黒龍隊の挽歌 第二十三話

隠されたもの



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 砂時計。あるいは、アラビア数字の8。

 ラリサ・コルヴァクは眼前の機械を見上げてそんな連想をした。決して、突飛な形容ではないとラリサは思う。まさにそのような外形なのだ。高さは四メートルほど。リペイントすれば公園のオブジェに使えそうだ、と誰かが言っていたのを思い出す。しかし、この実験の結果次第では、すなわちこの物体の正体次第では、そんな冗談は言えなくなるかもしれない。今、ラリサだけでなく、この実験室に集まった者すべてが緊張の面(おも)持ちでこの“砂時計”を見上げているのだ。

 空気が重い。そう感じるのは、窓ひとつない地下の実験室だからだろうか。“砂時計”は中身に空洞が多く、外装も強化プラスチック製とはいえ、人の手で動かすには重量がありすぎた。だから、クレーンとスライド式作業台のあるこの実験室を使うしかなかったのだが、できることならやはり地上の、窓を開ければ風が通るような場所で作業を行いたかった。もっとも、地下で実験を行っている最大の難点は風通しのことではなく、居住区との往復が面倒であることだ。シャワーも浴びずに連日の作業を続けた男たちの体臭が、施設の換気能力を上回って滞留している。

 それも、もう少しのこと。ラリサは自分に言い聞かせる。

「始めますよ、コルヴァクさん」

 操作盤に張り付いた四十過ぎのエンジニアが、入念な手順確認を終えたらしく、実験開始の許可を求めてきた。ラリサとしては、許可を出すくらいしかここでの仕事がない。すぐさま、しかしゆっくりと頷(うなず)いた。

「ええ、お願いします」

 エンジニアの男がスイッチをいくつか切り替えると、電源が新たな系統に投入され、実験室の照明が少し暗くなる。どうやら計算より多く電力を取られているようだが、安全率の範囲である。

 低い呻(うな)りが実験室をさらに不気味にする。しかし、これは“砂時計”の発する音ではなく、“砂時計”の各所に設置されたセンサーと連動したコンピュータの冷却ファンの音だった。センサーの計測結果は随時、測定項目によっては逐次(ちくじ)、ケーブルを通じてレコーダへと記録され、同期したコンピュータがカレントデータをグラフ化して出力する。

「相対バルムンク反応、一番から順に、レベルD、Cマイナス、D、D、Dプラス……」

 最も注目すべき測定結果を、二十歳になったばかりの若手が澄(す)んだ声で読み上げていく。

「第二フェイズに移行」

「電力供給に異状なし。……おい、念のため“上”の電圧調整、やっておけよ」

「各計器のタイムラグ、初期値のまま変化なし」

「伝えてあります。警戒監視網をパッシブに切り替えると言ってましたから、もう電力が回ってくるはずです」

「RBR5、レベルCに上昇」

「おお、来た来た。これで第四フェイズまで問題ないな」

 ラリサが何か指示する必要など一切なく、老若男女の専門家たちが実験をスムーズに進めていく。ラリサはただ、見守るだけだ。

 皆(みな)、いつも以上に集中している。ここでの最後の仕事になるのだから、それも当然だとラリサは思う。プロフェッショナルとしての矜持(きょうじ)がそうさせるのだ。そして、事後の不安を今は忘れておくために……。

 実験はほどなく第三フェイズに移行した。順調な滑り出しだ。しかし最終フェイズ終了までは数日かかる。そんな実験を徹夜でこなす体力はとっくに失ってしまった。それに、そろそろ荷物の整理もしておかなければならない。ラリサは“上”の自宅へ戻ろうと思い、その場を年長のエンジニアに任せ、エレベータに向かった。

 エレベータは二基が並んで設置されている。ラリサから見て手前が二号、奥が三号。一号は重量物の搬入搬出用で、ちょっとした家並みの広さがあり、この実験室に“砂時計”を運び入れるのにも使用した。電力消費が大きいので、ラリサが許可しない限り作動できないことになっている。もっとも、指紋や網膜などの個人認証機能が備わっているわけではなく、単に配電盤の鍵をラリサが預かっているだけのことである。この施設は、そう新しくないのだ。

 ラリサは二号エレベータのボタンを押す。籠は“上”に行っていて、すぐには下りてこない。待っていると、隣の三号エレベータの扉が開いた。中から、長身を少し猫背にした男が出てくる。

「調子はどうだい」

 男はラリサがそばにいるのに気づくと、暢気(のんき)な調子でそう問いかけてきた。まるで、昼飯はできているか、とでも言うように。

「順調よ。今、第三フェイズに入ったところ」

「ほう、さすがだ。ユニバーサルコンデンサの調整チームとして、教授が見込んだだけのことはある」

「別に、あなたや楊(ヤン)教授に褒めてもらうためにやっているわけじゃない。みんな、やるべきと思ったからやっているのよ。――これが上手くいったとして、何人助かる?」

 男は、泊まり込んだエンジニアよりもよく伸びた無精髭(ぶしょうひげ)を掻(か)いた。

「まだわからない。起動に成功しただけだからな。この装置の機能が明らかにならなければ……」

 男が言葉を濁しているうちに、二号エレベータの扉が開いて閉まり、誰も乗せないまま“上”へと戻っていった。

「最も上手くいった場合を想定するなら、どう? それが聞ければ、私たちも俄然(がぜん)やる気が漲(みなぎ)るわ」

「六十億」

 しばらく髭を掻きながら考え込んでいた男は、やがて真顔でそう答えた。六十億。それは現在の地球の総人口として語られる数だ。八月の悪夢によって大きく減少し、緩やかな回復を見せ、そしてこの世界規模の戦争で再び減少に転じようとしている変数。

「真顔で冗談が言えるのね」

「言われたとおり、最善の場合を想定した。導出過程は、今は説明できない。すまないが……」

 そこで男は急に口をつぐみ、視線をラリサから外して二号エレベータの扉を見た。つられてラリサが視線を転じると、いつのまにか“上”から戻ってきた二号エレベータの扉が開かれ、息を弾(はず)ませた女が転がるようにして飛び出てきた。実験スタッフではない。装置の起動を行ったエンジニアの妻だ。

「どうしたんです? 実験中に許可なく立ち入ると危険ですよ」

 いつも顔を突き合わせて食事をする仲である。胸騒ぎを感じつつも、ラリサは努めて明るく、女に声をかける。遠く背後では彼女の夫が何事かと声を荒げていたが、女は夫の声は無視して、ラリサを見つめ返した。そして、ひとつ息を飲み込む。

「大変なことになったわ、ラリサ。――啓示軍(オフェンバーレナ)が。啓示軍がこの集落に」

 実験室を満たしていた緊張が一瞬で変質する。

「距離は。規模、編成はわかるか」

 ラリサの傍(かたわ)らの男が、声を一段低くして尋ねる。目つきが険しい。

「戦車一、装輪装甲車四、トラック三、機兵三。最低でそれだけ。もう警戒監視網を抜けているわ」

 誰かの舌打ちが室内に響く。隣の無精髭は「手遅れだ」と歯を噛み締めた。

「どうするの?」

 ――どうするのだ。ラリサは向けられた問いを自分の中でこだまさせた。せっかく実験が順調に滑り出したというのに。一度止めてしまったら、もうやり直す時間は残されていないというのに。

 自分に向けられた視線の数を自覚して、双肩にかかる重圧に負けぬよう背筋を伸ばして、ラリサは決断を下した。

「実験は続行してください。ただし、人員の交代は最低限で。できるだけ地上との往来を避けてください」

「それって、つまり……」

 いちばん若手の研究員が口を挟みかけ、隣の研究員に睨(にら)まれて押し黙る。ラリサはそちらに微笑んでから宣言を続けた。

「実験を続けたまま、啓示軍を受け入れます。くれぐれも抵抗をせず、また、挙動を怪しまれることがないように。傷病兵がいるようなら救護の手助けを。ここは研究のための施設であることを忘れないでください」

 ラリサはそこまで言い終えると、隣の無精髭に「いいわね?」と無言で確かめた。男は小さく頷いて、踵(きびす)を返す。どこへ行くのかは、聞くまでもない。だから呼び止めることはせず、ラリサは自分がすべきことの優先順位について逡巡を始める。

 しかし、男は立ち止まった。

「相対バルムンク反応、一番から順に、レベルCプラス、B、Bマイナス、Cプラス、Bプラス……!」

 若手研究員の上ずった声が、事態がさらに変容中であることを明瞭に宣告していた。

 首を巡らして、ラリサは“砂時計”を凝視する。

 ひっくり返してはいけなかったのかもしれない。ラリサは鳥肌の立った体を自ら抱きかかえた。



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 幽霊でもいそうだ。楠木は暗視スコープで観察している対象に、そのような感想を持った。

 ウズベキスタン中部の砂漠地帯に、その集落はぽつんと存在していた。集落といっても、居住用という感じではない。大きく目立つ建物は五つで、日本の古い校舎に似た棟が三つ、工作場らしき、クレーンの備わった建屋が二つ。その周りに、画一的な設計の平屋ないし三階建ての住宅が点在している。そこかしこに塔槽類が並んでいる様は、普通の住宅地とは明らかに異質であり、むしろ住宅のほうが予定外の余計なパーツであるように思えるのだ。本来は工場か、研究所が中枢であったに違いない。

 携行したデータバンクに照合したところ、そこは廃棄物の再生処理を行う施設として登録されていた。塔槽類に化学薬品が貯めてあると考えるといかにもそれらしいが、屋外にそれらしき廃棄物は見当たらない。どうも操業はしていないらしい。灯りも非常にまばらだった。暗視ゴーグルでなければ見通しそうな、弱々しい光源しかない。時刻は午前二時ほど。日本であれば、そこがまだ灯(あか)りのともった窓が散見される時分である。

 ――もっとも、電気が使えればの話だけれど。

 楠木はふと、子供のころに起きた大停電のことを思い出す。

 八月の悪夢で壊滅的な打撃を受けた都市設備は、数年が過ぎた当時でも、完全に復旧してはいなかった。集中的に復興が進められた都心や臨海部はともかく、楠木の育ったような内陸の郊外型ベッドタウンでは、インフラの整備不良でしばしば停電や取水制限、ガス漏れなどの問題が発生していた。停電の場合、大抵は二時間以内に直っていたのだが、楠木の覚えている限り一度だけ、三日間続いた大停電があった。

 あの夜の街はとても静かだった。

 二日目になると、好奇心旺盛な楠木の一家は、日ごろから親しくしていた隣家とともにその静謐(せいひつ)を堪能しに出かけた。まだ小さく、普段は九時の就寝を言いつけられていた楠木も、その日は特別に夜更(ふ)かしを許可された。周囲の家々では明かりと娯楽を欠いた夜に退屈し、早々に布団に入る者が多かったであろうに、そのときの楠木は対照的に、無常の幸福を味わっていた。隣の息子――五つほど年上――に肩車をしてもらい、どこの窓にも電気の光がないのをつぶさに見て回った。

 久しぶりに引っ張り出した記憶が未だに鮮明であることに楠木は少々驚いた。しかし、当然というべきか、そのとき感じたぬくもりまでは、再現できなかった。

 あそこは九九年組(ナインティナイナーズ)が住み着いた、彼らの村なのかもしれない。楠木は唐突にそのように思った。八月の悪夢は多くの難民を生んだ。流浪(るろう)の末に放棄されたこの場所に辿(たど)り着き、啓示軍(オフェンバーレナ)の侵略も恐れず住み続けている老夫婦がいてもおかしくない。あるいは、戦火を逃れるため大都市近郊を離れ、この地で新たな命を育(はぐく)もうと決めたかつての若人(わこうど)たちか。どちらにしても、そこにはきっと、仄(ほの)かな灯火に温められた、貧しくも幸せな生活があるに違いない。楠木にはそれらの光景を思い浮かべることができた。去りし日の思い出と同じように鮮明に。

 と、目のまえの景色がただの闇夜に取って代わり、幸せな家族たちの団欒(だんらん)の様子も消え去った。楠木が少し顔の角度を変えると、そこに暗視スコープを手にした小嶺(こみね)凪沙(なぎさ)の背中が見えた。

「もういい。出してくれ、冴子」

 凪沙はぶっきらぼうにそう告げると、暗視スコープを付属のバンドで自分の首にかけ、小柄な体をチャクラムのシートにうずめる。楠木はむっとしたが、しかしおとなしく自分もシートに腰を据えた。こちらは運転席だ。

 何も用事がなくて、この凍(こご)える夜空の下でスコープを覗(のぞ)いていたわけではない。いくら心温まる景色を脳裏に楽しめても、体が凍えきってしまっては死んでしまう。チャクラムには、動力である燃料電池の起動を保証するだけの空調機能しか付いていない。到底人が快適と感じるレベルには遠い。それなのに、よりによって小嶺凪沙とたったふたりで寒空に繰り出しているのは、あの集落に撤退中の啓示軍が集結していると突き止めたからだった。一日半を費(つい)やして、やっと見つけたのだ。

 ここへは昼にも偵察に来た。そのとき軍用車輛や機兵の写った証拠も入手済み。逆に民間人らしき姿が確認できなかった。啓示軍が立ち寄るまでは無人だったのか、それとも啓示軍が住人の外出を禁じているのか、はたまた、何ヵ月も前に啓示軍が拠点化していたとも考えられる。そこで、準備を整えての深夜の第二次調査となったわけだった。

 もっとも、準備できたのは監視カメラだけだった。情報面では収穫なし。軍のデータバンクには施設の詳細までは記載されていなかったし、かといって地元の兵士を当たろうにも、いまだ消えないバロッグのせいで連絡がつかない。

 茨木(いばらき)彪(たけし)はあそこにいるのか、いないのか。

 実を言えば、民間人が残っているかどうかよりも、それを確かめるのが主目的だった。茨木に代わって紫龍隊の指揮を執っている姜宗義(カン・ジョンイ)は、戦力の落ちた今、補給を受けられるまでは啓示軍と距離を置く方針である。茨木がここにいるという証拠を持って帰らなければ、むしろキャンプを東に、ここから遠ざかる方向に移しかねない。早く成果が必要だった。

 凪沙は車を出せと言ったが、ここからの観察でもう証拠を得たと言うのだろうか。昼間の時点で、凪沙はほぼ間違いないと踏んでいたようではあるが、根拠の説明は受けていない。肝心なことは何も教えようとしない。

