黒龍隊の挽歌 第十一話

北熊(セヴェルメドヴェーチ)



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「本当に御発ちになるのですか?」

 その声が聞こえたとき、金星也(キム・ソンヤ)は机上で動かしていた手を止めた。光ディスクや書類でほぼ一杯になったアタッシュケースを閉めることはせず、声のしたほうへと視線を移す。部屋の入り口に、神巌(かみいわ)が立っていた。

セム・ディハン少将が、そう仰っていました。正直、私も賛同しかねます」

 神巌は困ったような、それでいて不思議そうにも見える顔を金星也に向けていた。大人の言う事情を理解しかねた子供の顔に似ている。そんな感想を抱いたあと、同じ顔を昔、鏡の前で見たことを思い出して、金星也は小さく笑った。

「お笑いになりますか。元帥が、わざわざ危険な場所に赴かれるという。それを疑問に思うのが、そんなにおかしいことでしょうか」

「そうではないがな。しかし、どうしたことか。ここ新青海(チンハイ)には自ら進んで同行したおまえが、前線から五百キロの都市に向かうのを危険だと称するとは」

「ご冗談を。その前線の位置は、昨日までのものです。あのバロッグのおかげで、今やどこが空襲にあってもおかしくない」

「そのバロッグがあるから、できるだけ前線近くで指揮を執りたいのだ。昨日説明しなかったか。そもそも、儂の敵は内側のほうに多い。向こうのほうが、南京(ナンキン)よりはまだ安全かもしれんぞ」

 そう言ってアタッシュケースを閉じ、立ち上がる。神巌は何も言わない。

「南京からの同行をおまえが言い出したからといって、向こうまで着いて来いとは言わん。どのみち、新青海に信用できる人物を残しておかねばならない。どちらを選ぶ」

「――元帥がここに止まるという選択肢が抜けています」

「どうした神巌。何がそれほど気になる」

BK698からの音信が途絶えたままです。安(アン)中佐からの連絡もありません。もう、当初の予定通りに事態は進まないのだと、ご自身がよくおわかりなのではないのですか?」

 いつになく強い口調での諫言(かんげん)に、金はアタッシュケースを机上に戻した。

「その失態を挽回したいのだ。あまり時間もない。近々、元老院は儂(わし)を召喚するだろう。加えて、北の熊たちの動きも気になる」

「セヴェルメドヴェーチが、動くと?」

「おそらくな。その前に、やるべきことをやっておく。――この説明で納得できるか」

 神巌は瞬きもせずにじっと金の眼光を受け止めていたが、やがて諦めたように目を伏せ、そして頷いた。

「わかりました。では、やはり私も同行させていただきます」

「言っておくが、あまりおまえ向きの仕事はないぞ」

「私向きの仕事かどうかはわかりませんが、私が負っている仕事ならあります。行方不明の黒龍隊、監視の任務を司っていたのは私ですから」

「――生き残っておればよいがな」



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 西シベリア平原の南、オムスク。ここには亜細亜連邦軍の北部方面軍統合幕僚本部がある。そしてこの地はまた、亜連の元老院や代行執政府が煙たがる、「北熊(セヴェルメドヴェーチ)」の総本山でもある。

 北部方面軍といえば、亜細亜連邦軍の七つの方面軍のひとつであり、主にロシア連邦のウラル山脈以東を管轄区としている。亜連の大動脈というべきシベリア鉄道やパイプラインを反体制派のテロや地方軍閥の横暴から守り、シベリア、ベーリング両艦隊によって北太平洋の水産業とメタンハイドレート採掘事業を庇護している北部方面軍は、亜連の屋台骨とも言える。将兵もそれを矜持(きょうじ)としているのだが、しかし、実際北部方面軍の地位が他の方面軍に対して高いかというと、むしろその逆であった。

 亜連樹立から二年後、欧州方面軍と北部方面軍のふたつの軍轄区に国土を分割されたロシアは、その対応として、クレムリンの出先機関である第二政庁をオムスクに設置した。いわゆるオムスク政庁である。だが、あらゆる分野の中枢がモスクワ周辺に偏重しているロシアの体質は、地政学的に運命付けられた側面もあり、たいそうな呼び名をもらったところでオムスク政庁の実権は弱かった。軍と政体の馴れ合い体制がはびこる亜細亜連邦にあっては、それが北部方面軍の地位の低さを決定づける要因となった。

 北部方面軍が護っているインフラが、亜連にとって大事な骨であることは間違いない。しかしそこから出る利益はモスクワとその周辺都市に持っていかれてしまい、オムスク政庁や北部方面軍には、苦労に対する正当な代価は残らないという構造が出来上がっていた。

 管轄区の広さに反比例したような予算と発言力、とりわけ欧州方面軍との格差は、北部方面軍の士気を低下させた。そのうえ、点在する戦略ミサイル基地などを戦略軍の管轄下に移されてしまっては、ただ面倒な仕事を押し付けられているだけという被害者意識が蔓延(まんえん)し、兵の素行不良や高官の相次ぐ不正を招いた。

 そんな泥沼が転換期を迎えたのが、二〇一〇年代半ばのこと。世界では変則領域の利用方法が確立されていき、変則領域を発生させる特殊な鉱石「コア」が、新たな資源として急速に価値を高めつつあった。二〇〇六年より計画がスタートしていたオムスクの軍事要塞都市化が、初期の数倍の予算で行われることになったのも、オムスクの東方、ノボシビルスク近郊で大量のコア鉱脈が確認されたからである。しかし、オムスク再開発の予算追加は、あくまできっかけに過ぎない。

 旧来の権益をモスクワに握られていたオムスクの政治家や資本家のなかに、この新たな資源をすべてオムスク政庁の財源に充(あ)てようと考えた者たちがいた。彼らは北部方面軍の若手改革派に働きかけ、シベリア鉄道とパイプラインの機能を政令と軍事封鎖によって二重に停止させた。戦略軍が南京への引越しで混乱している時機を狙っての、大掛かりなストライキであった。

 予想だにせぬ規模の叛乱行為に、戦略軍は慌てた。各方面軍から鎮圧部隊を出そうにも、まずは議会の認可がいる。認可なくして戦略軍が動けば、軍組織に混乱を招くばかりでなく、第二、第三の謀反を誘発する危険があった。

 しかし中央議会議員の一割がスト企ての当事者であり、そこに利害を同じくする者や、似たような境遇にある議員たちが加わって、議会は紛糾した。決議の出ぬまま時だけは過ぎ去り、シベリア鉄道とパイプラインの停止は日に日に深刻な問題となっていった。

 結局、オムスク政庁が出した妥協案に沿って、早急に亜細亜連邦としての意思決定を下す他なくなり、事態はオムスク政庁と北部方面軍の目論見どおりに収拾された。

 この危険なストライキをやってのけたのが、今日「北熊」と呼ばれる勢力である。その後も若手が改革を進めて勢力の基盤を整え、近年では元老院や中央議会とも政治取引のできる軍産政一体組織と化していた北熊は、今、更なる躍進の機会を得ていた。

 今次大戦の勃発(ぼっぱつ)。そして半年前の、モスクワ陥落がその端緒である。

 二〇二二年秋、西はウラル山脈の手前まで、南はカザフスタンの西部を啓示軍(オフェンバーレナ)の制圧下に置かれた状態で、戦線が膠着(こうちゃく)。亜連西方の枢要な都市が押さえられ、なおかつエカテリンブルクも戦火の只中とあれば、オムスクの戦略的価値が今まで以上に高まったのは子供にもわかる理屈である。開戦初期に敗退した欧州方面軍を吸収し、旧モスクワ派の受け入れで大きな貸しを作った北熊は、かつてない勢いを得ていた。

 しかしこれを一過性のものとさせないためには、何らかの手立てが必要だった。ダーダネルス作戦発動によって、啓示軍との膠着状態が二ヵ月でその終止符を打たれようとしている今、ただ戦略軍の指示通りに動いていたのでは、西方の領土奪還の手柄をよそ者に取られる危険がある。それも、北熊を良く思わない者の作為的な差配によってだ。そうなれば、せっかく取り込んだモスクワ派の離反を招き、北熊は念願成就を一歩手前で邪魔されることになる。さらにモスクワ派が勢いを取り戻すようなことになれば、その先には北熊の没落が待っているのだ。

 北熊の念願。それは彼ら自身のうちに刻み込まれた、クレムリンに対する劣等感の払拭。現況でそれを具体的に置き換えるなら、啓示軍に奪われたモスクワ派の権益を北熊の手で取り返し、彼らに渡してやることである。そのように過去の恨みを水に流すという余裕を内外に見せつけてやることで、はじめて北熊は、クレムリンの呪縛から逃れることができる。その信念の下に結束し、苦難を乗り越え前進を重ねてきた北熊にとって、これは一世一代の賭けだった。そして、この賭けには必ず勝たねばならない。代償は、北熊の命運そのものなのだから。

 ダーダネルス作戦の開始から二日が経っても、北熊にはまだ賭けに勝つための方策がなかった。元老院派と中央議会派の争いさえも計算に入れた亜細亜連邦軍総司令官、金星也の戦略は、北熊に独自の行動を許さなかったのだ。一般には伏せられていたとはいえ、北熊はダーダネルス作戦の開始時期をかなり正確に予測していたので、実質的にはもう半年近く、具体的な戦略を打ち出せずに悶々としていたことになる。

「我々は半年を浪費してしまった。次の半年で、啓示軍の亜連からの駆逐は確実だろうというのに」

 そんな嘆きが北熊に蔓延しつつあるなか、絶好の機会の到来を告げたのは、昨日もたらされた一枚の衛星写真だった。

 その衛星写真を引き出しに控え、呼びつけた将校を執務室で待っているのは、四十代で将軍の制服を着る男。北熊の中心人物の一人、ミヤス・マトゥモトフ少将である。


*   *   *   *   *




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「イルベチェフ大尉、入室します」

 ドアが開き、中背の将校が現れた。季節柄と土地柄から、衣服が顔以外の殆(ほとん)どを覆っている。しかしそれでも、彼の筋肉が並より遙かに鍛え上げられていることは、頬の筋の逞(たくま)しさから窺い知ることができる。また、雪で薄化粧した防寒帽は頭部の上半分を隠してしまっているが、帽子に覆われた彼の頭に髪はない。気合いを入れると称して剃っているのを、マトゥモトフは知っていた。

「さすがにへばっているかと思ったが、相変わらずのようだな。頭はまだ剃っているのか?」

 マトゥモトフはかつての部下であり友でもある男に、まずそう声をかけた。

「家訓でそう決まっている以上、勘当されるまでは剃り続けますよ」

 常と変わらぬ返事をよこした部下……カネジュ・イルベチェフに向けたマトゥモトフの顔は、自然とほころぶ。

「近頃、部下や同僚には気合いを入れるためだと偽っているそうじゃないか。見栄か?」

「なにをおっしゃるやら。家訓のことも気合のことも、等しく真実です」

「日本人お得意の本音と建前のように聞こえるな」

「それを言われると、祖父の影響は大きいと認めざるをえませんね」

 負けましたよ、と付け加えながら、イルベチェフは帽子といちばん上の外套(がいとう)を脱ぐ。現れた頭はやはり、すべすべだった。

 マトゥモトフには普段名乗らない父称があるが、それを持たないイルベチェフは、アジア系移民の三世である。祖父母が日本人で、マトゥモトフも何度か会ったことがある。母はナターシャというロシア人女性で、イルベチェフの肌はそちらの遺伝で白くなっているが、顔つきは明らかに血筋を物語っている。目は細く、彫りも浅い。

