黒龍隊の挽歌 第二十五話

摩利支天の誘い



 阿納(あのう)真理(まり)は戦場にいた。

 エカテリンブルク北西の、人里離れた山地。家どころか道路もない。うっすらと霧に包まれたその山林は、人が踏み入るには危険だった。ちらほらと見え隠れする火線や、くぐもって響く爆発音があれば、尚更}{なおさら

}である。だから真理は、徒歩でそのような場所に入ったわけではない。今は、機関銃をものともしない装甲に守られた乗り物の中だった。

「繰り返しになりますが」

 その乗り物を操縦している軍人が、通信機の送話をオフにして、後部座席の真理に向けて口を開いた。英語である。

「万が一、あなたがここで死傷することになっても、軍から補償は出ませんよ」

 このまま先に進むがよいか、と問われているのだと真理は理解し、別に顔を見られているわけではないが、笑顔で応じた。

「構いません。戦場は、初めてではありませんから」

「中央議会の議員秘書にしてはなかなか過激な発言だ、と言いたいところだが、頷(うなず)けるな、それは」

 軍人は、はじめて真理の肩書きに対して構えない口調になった。右院議員の秘書というのが、阿納真理がここへやって来るときに選んだ肩書きで、老齢の議員に代わって戦場視察をする真理をきちんと護衛するのが、受け入れ先の隊長であるこの男の義務である。しかし、義務にどれだけ忠実になったところで、戦場で身の安全など保証はできない。実際、老齢でなかったとしても、議員自身がここへ来ることはありえなかった。真理の視察が軍に受け入れられたのは、死んでも構わない存在と見做(みな)されたからに他ならない。もっとも、真理としては主体的にここへ参加する動機があったから、プラスに働く要素はそれがなんであれ大いに歓迎していたが。

 政府関係者が戦闘に巻き込まれるのは、珍しい話ではない。血で血を洗った亜細亜(アジア)連邦の樹立から二十年。その歴史は常にテロや内戦とともにあった。なかでも、三十億の市民の代表機関であり亜細亜連邦の骨格たる中央議会は、最も武力行使の標的となることが多いのだ。軍や警察、情報機関がそれらを未然に阻止していなければ、中央議会議員の顔ぶれは、改選を待たずしてその半数が入れ替わってしまうだろう。

「遠慮なく、戦ってください。手を抜いた攻撃で、彼らをエカテリンブルクへ向かわせるわけにはいきません。市民のために命を捧(ささ)げるくらいの覚悟は、秘書といえども、できています」

 真理はそう言ってみせて前進を促(うなが)したが、覚悟云々(うんぬん)というのは嘘である。この軍人、マクシム・ペトロフ少佐は噂(うわさ)で聞いた通りの優秀な職業軍人であり、ここで自分が命を落とすことはない、と真理の直感が告げている。

「自分は部下たちの指揮に専念しますが、もし敵のほうから近づいてきたら、応戦せざるを得ない。そのときは乗り心地がもっと悪くなります。ボイスレコーダで記録を取るのも自由ですが、舌を噛まないように」

 もとの口調に戻ったペトロフは、真理の返事を待つことなく、送話をオン。離れた部下たちと連絡を取る。その通信内容は真理のかぶりなれないヘルメットにも全く同じものが流れるようになっているので、状況の推移はおのずと知れた。

 敵軍は二手に分かれて山林を侵攻中。最寄りのコルツォヴォ空軍基地から飛び立ったSu-42戦闘機がこれを最後に目撃し、敵数総計を三と確認したが、その戦闘機は敵の地対空ミサイルにより損傷したため、帰投。残り少ない航空戦力の温存を優先した西部方面軍統合幕僚本部は、発見した敵機を敢(あ)えて放置し、別の部隊に迎撃(げいげき)を任せた。しかし即応展開した歩兵部隊は火力が不足しており、敵の侵攻をとどめることができなかった。敵の装甲を貫(つらぬ)くに十分な火力を持った戦車隊が到着するにはまだ時間がかかり、この霧の中、敵の位置を見失うことも考えられた。そこで、エカテリンブルク近郊(きんこう)の哨戒(しょうかい)任務に就(つ)いていたペトロフの部隊に声がかかったのである。

 ペトロフが真理を気遣(づか)うのは、そのような予定外の任務が発生したためであった。彼らはもともと、方面軍の指揮下にはない。本来なら、ペトロフは亜細亜連邦軍の最新兵器「龍(ロン)」の複座試験機について実働評価を行い、そして後部座席に収まる真理の仕事が早く片付くよう、少し配慮をしてやるだけでよかった。実戦など予定にない。

 しかし彼ら、「赤龍隊(せきりゅうたい)」は、紛(まぎ)れもなく実戦部隊であり、戦うことに戸惑(とまど)いや気後(きおく)れはない。予定はしていなかったが、想定しなかった事態ではないのだ。もとよりエカテリンブルクの西方は、敵軍――啓示軍(オフェンバーレナ)により各地の拠点を押さえられており、敵地同然である。これは数ヵ月前、制空権を失い、土地とそこに住む人々の庇護(ひご)すら放棄して、亜細亜連邦軍がウラル以東に退却したためだ。赤龍隊は、その戦線を押し返すために新兵器を結集して編成された特殊部隊「外廓聯(がいかくれん)」の一分隊なのであり、これはお誂(あつら)え向きの、手柄(てがら)を立てるチャンスだと言えた。特に、赤龍隊は前回の戦いで手痛い打撃を受けて戦力の再編を余儀(よぎ)なくされ、今回が復帰後で最初の実戦となる。口では慎重さを保っているが、ペトロフは戦闘を消極的に済ます気などないのだと、真理は察した。そしてそれは、どちらかといえば、真理にとって都合がよい。見たかったのだ。取り繕(つくろ)われた赤龍隊の姿ではなく、すべてがむき出しになる、戦っている彼らこそを。

