黒龍隊の挽歌 第二十二話

負うべき責



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 茨木彪(いばらきたけし)。

 戦略軍第九七旅団独立機兵小隊――二〇二三年一月八日付けで紫龍隊という名を与えられた――の隊長。階級は大尉。男性。三十四歳。

 二〇〇七年四月、極東方面士官学校に入学。俊英揃いの同期生のなかでも卓抜した才覚を現し、首席と僅差の次席にて同校を卒業。陸軍少尉に任官され、極東方面軍及び東部方面軍にて遺憾なくその才を発揮した。

 しかしながら潔癖な性格と理想主義が祟(たた)り、彼の昇進のペースは凡庸なものとなった。その目覚ましい功績と部下からの厚い人望に比して言えば、明らかに不当な扱いだと断言できる。

 茨木彪と上官との衝突は、かの江藤博照少佐と同等の頻度といわれているが、奇しくもこのふたりは、士官学校でひとつの机に向かった同期生である。似た者同士のようでいて、しかし二人の態度には決定的な違いがあった。江藤が孤軍奮闘で我を通し、受け入れられずに左遷されるのを繰り返したのに対し、茨木は常に友人や部下に助けられ、地道に対立の溝を埋めることで自らの居場所を確保し続けた。前者は、問題発生の原因を外部に定義し、環境のリセットによって正常化を図ろうとする志向の表れと言える。また後者は、問題直面に際して例外なく対処療法に徹する指針の結果だろう。

 江藤博照は外廓聯赤龍隊という環境をリセットされ、黒龍隊の隊長となった。茨木とはまた別種の理想主義者である江藤が、与えられた環境に満足できたのかどうか。彼らが行方不明である現在、評価を下せない。一方、茨木彪は第九七旅団独立機兵小隊という、外廓聯や黒龍隊とは比べるべくもない末端部隊の隊長を任された。そして部隊壊滅の危機に瀕しながらも、軍総司令である金星也(キム・ソンヤ)との直接会談によって小隊の存続、いや再起を実現してみせた。

 金星也は茨木彪に期待している。四機の龍(ロン)を手配し、紫龍隊という新たな名とともに茨木に与えたのがその証拠だ。金星也の目的が、外廓聯の組織拡大に向けての布石であるのか、あるいは行方不明である黒龍隊の代役確保であるのかはわからない。ただ元帥の思惑はどうあれ、紫龍隊という名は茨木彪の双肩に重くのしかかっているだろう。それは間違いない。

 ――そして。

 小嶺凪沙(こみねなぎさ)は思う。それは自分にとっての重圧でもあると。

 前線に戻る茨木彪の部隊に同行し、茨木彪個人の身辺警護と動向監視を遂行する。それが凪沙の与えられた役目であり、RAT(ラット)特務員「CS100」としての任務である。

 二〇二三年一月十日。

 未明のうちにカザフスタンの国境を越えた紫龍隊は、トルクメニスタン中部で撤退中の啓示軍(オフェンバーレナ)の車列と遭遇。百五ミリ砲による狙撃で大型トラックを走行不能として足止めし、掃討を後方の山岳師団に任せて南下を再開した。

 それは凪沙が初めて目にした機兵の実戦の模様だった。そして、予備知識から想像はついていたが、やはりそこに凪沙の関わる余地はなかった。凪沙には機兵どころか乗俑機(じょうようき)を動かす技能すらない。

 任務がこの調子で進行するのなら、凪沙はこの紫龍隊に必要ではない。しかし凪沙は派遣された。神巌(かみいわ)慎吾大尉から伝えられた命令は、金星也元帥のそれと等価である。ならばこの配属には意味がある。必要がある。この先、それだけの苦難が待ち受けているという意味でもある。

 準備は可能な限り整えておいたほうが良い。特に警護と監視の対象である茨木彪の素性と人格については、事前に与えられたデータでは情報が不足している。やがて直面する危険をいち早く察知し、適切に対処するために、さらなる情報の収集と分析が不可欠だろう。

 凪沙は今、部下たちとともに機兵の整備に取り掛かった茨木彪の背中を眺めている。もしスパナで彼に殴りかかるものがあれば、すぐさまその肩を撃ち貫けるし、必要であれば即死させることも容易である。

 厄介なのは敵を敵と識別するまでの戦いだ。それに比べると、見れば敵とわかる相手を追っている連中は楽なものだと凪沙は思う。見えない危険を察知する能力が、彼らには全く欠如している。凪沙は違う。見えないものも感じ取れなければ、凪沙は今日まで生きてこられなかった。今の居場所を見つけてからは、いっそうその能力に磨きがかかった。もはや凪沙は彼らとは異なる動物である。闇に生きるRAT(どぶねずみ)。

「わたしは日陰で、おまえたちは日向で生きているんだよ」

 誰にも聞こえない場所で、凪沙は密かに空気の疎密波を生じさせた。



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 乾(いぬい)大輔は満足していた。小隊を救うべく単身タシケントへ向かった茨木が、目的を果たして帰ってきてくれたからだ。それのみならず茨木は、装備も立場も半端(はんぱ)なものしか与えられていなかった乾たちを、紫龍隊という立派な遊撃部隊として生まれ変わらせてくれた。おかげで、乾が座る龍のコクピットシートも新品になった。

 第九七旅団独立機兵小隊は、ダーダネルス作戦のために急遽(きゅうきょ)編成されたものだが、茨木をはじめとする数人とは以前も同じ部隊にいた。機兵を操縦できる人間、機兵を整備できる人間がまだまだ少ないのだから、自然とそうなる。長い者では数ヵ月の付き合いだ。一方、同じ機兵パイロットである副長の姜(カン)大尉や楠木(くすのき)少尉とは、先月初めて顔を合わせた。最初は連携がうまく取れなかったが、ダーダネルス作戦の開始から数日のうちに、息はぴったりと合うようになった。――合わせないことには生き残れなかった。

 物量で前線を押し返そうとする友軍に随行し、進路上の変則領域を飛び回って、在来兵器に代わり偵察や砲撃、制圧を遂行する。それが乾たちに与えられた任務だった。特に、啓示軍(オフェンバーレナ)の補給ルートを炙り出し、虱潰(しらみつぶ)しにする目的があったため、先鋒部隊に同行して敵地に突き進むことになった。結果、ときとして苛烈な反撃を受けたのだが、しばらくは小隊から死者を出すことなく戦い続けることができた。戦果もまずまずだった。

 風向きが急に変わったのが、十二月二十四日。ちょうど作戦開始から一週間が過ぎようとしていたその日、東から変則領域の霧――バロッグが迫ってきたのだ。それは過日、遥か東で発生し、拡大が懸念されていたものだった。

 変則領域内では、機兵の数が多い啓示軍が圧倒的に有利となる。それを理解していたアカスティン・マヒロフスキーという大佐は、特別規定第一〇号を利用し、友軍を敵の反撃から守るための陽動任務を乾たちに押し付けた。茨木は戦略軍直轄部隊であるからとこれを拒否しようとしたが、そのはったりは通用しなかった。マヒロフスキーは第九七旅団独立機兵小隊にその権限がないことを知っていたのだ。

 友軍を助けるつもりは、もとより乾たちにもあった。マヒロフスキーの命令を拒否しようとしたのは、その計画が元老院派を優先して撤退させることを念頭においており、継続的に、そして結果的に最も多くの友軍将兵を撤退させようと考えていた茨木の案とは、やるべき仕事が完全に食い違っていたからだ。

 結局命令には逆らえず、マヒロフスキーの思惑通りに乾たちは奔走した。そして多くの敵と、なにより疲労と物資の不足に悩まされ、翌日までに二人の戦死者を出した。さらに負傷者十名。部隊の過半が戦闘不能に陥った。

 隊長の茨木は決断を下した。残る友軍の守備と退路確保を諦め、自分たちだけ戦場を離脱すると。

 茨木らしくない。それが乾の正直な感想だった。なぜなら、その行動は命令に違反していたからだ。しかし、生き残るには他に道はないだろうとわかってもいた。実際、茨木の決断のおかげで、部隊からそれ以上の死者を出さずに済んだのは確かだ。ただその代わりに、後回しにされた議会派や無派閥の部隊で多くの死者が出たことも、想像に難くなかった。

 他者を見捨てて生き延びたからには、それに見合う代償を払わなければ気がすまない。なんとか戦場から撤退したのち、乾は自分の気持ちを茨木に伝えた。すると茨木は苦々しげに言った。

「今のままでは、我々には償いの権利すら与えられないだろう」

 そのとき乾は、命令に背くことの罪の重さを、双肩に感じた。しかし、命令どおりに戦い続けて果てればよかった、というような後悔のしかたはできなかった。命令が状況に即した最適なものであれば、自分たちも、近くの他の部隊も、犠牲を最小限に抑えられたに違いなかった。呪うべきは、命令が最善の策と異なっていたこと。あるいは、巨大なバロッグが発生したことだろうか。

 握りしめた乾の拳に触れ、茨木は再び決意を口にした。残った最後の龍でバロッグの中を横断し、タシケントまで戻る。そして部隊の未来を繋いでくる――と。

 啓示軍の反攻で退路が断たれている可能性は高かった。茨木を止める者もあったが、結局、彼は自分の意志を貫いた。そして帰ってきた。命令違反の不問について金星也(キム・ソンヤ)元帥から直々にお墨付きを得て、新たな任務と、そのための道具を与えられて。

 部隊は紫龍隊として新生し、乾は借りを返す機会を得た。バロッグに覆われたことで一時的に反撃に出ていた啓示軍も総じて撤退に転じているらしく、過日乾たちが撤退を余儀なくされた位置まで、一戦も交えることなく踏破できた。さらに昨日は啓示軍の一隊を拿捕(だほ)することに成功。そして今日も新たに、近くに撤退中の啓示軍部隊がいることを突き止め、追撃の最中である。

 茨木が戻ってきて、すべてのことが順調に運んでいる。最初に同じ部隊にいた頃に比べ、乾は何倍も高く茨木彪を評価している。戦略軍も今回の一件で遅まきながらその実力に気づいたのだろう、茨木の警護のために、特殊部隊の人間をひとり同行させてきた。

 特殊部隊の隊員が来たと聞いて、乾はいかつい年上の男性を想像していたのだが、茨木を出迎えに走った乾が彼の傍らに見たのは、どちらかといえば小柄の、そしておそらく年下の女性だった。これには大いに驚かされた乾だが、きっと柔よく剛を制すというタイプなのだろうと思い、心配はしていない。

 この小嶺伍長、少々とっつきにくいのが難点だが、乾と同じ日本人であるからコミュニケーションのツールには事欠かない。あと数日もすれば打ち解けるだろうと乾は楽観視している。母国語どうしではろくに会話にならない相手も紫龍隊には少なくないが、彼らと乾たち日本人隊員の間に深刻な溝は存在しない。あの気難しい姜(カン)大尉ですら、ともに過ごすうちにだいぶ人当たりが柔らかくなったという実例がある。

 すべては順調だ。



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 その夜、装備を外して寝袋に潜り込もうとしていた楠木は、ある異変に気がついた。寝袋のそばに置いていた背嚢(はいのう)の、紐(ひも)の結び方が違っているのだ。

 誰かが触ると思って警戒していたわけではない。ただ、結び目を非対称に作るのが子供の頃からの癖だったので、体を横たえたときに目に入った、その綺麗な結び目に大きな違和感を抱いたのだった。

 楠木は、そばに寝袋を準備していた整備班員の尹慶珠(ユン・キョンジュ)を捕まえて、自分の背嚢に誰か触らなかったかと訊ねてみた。

「知らないなぁ。確かに弄(いじく)られた形跡があるの? 冴子(さえこ)の荷物を漁るなんて、そんな度胸のある人がうちの隊にいたかな……」

 一言余計よ、と慶珠を小突き、楠木は寝袋の上に胡坐をかいて考え込む。任務上、他の誰かが借用を希望するような物品は、この背嚢には入れていない。過去に例外となる事例がないでもないが、楠木の記憶が確かならば、この時期に鎮痛剤を必要とする女性隊員はいないはずだった。

 考えていても始まらない。楠木は憎らしいくらい端整な結び目を解き、背嚢の中を検(あらた)めた。基本的に中身を替える機会がないので、チェックに時間はかからない。なくなったものも、混入したものもない。それどころか、中の荷物の配置はおそらく最後に彼女自身が触れたときと同様に保全されていた。変化があったのは、結び目だけだ。

 勘違いか。たまたま、注意せずに結び目を作ったら、こうなってしまったのだろうか。楠木は釈然としないながらもそう結論付けようとして、ひとつ忘れていたことを思い出した。

 ――小嶺凪沙。

「ねえ、キョン」楠木は寝入ろうとしていた尹慶珠の肩を叩く。「例の茨木大尉の護衛が、このあたりをうろついていなかった?」

「んー。このあたりをっていうか、あの子、そこらじゅう歩き回っていたよ?」

「嘘。あいつ、大尉にずっとつきまとっているじゃない」

「ああ、冴子がいないときよ。つまり、龍(ロン)が出払っているあいだのこと」

「ああ、なるほど。茨木大尉が龍に乗ったらついていけないから、その間は自由行動ってわけだ。――何か不審な様子は無かった?」

「その質問のほうがよっぽど不審。冴子、妬(や)いてる?」

「バカ言ってるんじゃないよ。早く寝ちゃえ」

 あんたがそれを邪魔したんじゃない、という呟(つぶや)きを背後に聞きつつ、楠木は立ち上がった。そして寝袋を敷いていた窪地(くぼち)から這(は)い出ると、そこからカムフラージュネットをかぶったトラックを見やる。小嶺凪沙はそこで寝ているはずだった。楠木は人目につかないよう注意しながらトラックへ向かった。