「まぁ、座れよ」

 マトゥモトフは右手で壁沿いのソファーを指した。贅沢(ぜいたく)な様式の品ではないし、かといって古くてボロボロのものでもない。こうした中流階級らしい品物がマトゥモトフは好きで、家のみならず執務室にまで展開しているこうした家具や調度のほとんどが、私費で購入したものである。ソファーもその例外ではなく、前においてあったソファーはどこかに運び出されて久しい。

 家族同然の付き合いでありながら、律儀なことに勧められるまでは座ろうとしなかったイルベチェフは、しかし一旦勧められると、一切の遠慮の片鱗も見せずにソファーにどかりと腰を下ろした。上半身を背もたれに預け、天井を仰ぐ。そう背の高くない彼にはちょうどいい高さで、傍(はた)から見ても楽にしているのがわかる。

「ああ、やはりこのソファーは心地よいですな」

 大きく息を吐いたイルベチェフの顔に、一瞬、疲労の色が浮かんだ。その疲れがオムスクまでの移動だけで溜まったものでないと、マトゥモトフにはわかっている。ダーダネルス作戦の始動時期を紛らわすカムフラージュの一環として、つい先日まで彼に新兵の教練などやらせていたのは、ほかでもないマトゥモトフ自身だからだ。ダーダネルス作戦が始まった途端に、早急に教練課程を消化してオムスクに帰還させたのも、直接的にはマトゥモトフが決定した事項である。

「疲れているところを呼び出してすまないな」

「まったくです。本当にすまないと思うのなら、このソファーをくれませんか? 寸法を計ったように俺にぴったりなもので」

 すっかりリラックスしたイルベチェフは、北熊の智将といわれるマトゥモトフ相手に、もはや何の遠慮もない。

「ひとつ頼みを聞いてくれるなら、考えるぞ。だが、そうすると当分それの恩恵にはあずかれんがね」

「何です意味有りげに? ――と言っても、今日の呼び出しの要件でしょうね。で、今度は何ですか。この前がマポス社への出向、その前が部隊間の喧嘩(けんか)の仲裁……。いつぞやは大怪我したふりをして、アメリカ絡みの機兵開発プロジェクトから来た誘いを蹴ったりしましたっけね」

 イルベチェフは天井を見上げて目を回すまねをした。リアクションでやったつもりなのだろうが、本当に目を回してソファーからずり落ちそうになっている。

「真面目に聞けよ、カネジュ。実は昨日の未明、幕僚会議の前に、北熊(セヴェルメドヴェーチ)のメンバーに集合がかかった」



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「北熊(セヴェルメドヴェーチ)が緊急集会?」

 腰を据え直したイルベチェフは、マトゥモトフの真剣な声に気を引き締めた。聞いた話では、普段、北熊のトップメンバーが一堂に会することはない。集会に正式な名がついていないくらい、普段はありえないことなのだ。それを集めたというのは、よほどの一大事に違いない。

「今次作戦の指揮のための前線総司令部……西フェルガナ基地が消滅した」

「――しょ、消滅ですか!? 大破ではなく、跡形もなく消えたと?」

 イルベチェフは自分の耳を疑うしかなかった。核でも使わないかぎり、数日で基地をまるごと消滅させるなど可能なはずがない。

「新型のバルムンク砲の攻撃を受けたと、統監部宛に戦略軍から通達が来ている」

「西のほうで妙な虹を見たと、そういう噂を聞いていました。それが新型バルムンク砲ですか?」

「噂は早いな。さすがにあれだけ目立つと緘口令(かんこうれい)も用を為さないか」

「忙しかったもので、噂について詳しく聞いてはいないのですがね。――しかし妙ですね、前線総司令部の所在は北熊だからこそ掴(つか)めていた情報だったのでは?」

「そう、問題の要点のひとつはそこだ。西フェルガナ基地が攻撃を受けた一方で、ダミーとして設置されていた複数の司令部からは、一切被害の報(しら)せがない。つまり、総司令部の位置は完全に敵に漏れていたということだ」

「まぁ、北熊に漏れた情報が啓示軍(オフェンバーレナ)に漏れたからといって不思議ではない、といったところですか」

 やれやれと嘆息するイルベチェフを見たマトゥモトフは、ゆっくりと頭を横に振った。

「少数の内通者がやったことなら、まだいい。亜連の一部が啓示軍に寝返ろうとしてはいないか、それが心配なんだよ、カネジュ」

「まさか、連邦を捨ててクレムリンに戻ろうという連中がいると?」

「モスクワだけに限った話ではなく、ここに来て亜連が崩壊しかかっているのかもしれない、ということだ。中央議会には、我ら北熊こそが分離独立を狙っていると思いこんでいる議員も多い」

「今更啓示軍に降って、どうするというのですかね。反攻作戦も始まって、勝機が見えたというのに。邪魔せずに傍観しておけば、遠からず、もとの古巣に帰れるっていうのに」

「あくまで可能性の一端だ。具体的な容疑者がいるわけでもない。ただ、調査はしなければならないな」

「頼みというのはそれですか?」

「いや、それは専門家に任せる。カネジュに頼みたいのは別のことだ」

「司令部喪失で浮き足立っている前線へ、増援に出ろ、と?」

「それは戦略軍からも要請があって、第六戦略機動師団を動かすと幕僚会議で決定済みだ」

「では、何を?」

「その前に説明しなければならないことが二三ある。まず手始めだが、実は、西フェルガナ基地はダミーだったらしい」

「は?」

「我々もまんまと騙されていたらしい。本当の総司令部は、更に別にあったようだ。金星也元帥が情報の漏洩を見越してそういう措置をとったのかもしれないが、これも詳しくはまだわからない」

「戦略軍は、啓示軍にダミーの司令部を叩かせて、敵の手のうちを探ったと?」

「大いにありうる。事実、西フェルガナ基地消滅による戦列の乱れは認められなかった。昨日までの時点ではな」

「昨日まで?」

「今はろくに連絡がつかない。バロッグだ」

「それは、なんともタイミングが悪いというか、運が悪いというか」

「運、か。果たしてこれを見てもそう言えるかな、カネジュ」

 そう勿体(もったい)つけると、マトゥモトフは引き出しから取り出した一枚の写真を掲げて見せた。立ち上がって彼のそばに行き、写真を手にとったイルベチェフは、今度は目を疑った。自分は精巧な合成写真でも見ているのか、と。

「啓示軍の新型バルムンク砲……。その直撃を受けた後の、西フェルガナ基地の衛星写真だ。残存するわずかな偵察衛星のひとつが、幸運にも軌道修正なしで上空を捉えることができたのだそうだ。付け加えるなら、軌道変更をしなかったおかげで、その衛星は啓示軍にもまだ発見されずに済んでいるらしい。不幸中の幸いだな」

 マトゥモトフの説明の後半を、イルベチェフは聞いていられなかった。飲み込んだ息を吐き出すのも忘れ、マトゥモトフの目を見る。

「同じじゃないですか。三年前の、あの事件の光景と」

 ようやく息を吐いたイルベチェフはそう呟き、写真に視線を戻す。そこには基地どころか一切の陸地が見えない。

「これじゃ、煙か霧に包まれたようにしか見えない。あるいは、戦術核でも撃ちこまれたと勘違いする者もいるでしょう」

「だろうな。その写真は当然戦略軍から各方面軍にも伝わっているが、おそらく敵の新型バルムンク砲が誘起したものと考えているだろう。我々北熊と、元老院を除いては」

「実際に見なければ、とても信じられる話ではないですからね。自分とて三年前にあれを見なければ、とても信じられやしません。――それで少将、これの規模はどのくらいなんです。あのときは研究施設ひとつだけで済みましたが、これは……」

「それは本来なら、西フェルガナ基地が周辺施設も含めてすっぽり収まっているはずの写真だ」

「では」

「半径五百ないし六百キロ。それが二次現象の最終的な予想範囲だ」

「そんなに?」

「ああ。現に、もう半径百キロ近くにまで拡大している」

 百キロ。壁に貼られた地図に目をやり、それが意味するところをイルベチェフは解した。自分が呼ばれた理由にも、これで見当がつく。

「一週間以内に、タシケントが飲み込まれる」

 呟いたイルベチェフに、マトゥモトフが頷(うなず)く。

「危ない、ですかね」

 そう続けると、マトゥモトフは視線で肯定を示した。

 タシケントは中央アジアを睨む要衝のひとつであるとともに、ロシア系の同胞が多く住む都市でもある。二ヵ月前に膠着した前線からは五百キロ東の位置にあったが、あのバロッグが予想通り拡大すれば、もはやタシケントは安全ではない。啓示軍がダーダネルス作戦の切り崩しに利用するには、恰好の標的だからだ。

 だが、あのバロッグについて無知な者が多数を占める中で、表立って同胞に退去勧告を出すわけにはいかない。かといってバロッグの性質を戦略軍に報告してしまえば、表から裏から情報源の追及を受け、三年前の事件が露見してしまう。北熊としては辛いところであり、これをどうにか打開するために、マトゥモトフは自分を使おうというのだろう。

「西フェルガナ基地には、敵が進駐した可能性が高い。タシケント経由でそこへ赴き、偵察と戦力査定、可能ならば敵戦力の減殺と退路の遮断に努める。――そう大義名分を掲げれば、タシケントには入れる。ただし、その名目で派遣できる部隊は、今のところふたつしかない」

「第一〇四機械化歩兵師団直属の、第一独立機動混成団、および第二独立機動混成団ですね」

「それがあいにく、第一独立機動混成団は使えない」

「なぜです?」

「ダスマに持って行かれた」

「ダスマ中将ですか……。まぁ、そっちのほうが正規の指揮系統ですから、文句は言えませんか。はははは」

 イルベチェフは笑った。やはりこの仕事のお鉢は自分に回ってきたようだ。第二独立機動混成団、すなわち、機兵とその支援部隊で構成された臨時編成部隊。その中核をなす機兵部隊の隊長は、他でもないカネジュ・イルベチェフである。

「というわけで、タシケント行きはおまえに任せる。第二混成団の本隊は北部に残し、おまえの機兵部隊だけで行ってもらう。以上が、北熊の下した任務だ」

「俺の隊だけで、ですか……。機動性を考えればそういう命令になるんでしょうね。しかし気になる言い方ですね。北熊の下した任務、とは」

 イルベチェフは首をかしげた。

「私が個人的に頼みたいことがあるのだよ。同胞救援の件は、頼みではなく命令だからな」

 マトゥモトフは悪戯(いたずら)っぽく笑った。

「あいかわらず立場の使い分けがせこいですね」

「私とて、そのソファーは気に入っているのだ。そう簡単に譲れんな」

「で、さんざん勿体つけた依頼とやらをお聞きしましょうか?」

「まず聞くが、近衛軍の第四機兵大隊が、新青海経由でタシケントに入っていたことを知っているか?」

「第四機兵大隊……黒龍隊がタシケントに? 初耳です。日本にいるのだとばかり思っていましたよ」

「ダーダネルス作戦開始のニュースで、第四……いや、黒龍隊が戦地に入ったというニュースは霞(かす)み気味だったからな。僻地(へきち)に出向していたカネジュが知らないのも無理はないが、この情報自体は相当数の将兵の耳に入っている。問題は、そのあとだ」

「その口ぶりからすると、タシケントの防備についている、というわけではないようですね。タシケントを出て、そのあとどこに向かったか。それがわからないと?」

「見当がついてないわけではないのだが、確証が得られていない」

「はて、どこでしょう。中央議会の肝煎(きもい)りで作られた黒龍隊が、そうそう前線に出されるはずはないし、所在不明になるほど辺鄙(へんぴ)な場所というのも思いつきませんね。少なくとも、機兵を配備する必要があるような場所では」