「まさかチャクラムで強行突入するなんて意味じゃないわよね」

 楠木が念のため行き先を尋ねると、小さく空気の流れる音がした。凪沙が鼻で笑ったらしい。

「その戦術は、相棒が冴子では無理」

「喧嘩(けんか)を売ってるわけ? 力を貸せって言ったのはあんたのほうじゃない」

「わたしと同種の才能は期待していない、というだけ。だから早く始動してくれますか、少尉?」

 舌打ちとともにキーをひねり、主電源をオン。表示灯の微かな光が月光に加わり、楠木の肉眼でもだいぶ周りの様子がわかるようになった。

「あんた、なんで英語なのよ」

 わかっていたが、敢えて楠木は聞いた。本音は本音として、凪沙が建前上なんと答えるかが知りたかった。

「日本語で話すと、冴子は余計なことを喋(しゃべ)る。任務中に無駄口を利くのは褒められたことではない」

 この敬意など感じさせない物言いを許すのが、亜連の軍用英語だ。標準的な英語から、儀礼上必要になる敬語表現を削ってある。上下関係にまつわる表現の多い東アジアの言語とは、まったく対極にあるといっていい。士官学校で習ったときは、ややこしくなくて便利だと楠木は感じたものだったが、それ以来の認識は小嶺凪沙によって修正されてしまった。

「あんたは英語のほうがよく喋る」

 息を殺すように始動したチャクラムの駆動音は、楠木の呟(つぶや)きを隠すには小さすぎた。隣の席で、凪沙が少しだけ楠木のほうに顔を向けたが、それまでだった。

 互いに唇(くちびる)を結んだまま、チャクラムが轍(わだち)を残さないよう地面の硬さを確かめながら進む。来た道を戻れば楽なのだが、念には念を入れて別のルートを使い、さらにキャンプまでは大きく迂回することになっていた。敵の遊撃隊に注意するよう、姜宗義からしつこく指示された結果である。凪沙も合理的だと評価していたが、しかし、面倒な運転をしているのは凪沙ではなく楠木である。凪沙は暗視スコープを手に周辺監視と轍のチェックをしており、決して遊んでいるわけではないのだが、機兵より簡単だろうという理屈で運転を任されたのは不愉快だった。

「止めて」

 「出せ」の次は「止めろ」か。楠木は内心で毒づきながらブレーキを踏んだ。野戦への対応能力は凪沙のほうが勝っている。それは楠木とて認めないわけにはいかない事実だった。そして、我ながら遅いと感じながら、楠木は腰の銃を確かめる。

「どうした?」

「静かに。――何か光った」

 楠木は何も気づかなかったが、暗視スコープを使っていた凪沙には何か見えたのかもしれない。凪沙は右手のほう――どうやら藪(やぶ)になっているらしい――をじっと凝視している。

 自分で光を出す間抜けな狙撃手はいないだろうから、遭遇戦ということになるだろうか。楠木は野戦訓練を思い出す。そして、ここは逃げるか、あるいはチャクラムを盾にして銃撃戦をやるかの二択だな、と考えた。

「三十秒してから来い」

 凪沙はそう言い置いて、藪のほうに飛び降りた。チャクラムを盾にするより囮(おとり)にするというのだろうか。楠木はその意図を理解しようと努めたが、三十秒はすぐに過ぎてしまった。結局、どういう覚悟をしたものか心得ないまま、銃を構えてチャクラムを飛び出す。藪の手前まで足音を忍ばせて駆け寄ると、そこには銃より暗視スコープをしっかり構えた凪沙がいた。

「あれは……」

 凪沙が何かを思い出そうとしている声を聞いて、敵兵などの危険はここにはないのだと楠木は了解する。実際、凪沙は音を立てるのも構わず藪の中に踏み込んだ。

 さすがに無防備すぎないか。そう注意しようとした楠木の前で、凪沙は地面を足で掘り始めた。枯れ葉と土が押しのけられる音が続き、やがて、石か何かを引きずる硬質な音に変化した。

「あった」

 何が見つかったのかは、好奇心に負けて藪に踏み入った楠木にもすぐにわかった。石製の蓋(ふた)をどけたところに、深い穴が掘られている。落とし穴のように地面と垂直になった穴ではなく、どちらかというと、紫龍隊でも野営時に作っている風除(よ )け穴に似た造りだった。

「特殊部隊の使う目印でもあったのか?」

 女の体格なら余裕を持って通り抜けられそうな穴、いや、地下通路の入口を前にして、楠木は自分でも正体のよくわからない仲間意識を持って凪沙に尋ねた。凪沙はしゃがみこんで、入口に何かの仕掛けがないか確かめているようだったが、やがて腰を上げて深い息をついた。

「そんなところだ」

 そのとき凪沙がポケットに何かをしまいこむのを、機兵パイロットの動体視力は見逃さなかった。

 ――予備の暗視装置なんて持っていただろうか。それに、見たことのない色のレンズ。

 楠木は疑問を持ったが、まともに答えてはもらえないと確信できたので、わざわざ不愉快な思いをするのはやめておいた。きっと、特殊部隊の秘密の装備なのだ。そんなことよりも楠木は、今はこの地下通路が向こうの集落まで繋がっていることを祈るのに忙しかった。



- 3 -


 古ぼけた発電機の置かれた小部屋の中で、茨木彪はカンテラの灯りを見つめていた。剥(む)き出しのコンクリートに象牙(ぞうげ)色のペンキを塗った粗末な部屋だ。天井近くにある通風孔が外気を運んでいるため、火は時折(ときおり)ゆらゆらと揺れている。

 啓示軍(オフェンバーレナ)の捕虜となったのが丸二日前。今日の日中にこの施設へ着き、以来、この部屋に閉じ込められている。啓示軍の士官からいくらか尋問があったが、ほとんどの時間は暇であった茨木は、自分の置かれた環境について可能な限りの検討を終えていた。

 明らかなのは、ここがこの土地において典型的な、オアシス型の集落ではないこと。ここに腰を落ち着けるまでに見た景色の中に、泉や井戸は見当たらなかったし、そもそもこの辺りにオアシスがあるかどうかは作戦遂行のうえで重要な情報であったから、三日前にデータバンクと照合したばかりである。記憶によれば、戦闘地点からトラックの足で二日のうちに移動できる範囲には、集落を作るほどのオアシスは存在しなかった。

 しかし、ここでは真水に不自由している様子がない。移動中にはほとんど与えられなかった水を、ここに来てからは十分に与えられているし、さきほどの夕食には、どこから供給されたものか、ささやかなサラダもついてきた。ここでは最新の技術を利用して、わざわざ地下深くから水を汲(く)み上げているらしい。部屋の造作からはなかなかわからないものの、ここはハイテク型の居住施設に違いなかった。ここまでの推定に関して、茨木は疑いを持っていない。

 不明なのは、ここに何故そのような場所が存在するのかということである。連れて来られる間に垣間(かいま)見た工場や倉庫といった施設群の様子と、推定される地図上の範囲を考えると、ここは近年のパイプライン建設の補給拠点として利用された可能性が高い。そのような拠点は必ずしも軍のデータバンクに登録されておらず、隠れ里のように点在していると聞く。しかし、ここで埃(ほこり)をかぶっている発電機や、部屋のペンキの剥(は)げ具合から類推すると、建物はもっと年代を遡(さかのぼ)るように思われる。これは妙なことだった。このあたりでパイプライン建設より古いインフラ整備事業があったとは、茨木の記憶にはない。では、集落は何のために作られたのか。何故ここに人が住まう必要があったのか。わざわざ水の調達にコストのかかる場所を選んだのも解せない。

 茨木を捕虜とした啓示軍の将校、エンリコ・フェルバルディ大尉も、その点については把握していない。ここに着いて間もなく、彼らが慌(あわただ) しく周辺施設の様子を調べて回ったことから、それは窺(うかが)えた。また、その様子を茨木に気取らせてしまう迂闊(うかつ)さをフェルバルディが持っていることも、貴重な情報となった。

 フェルバルディも、状況をよく掴(つか)めないままでの行動を余儀なくされている。その観点から言えば紫龍隊と同じであり、さらに、今の茨木にも脱出のチャンスが見出せると考えられた。だからこそ、この不可解な施設の正体を知りたいのである。エデンをはじめとする反政府組織の根拠地、あるいは武器や麻薬売買のための隠れ家など、この謎にふさわしい幾(いく)つかのケースが考えられるが、とにかくフェルバルディに先んじて手を打つことが肝要となる。

 とはいえ、今の茨木には情報を能動的に入手する手段がない。住人との接触の機会がなく、既得情報の分析をすでに済ませた今、啓示軍のほうから茨木に会いに来るのを待つしかなかった。

 時間は余るほどあり、実際、茨木はこれを持て余していた。

 何もすることのない閉鎖環境には慣れている。標的が照準を横切る瞬間を待つときの、龍(ロン)のコクピット。あれに耐えられるのだから、この部屋はエアコンこそ利いていないものの、手足を伸ばせるぶんだけ快適と呼べる。

 だからいつものように、茨木は国の将来について思いを巡らし、それに自分がどう関わっていくかの検討を重ねていれば、時の歩みの遅さに苛(いら)立つことなどないはずだった。なのに、今日はなにやら勝手が違う。未来の建設的なシミュレーションではなく、過去のある一時期の回顧が繰り返される。士官学校にいた四年間。――江藤博照がいた四年間。

 茨木が江藤と会ったのは、士官学校の入学式の日だった。会場への行きしな、行く手に現れたひったくりの現行犯を捕まえようとしたのが、悪縁のそもそもの始まりである。

 被害者は、同期入学らしき女子学生。茨木は彼女が声を上げるとすぐさま走り出していた。犯人はちょうど茨木のほうへ駆けてくる。即座に動き出せたのは茨木だけと見え、包囲網は敷けなかったが、犯人とは体格的に同等。ならば捕らえられると無条件に思い込める若さが当時の茨木にはあった。

 正面から向かってくる茨木に気づいたひったくり犯は、左手の車道と右手の藪を見比べた結果、思い切りよく藪へ飛び込んだ。茨木もひるまずそれを追い、藪に飛び込もうとして、そこで背後から何かに突き飛ばされた。いや、轢かれた。重たい肉に押しつぶされ、茨木は藪に突っ伏した。何が起きたのか理解できない茨木の背中の上で、何かが咆(ほ)えた。「畜生(ちくしょう)、逃げられた」。

 まさか、車の絶えない車道をまたいで犯人を追走する者がいたとは、茨木も見通せていなかった。茨木と同等の対応の早さでひったくり犯を追ったその男は、同じ側の歩道にいたら見落とすことは絶対にないと言い切れる、巨体の持ち主だった。向こうも標的以外はろくに見ていなかったらしく、横合いから割り込んでくるかたちになった茨木をもろにはねてしまったのだった。江藤博照とはそうして出会った。

 この出来事を同期や後輩に語るとき、出会いがしらの衝突だ、と江藤は笑ったものだが、茨木は決して自らこの話をしなかった。ふたりして藪に倒れたせいで、犯人には逃げられている。不名誉な事件でしかない。

 不名誉な出来事は、四年間のうちに何度も起きた。いや、引き起こされたと言うべきだと茨木は思っている。なにしろ寮の部屋が一緒だったため、巻き添えを食って処分を受けたことも一度や二度ではない。独房に入れられたこともある。今宵(こよい)、こうして当時のことを思い出しているのは、おそらくここが独房と似たにおいを持っているからだ。

 江藤は生きているだろうか。己の命も怪しいというのに、ふとそれが気がかりになる。金星也(キム・ソンヤ)は江藤が死に黒龍隊が潰(つい)えた場合に備えて茨木と紫龍隊を保険にしたが、こうした事態は想定してあるのだろうか。保険の保険はかけてあるのか。もし第二の保険となる人材がいたとして、その人物は江藤と茨木の安否を心配する人格の持ち主だろうか。

 どうでもいいこと。自分でそう認識できるのに、しかし、思いは巡る。

「私としたことが、弱気になっているな」

 自戒の呟きは、耳を介して脳へと届き、そこで疑問を生成する。

 果たして、自分は生来の強気の男だっただろうか。幼い頃、自分はそんなに強かっただろうか。むしろ、今の心もとない気分こそが、遠い日の思い出を最も濃く彩っているように思い出される。小学校の級友と口論になり、言い負かしたまではよかったが、諍(いさか)いになったこと自体がどうしようもなく悲しくなって、家の押入れにこもった。歳の離れた妹をあやしながら、病気がちの母を看病し、父の帰りが遅いのを呪った。それが日常だった。

 母が八月の悪夢で他界し、時代が大きくうねっていくのを感じ取ったとき、茨木は大きな決心をした。そして周到にある計画を練り、何年もかけて準備をし、とうとう実行に移した。家を出たのだ。過去とともに弱さを捨て、新たな自分を生み出すために。茨木はそうして軍人になった。

 その人生も、もしかしたらここで終わるかもしれない。啓示軍に銃殺されるか、友軍の攻撃で巻き添えになるか。あるいは、小嶺凪沙に処分されるか。追跡と侵入は困難に違いないが、金星也が送り込んできた彼女なら実行可能かもしれない。ここで死に方を選ばねばならないとしたら、そのときは三番目にしようと茨木は思う。知っている誰かに最期を見ていて欲しい。一切、恨(うら)むつもりはない。彼女の体を動かしているのは彼女の心ではなく、亜連の巨体が地面に落とした暗く大きな影なのだ。紫龍隊としての再出発を約束されたとき、茨木は、ひとたび自分が金星也の描く青写真に不要な存在となれば、いつでも抹消されるのだと覚悟していた。

 ――やはり弱気になっている。死ぬことばかり考えているではないか。

 自嘲したところで聞く者はないのだ。遠くからは人や機械の動く音が聞こえてくるが、この部屋自体はまったく静かなものだ。――静かだった。

 周期的な音が聞こえてくる。茨木は暇つぶしの思考を停止した。靴音。覚えがある。その誰かはせわしない足の運びで、すぐドアの前までやってきた。

 施錠の音から間を置かず入ってきたのは、西洋人にしては背の低い、やや太り気味の男だった。黄色いマフラーを緩やかに巻いている。案の定、エンリコ・フェルバルディである。尋問の際に同行していた部下――たしかマウロと呼んでいた――とは歩幅が違うので、靴音で見当がついていた。身につけているボディアーマー風の衣服は、啓示軍の機兵パイロット用のものだ。フェルバルディ自身も例の新型エントゼルトゾルダート、三本脚の乗り手であるらしい。

「さあ、尋問の時間だ」

 フェルバルディは警戒する様子もなく短い脚でどかどかと入って来ると、実に飾り気のない言葉で用向きを伝えた。マウロとかいう彼の部下は茨木の手足を縛るべきだと幾度も主張していたが、彼はまだその助言に従うつもりがないらしい。ただし、茨木とは発電機という障害物を挟んで向かい合い、間合いはきちんと取っている。おまけに、茨木にとっては首を絞める武器となりうるマフラーも、外して腕にかけた。智略に長けるというタイプではないが、これはこれで油断のならない相手だと茨木は認識する。