 当然だが、敵地にあって、部隊が全員眠ることはない。紫龍隊でも、睡眠のタイミングを調整して常に隊員の三分の一が起きておき、見張りをするようにしている。今は龍のコクピットで乾大輔が、そしてヤドカリや指揮車輛の座席で四人が起きているはずだ。彼らに見つかるとまずい。機兵パイロットが休むべき時に休んでいなかったとばれたら、茨木はともかく、融通の利かない姜(カン)大尉から説教を喰らうのは必定と言える。何を言われるかが予想できるだけに、それだけはどうしても避けたい。

 幸い、ヤドカリの座席についた張り番は外敵の接近にすべての注意を振り向けており、前輪に貼り付くようにして頭をかがめて通過すれば、突破は容易だった。乾の龍も、ヤドカリとは反対側を警戒するために楠木に背を向けている。龍の後方監視カメラの視界から完全に隠れるのは無理だったが、後方監視カメラは動体センサーと連動していないから、乾が絶妙のタイミングでサブモニターに視線を転じない限り、楠木が見つかることはない。

 いずれもハードルの低い関門だった。楠木は見咎(とが)められることなく小嶺凪沙の眠っているトラックに辿(たど)り着き、窓から中の様子を窺(うかが)った。華奢(きゃしゃ)な外見からは信じがたいことだが、小嶺は特殊部隊の出身という話だったので、物音を立てないよう細心の注意を払う。しかし、座席には誰の姿も見当たらなかった。

 もしかして、当番以外の時間も起きていて、見回りをしているのかもしれない。あるいは、眠っている茨木をすぐ近くで警護しているのか。後者のイメージを頭に浮かべたときに幾分の腹立ちを覚えた楠木は、トラックから離れ、足取り早く転進した。――そしてその足を見事に掬(すく)われた。そばには何も掴(つか)むものがなく、楠木は枯れ葉の積もった地面の上に突っ伏した。

「不審な行動は慎むべきですね、少尉殿」

 馴染みのないその女の声は、状況からして間違いなく小嶺凪沙のものだ。寝返りを打ち、すぐに立ち上がろうとした楠木の眼前に、拳銃が突きつけられる。

「誰に銃を向けてる」

「楠木冴子少尉」

「あたしが誰かの脅威に見えるのか」

「自分にとっての脅威ではありませんが、しかし紫龍隊にとっては脅威かもしれませんね。この隊から出た二名の戦死者は、いずれもあなたのそばで……」

 そこで楠木が突きつけられていた銃を掴み、小嶺は口をつぐんだ。

「三人目の戦死者になりたくなかったら、二度とそれを言うんじゃない。わかったか」

「以後、気をつけます」

 小嶺が銃をしまい、楠木に手を差し出す。楠木はそれを無視して立ち上がり、二秒のあいだ相手の顔を睨(にら)みつけたあと、踵(きびす)を返した。

「ここはまだ安全なうちだ。だから今夜はゆっくり寝ておけ。――それだけ言いに来た」



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 一月十二日。

 夜明け前にキャンプを撤去した紫龍隊は再び移動を開始したが、正午前、突然砂漠につきあたり、辿(たど)っていた轍(わだち)をそこで見失った。北のキジルクム砂漠の飛び地、とでも言うべきだろうか。紫龍隊の持っている地図情報には、その砂漠についての記載がなかった。完全に想定外である。途切れた線を繋げようにも、見渡す限りの地平はバロッグの可視光干渉によって霞(かす)んでおり、地上十メートルを超える龍(ロン)の視点から探してみたところで、轍の続きは見当たらなかった。

 この深い変則領域の霧は、紫龍隊側の追跡を困難にするだけでなく、啓示軍(オフェンバーレナ)側の待ち伏せを容易にする。茨木はいったん進行を停止し、副長の姜宗義(カン・ジョンイ)と進路選択について協議することにした。

 茨木も、そして姜のほうも、ふたりだけで話をするつもりだった。しかし小嶺凪沙は頑として会話の届く範囲から離れようとせず、茨木も例外を認めざるを得なくなった。そしてひとりの例外を認めた時点で、乾が近寄るのを制止する言葉は無力化され、さらには楠木までもが加わって、結局五人が集まってしまった。

「バロッグの晴れる兆候が見えない限り、やはり前進は慎重を期すべきだ」

 討議の始めに、姜が乾に視線を向けた。轍を探そうと砂漠の中に踏みこもうとした乾の軽挙をたしなめる、という意図が込められているのは明白だった。

「しかし、急いだほうが」

 乾は手短にそれだけ口にして反論する。それ以上具体的なことを言わずとも、全員がその先を理解していた。紫龍隊として再生が叶(かな)ったその日に、茨木は隊の全員に作戦概要を説明してあるからだ。

 十二月二十九日、タシケントで金星也(キム・ソンヤ)が語った当初の計画では、茨木たちはバロッグの辺縁でうまく攻撃と補給を繰り返し、牧羊犬の如く啓示軍を西へと追い立てればよかった。しかし、いまや状況は金星也の想定から大きく逸脱している。バロッグは半径五百キロメートルの大きさにまで拡大し、東ではとうとう金星也のいたタシケントを飲み込んだというのだ。

 このバロッグの拡大は、撤退しようとする啓示軍部隊にとっては、総合的に見てプラスとなった。亜細亜連邦軍の数倍の密度で配置してある機兵の有効活用が可能となり、さらに索敵を免(まぬか)れることで退路の選択範囲が広がった。

 戦場に復帰する前に茨木たちが立てた作戦では、各地の警戒網と戦力の配置から判断して、トルクメニスタン東部からイラン北東部へと啓示軍を追い込む予定であった。しかしバロッグがいっこうに晴れないために、啓示軍の撤退ルートを紫龍隊の側から誘導することはだんだん難しくなってきている。この予期せぬ砂漠との遭遇で、とうとう予定は明確な破綻(はたん)を迎えたと言っても過言ではない。そして軌道修正を考えるならば、ここで追走中の啓示軍部隊を見失うことは避けたいところなのである。

「敵の立場で考えると、砂漠の中でルートを曲げて、トルクメニスタン西部に抜けようとする可能性が高いでしょうね」

 楠木が、手にした工具で砂に地図を描き始める。中央アジアの国境線が大雑把に引かれたところで、そこに啓示軍の予想撤退ルートが書き加えられる。姜はそれを見て頷(うなず)いた。

「相手にとってはそれが無難な道だ。そのまま『中立』のイランに逃げ込むにしても、アシハバードあたりで戦力を結集して防衛線を張るにしても、余裕がある」

 納得いかないという表情で乾が首を傾げる。

「ですが、姜大尉。敵さんも、追撃されていることには気づいているはず。無難な道は予測が容易な道ということでもあるんですから、そんなバカな真似は……」

「相手も部隊間できちんとした連絡を取れてはいないのだから、合流を図るために、敢(あ)えて誰でも思いつきそうな案を選ぶのが必定だ。ひとまず戦力を結集できなければ話にならない。当然、自発的に陽動に乗り出す部隊も現れるだろうが、今追っている部隊にそれだけの機動力はない。まず、合流を第一に考えるはずだ」

「トルクメニスタンを縦断するなら、今度はカラクム砂漠が待っていますよ?」

「勉強不足だな、中尉。カラクム砂漠には、東欧へ向けたパイプラインの建設にあわせて、断続的にだが道路が敷設されている。しかも、あの国には啓示軍を支援する者も残っているだろう。砂漠越えは決して不可能ではない」

 姜に論破された乾は、鼻の頭を掻(か)き始めた。反論の構築に移った証拠だ。茨木は無為に時間を費やすことを避けるため、先手を打った。

「乾。私も姜大尉と同意見だ。――いや、あるいはこの砂漠を西に突破したところで北に進路を変え、ダシュホヴス経由でアラル海方面に行くという手も彼らにはあるな。そちらは外廓聯(がいかくれん)とやりあう可能性があるが、連中はおそらく外廓聯の動きを知らない」

「確かに、ウズベキスタンの早期確保が元帥の青写真に含まれていることと、外廓聯がその実現のために動いていることを知っている者は、亜連でもごく少数だな。情報を持たない啓示軍が、アラル海方面を安全だと判断する可能性は高い」

 今度は姜が茨木に同意する。顔を合わせたばかりの頃からは、想像しにくい状況である。

「つまり、西に逃げられた場合にはその先で外廓聯が待っているので我々が追う必要はないわけですね。すると、待ち伏せに注意しつつ南下して、我々もカラクム砂漠を越えるというルートですか……。オアシスで敵の部隊を集結させないようにすれば、こちらの戦力でもじゅうぶんに対処が可能でしょうね」

 地図を書き終えた楠木は工具を弄(もてあそ)んでいたが、それを乾が取り上げた。

「いや、補給のことを考えれば、確たる証拠もないのに南下するのはよくない。そうですよね、茨木大尉?」

「そうだ。他の部隊が追いついて、補給が確保されるまでは、迂闊(うかつ)に南下することはできない。しかし、後続が追いつくのをただ待っているわけにもいかない。他の部隊にはできないことを為すために、我々は紫龍隊の名を与えられたのだからな。今やれることを見つけ出し、実行する必要がある。――姜大尉、君は後続の到着を待つ立場か?」

「補給と適切なバックアップがなければ機兵とて満足に戦えないことを、尾西(おにし)少尉の死が我々に教えてくれた。俺は彼の死を無駄にする気はない。もちろん、俺自身の命もだ。この砂漠にどんな罠があるとも限らない、ということも忘れては困る」

 戦死者の名前が出たことで、茨木は胸が疼(うず)くのを感じたし、乾の眉が動き、楠木が一瞬硬直したのも見逃さなかった。冷血漢を装い敢えて尾西の名を出した姜とて、抑揚に平素との違いがあった。ただ小嶺凪沙だけが、何の感慨もなさそうに、茨木たち四人を眺めている。

「西を捜索する。MMアクチュエータの砂漠での疲労速度が心配だ。補給ルートが確保されるまでは、機兵の部品への負荷も極力避けることにする。以上、反対意見はあるか?」

「決定には従う」

 姜が即答し、乾と楠木が無言で頷いた。



- 5 -


 未知の砂漠を北側に迂回して、日没を迎えたところでその場にキャンプを設営した。それからも茨木、乾、楠木がそれぞれ機兵で探索に赴いたが、結局、轍などの痕跡(こんせき)を見つけることは叶わなかった。

 乾などは落胆した顔だったが、まだ追うべき方向を誤ったと断じるには早い。砂漠を迂回した紫龍隊の移動速度は、追跡中の啓示軍(オフェンバーレナ)部隊を大きく上回っている。したがって目指す方角が同じでも、気づかないうちに追い越している可能性があるのだ。この件については姜宗義(カン・ジョンイ)が部下たちに説明していたようで、凪沙はそれを見て紫龍隊の内情について認識を深めた。

 隊長の茨木と副長の姜。将官としての器ができているのはこのふたりだけだと凪沙は断定している。乾はまだ経験不足で、実戦という環境で自らの能力を発揮できていない。楠木は論外だ。乾や楠木には、当然、人を使いこなすことなどできはしない。RATの真の隊員である「特務員」と、警備会社としての表の顔を演じるために雇われているエキストラたちの違いに似ている。そう連想したとき、凪沙は自嘲したものだ。自分はいつの間にこれほどRATに同化したのだろうかと不思議だった。六年前は、まだ自分がこうなるとは予想できていなかった。

 かぶりを振って、凪沙はキーボードに指を走らせるのを再開した。後日上官に送るための報告書を作成していたのだ。機能を絞り込むことで電力消費を抑え、且(か)つコンパクトにまとめられた簡易PCは、RATの特務員がしばしば使用するSMITS(スミッツ)製のものだ。ただし、茨木以外の隊員にはRATという身分を隠している都合上、機種は敢えて古いものを使っている。最新機種はSMITSとRATだけで用いられ、軍や民間市場に出回ることはないからだ。

 凪沙の背後には、龍(ロン)が砂場の幼児よろしく掘った穴がある。風や砂に対する遮蔽物が不足していたため用意したものだ。ここのほかに、大小あわせて六個が作られた。それぞれの穴には風下に向かって緩やかな傾斜がつけられており、そこから人が穴の中へ出入りするようになっている。凪沙の背後にあるこの穴には、睡眠中の茨木がいる。さきほどまでは姜がいて話をしていたが、今はひとりだけだ。出て行った姜は、楠木と機兵の張り番を交替したらしかった。

 姜宗義は機兵のパイロットとしての資格と技量を持っている。しかし彼が実際に龍に乗り込むのは、こうして張り番に立つときや、整備のために龍を少し動かす必要があるときくらいのもので、行軍や偵察、戦闘を前提とした起動の折には、彼は必ず指揮車輛で待機している。金星也(キム・ソンヤ)が用意した四機の龍が、同時に戦闘に出て行ったことはまだない。人と機兵の双方の消耗と休息を考慮すれば、すべての龍を同時に動かすことは必ずしも適切な運用ではないだろう。しかしその解釈では、待機するパイロットが常に姜であることに関する疑問が残る。その答えについて、凪沙はすでに察しており、先日報告書にも記載した。姜は、前の撤退戦で負った傷がまだ癒(い)えていないのだ。

 姜の身体に限らず、隊全体が傷を治しきれずにいると凪沙は観測していた。前々から感じていたことだが、今日はそのことについて加筆する良い機会だった。昼間、姜が口に出した戦死者の名。凪沙がそれを耳にしたのはそれが初めてだったのだ。

 尾西隆範(たかのり)少尉は十二月二十五日に戦死した機兵パイロットである。楠木冴子と同様、幹部一年目で機兵パイロット養成課程に志願したクチだ。茨木のような最初期の養成を出た者を除けば、亜連の機兵パイロットは若く、殆(ほとん)どが二十代の前半である。SMITSで聞いたところによれば、外廓聯では十代半ばの採用もあるから、全体で平均をすれば二十三歳になるという。尾西は、その二十三歳の誕生日を目前にして散った。文字通りに、徹甲弾の直撃を受けて肉体を引きちぎられたのだ。混乱した戦場でのことであり、遺体はおそらく誰も回収していない。遺族が彼の死を知らされるのはまだ先のことになるのだろう。――凪沙には無縁の話であるが。

