Wezverd Fragments

#005 “ダンカン”



 ダンカンが乗っているのは、極めて居住性の悪い飛行機だった。座席は狭いし、インテリアは無骨で馴染みがたくて、そのうえ騒音もひどい。そもそもダンカンは、この飛行機との最初の対面のときにずいぶんと不安を感じたものだ。航空力学をちゃんと勉強して作ったものなのか、それすら疑わしかった。

 そんな飛行機が、バミューダ諸島の西側、いわゆる魔の三角海域上空を飛んでいる。もしこれを母に伝えたなら、彼女は間違いなく卒倒するだろう。夏の陽光を照り返す海のすばらしさを、母は知らない。もっとも、この光景を見せてやったところで、母はこの美しさをサイレンの美声と同じ意味合いでしか理解しないに決まっているのだが。

 母はあの下らない伝説を信じていた。フロリダとバミューダ、そしてプエルトリコを結んでできる三角形――実際には四角形らしい――の海域が、これまでに多くの海と空の旅人たちを飲み込み、今も犠牲者を待ち受けているというあの伝説だ。そして愛する長男を奪ったのも、他ならぬ、この眼下の海であると信じているのだ。母の長男とは、すなわちダンカンの唯一の兄である。

 原因はともかくとして、兄が消息を絶ったこと自体は事実だった。そして兄が家族に送った最後の手紙には、この海域を飛ぶ便に乗り込むことが記されていた。だからここの海を見下ろすたびに、ダンカンは兄のことを思い出す。

 ダンカンにとって兄は光だった。強く、賢く、人を惹きつける笑顔の持ち主だった。そんな兄の輝きは、一角(ひとかど)の人物が居並ぶ親族の中にあっても霞(かす)むことはなく、まるで星々を覆い隠す太陽であった。飛び級を重ねた兄が若くして合衆国軍将校になったとき、ダンカンは、まだ飛行機雲を見上げて楽しむ少年でしかなかった。

 ふたりの資質の差は歴然としていた。しかしダンカンは羨望という感情を抱いた覚えがない。兄はそういうものであり、自分はそれとは別種の存在なのだと、物心ついたときにはそう理解していた。それが自然な、あるべき関係なのだと。仮に兄がたいそうひねくれた性格をしていたなら事情は違ったかもしれないが、幸い兄は、成長した弟の才能が自分に及ばないことを悟っても、ダンカンに対する態度を変えはしなかった。幼いころと同様に、ダンカンを守り、助け、励ましてくれる存在であり続けた。ダンカンと兄のつながりは、兄流に言えば、マリンスノーの降り積もる暗黒の海底よりもずっと深かった。

 ――その兄が消えて一年と五ヵ月。

 ダンカンがぼんやりと海面を鳥瞰していると、気流の乱れに遭ったのか、不意に機が大きく揺れた。歯を食いしばって振動に耐えながら、ダンカンは、機がこのまま制御を失って洋上に墜落し、自分が金属片とともに暗い海底へと沈んでいくさまを想像した。ぞっとしない。ダンカンは未だにこの機に全幅の信頼を寄せられなかったため、操縦桿を握るパイロットの腕を信じることにした。

「大丈夫だ、飛行には問題ない」

 パイロット――ダンカンはファーストネームでマーティンと呼んでいる――が期待通りの言葉をスピーカー越しに届けてくれる。狭い機内なので声自体はスピーカーを介さずとも聞こえるのだが、なにぶん騒音がひどいので正確に聞き取りづらく、機械を通さないと会話にならないのだ。

 ダンカンは窓から顔を離し、持っていたボイスレコーダーのスイッチを入れた。

「機が揺れた。よくある気流の乱れだ。変則領域の影響ではない」

 この海域で近年頻繁に発生しているという、変則領域の影響調査。それがダンカンの今の仕事だった。相手が変則領域だけに、観測中にいつ事故に遭うかわからないので少々危険だが、そのぶん給料ははずんでもらっている。ここ半年の累計から月給に相当する平均額を算出すると、将校をやっていた兄の給料にも引けは取らない。

 ――この調子で稼がなければ。

 兄が行方不明になったあと、気落ちのせいか、両親はそれまでうまくやっていた資産運用で失敗した。まっとうでない筋に手を出して、大損をしたのだ。最近では親戚筋もあまり関わり合おうとしない。だからダンカンは両親に送れるだけの稼ぎをしなければならないのだ。――いや、両親がベンジャミンズ家の誇りある生活様式とやらを捨ててくれさえすれば、あれ以上の金など必要はない。しかしあの生活様式を捨てることは両親にとってはアイデンティティの喪失に等しい。体面とアイデンティティを等価に捉えているような両親のこと、いざ生活を変えるとなれば、知り合いのいない土地に引っ越すことが最低限の条件となるだろう。そうすると結局、金が要る。