「こちら江藤。隊長、ゾルダート二機を捕捉(ほそく)。すでに歩兵は振り切られた模様。これは、予想より近い。まもなく『火縄(ヒナワ)』の射程に入るが?」

 ペトロフへ部下から通信。それまで部隊の展開状況をモニタで眺(なが)めていた真理は、その声に反応して、傾聴(けいちょう)する。

「鄭(ジョン)と市来(いちき)を連れてすぐに後退しろ。おまえはもう敵の射程に入っている」

「いや、大丈夫」通信相手の部下は自信ありげに命令を拒否する。「当たりはしない。こちらはうまくやる。隊長は新入りたちと一緒に別働隊を探されたし」

「おい、江藤!」

「ちっ。気づかれた。バルムンクフィールドを展開する。通信終わり」

 一方的に通信は切られたが、それはやむをえない処置だった。電磁波を吸収するバルムンクフィールドを展開してしまえば、いくら電波を送ったところで届きはない。もっとも、それは本当に彼らが敵に気づかれたのであれば、という話だが。

「あのバカが」

 そのペトロフの呟(つぶや)きを聞いて、真理は余計なことをひとつ言ってみたくなった。

「『龍王(ロンワン)』が修理中でなければ、力ずくでも止められたのに。――今、そう考えましたね」

 前部座席で、ペトロフの肩が一瞬こわばるのを、真理は見逃さなかった。

「――視察の目当ては、龍王だったのか」

「いいえ。逆に、この複座式の龍でよかったと思っているところです。江藤大尉の活躍、ここからでもいくらかはモニタできるのですよね」

「ええ、操作はこちらとは独立しています。ご自由に」

「では、しっかりと拝見させていただきます」

 そのために、真理は来たのだ。


*   *   *   *   *


 望遠カメラが、木々の合間を動く機械の塊(かたまり)を追尾する。啓示軍(オフェンバーレナ)の戦闘ロボット……もとい、人が乗って動かしているのだから原義的にはロボットとは呼べない。それは「機兵(きへい)」とカテゴライズされた全高十五メートル前後の人型兵器である。機種名はエントゼルトゾルダート。

 人型といっても、人体の模擬はさほど忠実ではなく、全体に細身で、手足が長い。顔もハンチング帽をかぶった犬のような面構えで、子供が憧(あこが)れるようなヒーロー性は持ち合わせていない。

 二機のエントゼルトゾルダートは、もう先ほどまでの慎重な動き方ではなかった。接敵を認識した、機敏な動きだ。江藤博照(ひろてる)はにやりと笑う。互いにバルムンクフィールドを展開し、臨戦態勢というわけだった。

「ミサイルは封じた。ジョン、先制して狙撃。市来はその三秒後。と、そんな感じで例のように頼む」

「ラジャ」

「了解」

 馴染(なじ)みの部下に指示を出し、江藤大尉は自分の「龍(ロン)」を立ち上がらせた。文字通り、二本の足で山肌に自立する。龍もまた、機兵なのである。外廓聯は、亜細亜連邦軍において機兵を戦力として運用する最初の、そして最大にして最強の特殊部隊なのだった。

 江藤の龍に気づいたエントゼルトゾルダートが、腕と一体化したライフル砲を構えた。が、撃たない。その間に江藤は敵から見て真横に龍を走らせ、一旦、山の起伏(きふく)の陰(かげ)に隠れる。江藤の視界が草木や土で覆(おお)われたところで、発砲音が響いた。さきほどまで一緒にいた部下の龍が、指示通り、手持ちの火砲で先制攻撃を加えたのだ。弾道は観測していないし、もちろん目標は山肌の向こうで見えるわけがなかったが、江藤はその結果がどうなるかを予期していた。

 外れ。きっちり三秒後に放たれた二発目も、おそらく同様。

 部下の狙(ねら)いが拙(つたな)いのでも、二二式機兵用百五粍(ミリ)ライフル砲「火縄」の照準機能が粗悪なわけでもない。龍の射撃統制装置の故障でもなければ、エントゼルトゾルダートの回避性能がとんでもなく高いわけでもない。それでも、この場所、この領域においては、二発の砲弾は外れる定めにあった。

 敵の応射音。それに対する部下二人の応射。彼らは、それぞれ位置を変えつつ射撃を加え、龍の数とその位置を特定できないように振る舞っている。当てることは期待していない。これは初歩的な陽道作戦だった。

 江藤は敵の背後に回りこんだ。部下たちの射撃がやむ。通信はできないので、江藤は発砲音をカウントして彼らの撃ち止めのタイミングを計っていた。今朝フル装填(そうてん)した弾倉には十発の砲弾が詰まっていた。予備弾倉は携帯していない。ならば五発以上を使うことはない、と江藤にはわかるのだ。それは江藤自身が、隊長マクシム・ペトロフたちとともに実戦で研究し、定めたルールであったから。

 メインモニタの中央に敵機、エントゼルトゾルダートの姿を捉え、江藤はフットペダルを踏み込んだ。龍の背中に配された大口径のロケットエンジンが推力を生み、地を蹴(け)った龍はまっすぐに敵に襲いかかる。江藤に気づいて身を翻(ひるがえ)そうとしたエントゼルトゾルダートだったが、砲と一体化した腕は慣性モーメントが大きく、急な反転に追いつかない。江藤の龍は左の踵(かかと)をその砲身めがけて振り下ろし、着地した。不安定な着地で揺らいだ龍の上体が敵機にもたれかかるように傾(かたむ)くが、その動きも利用して、江藤は龍が手にした二股(ふたまた)の槍、「雷紫電(ライシデン)」を相手の首筋に突きつける。まるで蟹(かに)の鋏(はさみ)のように、その先端がしっかりとエントゼルトゾルダートの細い首を挟(はさ)みこんだ。しかしそれだけでは足りない。江藤は操縦桿(かん)の別のスイッチを押し、雷紫電の真の力を発揮させる。