 尾西を含む二名の戦死は、将校であり機兵パイロットであるという二重の責任を負った茨木たちに、暗い影を落としている。だが、挽肉となった尾西の体を見る機会が彼らにあったとは思えず、凪沙にはどうしてそこまで仲間の死を引きずっているのか感覚的に理解できない。啓示軍が侵攻を開始して以来、戦死者が出るのは決して珍しい出来事ではない。前線から遠い日本や韓国の人間で構成されている紫龍隊だが、隊員はそれぞれ昨年秋ごろから各地で前線に出ており、この程度のことで落ち込むなど今更ではないか、と思えるのである。

 もっとも、凪沙が軍の――いや、「外」の人間の感覚についていけないのは、このことに限らない。よくあることだった。だから凪沙はできるだけ主観に起因する違和感を除去し、客観的に彼らの精神的な問題点を報告書に記述した。

 書き上げた文章をざっと読み返しつつ、凪沙は今日も、自分がここに送り込まれた理由を考えていた。紫龍隊と、茨木彪個人についての観測結果を毎日報告書にしたため続けているが、自分が茨木を守り抜くために送り込まれたのか、あるいは、いつでも茨木を殺せるように送り込まれたのか、それすらまだ、凪沙にはわからない。

 やはり、敵が誰なのかなど、そう簡単に判るものではないのだ。それは内でも外でも同じこと。凪沙がかつて得た教訓は普遍的なものと評価できそうだった。次の補給でRATの者と接触することがあれば、そのときに何かわかるかもしれないが……。

 急に風が変わった。

 人の気配に凪沙は気づいた。瞬時に思考を切り替え、静かに立ち上がる。どうやら、背後の茨木ではない。機兵や車列の方向から誰か来るのかと思ったが、その様子もない。

 風の音の合間に、砂をかぶった地面を踏む靴音が、かすかに聞こえる。キャンプの外側方向に誰かいる。

 ――また楠木の密偵ごっこか?

 楠木が気配を消すコツを覚えたのか、それとも凪沙の気が散っていたのか。前者とは思えないから、自戒が必要だと凪沙は思う。そしてその思考自体が油断を孕(はら)んでいると自覚し、改めて自戒する。銃を取り出し、足音や衣(きぬ)擦(ず)れの音を立てないように移動を開始。

 夜の闇は深く、自分の手足が辛うじてわかる程度。RATの特務員としては、凪沙は特に夜目が利くほうではないが、夜の灯りに慣れきった一般の人間よりはまだ能力が高い。特別な訓練を受けた相手でなければ、凪沙のほうで一方的に捕捉し、近づくことが可能だろう。隊員が気まぐれに散歩しているのであれば、ちょっと脅かして軽薄な行動を戒(いまし)めてやればよいが、果たして。

 凪沙が十歩も歩かないうちに、気配が動きを止めた。気づかれたか、と警戒して凪沙も歩を止める。そして沈黙を争うようにして二十秒ほどが経過した。凪沙は闇の向こうに人の輪郭を読み取れないかと目を凝らしていたが、澄ました耳に反応がないのと同様に、何の成果も得られなかった。

 そもそも何かの聞き違いだったのだろうか。凪沙がそう自問した瞬間に、動きがあった。砂をすりつぶすような音。踵を返したのだろう。気のせいではなかった。足音が遠ざかっていくのが確かにわかる。キャンプに戻って行くのではなく、キャンプの外側に出て行こうとしている。

 啓示軍の斥候か、そうでなくとも撤退中の将兵であれば、遠からず追跡対象に紫龍隊の位置と行動が露見する。また、この砂漠化中の土地に住み続けている民間人という線も考えられるが、それにしても、啓示軍にこちらの存在を漏らしてしまう可能性が否めないし、民間人がいるとなれば今後の軍の行動にも若干の影響が出るだろうから、身元を確かめておくのが無難だ。それとも違って、あれが亜細亜連邦軍の別部隊の人間であるとしても、やはり全く安全とは言えない。紫龍隊の存在を疎ましく思うグループも、軍の中には存在するだろうから。

 つまり、追うべきだ。あれだけ気配を消しておいて、陽動という線はないだろう。相手が、こちらの位置を正確に察知できる耳を持っていないと期待して、飛び出して一気にケリをつけよう。凪沙はそう考えた。闇の向こうの足音は、動き出してまだ数歩。今なら捕捉できる。

 凪沙は駆け出した。自らの出す音で、相手の気配が掴めなくなったが、未来位置は予測できている。近づいたら威嚇(いかく)射撃をして……。

 そのときだった。凪沙の行く手に、小さな光の楕円が投げられた。前からではない。後ろからの、懐中電灯の光だ。凪沙は急いでその場に伏せる。追跡相手から見れば、逆光で自分のシルエットが判別されてしまうことに、すぐ気がついたからだ。

 前後左右に揺れ動くスポットライトは、凪沙の内心の舌打ちをよそに、凪沙と追跡相手のちょうど真ん中あたりの地面を照らし出している。自身が動きを止めたので、凪沙は再び相手の足音を捉えていた。走って遠ざかっていく。

 相手がただ逃げるのなら、やはり追うべきだ。凪沙は伏臥(ふくが)姿勢から弾(はじ)かれようにして駆け出した。背後から誰何(すいか)の声が聞こえる。男だ。楠木ではない。凪沙はその声には構わず、正面に銃を構えて侵入者を追う。予想進路が拡大する前に、一発目の威嚇射撃。

 反応は――あった。ふたつの目が凪沙をふりかえった。愕然(がくぜん)として凪沙は立ち止まる。懐中電灯がずれた場所を照らしているので、いまだに人影は判別できない。しかし、相手の目だけが見えた。厳密にいうなら、見えたのは目ではない。目の光だった。

 足音は聞こえなくなった。背後からは懐中電灯を持った男が近づいてくる。

「野生動物かな。なんだろう。――あ、小嶺伍長」

 凪沙は忌々しげにその光を睨み返した。



- 6 -


 一月十四日。

 手がかりなしで追跡を続けていた紫龍隊の士気は低下の一途を辿っていたが、乾が偵察で持ち帰った情報によって、状況は思わぬ変化を迎えた。ついに痕跡が発見されたのである。ただし追跡中の部隊のものではない。見つかったのは、機兵の足跡だった。

「よく見つけたな」

 足跡の実物を見て、茨木はまず乾を褒(ほ)めた。実際、茨木がここを通ってもこれには気がつかなかっただろう。足跡は巧く隠蔽(いんぺい)されていたからだ。

 この足跡をつけた機兵は、痕跡を残さないように足場を選んで移動していたらしい。しかしここだけが特別にぬかるんでいた。だから、ここ数歩ぶんだけ足跡がついた。パイロットはこれに気づき、踏みなおす、砂をかけるなどして巧妙に足跡を隠したが、乾はそれを見逃さなかったのだ。

「いえね、自分でもここを選んで通るだろうな、って道を進んでいたら、ぬかるみに突き当たって、何か変だなって思ったんですよ。まあ、この手の閃きは大概が空回りなんですが、今回は当たっていて良かった」

 リスクのない空回りならいくらでもしていい、と茨木は思ったが、口にはしなかった。そこまで言ってしまうと、謙虚さを忘れて増長しかねないのが乾大輔である。

 追跡中の啓示軍(オフェンバーレナ)部隊は、車輛だけで構成されていた。そこに機兵が合流したと見なすべきか、それとも別の部隊の動きを新たに察知したと考えるべきか、材料が不足していて結論が出ない。姜宗義(カン・ジョンイ)もいつになく難しい顔をしている。

「もしかして外廓聯ってことはないでしょうね? 青龍隊あたりが、うろついていそうじゃないですか」

 二人の大尉が黙り込んでいると、沈黙を嫌ったものか、乾がそんなことを言い出した。たしかに、一度隠蔽された足跡は当初の輪郭を止めておらず、それがエントゼルトゾルダートのものであるとは断定できない。龍(ロン)の足跡である可能性もあった。

「青龍隊の龍が、単機で行動しているとは思えんな」

 姜宗義が遠い目をした。もはや彼の知る頃の青龍隊とは大半の人員が入れ替わっているだろうが、それでも懐かしく思えるのだろうと、茨木は察した。彼の推測は当てにしていい。これは外廓聯の残した痕跡ではない。

 機兵同士の戦闘を覚悟するときが来たようだ。茨木は隊全員に気を引き締めるよう伝え、砂漠を迂回しての西進を継続すると宣言した。これに対し、姜は事前に補給の都合を理由として消極的意見を述べていたが、宣言のときには何ら口を挟まなかった。定常的に存在し続けるバロッグに包囲されたこの状況下で、統率を失うことがどれだけ危険であるか、それを双方とも理解しているからこそ成り立つ沈黙だった。

 しかし、姜にはひとつ見落としがある。いや、知らせていないのだから不可抗力であろう。茨木が胸のうちにしまっているのは、啓示軍でも友軍でもなく第三の勢力が足跡を残したという可能性だ。そして、それが金星也(キム・ソンヤ)から受けた任務の核心部分であり、やがて紫龍隊に与えられるであろう力と地位を決定するものだということも。

 茨木はまだ、その件について隊員に打ち明ける気になれない。しばしば打ち合わせをしている姜宗義に対してさえも、言い出せないでいる。だから今、茨木が金星也に対して負っている義務を正確に理解しているのは、当事者の金星也と茨木を除けば、数えるほどだ。確実に知っていると想定されるのは、会談に同席した北熊(セヴェルメドヴェーチ)のカネジュ・イルベチェフ大尉、金星也の懐刀である神巌慎吾大尉の二人。金星也が監視のためにつけてきたRATの小嶺凪沙は、どこまで知らされているかわからない。いずれにせよRATの上層部にいる人間の何人かは、金星也から事の次第を知らされているのかもしれないが、その数は決して多くあるまい。茨木が元帥と交わした会話の後半は、それだけ口外が憚(はばか)られるものだったのだから。

 不明瞭な機兵の足跡を発見した今、秘密について打ち明けるには良い機会かもしれない。少なくとも昨日よりは、言い出しやすい状況になった。だがまだ切迫性が足りないと茨木は思う。この足跡に関する第三の可能性については、ひとり自分の胸に閉まっておいても、対処が可能だ。不用意に話をしてしまうことには抵抗があった。そしてなにより、このためらいが茨木の極めて個人的な葛藤に根づいているのだという自覚があり、解決を他人に求めることを潔しとできないのだった。

 江藤博照の無闇に大きな顔がちらつく。自信に満ち溢れた卑しい笑顔や、肚(はら)のうちに収めきれない憤懣(ふんまん)を眉間の皺(しわ)に刻んだときの表情、稚児(ちご)のように安らかな、しかしやはり醜い寝顔……。

 他人を巻き込むな。かつて茨木は江藤をそうたしなめたことがある。教官や上級生相手にちょっとした叛乱を企てた、学生時代のことだ。あれから十数年の歳月が過ぎ、江藤は意外なことに黒龍隊の隊長として抜擢(ばってき)され、同窓生どころか亜細亜連邦の枢要な人物を巻き込む立場になった。一方で、茨木はまだ、ただ戦略軍の命令に従うだけの存在である。

 江藤が手に入れた力は、予(かね)てより本人が目指していたものの要件を満たしている。あの男はそれを使うことに躊躇(ちゅうちょ)しないだろう。ただ、力が最大限に発揮されるタイミングを窺うため、すぐに目立つようなことはやらない。そういう男だ。

 ダーダネルス作戦に投入されたようだが、このバロッグと特別規定第一〇号発令下で、江藤博照はどう策動しているだろうか。しぶとく生き残っているに違いないとは思う。しかし、あれは気づいているのだろうか。黒龍隊を狙う勢力が、亜細亜連邦内にいくつもあるという事実に。その脅威に。空を薙(な)いだ虹色の光に気を取られ、背後から忍び寄る魔手に無防備になってはいないだろうか。憎らしいほどの天賦の才を持っている江藤が、同時に致命的な欠点をも抱えていることを、茨木は知悉(ちしつ)している。あれは山頂から遠く海原(うなばら)を眺めるとき、足元の地面が崩れる危険を忘れてしまう男なのだ。

 黒龍隊はダーダネルス作戦を生き延びることがないかもしれない。明言したわけではないが、金星也は会談においてそう示唆した。そして、その後釜を事前に用意しておく必要があるのだが、と茨木に持ちかけた。会話の隅々に散りばめられた意味深な言葉を繋ぎ合わせれば、そういう意味になる。

 つまり、江藤の代わり。茨木が固執してしまうのはそこだ。

 しばしば誤解されることだが、茨木にとって、江藤は決してライバルではない。それは、江藤が同じ道を歩む者ではないからだ。同じ山頂を目指す登山者だが、それぞれに進む道も違えば、山頂で何をするかという目的も異なる。そういう相手だ。だから、茨木は江藤の代わりにはなれないし、もちろんそのような願望は金輪際(こんりんざい)抱いたことがない。

 もっとも、聡明なる金星也は、茨木と江藤の違いを理解したうえで、紫龍隊を作ったのかもしれない。その可能性はある。どうせ作るなら単純な複製ではなく、次はそう簡単に壊されないように設計変更をしておこうと、そう考えておかしくない男だ。それならば、茨木は江藤の通った道を追いかけることにならない。

 しかしそう自己暗示を試みたところで、やはり茨木は金星也の提案を全面的に受諾できないでいた。茨木がそのようにして山頂に到達してしまえば、そこで何か茨木とは別のことをやろうとしていた江藤の存在を、価値を、人格を、否定することになるような気がするのだ。それが受け容れられない。