 危険要素はあっても、ダンカンはこの仕事に満足している。実入りがいいからだけではない。ただ稼ぐだけなら別の手段もあった。ダンカンが今の仕事を選んだのは、空が好きだからだった。ダンカンは空を飛ぶことに喜びを感じる。旅客機にただ乗っているのにはすぐに飽きたので、飛行機操縦のライセンスもいくつか取った。ただ、自分では肝心の機体を持ち合わせない。しかしこの仕事を続けている限り、自分で操縦こそできなくとも、ダンカンは空を飛べる。

 空を好きであること。それは唯一、兄と対等である点かもしれないと、ダンカンはときどき思う。もっとも、兄が好きだったのは空ではない。同じであるのは、対象への憧れのかたちであって、対象そのものではない。

 兄は海が好きだった。兄は何事にも興味関心を持ち、積極的に取り組む人間だったが、海ほどに兄を惹きつけたものは他にない。兄が小物やポスターなどの収集癖を持たないために、両親は今なお兄の海への想いに気がついていないようだが、兄が海軍将校となる道を選んだのも、海に対する憧憬がいちばんの動機だったに違いない。大好きな海にかかわる仕事に就けた兄は、家に縛られていた学生時代よりも一段と輝いて見えた。だからダンカンも、年に数度しか直接兄と会えなくなっても、悲しくはなかった。

 ――だが、もう。

 ダンカンは計器を見つめたまま、そこに兄の笑顔を思い浮かべる。

 同性から見ても魅力的だった兄には、当然、言い寄る女性があとを絶たなかった。ダンカンが知っているだけでも、兄に交際を求めた女性はダース単位でカウントする必要がある。しかし、兄はその誰とも深く付き合うことはしなかった。

 原因は親族にあった。兄は当然のように親族から至上の愛情を注がれていたが、それと同じだけ大きい期待をかけられてもいた。そんな親族たちは、兄の結婚相手はかくあるべきだという共通認識を勝手に形作っていた。そのハードルの高さは尋常ではなかった。そんなものが兄の思春期のうちに確固として形成されてしまったため、兄は知り合った女性との仲を深めることをひたすら避けざるを得なかった。彼女たちが親族の思い描く要件を満たさないことは明らかで、破局が目に見ていたからだった。要件を満足する女性など実在するわけがないと、兄もダンカンもそう思っていたが、決して親族の前では口に出さなかった。出せなかったというほうが正しい。ベンジャミンズ家は、そういう家柄だった。これで兄が、女性との性的関係を遊びと割り切るような人間であったなら問題はなかったのかもしれないが、もちろん兄はそのような人間ではありえなかった。

 そういう経緯があったから、二年前、兄が恋人の存在をダンカンにだけ打ち明けてくれたときには、ダンカンは文字通り跳び上がって祝福した。相手は英領バミューダに住む女性で、名をカテリーナという。特別に写真を見せてもらったダンカンは、癖のある長い黒髪がとても印象的だったことを覚えている。

 きっかけは、兄が休暇中に友人と行ったバミューダ旅行だったらしい。具体的な出会いやらその後の詳しい成り行きやらは聞き出せなかったが、ともかく時を経ずしてふたりは交際を深め、結婚を考えるようになったという。そんなふたりにとって唯一にして最大の問題は、カテリーナの家柄だった。ダンカンには微塵も気にならない点だったが、ダンカンを除く親族すべてが結婚に猛反対するであろうことは、火を見るより明らかだった。

 結婚の話を両親に打ち明けられず苦悩する兄に、ダンカンはひとつの提案をした。家を捨てろと。ただの思いつきではなく、ちょっとした計画書まで作って兄に示したのだ。しかし兄はあくまで親族を裏切れなかった。兄はダンカンの計画書がいつも宿題で書くものよりよほどうまく書けていると笑い、おかげで両親に話しをする決心がついたとダンカンに礼を述べた。

 兄が失意のうちにバミューダへ向かったのは、その翌日のことだった。結婚相手のことを話した途端、すぐ別れろとまくし立てはじめた親族一同に、兄は反駁できなかった。別れを直接会って告げること、それが親族の最大限の譲歩だった。兄の休暇はその日が最終日で、翌日には軍務でドイツに行かねばならなかったから、他の手立てを講じる余裕がなかった。それを見越したうえでの両親の作戦であることは、当時のダンカンにも自明だった。