 青白い閃光(せんこう)。

 エントゼルトゾルダートは気を失った人間のように崩(くず)れ落ちる。制御系が破壊されたのみならず、内部の人間も気絶しているだろう。

「電気椅子(いす)、一丁(いっちょう)あがり」

 無駄口を叩(たた)くなと上官に叱(しか)られそうだったが、通信回線は開いていないし、開いていたところで、鄭や市来にもその声は届かないだろう。龍の胸部から展開されその全身を覆っているバルムンクフィールドと、その外の霧が、電波の正常な伝達を阻むのだ。

 江藤が行動不能にしたのは、捕捉した敵機のうちのまだ片方だけだった。もう一機は、火縄の砲火を避(さ)けるために僚機(りょうき)と距離をとっており、江藤の龍がひと跳(と)びで踏み込めるような位置にはいない。当然だろう、と江藤は思うが、かといって対策を練(ね)っていたわけでもなかった。部下が、援護(えんご)してくれるといいが。

 期待した援護射撃よりも前に、残るエントゼルトゾルダートが江藤機へと発砲した。こちらの腕部はライフル砲ではなく、ロケットランチャーになっており、数発のロケット弾が連続発射された。

 ――それる。

 江藤は動かないほうが安全だと感じ、その間に再跳躍(ちょうやく)の体勢を整える。江藤の龍にも火器が備(そな)わっているが、それを使うつもりはない。ロケット弾が迫る。

「どうせ当たらん」

 予言に従うかのように、ロケット弾の軌道(きどう)はそれ、龍の頭上を通過する。江藤はバルムンクフィールドと背部ロケットの出力を最大にし、マイクロマシン製人工筋肉の瞬発力に物を言わせて、跳んだ。低く、長く。

 応射しつつ逃げようとしたエントゼルトゾルダートは、途中で蹴躓(けつまづ)いた。防衛ラインに敷設(ふせつ)してあった地雷を踏んだらしい。江藤はその位置を知っていて、迂回(うかい)したのだ。江藤はそのすぐそばに着地する。そこが、地雷の反応しない安全圏(けん)ぎりぎりだった。数歩踏み入れば、近くの別の地雷が爆発する。敵味方識別という芸当は地雷にはできない。

 撃つべきか。江藤は逡巡(しゅんじゅん)した。

 敵はまだ無力化されていない。パイロットは状況把握(はあく)ができずに混乱しているのだろうが、すぐに眼前の敵機、すなわち江藤の龍を攻撃することを考えるだろう。観念して投降してくれればいろいろと楽なのだが、と江藤は思うものの、しかしそれを頼みとしては自分の命が危なかった。雷紫電で一撃を加えれば高い確率で制御系を破壊できるが、リーチが足りない。かといって踏み込めば地雷が江藤を襲う。その代わり、江藤は別の選択肢(し)を持っていた。彼の龍の両肩には、特別に設置された回転砲塔(ほうとう)がある。砲は口径四十ミリの重機関砲で、機兵の装甲が相手なら、一点集中の攻撃を加えれば貫通(かんつう)可能だ。実行を妨(さまた)げる唯一(ゆいいつ)の問題は、この霧のなかで弾(たま)がちゃんと飛ぶか、という点にあったが、この距離ならば多少弾道が狂わされたところで外れようがなかった。着弾点が収束せず装甲が貫通できないなら、非装甲部を狙えばいい。たとえば、その武器化された右腕などである。

 迷うことなど、ない。そのはずだった。

 しかし、操縦桿の攻撃実行ボタンにかけた江藤の指は、それを最後まで押し込めず、遊びの領域で止まってしまった。敵機、エントゼルトゾルダートの姿に、龍の姿が重なる。幻視だ、とわかっていても江藤の躊躇(ちゅうちょ)が消えてくれるわけではなかった。

 ――セルゲイ。

 前回の実戦で、機体を蜂(はち)の巣にされた戦友のことが頭から離れない。セルゲイは盾となって江藤たちを逃がし、そのまま帰らなかった。その光景は夢にも見る。相手が敵とはいえ、同じような有様(ありさま)を自分の手で再現することに、江藤は躊躇しているのだった。

 江藤の迷いは実際の時間にして数秒のものだった。エントゼルトゾルダートの腕、ロケットランチャーが動く。

 江藤はボタンを押し込んだ。

 数十発の砲弾が瞬(またた)く間にエントゼルトゾルダートの機体に撃ち込まれた。狙ったのは両肩だが、やはり着弾にはランダムな、そして無視できない程度の偏差(へんさ)が生じた。コクピットのある胸部にもいくつかの穴が穿(うが)たれる。

 敵の動きは止まった。両腕は破壊され、力なく垂れ下がっている。立ち上がる様子もない。無力化完了。――やったのはどこまでか? 胸部を穿った砲弾はどこまで突き抜けたのか。パイロットは死んだだろうか。もっと早く、敵が武器を構える前にそこを狙っていれば、コクピットへの着弾はなく、死傷させずとも済んだかもしれない。江藤は胸糞(むなくそ)が悪くなる。しかし、それは理想論だと、誰よりも江藤自身が知っている。これまでに殺した敵兵は、おそらく片手の指では数えられまい。そして、敵が攻撃意思を見せた瞬間、江藤はもう一切のためらいを捨てていた。

「俺はいつまで、こんなことを」

 敵が攻めてくれば、市民の命と財産を守るためにこれを撃滅する。あるいは、その恐れがある場合にも、予防的に敵への攻撃を加える。大儀が、正当性が、江藤とその所属組織、亜細亜連邦軍にはある。そもそも、領地を侵(おか)したのは敵のほうだった。悪いことはしていない。戦後江藤が戦争犯罪で裁(さば)かれるということも、亜細亜連邦軍が無条件降伏でもしない限りは、ないだろう。ごく普通に、江藤は戦っている。誰も咎(とが)める者はいない。少なくとも、彼の所属する組織においては。