「おそらく話せることはもう何もない。晩餐(ばんさん)の前にそう言って別れたはずだが」

 茨木はそう言ってフェルバルディを迎えた。

「俺はそうは思っていない。もっと役に立ってもらわなければ、元が取れない」

 前の戦闘で命を落とした兵士たちのことを言っているのだと、茨木は察する。そして茨木もふたりの部下の声を思い起こした。

「それで、まだ尋ねたいこととは?」

 茨木はフランクに先を促す。怨恨(えんこん)で敵の将校との接し方を決めてはならない。

「何故、俺たちに狙いをつけた」

 すぐ本題に入ったフェルバルディは、価値観の一部を茨木と共有していると言っていい。もしもフェルバルディが感情で動いていたならば、彼の部下がまさに口にしていたように、茨木は龍のコクピットの中で殺されていた。いや、拷問の末に惨殺ということになっていてもおかしくない。あの夜、彼らに襲いかかり、彼らを傷つけ、仲間を奪ったのは、他でもない茨木なのだ。

「同じ質問だな。答えは変わらない。たまたま見つけたから。それだけだ。――いや、正確な答えではないな。貴官の機兵部隊が合流すると知っていたなら、あそこで仕掛けることはしなかった。機兵パイロットが気をつけるべきことは、どちらの軍でも同じだ。消耗戦に陥るリスクは避ける」

 正直な返答だった。茨木の目的は眼前の敵の撃滅ではなく、啓示軍を追い立てて、可能な限り戦線の泥沼化を避けることだった。撃滅すべきはむしろ、影龍(インロン)を使い神出鬼没のゲリラ活動を続ける正体不明の敵、応龍隊のほうだった。

「その説明はもういい。そいつを聞きに来たんじゃない。俺が知りたいのは、あの場所を通る部隊を選んで狙った理由だ。封鎖の目的を答えろ」

 その先で、亜連軍の追い込みの網が破れていたから。そこを抜けられると、啓示軍が撤退ではなく抗戦という道を選んでしまう公算が大きかったから。そう正直に答えてもよかった。しかし、彼らは龍のコクピットから回収したパーソナルディスクの解析にまだ成功していない。おそらくどこか専門の施設に持ち込まなければ不可能だろう。だからこそフェルバルディは問い質(ただ)しているのだ。

 折角のチャンスを茨木は見逃さないことにした。意識してのことかどうかは別として、相手は情報の取引を持ちかけてきたのだ。監禁という不利な状況下にある茨木にとっては極めて好条件の取引だ。手持ちのカードが最悪でも、フルハウスを揃(そろ)えた顔をするべき時だった。

「先回りされ、封鎖される事態を想定したからこそ、基幹部隊は貴官に新型を預けたのだろう? ベルリンで基幹部隊に聞けばいい」

「鎌をかけても無駄だ。そして質問に答えるのは俺じゃない、あんたのほうだ、イバラキ大尉。知っていることは洗いざらい話すほうが身のためだ」

 第一手には乗ってこない。もっとも、茨木にとってこれは時間稼ぎに過ぎなかった。フェルバルディの口が動いている間に、次の言葉を頭の中で組み立てる。迅速(じんそく)に、しかし綿密に。

「わかった。だが、知っていることを話すのは無理だ」

「何もわかっていないな。隠し事をできる立場と思うな。俺はいつでも、小銃を提げた仲間を呼べる」

「目的は知らなかった。私と私の部下は、やるべきことを指示され、実行しただけだ。目的を教えられなかったのは、現場での判断は必要ないと作戦立案者がみなしたことを意味する。ならば忠実に指示に従うのが任務。違うか、大尉」

「では質問を変えよう。おまえは与えられた任務がどういう目的を持っていたと考える」

「そうだな……。その質問になら、答えられるかもしれない」

 刹那(せつな)、金星也の眼光がふと思い出される。

「私も考える葦(あし)の一本だ。任務の目的について疑問がなかったわけではない。しかし、手がかりが不足していた。いくら考えてもそれは空想に過ぎず、どれがより確実だと選べるものでもなかった」

「すべて列挙すればいい」

「いや、それは二日前までの話だ。ここに来て事情が変わった。今、私の頭の中にはひとつだけ確実性の高い推定がある。おそらく目的はこの施設だ。ただパイプラインだけが敷設されているこの土地に、隠れるように建設されているこの施設群。いかにも曰(いわ)く有り気だとは思わないか? これは、基幹部隊が貴官をこの方面に送り出した目的にも繋がっていると思う」

「誘導尋問には乗らないと言った」

「誤解しているよ。私は命が惜しいから、言われたままに憶測を口にしている。私は要求内容を勘違いしているだろうか」

「いや、続けるがいい。ただし誘導するのはこちらだ。おまえは、この場所がいったい何の利益に繋がると考えている」

「少々回りくどい話になるが、いいか」

 頷(うなず)くフェルバルディ。

 尋問の不毛さに疲れた、という気持ちを体内に形成して、茨木は瞬時に役者へと変化する。ただし、台本は用意されていない。即興で物語を紡(つむ)ぐのだ。逡巡し、話を三通り考えてみたが、三秒後にはすべて却下した。いずれも四手以内に詰んでしまう。

 観客は、フェルバルディは次の言葉を待っている。不審の念を抱かせることがあってはならない。茨木はタイミングを何より優先させ、とにかく息を吸い込んだ。

「この世には、変則領域を感知できる人間がいる」

 思いついた直後に、それはもう口から外に出てしまっていた。厳格に鍛え上げた判断力が不適切な発言を許してしまったのは、先ほどまでの回想が、この話題を身近なものとして刷り込んでしまったからか。とにかく後には引けない。フェルバルディが別の意味で不審を抱く前に、茨木は見えないペンで台本を執筆する。そして書いたそばから演じ始めた。

「まるで花の匂いを嗅ぎ、川のせせらぎを聴くように。見上げた空に雲を捉え、繋いだ手のぬくもりを知るように。変則領域の分布を感知する、第六感があるのだ。もちろん極めて稀(まれ)、ごく少数の人間だけが持つ能力だが、それはただ珍しいだけの性質ではない。無粋(ぶすい)な表現になるが、相対バルムンク反応センサーを脳に直結しているに等しいのだ。やがて誰かが気づく。そんな人間は、ある特定の仕事に向いていると……」

「機兵パイロットというわけか」フェルバルディが口を挟む。「しかし、信じがたい話だぞ、それは。亜連がそんな力を持った人間を養成し、兵士として使おうとしているなどと」

「信じるかどうかは自由だ。念を押しておくが、私は自分の命を賭(と)してまで情報撹乱(かくらん)を行うほど、亜連に対する忠義に厚くない。今は生きて帰れることを第一に考えている。正直、こんなオカルトじみた話に自分の命を預けるようなことになるとは思ってもみなかった。――もちろんこれも、信じるかどうかは自由だが」

 これではまるで江藤博照の口ぶりではないか。茨木はにわかに自己嫌悪に陥(おちい)ったが、幕も引かれないのに舞台を下りるわけにはいかなかった。フェルバルディが目をそらさずに聞いている。

「この第六感が先天的なものなのか、後天的なものなのか、誰もわからなかった。それも当然だ。一九九九年よりも前には、その力が役に立ち、観測される機会がなかったのだから。変則領域という言葉すら、まだ定着していなかった頃のことだった。――ここで話は数年後に移る。とある組織が、とにかくその第六感の保有者を連邦中から探し集めた。年端(としは)のいかない少年少女を中心に、一ダースか、せいぜい二ダースほど集まったという噂だが、彼らは例外なく組織の被験者にされた。力の性質を把握し、その利用法を確立するために。そして、あわよくば力を後天的に付与する技術を得るために」

 台本のページは瞬(またた)く間に埋まっていく。茨木は過熱しつつある自分を戒(いまし)めた。これは、演技なのだ。ノンフィクションのルポに出てくる証言者ではない。今、話しているのは手段としてであって、事実の伝達が目的ではない。自分が有利になる状況を作り出せればそれでよいのだ。

「被験者はどうなったのか。組織の素性(すじょう)は。第六感は本当に存在するのか。噂が立ってから十年以上が過ぎ、時折それらしい風説を耳にすることはあっても、真実に触れる機会はなくなっていった。そして極めつけは、二〇一二年に亜細亜連邦軍が実施した調査だ。もちろん一般市民には、調査の実施自体が伏せられているが、調査結果は被験者全員が陰性。第二回調査には予算がつかなかった。これで軍は変則領域を感知できる人間はいないと結論し、その情報を信頼できる筋から得た私も、噂は噂に過ぎなかったのだと納得した。以来、この世の法則が書き換えられようとも、人は人に過ぎないのだと、そう信じて疑わずに来た。――このダーダネルス作戦に参加するまでは」

 長めに息を継ぎ、茨木は相手が制止に入るかどうか確かめる。フェルバルディは腕を組み、そこに鍵盤でもあるかのように指先を小刻みに動かしながら、黙って続きを待っている。

「この戦場を覆っている広大なバロッグは何物なのか。その疑問がきっかけだった。八月の悪夢と同様に、人智の及ばぬ摂理が働いた結果であるのか、あるいはいずれかの組織の利益のため人為的に発生させられたのか。まず、機兵をはじめとする変則領域対応兵器の保有数に劣る亜連側が、反攻の機会を台無しにするようなことは普通では考えられない。かといって、啓示軍のお膳立てにしては、バロッグ発生後に攻め返そうとする部隊と速やかに退却を始める部隊がいたという混乱ぶりが説明できない。ではアメリカの差し金かというと、それこそオカルトの領域だ。彼らはいたずらに戦場の不確定要素を増やしたりはしない。つまり、消去法で行けば、人為的な発生ではないと考えるのが妥当だ。しかし、ダーダネルス作戦開始直後というタイミングがただの偶然だというのも、にわかには信じがたかった」

 実を言えば、バロッグ発生前に目撃した七色の光の帯など、啓示軍がバロッグを誘起したと憶測する余地はあったが、茨木はあえてそれには触れなかった。啓示軍基幹部隊がフェルバルディのような外様(とざま)――彼とその近しい部下は皆イタリア人のようだ――に作戦の詳細を知らせなかったために前線の混乱が生じたという見方もできたし、実際、茨木はその線を最も強く疑っている。もしも状況が今よりずっと有利であれば、茨木は間違いなく、フェルバルディに基幹部隊への不審を植えつけて亜連への投降を呼びかける戦術を採用していた。しかし今は効果的でない。茨木は狂人と見なされかねない話をまだ続ける必要があった。

「やがて私はひとつの見落としに気がついた。それは、ダーダネルス作戦に合わせてバロッグが引き起こされたのではなく、バロッグの発生に合わせてダーダネルス作戦の日程が調整された可能性だ。つまり……」

 そこでフェルバルディがとうとう手を上げ、先を制止した。

「相対バルムンク反応や光学バルムンク走査を使う手法では、変則領域の未来予測が実現できていない。しかし、もっと別のアプローチで特定の変則領域、バロッグの発生を予知した者がいたのかもしれない。件(くだん)の研究が秘密裡にまだ進められていたならそれが可能だ。亜連軍は第六感保有者の調査結果について偽の報告書を用意していたのかもしれない。要はそういうことだな」

 思っていたよりフェルバルディは頭の回転が速い、と茨木は気づく。台本を一ページぶん先取りされたので、咄嗟(とっさ)には頷くしかない。

「ここまでは筋が通っているが」フェルバルディは鼻息を強くした。「で、あのルートを封鎖した必然性と、どう繋がる?」

「それは……」

「即答はできないのか」

「直感と言うしかない。ここの施設に、友軍の目にも触れさせたくない資料が残っているのかもしれないし、ダーダネルス作戦の発動と同様、次なる軍事行動のためにこの場所の確保が必要なのかもしれない。どちらにしても、ここに閉じ込められている私には確かめようのないことだ」

 ここから出してくれれば調べるが、という一言を、茨木は飲み込んだ。急ぎすぎては逆効果だ、フェルバルディが自らその選択肢を思いつくのを待つべきだ、と判断したのだ。

「ふん」

 口から出たのか鼻から出たのかわからない音を発し、フェルバルディはしばらく茨木を値踏みするように見つめていたが、やがてマフラーを首に巻き直しながらこう言った。

「論理的ではない、飛躍した話だな。言い出すのを躊躇(ちゅうちょ)した理由はよく理解した。だが、この不可解な場所にはお似合いの話でもある。部下に語って聞かせるとしよう。使い古したジョークよりは、いくらか使い道があるだろう」

 首にマフラーを巻き終わったフェルバルディは、踵を返して部屋を出る。そしてしっかりと鍵をかけて立ち去った。その間、茨木が彼の表情を読み取る時間は与えられなかったが、得るものはあった。来たときは間合いを間違えなかったフェルバルディが、茨木との距離を取ることなくその場で背を向けたのだ。彼は動揺している。ただ法螺(ほら)話を聞かされたとは思っていない。

 ひとまず信号は入力した。明朝には何らかの応答が得られるだろう。そう茨木は踏んでいる。何故なら、フェルバルディにはあまり時間的猶予がないのだから。

 この集落の周辺は、昨日の時点では包囲の抜け目だった。それは、今も不変の条件ではない。東から足の速い部隊が展開して来て、包囲がもう完成していることは十分に考えられる。バロッグの中ではあるが、広域型BFG(バルムンクフィールドジェネレータ)を装備した車輛があればそれは可能なのだ。仮にそうだとすれば、今更フェルバルディたちが脱出を図ったところで、友軍は半日とかけず彼らを捕捉し、殲滅(せんめつ)できるだろう。そして、並以下の機動力を想定した場合でも、彼らに残された時間は決して多くない。おそらく、二日以内に趨勢(すうせい)が決する。

 明日から事態がどう動くかわからないため、茨木はもう休んでおくことにする。寝転がるのに良さそうな場所を探して室内を見渡したが、どこでも床の硬さには変わりがなさそうだった。発電機のそばは油が染みていたので、一応、そこからだけは距離を取ることにして、適当に壁際で横になる。

 できれば、今夜は夢を見たくない。見れば、それはきっと昔の夢になるだろうから。茨木は熟睡を期して目を閉じた。



- 4 -


 ラリサが帰宅したのは夜更けのことだった。毎日の研究活動でもついつい熱中して帰りが遅くなることはあるが、そう多いことではないし、今日もそれほど作業をしたわけではない。遅くなったのは、啓示軍(オフェンバーレナ)の相手をするのに日中の多くの時間を取られてしまったからだ。

 啓示軍がやって来たその夜、ラリサは住人代表として早期退去を要求しに出向いた。啓示軍側の代表としてラリサと会ったのは、エンリコ・フェルバルディという小太りの男と、そのお付きらしい細身のマウロ・ニルシッジである。しかめっ面(つら)の軍人ふたりを相手に、住人の平穏を乱さないでほしいと主張してみたが、そうそう聞き入れられるはずもなかった。

 しかし、啓示軍も断固としてここに居座ろうというのではなかった。乗り物の修理が済み、傷病兵の容態が落ち着けば出て行くというのだ。そこでラリサは住人と話し合って、啓示軍が少しでも早く退去してくれるよう食料と医療品の提供を決めた。