 その日、兄を空港まで送ったダンカンは、別れ際にもう一度、家を捨てろと言った。兄は力なく笑って首を横にふった。ダンカンが兄の顔を見たのは、それが最後だ。バミューダ行きの小型機に乗り込んだ兄は、その半日後、消息不明となった。

 あの失踪が、恋人との駆け落ちであったならどんなにいいか。ダンカンはいつもそう思っている。

 いや、客観的に見てもその可能性は実際にあるのだ。カテリーナとは連絡がつかないし、兄の死体がどこかで見つかったわけでもない。となれば、姿をくらました兄が密かにカテリーナを呼び寄せて、今頃ふたりで幸福な家庭を築いているという推測が可能になる。

 しかしそれにも関わらず、知人たちのみならず親戚縁者のすべてまでもが揃って、兄は死んだと考えている。そしてダンカンも、彼らの考えが高確率で正しいということを重々承知している。なぜなら、兄の乗ったはずの飛行機が目的地に着陸したという記録が、合衆国には存在しないのだから。

 西暦二〇二一年、二月十四日。その日以来、母はこの海域を恐れ、同時に自分たちの選択を悔やみ続けている。ドイツへ向かう長男をバミューダに立ち寄らせなければ、悲劇は回避できたはずであると。だが、そんな母の繰り言を聞くたびに、ダンカンは虚しさを覚える。父母が禁じたところで、兄は恋人と最後に会うことをためらわなかっただろう。ダンカンからすればささやかな、しかし兄にとっては最大限の、自由という権利の行使だ。そして何より、仮に兄が恋人と会わずドイツへ直行していたとしても、兄がベンジャミンズ家に戻ってきたという保証はない。あの日を境に世界が一変したと感じているのは、なにもベンジャミンズ家に限ったことではないのだ。もっとも世界の一変とやらは、ダンカンの生まれたころに既に一度起きているわけだが。

 ダンカンは深呼吸をした。今日のフライトは少々、特別だ。普段以上に気を引き締めておかねばならない。過去のことが脳裏に浮かぶのは自分が気後れしているからだと、ダンカンは自戒し、計器の監視に専念する。

 集中力を高めた甲斐あってか、それから数分後、ダンカンは気になる計器の表示に直面した。即座に洋上を目視で確認。気のせいとも知れぬ程度だが、潮の流れがおかしいように見えた。ダンカンは録音を開始し、操縦席のマーティンに通じる回線も開いた。

「定常変則領域と思われるポイントを発見。テスト項目六番から九番の実施が必要だ」

「今日は当たりが早く出たな」

「ああ。――マーカーをセットした。それを目印に引き返してくれ。ポイントへのアプローチは低速で」

「ラジャー。マーカー確認。旋回する」

 可変翼が角度を変えると、重たい機体が唸りを上げる。最短距離を選択したのだろう、マーティンが旋回半径を小さく取ったので、Gがきつい。旅客機の操縦には絶対向かない男だとダンカンは前から思っている。

「あれか。――ふむ。今日は<デリバランス>の払いで飲めそうだ」

 ポイントを目視したらしいマーティンが、減速をかけながら呟く。彼は酒好きだ。ここのところ三回連続で<デリバランス>に奢らされていたので、態度にはあまり見せないが、彼なりに鬱憤が溜まっていたに違いない。

「だけどな、マーティン。<デリバランス>も今ごろテストに入っているかもしれない」

「そんなこと言わないでくれ。こっちは今日の制限空域ぎりぎりを飛んで、それで獲物にありついたんだ」

「冗談だ。几帳面なアリアドネが制限空域に近づくとは、俺も思っちゃいないよ。今日はあっちの奢りだ」

 <デリバランス>とは、この近くで調査に従事している別チーム、アリアドネとアレックスのコードネームである。そしてその名は、ふたりの乗る奇天烈な――ダンカンらの機体よりは幾分まともな――飛行機のことも指す。ダンカンたちにも同様に<ペイシェンス>という名が与えられている。マーティンが酒のことで不運続きだったのはこの名が悪かったのかもしれない。忍耐(ペイシェンス)は必ずしも美徳ではない。度が過ぎるのは不幸を呼ぶだけだ。兄の場合がそうだった。

 ダンカンがマーカーを残したポイントに、<ペイシェンス>が低速で降下する。こういうときはいつも失速しないか心配になるが、調査対象の変則領域はいつも低高度に現れるので、しかたがない。

 海面まで数十メートルの低空飛行で、そして規定の速度範囲で目標ポイントを通過。変則領域による計器作動不良、およびデータ保存障害は見受けられない。このデータの解析は、持ち帰った先で別の部署の者が担当する。ダンカンはデータの形式が正常か異常かを判断できるに過ぎない。だが大雑把な結果は、マーティンとともにリアルタイムで、身をもって知ることができた。