 咎めているのは己(おのれ)自身であった。その主体を良心と呼べるかについては、江藤は昔から何度か考えてみたが、結論が出ていない。ただ、とりあえず気分が悪いのは確かだった。それはどんな自己弁護を考えてみても、あるいは無心になろうと努力してみても、結局変わることがなかった。

 戦争が終わってしまえばこの苦しみから逃(のが)れられるのだが、江藤が戦争終結の早期実現のために貢献(こうけん)できることといえば、敵軍、啓示軍を可及(かきゅう)的速(すみ)やかに撃滅することだけだった。それはどうしても人の死傷を伴(ともな)い、そのたびに江藤は胸糞の悪い思いをする。有利な状況であれば敵を殺さない方法も選べるが、多くの場合、殺したほうが手っ取り早い、というのが現実である。ひとときの我慢、と信じられればそれも許せるが、江藤は、この戦争の行く末をそう楽観的には見られなかった。だから、本末転倒なことをやっている、という不満を覚えるのだ。

 力が足りない。江藤は敵と戦うたびに、常にそれを実感している。

 なまじ力など全く持ち合わせていなければ、何かをできる、変えられるという野望を抱くこともなかったかもしれない。しかし江藤には力があったし、野望もあった。高校時代には体格と腕っぷしに物を言わせて目障りな不良グループをひれ伏させ、学資が足りないとなれば学業成績を活かして有給の士官学校に入り、任官後も士官の高給を利用して……とにかく若い頃は障害をすべて蹴散らし、欲しいものを残さず手に入れてきた。

 しかし、江藤は壁にぶつかった。江藤の力は、己を取り巻く世界を変えるに至らなかった。諦(あきら)めようともしたが、それは無理だとじきにわかった。ならば野望に見合う力をつければよい、という結論に至ったが、江藤博照は、それを未だに実現できていない。だから、迷い、後悔し、苛(いら)立つ。

 霧が、晴れてきた。

 江藤はバルムンクフィールドを解除し、敵の別働隊の位置をレーダーで探る。ノイズが激しい。それは、霧がまだあちこちに残っている、ということだった。しかし、それは消え去ろうとしている。龍に搭載されているセンサーと解析アルゴリズムでは、この霧の挙動を広域にわたって検知することがまだできないのだ。だから、江藤以外の隊員は、危険の到来に気づいていない。霧が消えたそのとき、火力はその真価を発揮する。そして火力を比較するならば、龍よりエントゼルトゾルダートのほうが上なのだった。この霧は、そういう霧なのだ。

 バルムンクフォッグ。普通は略してバロッグと呼ばれる。それは多種多様なエネルギー変換現象を生じる場であり、たとえば電磁波は波長や振幅が乱れて情報伝達の用を成さなくなり、大きな運動エネルギーを与えられて発射された戦車の砲弾は、妙に弾道がそれたり、応力を生じて変形したり、本来起こらないはずの化学反応が勝手に進んで自爆したりする。バロッグの中ではエンジンを回すことすら危険である。可視光線すらしばしば干渉を受け、乱反射して霧のような視界不良を起こすため、その名がつけられた。

 バロッグが発生するようになったのは、今から二十三年前、西暦一九九九年からである。より正確には、そのときからバロッグを含む「変則領域」が世界的に観測されるようになった。それは既存(きそん)の物理法則では説明のつかない奇妙な現象が起こる空間を総称したもので、物理的に厳密な定義はない。どうしてそんなものが発生するようになったのかも、科学は解き明かしていない。しかし人類は二十三年間でこの現象についてよく研究し、実験的な成果として、今ではバロッグ等の変則領域の作用をほとんど排除できる人工的な場の形成に成功し、実用化している。一般にバルムンクフィールドと呼ばれるものである。

 機兵はその発生器を標準装備することで、変則領域内での行動を可能としている。それこそが機兵の仕事だといってもいい。変則領域が発生すれば、あらゆる兵器の運用が困難になる。戦車も、ヘリも、戦闘機も、艦船も、ミサイルサイトも、すべて。それらの機能を代行可能な単一のプラットフォームとして、機兵は実用化された。ときには、変則領域をまたいでも投入可能な戦車として、ときには、変則領域の隙間(すきま)を探して移動可能なミサイルサイトとして、機兵は機能する。まだ航空機の代替(だいたい)には至っていないが、地上の面制圧を行うには必要十分な性能を機兵は付与されている。そこに変則領域がある限り、機兵は比類なき可能性を力とし、君臨できる。――そこに変則領域がありさえすれば。

 いまや、バロッグは、晴れようとしている。増援の戦車隊にとっては、それは有利な条件だが、変則領域内用の兵器である機兵、龍には、この戦場は危険になりつつあるのだった。エントゼルトゾルダートのほうが戦車に近い性格を持っており、龍は相対的に不利となる。別働隊への対処は友軍の戦車なり地雷原なりに任せ、赤龍隊は後退するべきだった。

「マクシム隊長、バロッグが晴れる。すぐに撤退を」

 電波による通信を試みたが、それは近くの部下にしか届かなかった。

「センサーの捉(とら)える変化は通常の揺らぎの範囲内です」

「例の勘でありますか、大尉。たしかに無線はもう使えるようですが」

 そうだ、と江藤は応じ、倒したエントゼルトゾルダートのパイロットの生死を確かめる間もなく、地雷原を避けて速やかに後退を開始する。

 と、江藤の合流を待っていた龍の片方が狙撃された。直撃ではない。が、腕が吹き飛んだ。通信に使った電波と、バルムンクフィールド同士の干渉(かんしょう)作用から、居場所を突き止められたらしかった。江藤の予想以上に、別働隊は、近くにいたのだ。

「市来、伏せろ。ジョンは……」

 言っているそばから、まさに指示を与えようとしていた部下の龍が直撃を受け、その上半身が四散した。やはりバロッグはもう消えようとしている。位置次第(しだい)では、その干渉作用を殆(ほとん)ど受けずに、狙い通りに砲撃可能になっているのだ。

