Wezverd Fragments

#001 “幸”



 エッフェル塔にシャンゼリゼ通り、凱旋門……。

 にとって、そうした観光名所はもはや日常風景の一部だった。最近では、散歩先で手入れのいい花壇を見かけるときのほうが、よほど心が洗われる思いがする。いや、それは観光名所に飽いたからではなく、世相が最悪の方向に向かっているからか。

 ――パリに留学して一年。

 幸は去年のシャンゼリゼ通りを思い出す。歌に出てくるような光景に幸も心を躍らせ、自分にも素敵な出会いが待っているのではないかと期待して歩いていたあの頃。特待留学枠の身分に感謝し、それを必死に勉強して勝ち取った自分が誇らしかった。

 だが、今は違う。

 街を行く人々からは活気が薄れ、反対にやけに元気付いているのは、兵隊を募集している軍隊の勧誘の声。恋人たちの姿はまばらになり、駅の売店の前で不毛な論争を声高に繰り広げる輩が増えた。

「やだなぁ」

 立ち止まり、幸は嘆息した。最近、頻繁にこうしている気がする。

 昨年末からきな臭い噂の流れていた隣国ドイツで、クーデターが起きたのは先月のことだ。八月の悪夢以来、ほんとうに多くの国でクーデターは起こったが、まさかそれがドイツで、しかも今頃になって起きるとは思ってもみなかった。二年前の大津波で政情不安定になっていた、という説明だけでは、納得できないことだ。

「絶対おかしくなってるよ、この世界」

 入隊希望を喜々として申し出る青年を遠目に見ながら、幸は誰にともなく不平を漏らす。通行人の中に日本語の呟きを聞きとがめる者もなく、幸はまたひとつ溜め息をついて歩き出した。

 すぐに鎮圧されると思っていたクーデターは、結局軍部の政権掌握という結末になってしまった。

 革命の発祥地たる自負か、フランスでは軍隊を送ってドイツの民主政治を復活させるべきという声が上がったが、内政干渉がどうとかでまだ議会は揉めている。

 ドイツ軍が攻めてくる、という噂は、クーデター直後にどこからともなく広がった。親戚の勧めで軍に入隊した弟などは、さすがに職業柄ひときわ心配しているらしく、留学先を退学してでも帰国したほうがいいと頻繁にメールを入れてくる。

 しかし、幸はせっかく手に入れた特待留学の身分を捨てたくない。今帰国すれば、また来られるかどうかわからないのだ。自費で来るなんてことは、せめて円とユーロの為替相場が八月の悪夢以前に戻ってくれないと、到底かなわない。

 だから曖昧な返事だけやって、フランスに残り続けていた。

 それが失敗だったかもしれない。

 ハンス・ライルスキーというクーデターの首謀者は、欧州各国に向けて宣戦布告をした。つい昨日のことだ。

 ――やっぱり逃げたほうが……。

 いや、もう遅い。幸にはその選択肢を選ぶ術がない。昨夜のうちに、国際便の予約は脱出を図る人々で一杯になってしまっているのだ。しかも、その飛行機がちゃんと飛ぶのかさえ、ちょっと怪しいらしい。

 飛行機のことを考えていると、ちょうどそこへ空気を裂くジェットの轟音が近づいてきた。幸は驚いて空を見上げる。

 ――こんな大きな音がするほど低空を飛ぶ飛行機はないはずなのに。

 そう思った幸は正しかった。青空を黒い煙で汚しながら流れていくそれは、もはや飛行してはいない。

「ラファールが落ちていくぞ!」

 近くにいた壮年の男性が叫び、幸はラファールというのが天使の名ではなく戦闘機のことだと気づく。

 ラファールは凱旋門のほうに墜落していく。煙の筋を見て、もう持ち直せない、と幸は思った。まだパイロットが脱出した様子はなく、幸はパラシュートが現れるのを期待してラファールを目で追い続けたが、その視線は背の高い男性の体に遮られた。

「あれを見ろ!」

 そう言って、男は幸のうしろ、凱旋門と反対の方向を指差す。ラファールが墜落したらしい音を悲鳴のなかに聞き取りながら、幸はふりかえり、その男の指し示すものを見ようとした。

「え、なに……?」

 幸は自分が見たものが何なのか一目では理解できなかった。

 宙に浮かぶ人のシルエット。しかし、全身を銀色に輝かせているそれは、決して人ではない。

「どうなってるの? 乗俑機……なの?」

 シャンゼリゼ通りの入り口にゆっくりと着地する、銀色の機械巨人。それは幸が知る人型作業機「乗俑機」とは、サイズも体型も大きく異なる。こちらのほうがずっと、人間に近い。

 銀色の巨人は、一歩を踏み出したところでおもむろに上空を振り仰ぎ、手にしていた槍を視線の先に掲げた。幸がその槍の延長線上に目をやったときには、空にまた爆発の花が咲いていた。視認と微妙なタイムラグを持って、爆音が降り注ぐ。

 悲鳴が飛び交い、人々が逃げ惑う。

 ――ドイツ軍が攻めてきたんだ。

 それだけは悟った幸だったが、膝が震えて動けなかった。

 幸の目前にはもう誰もいない。あるのは巨人の姿だけだ。鈍い銀ではなく、白銀とでもいうべきその輝きは、場違いなほどに美しい。それがいっそう、幸の恐怖を助長した。

「どうしよう、信……」



 西暦二〇二一年三月。

 啓示軍は欧州各国に宣戦布告し、米、亜連のものを含め多くの人工衛星を破壊した。新兵器「機兵」を投入した啓示軍は、その後たった数ヵ月で欧州を併呑。この一連の政変、戦闘を総括し、欧州事変と呼ぶ。



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