 フェルバルディはすぐ足元を見ることを覚えた。この集落に研究者とエンジニアが多く住んでいることを知ると、二、三の依頼をしてきたのだ。その仕事を片付けるのに、ラリサは正午から日没までの時間を取られた。

 仕事は結局ひとつも片付いていない。依頼はいずれもラリサの専門ではなかったので、直接対応しているのは他の人間なのだが、彼らがそちらの仕事に借り出された穴を埋めるのがラリサの重大な務めだった。地上を啓示軍に制圧されていようと、地下で進行中の実験を遅らせる余裕はないのだから。

 ソファに沈み込むように腰を下ろし、深く息をつく。白衣を脱ごうかとも思ったが、それも面倒だった。疲れているとラリサは自覚する。このまま眠りに落ちることも容易だったが、まだ、寝るわけにはいかない。時計を見ると、ちょうど頃合だった。

 ベルが鳴る。電話だ。

 ラリサは立ち上がり、暖炉のそばの壁に設置された電話機に寄り添った。部屋のドアがすべて閉まっているのを確かめてから受話器を取る。

「こちら<爪>」

 コードネームでそう名乗ったのは、長身で無精髭のあの男だ。ラリサのほうも名乗ると、男はさっそく用件に移る。

「例の付着塗料の分析結果が出た。五つのサンプルのうち三つから、対OBS(光学バルムンク走査)用撹乱剤が検出された」

「ということは、機兵用ね」

「十中八九、そうだ。色からしても、二つはエントゼルトゾルダート用の塗料と見ていいだろう」

「あとのひとつは?」

「亜細亜連邦軍のものだ。啓示軍のものとは成分が違うから、これは断定できる」

 ラリサは耳を疑った。両軍の機兵があれに接触しているとは思ってもみなかった。分析結果が出れば、誰が何のためにあの“砂時計”を作ったのか明らかになると信じていたのだ。

「あなたの見解は? 啓示軍の基幹部隊があれを持ち込んだんじゃないかって、あなたは言っていたわね。おそらく通信中継装置だろうと」

「まだその説を完全に捨てたわけじゃないが、どうも違うような気がしてきた。あれを回収した近辺に、機兵が戦闘を行った形跡はなかった。エトガルが……、基幹部隊があれを設置したのだとすれば、俺たちがあれを発見するまでの間に、亜細亜連邦軍が一度回収を試みたことになる。しかし結局は放置した」

「それは十分ありうる線ね。たぶん、龍(ロン)が接触した時点で機能は停止していた。運んでいる途中に電源が切れたのかもしれないけど、とにかく害にはならないと判断して本来の作戦行動を優先したと考えれば、不自然なところはない」

「ああ、理屈としてはそうなんだが」男は言葉を濁す。「どうも引っかかる。何かそちらで変化はないか」

「昼に聞いたところじゃ、昨日から特に変化はないわ。最新情報が知りたいなら実験室に直接行けばいいじゃない」

「それなんだが、外郭(がいかく)通路の九番の目印がずれていた。誰かが目印を戻し忘れていないか確認してくれ。それまでは外郭通路は使わないでおく。間違っても、暗い通路で啓示軍と鉢合わせはしたくない」

 意外な報せだった。ラリサは気を引き締める。

 外郭通路とは、集落の地下に張り巡らされた秘密の通路のうち外側の区画のことだ。外との出入り口はいずれも巧妙に隠蔽(いんぺい)しているが、何かの偶然で外部の人間が進入するのに備え、それなりにしかけが用意してある。大概は原始的なもので、九番の目印というのも、人が通れば紐(ひも)が引っ張られ、目印の札がひっくり返るという単純なものだ。ここに住む者であれば、目印の箇所(かしょ)を通過したら自ら紐を操作して札を元の向きに戻す。それが裏返しのままだった、と男は言うのだ。

 外郭通路は滅多に使わないから、うっかり操作し忘れるということもあるし、その場合は次に誰かがそこを通るまでミスが発覚しない。過去にそういう例はあるし、平時であればさして気に留めるほどのことでもないのだが、今のラリサの警戒心は楽観を許さなかった。啓示軍が外郭通路を発見したのだとすれば、いずれは内郭通路、そして地下施設の存在が露見する。それはラリサたちの存亡に関わる問題だった。

「わかった。確認しておく。しばらくそこにいる?」

「いや、どうせだから、これからちょっと遠出して来る。啓示軍の今の様子だけ教えてくれ。フェルバルディとかいうマフラーのお洒落(しゃれ)さんは、まだ腰を上げる気配はないのか」

「ええ、まだ出られる状態ではない、の一点張り」

「バロッグの縮小開始も知らずに、悠長なことだ。いっそ教えてやったらどうだ? ――ま、それは任せる。明朝、また連絡する。」

「余計なことかもしれないけど、気をつけてね」

「了解」

 ラリサが受話器を耳から離さないうちに、電話は向こうから切られた。

 外郭通路の件は、すぐに確認を取らなければならない。ラリサは受話器をいったん置いて、すぐに取り上げる。通路の点検を定期的に行う係りがいるから、今の当番に電話して、外郭通路の目印を最後にチェックした日付と、使用届けの履歴を調べてもらうのがいい。壁に貼った当番表を見て、番号を押す。澄ました耳に呼び出し音が一回、二回と響き、そして三回目の途中でラリサは受話器を戻した。

 気づくのが遅れた。ラリサはマントルピースに手を伸ばし、拳銃を掴み出すと、壁を背にしてすぐにそれを構えた。狙いをつけた先は、作り付けのクローゼット。

「誰? 出てきなさい」

 侵入者がいる。ラリサは呼び出し音に耳を澄ましてはじめてその物音に気がついたが、いるとわかってしまえば、慌(あわ)てることはない。対処法は心得ている。クローゼットの下の隠し通路に、侵入者は体を屈(かが)めて潜んでいるはずだった。

「言っておくけど、私、銃の腕は悪くないのよ。返事をしないなら撃つし、撃てば当たると思うけど」

 返事が来ないということは、ここの人間が予告なく現れたわけではないらしい。念のため姿を確認したい衝動に駆られたが、時間を与えれば、侵入者は姿勢を変えて射撃体勢を取ることができる。ラリサは引き金にかけた指に力を込めた。

「待て、撃つな。投降する」

 声がしたのは予想外の方向だった。ラリサは思わずクローゼットから目を離し、視線を銃口とともに動かす。右に人影を探し、左へ振り向き、そして再び正面を見据えると、そこに小柄な女が両手を上げて立っていた。ラリサの銃を半ば払うようにして、女は自分の銃のグリップを差し出す。

「これでいいな?」

 そう言ってラリサに拳銃を受け取らせた女は、東洋人で、まだ少女というべき顔立ちをしている。しかし、実年齢はよくわからない、とラリサは断定を避ける。東洋人は幼く見えるし、第一、軍服を着ているのだ。

「追加注文よ。手を上げて、そちらの壁のところに立ちなさい」

「わかった。――冴子、おまえもだ。早くしろ」

 女が苛立った様子でクローゼットをふりかえった。

 侵入者はひとりではない。その事実に気づき、ラリサは受け取った拳銃を捨て、自らの銃を両手で構えてクローゼットを狙った。しかし、引き金を引く前にまたもや判断ミスを思い知らされる。発砲に至ることなく、ラリサの銃は右手ごと大きく蹴り上げられていた。

「悪いな。対等以下の条件で話をするつもりはない」

 ラリサを投げ飛ばし、床に転がったふたりぶんの銃を拾ったその女は、クローゼット内の通路からごそごそと這(は)い出してくるもうひとりの女を急(せ)かした。急かされたほうは一層大きな音を立てて、ようやく姿を現す。こちらはラリサとあまり変わらない背丈だったが、やはり軍服を着ており、そして同様に東洋人らしかった。ふたりは日本語らしき言葉で数えるほどの会話を交わし、そして揃って銃を収めた。

「すまない。危害を加える意思はない。安全を確保しただけだ」



- 5 -


 地下通路は途中でいくつかの分岐(ぶんき)点を持っていた。そして総数のわからない道筋のうち、凪沙たちの選んだ一本が、この女の部屋へと通じていた。楠木が女の注意を引いてしまうミスさえなければ、まずは他の道筋の行き先を調べたかったのだが、しかたないと諦めるべきだった。楠木冴子は素人(しろうと)なのだから。

 啓示軍(オフェンバーレナ)に捕われた茨木を奪還すると決めたとき、凪沙はまず必要なものを頭の中でリストアップした。常時携帯している武器や道具類は別として、目的のために特別必要となると考えられた筆頭が、パートナーの存在だった。

 あの日、凪沙は動けなかった。紫龍隊を襲うことになるエントゼルトゾルダートを目前にしながら、掘り起こされた記憶に囚(とら)われ、立っていることすら、正気を保つことすらできなかった。

 また同じことになっては困る。今度は失敗できないのだ。だからそばに誰かが必要だ。

 しかしなぜ、自分は他の誰でもなくこの女を連れているのだろう、と凪沙は幾度となく自問した。もちろん自分で協力を要請したわけだが、そのときの動機が、時を経るごとに不明瞭になっていく。紫龍隊の指揮系統に必要でなく、しかしながらある程度の白兵戦能力が期待できる隊員。その条件に合致したのが楠木冴子だった。それだけのはずだった。しかし、本当にそうだったか。過ぎ行く時は、確かだったものを曖昧にし、姿のなかったものを現出させる。

 未解決の観念的問題はいくつも抱えていたが、凪沙は直面している現実的問題への対処を怠らなかった。目の前には、銃を使える女がいる。地下通路と通じた家の住人で、白衣など着て研究者然としているが、身のこなしは悪くない。銃を取り上げただけで油断はできない。もっと厄介な仲間が駆けつけてくる可能性もある。

 ――何より先に判断すべきは、この女が敵か味方かということだ。

 凪沙は白衣の女をひとまずソファに座らせ、自分たちがどこの誰で、どういう目的でここに来たのかを話して聞かせることにした。ただし、手短に。そして必ずしも真実は伝えない。

 凪沙は疑いを持たれて当然と考えていたが、女はすんなりと最後まで説明を聞いていた。銃を向けていないとはいえ、あまりに落ち着き払った態度に凪沙は違和感を覚える。

 次いで、女が簡単に自己紹介をした。ラリサ・コルヴァク。ここに住む研究者で、住人代表も務めているという。この集落が地図に載っておらず、軍のデータバンクにも研究所ではなく廃棄物処理場として登録されていること、そして地下通路建設の経緯に関しては、説明が及ばない。これで凪沙は合点が行った。

 ――探られて困るのはお互い様ということか。

 ラリサは情報を等価交換するつもりなのだ。こういうケースを心得えた女だ。

 実際、地下通路を屋内から数キロメートル離れた荒野まで繋いでおくなど、あたりまえの人間がやることではない。そして楠木が潜んでいるのに気づいてからの、反応の素早さ。加えて今の冷静さ。普通ではない施設に住む、尋常ならざる女であるのは明白だった。つまり、凪沙と同じ側の人間。

 属性と力の程は推定できた。あとは方向の問題である。敵か、味方か。

「捕まったのは、あなたたちの上官だと言ったわね」

「ああ」

「それ、男?」

「男だ」凪沙は間髪を入れず答える。「年齢は三十四歳。身長百八十四センチ。やや痩せ型。髪は黒。顔の特徴は……」

 そこでラリサは吹き出した。

「あなた、面白い子ね」

「もう成人している」

 訂正すると、楠木に後ろから袖(そで)を引っ張られた。

「あんた、馬鹿にされてるのがわからないの?」

「応答に文句があるなら、その都度(つど)言ってくれ。ただし、気をつけろ。この女は玄人(くろうと)のにおいがする」

「どういうことよ。銃を持っているくらい普通じゃないの」

「そういうレベルの話じゃない。あの通路のことも考えろ」

 楠木を黙らせ、袖を掴んだ手を振り払う。

「内緒話は終わった?」

「ああ。――啓示軍がこの集落を占拠している、という事実認識は共有できていると考えていいか?」

「少々ずれがあるけれど、まあ、大きく違いはないわね」

「脅迫されている? それとも自分たちから協力しようと考えて、ここに留まらせている?」

「どちらに見える?」

 おどけてみせるラリサに対して、凪沙は拳銃を触りながら言ってやった。

「銃を使いたくなる返答だ」

「ごめんなさい」ラリサはいくぶんまじめな顔に戻る。「何も隠し事をしようとか、嘘をつこうなんて考えはないの。すぐにばれることだしね。啓示軍が捕虜を連れているという話は本当に初耳。もっとも、彼らは私たち住人との接触をごく少人数に制限しているから、いったい何人の部隊なのかも知らないのだけれど」

「機兵は?」

 楠木が口を挟むと、ラリサは即答した。

「四機。あれは目立つから、みんな見ていた」

 楠木が頷く。あの戦闘の後、楠木と乾の龍の記録から推定した数と合致しているのだ。思い出すたびに情けないが、凪沙はその目で見たにもかかわらず、数を数えるどころではなかった。

「三本脚だった?」

 これにもイエスと即答するラリサ。

「間違いない、私たちが追っている相手だ。捕虜も連れているはず。どこに置いているか見当はつかないか」

「機兵と戦車は大きい建屋に入れているけれど、人員はほとんど二号棟にいるようだから、いるとすればそこが最も確率が高い……。見取り図を使う?」

 机まで取りに行ってよいか、というラリサの問いに、凪沙は黙って首を縦に振る。銃に触れた手はそのままにしておく。妙な挙動を見せれば、即座に撃つ。楠木も覚悟だけは凪沙と同じようだった。

 ふたりの緊張をよそに、ラリサはまるで仕事仲間と一緒にいるかのように、机の引き出しからA3のコピーを取り出して戻ってくる。ラリサがソファの背を台にして器用にそれを広げると、確かに、見取り図のようだとわかる。

「いい? ここが今いる場所」

 ラリサは見取り図の一点を指し、白い指が紙面上をスライドして別の箇所を二度叩く。

「こっちが二号棟。人が減って、最近では使っていなかった棟よ。電気も水もメンテはいたから、啓示軍はそのまま快適に利用しているはずね」

「水はポンプで汲み上げているのか?」

「そう。昼間に外を見て回ればすぐわかるわ。ちなみに、ポンプを回す発電機の燃料はこっちのタンクに貯めてある。昨日から啓示軍に掠(かす)め取られているけれど……。誰か払いに応じてくれるのかしらね。ハンス・ライルスキー宛に請求書を書いてみようかしら」

 ラリサが溜め息をつく。

 凪沙は少々安心する。面的支配ではなかったとはいえ、ここは啓示軍の支配領域にあった場所である。軍事的敗退を迎えると次々に啓示軍に服従していった欧州各国の例があるため、凪沙はここの住人が完全に啓示軍のシンパと化しているケースも考慮していた。だが、ラリサの言動を見る限り、ここは啓示軍を厄介者と認識する常識が残されているようだった。