 ――また、力が及(およ)ばなかった。

 鄭機の下半身が倒れるところは最後まで見ず、江藤は弾道から敵機の位置をおおまかに割り出し、そちらへ向けて龍を跳躍させた。遠くからでもよく見え、敵の格好の標的になるように。しかし捨て身の策でそうしたわけではなかった。着地点として睨(にら)んだ先は、周りと比べて際立って濃くバロッグが残留している。そこならば砲撃は有効ではない。――そんな気がした

 着地。数秒と待たずに敵からの攻撃。

 龍には命中しなかった。そして同様に江藤の側からも射撃による反撃不能である。敵の姿が見え、有効な遮蔽(しゃへい)物がなくとも、バロッグが射撃を無効化する。雷紫電を装備している江藤としては接近戦に持ち込みたいが、部下の陽動はもうないので、忍び寄るという選択肢はない。仕方がないからと正面から距離を詰めたのでは、途中で弾に当たってしまう。たとえ本来の威力より減じられるとしても、今しがた鄭機を一撃で大破させたそれを、甘く見ることはできない。では、どうするか。

 実は、考えはとうに決まっていた。敵と砲口を向け合って、江藤はただ待っている。いずれバロッグが消えれば火力で劣る江藤が不利だが、時代劇の決闘よろしくいつまでも睨み合っているつもりなど江藤にはなかった。待つのは、期限付きだ。

 再び発砲音。江藤からでも、向かい合う敵機からでもなかった。音は遠くから届いた。――タイムアウト。

 江藤は迷わず敵機へと突撃した。雷紫電を振りかざし、肩の重機関砲を牽制(けんせい)程度に撃ち放しつつ、迂回も回避運動もせずに飛びかかった。エントゼルトゾルダートからの反撃はなかった。なぜなら、それは武器を失っていたからだ。江藤が飛び出した瞬間には、斜め後方から飛んできた砲弾が敵機の腕を貫通していた。そこへ江藤は止めの電撃を加え、「もう一丁、あがり」と快哉(かいさい)をあげる。

 エントゼルトゾルダートが倒れ伏すと、もう、索敵に反応する敵影はなかった。報告にあった通り、三機ですべてのようだった。ただし動く反応自体はゼロではなく、敵の制圧完了に安心して近寄ってくる市来の龍が感知されていた。見ると、その手には救出された鄭が収まっている。無事だったらしい。龍のコクピットはエントゼルトゾルダートと違って腹にあり、上半身が吹き飛んでもパイロットは平気なことが多い。稀少(きしょう)な機兵を一機大破させたことは、痛いといえば痛いが。それは我慢できる痛みだと江藤は思う。

 安心したところで、江藤はエントゼルトゾルダートに背後から攻撃を加えてくれた恩人に向き直った。そしてひとりごちる。

「お見事です、隊長殿」

 遠目に見える龍の複座試験機、マクシム・ペトロフが操縦するそれに向かって、江藤の龍は敬礼の動作を取る。

「この馬鹿者が」

 ペトロフから通信が入った。画像はあまり乱れておらず、ペトロフの苦々(にがにが)しげな様子がよく見て取れる。おそらく、敬礼のときに何を呟いたかも察しをつけられている、と江藤は感じた。

「独りで先走るからそういうことになる」

 そう責める上官に対し、いえそんなことはありません、と江藤は反駁(はんばく)する。

「独りで戦ったのではありません、隊長。自分が思うに、これはチームワークの勝利でした」

 鄭がやられたあと、目立つように高くジャンプして見せたのは、何も敵の狙いを自分に向けさせるばかりが目的ではなかった。遠くで状況を探っている指揮官、ペトロフに対して、己と敵の位置を明示するためもあったのだ。ペトロフは江藤の行動の意図を理解し、敵の死角に回り込んで援護射撃を行った。これは立派なチームワークだと、江藤は思っている。

 そう、力が足りないときはどうすればいいのか、挫折(ざせつ)の中で少しは方法を学んできた。自力で駄目(だめ)なら、他力を頼ればいいのだ。それですべてを解決できるわけでは勿論(もちろん)ないが、例外は少数派だ。頼れる仲間さえいれば、なんとかなるのだ。

 ――頼れる仲間が、まだいれば。

 セルゲイ、そして他の友たちも、多くが死んでいった。軍人である以上、時折(ときおり)知り合いが死ぬのは免(まぬか)れない宿命だが、この戦争が始まって、その数は格段に増えた。入隊以来、広く知人の輪を広げてきただけに、江藤には余計にそれが堪(こた)えた。稀少な機兵部隊に身を置いていれば、これからもそれは増えるだろう。それでも、戦場から離れるつもりは江藤にはなかった。逃げればジリ貧(ひん)になり、果てなく痛みが続くに違いないから。

 江藤は自分の頬(ほお)をはたいてみた。それで弱気を吹き飛ばせるかという思いつきだったが、効果のほどは今ひとつだった。

「第四〇三重装歩兵大隊から、後始末を任せろと言ってきた。お言葉に甘えて、我々は基地に戻る」

 ペトロフから命令が届く。

 この信頼のおける上官すらも、明日の命はわからない。実際、先の戦いでは乗機の龍王――外廓聯の各分隊に一機ずつ配備されたフラッグシップ機――をかなりきわどいところまで破壊された。後方支援型の複座試験機などに乗っているのは、龍王の修理が済むまでの代替措置(そち)であり、龍王が戻れば再び彼も前に出て戦うようになる。そして戦死の可能性は高まる。

「行きましょう、大尉」

 片腕を失ってぎこちなく歩く市来機が、ようやく江藤のもとへと辿(たど)り着いた。まだ二十歳にもならない下士官だが、幾度(いくど)もの戦闘を通じてずいぶん逞(たまな)しくなった。主に精神的に。鄭にしても、江藤の半分しか生きていない青二才ながら、肝(きも)が据(す)わってきた。機体を破壊された直後だけに、しゅんとしているようだが、配属直後の鄭であれば泣いている。江藤が相棒と恃(たの)んだセルゲイほどの実力はまだまだついていないが、着実に彼らは成長していた。

