあったから、戦闘中でなくとも常に緊張を維持して一日を過ごしていた。例外は新青海基地に戻ったときだけだった。

 しかし今はいろいろと環境が違う。外廓聯やその他の機兵部隊が、前線で敵の補給戦つぶしをやってくれているおかげで、黒龍隊は安全である。時間が経過するにつれ、啓示軍が打つべき手は減っていき、いずれこの司令部の存在が露見したとしても、その頃にはここへの攻撃を敢行する余裕はなくなっている。この基地が危険に晒されるとすれば、啓示軍がこちらの反攻作戦開始を見て取った直後であるはずだ。慎重な戦略軍将校の一員たる安超備がここでのんびり見学などしているのは、司令部襲撃はもうないと判断しているからだろう。

 ダーダネルス作戦の発動から三日が経つ。考えてみれば、ここに到着した時点で、基地に攻撃がないのは自明のことだったのかもしれない。基地の防衛部隊が姿を見せないのが気になって、富窪には調査も依頼したが、防衛部隊ももう配置転換されたのかもしれない。富窪は今頃司令部に潜入しているはずだが、無駄な骨折りとなったようだ。

 江藤は肩に入っていた力を抜いて、背もたれに身を預けた。江藤の肩幅には狭いが、この車の座席はこんなに心地よかっただろうかと江藤は思った。

 あとの問題は、いつ、どこの戦場に後詰として出されるかだ。外廓聯同様の扱いをされると困るが、今はともかく、ここでゆっくり演習をやらせてもらうとしよう。江藤は物事が自分に有利に進んでいることに、満足感を覚えはじめていた。


*   *   *   *   *


 黒龍隊の中でこのとき最も忙しくしていたのは、ジソコン一号車に乗り込んだ円道たちであった。縦横無尽に射爆場を走り回る三機の龍を、中継器を介して常に監視する。それが彼女たちの演習目標であり、実戦で要求される能力である。

 龍の発するバルムンクフィールドとジソコン内部のBFGとの相互作用、そしてバルムンクフィールドでは遮蔽できずに漏れ出た熱線や電磁波。それらを頼りに龍の位置を推定するのだが、複雑きわまる龍の動きと地形や周囲環境に比べて、管制システムの完成度はまだまだ低い。円道たちはシステムの操作とモニタリングだけでなく、能動的に探知システムのモードを切り替えて、龍を追い続けなければならない。しかも、実際には存在しない位置にも龍を探知してしまうから、三機の龍を追っているといっても、ターゲットの数はそれ以上ある。今も、移動するターゲットは六つあるのだ。

「ターゲットD(デルタ)を李曹長の防人と確定」

 円道の隣で、同僚の秋月が宣言した。

「ああ、そうか。ご苦労さま」

 背後で北嶋が軍人らしからぬ反応をしている合間に、円道の格闘している追跡画面ではターゲットのひとつが色を変え、Dから2-2へと表記が改まった。第二小隊二番機、の意である。

「レーザー通信同調確認。大尉、通話できます」

 早い。円道は焦った。

 円道はターゲットA(アルファ)、B(ブラボー)、C(チャーリー)の三つを追っているが、まだ確定できたターゲットはない。B(ブラボー)が「シャドウ」、すなわち外れらしいと見当をつけているだけだ。比べて隣の秋月は、D(デルタ)を李峰國の機体と確定し、通信確立まで済ませてしまった。なんという遅れだろう。言い出しっぺのくせに情けない。

 大丈夫、きっと李曹長が逃げるのがヘタクソなんだ。円道はそう考えることにして、監視に集中した。

 B(ブラボー)はさっきからサーマルセンサーの反応がない。やはりシャドウだろう。しかし断定にはまだ証拠が少ない。次なる否定材料を探せればよいのだが、この場合残りの本物の数は二機とわかっているから、本物を本物であると証明するほうが簡単だ。円道はB(ブラボー)の実体と思しきA(アルファ)に特に注意して、各センサーの出力画面の推移を見守る。

「ターゲットF(フォックストロット)消失」

 隣でまた報告があった。しかしそれが円道を焦らせることはない。秋月の手柄というわけではなく、システムがひとつのターゲットをシャドウと断定し、自動的にターゲットの表示をひとつ消しただけなのだ。そして、円道もターゲットをひとつ確定していた。