「聞いて驚け、カネジュ。黒龍隊が向かった可能性があるのは、他でもない西フェルガナ基地だ」

 そういわれて、驚く以前に、話の不可解さをイルベチェフは感じた。

「解せませんね。西フェルガナ基地はすでに消滅したと、戦略軍はそう言っているのでしょう? 消えてしまったものを奪還することはできない。もっとも、我々にはあの場を確認する意義があるわけですけどね。――もしや、黒龍隊があれの奪還のために派遣されたと!?」

「早とちりするな。黒龍隊がタシケントを出たのは、西フェルガナ基地消滅の二十時間以上前だ。これは間違いない」

「司令部消滅の前……」

 イルベチェフ再び写真を見てみた。やはりそこには霧だか雲だかわからない靄(もや)が広がっているばかりで、なるほどこれでは黒龍隊がその場にいたかどうかわからない。

「黒龍隊が西フェルガナ基地に向かったのが事実だとして、その目的は定かではない。いくら推測しても時間の無駄だ。現地の将兵や、直接指令を下した者でさえ、作戦やあれに関するじゅうぶんな情報を与えられてはいなかっただろうからな。第三者がわかるというものではない」

「逆に言えば、黒龍隊があれの守護のために事前に派遣されていた可能性を否定することもできない」

「そうだ。だが北熊としては、黒龍隊のことに首を突っ込んで、元老院派と中央議会派のいざこざに巻き込まれることを良しとしない。かつての軍閥派の轍(てつ)を踏む気はないし、そもそも、黒龍隊があそこにいたという情報の確度も、たかがしれているからな。リスクが大きすぎる。そういう判断だ」

「しかし少将としては、黒龍隊が事に関わっているのかいないのか、灰色のままにして置けないというのですね?」

「それ以前に、黒龍隊が基地とともに消え去ったか、まだ生き延びているのか、という点もはっきりさせたい。私の勘では、彼らがこの件に関する鍵になっているような気がするのだが、さすがに勘を理由に黒龍隊への干渉を提案することはできなかった。この仕事、引き受けてくれるか?」

「さて、困りましたね。公の俺の任務は、西フェルガナ基地跡地に集結している啓示軍の偵察。北熊に対しては、西フェルガナ基地行きを名目にした、経由地タシケントでの同胞の救援。そして実際には、その双方をこなしつつ、黒龍隊に関する情報収集と捜索……」

「可能なら、接触して隊員の様子の調査までして欲しい。黒龍隊は日本人が多いからな、カネジュに頼むのは合理的なんだ」

 すこしくだけた口調になって、マトゥモトフはそう依頼事項を付け加えた。

「どのみち、ソファーひとつでこんな大仕事を受ける人間は俺以外にいないと断言できますよ」

 そう答えて、イルベチェフは依頼を受ける旨を伝える。マトゥモトフは小さく息を吐いて、すまないな、と呟いたが、彼本来の優しげな表情は次の瞬間には引っ込んでいた。

「幕僚会議での決定が為されたわけではないから、公にはこの件を持ち出してくれるなよ」

「それは勿論。たとえ北熊の同志といえども、相手は選びます」

「うむ。――天山(テンシャン)山脈で第六戦略機動師団との連絡を確保したら、後はダスマ中将を頼みとしてくれ。到着の頃にはバロッグで通信途絶状態にあるだろうが、ショゴルフ・ダスマはそれくらいで浮き足立つ奴ではないよ。信用も置ける」

「第一独立機動混成団を丸ごと連行して行ったのは、そのダスマ中将でしょう?」

「まあ、それも事実だが。奴はそれだけの仕事を引き受けると、北熊の会議で自ら名乗り出たのだ」

「そのぶん、ガナ大佐には苦労がかかりますね。第一の抜けた穴を、第二独立機動混成団だけで、しかも俺の機兵部隊がいない状態で、支えなくちゃいけないんですから」

「機兵部隊を外しても、臨機応変に他部隊と共同戦線をはれるのが独立機動混成団だ。奴とて、嫌な顔はすまい」

「俺は、嫌な顔をしているつもりですがね」

 別れ際、再び二人は笑った。



- 5 -


 イルベチェフの隊がオムスクを出発したのは、それから二日後、十二月二十四日の朝だった。

 オムスクの南、カラガンダで情報と物資の調達を行い、ついでにクリスチャンの祭り気分を眺めたのが二十五日。それからさらに南下し、天山山脈の北辺にぶつかったところで西に針路変更。二十七日に第一の目的地タシケントに到着したが、そこはイルベチェフの知っていたタシケントとは雰囲気が違っていた。

 来た季節が違うからではない。軍の人間が多く街中をうろついているのも、決定的な要因ではない。巨大バロッグの拡大が周知の事実となり、数日後にはその中に飲まれるという危機感、警戒感が、イルベチェフに街の様子を違って見せていたのだ。

 普段からバロッグと隣り合わせに暮らしている亜細亜連邦の市民は、大抵のバロッグからは身を守る術を心得ているものの、今回は程度が違いすぎる。これほど巨大で、電波障害を起こす周波数帯が広く、しかも拡大を続けるバロッグはやはり恐ろしいのだ。それは実害の予想が大きから怖いのではなく、得体の知れないものに対する恐怖こそが、タシケント市民の心を脅かしている最大の存在だった。

 しかし、バロッグがタシケントからは見えないその日のうちは、まだいいほうだった。情報統制が敷かれていることもあって、市民はまだ冷静に避難の準備をしていた。

 とはいえ、バロッグに覆われてしまったウズベク方面と音信不通にあるという現状を市民が知れれば、軍でさえも危ういのだから自分たちは助かるまいと恐慌状態に陥る危険があった。増してや、バロッグに隠れて啓示軍(オフェンバーレナ)がいずれ攻め込んでくるかもしれないと漏れでもすれば、沈静化のための手段を選べなくなるかもしれない。言動にはじゅうぶん注意するよう部下に厳命し、イルベチェフはひとり、北熊の同志と接触した。

 マトゥモトフの盟友であるダスマ中将は、兵站(へいたん)支援を専門とする部隊をタシケントに先回りさせていた。イルベチェフはその部隊に助言と指示を仰ぎつつ、共同でタシケント周辺からの非戦闘員退避や資材搬出を手伝うことになった。もともとタシケントにはかなりの乗俑機が配備されていたが、既にバロッグに包まれてしまった市の西方では、もはや既存の乗俑機での活動は危険を伴う。イルベチェフ隊の四機はそういう仕事を優先的に担い、ここ一日半を北熊(セヴェルメドヴェーチ)ゆかりの者の安全と資財を確保するために費やしていた。

「スケジュールを押している、か」

 改めて経過をふりかえってみて、イルベチェフは独白する。

 イルベチェフは今、軍が徴用しているホテルの一室にいた。夜更けにひとりで、である。

 龍で運び屋をするのに忙しいとはいっても、機兵もパイロットも休息を与えなければ機能しなくなるから、暇はある。タシケントを離れることはできないが、他には特に行動が制限されることはなかった。

 この部屋は、タシケントでは高級のほうに分類される。暖房も適度に利いていて心地よい。もしこれが休暇で来ているのであれば、今頃は……。そう逃避しそうになる思考を押しとどめ、イルベチェフはベッドそばの受話器に手を伸ばした。

 ダイヤルする指が、暗記して久しいタシケント在住女性の電話番号を押そうとする。頭を振ってその衝動を堪え、イルベチェフはまず一階のフロントを呼び出した。そこに詰めている通信兵に電話先の交換を頼み、少々距離のあるホテルに宿泊している将校につないでもらう。一度か二度、酒を飲んだ程度の付き合いしかない男だが、北熊の同志であれば、この時間の急な面会にも応じてくれるだろう。正直、あまり会いたいと思う男でもないのだが、やむをえない。マトゥモトフから頼まれた調査に、そろそろ具体的な進展を得たいのだ。

 黒龍隊の行方に関する調査は、タシケントに入る前から、暇を見つけてはやってきた。しかし未だにろくな情報が手に入っていない。それはひとえに情報統制のせいで、タシケントや経由地で会った将兵のほとんどは、幹部であっても一部嘘の情報を信じ込まされていた。西フェルガナ基地の消滅は伏せられ、特異なバロッグの発生により周辺の戦局が不利だという事実さえ、ぼかされて伝えられている。そんななかだから、黒龍隊がタシケントを出たあとどうなったのかなど、誰も知るはずはない。カラガンダなどでは明らかに虚偽とわかる戦果報告が噂で広まっていたくらいである。苦労して得たそれらの情報も、先日ダスマ中将からもらった手紙にほとんど網羅されていた始末だから、しけたものだ。もしかすると、この調査は予想以上に厄介な仕事になるかもしれず、そのときは、ソファーだけでなく追加の報酬を貰(もら)わないと割に合わない。

 そんなことを考えているうちに、電話の相手が出た。話題の性質を考えると、電話のまま本題に入るわけにはいかない。向こうのジョークに適当に付き合ったあと、用件を軽く仄(ほの)めかして、直接会う段取りをつける。受話器は五分も経たないうちにホルダーに戻された。


*   *   *   *   *


 閑散とした酒場に入ったのは、時計が十時ちょうどを指したときだった。

 イルベチェフは店内を見渡し、呼び出した相手がまだ来ていないことを知る。八人座れるカウンター席の、空いている手前五席の真ん中に陣取ると、マスターにウイスキーのロックを頼む。多少の酒なら文句はつくまい、と構えていられるのは、このあと北熊(セヴェルメドヴェーチ)の将校と会えば飲まされるのが明白だからだ。

 客はイルベチェフの同業者と民間人がほぼ半々。奥のカウンター席でちびちびと酒を含んでいるのは、服からしてウズベキスタンの地方軍兵士で、イルベチェフに構う気配はない。オムスクではそこそこ有名なイルベチェフだが、タシケントで名が売れるようなことまではしていないから、たとえそこに座っていたのが幹部クラスの人間でも、イルベチェフに構うことなど無かっただろう。

 もっとも、今回の任務が首尾よく終われば、名も売れるかもしれない。そのさまを想像してみたイルベチェフだったが、すぐにそれは望み薄だと気づいた。この任務の真の重大さは、表から、公の視点からは見えないところにこそある。だからこそ彼自身、部下にも任務の全容を語っていないのだ。

 頼んだ物が出てきた。一口つけてから、すぐにグラスから手を離す。待ち人が来るまで、これ一杯で持たせる腹づもりである。

「まったく、ついてないやな。せっかくの反撃のチャンスに、ああもでっかなバロッグが現れたんじゃ、啓示軍(オフェンバーレナ)の連中にまんまと逃げられちまう」

 背中のほうで、酒の勢いで声の大きくなった兵士たちが話していた。特に意識せずとも、生来情報収集にまめな耳が、そちらの会話を拾いはじめる。

「おまえ、聞いてないのか。もう一週間以上前だがよ、北西のほうで空に怪しげな虹が見えたって」

「なんだよそりゃ? 俺は気づかなかったぞ」

「俺もだ」

「こっからじゃ見えなかった、って話だ」

「で、それが何なんだよ。キルギスには炎を噴き出す“暖炉の谷”なんてものもあるんだ。いまさら怪しい虹がかかったくらいで驚くかよ」

「話は最後まで聞けってんだ。その前日にな、外廓聯(がいかくれん)の白龍隊が、カザフのほうでまた特務に出たって噂もあるんだ。行き先は、虹の向こうだったっていうぜ」

「じゃあ、なにか、その虹が啓示軍の秘密兵器で、外廓聯が潰しに行ったってのか」

「そういう噂もあるってことさ。俺が見てきたわけじゃないからな。嘘でも責任は取らないぞ」

「けっ、おめぇはいつもそれだよ。前だって、黒龍隊だかなんだかが前線に来てるだとか、よくわかんねぇネタを自慢げに話してたが、俺は未だにそんな連中にはお目にかかってないぜ」

