Wezverd Fragments

#003 “晃”



 暑さの盛りも過ぎた八月の下旬。大学院の入試を控え、は常のように研究室に出てきていた。

 試験勉強のために一ヵ月前から休みをもらっているので、研究をしに来ているわけではないし、勉強を研究室でやらねばならないという義務もない。それなのに研究室に出てきている理由は、アパートの部屋では日中に勉強する気が起きないという点に集約される。図書館や研究室にいれば、それなりに義務感が湧いてきて勉強に励むようになる。ついでにいえば、エアコンの電気代も公費である。同じく院試を控える学部四年のなかで、この習慣は珍しくもなんともない。

 晃の院試勉強は、なんとか順調と呼べなくもない、という程度のペースで進んでいた。万全とはいえないレベルなのだが、かといって万全の対策をせずとも受かる自信が晃にはあるからだ。なにしろ、落ちるのは下から一、二割なのだから、学部の成績が上から二割の枠に収まっている晃には、大して危機意識はない。問題は、希望の研究室に残れるか否かだったが、なるようになるだろうという気持ちが日に日に大きくなっていた。

 ――怠惰だろうか。

 そう自問するようになって一週間が経つ。疲れたというか、飽きたというか、ともかく盆を過ぎてモチベーションが下がってきたのは否めない。カレンダーを見れば、院試まであと一週間に迫っていた。

 ――いや、怠惰ばかりでもない。

 昨日までのだらけ具合は別として、今日勉強が手についていないのにはわけがある。晃はスタンドのスイッチを切って、研究室を出た。キャンパス移転を目前にして雑然とした様子の廊下を抜け、日光のもとに脱出。そのまま適当にキャンパス内を歩く。

「まぁ、考えておいてくれるかな。返事はそう……、明後日までに頼むよ」

 昨日の教授の言葉を思い出し、晃は溜め息をつく。

 溜め息というのは、たいてい息を吸ってから吐くわけだから、体内の気体質量はおおむね保存される理屈である。しかし晃には、どうも自分が溜め息を重ねるたびにどんどんしぼんでいっているように感じられるときがある。今がそうだ。抜けていくのは、集中力だろうか。あるいは自分への自信かもしれない。

 所属する研究室の教授が、個人的に晃に声をかけてきたのは、昨日研究室で自習しているときのことだった。教授は修士(マスター)の先輩らの研究を無理にせっついたあと、おとなしく自分の部屋に戻るかに見えたが、唐突に晃を捕まえると、新しい研究室の話を持ちかけてきたのである。

「君は以前、八月の悪夢以来の異常現象の解明に興味があると、言っていたね」

 雑談のなかで漏らしたことだったが、まさかそれで教授から何か言ってこられるとは晃は思ってもみなかった。もしや地球啓蒙教会の一員とでも疑われたのかと、そのときの晃は身を固くした。ボン事件を引き起こした地球啓蒙教会のタチの悪さは、先月のミーティングで教授が小話のネタに使ったばかりだった。

「今度、新しくその研究室ができる。もし君がその研究室で博士課程まで行きたいという気持ちがあるなら、院試の成績に関わらず、そこへ配属できるよ」

 驚いた。研究室新設の話は風の噂に聞いていないでもなかったが、博士(ドクター)行きを前提とした優先配属のオファーが存在するなど、初耳だった。

 詳しい話を聞いてみたが、晃ひとりで即断できる話ではないので、返事は後日ということになった。そして今、そのデッドラインを明日に控えている。

「わざとぎりぎりのタイミングで持ちかけてきたんじゃないだろうな……」

 木陰を歩きながら、晃は呟く。まだ迷い、悩んでいた。単身赴任中の父親とは昨夜連絡がつかず、今日になって母親のほうに連絡を取ろうとしたものの、出かけているのか、そちらも繋がらない。おかげで、ひとりで悩みっぱなしである。