 ――では味方か? 否。まだ断定はできない。

 一般的な市民の感覚を持っているのならば、亜細亜連邦軍に対しても無条件の好意は抱いていないだろう。この二十年弱、亜細亜連邦軍は内紛解決のため多くの戦いを行ってきた。掃討された武装勢力には家族がいた。一方では治安回復という恩恵をもたらし、また就職口ともなってきた連邦軍だが、他方では家族、友人を奪う憎悪すべき組織でもある。プラスとマイナスが等価であったと仮定しても、より強く認識され、記憶に残るのは後者のほうだ。

 凪沙は、ラリサに対して自分たちが役に立つ存在だとアピールすべきだと判断した。ラリサは銃で脅せば思い通りにできるというタイプではない。ここの全容もわからない以上、無闇に暴力を行使してはむしろ凪沙たちの命が危険になる。それに、凪沙は現時点で優位に対話を進めているという確信が持てなかった。

「ここに逃げ込んだ啓示軍にとって、捕虜は盾だ。上官さえ取り戻せれば、我々はいつでも追撃戦をやる用意がある。ここに陣取った啓示軍を駆逐できるし、我々はここを補給拠点に使う場合でも後日必ず補償する用意がある」

 凪沙がそう言ってラリサの協力を促すと、楠木が口出しした。

「もちろん、追撃をかける場合でも、ここを戦場にする気はない。あなたたちの生活は守ると約束する」

 それを言うならば示威行動の段階で啓示軍が尻尾(しっぽ)を巻いて逃げてくれるほうが最善だ。凪沙は紫龍隊の任務の趣旨を思い出し、指摘を加えようとしたが、ラリサが得心の行った顔で頷くほうが早かった。

「救出に手を貸せというわけね。でも、あなたたちの部隊に今のセールストーク通りの力があるのかどうか、私には確認が取れない」

 痛いところを突かれた。たしかに紫龍隊は三脚型ゾルダート相手に敗れている。頭数の減った今、武器弾薬を補充してもせいぜい五分と五分。凪沙の見立てではそんなところである。だからこそ、ここの住人を味方につける必要があるのだが、橋頭堡(きょうとうほ)の構築には少々手を焼きそうだった。

 何か、他に彼女の利益となるものはないか。凪沙は部屋のインテリアに注意を向ける。決して新しくはないソファ、火の入っていない暖炉、植物の苗が並んで植わったプラント、埃を拭(ぬぐ)った跡がそれとわかるシャンデリア風の照明器具、地下通路へと繋がるクローゼット……。

「地下の通路は、二号棟の下にも通じていないか?」

「ふうん、本当に偶然通路を見つけたようなことを言うのね。――繋がっているわよ。ただし、最近は使っていない。上で機兵が動いたらその振動で崩れるかもしれない。それでも、自分たちだけでやるの?」

「可能性を検討したい。地下通路の見取り図もあれば、見せてほしい」

 ラリサはそこで微笑んだ。

「それを頼むなら、自分の素性くらい明かしたらどう?」

 迂闊に踏み込みすぎた。凪沙は汗腺が開くのを自覚する。どう反応していいものか判断できずにいると、楠木が代わって反駁(はんばく)した。

「所属と目的については説明したはずだ。何が不満だ」

「大丈夫よ、クスノキ少尉。あなたには聞いていない」

「なんだと」

「やめろ、冴子。他意はない」

 掴みかかる勢いの楠木をなんとか踏みとどまらせると、凪沙はラリサを見据えた。

「C種登録、特化任務S、下位識別番号一〇〇」

「ふうん」

 意味ありげに笑うラリサ。凪沙はそれ以上に楠木の視線を背中に強く感じていた。

「満足か、ラリサ・コルヴァク」

「ええ、ありがとう。私も地図を出してきましょう」

 ラリサは再び机へと足を踏み出す。しかし、靴音はひとりぶんだけではなく、戸外からもう一組聞こえてきた。凪沙は即座に状況を把握する。

「冴子、クローゼットに」

 声を落として指示を出す。凪沙自身もクローゼットのほうにそっと足を踏み出したところで、聞きなれないブザーが鳴った。玄関からの呼び出し音だろう。立ち止まったラリサは、軽く凪沙たちと視線を合わせてから、方向転換してゆるりと玄関に向かう。そこは、クローゼットのそばに移動したふたりからは死角だ。

 ドアが開けられ、室内の空気の流れが変わる。早口の英語も聞こえてくる。若い男の声だ。漏れ聞くところによれば、ラリサをこれからどこかに連れて行くらしかった。

 わかった、と答えたのを最後にラリサはドアを閉め、リビングに戻ってきた。

「啓示軍から呼び出されたわ。大丈夫、あなたたちのことは話していない」

「これから話すかもしれない。だから留守中に好き勝手はするな、ということか」

「脅しているつもりはないけれど、とにかく今夜は帰りなさい。――あなたたちの上官のことは、こちらで探りを入れておく。また明日にでも会いましょう。今度はお互い、銃を向けずにね」

 ラリサは対立する二軍の人間を相手にしながら、何ら気後れを見せない。凪沙は楠木を促して、クローゼットのなかへと撤収した。



- 6 -


 茨木は眠りそこなっていた。

 石を敷き詰めた床の硬さが、睡眠導入を妨げる一因であったことは否めない。しかし、昨夜ここで眠るうえでは特に困らなかった。十年以上の軍人生活で、多少の居心地の悪さには慣れている。まだ眠らずに起きているのには別の原因があった。

「悪いな、軍人さん。まさか真上で寝ているとは思わなかった」

 床石を外した穴から顔を出し、皺(しわ)を作って笑っているこの男が、茨木の眠りを妨げた張本人だった。

「あなたはここの住人ですか」

 バトゥ・ウォンと名乗ったその不審者を相手に、茨木はまずそれを尋ねた。返事を待つ僅(わず)かの間にも、頭の中では質問のリストが猛スピードで書き足されている。

「いや、通りすがりだよ。ちょっと食べ物でも分けてもらえんかと思って立ち寄ったんだ」

 その食べ物でも探しているのか、床から出た首が先ほどからきょろきょろと室内を見渡している。発電機が邪魔になって見通しは悪いに違いない、と茨木は想像する。

「やれやれ、残り香だけか」バトゥはおそらく床の下で肩を落とした。「乾パンとスープだったかね?」

「ご名答。ですが、食べ物をお求めなら、別の床石を外すことをお勧めしますよ」

「いかん、つい匂いが気になってしまった。だがね、軍人さん。俺だってそういつもいつも床石を外したり家に忍び込んだりしているわけじゃない。この建物に入ってみたのは食べ物目当てだが、こうやってこの部屋を狙って顔を出したのは、是非ともあんたと話してみたかったからだよ。――あんた、啓示軍(オフェンバーレナ)相手になかなか面白い話をしていたね」

 聞かれていた。驚いた茨木は言葉を失う。バトゥはそんな茨木の様子を意に介することなく、まるで飲み屋のカウンターで運よく話の合う人間に巡り合ったような顔をして、頬(ほお)の笑い皺を深くしている。

「きょうび、なかなか知っている奴はいないよ。ここが被験者を集めていた元老院管理地だってことは」

「何?」

 今度は思わず口が動いた。

「何って、さっきあんたが自分で言っていたじゃないか。ここが件の施設だよ。GT38……。つまり元老院管理地第三八号(Governer's Territory 38)だ」

 元老院管理地。茨木はそんな単語を口にした覚えはない。この男は盗み聞きした内容に調子を合わせているのではなく、実際に何か関連する出来事を知っているのだ。少なくとも、かつて流れた数ある噂のなかで、元老院管理地という言葉が使われていたことを記憶している。茨木はフェルバルディにまるっきり出任せを語ったわけではない。茨木が材料として使わせてもらった、今では語る者の少ないあの噂を、このバトゥ・ウォンは好きなのだろう。たまたま、同じ話を知る人間を見つけたので、久々に語りたくなった。ただそれだけのことに違いない。――そう、茨木は自分に言い聞かせる。しかし、気になってしかたない点があった。

「GT38だなんて、そんな話もあったのですか?」茨木は紳士的な笑顔を意識する。「しかし、三十番台はすべて管理地の指定を解除されているんですよ。あの当時、すでにそうだった。二十年前には、クレーターを巡って血生臭い事件もありましたからね。元老院もいたずらに立入禁止区域を増やすのをよしとせず、調査が済んだ場所については次々に指定を解除していました。鉱山基地などでは、指定はそのままでも立入規制を撤廃して操業を可能にしたというケースも多い。GT38の指定解除は、たぶん二〇〇四年頃ですね。場所もこのあたりではなく、キルギスあたりのクレーターだったように記憶しています」

 相手の知識の範囲を探るように、慎重に茨木は言葉を選んだ。

「うん、たしかに甘粛ではむごいことが起きたな。各地のクレーターなんかの指定解除も、民間の研究者や探検家にとっちゃ大変ありがたいことだった。俺はその点で元老院議員の良識を評価するがね、だからって連中の公式見解を鵜呑(うの)みにするってわけにもいかないじゃないか。なにせ一方ではよ、指定解除で生じた欠番は、そもそも別の場所にわりあてられた番号だって話もあるんだ。どういうことかわかるかね? 軍人さんもまだ若かったろうから知らんだろうなあ。連邦樹立から間もないあの頃は、いかに元老院といっても、管理地の一覧と経費の記録を中央議会に提出する必要があったわけさ。しかし元老院は馬鹿正直にすべての記録を提出したくなかった。だから最初に提出した管理地一覧表に、偽物をいくつも混ぜ込んでおいた。記録上、そういったダミーに割り当てられた人員と経費は、すべて別の隠された元老院管理地のために消費されていた……とね、そんな話があるわけだ」

 バトゥの話は淀(よど)みない。都合よく嘘を並べているのだとしたら相当の詐欺師であるが、これについて茨木はテストを行う気になった。

「その話は初耳ですね。しかし、ダミーを設定することに何の意味があったのでしょう。存在を隠したい管理地があったのなら、そのぶん総数を減らせばいい。たとえば、せいぜい四十箇所しかないと発表する。そう考えるのが普通ではないでしょうか」

 これを聞いて、バトゥは嘆息する。

「やれやれ、世代の違いを感じるね。いいかい、今じゃ特権階級の代名詞みたいになった元老院だが、当時はまだまだ力が弱かったんだ。元老院管理地は、亜連成立以前の基準で言えば非合法な手段で元老院議員が手に入れたものだから、敵対する政治団体やマスコミはその存在をあぶりだすのに躍起になったし、実際、多くの情報が漏れ出てきた。中央議会じゃ、七六号はあるが一三号は縁起が悪いから存在しない、なんて答弁は誰も信じない。だから公表できない場所については身代わりを立てる必要があったのさ。――この説、俺は支持しているよ。あんたはどうだい、軍人さん。さっき熱っぽく語っていたわりには、疑い深いようだが」

 二十年前。茨木がまだ中学生だった頃の話をされると、さすがに厳しかった。そんな話はあるまいと思うものの、筋道を立てて真偽のほどを論じるには、記憶にある関連情報が少なすぎる。当時の茨木は、いずれ家を出るための計画ばかり練(ね)っていた。世界が混沌へと向かうのを感じながらも、さしあたっては自分の再出発の環境を整えることで視野が埋まっていたのだ。

 比較的最近の出来事でもいい。何か、バトゥ・ウォンの話をデマだと否定できる材料はないだろうか。元老院管理地に欠番など存在しないと証明できる何か……。

 しかし、何も見つからない。

 直感で嘘だとわかる話でも、きちんとそれを立証してやるのは難しい。それはわかっているのだが、茨木はどうしても否定したかった。バトゥの言葉を信じるならば、それは江藤が言っていた能力の実在を信じることへと繋がる。先にフェルバルディに語って聞かせた話は、実は、誰よりも自分がいちばん信じられないでいる話だったのだ。

 変則領域を感知する力など、本当に存在しうるのか。ましてや、その力を追い求めて大きな組織が闇で動いているなど、空想小説の世界ではないか。そんな話をするのは江藤博照ひとりだけで十分だった。いや、あの男でさえ、無闇やたらと他人に吹聴(ふいちょう)して回っていたわけでは決してない。

 江藤は自分にある能力があると信じていたが、それを秘密としていた。士官学校在籍時にその話を聞いたのは、茨木を含む少ない人間だけだ。茨木にとってはそれが問題だった。もし江藤が自分の能力とやらをあちこちで言いふらしていたならば、法螺話だ、SFの読み過ぎだとルームメイトを一笑に付すことができた。しかし違った。おかげで十年以上、茨木は葛藤を引きずっている。そして延期にしていた回答の期限が今夜、突きつけられたといっていい。

 ――俺は信じているのか、いないのか。

「おまえさん、本気で信じちゃいないのか」

 バトゥは茨木の心を見透かしたような言葉を向けてきた。いや、茨木を揺るがしたのは言葉よりむしろ視線のほうだった。同じモンゴロイドだと実感できる瞳の色。同じ噂話を、作り事ではない真実として信じている仲間がいると、そう思って話しかけてきた男の瞳。無視できない。戯言(ざれごと)を口にする放浪者だとは切り捨てられない。茨木はバトゥの両の眼に魔を感じた。今、この瞬間に解答を迫られている。

「お話を否定しているわけではないのです。ただ、私は……」

 言葉が続かない。

「私は? 信じているのかいないのか、どっちだね。答えにくいなら、そういう人間がいるかいないか、そこに的(まと)を絞ってみるとどうだね。完全に二択だ。グレーゾーンはない」

「その力があると自称する人間を私は知っています」

「ほほう。それは興味深い話だが、答えになっちゃいない」

 どうしてすっぱりと断言できないのか、茨木はそれが自分でも理解できない。答えを出せないのがわかっているから、この話題には触れたくない。近づかないから片付いていない。放置が長引くほど疑問は醸成されていく。悪循環だとはわかっているのに、ふつと断ち切る刀を持たない。