「六番から九番までのデータ取得。絶対バルムンク反応レベルC下でのスレイプニル機関、およびダイダロスシステムの作動に問題なし。飛行は順調」

 ダンカンはほっとしながら音声記録を行う。<ペイシェンス>に積まれた新開発のエンジンと飛行補助装置は、このあたりの変則領域によって運転を阻害されることはないらしい。二十三年前、八月の悪夢を境にして危険が増大した空の道は、これで少し安全になるだろう。そしてこのテストを行うたびに、ダンカンのこの機体に対する不審も少しずつ解けていく。

 <ペイシェンス>は加速、上昇し、もとの高度に戻った。そしてまた海上低空に点在する変則領域を求めて、制限空域を定義する境界線と平行に進路を取る。この調子であと三箇所も見つければ、成果は上々だ。ただし、この機体は燃料消費が激しいので、そう時間はかけられない。あまり欲張ると帰還できなくなる。

「ダンカン、今日はついているぞ。レーダーがおかしくなってきた」

 マーティンが声を上ずらせ、余人が聞けば彼の正気を疑うようなことを言った。しかしダンカンは彼の意図するところが理解できる。マーティンは狂人ではない。

「でかい変則領域がこの近くに広がっているわけか。さすが制限空域のそばだ。――だが、センサーには感がない。あまり大きいと逆に探知できないのかもしれないな」

 ダンカンは相対バルムンク反応センサーの設定をツマミの操作でいじってみるが、効果はない。

「しかたがない。そのセンサーも所詮はプロトタイプだからな。潮の異常を読み取れる君の目のほうが、むしろ役に立つんじゃないか」

「それは責任重大だな」

 ダンカンは視線を眼下の海面に転じる。するとまた、兄の顔がよぎった。

 ――疲れているのだろうか。

 目頭を押さえ、ダンカンは顧みる。しかし酒を飲んでも夜更かしはせず、早寝早起きの生活リズムは崩していない。これといって、心身に負担をかけるような原因には心当たりがない。

「なあ、マーティン。変則領域は俺たちの知ってる物理法則を捻じ曲げるんだよな」

「その通りだ。今更、講義の復習か?」

「いや、人の思考とか感情とか、変則領域は脳の機能にも影響を与えているんじゃないかって、ふと思ったんだ」

 ダンカンはいたって真面目だったが、マーティンはそれが面白いようだった。

「SF作家みたいなことを言い出すじゃないか。でも心配はいらない。バルムンクフィールドで俺たちは変則領域の影響から守られている。バルムンクフィールドジェネレータについて、俺が補講をやってやろうか?」

「そいつは御免被るね。――どうも疲れているらしい。帰ったらカウンセラーに予約を入れよう」

「そうなのか? あまりきついようなら引き返すぞ」

「いや、いい。折角、豊富なデータを取れそうなんだ。変則領域が消える前に、テストを済ませてしまおう」

 そのためにはセンサーでも眼力でも何でも使って、変則領域の位置を特定しなければならない。能動的(アクティブ)な探知方法もあるが、制限空域の近くでそれを使うことは危険を伴うし、それでなくとも機密保持のため無用な信号発信は禁じられている。おかげでダンカンは、センサーの出力画面と潮の流れとを交互にチェックしなければならない。首が忙しい。

 マーティンの監視するレーダーが接近する飛行物体を捉えたのは、ダンカンが首の筋肉を揉もうと手を伸ばしていたときだった。慌てて手を所定位置に戻す。この空域を飛ぶ民間機は存在しないはずであるから、接近する機は航路を見失ったのか、あるいは、合衆国の決めた飛行制限を遵守する気のない連中ということになる。後者であれば、ダンカンたちに身の危険が迫っていることになる。

「マーティン!」

「安心しろ、<デリバランス>だ」

 やがて弧を描いて接近して来たその機体は、マーティンの言ったとおり、たしかに<デリバランス>だった。緊張が少し緩む。しかし完全に抜けはしない。<デリバランス>と会うこと自体がおかしいのだ。飛行ルートには自由裁量が利くが、限度がある。今日のフライトで、<デリバランス>が<ペイシェンス>と視認範囲距離まで近づく予定はなかった。