 黒龍隊。その単語を聞いて、イルベチェフは口をつける直前だったグラスを置いた。その会話へと割いていた集中力を増す。

「おいおい、虹の話は俺だってうさんくせぇと思わないでもないが、あれは確かだ。空港から出て行く機兵を見たからな。それに日本語っぽい話し声も聞いた。黒龍隊は日本で編成されたって話だから、あれは黒龍隊に間違いねえ」

「おいおい、だいたい黒龍隊ってのは何だ? 俺はよく知らないぞ。イワンは知ってんのか」

「それくらい知ってる。たしか、元老院が外廓聯を手駒にしてんのが気に食わなくて、中央議会が作らせたんだろ?」

「ほう、詳しいじゃねえか」

「実はな、この作戦の片がついたら、昇進試験受けようかと思ってるんだ。今のは勉強の成果ってやつだ」

 そこから話題はイワンという男が出世したらという仮想の話に移ってしまい、黒龍隊の名前は出なくなった。イルベチェフは再びウイスキーを口に含む。

 議会派が用意した手駒。黒龍隊に対する、もっとも一般的な見方はそれである。イルベチェフも創設のことを知ってそう思った口だが、彼が他の大多数の場合と少々異なるのは、あの男はそういう柄の人間だったのかという意外な驚きをもってそのニュースを聞いたことだ。

 黒龍隊隊長となったあの男、江藤博照をイルベチェフは知っていた。機兵乗りの間では有名なエースだから名前を知っているのは当然だが、イルベチェフが知っているというのはその意味ではない。何度か見かけたことがあるのだ。イルベチェフと江藤は同時期、すなわち亜連において最も早い段階で、機兵パイロットとして訓練を受けていた。

 今でこそロシアや中国、日本、韓国、インドなどと各所に機兵パイロット養成のための施設があり、各地で訓練を受ける者は互いに顔をあわせないが、半年前、まだ龍が配備さえされていなかった段階では事情が違った。訓練用の施設など揃(そろ)っているはずがなく、たいていは既存のものの代用で済ませていたし、どうにも代替の利かない設備はどこか一箇所だけに試作して、それを各地のパイロット候補生がローテーションを組んで使用していた。それが計画通りうまくいっていれば、当時も各地のパイロット候補生が顔をあわせることは無かったはずなのだが、急造の施設や装置がしょっちゅう稼動不能に陥(おちい)っていたから、別の方面で訓練を受けていたイルベチェフと江藤が同時に同じ訓練を受けることも幾度かあったのだ。

 親密になるほど接触があったわけではなく、向こうがこちらの顔と名を認識しているのかどうかイルベチェフは知らない。それでも、公式発表として黒龍隊隊長に江藤の名を見たとき、議会派の駒としておとなしく収まっている彼の様子を想像しにくかったのだ。そういうイメージを人に植え付けるのにじゅうぶんすぎる江藤博照の言動をイルベチェフは何度か目撃していたし、それに倍する数の噂も耳にしていた。

 黒龍隊の創設直後、イルベチェフは僻地で行われていた新兵教練の手伝いに出たため、その後の黒龍隊の動向を一切知らなかった。マトゥモトフに呼び出された折に、数々の驚くべき事実とともに黒龍隊のことを聞かされたが、とうぶんは日本にいるはずだった彼らがタシケントに来た経緯をマトゥモトフ自身もまだ詳細を把握できておらず、その件についてはダスマ中将から受け取った手紙で先日知ることになった。

 手紙を読んで、イルベチェフはマトゥモトフが黒龍隊に執着する理由が分かったような気がした。同時に、黒龍隊はただ単に議会派の手駒としてのみ存在するのではないのかもしれないと思った。

 隊の創設に四日遅れて隊長が赴任し、さらに六日後にパイロットが一人追加。この点は、人選に手間取ったり天候不順で移動が滞ったりの理由があるだろうから、疑ってもしかたない。ただ念のため、ダスマ中将が疑わしいところがないか調べさせているようだ。

 驚いたのはその四日後の出来事からだ。厚木基地での演習中にエデン系ゲリラの攻撃に遭遇した黒龍隊は、これの撃退に働きを見せたものの、同時に隊長と副長が何者かによって拉致(らち)されている。ふたりを乗せていたらしい高速連絡機は西へ飛び去り、のちに不時着したところを発見されているが、機はもぬけの殻だった。落下傘(パラシュート)がいくつかなくなっていることから、乗っていた人間は空中で脱出したか、不時着後に自力で抜け出したと想定され、実際、翌朝になって偵察機が遭難中のふたりを発見。ふたりは新青海基地の派遣したヘリで救助されているが、犯人のほうは厚木で手引きしたメンバーしか捕まっていないらしい。

 この、連絡機脱出から偵察機による発見までの流れが情報不足で、このときどういった経緯からか一緒に遭難していたらしい新青海基地の文官を、ダスマ中将は内々に調査するつもりのようだ。また、厚木で捕まった犯人は戦略軍情報部が連行したため、こちらは北熊でも手が出せないとのことだった。

 マトゥモトフの友人であるダスマ中将は、厚意で黒龍隊関連の調査を進めてくれている。おかげで、イルベチェフが黒龍隊と接触するまでもなく、彼らの背後関係が浮き彫りになるかもしれない。ただ、拉致未遂の件は発生から十日を過ぎたことだけあり、一緒にいたという文官も軟禁状態で接触できないのではないだろうか。しかしそんな心配はイルベチェフの仕事ではない。KGB(カーゲーベー)の流れを汲む北熊独自の情報調査局は優秀だ。あとは、ダスマ中将がどれだけ私的に情報調査局の人員を動かせるかという、手腕や人望の問題になってくる。

 今や北熊の中核人物のうちふたりが個人的に追っているこの事件だが、直後にダーダネルス作戦が発動した経緯もあって、つい先日まで北熊の強い関心を呼ぶものではなかった。だからこそイルベチェフも全く知らずにいたわけだが、今はもう状況が異なる。

 西フェルガナ基地といういわくつきの場所に黒龍隊が行かないよう、強硬手段で阻止しようとした集団がある。つまり、江藤の拉致は囮(おとり)である西フェルガナ基地へ黒龍隊を生かせないための方便だったと、そういう見方も成立するのだ。むしろ、それ以外のシナリオは考えにくいのではないか、とイルベチェフは思う。黒龍隊の隊長を拉致するなど、派閥間の争いにしてはあまりにも短慮で、無為に混乱を呼ぶだけの行動であって、あくまで犯人らの苦肉の策という印象を受けるのだ。どこの誰がやったことなのか、依頼されずとも自ら調査に乗り出したくなる。タシケントなら情報源は開拓可能だろう。

 しかし今は、できるだけ早くタシケントでの雑事を切り上げて、西フェルガナ基地に向かうことがイルベチェフの最優先任務である。司令部消滅から一週間が経過しており、基地消滅や特異なバロッグ発生といった諸事象の因果関係を裏付けるためには、時間を置かずに現地を見る必要がある。また、黒龍隊が消滅を免れていた場合でも、日が延びればそれだけ彼らの生存確率が低くなる。もとより長期単独行動など考慮していまいから、そろそろ食糧や弾薬、燃料の不足状態にあるかもしれない。さらに……。

「聞こえないの? カネジュ!」

 ヒステリックなその声をイルベチェフに気づかせたのは、頬に飛んできた平手の痛みだった。叩かれた顔を上げると、いつの間にかすぐ脇に女がひとり立っていて、こちらを不機嫌そうに見下ろしている。

「ト、トーニャ!? 来てくれたのか!」

 イルベチェフはそれがどんな表情だろうと彼女の顔を見ただけで無条件に嬉しくなり、笑顔で隣の席を勧めたが、トーニャの視線は冷たいままだった。

「あなた、やっぱりそれなのね。夜にいきなり電話かけてきて、久しぶりだからと思って来てみたら、隣に立って、いくら声をかけても気づかない」

「すまない。とにかく落ち着いてくれ。君が十時を過ぎても来ないから、考え事をしているうちに……」

「十時を過ぎても? ねぇカネジュ、どこの時計が十時を指しているのよ。あなたが見たのはその時計の、どこの時刻なの?」

 トーニャがイルベチェフの腕を掴み、腕時計を顔の前に持ってこさせる。しまった、とイルベチェフが気づいたのは遅かった。

「どうせオムスクの時間で見ていたんでしょ。これでも私は早めに来ているのよ?」

 迂闊(うかつ)だった。作戦中は作戦標準時で時計を見るが、これはプライベートなことだからと、店に入るときは別の時刻を指している針を見た。それはよかったのだが、代わりに見る時刻の、場所を間違えてしまったらしい。合計で四箇所の時刻を表示するイルベチェフの時計には、作戦標準時と、モスクワ、オムスク、タシケントの三都市の時刻が設定されている。いつも気を抜くときはオムスクにいるため、ついつい、オムスクの時刻を見て十時だと読んでしまったようなのだ。

「すまない、トーニャ」

 素直に頭を下げたが、顔を上げると、もう女は背中を見せていた。

「待ってくれ、帰るのか」

 返事はなく、女は足早に店を出て行く。イルベチェフは慌ててあとを追おうとしたが、立ち上がったところであることに気づき、多めの勘定をカウンターに叩きつける。背後の酔っ払いの視線が注がれるなか、イルベチェフはすでに店の外に出てしまった女の背中を追った。

 街灯のおかげで、トーニャを発見するのはたやすかった。全力で走ったイルベチェフは十秒とかからず彼女の肩を掴むことができた。

「すまなかった。だが、せっかく久しぶりに会えたんだ。帰らないでくれ」

 本心からそう口にしたが、トーニャは彼の手を振り払った。

「もう、あなたとは続けられないわ。あなたは北熊のことばかり考えているもの」

 ふりかえらずに答えた声は、泣いていた。

「そんなことはない。君のことを想う気持ちがあるから、任務や理想からも逃げ出さずに……」

「私、母と一緒に疎開するわ。ここも、危ないんでしょ」

 カネジュの弁明を遮ったトーニャは、そのときはじめてふりかえった。

「それは……」

「でなきゃ、あなたがタシケントに来るはずない。――それくらい北熊のなかでも認められてきたって、嬉しそうにしていたわよね」

 脈絡の飛び気味なトーニャの言葉からは、彼女が過去を懐かしんでいる様子が見て取れた。今だとばかりに何か説得の言葉を並べようとしたが、これもまた出遅れた。遠くを見ていたトーニャの瞳に、突如、強い意志の光が宿り、イルベチェフを正面から見据えた。

「別れましょう」

「何を言うんだ」

「これ以上、思い出を傷つけたくないの」

 言い切って、トーニャは踵を返した。鍛えているはずの膝が震え、イルベチェフは彼女を追うことができない。だんだんと小さくなっていく背中は、一度たりとふりかえることもなく、かつて腕を組んで歩いたその歩調は、やはり力強かった。

 トーニャはやがて角を折れて、その姿を消す。イルベチェフは、彼女のことも、自分のことも罵(ののし)る気にはなれず、ただその場に立ち尽くした。



- 6 -


 明けて二十九日の早朝、イルベチェフは頭痛と胸焼けの残る体を、屋外の冷気に晒(さら)していた。朝日はまだその姿を完全に地平線上に現してはおらず、イルベチェフのそばに座す龍がつくる影は、薄く長いこともあって、さして目立たない。