 深く、バトゥは溜息をついた。

「そろそろお暇(いとま)しよう。人が来るようだ。ふたりだな。ひとりは太っちょ、ひとりはたぶん女。こちらはスマート」

 突然預言者のようなことを言い出したかと思うと、バトゥは耳をひくひく動かしていた。茨木は耳を動かせる人間をテレビ以外で初めて見た。

「それがいいでしょう」

 聞きたいことのリストはほとんど消化されていなかったが、引き止めるわけにも、再開の約束を取り付けるわけにもいかない。情報収集と脱出のチャンスが消えていく。

「ごきげんよう」

バトゥの首はゆっくりと下降していく。――が、途中で逆戻りしてきた。

「まだ名前を聞いていなかった」

「これは失礼」

 言われて初めて気がついた。バトゥの口の回りが速すぎて、またその内容が刺激的過ぎて、すっかり名乗るのを忘れていた。茨木は床石の隙間に対して頭(こうべ)を垂れる。

「茨木彪。亜細亜連邦軍大尉です」

「イバラキね。階級なんてどうせ変わるから忘れちまいそうだが、その名前は同じままだろうからしっかり覚えておくよ。おやすみ、イバラキ君。良い夢を」

 今度こそ頭が沈んで消えると、穴の下からもとの石がはめこまれ、床は元通りになる。嘘のようにきれいにはまり込み、バトゥがいた痕跡は何もなくなった。

 近づいてくる足音が茨木にも聞こえるようになった。ついでに嗅覚にも注意を向けてみたが、確かに食べたはずの夕食の匂いは、もう一切感じられなかった。



- 7 -


 夜明けとともに紫龍隊の前に現れたのは、待望の補給部隊だった。

 食料、真水、医療品、燃料、弾薬、そして雑多な消耗品が次々と荷下ろしされ、隊員らが歓声を上げるさまを凪沙は遠くから眺めていた。補給部隊のほうも、バロッグの中を切り抜けてきた甲斐(かい)があったと笑顔を返している。ひとりチャクラムの座席で膝を抱えている凪沙に視線を寄越す者は誰もいない。当然だった。故意に気づきにくい位置に凪沙はいる。凪沙を探している人間以外が決して近づいて来ぬように。

 受け渡しがほとんど片付く頃になっても誰も凪沙の前には現れなかったので、凪沙は諦めてチャクラムを下りた。この補給部隊に、RAT(ラット)の手の者は隠れていない。組織内の指揮官が凪沙との情報交換のために末端の構成員を送り込んで来るかと期待していたのだが、当てが外れた。ただひとつ確かめられたのは、任務内容に変更はないらしい、ということだ。

 日光が少しずつ空気を温めていくのを肌で感じながら、凪沙は姜宗義(カン・ジョンイ)のいるテントに足を向けた。こちらは補給の受け渡し場所と違って、人気(ひとけ)がない。ただ機兵がその巨体を横たえているだけだった。

 期待していたものが得られなかったという点で、姜は凪沙と同類である。鬼火(オニビ)、不知火(シラヌイ)といった機兵用大型火器の補充が得られなかったのだ。

 これにより紫龍隊の今後の作戦行動は選択肢を大きく絞られた。先日交戦した三脚型のエントゼルトゾルダートは、火力、運動性、ともに龍(ロン)を上回るとの解析結果が出ている。性能差を無効化するには、より長い射程と制圧能力を持つ火器が必要である。その補充が得られないと通達された時点で、姜宗義は補給の立会いを乾(いぬい)に任せ、自らはテントに戻って行った。そこに引き篭(こ)もって何を思案しているのか、凪沙にはおおよそ見当がついている。思い悩んだところで行き着く結論はひとつだろう。茨木を捕虜としラリサ・コルヴァクのいるあの集落に居座る啓示軍(オフェンバーレナ)部隊の追撃を、姜は選択肢の中から捨て去ろうとしている。そして、持ち合わせる火器でも実行可能な別の作戦に移ろうとしている。そうとわかっているから、凪沙は自らの任務を完遂するために、姜に再考を促さなければならなかった。

「諦めろって、どういうことですか、姜大尉!」

 テントに近づくと、先客が姜に食ってかかっているのがわかった。凪沙は入口の脇で立ち止まり、しばし会話の行く末を見守ることにする。姜と楠木と自分。日記を持ち出して捕まったことが思い出され、足を止めたのはきっとそのせいだと凪沙は自己分析する。

「不知火を使っても奴らの進行をとめられない場合は、追跡を中断する。これは茨木が決めたことだ。違うか?」

「ええ、違ってはいません。違ってはいませんけど、その茨木大尉が捕まっているんですよ。助けようとは思わないんですか!」

「紫龍隊は機兵小隊だ。機兵は人質救出用の兵器ではない。つまり、我々の務めは人質を助けることではない。違うか?」

「それも違いありません。ですけど、今まで私たちを引っ張ってきた茨木大尉なんですよ? 何か工夫して、作戦を練って、どうにかしたいって気持ちはないんですか」

「気持ちと猿知恵だけでどうにかなるなら、この戦争はとうに片付いている。尾西(おにし)が死ぬこともなかった。現実を直視しろ、楠木。我々には別の任務がある。小嶺にくっついて回るのもやめにしろ。龍の修理がもう終わる。おまえはそれに乗るのが仕事だ」

 これを聞いて、やはり、と凪沙は思った。姜は茨木の意図に、茨木が組み込まれたからくりの仕掛けに、気がついている。そして茨木が捕われた今、姜は自らその役割……影龍(インロン)狩りを代行するつもりでいるようだった。

 啓示軍に対する牧羊犬としての役割は、金星也(キム・ソンヤ)が与えたうわべの任務に過ぎない。ゲリラ戦に徹し、戦力を温存したまま長く前線に留まることで、神出鬼没の応龍隊との遭遇の機会を増やし、出会ったところでこれを討伐する。その実績を足場にして、行方不明となった黒龍隊の後釜として紫龍隊は躍進する。外廓聯(がいかくれん)とは異なり、金星也だけの息がかかった独立機兵部隊が新たに誕生するのだ。

 上層部の思惑は別として、紫龍隊隊員もその新たな立場を快く受け入れるに違いなかった。彼らが仲間を二人失うみじめな撤退戦を演じる羽目になったのは、元老院派の指揮下に強制的に編入された結果である。一方で、ぼろぼろになった彼らに再起の機会を与えてくれたのは金星也である。このふたつの条件を与えられれば、未来予測は容易だ。

「姜大尉は、戦果を上げたいんですね」楠木の声が震えている。「茨木大尉がいなくなって、貢献を評価されるのは自分だけになったから。だから別の任務にさっさと移りたいんだ。邪魔者は帰ってこなくていいって思っているんでしょう」

 拳骨か叱責(しっせき)のどちらかが飛ぶ。凪沙はそう予測したが、待っていても大きな音は何も聞こえてこなかった。

「上役がいないとやりやすいのは確かだな」姜は呟くようにそう言った。「だが、俺のやるべきことは、俺のやりやすいようにはできていない」

 楠木の侮辱に応じた姜宗義の声は実に静かなものだった。声音だけではない。呼吸の乱れも感じられない。楠木が何も答えないので、凪沙はそれをよく聞き取ることができた。

 思いのほか姜は冷静沈着だったが、楠木の今の失点は取り返しようがない。このままでは助手――あまり頼りにはならないが、いないよりはいるほうがいい――を取り上げられ、紫龍隊全体が影龍狩りにシフトしてしまう。ふたりがこれ以上口を開く前にと、凪沙はテントへと踏み入った。

「失礼します」

「立ち聞きは飽きたか」

「――たった今、来たところですが」

 若干のショックを面(つら)の皮一枚のところで遮断して応じると、姜は鼻を鳴らした。

「何を言い募(つの)りに来た」

「提案があるのです。大尉の職務と自分の職務を、同時に円滑化する方法について」

 どういうつもりだと言いたげに凪沙を睨むのは、姜ではなく楠木のほうだった。凪沙はそちらに目をやらずに、昨夜から練っていたプランを姜に披露する。

「リスクは覚悟の上、ということだな」

 最後まで説明を聞いた姜宗義は、しばらく凪沙をじっと見返していたが、やがてそう訊(たず)ねた。凪沙は即答する。

「はい」

「わかった」

 それが唯一の質疑だった。姜は「やってみるがいい」とあっさりと作戦を了承した。舌戦を覚悟していた凪沙は肩透かしを食らった気分だったが、これも表情には出さない。

「必要な文書は俺が今から用意する。伝達媒体については、二番目のプランが実行可能だ。――楠木」

 呼ばれると、それまで路傍の石の扱いだった楠木は弾かれたように反応する。

「はい、やります!」

「乾と尹(ユン)に、こちらへ来るよう伝えろ」

「は?」

「補給部隊の護送は、乾に代わっておまえがやれ」

「私にメッセンジャをやらせてくれるのではないのですか……」

「すべての仕事は適任者に任せるのが俺の流儀だ。悠長に教育を施す茨木の流儀が懐かしいなら、さっさとふたりを呼んで来い。時間を無駄にするな。茨木が殺されてからでは遅いぞ」

「了解!」

 楠木がテントを飛び出していく。

「小嶺。おまえにも仕事がある。監視対象施設に戻り、書簡の伝達と奴らの対応状況を観測しろ。それがまずひとつだ。そしてもうひとつ、茨木の生存をその目で確かめて来い。死体では取引の価値がない」

「ラリサ・コルヴァクが啓示軍の一員やシンパではないという保証がありません。こちらの態度を示す前に、再び地下の通路から進入するのは危険が多く、得策ではないかと」

「リスクは覚悟しているのだろう」

 それだけは反駁のしようがない、的確な一撃だった。

「わかりました。やってみせます」

 凪沙は決意するほかなかった。

 姜自身も言っていた。

 やるべきことは、やりやすいようにはできていない。



- 8 -


 昼前になって、ラリサの部屋の電話が鳴った。外からだということが音でわかる。相手もほぼ特定できていたので、ラリサはためらわず受話器をとった。

「こちら<爪>」

 いつものようにコードネームを名乗った男の声の調子は、しかしいつもとまるで違っていた。用件は、昨夜からの偵察の結果について。いくつもの重要な情報が次々と男から告げられ、ラリサはほとんど口を挟む隙がなかった。もっとも、隙があったところでラリサにはあまり話す気がなかったが。

「まずい状況だ。想定したなかで最悪のパターンに近い。対応が裏目に出た」

 男は報告をそう締めくくる。最後の一言はラリサを批難しているようにも聞こえる。

「まだ最悪ではないわ。今のうちに証拠を隠滅すればどうにでもなる」

「駄目だ。実験はなんとしても続行してもらわなければ困る。今しかないんだ」

「証拠隠滅のチャンスも今しかないわ」

「いや、それについては手を考えてある。君たちはそれを実行するだけでいい」

「内容次第ね。私は仲間の安全が第一なの」

「危険はない。例のスケジュールを早めるだけだ」

「言っていることが支離滅裂よ。搬出するなら、もう実験どころじゃない。解体しなければ運び出せない」

「その回避策を考えたと言っている。“砂時計”の負荷状態を維持したまま、一号エレベータで最下層に移してくれればいい。それから西ゲートの開放準備だ。実験が終わり次第、T2(テーツヴァイ)で人員も物資もまとめて回収する。俺は残って援護だ。これで時間と積載量の帳尻が合う」

「それでは、ここを完全に放棄することになる」

「もう手遅れだ。ここを温存するという選択肢はなくなった。荷物は早めにまとめておくことだ」

 ラリサは思う。男の状況判断は、おそらく正しいのだろう。しかし、こうなることはもっと早い段階でわかっていたのではないのか。男は敢えて他に選択肢がなくなるまで黙っていたのではないか。所詮、一時的に利害が一致しただけの相手か……。

「問題がひとつあるわ。一号エレベータを動かすには電力が足りない。実験と、あなたの充電と、それから啓示軍(オフェンバーレナ)にも電力を取られているもの。予備の発電機を回さないと間に合わない」

「回せばいい。どうせ燃料までは持ち出せない。何か問題があるのか」

「BFGが足りないの。それに予備の発電機がある二号棟は、ちょうど彼らが使っている」

 受話器の向こうから舌打ちが聞こえた。

「なら、啓示軍の襟巻き男に掛け合えばいい。やつらのBFGがある。交渉はできるな? 俺はユニバーサルコンデンサの調整と、T2への連絡がある。手伝っている暇はない」

 すまないが、という台詞(せりふ)はなかった。

「わかったわ。――そうだ、外郭通路のことだけれど」

「ああ、あれはいい。もうそっちへ行っている時間も惜しい。T2の着陸のタイミングが決まり次第、また連絡する。以上だ」

 今日も電話は一方的に切られる。

 受話器を壁に投げつけたい破壊衝動がラリサを支配したが、すぐにそれは収めた。今は客が来ている。ラリサは受話器を静かに戻すと、ソファでじっと待っていた客に微笑(ほほえ)んだ。

「お待たせ」

 訪問者、小嶺凪沙と目が合った。電話中の挙措(きょそ)は言うに及ばず、視線の動き、表情筋の緊張に至るまですべての反応を見落とすまいとして、目を瞠(みは)っていたのだろう。

「さっきの話だけれどね。あなた、本当に上手くいくと思っている?」

 凪沙が電話の内容について何か質問する前に、ラリサは話を戻した。

 再度訪問してきた凪沙からは、捕虜となっている上官の居場所と生存の事実を確認したいので協力してくれと相談されていた。それさえ確認できれば、彼女のいる部隊は、捕虜の解放を条件に啓示軍を見逃すというのだ。ここが戦場にならずに済むのだからラリサたちにもメリットがある、ということも凪沙は強調した。

 しかし、画餅(がべい)といえばそれまでだ。取引とは互いのメリットを最大化しデメリットを最小化する手続きであり、それを持ちかけることは即(すなわ)ち敵に弱点を教えるようなものだ。啓示軍があくまでここに踏みとどまるつもりなら、これ幸いとここで援軍を待つ構えになりかねない。また、取引に応じたように見せかけて、結局捕虜を返さないまま逃げることも考えられる。食い逃げの原理である。さらに、もしも啓示軍が純粋に情報収集のため捕虜を取ったのだとすれば、凪沙たちが取引を持ちかける前に、用済みとなった捕虜を殺してしまうかもしれない。

「可能性だ」

 凪沙は呟き、そして次にはちゃんと息を吸った。

「可能性なんだ、私が欲しいのは。賭けに出ることで、可能性は生じる。成功と失敗の両方の可能性だ。そうしたら、私は自分が好きなほうを捕まえる」

「もっと分のいい賭けがあるかもしれない。今ここで賭けに出て平気?」

「物を盗られたら、まず走って追いかける。私は今、走り出したい」

 そのとき、ラリサははじめて凪沙の素顔が見えたように思った。

 ――なるほどね。

 昔は自分も他人からこう見えていたのだと悟り、過ぎた年月を想う。

「いいわ、協力する。捕虜になっているあなたの上官の居所だけど、実はもう、わかっているの」

「本当か」

 思ったとおり、凪沙は身を乗り出して食いついてきた。しかし凪沙は自分の前に置かれたティーカップのほうには興味がないらしく、中の紅茶はすっかり冷めてしまっている。ラリサはまだ少し残っていた自分のカップに口を付けて、一息ついた。

「夕べ、見たのよ。あなたの言っていたとおりの年恰好だった。なかなか二枚目じゃない。機兵部隊の隊長さんだってね」

「どこで見つけた」

「見つけたんじゃなくて、案内されたのよ。啓示軍に呼び出されて行ってみたら、そこで捕虜の尋問に立ち会うよう要求された。フェルバルディは……、啓示軍の指揮官は、彼が嘘の供述をしていないか確かめたかったみたい」