「何かあったのか、アリアドネ」

 二機が平行飛行に入ると、マーティンは<デリバランス>機長にそう呼びかけた。

『非常事態です。制限空域の方向から、不審な船舶が近づいている。――もしかすると、船じゃないかもしれない」

「海軍じゃないのか?」

『IFFに応答がないのです。それに船影が奇妙で……例の水上用機兵の可能性があります。オブライアン中尉、あなたの意見をお聞きしたい」

 アリアドネ・クライベル少尉の問いに、マーティン・オブライアン中尉は即答した。

「不審船が合衆国海軍のものでない可能性があり、確認手段がないのであれば、今すぐ帰投するべきだ」

「いや、それは早計じゃないのか」

 ダンカンは思わず、口を挟んでいた。

「言ってみろ、ダンカン」

「シフゾルダートが遠洋にまで出てくるとは初耳だ。母艦がなければここまで航行できるはずがない。そして海軍がそんな母艦クラスを見逃すはずがない」

「かつての海軍なら、そうだろうな。しかし今の海軍は君の思っている以上に、艦艇数に不足が出ている。変則領域によって穴だらけの索敵網を補うには、人手がなさ過ぎるんだ。――アレックス、君の意見は?」

『ダンカン、俺も同じ意見だよ。テストは中止するべきだ」

「そうか……」

 アレックス・ハリス少尉にも否定され、ダンカンはやむなく引き下がった。マーティンだけならともかく、アリアドネとアレックスまでもが共通の判断を下したとあっては、自分がある衝動によって正常な判断力を失いかけていると自己評価せざるを得なかった。

 ――仇を討ちたがっているんだ、俺は。

 新米の合衆国空軍士官であるダンカン・ベンジャミンズ少尉は、自分の秘められた欲求を自覚した。あの日、ドイツでのクーデター勃発を報せるニュース画面が機兵を映し出した瞬間に、この衝動は植えつけられたのだ。

 啓示軍(オフェンバーレナ)の起こしたクーデター。亜細亜連邦樹立以来の大ニュースとして伝えられたそれは、欧州事変、そして現在の世界大戦へと繋がる歴史の第一歩、出発点である。その混乱の中に兄は消えた。欧州が啓示軍の支配下となった今、捜索などかなわない。残された家族は、戦争が終わるのを待ち、そしてそれまで兄が生き伸びている幸運を祈るしかなかった。しかし、ただひとりダンカンだけはそれに満足できなかった。だから戦争を早く終わらせるための仕事に就いたのだ。この<ペイシェンス>、すなわちX-400Bの試験をこなすことで、合衆国をはじめとする連合国軍が啓示軍を降伏させる日が、着実に早まるのだと信じて。

 ――それが自己欺瞞だった。

 ダンカンは気がついてしまった。始めて機兵を目にしたとき、あれが兄を殺したと、そう思えたのだろう。しかし兄が死んだとは認めたくなく、行方不明だということで自分をごまかしてきたために、啓示軍の機兵に対する憎しみもまた、封印されていたのだ。その偽りの殻が、実際に機兵と接近することで、破られた。ダンカンは自分がどこかで兄の死を受け入れていたことにショックを受けたが、啓示軍に対する憎しみを自覚できたことは幸いだった。あるとわかってしまったものなら、抑えることができる。それは美徳の範疇にある忍耐(ペイシェンス)だ。

「わかった。マーティン、皆の意見に従うよ」

「よし、帰投だ」

 マーティンがそう宣言したときだった。突如としてレーダーが洋上の機影を探知した。アリアドネが発見したものとは方位が違う。なにより近すぎた。肉視できる距離までそれは接近している。

「変則領域に隠れていやがった!?」

 ロックオン警報がなるなか、マーティンは<ペイシェンス>を急旋回させる。<デリバランス>も反対方向にコースをそらし、下降。直後、後部座席のダンカンは飛来するミサイルを視認した。追尾してくる。あれが複合追尾方式の最新鋭ミサイルだとしたら、鈍重な<ペイシェンス>が加速で振り切るのは不可能だ。マーティンの腕の問題ではなく、ハードウェアの問題だった。

 ダンカンは意を決して、自分に預けられた装置のひとつを操作した。すると何かにぶつかったような衝撃のあと、乱気流に突っ込んだかのように機体が振動し、ただでさえ快適ではなかった乗り心地がさらに悪化した。失速寸前。マーティンが悲鳴を上げる。

「ダンカン、何を」

「このまま失速状態でやり過ごす」

 舌を噛まないように極端に短縮した説明をマーティンに行いつつ、ダンカンは細心の注意をもって両手を動かしていた。握っているのは操縦桿だ。しかし翼を制御するためのものではない。繋がっている先は、両翼下にテスト用機器と並んで垂れ下がった、マニピュレータ……腕である。