 案外、いちばん平気な顔をしている自分こそが、最も臆病なのかもしれない。江藤はそんなことを思った。そして、間違っていない、と結論する。江藤は、孤独が怖かった。

「行かないんですか?」

 ぼうっとしていると、市来が怪訝(けげん)そうに尋(たず)ねてきた。江藤は、先に行け、と龍にジェスチャーさせる。

「俺は念のため、歩兵さんたちが来るまで警戒を続ける」

「隊長は、戻れと」

「マクシム隊長は、そうしたいんだろうさ。後部座席に乗っけた秘書殿が、戦場は怖いと泣き喚(わめ)いているのかもしれん」

「んー、それはないと思いますが。隊長は江藤大尉ほど、若い女性に耐性がない人じゃないですから」

「な、何を言う馬鹿め。おまえは鄭を連れているんだろうが。怪我があるかもしれん。負傷レベルD以上の見落としは始末書モノだ。さっさと帰還しろ」

「了解」

 鄭を連れた市来がペトロフ機を追って行く。遠くには、他の龍も引き上げていくのが見えた。残ったのは江藤だけ。

 今は、ひとりになりたかった。孤独にならないために、そうした。

 龍の足元に、まだバロッグが残っていた。周りはすっきり晴れてしまっているのに、そこだけ、やけに濃密に。それが気になって、江藤は市来たちを先に帰した。これは江藤の完全に個人的な調査であって、動機など聞かれては返答に困るのだ。何でも「勘だ」では通るまい。素直(すなお)に訳(わけ)を話せば、信頼を失う。江藤はそれが怖い。

 相対バルムンク反応、レベルD。変則領域の強度を感知するセンサーは、バロッグ消失直後の場所としては平均的な値を示している。市来が何ら警戒しなかったのはそのためだろう。しかし、江藤はその残留バロッグに気づいた。気になってしかたがなかった。

 機械が反応せずとも、江藤には、その存在が感じられるのだから。

 龍の足元のバロッグは、徐々に縮小していたが、なお変わることのない強さで江藤の知覚に存在を主張し続けている。消えようとしているのではない。濃縮、もしくは凝固という表現がふさわしかった。センサーを当てにできない現象のようだと江藤は悟(さと)り、機体を降着させ、コクピットから出る。

 龍の動きに影響を受けてバロッグが消えてしまわないかと心配もしたが、それは杞憂(きゆう)だった。肉眼でもしっかりとその靄(もや)は視認できる。どんどん地面のほうへと向かって収縮した薄灰色の靄は、江藤が土の上に飛び降りるまでに、彼の靴(くつ)ほどの大きさの塊に変化した。江藤は歩み寄る。近づくにつれて江藤の知覚はより強くその存在を感じるのが常で、今回もそれは同様だったのだが、その「気配」が急にかき消えた。同時に靄の収縮も止まる。

「どういうマジックだ、これは」

 江藤は頭を抱(かか)えた。靴の先数十センチの位置にあるそれは、もはや靄とは呼ぶにはふさわしくなかった。明らかに、固形物になっている。まさにバロッグが凝固したかのようだった。

 目を押さえ、頭を振ってみてから、江藤はもう一度塊を見た。そして豪快に噴き出す。幻でもなんでもなかった。塊は、柔(やわ)らかな毛に覆われている。そして脈動している。それは紛れもなく動物だった。この動物のうずくまっていた場所に、たまたまバロッグが長く滞留しただけのことだった、と江藤は納得する。

 正体の知れた怪異を、江藤は抱き上げた。もとい、持ち上げた。江藤の手のひらにきれいに乗ってしまう大きさしかなかった。実に軽い。痩(や)せているようだ。獣の体温と、何かに震えているその振動が江藤の肌に伝わってくる。

 やがて、丸めた体に隠れていた鼻先が現れ、江藤のほうを見た。耳がひくひくと動き、閉じられていた目がゆっくりと開かれる。円(つぶ)らな瞳(ひとみ)だったが、顔つきは少し精悍(せいかん)だ。頼るべき親の庇護を失い、自然の力の前に果てようとしていた命の存在を江藤は意識した。

 獣の仔(こ)は、キャン、とくしゃみか威嚇(いかく)か挨拶(あいさつ)か判然としない声を上げた。まだ負けちゃいないぞ、という強がりのように江藤には聞こえた。江藤は笑ってその頭を撫(な)でる。

「大丈夫だ。おまえはもう独りじゃない」


*   *   *   *   *


 エカテリンブルクに戻るまでに、真理は検証すべき事柄のすべてを再確認してみた。判断力、統率力、咄嗟(とっさ)の機転、機兵操縦適性、心身のタフさ……。それらは完璧とは言えないまでも、合格点をクリアしていた。

 もっともそれは、マクシム・ペトロフに予(あらかじ)め事情を話したときに、彼からしっかりと保証されていたことだった。江藤博照はきっと御眼鏡(おめがね)に適(かな)うだろう、と。真理はそのときすでにペトロフの人柄に信用を置いていたから、それらについての心配は捨て去った。それでもわざわざ龍の複座機に同乗し、実際の江藤の働きぶりを見ることにしたのは、その必要がまだ残っていたからだった。

 議員からの指示だから、スケジュールをきちんと消化しなければならない、のではない。実は今回の視察は真理から言い出したことで、議員は後ろ盾(だて)として形だけの視察命令を出したに過ぎなかった。つまりこれは真理の個人的な満足の問題だった。そして真理としては、戦場こそが最(もっと)もテストの場としてふさわしいと確信していた。その意味で、啓示軍の襲来は僥倖(ぎょうこう)だったといえる。おかげで真理は、求めていた答えを得ることができた。――しかしそれでは不十分だった。答え合わせがまだ終わっていない。