 茨木と江藤が同じ時に同じ山を目指したのは、ただの偶然だった。江藤がいなくとも茨木はこの道を歩んでいたし、逆もまた然(しか)りだ。だから、ここで茨木が紫龍隊をポスト黒龍隊とする取引に応じてしまえば、無関係の相手を足蹴(あしげ)にして山頂に到達することになるのではないか。無関係の人間を巻き込むなと江藤に言ったのは、他でもない自分であるのに。――茨木は、自分の感情が頑(かたく)なに抵抗を続ける理由をそう分析している。

「茨木大尉」

 背後の、かなり近いところから唐突に呼ばれ、茨木はびくりとした。体ごとふりむくと、表情を消した小嶺が茨木を見上げていた。これだけ近くでこの女の顔を見たのは、初めてだった。

 辺りを見回すと、姜も乾ももういない。それぞれ移動を再開しようと所定の位置についている。茨木だけが、再び機兵の足跡の前に戻って、それをぼんやりと眺めていた。

「もう少し身辺には注意を払って下さい。可能な限りの警護を行っていますが、残念ながら効果には限界があります。大尉のほうでもリスクを下げるよう配慮して頂かなければ」

 小嶺は少し気が立っているようだった。茨木は思わず溜め息をついてしまってから、周囲にそんな危険があるかどうか見渡してみた。しかし、特に注意すべき茂みや岩場などは見当たらない。

「土の中に狙撃手でも潜んでいると?」

「敵はどこにいるか……、いえ、そもそも敵が誰であるかわからないのです」

「それは君にも言えることだな」

「え……」

 咄嗟(とっさ)に反駁(はんばく)しそこなった小嶺は、顔を背けて離れて行く。その挙措を見て、茨木は彼女が初めて会った日の機敏さと柔軟さを失っているように感じた。

「ちゃんと寝ているか、小嶺伍長」

 気づくと茨木は声をかけていた。小嶺は一瞬立ち止まり、ふりかえらずに答えた。

「可能な限り」



- 7 -


 楠木は悪夢から目を覚ました。このあたりの夜はかなり寒いというのに、全身に汗をかいている。夢から抜け出られてよかったと、まずは安堵(あんど)する。

 初めて見る夢ではなかった。もう四度か、五度くらいになる。統計的には二十パーセントの確率だな、と楠木は計算した。何かに頭を使って紛らわさないことには辛(つら)くてしかたなかった。尾西隆範の死の再現は、彼女にとってそれだけ重たい。

 意識がはっきりしてくると、楠木は自分がどうして現実に戻って来られたのか見当をつけることができた。尾西の最期の瞬間に至ることなく夢から醒めたのは初めてのことで、なにかしらの外的要因が影響したというのは妥当な推論だ。

 隣に尹慶珠(ユン・キョンジュ)の姿がない。時計を見ると、彼女が張り番に出ていることがわかったが、交替の時刻はずいぶん前だった。つまり、目を覚ましたのは尹慶珠のせいではないのだ。

 テントのなかには寝ている隊員たちが何人かいる。辺りもささやかな風の音が聞こえるくらいで静かなものだ。緊急事態は起こっていないらしいと判断した楠木は、寝なおそうかと考えたものの、悪夢のせいですっかり目が冴えてしまっていた。それでも休んでおかなければ、夜明けとともに再開される索敵任務に支障が出る。楠木は無理にでも眠ろうと寝袋のなかでじっとしていることにした。

 どれだけ時間が経ったか。とりとめもない思考が徐々に論理性を失っていき、ああそろそろ眠れそうだな、と意識できるようになった頃。楠木の無意識の部分は、意識の欲求とは別に機能して、近づく靴音に気づいてしまった。

「何を持ち出した?」

 男の声が聞こえた。それで瞬く間に楠木の意識が脳の主導権を取り戻し、その声がおそらく姜宗義(カン・ジョンイ)のもので、テントの外で誰かを呼び止めたらしいと状況を把握する。

「俺は見ていた。質問に答えるんだ。小嶺伍長」

 楠木はそれを聞いて寝袋から飛び出た。上着を羽織ってテントから顔を出すと、数メートルのところに、身長差のあるふたりの男女が立っているのがわかった。小嶺凪沙と姜宗義に違いない。

「任務のため必要な措置を取りました。情報の開示の必要がありますか?」

 小嶺は姜の厳しい問いに臆することなく答えた。姜は即座に反問する。

「それは、おまえが参謀本部から仰せつかってきた任務を指して言っているのか?」

「はい」

「俺がここで情報開示を要求すれば、おまえは懐に隠したそれをここで取り出すのか?」

「即時の対応は不可能です。私はまだ情報の取得を終えていませんので、開示可能がどうかの判断ができません。明朝〇八〇〇に改めて……」

 小嶺のその返事を最後まで言わせるほど楠木は我慢強くなかった。無言でつかつかと小嶺に歩み寄り、肩を掴んでふりむかせると、その懐の内ポケットから「何か」を取り出そうと手を伸ばした。

「待て!」

 姜が鋭く警告を発したが、その時点で楠木の腕はもう小嶺に掴まれていた。そしてそのまま楠木の体は宙に浮く。まだ体のほうが寝ぼけていて、楠木はろくに受け身を取ることもできずに背中を打った。夜の闇に表情を隠された小嶺の顔が彼女を見下ろしている。と、不意にその懐から手帳らしきものが滑り落ち、楠木の頭のすぐそばに落下した。

 闇の中でも、小嶺の表情が変化するのがわかった。楠木はもう遅れを取らない。身をよじり、落ちた物をすばやく手に取ると、そのまま転がって小嶺から距離を取った。

 立ち上がりながら、楠木は手にしたそれが何であるかを悟った。言葉に置換できない激しい感情が一瞬のうちに錯綜(さくそう)し、それが終息しきらないうちに、再び小嶺に掴みかかっていた。

「おまえ、どういうつもりだ!?」

 剣幕におののいたものか、小嶺は楠木の手を跳(は)ね除(の)けもしなければ、身を引くこともしなかった。彼女より長身の楠木のなすがままに胸倉をつかまれ、突き飛ばされる。のけぞった体を小嶺は数歩の後退のうちに垂直に戻したが、楠木はそれがますます気に入らない。大きく踏み出しつつ平手をふりあげたが、その手首が強い力で掴まれた。

「頭を冷やせ」

 そのとき耳元で聞こえた姜の声はいつもと少し違っていた。それで楠木は少し冷静になることができた。安心した姜の指が手首から離れると、楠木の肩から力が抜けた。

「姜大尉……。あいつ、これを……」

 楠木は地面に落としていた物を拾い上げ、うっすらとついてしまったであろう土を払う。姜宗義は胸ポケットからペンライトを取り出し、周りに光が漏れないように手で囲みつつ、楠木の差し出したそれを見た。反射光に照らされた彼の顔が、内面で生じた不機嫌のベクトルの変化を楠木に理解させた。

 怒声に続いて乱闘の音、そして涙声。それらの音から事態に気づいた隊員が徐々に集まってきた。機兵の張り番はさすがに出てこなかったが、車輛のほうからは尹慶珠が張り番を放り出して駆けつけてきた。もとい、異常事態に対応しているのだから張り番としての役目のうちであろう。尹慶珠は楠木と小嶺を交互に見て何が起こったのか訊(たず)ねようとしたが、楠木の手に握られているものに気づくと、目を丸くした。

「それ……」

「そう、尾西の遺した日記だよ」

 先回りして答えながら、楠木は自分の声に少々驚いた。尾西のために涙を流したのはこれが初めてだった。

 やがて茨木も姿を現し、そのときになってようやく小嶺が口を開いた。

「状況を説明する必要を感じています」

「ああ、そうだろうな。君にはその義務がある」

 茨木の感情は声からは読み取れなかった。姜からごく手短に、しかし要点の押さえられた説明を聞くと、そこへ重ねて言い募(つの)ろうとした楠木を制して茨木は言った。

「姜宗義、小嶺凪沙、楠木冴子。以上三名はひとりずつ私のところへ来るように。――その品は、私が預かっておこう。いいな?」

 茨木の決定に異存はなかった。楠木は今まで一度も、茨木の判断を不服に思ったことがない。だから手中のそれを――この半月、ずっと彼女の背嚢の中に仕舞われていたものを茨木に手渡した。



- 8 -


 翌朝、小嶺凪沙は姿を消していた。

 立ち去る小嶺を見たと、手を挙げて名乗り出る者はいなかった。茨木が彼女から事情を聞いたあと、誰にも見られずにキャンプから出て行ったことになる。もとより荷物らしい荷物を持たなかった小嶺の痕跡は、紫龍隊の中から完全に消えていた。

 キャンプを撤収して移動を再開する頃には、小嶺凪沙は参謀本部から送り込まれた密偵であり、それが露見したため逃げ出したのだと、紫龍隊の多くの隊員がそう囁(ささや)き合うようになっていた。ある者は怒り、ある者は斜に構えて肩を竦(すく)め、またある者は肩を落とした。

 しかし乾大輔はそのいずれでもなかった。彼は小嶺が立ち去るところを目撃し、会話すら交わしていたのだ。当然、彼女が出て行った理由には見当がついているし、皆の憶測が事実と異なっていることを乾は確信している。

 乾は誰かが濡れ衣(ぎぬ)を着せる、着せられる場面で絶対に黙っていられない性質(たち)である。それにも拘(かかわ)らず小嶺の真意について証言しなかったのは、それが義理だと考えたからであり、そして彼女を探そうとしない茨木の態度も、彼の方針を維持させる向きに影響していた。

 小嶺の失踪を知った茨木は、自分が彼女に自由行動を許可したと説明し、移動予定は伝えてあるから次のキャンプ設営の折に合流するだろう、と語った。嘘も方便というやつだと乾は直感したし、姜宗義も論理的洞察からそれが虚偽だと結論づけていたようだが、ふたりともそれを口には出さなかった。

 また茨木は、事情聴取の結果どのような事実を構成したのかについて、うやむやのうちに発表を見送った。これが小嶺に対する勝手な憶測を助長したのは確かだ。らしくない、と乾はひとりごちる。

 十二日の夜から丸二日、小嶺は寝ていなかった。懐中電灯を持ち出した乾を睨み返してきたあの夜から、彼女は何かを恐れはじめた。五感というセンサーを感度最大で作動させ続け、脅威の探知と排除に全力で取り組んでいた。見ているほうが感電しそうだと乾は思ったものだ。その消耗の末に起こった事故だと、乾は認識している。少なくとも衰弱していたことは確かで、もし万全の体調であれば、昨夜姜宗義に見咎められることもなかっただろう。

 わたしは紫龍隊の敵ではない。小さな背中は乾にそう言い残した。

 彼女が戦略軍の送ってよこした密偵だとしても、その役目は茨木や隊の他の誰かの心身を害することではない。小嶺は断片しか語らなかったが、それは信じていいだろう。今回のことは、ちょっとした行き違いが重なっただけのことだ。誰ひとりとして悪意を持っていなくとも、そういうことは起こりうる。

 しかし、何故、尾西の日記だったのか。乾がいちばん気になっているのはそこである。龍のコクピットの中で、乾はそればかり考えている。

 あれは尾西の戦死後、彼の荷物を整理していて見つかった物だ。他ならぬ乾が楠木にそれを渡した。彼女にとっては酷なこと、あるいは迷惑なことになるとわかっていたが、乾はそうせずにおられなかった。彼は最期まで、楠木冴子に対する想いを当人に伝えられなかったのだから。

 乾の観測では、楠木は尾西の気持ちに気づいていなかった。渡した日記を、彼女が一度でも開いて読んだかどうか、乾は知らない。彼女のほうで尾西をどう思っていたか、聞いてみる勇気もない。そもそも、それは余計なことだ。死んだ者に未来はない。過去をふりかえることもない。乾はただ自分の気が済むように日記を楠木に渡し、楠木はそれを好きに処理した。それでいい。終わったことだったのだ。

 ――なのに、小嶺凪沙はそれを「過去」から盗み出し、「今」に曝(さら)け出した。

 乾はその理由を何度も繰り返し考えてみた。

 すでに死んでいる尾西が、茨木の「今」を脅(おびや)かすことはありえない。彼の死によって紫龍隊が精神的な傷を受けているのは否定できないが、それに引っ張られるようにして自滅へと進むような、そんな落ち込み方はしていないと乾は思っている。その認識を小嶺は共有できなかったのだろうか。理解できないものを、理解しようと努めた結果があの事件なのか。いや、彼女が警戒していたのはもっと直接的な脅威であったように乾には思える。観念ではない、物質として存在し、観測できる何か……。

 乾はいつもそこで思考をリセットする。その先にある結論に辿り着きたくないからだ。隊の仲間の誰かが茨木を狙っており、その阻止のために小嶺が神経を尖らせ、ターゲットを絞り込むために個人の日記まで情報収集源にしたなど、到底受け容れられない筋書きである。

 しかし、小嶺が紫龍隊を離れ、茨木がそれを追わない理由は、この筋書きに入れ込んでやると嫌味なほどに調和する。邪魔者がいなくなったことで密偵が馬脚を現し、その人物が茨木に害を為す直前に、現行犯で捕まえる。そういう計画が進行中なのかもしれない。乾を蚊帳(かや)の外に置いて。

 思えば、タシケントから戻ってきてからの茨木には、何かを隠しているようなよそよそしさがあった。小嶺凪沙という部外者を予告なしに連れてきたことに負い目を感じているのだと決めてかかっていたが、密偵狩りが最初から予定されていたものなら、茨木の異変について説明がつく。