「いい機会といえば、そうなんだよな」

 機械系に進んだものの、晃は就職のビジョンがいまだに定まらないでいた。研究室の先輩は、博士(ドクター)の道など歯牙にもかけずことごとく自動車会社に就職しているが、晃は自動車やバイクにとんと興味がない。ことさらに出世して金持ちになろうという願望もない。昔から人並みを志向しつつも、趣味趣向の面では毅然と我が道を歩んできた晃だが、就職に関してはどう我を貫いていいのか、さっぱりわからなかった。

 今回のオファーを受ければ、例の異常現象についての研究職を教授から世話してもらえる公算が大きい。しかし、職として末永くやっていけるのかという不安もまた、厳然として存在するのだ。ボン事件のこともある。命の危険も多少は覚悟しなければならない。だから晃は迷っていた。

 半時ほどキャンパスをうろついて、研究室に戻る。部屋の中は移転準備で物が散らかっており、そろそろ勉強の場所を図書館に移す必要がありそうだったが、相談を持ちかけようと思っていた助手は、都合よく手が空いたところだった。

 去年まで機械系の博士課程にいた助手は、いろいろと話をしてくれた。修士卒で研究室と関係のない分野に就職するのと、博士まで行って自分のやりたい研究分野で職に就くのと、そのどちらかが良いというものではない。要は、自分が何をしたいか。自分はどちらを選ぶのか。それが肝心なのだと。また、博士に三年費やすぶん、生涯賃金が減るという点についてはこう言った。「三十年会社で働くとしてさ、博士の三年なんて十パーセントやん。その三年間で自分を磨けるなら、それは投資だよね」と。

 投資。その言葉は、晃の胸の中に光となって差し込んだ。今まで、晃の中にはなかった色の光。

 例のように日没後の空腹を機に帰宅し、晃は畳みの上でもう一度すべての条件を検討してみた。それから両親と電話で話をして、「あんたがやりたいのなら行きなさい」、「その機会があるなら行ってみるといい」という言葉をもらった。正直、意外な反応だったが、両親は晃が博士課程に行くという選択肢を、現実味のある可能性として話し合っていたらしい。立派に大人になったつもりでいたが、両親が進路の心配をしていることに気づかなかった自分がいかに未熟か、晃は実感させられた。

 ともあれ、残る因子は自分の気持ちだけとなった。

「――投資、か」

 晃が呟くと、それまでぼんやりと見ていたテレビドラマが中断され、ニュースの緊急速報に切り替わった。

「またか」

 中国で、旅客機が山中に落下、炎上したとのことだった。キャスターが概要を二度繰り返したのち、中継映像が出て、晃は山肌から立ち上る煙を目にする。そして遠くからも先端が見えるほど大きな炎。

 晃は嘆息した。今体内から去っていったのは、きっと世界の現状に対する満足だろう。そして体内に補充されたのは、鈍化しかかっていた悲しみ。

 中継の様子から、生存者は多くて二桁に届くまいと晃は察する。原因は例によって不明だというが、すでに人々は「不明」という名の何かが存在することに勘付いている。その正体を知る者はおそらく地球上のどこにもいない。六年前の悪夢の原因を誰も知らないように。

「――投資してみるか」

 おもむろに立ち上がり、晃は洗面台の前に立つ。

「三年を自分に投資するんじゃない。これからの僕の人生を、世界に投資する」



 西暦二〇〇六年十月。

 モスクワでのシンポジウムを機に、サウエル・ワタナベ博士提唱の「変則領域」理論が脚光を集めることになった。これを皮切りに、「八月の悪夢」以来の異常現象の挙動を診断・制御する研究が、急速に進むことになる。いわゆるワタナベ派の台頭である。

 しかし、遡って西暦二〇〇六年四月。

 変則領域という言葉さえ定着していなかったこの時期、日本のとある大学に、変則領域を取り扱う研究室が新設されていた。変則領域の応用技術において、この研究室出身者――特に創設時のメンバー――の残した業績は目を引くものがある。しかしただひとり、大学院修了後に一切公式の論文発表が確認できない人物がいる。その人物が最後に残した非公式のレポートには、彼のイニシャルだけが書き添えられていた。――「A.H.」と。



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