 龍のふくらはぎについた霜を手袋で払いながら、頭痛があと三時間で治ってくれることを祈った。昨夜、茫然としながらも時間通りに北熊(セヴェルメドヴェーチ)の仲間と会ったイルベチェフは、勧められる以上に飲んだ。おそらく、かつてマトゥモトフや今の直属の上官であるガナ大佐たちと飲酒勝負をやったときと同じくらい飲んだ。その勢いに気をよくした同志は、黒龍隊の件のみならず、公私織り交ぜたさまざまの話を聞かせてくれたが、中身は半分も覚えていない。ただし、黒龍隊に関する情報だけは確実に脳内に刻み込んである。酔いつぶれても肝心要の記憶だけは死守できるのが、彼の自慢のひとつだった。マトゥモトフやガナからは、その特技を生かして幾つかの秘密も引き出すことに成功している。

「大尉、マトゥモトフ少将の読んだとおりになりましたね」

 いきなり声がかかって、イルベチェフは頭を押さえた。

 やたら大きい声の持ち主は、やはり体格も大きなユリウス・I・タマリアノフ少尉。イルベチェフより六つ年下の彼は、新米のときにイルベチェフが世話をしたことがある男で、しばらく前に機兵の訓練を修了して、イルベチェフの機兵小隊の初期メンバーとして組み込まれた経歴を持つ。イルベチェフが上官であるガナ大佐やマトゥモトフ少将に馴れ馴れしいように、タマリアノフもまた、イルベチェフ相手には馴れ馴れしい。

「何の話だ、ユリウス」

「バロッグのことですよ。さすが智将と謳(うた)われるマトゥモトフ将軍。こりゃ普通、予想できません」

 タマリアノフは、そう言って西の空を見やる。その先に見える異様なバロッグは、もう郊外の民家を覆い隠してしまっている。朝日はいつものように見られたが、夕陽は常のようには拝めないだろう。今日は、タシケントへのバロッグ到達予想日だった。

「今日中に、タシケント全体があれにすっぽり覆われるなんてな。まったく、俺たちの隊がいただけでタシケントはずいぶんと助かってますね」

 そう自慢げに言うタマリアノフは、北熊の意志で動いている小隊の一員とはいえ、イルベチェフのように北熊の中核近くにいるわけではない。彼はタシケント行きの理由について、西フェルガナ基地偵察のための経由地点だからとしか知らされていなかったし、ここに来てはじめて、自分がタシケント救援のために派遣されたのだと悟ったばかりである。このバロッグの拡大をマトゥモトフらが予見できた理由も知らなければ、イルベチェフが依然として西フェルガナ基地に行くつもりでいることなど、予想もしていないだろう。そのことを今の返事で改めて確認したイルベチェフは、近いうちに秘密の幾つかを明かさねばならない自分の立場もまた確認していた。

「で、今日はどのあたりが仕事場ですか? もう西のほうの荷はあらかた運んでしまったと思っているんですけど」

 この仕事に嫌気が差しているらしいタマリアノフは、その様子をまったく隠すこともなく、長い輸送の末ひたすら輸送作業にばかり従事している自分の龍を見上げている。

「喜べユリウス。午前の仕事で、引越し屋の真似事(まねごと)はおしまいだ」

 イルベチェフがそう伝えると、タマリアノフはあからさまに喜んだ。

「良かった。明日には部屋の暖房が止まるんじゃないかって、気が気でなかったですからね」

 それを聞いて、イルベチェフはなるほどと頷いた。

 タシケントのような都市では、バロッグに覆われても都市機能が維持できるように、発電所や変電所などに広域型のBFG(バルムンクフィールドジェネレータ)が設置されている。さすがに工場などへの電力供給までは保証しきれず、ラインが止まることもままあったが、人の生活が差し迫って危険に晒されることは少ない。車を低速で走らせ、電子レンジを使わないよう気をつける。市民に必要なのはその程度のことだった。

 しかし今回はいくつか事情が異なる。まずはバロッグが今までにない規模と未知の性質を持っていること。そして第二に、タシケントには平時の数倍の軍隊が集結しつつあるということ。それらを考えると、イルベチェフの部屋よりグレードの低いタマリアノフたちの部屋は、電力供給の優先順位のせいで暖房を制限される可能性があった。

「その部屋だって、軍の集結が進めば他に明け渡すことになるかもしれないからな、今のうちにありがたく使っておけよ」


*   *   *   *   *


 三時間後。イルベチェフの小隊は、タシケント西部からの最後の物資引上げ作業のため、大通りを西進していた。イルベチェフ機のすぐ脇にタマリアノフの龍、その後ろに大型トラック二輛が続き、それぞれの後ろを残り二機の龍が固めている。敵が近づいているという情報はないが、バロッグの中のことなので、近郊まで忍び寄っている敵がいないとも限らない。四機は軽装ながら、火縄などで武装もしている。

 郊外を抜けながら、イルベチェフはいつしか、街の中にトーニャの姿を探している自分に気づいた。彼女はもともとタシケント西部に母親と住んでいたはずだが、このあたりはもうバロッグが濃くなりすぎており、一般生活にも支障が出るので、人はほとんど残っていない。母とともに疎開するといったトーニャが、まだ残っているはずはないのだが、イルベチェフは視線をあちこちに走らせるのをやめることができなかった。

 いったい何がまずかったのか。自棄酒(やけざけ)を飲んでいるうちは思考停止していたが、こうして話す相手もなく密室に収まっていると、否応なしに考えはじめてしまう。

 生来、あまり深刻に悩むたちではないと自覚しているが、さすがにあれは応えた。啓示軍(オフェンバーレナ)との開戦以来、ほとんど会えないようになり、会えても喫茶店で一時間だけ、などということさえあった。そういう一年間が、彼女には耐えられなかったのだろうか。無理もない、とは思う。だが、トーニャから見た自分が彼女より北熊のことを優先する男だったという事実が、単にふられた以上に、胸にのしかかるものを重くしていた。いっそ、他にもっと好きな男ができたといってもらったほうが楽だったかもしれない。

 それは甘えか、と自分をたしなめ、イルベチェフは意識して視点を前方に固定する。ほんとうはサブモニターの計器類にも注意を払うべきなのだが、視線をそらすとすぐにトーニャの面影を追ってしまいそうで、そちらの監視はタマリアノフが請け負ってくれているから大丈夫だと、勝手に決めこんだ。

 そうして進むこと二十分ほど。すでに街並みは消え、最後尾を進んでいた二機の龍は、道幅の制限がなくなったのをいいことにトラックの両脇を固める位置に移動し、護衛の陣形を完成させていた。しかし、もし敵の機兵が近くまで忍び込んでいたなら、この陣形は役に立たない。敵弾が飛んできたとき、機兵はそれぞれ散開して回避することになるが、トラックは避けることもままならずに敵の餌食になるからだ。あくまで火力の低い相手を想定した陣形なのである。

「まぁ、敵が出ることは大凶のおみくじを引くより低い確率だと思うが……」

 祖父の独特な言い回しを久しぶりに使ってみた。日本語で、である。トーニャと付き合い出す何年か前、日本語を学んでいた学生と交際していて、その女性と別れて以来、実家以外ではほとんど日本語を使わなくなっていた。イルベチェフ自身もまだ二十歳をすこし過ぎたくらいの頃の話だから、ずいぶん長いこと日本語と疎遠になっていたものだとイルベチェフは思う。トーニャのことを吹っ切るためにも、また昔のように同僚に日本語講座を開いて、煙たがられて遊ぶのもいいかもしれない。

 そんなことを企んでいると、タマリアノフから通信が入った。

「大尉、どうします?」

 何のことだ、としかたなく計器類すべてを見渡して、イルベチェフは彼が質問せんとするところを把握した。進行方向から、かすかに強めの相対バルムンク反応が検出されている。ただバロッグの濃度に偏りがあるだけならいいが、望遠カメラでよくよく見ると、ちょうど真正面に、小さくうっすらと人の影が見える。人か、あるいは……。

 イルベチェフは部下の龍と大型トラックに警戒を促し、自分は龍の歩行を止めて、その場にしゃがみこませた。イルベチェフの龍が左手を地面につき、裾(すそ)から針のようなものを出して、地面に突き刺す。

「全員、静かにしていろよ。今、足音を聞いている。タマリアノフは俺に代わって正面監視」

 さらにトラックには一旦エンジンを止めろと付け加え、イルベチェフは手元のディスプレイに表示される解析結果を凝視する。距離計の作動が信用できないうえに、視認による距離感も曖昧なため、地面を伝わる足音から正面の人型の判別をしようとしているのである。

 指示されるまでもなく、タマリアノフたちは火縄の発砲準備も整えている。このバロッグの中では狙撃は危険だが、接近してバルムンクフィールドを敵機と共有したところで砲弾を叩き込むという戦術が前線で考案されているし、その訓練はじゅうぶんにさせてある。

「機兵、もしくは乗俑機。機数、一」

 足音からそこまでは判別したが、龍のその機能はあくまでおまけであり、イルベチェフ自身も専門家ではないから、解析結果に全幅の信用は置けない。最近タシケント周辺の部隊は不気味なくらいに統制が取れているから、予定表にない亜連の乗俑機がここにいるはずはない。バロッグの中を探知されずに来たのだとすれば、撤退してきた友軍ということもありうるが、それは同時に敵が侵入できることも意味する。

「俺が接近して敵性かどうか確かめる。ユリウス、五十メートル離れてついてこい。あとはトラックの護衛。索敵怠るな」

 立ち上がったイルベチェフの龍は、火縄をいつでも撃てるように構えなおし、じわりじわりと漸進(ぜんしん)する。正面の機影は、まだぼんやりとしすぎていて機種の判別がつかない。敗走してきた味方か、あるいは敵の斥候(せっこう)か。緊張のなか更に数十歩を重ね、そこでイルベチェフは見極めた。あれは、龍。

 警戒を解いて歩みを速める。だんだんと明瞭になってくる龍の姿を見て、やはり前線から辛(から)くも離脱してきた機体だろうとイルベチェフは推察する。パイロットは負傷してはいないだろうか。ロケットエンジンを使わない限り爆発炎上はありえないはずだが、もし姿勢制御の機構がいかれていれば、派手な転倒でパイロットが大怪我をする危険はある。そう心配するほど、機体はぼろぼろの状態だった。

 バルムンクフィールドの共有と通信が可能な圏内に入った。こちらからフィールド共有を行い、呼びかけるが、返信が来ない。通信機まで故障しているのかもしれない。よろよろと歩くその龍に駆け寄って、肩を貸すように支えると、追いついてきたタマリアノフの龍がもう片脇を支える。

 この龍は、とても歩き続けられる状態ではない。間近で見て、イルベチェフは驚愕(きょうがく)した。よく今まで、歩いて来られたものだ。杞憂どころではなく、実際に何回か転倒しているのかもしれない。

「ユリウス、ここでパイロットだけ救出する。支えが要(い)るから二人も呼んで来い」

「了解」

 一度戻っていくタマリアノフ。支えた龍をひとまず膝立ちの状態に誘導すると、相手はこちらの意図を解したらしく、損傷のわりには驚くほどスムーズに地面に落ち着いてくれた。

 間もなく部下たちが駆けつけ、龍の両脇をしっかりと固めたところで、イルベチェフ機がコクピットハッチをこじ開ける。外から見て、すでに変形によって本来の開閉機構が作動不能になっているとわかったゆえの処置だ。

 できるだけ静かに装甲ハッチを剥がしたイルベチェフは、そこで自ら龍を降り、露出したコクピットに飛びついた。祖父の影響で小さいときから木登りを楽しんできたイルベチェフは、このくらいの高さでは恐怖を感じない。危なげない足取りでコクピットハッチの中に入り込み、視界を阻むメインモニターのパネルを横に押しのけると、イルベチェフはそこに負傷したパイロットを発見した。