 結局、答えはいつも同じになってしまう。常に成立する答えは真理、真実と呼ばれる。だから乾は、違う答えに行き着くまで、思考を繰り返す。

 ――私は紫龍隊の敵ではない。

「真実はそれひとつでじゅうぶんだ」

 乾が呟いたそのとき、行く手の視界が開けた。丘陵をひとつ越えたのだ。徐々に下ったその先には平原が広がっている。まばらに草木に覆われた地平には太い直線が一本走っていた。道路だ。東欧から南部方面軍轄区へと伸びる幹線道路。姜宗義が言っていた、砂漠を越える道路と繋がっているはずのものだ。その証拠に、砂にまみれた車列が道路をゆっくりと北西へと走っている。

 乾は録画を開始するとともに、ボイスレコーダーを作動させる。

「一五四四。追跡中のターゲットを発見」

 小嶺凪沙と日記については、しばらく悩まずに済みそうだった。



- 9 -


 凪沙はもう失敗を悔やむのをやめていた。今ここで乾の言葉を反芻(はんすう)し、あの日記の素性について想いをめぐらせたところで、得られるものは何もない。

 RATから彼女個人に与えられていた一〇式偵察車「チャクラム」は、迷うことなく荒野をひた走っている。もっとも、電気駆動モードで走るチャクラムは、アクセルを踏み込んでも静かなものだ。エンジンのほうが悪路走行には強いのだが、このようにバロッグが出てしまうと爆発事故のリスクが大きくなるので回転数を上げられない。RATがチャクラムを採用したのは、このような変則領域での安全性を高く評価してのことだ。無論、軍でも採用されている車種、というのが第一要件だったのは言うまでもない。

 地平線を見据える凪沙の目的ははっきりしていた。見つけたのである。三日前、紫龍隊のキャンプに人知れず侵入した者の痕跡を。紫龍隊から離れて動けるようになってはじめて、それを発見できた。いざ制約から解き放たれてみれば、凪沙には実に造作もないことだったのだが、逆説的に言うならばいかにその頚(くび)木(き)が凪沙を束縛していたかがわかる。RATは人員をもうひとり割いておくべきだったと、凪沙は今日の報告書にそう記すと決めている。

 キャンプに近づいてきた足音は、やはり動物のものではなかった。凪沙はまずそれを遡(さかのぼ)って確かめた。紫龍隊は二十四時間の半分しか移動に費やしておらず、移動中にしても地雷や待ち伏せを警戒しながらの遅々とした進行であったから、軽快な機動力を持つチャクラムであれば数時間であの日の夜のキャンプ地点に舞い戻ることができた。

 キャンプの設置跡は、紫龍隊の去ったのち誰も使っていないようだった。凪沙はそれを幸いとして周辺を見て回り、足跡をはじめとする人の痕跡がないか探した。そして発見したのが、体毛だ。おそらく髪の毛だろう。足跡はつかないように注意できるし、ついても消すことができるが、体毛が抜け落ちることは避けられないし、抜けたと自覚することも困難である。普通の人間であれば自然環境のもとで髪の毛を捜すなど途方もないことだろうが、RATで訓練を受けた凪沙には、わりあい簡単な仕事といえる。何者かは、そこを甘く見た。

 毛が見つかったのは、紫龍隊の誰も近づいていない地点だった。キャンプからは数百メートル離れていた場所なので、見落としはない。風向きなどの条件から逃走方向が予想できなければ、凪沙とて探索範囲に含めなかったような場所だ。したがって、その毛は紫龍隊の誰のものでもなく、侵入者のものだという結論に至る。

 その箇所を新たな起点として探索を続行した結果、凪沙は奇妙な轍を発見した。凪沙の知っているあらゆるタイヤの種類とも異なり、また無限軌道でもないが、しかし地面にうっすらと残されたその溝は轍としか考えられなかった。強いて例えるならそりだろう。もちろん、雪も砂もない地面をそりが走ることはありえないのだが。

 啓示軍(オフェンバーレナ)の新型車輛がマスディフューザでも搭載しているのかもしれない。凪沙は柔軟に考え、悩むことに殆ど時間を費やさなかった。轍は一輛ぶんだけで、紫龍隊が追っていた啓示軍部隊とも明らかに異なる。何者であるか特定はできないが、凪沙がひとりで追跡しても大きな危険はない。むしろ追わないことで紫龍隊を窮地に立たせる可能性が高い。結局、轍を発見してから、チャクラムに乗り込んでエンジンを始動させるまで、凪沙は二分とかけなかった。

 奇異な轍は、断続的にではあるが、まだ線をなしていた。凪沙はそれを辿ってチャクラムを走らせ、結果的には紫龍隊のほうへとUターンすることになった。その進路は、紫龍隊の移動経路とそれほど離れていない。未知の砂漠を北に迂回したため、向かう方角がおおよそ同じであればルートが重なる確率は高いのだが、それにしても、背筋が寒くなる。

 謎の人物は、紫龍隊を追っているのだ。凪沙はそうとしか考えられなくなっていた。相手が先を行っていて、紫龍隊のほうがたまたまそのあとを追うような格好になったのだとは思えない。ここ数日、紫龍隊は轍には特に気をつけて探索を実施し、隠蔽された機兵の足跡さえ発見できたほどなのだ。少々奇妙だからといって、轍を見落とすはずはない。一方その逆であれば、紫龍隊の探索時点ではまだ轍ができていないので、気づきようがない。存在を感知されないように紫龍隊を追う誰かが、この轍の先にいる。

 途中で経路を見失うこともなく、凪沙は日没前に昨夜のキャンプ跡に戻ってきた。――何者かは昨日も紫龍隊の近くにいたのだ。この時点で、凪沙は相手が何物であるかについていくらか見当がついた。

 まず、啓示軍の人間ではなさそうだった。啓示軍の将兵が紫龍隊に見つかるのを恐れているのであれば、紫龍隊がキャンプを作って動きを止めている間にさっさと追い抜けばよい。逃走中ではなく攻撃の機会を窺うスナイパーであるなら、とっくに仕事を済ませている。

 民間人が紫龍隊の後ろなら安全だろうと考えてコバンザメよろしく張り付いている、という可能性も凪沙は検討したが、このバロッグの中で戦場を横断しようと考える者がいるとは思えなかった。なにより、ただの民間人であれば凪沙が何日も前に発見できている。だから、それが民間人であるにしても、何か単純でない目的を持ち、普通でない訓練を受けた人間であるに違いない。

 凪沙がいちばん疑っているのは、元老院派、もしくは北熊(セヴェルメドヴェーチ)の放った偵察要員という線である。この二勢力は日頃から亜連全土に密偵を潜り込ませているから、このような非常事態にあっても、臨機応変に諜報活動を実行できる。もっとも、これはRATも同様であって、他ならない凪沙自身が密偵であるのだから、舌打ちをする気など起こらない。また、最近になって軍閥派残党の活動が目立つようになったとRATの別部署が調査結果を報告していたが、タシケントを出る前に仕入れた最新情報によれば、彼らはキルギスより西に活動拠点を持たないとのことだった。したがって今回の件では除外して考えてよい。

 追跡者が凪沙にとって味方となるか敵となるか、まだわからない。今は敵でも、これからの状況次第で味方に転じるかもしれないし、逆もまた然りである。しかし、安全側に立って行動計画を定めるならば、凪沙には先手を打つしか道がない。茨木が狙撃されてから、ああ敵に回ったのか、と気づいても遅すぎる。だから見つけ次第、威嚇し、問い詰め、返答次第では殺す。そういうことになるだろう。ここで捕虜を取っては、代わりに身動きが取れなくなる。自殺行為だ。人を殺すのは初めてではないから、その嫌な気分は既知のものだが、未知の恐怖もない。したがって安全だ。不足なく務めを果たすことができるだろう、と凪沙は予想する。

 昨夜のキャンプをあとにすると、そこから先は凪沙にとって未知の領域だった。地形の癖のようなものも、凪沙の知らない様子になってくる。軍用車輛としては小型のチャクラムは、あまり悪路に強くない。条件反射的に、これは追跡に遅れが出るかもしれないと考えた凪沙だったが、それは杞憂だった。そりのような轍を残す謎の乗り物は、チャクラムよりも安定した地面を想定した設計であるらしく、その痕跡をトレースする限り、チャクラムが走破できない道はなかった。おかげで迂回に時間を取られることもなく、順調に凪沙は獲物に近づいていた。

 やがて凪沙は不審に思いはじめた。だいぶ走った。もう紫龍隊を追い越したかもしれない。それは、決して紫龍隊より前に出ようとしなかった昨日までの行動と異なっている。

 ――状況が変化したのか?

 凪沙は思わずアクセルを踏む力を強めていた。そして引っかかってしまった。潅木(かんぼく)の合間に仕掛けられた罠に。

 チャクラムの後輪が浮き、凪沙は自分が空中に放り出されて一回転するのを自覚した。自覚できたので着地に足を揃えられた。勢い余って両手を地面についたが、怪我はしていない。しかし、背後ではチャクラムが見事にひっくり返っており、車体の底を曝(さら)け出していた。

 地雷ではない。爆発で車体が突き上げられたのではなく、落とし穴に車体前面が落ち込んだために回転のモーメントが生まれたのだ。原始的な罠であり、極めて中途半端な敵意である。あるいは、単に地雷や爆薬がなかったのか。この場合近くに敵は潜んでいるのか否か。RATでの訓練で得た知識も、自らの経験も、その答えを出してくれない。罠を仕掛けた相手の意図を理解できず、凪沙は転倒したチャクラムの陰に隠れることしかすぐには思いつかなかった。

 凪沙は夕陽の影に潜んだ。単純に進行方向から考えても、夕陽を背にできるという地の利から考えても、相手が隠れているなら西側、つまり正面だろうと咄嗟に考えたからだった。果たして、それは正しかった。実際に夕陽を背にして、中背の逞(たくま)しい人影が、茂みの中から現れた。

「ふむ。ヒトが獣より利口だとは、ちと断言しかねるな」

 場違いなことに、その男は快活に笑った。よく通る声であるが、どうやら歳は若くない。五十は過ぎているだろうか。手に何か持っているが、よくわからない。大きさは拳銃と同程度。しかし、それさえ除けば、全く無防備な身の曝け出しようだった。

「何者だ」

「警戒することはない。ただの旅行者だよ」男は手にしていた何かを懐に収める。「身を守るための最低限の処置はさせてもらうがね」

「ただの旅行者にしては、凝った仕掛けだ」

 凪沙はチャクラムの陰で自分の武器を取り出す。

「生活の知恵というものさね。年の功といってもいいが……。名乗りくらい、させてもらえないのかね?」

「続けろ」

「やれやれ、気の強いお嬢さんだ。俺はバトゥ。亜細亜連邦の市民だよ。反政府活動に従事している覚えはないんで、罠にかかった軍人さんにこれ以上危害を加えようとは考えない。つまりお嬢さんにとっちゃ安全な相手だってことだ。どうだい、物騒なものは収めてくれないかい。お互いに誤解を解こうじゃないか」

 バトゥは並の人間よりずいぶん口が回るようだった。話術の使い手か、と凪沙は警戒を深める。相手のペースに乗せられてはならない。

「おまえの乗り物はどうした?」

「すぐそこに隠してあるよ」

「珍しい代物だな。轍だけじゃない、外見もだ。ただの旅行者が持っているとは思えない」

「おや、お嬢さんは俺の乗り物をその目で見たっていうのかい? 鎌をかけちゃいけないよ。このご時世なんでね、ヒトから見られないように細心の注意を払っているんだ。お嬢さんみたく、やれ敵がうろついていたぞと追いかけてくる兵隊さんをあしらうのは、ちょいと面倒なことだ。そういう事態は未然に防ぐに限るよ」

 今回は失敗したがね、とバトゥは笑った。見くびれない年の功だ、と凪沙は忌々(いまいま)しく思う。しかし、古狸の尻尾(しっぽ)がいかに短くとも、全く見えないわけではない。

「見つからないようにしていた旅行者が、どうして夜中に部隊の様子を覗きに来た?」

「好奇心に負けてね。近くで見たくなったのさ、あの機兵ってやつを。あれは建設現場にいる乗俑機とは比べ物にならないな。殺人兵器だってのがちょっと気に食わないが、優れた技術の塊は、それがどんな使い方をされるものであっても、心を惹きつけるもんだ。それが俺の警戒心をねじ伏せちまった。最近じゃ滅多なことでは驚かないんだが、人類があんなものを作ったかと思うと、久しぶりに俺も感動したね。お嬢さんはあんなのは見慣れているのかね?」

 埒(らち)が明かないと諦め、立ち上がった。ただし、銃は構えたまま。

「なぜ我々を尾行した」

「あんたらがどこに向かっているのかは知らないが、たまたま俺の行き先と方角が一緒だっただけのことだろうよ」

 銃を向けられても、バトゥの体に緊張が走った様子はない。声の調子にも変化はなかった。つまり、無防備のままだ。

 ――やろうと思えば、即死させられる。

「今回も旅行の途中だと?」

「まあ、そんなところかね。説明すると長い」

「聞こう。全部話すといい」

「いや、今日のところは手短に済ませたほうがお互いのためだと思うよ、お嬢さん。俺は行くところがあるし、お嬢さんも、そろそろ部隊と合流したほうがいいだろうよ」

「私には急ぐ理由がない」

「そうかね」バトゥは呆れたように肩を竦(すく)める。「――俺が出かけることにしたのは、このバロッグがきっかけだ」

「見物か?」

「学術的興味があってな。絶好の機会だもんで、フィールドワークに乗り出したわけだ。ほれ、これなんかが、俺の使っている観測機器だ。知人に作ってもらった」

 バトゥは懐――最初に手にしていた何かをしまったのとは別のほう――から、水泳に使うゴーグルのような器械を取り出した。凪沙はそちらに意識を集中しすぎないよう、焦点を合わせずにそれを見る。やはりゴーグルのようだ。ただし、目に当てる部分が普通のものより二倍は厚く、琥珀(こはく)色のレンズが夕陽を浴びて不規則な光沢を呈(てい)しているのが特徴的だ。