 本領発揮だとダンカンは思った。アリアドネたちの<デリバランス>の型式はX-400A、現在開発中の空挺機兵GS-400の飛行モジュール試験用機である。ダンカンたちの<ペイシェンス>は型式で言えば同B型であり、A型にマニピュレータを追加実装したバージョンなのだ。どちらも構造的には航空機と言うより機兵であり、二機揃って珍妙な外見なのはそのためである。飛行機が好きだったダンカンはなかなかこれに愛着を持てずにいたが、気に入ろうが気に入るまいが<ペイシェンス>はすでにチームの一員である。チームは互いに信頼しあうことが第一条件だ。ダンカンは<ペイシェンス>のもつ二本の腕に賭けた。

 ミサイルは間近に迫っていた。ダンカンは慌しく左右の操縦桿を操作し、<ペイシェンス>両翼下のマニピュレータがそれに呼応して振り回される。すると著しく飛行姿勢を乱された<ペイシェンス>は航空機にあるまじき挙動で空を泳ぐ。その泳ぎは奔放なイルカたちの遊戯に似て、回遊魚の如く突進してきたミサイルは<ペイシェンス>の動きを追いきれず、脇をすり抜けていった。

「マーティン、コンバットマニューバにシフト! 落ちないように頼む」

 ミサイルが通過すると、ダンカンは空気抵抗を最小限に抑えるようマニピュレータを移動させ、マーティンにマニピュレータ展開時用のマニューバモードを選択するよう指示。海面に向け高度を落としている機の立て直しを任せる。

 マーティンが優れた操縦テクニックで<ペイシェンス>を安定させるまでに、手の空いたダンカンは<デリバランス>と敵機の位置を確認していた。マニピュレータを搭載しないぶん身軽な<デリバランス>は、アリアドネの操縦のもと無事にミサイルを回避したらしく、今は対空機銃を警戒した高度を取っていた。そして変則領域を隠れ蓑に忍び寄り、対空ミサイルを見舞ってくれた敵機の姿は、やはり洋上にあった。海面から人の上半身が飛び出ているようなそのシルエットは、決して人魚などではなく、啓示軍の機兵シフゾルダートのものだ。

「どうする」

 ダンカンはマーティンに次の出方を問うた。<ペイシェンス>の武装はヴァルカン砲だけで、装弾数もテスト用機器を積み込むためにずいぶん削っている。<デリバランス>もこれに関しては同様だから、援護は当てにできない。対してシフゾルダートの戦闘力は未知数だった。上空から時間をかけて観察すれば武装は判明するだろうが、そんなことをしていては撃墜される。そして接近中のもう一機の存在も考慮に入れなければならない。

 熟考する暇などない状況下で、マーティンは即断した。

「しかける。ヤツの下半身にぶち込んでやる」

 装甲の薄い浮上用ユニットを狙えという意味だろうが、下品にも聞こえる。意図的だとすればマーティンにしては珍しいことだなと思いつつ、ダンカンは了解と返事をした。ヴァルカン砲の操作はマーティン側であるから、ダンカンは腹を括るだけでいい。

 機銃弾の火線が襲いかかる。マーティンは迫る火線を無視し、旋回してシフゾルダートを視界正面に捉えた。相手の射角が広すぎるので、死角に回ろうとするだけ無駄だとマーティンは判断したのだろう。低高度から洋上の敵機に突撃する。そして機銃弾数発を被弾しながらも、<ペイシェンス>はヴァルカン砲を撃ち込むための間合いとタイミングを得た。マーティンがシフゾルダートの浮上用ユニットを狙ってヴァルカン砲を掃射する。

 <ペイシェンス>はシフゾルダートの真上をパスした。ダンカンは水飛沫のせいで着弾の確認をできなかったが、攻撃の失敗をすぐに悟ることになった。機銃弾とは桁の違う衝撃が機体を襲い、ほどなく右のエンジンが炎上する。

「右舷エンジンカット!」

 非誘導のグレネードに運悪く当たったのだろうかと推測しつつ、自動で停止しなかったエンジンを手動操作で止め、ダンカンは機体の受けたダメージをチェックする。幸いにも翼はやられていない。飛べるうちに急速離脱すべきか、と考えて、ダンカンはすぐにその思いつきを却下する。

「再アプローチ! 離れたらミサイルの餌食だ」

「腕を使うんだな」

「ご明察」

 まともに旋回していては狙撃されるとわかっているマーティンは、コンバットマニューバモードならではの荒技に出た。翼とエンジンを絶妙のバランスで操作し、海面上わずか十数メートルの高度で宙返りをやってのけたのだ。ダイダロスシステムの形成する見えない翼が海面に波を作り、吹き上げられた無数の水滴がキャノピーを白く覆う。