「動けるか?」

 声をかけながらパイロットの様子を調べる。

 ヘルメットはどこかにぶつけたらしく塗装がはげ、その奥であえいでいる顔には、乾いた血の筋が認められる。息は乱れているが、まだ弱りきってはいない。上半身を見る限りでは、ひどい外傷もないようだ。

 イルベチェフが力ずくで邪魔なコンソール類をどけていくうちに、その男の目がしっかり見開かれ、イルベチェフを見据えた。トーニャの見せた瞳の力強さに、似ていた。

「私を、タシケントの司令部に連れて行ってくれ」

 そう言ってイルベチェフの腕を掴んだ男は、英語を使いはしたが、よく見れば日本人らしかった。

「わかった。もう大丈夫だ」

 日本語でそう言ってやると、一瞬相手は驚いたような顔をしたが、すぐにその表情は弛緩した。力尽きた彼が意識を失う間際に、彼の唇が紡(つむ)いだ言葉を、イルベチェフは見落とさなかった。

 ありがたい。彼はそう言った。



- 7 -


 イルベチェフは部下たちに任務続行を命じ、自らはトラック一輛を伴ってタシケントへと戻った。助けたパイロットの体が楽なようにと考えて、搬送にトラックを選んだわけだが、トラックにはタシケントからまた折り返して目的地に向かってもらわないと、タマリアノフたちが荷物を積む先がなくなってしまう。とはいえ、どのみちあのパイロットの龍も回収しなければならないから、機兵搬送車の手配もしなければならない。手間としては大差ない。今はそれより、あのパイロットを早く軍医に見せることが優先される。

 司令部に連れて行くと請け合ったものの、イルベチェフは最初からそれを二番目にまわすつもりだった。あの衰弱した体で司令部に行きたいというのだから、それなりに重大な用件なのかもしれないが、いきなり司令部に行ってもすぐにはお偉方と会う段取りはつけられない。ひとまず彼を医者に診させて、その間に段取りを先につけておこうとイルベチェフは計画していた。

 面倒なようなら、北熊(セヴェルメドヴェーチ)のツテを使ってでも時間短縮を図ろうか。そう思いついたイルベチェフは、同時に、なぜ自分がそこまであの男に入れ込むのか、という疑問に行き当たった。

 自分が日系だから、日本人に親近感を抱いたのか。あるいは、同じ機兵乗りとしての同情か。それとも、彼のまなざしにトーニャのそれを見てしまったからか。

 最初は、あのパイロットが黒龍隊の一員かもしれないと少し期待していた。探しに行くまでもなく、そのひとりと接触できたのなら願ってもない幸運だ。しかし、トラックの後部座席に寝かせる際に彼の認識票を見たイルベチェフは、戦略軍第九七旅団という彼の所属を確認している。黒龍隊は戦略軍直轄ではなく、近衛軍の異名を取る極東方面軍第一軍の直轄部隊であって、そもそも第九七旅団というのをイルベチェフは聞いたことがなかった。ダーダネルス作戦にあわせて、戦略軍は各方面軍から選抜したスタッフでいくつも臨時の直轄部隊を編成していたから、第九七旅団というのも、ほとんど名前だけの存在だろう。ともかく黒龍隊とは何の関係もなさそうだった。だから、彼に執着するのは黒龍隊の件とは関係がない。

 イバラキ・タケシ。認識票に刻まれた名には辛うじて覚えがあるから、イルベチェフと近い時期に機兵の訓練を受けたのだろう。階級はイルベチェフと同じ大尉。おそらくイルベチェフと同じように機兵の小隊を率いていたのだろうが、彼の部下はどうなってしまったのだろうか。

 彼はひとりだった。あたりに他の友軍はみつからなかった。途中ではぐれたのか、それとも永遠の別離を経てきたのか。自分にはタマリアノフたちがいるが、西フェルガナ基地の跡地に赴(おもむ)けば、全員が生還できる保証はない。いつ自分が同じ立場に放り出されてもおかしくはないのだと、イルベチェフは実感し、そしてはじめて理解した。トーニャが耐えてきた孤独を。

 自分にとってトーニャは暖かい巣だったが、唯一無二ではなかった。北熊の存在がまたそうだったからだ。自分にはいつもマトゥモトフたちがいたが、彼女にはどうだ。自分がそばにいてやるべきだったのではないか。今更になって気づく自分を、イルベチェフは心底情けなく思った。


*   *   *   *   *


 軍医がイバラキを診察する間に、司令部お偉方との面会のアポを取るのは、北熊のツテを頼るまでもなく簡単だった。最初こそ何の話だと怪しまれたが、第九七旅団の機兵パイロットを保護し、彼が司令部の人間との面会を望んでいる、と包み隠さず伝えたところ、しばし沈黙のあったあと、諒解の返事が来た。どういう地位の誰が会うとは聞かなかったが、場所と時間を指定された。電話の向こうの様子からすると、上の人間の鶴の一声で面会が許可された、という感じだった。

 龍の回収やトラックの埋め合わせの差配を済ませ、ぎりぎりになって疎開を始める市民の一団を横目に病院に戻る。イバラキが移された病室を聞いてそこへ向かうと、ちょうどその病室から軍医が出てくるところだった。会釈(えしゃく)して通り過ぎようとする軍医を捕まえてイバラキの容態を尋ねると、二日も安静にしていれば回復するから、休めるところが他にあるのなら今日中に退院してもいいという。機兵に乗るのはさらにもう二日ほどは待ったほうがいいから、その頃もう一度病院に来い、とも付け加えられた。

 ノックして病室に入ると、イバラキは頭に包帯を巻いた姿で、ベッドから上体を起こすところだった。

「大事無いようで安心した」

 イバラキが怪訝(けげん)な表情をつくるよりまえに、イルベチェフはそう日本語で声をかけた。それで状況を悟ったらしく、イバラキは頭を下げる。

「貴官が助けてくださったか。――日本語をお話しになるのだな?」

「日系ロシア人というやつなので、日常会話はできる。しかし、貴官の使うような硬い言葉までは、対応できかねる」

 今の表現に間違いはないかな、と付け加えて、イルベチェフは笑った。

「司令部に連れて行くと言ったが、間違って病院に担ぎ込んでしまった。申し訳ない」

「いや、適切な判断だ。礼を申し上げる。――お名前を聞いていなかった」

「ああ、失敬。自分はカネジュ・イルベチェフ大尉。北部方面軍の者だ」

「助かった。イルベチェフ大尉。私は……」

「名前なら、認識票で所属ともども調べさせてもらった。だが、イバラキ大尉の名前はどういう字を書くのかな」

 尋ねると、イバラキは病室を見回して、先刻まで着ていたパイロットスーツを指差した。

「胸のポケットにIDカードが入っている。その裏に漢字で署名してある」

「では、拝見」

 サイズこそ違え、パイロットスーツのデザインは基本的に同じものだから、イルベチェフはすぐにそのIDカードを見つけ出すことができた。裏面を見ると、「茨木彪」と達者な筆致で書いてある。

「難しい字を書くのだな」

「名前に関しては、日本人からもそう言われる。タケシとは読めない者が多い」

 苦笑なのか、茨木もまた笑った。

「タケシというのは、この街と少し似た名前だな」

 イルベチェフがIDカードを戻しながらそう言ってみる。日本でのジョークは語呂合わせと簡単なアナグラムが基本だと、祖父に聞いたことがあった。ジョークが通じたかどうか確認するため、顔だけ先にふりかえったイルベチェフは、硬いまなざしに見返された。

「イルベチェフ大尉。ここは、タシケントで間違いないのだな」

「――間違いない」

「そうか、では私はすぐにでもここを出なければならないな。――そう、行かねばならない。そして、問い質(ただ)さねば」

 使命感に突き動かされるように、茨木はベッドから足を下ろし、スリッパではなく靴を探す。イルベチェフは溜め息が出た。

「大事無いとは言っても、まだ安静が必要の体。いったい何をそう急がれる」

「悪く取らないで頂きたいが、それは貴官には語れない。ただ、これは戦地に残してきた部下たちの命に関わることだ」

「では、小隊が全滅したわけではないのか。同じく機兵の小隊を率いる身として、それを聞いて安心した」

 なんとなく自分まで救われた気がして、イルベチェフは本心から嬉しかった。

「しかし、すでに二人の部下を失った。彼らのためにも、私は司令部に行かねばならない。止めても無駄だぞ、大尉」

 立ち上がった茨木は、壁にかけられたパイロットスーツに向かって歩く。自然とその間に立ちはだかるかたちになっていたイルベチェフは、あえて横にどかないことにした。

「泥や血で汚れたパイロットスーツを着て、司令部に乗り込むおつもりか?」

 言われた茨木は、はっと気づいた様子で立ち止まった。

「たしかに、問題があるな。これではあまりにも礼を失する」

 さも困り果てたように茨木は自身とそのパイロットスーツを交互に見る。今の今まで何があっても司令部に乗り込む気でいた男が、なぜそうまで礼儀などにこだわるのかと、イルベチェフはおかしく思った。

「どうだろう、茨木大尉。我ら北部方面軍の制服でよければお貸しするが」

「よろしいのか」

「貴官一人であれを着ていれば面倒が起こるかもしれないが、私が隣にいれば平気だろう。サイズは準備できる」

「それはありがたい。が、隣にいれば、とは一体どういう……?」

 茨木は怪訝な顔をする。

「すでにこちらで、司令部との面会の段取りはつけた。もし貴官が重傷で起きられないようなら、自分が用件を聞いて上申するという話になっていたが、いかがか?」

「何から何まで……。もちろん、私自ら赴く。これしきの傷、なんということはない」

 そう力強く答えた茨木は、その直後、その場でたたらを踏んだ。勢いよく起き出したはいいものの、まだ着替えるべき服がこの場にないので、自分の体の置き場に困ったのだろう。

「服が届くまではおとなしく寝ているといい。今後どのように動くにせよ、体力は必要だろうから。――それから大尉。どのみち私が随行するということで話は通っているから、ひとりで行かせろとは言わないでくれ」

「わかった」

 素直に茨木は頷き、彼がベッドに戻るのを見届けてから、イルベチェフは服の用意のために外へ出た。



- 8 -


 タシケントに集結する部隊を統括する司令部が、市の中心からやや北東に寄ったところに存在する。そこへ車で向かう途中、イルベチェフと茨木はいくらか会話をして、互いの情報を交換していた。

「――少し解せない部分がある。イルベチェフ大尉はタシケントがバロッグに覆われるのを憂(うれ)え、その防備につくために来たと言ったな。では、あのバロッグがここまで拡大すると戦略軍は予期していたのか」

「いや、戦略軍が防備を固めはじめたのは、つい数日前だ」

「そのわりには、混乱が少ないように見える」

「そう、交流の浅い各方面軍が大勢集まっているのに、不思議とうまくいっている。危機にあっては連帯感が増すものなのかもしれないな」

「それではまだ疑問が残る。戦略軍が数日間に動き出したのだとすると、大尉はよく間に合われたな。カザフの南方あたりにでも?」

「いや、オムスクから来た。移動日数の勘定が合わないと思われるだろうが……。北部の智将と謳われ、私の知己でもあるマトゥモトフ少将は、ずいぶんと念入りなお方でね。北部方面軍としての権限のうちで、早期に私の隊の派遣が決まった。それで間に合ったのだから、少将は凄いものだと思う」