 凪沙は合点がいった。あの夜、獣の目のように光っていたのは、おそらくこれだ。このゴーグルでバロッグのなかの何かを観測するつもりだったバトゥは、近くにいた亜連軍の部隊が機兵を擁しているのに気づき、機兵の発するバルムンクフィールドもついでに観測してみようと色気を出したのだろう。――バトゥのこれまでの説明を信じるならば、だが。

 バトゥは、凪沙の想像とほぼ違わぬ説明をした。違ったのは、まだ続きがあることだった。

「本当はこっちじゃなく、暖炉の谷のほうに行きたかったのだけどな」

 こうして西に向かっているのは第二目標のためだとバトゥは語る。

「なぜ暖炉の谷は駄目だったのだ?」

「勘だ。あそこは戦場になるという俺の勘。ここらなどより、よほど恐ろしい戦場になるぞ。だからまずい。金を積まれても近づきたくはないね」

「占いか」

「いやいや、そんな非科学的なものじゃないさ。物的証拠の不足による、論理展開の不連続とでもいうかね。――ああ、いい言葉があった。仮説だよ。俺は仮説を立てたんだ。まだ証明はされちゃいないが、どうにも具合の悪いことに、うまく証明されてしまいそうだ」

 この男の言っていることは支離滅裂だ、と凪沙は苛(いら)立つ。時間的制約がないとバトゥには言ったが、実際には、日が落ちて気温が下がりきる前に紫龍隊と合流したかった。こうしている間にも、頬(ほお)を撫(な)でていく風は冷たさを増していく。バトゥの話の不明瞭な点をいちいち問い質(ただ)すことはやめたほうがいい。危険な相手かどうか、今はそれだけ確かめればじゅうぶんだろう。

「もし俺の考えたとおりなら、これから西のほうで珍しいことが起こる。暖炉の谷のほうよりいくらか格が落ちるが、それにしたって一見の価値がある何かが。これは滅多にない観測の機会なんだ。撤退中の啓示軍がいようと、我が亜細亜連邦の軍人さん方が血眼(ちまなこ)でそれを追っていようと、まだ暖炉の谷よりは安全そうだ。この機をフイにする手はない。それで……」

「私の警戒対象となったというわけか」

「左様。――銃をまだ下ろしてくれないのは、俺が説明を省きすぎたせいかね? お嬢さんのためを思って、時間短縮に努めたんだがよ」

「勿体をつけた言い方をするのはやめろ。おまえは……」

 凪沙はその先を喉のところで押し止めた。ある音に気づいたのだ。ゆっくり、ずっしりとした鈍い音。似た音を、ここ数日で凪沙は聞き慣れていた。

 機兵だ。

 やがてバトゥの後方、二十メートルも離れていない場所に、エントゼルトゾルダートの横顔がぬっと現れた。凪沙はこの先が急傾斜になっているとは気づいていなかったし、当然、そこをエントゼルトゾルダートが通るなどという想像は全くしていなかった。

 音は聞こえているだろうに、バトゥは動かない。気づいていないのではない。とっくに気づいていたから、早く切り上げたいと言っていたのだ。

「静かに。それと、動かないように。センサーに引っかかる」

 バトゥに言われたからではないが、凪沙は硬直していた。あの首が気まぐれに左右を見回せば、凪沙は見つかってしまう。一般論としては、機兵にとって物陰に潜む歩兵は脅威だ。見つければ必ず先手を打ってくる。そうなったら最期、チャクラムの車体の陰に身を伏せたところで、助かる見込みはない。容赦のない砲火に晒(さら)され、この体は肉塊と化すだろう。尾西隆範のように。

 ――逃げるんだ。

 声が聞こえた。そのように空気が振動したのではない。鼓膜はエントゼルトゾルダートの足音と、凪沙自身の鼓動を捉えているだけだ。

 ――逃げるんだ、早く。

 それは記憶の中に記録されていた波形だった。不意に視野がぼやけて、凪沙はエントゼルトゾルダートの頭の輪郭がわからなくなる。手前にいるバトゥの人影すら怪しい。頬を滑り落ちるこの感覚は、涙だ。その雫が地面に落ちるのと同時に、長い間封印してきた記憶の扉が開け放たれる。凪沙は戸惑った。自分が錯乱していることはわかったが、どうすればいいのかがわからない。

 ――いいから先に逃げなさい。父さんはあとから行くから。

 それは駄目だ、と凪沙は強く否定した。

 ――だって、先に逝ったのはあなたじゃないの。父さん。

 そこでブレーカーが落ちた。



- 10 -


 乾が捕捉したのは、正真正銘、追跡中の啓示軍(オフェンバーレナ)部隊だった。それは前回攻撃時に撮影した画像情報から確認できた。ただし、そのときの相手をそっくりそのまま再発見したわけではなかった。乾が発見した車列は、実は、長い列の最後尾に過ぎなかったのだ。

「ついてないな」

 偵察からいったん戻った乾がひとりごちる。詳しい観測の結果、車輛数で言えば倍以上、戦闘能力で言えば三倍に膨れ上がったことが判明したのだ。やや旧式だが戦車も二輛いる。三機の龍(ロン)では、迂闊に手を出せない規模になってしまった。

 さらに悪いことには、発見当初は西に向かっているかと思われた車列が、追跡調査中に北へと進路を転じてしまった。茨木の知らされている限り、その方面は、追い込みの網にぽっかりと空いた穴に相当する。もう少し西に行ってからであれば、その先には外廓聯が待ち受けてくれているのだが、ここで北上されるのは面白くない。

 乾に限らず、茨木にとってもこれは完全に予想の範囲外だった。南に抜けようとした部隊が、米海軍の空爆に遭って慌てて引き返してきたのかもしれない。戦域レベルで現況を確認したいところだったが、このバロッグであるから、情報交換には伝令を走らせねばならない。すると往復に速くても二日はかかる。二日も待っていたら啓示軍部隊はどこへでも行ってしまう。自分たちで直接入手した情報だけで判断し、行動を選択するほかないようだった。

「いっそ壊滅させますか」

 楠木の提案は、茨木もすでに検討していた。これ以上に膨れ上がられると、こちらの攻撃で任意に進路を変えさせることは難しくなる。啓示軍がこのあたりで撤退をやめ、陣を構えて抗戦に転じるおそれもある。そうなると金星也(キム・ソンヤ)の描いた青写真からずれてくる。それを回避するには、啓示軍に撤退するしかないと思わせ続けなければならず、威嚇に止まらぬ容赦ない攻撃が最も確実な手段として思い浮かんだ。

 問題は、紫龍隊にも少なからず危険が伴うということだった。今回、長距離攻撃用ロケット弾は持ち合わせが僅(わず)かしかない。接近して他の火器で攻撃を加えるとなれば、向こうの戦車の主砲や対戦車ミサイルも襲ってくることになる。バロッグの中であるから命中精度は激減しているが、それでも、龍一機程度の損害がかなりの確率で生じる。

「残っている不知火(シラヌイ)を使う。それで進行が止まらないようなら、この部隊についての追い込みはここで断念する」

 黙考の末、茨木はそう決断した。不知火の射程であれば、相手に見つからないように一方的な攻撃が可能である。こちらの数が知られないので、相手が反転して攻勢に出るおそれも少ない。教本に載せてもいいような、機兵の最も合理的な使用方法である。ただし、ここで不知火を使ってもどれだけ打撃を与えられるか定かではない。機兵の有効利用ではあるが、不知火の有効利用ではない、ということになる。

「車列のほうより、あの機兵の足跡が気になるのか?」

 姜宗義(カン・ジョンイ)が鋭く察しをつけてきた。

「憶測でしかないが……」茨木はそう前置きしておく。「彼らが急に北へと向かった理由が、あの足跡と密接に関係しているのではないか、と私は考えている」

「でも、青龍隊ではないはずですよね」

 乾が首を傾(かし)げ、姜を見る。

「まず間違いない。――隊長は、別のことを考えているのだろう」

「へえ。なんです、茨木大尉。教えてくださいよ。天気予報程度にしか信用しませんから、安心して」

 乾の口から久しぶりに冗談が出たが、茨木は笑ってやれなかった。タシケントから戻って以来、意図的に言及を避けてきたその固有名詞を口にすることに、抵抗があったのだ。しかし、今ここでためらうべき道理は見当たらなかった。

「彼らは影龍(インロン)に襲われ、北に逃げた。あの不明瞭な足跡は、影龍のものだったのではないか、というのが私の考えだ。それなら、単独行であったことにも合点が行く」

「そういうことか」姜宗義が空を見上げた。「たしかに、啓示軍の追い立てから影龍狩りに移行するのなら、もはや不知火の出番はなくなるな。ここで使い切ってしまったほうが身軽になれる、というメリットもある。俺は賛成だ」

 口に出さなかったことまで察しをつけているな、と茨木は直感した。あとからサシで話をすることになるだろう。今度はなんとしても第三者は排除して。

 追い追い調査をしてみなければ、茨木の想像が正しいかどうかは定かでない。本当に不知火を使い切ってしまってよいのか、という反対意見が出ることを茨木は予想していた。しかし姜も、乾も楠木も、それには触れなかった。威力を完全に発揮できない使い方になっても、持ち腐れにするよりはいくらかマシだ、という判断だろうか。いずれにせよ、部下たちの態度は茨木にとってありがたいものだ。影龍がいようといまいと、今はさしあたって、捕捉した啓示軍部隊に対処するべき時なのだ。影龍を追うのはその次だ。それからでも、金星也との契約を果たすには遅くはない。

 話は、不知火をいつどこでどうやって啓示軍に撃ち込むか、という検討に移行した。状況的に、弾道から逆算した反撃は来ないと考えてよいので、発射役は一機で足りる。それから照準指示に最低一機。通信不良なので中継にもう一機必要になるだろう。つまり三機でぎりぎりである。紫龍隊の保有する龍は四機であるので、ここで姜宗義が自分も出撃すると言い出した。

「俺が射撃を担当しよう。そうすれば、観測をもう一機増やせる。どうせなら確実に打撃を加えたほうがいいだろう」

 照準指示と中継にあたる龍は、敵が反撃に転じた場合はただちに直接戦闘へと移行することになるが、不知火を数キロ離れた地点で操作する龍は、意図せず巻き込まれるということがない。負傷している姜でもじゅうぶんにこなせる役割だった。

「では、頼む。楠木と乾には観測を任せる。私は通信を中継しつつ指揮を執(と)る。もしキャンプが啓示軍の別部隊や影龍の襲撃を受けるようなことがあれば、防戦を優先する。だが事前の対応としてキャンプも移動させておこう。姜大尉、そちらの指揮を一任する」

 それから数分のうちに手筈(てはず)は定められ、そして一八二〇時、作戦は実行に移された。

 すでに啓示軍の車列に行く手に回り込んだ姜宗義の龍が、不知火を携えて待ち構え、茨木からの射撃指示を待っている。乾と楠木は敵の車列に対して左右から忍び寄り、先ほどから茨木に対して大雑把な敵の位置を知らせてきている。ひとたび茨木からの合図があればふたりは車列に迫撃し、正確な座標や風の情報を送ってから、離脱。情報を受け取った茨木が姜にそれを転送し、姜が不知火からロケット弾を放ち、車列の前方めがけて爆弾の雨を降らせる。

 目論見(もくろみ)どおりにことが運んだなら、北に向かう進路上で待ち伏せを受けた啓示軍は、左向け左で西に向かうか、さらに九十度回って来た道を引き返すか、いずれかを選ぶだろう。それで目的は達成される。全滅は必要ではないから深追いはしない。窮鼠(きゅうそ)は猫を噛む。紫龍隊は猫かどうかも怪しいのだから、分をわきまえねば自滅する。それに、もとより消耗戦は機兵の領分ではない。

 仕掛けるタイミングは、地形と風、そして何よりバロッグの濃度を考慮して判断しなければならない。バロッグさえこれほど濃くなければ、似たような作戦を何度も経験してきた茨木にとって、その判断は決して難しくない。しかし、バロッグの――変則領域の挙動は勘が利かない。勘でわかるようなものなら、そもそも変則領域などという用語を世界中の科学者が使うことはなかっただろう。

 ――こんなとき、あの男なら……。

 緊張のなか、茨木はある特異体質の持ち主を思い出さずにはおられなかった。あれが本当の話なのかどうか、十年以上にわたって、自分の見解を定められずにいた。信じるに足る証拠を見た一方で、しかし常識人としての知識が「理解」を阻害し続けてきた。今もまだ結論は出せないが、茨木にはひとつ確かに言えることがあった。

 理解できない力でもいい。今はそれが欲しい。

 各種のセンサーの出力結果と、乾、楠木からの情報が、茨木の脳によってシステムに代入され、最適化が行われる。脳を模擬したというEPU(エクスペクトプロセッサ)であっても、この処理は不可能だ。目的を定めているのが人間の価値観であるかぎり、機械がそれを代替することはない。これから人の命を奪おうとするその号令は、決して機械ではなく、茨木彪というひとりの人間がかけるのだ。

 風が弱まった。茨木は静かに息を吸う。

「――乾、楠木は突入。最終情報を送れ」



- 11 -


 気がつくとそこは街中だった。真新しいビルが立ち並び、ショーウィンドウの向こうのマネキンたちは、みな異国情緒(じょうちょ)を取り入れた新奇な洋服を身に纏(まと)っている。アーケードは人で満ち、溢(あふ)れんばかりの活気だ。しかし着飾った若者ばかりというわけではない。街をさらに拡張しようとする建設関係者の姿はどこに目を向けても見ることができるし、ゆったりと買い物を楽しんでいる親子連れも多い。

 横浜だ。凪沙はすぐにわかった。

 凪沙の手は誰かの大きな手に握られていた。いや、凪沙の手が小さいのだ。今よりも、ずっと。

「ねえ、お父さん」

 凪沙は隣の人物を見上げてそう呼びかけた。自分も親子連れのなかの一組であったのだ。凪沙は何事かを父に問いかけ、父はひとしきり笑ってからそれに答えてくれた。凪沙も微笑む。