 被弾のせいか無理な飛行のせいか、機体の各所から破損の信号が送られてくるが、ダンカンはそれらをいちいち読み取る余裕もなく、操縦桿を握る自分の手と機首カメラの映し出す映像とに意識を集中させた。飛沫で曇ったカメラの視界の過半を海が占め、そこにシフゾルダートがフレームインする。狙ったとおりの衝突コース。カメラの視界がシフゾルダートの姿に埋め尽くされたところで、マーティンが急上昇をかけた証拠のGがかかり、ダンカンはそれと同時に、操縦桿に付属したスイッチを左右一緒に押し込んだ。それはマニピュレータの投棄を行う非常用のスイッチだった。

『やった!」

 もはやふりかえる余力もなくしたダンカンたちに、<デリバランス>のアレックスが攻撃の成功を教えてくれた。

『お見事。ゾルダートの背骨が逝ってるよ。なかのパイロットのも同じかもね」

 アレックスの報告を、ダンカンはゆっくりと旋回した<ペイシェンス>機上から確かめる。翼下から切り離されたマニピュレータにより時速数百キロのパンチを受けたシフゾルダートは、アレックスの言ったとおり、上体を不自然な角度までのけぞらせ、さながら糸の切れた操り人形のようだった。船舶型の下半身だけがまだ動き続けているさまが、子供のころ虫の体をちぎってみた経験をダンカンに思い起こさせる。

 ――そういえば、あのときは俺ひとりだった。

 ダンカンは人知れず溜め息をついた。ダンカンの過去のすべてが兄とともにあったわけではない。それならば兄のいない未来も生きていけるはずだと、ダンカンは自分を奮い立たせる。過去ではなく今と、そして未来と向かい合うべきなのだ。

「満身創痍だな」

 マーティンが操縦に苦戦しながらこぼすのに、ダンカンは相槌を打った。実際、両方投棄するようにスイッチを押したはずなのに、マニピュレータの片方はまだ翼下に残っている。鈍重な代わりに並みの航空機より強固な装甲をもつX-400Bとはいえ、非常用の機構がまともに作動しなかったとなると、さすがに無茶を認めなければならない。ダンカンは苦笑する。

『しまった」

 不意に届いたアリアドネの声が、緊張を呼び戻す。

『制限海域から接近中だった機影をロストしました」

「気にするな。どのみち、俺たちには逃げ帰る以外の選択肢がない」

『了解。――そちらは自力で帰投できますか?」

「なんとかなる」

 マーティンがそう答えたときだった。ミサイル接近を知らせるアラームが鳴り響いた。どういうことか、接近は制限海域の方向からではない。マーティンが慌てて回避運動に入るなか、洋上を見回したダンカンはその発射元を特定した。

「さっきのやつ、下半身がまだ生きていた!」

 いつの間にか機兵の上半身を切り離し、形の珍しい船へと姿を変えたそれが、明らかに意思をもって航行している。ダンカンたちに与えられたデータには載っていなかったが、あの機体には一種の複座仕様が存在したらしい。下半身側にも別個に人が乗っていたのだ。放置して距離を取ってしまったため、敵のミサイルの誘導が機能する射程に自ら飛び込んでしまった恰好になる。ダンカンは悔いるが、マーティンにはそのミスを自覚する暇さえない。必死にミサイルをふりきろうとするものの、エンジンをはじめ各部にガタのきた機体では、今度こそ回避は不可能だった。

「駄目だ。脱出するぞ」

 ミサイルがいよいよ迫ったところで、マーティンがシート射出のレバーを引いた。前部席と後部席が連動したものだ。即座にキャノピーが排除され、ふたりの体は座席ごと空高く打ち上げられた。

 脱出は無事に成功した。訓練どおりに落下傘を展開させたダンカンは、ミサイルの直撃を受けた<ペイシェンス>が海へと落ちていくさまと、シフゾルダートの下半身であった戦闘艇を<デリバランス>がヴァルカン砲で撃破する様子を見届けた。マーティンの落下傘も視認できる。

 <ペイシェンス>の最期は迫力あるものだった。炎上し、裏返った状態で着水した<ペイシェンス>は、まるで助けを求めるようにマニピュレータを天に突き上げ、ゆっくりと海中に没していった。

「さよなら、<ペイシェンス>」

 ダンカンは体の自由が利く範囲で敬礼の真似事をした。データポッドはあとで浮上してくるはずだから回収可能だが、機体はもう無理だ。戦後にサルベージされて博物館行きになるのが関の山だろう。

 <ペイシェンス>の次はダンカンたちが着水する番だった。ライフジャケットがあるので沈むことはないが、陸地は遠く、救助待ちということになる。しかし近海で合衆国海軍と啓示軍の大規模な戦闘が行われていた経緯から、自分たちの救助はかなり後回しにされることを、ダンカンは知っている。とうぶん、この海を漂っていろということだった。