 江藤博照はデブリーフィング後にひとり残され、ペトロフから説教を食らっていた。真理はそれをドア越しに聞いている。もっとも、聞こえてくるのは専(もっぱ)ら江藤の反駁ばかりで、ペトロフの声は聞こえても言語として聞き取れない。そのように壁とドアが設計されているのだから当然なのだが、それだけ江藤の声は大きかった。

 その大声が、ひときわ高まった。机でも殴りつけたものか、真理は短い地響きすら感じた。

「納得できません!」

 江藤は同じ台詞(せりふ)を繰り返した。ペトロフが例の件を話したのだろう、と真理は察する。答え合わせは済んでいないが、この件はもう動き出していた。真理の最終確認次第で計画の終着点が修正されることはあっても、推進はもはや既定事項であり、彼がどれだけ反抗しようと元の鞘(さや)に収まることはできない。他人の敷いたレールを彼は否応(いやおう)なく歩(あゆ)むことになる。――真理はその抑圧(よくあつ)の不愉快さを思って、刹那(せつな)、眉(まゆ)を顰(ひそ)めた。しかし、それだけだ。同情はしていられない。

 江藤はしばらくペトロフに食い下がっていたようだったが、やがてドアの開け閉めされる音がかすかに響き、部屋の向こうは静かになった。ペトロフが出て行ったのだ。真理は透視能力など持たないが、それがわかった。なぜなら、そういう手筈(てはず)になっていたからだ。

 江藤は部屋を出て行かない。ペトロフが反省しろとでも言い残して外から鍵を掛けていったはずだった。江藤の残された部屋には、ペトロフの出て行った廊下へと通じるドアと、真理の控える小部屋に通じるドアと、二つしかない。真理はひとつ深呼吸をして、自らそのドアを開けた。

 見間違えようのない男がそこにいた。


*   *   *   *   *


「左遷おめでとうございます、江藤大尉」

 物置と思っていた小部屋から現れた女に開口一番にそう言われ、江藤は激しくむっとした。それから、相手が中央議会右院議員の秘書であることを思い出す。

「あんたの差し金か。――たしか、あ……」

「阿納です。阿納真理。シンリ、真の理(ことわり)とかいて真理」

「そんなことは聞いていない。あんたは……」江藤は日本語で喋(しゃべ)っていることに気づき、二人称を改める。「あなたは聞いていたのか。俺たちの話を」

「いいえ。でも、知っていましたから」

 江藤を見つめ臆面もなくそう答える真理から、江藤は視線をそらした。

「やはり陰謀か。軍事委員会も低次元のことをする。こんなことをして、元老院と張り合っているつもりか。くだらん」

「腐るのは結構。それはあなたの自由です。江藤大尉」

「俺が何をした」

 江藤は近くの椅子を蹴飛ばした。机に作りつけであったそれは、可動方向に垂直な力を受け、音を立てて壊れた。

「器物破損が一件」

 冷静に指摘され、江藤は真理を睨む。大概の人間は、少なくとも女子供はこれで黙るか泣き出すかするのだが、真理は違った。

「左遷(させん)の理由はペトロフ少佐からお聞きになりませんでしたか?」

 確かに江藤はそれをきちんと聞かされた。命令無視、独断専行、部下の管理不行き届き、敵前逃亡……。累積(るいせき)した事由(じゆう)はすべて身に覚えがある。しかし納得はできない。言葉だけ聞くとどれも確かに懲罰(ちょうばつ)ものだが、それは臨機応変な対処の結果が、外部からはそのように観測可能というだけのことだった。江藤は常に、軍人の使命を果たすうえで最適と思われる行動を選択してきた。それが軍規に抵触することはあっても、理念は冒(おか)していないと江藤は自負している。きっちり成果も上げてきた。それは隊長も、マクシム・ペトロフも承知していたはずだった。それがなぜ今になって、左遷などと。江藤はまだ理解できないでいる。

「外廓聯は元老院の資産だ。私財といってもいい。その管理は戦略軍参謀本部に委託されているが、中央議会の、軍事委員会の指図(さしず)は受けない立場にある。どうやってルールを捻(ね)じ曲げた? あなたのボスはそれほどの実力者だと?」

「江藤大尉。私は政界の勢力図についてあなたに講義するためにここへ来たのではないのです」

「では戦場を見物するためか。どうだった? いいショーだっただろう。しかし惜(お)しい。――今日は誰も死ななかった」

「戦場では人が死ぬ。それはわかっています。よくわかっていない議員の方もいらっしゃいますが、私は彼らへの啓蒙(けいもう)活動のためにここへ来たのでもない。私は……」

 真理は瞬(またた)きもせずに江藤を見ていた。江藤は、視線を壁へとそらす。

「逃げないで、江藤博照。こっちを向いて。私は、あなたを見に来たのです」

「――いきなりの告白ですな、お嬢さん」

 そう冗談にするのが精一杯だった。江藤は、真理のような年代の女性が、苦手だった。特にそれが美しいほど。真理はその点、最悪だった。アイシャドウが無闇に濃いが、他の化粧はむしろ控えめで、素材の魅力が抜きん出ていることを示している。「顰(ひそみ)に倣(なら)う」の故事に出てくる美女が近いだろう、と江藤は思う。十秒も直視したら呼吸が止まりそうだった。だから手厳しい皮肉を浴びせてやれば泣いて逃げ帰ってくれると江藤は期待したのだが、それは完全に読み違いだった。今、逃げようとしているのは自分のほうだと、江藤は自覚する。