「この目で確認する必要がある。どこだ。場所を教えてほしい」

「案内することはできるけれど……。その前に、ちょっと時間を頂ける? 私からも取引の提案がある。あなたと私の取引」

 凪沙が怪訝(けげん)そうに目を細める。

「ここを戦場にしない、というだけでは不服か。――地下に何かある。それ絡みか?」

 凪沙はあの通路を見つけて入って来られた人間であり、今の電話の応対も聞いていた。ただの通路ばかりでなく、大規模な地下施設があると気づいて当然だった。

「通路の作りには見覚えがあるみたいね。どこか似た場所を知っている?」

 決定的な質問を突きつけてから、ラリサは紅茶のおかわりを淹(い)れるため席を立つ。これを確かめなければ、今回の話は進められない。

「組織ではよく使われている形式だ。入口さえうまく見つけられれば、あとは表を歩くのと変わらない」

 予想より返事が早い。まだ、これから湯温を確かめるというところだった。だが、肝心の内容は予想通りだった。

「あなた、歳はいくつ?」

「二十一だ」

「組織……、いえ、伏せる意味はないわね。RATにはいつから?」

「十五歳のときだ。そしてこの六年、一度もおまえを見たことはない。この施設について聞いたこともない。だがおまえはここにいて、当たり前のように通路を知っている。おまえは、違うのか?」

 質問は刃を逆にしてつき返された。

「同じ組織にいても、知らない顔なんていくらでもいるものよ」ラリサはカップに茶を注ぐ。「でも、ここのことも全く知らないのだったら、それはこちらとしても意外だわ」

「この施設の存在自体が情報にない。ここは廃棄物処理場として登録されている」

「それが軍のデータ? RATのデータは見ていないの?」

「当然、確認した。だが、ありふれた備蓄薬物の記載以外、特記事項はなかった」

 ラリサはソファに戻り、凪沙と再び向き合う。相手の瞳が情報を求めるのがわかる。その未熟さが、若さが羨(うらや)ましく思えた。

「あなたのアクセス権限が弱いのか、あるいは上が記録自体を抹消したのね。私の記憶も抹消してもらえれば楽かもしれないけど……。駄目、やっぱりそれも気乗りしない」

「ここで何かあった。説明を要求する」

「まあ、いろいろとね。事の発端に関しては、私も人から聞いて知っているに過ぎない。そんな長い話。でも、今あなたが知るべきことはそう多くない」

 腕時計で時刻を確認する。要点を説明するだけの時間は十分にある。

「まずあなたが正すべき認識は、ここが廃棄物処理場なんかじゃなく、SMITS(スミッツ)の研究施設だってこと。SMITSの直営施設のすべてがRATかその前身組織によって建造され、警護されているのはあなたでも知っていると思うけど、ここもその例外じゃないわ。だからあなたは外からここへと入って来られた。もっとも、入口の偽装にはアレンジを加えていたから、簡単に発見されたのはちょっとショックだけれどね。で、私はここにいた数百人の研究者のひとり。ここまではとりあえず信じてもらわないと話ができないけど、いい?」

 凪沙は黙って頷く。

「ここでは様々な研究が行われていたけど、主流だったのは、砂漠の緑地化に関するものよ。新青海(チンハイ)基地の大農園を見たことがある? あれを他の砂漠や荒野でも再現できれば、穀物生産が一気に伸びる、という発想ね。この家に置いている鉢植えは、研究で使ったものや規格外標本ばかり。このお茶の葉だって、一昨年、同僚が栽培に成功したものなんだから」

 ラリサは一口紅茶をすすった。絶品とまでは言えないが、研究の苦労とともに記憶に刻まれたこの味には捨てがたいものがある。これを飲めなくなるのは惜しかった。

「一般人との接触を絶たれた陸の孤島で、土や草、虫やバクテリアを相手にした研究の毎日。週に二回、RATに護衛されたトラックが生活品や研究資材、郵便物なんかを届けてくれる。忙しかったけど、仲間との家族同然の暮らしは楽しかった。――そんな研究生活に終止符を打ったのが、去年の秋、アラル海の東で亜細亜連邦軍を破った啓示軍の進撃だった。何日もしないうちに局長命令が来て、私たちはデータと最低限の標本を持ってここを離れることになった。けれど、私を入れた五十人ほどがここへ残った」

「研究を続けるためか」

「そういう人もいる。でも、ここより新青海で研究したいって前からぼやいていた人もいたし、残った理由は人によって様々。私の場合は、純粋にここで暮らしていたかったから」

「戦火が迫っていたのに? もう生活物資は届けられないのに? それだけのリスクを負う価値がここにあるとは思えない。水と食料は自給できたとしても、燃料や日用品は消費する一方だろう。実際、そろそろ限界が近かったのではないのか?」

「そう。もう限界が来ている。けれど、それは物資の問題じゃない。物資なら近隣のオアシス経由でなんとかなった。私たちにとっての最大の障害は、亜細亜連邦軍なの」

 凪沙がこわばるのが見て取れる。本来の所属はRATであっても、今は亜細亜連邦軍に身を置いている彼女にとって、今の発言は敵として宣告されたに等しく、当然の反応だとラリサは思う。しかしRATならば、ここで安易に思考を停止して攻撃に移ってはならない。少なくともラリサの知るRATはそうだった。

「地下に隠している物は、軍に見られるとまずい。ここに残っている研究者の命に関わるほどに。そういうことだな」

 努めて平静を装った凪沙が認識を確認する。ラリサはその対応に満足して頷いた。

「この陸の孤島には、これまで啓示軍が直接来ることもなかったし、亜細亜連邦軍だって敵がいなければこんな場所へは来ない。そう想定していた。けれど今、ここには啓示軍がいる。それを追って亜細亜連邦軍も近づいている。啓示軍はここを離れて西に逃げるしか道はないけれど、入れ替わりにここへ立ち寄る亜細亜連邦軍の指揮官は、啓示軍がこんなところへ立ち寄ったのは何故だろうという疑問を抱く。すると早晩、調査が入る。いくら隠してあるとはいっても、大掛かりな調査があれば秘密の通路や地下施設はすぐ見つかってしまう。RATが捜査に加わればなおのこと。このシナリオを回避するには、一刻も早く啓示軍にここを立ち去ってもらわなければならない。もちろん、ここを戦場にするのは論外」

「つまり……。そちらの条件は二つ追加だな。ひとつは啓示軍を早く確実にここから撤退させること。もうひとつは、啓示軍撤退後も亜細亜連邦軍がこの施設に立ち寄らないこと」

「正解。私たちは、誰の注意も引きたくない。ここで何もなかったことにしたい。あなたたちは、隊長を取り返し、そして啓示軍を西へと追い返したい。でも残念なことに、私たちは啓示軍を追い払う強制執行の手段を持たず、あなたたちも隊長の身の安全を保証する材料を持たない。けれどお互い協力すれば、求めるすべてが得られる可能性が高まる。飛躍的にね。一方で、リスクの程度は協力してもしなくても大差ない。悪い取引ではないはず」

 ――もし私を信用するなら、だけれど。

 ラリサは凪沙の返答を待つ。互いを信じられるか、それ次第だ。RATの話をしたことで、小嶺凪沙はラリサ・コルヴァクという初対面同然の女を敵味方どちらに分類しただろうか。もっとも、それはラリサにとって重要な事柄ではなかった。ラリサが知りたいのは、凪沙が走り出すのかどうかだった。

 テーブルを見つめて黙考していた凪沙は、やがて顔を上げた。手にはティーカップを持っており、それを、一気に飲み干した。



- 9 -


 凪沙は数日ぶりにシャワーを浴びていた。

 電力不足を理由として、啓示軍が使用している二号棟へ発電機を回しに行く。茨木はまさにその発電機のある部屋に監禁されているから、凪沙も住人を装ってラリサについて行けば、茨木の無事を確かめられるだろう。ラリサのもくろみはそういうことだった。

 そしてラリサはどこかへ電話して、サイズの小さい女物の服を手配し、凪沙には湯を使えと命じたのだった。ここのにおいを染み込ませろ、と。

 肌を流れていく湯の感触が心地よい。体がほぐれ、任務中の緊張感も弛緩(しかん)しそうになる。ともすれば眠りにすら落ちてしまいそうな休息への衝動を、凪沙は危険要素を頭に浮かべることで抑制した。目と鼻の先の啓示軍。工作場に隠されているエントゼルトゾルダート。そしてRATとの関わりが明らかになったこの施設そのもの。そこに住む人々……。ラリサ・コルヴァクについても、凪沙は完全に気を許したわけではない。現に、武器は浴室に持ち込んでいる。

 思いがけず、同じ組織の人間に出会った。これが幸運なのか不運なのかはまだわからないが、凪沙はすでにひとつの収穫を得ていた。ラリサと話すことで、自分に与えられた任務を再確認できた。

 ――茨木彪の生命を掌握せよ。

 神巌(かみいわ)慎吾はそう言った。決して、紫龍隊の任務遂行を手助けせよとは言わなかった。それがいつのまにか、紫龍隊そのものの役に立たねばならないという気分になってしまっていた。楠木冴子の影響か。

 ラリサに指摘されたとおり、今回の交渉で茨木を無事救出できるかどうか、定かでない。計画通りに事を進めるには、あまりに不安要素が多い。そのすべてを自分の力量で排除するつもりで来たが、それはRATとしては非常識な考えだったと気づかされた。

 楠木や姜との連携は、利用できるものを最大限利用するというRATの常識に則った選択である。それ以上の意味はなく、そう位置づけられるべきものなのだ。役に立たない、デッドウェイトとわかった時点で捨て去るべきもの。

 最悪の場合、茨木彪以外の紫龍隊隊員がどうなろうと構わない。この施設と住人にしても同じである。交渉が不首尾に終わり、ここが戦場となるのもやむをえない。国家が戦争状態にある以上、血が流れるのは凪沙の責任ではない。凪沙が責任を負っているのはただ、茨木彪の命だけだ。

 凪沙はコックをひねって湯を止め、浴室を出る。脱衣室にはあまり暖房の効果が及んでおらず、空気は凪沙のぬくもりを容赦(ようしゃ)なく奪い取っていく。手早くタオルで髪と体を拭(ふ)いて、用意されていた着替えに袖を通し、武器を身につける。少しはSMITSの研究員らしくなっただろうかと、鏡を見ながら凪沙は首をかしげる。自分がなにか間違っていないかと確かめるのは、もはや習い性となっていた。

 物音が耳に入ったのだろう、外でラリサが呼んでいる。忘れているものはないかと、凪沙は脱衣室を見回し、脱いだ野戦服に目を留めた。そのまま置いておけばいいと言われて、携帯品だけ取り出したが、ポケットにひとつ残している物があったのを思い出す。どうして忘れていたかといえば、それはもともと凪沙の所持品ではないからだった。

 地下通路の入口で拾ったゴーグル。バトゥ・ウォンの持っていたものと酷似している。おそらく同一の品だろう。

 もっとも、ゴーグル状ではあるが、その機能は不明だった。レンズが琥珀(こはく)色であることから、サングラスではないかと思い着用してみたが、どうやらもっと高度で複雑な代物であるらしかった。スイッチらしき可動部が幾つかあるが、触っても反応がない。電源が切れているのかもしれない。

 使えなくなって、バトゥはこれを捨てたのだろうか。しかしそれではあまりにも不自然だった。隠されていた地下通路の入口に、これは落ちていた。まるでここを探せと言わんばかりに。

 仮に、バトゥが作為的にこれを落としたのではないとしても、地下通路に潜ろうとしてポケットから落としてしまった、という線は残る。その場合、バトゥが一度ここを訪れていることになる。

 まだここにいるのか、それともどこかへ消えたのか。バトゥは何かを見物に来たといっていた。ここがその目的地なのかもしれない。RATがここの地下通路を建設し、そして現在のデータから存在を抹消しているのも、バトゥの行動目的と関係があるかもしれない。

 ――よそう。

 凪沙はゴーグルと一緒に疑問をポケットに押し込んだ。

 利用できるなら利用する。障害となるようなら排除する。会わなければそれまでだ。わざわざ探すこともない。疑問点は、後日RATの本部で調査すればよいのであって、今は箱に入れて蓋をしておく。RATに身を置くようになって六年、こういうケースにはもう慣れている。迷ったときは、前だけを見る。ひたすらに目的だけを見据えて、凪沙は走ってきたのだから。

 幼い凪沙から父を奪ったあの爆発事故、もしくは爆破事件は、度重なる災害と繰り返されるテロの記録の中にうずもれ、二、三年のうちに人々の関心を失ってしまった。日本の警察も、亜連の上位警察機関も、とっくの昔にあの出来事を過去の記録として処理している。凪沙はそれを許せない。だから、凪沙の過去を調べたスカウトが凪沙の前に現れたとき、誘われるままRATに入った。手柄を上げ、優秀な特務員として組織内でのしあがれば、RATの組織力を使ってあの事件の真相を掴み、実行犯と首謀者に制裁を加えられる。父の最期を深い記憶の淵から拾い上げた今、目指す終着点は六年前よりも鮮明に見えていた。目の前のハードルが幾ばくか高かろうと、それは問題ではない。前進は既定事項なのだ。

「必ず助け出す。それまで殺されずに待っていろ、茨木彪」

 凪沙は鏡のなかのRAT特務員の姿に満足して、脱衣室をあとにした。



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 少々長く席を外したことで、フェルバルディは部下のマウロ・ニルシッジを怒らせてしまった。他の将兵の手前、会議室で地図を広げている間はマウロも静かにしていたが、用を足して戻るところでフェルバルディは捕まってしまった。

「ドライバイニヒの復旧を指揮しているのかと思えば、また捕虜の尋問ですか」

 トイレからの帰り道で待ち伏せしていたマウロは、開口一番に不満を口にした。

「隊長は、事の優先順位を見失っていますよ。しっかりしてください。いつになったらここを発つのかと、ラディール軍曹に掴みかかられるのは俺のほうなんですから」

 イタリア軍時代から面識のあった部下である。神経質な性格はとうに承知している。ラディールのような叩き上げの下士官を苦手としていることも。

「俺は整備のことはわからん。いても無駄だ。それよりも、あの男から情報を引き出すほうが先決だ」

「それで、何か成果は上がったんですか」

「いや、まだだ。それで少々、手を変えた。これで駄目なら、諦める」

「まさか拷問を?」

 育ちのいいマウロは顔をしかめた。もっとも、龍(ロン)のパイロットを捕虜とせず射殺すべきだと唱えたのは、他でもないマウロである。そのあとも、やれ手足を拘束するべきだ、不寝番をつけておくべきだと主張していた。フェルバルディはときどき、部下の価値観がわからなくなる。

「俺は戦後に訴追されて、妻子を泣かせるようなことはしたくない」

 したくはないが、しなければならないこともある。そう続けようとして、慌ててやめた。疲労がたまっているらしい、とフェルバルディは自己診断する。そしてこめかみを押さえるフェルバルディの様子を見たマウロは、幾分、口調をやわらかくした。