 ここでは為す術のない<デリバランス>が飛び去り、ダンカンとマーティンは海上に残された。着水後のマーティンの行方はわからない。落ちた場所が離れていたし、通信機は使えないからだ。

 ダンカンは大空を仰ぎ、力を抜いて波に身を任せた。季節が夏であるうえに低緯度の海は暖かく、案外に孤独感はない。考えてみれば当然だ、とダンカンはひとり笑い出した。自分の好きな空と、兄の好きだった海に包まれているのだから、安らぐのは当然のことなのだと。

 どれくらいそうしていただろうか。ダンカンは近づくエンジン音を聞き、はじめて時間の経過を意識した。完全防水の時計を見ると、そう時が過ぎたわけではない。まだ救助が来るには早かった。

 エンジン音だけでダンカンに存在を示していたそれは、やがて洋上迷彩のかかった実体をあらわにした。ダンカンは目を瞠(みは)る。それはシフゾルダートだった。アリアドネが見失った未確認の機影はこれだったのかと、ダンカンは納得する。

 いつから気づいていたのか、シフゾルダートはダンカンの近くまで来ると推力を落とし、ほとんど慣性だけで寄ってきた。ダンカンの心臓の鼓動が早まる。啓示軍は無力な者もすべて駆逐する主義だっただろうか。違ったように記憶していたが、末端のパイロットの行動がすべてお偉方の主義に則るとは言えないことを、ダンカンはよく知っていた。だから切なくなった。せっかく新たな生き方を見出したというのに、ここで死ぬのだろうか、と。

 いまやシフゾルダートは、ダンカンがかつて見たことのないほどの近距離に接近し、その顔がダンカンを見下ろしていた。ダンカンからシフゾルダートの浮上用マスディフューザ端子まで、十メートルもない。

 様子が変だと、ダンカンは気がついた。どうも武器を使う気配がない。車で轢(ひ)き殺すのと同じ要領でダンカンの体を魚たちの餌とすることも可能なはずだが、それなら最初から推力を落としはしない。意図を量りかねるうちに、不意にシフゾルダートがうなだれた。厳密には、襟元のあたりも連動してスライドしている。それがコクピット開放動作であることを、ダンカンは資料で知っていた。

 唖然とするダンカンの前で、シフゾルダートのパイロットは機体の肩から下半身の戦闘艇部分に降り立った。顔は見えないが、体格で男とわかる。男がいったんしゃがんだので、物陰に隠れてその姿が見えなくなったが、再び立ち上がったときにはその手にロープ付きの浮き輪があった。

「掴まれ」

 ヘルメットにマイクロフォンが仕込んであるらしく、波の音に負けない声がダンカンのもとに届く。そして男は浮き輪をダンカンに向けて放った。それは狙い違わずダンカンの近くで着水したが、ダンカンは動けなかった。

「どうした。――安心していい。助けようというんだ」

 男は流暢な英語で呼びかけてくる。それでもダンカンは首をふった。

「信じられない」

「海で困った人に遇えば、事情はともあれまず助ける。海の男はそういうものだ」

 ダンカンはますます耳を疑った。

「あんたは……」

「私か。私は啓示軍大西洋艦隊、空母<トライアムファント>所属、デニス・ロドリゲス大尉だ。つまり君たちの敵であるわけだが……。わけあって、合衆国軍に投降したい。だから安心してその浮き輪に掴まるんだ」

 ダンカンはまだ、男の言葉と声が信じられなかった。しかし、それはダンカンがずっと信じてきた、そして信じ続けたかったものでもある。

「――カテリーナとはうまくいっているのかい」

「何?」

 聞き取りづらそうにした男が、ヘルメットを脱いで耳を澄ます。ダンカンもヘルメットを外して、声を大にして叫んだ。

「カテリーナ・ロドリゲスとは円満かい!」

 デニス・ロドリゲス大尉――デニス・ベンジャミンズが目を丸くするのが、遠目にもわかった。

「――おかえり、デニス兄さん」

 ここは魔の海などではないと、ダンカンは強くそう思った。



 二〇二二年七月。

 機兵開発で遅れをとったアメリカ合衆国は、予てより、戦局を打開しうる画期的付加価値を具えた機兵の開発を目指していた。そのひとつが、空挺機兵GS-400である。

 画期的であるがゆえに、GS-400実用化にあたっては「テンペスト」と呼ばれる多種多様の試作機群が生み出された。しかしGS-400開発計画の全容を把握する者は少なく、そのテスト中に偶発的に起こった戦闘についても、詳細な記録は残っていない。



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