「俺を赤龍隊から左遷するのにはちょっとした裏がある。そういうことか」

 頭の冷静な部分を一瞬動かし、江藤はその可能性を最確実の候補として選定した。

「ご賢察の通りです。あなたは近衛(このえ)軍統監部の片隅を経て、ある大きな任に就(つ)くことになります。あなたの望むと望まざるとに関わらず」

「選択の余地なし、か。まるであれだな。『八月の悪夢』のようだ」

 世界は変わってしまった。二十三年前、「八月の悪夢」の発生と、変則領域の定着によって。それは地球上の誰が望んだわけでもなく、勝手に、突然に、起こった。江藤の身に振りかかった異動と同じように。ならばこれも災いとなるのか。そしてやはり、幾多の災禍(さいか)の中に発展の希望を包含(ほうがん)するものなのか。江藤は世界の縮図になった気分だった。

「良い喩(たと)えですね」真理がそこで笑うと江藤は予想したが、それは外れた。「『八月の悪夢』によって、世界は変化を強要された。しかしそれは、今の世界がこうある理由の一部でしかない。あの大災害のなかで、人々は変革を求めました。そして作られたのが今日の世界。たとえ変則領域が残っていても、人々が望まなければ、二十一世紀はこれほどまでに躍動的な歴史は歩まなかったでしょう。江藤大尉、あなたも同じです。あなたは変化を強要されますが、どう変わるのかは、あなた次第。自らを再定義する時が来たのです」

 江藤は、真理が何を期待しているのかだんだんとわかってきた。左遷と見せかけて江藤を外廓聯から引き離し、そのうえで任せたい仕事となれば、おのずと限られてくる。江藤は外廓聯では少ない士官のひとりであったし、今も生き残っているという意味では更に貴重だ。いずれ機兵の生産規模が拡大し外廓聯が増強されることになれば、新たな分隊長候補に挙げられる。その江藤を外廓聯から遠ざけるということは、外廓聯とは別に独立機兵部隊を作って、それを指揮させようという魂胆だろう。江藤と同様のキャリアと実力を持つ外廓聯士官もいないでもないが、今回のように左遷の名目をでっち上げるうえでは、江藤がいちばん適役だったに違いない。そこまでは、読めた。問題は、そこまでの人選を終えておきながら、真理はいまさら何を確かめにここへ来たのか、ということであった。

 真理は江藤に何かを選ばせようとしている。おとなしく中央議会の思惑通りに働くか、元老院の私兵まがいの立場を貫くか……という選択ではなさそうだった。江藤が目上の人間への忠誠心で働いていないことを、どうやら真理は看破(かんぱ)している。それ以上、どこまで知っているのかがわからない。江藤が密(ひそ)かに抱く野望を知っているのか、いないのか。そこまで勘繰(かんぐ)ってしまうのは、真理が、世界は人々に選ばれて今の姿に変わったと言ったからだ。

「俺に世界を変えてみせろと、そう焚(た)き付けに来たんだな」

 実際そこまで断定したわけではなかったが、江藤は断言の形をとらずにはおれなかった。自分にその機会が与えられようとしていることを、自覚するために。

「あなたには、できるはずです。そして、あなただからこそ選べる未来があると、私は確信しています」

 ただの誉(ほ)めそやしでないことは、真理の目を見ればわかった。だからこそ江藤はおののく。――どこまで知っている。

「俺は、変わり者だ。もし俺に世界を変える力が与えられたとしても、他人の期待通りの世界は作らない。いや、作れない、だな。そんな独善の未来を欲しがっているのか」

「いいえ、それは独善ではないのよ、江藤博照」口調を変えて、真理は強く言った。「あなただけ、じゃない。あなたと同じように世界を見て、感じている人間が、世の中にはいる。その数は少ないけれど、変則領域が世界を覆っている限り、きっと増えていく。生物は環境に適応していくもの。あなたはそれを先導する。英雄になるの」

「あんたは……」江藤はもはや確信を抱いて、尋ねる。「俺と同じ力を?」

 真理は微笑(びしょう)を返答に代えた。

「期待しています、江藤大尉。あなたの作る未来に。今の私たちには、あなたが立つべき舞台を用意するのが精一杯なのですが……。どうか忘れないで。あなたは独りではない」

 去ろうとする真理を、江藤は捕まえようとした。聞きたいことが山ほどあった。しかし、ちょうど廊下側のドアが開く音がして、江藤は手を止める。第三者が見ればどう誤解を受けるか明らかだった。

「こら、江藤! これは一体どういうつもりだ!」

 怒鳴り込んできたのは、さきほど無情に立ち去ったはずのペトロフだった。江藤の反駁を許さなかった冷徹な顔とは打って変わり、江藤がしばしばいたずらを仕掛けた場合と同じように、直情的に興奮した形相になっている。そして、ここから出て行くときに持っていたファイルは、灰色の毛玉に変わっていた。

「――あ、ゴン太」

 と、うっかり口にしてから江藤は迂闊さを呪う。

「名前などつけて、やはり飼うつもりだったのか。貴様、異動を先刻承知だったのでは……」

 ペトロフの説教が始まるなか、真理は涼しげに会釈をして、入れ替わりに部屋を出て行く。追いかけたかったが、ここで上官を押しのけて若い女性を襲ったなどという事実を作ってしまえば、本当の左遷になってしまいそうだった。

 ――まあ、いい。次に会ったとき、問い質(ただ)せばいいことだ。

 江藤は諦めて、今はペトロフをなだめるのに専念することにした。放っておくと毛玉を……、拾って部屋に隠していた子を処分されてしまう。守ってやらなければならなかった。独りではないと、江藤はそう保証したのだから。


*   *   *   *   *


 真理は満足を得てエカテリンブルクをあとにした。

 江藤博照は、真理が教えるまでもなく、ひとりではなかった。かつて真理がそうであったように。

 車窓の外は濃い霧に覆われている。それがただの霧なのか、変則領域の霧なのか、真理にはわからない。この世界の行く末についても同じで、神ならぬ身にわかるはずはなかった。

 でも、と真理は呟く。

 白い闇の中を進む道中は不安なだけだが、江藤に託した未来に向かう毎日には、希望を持てそうだった。




 のちに歴史にその名を刻まれる、江藤博照率いる黒龍隊は、こうして生まれる。



――第一話/第二十六話へ続く――