 そう説明すると、茨木はイルベチェフの嘘に気づく様子はなく、車窓に視線を転じて「ほう」と相槌(あいづち)を打った。

「タシケントには、ロシア人が多いのだったか」

「よく知っているな、茨木大尉は」

「亜細亜連邦という巨大な連邦組織の軍で幹部をやっているのだ。それくらいの教養はあって然るべきだと考えている」

「それは、少々耳が痛いな。私は日系だから、日本のことくらいは興味があるが、あとは旧CISのことしかわからない。そういうふうに物を知らないから、大尉のような人材が黒龍隊に入っていなかったのを不思議に思っているところだ。日本人の優秀な人材を集めた、というわけではないのだな。黒龍隊は」

「あれはほとんど新米ばかりで編成された。ベテランは、副長ら数人だけだ。……隊長も、年季だけはしっかりしているか」

 小さく付け加えた茨木は、苦いものでも食べたように顔をしかめる。黒龍隊隊長の江藤と仲が悪いのだろうか、とイルベチェフは想像する。

「新米ぞろい、か。それで実戦に出すとは、戦略軍の考えることはわからないな。許可する右院軍事委員会のほうもどうかしている」

「黒龍隊が実戦に出たのか?」

 茨木があからさまに驚いた様子を見せる。

「ああ、大尉は同じ頃に前線に出たから知らなかったか。黒龍隊は十日前にここを経由して、どこかの戦地に向かったらしい。もっとも、今は行方知れず、とのことだが」

「行方不明……。では、黒龍隊もあのバロッグの中に閉じ込められているのか」

「そういうことなのだろうな。大尉の知り合いがいたか?」

「怪我でいったん戦地を離れていた頃、私は後輩の教官として機兵の操縦戦術指南をやっていた。そのときの教え子のひとりが、黒龍隊にいる」

「ほう、教え子が。――私はてっきり、隊長のほうと知り合いなのかと思ったが」

 そう言うと、茨木の落ち着き払った表情が乱れ、崩れる。

「あの男の心配など無用だ。殺しても死なない、という言い回しは、あいつのためにある」

 まるで目の前に江藤博照がいて、それを直接罵っているような口調だった。今まで騎士か王族のような高貴ささえ醸し出していた茨木の豹変ぶりに、イルベチェフは呆気(あっけ)に取られる。どうやら茨木が江藤を知っているのは確かなようだが、それに関して質問を切り出す前に、車は目的地に停車する。イルベチェフは、タイミングを逸した。


*   *   *   *   *


 車が停まったのは、司令部に使われている建物の裏手。人目を忍ぶわけではないが、表が相当混雑しているせいか、裏から回るよう指示されたのである。裏とはいっても、ここはもともと金持ちの邸宅だったらしく、イルベチェフの実家の玄関よりはよほど立派な裏口が構えている。北部方面軍の士官服に身を包んだイルベチェフと茨木は、待ち受けていた下士官に案内されて、司令部の奥へと入っていった。

 何度か角を折れ、階段を下り、札もついていない扉を開けて小部屋を突っ切って行くと、一階フロア付近の慌(あわただ)しい物音はもはや聞こえなくなる。やけに人気のないところへ誘われるので、まさか尋問にでも遭(あ)うのではないかとイルベチェフは想像してしまったが、疑惑を深めるほどの暇もなく、案内人は立ち止まった。そこで待っていた男、案内の下士官が敬礼をするその男を、イルベチェフは見たことがあった。

 神巌慎吾。亜細亜連邦軍総司令官を補佐する副官。相手が名乗るより早く、イルベチェフの脳はそのデータを呼び出した。階級こそイルベチェフや茨木と同じ大尉だが、その地位には雲泥の差がある。あの男の副官を続けていられるということは、相当の俊英であることに間違いはない。だが、表立ってその才能を見せることが極めて少ないのが、神巌という無表情な男の不思議なところである。

「あなたに話を聞いていただけるとは思っていなかった」

 光栄だ、と付け加えた茨木に対し、神巌は首を横にふった。

「私は立ち会うだけです。お話は、中で待っておられる方が聞いてくださいます」

 物腰が丁寧でありながら一切の温かみを感じさせないその声は、かといって慇懃(いんぎん)無礼というわけでもない。神巌慎吾と会ったと語る者は、その印象をうまく言い表せずに必ずほら吹き扱いされる。そういうジョークまがいの噂話が北熊にはあったが、イルベチェフはそれが実話であると知った。

 中で待つ男。神巌がドアの前に立ち、これから同席するというだけで、その男の名は見当がつく。どうりで、タシケントに集まってくる有象無象の軍隊が統制を保っているわけだ。あの男がタシケントにいたのだとしたら、それは全く不思議でもなんでもない現象だった。

 イルベチェフは冷や汗が流れるのを感じた。これはまったく予想しなかったことだった。自分はただ、救出した機兵パイロットが司令部の人間に会いたいというのを仲介し、同伴するだけのはずだった。茨木にしてみれば願ってもないほどのお偉方と会えるわけだが、その彼もかなり緊張していることが、空気を通して伝わってくる。

「ふたりが到着しました」

 神巌がノックして開けたドアの向こうに、応接間のソファーで腕を組んでいる男の姿があった。背はむしろ低めであるにもかかわらず、イルベチェフはその姿を見て圧倒された。部屋に踏み込む足が竦(すく)む。

 亜細亜連邦軍総司令官、金星也。戦略軍の中心拠点である南京にいるのだとばかり思っていたが、この男も黒龍隊同様、思わぬところに現れたというわけだ。しかし、いったい何故。

 渇く喉から名乗りの声を絞り出し、金星也の手の合図で着席する。その間にも、イルベチェフはさまざまなことを考えた。金星也が自分たちのような一介の将校に会う理由とは何か。ただの気まぐれか、それとも茨木の訴えたがっている内容に見当がついていて、自ら直接処理したいのか。

「儂がここにいること、そしておまえたちにこうして会っていることが意外だというのはわかっている。無論、儂とて何の算段も無しに時間を割いているわけではない。しかし、まずは茨木大尉の話を聞こうか。儂の話はそれからだ」

 金星也はそう言い、茨木に遠慮なく話をするよう促した。茨木はイルベチェフ以上に緊張しているように見えたが、彼の内奥の衝動は緊張に勝ったらしい。では伺います、と茨木は切り出す。

「自分は戦略軍参謀本部の命を受け、第九七旅団管下の独立機兵小隊として、啓示軍前線基地の探索、制圧任務についていました」

「儂が下した任務だ。その説明はよい」

「はっ。――それではお聞きします。バロッグに閉じ込められた前線で適用されている亜細亜連邦特別規定第一〇号、あれは正式に戦略軍参謀本部が発令したものでしょうか?」

 茨木の問いに、イルベチェフは息を呑(の)んだ。

 特別規定第一〇号といえば、軍の指揮系統を変則的に運用するという内容で、副作用的な弊害が大きいために滅多なことでは発令されない。それが、あのバロッグのなかで有効になっているという。部下のために、という茨木の言葉の背景にあったものを、イルベチェフはおおよそ推測できた。

 しかし、腑に落ちない話だ、とイルベチェフは疑問に思う。発生以来、バロッグの中に閉じ込められた地域とはほとんど連絡が取れていない。どうやって特別規定第一〇号の発令が伝達されたというのだろうか。

 そこではじめて、イルベチェフは納得する。茨木が司令部に来たがったのは、第一〇号の発令の真偽を確かめるため。

「やはり、そのことか。末端の指揮官には信じがたい部分もあっただろうが、第一〇号は儂が発令した」

 金星也は泰然としたまま茨木に答える。

「正確には、儂が第一〇号発効のための条件を作戦指示ディスクに記載しておいた、と言うべきか。あのようなバロッグが発生することは予想外だったが、各方面の連絡が途絶する可能性は考慮してあった。実害の内容としては大差ない。バロッグによって連絡と連携を断たれた各軍の司令官は、軍団が孤立したという現況を作戦指示プログラムに入力する。すると各軍団の司令官は、時を同じくして、第一〇号発令を認知するというわけだ。――バロッグ内で外との通信が途絶えたのをいいことに、現地の将が虚言を弄(ろう)しているわけではない。儂はそのような勝手を許すほど甘くはないからな」

 この説明で不満があるか、と金星也の顔が言っている。

「たとえ正規に下されたものであっても、前線では第一〇号が効力を持ったために、著しい混乱が生じています。軍閥の我田引水ともいうべき補給差配や、本来管轄外である部隊への強制的な支援要請。しかもその要請の内容は、その部隊を捨て駒とするようなものばかり。多くの将兵が、愚かな地域主義や醜い権力争いのために無用の血を流している……。自分の隊も、押し付けられた危険な陽動任務のために二名を失いました」

 茨木の拳が強く握りしめられる。やはり、イルベチェフの予想と大差ない話だった。

「そうか、その程度で済んでいるか」

 金星也はほくそ笑む。茨木が憤怒(ふんぬ)の感情を抑えきれずに顔に出したが、それも無理はない。咄嗟(とっさ)に言葉が出ない様子の茨木に代わって、イルベチェフは元帥に向かって口を開く。

「第一〇号の発令がなければ、啓示軍によってダーダネルス作戦の一翼を切り崩されるところだった。それに比べれば軍内の弊害は安いもの……。そうお考えですか、元帥閣下は」

「そういう、消極的事態を秤(はかり)にかけるような考え方はつまらんな。儂が用意しておいた対策は、被害を最小限にとどめるためのものではない」

「今回のバロッグ発生が、危機ではなく好機だと?」

「その通りだ。貴様らとて感じていよう、我が軍は決して磐石(ばんじゃく)の組織ではないことを。体内にたまっている膿(うみ)をどこかで出さんことには、この戦争、続けられん。敵がそれを手伝ってくれるというなら、拒むことはあるまい。あのバロッグの中では今、軍という組織の治療がいっきに進んでいるのだ」

「私のような凡愚(ぼんぐ)には、理解しかねます。なぜ、バロッグに閉ざされた前線で第一〇号を発令することが、軍の治療になるのですか」

「バロッグのために後方や横との連絡が途絶え、戦闘もままならず、敵の展開状況もわからない。そんな環境では、いかに狡猾(こうかつ)な狸と言えど、腹の内を隠しとおせるものではない。そこへ第一〇号を発令してみせる。何が起こるかわかるか」

「野心ある者が台頭を図る。雌伏(しふく)の甲斐あった、と」

 苦々しげに、茨木が言う。金元帥は頷いた。

「それで有能な者が出てくるならそれもよし。己の野望ばかり追求して、亜連の益を損なうような輩(やから)とわかれば、摘み取る。危機が切迫していればいるほど、前者と後者を峻別しやすい」

 イルベチェフは目が回りそうだった。この男は、ダーダネルス作戦が準備中だったうちに、それほど複雑な分岐を考慮していたというのか。いや、それとも最初から、こういった機会を求めていたのか。後者のほうが得心が行く。かねてより人材淘汰(とうた)のプランは存在し、今回のバロッグは実施の引き金となったに過ぎないのだろう。つまり、金星也はこのような危機が生じる前から、流血を伴う荒療治を考えていたわけだ。

 あの男は危険すぎる。イルベチェフは、かつてマトゥモトフが金星也を評した言葉を思い出した。

「納得が行ったなら、そろそろ儂の話に移ってもよいか」

 脚を組み替えながら金星也が尋ねる。俯(うつむ)いたままの茨木は言葉を返さず、イルベチェフも辛うじて頷くのが精一杯だった。

「事態は思わぬ好機となった。儂が想定した以上にな。そこでこれを逃さず活用するために、おまえたちに働いてもらいたい」

 その言葉で、イルベチェフは金星也が自分たちに会っている理由を知る。ともに機兵小隊を率いるイルベチェフと茨木は、バロッグの中でも幅広く使える貴重な駒であるに違いない。