「隊長の奥さんとお子さんのためにも、ここを早く撤収できるよう最善を尽くしましょう。そのために今、何をやるべきなのか。あとでじっくり話し合う時間を頂きますよ」

「ああ。ラディール軍曹も交えてな」

「ラディール軍曹も? ――いえ、了解しました」

 最初、マウロは露骨に嫌そうな顔をした。睨みつけてやろうと思ったが、マウロは自分の失敗を自覚したのだろう、すぐに畏(かしこ)まった。

 ラディールは、最前線からの二百キロの撤退を支えてきた男だ。亜連の大規模反攻に加え、巨大なバロッグの発生という不測の事態によく対応したものだと、フェルバルディは高く評価している。この地域での撤退支援の命を受け、四機の新型エントゼルトゾルダート“ドライバイニヒ”で駆けつけたフェルバルディだったが、最初に接触したのがよもや最前線から後退してきた部隊だとは思わなかった。

 命令では護衛対象を特に定められておらず、フェルバルディの裁量に任されていた。だからフェルバルディはラディールを安全圏まで送り届けることを初対面で確約した。この男とはやりやすい、という感触があった。機兵という生まれたばかりの兵器を扱う部隊と、既存兵器のみで編成された部隊が協力してひとつのことを為すには、その感触が最も頼りになる。フェルバルディはそう確信しているし、周囲にも常々主張している。特にマウロは、将来指揮官として立つ身であるから、古参の下士官にはとりあえず敬意を払っておいて損はない、と口をすっぱくして言ってある。

 それなのに、まだラディール軍曹への態度が良くならない。これはフェルバルディとしては少々残念なことだった。まだ、心から親密にせよとまでは言わないが、形だけでも敬意を定着させておきたいのだ。マウロも上官の意図は汲んでくれているものと思っていたが、今の態度では、一度きつく言っておいたほうがいいかもしれない。

 いや、マウロも疲れているのだろう。そうフェルバルディは思い直す。ラディールのほうも、部下や、途中で合流した戦車隊の生き残りを先日の戦闘で何人も失ったから、気が立っているのだ。

 しかし、フェルバルディの理想は、そんな疲労からくる心のすさみを、互いの信頼で補うような間柄を構築することだった。それが、まだまだ確立には程遠い。――その意味では、ここにこうして閉じ込められているほうが、結束は高まるかもしれない。妙な考えがフェルバルディの脳裏に去来した。

 現実的にはありえない選択だと承知している。亜細亜連邦軍の追撃部隊は、次々にこのあたりまで進軍しているに違いない。だからフェルバルディたちとしては、多少の準備不足には目をつぶって、ここをあとにするべきなのだ。つまり問題は、現在直面している未解決の問題が、許容範囲であるかどうか、ということ。

「ドライバイニヒの不調さえ直れば、何も揉めることはないんだろうがな……」

 フェルバルディは思わず内心を吐露してしまった。これに対し、マウロが大きく頷く。

「本当に。ようやく軍曹の部隊を休ませて、治療も出来るようになったら、今度はドライバイニヒが熱を出したんですからね。ここへ寄るまで、たいした不具合はなかったのに」

「RW(エルヴェー)重工にリコールを求めるか?」

「そうしたいですが、民生の市販品とは扱いが違いますよ。基幹部隊のデスク組が無茶を言って配備を急がせたんでしょうし。訴えるならそっちですね」

 マウロはもともと、司法関係に進もうと考えていた男だった。親の強い勧めで、というより権力に屈して、職業軍人をやることになったらしい。しかし、マウロはまだ若い。この戦争が終われば、除隊して道を変えるのもいいかもしれない。そのときは元上官として、親の説得を援護してやろう……。

 初めてそんな考えが浮かび、フェルバルディはこれが親心というものかと、数秒、感慨に浸る。

 しかし、気づいた。

 ――俺は、マウロを指揮官として育成したいんじゃなかったのか。

「隊長、噂をすれば、ラディール軍曹が来ましたよ」

 動揺を押し隠し、フェルバルディはマウロの指す方向を見る。ラディールが煙草(たばこ)をふかしながら歩いてきていた。休憩か、と思ったフェルバルディは、やがてラディールの顔色が窺える距離になったとき、そうではないことを悟った。

「おい、イエローマフラー」ラディールはフェルバルディを通り名で呼ぶ。「表に女が来ているぞ。住人代表の、なんとかって奴だ」

 フェルバルディは、年上の軍曹がどうして渋い顔をしているのかわからない。ラリサ・コルヴァクとの話し合いはいつもフェルバルディかマウロで対応しているので、ラディールが彼女に対して嫌悪感を持つ機会もないはずだった。フェルバルディからしてみれば、ラリサ・コルヴァクには協力的という印象しかない。

「何か問題でも?」

「中の発電機を回したいので中に入らせろ、と言っているんだ」

 ラディールが何を気にしているのかはすぐにわかった。

 フェルバルディらもここの別の自家発電から電力を分けてもらっているので、それで出力が足りなくなったといわれれば、発電機を回すことに異を唱える立場にはない。ラディールもそれは同様だろう。しかし、直接起動の操作をさせろという要求は、まずいのだ。発電機の部屋にはイバラキがいる。発電機を動かすとなれば、さすがに部屋を変えなければならない。そしてなによりラディールは、捕虜と一度会っているラリサが、何かの企みを持ってあの部屋に近づこうとしているのでないかと、そう警戒しているのに違いない。また、ラディールがそこまで気づいているかはわからないが、発電機を回すとなると別の問題もある。発電機の出力次第では、新たにBFGを近くで動かして、バロッグの迷惑なエネルギー変換現象から守ってやらねばならない。フェルバルディもラディールに負けない渋い顔になった。

「了解。こちらで対処しますよ」

 結局トイレにも行くらしいラディールと別れ、フェルバルディは表へと向かう。マウロがついて来ようとしたが、指揮を執れと命じて追い払った。

 ラリサとはひとりで会いたかった。



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 ラリサが表玄関に回っているうちに、凪沙はラリサに教えられたとおりの道順で、二号棟の裏口から中庭に入っていた。

 当初のラリサの提案では、凪沙も彼女とともに表から入り、発電機室までついて行くはずだったのだが、それでは事前に茨木の身柄を移されてしまう虞があった。ラリサは啓示軍(オフェンバーレナ)の将校とともに発電機室で茨木に会ったというが、それは異例のことのように凪沙には思えた。二度目があると信じるのは甘く、また、凪沙が随行していることで啓示軍が警戒を強めることも考えられた。そもそも、凪沙は今の自分の恰好がそれらしく見えているかどうかも確証がない。

 それらのことを言い募ると、ラリサは別の案を出してきた。RAT流のやり方を。凪沙はそちらのほうが安心できたので、こうして裏口へ回った次第である。

 裏口の外にも中にも見張りはいなかった。中庭をぐるりと囲む棟の壁面にはいくつか窓が設けられており、それらからは凪沙の姿が丸見えなのだが、それも、そこに監視の目があればの話しである。今は、窓のほとんどにカーテンがかかっていて、凪沙が注意すべき箇所はそう多くなかった。啓示軍が、ここの住人に中を覗かれるのを嫌って、カーテンを開けないのだろう。あるいは、亜細亜連邦軍がこの街に躊躇(ちゅうちょ)なく砲弾を撃ち込んでくる事態を想定して、上層階には踏み入っていないとも考えられる。

 凪沙はそんなカーテンの様子を見ても、悩まず進むことができた。ラリサによって茨木の監禁場所が特定されているおかげである。上階に行く必要はない。凪沙は中庭を横切って、半地下の倉庫へと向かう。そこに、発電機室へと繋がる、隠し通路の入口があるのだ。

「おい、そこの少女」

 倉庫の扉に手をかけたところで、頭上から呼び止められた。威嚇(いかく)する声音ではない。銃には手をやらず、凪沙は声のほうを振り仰いだ。

「大人たちから聞いていないか? この建物は今、啓示軍が借り受けている。無闇に立ち入ってもらっては困るんだがな」

 もし銃に手をかけていたらなら、その神経質そうな言い草が終了する前に射殺できた。それくらい無防備な士官が、窓から首を出して凪沙を見下ろしている。完全に子供だと思われていることに凪沙は少々苛立ったが、この際、都合は良かった。ただし、これもラリサの計算のうちか、と心のどこかでやはり不満に思わざるをえない。

「手伝いを頼まれているんです。発電機を動かすから、工具を取ってくるようにって」

 普段より高めの声を出し、凪沙はさて困った、という顔をしてみせる。

「ん、さっきのあの件か……。なあ、君。誰か人をやるから、それまでそこで待っていなさい。そうしたら、倉庫に入ってもいいから」

「はい、わかりました」

 素直に頷いて、顔を上げる前にすばやくデジタル式腕時計で時刻を確認する。ちょうどいい頃合だった。

 遠くの空で乾いた破裂音がした。紙袋を膨らませておいて、手で叩き潰(つぶ)したような。

 小さな音ではない。当然、無防備な士官もそれに気づいた。窓からさらに体を乗り出して、空の一転を凝視している。他の窓でもカーテンがかすかに揺れはじめた。

 発煙弾が打ち上げられたのだ。凪沙はいちいち見なくともわかっている。それは凪沙自身が組んだスケジュールに則って、紫龍隊の龍(ロン)が放ったものだからだ。そして次には本番の、紙に記したメッセージを詰めた弾頭が、同じように打ち上げられる。

 やったのは乾か、姜(カン)か。楠木はやはり出撃停止を受けているに違いない。自ら出られなくて残念がっているだろうか、と想像したが、そのビジョンは金属の扉が閉まる音で掻(か)き消えてしまった。凪沙は注目がそれた隙をつき、うまく倉庫への進入を果たしていた。

 倉庫に入ってからの、隠し通路への入り方は、時間が足りなかったので詳しく聞いていない。しかし、教わった目印に近づくと、入り方はすぐにわかった。タイプが古いのだ。凪沙がRATで訓練したものとよく似ている。

 いくつかの荷物をどけて、凪沙は床付近の壁に設けられた通路に潜り込んだ。ペンライトがないと全く先が見えない暗闇。そして狭い。ほとんどダクトのような隙間を、四つん這いになって進んでいく。埃っぽく、かび臭い空気が凪沙の鼻腔をついた。せっかくきれいになった体と服が汚れていくが、凪沙はこの空間をどこか懐かしくも感じる。

 しばらく行くと、ひとまわり広い通路に合流した。依然として立ち上がることはできないが、凪沙の体格なら四足歩行が可能だった。再び教わった道順を思い出しながら、凪沙は先を急ぐ。

 外で何が起こっているかは、見当がついている。啓示軍はおそらく、発煙弾が陽動であることを警戒し、まず隠していた戦車や機兵を迎撃位置に移動させる。今はその段階だろう。凪沙の手足が感じている振動は、頭上の廊下や室内を動く人間のものばかりでなく、そうした戦車や機兵が遠くで動き出して生じたものかもしれなかった。

 啓示軍はいずれ、紫龍隊が攻撃してこないのを悟り、メッセージを回収する。そこでようやく茨木の存在が取引材料として啓示軍に認知され、ひとまずの身の安全が保障される。けれども、取引の後もそれが継続されるかどうかは未知数。やはり、可能ならば今ここで茨木を連れ出すべきだろう。

 最後の目印を通過した凪沙は、速度を落とし、力を入れすぎないよう用心しながら通路の天井を叩き始めた。ここのどこかが外れ、発電機室に出られると聞いている。ただし、外せるのは発電機室の床ばかりではない。もし間違った場所から顔を出せば、不審人物として啓示軍に捕まってしまう。ラリサから聞いた道順を間違えずに辿(たど)って来たかどうか何度も確かめながら、凪沙は天井を叩いていく。石のコツコツという反響が通路内を静かに伝播(でんぱ)する。

 やがて、反応の違う箇所が見つかった。周辺を何度か叩き比べ、外れる部分を特定する。それは四角い石の板、もしくはブロックになっていた。そのまま発電機室の床石になっているのだろう。面積は、成人男性の肩幅が通り抜けるにはいささか狭い。

 凪沙はそっと、下からそれを押し上げる。隙間から光が入ってくる。思い切って床石をよこにずらしてどけてしまうと、天井と、そこから垂れ下がったカンテラが見えた。

 通路の中にいたのでは視界が狭い。凪沙は一度腕を引っ込め、拳銃を取り出してから、懸垂の要領で床石の隙間から頭を半分出した。

 正面に発電機があった。部屋は間違っていない。左右と背後には壁があるだけ。ドアは見えない。茨木の姿も。発電機の陰になっているのか。

 凪沙は急く思いで隙間を完全に通り抜けた。腰がへりに当たった拍子に、ペンライトなどポケットの中身がいくつか転げ落ちたが、拳銃さえ持っていれば不備はない。発電機室の床に足をつけると、視界が広がり、発電機の向こうにドアが現れた。だが、それだけだ。

 体温が一、二度下がったのではないか。そんな寒気に襲われて、凪沙は身震いする。

 部屋には誰もいなかった。

 茨木彪はここにはいない。

 ――嵌(は)められた?

 ラリサの不敵な笑みが浮かぶ。

 ――いや、考えすぎだ。茨木が今もここにいる保証など、最初からなかったではないか。こんなことをして、ラリサ・コルヴァクに何の得がある。

 冷静な部分がそう反論するが、膝を震わせているのは理性ではなく感覚だった。六年かけて走ってきたコースの足元が、突然崩れ去ってしまった。その衝撃に震えているのだ。支えてくれる人は誰もいない。凪沙は独りだ。

 床から、今までより大きな振動が伝わってくる。だんだん大きくなってくる。機兵の足音。龍とは違うリズム。脚の数が、違うのだ。三本脚(ドライバイニヒ)。

 ――逃げろ。逃げるんだ。

 父が叫んでいる。しかし凪沙は動けない。めまいがする。立っているだけで精一杯だった。

 ふと、凪沙は気がついた。あのテロのとき、どうして自分が逃げなかったのか。自分を助けてくれるのは、目の前の父、ただひとりだと信じていたからだ。そこを離れれば、もうなぎさを助けてくれる人は誰もいないのだと……。

 機兵は遠ざかっていく。しかし、にわかにまた別の足音が近寄ってきた。今度は人間だ。この発電機の奥、ドアの向こう、通路の先に、人が来ている。ただならぬ様子で。

 捕まるのだ、と凪沙は思った。不意に涙が出てくる。これで父の仇を取れなくなったからではなく、自分が茨木を助けられないとわかったから。いや、それも違う。

 ようやく凪沙は自分の本心に気がついた。

 自分は茨木彪に助けてもらいたいのだ。

 凪沙の通り抜けてきた闇の中で、琥珀色のレンズが淡い光を放っていた。



――続く――