(ああ、夢なのだ)

 凪沙は悟った。父と連れ立って笑っているのは、凪沙ではない。自分の名前も漢字で読み書きできなかった幼子(おさなご)、「なぎさ」なのだ。なぎさは、凪沙の思考とは完全に乖離(かいり)して動いている。別のことを思い、考えている。しかし視点は同じだ。知覚は共有されている。過去の記憶を再生しているのだと凪沙は察しをつける。そういう夢も、あるのだろう。

「これから会う女の人が、お母さんなの?」

 なぎさは唐突に話題を変えた。父の笑顔が一瞬固まる。――このディテールは記憶ではなく、過去を遡って改竄(かいざん)したものだと、凪沙は自覚した。なぎさはそんなものを見ていなかったはずだ。見えていなかった、と言うべきか。

「そうだね、多分そうなるよ。――いいや、父さんがそうするんだ」

 父は決意を新たにしたようだった。この頃の父はまだ迷っていたと、凪沙はあとから聞いて知っている。

 再婚などさっさとしてしまえばよかったのに、と思うのは、自分の名前を漢字で正しく書けるようになってからのことだ。なぎさは父の言動などから「母」の出現をなんとなく嗅ぎ取っていたが、具体的には事態がよく飲み込めておらず、不安だった。母という存在はどういうものなのか、なぎさはわからなかったのだ。今となっては笑い話になるが、当時としては、父親がもうひとり増えると想像するほうが遥かに簡単だったのだ。

 母という存在が自分にとって敵になるか味方になるかはわからなかったが、しかし、父が強く求めている存在であるとは感じていた。だから、なぎさは事の進行を妨げることはしなかった。なぎさは笑った。父も笑ってくれた。

 とても正しい選択だったと凪沙は思う。

 なぎさは父とともにバス停へ向かう。中心地から少し外れたその区画では、当時、第二の中核として台頭するべく、屋上屋でも掛けるのかと疑わしいほどに遮二(しゃに)無二(むに)工事が進められていた。ふたりの姿を窓に映したすぐ隣のビルも、数年前の大災害で崩落した上層階を、最新設備を整えたものに造り替えているところだった。もちろん、そのあたりの事情はなぎさの知るところではなく、凪沙があとから調べたことだ。

 事故だったのか、事件だったのか。なぎさばかりでなく凪沙も、本当のところなぜそれが起きてしまったのか知らない。けれども、それがそのとき起きたという事実を凪沙は知っている。笑顔のまま歩いていくふたりを何が待ち受けているのか凪沙はわかっている。しかし、どうにか別の道へと曲がらせたいと思っても、意味のないことだった。所詮これは回想に過ぎない。過去の事実は変わらない。

 ふたりの頭上で爆発が起きた。その瞬間、なぎさは花火大会を思い出した。しかし次に聞こえてきた音は、錆びついたシーソーとブランコの大群が一斉に動きはじめたようなものだった。それも巨人が使いそうな特大のシーソーとブランコだ。

 建設中のビルの上層階は、火の粉とともに、重い鋼の梁(はり)を撒(ま)き散らした。落下物には生身の工員も混じっていたことだろう。爆発発生からのタイムラグの間に、父は危険を理解し、凪沙を抱えるようにして走り出していた。だが間に合わなかった。

 間一髪で突き飛ばされ、助かったなぎさは、鉄骨に腰を潰された父を見下ろしていた。

「な……ぎさ……」

 父は即死ではなかった。凪沙はこれを不幸中の不幸だと思う。しかしなぎさには不幸を認識するだけの余裕すらなかった。立ち竦んでいた。何が起きたのかという疑問と、なぜこうなったのだという疑問とが、ごっちゃになってますますわからないものになっていた。

「逃げな……さい」

 父は声を出すのが辛そうだった。いや、うまく発声できなかっただけで、父は下半身の痛みをすでに感じていなかっただろう。凪沙はのちに人体の構造と機能について学んだとき、ほっとしたのを記憶している。

 爆発したのは頭上のビルだけではなかった。何箇所で爆発が起き、崩壊がどう伝播(でんぱ)したのか、亜連当局の調べで一年後には詳(つまび)らかになっている。なぎさがそのとき立っていた場所は、周辺一帯で引き起こされた惨劇の、中心近くだった。信じられない光景に囲まれたなぎさは、ようやく泣き叫ぶことを思い出すので精一杯だった。

「泣いていちゃ、いけない。逃げるんだ。走るの……得意だ……ろう?」父は咳き込み、大量の血を吐く。「鬼ごっ……こ……。いつも、父さんが……捕まって……」

「お父さんも、逃げないと!」

「いいからひとりで逃げるんだ、早く!」

 記憶と違う、強い声だった。なぎさは――凪沙は絶句した。鉄骨の下の瀕死の男は、もはや父ではなくなっていたのだ。父よりいくぶん若い。

「――尾西隆範」

 凪沙はそこで目を覚ました。

 バトゥが地面に腰を据えて、彼女の上体を抱えていた。夢と現実の境がやがて認識され、凪沙は現在の恐怖を思い出す。

「ゾルダートは……」

 声が続かなかった。すっかり枯れている。体じゅうに汗をかいていた。夜気が体温を奪っていく。――そう、日が暮れていた。

「もう半時(はんとき)になる。お嬢さんが気絶してから」

 すぐ近くにあったバトゥの顔には、さきほどのゴーグルがつけられていた。だから目の表情は読めない。それでも、もう老齢に差し掛かっているということは確かだった。

 バトゥは凪沙が自分で姿勢を保てることを確かめると、立ち上がって彼女から離れた。ゴーグルを通じて暗闇のなかの何かが見えるのか、きょろきょろと辺りを見回している。まだエントゼルトゾルダートがそばをうろついているのだろうかと心配したが、どうやらそれは違うようだった。足音は聞こえない。バトゥもそれを警戒した様子ではなかった。

「観測中か?」

「いや」バトゥは短く否定した。そして勝手に話を変える。「俺の持っている薬を処方したよ。ほんとうの旅行者は、独自に医学を嗜(たしな)んでいるものでね。まあ、そんなことを言ってもたいがいの場合はヤブだ。生兵法はなんとやら。けれどもどうやら、俺の医術はそう捨てたものでもないようだな。こうして、効いたわけだから」

 あいかわらずよく喋る男だった。その口が一休みするまでに、凪沙は周囲の状況の確認を終えることができた。一九〇六時。確かに三十分ほど経過しており、その間にバトゥが、どうやったのかわからないが、ひっくり返ったチャクラムをきちんと元に戻してくれていたのも見て取った。

「ありがとう」

 目的語をどれに定めればよいかわからず、凪沙はそれだけを口にした。自分でも、誠意のかけらも感じさせない抑揚の無さだと評価した。

「ん? いや、どういたしまして」

 バトゥは虚空に目を向けたまま答えた。笑っているらしい。

 沈黙が流れた。会話が途切れただけでなく、見計らったように風も凪いだのだ。

「――おっぱじめよったか」

 バトゥの呟きと、彼方からの砲声は、同時に凪沙の耳に届いた。バトゥの隣まで駆けて行って、西の空を見渡す。北西の尾根に人工の光を見つけ出した。

 凪沙はバトゥをふりむき、琥珀色のゴーグル越しに彼と視線を合わせた。

「啓示軍(オフェンバーレナ)の機兵がどちらへ向かったか、教えてくれる?」

「あの光の方向だよ」

「そう、ありがとう」

 さっきよりは幾分感情を込めて謝意を示すことに成功すると、凪沙はそれから一秒も無駄にすることなくチャクラムに乗り込んだ。慌(あわただ)しいお嬢さんだ、というバトゥの呟きを聞きながら、電源を入れる。しかし、転倒による故障の有無をチェックする自己診断機能が起動して、始動までに数秒待たされる。凪沙は再びバトゥを見た。

「良い旅を」

 チャクラムが走り出す。

 正しい言葉の選択だったと凪沙は思う。



- 12 -


 不知火による攻撃は成功した。車列の前方にいた戦車一輛とトラック、装甲車数輛が走行不能となり、それより後方の車輛はてんでばらばらに逃げ出しはじめた。もう一輛の戦車をはじめとする主力は、乾と楠木を追撃するために出払っていて、守るべき非武装の車輛群から離れていたのだ。主力が引き返してくる前に、両名は離脱。合流地点は予(あらかじ)め定めてあるが、それはもちろんキャンプではない。四機の龍(ロン)は、足取りを掴まれない安全な場所で落ち合う手筈である。

 乾、楠木がともに首尾よく離脱できそうだと判じると、茨木は自らも撤収すべく、観察のために陣取っていた高台から下りはじめた。先頭の戦車をうまく仕留められた時点で、茨木に対する脅威はなくなっている。わざと敵に姿を見せて、北側には絶対に進ませないというこちらの意思を示してもよかったが、それよりは手の内を隠しておくことを茨木は選択した。じゅうぶん敵に脅威を感じさせたという確信があった。

 影龍(インロン)が見ているかもしれない、とも茨木は警戒していた。影龍が啓示軍(オフェンバーレナ)を襲撃したとすれば、それ相応の目的があるはずで、なお追跡の最中であるとも考えられる。影龍が龍よりも高い戦闘能力を持つことは実証済みで、それならば紫龍隊は、影龍に総戦力を把握されるわけにはいかない。杞憂であればいいのだが。

 相対バルムンク反応レベルC。それを二時方向――北北東に感知した。茨木は武器選択のプライマリに火縄丙型(へいがた)を設定し、安全装置を解除。反応は姜宗義(カン・ジョンイ)の龍ではない。敵だ。

 続いてレベルBの反応。読み取ったときにはもうレベルAに変わっていた。速い。機兵本体が迫ってきたのではない。音速を超えて襲ってきたのは、闇の向こうから放たれた高エネルギー粒子の束だった。茨木の回避運動は間に合わなかったが、そもそも敵の狙いが外れていた。牽制程度の攻撃、と茨木は判断する。先手を取れる立場にあった敵が、牽制など生ぬるいことをやるときは……。

 予想通り、違う方向から攻撃が来た。今度は熱粒子砲ではない。数発の榴弾だった。弾頭はすべてが低空で炸裂、子爆弾を撒き散らす。その大半はバロッグに包まれてエネルギー変換現象を呼び起こしたが、幾らかはそのまま地面へと飛び散り、茨木の龍にもそれは迫ってきた。数が多いので、ひらりとかわすことなどできない。全速でその場から離れようとしたが、子爆弾のひとつが龍の装甲に当たって爆(は)ぜた。損傷警報は出ない。機兵の薄い装甲でも防げたようだ。

(だとすれば、これも?)

 茨木は本命の第三派攻撃が来ると予感したが、それがどこからどのような形で襲ってくるのかまでは察しがつかなかった。相対バルムンク反応を呈したということは、相手は機兵らしいのだが、いったい何機いるのかがわからない。

 高台の裏手に回れば、直線弾道の熱粒子砲は防げる。まだ反撃のときではないと判断して、茨木はひとまず身を隠した。弾道軌道を描いて飛んでくる榴弾は防げないが、直撃しないかぎりその威力はたかが知れている。

「茨木大尉、ご無事ですか」

 やがて龍特有の相対バルムンク反応パターンとともに、乾の声が近寄ってきた。乾の龍はバルムンクフィールドを茨木機と共有し、一般的な電波通信に切り替える。情報が音声のみから映像つきに拡張され、乾がその乗機ともども健在であることを茨木に知らせてくれた。

「楠木は?」

「合流できませんでした。レオパルトが狙っていたもので」

 残念そうに乾はうつむく。しかしやむをえないことだった。ドイツ製戦車レオパルト2シリーズの主砲は百二十ミリ滑腔砲。一世代前の代物だが、それでも機兵にとって最大級の脅威として分類される。龍の場合はコクピット周辺を特に厚い複合装甲で覆っているが、ひとたび直撃を受ければ、その程度の厚さの違いなど殆ど意味をなさない。

「でも、被弾はしていない様子でした。合流地点で会えるはずです」

「そうだな。――私たちが離脱できたらな!」

 ミサイルが飛来した。それはバルムンクフィールドによって妨害を受け、龍への終端誘導を果たせずして、地面へと突き刺さる。そこで爆発。日没後の闇の中。敵からしてみれば格好の目印だ。

 声を掛け合い、茨木と乾は二手に分かれた。手筈はもう整っている。茨木が火縄のロングバレルタイプである丙型で援護し、そのあいだに乾が側面から敵機に迫撃するのだ。瞬時にそう決められたのは、相手の火力の高さから、エントゼルトゾルダートの四脚型だと機種を推定できたからに他ならない。与えられた条件が同じなら、判断の早いほうが戦闘を制する。茨木は経験からそう学んでいた。

 乾が側面から回り込むのには、十字砲火を形成するのみならず、もうひとつ意味がある。茨木に向けられた最初と二番目の攻撃には時差が殆ど無かった。したがって、それぞれ違う場所に敵機がいると推定される。乾がその一方へ正面から突っ込んだのでは、もう一方から狙撃されてしまう。横から回り込むことで死角をなくすのだ。尤(もっと)もこの戦術は茨木が確実に一機を引き付けられるという前提のもと成り立っているに過ぎない。茨木にはそれを成功させる責任があった。

 レベルCの反応は、まだ動いていなかった。バルムンク砲を実用化していない亜細亜連邦軍にはバロッグの中で狙撃を実行する手段がない。敵機のパイロットはそう高(たか)を括(くく)っているのだろう。たしかに火縄の丙型は、狙撃仕様とはいうものの、変則領域での命中精度に何かの保証がついているわけではない。下手な鉄砲を撃っていたら、運良く命中させるよりさきに、弾道逆算によってこちらが狙撃される。しかし茨木はそれで諦めるような男ではなかった。乾はそれを知っているからこそ茨木にそれを任せたのだ。