「啓示軍(オフェンバーレナ)はこちらの攻勢を切り崩す好機とみて、バロッグ内部で大規模なゲリラ戦をしかけてくるだろう。機兵を用いた作戦展開で劣る我が軍は、それを制しきれない。したがってあの方面は、近隣の戦場から撤退する啓示軍部隊の絶好の退路となる。――そこを利用する」

「逃げ道を絞り込んでおいて、そこへ集まった啓示軍を一網打尽にする作戦ですか」

「そんな機動力は我が軍にはない。殊(こと)に、変則領域内となればな」

 イルベチェフの推測を、金星也は一笑に付した。

「変則領域に関する技術で啓示軍が優越しているのは、認めざるを得ない現実だ。したがって、我が軍があのような未知の変則領域内における戦闘を作戦の要(かなめ)と置くのは、得策ではない。敵を一箇所に集めて退却させる目的は、追撃のためではなく、奴らになんとか西へ撤退してもらうためだ」

「逃がすのですか?」

「バロッグの中で敵と戦っても、戦術レベルで不利。加えて、啓示軍が核なみの戦略兵器を実用化した近況を踏まえれば、下手な追撃で戦力を集結させれば、こちらの損害を大きくすると明白だ」

 核と同等の戦略兵器……。それは西フェルガナ基地を撃った新型バルムンク砲のことだろうと、イルベチェフは確信する。茨木は西フェルガナ基地消滅を知らないはずだが、前線で虹の光とやらを見たのだろう。その恐ろしさについては理解しているようだった。

「ダーダネルス作戦の目的を、どう捉えている?」

 突然金星也は質問をしてきた。前線を押し返すことに決まっているだろうと思ったイルベチェフの横で、茨木が違うことを言った。

「イランの啓示軍支援をやめさせることです」

 金星也が口元に笑みを浮かべ、続けろ、と言う。

「すべての戦線で攻勢をかけることにより、トルクメニスタン進駐、およびアフガンの反体制勢力掃討に干渉してきた啓示軍の行動を阻害。南部方面軍の内患を一掃すると同時に、それでイランの北と東を押さえることができます。当然、米軍はダーダネルス作戦の進行を指をくわえて見てはいられませんから、ペルシャ湾は彼らが勝手に封鎖してくれる。この包囲網の前には、イランも啓示軍との不可侵条約を破棄せざるを得なくなり、啓示軍の事実上の一大前線基地が消えることになる」

 茨木がすらすらと語るシナリオは、なるほどうまくできていた。その回答は正解だったらしく、金星也は不敵な表情のうちにも満足そうな色を見せて、頷く。

「南方はそれで三月までにケリがつく。想定していた唯一の問題は、早期にこちらの意図に気づいた啓示軍が、イラン包囲網の阻止に専念してくる可能性だった。だが今回、その憂いを排除する手段が転がり込んできたわけだ」

 イルベチェフはようやく飲み込めた。バロッグのなかに逃げ込んで撤退を図る友軍を、啓示軍は見捨てない。世界救済という大義によって巨大な組織を保っている啓示軍にとって、前線で敵に追われている味方を見捨てるという選択肢は、ありえないのだ。だから啓示軍は友軍の撤退支援のためにかなりの戦力を割く。同時に、亜連は北から南まですべての戦線で攻勢をかけているから、大西洋側で米軍の相手もしている啓示軍には、イラン方面に重点的に戦力を割く余裕など残らない。

「バロッグの中に前線の啓示軍を押し込むことができれば、一連の作戦が円滑に進む。変則領域の境界付近で機動力と柔軟性を要求するこの任務、機兵部隊こそ適任だ。すでに外廓聯には緊急連絡部を通じて任務を通達してあるが、あれを最前線で使うぶん、東から蓋(ふた)をする役に穴ができた。――茨木大尉、新たな龍を与える。この任務を遂行してもらいたい」

 金星也は鋭い目で茨木を見据える。反駁を許さない視線だったが、しかし、茨木はそれに抗(あらが)った。

「閣下。それは戦略軍参謀本部の下命でしょうか」

「何が言いたい?」

「閣下はさきほどから一度も命令と言う言葉を使っておられない。まるで私を非公式に前線に送り返したいかのように」

 そう指摘する茨木の目つきは、金星也の気迫を撥(は)ね返す勢いを持っていた。金は肯定も否定もせず、ただ悠然と茨木の視線を受け止めている。

「正式な命令でないのなら、依頼と受け取ります。となれば、私も相応の見返りを要求させていただきたい」

 茨木の反抗的ともいえる発言に、イルベチェフは焦った。後ろに控えている神巌の様子を窺(うかが)うと、彼も茨木を制するべきかどうか当惑しているようだった。自分が止めるべきかと思い、イルベチェフが茨木に視線を戻したとき、金星也が面白そうに言った。

「聞こう」

 気骨を気に入ったのか、金星也は茨木を咎(とが)めなかった。ほっと息を吐くイルベチェフに気づいているのかいないのか、茨木は一歩も譲る気配を見せずに口述を続ける。

「私は戦線を離脱し、単機でここへ戻ってきました。また、現地に残した部下にも、カザフスタンへの脱出を指示しています。いずれも、第一〇号に基づいて自分の隊を指揮下においていた、マヒロフスキー大佐の命令に反した行動……。本来なら敵前逃亡の適用にも文句は言えない立場」

「それを、見逃せというか」

「妥当な取引かと存じます」

 ぬけぬけとそう返す茨木は、もはや金星也の気迫など微塵(みじん)も感じていないようだった。言葉遣いに形式上の敬意こそ示しているが、その実、対等に話している。

「よかろう」

 怒り出すかとも思った元帥は、あっさり承諾した。次元について行けない、と呆れるイルベチェフを、金星也の目が捉(とら)えた。

「イルベチェフ大尉は何が望みだ?」

「はあ?」

 思わぬ言葉に、イルベチェフは間抜けな返事をしてしまった。ある意味、茨木より礼を失する。

「自分も、その任務に?」

「タシケントで四機の機兵を遊ばせておくのが、北熊(セヴェルメドヴェーチ)の思惑か?」

 イルベチェフは心臓をつかまれたような心地だった。自分が北熊の中核に近い位置にいることは、もちろん戦略軍情報部のデータにはあるのだろうが、この男は照会するまでもなくそれを記憶しているのか。

「南方を安定させた次は北方だ。イランに啓示軍との不可侵条約を破棄させられれば、再編した西部方面軍にカザフ戦線の南方を任せられる。負担の減った北部方面軍には、モスクワ奪還を任せたいと思うが?」

「そ、それは、当てにしてよろしいのですか?」

 北熊がモスクワ解放を狙っていることまで見通されていれば、イルベチェフはそう念を押すくらいの反応しかできなかった。

「命令ではなく、儂からの個人的な取引の提案だからな」

 いつの間にか茨木の指摘を肯定しているこの元帥は、マトゥモトフと似たようなことを言う。案外、傑物というのは思想や信念が違っても、どこかしら言行が似通うものなのかもしれない。そう考えるとイルベチェフはおかしかったが、しかし顔の筋肉は笑うことをしない。イルベチェフが意志の力で抑えているわけではないのに。

 この男の眼光は、ここまでの力がある。それは、マトゥモトフとの決定的な相違。彼を象徴する言葉は智恵だと北熊の内外で称(たた)えられることがあるが、同等かそれ以上の智恵を持つはずのこの男には、その表現が当てはまらないように思える。この男を包んでいるものは、覇気だ。

 果たして、この男は本気で約束をするつもりなのだろうか。そもそも、金星也とカネジュ・イルベチェフというあまりにも格の違うふたりの間で、約束など成立するのか。ここで言質(げんち)を取ったところで、イルベチェフに意味などない。反故(ほご)にしたところで金星也の体面に傷がつくわけでもないからだ。

 軍の総司令官の考えなど読めないが、この男を包む覇気に、姑息な嘘などが混じっているようには見えない。乗るか、と思ったイルベチェフは、しかし躊躇(ちゅうちょ)する。そんな感覚で北熊の大事に纏(まつ)わる事柄を決めていいのか、と。

 悩むイルベチェフに、かすかな音量で日本語が聞こえた。

「もはや、受けないという選択肢はないぞ。大尉」

 茨木に言われて、そうだ、とイルベチェフは気づいた。ここまで話を聞いてしまったからには、すでに、依頼そのものを断ることなどできないのだ。金星也が非公式に機兵部隊を動かせるということは、暗に、イルベチェフの行動が束縛されうることを意味している。モスクワの件は反故にされても当然として、自由にタシケントから出られる機会を幸運とみなすべきだった。

「――承りましょう。北部方面軍にモスクワ解放をお任せくださる件、どうかお忘れなく」

「働き次第、と言っておこう」

 それは金星也の冗談だったのかもしれないが、イルベチェフは緊張の飽和による脱力のために、もはやそんなことを考えていられなかった。あとは茨木が会話のすべてを行い、イルベチェフが気づいたときには、亜細亜連邦軍最高権力者との会合は終わっていた。



- 9 -


 ホテルのベッドに突っ伏していたイルベチェフは、昼を過ぎて、部下のタマリアノフの来訪を受けた。物資の引き揚げと、茨木の龍の回収が済んだらしい。

「ひとりだけ寝ているなんて、隊長失格ですよ、大尉」

 不平を垂れるタマリアノフは、ベッド脇の椅子に腰掛けて、イルベチェフに任務終了の報告をする。

「で、これからどうするんです? タシケントの警戒任務ですか」

「いや、機を見てタシケントを出る」

「次はどこへ?」

「西フェルガナ基地のあった場所だ」

「どうしてそんなところに。あそこはもう友軍の施設は残っていないし、そもそも今はもう敵の勢力圏内ですよ」

 タマリアノフはさっぱり納得がいかない、と表情で語っている。

「第二独立機動混成団の花形たる、イルベチェフ機兵小隊に突破できないとでも言うのか」

「いえ、そうは言いませんけどね。でもあそこ、わざわざそんな危険を冒す価値のある場所ですか?」

「――ユリウス、秘密を守れるか?」

 声を落としてそう尋ねると、タマリアノフは笑った。

「秘密の内容によりますよ。大尉の失恋話だったら、噂にしないではおけない」

「誰かそんなことを言っていたのか?」

「昨夜の酔い方は、尋常じゃなかったですからね。そんな理由でもあるのかなって思っただけです」

「真面目に聞けよ、ユリウス」

 胸の痛みを隠し、イルベチェフはマトゥモトフの神妙な口調を真似た。

「これから俺たちは北熊(セヴェルメドヴェーチ)独自の、いや、マトゥモトフ少将の意志で動く。だが、おまえたちに少将の思惑のすべてを語るわけにはいかない。それでも、おまえたちは俺についてくるか?」

「命令でしょう? 行きますよ」

 他に答えを知らないと言うふうに、タマリアノフは怪訝な顔をする。

「正式な命令でなければ、俺にお前たちの命を預かる権限はない。それなら、どうだ?」

 イルベチェフは茨木の言動を思い出しながら、再度訊(たず)ねる。茨木の部下はきっと、即座に肯定の答えを返してくるのだろう。ユリウスはなんと答えるのか。

「わからないですね」

 タマリアノフはあっけらかんとしてそう答えた。

「――だろうと思った」

 イルベチェフは顔をベッドにうずめる。

 茨木には個人としての思想、信念があり、貫こうとする道が見えた。しかし自分は、北熊の一員でしかない。個が不足している。だからこそトーニャも去っていった。

 自分も個として北熊に参画できるだろうか。個の立場で世界を考えられるだろうか。

 いつかそうなりたい。イルベチェフは久しぶりに、ただの個人としての願望を抱いた。



――続く――