「ターゲットA(アルファ)を藤居准尉と確定。ターゲットB(ブラボー)はシャドウと推定」

 上ずる声で宣言して、円道は次の作業に移った。藤居機との通信を確立して、本物かどうかの最終確認をしなければならない。幸い、それはすぐにできた。北嶋の呼びかけに対し、藤居からすぐに返答があった。

「捕まりましたか。あとは誰が残っているんです?」

「朝井くんだけだよ。その彼にしても、もう二択問題になっているようだ」

 藤居と北嶋のやり取りを聞く間に、円道は残りの確定の詰めに入っていた。画面を見るに、秋月も同様だ。

「B(ブラボー)およびC(チャーリー)、消失しました」

「ターゲットE(エコー)を朝井軍曹の龍と確定」

「……だ、そうだよ」

 北嶋が藤居に笑いかけた。どうやら自分たちとこのシステムの力に驚いているらしい。円道は隣の秋月と密かに微笑みあった。

 あとは眺めるだけになった円道と違って、秋月はそのまま朝井機との通信確立作業に入った。簡単な作業だから、すぐに終わるだろう。演習はおしまいだ。そう思って肩の力を抜いていた円道は、にわかに緊張を取り戻すことになった。画面に新たに生じたターゲットを発見したのだ。

「ターゲットG(ゴルフ)出現」

 反射的に報告した円道は、そのままその新たなターゲットの追跡に入った。通信が確立できるまでは、まだE(エコー)が朝井機だと完全に確定できたわけではない。探知アルゴリズムがまずかったのか、それとも設定をミスしたのか。理由はともかく、今まで見落としていたターゲットが本物である可能性もあるのだ。

「自分の龍をスクリーンにして朝井くんを隠していたのか」

 北嶋が感心したように呟くのが聞こえた。

 なるほど、たしかにターゲットG(ゴルフ)が現れたのはこのジソコン改と藤居機を結んだ直線上だし、藤居の龍自体がかなり遠くに行っているので、その奥の龍が見つけられなかったのだろう。これはあの准尉からの挑戦状に違いないと、円道はターゲットG(ゴルフ)のデータ分析に更なるやる気を出した。

 一方、秋月は通信確立に手間取っていた。G(ゴルフ)が本物ならそれも当然である。G(ゴルフ)の観測データ推移は、龍の理想モデルとはずれがあるが、機兵の実在を語るにはじゅうぶんな説得力がある。藤居がいまだに動き回って探知を撹乱するので、まだ確定はできないが、推定を宣言するにはじゅうぶんだ。

 ターゲットG(ゴルフ)を新たに朝井機と推定。そう宣言しようとしたとき、秋月の声がそれを遮った。

「ターゲットE(エコー)との通信確立」

 おかしなことだ。自分の追っているターゲットが本物だと思ったのに、秋月が最後の朝井機との通信を確立したという。円道は混乱した。

「おやおや、見込み違いだったか。――ご苦労、朝井くん。ゲームオーバーだよ」

「け、けっこう疲れましたよ。妙な運動ばかりしましたから」

「それじゃあ整備も一苦労ありそうだな」

「すみません。お願いします」

「僕に言われても困るな。第二小隊のチーフは矢俣くんだよ?」

「はは、そうでした」

 円道の混乱をよそに、北嶋と朝井は楽しげに会話をしている。様子がおかしいのを見て取った秋月が円道の顔と画面を覗き込むが、円道は即座に反応を示せなかった。

「北嶋大尉」

 藤居が回線に割り込んできた。朝井と違って声音が落ち着いているな、と円道は混乱の最中にそんなことを思った。

「なんだい?」

「この射爆場、ゾルダートの鹵獲(ろかく)機が置いてあったのですね。仮想敵機(アグレッサー)用でしょうか?」

 円道の見つめる画面で、藤居機がターゲットG(ゴルフ)に接近しはじめた。そして今まで動いていなかったターゲットG(ゴルフ)も、突如として移動を開始した。

 その瞬間、円道は眼前のターゲットの正体を悟った。龍とは違うデータパターン。しかし、機兵には違いない。そして藤居の発言。状況的に、結論はひとつだった。

「准尉、逃げてください!」

 円道はヘッドセットを握りしめながら叫んだ。

 ターゲットG(ゴルフ)は、エントゼルトゾルダートと確定された。



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――続く――