 敵からの二回の攻撃が見当外れの場所に着弾しているうちに、茨木は狙撃ポジションを見繕(つくろ)った。そろそろ乾が回り込む頃合で、茨木は敢えてその身を晒して自分に注意を向けさせなければならない。そして最善を言うなら、一機はそのときの攻撃で片付けたい。そのためにどう行動するかは、もう決まっていた。

 茨木は遠慮なく背部ロケットエンジンを噴射させ、龍は夜空に咲く花と化して高々と跳躍した。最低二機のエントゼルトゾルダートの照準が茨木機を捉えたことだろう。しかし茨木のほうからも、暗視映像で相手がよく見えた。臆せず、手際よく標的を絞りこむ。予想したとおり、この高度ではバロッグが極度に薄くなっていた。つまり、まともに飛び道具が使える。砲身のぶれが収まった瞬間、茨木は操縦桿(かん)を握る人差し指に力を込めた。

 地上から放たれたミサイルと、茨木の龍が撃った百五ミリ砲弾が空中で交叉した。ミサイルはバロッグに目くらましを受けて標的を見失い、おそらく設定済みの動作であろう、すぐに自爆した。茨木の龍はその煽(あお)りを受けてよろめき、着地に失敗。膝をついて衝撃を吸収した。

 地面に下りては、着弾の確認はできない。相手が健在という可能性が残っている以上、すぐに退避する必要があった。しかし龍は茨木の意思に追従してくれなかった。警告画面を見ると、MMアクチュエータの張力が急低下している。衝撃のせいだろう。少し時間が経てば復旧するが、今はまだ足腰が立たない状態だ。

 すぐにも追い撃ちが来る。再び背部ロケットの推力に頼り、茨木はその場からの離脱を図った。浮き上がるより早く、熱粒子砲がそばをかすめていく。次の射撃が来る前になんとか飛び移り、滞空中にMMアクチュエータの張力も回復したので両足で着地できたが、その場所が悪かった。茨木の目の前には一機のエントゼルトゾルダートが待ち受けていた。かなり近い。十メートルもない。

 両機とも即座に飛び退いて距離を取った。そして茨木はまた驚いた。相手は上半身に火器を満載していながら、案外にすばやい挙動を見せたのだ。

 それは四脚型ではなかった。かといって二脚型でもない。まるで冗談のようだが、三脚型だった。

 火力を増強しつつ、運動性の低下を抑える。その妥協点がこの形を生んだのだろう。茨木は冷静に相手の機体特性を分析したが、焦りは消すことができなかった。茨木は既に失態を犯した。飛び退くのではなく、即座に距離を詰めるべきだったのだ。雷紫電を携行していないが、体当たりしてでも相手の火器の使用を封じるべきだった。

 適度な間合いを得た三脚型は、機関砲を撃ちつつ横に機体を滑らせる。その挙動はまるで踊っているようだった。茨木は狙いすます間もなく火縄を撃ったが、動きを読み損ね、二発続けて外してしまう。そして三発目を放つ前に、機関砲を受けて火縄が使えなくなった。

 本当に体当たりしかない。そう茨木が柄にもないことを考えたとき、三脚型がひときわ大きく跳び上がった。足元に着弾があったのだ。

「大尉、後退を!」

 その声は乾ではなく、楠木だった。ロケット噴射の光を見つけて、応援に駆けつけてくれたのだろう。それも、まだ戦闘力を残した啓示軍の車輛群の中を突っ切って。

 楠木は連続して射撃を加え、三脚型もさすがにかわしきれず、被弾。反撃もそこそこに急速離脱していった。素早さは四脚型と比べ物にならない。

 一難去ったが、武器を失い関節にも不安を生じた茨木機に、もはや戦力としての価値は無かった。楠木も残弾が少ない。信号弾で乾に合図を送り、その援護を楠木に任せて、茨木は先に離脱することにした。そうするよりほかない。敵に複数の機兵が、それも新型がいたとは計算外だった。

「すまない、楠木」

「いいえ。お任せを」

 戦場に背を向け、背部ロケットを使うことなく密かに傾斜を下る。隊長としての未熟さを噛み締め、その身に野心を抱いた浮薄(ふはく)を自嘲しつつ……。

 突然、被ロックオン警報が鳴り響いた。しかし相対バルムンク反応センサーは敵機を感知していない。どこだ、と龍の首をめぐらしたとき、その正面に迫り来る砲弾が映し出された。

 避ける暇などあるはずがなかった。龍の上半身は砲弾の直撃を受け、大破。茨木の乗ったコクピットはまだ下半身の上に据わっていたが、MMアクチュエータとEPUの接続による反射的な姿勢制御機能が作動するのみで、もはやそれは人型兵器ではなくなっていた。ロボットとすら呼べない。上半身をもがれたみすぼらしい木偶(でく)人形は、二、三歩よろいたのち、尻餅をつくようにして倒れた。

「茨木大尉!」

 楠木の、平静よりオクターブの高い悲鳴が聞こえた。まだサブの通信系が生きているのだと茨木は理解する。頭といわず体中を打撲していたが、気を失うことはなく、思考力も一応残されていた。

「逃げたまえ、楠木少尉」

 茨木は過たず、最優先事項を伝えた。しかし楠木の応答はない。相対バルムンク反応センサーは龍の上半身とともに失われたので、もう楠木機のいる方向を検知できない。敵機についても同様だ。しかし、茨木の龍を狙撃し大破させた何者かが、楠木の龍をも標的にしていることは想像に難くない。楠木をその場に引き止めるため、あえて茨木機についてはコクピットでなく胸部を狙ったのだとも考えられる。楠木冴子は非常に危険な状況にある。

「大尉、連れて帰ります! ハッチを開けて!」

 楠木の声が、さっきより明瞭に聞こえた。雑音が減っているということは、それだけ近づいたということだ。つまり、楠木は危険に身を晒したままでいる。茨木は送信システムがまだ機能していることを祈りつつ、力を込めて言った。

「聞こえなかったのか、少尉。――厳命する。今すぐここから逃げるんだ!」



- 13 -


 迫り来る正確無比な砲撃から、楠木は逃げた。茨木をその場に残して。乾はどこに行ったか知れない。逃げる途中で破片を頭部に受けて、楠木の龍(ロン)のセンサー系は機能が損なわれてしまっていた。

 見えないのは相対バルムンク反応ばかりではない。楠木の視界も、流れ出る涙のせいで正常とは言い難かった。いいからここから逃げろ。茨木の言葉によって、楠木は夢よりも克明(こくめい)に思い出していた。十二月二十五日、尾西隆範が死んだ日のことを。

 その日、楠木は尾西とともに啓示軍(オフェンバーレナ)補給拠点の攻撃に当たった。姜宗義(カン・ジョンイ)が陽動をかけているあいだに、ふたりで電撃的に主要施設を制圧するという作戦だった。接近には、ぎりぎりまで気取られないようなルートが選ばれ、車輛ではとても通過できない山側から二機は敵基地を目指した。

 まさかそんな場所に対戦車地雷が仕掛けてあるなどとは、楠木は――そしておそらく尾西も――考えていなかった。今にして思えば、甘かった。相手は機兵の運用に慣れている。自分たちの拠点が機兵に対してどのような弱点を抱えているか、少し考えるだけでわかったのだ。もちろん、それを逆手にとって罠を仕掛けることも容易だったに違いない。そこにふたりはひっかかってしまった。

 先に地雷を踏んだのは楠木のほうだった。幸運にもたいしたダメージを受けなかったが、運はそこで尽きた。その爆発を砲撃によるものと勘違いした尾西は、盾になろうとでも考えたのだろう、あろうことか楠木機のそばに寄って来たのだ。最悪の展開だった。尾西の龍は両足のマスディフューザを地雷で破壊され、立っていられなくなった。そこへ現れたのが、ちょうど補給を受けにそこに寄っていたらしい啓示軍の戦車だった。

 しかし、足をやられた時点では、まだ尾西にも脱出のチャンスがあった。背部ロケットを噴射して物陰に滑り込み、そこで機を捨てて退避すれば、必ずとは言えないまでも、生存の可能性があった。にも拘らず、尾西はそうしなかった。原因は楠木にある。楠木は、先に逃げろと言い出した尾西を置いてひとりだけ後退するのをためらったのだ。もし楠木が彼の言葉に従って即座に後退していたら、尾西も機体を捨てて藪の中に身を潜めたことだろう。しかし、「もしも」ほど過去時制で用いて虚しい言葉はない。

 敵戦車の射程範囲に収まっている状況で、機兵が踏みとどまっても何の益もない。しかし、そのときの楠木は正常な判断を下せなかった。その彼女を敵戦車の主砲から守るため、尾西は龍の最後の動力を使って、逃げるのではなく、敵戦車の前に立ちはだかった。

「早く逃げろ、楠木!」

 尾西はあのときそう叫んだ。

 その後の結果は、書類でも残されているとおりだ。尾西は無残な肉片の集まりと化し、かばわれた楠木はなんとか生き残った。

 情けない話だと楠木は思う。しかし情けないのは自分ばかりではない。尾西にしてもそうだ。

 乾から渡された日記のなかに、楠木は数箇所、「冴子」という記述を発見した。いずれも尾西の手書きの文字だ。彼の文字は拙(つたな)かったが、その部分だけは常に丁寧に書かれていた。そう難しい漢字でもないのに。

 ――最期くらい、覚悟を決めて冴子と呼べなかったのかよ。意気地なし。


 合流地点まで逃げ延びると、そこには涙で眼が曇っていても見間違いようのない、龍の姿があった。二機だ。乾は先に離脱に成功していたようだ。

 姜宗義が武装を携行しなおして援護に向かい、乾は追っ手を振り切ることができた。楠木が追撃を受けなかったのも、その牽制が利いたためだろう。――そういうことを、いつもの三割の元気も発揮していない乾から説明された。しかし自分よりはまだマシだと楠木は思った。自分は今、マイナスの元気しか持ち合わせていない……。

 しかし、姜に紫龍隊の危機を告げたのが小嶺凪沙であり、彼女が戻らなければ援護は間に合わなかっただろうという話を聞くと、楠木の持っていた感情はまた別の次元に向いたのだった。悲しさと虚しさと腹立たしさが同居していた。楠木の語彙(ごい)ではどうにも表現不可能な気持ちだった。

 手当てを受けるついでに、そのまま楠木は眠ろうとした。このまま起きていては感情がパンクをすると思った。いったん脳を休ませないといけない。しかし、寝つけなかった。寝れば尾西の夢より恐ろしいものを見ることになると、脳のどこかが予め知っていて、全力で睡眠を妨害しているのかもしれなかった。

 しばらくの間、尹慶珠(ユン・キョンジュ)がそばにいてくれたが、やがて彼女も龍の修理のためにいなくなり、楠木はテントの中でひとりになった。

 一時間ほど経った頃、楠木がまだ寝付けずにいると、乾がやって来た。彼は姜宗義とともに、再武装して茨木機大破の現場を見に行ったらしい。乾は語る。啓示軍はすでにその場を離れており、ふたりは龍の残骸に近づくことができた。しかし、コクピットは空で、さらにパーソナルディスクや据付の端末の一部が消えていた。長居は危険だったので、持ち帰れたのは、落ちていた認識票の片割れだけだった――。

 その乾も消えたあと、積もる疲労と少しの安心のおかげで、楠木は眠ることができた。しかし半時で目を覚ました。夢の中に、尾西に代わって茨木が出てきたからだ。もう眠るまい。そう心に決めたが、かといって起き出す元気はなかった。

 決意というのも虚しいもので、楠木は気づくと朝を迎えていた。結局、寝てしまったのだ。夢を見た覚えはない。

 足音が近づいてきた。いい加減に起きろと呼びに来たのは、心配顔の尹慶珠だろうか。あるいはカンカンになった姜宗義か。足取りが落ち着いているから乾という線はない。

「起きているか?」

 その声を聞いて、楠木は慌てて腕で顔を覆い、疲れ果てて寝ているというポーズを取った。小嶺凪沙だった。楠木の寝たふりを見破っているのかいないのか、小嶺は楠木の傍らにしばらく無言で立ち尽くしていたが、やがてぽつりと言った。

「小さい頃、わたしは鬼ごっこが得意だった」

 何を言い出すのだ、と楠木は怪訝(けげん)に思ったが、そんな簡単な罠にひっかかるつもりはない。だから黙って、小嶺が何を言うのか聞いていた。

「でも、逃げるのは好きじゃない。追いかけるほうが得意だった。昔からそう。今でもそう」小嶺の声がだんだんと大きく、力強くなる。「何かを、誰かを追っているのが性(しょう)に合ってる。だからわたしは茨木彪を追う。それが任務で、わたしはそれから逃げたくないから」

「馬鹿じゃないの?」楠木は猿芝居をやめて反駁した。「捕虜を取るなんて限らないじゃない。この状況下なのよ。いったん捕まえても、情報を取ったらすぐに殺してしまうのが上策よ」

「何を信じるかは人それぞれだけどね。わたしはもう決めたんだ。――楠木冴子。あんたは、どうする? そうやって自分を責めて、哀れんで、満足しているつもり?」

 楠木は腕をどけて、年下の生意気な娘が自分を見下ろす視線に応えた。

 ――見下ろしてはいるが、見下してはない。蔑(さげす)みの目ではない。

 鼻息ひとつたてると、楠木は体のばねを利かせて立ち上がった。こうなると視点の位置は逆転する。楠木は背をかがめ、小嶺の眼前に指を突き出して言った。

「二度と『あんた』なんて呼び方するんじゃないよ、このガキ」

「よかった。まだ生きていたようだな、冴子」小嶺は嘲(あざけ)るように笑った。「手を貸せ。協力がいる」



――続く――